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はじめに

 

 私たちの友人だったイ・ミョンドクさんが亡くなったと、風の便りに聞いて2,3年はたつだろうか。

 1993年ごろ、寿町の2畳ほどのドヤに住み、壁という壁に日本語のメモを貼って勉強していたミョンドクさん。大沢敏郎さんらが寿生活館で毎週行っていた寿識字学校での交流を心底たのしんでいた。人間が好きで人なつこく、好奇心にあふれて、饒舌だった。身ぎれいで、おしゃれに帽子をかぶり、若々しかった。

 けがをして働けなくなり、韓国に帰国するために横浜入管に出向くミョンドクさんに、私は付き添っていったことがある。たしか1995年秋のこと。在留資格はなかった。「助かったよー。ありがとう。ありがとう」と何度も言った。

 済州島でひとり暮らしをしていた石造りの民家に、旅行で訪ねて行ったのは翌年の夏。庭で韓国式に豚の焼き肉を焼いてくれた。いっしょにマッコルリを飲んだ。

 

 それからミョンドクさんは再入国する。「寿には住みたくない」といって、石川町の裏の路地の中にある古いアパートに住んでいた。

 1998年、寿支援者交流会通信「この間の報告とこれから」に川本友紀さんによる6年にわたるプロジェクト「ひと」と題する聞き書きの中で、ミョンドクさんについての連載が始まった。だれしも人生のよかったことを人に語り、つらかったことは忘れたい。それでも忘れえないことを、ミョンドクさんは識字学校で自ら書いていた。勉強して覚えた日本語で。それらの文の、語りのもっと奥深くを、川本さんは丹念に聞き取ろうとされたのだと思う。壮大な記録である。聞き取ったままをテープ起こしされたのではないか。日本語になった語調からは、朝鮮語で饒舌に話しかけるようなリズムが響いてくる。

 「会えてー、よかったよー」とミョンドクさんはよく言っていた。今でもその声と調子は耳から聴こえてくる。おそらくたくさんの人にそう言っていたことだろう。「マンナソ、パンガウォヨー」、その日本語を。「~よー」という語尾は日本語ではくだけているけれども、韓国語では「~です」くらいの丁寧語だ。この聞き取りに多用されている。

 私事だが、ミョンドクさんと出会った1993年、私は韓国留学から帰ってまもなかったので、私の職場に遊びに来て、韓国語で話すのを互いに楽しんだ。異国で暮らす心細さを味わった者として、比べ物にならないにせよ、なにか通じるところもあったのだ。前篇の最後のほうで「(南北朝鮮の)離散家族のビデオを見てボロボロ泣きました」と語られているのは、私の部屋でのできごとだった。ともに過ごした時間はけして多くはなかった。けれども、なんとも密度の濃い時間と空間だった。そう感じている人がまた多いことだろう。

 今回写経のように文を写す作業をしてみて、こんなにも表現力ある日本語で語られていることに改めて驚いた。いつも勉強していた。もっと勉強したかったと言っていた。好奇心でいっぱいだった。前向きだった。天性の明るさを持って人に接した。

 

 

 おそらく1935年ごろ、日本の植民地だった朝鮮に生まれ、歴史の荒波の中を生き抜き、1990年代初頭に寿町に住んで働くようになった私たちの友人。イ・ミョンドクさん。あなたの連載も一部として収められた分厚い冊子「ひと 総集編」(2001年/寿支援者交流会/1000円)を本棚からひっぱりだして、転載させていただくことから始めます。そうして、みんなの記憶を重ね合わせ、私たちの心に刻んでおけたらと思います。

 

2011年1月1日  

小園弥生


ひと 李明徳(イ・ミョンドク)さん(63歳)【前篇】

 

◆◆前篇◆◆

弟はそこで息をひきとりました

 

寿支援者交流会通信「この間の報告とこれから」1998年10月号(No.38)

 

 ※以下、(   )はもとの文中にあった補足。斜体の(〇〇〇)は小園が補足した部分です。

 

【連載にあたって】

(中国との国境に近い)朝鮮半島新義州出身。子どものころ、日本の植民地下の朝鮮から中国に渡る。日本の敗戦によって韓国へ引き揚げ。孤児収容所に入れられたり、朝鮮戦争の時には「ちびっ子兵隊」と呼ばれながら父といっしょに軍隊生活をするなど、半島の激動の歴史をそのままに生きる。アラブ諸国での出稼ぎ体験の後に日本へ。現在(1998年当時)は二度目の来日。寿町近くに住み、建設労働に従事。日本語はペラペラである。生活館4階で毎週金曜日に開かれている寿識字学校に通い続ける。

 

★中国での生活

 

 幼い時は中国にいました。北京にもいたし、色々なところに住みました。大同や奉天・・・。今は地名が変わってしん陽。思い出はあまりないけど、地名を覚えてるでしょう。

 (韓国に戻ったのは)9歳か10歳の時。(半島が)分断された時です。中国から引き揚げ船で帰国したよ。(その前は)植民地だったでしょう。(朝鮮に)住むのは苦しいから・・・。圧迫があるし。わが国(朝鮮語でウリナラ)の人たちは、植民地の支配から逃げて満州とか中国に疎開したよ。自由がある。たくさん移ったんです。私もそのとき5歳だからはっきりわからないですけど、お父さんが連れて行きました。

 わが国の農村に住んでいる人たちはあまり(ものが)わからないでしょう。知識があまりないから。だから自分の土地とか田んぼとか、何代も続いて生活のたよりにしてたものを、日本人が道路ができるしとか色々言って、買うでしょう。安く。全部奪ったら苦しいから、ほんの少し(朝鮮人に)あげて。もしそれで断ったら、色々圧迫を加えるでしょう。極端に言えば、ヤクザみたいにやるでしょう。恐喝するでしょう。それで、みんな生活するのが難しいので、お金、引っ越し代とか少しもらって中国とか行った。

 私は小さいから直接はわからない。聞いた話です。本を読んだり・・・。中国のほうが自由があるでしょう。住みやすい。もし自分の国に住んだら、色々支配があるから。税金が高いとか。中国では日本の支配があったところもあるし、ないところもあるけど、(朝鮮よりも)住みやすい。

 私も戦争の被害を受けてます。もしあなたの国、植民地にならなければ他の国に行って住む必要がないでしょう。そうでしょう。また、中国にいても私の名前は変えられました。日本の名前に・・・。日本人はわが国の歴史を抹殺しようとして、名前を変えさせたでしょう。その時にそれに反対して自殺した人も何人かいるよ。

 でも日本の名前を作らなければ、学校も入れないし、配給も受けられないし、色々制圧を受けたでしょう。だから適当に日本名をつけた。私のお父さん、「大平」とつけました。彼のあだ名が「太平」だったから。その頃は7歳ぐらいで、幼いから名前が変わっても、よく意味がわからなかった。

 その時(中国に住んだとき)は村に住んで中国人の友達もいました。歌も覚えているのがある。中国の友達の家に行って、ごはんを食べたりしたこともあります。(中国語は)今でも少し短い単語だけ覚えている。「わかりません」とか「ありがとう」とか、食べ物の名前とか。「苦力(クーリー)」は一番下っぱの労働者。クーリーが食べるウワタというものがあるよ。これはトウモロコシを細かくして、粉で焼いたもの。ゼンベイは卵とメリケン粉をまぜたものを薄く焼いたもの。お好み焼きみたいなもの。それを食べたことがあるよ。覚えている。

 家族は5人。お父さん、お母さん、私は長男で弟2人。小さい時にあちこち、こっちにちょっと住んであっちに行ったりしたでしょう。転々としたでしょう。その時にお父さんの顔見たことあまりない。私が聞いた話だけど(朝鮮)独立運動ゲリラみたいなことしたと思うよ。家にいたら、つかまったら悪いから、だから家族を守れなくて、私のお母さんの実家はすごい金持ちです。そこで応援して生活したと思うよ。お父さんと住んだ記憶があまりない。団らんがある家ではなかったです。

 

    転々とする中、あるところに落ち着き、そこにある侵略していった日本の日本人小学校に、

     1年3か月ほど通いました。その小学校で何かの折、日本人教師にストーブにつっこんで

     ある焼き火箸をふくらはぎに押し当てられ、その火傷の跡は今も残っています。

                                (識字フォーラム報告書より)

 

 (朝鮮に)帰ったときは戦争は終わっていました。もともとの本籍は私が生まれたところにあるでしょう。分断されて、国籍が北朝鮮にある人はこっち(韓国)で仮本籍を作りました。私は自分の年齢がわかりません。韓国に来て本籍を作るときに、生年月日がわからない。生まれたときは寒くもないし暑くもなかったという話を聞いていたので、5月かと思って適当に作りました。

 北朝鮮と中国の国境に日本が満州国を作ったでしょう(戦前の話)。私が生まれたところから川を渡ったらすぐに中国でしょう。その辺はソ連が指導したよ(戦後の話)。

 でも私たちの住んでいた大同はアメリカ軍の支配のところだと思うよ。だから自分の生まれた故郷に行くのが難しいです。それで南のほう、韓国に引き揚げました。でも北京に住んでいた私の親戚の中には、一度韓国に入った後38度線(韓国と北朝鮮を隔てることになった緯度線)を超えて北朝鮮に渡った人もいます。でも私のお父さんが自分の故郷に行かないと決めました。今思うに、お父さんは共産党に反対する政治団体に加入してたからだと思うよ。ただはっきりはわからない。南に行ったほうがよかったのか、北がよかったのかはよくわからない。運命みたいなもの。ただ、私の親戚は南には一人もいないです。故郷が北朝鮮だから。

 

★大同から北京へ

 

 大同は、日本人の軍隊が駐留していて、日本人がたくさんいました。病院も学校も色々ありました。日本人といっしょに北京まで、同じ列車に乗って行きました。日本人も開拓団作って、中国に渡ったでしょう。そういう人たちが終結したのが北京だったんですよ。外国人が自分の国に引き揚げるために集まるところ。日本人も韓国人も集まるよ。

 北京に行かなければ祖国に引き揚げられないから、置いていかれたらダメだから。遅くなってしまったら殺されることあるでしょう。

 終戦までは私の住んでいたところは日本の軍隊が守っていたから治安がよかったよ。でも、戦争が終わってから一回私の家にも中国人が大勢襲撃にきました。朝鮮人なのに。で、みんな物をもっていってしまいましたよ。で、私のお父さんが家を守るためにケガをして、血を流しましたよ。「朝鮮人だ」と言っても駄目だった。そのときは色々品物ほしかったのかわからないけど。だから、(お父さんは)私に「速く行って、日本人の軍隊に言って」と言って・・・。私はまだちびっ子だったでしょう。それで逃げて、日本の憲兵に言って、彼らが助けに来たよ。その同じとき、日本人が路上で殺されたという話も聞いたことがあります。

 でも私なんかは韓国人だから日本人と同じように保護してはもらえなかった。ほっとかれた。軍隊は、日本人は自分の国の国民だからたくさん守るけど。避難列車は城内(中国の主な都市は城壁に囲まれていた)に来なくて、城の外に来る。何月何日に来るっていう情報を私たちなんかには教えてくれなかったよ。そこには韓国人の家族が相当住んでいました。そして、わが国の知り合いの人たちが秘密に、明日何時に列車が出るということを教えてくれて・・・。それを見逃すと困るから。もしそれに乗れなかったら、中国人がワーッと暴徒化してくるでしょう。

 それで出発の時を教えてもらって、人力車を頼んで・・・。夜だったよ。城の外の日本軍の病院だったと思うよ。そこに行って何日か泊まって、そこから列車に乗ったよ。列車はもうあちこち混雑してて・・・。北京へはいっぺんに行かなかったですよ。列車の線路がゲリラによって壊されたりしていて。ゲリラが列車を転覆させて欲しいものを奪う計画があるかもしれないという話もあって。たとえばそのときは馬賊もいっぱいいたでしょう。だから駅は日本の軍隊がちゃんと守ってた。

 

    そのDデイ(決まった日にち)は中国人には秘密にしていました。もしDデイが中国人にばれたら  

    暴動が起きる恐れが十分にある緊張感が非常に高まった雰囲気でした。その日は本当に命がけ

    でいっきに城外に脱出しなければならない切迫な状況でした。

    父は親しい中国人に内緒に頼んで人力車3台を用意しました。かんたんな荷物と貴重品とそして

    紫色の足が短い犬といっしょに人力車に乗ってようやく外に脱出することができました。いらいらし

    た深夜脱出は父にとっては何よりつらかったと思います。

    (寿識字学校発行『ちからにする』1998年5月15日号より)

 

 大同から北京に行く近道の鉄道は壊されていたから、ぐるーっと回らなくちゃいけない。1か月以上かかった。

 そのときに悲惨なことが起きたよ。大同から北京に行く中間のところで、事故がありました。大きな事故があって・・・。

 (列車に乗った)朝鮮人の中で特に親しかった7世帯がいました。いつもいっしょにいました。幾日かして列車が長い川にさしかかったとき、列車が通過できないように鉄橋が壊されていた。鉄橋の片方は水の中に沈んでいました。川を渡らなければいけない。あいにくその時に連絡がまちがって、(川向こうに別の)列車が来なかったですよ。

 向こう側に列車がないので、川辺にいたら襲撃される恐れもあるし、皆は大きな駅に戻ってきました。その戻る途中で私たち7世帯は手前の小さな駅で、降りました。そして荷物を整理してちゃんと準備していました。列車の中で眠るのはきついし、早めに川を渡ろうというのが親たちの計画でした。翌日朝起きて、駅員が向こう岸に列車が来ていると言ったので、私たちは早目に壊れた橋を渡ろうと思って、行きました。遅くなると混むから・・・。

 トロッコ(鉄道を修理する部品を詰め込む、ブレーキがない車)を二つ中国人から借りて、荷物と子供たちをその上に乗せて、お父さんたち大人がそれを押して出発しました。で、私は一番先頭のトロッコ。よっしゃよっしゃと言って行ったよ。で、行く途中にカーブがあって、カーブを曲がるときに急な坂がいきなり現れた。車が重いから、大人が踏ん張ってもガーッとひきずられて壊れた橋のほうにどんどん行っちゃったんです。私が覚えているのは、ちょうど橋の模様が見えたとき、お母さんがあわてて「目をつぶりなさい」と叫んだこと。で、私は気を失ったよ。でも私は土の上に投げ出されて、ケガ少しだけですんだよ。

 絶体絶命の瞬間でしたよ。トロッコは全速力で橋に突っ込んでしまいました。その上後ろからもう一つのトロッコがきました。だから犠牲者はもっと多かったと思います。何十年たった今、考えてみると本当に恐ろしく、総毛立つ阿鼻叫喚の光景でした。

 私の弟は土の上でなく水の中に落ちてしまった。お父さんが必死で探しました。もぐって水を飲んでしまって…。向こうを見たら弟が流れている。それを見て川の中を歩いて必死で助けて・・・。弟はケガをして、脳震とうを起こして・・・。そのときは息はあったです。それでみんながケガをしているときに、大きい駅に泊まった人たちを乗せた列車がきました。それで日本の軍医さんと衛生兵の人たちが来て手当をしました。私のケガも。「だいじょうぶ、だいじょうぶ」と慰めてくれた。

 その列車に乗っていた(7世帯以外の)朝鮮人たちは「どうなったか、どうなったか」と叫んで・・・。10月ごろだったと思うよ。少し氷が張っていた。軍隊がたき火をやってくれて、毛布を敷いて、私も弟も手当を受けて、注射とか・・・。死んだ人たちは軍隊が穴を掘ってみんな埋めました。死体を持って行けないでしょう。私たちは軍隊の人たちに担架で運ばれて・・・。川を渡って、待っていた列車に乗りました。列車は貨物列車で、座るとこないよ。大同から出発した時は屋根のある一般の列車だったけど。

 その時は紙のお金は値打ちがないでしょう。だから私たちは金をかついでいきましたよ。それを中国人がその時(事故のどさくさ)にみんな奪ってしまいましたよ。

 そして渡って行って、都市に着きました。そこもでっかいところだったです。ケイウンという・・・。そこに着いて私も手当を受けて・・・弟はそこで息をひきとりました。そこの土地に埋めたでしょう。今はもうどこだかわからない。さびしかったです。今でも記憶に残るのは、私が弟の名前を呼んだら、返事はできないけど、首を振るよ。それが弟との別れだったよ。ショックだったです。私、身内が死ぬのを初めて見たでしょう。

 墓まで行きました。その時はもう棺桶を買うお金もないし・・・。ケイウンに住んでいるわが国の人たちがたくさん世話してくれました。弟の写真はないです。

 寿識字教室でいつも詩を配るでしょう。(識字教室主宰者の大沢さんは、参加者に対して毎週、自分で選んだ詩をプリントして配っている)その中に「橋」という題のものがありました。橋という題名を読んで、内容はその詩とちがうけどパッと、弟の死んだときのことを思い出しました。

 

★引き揚げ船

 

 ケイウンからは、順調に北京に行きました。そして北京に住んでいる親戚のところにずっと住んでいて・・・。お金も食べ物もなくなって、私一人ぼっちでそこの収容所にいたこともある。1946年、そこから天津の港に行って・・・。そこは蒋介石の支配下にあって安全だった。そこから韓国の釜山へと渡りました。陸路で韓国に行くことはできなかった。中国が内戦状態だったから。中国も第二次世界大戦やって分断されたでしょう。ごぞんじですか。そのうち毛沢東と蒋介石の内戦になるでしょう。

 引き揚げ船は日本人が船長。アメリカのMP(憲兵)が乗りました。もし、米軍がいなければ韓国人が日本人に殺されるかもしれない、と思ったんじゃないでしょうか。私の考えです。

 食料があまりなかった。配給は少しだけ。釜山に着くまでに1か月かかったと思うよ。貨物の船でした。何百人も乗ってた。新聞紙やゴザを敷いて寝ました。私は船酔いがすごくて苦労しました。

 私が実際に目で見たわけじゃないけど、その時に聞いたのは、同じ民族を売っていた朝鮮人=わが国ではアッチャビ言いますが=その人たちがいっしょの船に乗っていました。彼らは日本の警察とかに情報を流していた(朝鮮人を抗日活動家として密告する)。でも終戦になって、祖国に戻らなければいけない。独立活動家たちが(その人たちを)夜中に寝ているのをつかまえて、しばって海に投げ込んだ。生きたまま・・・。そんな話を聞きました。

 

 これが中国で私が覚えていることです。韓国来て3年ぐらいで朝鮮戦争が始まりました。1945年にわが国が解放されたでしょう。その5年後に戦争起きたでしょう。

 


【前篇】つづき

★もう一人の弟

 

 もう一人の、いちばん末の弟はどこに住んでいるかわからない。彼は奉天(満州)に住みました。私のお母さんの実家です。実は、韓国に行くときにいっしょだったのは私生んだお母さんではなくて二番目のお母さん。私を生んだお母さんは末の弟といっしょに住んでいました。今どうしているかわかりません。奉天は戦後ソ連軍が支配した土地でしょう。私は会うことはできない。私は南(韓国)に行くから。もしお母さんと弟が自分の故郷に行ったとしたら、北朝鮮に行ったかもしれないし、または中国に住んでいるかもしれない。だから、今まで別れて何十年たつけど、たよりとか生死の知らせとか全くない。

 だから私も金をちょっと稼いだら、中国に行って探してみたいです。知り合いの日本人の人が韓国に留学して、韓国をよく知っている。その人が持っていたビデオを見ましたけど、それは「離散家族」のものでした。息子がお母さんを探すものでした。そのビデオを見てボロボロ泣きました。私もそういうふうにしたいです。手がかりさえあれば探せるから…。弟も会いたがっていると思います。私も結婚して生んだ子どもはいるけれど、それ以外の身内は弟一人しかいません。

 お母さんはもう死んだと思うよ。もう80以上になっているから。でも弟は54歳。朝鮮戦争に参加するにしても幼いから、生きているかもしれない。

 

   (生き別れたとき)弟は2歳、私は8歳と思います。顔も姿もどんな思い出もまったく記憶に

   残っていません。これがひどくつらいんです。ただ名前はわかっているだけ。これも

   戸籍にある名前なのでわかっているわけです。

一度も呼んだことのない父の墓の碑石の裏に、弟の名前を刻んだことがあります。

ほんの少しだけ幻像でも弟の顔がうかびあがったらいいなとしみじみ思いました。

私の弟は死んだのか生きているのか、あんぴも便りも聞くところもない。

手紙を書いても、あて先がないのがものすごくさびしいです。

 

2年ほど前、離散家族を探す会がありました。放送局の広場では大勢の人たちが

自分の身内を探すために、人山人海になって大騒ぎになっていました。自分の故郷、

家族の事項、生い立ち、別れる時のようす、いろんな内容を白い紙に書きます。

それをアスファルト上に貼って、人に見せます。そして自分も人が書いたものを

見ながらさがします。

あるおばあさんが、内容の手紙をずっと見た後、あなたの母は亡くなって弟は生きて

いるかもしれないと言いました。そのおばあさんは私と同じ故郷で、同じ姓の李氏

でした。おばあさんの話によれば、これはあくまで聞き込みの噂なのでがっかりしない

ほうがいいと言いました。私の手を握り締めて慰めました。

でも私はいつまでもお母さんと弟が生きていて、いつか逢う日が来るように

神に祈りました。

お母さん、ぜひ今日眠るとき、夢にでも顔をあらわせてください。

(寿識字学校発行『ちからにする』199562日号より)

 

 

(ここまでが「前篇」である。末尾にこの聞き取りを行っていた川本さんのコメントが付されている。)

 

◎聞き手より◎

李さんに話していただくことは、ご自身の傷を再現することでした。やっていただいたことに対しては、ただただ尊敬するしかありません。私は、このインタビューを終えて「学ぶ」ということの意味を考えています。この方のお話をこのまま通り過ぎてしまったら、ずっと同じところで回ってしまうのではないか。そんな危機感を感じるのです。「ひと」の連載を始めて4年--遅すぎたかもしれません。(川本友紀)


ひと 李明徳(イ・ミョンドク)さん(63歳)【中篇】

◆◆中篇◆◆

アボジ、アボジと泣き叫んでいました

 

寿支援者交流会通信「この間の報告とこれから」1998年12月号(No.39)

 

 ※以下、(   )はもとの文中にあった補足。斜体の(〇〇〇)は小園が補足した部分です。

 

【連載にあたって】

(中国との国境に近い)朝鮮半島新義州出身。子どものころ、日本の植民地下の朝鮮から中国に渡る。日本の敗戦によって韓国へ引き揚げ。孤児収容所に入れられたり、朝鮮戦争の時には「ちびっ子兵隊」と呼ばれながら父といっしょに軍隊生活をするなど、半島の激動の歴史をそのままに生きる。アラブ諸国での出稼ぎ体験の後に日本へ。現在(1998年当時)は二度目の来日。寿町近くに住み、建設労働に従事。日本語はペラペラである。生活館4階で毎週金曜日に開かれている寿識字学校に通い続ける。

 

★避難所での日々

 

 釜山(プサン)に着いたとき、船の中でチフスが広がっていたので、降りることができなかったですよ。死んだ人も何人かいました。

 近くの群山(クンサン)という港で降りました。米軍が私たちにDDTという白い消毒の粉をまいて、体はもう真っ白。ものすごいかゆかった。匂いもすごい。

 米軍から小遣いを少しもらって、貨物列車に乗ってソウルに行きました。日常生活するための食品とか全くないし、大変だったです。日本がわが国の工場を全部動かしていたでしょう。だから日本いなくなったら、何もないでしょう。全部崩壊したでしょう。 

 避難した人たちはみんなソウルに行きました。私はソウルの真ん中の南山(ナムサン)というところに行き、公園の広場にテントで9か月ぐらい生活しました。わが国には(終戦直後は)政府がなかったから、アメリカ軍事政府がごはんを配給していました。

 テントでの生活は苦しかったです。公園の近くは山だったので山に入って、食べるもの、山菜とか・・・。それを採ってゆでて食べたこと、今思い出すよ。わが国の赤十字からもらった毛布や衣服で寒さをしのいだよ。

 その後、ソウルの郊外に移ったよ。植民地時代に日本の軍隊が駐屯した建物・・・2階建ての。そこが避難所になっていた。最初は廊下の隅のところを占領して…。父と母と三人で、布をぶら下げて、他から見えないようにして・・・。そこには何年かいました。寒かったです。暖房器具が一つもないから。栄養失調にもなったよ。米軍が配給した米とメリケン粉少し。足りないから、メリケン粉と豆腐のカラをまぜてゆでて、カボチャを少し入れて食べるよ。おかずなんかキムチもないよ。私もそのせいで、体が大きくならなかったよ。食べ盛りなのに食べられなかったから。

 夜になったらみんなで袋一つ持って鉄道の駅に行って、針金でこじあけて石炭を盗みました。石炭の中に粘土を少し入れて、練ってだんごにして干しました。これを燃料に使いました。薪を利用して…。国有林を勝手に切って薪にしたり、売ったりしたので、この時代にわが国はたくさんの森林を失いました。その時代は法律がちゃんと守られなかったでしょう。

 病気もしました。マラリヤにかかって。その時にはお父さんが何の稼ぎもないから、お母さんが自分の故郷に帰っちゃったよ。そしてお父さんも、南北戦争直前だったので軍隊に入っちゃったよ。だから私は一人。マラリヤは熱がたくさん出るでしょう。40度ぐらいになって。病院もなく医者もない。アメリカからもらった薬、黄色いやつをのんだ覚えがありますよ。精神的に錯乱したこともあるよ。時計の針が本当は細いんだけど、大きくふくらんで見える。看護してくれる人がいなかった。隣の人も自分の生活があるでしょう。だから、これでもう終わりかと・・・。

 保護者なしで、そこに2年以上住んでいました。お父さんは全然帰ってこない。生活はアメリカ軍から食べ物をもらったりしてなんとかやっていました。靴磨きをしていました。それも縄張りがあるよ。よく商売できるところに入ったりしたら殴られる。

 そこの避難所の人の生活の糧はタバコをヤミで作ること。そのタバコを道路わきで販売したこともあった。梨花女子大学の近くの公衆トイレ。今でもあるよ。そこで売ったよ。タバコを売るのは違反。だから取締りがきびしい。お金は食べ物買えば消えちゃう。雑誌や新聞を路上で売ったこともあります。

 避難所から1時間歩いて、売る場所に行く。路面電車が通っているんだけど、お金がないから乗れない。電車の駅に(客が)切符を捨てる場所があるよ。その中で鋏を入れてない切符を探すよ。うまくそれがあったら利用して電車で帰ったよ。帰りが遅くなったら、川の橋のたもとでホームレスの人たちに混じって寝ました。

 

★死体の中で

 

 父とは、軍隊に入ってから連絡がとれませんでした。だから私、すごく父に対しては恨みがあるよ。南北戦争が始まって、軍隊が北進したでしょう。私のもとの故郷は北朝鮮だから、いっしょにそこに帰ろう、ということでお父さんが迎えに来ました。そして私は「ちびっ子兵隊」として父といっしょに軍隊生活をすることになりました。1年半ぐらい。

 「ちびっ子兵隊」というのは・・・。(子どもは)正式には軍隊に入れないでしょう。だから隠して・・・。たとえば孤児とか、かわいそうだから軍隊がいっしょに連れて行ったりした。手伝いなんかさせながら。そういう子どもたちがいたよ。私もまだ14歳だったし、お父さんが北に行くのに、一人で置いて行かれたら困るから・・・。

 子どもは、最前線には行けないでしょう。でもお父さんは最前線で戦う。私は後方のところにいた。連隊後方では握り飯とか木炭とかそういうものを送ってあげるでしょう。私は地図を作る担当の人にくっついていたよ。

 私のお父さんは捜索隊のリーダーだった。戦争が激しくない時に、敵の後方に入って色々な諜報活動をするよ。軍隊は何人いる、とかどんな大砲があるとかそういうことを調べるよ。

 私はお父さんとはたまにしか会えなかったよ。お父さんが休暇を取った時に。小康状態の時。お父さんに会ったら私はいつもすごくうれしい。後方にいて私はいつもイライラしているでしょう。お父さんが無事かどうか心配して・・・。空襲なんかもあるし。負傷している人が担ぎ込まれてきて、衛生兵が手当てしているのを見たりもするでしょう。周囲には死ぬ人もいるし、大けがする人もいる。お父さん死んだら私はもう身内もないし・・・。薄い氷の上に立っているようなものでした。しんどかったです。

 そこらじゅう死体がいっぱいあるよ。私、経験ないからよくわからないけれどケガしたら水分がなくなるから水が飲みたいと思うでしょう。だから、死体は特に川べりやせせらぎに多かった。水を求めて行ってそこで(力尽きて)死んでしまった人たちです。川に水を汲みに行くと、死んでいる人か゛いっぱい見えますよ。川に死体が浮かんで雪だるまみたいになっている。

 私が転々としたところは全部山深いところで、川の水はきれいですよ。それで、私は食事のための水をくむよ。それで食事をして、また(川に沿って)上がっていったら、そこに死体が浮かんでいる。

 世の中で一番臭い匂いは人間が死んだ匂いだと思うよ。死体がたくさん置いてある道路を車で通ると、ものすごい匂いが流れてくる。臭い。

 お父さんといっしょにいた隊員や後方部隊の人が、私がまだちびっ子だからかわいがってくれました。隊員たちは隠し持っていた米でドブロクを作るよ。それを私にも飲ますよ。それで私は赤くなってフラフラして・・・。でもそうやってかわいがってくれた人たちも、ふと気が付くと、一人また一人といなくなってる。聞いたら「戦死した」って。

 持ち主からはぐれた牛が、フラフラしているのを捕まえて食べたことがよくありました。その時はもう焼き肉パーティになります。ネギとか薬味とかないし、ただ塩で焼いて食べるよ。最初はおいしいよ。でもそればっかり続くでしょう。牛の糞の匂いがするよ。焼肉屋ではそれをうまくニンニクとか玉ねぎとか入れて消すでしょう。でも、そんなものないからすごかった。

 戦場での生活はやはり大変でした。大隊本部には大砲が設置されているでしょう。その音で眠れなかった。綿を耳に詰めてもダメ。すぐそばで大砲打っているから。死体を見るのにはすぐ慣れた。死体の横で食事をすることもよくあった。人が死ぬのも蠅が死ぬのも同じという状態ですよ。

 ある日父が負傷しました。その知らせを聞いて、私本当にびっくりした。父は左半身に大きいケガをしていると聞きました。すぐに後方に運ばれるのでグズグズしていると、私お父さんとはぐれちゃうでしょう。だから必死でお父さんを探しに行ったよ。どこにいるのか。まず連帯の医療班に行ったけどいないよ。だから地図担当の人といっしょにお父さんを探し回ったよ。ちょうど橋があって、橋の向こう側では負傷した人たちが担架の上にズラーッと並べられていたよ。ものすごい混んでいて、橋をなかなか渡れなかった。そこに行ったら、(負傷者の)ものすごい悲鳴や叫び・・・いっぱいだったよ。

 地図担当の人がまずお父さんを見つけたよ。私はもう精神状態がおかしくなっていて・・・。「アボジ(お父さん)、アボジ」と泣き叫んでました。お父さんは血だらけで気を失ってました。私ももう半分は気を失ってましたよ。

 でも息はあったので、お父さんは連隊のトラックに乗せられました。私もトラックに乗って、担架のそばにいて・・・。トラックでお父さんはやっと目をさました。道がでこぼこでしょう。トラックが揺れるたびにお父さんは死にそうなほどに痛がる。私は手をつかんで「大丈夫、大丈夫」って言っていた。その時の私は、お父さんの代わりに私がケガをしたならよかったのにと思いました。

 (お父さんは)野戦病院で一応の一応の手当てをして、南の後方の病院に送られることになりました。私は軍服を着ていたけれど小さいでしょう。列車に乗るときに衛生兵が「お前は軍人ではない」といって乗せてくれなかった。私が泣きながら「お父さんと一緒に行けなくなる」と訴えたけれど、兵隊たちは「ダメだ」と言って…。列車の汽笛が鳴った時に私は(自分を押さえていた)兵隊の腕を思いっきりかんで、逃れて列車に乗りました。

 

★病院

 

 病院に行って…病院と言っても高校の建物を、軍隊が病院用にと接収したもので、教室に折りたたみベッドを並べていましたが。その時は医者は不足していて、患者はいっぱいいる。だから全員収容できずに、廊下にもベッドを並べていました。私はケガもしていなかったし、軍人じゃないでしょう。だからお父さんのベッドの下にもぐって寝て、夜の将校の点呼の時には(見つからないように)外に出て、終わるのを待ってたよ。将校や医者にわからないように、病室の衛生兵の人たちが食事を都合してくれました。私は衛生兵を手伝って病人の介護をしました。

 父の病院生活は1年ぐらいでした。手術をしました。その時はちゃんと手当てをすれば治るような負傷でも、医者もあまりいないし、時間もないからみんな(手や足を)切っちゃったよ。だからみんな障害者。私の父も実は着られる予定だったようです。でも父は「もし、俺の腕を切ったら、お前たちをみんな殺す」と(医者や看護人を)脅かしました。それで切断されないですみました。

 

    お父さんの肋骨を切って、その骨を腕につなぐ難しい手術でした。使うことはできないけれど、幸い

    切断して片腕になるのは免れました。その後、お父さんとともに長く退屈な病院の生活がやむなく始

    まりました。夜になると就寝点呼がありました。9時になったら消灯して、10時から懐中電灯を照らし

    てひとりずつ人数を数えます。その時、私はこっそり外に出て、点検が終わるまで待っていました。

    季節がいいなら大丈夫だけど、蚊に刺されたり、冬はすごく寒くて大変つらかったです。いつかばれ

    て、追い出されるか心配がたくさんありました。

     病室の担当の衛生兵にお父さんが私のことを正直に言いました。その衛生兵は人情がとても深い

    人柄でした。理解してもらって、同情して目を閉じてくれました。ともかく位の高い人に発覚しないよう

    に気を付けてくれと頼まれました。体が少し治った人は体が不自由な人の介護をしていました。私も

    同じ患者に仮装して、もろ腕を失った寝たきりの患者にご飯を食べさせたり、食事当番をしました。

    食堂から飯と汁を大きなで持ってきます。それを二つの器によそって、配食をしました。おかずは

    ほとんどキムチやもやしの和えたものばっかりでした。時たま肉汁が出たら特別なメニューとして大変

    喜んでにぎやかになります。自分の器に具が少ないと怒る人もありました。器を投げて、喧嘩をかけ

    てくる人もありました。

     いつも寝台に横たわって何か熱心に書く患者がありました。彼はソウル大学の学生の身で戦争に

    参戦して足を失っていました。印刷した紙の裏に糸でゆわえて、ノートの代わりに使っていました。

    彼と親しくなって、彼の文章を読んだり、いろんな話を聞かせてくれました。その中に悲しいストーリー

    がありました。彼の親父も足がない不具者と言いました。日帝時代(日本の植民地時代)、徴用され

    て日本のある炭鉱で足をなくしたと言いました。あいにく父子が同じ足がない一家になってしまって

    村の人がどう見るか、それが一番つらい悩みだと言いました。むしろ死んだほうがましだと涙を流し

    ました。私も自分も知らず涙が出ました。

    (中略)    

     かれこれ病院生活も一年になりました。親父は元気も回復し、傷口もよく治りました。でも体の

    バランスがくずれて左に傾いていました。ピサの斜塔のような姿になっていました。

 

                        (寿識字学校発行『ちからにする』1993年7月2,9,23日号より)

 

 

 父は私に「(今の生活は)苦しいけど、我慢してがんばりなさい」とよく言っていました。私は15歳でした。

 そして1年後に退院すると、病気理由で除隊して、傷痍軍人を収容する施設に移りました。家も生活基盤もないので、「衣食住がちゃんとできるようになったら、お前を呼ぶから・・・」と言って、私のことは置いていきました。私は病院に残って、薬局の局長さん家族の小間使いとして働いたり、薬局で働いたりしました。その家族が住んでいる学校の小さな部屋にいっしょに住みました。そういう生活が半年。それから奥さんが市内で化粧品の小さな店をやるようになったので、夜はそこに行って当番をしたりしました。私は行く場所ないし、給金ももらわないから使いやすいでしょう。その間、父からなんの便りもありませんでした。

 そして、また父がある日突然私を迎えに来ました。傷痍軍人が集まって農場をやり始めており、私もそこへ行きました。アメリカから援助を受けて家を建てて…。私はウサギのえさの草を集める仕事などをしました。

 農場には2年間ぐらい。お父さんと私はもっと田舎に引っ越しました。日本人が植民地時代に作りかけた海上の干拓地が、傷痍軍人に譲られたんです。家はアメリカの援助で建てられた。お父さんは(その干拓地の)農場長になりました。けれど、その田は収穫が少ないですよ。だから私は18歳になってから、米軍部隊に就職しましたよ。


ひと 李明徳(イ・ミョンドク)さん(63歳)【後篇】

◆◆後篇◆◆

識字に来て本当によかったよー

 

寿支援者交流会通信「この間の報告とこれから」1999年5月号(No.40)

 

【連載にあたって】

(中国との国境に近い)朝鮮半島新義州出身。子どものころ、日本の植民地下の朝鮮から中国に渡る。日本の敗戦によって韓国へ引き揚げ。孤児収容所に入れられたり、朝鮮戦争の時には「ちびっ子兵隊」と呼ばれながら父といっしょに軍隊生活をするなど、半島の激動の歴史をそのままに生きる。アラブ諸国での出稼ぎ体験の後に日本へ。現在(1998年当時)は二度目の来日。寿町近くに住み、建設労働に従事。日本語はペラペラである。生活館4階で毎週金曜日に開かれている寿識字学校に通い続ける。

 

★青年時代

 

 父の友達の紹介で米軍で働くようになりました。米軍部隊の赤十字で。アメリカの女性たちがドーナッツを作って、それとコーヒーを車に積んで行って、アメリカ軍に無料でサービスする仕事をしていましたよ。その女性たちは軍服を着ていました。その人たちは図書館も運営していました。

 その女性たちの下で2年半くらい働きました。私にとっては初めての職場。けっこう楽しかったです。アメリカ女性は優しかったよ。

 働いている韓国人の中に英語ができる人がいた。どこで習ったのかと聞いたら、強制的に日本兵として戦争に連れて行かれて、ソロモン諸島で戦争に参加して、捕虜になってハワイの収容所に連れて行かれてそこで英語を覚えたと言っていました。面白いでしょう。それが役に立つんだから。もちろん大変だっただろうけど。

 私はドーナッツを作る機械を動かしていました。捨てられた少し形がおかしいドーナッツをきれいにして隠して、米軍部隊で働く他の韓国人にあげていました。1950年代で食糧なんか足りないでしょう。衛星に悪いとか言って、見つかると怒られるけど・・・。大きいやつより、小さいやつのほうがすごくおいしいよ。油がしみわたってて・・・。

 給料はよかった。その頃は他に仕事なんてほとんどなかったからありがたかった。父には農業資金を送ったよ。

 2年半ほどで、赤十字では人員削減が決まって、それで高校に入って半年くらい通いました。それからやめてある通信部隊の食堂で働くことになりました。1年くらい皿洗いやってました。調理はアメリカの軍人がやる。

 コックさんは俳優のグレゴリー・ペックみたいな人だった。私も、英語と手振り身振りでちょっと話をした。その人のこと今でもよく覚えています。仕事は楽でした。ケーキやパン作りの手伝いもしました。

 そこを辞めてから、アメリカ兵相手のクラブに勤めました。台所で皿洗いをやりました。若いから楽しかったです。お金がたまるのが一番楽しかった。夜、そこで働いて昼は大学に行った。正式な学生ではなくて、聴講生のようなもの。国文科で勉強しました。あまり出席はしませんでした。

 1年くらいでそこをやめて、今度は闇商売みたいなことを始めました。米軍から石鹸や品物を買って闇で売るんです。品不足だったからいい商売になりました。それをしながら音楽の学校に行きました。ギターを習いたかったので。バンドをやったら稼げると思ったし…。でも私は音楽に対して素質がないから、コントラバスが覚えやすいだろうと聞いて、コントラバスに変えました。テンポだけでしょう。メロディーがないから(かんたん)。サクスフォーンをやっている友人といっしょに部屋を借りて、自炊しながら練習していました。

 下手だけど、クラブで演奏したこともあります。けれど、私には合わないと思って゜しせきにやめたよ。コントラバスも売っちゃった。もう今は弾けません。

 30の時に結婚しました。相手は25。優しい人でした。結婚した年に娘が生まれました。とてもうれしかった。どこに行っても赤ちゃんの顔ばかりが浮かんでた。私はずっとその年になるまで孤独でした。一人暮らしが多かったでしょう。だから子どもができて何というか、声をあげたいほどうれしかった。私自身は家族の味を知らないから余計に・・・。4年後には長男が生まれ、36の時に次女が生まれました。

 長女は生まれたときに呼吸がよくできなかったです。なので大きな総合病院に連れて行かれて、私が付き添いました。病院を出た後も気管支が悪くて風邪をよくひく子でした。3歳の時に遊園地に連れて行ったことがあるけど、迷子になっちゃって・・・。今でもあの時の不安な気持ちがよみがえります。子どもが欲しい人にさらわれてしまったのではないかと・・・。これで終わりかと心配で心配で・・・。あちこちに子どもがいるけれど、みんな私の娘に見えるよ。やっと見つけた時には本当にうれしかった。

 子どもの写真はたくさん撮りました。娘の誕生日には写真館に頼んで記念写真も撮った。

 

★出稼ぎへ

 

 米軍の仕事を35くらいまでやって、その後3,4年後に出稼ぎに行きました。色々やったけど、40代からは失敗の連続でした。

 出稼ぎの最初はクウェート。たまたま募集があって…。その頃はクウェートへの出稼ぎがブームでした。行く前にフォークリフトの免許をとりました。クウェートでは、郊外の一つの街づくりに関わりました。最初はブロック作りの工場で働きました。気候はつらかった。暑くてフラフラ。1年くらいいました。家族に電話をすることは難しかった。

 韓国資本の工場でしたがアラブ人、パキスタン人、アフガニスタン人、バングラデシュ人などともいっしょに働きました。彼らとは手振り身振りや英語で話をしました。アラブの人たちは自分たちの民族服を着て仕事をしていました。麻薬をやっている人もいて、私も少しやったけどフラフラになりました。

 その町にはアラブのためのモスク(教会)が作られていました。私も礼拝をやったことがある。工場の掲示板に、イスラム教に関心がある人は教会に来てください、とハングルで書かれていたので。その教会ではアラブ語を教えてくれました。日曜日には会社のバスに乗ってクウェート市内の教会にも行きました。信者の真似をして膝を曲げて礼拝をした。礼拝が終わったらアラブの伝統的な昼飯を食べました。香辛料がすごかった。牧師さんがコーランを暗唱するよ。そして私に向かって、「あなたは今日からムスリムです」と・・・。そう。私はじつはムスリムなんだよ。パスももらった。今でも持っている。そのパスを見せると、車の違反なんかの時に許してくれる。パスを見せて、コーランを1回読めばOK。

 イスラムの牧師と仲がよくなって、海岸に行って貝を採っていっしょに食べたり、アラブ人の真似をして食事を手で食べたこともあった。その時の写真もあるよ。そう、私はわりと好奇心が強いね。

 面白かったのは市内からの帰りにバスがなくなって相乗りタクシーに乗った時。会社には門限があるでしょう。それに遅れるんじゃないかと思ってイライラしてくるでしょう。なのに(相乗りした)アラブ人たちは決まった時間が来ると途中でタクシーを降りて祈るんだね。

 アラブ人たちは、仕事中でも時間が来ると仕事を脇において、祈るよ。韓国人の監督はイライラして「だめだ」というと、労働者たちは「宗教警察官」に訴えた。すると文句を言った監督たちはクウェートの法律に違反したといって罰せられるよ。私もそれを利用して、きつい時は祈るふりをしてバタッと寝転がっていた。

 クウェートは人口が少ないから外国人ばかりだった。バスターミナルに行くとインド人の女たちがズラーッと並んで物を売っているし、交通警察官も兵隊もみんな外国人。偉い人だけがクウェート人。

 クウェートの後はサウジに行きました。ここも1年。ビザの延長ができませんでした。運がないよ。サウジではキャンプから会社の通勤バスの運転手をしました。昼飯の時間になると労働者をまたキャンプに連れて帰る。昼にはアラブ湾で日光浴をしたりした。

 その次はイラク。イラクが一番思い出がある。9か月くらい。あるアラブの人と親しくなって、結局はその人のために帰国することになった。色々ないらないものをその人の家にあげたりしてたからです。

 その人はイラン・イラク戦争の避難キャンプにいる避難民で、バスラ大学の大学生だった。そのキャンプがたまたま私の働いていた会社のそばにあったんです。彼の家に遊びに行ったりしました。私は3回アラブ諸国に行ったわけだけど、アラブ人で家に招いてくれたのはこの人だけです。彼には妹が2人、弟4人がいました。私が村をぶらぶらしていた時、その家の末の男の子が私の帽子を奪って逃げた。いたずらしたんです。その大学生が弟を叱って帽子を返してくれたんです。それがきっかけになりました。ときどき子どもと遊んだりしました。私はその時アラブ語の単語と短い会話を学んでいました。それを利用して、仲よくなったんです。その人といっしょにバスラにバスに乗って出かけて、食事をいっしょにしたりしました。その家はお父さんは昔船員だったそうです。バスの中で東洋人である私がアラブ語を使うと、回りにいる人がみんなびっくりして、大笑いしてました。

 避難民の人たちはみな、品物が足りないでしょう。私は会社の食堂の人に頼んで、残り物をお金とチェンジして、ひそかにそれを持って行ってあげたりしました。帽子や薬を私の奥さんに頼んで送ってもらって、帽子は20個ぐらい…それを避難民の人にあげました。

 しかし会社がイラク人と交際するな、と言うのです。でも私はそれに違反して服や品物を持っていった。会社の警備員に1回見つかってもみあいになったこともあるよ。私も前の戦争の時に避難所で苦労したから、やっぱり品物あげたい。私だって腹ペコですごくつらかったでしょう。だからそれを思い出して…。警備員が会社の偉い人に私のことを言ったよ。それで、問題になって9か月で帰国させられた。会社のビニール箪笥をあげたりしたこともあったから。

 

   その時(イラクに出稼ぎに行ったとき)にはいらくといらんが戦争中でした。ちょっと不安な気持ちで

    飛行機に乗りました。いらく行航空路は全面的に閉鎖していました。くえいと空港に着いてそこから

    はバスにのりかえて陸路でいらくに入る計画がたっていました。私の一行は2台のバスに分乗して

    ほこりをとばしながら砂漠の道を走りました。軍需物資をいっぱい積んだとらっくで混雑していました。

    海上が封鎖されてほとんどが陸路を利用しているからだろうと思いました。国境検問所では入国手

    続きを速やかにやってくれませんでした。土産品とわずかの賄賂でやっと通過ができました。

    いらくの唯一のバスラ港口から400キロ弱はなれた場所に新しい軍港をつくる仕事が待っていまし

    た。バスラの名前の都市は湾岸戦争で新聞によく載った地名です。同じイスラム教をもつあらぶ国

    家でもイラクはサウジ、クウェートに比較してみると、うんと違う面がたくさんあります。こらん聖書で

    禁じている酒がありました。酒はまるで劇場のような建物で売っていました。さりもかぶらない女性

    が多かったです。ほかの国よりちょっと開放的に感じました。

 

                           (寿識字学校発行『ちからにする』1993年9月17日号より)

 

  



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