目次
輝いている時
夢中(ゆめのなか)
芝浜
江戸っ子
亀住町(平成13年7月1日)
モンセ・ワトキンス~夢のゆくえ~(平成14年1月3日)
新牌開眼
英霊(平成17年5月23日)
目覚め
よわい「齢」
また始めたらよい
三大聖樹(平成19年4月17日)
滅度(平成19年9月18日)
安住の地(平成20年11月15日)
心眼(平成22年3月1日)
とかくこの世は
とかくこの世は
祈り(平成17年11月29日)
品位(平成18年1月20日)
ニャンニーシンズ(平成18年3月1日)
鍵(平成18年4月25日)
チベット(平成20年5月1日)
SYOHOU
諸法
四十四の問い~ミヒャエル・エンデ
先ゆく輩
さき行く輩
祖師年譜
ダルマ
慧可
五洩霊黙和尚
石鞏慧蔵禅師
大珠慧海禅師
西川の黄三郎
馬祖道一禅師(馬大師)
五百生 百丈和尚
大梅山法常(752-839)
麻谷山宝徹禅師(平成12年1月27日)
鎮州普化(ふけ)和尚
寒山・拾得
虹の彼方に
ヘイヴン・ペックの場合―続貧しいけれど、豊かだった―
生前葬
平和を我らにーGIVE PEACE A CHANCE(平成13年10月31日)
ソクラテスとヤージャニダッタ
蓮(平成14年6月2日)
心-KOKORO(平成14年6月25日)
独り暮らし(平成15年4月12日)
老いが、咲いていた!(平成16年7月5日)
深濱-fukahama
死に顔
松山鏡(ソクラレストとヤージャニダッタの続き)
真ん中(平成20年4月1日)
百万回いきたネコ(平成21年1月1日)
夜来る鳥(平成21年1月1日)
だいじょうぶ、だいじょうぶ(平成21年2月1日)
無常への帰依
無常への帰依
希望(平成12年1月2日)
葬式坊主
泥棒
赤とんぼ
老い
……ロス
後姿
寿陵
ついで参り
目標
六道を行く
もの言わぬ羅漢達…揀択をこえて…
宮本武蔵
五合庵断章(平成10年10月17日)
K子さん!(平成12年7月19日)
今は昔
十一面観世音菩薩
尽七日忌(平成19年5月1日)
OSYOU
OSYOU
この手のひらに―禅僧の死―(平成10年11月18日)
戒(平成10年7月25日)
幽霊
みんな仏教徒(平成10年5月27日)
最後の晩餐(平成10年5月23日)
禅問答(平成10年5月31日)
分銅
天国は汝ら自身に宿る(平成10年11月24日)
宗派
穢れ(平成12年8月30日)
お彼岸
仏心
仏心
ご祈祷
施餓鬼会にて(平成17年5月28日)
永遠の命
輪廻する葦(平成10年5月27日)
連鎖する命(平成10年6月2日)
涅槃(平成10年8月12日)
鏡(平成10年7月25日加筆)
流星
TAO(平成11年1月3日)
四大
挨拶
冥福
盂蘭盆
祈り(平成14年7月4日)
仏事歳時記
再び 最後の晩餐
この手のひらにII(平成18年11月18日)
死んで生きる智慧(平成19年3月27日)
五百生(平成19年11月20日)
破地獄偈(平成20年5月24日)
この指止まれ
この指止まれ
家族と家庭(平成11年1月5日)
導師(平成11年2月26日)
家から個人へ、そして家族・友達へI
家から個人へ、そして家族・友達へII
脳死そして臓器移植(平成11年3月2日)
独り決めの生き方
僧堂I
僧堂II
僧堂III
恥じ
僧堂IV
返事
父殺し・母殺し・友だち殺し・子殺し(平成20年1月1日)
その後
その後
ほとけさま(平成17年5月1日)
仏が仏に合掌する
戒名(平成12年3月14日)
無用の用(平成12年2月21日)
世話
大きく育て!(平成11年1月18日)
しもべ(平成10年11月7日)
電話(平成10年8月22日)
意思
寡黙
妄想(平成10年8月2日)
川(平成10年8月22日)
風如(風のように)(平成10年6月18日)
追悼(平成10年5月27日)
受容(平成10年6月18日)
蒸発
臨終(平成10年6月8日)
外道
障子(平成13年3月10日)
日月(にちげつ)
年寄りの出番より
人生とは、闇を照らす一瞬の蛍の光
時の旅人
時計(平成12年1月3日)
星(平成11年10月15日)
溝(平成11年8月2日)
過去心…念の起こる処(平成11年6月19日)
与える時間(平成11年5月24日)
桜(平成12年3月2日)
無常(平成11年4月16日)
川(平成10年9月17日)
有時(時の構造)(平成12年2月5日)
時の旅人(平成12年2月1日)
揺れる木々の葉
この人生の速さはなんだ(平成14年12月26日)
法句経より-時の旅人(平成15年2月4日)
寂然不動 如春在花(寂然不動、春の花に在るが如し) (平成16年9月19日)
ZENGO
自立
橋は流れて(平成10年9月18日)
無事
過去(平成10年5月23日)
たまごっち(平成10年5月23日)
一衆觸礼(いっしゅうそくれい)
六道を輪廻する
二人三脚
生老病死
筋肉番付
ポケモン
俺は、親馬鹿か!
塵も積もれば山となる
生と死と永遠
最終章
一章
二章
三章
四章~(未完)
時間旅行
時間旅行
命の歌-母の短歌
礎-いしずえ-
離魂(平成19年8月25日)
海辺橋
海辺橋
ふるさと(平成18年3月4日)
千の風(平成18年9月16日)
人の道(平成18年9月18日)
あなたは、いつから、一年が始まりますか?(平成20年8月1日)
前住職 二十三回忌にて(平成20年9月1日)
平成21年お施餓鬼会を振り返って(平成21年6月1日)
奥付
奥付

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ついで参り

ついで参り

 今日は、お聞きしたいことがありましてメールしました。

お墓参りの事なんですが、日曜日に、従姉の7回忌の法要があります。同じ霊園に、それも従姉のすぐそばに伯父の(従姉の父)お墓があります。そういう場合、従姉のお墓に参ったあと、伯父のお墓参りをしてもいいのでしょうか?
ついで参りはいけない、と言われたことがあるのですが・・・。
でも、伯父のお墓の前を素通り、というのも伯父がかわいそうな気がして。
どうなのでしょうか?
私も、父母のお墓参りに行ったとき伯父が別に作ったお墓の方へも寄るのですが・・・
お墓参りのきまりのようなものが、あるのでしょうか?
お忙しいこと思いますが、教えて頂けますでしょうか?
よろしくお願いします。

 お答えします。
 実は、私も、よく知らないことなのですが、一緒に考えてみましょう。
 まず、ものの見方には二つあります。お参りするほうと、されるほうです。お参りする方としては、どうせ行くなら同じ墓地にある他の墓も寄ってお参りしたら、一遍に方が済むと思うものです。このことを、詳しく言えば、『一遍に』と『方が済む』が問題なのでしょう。
 お参りされるほうから言えば、墓地に埋葬された遺骨は、自分のことを振り返って欲しい、思い出して欲しい、会いに来て欲しい、語り掛けて欲しい、家族の成長を目の前で見せて欲しいと……願っていることでしょう。

 しかし考えてみると、そのお墓には他に埋葬されている方がおりませんか。もし居ましたら、父親のお参りに行って、祖母のあるいは祖父のお参りを、ついでにすることになります。なにか変ですね?
 基本は、いつでもそうなのですが、お墓はお参りして、はじめて墓であると言う事です。ついでと言う言葉は、そぐわないことなのです。
 ある目的を持って、一途にものを突き進むことがあります。
 例えば山の向うにある村に、道を通そうとトンネルを掘ったとします。ところが、穴を掘ると、今まで地中に隠されていたものが、掘り出されます。小判であったり、化石であったりします。

 『偶然』『不思議』という言葉はこの時使われますが、小判や化石を目的とする発掘には、出てきて当たり前、出なければ、致し方ないことなのです。この意味では、世の中『偶然』『不思議』ということはあり得ないことになります。まして、小判や化石が、ここに有るから、居るから掘ってくれと言うことはないのです。勿論、掘ってくれなかったら恨むとか、ついででも良いから掘ってくれ、ということもないのです。
 死者は見とおしていると言う言葉があるとすれば、その人が語らしめたことです。
 お墓参りに決まりなどないのです。もしあったならば、作法ばっかり気になって、偲ぶこともできません。何事も、自分の良心に素直なことが大事です。

 さらに、それでもついで参りが気になることがありましたら、これぞ、極意です。「ついで参りで、ごめんなさい」「お久しぶりです」「こんな形でなくては、なかなか来れないの」と、お参りするのです。そして『偶然』、『不思議』のお話は、「あら不思議。偶然ね」と、なります。


目標

 平成12年2月28日の日経新聞朝刊の春秋からである。
『目標をみつけることが目標になってしまった十八の今』と、東洋大学が毎年募集する「現代学生百人一首」で秀逸作品には、卒業控えて入試に埋まるこの季節の日本の若者の心模様が浮かびあがる。自分が何をすべきなのか。それがわからない。

目標

 私が、高校一年生のとき、叔父から突然この寺を継いで見ないかと言われた。それは、まったく私にとっては、突然のことでした。今、振り返ってみると、叔父も、父の姉も、そして何より父にとって、大きな願いだったのだと思う。もうこの三人も、泉下の人となって久しい。
叔父は慶応の教授をしていたことより、私にとっては雲の上の存在だった。それこそ私にとっては、親しく話をしたという記憶はないのだが、その存在だけは、今でも大きくある。叔父が私をどう見ていたのか、そしてこの寺の後継者としてどう適任と思って、私にゆだねたのか、今は知る由もない。叔父の父は、私にとっては、祖父だが、私の小さかった頃に亡くなったことと、その当時の私の住んでいた西八王子は、まだまだ田舎で、遠方であったことより、記憶は全くといっていいほどない。

祖母についても同様に、あまり記憶はなく、かえって母方の、祖母のほうが目に浮かぶことが多い。小さかった頃の環境と体験の記憶が、大人になっても、大きな比重を占めるということは、いかに大事なことであることの証明でもあろう。
多感な時代だったということで、高校時代、大学時代は、眼前にぶら下げられた目標を決断することと、将来の自分のしたいことを探すことと、自分の熱中できることを通すことの不安と、すべてを拒否することと、父の身体の変調を戸惑いに似て察知する私の、早急に決断できない自己ジレンマに陥っていた時代であった。大きな葛藤を引きずりながらも、時は流れて、その葛藤は、この寺に住むことになってまでも、最後の最後まで、葛藤を繰り返していた。

職業とか、仕事を選択することが目標であれば、仕事をやめたとき、職業を変えた時、多感な頃の十八の今はどういう立場にあるのだろうか。どうやら、多くの人が、一生の仕事を持つことは、不可能な時代になっているような気がするし、一生といっても、仕事についてはリタイアするまでと区切りを持つわけだし、多種多様に激変する時代になったことは、一人の人間にとっても、一生は多種多様なものになってしまったような気がする。リタイアしても、その後の長さを考えると、人の生涯はいつも途中であることの自覚が必要であり、”人生の定年はない”を旗印に、生きて行くことが肝要なことと思う。考えてみれば、仏教の教えそのものだ。禅で言う、前後際断とは、道元が言う「たきぎははひとなる、さらにかへりてたきぎとなるにあらず。しかあるを、灰はのち薪はさきと見取すべからず。しるべし、薪は薪の法位に住して、さきありのちあり、前後ありといへども、前後際断せり。」の通り、今している仕事はリタイアしてする仕事と、後先のモノではなく、独立して、最前を尽くすことこそ、仏道と言える。たとえ目標があったとしても、前後際断、今を行じるのみであり、目標は、あくまで未だ至らないモノにすぎなく、今を行じることが歩んできた道と目標を含んで、後先なく、前後際断。

モンセ・ワトキンス著、井戸光子訳の《夢のゆくえ》(現代企画室)に、1999年3月にイエズス会のスペイン人司祭マヌエル・エルナンデスに対して行ったインタビューがある。彼は30年以上にわたって、日本で刑務所訪問を続けている偉大な人であり、服役する人に発して言う彼の言葉に、共感を持つ。

『まず、私たちはお説教するのではなくて、彼らの話に耳をかたむけなければなりません。すると、彼らがどう変わっていっているか、わかるんです。とは言っても、助言をすることもあります。
「妄想にとらわれないように」とね。つまり、家族のことをあまりにも心配したり、刑務所での処遇で誤解したりしないように、「妄想には注意」と言うわけです。また「この世の中には原因不明のことはあり得ない。なぜあなたがここにいるのか考えてみるように」とも言います。
また、自分たちは社会の犠牲者だ、という思いを捨てるように話します。

同時に、悪人はいないということ、そして踏みはずしても正しい道に戻る可能性はあるのだということも、じっくり考えてもらいます。人は、強制されて変わるものではありません。変わろうと思わなければ、六年も七年も刑務所にいるまでです。自分の人生を、ビデオを見ているように見なおしてごらんと、言うんですよ。「自分が変わるために、今、これから何をやればいいのか考えなさい。ここに舞い戻ってくるのは最も簡単なことなのだから」とね。また彼らが家族に手紙を書くときには、刑務所にいると書かないようにと言います。「仲間と一緒に労働して、学んで、一定の時期がたてば卒業できる、いわばそんな”国際産業大学”にいる」わけですから』

マヌエル・エルナンデスの言う言葉は、仏教の教えでもある。聞くと言うことは、お経の最初に出てくる”如是我聞(にょぜがもん)”に徹する姿勢ですし、妄想にとらわれないとは、今いる自分の立っているところ、それは、目に見えないモノを含めての実在を直視しなさいということです。今、何をやれば良いのか考えて、ただひたすら歩むことが仏道なのだから、考えてみれば、目標とは、目前の自分自身の事実にかかわっていると言えます。だとするなら、おのれ自信の根拠を考えてみると、人は生まれた環境により、生い立ちにより、自分以外の世界から影響され生きる訳ですから、明確不明確にかかわらず、目標が、おのれを導くとも言えるです。
目標が、明確に、自分自身を決することの決断ができるかどうかに価値があるように思えますが、悩むことも、前後祭断で独立し、不明確な目標がそうさせるとも言えます。

確かな目標を持つことを、その目標に向かって生きることを、時代を大海原に譬えてみると、上手に泳げる人たちは、ほんの一握りで、多くの人たちは、漕ぎ出だすことの困難さと、沖に出て、翻弄され、もがき喘ぐことに終始しているかにみえます。
目標に向かって漕いでいるときも、目標を見いだせずただ漕ぐことも、漕いでいることに関しては同じ行為です。目標に向かっていても、自分の意図する目標でないかも知れないことを考えれば、目標は、今、漕いでいる事実であり、目標が漕がせると思えば、共に、漕ぐことが目標なのでしょう。明確な目標と、不明確な未だ明確でない目標も、共に、今を漕がせるのです。
しかし、どちらが優れているか、確かなモノかは、価値判断でもあり、目標に向かって今を上手に泳ぐことも、翻弄されて喘ぐことも、共に今を生きる姿と違いないのですから、考えてみれば、与えられた場所と時間に、一生懸命漕ぐことに、居場所があり、目標が現れるということなのです。


六道を行く

 人の一生は、巡礼の旅路。日ごと遍路は、遠き道あり、近き道あり、往く道あり、もどり道あり。
巡礼の道は、回帰と再生の繰り返し、回帰は、人の振り返り、再生は旅立ちとして、振り返りはおのれ自身を問うことであり、旅立ちは今の一歩を歩むことである。
白装束は死に装束、杖は墓標の今日の旅路なり。

六道を行く


かって、「私は、両親に望んで産んでくれといったわけではない。両親の営みの中で、ただ産まれただけです」と平然と言う三十前の女性と話したことがあった。彼女の中に、大きなゆがみを見た。「もっと、私のほうに向いて、愛情を注いでください」と言うかのように思えたのだ。
だが、両親をも知る私は、どんなに愛されて育まれても、そう受け取ることの出来ない彼女の心の歪みは、どうしたら良いのだろうと、手を差し伸べられない私の不甲斐なさの、無力感がおおう。

達磨の『二入四行論』に「仏心とは何をいうのか」という問答がある。
心が特別な姿形をもたぬのを真如(ありのままなるもの)という。
心が変化すべくもないないのを、法性(存在の本質)という。
心が支配されるものをもたぬのを解脱という。
心そのものがさまたげられないで自由なのを菩提という。
心そのものがひっそりと静まりかえっているのを涅槃という。
と、ある。

問題は心にある。心そのものが仏であるという、禅の主張は、八世紀から九世紀にかけての馬祖和尚以降に見られるという。

「人心とは、平常心もしくは衆生心の意であり、当たり前の人間の心の全体であり、善悪正邪の動きの総てを含む。それは、精神の奥底に隠れている真性とか良心とかいうよりも、むしろ日常生活の表に働いている具体的な心である」と柳田聖山氏は「臨済義玄の人間観」で言う。

この頃より禅は具体的に生身の人間をたからかにうたう。そして私達の生身の総てを肯定し、現実世界の実践的・主体的な人格そのものこそ、ほかでもなく祖師そして仏であるという意味で、人間讃歌の宣言を主張する。
さらに「仏心の宗を明らかにして、寸分たがうことなく、行と解とが照応するもの、それを祖という。また、悪を見て嫌うことなく、善を見て履行したいと思うことなく、愚者を捨てて賢人を招こうとはせず、迷いを抛(なげう)って悟りにつこうとせず、大道に達して枠を超え、仏心に通じて並々ならず、凡聖と同じ範疇には住まわぬもの、彼をこそ超越的に祖とは呼ぶ」と宝林伝の達磨の章に記述されている通り、人の道を説く。

『黄檗宛陵録(筑摩書房・禅の語録より)』に、
「衆生が本来仏なのでしたら、その上さらに四生(胎生、卵生、湿生、化生)だの六道(地獄、餓鬼、畜生、修羅、人間、天)だのと、さまざまに違った姿かたちを取ることはないはずでしょう」

  黄檗が答えた「諸仏はその本体が円かに充足しており、増えることも減ることもない。それが六道に転入していっても、どこかででも円かさを失わぬ。かくてあらゆるたぐいの衆生も、一つ一つが仏である。喩えてみれば、一つの水銀の丸が、飛び散って諸処に分かれたとしても、その一粒一粒はみなやはり円いようなものだ。
しかし分散しない時は、一つの丸としてある。この一つのものが一切であり、一切のものが一つである。さまざまな姿かたちというものは、喩えていえば住み家のようなもので、ロバの住み家と縁を切って人間の住み家に入り、また人間の身を脱して天人の身に生まれるといった具合だ。声聞とか縁覚とか、菩薩とか仏とかいった家にしても、すべて君自身がどれに入居するかを決めるのであり、そのために家の違いがあるわけだ。しかし本源の真性には、そんな違いはあり得ないのだ」。この黄檗の会話は、万人を救う言葉だ。

平成十一年一月のある日のことだ。八十を過ぎたT婆さんとバッタリ出くわした。
T婆さんの弟、Sちゃんが昨年の夏ごろ、脳梗塞の発作が起きてより塞ぎこんで、何よりも「本人がやんなっちゃうよ、死にたいよ!とこぼす言葉に、わたしゃ心配で、……」、残されたたった一人の弟の今の姿が、なにより悲しいと言う。
しばらくたって、ふと気になり思い立って、夜、Sちゃんの所へ電話をしてみた。
たどたどしい電話口のSちゃんの会話が、痛々しく寂しい。
「いつかSちゃんのことが話題に上がってね、元気を出さなくてはしょうがないよ。少し元気をつけてもらおうと思って電話したんだよ。それで、どう?」
「それは、すいません。どうのこうのって全く困ってしまう。もう情けないやら……」辛く悲しく、人の一生の老年になっての、行きついた姿を見ると、たまらなくつらい。

昨年の夏前までは、元気に大きな声で話す言葉に勢いがあり、顔色も日に焼けて、下町の町工場の気さくな親父さんだったSちゃん。今はその面影は無かった。幾つになっただろうか、七十五歳を過ぎた年齢に、老いの病気が重く覆い被さる。
「Sちゃん!そう歎くなよ!Sちゃん。言葉が不自由になってしまったが、まだ喋れるじゃない。それは、危なっかしい歩き方かもしれないが、まだ歩けるじゃない。耳も味覚もまだ残っているじゃない。Sちゃん!ついているよ!まだまだ、見放されていないってことだよ!そう思おうよ!」。 電話の向うで、すすり上げる声がした。
後日、又、T婆さんと会った。
「電話してくれたんだって。Sちゃん、喜んでいたよ」「なっとくしたみたい。少し元気がでたみたい」。
みんな、六道を歩いている。


もの言わぬ羅漢達…揀択をこえて…

もの言わぬ羅漢達…揀択をこえて…

 平成10年7月9日午前4時ごろ、突然バタンという音で眼をさました。隣の部屋で寝ている母に違いない。母の部屋のドアーが開いて、膝をつき両手をつき、情けない困った顔の母の顔が私を見ていた。母のいるジュータンに、あっちこっちに汚物が散乱していた。昨夜、母は初めて成人用の紙オムツをして寝たのだった。

1ヶ月前より、トイレにて大便をしぼりきれなくて、タラタラと肛門より垂れ流しのような状態になっていて、よく下着を汚していた。下剤を飲まなければ便がでないし、弱い下剤でも1日2日で効き始めると、何回もトイレに行かなくてはならない。その度に、少しずつ下着を汚すことになってしまう。下腹に力が入らないのだ。


 母の姿をみて、トイレに坐らせ、ジュータンを拭きはじめた。トイレにつれて行く時、母は右足を苦しく痛がっていた。母のお尻を洗浄し、新しい紙オムツをつけて、新しい寝巻きをはかせ、寝室に運んだ。ベットに坐らせ母の足を触りながら、「何処が痛い」の言葉に、母は太ももを痛いと言った。朝はまだ暗く、明るくなるまでもう1度休むことを願い、眠った。

7月はお盆の季節で、脳梗塞をおこして少し痴ほう気味の母の看病が出来ないので、7月11日に、北砂の特養老人ホームにショートステイを申し込んでいたところだった。9日の午前中に、北砂のホームの人と、枝川の介護支援センターの人が、母を見に来ることになっていた。8時頃、母を起こし、背負って1階の食卓についた。母は右足を痛がっていた。

10時頃、KSホームとE介護支援センターの人が母の様子をうかがいに来て、母の足の様態に、「念のため、レントゲンで見てもらったらいかがでしょう」との言葉に、すぐ近くのS外科病院にすぐ連絡し、手配を頼んだのでした。結果は、その場で入院でした。右大たい骨骨折でした。思ってもいなかったことに、その後の約1ヶ月は朝、昼、晩の食事の介助や就寝の「おやすみ」を言うため、私の家族や姉達はひどく疲れた毎日を過ごしたことになった。手術は成功裏に終わったのだが、入院直後、病床で脳梗塞の発作がおこったようで、ベッドの上で、母は右半身不随の状態におちいった。病院は、驚いたことに、院長、看護婦、ケースワーカーの連絡がまったくとれていず、私達は、病院を信用せず早く転院をしなければ、病人が本当の病人になってしまうと、真剣に母の状態が少しでも快方に向かうことを祈った。

転院前日の終身前、咳きをしながら当直の看護婦に、「隣の部屋の患者がインターホンを押して、20分たっても看護婦がこない。もし俺に何かあったらどうするんだと」怒っていたことを話したら、「夜間看護婦が3人しかいないのでどうしようもないのです。私は週に2日のアルバイトなので」という話だった。信じられないことがここでは頻繁に起きていたのだ。次いでだからすこし就けたそう。

母が入院して世話になったのは、不思議なことに、隣の病人だった。暑かった夏にベットの上掛けを気にしてくれたり、水を飲ませてくれたり、手足を吹いてくれたりした。また同室の病人の食器の搬入や片づけを彼女はしてくれた。彼女が退院しては、私達もそれを見習ったりした。彼女は1週間食事を食べずにいて、転院して行った。

その何日か前、K町のS婆さんが、腰をうったといって、救急車で運ばれてきた。彼女はベッドの上で、すぐに尿の管を挿され、寝たきり生活を始めてしまった。私達が退院する頃には、彼女はすっかり痴ほうが進んで、やがて千葉の老人病院に転院したことを聞いた。ある日のことだった、「管を挿していては、歩くことができなくなってしまう」の言葉に、息子サンはS婆さん管をはずしてもらった。食事の後のことだ、S婆さんが尿意を催して、息子サンがナースコールをしたのだった。看護婦が来てわけを聞くと、簡易便器をだして、その息子に「貴方が介助してください」といった。息子サンは怒って「金を払っているのだから、少しは看護婦らしいことをしろ」と、言ってはいけないことを言ってしまった。

3週間ほどして院長に様態を伺った時のことだ、「大分足もくっついて来たので、そろそろ軽いリハビリをするように」と、看護婦に言い渡してくれた。リハビリの先生は、夜6時頃出勤して、白衣姿で病人を訪ね、数分で出てくるという始末なのだ。約1ヶ月いて、母のところに来たのは1回で、それも、2分いたかどうかであった。ちなみに院長が病状を説明してくれたのは、この時と、手術後のお礼を渡した時と、入院した時、転院の許可をもらいに行った時だった。考えてみると、回診している姿を見たことがなかったのが不思議に思われる。

ある日のことだった、姉から電話があった。例によって朝8時病院に行ったときのことだった。「母の病室が3階の3人部屋に突然変わってしまった」と言う電話に、駆けつけた。こんな部屋があったのかまったく知らなかったが、その部屋に入って驚いたのは、まるで生きた年寄りの捨て場のような雰囲気をまず受けた。なんとなく、この部屋に入る看護婦の様子が、入ってはいけない場所に入るような素振りに、彼女達はすぐに駆け足で出て行った。私達は、部屋がえを頼んで、夕方には個室の病室に移ってホッとした。

ある日の朝だった、部屋を閉め切って、クーラーなしで、母の顔は赤く、身体は汗をかき、ほてっていた。急いで窓を空け、真夏の掛け布団をとり、汗をふいた。看護婦に聞いたら。「夜中身体が震えていたので、寒いと思って布団をかけました」とのことだった。母は半身不随で、右腕や右足を、震えて動かすさまを取り違えて施した措置だったのだ。

母は近くの医院から、常時薬をもらっていて、朝、昼、夜と決まって投薬があった。ピンクの薬は、朝と夜といった具合にきまっていたが、医院からもらってきた薬の、投薬はまったくでたらめだった。掛かり付けの医院の先生には、「どうして、よりによって、あそこに入院しちゃったの!」と言われた。まったく、こうなるとは思ってもみなかった自分の落ち度なのだが、本当に入院するとは思わなかったのだ。


入院したその日に、『院長にはいくら、看護婦さん達にはいくら、介助の人にはいくら、後日執刀医にはいくら』と、現金を渡したが、怠け者には何を渡しても何の薬にもならないと残念でしょうがない。この病院が、数年先、特養老人ホームを塩浜のほうで移転して開業するという。元気な人しか入院できず、身体の弱ったお年よりが真の病人になって退院?する病院が、ここまで凄かったのかと思うと、この病院を認可している公共機関は、一体どこに目を持っているのだろうかと疑う。

平成10年8月5日、西葛西にある老人保険施設のKに足が完治しないまま、母は転院した。当初食事もまったく取れなくて、微熱続きの母は、この施設の献身的な介助によって、順調に身体を回復して行った。だが、残念なことに母の右半身麻痺は治らず、痴ほうは進んでしまっていた。

施設入所当初、母のいる5階のエレベーターが止まり、ドアーが開いた瞬間、明るい光線が飛び込んできたと同時に、私は唖然としたものでした。正面にナースセンターがあり、そこから広い通路がエレベーターまで真っ直ぐに走ってあり、その両脇に各4人部屋や3人部屋が配置してある作りでした。通路の中心を開けて壁沿いに沢山の車椅子とそれに腰掛けたお年寄りが一斉に、突然現れた私を見たかのように思えたからでした。私にとっては異様な光景が飛び込んできたと同時に、私には受け入れがたく、「いやだなーっ」と、何度も思ったのものでした。後になって知ったのですが、みんな誰かが来るのを、心の中で待っていたからでした。

年寄りの大勢の動かない顔、うつろな顔、曲がった顔が全体に大きな壁絵のような景色に映ったからでした。その時のことをいまでも強い印象をもって覚えています。こうなりたくないという気持ちが、一人一人を見ることをさせずに、さっさと車椅子の前を通りすぎ、ナースセンターにて、母の場所に行きました。
この日より、西葛西のK通いが続きました。私は、昼食の様子や、リハビリ、おやつの時間を筆でスケッチしていました。そして気がついたとき、私自身が変わっていたのでした。

チョウさん
『細面の顔に、いつもいたづらっ子のように、口を尖らせて、眼をまん丸に開いて、人を真正面から望む。首を立てに振って合図をよこすのか、挨拶をするのか解らない。ただ真剣に人を捕らえていることだけは、眼を見れば解る。食事時、特製のプラスチック前掛けを胸に、その中に食べ落ちた食事がボロボロとこぼれてゆく姿は、豪快そのものだ』

チュウさん
『身体が細く、いつも食堂の奥の席に座って、全体を見渡している姿は仙人のよう。歩く姿はヒョコヒョコとユーモラスに、それでいて飄々としている。しかも、足早に歩く。しかしながら意外にすばしっこく、おやつの時、余った果物を我先にとほうばる姿は忍者のよう』

シャチョウ
『歩く姿勢がなんと、しばらく空や天井を見たことがないのではないかと思われる。太って、腰を直角以上に曲げ、両手を介護人にゆだねて歩く。眼はわるく室内でも、サングラスをしている。だが、声はそれこそ天を突くような大きな音を出す。食事する風景は、頭をななめに表を下にして、手は機用におかずやご飯を、スプーンでさらうが、半分はエプロンやトレーに落ちる。本人は必死かどうかわからぬが、見ているものには必死に見えて、たくましさを感じる。いつだったか、大きな声で「ショウチャン!ショウチャン!」と叫んでいる姿が目に残った』

トウさん
『手の甲に少しむくみがあるのか、やはりボ―ッとしている。この人もリハビリ中にて、ほとんど口を聞くことはない。たまに、食事時手を貸すと、ジッと見つめて、また同じ作業を繰り返す』

貴婦人
『やせていて、色が蝋のように白い。車椅子に座った姿は、貴婦人を思わす。いつも遠くを見つめていて、人を見つめている時も、その後ろに誰かいるのではないかと思ってしまう。食事の時違うところを見つめながら、右手はおかずを拾う。スプーンは、口元に行かず、中身はトレーにこぼれるのだが、辛抱強く繰り返す。この往復の動作が、淡々と行われるところに、なぜだか自然の美しさを覚えてしまうから不思議だ。私が軽く首を振ると、微笑んで笑みをかえす』

年寄りの一人一人を見ていて感じることは、意志や考え方はわからないけれど、何よりもひたむきに食べ、見つめる姿が、いつのまにか神々しい清らかさを放つかのように思われた。清らかさとは一途さなのではないだろうかと、思えてきた。

いかなる知識や見識をとったとしても、最後の1枚、プライドだけは残ってしまうものなのだが。食事を前にして、その最後のプライドを忘れ、人はものを食べている姿に、その人の純粋なあり様を見ることが出来るような気がする。

 そう言えば、檀家の牡丹町のT婆さんを、渋谷のS病院に見舞いに行った時もそうだった。渋谷のI婆さんもそうだ。冬木町のKと話していた時、「私も、一人になって、寝たきりになったときどうなるのか?娘が近くに嫁いでいるのだが、そう心配もかけられないが、なるようにしかならず、かといって準備をしようにも、そのときになってみなければわからないし!」。

平成10年12月14日、母は八王子の上川病院に転院した。転院した夕方、姉の長女が病院に見舞いに言ってくれた。電話でその姪と話しをした。
「数多くの病院を見学しての結果で、ここを今、最良の預けられる老人病院と考えてのこと。だが、私の心の中には、判断はこれで良かったのだろうかと暗くなる気持ち。遠く八王子の彼方に、今、母は何をしているだろうかと思うと、つらい。母の産まれ故郷とは言え、一番上の姉が棲んでいるとはいえ、やはり、気持ちは手元にいて欲しい。」

姪は、老人病院に数度見舞いに来てくれた。そして、見舞いでの院内の様子の体験を聞くと、長くいると涙が出てきそうだと言う。姪も感情を成長させて、優しさを高めてゆく。私の長男は。中学2年だが、私の外出中の日中、私のいない寺を留守番するはめになる、そのことで、人は身に降りかかる事件によって、少しずつ成長し、感情を豊かに、自分を見つめて、変化して行き、たくましくなってゆくのだなと思う。

病院で様々なお年寄りの姿を見つめることが出来て、ふと感じたことは、その姿、顔が、古びた石や木造の羅漢像の姿と良く似ているとことだった。そういえば、寺の本尊も、羅漢像も、石塔も、お骨も、キリスト像やクロスもみなそうだ。何も言わない。いつもしゃべっているのは、私のほうだ。何を言っているのか知りたいと思う気持ちが、自問自答する。

何も言わないからこそ、引かれるのかわからないが、様々な像の、そこに人間の純粋の叫びや驚き、悲しみの表情を、投影して見ることが出来るからだと思った。悲しいかな私達は望んでも、現実にはそこまで、衣を拭い去ることは出来ない。
話しかけても、ただその純粋な姿を留めて、「お前達に、わかるかな?」と、問いかける姿に引かれる自分があるだけです。自己の本性の目覚めと言えば良いのか、荒天の雲が一気に晴れえと向かうすがすがしさに似ている。本人の意思は伺うことができないけれど、きっと、今まで経験したことのない、本人にとっての自己に違いない。

現実のもの言わぬ羅漢達の、ただ現実を黙々と食べている姿に、自己を投げ出して、たくましく生きる姿は、時に神々しいような光をはなつ。


宮本武蔵

宮本武蔵

 二十一歳で京都吉岡一門との決闘、慶長十七年一六一二年四月十三日小倉での岩流佐々木小次郎との決闘で、武蔵の名を知らぬ人はいません。時に武蔵二十九歳でした。十三歳の時はじめて勝負をしてより、二十九歳まで六十余回勝負して、負けることがなかったようです。そして武蔵の消息はここでプツリときえてしまいます。行雲流水の自己鍛練の修行が続くのだと思います。

寛永二十年の十月十日、武蔵六十歳の時、熊本の金峰山、岩戸観音の洞窟にて、天道と観世音を鏡として『五輪書』を一気に書き上げます。
「其より以来は尋入べき道なくして光陰を送る」と、それでは五十一歳で、養子の宮本伊織を引き連れ九州の小倉に現れた時、武蔵の心境はどうだったのでしょうか、『五輪書ー空の巻』は語ります。

 「空という心は、物ごとのなき所、しれざる事を空と見たつるなり。勿論空はなきなり。ある所をしりて、なき所をしる。
世の中において、あしく見れば、物をわきまへざる所を空と見る所、実の空にはあらず。皆まよふ心なり。
この兵法の道においても、武士として道をおこなふに、士の法をしらざる所、空にはあらずして、色々まよひありて、せんかたなき所を空いうなれども、これ実の空にはあらざるなり。
武士は兵法の道をたしかに覚へ、そのほか武芸をよくつとめ、武士のおこなふ道、少しもくらからず、心のまよふ所なく、朝々時々におこたらず、心意二つの心をみがき、観見二つの眼をとぎ、少しもくもりなく、まよひの雲の晴れたる所こそ、実の空としるべきなり。
実の道をしらざる間は、仏法によらず、世法によらず、おのれおのれはたしかなる道とおもひ、よき事とおもへども、心の直道よりして、世の物差しにあわせて見る時は、その身その身の心のひいき、その目その目のひずみによって、実の道にはそむくものなり。その心を知って、直なる心を本とし、実の心を道として、兵法を広くおこなひ、ただしく明らかに、大きなる所をおもひとって、空を道とし、道を空と見る所なり」

宮本武蔵は正保二年五月十九日一六四五年、熊本の千葉城で没しました。世寿六十二歳でした。その七日まえ、自誓の心にて遺書をしたためます。
独行道
一、世々の道そむく事なし              
一、身に楽みをたくまず               
一、よろずに依怙の心なし              
一、一生の間よくしん思はず             
一、我事におひて後悔をせず             
一、善悪に他をねたむ心なし             
一、何れの道にも別をかなしまず           
一、自他共にうらみかこつ心なし           
一、れんぼの道思ひよる心なし            
一、物事にすき好む事なし              
一、私宅におひて望む心なし             
一、身ひとつに美食を好まず             
一、末々什物となる古き道具所持せず         
一、兵具は格別余の道具たしなまず          
一、道におひては死をいとはず思ふ          
一、老身に財宝所持もちゆる心なし          
一、仏神は尊し仏神をたのまず            
一、常に兵法の道をはなれず             
正保二年五月十二日     新免武蔵 判 

武蔵の一生を二つにくぎるとするならば、二十九歳佐々木小次郎との決闘が境になるだろう。前半は武術の鍛練、果たし合いと話題が豊富であるが、後半生は果たし合いもなくひたすらに求道の旅だったようだ。おそらく前者が自己の外に向かっての修行だとすれば、後者は自己の内に向かっての修行だったのだろう。死の七日前にしたためた厳しい自戒の文に、宮本武蔵の求心的な孤高の生涯がうかがわれます。

中国は唐の時代の禅僧のことばで、「仏道とは、悪いことはするなかれ。良いことを行ずるだけだ。そんなことは三歳の子供でもよく知っているが、八十の年寄りでもこれを行うことができんのじゃ」とあります。現代の我々も何か自戒を持ちたいものです。



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