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 電車のなかで読むものを忘れ、しかたなく乗客の顔を読みはじめると、続きは大抵WEBにあり、続きのない顔は直視できなかった。車内で自分の顔に続きを書き込んでいる人物がいたが、突然のブレーキで致命的な書き損じをやらかしたらしく、大きな油あげに変身すると次の駅でそそくさと降りていった。


 電車の中で読むものを忘れた人々に囲まれ、顔を読まれる。皆が自分の顔を凝視して小さな声でなにやら音読するのを座席に身を縮めてじっと耐えていると、時折、全員が同じところを読む瞬間があり、言葉が明瞭に車内に響く。「野菜」「遡上」「ひだり」「内線」「イースト」「2号車」……


 電車のなかで読むものを忘れ、しかたなく乗客の顔を読みはじめるが、読み取った内容の恐ろしさに失神寸前となり、前後に激しく揺れる様子は傍目には泥酔しているようにしか見えず、半角スペースのような表情で頭部を柱にぶつけるたびに、どこかにあるディスプレイに文字が一字ずつ入力されてゆく。


 電車の中で読むものを忘れたが、長引く非常停車のお詫びにと、車掌が本を読み上げ始める。登場人物の紹介が延々つづき、車内にざわめきが広がる。自分の名前が呼ばれ、数語で的確に表現された特徴にたじろぐ。本の中で、みな同じ電車に乗っている。発車の揺れに小突かれて、全員が同じ方向に傾く。


 電車の中で読むものを忘れ、乗客の顔を読もうにも車内は無人で、ドアの上の広告ディスプレイに目をやれば、そこに一人の男が映り、こちらに背を向け、本を読んでいる。肩ごしになんとか読もうと目をこらすが、激しい揺れが理解を阻む。駅は次々と通り過ぎ、列車が止まる気配はない。男が本を閉じる。


 電車の中で読むものを忘れ、かわりに忘れていた名前を思い出し、顔はどうしても思い出せず、交わした言葉だけが次々と記憶に浮かび、読めない漢字ばかりで書かれたそれらを眺めるうちに降りる駅を忘れ、目指す街を忘れ、帰る先を忘れ、誰のためか忘れ、どれのことか忘れ、あの名前を忘れ、頁をめくる


 電車の中で読むものを忘れ、頭の中に置いておいたものを渋々読み始める。改行がなくて読みづらい。記述が厚いのに内容が薄い。呪詛ばかりなのに向け手がいない。現在形なのに後ろ向きな思考、と特徴を並べてゆくと、曇った鏡を磨くように自分の姿が鮮明になる。渋面で眺めているうちに乗り過ごす。


 電車の中で読むものを忘れ、かわりに書くものを鞄から取り出す。「書くもの」は予期せぬ出番にうろたえることなく、一月まえに中断していたものの続きをただちに書き始める。内容は読めないが、書かれているとわかるだけで安心できる。書き上がれば読めるはずだが、いつ終わるのかがわからない。


 電車の中で読むものを忘れ、しかたなく石板に象形文字を彫りはじめる。一つ一つの文字が多種多様な人の死にざまを象って、石板の表面を埋めてゆく。これは墓標ではない。ただのエンターテインメントだ。目的駅に着き、石板を網棚に残して降りる。やがて必ず手元に戻る。文字はみな骨と化している。


 電車の中で読むものを忘れ、車内の会話に耳をすます。別々の会話の中で飛び交う代名詞がひとつの人格に凝集し、二本の足を備えた目に見えぬそれが、車両の中央を端から端までゆっくりと歩く。それが側を通り過ぎるところでは、会話がふっと静まる。自分の傍らを通り過ぎるとき、それがこちらを見る。


 電車の中で読むものを忘れたが、指を動かすとページをめくる感触だけが得られることに気付く。見えないページをただめくり続けるだけでもそれなりの安心感があり、ぼんやりと窓を流れる景色を眺めていたが、突然ページが終わる。読後の悲しみに視界がにじみ、膝が折れる。手すりを握って嗚咽を殺す。


 電車の中で読むものを忘れ、車窓からみえる大きな文字を眺める。どれほど遠くにあるものか、どれほどの大きさか、全くわからない。それが書き始めの一文字であることはわかっている。先を書かれるのを待っている。10年間これを眺めて暮らし、明日からは遠い街に住む。そこにもきっとこの文字がある。


 電車の中で読むものを忘れ、しかしいまはもう部屋におり、読まれていることを忘れて書くが、書かずにおくべきことはみな忘れており、書くべきことはすでに話したあとで、ただ読点ばかりが列をなし、光る画面の縁を踏み越え、視界の果ての消失点へ歩み去る

この本の内容は以上です。


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