目次
輝いている時
夢中(ゆめのなか)
芝浜
江戸っ子
亀住町(平成13年7月1日)
モンセ・ワトキンス~夢のゆくえ~(平成14年1月3日)
新牌開眼
英霊(平成17年5月23日)
目覚め
よわい「齢」
また始めたらよい
三大聖樹(平成19年4月17日)
滅度(平成19年9月18日)
安住の地(平成20年11月15日)
心眼(平成22年3月1日)
とかくこの世は
とかくこの世は
祈り(平成17年11月29日)
品位(平成18年1月20日)
ニャンニーシンズ(平成18年3月1日)
鍵(平成18年4月25日)
チベット(平成20年5月1日)
SYOHOU
諸法
四十四の問い~ミヒャエル・エンデ
先ゆく輩
さき行く輩
祖師年譜
ダルマ
慧可
五洩霊黙和尚
石鞏慧蔵禅師
大珠慧海禅師
西川の黄三郎
馬祖道一禅師(馬大師)
五百生 百丈和尚
大梅山法常(752-839)
麻谷山宝徹禅師(平成12年1月27日)
鎮州普化(ふけ)和尚
寒山・拾得
虹の彼方に
ヘイヴン・ペックの場合―続貧しいけれど、豊かだった―
生前葬
平和を我らにーGIVE PEACE A CHANCE(平成13年10月31日)
ソクラテスとヤージャニダッタ
蓮(平成14年6月2日)
心-KOKORO(平成14年6月25日)
独り暮らし(平成15年4月12日)
老いが、咲いていた!(平成16年7月5日)
深濱-fukahama
死に顔
松山鏡(ソクラレストとヤージャニダッタの続き)
真ん中(平成20年4月1日)
百万回いきたネコ(平成21年1月1日)
夜来る鳥(平成21年1月1日)
だいじょうぶ、だいじょうぶ(平成21年2月1日)
無常への帰依
無常への帰依
希望(平成12年1月2日)
葬式坊主
泥棒
赤とんぼ
老い
……ロス
後姿
寿陵
ついで参り
目標
六道を行く
もの言わぬ羅漢達…揀択をこえて…
宮本武蔵
五合庵断章(平成10年10月17日)
K子さん!(平成12年7月19日)
今は昔
十一面観世音菩薩
尽七日忌(平成19年5月1日)
OSYOU
OSYOU
この手のひらに―禅僧の死―(平成10年11月18日)
戒(平成10年7月25日)
幽霊
みんな仏教徒(平成10年5月27日)
最後の晩餐(平成10年5月23日)
禅問答(平成10年5月31日)
分銅
天国は汝ら自身に宿る(平成10年11月24日)
宗派
穢れ(平成12年8月30日)
お彼岸
仏心
仏心
ご祈祷
施餓鬼会にて(平成17年5月28日)
永遠の命
輪廻する葦(平成10年5月27日)
連鎖する命(平成10年6月2日)
涅槃(平成10年8月12日)
鏡(平成10年7月25日加筆)
流星
TAO(平成11年1月3日)
四大
挨拶
冥福
盂蘭盆
祈り(平成14年7月4日)
仏事歳時記
再び 最後の晩餐
この手のひらにII(平成18年11月18日)
死んで生きる智慧(平成19年3月27日)
五百生(平成19年11月20日)
破地獄偈(平成20年5月24日)
この指止まれ
この指止まれ
家族と家庭(平成11年1月5日)
導師(平成11年2月26日)
家から個人へ、そして家族・友達へI
家から個人へ、そして家族・友達へII
脳死そして臓器移植(平成11年3月2日)
独り決めの生き方
僧堂I
僧堂II
僧堂III
恥じ
僧堂IV
返事
父殺し・母殺し・友だち殺し・子殺し(平成20年1月1日)
その後
その後
ほとけさま(平成17年5月1日)
仏が仏に合掌する
戒名(平成12年3月14日)
無用の用(平成12年2月21日)
世話
大きく育て!(平成11年1月18日)
しもべ(平成10年11月7日)
電話(平成10年8月22日)
意思
寡黙
妄想(平成10年8月2日)
川(平成10年8月22日)
風如(風のように)(平成10年6月18日)
追悼(平成10年5月27日)
受容(平成10年6月18日)
蒸発
臨終(平成10年6月8日)
外道
障子(平成13年3月10日)
日月(にちげつ)
年寄りの出番より
人生とは、闇を照らす一瞬の蛍の光
時の旅人
時計(平成12年1月3日)
星(平成11年10月15日)
溝(平成11年8月2日)
過去心…念の起こる処(平成11年6月19日)
与える時間(平成11年5月24日)
桜(平成12年3月2日)
無常(平成11年4月16日)
川(平成10年9月17日)
有時(時の構造)(平成12年2月5日)
時の旅人(平成12年2月1日)
揺れる木々の葉
この人生の速さはなんだ(平成14年12月26日)
法句経より-時の旅人(平成15年2月4日)
寂然不動 如春在花(寂然不動、春の花に在るが如し) (平成16年9月19日)
ZENGO
自立
橋は流れて(平成10年9月18日)
無事
過去(平成10年5月23日)
たまごっち(平成10年5月23日)
一衆觸礼(いっしゅうそくれい)
六道を輪廻する
二人三脚
生老病死
筋肉番付
ポケモン
俺は、親馬鹿か!
塵も積もれば山となる
生と死と永遠
最終章
一章
二章
三章
四章~(未完)
時間旅行
時間旅行
命の歌-母の短歌
礎-いしずえ-
離魂(平成19年8月25日)
海辺橋
海辺橋
ふるさと(平成18年3月4日)
千の風(平成18年9月16日)
人の道(平成18年9月18日)
あなたは、いつから、一年が始まりますか?(平成20年8月1日)
前住職 二十三回忌にて(平成20年9月1日)
平成21年お施餓鬼会を振り返って(平成21年6月1日)
奥付
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OSYOU

時節と言ったとき、世界はと言ったとき、それはもう仏教を話していることなのです。
 本当のこと、私は、あなた、今、全体、部分、疎外、差別、平等、対立、一、多、相即、同時、分離、同一、全体、絶対、過去、現在、未来、一瞬、今を生きる、老い、死、誕生、永遠、もっともっとほとばしるままに、記すことができたらと思いますが、仏教の表現してきたことは、世界を表現していることなのです。世界が複雑になればなるほど、世界がネットワークで結ばれれば結びほど、その表現は増します。
総ては、土と水と炎と風の中を……

この手のひらに―禅僧の死―(平成10年11月18日)

この手のひらに―禅僧の死―(平成10年11月18日)

 昭和46年3月初め、早朝、京都南禅寺山門の上より、左方向の眼下に『南禅寺専門道場』の甍を眺めている、私がいました。これから修行にしばらく入門の寺を下見の一人旅です。白く霜で浮き立つ砂利の参道を3人ないし4人の雲水達が、朝の托鉢へと整然と足を揃えて出立する姿は、厳格な規律を感じさせます。早朝の鋭利な刃物で切られるような景色と、門を閉ざした寺のたたずまいが、この門前に1ヶ月後に雲水の形をして立つかと思うと、不安と緊張を誘いました。こ1時間は眺めていたでしょうか、鐘楼の先の潜りの門が開き、赤茶色の着流しに頭を剃り上げた年配の男が、腕を後ろに出て法堂の方角に、ゆっくりと歩いて行く姿を見ました。南虎室老師です。その姿をずっと追う私は、どんな人物だろうと思いを巡らしていましたが、その姿だけが妙に思い出に残ります。

 入門しての室内で、老師の大きく見えたこと、また動じざること岩のような存在でした。
最近ふと思うことがあって考えてみたことは、面と向かい合って私が老師の正面を見据えると、老師はたびたび、薮睨みのように、目玉を右前方に左に前方に向けることでした。そういえば、写真にも、そんなのがあった。どうして、正面から捕らえてくれなかったのか。不甲斐ない修行僧だった頃の、私の疑問です。
昭和58年11月18日、午後1時15分、京都は南禅寺僧堂の隠寮、一階は東南の廊下で、南禅寺派管長で南禅寺専門道場の師家である、勝平宗徹老師(室名・南虎室)が首をつって死んでいるのが発見された。61歳でした。

修行の道場を出て、五年ぐらいたった頃だ。その頃の深川の陽岳寺は、困窮してはいなかったが、住職である父が元気で、僧侶二人はいらず、私はサラリーマンとなって、銀座の会社に勤めておりました。経理・財務・企画の責任者として、若かったのですが仕事は忙しく、いつも帰宅は夜遅かった。会社の緊迫とした中で過ごすうちに、いつしか人相も変わっていたのでしょうか、東京は高輪のホテルで修行仲間の会が催されたときがありました。老師から「人相が変わったな」と、久しぶりの対面で言われた言葉が妙に心に残っております。

髪を伸ばして、朝から深夜までの仕事は、自分を振り返る余裕もなく、僧堂の生活を何だったのかと問う言葉もなかったのだと反省いたしましたが、勤めている限りは、今日は昨日の続きで、明日に仕事を残す毎日でした。それでも、老師の言葉がどこか頭の隅に引っかかっていたことは事実でした。

その会があってからも、相変わらず私は勤め人で、以前よりも忙しく、常に気をはっていなければならない毎日を続けておりました。
サラリーマン時代を通して、ずっと思っていた事は、私の仕事の取り組み方は、僧堂生活を絶えぬいたという自信が、作り上げたものであるということでした。気力の充実の仕方と自分の行為と責任の取り方。知らない知識や分野への挑戦の意欲。力の抜き方。一人で違った組織に合流する溶け込み方。資金の取立てによる裁判と強制執行。
会社の設立と滅失作業に、従業員の解雇後の転職斡旋問題。親会社への決算説明会や大勢の新規職員に対する訓練。東洋一の大規模ショッピングセンターの開設準備作業と軌道に乗せるまでの管理運営業務。サラリーマンの最後は、そのショッピングセンターのデパート、テナント、資産管理会社の固定資産と償却資産の金額確定分離計算とテナント、デパート、税務署との折衝による資産税の確定の仕事でした。ほとんど総て一人で問題をくぐりぬけてこられたのも、総ては僧堂生活に端を発しているのではないかと思っております。断っておきますが、僧堂は何も教えてくれないことに徹します。総ては、自分の目で見て、考えてを基本としながら、昔からの通りとなって、淡々と日々が過ぎ去って行きます。ただし、人を助けるゆとりはありません。自分の限界の 所で、生きて行く以外に、私の道はありませんでした。

そんなサラリーマン時代を終えて、私は寺の次代を担うため再び頭を剃ることになりました。昭和57年2月頃のことでした。修行を辞めてから10年という時間は、すっかり僧侶としての作法や振舞いの勘を狂わせておりましたが、寺での日常が少しずつ取り戻しながら禅録や思想書を読みふけるようになったのも、その頃からです。

昭和58年11月18日、夜のテレビニュースで、京都南禅寺管長勝平宗徹老師の自殺の一報が流れまし。死んだということより、自殺で、しかも首吊りという、絶対と言って良いほど似合わない死に方は、ニュース画面の普段では絶対に映像にならない、僧堂の雲水があわただしく動く映像に、遠い別世界のことのように見えました。

私は勤めていた関係で、その頃、僧堂との縁は全く希薄になっていて、修行仲間と僧堂の往来の話を聞くにつけ、懐かしく復縁を思っていたところでした。
やがて、日が立つと新聞や週刊誌、業界紙が記事を、書きはじめました。私は、集め読みました。
「何が、あったのだろうか」、「どうして」と、記事を探しました。
僧堂を出て、音信を絶ってより10年もたつと、道場にいる雲水もがらりとかわって、同期の雲水二人に連絡しても、「どうも、うつ病だったらしいよ」との収穫話だけです。
中外日報新聞の話です。
昭和58年春、中興本光国師350年の遠諱が大々的に行われた。5月頃「目が赤いですよ」と言われ血圧を測ったところ、上が200にも達したという。その時は医師の薬で一応、血圧も平常に服したが、7月頃から、やはり普通ではなくなった。9月10日、松江の寺に帰り,9月16日松江日赤で急性肝炎と診断され直ちに入院した。10月3日、MとKが見舞いに行った。入院中の管長は顔色が白くなり、ふっくらと健康そうに見えたという。目方も五キロほど増えて「これなら大丈夫」とMを安心させた。その後、「10月20日に退院し、28日に上山する」という連絡が本山に入った。ところが10月20日すぎ僧堂補佐員Tが見舞いに行き「あまり急いでは良くない、もっと養生して欲しい」と忠告して28日の上山は取り消された。僧堂の開講式を遅らせて、11月13日、管長は帰山した。「松江での管長さんと、帰られてからの管長さんの顔色があまりにも違っていたので驚いた。ふっくらと色白であった顔が、大分やつれて、色も黒っぽく見えた」とKは言う。15日に開講式を行ったが、いつもなら30分ぐらいのところを、1時間かけて講じた。

週間文春の記事です。
勝平師は午前中、道場1階で講義をし、そのあと11時から昼食をとったあと、2階の居室で一人で牛乳を飲んでいたようです。そのあと午後1時過ぎ、世話をする雲水が、午後の講義に出る予定の管長が来ないというので様子を見に行ったところ、一階の廊下で首をつって自殺していたらしい。大正11年8月,島根県平田市で生まれた勝平師は、旧制松江高校を卒業。旧海軍飛行予備学生となり、さらに昭和24年、東京大学文学部東洋史学科を卒業。大学院で学んだ後、26年南禅寺に入った。

週間朝日の記事です。
9月、本山の用務で九州を旅行中、倒れた。松江市に帰り、9月14日、日赤病院で初めての入院生活を送った。10月20日退院。自坊で静養の後,11月13日、本山に帰った。「15日から始まった大接心では雲水を相手に堂々とした声で提唱された」という。だが帰山した管長の姿は痛々しく、3ヶ月ほどでゲッソリやつれていた。9月に入院してから、鬱てきな状態が続いていたという。

週間新潮の記事に18日の事が書いてある。
関西のK百貨店Wが電話しているのだ。11月18日、午前9時ごろのことだった。「いろいろお世話になりました。ご病気のほうはいかがですか。といいますと。”まあまあ治って、お勤めさせてもらってます”というご返事なので、これからすぐにお伺いして、お目に掛かりたいのですがと申し上げますと、”実は今、大接心に入っていて、外部の人とは会えないんでね”、とのことで、”でも22日には一段落しますから、そのときに会いましょう”という約束を頂いて電話を切ったのです。それから4時間後に、ああいうことになってしまったのですから」
松江の赤十字病院の副院長の話「松江に帰っておられたとき、急に黄疸がでて食事がすすまないということで入院されたのですが、軽い黄疸で、経過は順調だったのです。まあ、ごく普通の肝炎でして、私も長い間、内科の医師をやってますけど、あの程度の病気で世をはかなむ、なんてことは考えられません」

自殺当時の識者の感想の新聞を読んで、(中外日報・読売新聞・週間文春・週間朝日・週間新潮・京都新聞)

①受け止める
竹田 益州 故建仁寺派管長
常住不変ということは願わしいことであるが、手に入れることは難しい。これが手に入っても入らなくても、努力するのが坐禅で、老師がその中心になって、やって頂いている。管長さんが、自分の責務が果たせるか,果たせないか自分で知っていられるわけで、勿論、果たせたんですけれども、もっと生きて欲しかった。

古田 紹欽 松ヶ丘文庫長
個人の自由な考え方をその人の位置付けの上において、何かということを私はかんがえたくないし、言いたくもない。人それぞれの生き方というものはその人自身にある。私は老師をよく知っていたから、その心中がわかるような気がする。

武邑 尚邦 本願寺派勧学寮員
仏道修行によっても解決することのできない人間の弱さというものをつくづく考えさせられた。

青山 俊薫師 曹洞宗愛知専門尼僧堂々長
勝平管長の死は、行も悟りも無常、”今”を問うことが大事、ウカウカするなと、という”提唱”と受け止めさせて頂いています。

雲井 昭善 仏教大学教授
だが、釈尊も,成道してから後でも、肉体的苦痛は、肉体があるかぎり味わってる。このへんは、別にして考えないといけないと思う。

壬生 滋雄 臨済宗永源寺派宗務総長
勝平さんは死を以って応えられた。それも一つの行き方ではなかったか。

今岡信一良 日本自由宗教連盟
”捨て果てて身は無きものと思えども、雪の降る日は寒くこそあれ”と禅僧の言葉もありますが、いろんな事情があったんだろうと思いますが、自殺しちゃいけないという事はないのではないか、そういうふうに考えています。

中村 尚志 取手市医師会病院長
この事件によって、勝平師の人間性について云々すべき事でもないと思います。とにかくこの事件は宗教とは切り離して考えるべきだと思います。心安らかな境地を獲得し、それで持続させるにも、心と身体の健康が大切であると言う平凡な、しかも大事な教訓を得ました。

匿名師家 京都臨済宗僧堂
そもそも、禅僧だからといって安然と死ねると思うのは錯覚だ。僧堂の老師というものは、孤独なもので、僧堂に閉じ込めて慰める人もいない。

②否定する
横井 邦一 円覚寺派宗務総長
世間で言う自殺と同じように扱われると場所柄、道場ですからまことに遺憾のきわみです。新聞報道のような形の上で見る限るは、はなはだ遺憾なことで困ったことだということは事実です。

福井 康順 元大正大学長
仏教界にとってあり難いことではない。

塙 瑞比古 笠間稲荷神社宮司
私の場合は、どうにも苦しい時は神前で祈願をこめて、心の安らぎを得てきました。これからも一貫してこの姿勢はかわらないでしょう。

二葉 憲香 京都女子学園長
私には死者を批判や批評のしようがない。真宗では、敢えて早く死ぬということはでてこない。

花山 勝友 武蔵野女子大学教授
一言で言うと恥ずかしいです。仏教全体の立場からみると、擁護するのはマイナスだと思うので、あえて言わせて頂いた。

勝又 俊教 大正大学前学長
最後まで生きてほしかった。宗教者は人の先達であるという意味で残念だ。

道端 良秀 日中友好仏教協会々長
勝平さんは禅者であるが煩悩が多い人間であるということが感じられる。どれだけ修行しようとも、 どうにもならないというものを感じます。これからも、もっと働いてもらいたかった。

田中 恒清 神道青年全国協議会々長
完璧さを追求しすぎたのではないか。それにしても、なんともやり切れない思いでいっぱいだ。

山中 長悦 ポックリ寺浄土宗吉田寺住職
病気になって、その責を果たすことが出来なければ、適当な人にその職をゆずり、医学に救いを求め、心の悩みは仏の慈悲にすがる。お気の毒にたえない。

奈良の中堅有名寺院の若手住職のリーダー
どんな理由があるにせよ、ああいう死を選ぶべきではなかった。

池山一切圓 天台宗生源寺輪番
私は自殺を肯定したり、自殺を勧めるものではありませんが、我々は一般の方に「命懸けで生きよ」と言っていますが、まさに命を賭けたことになります。

佐伯 真光 相模工業大学教授
あの方は”うつ病”だったと聞いています。むしろ、お付の人が気づいて休ませてあげるとか、それについて対処すべきだったと思います。

篠原 大雄老師 永源寺僧堂師家
本当のところは、本人自身にしか解りませんし、あるいは本人にもわからないままなのかも知れません。とにかく、生きていてこそです。

安斎 伸 上智大学教授
キリスト教では、自殺を悪で罪だと徹底して説いている。

那須 政隆 真言宗智山派元管長
外からの安易な批判は慎みたい思うと同時に心から同情申し上げたい。なぜ同情というような言葉を吐くかといえば、やはり生命を断つことは、人生にとってあまりいいことではないからです。

宮崎 蛮保 永平寺監院
仏家の一大事因縁は生死の問題を明らめるということだ。ところがその人が生死に使われておる。結局は頭の人間なんだ。師匠の老醜をうまくカバーする弟子を作っておかなきゃいかん。わしも死ぬ時には、うまいこと死にたいけど、どないになるやらわからん。生きとるうちに信心を積んどくことだ。それには願を立てること。願は叶うんだから。常に、こうあるようにと願っておることだ。願いは必ず叶えられるんだからね。

高田 亘 車折神社宮司
病気を苦にしていた、と仄聞している。自ら死を選ぶくらいならば、ほかに何らかの解決法があったのではないか、と同じ宗教者として思う次第である。

寺内 大吉
知育偏重の行き詰まり、そのもろさが仏教会にも出てきたと言えるのではないか。

③解らない
加藤 太信 新義真言宗管長
理屈をつけようと思えば出きるが、何とも言いようがない。病のしからしむるところじゃないかと思う。

鈴木 宗忠老師 妙心寺派龍沢僧堂師家
騒いだら仏様に気の毒だ。

横超 慧日 大谷大学名誉教授
私どもが人間である以上、悩むことはあるわけです。軽くものを言うような方ではなかったという印象を持っています。

渡部 宝陽 立正大学仏教学部長
そういうところに批判,批評をする方を、逆にうらやましく思います。孤独の世界を求めていくということは大変なことですから。

田村 克喜 筥崎宮宮司
みんな耐えて生きていく。どうしてもわかりません。私には、この問題は難しい。

西谷 敬治 西洋哲学者
非常に意外で判断がつかない。ただ、原因なしで起こるということはないから、何か原因があったはずだ。それが何かわからないが、そのうちにわかるかもしれない、と言うほかはない。

立花 大亀 元花園大学長
禅僧の生とか死とかいう問題ではないと思う。そっとしておいて、冥福を祈りたい。

当時の記事を改めて読んでみて、上記に掲載した元学園長ともあろう人が、週刊誌では全く正反対のことを言いながら、ふざけてみたり、祇園でもっと遊んでいたほうが良かったという現在東北方面の僧堂老師がいたりと、仏教会は多士済々だ。
当時の事を振り返ってみて、新聞紙上に老師の会下の者が、意見を発している新聞がなかったのは、寂しく思う。
老師は自分がうつ病にかかっていたのを、何人かに確かめていたことが、ここには記さないが、週刊新潮に書いてあった。老師はうつ病に、かかっていたのだ。

昔、父が亡くなった後の日記を、読んだことが言葉を思い出します。年をとって来て、パーキンソン症候群の病魔に侵されたとき、じっと今の自分を見つめて、「断崖から突き落とされた気がする」と。 この先に自分がどうなって行くのか、その予感を想像したとき、呪ったかもしれない。幸い、父は脳が侵されて意識が不明の状態になったおかげで、私達は救われたが、意識がはっきりと内向して、緊急に分裂を起こすであろう自分と、投げ出すことが出来ない立場に立ったとしたならば。

自分と違う意識が襲い掛かり、自分のコントロールがつかない状態が、愛する雲水の前で出現したとしならば。
運転手の居ない車はどこに行くのか不安な状態に違いなく、しかもそれは突然来るとしたならば。

竹田益州老師が言っていたが、「出雲の人は正直です。素直で、実に人間としても真面目です」と。まじめすぎてそんなボロボロの状態で、引くに引けず、相談する相手もいなく、休む間もない大接心に挑まなければならない。ボロボロにさせたのは、老師自らであると同時に、無責任な、「老師!老師!」と書き物をねだり媚びへつらう、派内の、弟子達の我々だったのかもしれない。

自殺は、どんな場合でも、それにかかわる人にとっては、何らかのメッセージがあるはずです。自分は自殺はしないが、あるいはしたくないがと言っても、そうなってしまうことは、無いとはいえない。仮になってしまても、死んでから悔い改める訳にはいかないのが現実ですが。理解できないのは、メッセージを受け取れないだけであり、それは、その人を知らないからだと思うのです。

自殺は罪だと人を非難しておいて、聖職者が葬儀の儀式において、神や仏に自殺者の許しを請い、許してもらうにも、自分のうちに罪を非難しておいて、その橋渡しをするに、人を愛し、人を罪もろともに受け入れる心が無ければ、矛盾を感じます。総てを承知の知力、知識、知恵、胆力、忍耐を持った人が、突然自殺してしまったのです。その事実だけが真実であり、それからはご都合に過ぎない問題です。
老師の近くに居たならば、ひょっとして何かわかったかもしれないが、優秀な雲水が周りに居て、何も出てこなかったのは、弟子達共通な問題を、投げかけてくれたのだと、今は思います。
人間勝平宗徹老師は、結果として存在を賭けて、そのものを我々一人一人に残してくれた。

修行中、問題意識が起きず、いつも怒られていた私。老師は、「こうした問題を出すんだ」と、そっと紙に書いてくれた。その問題を、切実に取り組めない年齢と幼さだったのかもしれない。
塀の外の賑やかさや静けさがいつも気になっていた私でもあった。
自殺した老師から、眼には見えない様々なものの種を、植えていただいた私にとって、今、一番願うことは、『一目でも言いから、会いたい』、ただそれだけです。
南虎室老師祥月命日に向けて


戒(平成10年7月25日)

戒(平成10年7月25日)

 仏教本来の生き方を考えてみると、一人一人の生き方といったこの時点で、すでに本来の生き方では無くなってしまうことではあるのですが、すべてにおいて自由という標榜を掲げている以上、実に捕らえどころも無いものになってしまいます。またそのことは、それぞれにとって一つ一つ意味、価値観がちがっていても、自由においては普遍性を持つとも言えます。それゆえに、仏教にとって守らなければならないものとは、一体なにか?

 秋月龍珉師は著作集”空の詩”において「戒とは、我とみずから誓って我が生活を規制すること」と言い、その目的は”調心”すなわち”心を坐らせる”と言います。ところが、このことは仏教以前のことであると言い、智慧の完成において、般若が動き出すところからが真の仏教の実践なのですと言います。 絶観論(初期禅宗史上貴重な敦煌出土文献にこの菩提達磨絶観論がある。その中で戒律について論じている部分があったので列挙してみる。訳は禅文化研究所編絶観論による)に、興味深い問答があります。

殺  「いったい、ものの生命をとることのできる条件がありますか」
「野火は山をもやし、暴風は樹木をさき、くずれた崖はけものをおしつぶし、洪水は虫をおぼらせる。きみの心がこれと同じなら、人だって殺すことができる。もし、とまどいの心があって、生命を意識し殺傷を意識し、心の中に吹き切れないものが有る限り、たとえ蟻一匹でも、君の生命をしばりあげるのだ」
盗  「いったい、ものを盗むことのできる条件がありますか」
「蜂は水面の花をつみ、雀は畑の葉をつつき、牛は水辺の豆をくい、馬は田の稲をかむ。どこまでも、他のものという考えを起こさねば、他人の山だってとりあげることができる。さもなければ、たとえ針の先ほどの細い葉でも、きみのくびに紐をつけて奴隷にする」
婬  「いったい、婬をおもいのままにする条件がありますか」
「天は地におっかぶさり、陽は陰にあわさり、便所は上の汚物をうけ、ふんすいは溝にそそぐ。きみの心がこれと同じなら、あらゆる行動は何のさまたげもない。もし胸中に分別の念をおこすなら、たとえ自分の妻でも、君の心を汚す」
嘘  「いったい、嘘言をいうことのできる条件がありますか」
「ものを言っても主体がなく、しゃべっても心がなく、声は鐘がなるのにおなじく、ものいう息は風の音に似ている。きみの心がこれと同じなら、ブッダとよんでも何も存在しない。さもなければ、たとえ念仏しても、嘘言である」
酒 「ある人は酒を飲み、肉をくい、五つの欲望のすべてを満たしています。ブッダのおしえを行ずる資格があるでしょうか」
「心すら存在しないのに、何人がよしあしを定めるのだ」

人を真の自由に導く仏教において、仏教徒となるに当たっての束縛の網に掛ける戒律があるのが面白い。中国で達磨から六番目の恵能禅師の『六祖壇経』は、戒壇においての無相心地戒を授ける説法である。
一つ 自らの清浄法身仏に帰依します。(大日如来)
人は生まれながらにして本来清浄と同時に耀いている、またそのことはあらゆる存在が自己の本性のうちにあることであり、そのことに反する行為は一切つつしみとしたい。
二つ 自らの千百億化身仏に帰依します。(釈迦如来)
人は自分を見失って迷路に入るとき、本性の変化をきづかない。一瞬の本来清浄の耀きが智慧を生むとき、また耀きのままに自ら照らすことを、これを本性の化身と言い、これに反する一切の行為はつつしみとしたい。
三つ 自らの当来円満報身仏に帰依します。(彌勒菩薩)
一瞬の本来清浄の耀きが、自らの過去のあるいは現在の闇を照らすことを報身と言い、自ら目覚め自ら修めます。これに反する一切の行為はつつしみとした。

四つの聖願
禅の説く気づきや目覚めという、人本来のかがやきの心が、自分のすべてに目覚めるように。
禅の説く気づきや目覚めという、人本来のかがやきの心が、自己の虚偽を払いのけるように。
禅の説く気づきや目覚めという、人本来のかがやきの心が、自己に限りなく時を越えて包まれるように。
禅の説く気づきや目覚めという、人本来のかがやきの心が、いつも心を謙虚に保って、すべてを敬う。

懺悔
過去の心、未来の心、現在の心が自己が,本来の自己で有り続けることを知ることが真の告白であり、懺とは死ぬまでそのことを守りぬくこと。悔とはこれまでの過ちを知ることである。

無相の三帰依戒
自己のうちの一瞬一瞬の本性の耀きの目覚めに、帰依いたします。
自己のうちの一瞬一瞬の本性の耀きの喜びに、帰依いたします。
自己のうちの一瞬一瞬の本性の耀きの汚れなさに、帰依いたします。


幽霊

幽霊

 私が小学生の小さかった頃、西八王子はいたる所に原っぱがあった。遊び場所はその原っぱであり、民家の庭であり、垣根越しに庭は続いていたので、家々の庭を通り抜けることで、遠くに行くことが出来た。それは獣道ではなく、子どもだけの遠慮のない抜け道であり、お寺のお墓に通じていた。
薄暗いお墓で遊んだ記憶があるが、お化けや幽霊のことに関しては記憶がないので、いまだ怖いものを知らない、ただ暗くなるまでめ一杯遊ぶ年齢だったのだろう。そこには大きな欅があって、真夏、素手で登って蝉を手づかみで取った記憶がある。

「お父さん!幽霊っているの?」と、私の次男から小学校三年の夏、聞かれたことがあった。

 「裕斗は見たことがあるの?お父さんは見たことがないので、わからないよ!ただお寺だからといって、お化けが出るとはかぎらないよ!お父さんは毎日、お墓や境内をきれいに掃除しているから、お墓に眠る亡くなった方々は、感謝はするけれど、恨んで悪さをするとは思えないよ!第一お父さんがいなければ皆困ってしまうもの!一人一人皆よく知っている人達であり、思い出せばすぐに、笑顔や姿を思い出す人達が、お墓にはたくさん眠っているからね!」
「ふーん、恐くないんだ!」と、次男は真剣に感心していた。

陽岳寺の門前は交通量の多い交差点で、年に数回交差点の何処かで必ず事故がある。人が亡くなったという事故は記憶にないが、トラックや乗用車に跳ねられ轢かれたり、ガードレールや電柱に車がぶつかるという事故は以外と多い。今年の五月末日、どこかの御婆さんが大きなトラックに轢かれるという事故があった。今この事故を目撃した人を捜す警察の立て看板が立っているが、轢かれた付近に花も置いてないし、そんな噂もないので無事なんだろうと思われる。

この文章の幽霊というテーマを書くに当たって、もし亡くなっていたとしたら、幽霊となって交差点に立つのだろうかと、妙なことを考えてしまった。そしてこんなことを思った。
昔から日本の幽霊には足がない。足がないと言うことは、自分で移動することが出来ないと理解できる。つまり移動するには、何者かに憑依することが必要なことのように思われるのです。しかし、憑依するといっても、自力で取りつくことができれば、それは自力で移動することが出来ることであり、足がないという象徴的な幽霊にはそぐわないことです。このことは、過去の日本人の意識と深くかかわっているように思える。私が知る限りでは、外国の幽霊は足があって、自分で歩けるからです。

やはり取りつくには、取りつかせる者のなかに、その条件を持っていなければならないと思うのです。幽霊が恐いという意識には、すでに幽霊が巣くっているといっても良いでしょう。お化けが出ると思ったら、お化けが出る準備はすでに、その人のうちに出来ているということなのでしょう。
「お化けは本当に居るのだろうか?」という問いに、私は見たことがないので答えられないが、人として恨み、辛み、想いを達せられずに亡くなった方はたくさんいたはずだから、それらのものを受ける人にとっては、お化けは怨念として常に存在することなのでしょう。このことは人間の善悪、良心の問題を含んでとても大切なことだと思います。しかし、存在というと禅の冷暖自知の原則からいって、触れなくては事実と言えないわけですから、人の創造した、幻とも言えるわけです。

最近の子ども達のマンガや映画、テレビドラマには、足のあるお化けがたくさん出てくるようになってきました。それは時にロボットだったり怪獣だったりするようです。町を壊し、人を傷つけるお化けは完全に存在する身体であり、子ども達も待ち望んでいる姿で現れ、ヒーローが退治するのです。 足を持つと言うことは、目的を持つことであり、血を吸わなければ生きて行けないドラキュラのように、擬人化したお化けは、目的遂行の為に生きる為に彼らの任務を、あのエイリアンのように遂行しなければならないのです。我々の知らない世界には存在するかもしれない、未来にはこういうこともあるかもしれないと、せっせと想像力を働かせて、それを楽しむ人間の、「恐いもの見たさ」の欲望には限りがない。

しかし、このことが現実に起きるかもしれないと思えれば、いずれは存在することになり、事実として成り立って行くことになってしまうことを考えれば、お化けは創造のすえ、存在することになる。まして、ドラキュラの求める他人の血を、お金や資産に代えてみれば、人間そのものとなって、現実の人間の姿そのものと言えるからです。時代が変化する限り、お化けは姿を代えて人を襲う。これは、もはや私の考える良き幽霊の範疇を超える。

やはり、幽霊は怨念を抱きながらも、現実の空間に漂いながら、自らは何も出来ずにいる姿こそ、痛ましさを感じることができると思うのです。晴らすことの出来ない怨念を抱きながら漂う幽霊を、目をこすって、はっと我に返ったとき恐怖を覚える幽霊の、脳裏に焼き付く姿こそ、それぞれの人の過去の真実の姿であり、幽霊を弔うには、我々自らの改心が必要なことです。


みんな仏教徒(平成10年5月27日)

みんな仏教徒(平成10年5月27日)

 私がまだ八王子に住んでいて小さかった頃、母は父方の寺の墓参りに深川の陽岳寺に連れていってくれたものでした。まだ地下鉄の東西線もない頃でした。国鉄の中央線で東京駅に着くまでが、子供の頃の記憶はとても長かった。茶色の古ぼけた電車に酔って気持ちが悪かったり、そのため御茶ノ水の堀の景色を見るために、座席に膝で座り、土で汚れた運動靴が隣に座っている人のズボンやスカートを汚して、母に小声でしかられたものです。東京駅からチンチン電車に乗り換え、ガタンガタンと石畳の上を走って、ガチャンと門前仲町駅の次の駅が深川の停車場だ。目の前にある寺が、陽岳寺だった。

 今からもう四十年も前のことなのだが、今思うと深川の寺の住職になっていようとは感慨深いものがある。たしか?現在の赤札堂は映画館だった。もちろん首都高速九号線は、油堀という運河だった。寺や神社は今も変りなく、元の場所にあるが商店街は様変わりだ。 母や父は、よくお不動様や八幡様にお参りしたものだ。今でも一日十五日は八幡様、二十八日はお不動様に縁日でにぎやかだが、昔もそうだった。このにぎやかさが、みょうに楽しく、もっとも親と一緒について行けば何か買ってもらえるという下心もあったのだが、人ごみの中を親と手をつないで歩くことがうれしかった。今、自分の子供に同じことをしていると思うと、人は繰り返しながら少しずつ微妙にあるいは急に時代は変わって行くのだなと思うのです。

今はあまり言わなくなったが、このお参りを”信心”と云いました。お賽銭を投げて、何かしらのお願いやお礼をまた報告を心の中でつぶやくのだ。誰も願いがかなわないからと言って、文句を言う人はいない。
さて、私が修行から帰ってきて陽岳寺の住職になってより、二十年がたとうとするのだが、情けない話だがこの”信心”という言葉が、なかなか言葉に表現することができなかった。形式として、習慣としてのお参りは日々欠かさない毎日なのだが、日常の中に埋没してしまった言葉を、掘り起こすという作業を試みてみた。 その前に、仏教徒という言葉の意味をあらためて考えてみた。仏教の基本的な言葉としての"空"と"縁起"は、信じると言う言葉以前に、実は世界や物事の成り立ちを説く言葉であると気がついてより、誰もが仏教徒としての自覚さえあれば、仏教徒なのだと思うようになったのです。

私流に云えば、『仏教徒とは因果の理を信ずる人』という意味で、因果は縁起と同意味の言葉です。禅では「一滴の水も大きな川や海を支える一滴の水であり、一塵の動きも世界の全体が関係している」と云います。大海を見てそれが一滴の水の集まりであることを知ると同時に、朝露の一滴の水は大海を代表する尊く愛しい一滴の水であるわけです。

一滴の水を「私」に譬え、「友達」に譬えてみると大海は世界となり自然・環境・宇宙になります。かけがえのない私と同時に、私は世界を支える一滴の水になります。個々のものはすべてが連鎖していると同時に、個はあくまでも個であることの認識が大切です。この意味から自立と共生は表裏一体、同時に支えあっています。禅では"同時"を"即"と言い換えて使いますが、同時が非常に大切です。片寄ったものの見方を矯正する働きがあります。同時はまた中道をも意味することになります。眼には見えませんが、世界中の人々は実は全員手と手を取り合って輪を結んでいることになります。ただ私達にはなかなかそれが見えないのが 、また実感できないのが残念なのですが。「私にはまだ真実が見えないけれども、このことは理解できる」 あなたは、正真正銘の仏教とです。

赤ちゃんが泣くのも何かの理由があって泣くのであり、勝手に泣いている訳ではありません。これを因果と言い、正しくは因縁果といいます。仏教徒になられたからと言って、他の教えはだめだというのではなく、神社や教会にて頭を下げたりお話を聞く、手を合わせることも大切なことであるでしょう。自然な気持ちで接することが大切です。人が大切に思っているものを、自分の心得違いの考えで排除するのは良くありません。

 縁起に随うことのまっただ中に真の自由を見つけ、自分の生き甲斐、目的を行ずることこそ必要なことであると思います。これを"信心"と云います。お不動さんや八幡様で見かける、"信心"と別のものではありませんでした。 禅ではよく、不昧因果、不落因果と百丈野狐にて問題にいたしますが、因果を"くらまさず"と云います。縁起の世界において、すべての人の行為は、縁起を免れるものではありません。自ら躊躇せず飛び込むことの中に真の自由になりきった自己を発見できれば、 そこに自由人としての私が存在します。

その"私"は、鎌倉時代の栄西禅師の興禅護国論、序に有ります。 「大いなる、心や。天の高きは極むべからず、しかるに心は天の上に出づ。地の厚き測るべからず、しかるに心は地の下に出づ。日月の光はこゆべからず、しかるに心は、日月光明の表に出づ。大千沙界は極むべからず、しかるに心は大千沙界の外に出づ。それ太虚か、それ元気か、心はすなはち太虚を包んで、元気を孕むものなり。天地は我れを待って覆載し、日月は我れを待って運行し、四時は我れを待って変化し、万物は我れを待って発生す。大なる哉、心や。」

元気とは心と一体にして、つまらない自分、不愉快な自分、悲しい自分、愉快な自分これらすべて元気のなせる技にして、自分の中の主"元気玉"の姿・形を変えた姿です。この自分の中の元気玉を自由自在に扱えることができて、元気玉と一つになったとき、ここに自由があります。くれぐれも運命とか因縁と言ってあきらめるという意味ではありませんので注意が必要です。



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