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 あの日のことはよく覚えています。自分がなにを言ったかをぜんぶ覚えてます。「やばい。やばい。これを忘れるとか絶対ムリ」、何度もそう叫んでました。もちろん、何を見たかは忘れました。でもそれ以外のことは全部覚えてます。あの驚きと感動はほんとに忘れられません。


 あの日のことはよく覚えています。5台の車に次々はねられて、4台目まではナンバーを覚えていられたのに、5台目はどうしても思い出せなくて犯人が捕まらなかった。わたしは鬼籍に入ったり出たりを繰り返して、かなり透けました。食費がかからないことだけが慰めです。


 あの日のことはよく覚えています。みんなが一等賞だったし、みんないい意味で周回遅れでした。みんな何かをやりとげた顔で、みんなこれが始まりだと信じていて。みんなの邪魔にならないように一歩下がったら、足がひっかかって電源ケーブルが抜けたんです。みんなそれきりです。


 あの日のことはよく覚えています。どこまで大きくできるかが興味の焦点だったのに、結果の小ささにみんな呆れていました。引っ張るとそれだけ小さくなって、押せばその分縮みました。「大きくする方法はないんじゃないか」という声が、小さすぎてもうほとんど聞こえませんでした。


 あの日のことはよく覚えています。右側だけ。左側はもう一人の、あの子の担当だったから……あんな事件だったのにと思うでしょうけど、右側はとても静かでした。繋いだ手の、握りかたの変化だけが手がかりでした。それで、左側でなにが起こっているかをすべて知ったんです。


 あの日のことはよく覚えています。逃げていった人たちの走り方をぜんぶ真似できますよ。笑える感じでもなくて、どの人も背中に人生がにじんでいたというか、とくに、私が足首をつかんだ人の転び方が印象的で。手が泳ぎの形になって、理性のあきらめが本能のあがきに勝ってる感じ……


 あの日のことはよく覚えています。もう忘れたいのに、あの駄洒落をぜんぶ思いだせるし、思いだすとかならず吐きます。つまり今から吐きます。駄洒落を。逃げてください、急いで。まだちょっと我慢できます。なるべく遠くに。急いでください。耳をふさいでもだめです。

この本の内容は以上です。


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