目次
輝いている時
夢中(ゆめのなか)
芝浜
江戸っ子
亀住町(平成13年7月1日)
モンセ・ワトキンス~夢のゆくえ~(平成14年1月3日)
新牌開眼
英霊(平成17年5月23日)
目覚め
よわい「齢」
また始めたらよい
三大聖樹(平成19年4月17日)
滅度(平成19年9月18日)
安住の地(平成20年11月15日)
心眼(平成22年3月1日)
とかくこの世は
とかくこの世は
祈り(平成17年11月29日)
品位(平成18年1月20日)
ニャンニーシンズ(平成18年3月1日)
鍵(平成18年4月25日)
チベット(平成20年5月1日)
SYOHOU
諸法
四十四の問い~ミヒャエル・エンデ
先ゆく輩
さき行く輩
祖師年譜
ダルマ
慧可
五洩霊黙和尚
石鞏慧蔵禅師
大珠慧海禅師
西川の黄三郎
馬祖道一禅師(馬大師)
五百生 百丈和尚
大梅山法常(752-839)
麻谷山宝徹禅師(平成12年1月27日)
鎮州普化(ふけ)和尚
寒山・拾得
虹の彼方に
ヘイヴン・ペックの場合―続貧しいけれど、豊かだった―
生前葬
平和を我らにーGIVE PEACE A CHANCE(平成13年10月31日)
ソクラテスとヤージャニダッタ
蓮(平成14年6月2日)
心-KOKORO(平成14年6月25日)
独り暮らし(平成15年4月12日)
老いが、咲いていた!(平成16年7月5日)
深濱-fukahama
死に顔
松山鏡(ソクラレストとヤージャニダッタの続き)
真ん中(平成20年4月1日)
百万回いきたネコ(平成21年1月1日)
夜来る鳥(平成21年1月1日)
だいじょうぶ、だいじょうぶ(平成21年2月1日)
無常への帰依
無常への帰依
希望(平成12年1月2日)
葬式坊主
泥棒
赤とんぼ
老い
……ロス
後姿
寿陵
ついで参り
目標
六道を行く
もの言わぬ羅漢達…揀択をこえて…
宮本武蔵
五合庵断章(平成10年10月17日)
K子さん!(平成12年7月19日)
今は昔
十一面観世音菩薩
尽七日忌(平成19年5月1日)
OSYOU
OSYOU
この手のひらに―禅僧の死―(平成10年11月18日)
戒(平成10年7月25日)
幽霊
みんな仏教徒(平成10年5月27日)
最後の晩餐(平成10年5月23日)
禅問答(平成10年5月31日)
分銅
天国は汝ら自身に宿る(平成10年11月24日)
宗派
穢れ(平成12年8月30日)
お彼岸
仏心
仏心
ご祈祷
施餓鬼会にて(平成17年5月28日)
永遠の命
輪廻する葦(平成10年5月27日)
連鎖する命(平成10年6月2日)
涅槃(平成10年8月12日)
鏡(平成10年7月25日加筆)
流星
TAO(平成11年1月3日)
四大
挨拶
冥福
盂蘭盆
祈り(平成14年7月4日)
仏事歳時記
再び 最後の晩餐
この手のひらにII(平成18年11月18日)
死んで生きる智慧(平成19年3月27日)
五百生(平成19年11月20日)
破地獄偈(平成20年5月24日)
この指止まれ
この指止まれ
家族と家庭(平成11年1月5日)
導師(平成11年2月26日)
家から個人へ、そして家族・友達へI
家から個人へ、そして家族・友達へII
脳死そして臓器移植(平成11年3月2日)
独り決めの生き方
僧堂I
僧堂II
僧堂III
恥じ
僧堂IV
返事
父殺し・母殺し・友だち殺し・子殺し(平成20年1月1日)
その後
その後
ほとけさま(平成17年5月1日)
仏が仏に合掌する
戒名(平成12年3月14日)
無用の用(平成12年2月21日)
世話
大きく育て!(平成11年1月18日)
しもべ(平成10年11月7日)
電話(平成10年8月22日)
意思
寡黙
妄想(平成10年8月2日)
川(平成10年8月22日)
風如(風のように)(平成10年6月18日)
追悼(平成10年5月27日)
受容(平成10年6月18日)
蒸発
臨終(平成10年6月8日)
外道
障子(平成13年3月10日)
日月(にちげつ)
年寄りの出番より
人生とは、闇を照らす一瞬の蛍の光
時の旅人
時計(平成12年1月3日)
星(平成11年10月15日)
溝(平成11年8月2日)
過去心…念の起こる処(平成11年6月19日)
与える時間(平成11年5月24日)
桜(平成12年3月2日)
無常(平成11年4月16日)
川(平成10年9月17日)
有時(時の構造)(平成12年2月5日)
時の旅人(平成12年2月1日)
揺れる木々の葉
この人生の速さはなんだ(平成14年12月26日)
法句経より-時の旅人(平成15年2月4日)
寂然不動 如春在花(寂然不動、春の花に在るが如し) (平成16年9月19日)
ZENGO
自立
橋は流れて(平成10年9月18日)
無事
過去(平成10年5月23日)
たまごっち(平成10年5月23日)
一衆觸礼(いっしゅうそくれい)
六道を輪廻する
二人三脚
生老病死
筋肉番付
ポケモン
俺は、親馬鹿か!
塵も積もれば山となる
生と死と永遠
最終章
一章
二章
三章
四章~(未完)
時間旅行
時間旅行
命の歌-母の短歌
礎-いしずえ-
離魂(平成19年8月25日)
海辺橋
海辺橋
ふるさと(平成18年3月4日)
千の風(平成18年9月16日)
人の道(平成18年9月18日)
あなたは、いつから、一年が始まりますか?(平成20年8月1日)
前住職 二十三回忌にて(平成20年9月1日)
平成21年お施餓鬼会を振り返って(平成21年6月1日)
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大珠慧海禅師

大珠慧海(だいしゅえかい)禅師

 諱は慧海、福建省の人。姓は朱氏。越州(淅江省紹興県)の大雲寺の道智和尚のもとで出家、得度したという。大雲寺は戴初元年(690)則天武后の勅願によって全国各州に建てられた寺で、大雲経にちなんで付けられた名であると言う。

 大珠は、馬祖について六年間修行したが、道智和尚が年を取って体が弱くなったので、大雲寺に帰って、この寺で一生を過ごしたらしい。

 『頓悟入道要門論』一巻を撰した。平野宗浄師によれば、「著者は、馬祖下の大珠慧海とされているが、その論法からすれば荷沢神会の影響が強く、また『無心』という語の用法からみれば、牛頭禅の影響も考えられ、その成立が神会時代かと疑われもする」と書いていました。確かに馬祖は、語録の中で『無心』という言葉は一度も使わないが、雑貨鋪といわれたくらいである、様々な面を対する人によって見ることができる。

 大珠は江西に至って、馬祖に会う。
 馬祖、「何処からきた」
 大珠、「越州大雲寺よりやってまいりました」
 馬祖、「何を求めている」
 大珠、「仏法を求めてきた」
 馬祖、「自分自身の宝を省みず、家をほったらかしてあくせくして、どうしようとするのか?私の所にはそんな者あるわけはない。どういう仏法を求めようとするのか」
 大珠は礼拝して更に聞いた。「何が私の、宝でしょうか?」
 馬祖、「今、私に問うもの、それこそ貴方の宝ではないか!総ては備わって、欠けているものは何もなく、自由に使いこなせるのに、その他に何を外に求めようと言うのか」

 今まで自分自身に付き纏っていたモヤモヤが吹っ飛び、知覚によらないで、おのれの本心を知ることは、ことの真理が大珠を貫いたことでもあり、一辺に諒解した大珠は高らかに喜び、愉快でしょうがなかった。馬祖に感謝し、その後六年間馬祖に師事した。
 やがて、受業の師が年老いたことを知った大珠は、急いで大雲寺に帰り、師を介護した。その後、姿を隠し、ひそむかのように愚かさを養った。その間『頓悟要門』一巻を書き上げた。
 ある時、法系では従兄弟にあたる玄晏が、その『頓悟要門』を持ち出し、江西の馬祖にお目にかけた。馬祖はこれを読み終わると、
 「越州には大きな真珠がある。円く大きく輝いて、自在にして、さえぎられるところがない」
 それを聞いた僧の中に、大珠の姓を朱と知っているものがいた。それぞれが誓い合って、越州の大雲寺を目指してきて、入門したという。
 この時より、大珠和尚と呼ぶようになったと言う。
 大雲寺に住持してより、様々な説法が記録に残されている。後年の黄檗の『伝心法要』に似て、知的な問答に満ち溢れて、理論的な問答は非常に解り易く、どうしてあまり評価されないのか不思議でしょうがない。どちらかと言うと、親の子どもに教えるに似て、親切で学者肌の人のように見受けられる。

 馬祖の”即心即仏”の問答を、大珠が扱った話です。
 他に大雲寺の寺男が質問した。「心がそのまま仏だと言いますが、いったい自分のどの心が仏なんでしょうか?」
 大珠、「仏でないと疑っている心を示してみよ」
 寺男、言葉が出ない。
 大珠、「了解すればあらゆるものが、世界が仏であり、心である。悟らなければ永久に離れたままだ」
 大珠、「仏のはたらきをするのが仏性であり、賊のはたらきをするのが賊性であり、衆生のはたらきをするものが衆生性である。性に姿形はない。その働きに応じて名を設けるだけである、経にも言っている『すべての尊敬すべきすぐれた人々は、涅槃の悟りを持ちながら、しかも差別の世界にいる』と」
 ”即心即仏”を、大珠は細かく説明をしてくれる。大梅法常禅師と同じく大珠も”即心即仏”で生涯ひたすらに通した人でもある。
 大珠、「明日があることを信じるか」
 僧、「信じます」
 大珠、「明日をここに持ってきてみよ」
 僧、「明日は有るのですが、今は持ってくることはできません」
 大珠、「明日はつかみとることは出来ないけれども、これは明日がないわけではない。目が見えない人は太陽を見ることが出来ないが、太陽がないわけではない。今日が明日をつかみとることが出来ないのと同じに」
 大雲寺で後年、馬祖との思い出を語る場面がある。

 「”江西和尚の貴方の心には一切の宝が備わっていて、もともと自由自在ではないか。外に求むることをやめよ”と聞かされてより、私はすぐさま楽になり、自己に随う宝をひたすら受用している。まったく楽しい。私の心や法の、何一つ取るべきなく、何一つ捨てるべきものなく、何一つ生滅の姿を見ず、何一つ去ったり来たりする姿を見ず、あらゆる世界に何一つ自己の宝でないものはない。くわしくおのれの心を観察しなさい。あらゆるものは自ずから現れて、疑うべきものはない。思い煩うな。探し求めるな。華厳経の”総てのものは生ぜず、総てのものは滅せず”と言うが如く、このように解ったならば、あらゆる仏が現れるだろう」

 語録の中で馬祖を語る言葉は数少ないが、大珠の言葉を知ることによって、馬祖の一面をまた知ることが出来る。馬祖の語録には、こういった語り口はほとんどないのだが、同年代以前にある語録にはかなり多い。逆にこのことは馬祖のいかに優れた禅者かを知ることが出来る。
 大珠の語録には、神会の語録や経文(維摩経・金剛経・涅槃経・楞伽経・華厳経・起信論・法華経)が随所に出てきて当時の時代や禅の姿が伝わってくる。また人物では下巻に、律者・行者(あんじゃ)・学徒・法師・大徳・俗人・座主・宿徳(高徳の僧侶)と多くの当時代の知識人が登場することも面白い。

 大珠の言葉の光るところは、「畢竟空の中において、湧き上がるように大慈悲を建立するもの、それが真の智慧あるものの姿だ」という言葉だ。
 ”維摩経”の「空無を観ずれど、しかも而も大悲を捨てず」という文面を思い出してみれば、『大悲心』こそ、人にとって大切なかけがえのないものであると言う大珠の言葉は、跡に連なる我々の忘れてはならない言葉です。

 大珠の問答に理解できずに立ち去る人に、大珠慧海和尚は話しかける。
 「立ち去ってゆくもの、それが貴方の道ですぞ!」

西川の黄三郎

西川の黄三郎

 『西川に黄三郎という、年寄りがいた。
二人の息子を、馬祖にもとで、出家させた。息子たちは、一年が経つと、郷里に帰ってきた。その姿を見て、二人が生き仏のように思えて、礼拝して、言った。

 「古人道(い)えり、我を生む者は父母、我を成す者は朋友」と。そして、
 「これなんじら二人の子の僧は、朋友なり。私を取り持たせてくれ」と。子供たちは、
 「お父さんは年をとっているとは言え、もしその志さえあれば、何の難しいことはありません」と、云った。お父さんは歓喜して、早速、俗人の姿で、二人の僧と共に、馬祖ののもとへと参じた。
 馬祖に、このことを話すと、馬祖はすぐさま、法堂に上がった。
 黄三郎は、馬祖の前に進んだ。
 馬祖「これ!西川黄三郎!お前がそうか?」
 黄三郎「恐れ入ります」
 馬祖「西川より此処に至って、黄三郎は、今、西川にいるのか?洪州にいるのか?」
 黄三郎「家に二主なく、国に二王なし」
 馬祖「年は、幾つだ?」
 黄三郎「85歳になります」
 馬祖「そうだろうが、何の年齢を数える」
 黄三郎「もし、貴方様にお会いできなかったら、虚しく一生を過ごすことだったでしょう。大師にお会いしてからは、刀で空を鋭く断ち切るようです」
 馬祖「もしさようならば、いたる所、ありのままだ」』

 西川(せいせん)の黄三郎という名前は妙に、呼び安い名前であるが、西川とは四川省の地を指すらしい。その他のことは一切不明の人物である。
 列記とした馬祖の弟子であるが、85歳になって馬祖に投じたというから、余程の気力と体力の持ち主だったのだろう。変り種なのは、息子二人を、自分より先に馬祖の門下生にして、その成長を確かめてから、息子達を先達として、入門を果たしたことだ。

 それにしても、よく考えてみれば、子供があるということは、奥さんがいたことになり、子供も二人より他にいたかもしれない。一家を養っていたことは、確かなことであると思える。農夫をしていたのか、漁師をしていたのか、あるいは牧童等考えられる。どんな家族に支えられながら、この時代を生きていたのか、85年の年月を考えると、はてしない年齢だということがわかる。おそらく、その年齢は自分の老い先短い時間を、十分覚悟してのことだと思う。

 馬祖と黄三郎との何がしかの繋がり、あるいは評判等の条件がなければ、息子達を馬祖に、差し出すことはなかっただろう。馬祖に師事するという決心は、息子達の姿、言葉、佇まいを信じて、故郷を去って、始めからやり直すという気持ちの吹っ切れを起こさなければ、旅に発つことはことは、できないのではないか。自分の手を見たとき、その皺だらけの手に、年輪を感じ、旅立ちてよりの、道を考えれば、たどり着くことに不安はなかったであろうか?
 その当時の若者の目指す夢は、都の官吏であったことは間違いがない。当時、禅を極めようとするか、乃至、事の本質に迫ろうとする雰囲気が、社会にあったのだろうか?

 出家するということは、家を捨てるという意味であり、家は親、兄弟、親戚、知人を含んでのことだ。仏教界自身も世俗的な社会の反映である。唐代の禅界とは、まったく異質な世界であり、かけ離れていることは確かだ。しかしながら、我々が生きて護持しているからこそ、昔も保たれているとも言える。

 寺に住むようになって、私は、寺の在り方をいつも考えている。今のままで良いのだろうか?寺の外からの眼は、鋭い視線を持っている。また要望は、もはやそう多くないように思える。その責任は私たちにもある。神社仏閣の、歴史的価値は大きな意義を持っているだろう。しかし、中身は、今……。私達は、どう仏道を、生きているだろうか。必要にされているのだろうか。それはおのれ自身の足元を、つぶさに見つめることより始めることしかないのだろう。

 私の住職としての使命は一つは、次の世代への寺の存続である。伽藍の伝承ばかり考えないで、内容の伝承を、次の世代に気づいて欲しいものだ。そうでなければ、家の考え方そのものとして二重に映るだけになってしまう。現代の出家は、過去の僧侶と比べると、変貌している。深く反省する事も多いが、違った側面を持つことが、複雑にさせる。
 それならば、今の姿を、繕いながら、何とか容(かたち)あるものにと思う。
 仏教は、今の時代を貫く指針と価値観を、充分に持っている。否、仏教こそ、時代が変っても、普遍を表現している宗教は無いと、固く信じているのだ。

 早く急がなければ、名を代えた続くはずもない永遠を求めて、彷徨っている私とも、サラバだ。
 黄三郎から見た、若者の僧の姿は、生き仏のように、清潔感にあふれ、神々しく、黄三郎は感動した。さらに、自分もそのような姿に、憧れたのだろうか。否、そうではなくて、85年という年月が、無駄ではなくて、価値ある無駄と実感したのかもしれない。子供たちに礼拝するということは、心から素直さを表現した証明なのだと思う。
 85歳の年齢を考えると、黄三郎の心は、なんと若々しいことか。
馬祖の、「西川より此処に至って、黄三郎は、今、西川にいるのか?洪州にいるのか?」の問いは、
85年間の西川と今の洪州を量る問いだ。

それに対し、黄三郎の答えは、「家に二主なく、国に二王なし」と、『礼記』よりの引用の言葉だ。「民に君臣の別あるを示すなり』と結ぶその語は、馬祖への帰依を示すと同時に、西川も洪州も通り越した、黄三郎それ自身の産声に、思える。
「刀で、空を鋭く断ち切る」ことこそ、存在そのものを断ち切ることであり、もはや、虚空もなく刀もない、黄三郎の、すがすがしい心境なのだろう。それでこそ、馬祖は、黄三郎を認めたのだ。
 自分自身を、黄三郎に置き換えてみると、虚空を切ることこそ、大切なことがわかる。

馬祖道一禅師(馬大師)

馬祖道一禅師(馬大師)

南宗禅は六祖恵能大師より神会(荷沢宗)―法如―南印―道円―宗密と、南岳―馬祖(洪州宗)―百丈―黄檗―臨済に分けられた。南宗禅の神会を主流とすることは、宗密の出現によるところが多いが、後世になってみれば、洪州宗系の禅が残ったことを考えれば、南宗禅本流の北宗禅を退けた経緯を見れば、退けることはいずれ退けられる運命に当たるということになり、歴史の不可思議な歩みを感じます。

 馬祖を語るには、その前に達磨から二祖慧可、三祖僧サン、四祖道信、五祖弘忍、六祖恵能、南嶽懐譲(677―744)と馬祖に続く系譜を知らなければ、馬祖の世に出現した意義と、臨済から現代の臨済宗へと連綿と続く歴史の流れがわからない。時には臨済から流れをさかのぼることも必要であると同時に、多くの馬祖の弟子達にスポットを当てることによって、馬祖がいかにとてつもなく大きな存在であったかがわかると思うのです。

 雑貨鋪と言われるくらい、あらゆる側面をちらつかせる馬祖、そして、そのそれぞれの側面を、弟子達が奪い取り、そして更に磨きをかけたことを思えば、弟子達を語ることによって、馬祖を語ることができると思います。また、この時代に馬祖と並び南嶽に石頭希遷がいたことも大切なことです。700里隔てた所に、石頭がいたことにより、馬祖も石頭もともに違いを表明できたことになります。
 馬祖の弟子や法友達を挙げてみれば、麻谷宝徹、趙州、百丈、大梅山法常、西堂智蔵、西川の黄三郎、丹霞天然、五洩和尚、汾州無業、亮座主、ホウ居士、大珠慧海、石鞏慧蔵、塩官斉安達です。

 そして時代を経て今の私に連なる祖師達は、
百丈懐海、黄檗希運、臨済義玄、興化存奨、南院慧ギョウ、風穴延沼、首山省念、汾陽善昭、石霜楚円、揚岐方会、白雲守端、五祖法演、円悟克勤、虎丘紹隆、応庵曇華、蜜庵咸傑、松源崇岳、運庵普巌、虚堂智愚、南浦紹明、宗峰妙超、関山慧玄、授翁宗弼、無因宗因、日峰宗舜、義天玄承、雪江宗深、悟渓宗頓、獨秀乾才、仁岫宗寿、快川紹喜、状元祖光、智門玄祚、大愚宗築、西江宗蘂、隠嶺梵阿、江巌祖吸、文室祖郁、錐翁恵勤、大室祖昌、華山要印、方充祖丈、乾梁祖廉、屠龍宗牙、照道恵静、雪傳文可、モウ田恵蒭、圓瑞宗玖、雪川惟整、清川恵廉、元峰エイ一、雅山宗直です。
総勢52名というすごい数の祖師たちです。そして彼らの法友達を数えれば、更に増えます。また臨済宗の僧侶は必ず専門道場で修行をしなければ、僧侶としての資質を備えることが出来ないわけですから、その法系は別にまた有ることを思えば、途方もない数字になることになります。

 馬祖は四川省什方県の人であり、故郷の羅漢寺で出家したとあります。西暦709年から788年の生涯とありますので享年79歳で、日本では平城京から長岡京遷都の間ぐらいの時代に当たります。古事記や日本書紀や万葉集が作られ、大仏開眼、唐招提寺建立、延暦寺建立と国家と仏教の関係がより密接になり始まる頃です。

712年から756年が唐の玄宗皇帝の治世ですから、唐が最も栄えた頃と言っても良いでしょう。
 容貌は奇異な感じがしたとあり、牛のように歩き、目は虎の目のようだったとあります。舌を出せば鼻に届き、足の裏には二輪文様があったといいます。不思議なことに、この容貌から雑貨鋪・よろず屋というイメージはどうしても湧いてきません。雑貨鋪というイメージには、あらゆる変化に対応する内面性を持つことに思えるからです。牛のようにのっそりと歩き、虎の目で人を射抜き、萎縮させるイメージが強く、まして容貌が奇異な感じで、背は高くとなると、人は近づきがたいのが正直なところです。しかし時代と場所が違うことを考えれば、納得はいかないけれども、やはり違うのかもしれない。人となりは慈悲深く、首には三つのくびれがあったといいます。

 容貌の怪異さは後世に、伝奇的な神聖犯さざる地位に祭り上げるものです。しかしながら、当時を想像してみれば、人が集まるということは、山賊の集団ではないのですから、滋味に満ちた多くの人を受け入れる、厳しさと寛容さを持っていたと思うのです。実際は何処にもいる普通の親父だったのかもしれない。そんな親父が、ひなびた水田を水牛と共に耕作している姿を描いてみれば、のどかな時と安らぎの情景が思い浮かぶ。しかし、世間では奢侈に狂奔し、都を目指す若者の群れ、経済は中に疲弊を含んで、将来に黒雲を到来する予感に満ちた世界だったりして。

 幼いとき資州唐(徳純寺処)和尚(669-736)のもとで、髪を剃り、四川省巴県の円律師に具足戒を受けたとあります。そして唐の開元年間、衡岳(こうがく)(湖南省衡山)の一峰、祝融峰の前にある福厳禅寺、伝法院にて座禅を修したとき、師の南嶽懐譲(677―744)に出会ったとあります。
 『心地は諸種を含み、沢に遇うて悉く皆崩す。三昧の華は無相なり、何ぞ壊し復(また)何ぞ成ぜん』の詩は、南嶽が馬祖に与えた伝法の偈である。そして馬祖は、南嶽に10年間仕えたという。
 後、福建省建陽県の仏跡嶺に住んだ。そして江西省臨川県(743)に移り、江西省南康県キョウ公山に至った。大暦年間、洪州開元寺の住持となった。
 馬祖が住持となってしばらくすると、南嶽が弟子を遣わした。弟子は南嶽に言われたとおり、「どうですか」と問うた。
 馬祖は、「どうやら30年、塩と味噌は切らしたことがありません」
 これを聞いた南嶽はうなずいたと言う。
 達磨の二入四行論に「心は自ずから心ならず、色に由って心を生ずるを、名づけて色界と為す。色は自ずから色ならず、心に由るが故に色なれば、心と色との無色なるを、無色界と名づく」と、あります。

 同じ内容を、馬祖は「あらゆる目に見える事象(色)はみな心が現れ出たものである。心それ自体で心であるわけではない。事象に因るから存するのである。こうと解れば、事がら自体がそのまま真理なのであって、そこに何の隔てもない。心が生み出すものを現象というのであり、しかもその現象が空であることを知っているから、生じるといっても、実は生じていないのである。ここのところが解ったならば、その時々に衣を着たり飯を食ったりして、流れのままに暮らして行くことができる」と言い、さらに「現象世界を否定もせず、絶対の境地に安住もしない。現象は絶対の側から働き出したものであり、絶対は現象の側のより所である。そしてその絶対のより所にとどまらない」と言います。

 何時いかなる時も、虚空のように、寄る辺なき所をより所として、自己の本性のままでいることを出家の有るべき姿と馬祖はとらえます。あらゆる現象は本性より生じたものとすると、その現象をどう処置していくかが、問題になると思うのですけれど、我々には至難のことに近いのです。
 達磨から引き付いた教えを、実生活に活用し、しかも新たに、不生禅に発展させる種を含んでいる、そんな馬祖の有名な言葉、『平常心』は、今私達は頻繁に使用する言葉ですけれど、考えてみると、内容はお粗末な限りです。

 つまりは、平常心とは、道のことであり、法のことであるという。
 「造作なく、是非なく、取捨なく、断常なく、凡なく聖なし」であり、そしてこれに違うことを、汚染と言い、そのことは、生死の思いがあって、あれやこれや造作したり、目的意識を持ったりすることであると言います。
 また、「あらゆる法は全て心に由来し、あらゆる名は全て心の別名である。心がありとあらゆる法の根本である」そして「あらゆる法は全て仏法であり、そのさまざまな法そのものが解脱である」と言います。
 そして解脱した私とは、「真実を離れて己の在りかたがあるのではなく、己の在りかたがそのまま真実なのであって、全てはこの己の本体なのである。もしそうでなければ、いったい誰だというのか」と、1000年以上の時を隔てた私達に、語りかけてくれます。
 馬祖の法を継いだ、趙州の言葉です。「何か有れば、考えればよい。何もなければそこらに坐して、理を極めればよい。老僧行脚の時、食事を除いて、その他はさらに用心することはなかった」
 『あるがまま』の当体が、在るがままに日常の動作に活躍します。
 では道に迷った人はどうすればよいのでしょうか。
 「道に迷った人は、方角や自分の居所を見分けることは出来ない」と、馬祖は言います。これは、迷った人の正体を見極めなければならないということでしょう。迷いを苦しみとしたら、その苦しみの当体を見極めることから始まります。あくまでも自分で一つ一つ気がつかなければ、超えることは出来ません。
 こんな話があります。
 ある日のことです。厨房に用事をしていた僧に、馬祖が問うた。馬祖「何をしている」。僧「牛を飼っています」。馬祖「どういう風に飼う」。僧「叢に入ってゆこうとすれば、鼻輪をつかんで、引っ張ります」。馬祖「汝、放牛は、本物だ」
 草を、無明煩悩に。厨房の仕事を、放牛に喩えて、十牛図を考慮してみれば、日常の何気ない問いかけが、いたる所で行われていたことがわかります。

 洪州の水老和尚が、馬祖に参じた。水老「如何なるか、達磨がこの土地に来たった、真の意味は」と、問い掛けた。馬祖は「先ず、礼拝せよ」。水老和尚は、礼拝した。馬祖は、すかさず水老を蹴った。ポーンと蹴っ飛ばされた水老は、瞬時に徹通し、起き上がった水老は、手を叩いて大笑いした。今まで積み重ねて研鑚した妙義が吹っ飛んで、全身に世界が覆い被さったかのように、大悟した。礼拝の場面は、ことの他、伝わった話に、機鋒が鋭いものが多いような気がする。そして、一回目の礼拝と、二回目の礼拝に、礼拝自体に差は無いが、内容に大きく違いがあるのが、おもしろいし、二回目の礼拝は、教師に殴られて、恩師のあり難さを思う、昔の学生を思ったりする。このように、馬祖の機鋒は、その人により、鋭く妙を得た接し方があるかと思えば、日常における接し方は、借りて来た猫のような話もある。

 南泉が僧達のために、朝、給仕をしていたときのことである。馬祖が聞いた。馬祖「桶の中は、何だ」。南泉「この親父、口を結んで、何をか云う」。馬祖は次の言葉がでなかった。
 桶の中身を、南泉の迷い、怒り、躊躇と考えてみれば、底を打ち破ることが修行であるから、南泉の心境を問うたことになる。それに対する南泉の答えは答えに物ともせず、鋭く、馬祖を寄せ付けない。馬祖の問いかけから転じた、好々爺の姿が眼に浮かぶようだ。

 馬祖は、手放した弟子達に厚く心を配る。
 『馬祖が百丈に手紙と醤(ひしおみそ)を三甕送った。百丈は法堂の前に甕を並べ、大衆が集まってきたとき、杖で甕を指し、「真に言うことができたら、打ち割らぬ。言うことができなかったら、割る」と、言った。誰一人何も言わなかった。そこで百丈は打ち割って、方丈に帰った』(四家語録・広灯録)
 この話は、やがて南泉普願禅師の有名な『南泉斬猫』に発展するかのようです。南泉普願禅師は馬祖の法の、働きの部分で、その活躍の究極の人です。
 馬祖は貞喪4年戊辰の年、2月1日遷化された。
 貞元4年正月、建昌の石門山に登り林の中を歩いた。そしてとある洞窟に至り、平らなのを見て、侍者に言った。「私は、来月この枯れた体を携え、この地に帰ることにしよう」
 やがて、馬祖は、病に臥した。
 枕もとで、院主が尋ねた。「体の具合はいかがですか」
 馬祖は、「日面仏。月面仏」と答えた。

 2月1日、身を清めて、座禅を組みながら、入滅したとある。年は80歳であり、法臘60年であったという。塔は石門山下に宣宗が江西観察使の裴休に勅して宝峰寺建てさせ、荼毘にして、境内に埋葬した。

五百生 百丈和尚

五百生 百丈和尚

 これは、今から1200年以上前、百丈懐会禅師の話しです。中国は、唐代中頃のころの話しです。まだ日本には、本格的に禅が伝わっていません。中国でのことです。馬祖道一(ばそどういつ)禅師→百丈懐会(ひゃくじょうえかい)禅師→黄檗希運(おうばくきうん)禅師→臨済義玄(りんざいぎげん)禅師となって、臨済宗は始まります。その源をたどれば、馬祖の遙か前に、達磨がいて、釈尊がいることになります。
 この頃になると、大勢の雲水を抱える修行の道場は、たとえ山深い人里離れた場所であっても、まかないの惣菜(そうざい)など食糧の多くのものを自ら造って、活気のある生活をしていました。
 畑には、多くの野菜、お茶、牛を飼い牛乳を生産していたのです。きっと、かまどにはには、一日中、煙が絶えることがなかったことでしょう。
 もちろん、薪の切り出しや運搬も、雲水という修行僧の役目でした。きっと汗にまみれて作努をする雲水は、汗くさかったし、衣服を買うこともままならなかったほどに、僧院は、多くの人をかかえていたと思われます。

 こうしたの禅宗の修行生活の基礎をつくった人物が百丈和尚です。百丈和尚が若かりしとき、あまりにもぼろの衣と汗くささに、図書館の官吏は、経本の閲覧を拒んだと記録にありますが、身近に感じる故事です。
 「一日なさざれば、一日食らわず」の言葉は、この百丈和尚の言葉で、大勢の雲水の集まりの中で、働かなければ生きて行けなかった環境があったのだろうと思いますが、それだけではなく、みずからを律し、人々のために働くという慈しみが感じられ、親しみが湧きます。
 釈迦が、涅槃におよんで説いた暗闇の灯火、貧者の宝珠として戒めは、田畑を耕し、家畜を飼い、草木を伐採し、収穫をあげ、医薬をつくること等、ことごとくこの時代頃より遠ざけられたのでした。多分、釈迦時代のような、大檀越が少なかったのかもしれません。その結果、集団を運営する経済感覚が養われたのだとも思われます。

 典蔵(てんぞう)という賄い係、副司(ふうす)という経理係、維那(いな)というお経係、知客(しか)という運営統括者、侍者(じしゃ)という衆僧接待係、直日(じきじつ)という衆僧統括者等という制度が確立されたのも、この百丈和尚の頃でした。僧院の衆僧全員により、助け合って働くことを、普請といいますが、この百丈和尚の言葉のようです。修行道場にて、頻繁に行われる総茶礼(そうざれい)は、修行者全員でお茶を喫することですが、働くだけではなく、その場に集う全員でお茶を喫することその中に、お茶を通して意味が生じます。「お茶にしよう!」と。知らず、この時代の言葉を我々も受け継いでいます。

 また、禅には、『道中(作務を含めた行為による)の工夫』という言葉があります。それは、『靜中>坐禅によるの工夫』に勝ること百千倍というごとく、作務という行為を通して、心を耕し、人を耕すということを発見したといえるでしょう。
 禅宗の規則という厳格さと道場の静寂は、常に心を耕しながら真を求めてやまない雲水の姿がある故です。托鉢するおおくの修行僧の雁行も、ホーホーというかけ声のなかにも、静けさが表れています。この修行道場の制度が合ってこそ、禅宗は保たれているといっても過言ではありません。この修行道場の制度を作られた偉業の人物こそ、百丈和尚でした。

 そんな多くの衆僧が集う僧院で、衆僧を指導する百丈和尚は、毎日、多くの修行者に法を説き、巧みに問答を仕掛けます。
 あるとき、百丈和尚は、いつも説法をしているとき、一人の老人がそっと話しを聞いていることに気がつきました。毎日のことでしたが、衆僧が退くと、知らず老人の姿も消えていました。
 ある日のことでした。衆僧が散々に散った後に、老人は一人のこり、百丈和尚の前に姿をさらしたのでした。
 百丈和尚は、「おまえは誰だ?」と問いかけました。
 すると、老人は答えました。
 「わたしは人間ではありません。はるか昔、それは迦葉仏(かしょうぶつ)の時代でしたが、この山に住んでいたのです。
 あるとき、修行者が、『修行を完成した人は、因果の定めに落ちるでしょうか?』と、たずねてきました。そこで私は、『因果の定めに落ちない』と答えたのです。
 それ以来、500生も野狐の身として生まれ変わりを繰り返しているのです。どうか和尚さん、わたしに替わって、この身を救うお言葉を、述べて頂きますようお願いします。」
 そして、百丈和尚に、たずねました。
 「修行を完成した人は、因果の定めに落ちるでしょうか?」
 百丈和尚は言いました。「因果の定めをくらまさず。」
 老人はただちに悟り礼拝しました。
 後日、百丈和尚は、修行僧に命じて、山奥の巌下に横たわる一匹の狐の骸を探し出し、亡僧の葬儀を執り行ったと言うことです。

 因果の世界とは、縁起の世界と同じで、今、わたし達が生きる世界に違いありません。この縁起ゆえに、今の私があると言えば、この因果こそ、今の私を現すものです。
 この故事に、飯田老師は、「老人何ものぞ、人にあらず、狐にあらず、神にあらず、仏にあらず、ただこれ因果じゃ。」と、今のこの私に成りきったなら、狐も人もないと、この一瞬を生きろ、因果そのものの中にこそ、おまえの生きる場所が在るではないかと諭します。別の言葉で言えば、今のあるがままのおまえ自身を、受け入れよということでしょうか。

 因果や縁起のない世界とは、神や仏の世界でしょうし、そこには、この問答のように、問うことも、答えることもありません。「狐が狐に安住して他をうらやまぬ時を仏と言い、人が人に満足せずして求めてやまぬ時を狐という」とは、これも飯田老師の言葉です。

 因果に落ちずに住むことで、長い年月の流転を繰り返し。くらまさないで、この繋縛が解かれます。共に答えであることが、ここに引っかかれば、因果に落ちるし、因果にくらまされると、迷妄の世界に入ってゆきます。
 500回は数えることに困難な数字です。狐だからこそ、人を騙そうとするのか?考えてみれば、百丈も狐に似て、人を迷わします。
 500回も繰り返して生きることができるならば、その500生の一生一生を充実して生きれば、この老人は多生の縁を、くり返し楽しんだはずですし、煩悩と菩提のあいだの往復を繰り返したはずです。
 何ともこの世は、変化に富んで面白く、不可思議で、解ろうとすれば、人や狐を迷わします。何度となく迷ってみなければ、解らないことかも知れません。
 「因果に落ちない」で、生まれ変わり。「因果の定めをくらまさず」に、死して、再びめぐる生のない所に行ったか、どっこい、狐はここにいる。

 多回生の世界観を持つことで、再生の願望が現れ、また一回生の世界観である涅槃や解脱が現れます。仕事にしても、全存在を通して、立ち向かってゆき至れば、最早、そここそじぶん自身の存在はありません。しかし、立ち止まってみれば、因果は巡る風車のまっただ中にいたことに気づきます。そして、その場所で、考えてみれば、因果の世界に迷うが故にこそ、智慧や慈悲が尊ばれる世界があるとみれば、もう一度生まれ変わって、狐となり、人となるのも人間の選択肢とみれば、案外と多回生の世界こそ、人を豊かにする世界なのかも知れません。

大梅山法常(752-839)

大梅山法常(752-839)

 大梅和尚は湖北省荊州の玉泉寺で得度したという。玉泉寺は天台智顗が建立し、神秀(606?-706)も住山したという。南嶽懐譲が出家した寺でもある。明州に生まれ、襄陽の人なりとある。浙江省に生まれ、湖北省の人であるということは、人生の多くの時間を湖北省で過ごしたのだろう。玉泉寺で数多くの経論を講ずとあることから、知識は豊かな人だったらしい。人生の知識が豊かなことは、その核心を持ってこそ、知識は揺らがないものだと思うが、大梅も知識を講ずることに違和感を覚えて、このままでははがゆく、心に突き動かされるかのように、各地を遍歴する旅に出ることになった。

 江西の馬大師の風評を聞くと、すぐさま江西に足を運んだ。
 江州の開元寺は、玄宗が開元26年(738)に、各州に一寺づつ建てた官寺でもあり、仏教を国家統制の下に組み入れる中心機関としたものらしく、つまりは、この時期にはすでに、禅宗は国家、皇帝にも受け入れられていたことになる。入室の弟子139名とあり、四方の学者が雲集したとあるので、かなりの数の人がいたことになるのであろう。

 馬祖の問答で有名な言葉は数多くあるが、その中でも『即心即仏』は、『非心非仏』と共に、解り易く、納得させられるものがある。だが、その馬祖は、「我が語をおぼえるなかれ」と、物まねを厳しく戒めた人でもあった。あくまでも個人の性そのものを主人公に、全体で働く自己の開放を弟子達に諭し、働く自己のそれぞれの責任において果たすことを示した。
 数多い馬祖の弟子の中で、「我が語を覚えるなかれ」という馬祖の言葉に向かって、一生を『即心即仏』で通した男がいた。大梅法常禅師である。

 馬祖のもとに赴いた。
 大梅、「仏とは、いったいどういったものでしょうか」
 馬祖、「貴方の心こそ、そのものだ」
 大梅、「その心をどうしたら、捕まえ、保てばよいでしょうか」
 馬祖、「よく護持しなさい」
 大梅、「法とは、いったいどのようなものでしょうか」
 馬祖、「貴方の心が、そのものだ」
 大梅、「達磨の意図は何だったのでしょうか」
 馬祖、「貴方の心こそ、そのものだ」
 大梅、「それでは、達磨に意図はなかったのですか」
 馬祖、「貴方の心の、法として備なわらぬ法もない、貴方の心をこそ見て取りなさい」

 大梅は言下に、この玄旨を諒解した。すぐに杖をもち、はるか雲山の景色を望んで、大梅山の麓についた時、この深く幽々とした山を我が棲家としようと踏み入るや、30年に渡り消息を絶つことになる。
 後に、塩官和尚に(塩官斉安 ?―842)付く僧が、旅の途中で山に迷ったとき、草の葉を衣服として、髪を長く束ね、粗末な小屋に住まう一人の老人に出会った。
 老人は僧を見ると、先に”不審”と声をかけた。老人は内心、自分のとっさに出た”不審”の言葉を叱咤した。出身を表す言葉であり、同時に言葉はクグモッタ言い方になった。僧はその意を図りかねたが、問いただすと、老人は「馬大師に見えたことがある」といった。
 僧は「ここにどのくらい居るのかと」と問うと、
 老人は「さあ、どのくらいになろうか?周りの緑が青くなり、黄色くなるを見るのみで30数回は数えたであろうか」
 僧は、老人に「馬大師のところで、何を得たのですか」と、うかがった。
 老人は、「即心即仏」と答えた。
 僧は辞すついで、「山を脱け出るにはどちらに行ったらよいでしょうか?」
 老人は、「その渓流の流れに従って去るがよいであろう」と言った。
 僧は、塩官和尚の元に帰り着き、山での模様を和尚につぶさに報告した。

 塩官和尚は、「昔、江西に居たときのことだ。一僧が馬大師に仏法と祖意を問うたところ、馬大師は”即心即仏”とお答えなさった。それから30年、その僧の行方はいまだに知れない。彼ではないだろうか?」。
 塩官和尚は、そこで数人の僧を遣わして、「馬祖は近頃、”非心非仏”と言い、”即心即仏”とは言わない」と、僧達に言わしめた。老人の元にたどり着いた僧達は言われたごとく、塩官和尚の言葉を老人に伝えると、
 老人は、「たとえ”非心非仏”と言おうが、私はただ一筋に、”即心即仏”で通すだけです」と言った。
 これを聞くと、塩官和尚は感激して、

 「西山の実は熟しておる。君らは、そこに行って思うがままに摘み取ってきなさい」と僧達をせき立てた。大梅の下には、2、3年のうちに数百の修行僧が集まったと言う。
 ”即心即仏”、それは、「君の心そのものがそれだ」「君の解らないと言う心そのものが仏性にほかならない」と言う言葉であり、”三界は唯一心”の経典の言葉を、自分の言葉に直したものである。”仏”や”法”を、自己や、世の中、迷い、あり方、有り様と様々に言葉を置き代えてみるとき、総ては「貴方のそのままの心、そのものが世界であり、自己である」という、総てを肯定的に認める大梅の心は、朗らかに大地を潤す。

『衆生病むがゆえに、われも病む』と言った、釈尊の心は、衆生の病む心そのものが、実は釈尊の心そのものであるということと、同じ意味を持つことを思えば、自分自身に三十有余年”即心即仏”で通す、大梅法常の”即心即仏”は光り輝く。


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