目次
輝いている時
夢中(ゆめのなか)
芝浜
江戸っ子
亀住町(平成13年7月1日)
モンセ・ワトキンス~夢のゆくえ~(平成14年1月3日)
新牌開眼
英霊(平成17年5月23日)
目覚め
よわい「齢」
また始めたらよい
三大聖樹(平成19年4月17日)
滅度(平成19年9月18日)
安住の地(平成20年11月15日)
心眼(平成22年3月1日)
とかくこの世は
とかくこの世は
祈り(平成17年11月29日)
品位(平成18年1月20日)
ニャンニーシンズ(平成18年3月1日)
鍵(平成18年4月25日)
チベット(平成20年5月1日)
SYOHOU
諸法
四十四の問い~ミヒャエル・エンデ
先ゆく輩
さき行く輩
祖師年譜
ダルマ
慧可
五洩霊黙和尚
石鞏慧蔵禅師
大珠慧海禅師
西川の黄三郎
馬祖道一禅師(馬大師)
五百生 百丈和尚
大梅山法常(752-839)
麻谷山宝徹禅師(平成12年1月27日)
鎮州普化(ふけ)和尚
寒山・拾得
虹の彼方に
ヘイヴン・ペックの場合―続貧しいけれど、豊かだった―
生前葬
平和を我らにーGIVE PEACE A CHANCE(平成13年10月31日)
ソクラテスとヤージャニダッタ
蓮(平成14年6月2日)
心-KOKORO(平成14年6月25日)
独り暮らし(平成15年4月12日)
老いが、咲いていた!(平成16年7月5日)
深濱-fukahama
死に顔
松山鏡(ソクラレストとヤージャニダッタの続き)
真ん中(平成20年4月1日)
百万回いきたネコ(平成21年1月1日)
夜来る鳥(平成21年1月1日)
だいじょうぶ、だいじょうぶ(平成21年2月1日)
無常への帰依
無常への帰依
希望(平成12年1月2日)
葬式坊主
泥棒
赤とんぼ
老い
……ロス
後姿
寿陵
ついで参り
目標
六道を行く
もの言わぬ羅漢達…揀択をこえて…
宮本武蔵
五合庵断章(平成10年10月17日)
K子さん!(平成12年7月19日)
今は昔
十一面観世音菩薩
尽七日忌(平成19年5月1日)
OSYOU
OSYOU
この手のひらに―禅僧の死―(平成10年11月18日)
戒(平成10年7月25日)
幽霊
みんな仏教徒(平成10年5月27日)
最後の晩餐(平成10年5月23日)
禅問答(平成10年5月31日)
分銅
天国は汝ら自身に宿る(平成10年11月24日)
宗派
穢れ(平成12年8月30日)
お彼岸
仏心
仏心
ご祈祷
施餓鬼会にて(平成17年5月28日)
永遠の命
輪廻する葦(平成10年5月27日)
連鎖する命(平成10年6月2日)
涅槃(平成10年8月12日)
鏡(平成10年7月25日加筆)
流星
TAO(平成11年1月3日)
四大
挨拶
冥福
盂蘭盆
祈り(平成14年7月4日)
仏事歳時記
再び 最後の晩餐
この手のひらにII(平成18年11月18日)
死んで生きる智慧(平成19年3月27日)
五百生(平成19年11月20日)
破地獄偈(平成20年5月24日)
この指止まれ
この指止まれ
家族と家庭(平成11年1月5日)
導師(平成11年2月26日)
家から個人へ、そして家族・友達へI
家から個人へ、そして家族・友達へII
脳死そして臓器移植(平成11年3月2日)
独り決めの生き方
僧堂I
僧堂II
僧堂III
恥じ
僧堂IV
返事
父殺し・母殺し・友だち殺し・子殺し(平成20年1月1日)
その後
その後
ほとけさま(平成17年5月1日)
仏が仏に合掌する
戒名(平成12年3月14日)
無用の用(平成12年2月21日)
世話
大きく育て!(平成11年1月18日)
しもべ(平成10年11月7日)
電話(平成10年8月22日)
意思
寡黙
妄想(平成10年8月2日)
川(平成10年8月22日)
風如(風のように)(平成10年6月18日)
追悼(平成10年5月27日)
受容(平成10年6月18日)
蒸発
臨終(平成10年6月8日)
外道
障子(平成13年3月10日)
日月(にちげつ)
年寄りの出番より
人生とは、闇を照らす一瞬の蛍の光
時の旅人
時計(平成12年1月3日)
星(平成11年10月15日)
溝(平成11年8月2日)
過去心…念の起こる処(平成11年6月19日)
与える時間(平成11年5月24日)
桜(平成12年3月2日)
無常(平成11年4月16日)
川(平成10年9月17日)
有時(時の構造)(平成12年2月5日)
時の旅人(平成12年2月1日)
揺れる木々の葉
この人生の速さはなんだ(平成14年12月26日)
法句経より-時の旅人(平成15年2月4日)
寂然不動 如春在花(寂然不動、春の花に在るが如し) (平成16年9月19日)
ZENGO
自立
橋は流れて(平成10年9月18日)
無事
過去(平成10年5月23日)
たまごっち(平成10年5月23日)
一衆觸礼(いっしゅうそくれい)
六道を輪廻する
二人三脚
生老病死
筋肉番付
ポケモン
俺は、親馬鹿か!
塵も積もれば山となる
生と死と永遠
最終章
一章
二章
三章
四章~(未完)
時間旅行
時間旅行
命の歌-母の短歌
礎-いしずえ-
離魂(平成19年8月25日)
海辺橋
海辺橋
ふるさと(平成18年3月4日)
千の風(平成18年9月16日)
人の道(平成18年9月18日)
あなたは、いつから、一年が始まりますか?(平成20年8月1日)
前住職 二十三回忌にて(平成20年9月1日)
平成21年お施餓鬼会を振り返って(平成21年6月1日)
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五洩霊黙和尚

五洩霊黙和尚

 浙江省金華県に五洩(せつ)山がある。ここに住山した事により、この名前が付けられたようである。
 馬祖をあぶりだそうとして、いろいろの僧侶を記してきたが、五洩和尚は、出家の縁は馬祖であるが、大悟は違った。こういう和尚もいたのだ。
 五洩和尚の諱は霊黙であり、浙江省紹興県は越州に生まれた。性は宣。
747年生まれの彼は、得度しない前、30歳ぐらいだと思うのだが、都へ官吏の試験を受けに行く途中、現代で言うなら少し年を取り過ぎているようにみえるが、洪州開元寺に立ち寄った。そして、馬祖にあうことになる。

 馬祖「秀才よ。何処に行こうろしているのか」
 五洩「官吏になりたくて、都へ、選官の試験を受けに行きます」
 馬祖「秀才よ、遠いなあ」
 五洩「和尚のところにも、選ぶ場所がありますか」
 馬祖「目の前にして、何を嫌うか」
 五洩「それでは、テストを受けさせてもらえるのですか」
 馬祖「秀才どころか、仏も置かぬ」
 そこで、五洩和尚は、馬祖に親しくまみえることを欲して、出家を乞い願った。
 馬祖「お前の頭を丸めてやるのはよいのだが、大事の成就は別だぞ」
 五洩和尚は、都への道をやめ、入門をゆるされて、具戒したという。

 馬祖が云う「秀才どころか、仏も置かぬ」は、官吏登用試験を受けようとしての旅の途中の若者には、理解できない言葉だろう。
 我が日本の専門道場の禅堂の額にも、『選仏場』と書かれていが、玄関に『脚下照顧』と共に、大地に何不自由なく立っている自己を見よと、道場は己の虚しさを選ぶ場所でもあると馬祖は云う。馬祖の、「遠いなあ」の言葉は、近きの自分を見つめぬ五洩への、嘆きに聞こえる。
 現代においても、選仏と官吏のテストと比較することは、同じ比重を持つと思われるが、金銭的なものを度外視して、比較する若者は、少ないかもしれない。

 選仏は、煩悩、妄想からの主体の確立を主とし、その主であることからも自由である、絶対自由の無碍道人の顕現であることから、秀才どころか、仏も置かぬは、徹底した自己の照顧が求められる。
 平成11年11月6日、禅を聞く講演会で、松原泰道師は「禅宗は、面白いところから、有り難いところへ行かなくてはいけない」と、お話していました。師のお話された通り、禅の問答は、面白く痛快に感じられるのですが、理解できたからと、それで終わっては中途半端の半病人になってしまいます。やはり、最後は有り難いところがこの上ないように思えます。
 さてある日のことです。大勢の修行僧達と共に、開元寺の西の塀の外に出たときです。突然、野鴨が飛び立ちました。

 馬祖「お前は、何者か!」
 政上座「野鴨」
 馬祖「何処に行ったか」
 政上座「飛んで過ぎ去りました」
馬祖はすかさず、政上座の耳をとって、引っ張ったものだから、政上座は、唸り声を発した。
 馬祖「まだ此処に居るではないか。どこに飛び立ったと言うのだ」
政上座は、ハッと大悟した。五洩和尚もその経緯を見つめていたが、彼は未だ、機が熟さなかった。

 五洩和尚「私は官吏の目的を捨てて、大師について出家したのですけれど、今日の日まで、何もつかめません。今、政上座の次第を見て、どうぞ慈悲を持って私に教えてください」
 馬祖「出家するならば老僧である私でもよいが、悟るならば、師は別人が、貴方には善いようだ。無駄に年を経てもいかん」
 五洩和尚「左様であるなら、正師をどうぞ、お教えください」
 馬祖「ここから、700里行ったところに、一人の禅師が居る。南岳の石頭と申す。お前がそこに行ったら、かならず善いことがあるだろう」
五洩和尚は、馬祖のもとを辞して、石頭に至って、言った。
 五洩和尚「一言でもかなう事があれば、とどまります。もしかなわなければ、去ります」
そこで、五洩和尚は、靴を履いたまま、座具を手にもち、法堂に入った。しきたりの通りの礼拝を済ませて、石頭和尚の言葉を待って、側に立った。
 石頭「何処から来た」
 五洩和尚「江西よりまいりました」と、石頭の問いの真意を汲み取れずに、地名で、答えた。
 石頭「受業は何処でしたのか」
五洩和尚は、真意を聞き取れず、だまって翻り、立ち去って、門を出ようとした、その時だった。石頭が「こらっ」と、背後から五洩和尚に、怒鳴りつけた。片足を門の外に、片足を内に置く五洩和尚は、その姿勢で振り向くと、すかさず、石頭は拳を天に突き刺して、言った。
 石頭「生まれてから死に至るまで、ただこの一人が居るだけなのに、さらに頭を振り向けて、何になるというのだ」
その言葉を聞くと、五洩和尚は面目を一新して、大悟した。その後数年石頭和尚の側に仕え、人は五洩和尚と呼んだ。

 だいぶ脚色して書いてしまったが、景徳伝灯録には、20年、石頭に師事したとあるが、下の年譜(祖堂集)と合わない。どちらが本当か私には知る由がないが、伝灯録によると、「一言でもかなう事があれば、とどまります。もしかなわなければ、去ります」の五洩の問いに対して、石頭は黙って、坐すとあり、この黙と大悟の黙=省を量る。

 しかし、我々は、石頭の大音声の言葉と、自らを提示して見せた態度に、臨場感あふれるドラマを素直に感服したい。初対面の男に、大声で叫ぶ理由は、五洩和尚の殻から今飛び出さんとする面目を認めてのことだと思う。
 これより先、曹洞宗を開創する曹山、雲居禅師を世に出す、洞山良价禅師(807-869)が五洩和尚を師として、剃髪したことを思えば、彼の功績は大きい。そして、洞山も五洩、南泉、雲嵓と行脚することをおもえば、五洩和尚に似る。

 五洩和尚は、38歳で天台山に入り、白砂道場、東道場に住し、東白山に遊んだとある。そのとき神異を現じたとある。後世の人の捕遺である。浙江省浦浦県の移り、やがて五洩山に住した。元和13年(818)3月23日示寂。72歳であったという。

石鞏慧蔵禅師

石鞏慧蔵(せききょうえぞう)禅師

 かって、玉ねぎの核には何があるのだろうかと、涙を流しながら1枚1枚皮を剥いて、たどり着いた所は、何もなかったことの記憶がある。最後の一枚をむしりとった時の驚きの姿を、今思い出すと、あの時、何を掴んだのだろうか。人間の探究心とは、面白いものだと思う。
 よく題材にしやすいのは、住む環境によって肌の色が変化するカメレオンの本当の色は、いったい何色なのだろうかという問いだろう。本当の色を求めて、様々な環境のもとに置いてみたところ、カメレオンは死んでしまった。死んだカメレオンのその色を本当の色だとし、正しい色だと主張することは、誰でも異論があることだと思う。

 コインの裏表を占う場合、投げる前の真実は、「表か、表でない」ことは本当のことです。
 この答えは人を馬鹿にした答えですが、的を得た答えでもあると思うのです。裏か表かの確率は50%ですが、「本当の確率が50%と言い換えてみれば」、本当のものとは結果として、表か裏かは、常に一つのはずですから、真実から見れば50%は何の意味を持ちませんはずです。それでは、表と予測して、裏が出れば、それは嘘になるのか。予測という言葉は、常に外れることを含んでの言葉ですので、厳密には嘘を含んでいるわけです。ですが、嘘になるためには、結果が外れなければ嘘になりませんので、結果の出ない予測は常に本当ということにもなるのではないかと思うのです。よく予知・予言めいたことが話題になりますが、どんないい加減な予知や予言もこの意味からは真実を含んでいると思われますが、いかがでしょうか?ただし、嘘を含んでのことですが。
 本当のもの、真実である言葉の響きは、かって一人の若者を狂気に狂わしたことがありました。

 『悠々たる哉(かな)天壌(てんじょう)、遼々たる哉古今、五尺の小躯を似て此大(このだい)をはからむとす。ホレーシュの哲学、竟(つい)に何等のオーソリチーを値するものぞ。万有の真相は唯一言にして悉(つく)す曰く「不可解」。我この恨(うらみ)を懐(いだ)いて煩悶(はんもん)終(つい)に死を決するに至る。既に巌頭(がんとう)に立つに及んで胸中何等の不安あるなし。初めて知る大(おおい)なる悲観は大なる楽観に一致するを』

 藤村操の『巌頭の感』の全文である。1903年5月22日、旧制高校の彼は、華厳の滝に飛び降り自殺した。当時のことは知る由もないが、この事件が起きて、彼の下宿は『悲鳴感』として同窓生達が集い、共に彼の死を、万有の真相を語り、自らを責めたと言う。
 私はホレーショの哲学も知らないし、恨みを懐いて煩悶するその内容も知らないが、『万有の真相は唯一言にして悉す曰く「不可解」』で、何故に華厳の滝が出てくるのだろうかと不思議に思う。また、「大いなる悲観は、大いなる楽観に一致する」のくだりは、悲観を突き詰めたもののみが持つ悲壮感であり、楽観と悲壮感の心は、ともに土壌が同じもののような気がする。

 自分を卑下したわけではなく、万有の真相も、自分自身も不可解の存在であると、そのことに気づくことは大切なことであると思うのだが。
 馬祖にこんな話がある。
 石鞏慧蔵(せききょうえぞう)禅師の話である。撫州(江西省臨川県)の石鞏山に住み狩猟の生活をしていたことより、石鞏という道号が付いているが、慧蔵が諱(いみな)である。馬祖との出会いは、天宝元年(742)頃、建陽の仏跡嶺に住していて、その後、撫州の西裡山にやって来てのことだ。
 その頃、慧蔵は常に弓矢を携えていて、山に分け入っては鹿を追い求めることを生業としていた。
今日も鹿を追って石鞏山の中を走っていると、たまたま馬祖の前を通り過ぎようとした。馬祖は慧蔵に向かった。

慧蔵、「和尚。鹿が通り過ぎなかったか」
馬祖、「おまえは何者だ」
慧蔵、「猟師だ」
馬祖、「おまえは弓矢が上手か」
慧蔵、「ああっ、うまいよ」
馬祖、「おまえは、一矢で何頭を射抜くか」
慧蔵、「一矢で一頭だよ」
馬祖、「上手くないな」
慧蔵、「和尚は上手いのか」
馬祖、「ああっ、上手いよ」
慧蔵、「和尚は一矢で何頭を射抜くか」
馬祖、「一矢で何頭も仕留めるぞ」
慧蔵、「皆、命である、何で何頭も仕留めることをするのか」
馬祖、「お前は既にそのことを知っているのならば、何故に自分自身を仕留めないのだ」
慧蔵、「俺が俺自身を仕留めるに、俺は俺自身を、手の下しようもないわい」
馬祖、「こやつ、今までの無明煩悩、今まさに、吹っ切れたわい」
慧蔵はすぐに気がつき、弓矢を捨てて、刀で自分の髪を切り、馬祖を師として出家してしまった。
 慧蔵が言う、「即ち手の下す処無し」は「不可解」に通じる。
後、慧蔵は常に弓矢を携えて、機に臨んで「箭(や)を看よ」と接したとある。
そんな消息が趙州録の中にある。

 『「石鞏慧蔵禅師は30年間一本の弓と2本の矢で、半人前の聖人射ただけであったといいます。今日は、どうか私を完璧に仕留めてください」
 趙州は問うた僧の自信を無視して、立ち上がって行ってしまった』。

 慧蔵は生涯、弟子を持たずに、山野に暮らしたと思うと、慧蔵に似つかわしい生涯だったろう。命の尊さを知りながらも、その命を奪うことを生業としていた慧蔵の、矢を番えて弓を張ってたたずむ姿を想像すると、胸を開いて「さあ、射よ」と言える人物がどれほどいるだろうかと思えてくる。

 馬祖に会う以前、慧蔵は僧侶が好きでなかったと書いてある。狩猟を生業としている慧蔵ゆえか、そのことを思うと、矢を射ることの尊さが光る。まして、この時代貧しい猟師にとってたくさんの獣たちを仕留めることは、自らの生活の安泰、ひいては幸福と考えていない、慧蔵の慧眼に驚かせる。そんな慧蔵の好きでなかった僧侶を志そうとは、馬祖とはどんな人物だったのだろうか、窺い知りたいと思うではないか。慧蔵の真剣さが伝わってくる。

 慧蔵にとって、手の下す処もなく、不可解なるそのものこそ、日常の働きの源泉であることとを思えば、この矢は全身の慧蔵であり、放たれた矢が貫いた私も、”不可解”そのものであると思う。いや、その不可解すら突き抜けることを、慧蔵は願っていると思うのです。でなければ、こうして語録に残される意味はないからです。

大珠慧海禅師

大珠慧海(だいしゅえかい)禅師

 諱は慧海、福建省の人。姓は朱氏。越州(淅江省紹興県)の大雲寺の道智和尚のもとで出家、得度したという。大雲寺は戴初元年(690)則天武后の勅願によって全国各州に建てられた寺で、大雲経にちなんで付けられた名であると言う。

 大珠は、馬祖について六年間修行したが、道智和尚が年を取って体が弱くなったので、大雲寺に帰って、この寺で一生を過ごしたらしい。

 『頓悟入道要門論』一巻を撰した。平野宗浄師によれば、「著者は、馬祖下の大珠慧海とされているが、その論法からすれば荷沢神会の影響が強く、また『無心』という語の用法からみれば、牛頭禅の影響も考えられ、その成立が神会時代かと疑われもする」と書いていました。確かに馬祖は、語録の中で『無心』という言葉は一度も使わないが、雑貨鋪といわれたくらいである、様々な面を対する人によって見ることができる。

 大珠は江西に至って、馬祖に会う。
 馬祖、「何処からきた」
 大珠、「越州大雲寺よりやってまいりました」
 馬祖、「何を求めている」
 大珠、「仏法を求めてきた」
 馬祖、「自分自身の宝を省みず、家をほったらかしてあくせくして、どうしようとするのか?私の所にはそんな者あるわけはない。どういう仏法を求めようとするのか」
 大珠は礼拝して更に聞いた。「何が私の、宝でしょうか?」
 馬祖、「今、私に問うもの、それこそ貴方の宝ではないか!総ては備わって、欠けているものは何もなく、自由に使いこなせるのに、その他に何を外に求めようと言うのか」

 今まで自分自身に付き纏っていたモヤモヤが吹っ飛び、知覚によらないで、おのれの本心を知ることは、ことの真理が大珠を貫いたことでもあり、一辺に諒解した大珠は高らかに喜び、愉快でしょうがなかった。馬祖に感謝し、その後六年間馬祖に師事した。
 やがて、受業の師が年老いたことを知った大珠は、急いで大雲寺に帰り、師を介護した。その後、姿を隠し、ひそむかのように愚かさを養った。その間『頓悟要門』一巻を書き上げた。
 ある時、法系では従兄弟にあたる玄晏が、その『頓悟要門』を持ち出し、江西の馬祖にお目にかけた。馬祖はこれを読み終わると、
 「越州には大きな真珠がある。円く大きく輝いて、自在にして、さえぎられるところがない」
 それを聞いた僧の中に、大珠の姓を朱と知っているものがいた。それぞれが誓い合って、越州の大雲寺を目指してきて、入門したという。
 この時より、大珠和尚と呼ぶようになったと言う。
 大雲寺に住持してより、様々な説法が記録に残されている。後年の黄檗の『伝心法要』に似て、知的な問答に満ち溢れて、理論的な問答は非常に解り易く、どうしてあまり評価されないのか不思議でしょうがない。どちらかと言うと、親の子どもに教えるに似て、親切で学者肌の人のように見受けられる。

 馬祖の”即心即仏”の問答を、大珠が扱った話です。
 他に大雲寺の寺男が質問した。「心がそのまま仏だと言いますが、いったい自分のどの心が仏なんでしょうか?」
 大珠、「仏でないと疑っている心を示してみよ」
 寺男、言葉が出ない。
 大珠、「了解すればあらゆるものが、世界が仏であり、心である。悟らなければ永久に離れたままだ」
 大珠、「仏のはたらきをするのが仏性であり、賊のはたらきをするのが賊性であり、衆生のはたらきをするものが衆生性である。性に姿形はない。その働きに応じて名を設けるだけである、経にも言っている『すべての尊敬すべきすぐれた人々は、涅槃の悟りを持ちながら、しかも差別の世界にいる』と」
 ”即心即仏”を、大珠は細かく説明をしてくれる。大梅法常禅師と同じく大珠も”即心即仏”で生涯ひたすらに通した人でもある。
 大珠、「明日があることを信じるか」
 僧、「信じます」
 大珠、「明日をここに持ってきてみよ」
 僧、「明日は有るのですが、今は持ってくることはできません」
 大珠、「明日はつかみとることは出来ないけれども、これは明日がないわけではない。目が見えない人は太陽を見ることが出来ないが、太陽がないわけではない。今日が明日をつかみとることが出来ないのと同じに」
 大雲寺で後年、馬祖との思い出を語る場面がある。

 「”江西和尚の貴方の心には一切の宝が備わっていて、もともと自由自在ではないか。外に求むることをやめよ”と聞かされてより、私はすぐさま楽になり、自己に随う宝をひたすら受用している。まったく楽しい。私の心や法の、何一つ取るべきなく、何一つ捨てるべきものなく、何一つ生滅の姿を見ず、何一つ去ったり来たりする姿を見ず、あらゆる世界に何一つ自己の宝でないものはない。くわしくおのれの心を観察しなさい。あらゆるものは自ずから現れて、疑うべきものはない。思い煩うな。探し求めるな。華厳経の”総てのものは生ぜず、総てのものは滅せず”と言うが如く、このように解ったならば、あらゆる仏が現れるだろう」

 語録の中で馬祖を語る言葉は数少ないが、大珠の言葉を知ることによって、馬祖の一面をまた知ることが出来る。馬祖の語録には、こういった語り口はほとんどないのだが、同年代以前にある語録にはかなり多い。逆にこのことは馬祖のいかに優れた禅者かを知ることが出来る。
 大珠の語録には、神会の語録や経文(維摩経・金剛経・涅槃経・楞伽経・華厳経・起信論・法華経)が随所に出てきて当時の時代や禅の姿が伝わってくる。また人物では下巻に、律者・行者(あんじゃ)・学徒・法師・大徳・俗人・座主・宿徳(高徳の僧侶)と多くの当時代の知識人が登場することも面白い。

 大珠の言葉の光るところは、「畢竟空の中において、湧き上がるように大慈悲を建立するもの、それが真の智慧あるものの姿だ」という言葉だ。
 ”維摩経”の「空無を観ずれど、しかも而も大悲を捨てず」という文面を思い出してみれば、『大悲心』こそ、人にとって大切なかけがえのないものであると言う大珠の言葉は、跡に連なる我々の忘れてはならない言葉です。

 大珠の問答に理解できずに立ち去る人に、大珠慧海和尚は話しかける。
 「立ち去ってゆくもの、それが貴方の道ですぞ!」

西川の黄三郎

西川の黄三郎

 『西川に黄三郎という、年寄りがいた。
二人の息子を、馬祖にもとで、出家させた。息子たちは、一年が経つと、郷里に帰ってきた。その姿を見て、二人が生き仏のように思えて、礼拝して、言った。

 「古人道(い)えり、我を生む者は父母、我を成す者は朋友」と。そして、
 「これなんじら二人の子の僧は、朋友なり。私を取り持たせてくれ」と。子供たちは、
 「お父さんは年をとっているとは言え、もしその志さえあれば、何の難しいことはありません」と、云った。お父さんは歓喜して、早速、俗人の姿で、二人の僧と共に、馬祖ののもとへと参じた。
 馬祖に、このことを話すと、馬祖はすぐさま、法堂に上がった。
 黄三郎は、馬祖の前に進んだ。
 馬祖「これ!西川黄三郎!お前がそうか?」
 黄三郎「恐れ入ります」
 馬祖「西川より此処に至って、黄三郎は、今、西川にいるのか?洪州にいるのか?」
 黄三郎「家に二主なく、国に二王なし」
 馬祖「年は、幾つだ?」
 黄三郎「85歳になります」
 馬祖「そうだろうが、何の年齢を数える」
 黄三郎「もし、貴方様にお会いできなかったら、虚しく一生を過ごすことだったでしょう。大師にお会いしてからは、刀で空を鋭く断ち切るようです」
 馬祖「もしさようならば、いたる所、ありのままだ」』

 西川(せいせん)の黄三郎という名前は妙に、呼び安い名前であるが、西川とは四川省の地を指すらしい。その他のことは一切不明の人物である。
 列記とした馬祖の弟子であるが、85歳になって馬祖に投じたというから、余程の気力と体力の持ち主だったのだろう。変り種なのは、息子二人を、自分より先に馬祖の門下生にして、その成長を確かめてから、息子達を先達として、入門を果たしたことだ。

 それにしても、よく考えてみれば、子供があるということは、奥さんがいたことになり、子供も二人より他にいたかもしれない。一家を養っていたことは、確かなことであると思える。農夫をしていたのか、漁師をしていたのか、あるいは牧童等考えられる。どんな家族に支えられながら、この時代を生きていたのか、85年の年月を考えると、はてしない年齢だということがわかる。おそらく、その年齢は自分の老い先短い時間を、十分覚悟してのことだと思う。

 馬祖と黄三郎との何がしかの繋がり、あるいは評判等の条件がなければ、息子達を馬祖に、差し出すことはなかっただろう。馬祖に師事するという決心は、息子達の姿、言葉、佇まいを信じて、故郷を去って、始めからやり直すという気持ちの吹っ切れを起こさなければ、旅に発つことはことは、できないのではないか。自分の手を見たとき、その皺だらけの手に、年輪を感じ、旅立ちてよりの、道を考えれば、たどり着くことに不安はなかったであろうか?
 その当時の若者の目指す夢は、都の官吏であったことは間違いがない。当時、禅を極めようとするか、乃至、事の本質に迫ろうとする雰囲気が、社会にあったのだろうか?

 出家するということは、家を捨てるという意味であり、家は親、兄弟、親戚、知人を含んでのことだ。仏教界自身も世俗的な社会の反映である。唐代の禅界とは、まったく異質な世界であり、かけ離れていることは確かだ。しかしながら、我々が生きて護持しているからこそ、昔も保たれているとも言える。

 寺に住むようになって、私は、寺の在り方をいつも考えている。今のままで良いのだろうか?寺の外からの眼は、鋭い視線を持っている。また要望は、もはやそう多くないように思える。その責任は私たちにもある。神社仏閣の、歴史的価値は大きな意義を持っているだろう。しかし、中身は、今……。私達は、どう仏道を、生きているだろうか。必要にされているのだろうか。それはおのれ自身の足元を、つぶさに見つめることより始めることしかないのだろう。

 私の住職としての使命は一つは、次の世代への寺の存続である。伽藍の伝承ばかり考えないで、内容の伝承を、次の世代に気づいて欲しいものだ。そうでなければ、家の考え方そのものとして二重に映るだけになってしまう。現代の出家は、過去の僧侶と比べると、変貌している。深く反省する事も多いが、違った側面を持つことが、複雑にさせる。
 それならば、今の姿を、繕いながら、何とか容(かたち)あるものにと思う。
 仏教は、今の時代を貫く指針と価値観を、充分に持っている。否、仏教こそ、時代が変っても、普遍を表現している宗教は無いと、固く信じているのだ。

 早く急がなければ、名を代えた続くはずもない永遠を求めて、彷徨っている私とも、サラバだ。
 黄三郎から見た、若者の僧の姿は、生き仏のように、清潔感にあふれ、神々しく、黄三郎は感動した。さらに、自分もそのような姿に、憧れたのだろうか。否、そうではなくて、85年という年月が、無駄ではなくて、価値ある無駄と実感したのかもしれない。子供たちに礼拝するということは、心から素直さを表現した証明なのだと思う。
 85歳の年齢を考えると、黄三郎の心は、なんと若々しいことか。
馬祖の、「西川より此処に至って、黄三郎は、今、西川にいるのか?洪州にいるのか?」の問いは、
85年間の西川と今の洪州を量る問いだ。

それに対し、黄三郎の答えは、「家に二主なく、国に二王なし」と、『礼記』よりの引用の言葉だ。「民に君臣の別あるを示すなり』と結ぶその語は、馬祖への帰依を示すと同時に、西川も洪州も通り越した、黄三郎それ自身の産声に、思える。
「刀で、空を鋭く断ち切る」ことこそ、存在そのものを断ち切ることであり、もはや、虚空もなく刀もない、黄三郎の、すがすがしい心境なのだろう。それでこそ、馬祖は、黄三郎を認めたのだ。
 自分自身を、黄三郎に置き換えてみると、虚空を切ることこそ、大切なことがわかる。

馬祖道一禅師(馬大師)

馬祖道一禅師(馬大師)

南宗禅は六祖恵能大師より神会(荷沢宗)―法如―南印―道円―宗密と、南岳―馬祖(洪州宗)―百丈―黄檗―臨済に分けられた。南宗禅の神会を主流とすることは、宗密の出現によるところが多いが、後世になってみれば、洪州宗系の禅が残ったことを考えれば、南宗禅本流の北宗禅を退けた経緯を見れば、退けることはいずれ退けられる運命に当たるということになり、歴史の不可思議な歩みを感じます。

 馬祖を語るには、その前に達磨から二祖慧可、三祖僧サン、四祖道信、五祖弘忍、六祖恵能、南嶽懐譲(677―744)と馬祖に続く系譜を知らなければ、馬祖の世に出現した意義と、臨済から現代の臨済宗へと連綿と続く歴史の流れがわからない。時には臨済から流れをさかのぼることも必要であると同時に、多くの馬祖の弟子達にスポットを当てることによって、馬祖がいかにとてつもなく大きな存在であったかがわかると思うのです。

 雑貨鋪と言われるくらい、あらゆる側面をちらつかせる馬祖、そして、そのそれぞれの側面を、弟子達が奪い取り、そして更に磨きをかけたことを思えば、弟子達を語ることによって、馬祖を語ることができると思います。また、この時代に馬祖と並び南嶽に石頭希遷がいたことも大切なことです。700里隔てた所に、石頭がいたことにより、馬祖も石頭もともに違いを表明できたことになります。
 馬祖の弟子や法友達を挙げてみれば、麻谷宝徹、趙州、百丈、大梅山法常、西堂智蔵、西川の黄三郎、丹霞天然、五洩和尚、汾州無業、亮座主、ホウ居士、大珠慧海、石鞏慧蔵、塩官斉安達です。

 そして時代を経て今の私に連なる祖師達は、
百丈懐海、黄檗希運、臨済義玄、興化存奨、南院慧ギョウ、風穴延沼、首山省念、汾陽善昭、石霜楚円、揚岐方会、白雲守端、五祖法演、円悟克勤、虎丘紹隆、応庵曇華、蜜庵咸傑、松源崇岳、運庵普巌、虚堂智愚、南浦紹明、宗峰妙超、関山慧玄、授翁宗弼、無因宗因、日峰宗舜、義天玄承、雪江宗深、悟渓宗頓、獨秀乾才、仁岫宗寿、快川紹喜、状元祖光、智門玄祚、大愚宗築、西江宗蘂、隠嶺梵阿、江巌祖吸、文室祖郁、錐翁恵勤、大室祖昌、華山要印、方充祖丈、乾梁祖廉、屠龍宗牙、照道恵静、雪傳文可、モウ田恵蒭、圓瑞宗玖、雪川惟整、清川恵廉、元峰エイ一、雅山宗直です。
総勢52名というすごい数の祖師たちです。そして彼らの法友達を数えれば、更に増えます。また臨済宗の僧侶は必ず専門道場で修行をしなければ、僧侶としての資質を備えることが出来ないわけですから、その法系は別にまた有ることを思えば、途方もない数字になることになります。

 馬祖は四川省什方県の人であり、故郷の羅漢寺で出家したとあります。西暦709年から788年の生涯とありますので享年79歳で、日本では平城京から長岡京遷都の間ぐらいの時代に当たります。古事記や日本書紀や万葉集が作られ、大仏開眼、唐招提寺建立、延暦寺建立と国家と仏教の関係がより密接になり始まる頃です。

712年から756年が唐の玄宗皇帝の治世ですから、唐が最も栄えた頃と言っても良いでしょう。
 容貌は奇異な感じがしたとあり、牛のように歩き、目は虎の目のようだったとあります。舌を出せば鼻に届き、足の裏には二輪文様があったといいます。不思議なことに、この容貌から雑貨鋪・よろず屋というイメージはどうしても湧いてきません。雑貨鋪というイメージには、あらゆる変化に対応する内面性を持つことに思えるからです。牛のようにのっそりと歩き、虎の目で人を射抜き、萎縮させるイメージが強く、まして容貌が奇異な感じで、背は高くとなると、人は近づきがたいのが正直なところです。しかし時代と場所が違うことを考えれば、納得はいかないけれども、やはり違うのかもしれない。人となりは慈悲深く、首には三つのくびれがあったといいます。

 容貌の怪異さは後世に、伝奇的な神聖犯さざる地位に祭り上げるものです。しかしながら、当時を想像してみれば、人が集まるということは、山賊の集団ではないのですから、滋味に満ちた多くの人を受け入れる、厳しさと寛容さを持っていたと思うのです。実際は何処にもいる普通の親父だったのかもしれない。そんな親父が、ひなびた水田を水牛と共に耕作している姿を描いてみれば、のどかな時と安らぎの情景が思い浮かぶ。しかし、世間では奢侈に狂奔し、都を目指す若者の群れ、経済は中に疲弊を含んで、将来に黒雲を到来する予感に満ちた世界だったりして。

 幼いとき資州唐(徳純寺処)和尚(669-736)のもとで、髪を剃り、四川省巴県の円律師に具足戒を受けたとあります。そして唐の開元年間、衡岳(こうがく)(湖南省衡山)の一峰、祝融峰の前にある福厳禅寺、伝法院にて座禅を修したとき、師の南嶽懐譲(677―744)に出会ったとあります。
 『心地は諸種を含み、沢に遇うて悉く皆崩す。三昧の華は無相なり、何ぞ壊し復(また)何ぞ成ぜん』の詩は、南嶽が馬祖に与えた伝法の偈である。そして馬祖は、南嶽に10年間仕えたという。
 後、福建省建陽県の仏跡嶺に住んだ。そして江西省臨川県(743)に移り、江西省南康県キョウ公山に至った。大暦年間、洪州開元寺の住持となった。
 馬祖が住持となってしばらくすると、南嶽が弟子を遣わした。弟子は南嶽に言われたとおり、「どうですか」と問うた。
 馬祖は、「どうやら30年、塩と味噌は切らしたことがありません」
 これを聞いた南嶽はうなずいたと言う。
 達磨の二入四行論に「心は自ずから心ならず、色に由って心を生ずるを、名づけて色界と為す。色は自ずから色ならず、心に由るが故に色なれば、心と色との無色なるを、無色界と名づく」と、あります。

 同じ内容を、馬祖は「あらゆる目に見える事象(色)はみな心が現れ出たものである。心それ自体で心であるわけではない。事象に因るから存するのである。こうと解れば、事がら自体がそのまま真理なのであって、そこに何の隔てもない。心が生み出すものを現象というのであり、しかもその現象が空であることを知っているから、生じるといっても、実は生じていないのである。ここのところが解ったならば、その時々に衣を着たり飯を食ったりして、流れのままに暮らして行くことができる」と言い、さらに「現象世界を否定もせず、絶対の境地に安住もしない。現象は絶対の側から働き出したものであり、絶対は現象の側のより所である。そしてその絶対のより所にとどまらない」と言います。

 何時いかなる時も、虚空のように、寄る辺なき所をより所として、自己の本性のままでいることを出家の有るべき姿と馬祖はとらえます。あらゆる現象は本性より生じたものとすると、その現象をどう処置していくかが、問題になると思うのですけれど、我々には至難のことに近いのです。
 達磨から引き付いた教えを、実生活に活用し、しかも新たに、不生禅に発展させる種を含んでいる、そんな馬祖の有名な言葉、『平常心』は、今私達は頻繁に使用する言葉ですけれど、考えてみると、内容はお粗末な限りです。

 つまりは、平常心とは、道のことであり、法のことであるという。
 「造作なく、是非なく、取捨なく、断常なく、凡なく聖なし」であり、そしてこれに違うことを、汚染と言い、そのことは、生死の思いがあって、あれやこれや造作したり、目的意識を持ったりすることであると言います。
 また、「あらゆる法は全て心に由来し、あらゆる名は全て心の別名である。心がありとあらゆる法の根本である」そして「あらゆる法は全て仏法であり、そのさまざまな法そのものが解脱である」と言います。
 そして解脱した私とは、「真実を離れて己の在りかたがあるのではなく、己の在りかたがそのまま真実なのであって、全てはこの己の本体なのである。もしそうでなければ、いったい誰だというのか」と、1000年以上の時を隔てた私達に、語りかけてくれます。
 馬祖の法を継いだ、趙州の言葉です。「何か有れば、考えればよい。何もなければそこらに坐して、理を極めればよい。老僧行脚の時、食事を除いて、その他はさらに用心することはなかった」
 『あるがまま』の当体が、在るがままに日常の動作に活躍します。
 では道に迷った人はどうすればよいのでしょうか。
 「道に迷った人は、方角や自分の居所を見分けることは出来ない」と、馬祖は言います。これは、迷った人の正体を見極めなければならないということでしょう。迷いを苦しみとしたら、その苦しみの当体を見極めることから始まります。あくまでも自分で一つ一つ気がつかなければ、超えることは出来ません。
 こんな話があります。
 ある日のことです。厨房に用事をしていた僧に、馬祖が問うた。馬祖「何をしている」。僧「牛を飼っています」。馬祖「どういう風に飼う」。僧「叢に入ってゆこうとすれば、鼻輪をつかんで、引っ張ります」。馬祖「汝、放牛は、本物だ」
 草を、無明煩悩に。厨房の仕事を、放牛に喩えて、十牛図を考慮してみれば、日常の何気ない問いかけが、いたる所で行われていたことがわかります。

 洪州の水老和尚が、馬祖に参じた。水老「如何なるか、達磨がこの土地に来たった、真の意味は」と、問い掛けた。馬祖は「先ず、礼拝せよ」。水老和尚は、礼拝した。馬祖は、すかさず水老を蹴った。ポーンと蹴っ飛ばされた水老は、瞬時に徹通し、起き上がった水老は、手を叩いて大笑いした。今まで積み重ねて研鑚した妙義が吹っ飛んで、全身に世界が覆い被さったかのように、大悟した。礼拝の場面は、ことの他、伝わった話に、機鋒が鋭いものが多いような気がする。そして、一回目の礼拝と、二回目の礼拝に、礼拝自体に差は無いが、内容に大きく違いがあるのが、おもしろいし、二回目の礼拝は、教師に殴られて、恩師のあり難さを思う、昔の学生を思ったりする。このように、馬祖の機鋒は、その人により、鋭く妙を得た接し方があるかと思えば、日常における接し方は、借りて来た猫のような話もある。

 南泉が僧達のために、朝、給仕をしていたときのことである。馬祖が聞いた。馬祖「桶の中は、何だ」。南泉「この親父、口を結んで、何をか云う」。馬祖は次の言葉がでなかった。
 桶の中身を、南泉の迷い、怒り、躊躇と考えてみれば、底を打ち破ることが修行であるから、南泉の心境を問うたことになる。それに対する南泉の答えは答えに物ともせず、鋭く、馬祖を寄せ付けない。馬祖の問いかけから転じた、好々爺の姿が眼に浮かぶようだ。

 馬祖は、手放した弟子達に厚く心を配る。
 『馬祖が百丈に手紙と醤(ひしおみそ)を三甕送った。百丈は法堂の前に甕を並べ、大衆が集まってきたとき、杖で甕を指し、「真に言うことができたら、打ち割らぬ。言うことができなかったら、割る」と、言った。誰一人何も言わなかった。そこで百丈は打ち割って、方丈に帰った』(四家語録・広灯録)
 この話は、やがて南泉普願禅師の有名な『南泉斬猫』に発展するかのようです。南泉普願禅師は馬祖の法の、働きの部分で、その活躍の究極の人です。
 馬祖は貞喪4年戊辰の年、2月1日遷化された。
 貞元4年正月、建昌の石門山に登り林の中を歩いた。そしてとある洞窟に至り、平らなのを見て、侍者に言った。「私は、来月この枯れた体を携え、この地に帰ることにしよう」
 やがて、馬祖は、病に臥した。
 枕もとで、院主が尋ねた。「体の具合はいかがですか」
 馬祖は、「日面仏。月面仏」と答えた。

 2月1日、身を清めて、座禅を組みながら、入滅したとある。年は80歳であり、法臘60年であったという。塔は石門山下に宣宗が江西観察使の裴休に勅して宝峰寺建てさせ、荼毘にして、境内に埋葬した。


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