目次
輝いている時
夢中(ゆめのなか)
芝浜
江戸っ子
亀住町(平成13年7月1日)
モンセ・ワトキンス~夢のゆくえ~(平成14年1月3日)
新牌開眼
英霊(平成17年5月23日)
目覚め
よわい「齢」
また始めたらよい
三大聖樹(平成19年4月17日)
滅度(平成19年9月18日)
安住の地(平成20年11月15日)
心眼(平成22年3月1日)
とかくこの世は
とかくこの世は
祈り(平成17年11月29日)
品位(平成18年1月20日)
ニャンニーシンズ(平成18年3月1日)
鍵(平成18年4月25日)
チベット(平成20年5月1日)
SYOHOU
諸法
四十四の問い~ミヒャエル・エンデ
先ゆく輩
さき行く輩
祖師年譜
ダルマ
慧可
五洩霊黙和尚
石鞏慧蔵禅師
大珠慧海禅師
西川の黄三郎
馬祖道一禅師(馬大師)
五百生 百丈和尚
大梅山法常(752-839)
麻谷山宝徹禅師(平成12年1月27日)
鎮州普化(ふけ)和尚
寒山・拾得
虹の彼方に
ヘイヴン・ペックの場合―続貧しいけれど、豊かだった―
生前葬
平和を我らにーGIVE PEACE A CHANCE(平成13年10月31日)
ソクラテスとヤージャニダッタ
蓮(平成14年6月2日)
心-KOKORO(平成14年6月25日)
独り暮らし(平成15年4月12日)
老いが、咲いていた!(平成16年7月5日)
深濱-fukahama
死に顔
松山鏡(ソクラレストとヤージャニダッタの続き)
真ん中(平成20年4月1日)
百万回いきたネコ(平成21年1月1日)
夜来る鳥(平成21年1月1日)
だいじょうぶ、だいじょうぶ(平成21年2月1日)
無常への帰依
無常への帰依
希望(平成12年1月2日)
葬式坊主
泥棒
赤とんぼ
老い
……ロス
後姿
寿陵
ついで参り
目標
六道を行く
もの言わぬ羅漢達…揀択をこえて…
宮本武蔵
五合庵断章(平成10年10月17日)
K子さん!(平成12年7月19日)
今は昔
十一面観世音菩薩
尽七日忌(平成19年5月1日)
OSYOU
OSYOU
この手のひらに―禅僧の死―(平成10年11月18日)
戒(平成10年7月25日)
幽霊
みんな仏教徒(平成10年5月27日)
最後の晩餐(平成10年5月23日)
禅問答(平成10年5月31日)
分銅
天国は汝ら自身に宿る(平成10年11月24日)
宗派
穢れ(平成12年8月30日)
お彼岸
仏心
仏心
ご祈祷
施餓鬼会にて(平成17年5月28日)
永遠の命
輪廻する葦(平成10年5月27日)
連鎖する命(平成10年6月2日)
涅槃(平成10年8月12日)
鏡(平成10年7月25日加筆)
流星
TAO(平成11年1月3日)
四大
挨拶
冥福
盂蘭盆
祈り(平成14年7月4日)
仏事歳時記
再び 最後の晩餐
この手のひらにII(平成18年11月18日)
死んで生きる智慧(平成19年3月27日)
五百生(平成19年11月20日)
破地獄偈(平成20年5月24日)
この指止まれ
この指止まれ
家族と家庭(平成11年1月5日)
導師(平成11年2月26日)
家から個人へ、そして家族・友達へI
家から個人へ、そして家族・友達へII
脳死そして臓器移植(平成11年3月2日)
独り決めの生き方
僧堂I
僧堂II
僧堂III
恥じ
僧堂IV
返事
父殺し・母殺し・友だち殺し・子殺し(平成20年1月1日)
その後
その後
ほとけさま(平成17年5月1日)
仏が仏に合掌する
戒名(平成12年3月14日)
無用の用(平成12年2月21日)
世話
大きく育て!(平成11年1月18日)
しもべ(平成10年11月7日)
電話(平成10年8月22日)
意思
寡黙
妄想(平成10年8月2日)
川(平成10年8月22日)
風如(風のように)(平成10年6月18日)
追悼(平成10年5月27日)
受容(平成10年6月18日)
蒸発
臨終(平成10年6月8日)
外道
障子(平成13年3月10日)
日月(にちげつ)
年寄りの出番より
人生とは、闇を照らす一瞬の蛍の光
時の旅人
時計(平成12年1月3日)
星(平成11年10月15日)
溝(平成11年8月2日)
過去心…念の起こる処(平成11年6月19日)
与える時間(平成11年5月24日)
桜(平成12年3月2日)
無常(平成11年4月16日)
川(平成10年9月17日)
有時(時の構造)(平成12年2月5日)
時の旅人(平成12年2月1日)
揺れる木々の葉
この人生の速さはなんだ(平成14年12月26日)
法句経より-時の旅人(平成15年2月4日)
寂然不動 如春在花(寂然不動、春の花に在るが如し) (平成16年9月19日)
ZENGO
自立
橋は流れて(平成10年9月18日)
無事
過去(平成10年5月23日)
たまごっち(平成10年5月23日)
一衆觸礼(いっしゅうそくれい)
六道を輪廻する
二人三脚
生老病死
筋肉番付
ポケモン
俺は、親馬鹿か!
塵も積もれば山となる
生と死と永遠
最終章
一章
二章
三章
四章~(未完)
時間旅行
時間旅行
命の歌-母の短歌
礎-いしずえ-
離魂(平成19年8月25日)
海辺橋
海辺橋
ふるさと(平成18年3月4日)
千の風(平成18年9月16日)
人の道(平成18年9月18日)
あなたは、いつから、一年が始まりますか?(平成20年8月1日)
前住職 二十三回忌にて(平成20年9月1日)
平成21年お施餓鬼会を振り返って(平成21年6月1日)
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五合庵断章(平成10年10月17日)

五合庵断章(平成10年10月17日)

 世の中は供へとるらしわが庵は 形を絵に描きて手向けこそすれ

 今よりはいくつ寝ぬれば春は来む 月日よみつゝ待たぬ日はなし

 なにとなく心さやぎていねられず あしたは春のはじめと思へば

 「いったい良寛さんはどんな正月を迎えていたのであろうか」、ふとそんな思いに駆られて著作を調べてみると意外と数が少ないのに驚きます。それにしても歌はいかにも童心の良寛さんらしく、閑散とした部屋に絵に画いたお供えを前にして指折り数える姿、心はしゃぐ姿が目に浮かびます。
漢詩では「ただ 明朝 新たに歳を迎うるに慣れ 玄鬢(ゲンビン:黒髪)の化して霜となるを省みず」と除夜を歌った詩が有るのみで、その内容は自省の詩です。


北陸の冬は厳しい。まして日本海に面した国上山は海風がはこぶ湿った雪に覆われ、何といっても来る日も来る日も続くあの灰色の空は憂鬱になる。戸外に出て暖を取るための粗朶も集められず、何百年かたった杉、老松の根元を掻き分けてふもとに下りて行くことも出来ず、できる事はただじっと春を待つのみ。

「玄冬 十一月 はげしくみぞれが降る。山は白一色と化し、道に人影はない。昔を思えば、夢のように、今は一人草庵の扉をとざす。よもすがら炉にそだを焚き、古人の詩を読む。」

「孤峰 独宿の夜、外はみぞれが降りしきり、思いは悲しい。山に黒猿の叫びが響き、凍てついた谷川はせせらぎの音を消す。窓ぎわの燈火は動かず、床に置いた硯の水は乾ききる。徹夜 目は冴え、眠られぬままに、筆に息を吹きかけいささかの詩を書く」

厳しい冬篭りで、蓄えも底をつき、ただひたすら暖かくなるのを待つ良寛にとって、ひとりぼっちの正月自体には、それほどの意味を持たなかったかもしれない。否、厳しい閉ざされた冬があってこそ、暖かな春の訪れをつげる、陽気をひたすら待つ良寛であったのでろう。白一色の世界と灰色の長い長い冬だからこそ、子供達と戯れる便りの暖かさが待ち焦がれる。粥をすすって寒夜を消し、日を数えて陽春をまつと良寛は歌うが、それにしても北国の冬は長い。

冬夜長  三首

 「冬夜長し 冬夜長し 冬夜 悠々としていつか明けん。燈に焔なく 炉に炭なし ただ聞く 枕上 夜雨の声」
「ひとたび思う 少年の時 書を読んで 空堂に在り。燈火 しばしば油を添え いまだ厭わざりき 冬夜の長きことを」
「老朽 夢 覚めやすし 覚め来って 空堂に在り。堂上 一盞の燈 挑げ尽くして 冬夜長し」

 年が明けて旧暦二月になると木々の枝には新芽がふきだし、雪を溶かすかのように草は萌えいで、岩にしがみつく苔は緑をとりもどす。暖かな風が吹くかとおもえば、老いた梅の枝からほのかな薫りを辺りにまきちらす。国上山の中腹五合庵より眺めれば、ふもとにはいく筋もの煙がたなびき、まるで踊っているように見えたに違いない。

「草鞋に杖をとり 江村の路を歩めば、まさにこれ 東風二月の時。鴬は高いこずえにうつりさえずるが、その鳴き声はまだ小さく、雪は低い垣根に残って、草色微かなり。たまたま友に会い風流を語り、しずかに本をひもとき、手であごをささう。この夕べ 風光 ようやく穏やかに、梅花と詩情とふたつながら相い宜しい。」
「春気 ようやく和調にして 錫を鳴らし東城に出づ。園中の柳は青々として池上の浮き草は漂っている。(托鉢の)鉢は香し 千家の飯 心はなげうつ 万乗の栄え。古仏の跡を追慕して 次第に食を乞うて行く」

「比類なき愚かさゆえ 草木をもって友となす。老いぼれたこの身には もはや迷とか悟とか問うに物憂く ただみずから笑うのみ。すねをかかげてのどかに水を渉り ふくろを携え行き春を歩く。敢えて世塵を厭うのではないが いささか余生を過ごす。」
春になればすべてが、生き生きとする。それは冬が厳しければ厳しいほど一層に思われたに違いない。友と酒を酌み交わし、草を摘み、子供達と遊び、梅をかぎ、桜・桃の花を愛でる。良寛禅師こそ真の自由人であった。

 ひさかたののどけき空に酔ひ伏せば 夢も妙なり花の木の下

 国上山雪ふみわけて来しかども 若菜摘むべく身はなりにけり

 鉢の子にすみれたんぽゝこき混ぜて 三世の仏に奉りてむ

 霞たつながき春日をこどもらと 手まりつきつゝこの日暮らしつ

 いざこども山べに行かむ桜見に 明日ともいはゞ散りもこそせめ

 五合庵

 索々たり五合庵 室は懸磬のごとくしかり。 戸外には 杉千株 壁上には 偈数篇。

 釜中 ときに塵あり 甑裡さらに烟なし。 ただ東村の叟ありて しきりに叩く 月下の門。

 *注 懸磬(ケンケイ) 貧しく何も無し  甑裡(ソウリ) 飯を蒸すこしきの中 偈(ゲ) 禅宗における漢詩

良寛禅師がここ五合庵に住み着いたのは、今から数えておよそ百八十年前、文化元年頃のことと思われる。その時良寛四十七歳であった。
宝暦八年(一七五八)、越後国三島郡出雲崎の名主橘屋山本以南の長子として良寛禅師は生まれた。幼名は栄蔵といった。家業はなかなか思うようにならなかった。安永四年(一七七五)、栄蔵は十八歳で名主役見習となるが、突然尼瀬の光照寺に出家する。安永八年(一七七九)、備中玉島円通寺の国仙禅師が光照寺に立ち寄るのをきっかけに受戒剃髪、大愚と号し良寛が誕生する。時に良寛二十二歳であった。以後国仙に師事すること十三年間のながきにわたった。寛政二年(一七九〇)、国仙より印可の偈を受ける。

「良や愚のごとく 道うたたひろし。騰々任運 誰か看ることを得ん ために附す山形爛藤の杖 到る処壁間午睡の閑」

 これより一生を清貧の乞食生活として送り、国上山の五合庵へ住み着いたのは文化元年(一八〇四)良寛四十七歳の時であった。五合庵下山が五十九歳の時と言われ、国上山ふもとの乙子神社境内の草庵に六十九歳まで居たと言われるので、つごう国上山には二十三年間居たことになる。天保二年(一八三一)、正月六日午後四時頃、島崎の木村家の庵で示寂。良寛七十四歳のことであった。

 つたえきく良寛の辞世に 「うらをみせおもてをみせて散るもみじ」とあり、次の言葉が忍ばれる。

「災難に逢う時節には、災難に逢うがよく候。死ぬ時節には、死ぬがよく候。是はこれ災難をのがるゝ妙法にて候。」


K子さん!(平成12年7月19日)

K子さん!(平成12年7月19日)

確か平成12年4月29日だったと思う。K子さんが突然救急車で入院したのは!
K子さんのご主人のSさんは、一緒に修行した経験はないものの、私の修業道場の先輩でもあることより、僧堂を出てより、たびたびお邪魔するにつけ、K子さんとお話をする機会が増えていました。

18年前の記憶は不確かなことなのですが、当時K子さんは、腎臓透析に上野のJ病院に通っていると言われました。K子さんが何処か信頼できる病院はないかと話をしているところ、私の従姉妹の夫がT病院の放射線科で技師をしているから、聞いてみましょうと、言った言葉がきっかけで、それ以来T病院に腎臓透析を通う姿を、私は見ることになりました。K子さんは1週間に2回、欠かさず病院に通って、約半日透析を繰り返していたことになります。

お寺の奥さんであるK子さんの大切な仕事の一つは、寺の留守を守ることがあります。留守を守ると言っても、この守り方一つで寺が人の絶えない寺になるか、尋ねにくい寺になるかと色々なのですが、K子さん程その勤めが似合う人はいないのではないかと、妙な誉め言葉ですが思う人でした。

透析をしていると、時に血液が濃くなり、脳溢血、脳血栓を引き起こすことがあるということなのか、留守中、それは突然の出来事だったらしい。K子さんが倒れた。
帰宅したSさんが発見し、娘さんに連絡をとり、救急車でT病院に搬送された。CTスキャンにより、脳に出血が認められ、手術。術後は言語障害が発生したのですが、筆談での会話は何とか出来るというのです。
風の便りにK子さんが入院した事を聞いた私は、Sさんに電話をして、K子さんの様態を聞き、この変化に驚き、医療処置を病院に任せ、祈り気遣う家族の姿を想像しながら、私はメールを送りました。

Sent: Sunday, May 07, 2000 10:10 PM
Subject: 具合はどうですか
その後、奥様の具合はどうですか?
心配しております。少しでも良くなりますように!

Sさんからのメールです。
平成12年5月8日
ありがとうございます。昨夜危険な状態といはれて、娘が泊まり込みました。今朝の連絡で何とか持ち越したようです。今朝息子に連絡してすぐ帰るようにしました。あわただしいことです。脳溢血も起こしたようで、意識があるときと無いときがあり、この一両日が危険な状態とのこと、心配です。ではまた 
平成12年5月14日
毎日重い空気の中で生活しています。
昏睡状態というのは、一心に眠り込んでいる状態、しかしそこには意識が無いといわれている。事実呼びかけにも何も反応しない。寝てるから。脳幹まで冒されてはどうしようもない。医者もこれ以上手がつけられないと言う。しかし足が突然動いた。また周りで話をしていると涙を出している。
これは脳の深いところで聞いているのではないか。それはその反応が現れているのではないか。看護婦さんはわかりませんと言うが、身内の者にしてみれば、そこにかすかな期待を持ちたい。今日もこれから励ましに行って来ます。
 


平成12年5月15日、K子さんは家族が見守る中、心臓が停止し、息を引き取りました。
52歳でした。通夜・葬儀はしめやかに、そして多くのお別れを惜しむ人たちに囲まれ、旅立っていきました。残像として、いつまでも印象に残るK子さんでした。
平成12年7月12日、私はお盆の棚経で、船橋を訪れました。蒸し暑い夏の始まりはここ何日か続いて、この日から私の実質のお盆の到来でもあります。

Mさんのお宅は、今年の4月始め、ご主人を亡くして、初盆になります。しかしながら、初盆を迎えるべき老妻は、病院のベッドの住人として、脳死状態でいるのです。3週間前食物に喉を詰まらせ、15分の心臓停止から蘇生した老妻の意識は、元に戻ることはなく、それより病院生活に入ってしまったという。
もう何年も前から、『植物人間』、『植物状態』という言葉が一般に使われるようになっています。『動物人間』、『動物状態』とは言わないことに、面白く思います。動物が植物になることに、何か否定的なイメージが有るとすれば、幻想に過ぎなく、厳密な定義など、もともとないくせに、『植物人間』、『植物状態』という言葉が、一人歩きしているのだと思うのです。
Mさん宅で、Sさんのメールの
「昏睡状態というのは、一心に眠り込んでいる状態、しかしそこには意識が無いといわれている。事実呼びかけにも何も反応しない。寝てるから。脳幹まで冒されてはどうしようもない。医者もこれ以上手がつけられないと言う。しかし足が突然動いた。また周りで話をしていると涙を出している。

これは脳の深いところで聞いているのではないか。それはその反応が現れているのではないか。看護婦さんはわかりませんと言うが、身内の者にしてみれば、そこにかすかな期待を持ちたい。」という内容が、私の頭の中をめぐりました。
そこで、老妻の様子をうかがい、メールの内容をお話いたしましたら、応対していただいた、息子さんたち、娘さん、お子さんのお嫁さんたちが、この内容に一斉に頷きました。

そこで気がついたのです。ぐっすり眠り込んだ夜、目を覚ましたときは、もう朝という時があります。ふと考えることは、この熟睡している時間の私は、私を意識することもなく、夢も見ることはない。しかしながら、ひょっとして、鼾をかいているかもしれない、寝返りを何度もうっていることだろう、手は布団を引っ張っているかもしれない、動かそうと意識せずに生理的に動いている私も、私の一部であり、目をあいて活動する私の時間のやはり何パーセント何十パーセントは、意識しない私が含まれていると思う。そう思うと、考えようには、植物人間でベッドに横たわってしまった私と、眠っている私は、同一の状態に近い場合もあるのではないかと思うのです。

人は、意識の無い部分と、ある部分と合わせて、個性を表現いたします。意識のある部分だけを取り出して、人の存在の価値や意義を云々することは、価値や意義を見出さない部分を作ってしまうことになるのではないかと、考えてしまいます。
昏睡状態に陥った人の意思はと、考えた場合、最後まで生きようと血が流れ機能が働きます。このことも意思に違いありません。意識の応諾は得られないかもしれない、こちらの意思は通じないけれど、応諾しない通じないことも昏睡状態の人を形成する部分なのです。

脳死をもって、人の死とすることが、一般に浸透し始めています。忘れてならないことは、このことだと思います。そうしなければ、一人の人の意思や意識だけが、人なのだと選り分けすることになってしまう気がいたします。
船橋のMさん宅で、K子さんの顔が浮かび、「ほうや!陽岳寺さん!全部私ですわ!」と話し掛けてくれたような、「マダマダ修行がたりません!」と叱られたような、とても懐かしい気持ちにさせてくれたK子さんでした。(SさんとK子さんに!


今は昔

今は昔

私が小学生も低学年の頃、西八王子の田舎より見た、ここ深川の思い出は、何と言っても隅田川の大きさと沢山の水路だった。その水路には、沢山の艀(はしけ)が浮かび、人が生活していたのだ。

陽岳寺に、小津安二郎本家の墓地があるが、彼の映画にも水上生活者の風景があった記憶がある。今では考えられない景色なのだ。彼の映画にあって、今はない景色は、暖かな家族の団欒の風景であり、その団欒の風景は、船の上であったり、横丁の路地であったりだった。

多分さまざまな職種があって、雑多に交じり合って、町を形成していたのだと思う。
禅語に「佛殿裏に香を焼き、山門頭に合掌す。」という語が有ります。
禅僧が修行の道場で、ふすまの開け閉め、下駄草履の扱い、低頭の仕方、畳み敷居のまたぎ方、ぞうきんがけの仕方、歩くときも寝るときも規矩(きく)に則りそれこそ着衣喫飯、行住座臥、僧侶としてのなりふりだとか、姿形がそれなりに、見えるにはやはり長い年月と修養がそうさせるのです。しかし、修行道場での生活は、団体生活ですので、それを乱す者には容赦ない罰刑があります。大勢の雲水達が修行がしやすいようにとの老婆心からです。

職人の世界でも、大店の店でも修業道場に似て、掟とか、家訓、弟子と師匠の決まりといったことが沢山あったと思うのですが、今は、見事に無くなった気がいたします。それと共に過去の文化も崩壊したような気がいたします。
禅僧の日常から、つまり修行の中から、多くの禅僧が大悟、小悟をえては、それを慣らしてきました。古人は、「到り得て帰り来って別事無し」と語をつけます。
禅僧としての、日常の風情であり、同時に人間としてのありようであるとも思います。

古来、日本人は自己を習練し、磨き、人格の完成を目指すことを人生の目的としてきました。だからこそ武道、茶道、弓道、華道等、”道”と言う字が当てられてきました。
それに引き換え、現代最も卓越した企業の課題は、”利潤の追求”です。追求の後の分配は、豊かさなのでしょうが、そこが気になるのです。豊かさが、物質であり、有り余る余暇であり、束縛の無い自由さなのでしょう。
現在でも習字を習うときなど、姿勢、息に気を付け身を調えてから字を習います。この身を調えることが、求心的な行為であり、自己を習うということです。この自己というものを忘れて、豊かさばかりを追求した結果が、現代の姿なのでしょう。

かって、この国に、禅が出現し、武道、茶道、弓道、華道等、”道”という文化を形成したことが嘘のような、現代です。
この違いは根底にある探求の方法です。利潤を追求する発想は、積み上げて積み上げて達成しようとします。それはより強い鎧を着てガードする考え方でもあります。この鎧は、年金制度、保険制度などでもあります。
しかしながら、過去の文化は、精神的にガードする思想、見方を削いで削いで、自分自身を消滅することにより、優れた独立性を確立したものっだのです。

ある僧が師に、「如何なるか祖師西来意?」(達磨さんがはるばるインドより中国へ渡ってきた目的はどのようなものでしょうか?お釈迦様の説くギリギリの処はどのようなものでしょうか?)と尋ねましたところ、「照顧脚下」と答えられたという故事が有りますが、人々自己の足元をしっかりと固めて、それぞれが行ずべきことを行ずる、それをこの「佛殿裏に香を焼き、山門頭に合掌す。」という禅語で現したものであり、削いで削いで行ずるそれぞれの姿のあり様だと思うのです。


十一面観世音菩薩

十一面観世音菩薩

おん・まかきゃるにきゃや・そわか

1パラミータ
 《ある人が「私たちに神の王国についてお示しください」とイエスに問いかけました。
イエスは答えました。「そこには時間というものがない。そこには永遠がある。時のない瞬間が、それが彼方だ」とラージニシ・和尚は云います。彼方とはパラミータです。空そのもの、もともとの完成された智慧そのものといえるでしょう。この物語は、その彼方から始まります》

未だ私が産まれる以前のはるか”彼方”。それは天も地もなく、悠久さは、みちみちていることが統べてであり、いまだ世界を形づくる以前の、瑠璃色の水が覆うのです。太虚といい、混沌という宇宙。
禅は、そんな世界を、私という、一身上の世界に当てはめます。

滋味というその水は、彼方を深々と、芳しくたたえる。この悠久さには、時が経つという記憶もない。
しかし、やがて、ゆっくりと悠久の滋味の中に、千枚の花びらを持つ花が誕生したのでした。それは、ゆっくりと、すべての生き物が誕生する余韻に先駆けてのことです。
凛として、白く、弁の中に七色の虹を放つ花は、ゆったりと、幾本ともなく咲き、”彼方”を覆いつくしたのです。
やがて、天と地が誕生し、光が誕生すると闇が広がり、太陽と月が生まれました。
その花は、太陽と月の輝きを受けて、次々と命あるモノを生みおとして、悠久の水を、それぞれの体内に注ぎ込むことを心がけたのです。
命が芽生えたモノたちは、その水から外に目指して、羽や翼のあるモノ、ヒレのあるモノ、尻尾のあるモノとして生まれ、いつしか人が登場しました。


2蓮華

 誕生したあらゆるモノは、未だ、混沌の中に、混沌のまま、それが、今、生まれたままに、あるがままにあるという、天地の間に、滋味あふれて憩いでいる姿でもありました。
 混乱も、争うことも、優れていることも、劣っていることもなく、世界の一々として、光と闇が入り交じる、朧(おぼろ)そのままに光り輝いていたと言えるでしょう。


 しかし、世界にモノが溢れて、悠久の水が使い果たされ、体内に注がれた命がやがて枯れるようになると、時が刻まれ、諸行無常の世界が誕生いたします。
 世界の誕生は、時と空間の誕生です。
 此岸というこの世界で、人々は、”彼方”に咲くその花を、愛で、『蓮華』と呼んだのです。
浄土は遠い彼方に遠ざかるのですが、蓮華は今でも滋味あふれる瑠璃色の光を放って、世界を照らしています。


3 我
 人が思いを抱き、物を自分のモノとし、いつまでも命あるモノと願うようになると、そこに、いつしか「わたくし」という幻を、それは、まるで確かなものであるようにと信じてしまいました。浄土が後退し、やぶれて、どうやら我という私の想いが出現したのであります。
 それ以降、生きることは分別の繰り返しとなり、病に侵されていることすら知らず、むしろ、病に深く侵されることこそ、人の価値が上がるとことを目指す思いが、世界に蔓延するようになったのです。

 潤いの中で生まれた私が、渇きを求めて、外に飛び出すかのようにして、私が生まれ、人々は、同じように病を宿すようになったのです。
 私という病を。そして、私という分別を、世界を。


4十一面観世音菩薩 
    おん・まかきゃるにきゃや・そわか
 「時に、観世音菩薩は仏に申して曰く、世尊、我に心呪あり、十一面と名づく。此の心呪は十一億の諸仏の諸説なり。我今これを説かん。一切の衆生の為の故に。
 一切の衆生をして善法を念ぜしめんと欲するが故に、一切の衆生をして憂悩なからしめんと欲するが故に、一切の衆生の病を除かんと欲するが故に、
 一切の障難災怪悪夢を除滅せんと欲するが為の故に、
 一切の横病死を除かんと欲するが故に、
 一切のもろもろの悪心者を除きて、調柔ならしめんと欲するが故に、
 一切のもろもろの魔鬼神の障難を除きて起らざらしめんと欲するが故なり。
正面の三面を、菩薩面となし、左面の三面を瞋面(しんめん)とし、右面の三面を菩薩の面にてつのと牙をだし、後ろに一面ありて、大笑面と作し、頂上の一面は仏面となす。」
 おん・まかきゃるにきゃや・そわか 南無観世音。
 その名を十一面観世音菩薩いう。
人に智慧と慈悲を、諦めと意気地を、勇みと情けの花を咲かすため、地蔵菩薩と毘沙門天を引き連れて創造されたその化身故に、気がつけば、欲すれば、呼びかけに応じてすぐ傍に、佇み、包み、慈悲となって、人を覆います。

それは、自分自身に自由であることの全てを、思い出させるのです。
それは、未だ私が産まれるはるか彼方、それは天と地に分かれないその日、それは太虚といい、混沌という、光も闇もない世界。深く悠久の水に覆われた、すぐ近くの彼方のことです。
   おん・まかきゃるにきゃや・そわか

陽岳寺本尊十一面観世音菩薩物語

天地未だ別れざりし時、一日(いちじつ)すこぶる風吹きてそのあとに、いとど深き水の太虚(たいこ)を覆い尽くせり。奇なるかな妙なるかな、その水いと芳しき水なり。 
 日ならず月ならず、その香り尽きず。芳しき無尽蔵の水、その故や、如何に……?。 
それ無尽蔵なる花の、水の中に咲くが故なり。白くいとけなき、千枚の花びらを持つ花の、水中にゆかしく咲きぬ。太陽と月、交わりて、その花生まれいでたり。 
しこうして、その花より、あらゆる命、生まれ出でたり。 
いずこにも病(やまい)見当たらず。世はおしなべて、光と闇の入り交じりし朧(おぼろ)なる、瑠璃色の混沌なりき。 
皆、ありのままに天地の間に憩いたり。 
天地別れて後(のち)、世界が生まれ出でたり。世界は、時間と存在の織りなす綾にして、人々、生き死にを繰り返しながら、その花を、蓮華と呼びぬ。 
諸行無常の娑婆世界。浄土は久しからず。人、思いを抱き、物を引き寄せ、いつしか「わたくし」という幻を永久(とわ)なる器と信じたり。即ち、浄土やぶれて我あり。 
我が心の田に、木の櫛をさして境界を造る。 
我が田にクシ。 
しこうして、私生まれ、諸人(もろびと)等しく病を宿したり。私という病なり。 
時に、観世音菩薩は仏に申して曰く、世尊、我に深き願う思いあり、十一面と名づく。此の心の願いは十一億の諸仏の諸説なり。我、今これを説かん。 
一切の衆生をして、ことわりの法を、念ぜしめんと欲するが故に、 
一切の衆生をして、行方知らぬ迷いの道を、なからしめんと欲するが故に、 
一切の衆生をして、病の源を知らしめんと欲するが故に、 
一切の降りかかる災いを、ひるがえ見せしめんと欲するが為の故に、 
一切の横病死者の心痛を安らめんと欲するが故に、 
一切のもろもろの悪心者を除きて、素直さの深奥を知らしめんと欲するが故に、 
一切のもろもろの魔鬼神の降りかかる障難を除きて、起らざらしめんと欲するが故なり。 
我、この世界に、もろびとの苦しみがある限り、共に歩まんと……、人の心に、悩みの種がすむ限り、深く耳を澄まして、恐れにひるむことなく共に歩むことを誓わん。すがたかたちを変えて、諸人と共に歩まんと、求める人のかたわらに立たん。 
諸人の苦しみと悩みとは、生老病死・くじかれた夢・親しいものとの別れ・恐れと憎しみとの会い別れなりき。生きることとは、移りかわりであり、その移り変わりの多くの要素の、一つ一つの事柄には心は無い。 
しかるに、生きるためには、みな必要なものばかりであると気づきしとき、乗り越えなければならない我が身に、豊かさや実りがもたらされんと。 
我ら、強くすこやかに力あるとき、みずからむち打ち、みずから励まして、自己のうちの、形なき限りなきものを求めたまえと、変わらざる源をもとめたまえと。奮い立つ心をおこさんと。 
我ら、今えりごのみの心を見極め、自己の内なる愛憎、好悪を知り、ただ瑠璃色の混沌のごと、何物にも染まらず、我等の所有する一切の概念を忘れ、いかなる思いも留めようとせず、抱かず、ただ虚心にて、ここに、立ち、座れり。 
我ら、今、誠に愛憎の記憶を投げ捨てたり。苦しきは時間と存在の記憶なりと、我、まことに知れり。 
観世音菩薩、頭部に深き願う思いとする、十一のしるしを掲げるは、心の根源を突き止めたあかしとして、正面の三面を、菩薩面となし、左面の三面を、怒る瞋面(しんめん)とし、右面の三面を菩薩の面にてつのと牙をだし、後ろに一面ありて、呵々大笑面と作し、頂上の一面は仏面となす。」 
オン・マキャキャルニキャヤ・ソワカ。 南無観世音。その名は、十一面観世音菩薩。自由自在な心と、名づけられし、観自在菩薩。 
それは、未だ私が産まれる以前のはるか彼方、それは天と地に分かれないその日、それは、太虚といい、混沌という、深く悠久の水に覆われた、すぐ近くの彼方のことです。

『御開帳綺譚(文芸春秋社刊)』玄侑宗久師著作を参考にして


尽七日忌(平成19年5月1日)

尽七日忌(平成19年5月1日)

 島崎藤村に、”三人の訪問者”という随筆があります。その最後は、  「まだ誰か訊ねてきたような気がする。それが私の家の戸口に佇んでいるような気がする私はそれが「死」であることを感知する。おそらく私が、「季節の冬」「まずしさの貧」「人生の老」という三人の訪問者から、自分の先入主となった物の考え方の間違っていたことを教えられたように、「死」もまた思いも寄らないことを私に教えるかもしれない」と結んでいます。
戸口に立っている「死」は、けっして訪問することはありません。思いを馳せることはできますが、人生の不可思議や不思議、矛盾の気配を察する、その気配だけでよいと思います。何故なら、私たちは、生と死という事実のなかに生きているからです。
四十九日忌の法要は、亡くなられてから七日七日と七回数えて、その七日の忌明けの意味があります。そして、東京では、この頃が遺骨を自宅からお墓に納骨する習慣となっています。通夜・葬儀から続いて四十九日忌の法要は、その短い時間の長さに対して、そろそろ、訪れた死という不可解なるものを、自分自身で考え、そこからそれぞれの糧とすることで、人生に潤いを与える試みでもあるのだと、試練として考えていただきたいと思います。

 昔の人は、死への旅立ちに対して、様々な道を創造しています。その代表が、まずは四十九日忌ではなかったか。もはや私の側へともどれない現身に対して、旅立つことを強いられて死者の道に歩む姿を四十九日という日数に見出したのだと考えてみました。その道は、さらに、地獄や極楽、天国へと次々に創造していったのではないかと思います。これは先人達の私たちへのメッセージとしての智慧でもあります。
 平成19年3月30日のある葬儀の日、外国に出張に行って、なんとしても父の葬儀に間に合わせようと、十何時間かかけて、やっとの思いで通夜の29日、飛行機の切符を手に入れ、父の葬儀に参列した喪主である、息子さんがいました。彼が飛行機に乗っている時間に、電車を乗り継いで父の元にと駆けつける時間に、生前の父の姿を思い、そこから「自分にとって父とは」と、父の死を考えていたことを話されました。
 息子さんの葬儀の挨拶は、とても考えられた父の背中の話でした。その言葉を聞きながら、すぐに駆けつけられなかった彼の長い時間は、身近さゆえに、考えることもなかった父という人格を、考えさせられた時間だったことを思いました。もう見(まみ)えることができないという思いが、より身近な父にあえたのではないかと、それが死ではないかと……。

多くの亡くなられた方々の棺の中に眠る姿を見て、花に覆われた棺のふたが閉ざされることに立ち会っては、生は何処にあったのか、死は何処にあるのかと、不思議な疑問を持ちます。
 そんな疑問に「棺の中に眠っている死者を指し、すぐそこに在るではないか」と、確かに死であることに違いないけれど、でもそこにあるのは、父だった死者であり、母だった死者であり、親しいものだった死者であり、友人だった死者の姿が、冷たくなって在るように思えてなりません。
 私の死にしても、私に訪れた死は、私の死ではなく、他者の死を通じて知る命の死であることから、私が経験できない、他者にとっての私の対照的な死であり、相対的な死ということです。

私の父の死、私の母の死、私の友人の死と、死とは認識ではないかと、だからこそ、その認識を確かなものにするために、通夜をして、葬儀をして、荼毘に付してと、人は、悼み、驚き、悲しみ、寂しさに包まれ敬虔に、同じことを繰り返し行ってきたのではないかと思うのです。わき起こる感情や思いすべてが死ではないかと思うのです。確かなものとするためにです。
 しかし、相対的な死であっても、私が形成されている環境を思ったとき、たとえば、家族とか、父や母との関係において自分がいることを思えば、親しいものの死は、自己意識という私の一分が喪失したともいえるものです。
 それは、私と他者との、あいだの、不確かなものとして、突然に、家族のここの関係の揺るぎない絆のきしみや、ほころび、崩れとして現れるものでもあるのでしょう。そのあいだの表現として、悲しみや寂しさという、立ち止まりや佇みが、決して避けるものではなく必要なのだとも思います。そして、立ち止まりや佇みのあと、歩みがうながされるのだとも思います。
 「今でも、亡くなったということが信じられないのです。夫婦二人で過ごしていて、主人がいなくなり、ひとりお茶を飲んでいるとき、ふと、すぐ側に主人がいるような、ドアーを開け帰って来るようです。遺品となってしまった時計が回り続けることに、生きているようで、ハンガーに吊された主人の服が寂しさを誘い、どこかで私を見ているようで」と言った、婦人がいました。人と人とのあいだとは、縁というものですが、その縁は、根拠、相即といえるものでもあり、拠り所といえばわかりやすいでしょう。だから、貴方から私へのあいだは途絶えてしまいましたが、私の貴方へのあいだは、途絶えていないのです。

 決別へ誘う思考こそ、死を確かなものとするためのものです。そうしなければ、送る遺族として、迷いが生じることでしょう。死を確かなものにしなければ、残されたものが確かな足取りとして歩めないからでもあります。こう考えてみると、死は、私たちの内部にある観念だと思えてなりません。
 だからこそ、亡くなったものの思い出は、つきることなく、時間を超えて、私たちの中にわき起こり、ジレンマとなって次々に覆うのだとも思います。死は形がなく、時間的にも私たちのうかがい知れるものではありません。まして、突然に訪れてしまった死は、好きになれるものではありませんが、そうであっても、忌み嫌うものではなく、葬りさるものでもなく、わき上がる寂しさと涙の後に、考えるもののように思えます。

 そして、死が遠ざかるとは、私が変わること、時間がたつこと、忘れることで、死は遠ざかってゆくように思えるのです。変わらない貴方と私のあいだとして……。
 そこから、新たなあいだを形成してゆくためには、個人は消滅を繰り返すものの、決して消滅しない、断絶しない、死を超えて彼方に広がる、生命といわれるものが必要になるのだと思います。
 「禅は、今でも、今・ここです」。だとしたら、死も、今・ここに、あるはずです。しかし、現実には今・ここの死を対象化して見ることはできません。何故というなら、私が生という物語を創造して、生きているからです。

 人は巡礼のように、回帰と旅立ちの繰り返しのなかに生きているといってもよいでしょう。ここに不可解で不思議なものとして、生と死が、浮かんで参ります。そこで、生きているということを対象化し、認識し考える自己をもまた対象化し、相対的なものとして想定するとなると、認識し考える自己は、手や足を思うとおりに動かす自己と、無意識に手や足を動かす自己と、行為を強要し押さえようとする自己はすべて対象化し、相対的に考える自己となり、大きな矛盾を含んで、バラバラになることに気づくでしょう。そのバラバラの自己も、死は認識できないとすれば、実は、生を認識していると思っている自己こそ、創り上げられた自己であると思えてしかたありません。

 こう考えてくると、もともと、生死という場所に居て、死を問うこと、生を問うことなどできない存在において、質問自体が成り立たないことにも気づかなければ、すべては観念の世界の、創り上げられたものとして在ると言えないでしょうか。 鏡のなかの私のように。
 今ここに生きている、死は、ここにある。だけれども、私の死は対象化して捉えることができない。生も対象化して捉えることはできない。そのために、残された私たちが生きるために思い出を相対的なものとして共有し、天国を必要とし、一歩一歩遠ざかる階段を必要とし、生まれ変わることを必要とし、風や空、海を必要とするのではないかと思います。

 また人が、個別として、単体として生きている場合を除くと、生命体という意味では、子孫が生きることにおいては、地球や宇宙までも含めて、活発な生命体内部における個別な死は、その生命体にとっては痛みであり、死はないといってもよいでしょう。その痛みは、残されたものが、生き続けなければならないという記憶でもあります。

 禅で言う自己とは、生と死の、今、ここに生きているということ、その事実そのものです。禅は、私の無心の働きとして、私を超えて生の讃歌を世界に満ちあふれさせます。それが、相対的な自己や他者を創り上げないで生きる唯一の智慧だと、釈尊から伝えられたメッセージなのです。


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