目次
輝いている時
夢中(ゆめのなか)
芝浜
江戸っ子
亀住町(平成13年7月1日)
モンセ・ワトキンス~夢のゆくえ~(平成14年1月3日)
新牌開眼
英霊(平成17年5月23日)
目覚め
よわい「齢」
また始めたらよい
三大聖樹(平成19年4月17日)
滅度(平成19年9月18日)
安住の地(平成20年11月15日)
心眼(平成22年3月1日)
とかくこの世は
とかくこの世は
祈り(平成17年11月29日)
品位(平成18年1月20日)
ニャンニーシンズ(平成18年3月1日)
鍵(平成18年4月25日)
チベット(平成20年5月1日)
SYOHOU
諸法
四十四の問い~ミヒャエル・エンデ
先ゆく輩
さき行く輩
祖師年譜
ダルマ
慧可
五洩霊黙和尚
石鞏慧蔵禅師
大珠慧海禅師
西川の黄三郎
馬祖道一禅師(馬大師)
五百生 百丈和尚
大梅山法常(752-839)
麻谷山宝徹禅師(平成12年1月27日)
鎮州普化(ふけ)和尚
寒山・拾得
虹の彼方に
ヘイヴン・ペックの場合―続貧しいけれど、豊かだった―
生前葬
平和を我らにーGIVE PEACE A CHANCE(平成13年10月31日)
ソクラテスとヤージャニダッタ
蓮(平成14年6月2日)
心-KOKORO(平成14年6月25日)
独り暮らし(平成15年4月12日)
老いが、咲いていた!(平成16年7月5日)
深濱-fukahama
死に顔
松山鏡(ソクラレストとヤージャニダッタの続き)
真ん中(平成20年4月1日)
百万回いきたネコ(平成21年1月1日)
夜来る鳥(平成21年1月1日)
だいじょうぶ、だいじょうぶ(平成21年2月1日)
無常への帰依
無常への帰依
希望(平成12年1月2日)
葬式坊主
泥棒
赤とんぼ
老い
……ロス
後姿
寿陵
ついで参り
目標
六道を行く
もの言わぬ羅漢達…揀択をこえて…
宮本武蔵
五合庵断章(平成10年10月17日)
K子さん!(平成12年7月19日)
今は昔
十一面観世音菩薩
尽七日忌(平成19年5月1日)
OSYOU
OSYOU
この手のひらに―禅僧の死―(平成10年11月18日)
戒(平成10年7月25日)
幽霊
みんな仏教徒(平成10年5月27日)
最後の晩餐(平成10年5月23日)
禅問答(平成10年5月31日)
分銅
天国は汝ら自身に宿る(平成10年11月24日)
宗派
穢れ(平成12年8月30日)
お彼岸
仏心
仏心
ご祈祷
施餓鬼会にて(平成17年5月28日)
永遠の命
輪廻する葦(平成10年5月27日)
連鎖する命(平成10年6月2日)
涅槃(平成10年8月12日)
鏡(平成10年7月25日加筆)
流星
TAO(平成11年1月3日)
四大
挨拶
冥福
盂蘭盆
祈り(平成14年7月4日)
仏事歳時記
再び 最後の晩餐
この手のひらにII(平成18年11月18日)
死んで生きる智慧(平成19年3月27日)
五百生(平成19年11月20日)
破地獄偈(平成20年5月24日)
この指止まれ
この指止まれ
家族と家庭(平成11年1月5日)
導師(平成11年2月26日)
家から個人へ、そして家族・友達へI
家から個人へ、そして家族・友達へII
脳死そして臓器移植(平成11年3月2日)
独り決めの生き方
僧堂I
僧堂II
僧堂III
恥じ
僧堂IV
返事
父殺し・母殺し・友だち殺し・子殺し(平成20年1月1日)
その後
その後
ほとけさま(平成17年5月1日)
仏が仏に合掌する
戒名(平成12年3月14日)
無用の用(平成12年2月21日)
世話
大きく育て!(平成11年1月18日)
しもべ(平成10年11月7日)
電話(平成10年8月22日)
意思
寡黙
妄想(平成10年8月2日)
川(平成10年8月22日)
風如(風のように)(平成10年6月18日)
追悼(平成10年5月27日)
受容(平成10年6月18日)
蒸発
臨終(平成10年6月8日)
外道
障子(平成13年3月10日)
日月(にちげつ)
年寄りの出番より
人生とは、闇を照らす一瞬の蛍の光
時の旅人
時計(平成12年1月3日)
星(平成11年10月15日)
溝(平成11年8月2日)
過去心…念の起こる処(平成11年6月19日)
与える時間(平成11年5月24日)
桜(平成12年3月2日)
無常(平成11年4月16日)
川(平成10年9月17日)
有時(時の構造)(平成12年2月5日)
時の旅人(平成12年2月1日)
揺れる木々の葉
この人生の速さはなんだ(平成14年12月26日)
法句経より-時の旅人(平成15年2月4日)
寂然不動 如春在花(寂然不動、春の花に在るが如し) (平成16年9月19日)
ZENGO
自立
橋は流れて(平成10年9月18日)
無事
過去(平成10年5月23日)
たまごっち(平成10年5月23日)
一衆觸礼(いっしゅうそくれい)
六道を輪廻する
二人三脚
生老病死
筋肉番付
ポケモン
俺は、親馬鹿か!
塵も積もれば山となる
生と死と永遠
最終章
一章
二章
三章
四章~(未完)
時間旅行
時間旅行
命の歌-母の短歌
礎-いしずえ-
離魂(平成19年8月25日)
海辺橋
海辺橋
ふるさと(平成18年3月4日)
千の風(平成18年9月16日)
人の道(平成18年9月18日)
あなたは、いつから、一年が始まりますか?(平成20年8月1日)
前住職 二十三回忌にて(平成20年9月1日)
平成21年お施餓鬼会を振り返って(平成21年6月1日)
奥付
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涅槃(平成10年8月12日)

涅槃(平成10年8月12日)

 先日、脳の雲膜下出血にて重い脳障害が発生し、治る見こみがない人からの快気祝を頂いた。この悲しい祝い品は品物を各自で好きなものを選び、後日デパートより届くわけだが、ふと彼女も使うことが出来るのだろうかと考えてみたら、身体の中に寂しさがよぎった。
痴呆性の老人のところに、病院へ見舞いに行った時のことだった。ある時は、彼女は目をつぶり見舞いのゼリーも口にせず、このままでは寝たきりになるのも時間の問題だと見えたものだった。翌日に行った時は、彼女は私の顔を見て笑った。ふと「起きますか」との問いかけに、彼女は全身で答えたように思ったので、私はベットを起こし、大たい骨骨折の手術2週間ちょっと後の彼女の身体を足をベットから投げ出し、座らせてみた。彼女にとっては入院してから初めての腰掛だった。

 元気だったのは一日で、また、具合が悪そうに眠る彼女の真実はどちらだろうと考えたとき、どちらも本物の姿なのだと気がついた。その姿は、本人にとって悲しくも有り、見るものを辛くやりきれない思いを誘うかと思えば、歩こうとする本人の意思を感じられてうれしく思うのも事実だし、一日の内の極端な変化でもあったのだ。

そしてその辛そうな姿を見たとき、かすかに「殺して」の声に、人の一生の無常なる試練を呪った。 現代の医療では残念であるが、時がたてばやがて痴呆はもっと進んで、おそらく最後は、彼女は安らかな顔をして穏やかに眠るがごとくに,息を引き取るに違いない。そしていつか、彼女の菩提寺の和尚として,私は彼女に引導を渡すことになるだろう。後日、リハビリのための転院先で彼女は元気を取り戻し,笑顔が戻ったのが何よりうれしく思うと同時に、繰り返しの時間の進行の最先端は不確実性の真っ只中であるとつくづく思うのです。ただただ老年の姿の変わり身の早さとそれに追いつかない老年の心の中を、何とかしてあげたいと思うのですが、出来るのは祈りと希望を与えることのできない自分への慙愧さのみです。

古来より仏教では、人は生まれ変わり死に変わりして、人の魂は永遠に輪廻を繰り返すと説いてきました。しかし現代では、現代と思っているのは私だけかもしれませんが、過去より未来永劫の間、人の魂が他の肉体に宿り繰り返すというようなことは想像の範囲を超えることであり、まして事実であるとは断定できないことと思うのです。しかしながら、ある一面においては、万物一体、地球は一つ、生命の連鎖と密接に関連していることと考えると、そっとしといたほうが優雅であると思うのです。

現在に至るまで、人は何兆人だか知らないが人の死のおかげで現在の自分があるわけですが、その人達の記憶と、遺体を含めての糞尿すら地上に記憶を留めていない。しいて言えば我々の大地がその存在の証になるわけで、このことは物質としての肉体の循環=リサイクルこそ、大地が人を生物を育むのは自明のことです。豊かな大地あるいは母なる大地が最も大切なことは、あたりまえのことです。その大地に人の肉体が消えて行くとき、人の思いや魂は何処に行くのだろうか?

過去、仏教の聖地インドではカースト制度や厳しい環境下、貧富や身分の差が激しく這い上がることなど困難な社会において絶望と悲嘆の交差する生に、更に生まれても生まれても辛く苦しい社会において生きるとしたなら、また限りなく困難な生を繰り返すとしたら、人は死んでも死にきれない。次の誕生に恐れ絶望を抱いたであろう。
過去の世界から翻って現代を考えてみると、このことは現代でも生命の連鎖を繰り返す人にとって、十分に通じることなのだ。公害病に散々悩まさられ、辛く苦しい戦いを強いられた人々。ベトナムの枯葉剤による遺伝子変化は現在も悲惨なる現実の問題としてテレビにて報道される。ダイオキシンによる被害は数年先の未来を予感させる。オゾン層破壊はどうか?各種の食品添加物の問題。船舶の鉛塗料と海洋汚染。海洋投棄とゴミ埋め立てによる有害物質流出の問題は、海だけでなく、飲み水と作物への影響が心配であると同時に、これはいずれ一人一人の問題として、個人にのしかかってくる。

つい最近まで日本の水道水は安全であったはずである。浄水機や安全な水を我々は今求めている。ごく近い将来、安全な空気を販売する時代になると否定することは、あながち出来ないのではないか。自分の脳を含めて身体中ガンに犯され、また環境汚染により免疫力の極端な低下にさいなまれ、多くの人類が「生きたい!でも殺してくれ」と叫ぶ未来がくるかもしれない。しかしながら、もし怨念やたたりが、映画「もののけ姫」のように現実に存在したならば、水俣の空はいつもどんよりと曇っているはずである。日本中いや世界中の戦争や被爆地、災害や事故の地は怖くて歩けない。

次の世代は過去の世代による負の恩恵の生活を強いられるとしたら、まさに人は命の連鎖を絶たねばならない時代に突入している。その上で人は生き続けなければならない、生きながら人は命の連鎖を絶たなければならぬだろう。ここに禅の必要性がある。
釈尊の悟った涅槃の内容を竹村牧男氏は著作【仏教は本当に意味があるか】で《マッジマニカーヤ》の中の《聖求経》の文を紹介しています。
『修行僧らよ。かくしてわたくしはみずから生ずるたちのものでありながら、生ずることがらのうちに患いを見て、不生なる無上の安穏・安らぎ(ニルバーナ)を求めて、不生なる無上の安穏・安らぎを得た。みずから、老いるもの、病むもの・死ぬもの・憂うるもの・汚れたもののうちに患いのあることを知って、不老・不病・不死・不憂・不汚なる無上の安穏・安らぎを求めて、不老・不病・不死・不憂・不汚なる無上の安穏・安らぎを得た。そうしてわれに知と見とが生じた、-「わが解脱は不動である。これは最後の生存である。もはや再び生存することはない』

牧村氏は、この本の中において釈尊の無上正等覚いわゆる悟り、そして解脱・涅槃を過去の仏典を屈指して追跡していて大変に面白い。
禅において最重要なことは、釈尊の追体験以外にない。この立場に立ってこそ、釈迦・達磨は大先輩になり、臨済、黄檗、南泉は先輩になることができるでしょう。そしてこの立場に立って更に一歩を踏み出すことがそれぞれの独立とした境涯をかもちだすことになると思うのです。その一歩を踏み出した言葉を禅録で見てみましょう。

「和尚は百年の後どこに行かれますか」
南泉和尚「山下の檀家で一頭の水牛になる」

「凡の次元より聖の次元に入ることはさておいて、聖の次元より凡の次元に入るとは、どういう場合でしょうか」
曹山和尚「一頭の水牛に成りきるところ」

南泉和尚は、日ごろ「およそ沙門たるものは、畜生の生活を行じなくてはならなぬ。畜生の生活を行じなければ、道理というものはない」と説いた。
「そもそも、南泉は何のつもりこのことを言ったのでしょう」
帰宗和尚「畜生を行じても、畜生の報いを受けぬところだよ」

趙州和尚「実在を知っている人は、どこで休止しますか」
南泉和尚「山の下で一頭の水牛になる」

南泉和尚「諸仏祖師は有を知らぬ、山猫や狸狐の部類は却って有を知る」

古来、南泉和尚が活躍していた時代、やはり前世の負債を重く背負った個人が死んでなお負債を払うという時代でした。一般には死んで浄土をめざすわけですが、南泉和尚を含めてすべての禅僧は西方浄土に旅立ちません。畜生となって働き生活し、活発に心を躍らせることに、人としての活躍する場所があると受け止めます。また畜生を自らの煩悩と言い換えてみますと、悩みや苦しみの真っ只中に宿命を背負うことにもなるわけです。真っ向受け止めむしろ積極的に悩みや苦しみの中に生きるところに、本来の自己が主体となって、自己が新たに世界にかかわって行くことになります。そこに悲壮感はなく却って爽快感こそ見て取れると思うのです。

私は自由という言葉をよく口にいたします。そして、その自由の表現として、自己の世界の一瞬の耀きと言います。この耀きのまま、不自由のまっただ中に没入したとき、輪廻あるいは生・老・病・死を超えて、あるがままの自己と真の自由を得ることが出来ると思うのです。このことは『鏡』において書いたごとくの自由なもののみ方と、だけど自分はこう狭くしか見ることが出来ないのだという、諦めの中での落ち着きどころに似て、すべては元のままの現風景を映し出して、自己の主体は細部を見ることも可能となります。

武者利光氏の著作『ゆらぎの発想』のなかで、「ゆらぐことが生きていることの証であるということを知り、迷いが多くて自信を失っていた自分に生きる力がわいてきました」と、読者の感想がありました。
氏は「常に典型(標準型)からのゆらぎが存在することによって、典型の近くにどんな異なった生存の条件があるのかを認識することができます。つまりゆらぎは、典型の近くにある、さまざまな生存のための条件を認識するための、触覚の役割を果たしているということが言えましょう」と言います。典型を見極める自己の鏡がとても大事なことです。武者氏には叱られてしまうかも知れませんが、典型を平常時の心と置き換え、ゆらぎを感情の変化や悩み苦しみと置き換えてみますと、「ものごとなんでも進化するためには、ゆらぎが必要です」の進化を生きる力、たくましさ、積極性と置き換えますと、悩みやつらさマイナスものこそ、人を人として自立させる糧になります。

更に煩悩を《ゆらぎ》とみた場合、そこに落ち着き場所をもうけてしばし、ゆらぎの中で、じっくりと自らのゆらぎと付き合ってみてはいかがでしょうか。南泉和尚も喜ぶかも知れません。
武者利光氏の言葉です。
『人間の進化にもゆらぎが必要ですか?
私が高校生の頃、生物の教師に「君たちは、親に似ることが遺伝だと思っているが、実は似ないのも遺伝なのだよ」といわれました。当時は何を言っているのか、その意味がよくわかりませんでしたが、ゆらぎを相手にしていると、わかるようになりました。進化にはゆらぎが必要です。親と子が全く同じ、子どもと孫が全く同じだとすると,進化はありません。進化がなければ、その生物は環境に適応できなくなるときがあります。生物の形態が、全く同じではなく,少しずつ似ていないという遺伝があって、初めて進化することができます。この親と子の違い、子と孫の違いが、ゆらぎです。

物事、なんでも進化するためには「ゆらぎ」が必要です。生物の形態がゆらいで,その中から環境に適したものが選ばれて生き残っていくことになります。』
私は、武者氏の”進化”を”成長”や”老い”と読み替えてみますと、このゆらぎの意味することは大変に興味深く、あるときは悩みに、また立ち止まって深く自分の存在について考えてみる思索のことだったりと自分のことに当てはめてみるとわかると思います。ゆらぎの中に自らの存在の涌き出る泉があるように思います。

もともと人の心は常に耀いて、生き生きと活発に活動しています。そこのところをどう見るかです。 「心は太虚を包んで元気を孕むものなり」マイナスはプラスに、プラスはマイナスに、自由は一心にありというところです。


鏡(平成10年7月25日加筆)

鏡(平成10年7月25日加筆)

 鏡に鏡を映すと、鏡はその性質をいかんなく発揮して限りなく鏡を映す行為を重ねる。その闘志は滑稽に見えて悲しい。
人は外出の時に目的や場所を思案して服を選ぶ。その服が季節と合っているだろうか、乱れていないだろうか、おかしくはないだろうかと鏡の前に立つ。鏡は鏡の前にある事物を忠実にただありのままに映すのだ。人は鏡の持つ客観性をおのずから知り鏡の前に立つが、おのれ自身に客観性を持たぬことを知らない。それゆえ鏡の前に立つことは必然に長くなるが、独断にたければ短くなるのも道理に違いない。

 幾世代にわたって人は鏡の持つ魔力に引かれ、数多くの物語をつくり、そして考えてきた。鏡の前で「この世で一番美しい人は誰か」と問う女性がいたり、水面に映る自分の容姿にうっとりと時を忘れる人もいた。鏡の前に据わり涙を流す女性を映した映画を見たこともあった。鏡の前に立つことはこれから始まるドラマの初めであったり、あるいは終幕の後であったりと。鏡に向かって口紅をさす女性はけっして鏡の中の女性自身に、口紅を塗ることはできないのが不思議に思えたりもする。

鏡の色を考えてみるとき、日常よく使う鏡は銀色の鏡なのだが、ものを映す鏡の中の鏡の色は自分の色を持ってはいない。もちろん銀色でなくてもよいわけで、内容は表面粒子の細かさとか並び方が光沢を造るのだろうか。すると、鏡とは物質の表面の状態をたんに云うだけであって、物質は問わないのかもしれない。物質の表面の輝きが鏡を造るとしたならば、鏡自身が自分の色を持ち得なくなったときに初めて、鏡は鏡となるのだろうか。

昔、中国で瓦を一生懸命に磨いて、鏡を造ろうとする禅僧がいた。心を磨いて仏心を造る喩え話なのだが、ひょっとしたら現代の技術を使ったら鏡になっていたかもしれない。すると歴史は少し違っていたかもしれない。
人は自分自身の中に何らかの鏡を持つといえる。

江戸時代、赤穂に盤珪禅師がいた。不生の仏心を広めた禅師であり、禅師の説く不生の仏心の話はわかりやすく庶民に好かれた。
説法の日に、「私が話すことを聞こうと思って、この場所に皆さんおいで下さいました。ですが、話を聞いている間にも、皆さんの不生の仏心は、寺の外にて、犬が鳴きますると、犬の声と聞き知り、鳥が鳴きますると鳥と知ります。目には赤白の色を見分け、鼻によしあしの香りをかぎしります。見ようの聞こうのと覚悟無くて、見たり聞いたり致すところが、霊妙な仏心が不生にして、見聞きすると申すものでござる」

「仏心は不生にして、しかも霊妙でござる。仏心には念と物が在りませんから、色々様々の念が起ころうが、払おうとも、止めようともかまわず、取り合わねば、自然と不生の仏心に叶いまする。不生の仏心にはもともと、迷い無いことを知りなさい。また、一切をよく照らし別けまする」
「鏡は元来無心なものでござる。写りたる影を除こうとも、除くまいとも存ぜず致さぬが、明鏡の徳と言います」
「見ようとも思わずして、20年来の友来れば、友と知り、火にかざせば熱いと知る、霊妙なる徳というものでござる」

私がまだ高校生の頃だったと思うが、夏休みに信州の霧が峰に行ったことがあった。ただ覚えていることは真っ白な世界だったことだ。冷たい風に霧の白い濃淡が流れて、私が流されているのかのように錯覚したことがあった。自然の猛威と美しさの中で、くるくる舞う小さな舟のような自分の存在が、何かに向かって太刀打ちできない存在だということを思い知らされるかのように、それは美しい怖さだったと思う。白い闇に違いない。
鏡は暗闇の中で、像を映しているだろうか。それは光の無い世界で、物を映すという行為はあり得るのだろうか。光がなければ物は鏡に映る筈がない。鏡が私自身だとすると、闇にあるのは私の意識そのものを映すことになるのだろう。

年老いてここは何処、家に帰らなければと自分の安らぐ居場所を求めて、非日常の少女時代の我が家や兄弟を探してさまよう老人の鏡は、いったい現実の何を映しているのだろうか。鏡は鏡として忠実に現実の在りようを映していることに間違いはないのだが、老女は闇の中にいると変わらぬ。光り輝く現実その物が闇と化した老女の心意識は辛く苦しい。
辛く苦しいがゆえに、自分自身をも忘れて欲しいと思うのだが、人は自分自身を忘れることは至難の技だ。そうして夢の中の世界を「ここは、どこ!」と、今日もさまようすがたは、悲しく痛ましく感じる。健康で、ものの判断力は一人前と何ら不思議に思わない健常者の鏡は、はたして現実をそのものに映しているのだろうか。おそらく誰一人として、忠実に映している人はいまい。だから、人は迷い、苦しむ。そして、楽しいのである。ここに、人間の地に付かぬ原点があると思うのだが、どなたかお聞かせ願いたいものである。

先日ごく親しい友人と話していて、彼の言った言葉が示唆に富んでいる。彼は週末になると聖路加ガーデンにて水泳をするのだが、最初の300メートル400メートルを泳ぐのに息を切らして何年もかかってしまった。700メートルを連続して泳ぐのに数ヶ月かかった。其れから2,3ヶ月で何時間も泳げるようになったのだが、
「2キロぐらいは泳ぐだろうか、まず背骨をまっすぐに意識して肩の力をぬき、全身の力をぬいて泳ぐのだが、不思議なのは水の抵抗を意識しなくなってしまうことなんです」
自己に鞭打ってがんばるその先に、頑張らなくても全うする忘我の自分は、すべてを見とおしていて、染まらない自分でもある。そういえば、平成10年の不景気に、

「実は、こういう景気だからこそうちらあたりの商売に光があたるのです」と言った人がいました。多品種少量の廉価で機能性に富んでいるカバンの会社なのだが、多品種ゆえに生み出すのが大変と思われたが、「大変だったのはもう通り越してしまいました。今では、お客さんや従業員に支えられてバッグが随時生み出されています。今は楽しいです」と、この社長さんも肩の力を抜いて、感謝にあふれていました。

自分自身を忘れることは、まさしく現実を受け入れる大きな一歩であり、私自身の意識が闇そのものとなることでもある。私は太虚そのものとなり、宇宙となることによって、初めて私自身の存在になるに違いなく、ここに真の宗教のあるべき姿がある。(平成10年7月25日加筆)


流星

流星

今、われわれは輝いているだろうか!
流星の軌跡を追うか!
それとも、流星の輝きそれ自身となるか!

 人の一生をよく、流れ星、流星にたとえます。夜空に流れる、流星のように時間は短くとも、それぞれに輝いて軌跡を描いているとも言えるからです。
人の死は失うことと得ることのシーソーです。
 夫や妻の死は今の半分を失い、親の死は過去を失い、子供の死は未来を失い、友の死は一部を失うといいます。
 失うことによって、夫や妻を知り、親を知り、子供や友を知り、自分を知ります。築いたものが大きければ、失うものも多く、得ることも多い。失ったものが大きいか、得たものが大きいか、死はさまざまに、残された私達を試します。

 人が誕生したとき、私たちは何者にも染まらない、無垢の精神と肉体で生まれてくると言います。しかしながら、実際には、人は決められた時を、自らの中に刻まれて、誕生してくるともいえるでしょう。空を渡る鳥たちのように、ふるさとに帰る時を守ると言う、時の番人を、自らの肉体の中に住まわせているともいえます。

 時の番人の登場の時刻は、私達のうかがい知ることの出来ない時間です。このことに備えるために、私達は、私達の命を、いつでも、本当の自己とは何かと、知る必要があるといえます。
 そのことは、先に延ばすことはできない、いつでも、今ここが最後の場所であると。そしてこのことと同時に、今ここに、私はよみがえり再生するという。
 ギリシャのエピクロスは、「私が存在するときには、死は存在せず、死が存在する時には、私はもはや存在しない」と語りかけてきます。言葉は時を越えます。

 このことの意味を考えてみると、私達は、自分の誕生と死、そのものを確認するすべを持たないということです。自分自身の終末の時を迎えることはあっても、現実には、生の内に、自分の死そのものを絶対にできないということです。私達に出来る事は、自分の生のみを、最後まで生き続けるということです。
 このことは、私たち個人個人の意識にとっては、始まりも終わりもない世界を持つともいえます。始まりもなく終わりもない世界には、残された者の行く末の心配や、この世界から居なくなることも、世界の消滅もありません。
 確実な死とは、生き続ける、家族や友人・知人の生の中に、さまざまにゆだねるという意味を持つのだと思います。人の生き死にを確認するすべは、自分にはなく、遺族や友人知人、他者にあるといえます。

 多くの人は、私という存在そのものに疑問を持つことは少ないかもしれません。しかしながら、状況によって、私は、いたたまれず、我慢ができなく、得心が行かず、憤りを感じるものです。特に、私がないがしろにされる、置いて行かれる、ついて行けないという時、一人という対象化された自己と、対象化された他者や社会の問題に直面いたします。
 この原因は、私という自己の形を運ぶことにありそうです。

 川を人の一生の時間と空間として見た場合、橋の上に立つ私を今の私とすれば、上流の川は小さい頃の私であり、これより下流の川と海はその後の私であり、川は私の総てであると言えば、上流の川は眼には見えないけれど、今も流れて在り、下流の川は海に今流れ込んで同時に有るといえるでしょう。
 自分が今、存在すると言うことは、総てが存在して、私を表現してくれていることだと、仏教は教えます。さらに存在するものは時としてあるといえば、すべての時が、今を輝かせていることに気がつくのです。
 人が誕生し、成長し、病気、老いる、そして死、これら総てに、時間を運ぶ自己が、かかわっているように思えます。
 考えてみると、私達が充実している時を過ごすとき、つかの間の安らぎを得るとき、幸福なとき、ほっとするとき、時間は影のように表を見せない。
もし時間という概念がなかったら、私達は私達そのものをより実感できるのかもしれない。時間が私達を束縛し、苦しめ、悩ますといってもいいでしょう。

 さて仏教の時間論は、釈尊登場より今日まで、”永遠の今”を主張としています。現在を中心に過去と未来を持つ現代人に、絶対現在を認識することはとても難しいことです。
 過去や未来はただ今の命に集約され、自分を離れて時間や存在はあり得ない。存在するものはすべて時間としてあると、そしてその時間は"ただ今"があるのみであり、その今のまっただ中には、時間は存在しないことになる。
 瞬間とは存在しない時間であると同時に、総ての時が含まれるという時間でもあると思うのです。
そんな時間の、未来は現在を、時に不安にし、時に愉快にします。過去は私達を縛り、現在を未来をいざないます。人は、現在が未来を過去までも溶融する智慧を持つことを、理解できません。移ろい変化する時の波間を、 
人は翻ろうされ、逆らい難く、人はそれを運命と呼び、彷徨うことを煩悩の海といいます。

 真の存在は知覚を超えて時を止めます。其のことは存在への結びつきを無くすことから、始まります
。自分を対象化して、固定化して描かれた自己ではなく、思い描いて創造した自己でもないところに働く自己、それこそが、今ここに私は完結している。今ここは、最後の場所であると発言する、生きる主体としての自己です。

詩人ウィリアム・ブレイクは「一粒の砂に世界を見、一輪の野の花に天界を見、一握のうちに無限を思い、一時のうちに永遠を思い」と表現いたしました。私達が、何ひとつかけていないことを知らせる為に。

 人が誕生して年を重ねる先には、必ず行き着く先があります。それは、消滅か誕生か輪廻か。
 ヘルマンヘッセが八十五歳で亡くなる四年前の作品、”野の仏”の中にある一節が答えを示してくれているように思います。
 「人の一生は、みずから朽ち、消滅して、かたちなき限りなきものとなることへえの旅路です」と。
 かたちなき限りなきものとは、永遠の一なるものの、あらゆる変容のしるしです。
 土と水と炎と風のなかで、かたちをはなれ、その意味の完成を求めています。
 仏陀は「姿形によって私を見る者、音によって私に従う者は、吾れを見るものにあらず、さとりに目醒むるものこそ、つねに吾れを見るものなり。」と永遠の一なるものを説きます。
 答えは、貴方自身の中にあると同時に、貴方自身そのものです。

 古来、道を求めた禅の先人達は、自由を他に求めず、無我から自他不二を通り越したところに働きいずる大悲心をもって、真の自由を得てまいりました。
 真の自由とは輝きそのものに違い有りません。
一瞬一瞬動いてやまぬ心に正常な知識の光があり。
一瞬一瞬動いてやまぬ心に余計な分別以前の明瞭な知覚の光があり。
一瞬一瞬動いてやまぬ心に平等な知見の光がある。
 それぞれの光が集まり智慧を構成し、その働きが輝きとなる時、私達は変容そのものとなり、世界を時間を自由に羽ばたくことが出来るでしょう。
流星の奇跡を追うか、それとも、流星の輝きそれ自身となるか。


TAO(平成11年1月3日)

TAO(平成11年1月3日)

 インターネットという情報ネットワークが凄まじい勢いで世界中に張り巡らされて、国境と言う概念が薄れてゆく。この波に乗り遅れるかによって勝者が決まるかのように、あらゆる既成の体系が変化の波の中に翻弄されている。対応を一歩誤ると取り返しのつかない事態となる。何故ならば、構築体系化されたものは、次なる体系に、常に変化し再構築されなければ維持できないからだ。
お金や思想がその波に乗っかりまたたくまに、世界を何周もする時代に突入するj時代になってしまった。

 そんな時代の人々を見つめると、不景気も手伝ってか、自然と家庭や家族への回帰現象がおきているように思える。家族よりさ迷い出た人間は、犯罪を助長するかのように、人を襲う。
社会は新たなる規律や道徳を求めて動き出している。国家や世界が分裂と統合を繰り返し、すぐ目の前に迫った二十一世紀を模索している。

だが、来るべき時代に即応したビジョンは見えてこない。モラルも見えてこない。社会はより魅力ある秩序を探して、混沌の海の中をさ迷う。
社会の基礎となる核は、家族や家庭だ。その器は家である。
中身は一人一人の集まりであるのだが、家族を超えた大きな塊が秩序を求めてさ迷う時、その核となる社会の単位は結集して、核内に堅固な秩序を本能の回帰するが如くに形成する。そしてより大きな次なる秩序を形成して行くかのように見える。次なるより大きな秩序とは、新しき国家か、それとも家族単位で世界を漂流するか。

道はその家から始まる。隣の家にゆく道。会社への道。学校への道。友達のうちへの道。仲間と集う場所への道。どうやら、第三の道というものが出現してしまった。それがインターネットという獣道だ。自然と対峙しない無機質なケーブルの中の道、あるいは、電波と成って空間を突っ走る道。瞬間に生み出された意志だけがその軌道を走りつづける。家族の一人一人と言う単位に直通する道。だが、道というからには、必ず訪ね行く場所がある。

ある僧が尋ねた。 「道とはどのようなことものでしょうか」。
趙州和尚が答えた。 「その垣根の外にある」。
ある僧。  「その道のことではありません」。
趙州和尚。 「ではどの道のことだ」。
ある僧。 「大道のことでございます」。
趙州和尚。 「大道のことなら、長安に通じているよ」。

あまりにも有名な禅問答であるが、京都長岡禅塾の半頭大雅老師の言葉である。
「道というのも、もともとは、こっちの家からあちらの家に行く道なんですね。その道を修祓(しゅうふつ)する、ととのえ祓う、それが道徳ということらしいんです。だから、今の日本のように道路がきたないのは、人と人との関係がうまくいっていないことのあらわれ、ということになりますね」。
家族回帰は、最少単位の人と人との出会いや、結びつきを現実的に反省し整える姿なのだと。大道とは、現実的に、反省し整える姿、そのモノ、真っ只中にあるのだと教えてくれています。どうも、我々は先を急いで、目的地を目指しますが、実は真の目的地は、目先ではなく歩くそのもの中にあると言えます。

『人の道』と言うも、『天の道』というも、すべては今歩いている足元から始まります。私が歩くから道は存在すると同時に、歩いている私が無ければ、その道も存在しません。


四大

四大

…土と水と炎と風の中を…

 仏教で、地・水・火・風を、四大と言う。我々の肉体を形成する元素を指す言葉であるが、私はこの言葉が好きだ。

 地は糧である。土は大地に、我々が生れ、育まれる総てを含んで、そして我々の帰る場所でも有る。母も大地より生れることを思えば、大地は穢れのないものでなければならない。我々も汚染されることを思えば、地球を汚染しなければ発展しない文明は、いずれ滅びる運命を持つことになる。悲しい運命をもって生れた子供達の未来を、何とか明るく輝いたものに出来ないだろうか?仏陀は『人々が病むために、吾もまた病む』と言ったという。その言葉から、仏陀を大地に連想しすると、大地を傷つけないことは、我々のつとめとしたい。

水は潤いである。言うまでも無く命を支え、心を潤す水は、一滴より始まって大河を形成し、海に至る。このことは、道そのものとして、姿かたちを変え、やがて大海を形成する。その大海より人類が誕生したことを思えば、我々は水その物と言えるかもしれない。我々自身が限りなく潤う為に、慈しみと悲しみをたたえて、人に接し、水を注ぐことが大切なことである。

火は命である。命は炎の中にともし火続ける。我々の心のざわめきは総て炎として、我々を焼き尽くすかのように、青い火、赤い火、大きくなったり小さくなったり、心の在りかを示すと同時に、命そのものとして存在し、私達の体内で燃焼する。永遠をつかさどる炎は、けっして私達が消滅しても消えることはないと、そのことを私達は胸に刻んで、未来へ後を託そう。

風はさまざまな物を運ぶ。風は季節を運び、風は人を創る。人が歩けば風を起こす。炎を盛んにするのも、また消し去るのも風が吹くことによってであり、そのことに、風に真正面に向かうことも、また背を向けて除けることもある。風は人を、植物を鍛える。私達を運ぶ。

土と水と炎と風の中で、人は生れ、育ち、老いそして形を離れて、その意味の完成を求めています。揺らめかないために。



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