目次
輝いている時
夢中(ゆめのなか)
芝浜
江戸っ子
亀住町(平成13年7月1日)
モンセ・ワトキンス~夢のゆくえ~(平成14年1月3日)
新牌開眼
英霊(平成17年5月23日)
目覚め
よわい「齢」
また始めたらよい
三大聖樹(平成19年4月17日)
滅度(平成19年9月18日)
安住の地(平成20年11月15日)
心眼(平成22年3月1日)
とかくこの世は
とかくこの世は
祈り(平成17年11月29日)
品位(平成18年1月20日)
ニャンニーシンズ(平成18年3月1日)
鍵(平成18年4月25日)
チベット(平成20年5月1日)
SYOHOU
諸法
四十四の問い~ミヒャエル・エンデ
先ゆく輩
さき行く輩
祖師年譜
ダルマ
慧可
五洩霊黙和尚
石鞏慧蔵禅師
大珠慧海禅師
西川の黄三郎
馬祖道一禅師(馬大師)
五百生 百丈和尚
大梅山法常(752-839)
麻谷山宝徹禅師(平成12年1月27日)
鎮州普化(ふけ)和尚
寒山・拾得
虹の彼方に
ヘイヴン・ペックの場合―続貧しいけれど、豊かだった―
生前葬
平和を我らにーGIVE PEACE A CHANCE(平成13年10月31日)
ソクラテスとヤージャニダッタ
蓮(平成14年6月2日)
心-KOKORO(平成14年6月25日)
独り暮らし(平成15年4月12日)
老いが、咲いていた!(平成16年7月5日)
深濱-fukahama
死に顔
松山鏡(ソクラレストとヤージャニダッタの続き)
真ん中(平成20年4月1日)
百万回いきたネコ(平成21年1月1日)
夜来る鳥(平成21年1月1日)
だいじょうぶ、だいじょうぶ(平成21年2月1日)
無常への帰依
無常への帰依
希望(平成12年1月2日)
葬式坊主
泥棒
赤とんぼ
老い
……ロス
後姿
寿陵
ついで参り
目標
六道を行く
もの言わぬ羅漢達…揀択をこえて…
宮本武蔵
五合庵断章(平成10年10月17日)
K子さん!(平成12年7月19日)
今は昔
十一面観世音菩薩
尽七日忌(平成19年5月1日)
OSYOU
OSYOU
この手のひらに―禅僧の死―(平成10年11月18日)
戒(平成10年7月25日)
幽霊
みんな仏教徒(平成10年5月27日)
最後の晩餐(平成10年5月23日)
禅問答(平成10年5月31日)
分銅
天国は汝ら自身に宿る(平成10年11月24日)
宗派
穢れ(平成12年8月30日)
お彼岸
仏心
仏心
ご祈祷
施餓鬼会にて(平成17年5月28日)
永遠の命
輪廻する葦(平成10年5月27日)
連鎖する命(平成10年6月2日)
涅槃(平成10年8月12日)
鏡(平成10年7月25日加筆)
流星
TAO(平成11年1月3日)
四大
挨拶
冥福
盂蘭盆
祈り(平成14年7月4日)
仏事歳時記
再び 最後の晩餐
この手のひらにII(平成18年11月18日)
死んで生きる智慧(平成19年3月27日)
五百生(平成19年11月20日)
破地獄偈(平成20年5月24日)
この指止まれ
この指止まれ
家族と家庭(平成11年1月5日)
導師(平成11年2月26日)
家から個人へ、そして家族・友達へI
家から個人へ、そして家族・友達へII
脳死そして臓器移植(平成11年3月2日)
独り決めの生き方
僧堂I
僧堂II
僧堂III
恥じ
僧堂IV
返事
父殺し・母殺し・友だち殺し・子殺し(平成20年1月1日)
その後
その後
ほとけさま(平成17年5月1日)
仏が仏に合掌する
戒名(平成12年3月14日)
無用の用(平成12年2月21日)
世話
大きく育て!(平成11年1月18日)
しもべ(平成10年11月7日)
電話(平成10年8月22日)
意思
寡黙
妄想(平成10年8月2日)
川(平成10年8月22日)
風如(風のように)(平成10年6月18日)
追悼(平成10年5月27日)
受容(平成10年6月18日)
蒸発
臨終(平成10年6月8日)
外道
障子(平成13年3月10日)
日月(にちげつ)
年寄りの出番より
人生とは、闇を照らす一瞬の蛍の光
時の旅人
時計(平成12年1月3日)
星(平成11年10月15日)
溝(平成11年8月2日)
過去心…念の起こる処(平成11年6月19日)
与える時間(平成11年5月24日)
桜(平成12年3月2日)
無常(平成11年4月16日)
川(平成10年9月17日)
有時(時の構造)(平成12年2月5日)
時の旅人(平成12年2月1日)
揺れる木々の葉
この人生の速さはなんだ(平成14年12月26日)
法句経より-時の旅人(平成15年2月4日)
寂然不動 如春在花(寂然不動、春の花に在るが如し) (平成16年9月19日)
ZENGO
自立
橋は流れて(平成10年9月18日)
無事
過去(平成10年5月23日)
たまごっち(平成10年5月23日)
一衆觸礼(いっしゅうそくれい)
六道を輪廻する
二人三脚
生老病死
筋肉番付
ポケモン
俺は、親馬鹿か!
塵も積もれば山となる
生と死と永遠
最終章
一章
二章
三章
四章~(未完)
時間旅行
時間旅行
命の歌-母の短歌
礎-いしずえ-
離魂(平成19年8月25日)
海辺橋
海辺橋
ふるさと(平成18年3月4日)
千の風(平成18年9月16日)
人の道(平成18年9月18日)
あなたは、いつから、一年が始まりますか?(平成20年8月1日)
前住職 二十三回忌にて(平成20年9月1日)
平成21年お施餓鬼会を振り返って(平成21年6月1日)
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もの言わぬ羅漢達…揀択をこえて…

もの言わぬ羅漢達…揀択をこえて…

 平成10年7月9日午前4時ごろ、突然バタンという音で眼をさました。隣の部屋で寝ている母に違いない。母の部屋のドアーが開いて、膝をつき両手をつき、情けない困った顔の母の顔が私を見ていた。母のいるジュータンに、あっちこっちに汚物が散乱していた。昨夜、母は初めて成人用の紙オムツをして寝たのだった。

1ヶ月前より、トイレにて大便をしぼりきれなくて、タラタラと肛門より垂れ流しのような状態になっていて、よく下着を汚していた。下剤を飲まなければ便がでないし、弱い下剤でも1日2日で効き始めると、何回もトイレに行かなくてはならない。その度に、少しずつ下着を汚すことになってしまう。下腹に力が入らないのだ。


 母の姿をみて、トイレに坐らせ、ジュータンを拭きはじめた。トイレにつれて行く時、母は右足を苦しく痛がっていた。母のお尻を洗浄し、新しい紙オムツをつけて、新しい寝巻きをはかせ、寝室に運んだ。ベットに坐らせ母の足を触りながら、「何処が痛い」の言葉に、母は太ももを痛いと言った。朝はまだ暗く、明るくなるまでもう1度休むことを願い、眠った。

7月はお盆の季節で、脳梗塞をおこして少し痴ほう気味の母の看病が出来ないので、7月11日に、北砂の特養老人ホームにショートステイを申し込んでいたところだった。9日の午前中に、北砂のホームの人と、枝川の介護支援センターの人が、母を見に来ることになっていた。8時頃、母を起こし、背負って1階の食卓についた。母は右足を痛がっていた。

10時頃、KSホームとE介護支援センターの人が母の様子をうかがいに来て、母の足の様態に、「念のため、レントゲンで見てもらったらいかがでしょう」との言葉に、すぐ近くのS外科病院にすぐ連絡し、手配を頼んだのでした。結果は、その場で入院でした。右大たい骨骨折でした。思ってもいなかったことに、その後の約1ヶ月は朝、昼、晩の食事の介助や就寝の「おやすみ」を言うため、私の家族や姉達はひどく疲れた毎日を過ごしたことになった。手術は成功裏に終わったのだが、入院直後、病床で脳梗塞の発作がおこったようで、ベッドの上で、母は右半身不随の状態におちいった。病院は、驚いたことに、院長、看護婦、ケースワーカーの連絡がまったくとれていず、私達は、病院を信用せず早く転院をしなければ、病人が本当の病人になってしまうと、真剣に母の状態が少しでも快方に向かうことを祈った。

転院前日の終身前、咳きをしながら当直の看護婦に、「隣の部屋の患者がインターホンを押して、20分たっても看護婦がこない。もし俺に何かあったらどうするんだと」怒っていたことを話したら、「夜間看護婦が3人しかいないのでどうしようもないのです。私は週に2日のアルバイトなので」という話だった。信じられないことがここでは頻繁に起きていたのだ。次いでだからすこし就けたそう。

母が入院して世話になったのは、不思議なことに、隣の病人だった。暑かった夏にベットの上掛けを気にしてくれたり、水を飲ませてくれたり、手足を吹いてくれたりした。また同室の病人の食器の搬入や片づけを彼女はしてくれた。彼女が退院しては、私達もそれを見習ったりした。彼女は1週間食事を食べずにいて、転院して行った。

その何日か前、K町のS婆さんが、腰をうったといって、救急車で運ばれてきた。彼女はベッドの上で、すぐに尿の管を挿され、寝たきり生活を始めてしまった。私達が退院する頃には、彼女はすっかり痴ほうが進んで、やがて千葉の老人病院に転院したことを聞いた。ある日のことだった、「管を挿していては、歩くことができなくなってしまう」の言葉に、息子サンはS婆さん管をはずしてもらった。食事の後のことだ、S婆さんが尿意を催して、息子サンがナースコールをしたのだった。看護婦が来てわけを聞くと、簡易便器をだして、その息子に「貴方が介助してください」といった。息子サンは怒って「金を払っているのだから、少しは看護婦らしいことをしろ」と、言ってはいけないことを言ってしまった。

3週間ほどして院長に様態を伺った時のことだ、「大分足もくっついて来たので、そろそろ軽いリハビリをするように」と、看護婦に言い渡してくれた。リハビリの先生は、夜6時頃出勤して、白衣姿で病人を訪ね、数分で出てくるという始末なのだ。約1ヶ月いて、母のところに来たのは1回で、それも、2分いたかどうかであった。ちなみに院長が病状を説明してくれたのは、この時と、手術後のお礼を渡した時と、入院した時、転院の許可をもらいに行った時だった。考えてみると、回診している姿を見たことがなかったのが不思議に思われる。

ある日のことだった、姉から電話があった。例によって朝8時病院に行ったときのことだった。「母の病室が3階の3人部屋に突然変わってしまった」と言う電話に、駆けつけた。こんな部屋があったのかまったく知らなかったが、その部屋に入って驚いたのは、まるで生きた年寄りの捨て場のような雰囲気をまず受けた。なんとなく、この部屋に入る看護婦の様子が、入ってはいけない場所に入るような素振りに、彼女達はすぐに駆け足で出て行った。私達は、部屋がえを頼んで、夕方には個室の病室に移ってホッとした。

ある日の朝だった、部屋を閉め切って、クーラーなしで、母の顔は赤く、身体は汗をかき、ほてっていた。急いで窓を空け、真夏の掛け布団をとり、汗をふいた。看護婦に聞いたら。「夜中身体が震えていたので、寒いと思って布団をかけました」とのことだった。母は半身不随で、右腕や右足を、震えて動かすさまを取り違えて施した措置だったのだ。

母は近くの医院から、常時薬をもらっていて、朝、昼、夜と決まって投薬があった。ピンクの薬は、朝と夜といった具合にきまっていたが、医院からもらってきた薬の、投薬はまったくでたらめだった。掛かり付けの医院の先生には、「どうして、よりによって、あそこに入院しちゃったの!」と言われた。まったく、こうなるとは思ってもみなかった自分の落ち度なのだが、本当に入院するとは思わなかったのだ。


入院したその日に、『院長にはいくら、看護婦さん達にはいくら、介助の人にはいくら、後日執刀医にはいくら』と、現金を渡したが、怠け者には何を渡しても何の薬にもならないと残念でしょうがない。この病院が、数年先、特養老人ホームを塩浜のほうで移転して開業するという。元気な人しか入院できず、身体の弱ったお年よりが真の病人になって退院?する病院が、ここまで凄かったのかと思うと、この病院を認可している公共機関は、一体どこに目を持っているのだろうかと疑う。

平成10年8月5日、西葛西にある老人保険施設のKに足が完治しないまま、母は転院した。当初食事もまったく取れなくて、微熱続きの母は、この施設の献身的な介助によって、順調に身体を回復して行った。だが、残念なことに母の右半身麻痺は治らず、痴ほうは進んでしまっていた。

施設入所当初、母のいる5階のエレベーターが止まり、ドアーが開いた瞬間、明るい光線が飛び込んできたと同時に、私は唖然としたものでした。正面にナースセンターがあり、そこから広い通路がエレベーターまで真っ直ぐに走ってあり、その両脇に各4人部屋や3人部屋が配置してある作りでした。通路の中心を開けて壁沿いに沢山の車椅子とそれに腰掛けたお年寄りが一斉に、突然現れた私を見たかのように思えたからでした。私にとっては異様な光景が飛び込んできたと同時に、私には受け入れがたく、「いやだなーっ」と、何度も思ったのものでした。後になって知ったのですが、みんな誰かが来るのを、心の中で待っていたからでした。

年寄りの大勢の動かない顔、うつろな顔、曲がった顔が全体に大きな壁絵のような景色に映ったからでした。その時のことをいまでも強い印象をもって覚えています。こうなりたくないという気持ちが、一人一人を見ることをさせずに、さっさと車椅子の前を通りすぎ、ナースセンターにて、母の場所に行きました。
この日より、西葛西のK通いが続きました。私は、昼食の様子や、リハビリ、おやつの時間を筆でスケッチしていました。そして気がついたとき、私自身が変わっていたのでした。

チョウさん
『細面の顔に、いつもいたづらっ子のように、口を尖らせて、眼をまん丸に開いて、人を真正面から望む。首を立てに振って合図をよこすのか、挨拶をするのか解らない。ただ真剣に人を捕らえていることだけは、眼を見れば解る。食事時、特製のプラスチック前掛けを胸に、その中に食べ落ちた食事がボロボロとこぼれてゆく姿は、豪快そのものだ』

チュウさん
『身体が細く、いつも食堂の奥の席に座って、全体を見渡している姿は仙人のよう。歩く姿はヒョコヒョコとユーモラスに、それでいて飄々としている。しかも、足早に歩く。しかしながら意外にすばしっこく、おやつの時、余った果物を我先にとほうばる姿は忍者のよう』

シャチョウ
『歩く姿勢がなんと、しばらく空や天井を見たことがないのではないかと思われる。太って、腰を直角以上に曲げ、両手を介護人にゆだねて歩く。眼はわるく室内でも、サングラスをしている。だが、声はそれこそ天を突くような大きな音を出す。食事する風景は、頭をななめに表を下にして、手は機用におかずやご飯を、スプーンでさらうが、半分はエプロンやトレーに落ちる。本人は必死かどうかわからぬが、見ているものには必死に見えて、たくましさを感じる。いつだったか、大きな声で「ショウチャン!ショウチャン!」と叫んでいる姿が目に残った』

トウさん
『手の甲に少しむくみがあるのか、やはりボ―ッとしている。この人もリハビリ中にて、ほとんど口を聞くことはない。たまに、食事時手を貸すと、ジッと見つめて、また同じ作業を繰り返す』

貴婦人
『やせていて、色が蝋のように白い。車椅子に座った姿は、貴婦人を思わす。いつも遠くを見つめていて、人を見つめている時も、その後ろに誰かいるのではないかと思ってしまう。食事の時違うところを見つめながら、右手はおかずを拾う。スプーンは、口元に行かず、中身はトレーにこぼれるのだが、辛抱強く繰り返す。この往復の動作が、淡々と行われるところに、なぜだか自然の美しさを覚えてしまうから不思議だ。私が軽く首を振ると、微笑んで笑みをかえす』

年寄りの一人一人を見ていて感じることは、意志や考え方はわからないけれど、何よりもひたむきに食べ、見つめる姿が、いつのまにか神々しい清らかさを放つかのように思われた。清らかさとは一途さなのではないだろうかと、思えてきた。

いかなる知識や見識をとったとしても、最後の1枚、プライドだけは残ってしまうものなのだが。食事を前にして、その最後のプライドを忘れ、人はものを食べている姿に、その人の純粋なあり様を見ることが出来るような気がする。

 そう言えば、檀家の牡丹町のT婆さんを、渋谷のS病院に見舞いに行った時もそうだった。渋谷のI婆さんもそうだ。冬木町のKと話していた時、「私も、一人になって、寝たきりになったときどうなるのか?娘が近くに嫁いでいるのだが、そう心配もかけられないが、なるようにしかならず、かといって準備をしようにも、そのときになってみなければわからないし!」。

平成10年12月14日、母は八王子の上川病院に転院した。転院した夕方、姉の長女が病院に見舞いに言ってくれた。電話でその姪と話しをした。
「数多くの病院を見学しての結果で、ここを今、最良の預けられる老人病院と考えてのこと。だが、私の心の中には、判断はこれで良かったのだろうかと暗くなる気持ち。遠く八王子の彼方に、今、母は何をしているだろうかと思うと、つらい。母の産まれ故郷とは言え、一番上の姉が棲んでいるとはいえ、やはり、気持ちは手元にいて欲しい。」

姪は、老人病院に数度見舞いに来てくれた。そして、見舞いでの院内の様子の体験を聞くと、長くいると涙が出てきそうだと言う。姪も感情を成長させて、優しさを高めてゆく。私の長男は。中学2年だが、私の外出中の日中、私のいない寺を留守番するはめになる、そのことで、人は身に降りかかる事件によって、少しずつ成長し、感情を豊かに、自分を見つめて、変化して行き、たくましくなってゆくのだなと思う。

病院で様々なお年寄りの姿を見つめることが出来て、ふと感じたことは、その姿、顔が、古びた石や木造の羅漢像の姿と良く似ているとことだった。そういえば、寺の本尊も、羅漢像も、石塔も、お骨も、キリスト像やクロスもみなそうだ。何も言わない。いつもしゃべっているのは、私のほうだ。何を言っているのか知りたいと思う気持ちが、自問自答する。

何も言わないからこそ、引かれるのかわからないが、様々な像の、そこに人間の純粋の叫びや驚き、悲しみの表情を、投影して見ることが出来るからだと思った。悲しいかな私達は望んでも、現実にはそこまで、衣を拭い去ることは出来ない。
話しかけても、ただその純粋な姿を留めて、「お前達に、わかるかな?」と、問いかける姿に引かれる自分があるだけです。自己の本性の目覚めと言えば良いのか、荒天の雲が一気に晴れえと向かうすがすがしさに似ている。本人の意思は伺うことができないけれど、きっと、今まで経験したことのない、本人にとっての自己に違いない。

現実のもの言わぬ羅漢達の、ただ現実を黙々と食べている姿に、自己を投げ出して、たくましく生きる姿は、時に神々しいような光をはなつ。


宮本武蔵

宮本武蔵

 二十一歳で京都吉岡一門との決闘、慶長十七年一六一二年四月十三日小倉での岩流佐々木小次郎との決闘で、武蔵の名を知らぬ人はいません。時に武蔵二十九歳でした。十三歳の時はじめて勝負をしてより、二十九歳まで六十余回勝負して、負けることがなかったようです。そして武蔵の消息はここでプツリときえてしまいます。行雲流水の自己鍛練の修行が続くのだと思います。

寛永二十年の十月十日、武蔵六十歳の時、熊本の金峰山、岩戸観音の洞窟にて、天道と観世音を鏡として『五輪書』を一気に書き上げます。
「其より以来は尋入べき道なくして光陰を送る」と、それでは五十一歳で、養子の宮本伊織を引き連れ九州の小倉に現れた時、武蔵の心境はどうだったのでしょうか、『五輪書ー空の巻』は語ります。

 「空という心は、物ごとのなき所、しれざる事を空と見たつるなり。勿論空はなきなり。ある所をしりて、なき所をしる。
世の中において、あしく見れば、物をわきまへざる所を空と見る所、実の空にはあらず。皆まよふ心なり。
この兵法の道においても、武士として道をおこなふに、士の法をしらざる所、空にはあらずして、色々まよひありて、せんかたなき所を空いうなれども、これ実の空にはあらざるなり。
武士は兵法の道をたしかに覚へ、そのほか武芸をよくつとめ、武士のおこなふ道、少しもくらからず、心のまよふ所なく、朝々時々におこたらず、心意二つの心をみがき、観見二つの眼をとぎ、少しもくもりなく、まよひの雲の晴れたる所こそ、実の空としるべきなり。
実の道をしらざる間は、仏法によらず、世法によらず、おのれおのれはたしかなる道とおもひ、よき事とおもへども、心の直道よりして、世の物差しにあわせて見る時は、その身その身の心のひいき、その目その目のひずみによって、実の道にはそむくものなり。その心を知って、直なる心を本とし、実の心を道として、兵法を広くおこなひ、ただしく明らかに、大きなる所をおもひとって、空を道とし、道を空と見る所なり」

宮本武蔵は正保二年五月十九日一六四五年、熊本の千葉城で没しました。世寿六十二歳でした。その七日まえ、自誓の心にて遺書をしたためます。
独行道
一、世々の道そむく事なし              
一、身に楽みをたくまず               
一、よろずに依怙の心なし              
一、一生の間よくしん思はず             
一、我事におひて後悔をせず             
一、善悪に他をねたむ心なし             
一、何れの道にも別をかなしまず           
一、自他共にうらみかこつ心なし           
一、れんぼの道思ひよる心なし            
一、物事にすき好む事なし              
一、私宅におひて望む心なし             
一、身ひとつに美食を好まず             
一、末々什物となる古き道具所持せず         
一、兵具は格別余の道具たしなまず          
一、道におひては死をいとはず思ふ          
一、老身に財宝所持もちゆる心なし          
一、仏神は尊し仏神をたのまず            
一、常に兵法の道をはなれず             
正保二年五月十二日     新免武蔵 判 

武蔵の一生を二つにくぎるとするならば、二十九歳佐々木小次郎との決闘が境になるだろう。前半は武術の鍛練、果たし合いと話題が豊富であるが、後半生は果たし合いもなくひたすらに求道の旅だったようだ。おそらく前者が自己の外に向かっての修行だとすれば、後者は自己の内に向かっての修行だったのだろう。死の七日前にしたためた厳しい自戒の文に、宮本武蔵の求心的な孤高の生涯がうかがわれます。

中国は唐の時代の禅僧のことばで、「仏道とは、悪いことはするなかれ。良いことを行ずるだけだ。そんなことは三歳の子供でもよく知っているが、八十の年寄りでもこれを行うことができんのじゃ」とあります。現代の我々も何か自戒を持ちたいものです。


五合庵断章(平成10年10月17日)

五合庵断章(平成10年10月17日)

 世の中は供へとるらしわが庵は 形を絵に描きて手向けこそすれ

 今よりはいくつ寝ぬれば春は来む 月日よみつゝ待たぬ日はなし

 なにとなく心さやぎていねられず あしたは春のはじめと思へば

 「いったい良寛さんはどんな正月を迎えていたのであろうか」、ふとそんな思いに駆られて著作を調べてみると意外と数が少ないのに驚きます。それにしても歌はいかにも童心の良寛さんらしく、閑散とした部屋に絵に画いたお供えを前にして指折り数える姿、心はしゃぐ姿が目に浮かびます。
漢詩では「ただ 明朝 新たに歳を迎うるに慣れ 玄鬢(ゲンビン:黒髪)の化して霜となるを省みず」と除夜を歌った詩が有るのみで、その内容は自省の詩です。


北陸の冬は厳しい。まして日本海に面した国上山は海風がはこぶ湿った雪に覆われ、何といっても来る日も来る日も続くあの灰色の空は憂鬱になる。戸外に出て暖を取るための粗朶も集められず、何百年かたった杉、老松の根元を掻き分けてふもとに下りて行くことも出来ず、できる事はただじっと春を待つのみ。

「玄冬 十一月 はげしくみぞれが降る。山は白一色と化し、道に人影はない。昔を思えば、夢のように、今は一人草庵の扉をとざす。よもすがら炉にそだを焚き、古人の詩を読む。」

「孤峰 独宿の夜、外はみぞれが降りしきり、思いは悲しい。山に黒猿の叫びが響き、凍てついた谷川はせせらぎの音を消す。窓ぎわの燈火は動かず、床に置いた硯の水は乾ききる。徹夜 目は冴え、眠られぬままに、筆に息を吹きかけいささかの詩を書く」

厳しい冬篭りで、蓄えも底をつき、ただひたすら暖かくなるのを待つ良寛にとって、ひとりぼっちの正月自体には、それほどの意味を持たなかったかもしれない。否、厳しい閉ざされた冬があってこそ、暖かな春の訪れをつげる、陽気をひたすら待つ良寛であったのでろう。白一色の世界と灰色の長い長い冬だからこそ、子供達と戯れる便りの暖かさが待ち焦がれる。粥をすすって寒夜を消し、日を数えて陽春をまつと良寛は歌うが、それにしても北国の冬は長い。

冬夜長  三首

 「冬夜長し 冬夜長し 冬夜 悠々としていつか明けん。燈に焔なく 炉に炭なし ただ聞く 枕上 夜雨の声」
「ひとたび思う 少年の時 書を読んで 空堂に在り。燈火 しばしば油を添え いまだ厭わざりき 冬夜の長きことを」
「老朽 夢 覚めやすし 覚め来って 空堂に在り。堂上 一盞の燈 挑げ尽くして 冬夜長し」

 年が明けて旧暦二月になると木々の枝には新芽がふきだし、雪を溶かすかのように草は萌えいで、岩にしがみつく苔は緑をとりもどす。暖かな風が吹くかとおもえば、老いた梅の枝からほのかな薫りを辺りにまきちらす。国上山の中腹五合庵より眺めれば、ふもとにはいく筋もの煙がたなびき、まるで踊っているように見えたに違いない。

「草鞋に杖をとり 江村の路を歩めば、まさにこれ 東風二月の時。鴬は高いこずえにうつりさえずるが、その鳴き声はまだ小さく、雪は低い垣根に残って、草色微かなり。たまたま友に会い風流を語り、しずかに本をひもとき、手であごをささう。この夕べ 風光 ようやく穏やかに、梅花と詩情とふたつながら相い宜しい。」
「春気 ようやく和調にして 錫を鳴らし東城に出づ。園中の柳は青々として池上の浮き草は漂っている。(托鉢の)鉢は香し 千家の飯 心はなげうつ 万乗の栄え。古仏の跡を追慕して 次第に食を乞うて行く」

「比類なき愚かさゆえ 草木をもって友となす。老いぼれたこの身には もはや迷とか悟とか問うに物憂く ただみずから笑うのみ。すねをかかげてのどかに水を渉り ふくろを携え行き春を歩く。敢えて世塵を厭うのではないが いささか余生を過ごす。」
春になればすべてが、生き生きとする。それは冬が厳しければ厳しいほど一層に思われたに違いない。友と酒を酌み交わし、草を摘み、子供達と遊び、梅をかぎ、桜・桃の花を愛でる。良寛禅師こそ真の自由人であった。

 ひさかたののどけき空に酔ひ伏せば 夢も妙なり花の木の下

 国上山雪ふみわけて来しかども 若菜摘むべく身はなりにけり

 鉢の子にすみれたんぽゝこき混ぜて 三世の仏に奉りてむ

 霞たつながき春日をこどもらと 手まりつきつゝこの日暮らしつ

 いざこども山べに行かむ桜見に 明日ともいはゞ散りもこそせめ

 五合庵

 索々たり五合庵 室は懸磬のごとくしかり。 戸外には 杉千株 壁上には 偈数篇。

 釜中 ときに塵あり 甑裡さらに烟なし。 ただ東村の叟ありて しきりに叩く 月下の門。

 *注 懸磬(ケンケイ) 貧しく何も無し  甑裡(ソウリ) 飯を蒸すこしきの中 偈(ゲ) 禅宗における漢詩

良寛禅師がここ五合庵に住み着いたのは、今から数えておよそ百八十年前、文化元年頃のことと思われる。その時良寛四十七歳であった。
宝暦八年(一七五八)、越後国三島郡出雲崎の名主橘屋山本以南の長子として良寛禅師は生まれた。幼名は栄蔵といった。家業はなかなか思うようにならなかった。安永四年(一七七五)、栄蔵は十八歳で名主役見習となるが、突然尼瀬の光照寺に出家する。安永八年(一七七九)、備中玉島円通寺の国仙禅師が光照寺に立ち寄るのをきっかけに受戒剃髪、大愚と号し良寛が誕生する。時に良寛二十二歳であった。以後国仙に師事すること十三年間のながきにわたった。寛政二年(一七九〇)、国仙より印可の偈を受ける。

「良や愚のごとく 道うたたひろし。騰々任運 誰か看ることを得ん ために附す山形爛藤の杖 到る処壁間午睡の閑」

 これより一生を清貧の乞食生活として送り、国上山の五合庵へ住み着いたのは文化元年(一八〇四)良寛四十七歳の時であった。五合庵下山が五十九歳の時と言われ、国上山ふもとの乙子神社境内の草庵に六十九歳まで居たと言われるので、つごう国上山には二十三年間居たことになる。天保二年(一八三一)、正月六日午後四時頃、島崎の木村家の庵で示寂。良寛七十四歳のことであった。

 つたえきく良寛の辞世に 「うらをみせおもてをみせて散るもみじ」とあり、次の言葉が忍ばれる。

「災難に逢う時節には、災難に逢うがよく候。死ぬ時節には、死ぬがよく候。是はこれ災難をのがるゝ妙法にて候。」


K子さん!(平成12年7月19日)

K子さん!(平成12年7月19日)

確か平成12年4月29日だったと思う。K子さんが突然救急車で入院したのは!
K子さんのご主人のSさんは、一緒に修行した経験はないものの、私の修業道場の先輩でもあることより、僧堂を出てより、たびたびお邪魔するにつけ、K子さんとお話をする機会が増えていました。

18年前の記憶は不確かなことなのですが、当時K子さんは、腎臓透析に上野のJ病院に通っていると言われました。K子さんが何処か信頼できる病院はないかと話をしているところ、私の従姉妹の夫がT病院の放射線科で技師をしているから、聞いてみましょうと、言った言葉がきっかけで、それ以来T病院に腎臓透析を通う姿を、私は見ることになりました。K子さんは1週間に2回、欠かさず病院に通って、約半日透析を繰り返していたことになります。

お寺の奥さんであるK子さんの大切な仕事の一つは、寺の留守を守ることがあります。留守を守ると言っても、この守り方一つで寺が人の絶えない寺になるか、尋ねにくい寺になるかと色々なのですが、K子さん程その勤めが似合う人はいないのではないかと、妙な誉め言葉ですが思う人でした。

透析をしていると、時に血液が濃くなり、脳溢血、脳血栓を引き起こすことがあるということなのか、留守中、それは突然の出来事だったらしい。K子さんが倒れた。
帰宅したSさんが発見し、娘さんに連絡をとり、救急車でT病院に搬送された。CTスキャンにより、脳に出血が認められ、手術。術後は言語障害が発生したのですが、筆談での会話は何とか出来るというのです。
風の便りにK子さんが入院した事を聞いた私は、Sさんに電話をして、K子さんの様態を聞き、この変化に驚き、医療処置を病院に任せ、祈り気遣う家族の姿を想像しながら、私はメールを送りました。

Sent: Sunday, May 07, 2000 10:10 PM
Subject: 具合はどうですか
その後、奥様の具合はどうですか?
心配しております。少しでも良くなりますように!

Sさんからのメールです。
平成12年5月8日
ありがとうございます。昨夜危険な状態といはれて、娘が泊まり込みました。今朝の連絡で何とか持ち越したようです。今朝息子に連絡してすぐ帰るようにしました。あわただしいことです。脳溢血も起こしたようで、意識があるときと無いときがあり、この一両日が危険な状態とのこと、心配です。ではまた 
平成12年5月14日
毎日重い空気の中で生活しています。
昏睡状態というのは、一心に眠り込んでいる状態、しかしそこには意識が無いといわれている。事実呼びかけにも何も反応しない。寝てるから。脳幹まで冒されてはどうしようもない。医者もこれ以上手がつけられないと言う。しかし足が突然動いた。また周りで話をしていると涙を出している。
これは脳の深いところで聞いているのではないか。それはその反応が現れているのではないか。看護婦さんはわかりませんと言うが、身内の者にしてみれば、そこにかすかな期待を持ちたい。今日もこれから励ましに行って来ます。
 


平成12年5月15日、K子さんは家族が見守る中、心臓が停止し、息を引き取りました。
52歳でした。通夜・葬儀はしめやかに、そして多くのお別れを惜しむ人たちに囲まれ、旅立っていきました。残像として、いつまでも印象に残るK子さんでした。
平成12年7月12日、私はお盆の棚経で、船橋を訪れました。蒸し暑い夏の始まりはここ何日か続いて、この日から私の実質のお盆の到来でもあります。

Mさんのお宅は、今年の4月始め、ご主人を亡くして、初盆になります。しかしながら、初盆を迎えるべき老妻は、病院のベッドの住人として、脳死状態でいるのです。3週間前食物に喉を詰まらせ、15分の心臓停止から蘇生した老妻の意識は、元に戻ることはなく、それより病院生活に入ってしまったという。
もう何年も前から、『植物人間』、『植物状態』という言葉が一般に使われるようになっています。『動物人間』、『動物状態』とは言わないことに、面白く思います。動物が植物になることに、何か否定的なイメージが有るとすれば、幻想に過ぎなく、厳密な定義など、もともとないくせに、『植物人間』、『植物状態』という言葉が、一人歩きしているのだと思うのです。
Mさん宅で、Sさんのメールの
「昏睡状態というのは、一心に眠り込んでいる状態、しかしそこには意識が無いといわれている。事実呼びかけにも何も反応しない。寝てるから。脳幹まで冒されてはどうしようもない。医者もこれ以上手がつけられないと言う。しかし足が突然動いた。また周りで話をしていると涙を出している。

これは脳の深いところで聞いているのではないか。それはその反応が現れているのではないか。看護婦さんはわかりませんと言うが、身内の者にしてみれば、そこにかすかな期待を持ちたい。」という内容が、私の頭の中をめぐりました。
そこで、老妻の様子をうかがい、メールの内容をお話いたしましたら、応対していただいた、息子さんたち、娘さん、お子さんのお嫁さんたちが、この内容に一斉に頷きました。

そこで気がついたのです。ぐっすり眠り込んだ夜、目を覚ましたときは、もう朝という時があります。ふと考えることは、この熟睡している時間の私は、私を意識することもなく、夢も見ることはない。しかしながら、ひょっとして、鼾をかいているかもしれない、寝返りを何度もうっていることだろう、手は布団を引っ張っているかもしれない、動かそうと意識せずに生理的に動いている私も、私の一部であり、目をあいて活動する私の時間のやはり何パーセント何十パーセントは、意識しない私が含まれていると思う。そう思うと、考えようには、植物人間でベッドに横たわってしまった私と、眠っている私は、同一の状態に近い場合もあるのではないかと思うのです。

人は、意識の無い部分と、ある部分と合わせて、個性を表現いたします。意識のある部分だけを取り出して、人の存在の価値や意義を云々することは、価値や意義を見出さない部分を作ってしまうことになるのではないかと、考えてしまいます。
昏睡状態に陥った人の意思はと、考えた場合、最後まで生きようと血が流れ機能が働きます。このことも意思に違いありません。意識の応諾は得られないかもしれない、こちらの意思は通じないけれど、応諾しない通じないことも昏睡状態の人を形成する部分なのです。

脳死をもって、人の死とすることが、一般に浸透し始めています。忘れてならないことは、このことだと思います。そうしなければ、一人の人の意思や意識だけが、人なのだと選り分けすることになってしまう気がいたします。
船橋のMさん宅で、K子さんの顔が浮かび、「ほうや!陽岳寺さん!全部私ですわ!」と話し掛けてくれたような、「マダマダ修行がたりません!」と叱られたような、とても懐かしい気持ちにさせてくれたK子さんでした。(SさんとK子さんに!


今は昔

今は昔

私が小学生も低学年の頃、西八王子の田舎より見た、ここ深川の思い出は、何と言っても隅田川の大きさと沢山の水路だった。その水路には、沢山の艀(はしけ)が浮かび、人が生活していたのだ。

陽岳寺に、小津安二郎本家の墓地があるが、彼の映画にも水上生活者の風景があった記憶がある。今では考えられない景色なのだ。彼の映画にあって、今はない景色は、暖かな家族の団欒の風景であり、その団欒の風景は、船の上であったり、横丁の路地であったりだった。

多分さまざまな職種があって、雑多に交じり合って、町を形成していたのだと思う。
禅語に「佛殿裏に香を焼き、山門頭に合掌す。」という語が有ります。
禅僧が修行の道場で、ふすまの開け閉め、下駄草履の扱い、低頭の仕方、畳み敷居のまたぎ方、ぞうきんがけの仕方、歩くときも寝るときも規矩(きく)に則りそれこそ着衣喫飯、行住座臥、僧侶としてのなりふりだとか、姿形がそれなりに、見えるにはやはり長い年月と修養がそうさせるのです。しかし、修行道場での生活は、団体生活ですので、それを乱す者には容赦ない罰刑があります。大勢の雲水達が修行がしやすいようにとの老婆心からです。

職人の世界でも、大店の店でも修業道場に似て、掟とか、家訓、弟子と師匠の決まりといったことが沢山あったと思うのですが、今は、見事に無くなった気がいたします。それと共に過去の文化も崩壊したような気がいたします。
禅僧の日常から、つまり修行の中から、多くの禅僧が大悟、小悟をえては、それを慣らしてきました。古人は、「到り得て帰り来って別事無し」と語をつけます。
禅僧としての、日常の風情であり、同時に人間としてのありようであるとも思います。

古来、日本人は自己を習練し、磨き、人格の完成を目指すことを人生の目的としてきました。だからこそ武道、茶道、弓道、華道等、”道”と言う字が当てられてきました。
それに引き換え、現代最も卓越した企業の課題は、”利潤の追求”です。追求の後の分配は、豊かさなのでしょうが、そこが気になるのです。豊かさが、物質であり、有り余る余暇であり、束縛の無い自由さなのでしょう。
現在でも習字を習うときなど、姿勢、息に気を付け身を調えてから字を習います。この身を調えることが、求心的な行為であり、自己を習うということです。この自己というものを忘れて、豊かさばかりを追求した結果が、現代の姿なのでしょう。

かって、この国に、禅が出現し、武道、茶道、弓道、華道等、”道”という文化を形成したことが嘘のような、現代です。
この違いは根底にある探求の方法です。利潤を追求する発想は、積み上げて積み上げて達成しようとします。それはより強い鎧を着てガードする考え方でもあります。この鎧は、年金制度、保険制度などでもあります。
しかしながら、過去の文化は、精神的にガードする思想、見方を削いで削いで、自分自身を消滅することにより、優れた独立性を確立したものっだのです。

ある僧が師に、「如何なるか祖師西来意?」(達磨さんがはるばるインドより中国へ渡ってきた目的はどのようなものでしょうか?お釈迦様の説くギリギリの処はどのようなものでしょうか?)と尋ねましたところ、「照顧脚下」と答えられたという故事が有りますが、人々自己の足元をしっかりと固めて、それぞれが行ずべきことを行ずる、それをこの「佛殿裏に香を焼き、山門頭に合掌す。」という禅語で現したものであり、削いで削いで行ずるそれぞれの姿のあり様だと思うのです。



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