後姿
後姿
私の知人からこんな質問を受けた。それは昨年亡くなった江東区内の大きな会社の創業者のお墓のことだった。知人は長らくその方の秘書的な仕事をしていた人でした。
「和尚!納骨も終わってしばらくしてのことです。墓地には名刺受が置いてありまして、その中にたくさんの名刺が置かれていたそうなんです。遺族がお参りした時、持って帰るのですが、お礼も言えないので、何かお礼の言葉をその側に立てておこうかと言うのです。どんなものでしょうか?」
私は、即座に、「必要ありません。もしお礼がしたかったら、その名刺の方にお礼状でも差し出したらいかがですか。故人を偲んで墓参に来るのに、名詞を遺族に残そうと考えていたら、いかがなものでしょうか?」と話しました。
彼は、「私も、墓参に行くのに名刺は置いて行きません。よかった、同じ意見です」と、同調してくださいました。
家族が思えば、お礼の言葉を立てたり、刻んだりすることに、抵抗はないのですが、名刺を置いて行く人物を訊ねたら、何やらあまり思わしくない人と答えられたので、そう答えたのでした。
昨年のNHK紅白歌合戦を、何年かぶりに家族と一緒に見たときのことです。歌手の武田哲也さんが、歌の中で、「こりゃ哲也、他人様に指差してはいかんよ!指差すってことは、残りの三本指は自分を指しちょるってことを、忘れたらいかん!」と言っていました言葉を何故か思い出しました。
他人を誹謗し非難することは、自分を卑しめることになることと、自分を売り込むことも、自分を卑しめることになると、同列のことと思えたからです。
しかしながら、こと仕事となると別なことです。セールスや仕事上の付き合いは、自分の熱意を売りこみ認めてもらわなければ成り立ちません。信頼してもらわなければ仕事になりません。
私が望み願うことは、上野宋雲院の故山本禅登師のお話です。
『人間には前からお辞儀される人と、後ろからお辞儀される人の二通りある。前からお辞儀される人は、金と力のある人だ。人間は金と力に弱い。だから金と力のある人の前に出ると、その金と力のあやかりたいと思って、お辞儀をする。言いかえると、その人にお辞儀をするのではなくて、金と力にお辞儀するのだ。ところが、後ろからお辞儀される人は、それと違う。
その人は誰にも親しまれ、尊敬される人なのだ。だから、その人の前にでると、親しい仲だからお辞儀はしない。後姿に、心から、ああ立派な人だなあと、お辞儀するのだ。……金と力はあったほうがいい。しかし、それよりも、後ろからお辞儀されるような人になってくれた方がわしは嬉しい』と、後藤楢根氏の言葉を記して、法光(昭和44年1月号)誌に、「新しい年に当たって考えてみよう」と書いていました。
個人の社会と接する取り組みの姿勢の是非を問うことはできませんが、私など、お金も力もないし、かといって、後ろからお辞儀される人でもないし、せめて、考え方、物の見方の私なりの一面観を伝えるということぐらいしか出来ないが、禅登師も考えてみようと言ったことに、禅宗僧侶の意味を推し量っている今日この頃です。
寿陵
寿陵
生前に墓地を取得することは、現代人にとって、必要なことであると思う人が増えている。その理由として、終の棲家としてと考えている人が大半である。しかしながら、その終の棲家も、家族の延長である『……家之墓』、女性だけの墓、何らかの特定の仲間を募っての墓、夫婦墓、寺院が経営する合霊塔形式墓等と多種多様になってきた。いずれにしても、生前に確保することから、寿陵といえるだろう。
さてその寿陵のことだが、何か言葉からすれば、お目出度いことのような気がする。はたして、そうだろうか。 禅僧の墓石は、昔から寿塔といった。なぜ寿なのか不思議に思うのだが、それより前、中国の古い制度に寿蔵という制度があったらしい。蔵と言うからには、暗く穴の中のような場所であるらしい。
韓国で先ごろ元大統領が、大統領の罪を、それ以上に追求し責めて獄中に縛ることをせず、禅寺に隠遁することで社会的には許されると言う、実に文化的に成熟した社会ならではの事件があった。
日本ではそんなに話題に上がらなかったが、韓国国民の持つ共有された伝統は、現代に受け継がれて、文化を形成しているのだなと、羨ましく思ったことがあった。隠遁は、自らが自らを裁くことでも有り、それを受け入れて良しとする市民も、そのことを自らの中に持っていなければ成り立たないからだ。
中国的東洋世界では新しい支配者に交代した場合、その支配に従うことを欲しない人達が数多くいた。新しい支配者も謀反、反逆さえしなければ隠遁生活を許容する風習があり、姿を隠す場所を、寿蔵と言ったらしい。穴蔵での生活の起源を考えると、あまり立派な穴蔵は意にそぐわないものがあるが、チョット前まで、ある意味では我々日本の現代人にも通じることだったはずだ。
『塔』についていえば、塔は天を指し、石や土を積み上げる。昔も今も変わりはないように思えるが、内実は同だろうか。塔を積み上げると言う行為そのものの持つ意味はなくなっているかもしれない。積み上げても崩れる塔は、海辺の砂遊びや、それこそ賽の河原の石積みであり、我々の現実生活の年輪であり、過去そのものと言っていいはずである。合理的や便利さ快適性等、たくさんの人が追求してきた中に、積み上げて行くと言う我々の行為がおろそかにされたような気がする。肝心な場所は地下の穴蔵であると言うことは言うまでもない。人が葬られる場所は、塔の下なのだ。そこでこそ、人が眠るに、につかわしい。
江戸時代の熊さん八さんの庶民は、寿陵を建てようにも、その余裕はなかったのではないだろうか。その意味では、現代人は大方、墓を持つ文明の暮らしをしていることになる。
私は、いつも思うのだが、江戸時代の熊さん、八さんのお墓は何処に残っているのだろうか。寺の古い過去帖は関東大震災で燃えてしまっているので解らないのだが、江戸時代前の熊さん八さん、もっと前の熊さん八さんのお墓なんて、どこにも残っていやしないように思える。どう考えてみても、我々が日ごろ踏みしめている大地こそ、彼等が埋まっている穴蔵なのだと、何か確信さえするのだ。
年をとって、足が弱くなり車椅子生活になたっとしても、良識有る施設では、足置きのペダルは上げて、できるだけ足の裏を地面につけることによって、老化の予防と回復を助ける。大地は私達をあらゆる意味で刺激する。その大地は、先人達が眠る大地だからだ。私達が生きる恩恵は、大地から多く受ける。
ついで参り
ついで参り
今日は、お聞きしたいことがありましてメールしました。
お墓参りの事なんですが、日曜日に、従姉の7回忌の法要があります。同じ霊園に、それも従姉のすぐそばに伯父の(従姉の父)お墓があります。そういう場合、従姉のお墓に参ったあと、伯父のお墓参りをしてもいいのでしょうか?
ついで参りはいけない、と言われたことがあるのですが・・・。
でも、伯父のお墓の前を素通り、というのも伯父がかわいそうな気がして。
どうなのでしょうか?
私も、父母のお墓参りに行ったとき伯父が別に作ったお墓の方へも寄るのですが・・・
お墓参りのきまりのようなものが、あるのでしょうか?
お忙しいこと思いますが、教えて頂けますでしょうか?
よろしくお願いします。
お答えします。
実は、私も、よく知らないことなのですが、一緒に考えてみましょう。
まず、ものの見方には二つあります。お参りするほうと、されるほうです。お参りする方としては、どうせ行くなら同じ墓地にある他の墓も寄ってお参りしたら、一遍に方が済むと思うものです。このことを、詳しく言えば、『一遍に』と『方が済む』が問題なのでしょう。
お参りされるほうから言えば、墓地に埋葬された遺骨は、自分のことを振り返って欲しい、思い出して欲しい、会いに来て欲しい、語り掛けて欲しい、家族の成長を目の前で見せて欲しいと……願っていることでしょう。
しかし考えてみると、そのお墓には他に埋葬されている方がおりませんか。もし居ましたら、父親のお参りに行って、祖母のあるいは祖父のお参りを、ついでにすることになります。なにか変ですね?
基本は、いつでもそうなのですが、お墓はお参りして、はじめて墓であると言う事です。ついでと言う言葉は、そぐわないことなのです。
ある目的を持って、一途にものを突き進むことがあります。
例えば山の向うにある村に、道を通そうとトンネルを掘ったとします。ところが、穴を掘ると、今まで地中に隠されていたものが、掘り出されます。小判であったり、化石であったりします。
『偶然』『不思議』という言葉はこの時使われますが、小判や化石を目的とする発掘には、出てきて当たり前、出なければ、致し方ないことなのです。この意味では、世の中『偶然』『不思議』ということはあり得ないことになります。まして、小判や化石が、ここに有るから、居るから掘ってくれと言うことはないのです。勿論、掘ってくれなかったら恨むとか、ついででも良いから掘ってくれ、ということもないのです。
死者は見とおしていると言う言葉があるとすれば、その人が語らしめたことです。
お墓参りに決まりなどないのです。もしあったならば、作法ばっかり気になって、偲ぶこともできません。何事も、自分の良心に素直なことが大事です。
さらに、それでもついで参りが気になることがありましたら、これぞ、極意です。「ついで参りで、ごめんなさい」「お久しぶりです」「こんな形でなくては、なかなか来れないの」と、お参りするのです。そして『偶然』、『不思議』のお話は、「あら不思議。偶然ね」と、なります。
目標
平成12年2月28日の日経新聞朝刊の春秋からである。 『目標をみつけることが目標になってしまった十八の今』と、東洋大学が毎年募集する「現代学生百人一首」で秀逸作品には、卒業控えて入試に埋まるこの季節の日本の若者の心模様が浮かびあがる。自分が何をすべきなのか。それがわからない。 |
目標
私が、高校一年生のとき、叔父から突然この寺を継いで見ないかと言われた。それは、まったく私にとっては、突然のことでした。今、振り返ってみると、叔父も、父の姉も、そして何より父にとって、大きな願いだったのだと思う。もうこの三人も、泉下の人となって久しい。
叔父は慶応の教授をしていたことより、私にとっては雲の上の存在だった。それこそ私にとっては、親しく話をしたという記憶はないのだが、その存在だけは、今でも大きくある。叔父が私をどう見ていたのか、そしてこの寺の後継者としてどう適任と思って、私にゆだねたのか、今は知る由もない。叔父の父は、私にとっては、祖父だが、私の小さかった頃に亡くなったことと、その当時の私の住んでいた西八王子は、まだまだ田舎で、遠方であったことより、記憶は全くといっていいほどない。
祖母についても同様に、あまり記憶はなく、かえって母方の、祖母のほうが目に浮かぶことが多い。小さかった頃の環境と体験の記憶が、大人になっても、大きな比重を占めるということは、いかに大事なことであることの証明でもあろう。
多感な時代だったということで、高校時代、大学時代は、眼前にぶら下げられた目標を決断することと、将来の自分のしたいことを探すことと、自分の熱中できることを通すことの不安と、すべてを拒否することと、父の身体の変調を戸惑いに似て察知する私の、早急に決断できない自己ジレンマに陥っていた時代であった。大きな葛藤を引きずりながらも、時は流れて、その葛藤は、この寺に住むことになってまでも、最後の最後まで、葛藤を繰り返していた。
職業とか、仕事を選択することが目標であれば、仕事をやめたとき、職業を変えた時、多感な頃の十八の今はどういう立場にあるのだろうか。どうやら、多くの人が、一生の仕事を持つことは、不可能な時代になっているような気がするし、一生といっても、仕事についてはリタイアするまでと区切りを持つわけだし、多種多様に激変する時代になったことは、一人の人間にとっても、一生は多種多様なものになってしまったような気がする。リタイアしても、その後の長さを考えると、人の生涯はいつも途中であることの自覚が必要であり、”人生の定年はない”を旗印に、生きて行くことが肝要なことと思う。考えてみれば、仏教の教えそのものだ。禅で言う、前後際断とは、道元が言う「たきぎははひとなる、さらにかへりてたきぎとなるにあらず。しかあるを、灰はのち薪はさきと見取すべからず。しるべし、薪は薪の法位に住して、さきありのちあり、前後ありといへども、前後際断せり。」の通り、今している仕事はリタイアしてする仕事と、後先のモノではなく、独立して、最前を尽くすことこそ、仏道と言える。たとえ目標があったとしても、前後際断、今を行じるのみであり、目標は、あくまで未だ至らないモノにすぎなく、今を行じることが歩んできた道と目標を含んで、後先なく、前後際断。
モンセ・ワトキンス著、井戸光子訳の《夢のゆくえ》(現代企画室)に、1999年3月にイエズス会のスペイン人司祭マヌエル・エルナンデスに対して行ったインタビューがある。彼は30年以上にわたって、日本で刑務所訪問を続けている偉大な人であり、服役する人に発して言う彼の言葉に、共感を持つ。
『まず、私たちはお説教するのではなくて、彼らの話に耳をかたむけなければなりません。すると、彼らがどう変わっていっているか、わかるんです。とは言っても、助言をすることもあります。
「妄想にとらわれないように」とね。つまり、家族のことをあまりにも心配したり、刑務所での処遇で誤解したりしないように、「妄想には注意」と言うわけです。また「この世の中には原因不明のことはあり得ない。なぜあなたがここにいるのか考えてみるように」とも言います。
また、自分たちは社会の犠牲者だ、という思いを捨てるように話します。
同時に、悪人はいないということ、そして踏みはずしても正しい道に戻る可能性はあるのだということも、じっくり考えてもらいます。人は、強制されて変わるものではありません。変わろうと思わなければ、六年も七年も刑務所にいるまでです。自分の人生を、ビデオを見ているように見なおしてごらんと、言うんですよ。「自分が変わるために、今、これから何をやればいいのか考えなさい。ここに舞い戻ってくるのは最も簡単なことなのだから」とね。また彼らが家族に手紙を書くときには、刑務所にいると書かないようにと言います。「仲間と一緒に労働して、学んで、一定の時期がたてば卒業できる、いわばそんな”国際産業大学”にいる」わけですから』
マヌエル・エルナンデスの言う言葉は、仏教の教えでもある。聞くと言うことは、お経の最初に出てくる”如是我聞(にょぜがもん)”に徹する姿勢ですし、妄想にとらわれないとは、今いる自分の立っているところ、それは、目に見えないモノを含めての実在を直視しなさいということです。今、何をやれば良いのか考えて、ただひたすら歩むことが仏道なのだから、考えてみれば、目標とは、目前の自分自身の事実にかかわっていると言えます。だとするなら、おのれ自信の根拠を考えてみると、人は生まれた環境により、生い立ちにより、自分以外の世界から影響され生きる訳ですから、明確不明確にかかわらず、目標が、おのれを導くとも言えるです。
目標が、明確に、自分自身を決することの決断ができるかどうかに価値があるように思えますが、悩むことも、前後祭断で独立し、不明確な目標がそうさせるとも言えます。
確かな目標を持つことを、その目標に向かって生きることを、時代を大海原に譬えてみると、上手に泳げる人たちは、ほんの一握りで、多くの人たちは、漕ぎ出だすことの困難さと、沖に出て、翻弄され、もがき喘ぐことに終始しているかにみえます。
目標に向かって漕いでいるときも、目標を見いだせずただ漕ぐことも、漕いでいることに関しては同じ行為です。目標に向かっていても、自分の意図する目標でないかも知れないことを考えれば、目標は、今、漕いでいる事実であり、目標が漕がせると思えば、共に、漕ぐことが目標なのでしょう。明確な目標と、不明確な未だ明確でない目標も、共に、今を漕がせるのです。
しかし、どちらが優れているか、確かなモノかは、価値判断でもあり、目標に向かって今を上手に泳ぐことも、翻弄されて喘ぐことも、共に今を生きる姿と違いないのですから、考えてみれば、与えられた場所と時間に、一生懸命漕ぐことに、居場所があり、目標が現れるということなのです。
六道を行く
人の一生は、巡礼の旅路。日ごと遍路は、遠き道あり、近き道あり、往く道あり、もどり道あり。
巡礼の道は、回帰と再生の繰り返し、回帰は、人の振り返り、再生は旅立ちとして、振り返りはおのれ自身を問うことであり、旅立ちは今の一歩を歩むことである。
白装束は死に装束、杖は墓標の今日の旅路なり。
六道を行く
かって、「私は、両親に望んで産んでくれといったわけではない。両親の営みの中で、ただ産まれただけです」と平然と言う三十前の女性と話したことがあった。彼女の中に、大きなゆがみを見た。「もっと、私のほうに向いて、愛情を注いでください」と言うかのように思えたのだ。
だが、両親をも知る私は、どんなに愛されて育まれても、そう受け取ることの出来ない彼女の心の歪みは、どうしたら良いのだろうと、手を差し伸べられない私の不甲斐なさの、無力感がおおう。
達磨の『二入四行論』に「仏心とは何をいうのか」という問答がある。
心が特別な姿形をもたぬのを真如(ありのままなるもの)という。
心が変化すべくもないないのを、法性(存在の本質)という。
心が支配されるものをもたぬのを解脱という。
心そのものがさまたげられないで自由なのを菩提という。
心そのものがひっそりと静まりかえっているのを涅槃という。
と、ある。
問題は心にある。心そのものが仏であるという、禅の主張は、八世紀から九世紀にかけての馬祖和尚以降に見られるという。
「人心とは、平常心もしくは衆生心の意であり、当たり前の人間の心の全体であり、善悪正邪の動きの総てを含む。それは、精神の奥底に隠れている真性とか良心とかいうよりも、むしろ日常生活の表に働いている具体的な心である」と柳田聖山氏は「臨済義玄の人間観」で言う。
この頃より禅は具体的に生身の人間をたからかにうたう。そして私達の生身の総てを肯定し、現実世界の実践的・主体的な人格そのものこそ、ほかでもなく祖師そして仏であるという意味で、人間讃歌の宣言を主張する。
さらに「仏心の宗を明らかにして、寸分たがうことなく、行と解とが照応するもの、それを祖という。また、悪を見て嫌うことなく、善を見て履行したいと思うことなく、愚者を捨てて賢人を招こうとはせず、迷いを抛(なげう)って悟りにつこうとせず、大道に達して枠を超え、仏心に通じて並々ならず、凡聖と同じ範疇には住まわぬもの、彼をこそ超越的に祖とは呼ぶ」と宝林伝の達磨の章に記述されている通り、人の道を説く。
『黄檗宛陵録(筑摩書房・禅の語録より)』に、
「衆生が本来仏なのでしたら、その上さらに四生(胎生、卵生、湿生、化生)だの六道(地獄、餓鬼、畜生、修羅、人間、天)だのと、さまざまに違った姿かたちを取ることはないはずでしょう」
黄檗が答えた「諸仏はその本体が円かに充足しており、増えることも減ることもない。それが六道に転入していっても、どこかででも円かさを失わぬ。かくてあらゆるたぐいの衆生も、一つ一つが仏である。喩えてみれば、一つの水銀の丸が、飛び散って諸処に分かれたとしても、その一粒一粒はみなやはり円いようなものだ。
しかし分散しない時は、一つの丸としてある。この一つのものが一切であり、一切のものが一つである。さまざまな姿かたちというものは、喩えていえば住み家のようなもので、ロバの住み家と縁を切って人間の住み家に入り、また人間の身を脱して天人の身に生まれるといった具合だ。声聞とか縁覚とか、菩薩とか仏とかいった家にしても、すべて君自身がどれに入居するかを決めるのであり、そのために家の違いがあるわけだ。しかし本源の真性には、そんな違いはあり得ないのだ」。この黄檗の会話は、万人を救う言葉だ。
平成十一年一月のある日のことだ。八十を過ぎたT婆さんとバッタリ出くわした。
T婆さんの弟、Sちゃんが昨年の夏ごろ、脳梗塞の発作が起きてより塞ぎこんで、何よりも「本人がやんなっちゃうよ、死にたいよ!とこぼす言葉に、わたしゃ心配で、……」、残されたたった一人の弟の今の姿が、なにより悲しいと言う。
しばらくたって、ふと気になり思い立って、夜、Sちゃんの所へ電話をしてみた。
たどたどしい電話口のSちゃんの会話が、痛々しく寂しい。
「いつかSちゃんのことが話題に上がってね、元気を出さなくてはしょうがないよ。少し元気をつけてもらおうと思って電話したんだよ。それで、どう?」
「それは、すいません。どうのこうのって全く困ってしまう。もう情けないやら……」辛く悲しく、人の一生の老年になっての、行きついた姿を見ると、たまらなくつらい。
昨年の夏前までは、元気に大きな声で話す言葉に勢いがあり、顔色も日に焼けて、下町の町工場の気さくな親父さんだったSちゃん。今はその面影は無かった。幾つになっただろうか、七十五歳を過ぎた年齢に、老いの病気が重く覆い被さる。
「Sちゃん!そう歎くなよ!Sちゃん。言葉が不自由になってしまったが、まだ喋れるじゃない。それは、危なっかしい歩き方かもしれないが、まだ歩けるじゃない。耳も味覚もまだ残っているじゃない。Sちゃん!ついているよ!まだまだ、見放されていないってことだよ!そう思おうよ!」。 電話の向うで、すすり上げる声がした。
後日、又、T婆さんと会った。
「電話してくれたんだって。Sちゃん、喜んでいたよ」「なっとくしたみたい。少し元気がでたみたい」。
みんな、六道を歩いている。