目次
輝いている時
夢中(ゆめのなか)
芝浜
江戸っ子
亀住町(平成13年7月1日)
モンセ・ワトキンス~夢のゆくえ~(平成14年1月3日)
新牌開眼
英霊(平成17年5月23日)
目覚め
よわい「齢」
また始めたらよい
三大聖樹(平成19年4月17日)
滅度(平成19年9月18日)
安住の地(平成20年11月15日)
心眼(平成22年3月1日)
とかくこの世は
とかくこの世は
祈り(平成17年11月29日)
品位(平成18年1月20日)
ニャンニーシンズ(平成18年3月1日)
鍵(平成18年4月25日)
チベット(平成20年5月1日)
SYOHOU
諸法
四十四の問い~ミヒャエル・エンデ
先ゆく輩
さき行く輩
祖師年譜
ダルマ
慧可
五洩霊黙和尚
石鞏慧蔵禅師
大珠慧海禅師
西川の黄三郎
馬祖道一禅師(馬大師)
五百生 百丈和尚
大梅山法常(752-839)
麻谷山宝徹禅師(平成12年1月27日)
鎮州普化(ふけ)和尚
寒山・拾得
虹の彼方に
ヘイヴン・ペックの場合―続貧しいけれど、豊かだった―
生前葬
平和を我らにーGIVE PEACE A CHANCE(平成13年10月31日)
ソクラテスとヤージャニダッタ
蓮(平成14年6月2日)
心-KOKORO(平成14年6月25日)
独り暮らし(平成15年4月12日)
老いが、咲いていた!(平成16年7月5日)
深濱-fukahama
死に顔
松山鏡(ソクラレストとヤージャニダッタの続き)
真ん中(平成20年4月1日)
百万回いきたネコ(平成21年1月1日)
夜来る鳥(平成21年1月1日)
だいじょうぶ、だいじょうぶ(平成21年2月1日)
無常への帰依
無常への帰依
希望(平成12年1月2日)
葬式坊主
泥棒
赤とんぼ
老い
……ロス
後姿
寿陵
ついで参り
目標
六道を行く
もの言わぬ羅漢達…揀択をこえて…
宮本武蔵
五合庵断章(平成10年10月17日)
K子さん!(平成12年7月19日)
今は昔
十一面観世音菩薩
尽七日忌(平成19年5月1日)
OSYOU
OSYOU
この手のひらに―禅僧の死―(平成10年11月18日)
戒(平成10年7月25日)
幽霊
みんな仏教徒(平成10年5月27日)
最後の晩餐(平成10年5月23日)
禅問答(平成10年5月31日)
分銅
天国は汝ら自身に宿る(平成10年11月24日)
宗派
穢れ(平成12年8月30日)
お彼岸
仏心
仏心
ご祈祷
施餓鬼会にて(平成17年5月28日)
永遠の命
輪廻する葦(平成10年5月27日)
連鎖する命(平成10年6月2日)
涅槃(平成10年8月12日)
鏡(平成10年7月25日加筆)
流星
TAO(平成11年1月3日)
四大
挨拶
冥福
盂蘭盆
祈り(平成14年7月4日)
仏事歳時記
再び 最後の晩餐
この手のひらにII(平成18年11月18日)
死んで生きる智慧(平成19年3月27日)
五百生(平成19年11月20日)
破地獄偈(平成20年5月24日)
この指止まれ
この指止まれ
家族と家庭(平成11年1月5日)
導師(平成11年2月26日)
家から個人へ、そして家族・友達へI
家から個人へ、そして家族・友達へII
脳死そして臓器移植(平成11年3月2日)
独り決めの生き方
僧堂I
僧堂II
僧堂III
恥じ
僧堂IV
返事
父殺し・母殺し・友だち殺し・子殺し(平成20年1月1日)
その後
その後
ほとけさま(平成17年5月1日)
仏が仏に合掌する
戒名(平成12年3月14日)
無用の用(平成12年2月21日)
世話
大きく育て!(平成11年1月18日)
しもべ(平成10年11月7日)
電話(平成10年8月22日)
意思
寡黙
妄想(平成10年8月2日)
川(平成10年8月22日)
風如(風のように)(平成10年6月18日)
追悼(平成10年5月27日)
受容(平成10年6月18日)
蒸発
臨終(平成10年6月8日)
外道
障子(平成13年3月10日)
日月(にちげつ)
年寄りの出番より
人生とは、闇を照らす一瞬の蛍の光
時の旅人
時計(平成12年1月3日)
星(平成11年10月15日)
溝(平成11年8月2日)
過去心…念の起こる処(平成11年6月19日)
与える時間(平成11年5月24日)
桜(平成12年3月2日)
無常(平成11年4月16日)
川(平成10年9月17日)
有時(時の構造)(平成12年2月5日)
時の旅人(平成12年2月1日)
揺れる木々の葉
この人生の速さはなんだ(平成14年12月26日)
法句経より-時の旅人(平成15年2月4日)
寂然不動 如春在花(寂然不動、春の花に在るが如し) (平成16年9月19日)
ZENGO
自立
橋は流れて(平成10年9月18日)
無事
過去(平成10年5月23日)
たまごっち(平成10年5月23日)
一衆觸礼(いっしゅうそくれい)
六道を輪廻する
二人三脚
生老病死
筋肉番付
ポケモン
俺は、親馬鹿か!
塵も積もれば山となる
生と死と永遠
最終章
一章
二章
三章
四章~(未完)
時間旅行
時間旅行
命の歌-母の短歌
礎-いしずえ-
離魂(平成19年8月25日)
海辺橋
海辺橋
ふるさと(平成18年3月4日)
千の風(平成18年9月16日)
人の道(平成18年9月18日)
あなたは、いつから、一年が始まりますか?(平成20年8月1日)
前住職 二十三回忌にて(平成20年9月1日)
平成21年お施餓鬼会を振り返って(平成21年6月1日)
奥付
奥付

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仏事歳時記

仏事歳時記

お盆

 お盆のお経を読むため、各家々を訪問することは、それぞれに近親者を亡くした人のその後の姿に接することであり、何日、何ヶ月、何年と月日を重ねることで、新たな発見や喪失感の気づきに出会うことでもあります。お盆とは、得意な性格をもって、我々一般の日本人に問いかけてくる行事だと、この夏のお盆に考えさせられたのです。
 家々を訪ねることは、その家族の有り様をつぶさに見ることになるのですが、祖先の霊や亡き近親者が帰って来るという言い伝えは、素晴らしい智慧だと、今更ながら新鮮に感動したのでした。多分都会では、本来の意味を見失って、それぞれの家庭で、この古いしきたりを今更考えてみようなどとは思わないと思った。

 この時期多くの家族や親しかった者が集い、盆提灯や、ワラで作られた馬や牛を飾り、果物や麺類を施すことって、その集う者達にとってどんな意味があるのだろうと思ったとき、ふと、これって見えない者達を中心として、見える者達が多くの絆や関係、写真や記憶をくっしして、家族や親戚、友人との新たな関係や対話を通して、再構築を考えさせられることなのだと思い当たったのです。以前幽霊について書いた事があるのですが、お墓に13日に迎えに行き、16日に送りに行く慣習は、日本のお化けには足がないことと関係して、霊魂にも足がないことと共通している。亡くなった者は、一人では動くことが出来ないと考えると、生きている者が迎えに行かなければ、自宅に連れて来ることが出来ないのです。亡くなった者もまるで生きているかのように、一年に一回連れて換える風習は、天国の階段の扉が開く日でもあり、地獄の釜の蓋が開く日でもあるのでしょうか。
 一人でいるとき、ふと亡くなった父や母、師匠に友人を思い描くときがあります。死んだ者に、「どうしているのだろうか。もし何処かで生まれ変わっていたとしたら遇いたい」などと思うときがあります。すると、とても恋しい気持ちになるから不思議でなりません。お盆は、そんな亡くなった者の里帰りの季節なのです。今まで、この風習を祖母や祖父がしていたものと知りつつも、初盆を迎えて、どう飾りをしたらよいものか、何を揃えればよいのだろうと案じるものの、考えを整理して、この本来の意味を認識することはあまりないことです。

 この夏、私が棚経で、本当にうっかりして、一軒飛ばして行かなかったのですが、夜、その家から電話をもらって、行かなかったことに気付きました。家族が集まって待っていたのことばに、謝っただけだはすまないのですが、許してもらいました。電話の向こうのご主人を亡くした奥さんは、「息子は、親父と酒を飲みたかったのでしょう」と、息子の心を推しはかりました。そう言えば、枕行の時も、通夜の時も、葬儀の時も、納骨の時も、息子さんはじっと目を閉じ長く対面していたことを思い出しましたが、お盆という慣習や風習が、現実となり、家族にとって亡くしたモノの再確認する場合でもあり、見えない者との距離を探り推しはかる大切な場でもあるのです。見えない者との距離を探り推しはかることは、見えない者と残された者との近づくことのない、遠ざかる一方の過ぎ去った時間の経過した家族の今の姿です。

 お盆の棚経を廻って、今年はつとめて、こんな質問をしてみました。
 「お化けでも、幽霊でもいいから、どんな形でも、夢でもいいから、出てきましたか?」
 この返事に、全部が「いいえ、出て来てもらいたいのですが、普段でも、出て来ません」と、答えました。
 「出て来ないことが、無事に過ごしているのでしょう」と、まるで生きている人のことのように話す私は、「それでも、出て来てもらいたいですね」と。なかには、癌を宣告されて、余命一年と言われたものの、一人で身の処し方を考え実行しなければならない、妻を亡くした深刻な状態に追い込まれたご主人は、「少しは、俺の相談相手になってくれよ」と、声を上ずらせて話します。
 お経が落ち着くのか、生者が見えない者になってより、読経の声は節目節目に登場致します。そのことが、読経を介して、見えない者と見える者の結びつけをより堅固にしてくれればと、そうであってくれれば、悲しみの中の、私の嬉しさなのです。《平成14年8月の夏終わり》

彼岸

 此岸は、生死輪廻の迷いの世界であり、彼岸は、解脱悟りの世界を言い表すことは知られていることなのですが、この立春、立秋が彼岸会とすることは、日本独自のものだと言います。
 中国のお経には、立春・春分・立夏・夏至・立秋・秋分・立冬・冬至の八王日に読経持斎すると命が長らぐとあり、このうち春分、秋分の二つを彼岸として、法会を行ったらしいと禅学大辞典にあるが、何故に彼岸という言葉がついたかは記されていません。
 善導の『観経定善義』に、弥陀の仏国を迷える衆生に解らせる最良の日が、陽が真西に沈む日を挟んで前後一週間であり、その時期に法要を行うことによって、浄土行きへの大願を遂げることが出来るとあります。現実、此岸にいて願い祈る衆生には、西方浄土、彼岸の世界が来迎するとも言えるのでしょう。
 西方浄土と日が沈む位置が、ぴったりと重なったことを吉とするという発想は、縁起がよいものを含んでいるのでしょう。幾つかのことが重なって起きることに、吉と不吉を重ねるのは、人間の習わしでもあります。位置を特定できないが故に、重なって、近いことを教えられるのかも知れません。そうでなければ、イスラム教のメッカを指す磁石があるように、日没に、西方を礼拝する習慣が過去行われていたと思いますが、今は、あまり聞きません。
 陽岳寺は、古老の伝えで、昔、富士見寺と言われていたそうです。今は、高層ビルで見えないけれど、西に、東京タワーが見え、重なるように富士山が見えていた頃、日が沈む様子が綺麗だったことを憶えています。陽岳寺がビルになり、ビルの上層部で見る富士山が美しく輝いて見える時がいずれは来ると思いますが、次の世代に期待します。
 磁石の話しに戻しますが、イスラムの磁石の話を聞いてから、釈迦が亡くなった場所を指す磁石があってもよいと思いました。そうなると、各宗大本山があって、それを示す磁石が出来たりして、やはり滅茶苦茶になってしまうかもしれない。

 到彼岸は、ギャーテイ・ギャーテイ、ハラーギャーテイ・ハラソーギャーテイ・ボージーソワカです。行け行け彼岸ですが、同じ仏教でも、禅宗は、彼岸を他に求めず、自己に求めますので、敢えて、この春分と秋分の意味を考えれば、一年を二つに分けての春分秋分は、冬至と夏至より、立春立夏立秋立冬より際だって意味を持つことを思い起こさせます。
 彼岸の特色は、光に包まれた時間と闇に覆われた時間がバランスを持ってあると言えば、私たちはそこに、今、生きているということなのだと思います。
 私という個人は、現前と姿を変えないものの、光と闇に覆われた私の、光を陽に、闇を陰にすれば、此岸と彼岸に当てはめてもよいでしょうし、その自覚が、今を生きる姿です。

 此岸を彼岸とし、彼岸を此岸とする、道元古仏の『彼岸到』は、
「彼岸は相貌蹤跡(そうみょうしょうせき)にあらざれども、到は現成するなり、到は公案なり。修行の彼岸へいたるべしとおもうことなかれ。彼岸に修行あるがゆえに、修行すれば彼岸到なり。」とあります。
 同じく道元は、苦集滅道の四諦(したい)に関して、
「これをきき、これを修行するに、生老病死を度脱し、般涅槃(はつねはん)を究竟(くぎょう)す。この四諦を修行するに、苦・集は俗なり、滅・道は第一義なりといふは、論師の見解(けんげ)なり。もし仏法により修行するがごときは、四諦ともに唯仏与仏なり。四諦ともに法住法位なり。四諦ともに実相なり。四諦ともに仏性なり。」と、彼岸にいて彼岸に気づかない、一枚の紙の、裏と表を、表が彼岸か裏が彼岸か、気がついてみれば、表も彼岸、裏も彼岸、彼岸到の私ではないかと、苦を嫌っていたが、苦そのままで救われていたのだと、彼岸到の私に気づきます。

秋彼岸
 暑さが、その内にも涼しげな風と湿度と温度に変化するとき、秋が訪れます。「暑さ寒さも彼岸まで」と言われるように、暑さの終了を意味し、寒さに向かうという春の彼岸を一年の出発点とすれば、折り返しの地点でもあります。春の彼岸と比較して、一日の昼の長さと夜の長さが同じなものの、向かっている季節の違いから、趣も大きく異なります。
 彼岸は、向かっている季節の違いから、趣も大きく異なりますが、光と闇の中間の時間を表します。光と闇を、他の言葉で表せば、好き嫌い、辛い苦しい楽しい、損か得か、失敗か成功か……、しかし、その時そう思っても、それが結果だとしても、時間の経過によって人間の人生においては、その判断気持ちは大きく変わるものです。
 その判断し思う気持ちの今という時間を表せば、それは、私が立っている場所です。
 彼岸には、お盆と違って、多くの家族親戚友人知人が墓参りに訪れます。いかがでしょうか、お墓で故人に花を供え香を焚き、偲び姿は、個人を通して今の自分を省みる姿でもあります。墓とは、鑑のようには見えないけれど、今私が立っている心の場所を写す鑑でもあり、私が歩んできた道を照らす鑑でもあると言えば、それが今という時間の私が立っている場所ではないでしょうか。訪れる冬に向かって、勢いのある夏を過ぎて、閑かに思いを巡らせる季節であり、光と闇の闇に向かって進もうとする起点でもあると思います。

春彼岸

 長いトンネルから抜け出せば、光がまばゆいように、寒い季節につかって、暖かい季節が恋しいと、草や樹木、動物達までもが華やいで萌えいでる季節です。
 今の日本では、室内が空調機器によって、寒さから身体を守って、それを快適と言いますが、実際には、私たちの感性を曇らせていると言えます。身体のためと称して、体の機能を鈍らせることに、世を挙げて進むのが文化的というなら、その季節を語ることが出来なくなった、この四季に溢れる国に住む私たちは、何処が文化的なのでしょうか。疑問に思います。
 友人や知人多くの他人と直に言葉や動作で触れることが少なくなったがために、勝手に生きている独りよがりの人達が多くなり、閉じこもる部屋を与えられたことによって、閉じこもり現象が、カードを手にしたからこそ、カード破産が生じ、病院で亡くなる方々が増えたために、死が身近にあっても見えなくなり、すべてに原因があり結果があります。しかしその結果は原因となり、現象に過ぎないのですが、その現象に振り回されないがために、禅があるとも言えます。  代々と続く世代の途中でいなくなる我が身の果たす役割は、誠実に私を生きるということではないでしょうか。去年の秋彼岸は、二度と帰ってきません。この春彼岸は、今年限りの春彼岸です。恐れずに純真に生きるとは、老いてまだ坂を登るが如くあるから、老いが豊かであるのではないでしょうか。何処に立っているかです。老いて、若さに立てば老いは醜悪な姿かもしれません。春彼岸、前途は華やいで、花咲くことを夢見ていますし、季節が春成れば自分も春となり、身内に春を含んでいることを、まだまだ、花を咲かせる、そんな今の自覚が、春彼岸だと思います。
 「お祖母ちゃん、お祖父ちゃん、春が来て、僕は入学します。就職します。結婚します。失恋しました、でもめげません。」と、墓石の前で手を合わせる。誓う相手が見えないからこそ、将来を誓える相手を持つことに、家族の墓を持つことの意味は大きく思いますい。

暮れと正月
 お盆と比較して、この時期も、家族が集う季節です。祖霊を迎えに行きませんが、家々には神々を祀る仕度をして、迎えますが、真に向かえるものは、新しい暦です。ご来光をめでる習慣も、暦と関連づけることが出来るのではないかと思います。暦は時間ですし、時間は光と闇の織りなす模様でもあります。この暦を良しとするため、お寺では、ご祈祷をして、檀信徒の本年のご多幸を祈ります。
 彼岸は日没ですが、不思議なことに、正月は、日の出を崇めます。日の出は新しい一年の出発ですし、一日の始まりでもあります。その始まりに、かまどや水場、家々の戸口、風呂場やトイレ、床の間や玄関、道ばたの道祖神、仏壇に神棚、には新しさという神様・祖霊・仏様が宿ります。これが日出ずる国の古来の仕来りでもありました。宿った神や祖霊・仏様は、実際には、それを祀る人々の心に宿ったとも言えます。”新鮮さとか、清々しさ、新しい気持ち”とは、そのことを言います。顔を洗って冷たさに引き締まり、新しく思う。「おめでとうございます。」と人にいいながら、自分に降りかかっていることを知ります。実際は何も変わることなく、季節は巡る風車なのですが、この季節のみ新しくあるは、自分が持つ古さが自然と無くなることでもあります。総てが新しく見えることに、新年が輝く一瞬でもあります。その気持ちを一年中持ち続けることが出来ないのも我々でありますが、本来は、毎日が元日であり、輝いているはずなのです。
そこに、家族が集まって、新しさを祝う、総てが始まりの中の途中の日です。檀信徒は、墓所にお参りして、祖霊に一年の無事を祈り、一年の計を立て達成を願い、過ぎ去った一年に感謝を捧げて、それぞれが報告する。

 ※墓参りを進める文章になってしまいました。ですが、この寺に墓を持つ家族の幸せを、お寺からみての願いを、少しでも解って頂ければとおもいます。お墓参りには、寺によって少しでも顔を見せて頂ければと思います。
この文章は、別に新しく四季のお寺の行事を考え直したのとは違って、こういうふうに見なおせば、意義があるものとなることを自分に納得したかった為です。幸せを噛みしめるには、今の時代、とても難しく思います。先を見るのも占うのも結構、でも、今自分が立っている場所さえ気がつけば、そこに幸せがあることを念じます。平成14年10月3日


再び 最後の晩餐

再び 最後の晩餐

 平成10年5月23日に、最後の晩餐として、この覧に掲載しました。6年半がたち、新に、続きを記します。
そして、実名で記す、大野君子さんは、平成16年12月11日、85歳で永眠されました。陽岳寺の合霊塔に合葬されました。お心当たりの方がいましたら、ご連絡下さい。
平成16年12月13日、あなたの訃報を知らされ、葬儀とあなたの遺骨を、この寺で預かることをきめてより、午後1時30分、あなたの話しをうかがいに、あるホームにゆきました。そこで、あなたについて知り得たことはほんのわずかで、あなたの資料は、あなた自身が持って、旅立ってしまったのだと、思いました。あなたの旅立ちを立ち会うことに、わたしがふさわしいとはけっして思いません。これから、わたしが語るあなたは、わたしにとってのあなたの事実です。

 貴方のことをさがそうと、でも資料はないしと、貴方の名前の君子から探そうかと思って開いた漢和辞典。突然、君子花という花が飛び込んできました。それは、蓮の花の別名として、または、菊の花の別名としてと意味が書いてあったのです。

 四君子は、蘭・菊・梅・竹で、中国あるいは日本でも、水墨画の良き題材になっています。でも、その四君子には、蓮がはいっていません。
 でも君子花と言える植物の花は、蓮と菊です。ふと貴方のお父さんの名前が菊治さんであることが浮かびました。そして貴方が、生まれて育った入谷から吾妻、八広、京島、立花と、この下町の文化が色濃く残る町を、結婚しても出ることがなかった貴方の足跡を、この蓮の花咲く足元の泥として、地域として考えてみたのです。あなたは知ることがなかったと思うのですが、蓮は、豊かさと実りの象徴です。

 この君子花そのものを、あなたの、陽岳寺での戒名にすれば、蓮そのもの戒名に、一字を加えることで、仏の世界に導き入れることができるのではないかと、思いました。
 後の一字の意味で、あなたを表し、顕彰して、君子花と合わせて、あなたの足跡を、そしてあなた自身を、讃えたいと思います。
それにしても、あなたのことを知る手がかりは、わたしには多くはありません。でも何故、それほどまでにあなたのことを知りたいか、そこに、あなたがあなたであることの自己があるからです。

 世界とは、わたし達のことを人間というように、人と人との間というように、人が支え合っていると書くように、世界とは、人の意志や感情の交差する世界だからです。人の意志や感情の行為のうえに出来上がったもの、それが世界だからです。
 この世界ゆえに、あなたが最後に棲家としていた、ホームの、五〇二号室、それは、小さな部屋かも知れませんが、この広い世界のすべてが、あなたが暮らしている限りは、世界の中心として見つめていたことを、思いだして下さい。
 ここで知る世界のニュースは、みな田舎か辺境の遠い便りの出来事です。あなたが何とか過ごしていても、この世界に向かって、あなたの便りを発信していたことを、あなたは知らなかったはずです。じぶん自身とは、そうした世界があってこそ、確立しているものです。
 12月4日午後、わたしはあなたが、立川病院に、心筋梗塞の危険な症候が出ているため、搬送されたことを、その日の夕刻、ホームの先生の口から、聴いていました。そして、亡くなって知る、この4日以前のあなたが頻繁に買った、食べ物の伝票を見て、こうした行為も、世界に向かってあなたの情報を発信している姿なのだと、おいなりさんや、太巻きの寿司、マグロに卵焼き、カレーライスにカキフライにコロッケとレモン、毎日注文して、まるで、キリストの最後の晩餐みたいです。

 ある有名な人が、「人間の本当の最後は、何も食べられることができないのよ、だから、わたしにとっての、最後の晩餐は、ありません」とハッキリという言葉を思いだしました。そんなものかと感心していたわたしは、あなたの伝票を見て、あれは嘘だと、あなたの行為に接して思いました。やはり、現実に直面した人の、足跡は、嘘がない。
 病院に搬送されて、食事が取れなくなることを見越していたようなあなたの足跡。それは、毎日のように、昔を懐かしく思いだすように、好きだった食べ物を、もう一度食べて、昔の自分を懐かしむかのように、そして今ある自分が自分であることの、あなたの伝票が語っています。
わたしは、母の命日に、家族で、鰻をご馳走になりました。ついこの間です。父が亡くなって、父の命日には、母も含めて、わたしの子ども達と、やはり鰻を食べました。下町のご馳走は、寿司やさしみ、うなぎ、揚げ物に、カレーライスにカツ丼親子丼と、それも、家族で食べた、親しかったものと食べた、そこに、活き活きと生きる自分があったと、今の自分を自覚するからです。仏教の供養とは、今のすべての自分に対しての、自覚の供養です。

 この意味から言えば、これから、ホームの料理に出る、おいなりさんや、太巻きの寿司、マグロに卵焼き、カレーライスにカキフライにコロッケとレモンと、みんなで食事を頂くならば、あなたが生きていたことが、みんなが今生きている証明ともいえます。
「ご馳走様」と、いったとき、あなたは、「はいお粗末様でした。」と、聞こえない声が、耳をそばだてれば、聴こうとすれば、すべての食卓に、聞こえるかも知れません。わたし達には、ただ聞こえないだけなのです。聴こうとしないから……。

 人の思いや願いが、それは、人が確かな自己として存在していたということなのですが、死んでからも、わたし達の世界に留まるといえるかもしれません。この留まるという思いは、わたし達が気づかずに、自然と口からでる言葉に現れたりします。それは、わたし達の世界が、私たちの心の世界を含んでいることによってなおさらです。
 細い身体に、小さな身体、やせたからだに、小さな声、そこに、強い意志が働いて、あなたは最後の晩餐を、幾度となくしていたことになるのです。誰と一緒の晩餐だったのか、何を話していたのか、何がそうさせていたのか、人の最期を数多く看取ってきた施設長は、「意外とあることなのです」と、言います。
 そんな、あなたに贈る、わたしからの贈り字の一つは、晩餐の饗宴の饗の字です。それは、もてなす、ねぎらうから、うける、神が祭りを受け入れる、また多くの神々を祭るという意味があるのですが、この字は、また、食べ物を間に、二人が向き合うかたちでもあります。

 あなたは、大正8年10月10日、父を小芝菊次さんに、母を渡邉やすさんの長女として下谷区入谷に生まれ、昭和32年7月1日に、大野参治さんと婚姻し、吾妻町に暮らします。それにしても、その時、あなたは38歳だったはずです。
 そのご、9年がたち、昭和41年11月12日、あなたが47歳の時、参治さんが亡くなりました。この短かった出会いと別れの9年間に比し、その後のホームに入所するまでの34年間の長さ、京島で暮らすあなたは、平和に暮らしていたことになっています。その34年間、あなたが誰と、平和に暮らしていたのか、名前は知りません。そんなあなたの、親しかった人が急になくなってより、あなたは独り取り残され、にわかに体調を煩うことが多くなったようです。この体調を煩うことに、あなたの老いが、独り身を襲ったのでしょうか、老いの身体は、一人保つことは難しいことです。

 平成12年、立花ホームより、厚生病院に入院しようとしたあなたが、突然に、このホームの入所が決まって、業平のホームにショートステイーに4日間過ごし、平成12年11月17日、81歳の時、このホームに入所いたしました。
 参治さんを亡くされてより、この34年のうちの多くの月日、あなたは二人して、この“饗“という字のように、過ごしていたのではないかと思い当たったのです。だからこそ、今はなくなってしまった、二人して過ごした家が忘れられず、「家を片づけなければ、家に帰りたい」と、幾度となく言っていたのではないかと気がつきました。
 そして、もしかすると、あなたは帰れない家で、名前を知らない誰かと二人して、食事をしていたのではないかと思いました。
 おいなりさんや、太巻きの寿司、マグロに卵焼き、カレーライスにカキフライにコロッケとレモンと、あなたが最後に買い物をねだって食べていたこれらの食事が、最後の晩餐だったような気がするのです。


この手のひらにII(平成18年11月18日)

この手のひらにII(平成18年11月18日)

―禅僧の死―

 平成10年11月18日、”この手のひらに”を書いたことを思いだす。老師が亡くなって、15年目頃だったろうか、そして、8年が過ぎた。今でも、老師が元気だったらと、たびたび思うことがある。亡くなった年齢は61才だったから、あと何年かしたら自分もその年になる。

 島根県松江市奥谷町の万寿寺を自坊に、京都は南禅寺の管長と僧堂の師家として、この多忙さは、身にしみただろう。そして亡くなる何日か前、この自坊に過ごしていたと聞いた。だから一度は見たかった。ここに過ごして、ここから請われて出かけ、ここに帰ってきたから。

 平成18年10月26日、南禅僧堂の同参(僧堂で同じ釜の飯を食べた仲間)10何名が出雲は松江、玉造温泉に集まった。ここ数年は、この仲間が毎年必ず一回は何処かに集まる。一回どころか二回は必ずあつまるようになった。そして、逢瀬は、一緒に食事をし、酒を少々飲んでは羽目を少しだけ外すという、たわいもないことなのだが、同じ釜の飯を食ったというだけで、坊さんとしては、原点だからだ。元気でいさえすればよい、南虎室老師会下、同参の仲間として。
 私は、せっかく松江に集まるのだからと、万寿寺に行ったこともないし、是非、老師の墓にお参りしたいと仲間にせがんだ。考えてみれば、老師が亡くなってから、京都には何回も行きながら、僧堂にはどうしても足を向けることができない自分に、せめて松江の万寿寺に行ってみたいと思っていたことだった。そしてお墓参りをしたい。それ以前にも、松江でもう少し大きな会下の仲間が集まろうという計画があったが、老師の死でお流れになっていた。


 10月26日、出雲空港におりた私は、「とうとう来た」の思いを秘めていた。考えてみれば、この出雲は、邪馬台国の発祥の地か、日本民族の国作りの原点でもある。この地で、ラフカディー・ハーンは、松江藩士の娘小泉節子と結婚した。そういえば、彼の50回忌法要は、万寿寺で行われたと聞いたが、それは50年も前の話であった。因みに、小泉八雲は、この地域や日本の各地に行われた今は途絶えてしまった葬送の儀式の風景を残してくれた。

 その日は、玉造温泉に身体を休めて、翌日の27日、万寿寺に一同で出かけた。山門に白い塀、その塀の前には畑があり、その下には田んぼがあって、稲はきれいに刈り取られていた。畑の一部には冬野菜が少しだけ育ててあったが、米は自給するだけの量に違いないが、野菜は、少なかった。老師が南禅寺に出向してからは、この畑や稲作は、近所の知り合いが丹精していたと聞いた。

  参道を登り、山門をくぐると、左に庫裡、右に本堂がある。本堂は開け放されていた。古い木造の作りに何年が経っているのか、きっとこの方丈に何度も座り立ちと偲ばれる褸。この本堂の裏が山になっていて、屏風のように山肌がえぐられて、そこに老師はいる。そのえぐられた山肌を目指し、少し登ったところが歴代の和尚が葬られている墓域である。老師は、ここに23年になるのか、何も言わずにいる。 苔むした石像が迎えた。

 苔に覆われたその石仏は、苔に覆うがごとくまかせている。いずれは覆い被さって苔むしたこんもりとしたものになるのを許している。午前11時頃に拝塔したのだが、老師の墓は、木が鬱蒼として、木漏れ日が照らし、清々しい気分を与えてくれた。地は苔むし、幾つかの古い塔が並んでいた。

 万寿寺本堂を見下ろすかのように配列された、歴代和尚の墓、そこに勝平老師の師匠である宗達和尚、その師匠の大喜老師、さらに大喜老師の師匠の大航老師の塔もあるのだろう。案内人を頼まぬ墓参りに、宗徹老師の墓だけは、友の禅僧が先に詣った。途中で花を買い、線香は、やはり友が持参していた。その花と線香を供え、一同で、大悲呪を唱えた。突然のろうろうとした大音声に懐かしさが滲んだ。老師は何も応えない。

 大喜老師の師匠、大航老師は、「禅僧には学問は必要ない」と常々言われていた。勝平大喜老師が勉強をしたくて中学を無断で受験したとき、烈火のごとく怒った大航老師に、大喜老師は、学問への情熱で、師匠の怒りをよけた。 しかし、四髙(金沢大学)の合格発表となって、とうとう大航老師から破門を言い渡される。その後同志社大学神学部(授業料は無料だった)を卒業したのが万寿寺大先輩の大喜老師だった。

  そうした先輩禅僧を見ていた宗達師は、「これからの時代は禅僧も学問が必要だ」と感じていたと宗徹老師は言った。
  昭和16年秋、松江高校3年生だった宗徹老師は、二年半で高校を卒業し、東大に入学する。考えてみれば幼かった頃よりずっと、地方にいたとはいえ支那事変、日支事変と戦争の土音を何処かで聞いて育ち、思春期に入って、太平洋戦争のその時に、学生になり、昭和18年学徒出陣にさいして真っ先に徴兵された。23才であった。


  宗徹老師は昭和18年12月10日、呉の海軍に入隊する。任務は偵察員であり、この頃サイパン島が陥落し、沖縄にはアメリカ軍が上陸をはじめていたし、特攻という最後の作戦に頼るしかない戦況だったという。 

  特攻に志願したが、「戦争で死ぬことが、すべての解決の道と思った私は、生き残った。死んだのは、すべてあんなやさいい奴が、あんな温和しい、柔和な奴が、と思える者ばかりであった」と、”たくあん石の悟り”のなかで言っている。

  昭和20年8月15日まで、この呉の海軍兵舎で、毎日をどう過ごしていたのか、いずれにしても矛盾の中に悶々として死を決し、空を見上げる日々が訪れていたのではないかと思う。

 昭和21年、再度上京して、東大に復学した。東京は荒れて荒廃した土地と化していた。滅び去った都に、何をもって生きたのか、現実の模様は地獄に近かったのか、それとも地獄に住み自責の念と無力さに打ちひしがれていたのか、道は遠かったし、人生の意味に悩んでいたのかもしれない。
  また僧侶という生き方や資格に、自らを疑問に悩む姿があった。道は始めから引かれていた。しかしよくあることだが、その道を断念すのも、始めから引かれていて、宗徹老師も、この一本の道を改めて目指すことを、師匠や母に告げたのが、昭和26年だった。

  戦争の焼け跡は復興へとおおきく舵を切っているが、引きずっているのは、じぶん自身の矛盾した足跡なのだろう。この間の生い立ちこそ、宗徹老師の人格を語るものだと思う。しかし私には語ることはできない。

 昭和36年、宗徹老師は、修行を終えて松江の万寿寺に帰ってきた。柴山全慶老師について修行した時代、それは老師にとっては何よりもかけがえのない時間であり、老師が真っ直ぐに道を歩んでいた。師匠の宗達和尚も、老師の帰山を喜んだ。松江と京都では、気候も違うし、気質も違う。

  小泉八雲のかじり読んだ伝統が随所に残っていて、のどかではあるものの、凛とした気骨の人々が生きている。この寺にわずか6年であったが、宗達和尚と宗徹老師はともに過ごした。老いた師匠に、若く修行を全うした宗徹老師の生活はどんな模様をなしていたのか、知る由もない。


  昭和42年、寒松軒老師の5回に渡る説得に、松江をあとに、京都は南禅寺僧堂の師家に着任した。

 後年になってのことだが、宗徹老師は、僧堂での大きな見性体験を話している。

  「おのれに愛想を尽かした末にたどりついた。すべての感覚を無くし、自分が存在することすらない、狂喜じみた自分」だったと。この言葉の激しさに、宗徹老師の、自身に対する強い姿勢を思うし、あの生前の姿や動作からすると、不思議な気持ちにとらわれる。

 寒松軒老師が残した、宗徹老師への最後の言葉、それは《花のひらくことは栽培の力を仮(か)らず、自ら春風の伊(かれ)を管對するに有り》だった。

  禅語字彙によれば、さほどに世話をやかずとも、春が来れば花は自ら開く。只坐禅すれば自ら悟るときがあるの意とあった。

  花が春風を呼んだのか、春風が花を咲かせたのか、どちらも同時現成する花は、じぶん自身。寒松軒老師の遺書か遺訓か、宗徹老師のひとり進むことを強いる。自ら花となって咲くことを寒松軒老師は突きつけた。この言葉は、寒松軒老師が宗徹老師が描いた椿の絵に、賛をしたもので、この後、寒松軒老師は遷化したのだった。

 「ぱっと咲き、ぽたりと落ち、ぱっと咲いて幾百年の星霜を、人目にかからぬ山陰に落ちつきはらって暮らしている。あの色は只の赤ではない。

見ていると、ぱたり赤い奴が水の上に落ちた。静かな春に動いたものは只此一輪である。」

  夏目漱石『草枕』の一節ですが、宗徹老師にとっては、椿は寒松軒老師と重なる。それは寒松軒老師がことのほか椿を愛していたからでもある。

  山陰の地にひとり咲く赤い椿に春を感じさせるところがあると宗徹老師はいうが、私には、椿は冬を象徴とする花だとしか思えない。きびしさの中に咲く赤い花だ。耐えて耐えて咲いた椿は散り際とともにある。あの色は只の赤ではないと、まして赤い花が置かれた場所が真っ白な雪の上であったらと考えると、ゾッとする。

 庫裡にて茶を進められたが、始めから墓参りだけが頭にあった。この山陰の寺の、屏風のように山肌が削られた苔むした歴代塔のひとつに、何を見つめるか、老師の眼差しは虎視のように鋭かったが、自らをもあの虎視で見つめていたのか。
 墓に深々に頭を下げ、両耳に手のひらを空に向け、この手のひらに老師をのせること、しばし、温もりを感じながらも、これは……。今も、この山里にいてこそだろう、宗徹老師に別れを告げて参道をあとにした。 
南虎室老師祥月命日に向けて


死んで生きる智慧(平成19年3月27日)

死んで生きる智慧(平成19年3月27日)

 平成19年3月27日、桜が開花して花びらを散らす季節、長男が鎌倉はE寺専門道場に旅立っていきました。 思い出して重なるのは、昭和46年4月6日、やはり桜の季節に、京都はM寺専門道場に、私は一人雲水の旅支度で入門したことです。前日、近くの床屋さんで髪を剃っていただき、京都へ一人新幹線を乗った思い出が蘇ります。投宿さきの法衣店で、うどんの夕食を頂き、翌早朝、勇んでM寺専門道場に向かったものでした。
 それこそ右も左もわかないこの身を、修行道場に向かわせたものは、決心といったものではなく、ただただ奮い立たせる心許ないおのれ自身だったことを忘れません。それは、入門した後の生活が全く理解できない、何があるのかも不透明な気持ちを抱えての旅立ちだからです。
 そして、E禅寺の山門に発ち、歩みを専門道場の大玄関に運ばせました。網代傘を玄関の脇に立て掛け、暗く広い大玄関の縁に、膝を折り腰掛け、頭を下げ袈裟文庫に額をつけて、震える大声にて、「たのーみーまーしょう」と声をかけたのでした。庭詰めの始まりです。二日間と聞いていた庭詰めの多くの時間は、目の前の袈裟文庫の感触です。それは身体だけが頼りの、腰の痛みと、足のむくみ、頭に血が上り、腕のしびれとの戦いだったような気がいたします。 
 その庭詰(にわづ)めをして、途中、追い出し棒を居丈高に掲げて、常住(じょうじゅう=修行中の雲水と専門道場の対外的世話をする係)の雲水に、「当道場は万衆で断ったはずだ。いつまでも居るのだ、出て行け」と、玄関先に追い出され、南禅寺の境内を歩く身に、咲き誇る桜は、美しさや見事な色彩となって身を覆うことより、身に堪(こた)えたことを忘れません。境内に咲き誇る桜自身は何も語らないものの、語らせる自分自身の思いは、気ままに自由に浮かぶ思いであり、そんな世界に歩んできたことの、別な世界の期待に、のどが渇きをおぼえたものでした。明日のことは何があるか不明の、身体だけが頼りの生活を強いられる布石のような思いがあります。 
 専門道場は静けさだけが、あふれています。専門道場は、別名、僧堂とも言い、また、叢林(そうりん)とも言います、「草の乱れずして生ずるを叢(そう)といい、木の乱れずして長ずるを林という」という言葉より、修行僧をたとえて叢林といったのです。
 広く鬱蒼とした道場に、修行僧が何十人いようと、閑散とした風景は、静寂をよく表現しています。静けさが、自然に近ければ近いほど、叢林の規則がよく保たれて言えるといえます。聞こえる音は、自然の風の音であり、その風による木々の揺らぎの音であり、時たま鳴く鳥達のささやく、鳴き声でしょう。しかし、注意深く耳を澄ませれば、静寂を破る音が、時たま木霊いたします。それは、金属を打ち鳴らす音であり、板を鋭く叩く音であります。保たれた静寂を破り、乱す音は、また、かえってその静寂さを引き立たせることに気がつくでしょう。

 その静けさのうち、長い二日間が過ぎ、庭詰めを終えて、次の入門のための単荷詰(たんがづ)めへと移りました。それは、旧い木造の寮舎の中で、京壁に対面して坐禅することです。もとより坐禅の経験は乏しい身にとって、これもまた、おしりの痛さ、膝の痛さ、姿勢を保つことの困難さ、首をただし続けることの苦労に、そして何よりも心がビクビクして落ち着かない集中心の欠如に、この三日間は苦しみました。
 背中の後ろの障子は開け放たれ、緊張と眠気に、ときたまの単荷寮を通り過ぎる足音に、気が張ります。それ以外の気配は、風と、その風に舞う桜の花びらが障子に当たる音の訪れでした。緊張に寂しさが包まれて、遠いところに来てしまった思いをわき上がらせたものでした。

 この同じ道を、今、息子が歩もうとしていることを思うと、旅立ちへの哀愁に包まれます。その点、母親は強くじぶん自身に決別を言い聞かせているようです。母親の本心はわからないものの、男親は、自分が歩んだ道に重なり、男親自身の旅立ちへと続く道なのだと、改めて感慨を持ちました。そして、私の父も同じようにこの感慨を、私の旅立ちに持ったのではないかと、思いがけずに知る私の父親の気持ちを偲ぶことでもあります。

 専門道場での生活は、経験してみなければ、全く説明できないものです。しかし、数年間体験したものは、ここにこそ、禅宗の存在意義があるものだと気がつきます。
 専門道場は、はるか中国は唐の時代に生きた百丈禅師(794~814)が創造した禅宗教団のあり方を踏襲するものです。時代時代により、その時代と専門道場との関わり方は変わらずにあるようにも思えるものの、時代や国が変わればそこに生きる人にとっては、その変わり様は変わって見えるものです。今時、米、味噌を除いては自給自足だなんて、履き物はわらじと下駄に素足と、生活は何もかもがトイレだけは水洗になったみたいですが、私の時は、未だに“くみ取り式”でした。

 トイレは東司(とうす)といい、今でも、専門道場はその言葉を使用していますが、その司(つかさど)り用を足された排泄物は、雲水が天秤棒で担いで運んだものです。禅堂の側にそってあった東司から汲み出された排泄物は、畑のさきの竹藪の中に二つある置き場の一つに入れられます。コンクリートで造られたその肥置き場は、小さい頃の小学校の小プールより小さかったものの、充分と泳げる大きさであると思ったものでした。その二つある肥置き場の一方は半年ほど発酵を促し、その力を充分に殺してから畑に施肥のため蒔いたのです。

 専門道場に入り、天秤棒にぶら下がった、桶の中の生の肥では、作物に害を及ぼし、その活力を殺すこと、そこではじめて用にこたえる肥料となるものだと、天秤棒にぶら下がって桶の中の中身は踊ります。化学肥料は便利なのですが、人の生き方に例えることが出来ないのは残念です。

 深川にはじめて引っ越してきたとき、いたるところに様々な材木屋さんがありました。未だ新木場が湾岸に移る前で、木場があり、貯木場と川には、大きな材木がイカダのように繋がれて浮かんでいたのを覚えています。江戸の風情というのか、川波衆がその材木の上を渡る姿は、勇ましく、ポンポン船がそのイカダを引いている姿が、橋の上から見えたものでした。
 人から聞いたことなのですが、ああして材木を真水と海水の混ざった川水に何ヶ月もさらすことで、木の持っている力がそがれて、木材としての用途がますのだと、木の持っているソリや割れる活力を殺すのだと聞いたことがあります。専門道場も、同じ意味に繋がっています。

 それこそ夢や希望、生き甲斐や、人間の価値といった我々や個人が創り上げた世界を一度すべてふさいだあとの世界に何が残っているのか、専門道場とは、その世界を垣間見せ、そこに生きる舞台を提供する場所のような気がしてなりません。それこそ研修や学習で習得するのではなく、そこに過ごし生きるということでしか体験できない世界、自我を殺すとは、このことを言うのではないかと思います。だからこそ、数年の旅が禅寺の後継者には必要なのだと思うのです。

 ☆専門道場にての修行内容は、読経・掃除・托鉢・農作業・普請・公案・坐禅……を、朝起きたら顔を洗うように、365日、我慢するのではなく、相対的な自己を創造するのではなく、淡々と過ごして行くことにつきます。このことは、禅の大志を抱くことを含んで、やがて、今まで見たこともなかった自己の置かれている場所が見えてくれることを願うのです。
(平成19年3月27日息子の旅立ちから)

五百生(平成19年11月20日)

五百生(ごひゃくしょう)(平成19年11月20日)

 これは、今から1200年以上前、百丈懐会(ひゃくじょうえかい)禅師という方のお話しで、中国は、唐代中頃のころの話しです。まだ日本には、本格的に禅が伝わっていません。
 馬祖道一(ばそどういつ)禅師→百丈懐会禅師→黄檗希運(おうばくきうん)禅師→臨済義玄(りんざいぎげん)禅師となって、臨済宗は始まりますが、その源をたどれば、馬祖の遙か前に、達磨がいて、釈尊がいることになります。
 この頃になると、大勢の雲水を抱える禅宗教団の修行の道場は、たとえ山深い人里離れた場所であっても、まかないの惣菜(そうざい)など食糧の多くのものを自ら造って、活気のある生活をしていました。こうした生活様式は、他の仏教教団とは一線を画して、大きな違いだったのです。
 畑には、多くの野菜、お茶、牛を飼い牛乳を生産していたのです。きっと、かまどには、一日中、煙が絶えることがなかったことでしょう。
 もちろん、薪(まき)の切り出しや運搬も、雲水という修行僧の役目でした。きっと汗にまみれて作務(さむ=労働のこと)をする雲水は、汗くさかったし、衣服を買うこともままならなかったほどに、僧院は、多くの人をかかえていたと思われます。
 こうしたの禅宗の修行生活の基礎をつくった人物が百丈和尚です。百丈和尚が若かりしとき、あまりにもぼろの衣と汗くささに、図書館の官吏は、経本の閲覧を拒んだと記録にありますが、身近に感じる故事です。
 「一日作(な)さざれば、一日食(く)らわず」の言葉は、この百丈和尚の言葉で、大勢の雲水の集まりの中で、働かなければ生きて行けなかった環境があったのだろうと思いますが、それだけではなく、みずからを律し、人々のために働くという慈しみが感じられ、親しみが湧きます。
 釈迦の時代を受けつぐ南伝の仏教を、田畑を耕し、家畜を飼い、草木を伐採し、収穫をあげ、医薬をつくること等、この時代頃より遠ざけられ、大乗の仏教の変化です。多分、釈迦時代のような、大檀越が少なかったのかもしれません。その結果、集団を運営する経済感覚が養われたのだとも思います。
 典蔵(てんぞう)という賄(まかな)い係、副司(ふうす)という経理係、維那(いな)というお経係、知客(しか)という運営統括者、侍者(じしゃ)という衆僧接待係、直日(じきじつ)という衆僧統括者等という制度が確立されたのも、この百丈和尚の頃でした。
 僧院の衆僧全員により、助け合って働くことを、普請(ふしん)といいますが、この百丈和尚の言葉のようです。修行道場にて、頻繁に行われる総茶礼(そうざれい)は、修行者全員でお茶を喫することですが、働くだけではなく、その場に集う全員でお茶を喫することその中に、お茶を通して意味が生じます。「お茶にしよう!」と、知らず、この時代の言葉を我々も受け継いでいます。
 また、禅には、『道中(どうちゅう=作務を含めた行為による)の工夫』という言葉があります。それは、『靜中(じょうちゅう=坐禅による)の工夫に勝ること百千万倍』というごとく、作務という行為を通して、心を耕し、人を耕すということを発見したといえるでしょう。
 禅宗の規則という厳格さと道場の静寂は、常に心を耕しながら真を求めてやまない雲水の姿がある故です。托鉢する多くの修行僧の雁行(がんこう=雁の飛んで連なる姿)も、ホーホーというかけ声のなかにも、静けさが表れています。この修行道場の制度が在ればこそ、今でも、禅宗は保たれているといっても過言ではありません。この修行道場の制度を作られた偉業の人物こそ、百丈和尚でした。
 そんな多くの衆僧が集う僧院で、衆僧を指導する百丈和尚は、毎日、多くの修行者に法を説き、巧みに問答を仕掛けます。
 あるとき、百丈和尚は、いつも説法をしているとき、一人の老人がそっと話しを聞いていることに気がつきました。毎日のことでしたが、衆僧が退くと、知らず老人の姿も消えていました。
 そしてある日のことでした。衆僧が散々に散った後に、老人は一人のこり、百丈和尚の前に姿をさらしたのでした。
 百丈和尚は、「おまえは誰だ?」と問いかけました。
 すると、老人は答えました。
 「わたしは人間ではありません。はるか昔、それは迦葉仏(かしょうぶつ=釈迦が誕生する前の、過去七仏の六番目の仏)の時代でしたが、この山に住んでいたのです。
 あるとき、修行者が、『修行を完成した人は、因果の定めに落ちるでしょうか?』と、尋ねてきました。そこで私は、『因果の定めに落ちない』と答えたのです。
 それ以来、五百回も野狐(やこ=きつね)の身として生まれ変わりを繰り返しているのです。どうか和尚さん、わたしに替わって、この身を救うお言葉を、述べて頂きますようお願いします。」
 そして、百丈和尚に、たずねました。
 「修行を完成した人は、因果の定めに、落ちるでしょうか?」
 百丈和尚は言いました。「因果の定めを、くらまさず。」
 老人はただちに悟り礼拝しました。
 後日、百丈和尚は、修行僧に命じて、山奥の巌下に横たわる一匹の狐の骸を探し出し、亡僧の葬儀を執り行ったと言うことです。

 因果の世界とは、縁起の世界と同じで、今、わたし達が生きる世界に違いありません。この縁起ゆえに、今の私があると言えば、この因果こそ、今の私を現すものです。
 この故事に、飯田老師は、「老人何ものぞ、人にあらず、狐にあらず、神にあらず、仏にあらず、ただこれ因果じゃ。」と、今のこの私に成りきったなら、狐も人もないと、この一瞬を生きろ、因果そのものの中にこそ、おまえの生きる場所が在るではないかと諭します。別の言葉で言えば、今のあるがままのおまえ自身を、受け入れよということでしょうか。それは、自己が空なる、仏なる自覚でもあります。
 因果や縁起のない世界とは、神や仏の世界でしょうし、そこには、この問答のように、問うことも、答えることもありません。因果や縁起も、本来空なる世界です。
 その空が空の世界に住むことを、「狐が狐に安住して他をうらやまぬ時を仏と言い、人が人に満足せずして求めてやまぬ時を狐という」と、これも飯田老師の言葉です。
 因果に落ちずに住むことで、長い年月の流転を繰り返し。くらまさないで、この繋縛(けばく)が解かれます。共に答えであることが、ここに引っかかれば、因果に落ちるし、因果にくらまされると、迷妄の世界に入ってゆきます。
 自己そのものも本来空であり、因縁・業も、本来空であることを思えば、この本来空の場において、諸縁に対して真っ向に引き受けていく、これを仏道というのだと思います。

 五百回は数えることに困難な数字です。狐だからこそ、人を騙そうとするのか?考えてみれば、百丈も狐に似て、人を迷わします。五百回も繰り返して生きることができるならば、その五百世の一生一生を充実して生きれば、この老人は多生の縁を、くり返し楽しんだはずですし、煩悩と菩提のあいだの往復を繰り返したはずです。
 何ともこの世は、変化に富んで面白く、不可思議で、解ろうとすれば、人や狐を迷わします。何度となく迷ってみなければ、解らないことかも知れません。
 「因果に落ちない」で、生まれ変わり。「因果の定めをくらまさず」に、死して、再びめぐる生のない所に行ったか、どっこい、狐はここにいる。
 多回生の世界観を持つことで、再生の願望が現れ、また一回生の世界観である涅槃や解脱が現れます。仕事にしても、全存在を通して、立ち向かってゆき至れば、最早、そこにじぶん自身の存在はありません。しかし、立ち止まってみれば、因果は巡る風車のまっただ中にいたことに気づきます。
 そして、その場所で、考えてみれば、因果の世界に迷うが故にこそ、智慧や慈悲が尊ばれる世界があるとみれば、もう一度生まれ変わって、狐となり、人となるのも人間の選択肢とみれば、案外と多回生の世界こそ、人を豊かにする世界なのかも知れません。


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