目次
輝いている時
夢中(ゆめのなか)
芝浜
江戸っ子
亀住町(平成13年7月1日)
モンセ・ワトキンス~夢のゆくえ~(平成14年1月3日)
新牌開眼
英霊(平成17年5月23日)
目覚め
よわい「齢」
また始めたらよい
三大聖樹(平成19年4月17日)
滅度(平成19年9月18日)
安住の地(平成20年11月15日)
心眼(平成22年3月1日)
とかくこの世は
とかくこの世は
祈り(平成17年11月29日)
品位(平成18年1月20日)
ニャンニーシンズ(平成18年3月1日)
鍵(平成18年4月25日)
チベット(平成20年5月1日)
SYOHOU
諸法
四十四の問い~ミヒャエル・エンデ
先ゆく輩
さき行く輩
祖師年譜
ダルマ
慧可
五洩霊黙和尚
石鞏慧蔵禅師
大珠慧海禅師
西川の黄三郎
馬祖道一禅師(馬大師)
五百生 百丈和尚
大梅山法常(752-839)
麻谷山宝徹禅師(平成12年1月27日)
鎮州普化(ふけ)和尚
寒山・拾得
虹の彼方に
ヘイヴン・ペックの場合―続貧しいけれど、豊かだった―
生前葬
平和を我らにーGIVE PEACE A CHANCE(平成13年10月31日)
ソクラテスとヤージャニダッタ
蓮(平成14年6月2日)
心-KOKORO(平成14年6月25日)
独り暮らし(平成15年4月12日)
老いが、咲いていた!(平成16年7月5日)
深濱-fukahama
死に顔
松山鏡(ソクラレストとヤージャニダッタの続き)
真ん中(平成20年4月1日)
百万回いきたネコ(平成21年1月1日)
夜来る鳥(平成21年1月1日)
だいじょうぶ、だいじょうぶ(平成21年2月1日)
無常への帰依
無常への帰依
希望(平成12年1月2日)
葬式坊主
泥棒
赤とんぼ
老い
……ロス
後姿
寿陵
ついで参り
目標
六道を行く
もの言わぬ羅漢達…揀択をこえて…
宮本武蔵
五合庵断章(平成10年10月17日)
K子さん!(平成12年7月19日)
今は昔
十一面観世音菩薩
尽七日忌(平成19年5月1日)
OSYOU
OSYOU
この手のひらに―禅僧の死―(平成10年11月18日)
戒(平成10年7月25日)
幽霊
みんな仏教徒(平成10年5月27日)
最後の晩餐(平成10年5月23日)
禅問答(平成10年5月31日)
分銅
天国は汝ら自身に宿る(平成10年11月24日)
宗派
穢れ(平成12年8月30日)
お彼岸
仏心
仏心
ご祈祷
施餓鬼会にて(平成17年5月28日)
永遠の命
輪廻する葦(平成10年5月27日)
連鎖する命(平成10年6月2日)
涅槃(平成10年8月12日)
鏡(平成10年7月25日加筆)
流星
TAO(平成11年1月3日)
四大
挨拶
冥福
盂蘭盆
祈り(平成14年7月4日)
仏事歳時記
再び 最後の晩餐
この手のひらにII(平成18年11月18日)
死んで生きる智慧(平成19年3月27日)
五百生(平成19年11月20日)
破地獄偈(平成20年5月24日)
この指止まれ
この指止まれ
家族と家庭(平成11年1月5日)
導師(平成11年2月26日)
家から個人へ、そして家族・友達へI
家から個人へ、そして家族・友達へII
脳死そして臓器移植(平成11年3月2日)
独り決めの生き方
僧堂I
僧堂II
僧堂III
恥じ
僧堂IV
返事
父殺し・母殺し・友だち殺し・子殺し(平成20年1月1日)
その後
その後
ほとけさま(平成17年5月1日)
仏が仏に合掌する
戒名(平成12年3月14日)
無用の用(平成12年2月21日)
世話
大きく育て!(平成11年1月18日)
しもべ(平成10年11月7日)
電話(平成10年8月22日)
意思
寡黙
妄想(平成10年8月2日)
川(平成10年8月22日)
風如(風のように)(平成10年6月18日)
追悼(平成10年5月27日)
受容(平成10年6月18日)
蒸発
臨終(平成10年6月8日)
外道
障子(平成13年3月10日)
日月(にちげつ)
年寄りの出番より
人生とは、闇を照らす一瞬の蛍の光
時の旅人
時計(平成12年1月3日)
星(平成11年10月15日)
溝(平成11年8月2日)
過去心…念の起こる処(平成11年6月19日)
与える時間(平成11年5月24日)
桜(平成12年3月2日)
無常(平成11年4月16日)
川(平成10年9月17日)
有時(時の構造)(平成12年2月5日)
時の旅人(平成12年2月1日)
揺れる木々の葉
この人生の速さはなんだ(平成14年12月26日)
法句経より-時の旅人(平成15年2月4日)
寂然不動 如春在花(寂然不動、春の花に在るが如し) (平成16年9月19日)
ZENGO
自立
橋は流れて(平成10年9月18日)
無事
過去(平成10年5月23日)
たまごっち(平成10年5月23日)
一衆觸礼(いっしゅうそくれい)
六道を輪廻する
二人三脚
生老病死
筋肉番付
ポケモン
俺は、親馬鹿か!
塵も積もれば山となる
生と死と永遠
最終章
一章
二章
三章
四章~(未完)
時間旅行
時間旅行
命の歌-母の短歌
礎-いしずえ-
離魂(平成19年8月25日)
海辺橋
海辺橋
ふるさと(平成18年3月4日)
千の風(平成18年9月16日)
人の道(平成18年9月18日)
あなたは、いつから、一年が始まりますか?(平成20年8月1日)
前住職 二十三回忌にて(平成20年9月1日)
平成21年お施餓鬼会を振り返って(平成21年6月1日)
奥付
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大梅山法常(752-839)

大梅山法常(752-839)

 大梅和尚は湖北省荊州の玉泉寺で得度したという。玉泉寺は天台智顗が建立し、神秀(606?-706)も住山したという。南嶽懐譲が出家した寺でもある。明州に生まれ、襄陽の人なりとある。浙江省に生まれ、湖北省の人であるということは、人生の多くの時間を湖北省で過ごしたのだろう。玉泉寺で数多くの経論を講ずとあることから、知識は豊かな人だったらしい。人生の知識が豊かなことは、その核心を持ってこそ、知識は揺らがないものだと思うが、大梅も知識を講ずることに違和感を覚えて、このままでははがゆく、心に突き動かされるかのように、各地を遍歴する旅に出ることになった。

 江西の馬大師の風評を聞くと、すぐさま江西に足を運んだ。
 江州の開元寺は、玄宗が開元26年(738)に、各州に一寺づつ建てた官寺でもあり、仏教を国家統制の下に組み入れる中心機関としたものらしく、つまりは、この時期にはすでに、禅宗は国家、皇帝にも受け入れられていたことになる。入室の弟子139名とあり、四方の学者が雲集したとあるので、かなりの数の人がいたことになるのであろう。

 馬祖の問答で有名な言葉は数多くあるが、その中でも『即心即仏』は、『非心非仏』と共に、解り易く、納得させられるものがある。だが、その馬祖は、「我が語をおぼえるなかれ」と、物まねを厳しく戒めた人でもあった。あくまでも個人の性そのものを主人公に、全体で働く自己の開放を弟子達に諭し、働く自己のそれぞれの責任において果たすことを示した。
 数多い馬祖の弟子の中で、「我が語を覚えるなかれ」という馬祖の言葉に向かって、一生を『即心即仏』で通した男がいた。大梅法常禅師である。

 馬祖のもとに赴いた。
 大梅、「仏とは、いったいどういったものでしょうか」
 馬祖、「貴方の心こそ、そのものだ」
 大梅、「その心をどうしたら、捕まえ、保てばよいでしょうか」
 馬祖、「よく護持しなさい」
 大梅、「法とは、いったいどのようなものでしょうか」
 馬祖、「貴方の心が、そのものだ」
 大梅、「達磨の意図は何だったのでしょうか」
 馬祖、「貴方の心こそ、そのものだ」
 大梅、「それでは、達磨に意図はなかったのですか」
 馬祖、「貴方の心の、法として備なわらぬ法もない、貴方の心をこそ見て取りなさい」

 大梅は言下に、この玄旨を諒解した。すぐに杖をもち、はるか雲山の景色を望んで、大梅山の麓についた時、この深く幽々とした山を我が棲家としようと踏み入るや、30年に渡り消息を絶つことになる。
 後に、塩官和尚に(塩官斉安 ?―842)付く僧が、旅の途中で山に迷ったとき、草の葉を衣服として、髪を長く束ね、粗末な小屋に住まう一人の老人に出会った。
 老人は僧を見ると、先に”不審”と声をかけた。老人は内心、自分のとっさに出た”不審”の言葉を叱咤した。出身を表す言葉であり、同時に言葉はクグモッタ言い方になった。僧はその意を図りかねたが、問いただすと、老人は「馬大師に見えたことがある」といった。
 僧は「ここにどのくらい居るのかと」と問うと、
 老人は「さあ、どのくらいになろうか?周りの緑が青くなり、黄色くなるを見るのみで30数回は数えたであろうか」
 僧は、老人に「馬大師のところで、何を得たのですか」と、うかがった。
 老人は、「即心即仏」と答えた。
 僧は辞すついで、「山を脱け出るにはどちらに行ったらよいでしょうか?」
 老人は、「その渓流の流れに従って去るがよいであろう」と言った。
 僧は、塩官和尚の元に帰り着き、山での模様を和尚につぶさに報告した。

 塩官和尚は、「昔、江西に居たときのことだ。一僧が馬大師に仏法と祖意を問うたところ、馬大師は”即心即仏”とお答えなさった。それから30年、その僧の行方はいまだに知れない。彼ではないだろうか?」。
 塩官和尚は、そこで数人の僧を遣わして、「馬祖は近頃、”非心非仏”と言い、”即心即仏”とは言わない」と、僧達に言わしめた。老人の元にたどり着いた僧達は言われたごとく、塩官和尚の言葉を老人に伝えると、
 老人は、「たとえ”非心非仏”と言おうが、私はただ一筋に、”即心即仏”で通すだけです」と言った。
 これを聞くと、塩官和尚は感激して、

 「西山の実は熟しておる。君らは、そこに行って思うがままに摘み取ってきなさい」と僧達をせき立てた。大梅の下には、2、3年のうちに数百の修行僧が集まったと言う。
 ”即心即仏”、それは、「君の心そのものがそれだ」「君の解らないと言う心そのものが仏性にほかならない」と言う言葉であり、”三界は唯一心”の経典の言葉を、自分の言葉に直したものである。”仏”や”法”を、自己や、世の中、迷い、あり方、有り様と様々に言葉を置き代えてみるとき、総ては「貴方のそのままの心、そのものが世界であり、自己である」という、総てを肯定的に認める大梅の心は、朗らかに大地を潤す。

『衆生病むがゆえに、われも病む』と言った、釈尊の心は、衆生の病む心そのものが、実は釈尊の心そのものであるということと、同じ意味を持つことを思えば、自分自身に三十有余年”即心即仏”で通す、大梅法常の”即心即仏”は光り輝く。

麻谷山宝徹禅師(平成12年1月27日)

麻谷山(まよくざん)宝徹禅師(平成12年1月27日)

 すべては不明の人物である。馬祖に嗣法した。丹霞天然禅師と共に遊行し、蒲州(山西省永済県)の麻谷山を通りかかり、丹霞と別れて、そのままそこに住したと言う。
 宝徹禅師が、丹霞禅師と旅をしていたときの話が、馬祖語録に書いてある。
 『山間の川の辺にたって、宝徹は、丹霞に尋ねた。大涅槃とはどのようなものか?
 丹霞は振り返りながら、「急」と言った。

 宝徹は、「何が急なるか」。
 丹霞は、澗水(谷川の水)の流れを示した。』

 語録(景徳伝灯録)では丹霞の役を、馬祖が務めているのではあるが、注に祖堂集のこの話があったので、こちらのほうが情景が理解できることから、取り上げてみました。
 丹霞と宝徹のこの話は、涅槃と急と澗水の話になるのだが、仏教では、涅槃は、諸行無常、諸法無我の当体であり、つまり世界の真理であり、法そのものです。
 急とは、注に、急迫・切迫しているとの意味があるとある。さらに、法句経に「命逝くこと川の流れの如し」。論語に「子、川の辺にあって、曰く、逝くものは斯くの如きか、昼夜をおかず」とあり、古注では、川の流れのように、時は休みなく流れすぎ、人はどんどん年を取ってゆくことを嘆いたものとしている。

 澗水は、時の流れを川にたとえて、時は休みなく流れすぎてゆく代名詞にとれる。 
 「ゆく河の流れは絶えずして、しかも、もとの水にあらず。よどみに浮かぶうたかたは、かつ消え、かつ結びて、久しくとどまりたる例(タメシ)なし。世の中にある、人と栖(スミカ)と、またかくのごとし。」
 我が方丈記の巻頭も、河の流れを人生に譬える。
 臨済に言わせれば、麻谷の宗風は、黄蘗(きはだ)のように苦みばしっていて、誰も近寄れなかったといいます。 澗水という、水の流れを詳しく見つめるには、臨済のこの言葉がぴったりと当てはまります。

 「一切の草木皆なよく動く、ゆえに動はこれ風大、不動はこれ地大。動と不動と、共に自性なし。なんじもし動処において、それを捉うれば、それは不動処に向いて立たん。なんじもし不動処にむいてそれを捉うれば、それは動処に向いて立たん。譬えば泉に潜む魚の波を鼓して自ら躍るが如し。大徳、動と不動とは是れ二種の境なり。還って是れ無依の道人、動を用い不動を用う。」

 澗水の流れは動くものとして、私たちにもつぶさに観察できるのですが、この澗水から動かないものを発見することは、ひとひねり必要です。見えるものと見えないものは、私達に苦労を強いるようです。もちろん日常の生活では、動くものの中に、動かないものを発見し、見えるものの中に、見えないものを発見することは、意味があることと思います。私達が見えるものをそのまま受け入れるには、錯覚・錯誤を植え付ける意識・心の問題が潜んでいるからです。私達が見ているもの、そのものが真実な姿であるかは分からないからです。
 その錯誤・錯覚という意識・心を排除し、動くもの、見えるものを素直に受け入れることが大切なことだと思うのです。
 澗水の動かないものとは、まず気がつくことは、水は高きから低きに流れるという道理であり原理です。この道理は動かないものとしてありますし、澗水の流れを見る者にとっては、見えないものとしてあります。つまり水が流れるは、水の高きから低きところへ流れるという性質が、流さすと言えます。

 冷たい水は重たく、温かい水は軽いという性質によって、流れがあるでしょう。また何がしかの資源が含有された水も流れを作ることがありますが、圧力のような力がかかわらなければ、水は上から、下に流れます。そういえば、川底も動かないものとしてあります。さらに動くもの見えるものを観察する私達の意識は、動くものそのものです。しかし、世の真理は、無常そのものですから、川の流れは真理であり、意識のさし挟む余地のないものでしょう

 曹洞宗は道元禅師の正法眼蔵、現成公案の末尾に、馬祖大師の門下で、麻谷山宝徹禅師の” 風性常住、無処不周”の公案があります。

 麻谷宝徹禅師、扇をつかふ。
 ちなみに僧きたりてとふ、風性は常に住して周ね不る処として無しなり。なにをもてかさらに和尚扇をつかふ。
 師いはく、なんぢただ風性常住を知れりとも、いまだところとしていたらずといふことなき道理を知らずと。 僧いはく、いかならんかこれ無処不周底の道理。ときに師あふぎをつかふのみなり。
 僧礼拝す。
仏法の証験、正伝の活路、それかくのごとし。常住なればあふぎをつかふべからず、つかはぬをりも風をきくべきといふは、常住をもしらず、風性をもしらぬなり。風性は常住なるがゆえに、仏家の風は大地の黄金なるを現成せしめ、長河の酥酪(そらく)を参熟せり。

≪麻谷宝徹禅師が扇を使っていた時に、
 一人の僧が来て問うた。「風性常住、無処不周です(風の本質は常住であり、すべてに行きわたらないところはありません)。どうして和尚は、その上に、扇を使うのですか。」(仏性はあまねく行き渡っているのに、その上更に修行する意味はあるのですか)
 師は言う、「お前は、ただ風性の常住なることを知っているだけで、行きわたらないところはないという道理はまだ分かっていない。」
 僧が言う、「行きわたらないところはないというその道理とは、どういうことですか。」
 この時、師はただ扇を使うのみであった。
 僧は、礼拝した。
 仏法の証の験(しるし)と仏法が正しく伝わるその活きた路は、まさにかくの如くである。風性常住なのであるから扇を使うことはない、使わないときにも風を感じる筈だというのは、常住もわからず、風性も知らないということである。風性は常住であるが故に、仏道者の「風」は、大地は黄金なのだということを真実現し、長河の水を酥酪(そらく:醍醐味の精乳)に完成熟させるのである。(中央公論社大乗仏典”道元”より)≫

上記は1232年中秋、陰暦8月15日頃、鎮西の俗弟子、楊光秀宛に、道元禅師34歳の頃執筆されたものであり、正法眼蔵、現成公案の最終を飾る言葉として、また、道元の出家の原点になる話題であり、古来様々な人が評論、注釈しています。
 聞解は、「風性常住は体、無処不周は用」であり、扇を使う用に於いて風も動く、風性常住でなければ扇いでも風は来ぬと言う。
 私記には、「自己の知見、慮知によって合点する、みな情識なり。麻谷の問答は、何必(かひつ)の引証なり」
 御抄には、「僧は世間の風の心をいい、禅師は仏家の風を答う……諸仏常住、無処不周ともいうべく、衆生常住・無処不周ともいいつべし」
 弁註には、「有所得は尽く妄想邪見なり」」とあります。

 前出の臨済の言葉に風大、地大とある。地水火風は、この当時の世界を形成する元素である。風は、空気の別名であり、風の本体は何処にも存在するものとして、見えないものとして、動かないものとしてある。風や波はその見えないものの表現であり、現成(差別の相)であるのでしょう。また、見えるもの、動くものとしてあるといえます。見えないもの、動かないものは、空気や水は公案(平等の相)として、澗水や扇の風は、動かないものの動いたものであるのでしょう。

 イスラエルでは、ヘブライ語で神の霊ルアーは、風を意味すると聞く。風性常住は、本然自性と重なる。隠すところなく、衆生本来仏であり、欠けることなく与えられていた事でもあります。澗水や急は、本体が現成した姿と言えます。
 「経典(涅槃経)には、仏性は誰にも備わっていると書いてある、それなのに、仏となるのに、何故あらためて発心して修行しなければならないのか」と、若かりし頃、道元は自問自答したという。

 本来の自己が、活発に活動した現成、表現が、扇を持つことであり、空気が風となって現成、表現される。
 扇を使うという行為がなければ、常住なる風性も動いて風とならない。動くとは動かないものが動くのである。ここに仏教の立場がある。行為に於いて具体的になるという。

 黄金と酥酪は、仏教本来の立場にして真理を意味し、仏の姿であり、風性常住は法性常住であり衆生本来仏なりである。この世界はその活波乱である。大地もそのまま黄金であり、長江の水も酥酪である。


鎮州普化(ふけ)和尚

鎮州普化(ふけ)和尚

 臨済録には普化和尚の話しがよく出てくる。その中で、私が好きなのは、全身脱去の話しだ。
普化はある日、自分に死が近いことを知り、街中で人々に僧衣を布施してくれとねだった。人はそれぞれ僧衣を贈ったたが、普化は、誰からももらわなかった。
 臨済は院主に棺桶を買わせた。普化が臨済院に帰ってきた時、言った。

 「わしは、汝のために僧衣を作っておいた」と。
 普化は、「臨済の小童、よくやるよ」と、受け取って別れを告げた。
 普化は、早速棺桶を担いで市街にくりだし、街中に叫んだ。
 「臨済が、わしがために僧衣を作ってくれた。わしは東門に行って死ぬぞ」
 市民は競って、普化の後を追い、様子を見ようとした。
 「今日は、八卦が良くない。まだ死なぬ。明日南門で死のう」
 市民はまた、昨日のように街を出た。
 「明日の西門でのほうが、縁起がよいようだ。今日はやめた」
 翌日は、市民の数か少なくなってきた。普化はまたも取りやめた。
こうした事が三日続くと、人々は普化の言うことを、信じなくなってしまった。そして四日目になると、誰もついて来なかった。

 普化は城外に出て、鈴を振りながら自分で棺の中に入り逝ってしまった。するとこの事件は街中に広まって、人々は先を争って集まり、棺を開けた。すると、普化は全身脱去しているでわないか。ただ空中に鈴の音が響いて去って行くのが聞こえたそうだ。
 先日、3年という長さの年月で、患う母を持つ男性と話しをした。彼がつぶやく言葉に、そういうものかと受けて、同じ立場に立ってみれば、私もそう思うだろうと同意する。
 その言葉は、「存在としてあるだけでも、母が今、生きていることだけで良いのです」、だった。

 患った側から見るか、看病する側からどう思うかでは、話しは違っている。まして、伝説の人となるとなおさらだ。肉親はいたのか。病気だったのか。どういう時代にどう言う生き方をしたのか。臨済録や伝統録の記録は、かっこいい断片だけだが、それが歴史のなせる技なのだろう。普通だったら、普化を惜しんで命を粗末にするなときっと呼びかけているはずだ。

 数年前、鎌倉建長寺の管長の自坊に老いた母親が患っていた時のことだ。管長の妹さんが懸命に看病していたが、管長はその妹に「看病に、後悔するなよ」と、言っていた言葉を思い出す。

 普段の普化の生活は、鈴を鳴らしながらの托鉢を中心に営まれていたらしく、全身脱去の鈴は、その鈴を髣髴させる。僧衣は直綴(じきとつ)といって、ここでは旅衣の意味を持たせば、より解りやすい。無文老師は麻衣と書いているが、普通の人も着ていたというが、文人や道教の人達も着ていた衣だろうか。
死という概念も普化の時代と現代はずいぶん変わっているわけだが、当時の中国の話では、人の死は次の世界への旅立ちで会ったのだろう。その世界は繰り返すというより、一方的な旅立ちであり、やはり寂しいことであったろう。中国の辺境を旅する人が、峠で聞く猿の泣き声に涙したとあるが、似ている。猿の鳴き声と鈴の音が共通する響きをもっている。
原文は「隠隠として去るを聞くのみ」とある。一人身の市井に食を求める乞食の風来坊の禅者にとって死に様は、いかにも普化に似つかわしく、呆気ない。呆気ないからこそ、隠隠と響くのか、そこから何かを取り出そうとすると、普化のことだ、お膳をひっくり返してさっさとそこにはいない。まったく取り付く隙が無くして、形にはまらずだ。無理して紫の衣を着させてみれば、毒が抜かれて死んでしまうに違いない。この話しは、達磨の消えて行くさまとよく似ている。

 普化は普段、墓場に寝泊りしていたらしく、日中は鈴を持って街に出、食を乞うたらしいから、生活だけをみると、今のホームレスとかわりはない。そう思ったら、隅田川河畔に点点としてある、青いビニールシートの家の住人に、何やら熱いものがこみ上げて来た。

 母が元気だった頃、早朝の寺の前を通り過ぎたホームレスに、大声で声を掛け、菓子をあげていたのを思い出した。掃除の手を休めて、ホームレスを呼びとめ、寺に戻って、菓子を持ってきて渡すというあわただしい動作に、あれは何だったのだろうと思っていたが、懐かしくなった。
 三十年以上前、新宿東口に、風月堂という喫茶店があった。クラシックやジャズが流れて、一種独特の雰囲気があり、梁山泊のごとき、いろいろの人が宿っていた。総称してフーテンと言ったが、彼らも政治や芝居、音楽、思想と良く語り合ったものだ。そのなかに、ひょっとすると普化も紛れ込んでいたかもしれない。

 私が二十数年前、京都の南禅寺僧堂より帰ってきた時、寺の玄関に、それまで使っていた網代傘と行雲流水と書かれた看板袋を掲げて、和尚が逗留しているという標しを示した。その袋と網代傘は今も使われずに壁にさがっている。普化から言わせれば、今の寺のそんな所に本当の禅はあるわけないと言われそうだ。いや普化だったらそんな所にひっかかっているわけはない。
せめて、行雲流水そのままの心で脱落し、行雲流水そのものにならなければと思うが、年寄りには安心され、仲間には信頼され、若い人には慕われる。これぞ、せめてもの極意としようが、私にはなかなか出来ない。修行がたりない。まだそんな所に引っかかている。

寒山・拾得

寒山・拾得

老いをさがそうと寒山に登ろうとしたが、寒山に老いはなかった。
《 歳月、流水のごとく、須臾(しゅゆ)にして老翁となる。》
 この言葉も、人間の一生は、あたかもお盆の中にはう虫のようなものだ。人は、終日、盆の中にありて、塵や埃にまみれて、苦悩はつきない。そして、神仙のような傑出した精神は得られることもないのあとに続く言葉です。須臾にして老いる身は、多くの人間であり、そんなことは当たり前のこととして、寒山自身の老いの姿もみえません。

 東洋の伝説に老いの生活や苦労の姿は、なかなか見えない。
 寒山・拾得は、8世紀から9世紀頃の人として、語録やこの寒山詩に消息があるのみで、一切は不明な人物として史上に登場します。
《昔はかなり貧乏だった。今はもっとひどい。何かをなそうにもうまくゆかず、歩みは苦労ばっかりだ。泥みちを行くにも脚を取られ、村人と交われば腹が痛む。猫さえもいなくなった思ったら、鼠どもが米びつを囲んでいる。》

 その生活は、貧しく、貧しさも、彼らにかかれば黄金色に色を変えるから不思議です。
 この寒山の貧と比べて思い出したのは、石川啄木でした。一握(いちあく)の砂や、悲しき玩具の歌集を読むと、同じ生活や貧しさでも、啄木の歌は救われない。しかし、その救われない歌で、今までの短歌に新しい道を開いた啄木ではあるのですが。
《はたらけど はたらけど猶わが生活(くらし)楽にならざり ぢっと手を見る。
 「石川はふびんな奴だと。」 ときにかう自分で言ひて かなしみてみる。
 この四五年 空を仰ぐといふことが一度もなかりき。かうなるものか?》

 こうも自己の内面を赤裸々に、そして奔放といえるほどにさらけ出すと、読んでいる方は、かえって爽快になるから不思議だ。しかし、90年前の当時、この短歌に接した人々は、衝撃を受けたことと思う。

《大といふ字を百あまり 砂に書き 死ぬことをやめて帰(かへ)り来(きた)れり。
 怒ると時 かならずひとつ鉢を割り 九百九十九割りて死なまし。
 死ぬことを 持薬をのむがごとくにも我はおもへり 心いためば
 何がなしに 頭のなかに崖ありて 日毎(ひごと)に土のくづるるごとし。
 その親にも、親の親にも似るなかれ――かく汝が父は思へるぞ、子よ。》
(岩波文庫啄木歌集より)
 今までに、このような歌に接したことがない。

 寒山の貧は、ああ貧にしてまた病む身であり、友や肉親もいないという孤独がおおうが、憔悴することはなく、《愁い多ければ定(かな)らず人を損(そん)せん》という。深い愁いは人の老いをはやめ 、命を損(そこ)なうことを知っている。

《心を落ち着ける場所を得たいと思えば、寒山こそは、思う場所である。微風が、幽松の間を吹いている。間近に聴けくほどによい。その樹下に、白髪まみれの老人が(中国は太古の聖人黄帝か老子の)書を、読みふけっている。その男は、もう十年以上もふるさとに帰らず、ここに来たときの道は忘れている。》
 寒山詩には、拾得(じっとく)という名の朋友が連れだって登場することは少ない。それでいて、寒山・拾得は、山水画のテーマであり、人々の話にはたびたび登場する。

 この詩を念頭にして禅の語録・從容録(しょうようろく)に宏智正覚(わんししょうかく)禅師が、拾得を登場させます。
《寒山来時(らいじ)の路(みち)を忘却すれば、拾得(じっとく)相将(あいひき)いて、手を携(たずさ)えて帰る》

 寒山の住んだ地は、寒巌(寒石山)で、中国浙江省天台山にあります。ここは、6世紀に、天台宗の祖・天台智顗(てんだいちぎ)が、この地で禅を修行したゆかりの地であり、國清寺(こくせいじ)という寺を中心に栄えました。天台山は天台宗の根本道場でもあるからです。8世紀9世紀になると、道士(道教)と禅師たちがこの場所に集うようになります。

 その天台山の寒巌に暮らす寒山の説話は、寒山と豊干(ぶかん)禅師それに拾得が加わり物語化がまします。
 この詩で、寒山の住み暮らすぶりは、来た路を忘れ去るほどですから、それは、悟りきった世界にして、何ものもつけ込む余地のない世界にたとえられています。こうしたの寒山の精神世界に、拾得が登場させて、寒山を、奥深い山の中から手を携えて下り来させようとするのが、この宏智の詩となっています。

 話は変わって、釈迦三尊像とは、お釈迦様に文殊菩薩に普賢菩薩を指します。この詩において、寒山は智慧第一の文殊菩薩にたとえられ、拾得は慈悲第一の普賢菩薩にたとえられています。澄み切った世界に暮らすことを、独りよがりとみて、こうした世界に暮らすことの是非を宏智は問題にしているのです。これぞ大乗仏教の説くところなのですが、実際となると、修行道場の老師でないと、なかなか……。 

 政治と庶民の生活を考えてみると、智慧第一を、官僚の机上の政策にたとえてみると、慈悲第一は、庶民の暮らしとなるのでしょうか。庶民の暮らしは喜怒哀楽であり、その観察するところは机上の政策です。机上の政策は人が喜怒哀楽を生きる知恵となってこそ智慧の真価が問われます。拾得の詩のようにです。

《この世に生を受けて、楽しきことを考えるとするなら、それは山居することだ。
 木々が咲かせる花々は、錦に似て、心を華やかにする
 四季ごとに見せる 姿はいつも身をすがすがしくさせる。
 あるときは渓谷の巌(いわお)に坐り、迫りくる緑に眼をさらす。
 こうして、のどかに、楽しんでいるようではあるが、
 心では、そこに留まれば留まるほど人々のことを想う》

 拾得の詩は、智慧第一の世界をもつがゆえに、慈悲第一の世界が見えてきます。そこで寒山が言うには、いたずらに争い競うことをす、べきではない《仏は説けり もと平等にして 総て真如の性ありと ただつまびらかに思量せよ》と。
(岩波書店 中国詩人選集 『寒山』を参考にしました。)

 モノが見えるということは、視力があり、認知する機能があり、それを記憶する機能があり、判断する機能がなければ、成り立たない。しかし、見えているからといって、見えないことがたくさんあるのです。もっと見たい。そして総てを見通す術を手にしたいと、誰もが思うことでしょう。

 人を見る時、真正面から見れば、長四角の彼、上から見れば、真丸の彼、斜め上方から見れば、楕円形の彼、受け入れられる彼は長四角だが、怖いと思う彼は真丸の彼、彼の全体は円柱のように、人は見る角度によって、装いが違うものです。
 見えたり見えなかったり、虹にたとえて、実は、探している真実は、その彼方にきっと在るのではないかと………。
しかし、それが虹の姿だとしたら、……。



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