目次
輝いている時
夢中(ゆめのなか)
芝浜
江戸っ子
亀住町(平成13年7月1日)
モンセ・ワトキンス~夢のゆくえ~(平成14年1月3日)
新牌開眼
英霊(平成17年5月23日)
目覚め
よわい「齢」
また始めたらよい
三大聖樹(平成19年4月17日)
滅度(平成19年9月18日)
安住の地(平成20年11月15日)
心眼(平成22年3月1日)
とかくこの世は
とかくこの世は
祈り(平成17年11月29日)
品位(平成18年1月20日)
ニャンニーシンズ(平成18年3月1日)
鍵(平成18年4月25日)
チベット(平成20年5月1日)
SYOHOU
諸法
四十四の問い~ミヒャエル・エンデ
先ゆく輩
さき行く輩
祖師年譜
ダルマ
慧可
五洩霊黙和尚
石鞏慧蔵禅師
大珠慧海禅師
西川の黄三郎
馬祖道一禅師(馬大師)
五百生 百丈和尚
大梅山法常(752-839)
麻谷山宝徹禅師(平成12年1月27日)
鎮州普化(ふけ)和尚
寒山・拾得
虹の彼方に
ヘイヴン・ペックの場合―続貧しいけれど、豊かだった―
生前葬
平和を我らにーGIVE PEACE A CHANCE(平成13年10月31日)
ソクラテスとヤージャニダッタ
蓮(平成14年6月2日)
心-KOKORO(平成14年6月25日)
独り暮らし(平成15年4月12日)
老いが、咲いていた!(平成16年7月5日)
深濱-fukahama
死に顔
松山鏡(ソクラレストとヤージャニダッタの続き)
真ん中(平成20年4月1日)
百万回いきたネコ(平成21年1月1日)
夜来る鳥(平成21年1月1日)
だいじょうぶ、だいじょうぶ(平成21年2月1日)
無常への帰依
無常への帰依
希望(平成12年1月2日)
葬式坊主
泥棒
赤とんぼ
老い
……ロス
後姿
寿陵
ついで参り
目標
六道を行く
もの言わぬ羅漢達…揀択をこえて…
宮本武蔵
五合庵断章(平成10年10月17日)
K子さん!(平成12年7月19日)
今は昔
十一面観世音菩薩
尽七日忌(平成19年5月1日)
OSYOU
OSYOU
この手のひらに―禅僧の死―(平成10年11月18日)
戒(平成10年7月25日)
幽霊
みんな仏教徒(平成10年5月27日)
最後の晩餐(平成10年5月23日)
禅問答(平成10年5月31日)
分銅
天国は汝ら自身に宿る(平成10年11月24日)
宗派
穢れ(平成12年8月30日)
お彼岸
仏心
仏心
ご祈祷
施餓鬼会にて(平成17年5月28日)
永遠の命
輪廻する葦(平成10年5月27日)
連鎖する命(平成10年6月2日)
涅槃(平成10年8月12日)
鏡(平成10年7月25日加筆)
流星
TAO(平成11年1月3日)
四大
挨拶
冥福
盂蘭盆
祈り(平成14年7月4日)
仏事歳時記
再び 最後の晩餐
この手のひらにII(平成18年11月18日)
死んで生きる智慧(平成19年3月27日)
五百生(平成19年11月20日)
破地獄偈(平成20年5月24日)
この指止まれ
この指止まれ
家族と家庭(平成11年1月5日)
導師(平成11年2月26日)
家から個人へ、そして家族・友達へI
家から個人へ、そして家族・友達へII
脳死そして臓器移植(平成11年3月2日)
独り決めの生き方
僧堂I
僧堂II
僧堂III
恥じ
僧堂IV
返事
父殺し・母殺し・友だち殺し・子殺し(平成20年1月1日)
その後
その後
ほとけさま(平成17年5月1日)
仏が仏に合掌する
戒名(平成12年3月14日)
無用の用(平成12年2月21日)
世話
大きく育て!(平成11年1月18日)
しもべ(平成10年11月7日)
電話(平成10年8月22日)
意思
寡黙
妄想(平成10年8月2日)
川(平成10年8月22日)
風如(風のように)(平成10年6月18日)
追悼(平成10年5月27日)
受容(平成10年6月18日)
蒸発
臨終(平成10年6月8日)
外道
障子(平成13年3月10日)
日月(にちげつ)
年寄りの出番より
人生とは、闇を照らす一瞬の蛍の光
時の旅人
時計(平成12年1月3日)
星(平成11年10月15日)
溝(平成11年8月2日)
過去心…念の起こる処(平成11年6月19日)
与える時間(平成11年5月24日)
桜(平成12年3月2日)
無常(平成11年4月16日)
川(平成10年9月17日)
有時(時の構造)(平成12年2月5日)
時の旅人(平成12年2月1日)
揺れる木々の葉
この人生の速さはなんだ(平成14年12月26日)
法句経より-時の旅人(平成15年2月4日)
寂然不動 如春在花(寂然不動、春の花に在るが如し) (平成16年9月19日)
ZENGO
自立
橋は流れて(平成10年9月18日)
無事
過去(平成10年5月23日)
たまごっち(平成10年5月23日)
一衆觸礼(いっしゅうそくれい)
六道を輪廻する
二人三脚
生老病死
筋肉番付
ポケモン
俺は、親馬鹿か!
塵も積もれば山となる
生と死と永遠
最終章
一章
二章
三章
四章~(未完)
時間旅行
時間旅行
命の歌-母の短歌
礎-いしずえ-
離魂(平成19年8月25日)
海辺橋
海辺橋
ふるさと(平成18年3月4日)
千の風(平成18年9月16日)
人の道(平成18年9月18日)
あなたは、いつから、一年が始まりますか?(平成20年8月1日)
前住職 二十三回忌にて(平成20年9月1日)
平成21年お施餓鬼会を振り返って(平成21年6月1日)
奥付
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祖師年譜

祖師年譜
菩提達磨  ?-536(鼻祖)
鑑智僧サン  ?-606(三祖)
神秀   606-706
青原行思 673-741
南陽慧忠 ? -775
西川黄三郎 ?-?
麻谷山宝徹 ?-?
石頭希遷 700-791
石鞏慧蔵 ?-?
西蔵智蔵 735-814
薬山惟儼 744-827
主峰宗密 780-841
黄檗希運 ? -860
徳山宣鑑 782-865
洞山良价 807-869
仰山慧寂 807-883
興化存奨 830-888
塩官斉安 ?-842
曹山本寂 840-901
雪峰義存 822-908
布袋     -916
保福従展  ?-928
帰宗策真  ?-979
智門師寛  ?-?
天台徳韶 891-972
南院慧ギョウ860-930
報慈蔵ショ  ?-?
同安観志 ?-?
大陽警玄 943-1027
石霜楚円 986-
白雲守端 1025-1072
汾陽善昭 947-1024
黄龍祖心 1025-1100
五祖法演   ?-1104
長蘆清了 1088-1151
天堂宗玉 1091-1162
太祖慧可 487-593(二祖)
牛頭法融 594-657 
南嶽懐譲 677-744
馬祖道一 709-788
ホウ居士  ? -808
丹霞天然 739-824
五洩霊黙 748-818
南泉普願 748-834
イ山霊祐 771-853
鎮州普化   -860
径山鑑宗 -866
睦州道蹤 780-877
長慶大安 793-883
石霜慶諸 807-888
趙州従シン 778-897
紫胡利蹤 800-880
雲居道膺 828-902
疎山匡仁 837-909
投子大同 819-914
長慶慧稜 854-932
法眼文益 885-958
帰宗道詮   -985
徳山縁密  ?-?
風穴延沼 896-973
首山省念 926-993
法灯泰欽  ?-974
梁山縁観 ?-?
雲峰文悦 998-1062
雪チョウ重顕 980-
投子義青 1032-1083
大慧宗コウ 1089
大イ慕テツ   ?-1095
真丈克文 1025-1102
圜悟克勤 1063-1135
宏智正覚 1091-1157
雪チョウ智鑑1105-1192
大医道信 580-651(四祖)
大満弘忍 601-674(五祖)
大鑑恵能 638-713(六祖)
永嘉玄覚 675-713
荷沢神会 670-758
大珠慧海 ?-?
百丈懐海 749-814
鳥カ道林  -824
大梅法常 752-839
汾州無業 759-820
五洩霊黙 747-818
雲巌曇晟 780-841
臨済義玄 815-866
夾山善会 805-881
雲巖全ケツ 828-887 
章敬懐惲 757-818
香厳智閑 ?-898
九峰道詮 930-985
玄沙師備   -908
大隋法真 834-919
雲門文エン 864-949
霊樹如敏  ?-920
洞山守初 910-990
香林澄遠 908-987
鏡清道フ  868-937
同安道丕 ?-?
龍牙居遁 835-923
永明延寿 904-975
浮山法遠 991-1067
楊岐方会 992-
黄竜慧南 1002-1069
兜率従悦 1044-1091
芙蓉道楷 1043-1118
丹霞子淳 1064-1117
雪峰慧空 1096-1158
天堂如浄 1162-1227


ダルマ

ダルマ

 その年の正月、目無しの朱のダルマに、墨で片目を入れ祈願したことがある方はご承知のことと思いますが、あの目なしの起き上がりの朱達磨、禅宗では鼻祖(ビソ)といいます。べつに鼻が大きかったからこの名を言うわけではありませんが、独特の顔と姿、色といいギョロッとにらむ目は怖さより、愛きょうさをかもちだし、選挙や入学シーズンのよき庶民の風物詩となっています。禅宗のことを、別名佛心宗ともいいますが、不立文字、教外別伝の禅宗としましては、お釈迦様の正法=佛心を初めて中国の大陸に伝えたお方という意味で、鼻祖と云います。
朝のお勤めでは祖師回向(ソシエコウ)として、初祖菩提達磨圓覺大師大和尚(シスブジダモエンカダイスダイオショウ)と唱え、初祖(シソ)と言います。中国禅宗の基礎を開いたという伝承により、現在の日本の各派臨済宗においてもそう呼ばれるています。 

 達磨は中国でいったい何をしていたのでしょうか。黙々と坐っておりましたそうです。それも壁のように。伝灯録、碧巖録にも武帝との問答等いくつかありますが、ただ中国蒿山少林寺の壁だけが無言に知るということでしょうか。

 ダルマは紀元六世紀のはじめ、飄々として北魏の都洛陽にやって来たそうだ。なんとそのときの年令は百五十才に近かったという。

《洛陽伽藍記》には『西域の沙門ボダイ・ダルマなるものがいた。パルチアからきた外国僧である。はるか辺ぴよりわが中国にきて、永寧寺の塔の承露盤が、金色の太陽をうけて雲のうえにかがやき、屋根の宝鐸が風にゆられて、高らかなひびきを空の彼方に送るのをみると、かれは思わず口に呪文をとなえる。
「これはまったく人間わざでない」。かれはまたみずからつぶやく、「わしは百五十歳のこの歳まで、さまざまの国をわたり歩いて、訪ねぬところはもうないのに、こんな美しい寺が地上にあることを知らなかった。仏の国を訪ね尽くしても、これほどのことはあるまいな」。口に「南無」と唱えて、合掌すること連日であった』とある。

 かって洛陽は、一千四百ちかくの仏教寺院が甍をつらね、なかでも永寧寺は北魏の国力を尽くして建立されたとあるから、さぞや壮大にして華美であったろう。そして九層の塔が焼失したとき、塔は三カ月間燃えつづけ地中の塔心は一年もくすぶり続けたという。達磨を驚かせた絢爛の洛陽も北魏末に灰燼と化したそうだ。
 達磨の語録が新しく発見されたのは、そんなに昔の話ではなく、比較的新しく六十年ぐらいさかのぼる。鈴木大拙の研究による。いま《二入四行論》のなかから達磨の伝記を読んでみる。達磨の伝記のなかで最古のものだ。

 (弟子曇林の序)「法師は西域の南インドの出身で、大バラモン国王の三番目の子であった。それは知性があり、なにを聞いてもすぐに理解した。志しをかねてから大いなる真理の道を極めることにおき、ために俗じんの服をぬぎ、悟りの種としての修行者となった。心を大いなる静けさにひそめ、世の中を見通し、内外の学問をきわめ、その徳は高く世の人を越えた。外国の仏教の衰えを悲しみ、ついにとおく海山を越えて中国は漢中を通り魏の国に至った。素直なこころの人々はみな帰依したが、形にとらわれたりする人は、やがて非難をしはじめた。道育(ドウイク)と恵可(エカ)という者がいた。この二人の修行僧だけは若かったが志しが高く、師に会えることを喜びとして、数年のあいだ仕えた。二人は師の言うことを良くまもり、身につけた。師も弟子たちの誠意に感じ真理の玄奥を伝えた。

このように安心(アンジン)し、
このように発行(ホツギョウ)し、
このように物に順(シタガ)い、
このように方便(ホウベン)する。

これが大いなる心のおちつける方法であり、ひとびとにくれぐれも違えないように。このように安心とは壁のようにしずかに心をおちつけることであり、発行とは四つの実践行であり、物に順うとは世俗の規則を守って世の非難をあびないことであり、方便するとは物や心の束縛をはなれて執着しない努力をいうのである。以上は法師の言うところを略して述べたもので詳細は後文にある」と記されている。
 この伝記は後に続く『二つの立場四つの実践』の序文である、二つの立場とは大いなる真理へいたる方法で、

一つは経典を読破して知識・理解によるいたり方、 もう一つは実践的ないたり方でそれには四つの方法がある。
第一は、苦しみ等にであったとき、この苦悩はみな前世の罪業からのものでありと反省し、前世のうらみや憎しみを契機としてそれらに報いる実践の方法。
第二に、生きとし生けるものはすべて自我がなく、因縁によって左右されているのだからと、縁にまかせる実践の方法。
第三は、ものを求めぬ実践の方法で、世のひとびとはつねに迷っていて、それはあたかも火のついた家のように危なく、肉体がある限りみな苦しい。何人かそのようなところに安住できようか。
第四は、物はあるべくして有るのであり、存在そのものには、物惜しみの心やむさぼりの念がなく本質的に清浄であるという原理を体得して、あるべきように生きる実践。達磨の説いたこれらは、あたかも達磨の生き方であり、それは水の高きところから低いところに流れるに似て、流れの中の岩も石も逆らわず通り抜けて流れ、ときに石を岩を押し流し、長い年月に力強く削る力に比すことができる。

 禅の語録である祖道集にはかなりの達磨に関する述部がある。それによると中国梁(リョウ)の普通八年、三年間をへて海をわたって九月二十一日、広州の港に着く。時の皇帝武帝は達磨の言葉を理解できずに、達磨を去らしめてくやしがる。同年十月十九日、達磨が北魏に入国。
ここに神光という四十を越えた男が、達磨にいくども弟子入りを願うがかなえられず、少林寺にて雪の中、法を求めるため自らの臂(ヒジ)を切り落とし坐っている達磨にその臂をさしだす。神光は、その強い切望によりようやく弟子入りがかなえられ、名を恵可と改める。

恵可は達磨に「どうか師よ私の心をおちつかせてください」と問う。
師は言う「心をもってきなさい。君の心を落ちつかせよう」。
恵可は苦汁にみちて「心を探すに見つかりません」と叫ぶ。
そのとき達磨は言う。「おまえの心をおちつかせたよ」と。恵可は言下に大悟した。

 以来、恵可は達磨に九年間昼夜を離れず仕えたとある。達磨は恵可に
「わしはこの国に来て六回も毒を盛られて殺されかけたが、そのつど毒をつまみ出した。だが今度はもうつまみ出すまい。君という法を伝える男をえたから」と言い、弟子をひきつれ禹門(ウモン)の千聖寺(センショウジ)に行き三日間滞在し、入滅する。

 後魏の第八主孝明帝の太和十九年(五三六)、世寿百五十歳。熊耳山(ユウジサン)に葬られた。三年がたって魏の国使の宋雲(ソウウン)が西域に行った帰り、手に片方の靴をもった達磨に出会い、
「君の国の天子が崩御されたぞ」と告げられたという。宋雲が魏に帰り着いてみると、はたしてその通りなので、後魏第九主孝荘帝に奏して墓を開くと、片方の靴だけがあった。この靴は少林寺に収めて供養したとある。

 ところは日本、大和の片岡、王子町王子の道端にぼろの衣をまとったすごみのある異形の僧らしい男が倒れていた。そして男の体からは何ともいえぬ香りがたちこめ、その香りはあたり一面を包んでいた。その男の姿は汚くみすぼらしかったが、どことなく気品があふれていた。推古天皇二十一年(六一二)十二月一日のことだった。

 聖徳太子はその日、供の者をつれ王子町王子を通られた。ちょうど道端に異形の男が倒れているのを目にして、ただ人と思えなく、太子は心ひかれて名を尋ねられたという。異形の男は口をかたく閉ざし太子を見上げていたという。そこで太子は男に次の歌を詠んだ。
 しなてるや片岡山に飯に飢ゑてふせる旅人あはれおやなし
 異形の男は返歌を献じた。
 いかるがや富の小川の絶えばこそわが大君の御名を忘れめ
 太子は男の衣をぬがせ、太子みずからの上ぎぬを着せ与えて帰宮されたのだが、男はその翌日に死んでしまった。

 太子は家人を差し向け手厚く葬らせた。ところが、棺の中に異形の男の遺体はなく、ただ太子の与えた上ぎぬだけが残っていた。
 それを聞いた里人は、これは達磨大師の化身にちがいないと、棺を埋葬してその上に達磨塚を築き寺を建て、太子自ら刻んだ達磨大師の像を安置したという。達磨寺の伝説である。

 この伝説は、達磨が日本に渡ったという証據であるとともに、事実としたい。なぜなら、現在日本国中いたるところに朱や白の起き上がり達磨が、毎年無数に誕生して私達に親しまれているからだ。

 だがもしかして私達のもっとすぐ近くに、本当にこの異形の男がいるかもしれない。私達が真剣に願い見ようとすれば。友達や知人が困難にあって、颯爽と立ち上がろうとするその姿そのものが、実はダルマだったりして。

慧可

慧可

 禅は中国で、その真価を発揮する。それは遥か西域を越えて達磨が東土に伝えたことを称して、達磨を鼻祖と言う。西天より数えて二十九代目の祖師であり、中国では第一祖となり、その法を慧可が伝えられたことにより、慧可は二祖と呼ばれる。禅の法系はここより始まるといって言いのだろう。

 不思議なことは、東洋の連綿と続くこの純粋性の系列は、家名や伝統、最近では企業の系列と、時代により悪役になったり善役になったりと変化する。変化する限りは、評価の判断は避けるべきだが、禅はその正統性を意義あるものにすることは確かだ。しかしそうとばかりはいえないことも、歴史的に見るとたくさん有ることは確かなのだが。

 正統性とは、今を生きるものの寄る辺に他ならないのではないか、そんな気がする。正統性を大事にしつつ、その正統性を逆に生きた、歴史に現れない祖師たちも大事な人達だ。

 二祖は中国可南省の人で、性は姫氏、父は寂といったらしい。家は貧しかったのか、裕福だったのか知り様もないが、父と母は、子供が欲しくて、神に授かりを願う睦まじい両親だったのだろう。

 後魏光文帝の永宜15年(487年)正月1日夜、光明と共に母は子を授かり、『光光』と命名されたという。15歳で五経を覚え、30歳で竜門の香山寺宝情禅師を師し、禅定を修めたという。その年東京の永和寺で具足戒を受けたという。その後、香山寺で40歳の時、夜更けに神人が現れ、南方に行けとのお告げがあり、『神光』と名を改め、南方で達磨に相見することになる。

 やがて、達磨の真理の印を受ける。そして袈裟を伝えられた。達磨は言う。
 「私が入滅して、200年経つと、この袈裟は伝える必要がない。教えが広がるからだ。道を明かにする人は多いが、道を行ずる人は少ない。理を説く人は多いが、理に通ずる人は少ない」
 以後、慧可大師は法を広めることになる。
 天平年中(559)、14歳ぐらいの一人の居士に会う。
 居士。「私は、心が病んで苦しんでいます。どうか私に懺悔させてください」
 慧可。「君の罪を持ってきなさい」
 居士。「罪を探しても見つかりません」
 慧可。「私は今、君に懺悔させ終わった。君は今、仏・法・僧の三宝に帰依いたしなさい」
 居士。「この世で何が仏であり、何が法であるか」
 慧可。「心が仏であり、心が法である。法と仏には差別がない。君はわかるか」
 居士。「今はじめてわかりました。罪の実体は、内にも外にもありません。私の心がそうであるように、法と仏に何の差もありません」
 慧可はこの居士に、剃髪し具足戒を授け、名を僧サンと付けた。『三祖僧サン』の誕生である。
 慧可が初めて達磨に師事したときは、少林寺の雪降る夜であった。太和10年12月9日とある。自らの肘を切断して、己の覚悟・決心を達磨に提示したとある。受け入れた達磨に、慧可は言う。
 慧可。「心を落ち着かせてください」
 達磨。「心を持ってきなさい」
 慧可。「心を探しても、何処にも見つかりません」
 達磨。「探せても、それがお前の心であろうか。
 慧可。「今初めて知りました。一切諸法はもとより空寂であることを。悟りは遠くにないことを。菩薩は念を動かさないで、根源的な智慧の海に至り、念を動かさないで、涅槃の岸に登られる」(筑摩書房祖堂集より)

 この時、慧可は40歳を過ぎていたという。洛陽で長期にわたり荘子・老子の学問を積んでいたというから、道についてはかなりの知識を持っていたと思われる。その心の中に達磨は無造作に手を突っ込み、蓄え積もった知識を、何の役にも立たぬものとほっぽりだしてみせた。

 この話と酷似するものが、我が国の江戸時代に、盤珪禅師の話のもあります。
 現代人にとって、身辺を徹底して、自己を問うことはあるのだろうか。
 自己破産や恋愛問題、身体的差別、老後の心配、家族関係、人間関係と悩みは古代より多く満ち溢れている。そしてより良い解決は、問題をクリアーすることに躊躇して、しかしながら、その問題の真っ只中にある躊躇する自己を、問題にすることを忘れているような気がするのです。

 当然、罪という言葉は死後に均しくなっていはしないか、誰もが自分を正統化し、間違いは他のせいにする。まして懺悔となるとなおさら遠いもののような気がします。懺悔とは、過去を悔い改める意味を持つが、実は自分自身の存在そのものが罪であり、そのことを懺悔することこそ必要なのではないか。そのために諸経典はあり、宗教がある。現代は、罰を恐れない時代というより、罰そのものの発想が希薄になっているように思えて仕方ない。

 私は判断がつかない。私は困ってしまう。そのことに悩む。しかしその悩む私の実体は、何処にあるのだろうと、問いかけた時、その実体は容易に捕まえることのできない私であったと見極めた時、この問いかけは、問いかける本人をも巻き込んで、不可得と徹した時、法華経に言う諸法実相の世界が現前する。

 もとより実体のない私が、もがく私であるわけなのだが、肝心なことはそのことを問う私こそ、癒す私自身であり、その私も実体のないことを知ることにほかならない。そしてその実体のない私は、六根(眼、耳、鼻、舌、身、意)により、他人と比較し、競う私なのです。

五洩霊黙和尚

五洩霊黙和尚

 浙江省金華県に五洩(せつ)山がある。ここに住山した事により、この名前が付けられたようである。
 馬祖をあぶりだそうとして、いろいろの僧侶を記してきたが、五洩和尚は、出家の縁は馬祖であるが、大悟は違った。こういう和尚もいたのだ。
 五洩和尚の諱は霊黙であり、浙江省紹興県は越州に生まれた。性は宣。
747年生まれの彼は、得度しない前、30歳ぐらいだと思うのだが、都へ官吏の試験を受けに行く途中、現代で言うなら少し年を取り過ぎているようにみえるが、洪州開元寺に立ち寄った。そして、馬祖にあうことになる。

 馬祖「秀才よ。何処に行こうろしているのか」
 五洩「官吏になりたくて、都へ、選官の試験を受けに行きます」
 馬祖「秀才よ、遠いなあ」
 五洩「和尚のところにも、選ぶ場所がありますか」
 馬祖「目の前にして、何を嫌うか」
 五洩「それでは、テストを受けさせてもらえるのですか」
 馬祖「秀才どころか、仏も置かぬ」
 そこで、五洩和尚は、馬祖に親しくまみえることを欲して、出家を乞い願った。
 馬祖「お前の頭を丸めてやるのはよいのだが、大事の成就は別だぞ」
 五洩和尚は、都への道をやめ、入門をゆるされて、具戒したという。

 馬祖が云う「秀才どころか、仏も置かぬ」は、官吏登用試験を受けようとしての旅の途中の若者には、理解できない言葉だろう。
 我が日本の専門道場の禅堂の額にも、『選仏場』と書かれていが、玄関に『脚下照顧』と共に、大地に何不自由なく立っている自己を見よと、道場は己の虚しさを選ぶ場所でもあると馬祖は云う。馬祖の、「遠いなあ」の言葉は、近きの自分を見つめぬ五洩への、嘆きに聞こえる。
 現代においても、選仏と官吏のテストと比較することは、同じ比重を持つと思われるが、金銭的なものを度外視して、比較する若者は、少ないかもしれない。

 選仏は、煩悩、妄想からの主体の確立を主とし、その主であることからも自由である、絶対自由の無碍道人の顕現であることから、秀才どころか、仏も置かぬは、徹底した自己の照顧が求められる。
 平成11年11月6日、禅を聞く講演会で、松原泰道師は「禅宗は、面白いところから、有り難いところへ行かなくてはいけない」と、お話していました。師のお話された通り、禅の問答は、面白く痛快に感じられるのですが、理解できたからと、それで終わっては中途半端の半病人になってしまいます。やはり、最後は有り難いところがこの上ないように思えます。
 さてある日のことです。大勢の修行僧達と共に、開元寺の西の塀の外に出たときです。突然、野鴨が飛び立ちました。

 馬祖「お前は、何者か!」
 政上座「野鴨」
 馬祖「何処に行ったか」
 政上座「飛んで過ぎ去りました」
馬祖はすかさず、政上座の耳をとって、引っ張ったものだから、政上座は、唸り声を発した。
 馬祖「まだ此処に居るではないか。どこに飛び立ったと言うのだ」
政上座は、ハッと大悟した。五洩和尚もその経緯を見つめていたが、彼は未だ、機が熟さなかった。

 五洩和尚「私は官吏の目的を捨てて、大師について出家したのですけれど、今日の日まで、何もつかめません。今、政上座の次第を見て、どうぞ慈悲を持って私に教えてください」
 馬祖「出家するならば老僧である私でもよいが、悟るならば、師は別人が、貴方には善いようだ。無駄に年を経てもいかん」
 五洩和尚「左様であるなら、正師をどうぞ、お教えください」
 馬祖「ここから、700里行ったところに、一人の禅師が居る。南岳の石頭と申す。お前がそこに行ったら、かならず善いことがあるだろう」
五洩和尚は、馬祖のもとを辞して、石頭に至って、言った。
 五洩和尚「一言でもかなう事があれば、とどまります。もしかなわなければ、去ります」
そこで、五洩和尚は、靴を履いたまま、座具を手にもち、法堂に入った。しきたりの通りの礼拝を済ませて、石頭和尚の言葉を待って、側に立った。
 石頭「何処から来た」
 五洩和尚「江西よりまいりました」と、石頭の問いの真意を汲み取れずに、地名で、答えた。
 石頭「受業は何処でしたのか」
五洩和尚は、真意を聞き取れず、だまって翻り、立ち去って、門を出ようとした、その時だった。石頭が「こらっ」と、背後から五洩和尚に、怒鳴りつけた。片足を門の外に、片足を内に置く五洩和尚は、その姿勢で振り向くと、すかさず、石頭は拳を天に突き刺して、言った。
 石頭「生まれてから死に至るまで、ただこの一人が居るだけなのに、さらに頭を振り向けて、何になるというのだ」
その言葉を聞くと、五洩和尚は面目を一新して、大悟した。その後数年石頭和尚の側に仕え、人は五洩和尚と呼んだ。

 だいぶ脚色して書いてしまったが、景徳伝灯録には、20年、石頭に師事したとあるが、下の年譜(祖堂集)と合わない。どちらが本当か私には知る由がないが、伝灯録によると、「一言でもかなう事があれば、とどまります。もしかなわなければ、去ります」の五洩の問いに対して、石頭は黙って、坐すとあり、この黙と大悟の黙=省を量る。

 しかし、我々は、石頭の大音声の言葉と、自らを提示して見せた態度に、臨場感あふれるドラマを素直に感服したい。初対面の男に、大声で叫ぶ理由は、五洩和尚の殻から今飛び出さんとする面目を認めてのことだと思う。
 これより先、曹洞宗を開創する曹山、雲居禅師を世に出す、洞山良价禅師(807-869)が五洩和尚を師として、剃髪したことを思えば、彼の功績は大きい。そして、洞山も五洩、南泉、雲嵓と行脚することをおもえば、五洩和尚に似る。

 五洩和尚は、38歳で天台山に入り、白砂道場、東道場に住し、東白山に遊んだとある。そのとき神異を現じたとある。後世の人の捕遺である。浙江省浦浦県の移り、やがて五洩山に住した。元和13年(818)3月23日示寂。72歳であったという。

石鞏慧蔵禅師

石鞏慧蔵(せききょうえぞう)禅師

 かって、玉ねぎの核には何があるのだろうかと、涙を流しながら1枚1枚皮を剥いて、たどり着いた所は、何もなかったことの記憶がある。最後の一枚をむしりとった時の驚きの姿を、今思い出すと、あの時、何を掴んだのだろうか。人間の探究心とは、面白いものだと思う。
 よく題材にしやすいのは、住む環境によって肌の色が変化するカメレオンの本当の色は、いったい何色なのだろうかという問いだろう。本当の色を求めて、様々な環境のもとに置いてみたところ、カメレオンは死んでしまった。死んだカメレオンのその色を本当の色だとし、正しい色だと主張することは、誰でも異論があることだと思う。

 コインの裏表を占う場合、投げる前の真実は、「表か、表でない」ことは本当のことです。
 この答えは人を馬鹿にした答えですが、的を得た答えでもあると思うのです。裏か表かの確率は50%ですが、「本当の確率が50%と言い換えてみれば」、本当のものとは結果として、表か裏かは、常に一つのはずですから、真実から見れば50%は何の意味を持ちませんはずです。それでは、表と予測して、裏が出れば、それは嘘になるのか。予測という言葉は、常に外れることを含んでの言葉ですので、厳密には嘘を含んでいるわけです。ですが、嘘になるためには、結果が外れなければ嘘になりませんので、結果の出ない予測は常に本当ということにもなるのではないかと思うのです。よく予知・予言めいたことが話題になりますが、どんないい加減な予知や予言もこの意味からは真実を含んでいると思われますが、いかがでしょうか?ただし、嘘を含んでのことですが。
 本当のもの、真実である言葉の響きは、かって一人の若者を狂気に狂わしたことがありました。

 『悠々たる哉(かな)天壌(てんじょう)、遼々たる哉古今、五尺の小躯を似て此大(このだい)をはからむとす。ホレーシュの哲学、竟(つい)に何等のオーソリチーを値するものぞ。万有の真相は唯一言にして悉(つく)す曰く「不可解」。我この恨(うらみ)を懐(いだ)いて煩悶(はんもん)終(つい)に死を決するに至る。既に巌頭(がんとう)に立つに及んで胸中何等の不安あるなし。初めて知る大(おおい)なる悲観は大なる楽観に一致するを』

 藤村操の『巌頭の感』の全文である。1903年5月22日、旧制高校の彼は、華厳の滝に飛び降り自殺した。当時のことは知る由もないが、この事件が起きて、彼の下宿は『悲鳴感』として同窓生達が集い、共に彼の死を、万有の真相を語り、自らを責めたと言う。
 私はホレーショの哲学も知らないし、恨みを懐いて煩悶するその内容も知らないが、『万有の真相は唯一言にして悉す曰く「不可解」』で、何故に華厳の滝が出てくるのだろうかと不思議に思う。また、「大いなる悲観は、大いなる楽観に一致する」のくだりは、悲観を突き詰めたもののみが持つ悲壮感であり、楽観と悲壮感の心は、ともに土壌が同じもののような気がする。

 自分を卑下したわけではなく、万有の真相も、自分自身も不可解の存在であると、そのことに気づくことは大切なことであると思うのだが。
 馬祖にこんな話がある。
 石鞏慧蔵(せききょうえぞう)禅師の話である。撫州(江西省臨川県)の石鞏山に住み狩猟の生活をしていたことより、石鞏という道号が付いているが、慧蔵が諱(いみな)である。馬祖との出会いは、天宝元年(742)頃、建陽の仏跡嶺に住していて、その後、撫州の西裡山にやって来てのことだ。
 その頃、慧蔵は常に弓矢を携えていて、山に分け入っては鹿を追い求めることを生業としていた。
今日も鹿を追って石鞏山の中を走っていると、たまたま馬祖の前を通り過ぎようとした。馬祖は慧蔵に向かった。

慧蔵、「和尚。鹿が通り過ぎなかったか」
馬祖、「おまえは何者だ」
慧蔵、「猟師だ」
馬祖、「おまえは弓矢が上手か」
慧蔵、「ああっ、うまいよ」
馬祖、「おまえは、一矢で何頭を射抜くか」
慧蔵、「一矢で一頭だよ」
馬祖、「上手くないな」
慧蔵、「和尚は上手いのか」
馬祖、「ああっ、上手いよ」
慧蔵、「和尚は一矢で何頭を射抜くか」
馬祖、「一矢で何頭も仕留めるぞ」
慧蔵、「皆、命である、何で何頭も仕留めることをするのか」
馬祖、「お前は既にそのことを知っているのならば、何故に自分自身を仕留めないのだ」
慧蔵、「俺が俺自身を仕留めるに、俺は俺自身を、手の下しようもないわい」
馬祖、「こやつ、今までの無明煩悩、今まさに、吹っ切れたわい」
慧蔵はすぐに気がつき、弓矢を捨てて、刀で自分の髪を切り、馬祖を師として出家してしまった。
 慧蔵が言う、「即ち手の下す処無し」は「不可解」に通じる。
後、慧蔵は常に弓矢を携えて、機に臨んで「箭(や)を看よ」と接したとある。
そんな消息が趙州録の中にある。

 『「石鞏慧蔵禅師は30年間一本の弓と2本の矢で、半人前の聖人射ただけであったといいます。今日は、どうか私を完璧に仕留めてください」
 趙州は問うた僧の自信を無視して、立ち上がって行ってしまった』。

 慧蔵は生涯、弟子を持たずに、山野に暮らしたと思うと、慧蔵に似つかわしい生涯だったろう。命の尊さを知りながらも、その命を奪うことを生業としていた慧蔵の、矢を番えて弓を張ってたたずむ姿を想像すると、胸を開いて「さあ、射よ」と言える人物がどれほどいるだろうかと思えてくる。

 馬祖に会う以前、慧蔵は僧侶が好きでなかったと書いてある。狩猟を生業としている慧蔵ゆえか、そのことを思うと、矢を射ることの尊さが光る。まして、この時代貧しい猟師にとってたくさんの獣たちを仕留めることは、自らの生活の安泰、ひいては幸福と考えていない、慧蔵の慧眼に驚かせる。そんな慧蔵の好きでなかった僧侶を志そうとは、馬祖とはどんな人物だったのだろうか、窺い知りたいと思うではないか。慧蔵の真剣さが伝わってくる。

 慧蔵にとって、手の下す処もなく、不可解なるそのものこそ、日常の働きの源泉であることとを思えば、この矢は全身の慧蔵であり、放たれた矢が貫いた私も、”不可解”そのものであると思う。いや、その不可解すら突き抜けることを、慧蔵は願っていると思うのです。でなければ、こうして語録に残される意味はないからです。


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