目次
輝いている時
夢中(ゆめのなか)
芝浜
江戸っ子
亀住町(平成13年7月1日)
モンセ・ワトキンス~夢のゆくえ~(平成14年1月3日)
新牌開眼
英霊(平成17年5月23日)
目覚め
よわい「齢」
また始めたらよい
三大聖樹(平成19年4月17日)
滅度(平成19年9月18日)
安住の地(平成20年11月15日)
心眼(平成22年3月1日)
とかくこの世は
とかくこの世は
祈り(平成17年11月29日)
品位(平成18年1月20日)
ニャンニーシンズ(平成18年3月1日)
鍵(平成18年4月25日)
チベット(平成20年5月1日)
SYOHOU
諸法
四十四の問い~ミヒャエル・エンデ
先ゆく輩
さき行く輩
祖師年譜
ダルマ
慧可
五洩霊黙和尚
石鞏慧蔵禅師
大珠慧海禅師
西川の黄三郎
馬祖道一禅師(馬大師)
五百生 百丈和尚
大梅山法常(752-839)
麻谷山宝徹禅師(平成12年1月27日)
鎮州普化(ふけ)和尚
寒山・拾得
虹の彼方に
ヘイヴン・ペックの場合―続貧しいけれど、豊かだった―
生前葬
平和を我らにーGIVE PEACE A CHANCE(平成13年10月31日)
ソクラテスとヤージャニダッタ
蓮(平成14年6月2日)
心-KOKORO(平成14年6月25日)
独り暮らし(平成15年4月12日)
老いが、咲いていた!(平成16年7月5日)
深濱-fukahama
死に顔
松山鏡(ソクラレストとヤージャニダッタの続き)
真ん中(平成20年4月1日)
百万回いきたネコ(平成21年1月1日)
夜来る鳥(平成21年1月1日)
だいじょうぶ、だいじょうぶ(平成21年2月1日)
無常への帰依
無常への帰依
希望(平成12年1月2日)
葬式坊主
泥棒
赤とんぼ
老い
……ロス
後姿
寿陵
ついで参り
目標
六道を行く
もの言わぬ羅漢達…揀択をこえて…
宮本武蔵
五合庵断章(平成10年10月17日)
K子さん!(平成12年7月19日)
今は昔
十一面観世音菩薩
尽七日忌(平成19年5月1日)
OSYOU
OSYOU
この手のひらに―禅僧の死―(平成10年11月18日)
戒(平成10年7月25日)
幽霊
みんな仏教徒(平成10年5月27日)
最後の晩餐(平成10年5月23日)
禅問答(平成10年5月31日)
分銅
天国は汝ら自身に宿る(平成10年11月24日)
宗派
穢れ(平成12年8月30日)
お彼岸
仏心
仏心
ご祈祷
施餓鬼会にて(平成17年5月28日)
永遠の命
輪廻する葦(平成10年5月27日)
連鎖する命(平成10年6月2日)
涅槃(平成10年8月12日)
鏡(平成10年7月25日加筆)
流星
TAO(平成11年1月3日)
四大
挨拶
冥福
盂蘭盆
祈り(平成14年7月4日)
仏事歳時記
再び 最後の晩餐
この手のひらにII(平成18年11月18日)
死んで生きる智慧(平成19年3月27日)
五百生(平成19年11月20日)
破地獄偈(平成20年5月24日)
この指止まれ
この指止まれ
家族と家庭(平成11年1月5日)
導師(平成11年2月26日)
家から個人へ、そして家族・友達へI
家から個人へ、そして家族・友達へII
脳死そして臓器移植(平成11年3月2日)
独り決めの生き方
僧堂I
僧堂II
僧堂III
恥じ
僧堂IV
返事
父殺し・母殺し・友だち殺し・子殺し(平成20年1月1日)
その後
その後
ほとけさま(平成17年5月1日)
仏が仏に合掌する
戒名(平成12年3月14日)
無用の用(平成12年2月21日)
世話
大きく育て!(平成11年1月18日)
しもべ(平成10年11月7日)
電話(平成10年8月22日)
意思
寡黙
妄想(平成10年8月2日)
川(平成10年8月22日)
風如(風のように)(平成10年6月18日)
追悼(平成10年5月27日)
受容(平成10年6月18日)
蒸発
臨終(平成10年6月8日)
外道
障子(平成13年3月10日)
日月(にちげつ)
年寄りの出番より
人生とは、闇を照らす一瞬の蛍の光
時の旅人
時計(平成12年1月3日)
星(平成11年10月15日)
溝(平成11年8月2日)
過去心…念の起こる処(平成11年6月19日)
与える時間(平成11年5月24日)
桜(平成12年3月2日)
無常(平成11年4月16日)
川(平成10年9月17日)
有時(時の構造)(平成12年2月5日)
時の旅人(平成12年2月1日)
揺れる木々の葉
この人生の速さはなんだ(平成14年12月26日)
法句経より-時の旅人(平成15年2月4日)
寂然不動 如春在花(寂然不動、春の花に在るが如し) (平成16年9月19日)
ZENGO
自立
橋は流れて(平成10年9月18日)
無事
過去(平成10年5月23日)
たまごっち(平成10年5月23日)
一衆觸礼(いっしゅうそくれい)
六道を輪廻する
二人三脚
生老病死
筋肉番付
ポケモン
俺は、親馬鹿か!
塵も積もれば山となる
生と死と永遠
最終章
一章
二章
三章
四章~(未完)
時間旅行
時間旅行
命の歌-母の短歌
礎-いしずえ-
離魂(平成19年8月25日)
海辺橋
海辺橋
ふるさと(平成18年3月4日)
千の風(平成18年9月16日)
人の道(平成18年9月18日)
あなたは、いつから、一年が始まりますか?(平成20年8月1日)
前住職 二十三回忌にて(平成20年9月1日)
平成21年お施餓鬼会を振り返って(平成21年6月1日)
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この手のひらにII(平成18年11月18日)

この手のひらにII(平成18年11月18日)

―禅僧の死―

 平成10年11月18日、”この手のひらに”を書いたことを思いだす。老師が亡くなって、15年目頃だったろうか、そして、8年が過ぎた。今でも、老師が元気だったらと、たびたび思うことがある。亡くなった年齢は61才だったから、あと何年かしたら自分もその年になる。

 島根県松江市奥谷町の万寿寺を自坊に、京都は南禅寺の管長と僧堂の師家として、この多忙さは、身にしみただろう。そして亡くなる何日か前、この自坊に過ごしていたと聞いた。だから一度は見たかった。ここに過ごして、ここから請われて出かけ、ここに帰ってきたから。

 平成18年10月26日、南禅僧堂の同参(僧堂で同じ釜の飯を食べた仲間)10何名が出雲は松江、玉造温泉に集まった。ここ数年は、この仲間が毎年必ず一回は何処かに集まる。一回どころか二回は必ずあつまるようになった。そして、逢瀬は、一緒に食事をし、酒を少々飲んでは羽目を少しだけ外すという、たわいもないことなのだが、同じ釜の飯を食ったというだけで、坊さんとしては、原点だからだ。元気でいさえすればよい、南虎室老師会下、同参の仲間として。
 私は、せっかく松江に集まるのだからと、万寿寺に行ったこともないし、是非、老師の墓にお参りしたいと仲間にせがんだ。考えてみれば、老師が亡くなってから、京都には何回も行きながら、僧堂にはどうしても足を向けることができない自分に、せめて松江の万寿寺に行ってみたいと思っていたことだった。そしてお墓参りをしたい。それ以前にも、松江でもう少し大きな会下の仲間が集まろうという計画があったが、老師の死でお流れになっていた。


 10月26日、出雲空港におりた私は、「とうとう来た」の思いを秘めていた。考えてみれば、この出雲は、邪馬台国の発祥の地か、日本民族の国作りの原点でもある。この地で、ラフカディー・ハーンは、松江藩士の娘小泉節子と結婚した。そういえば、彼の50回忌法要は、万寿寺で行われたと聞いたが、それは50年も前の話であった。因みに、小泉八雲は、この地域や日本の各地に行われた今は途絶えてしまった葬送の儀式の風景を残してくれた。

 その日は、玉造温泉に身体を休めて、翌日の27日、万寿寺に一同で出かけた。山門に白い塀、その塀の前には畑があり、その下には田んぼがあって、稲はきれいに刈り取られていた。畑の一部には冬野菜が少しだけ育ててあったが、米は自給するだけの量に違いないが、野菜は、少なかった。老師が南禅寺に出向してからは、この畑や稲作は、近所の知り合いが丹精していたと聞いた。

  参道を登り、山門をくぐると、左に庫裡、右に本堂がある。本堂は開け放されていた。古い木造の作りに何年が経っているのか、きっとこの方丈に何度も座り立ちと偲ばれる褸。この本堂の裏が山になっていて、屏風のように山肌がえぐられて、そこに老師はいる。そのえぐられた山肌を目指し、少し登ったところが歴代の和尚が葬られている墓域である。老師は、ここに23年になるのか、何も言わずにいる。 苔むした石像が迎えた。

 苔に覆われたその石仏は、苔に覆うがごとくまかせている。いずれは覆い被さって苔むしたこんもりとしたものになるのを許している。午前11時頃に拝塔したのだが、老師の墓は、木が鬱蒼として、木漏れ日が照らし、清々しい気分を与えてくれた。地は苔むし、幾つかの古い塔が並んでいた。

 万寿寺本堂を見下ろすかのように配列された、歴代和尚の墓、そこに勝平老師の師匠である宗達和尚、その師匠の大喜老師、さらに大喜老師の師匠の大航老師の塔もあるのだろう。案内人を頼まぬ墓参りに、宗徹老師の墓だけは、友の禅僧が先に詣った。途中で花を買い、線香は、やはり友が持参していた。その花と線香を供え、一同で、大悲呪を唱えた。突然のろうろうとした大音声に懐かしさが滲んだ。老師は何も応えない。

 大喜老師の師匠、大航老師は、「禅僧には学問は必要ない」と常々言われていた。勝平大喜老師が勉強をしたくて中学を無断で受験したとき、烈火のごとく怒った大航老師に、大喜老師は、学問への情熱で、師匠の怒りをよけた。 しかし、四髙(金沢大学)の合格発表となって、とうとう大航老師から破門を言い渡される。その後同志社大学神学部(授業料は無料だった)を卒業したのが万寿寺大先輩の大喜老師だった。

  そうした先輩禅僧を見ていた宗達師は、「これからの時代は禅僧も学問が必要だ」と感じていたと宗徹老師は言った。
  昭和16年秋、松江高校3年生だった宗徹老師は、二年半で高校を卒業し、東大に入学する。考えてみれば幼かった頃よりずっと、地方にいたとはいえ支那事変、日支事変と戦争の土音を何処かで聞いて育ち、思春期に入って、太平洋戦争のその時に、学生になり、昭和18年学徒出陣にさいして真っ先に徴兵された。23才であった。


  宗徹老師は昭和18年12月10日、呉の海軍に入隊する。任務は偵察員であり、この頃サイパン島が陥落し、沖縄にはアメリカ軍が上陸をはじめていたし、特攻という最後の作戦に頼るしかない戦況だったという。 

  特攻に志願したが、「戦争で死ぬことが、すべての解決の道と思った私は、生き残った。死んだのは、すべてあんなやさいい奴が、あんな温和しい、柔和な奴が、と思える者ばかりであった」と、”たくあん石の悟り”のなかで言っている。

  昭和20年8月15日まで、この呉の海軍兵舎で、毎日をどう過ごしていたのか、いずれにしても矛盾の中に悶々として死を決し、空を見上げる日々が訪れていたのではないかと思う。

 昭和21年、再度上京して、東大に復学した。東京は荒れて荒廃した土地と化していた。滅び去った都に、何をもって生きたのか、現実の模様は地獄に近かったのか、それとも地獄に住み自責の念と無力さに打ちひしがれていたのか、道は遠かったし、人生の意味に悩んでいたのかもしれない。
  また僧侶という生き方や資格に、自らを疑問に悩む姿があった。道は始めから引かれていた。しかしよくあることだが、その道を断念すのも、始めから引かれていて、宗徹老師も、この一本の道を改めて目指すことを、師匠や母に告げたのが、昭和26年だった。

  戦争の焼け跡は復興へとおおきく舵を切っているが、引きずっているのは、じぶん自身の矛盾した足跡なのだろう。この間の生い立ちこそ、宗徹老師の人格を語るものだと思う。しかし私には語ることはできない。

 昭和36年、宗徹老師は、修行を終えて松江の万寿寺に帰ってきた。柴山全慶老師について修行した時代、それは老師にとっては何よりもかけがえのない時間であり、老師が真っ直ぐに道を歩んでいた。師匠の宗達和尚も、老師の帰山を喜んだ。松江と京都では、気候も違うし、気質も違う。

  小泉八雲のかじり読んだ伝統が随所に残っていて、のどかではあるものの、凛とした気骨の人々が生きている。この寺にわずか6年であったが、宗達和尚と宗徹老師はともに過ごした。老いた師匠に、若く修行を全うした宗徹老師の生活はどんな模様をなしていたのか、知る由もない。


  昭和42年、寒松軒老師の5回に渡る説得に、松江をあとに、京都は南禅寺僧堂の師家に着任した。

 後年になってのことだが、宗徹老師は、僧堂での大きな見性体験を話している。

  「おのれに愛想を尽かした末にたどりついた。すべての感覚を無くし、自分が存在することすらない、狂喜じみた自分」だったと。この言葉の激しさに、宗徹老師の、自身に対する強い姿勢を思うし、あの生前の姿や動作からすると、不思議な気持ちにとらわれる。

 寒松軒老師が残した、宗徹老師への最後の言葉、それは《花のひらくことは栽培の力を仮(か)らず、自ら春風の伊(かれ)を管對するに有り》だった。

  禅語字彙によれば、さほどに世話をやかずとも、春が来れば花は自ら開く。只坐禅すれば自ら悟るときがあるの意とあった。

  花が春風を呼んだのか、春風が花を咲かせたのか、どちらも同時現成する花は、じぶん自身。寒松軒老師の遺書か遺訓か、宗徹老師のひとり進むことを強いる。自ら花となって咲くことを寒松軒老師は突きつけた。この言葉は、寒松軒老師が宗徹老師が描いた椿の絵に、賛をしたもので、この後、寒松軒老師は遷化したのだった。

 「ぱっと咲き、ぽたりと落ち、ぱっと咲いて幾百年の星霜を、人目にかからぬ山陰に落ちつきはらって暮らしている。あの色は只の赤ではない。

見ていると、ぱたり赤い奴が水の上に落ちた。静かな春に動いたものは只此一輪である。」

  夏目漱石『草枕』の一節ですが、宗徹老師にとっては、椿は寒松軒老師と重なる。それは寒松軒老師がことのほか椿を愛していたからでもある。

  山陰の地にひとり咲く赤い椿に春を感じさせるところがあると宗徹老師はいうが、私には、椿は冬を象徴とする花だとしか思えない。きびしさの中に咲く赤い花だ。耐えて耐えて咲いた椿は散り際とともにある。あの色は只の赤ではないと、まして赤い花が置かれた場所が真っ白な雪の上であったらと考えると、ゾッとする。

 庫裡にて茶を進められたが、始めから墓参りだけが頭にあった。この山陰の寺の、屏風のように山肌が削られた苔むした歴代塔のひとつに、何を見つめるか、老師の眼差しは虎視のように鋭かったが、自らをもあの虎視で見つめていたのか。
 墓に深々に頭を下げ、両耳に手のひらを空に向け、この手のひらに老師をのせること、しばし、温もりを感じながらも、これは……。今も、この山里にいてこそだろう、宗徹老師に別れを告げて参道をあとにした。 
南虎室老師祥月命日に向けて


死んで生きる智慧(平成19年3月27日)

死んで生きる智慧(平成19年3月27日)

 平成19年3月27日、桜が開花して花びらを散らす季節、長男が鎌倉はE寺専門道場に旅立っていきました。 思い出して重なるのは、昭和46年4月6日、やはり桜の季節に、京都はM寺専門道場に、私は一人雲水の旅支度で入門したことです。前日、近くの床屋さんで髪を剃っていただき、京都へ一人新幹線を乗った思い出が蘇ります。投宿さきの法衣店で、うどんの夕食を頂き、翌早朝、勇んでM寺専門道場に向かったものでした。
 それこそ右も左もわかないこの身を、修行道場に向かわせたものは、決心といったものではなく、ただただ奮い立たせる心許ないおのれ自身だったことを忘れません。それは、入門した後の生活が全く理解できない、何があるのかも不透明な気持ちを抱えての旅立ちだからです。
 そして、E禅寺の山門に発ち、歩みを専門道場の大玄関に運ばせました。網代傘を玄関の脇に立て掛け、暗く広い大玄関の縁に、膝を折り腰掛け、頭を下げ袈裟文庫に額をつけて、震える大声にて、「たのーみーまーしょう」と声をかけたのでした。庭詰めの始まりです。二日間と聞いていた庭詰めの多くの時間は、目の前の袈裟文庫の感触です。それは身体だけが頼りの、腰の痛みと、足のむくみ、頭に血が上り、腕のしびれとの戦いだったような気がいたします。 
 その庭詰(にわづ)めをして、途中、追い出し棒を居丈高に掲げて、常住(じょうじゅう=修行中の雲水と専門道場の対外的世話をする係)の雲水に、「当道場は万衆で断ったはずだ。いつまでも居るのだ、出て行け」と、玄関先に追い出され、南禅寺の境内を歩く身に、咲き誇る桜は、美しさや見事な色彩となって身を覆うことより、身に堪(こた)えたことを忘れません。境内に咲き誇る桜自身は何も語らないものの、語らせる自分自身の思いは、気ままに自由に浮かぶ思いであり、そんな世界に歩んできたことの、別な世界の期待に、のどが渇きをおぼえたものでした。明日のことは何があるか不明の、身体だけが頼りの生活を強いられる布石のような思いがあります。 
 専門道場は静けさだけが、あふれています。専門道場は、別名、僧堂とも言い、また、叢林(そうりん)とも言います、「草の乱れずして生ずるを叢(そう)といい、木の乱れずして長ずるを林という」という言葉より、修行僧をたとえて叢林といったのです。
 広く鬱蒼とした道場に、修行僧が何十人いようと、閑散とした風景は、静寂をよく表現しています。静けさが、自然に近ければ近いほど、叢林の規則がよく保たれて言えるといえます。聞こえる音は、自然の風の音であり、その風による木々の揺らぎの音であり、時たま鳴く鳥達のささやく、鳴き声でしょう。しかし、注意深く耳を澄ませれば、静寂を破る音が、時たま木霊いたします。それは、金属を打ち鳴らす音であり、板を鋭く叩く音であります。保たれた静寂を破り、乱す音は、また、かえってその静寂さを引き立たせることに気がつくでしょう。

 その静けさのうち、長い二日間が過ぎ、庭詰めを終えて、次の入門のための単荷詰(たんがづ)めへと移りました。それは、旧い木造の寮舎の中で、京壁に対面して坐禅することです。もとより坐禅の経験は乏しい身にとって、これもまた、おしりの痛さ、膝の痛さ、姿勢を保つことの困難さ、首をただし続けることの苦労に、そして何よりも心がビクビクして落ち着かない集中心の欠如に、この三日間は苦しみました。
 背中の後ろの障子は開け放たれ、緊張と眠気に、ときたまの単荷寮を通り過ぎる足音に、気が張ります。それ以外の気配は、風と、その風に舞う桜の花びらが障子に当たる音の訪れでした。緊張に寂しさが包まれて、遠いところに来てしまった思いをわき上がらせたものでした。

 この同じ道を、今、息子が歩もうとしていることを思うと、旅立ちへの哀愁に包まれます。その点、母親は強くじぶん自身に決別を言い聞かせているようです。母親の本心はわからないものの、男親は、自分が歩んだ道に重なり、男親自身の旅立ちへと続く道なのだと、改めて感慨を持ちました。そして、私の父も同じようにこの感慨を、私の旅立ちに持ったのではないかと、思いがけずに知る私の父親の気持ちを偲ぶことでもあります。

 専門道場での生活は、経験してみなければ、全く説明できないものです。しかし、数年間体験したものは、ここにこそ、禅宗の存在意義があるものだと気がつきます。
 専門道場は、はるか中国は唐の時代に生きた百丈禅師(794~814)が創造した禅宗教団のあり方を踏襲するものです。時代時代により、その時代と専門道場との関わり方は変わらずにあるようにも思えるものの、時代や国が変わればそこに生きる人にとっては、その変わり様は変わって見えるものです。今時、米、味噌を除いては自給自足だなんて、履き物はわらじと下駄に素足と、生活は何もかもがトイレだけは水洗になったみたいですが、私の時は、未だに“くみ取り式”でした。

 トイレは東司(とうす)といい、今でも、専門道場はその言葉を使用していますが、その司(つかさど)り用を足された排泄物は、雲水が天秤棒で担いで運んだものです。禅堂の側にそってあった東司から汲み出された排泄物は、畑のさきの竹藪の中に二つある置き場の一つに入れられます。コンクリートで造られたその肥置き場は、小さい頃の小学校の小プールより小さかったものの、充分と泳げる大きさであると思ったものでした。その二つある肥置き場の一方は半年ほど発酵を促し、その力を充分に殺してから畑に施肥のため蒔いたのです。

 専門道場に入り、天秤棒にぶら下がった、桶の中の生の肥では、作物に害を及ぼし、その活力を殺すこと、そこではじめて用にこたえる肥料となるものだと、天秤棒にぶら下がって桶の中の中身は踊ります。化学肥料は便利なのですが、人の生き方に例えることが出来ないのは残念です。

 深川にはじめて引っ越してきたとき、いたるところに様々な材木屋さんがありました。未だ新木場が湾岸に移る前で、木場があり、貯木場と川には、大きな材木がイカダのように繋がれて浮かんでいたのを覚えています。江戸の風情というのか、川波衆がその材木の上を渡る姿は、勇ましく、ポンポン船がそのイカダを引いている姿が、橋の上から見えたものでした。
 人から聞いたことなのですが、ああして材木を真水と海水の混ざった川水に何ヶ月もさらすことで、木の持っている力がそがれて、木材としての用途がますのだと、木の持っているソリや割れる活力を殺すのだと聞いたことがあります。専門道場も、同じ意味に繋がっています。

 それこそ夢や希望、生き甲斐や、人間の価値といった我々や個人が創り上げた世界を一度すべてふさいだあとの世界に何が残っているのか、専門道場とは、その世界を垣間見せ、そこに生きる舞台を提供する場所のような気がしてなりません。それこそ研修や学習で習得するのではなく、そこに過ごし生きるということでしか体験できない世界、自我を殺すとは、このことを言うのではないかと思います。だからこそ、数年の旅が禅寺の後継者には必要なのだと思うのです。

 ☆専門道場にての修行内容は、読経・掃除・托鉢・農作業・普請・公案・坐禅……を、朝起きたら顔を洗うように、365日、我慢するのではなく、相対的な自己を創造するのではなく、淡々と過ごして行くことにつきます。このことは、禅の大志を抱くことを含んで、やがて、今まで見たこともなかった自己の置かれている場所が見えてくれることを願うのです。
(平成19年3月27日息子の旅立ちから)

五百生(平成19年11月20日)

五百生(ごひゃくしょう)(平成19年11月20日)

 これは、今から1200年以上前、百丈懐会(ひゃくじょうえかい)禅師という方のお話しで、中国は、唐代中頃のころの話しです。まだ日本には、本格的に禅が伝わっていません。
 馬祖道一(ばそどういつ)禅師→百丈懐会禅師→黄檗希運(おうばくきうん)禅師→臨済義玄(りんざいぎげん)禅師となって、臨済宗は始まりますが、その源をたどれば、馬祖の遙か前に、達磨がいて、釈尊がいることになります。
 この頃になると、大勢の雲水を抱える禅宗教団の修行の道場は、たとえ山深い人里離れた場所であっても、まかないの惣菜(そうざい)など食糧の多くのものを自ら造って、活気のある生活をしていました。こうした生活様式は、他の仏教教団とは一線を画して、大きな違いだったのです。
 畑には、多くの野菜、お茶、牛を飼い牛乳を生産していたのです。きっと、かまどには、一日中、煙が絶えることがなかったことでしょう。
 もちろん、薪(まき)の切り出しや運搬も、雲水という修行僧の役目でした。きっと汗にまみれて作務(さむ=労働のこと)をする雲水は、汗くさかったし、衣服を買うこともままならなかったほどに、僧院は、多くの人をかかえていたと思われます。
 こうしたの禅宗の修行生活の基礎をつくった人物が百丈和尚です。百丈和尚が若かりしとき、あまりにもぼろの衣と汗くささに、図書館の官吏は、経本の閲覧を拒んだと記録にありますが、身近に感じる故事です。
 「一日作(な)さざれば、一日食(く)らわず」の言葉は、この百丈和尚の言葉で、大勢の雲水の集まりの中で、働かなければ生きて行けなかった環境があったのだろうと思いますが、それだけではなく、みずからを律し、人々のために働くという慈しみが感じられ、親しみが湧きます。
 釈迦の時代を受けつぐ南伝の仏教を、田畑を耕し、家畜を飼い、草木を伐採し、収穫をあげ、医薬をつくること等、この時代頃より遠ざけられ、大乗の仏教の変化です。多分、釈迦時代のような、大檀越が少なかったのかもしれません。その結果、集団を運営する経済感覚が養われたのだとも思います。
 典蔵(てんぞう)という賄(まかな)い係、副司(ふうす)という経理係、維那(いな)というお経係、知客(しか)という運営統括者、侍者(じしゃ)という衆僧接待係、直日(じきじつ)という衆僧統括者等という制度が確立されたのも、この百丈和尚の頃でした。
 僧院の衆僧全員により、助け合って働くことを、普請(ふしん)といいますが、この百丈和尚の言葉のようです。修行道場にて、頻繁に行われる総茶礼(そうざれい)は、修行者全員でお茶を喫することですが、働くだけではなく、その場に集う全員でお茶を喫することその中に、お茶を通して意味が生じます。「お茶にしよう!」と、知らず、この時代の言葉を我々も受け継いでいます。
 また、禅には、『道中(どうちゅう=作務を含めた行為による)の工夫』という言葉があります。それは、『靜中(じょうちゅう=坐禅による)の工夫に勝ること百千万倍』というごとく、作務という行為を通して、心を耕し、人を耕すということを発見したといえるでしょう。
 禅宗の規則という厳格さと道場の静寂は、常に心を耕しながら真を求めてやまない雲水の姿がある故です。托鉢する多くの修行僧の雁行(がんこう=雁の飛んで連なる姿)も、ホーホーというかけ声のなかにも、静けさが表れています。この修行道場の制度が在ればこそ、今でも、禅宗は保たれているといっても過言ではありません。この修行道場の制度を作られた偉業の人物こそ、百丈和尚でした。
 そんな多くの衆僧が集う僧院で、衆僧を指導する百丈和尚は、毎日、多くの修行者に法を説き、巧みに問答を仕掛けます。
 あるとき、百丈和尚は、いつも説法をしているとき、一人の老人がそっと話しを聞いていることに気がつきました。毎日のことでしたが、衆僧が退くと、知らず老人の姿も消えていました。
 そしてある日のことでした。衆僧が散々に散った後に、老人は一人のこり、百丈和尚の前に姿をさらしたのでした。
 百丈和尚は、「おまえは誰だ?」と問いかけました。
 すると、老人は答えました。
 「わたしは人間ではありません。はるか昔、それは迦葉仏(かしょうぶつ=釈迦が誕生する前の、過去七仏の六番目の仏)の時代でしたが、この山に住んでいたのです。
 あるとき、修行者が、『修行を完成した人は、因果の定めに落ちるでしょうか?』と、尋ねてきました。そこで私は、『因果の定めに落ちない』と答えたのです。
 それ以来、五百回も野狐(やこ=きつね)の身として生まれ変わりを繰り返しているのです。どうか和尚さん、わたしに替わって、この身を救うお言葉を、述べて頂きますようお願いします。」
 そして、百丈和尚に、たずねました。
 「修行を完成した人は、因果の定めに、落ちるでしょうか?」
 百丈和尚は言いました。「因果の定めを、くらまさず。」
 老人はただちに悟り礼拝しました。
 後日、百丈和尚は、修行僧に命じて、山奥の巌下に横たわる一匹の狐の骸を探し出し、亡僧の葬儀を執り行ったと言うことです。

 因果の世界とは、縁起の世界と同じで、今、わたし達が生きる世界に違いありません。この縁起ゆえに、今の私があると言えば、この因果こそ、今の私を現すものです。
 この故事に、飯田老師は、「老人何ものぞ、人にあらず、狐にあらず、神にあらず、仏にあらず、ただこれ因果じゃ。」と、今のこの私に成りきったなら、狐も人もないと、この一瞬を生きろ、因果そのものの中にこそ、おまえの生きる場所が在るではないかと諭します。別の言葉で言えば、今のあるがままのおまえ自身を、受け入れよということでしょうか。それは、自己が空なる、仏なる自覚でもあります。
 因果や縁起のない世界とは、神や仏の世界でしょうし、そこには、この問答のように、問うことも、答えることもありません。因果や縁起も、本来空なる世界です。
 その空が空の世界に住むことを、「狐が狐に安住して他をうらやまぬ時を仏と言い、人が人に満足せずして求めてやまぬ時を狐という」と、これも飯田老師の言葉です。
 因果に落ちずに住むことで、長い年月の流転を繰り返し。くらまさないで、この繋縛(けばく)が解かれます。共に答えであることが、ここに引っかかれば、因果に落ちるし、因果にくらまされると、迷妄の世界に入ってゆきます。
 自己そのものも本来空であり、因縁・業も、本来空であることを思えば、この本来空の場において、諸縁に対して真っ向に引き受けていく、これを仏道というのだと思います。

 五百回は数えることに困難な数字です。狐だからこそ、人を騙そうとするのか?考えてみれば、百丈も狐に似て、人を迷わします。五百回も繰り返して生きることができるならば、その五百世の一生一生を充実して生きれば、この老人は多生の縁を、くり返し楽しんだはずですし、煩悩と菩提のあいだの往復を繰り返したはずです。
 何ともこの世は、変化に富んで面白く、不可思議で、解ろうとすれば、人や狐を迷わします。何度となく迷ってみなければ、解らないことかも知れません。
 「因果に落ちない」で、生まれ変わり。「因果の定めをくらまさず」に、死して、再びめぐる生のない所に行ったか、どっこい、狐はここにいる。
 多回生の世界観を持つことで、再生の願望が現れ、また一回生の世界観である涅槃や解脱が現れます。仕事にしても、全存在を通して、立ち向かってゆき至れば、最早、そこにじぶん自身の存在はありません。しかし、立ち止まってみれば、因果は巡る風車のまっただ中にいたことに気づきます。
 そして、その場所で、考えてみれば、因果の世界に迷うが故にこそ、智慧や慈悲が尊ばれる世界があるとみれば、もう一度生まれ変わって、狐となり、人となるのも人間の選択肢とみれば、案外と多回生の世界こそ、人を豊かにする世界なのかも知れません。

破地獄偈(平成20年5月24日)

破地獄偈(平成20年5月24日)

 お互いが認め合うことで、たとえ、あの声が聞こえなくとも、今、話しかけたい 。たとえ、あの人が食べなくとも、今、美味しいものをお供えしたい。たとえ、喜ぶ顔が見えなくとも、お花とお香をお供えしたい。たとえ、あの姿が見えなくとも、手を合わせたい。今・ここに、いっしょに、いるから。だって、先祖の血、みんな集めて、私は、生まれたから。 

 施餓鬼会(せがきえ)の法要とは、弥勒菩薩(みろくぼさつ)の兜率天内院(とそつてんないいん)を再現しようとする試みです。
 その彌勒菩薩は、五十六億七千万年後に出現するといわれています。しかし、私たちには、待つ時間はありません。
 禅に、「釈迦も弥勒も修行中」という言葉がありますが、釈尊は過去の人、弥勒菩薩は未来の人です。ともに今逢うことができないならば、私という心の中に、釈迦と弥勒を再現させる以外に方法はないではないかと。それは、私が釈迦になり、弥勒となる以外にないではないかと。
 そのヒントが、施餓鬼会法要のお経、施餓鬼文冒頭の言葉にあります。その内容は「若し人、三世一切の仏を知らんと欲せば、まさに法界性を、一切唯心が造ると観ずべし」です。世に、破地獄偈(はじごくげ)と呼ばれるものです。
 それは、仏を知ろうと思ったならば、心が世界を創っていると見破りなさいということです。

 釈尊は、クシナガラの郊外、シャーラ(沙羅)樹の林の中で最後のメッセージを発しますが、遺教經(ゆいきょうぎょう)というお経の中にあります。
 「弟子たちよ、おまえたちは、おのおの、自らを灯火(ともしび)とし、自らをよりどころとせよ、他を頼りとしてはならない。この法を灯火(ともしび)とし、よりどころとせよ、他の教えをよりどころとしてはならない。」
 「他の教え」とは、人間が創った教えと解してよいと思います。また「自らをよりどころとせよ」の、自らとは私なのですが、これは主体性を持った私という意味です。しかも、私の手、私の足、私の身体、私の心といったふうに、対象として考えられない私という意味です。
 その私を、鏡とたとえると分かりやすく、鏡の性質に二つの特質があります。それは、鏡はあらゆるものをすべてそのまま映すということです。もう一つは、景色が変わっても、前の景色や残像を残さないということです。
 映るものは時間とともに刻々と変わるけれども、永遠に鏡の中に残るものは何もないということです。私たちの心の中に、この鏡性という、それは静けさともいえるものですが、見届けているものがあり、それを、仏性・仏・父母未生己前本来面目・一無位の真人と、禅は位置づけているといえるでしょう。
 その鏡性は、世界を映しながら、「すべての存在は本来空相であって、真実のものは何もないと見届けています。真実に存在するものは何もないのであるから、実法なしである」と、そう徹底して見ていくのが真正の見解(けんげ)といいます。
 もっとも、真に存在するものは何もないといいながらも、実際には、世界(時間と空間)は因と縁により出現したものと解釈し、その因縁がなくなれば、消滅するものと考えています。だから実法無しと、一期一会の出会いとは、真にかけがえのない出会いのことを表しています。
 「自らをよりどころとせよ」とは、よりどころとする私を見極めることの発言ですが、さらに、「この法を灯火とし、よりどころとせよ」と釈尊は重ねて告げます。

 施餓鬼分の巻頭の語、「法界性を、一切唯心が造ると観ずべし」には、法と鏡性としての心がしるされます。この法と自ら(私=鏡性)の関係を一体としてつかむことが禅の宗旨といってもよいと思います。
 臨済録には、「云何(いか)なるか是れ法。法とは是れ心法(しんぽう)なり。心法は形無くして、十方に通貫し、目前に現用す。」とあります。
 目前に現用すという意味は、「眼に在っては見るといい、耳に在っては聞くといい、鼻に在っては香をかぎ、口に在っては談論し、手に在っては執捉(しっしゃく)し、足に在っては運奔(うんぽん)す。」と、心の働きになります。
 鏡性自身は、私とも、仏とも、本来の面目とも、有とも無とも言えません。何故なら対象となるものではないからです。自らが働き出したときに、初めて対象(客観)として見ることができると解釈できます。

 臨済録には、その現れ方という関係が、主観と客観を例にとり、四通り記さています。
                  《◎記:臨済録・山田無文老師・禅文化研究所出版》
◎主観を奪ってしまって、客観の世界に実在を発見していく。
 我と世界とが一体という立場において、お互いの生活を分けていくと客観だけになってしまう。自分を忘れて映画に見とれてしまう。あるものは映画だけだ。自分というものはなくなってしまう。自分を忘れて花を眺める。我を忘れて子供を愛する。客観を生かし相手を生かしてゆく。こういう場合も人生にはある。
◎客観がなくなって、主観だけになってしまう。
 そういう場合もあるはずである。相手をすっかり忘れてしまう。思う存分に歌ってやる。舞を舞う人が思う存分舞うようなものだ。天上天下唯我独尊だ。相手も周囲も社会も、何も考えずに自由自在に人間性を生かして、我を生かし、我を肯定していく。こういう場合も許される。
◎主観も客観もなくなってしまう。
 お茶をやりながらお茶を忘れ、我を忘れておる。工場で機械を動かしながら、工場におることを忘れ、機械を忘れる。仕事と我とがピッタリ一つになって、そこに人も境も忘れてしまう。内外打成の一片の無字である。念仏三昧、そういう境地もある。
◎主観があり、客観があって、お互いのこの対立的な常識的な世界が開けてくる。
 我もあり、人もあり、世界もある。「花有り、月有り、楼台(ろうたい)有り」だ。夏になったら、涼しい浴衣でも着て、家内子供連れて、有馬温泉へ行って風呂に入り、ゆっくりと涼みながら、帰ってこようか。我もあり世界もある。こういう境地もなくてはならん。この四つの世界を自由自在に使い分けていくものが、禅というものだ。

 私たちの生活は、この主観と客観のかかわり方の変化に過ぎないのですが、その主観(私)と客観(世界)を対照的に観ていくのではなく、切っても切れない主観と客観を、一体として観ていくのが禅的な生活です。
 ただし、主観は一切主張していませんし、認めることも、求めることも、願うことも、心配することも、物語を作ることもいたしません、言葉も発しません。思うことや考えることは客観として対照的なものですから、移り変わるものです。「釈迦とは誰ですか、弥勒とは誰ですか」と問われたとき、その問いをはっきりと聴いた主観こそ、釈迦や弥勒と一つも違わない普遍的な主観です。
 この主観をつかみ、わかると、眼・耳・鼻・舌・心・意に触れるものが、そのまま実在となって現れると言えるでしょう。何故なら、一体となっているからです。
 それを、生活という中に言い表してみると、縁に随ってそのままに、夫という衣装を着け、妻という衣装を着け、サラリーマンという衣装を着て、子供という衣装を着け、親という衣装着け供養するものという衣装を着けるという、主観が客観となって働きが輝きます。
 施餓鬼会法要に参加するとは、お互いの主観がお施餓鬼という客観の世界を創造することです。お互いの心がそれを認めなかったら、このお施餓鬼は存在しえないことです。

 だから、お互いが認め合うことで、たとえ、あの声が聞こえなくとも、今、話しかけたい 。たとえ、あの人が食べなくとも、今、美味しいものをお供えしたい。たとえ、喜ぶ顔が見えなくとも、お花とお香をお供えしたい。たとえ、あの姿が見えなくとも、手を合わせたい。今・ここに、いっしょに、いるから。だって、先祖の血、みんな集めて、私は、生まれたから。 
 法とは、世の中を眺めていく眼でもあります。その眼さえ分かれば、むやみにものを求めることも、さげすむこともないはずです。それは、逆に言えば、仏を見て、お金を見て、人を見て、すべてを見ていく眼となります。山田無文老師は言います。「人生の中に尊いものを発見するのではなくして、尊いものと卑しいものとを見分けていく眼をつかむことが人間の根本問題である。その眼さえ開ければ、何を見ても美しく思うように、自分の中に美しさの種を持つようになるものです。「我を見る者は法を見る。法を見る者は我をみる」と釈尊が言うとおりです。 
 ジテンキジンシュー  我ら、なんじに供物を施さん。


この指止まれ

この指止まれ!

  一体どうしてしまったのだろうか?この国は!

 この国の未来は?
 家族の行く末は?
 子供たちの未来は?
 子孫にとっての故郷は?



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