目次
輝いている時
夢中(ゆめのなか)
芝浜
江戸っ子
亀住町(平成13年7月1日)
モンセ・ワトキンス~夢のゆくえ~(平成14年1月3日)
新牌開眼
英霊(平成17年5月23日)
目覚め
よわい「齢」
また始めたらよい
三大聖樹(平成19年4月17日)
滅度(平成19年9月18日)
安住の地(平成20年11月15日)
心眼(平成22年3月1日)
とかくこの世は
とかくこの世は
祈り(平成17年11月29日)
品位(平成18年1月20日)
ニャンニーシンズ(平成18年3月1日)
鍵(平成18年4月25日)
チベット(平成20年5月1日)
SYOHOU
諸法
四十四の問い~ミヒャエル・エンデ
先ゆく輩
さき行く輩
祖師年譜
ダルマ
慧可
五洩霊黙和尚
石鞏慧蔵禅師
大珠慧海禅師
西川の黄三郎
馬祖道一禅師(馬大師)
五百生 百丈和尚
大梅山法常(752-839)
麻谷山宝徹禅師(平成12年1月27日)
鎮州普化(ふけ)和尚
寒山・拾得
虹の彼方に
ヘイヴン・ペックの場合―続貧しいけれど、豊かだった―
生前葬
平和を我らにーGIVE PEACE A CHANCE(平成13年10月31日)
ソクラテスとヤージャニダッタ
蓮(平成14年6月2日)
心-KOKORO(平成14年6月25日)
独り暮らし(平成15年4月12日)
老いが、咲いていた!(平成16年7月5日)
深濱-fukahama
死に顔
松山鏡(ソクラレストとヤージャニダッタの続き)
真ん中(平成20年4月1日)
百万回いきたネコ(平成21年1月1日)
夜来る鳥(平成21年1月1日)
だいじょうぶ、だいじょうぶ(平成21年2月1日)
無常への帰依
無常への帰依
希望(平成12年1月2日)
葬式坊主
泥棒
赤とんぼ
老い
……ロス
後姿
寿陵
ついで参り
目標
六道を行く
もの言わぬ羅漢達…揀択をこえて…
宮本武蔵
五合庵断章(平成10年10月17日)
K子さん!(平成12年7月19日)
今は昔
十一面観世音菩薩
尽七日忌(平成19年5月1日)
OSYOU
OSYOU
この手のひらに―禅僧の死―(平成10年11月18日)
戒(平成10年7月25日)
幽霊
みんな仏教徒(平成10年5月27日)
最後の晩餐(平成10年5月23日)
禅問答(平成10年5月31日)
分銅
天国は汝ら自身に宿る(平成10年11月24日)
宗派
穢れ(平成12年8月30日)
お彼岸
仏心
仏心
ご祈祷
施餓鬼会にて(平成17年5月28日)
永遠の命
輪廻する葦(平成10年5月27日)
連鎖する命(平成10年6月2日)
涅槃(平成10年8月12日)
鏡(平成10年7月25日加筆)
流星
TAO(平成11年1月3日)
四大
挨拶
冥福
盂蘭盆
祈り(平成14年7月4日)
仏事歳時記
再び 最後の晩餐
この手のひらにII(平成18年11月18日)
死んで生きる智慧(平成19年3月27日)
五百生(平成19年11月20日)
破地獄偈(平成20年5月24日)
この指止まれ
この指止まれ
家族と家庭(平成11年1月5日)
導師(平成11年2月26日)
家から個人へ、そして家族・友達へI
家から個人へ、そして家族・友達へII
脳死そして臓器移植(平成11年3月2日)
独り決めの生き方
僧堂I
僧堂II
僧堂III
恥じ
僧堂IV
返事
父殺し・母殺し・友だち殺し・子殺し(平成20年1月1日)
その後
その後
ほとけさま(平成17年5月1日)
仏が仏に合掌する
戒名(平成12年3月14日)
無用の用(平成12年2月21日)
世話
大きく育て!(平成11年1月18日)
しもべ(平成10年11月7日)
電話(平成10年8月22日)
意思
寡黙
妄想(平成10年8月2日)
川(平成10年8月22日)
風如(風のように)(平成10年6月18日)
追悼(平成10年5月27日)
受容(平成10年6月18日)
蒸発
臨終(平成10年6月8日)
外道
障子(平成13年3月10日)
日月(にちげつ)
年寄りの出番より
人生とは、闇を照らす一瞬の蛍の光
時の旅人
時計(平成12年1月3日)
星(平成11年10月15日)
溝(平成11年8月2日)
過去心…念の起こる処(平成11年6月19日)
与える時間(平成11年5月24日)
桜(平成12年3月2日)
無常(平成11年4月16日)
川(平成10年9月17日)
有時(時の構造)(平成12年2月5日)
時の旅人(平成12年2月1日)
揺れる木々の葉
この人生の速さはなんだ(平成14年12月26日)
法句経より-時の旅人(平成15年2月4日)
寂然不動 如春在花(寂然不動、春の花に在るが如し) (平成16年9月19日)
ZENGO
自立
橋は流れて(平成10年9月18日)
無事
過去(平成10年5月23日)
たまごっち(平成10年5月23日)
一衆觸礼(いっしゅうそくれい)
六道を輪廻する
二人三脚
生老病死
筋肉番付
ポケモン
俺は、親馬鹿か!
塵も積もれば山となる
生と死と永遠
最終章
一章
二章
三章
四章~(未完)
時間旅行
時間旅行
命の歌-母の短歌
礎-いしずえ-
離魂(平成19年8月25日)
海辺橋
海辺橋
ふるさと(平成18年3月4日)
千の風(平成18年9月16日)
人の道(平成18年9月18日)
あなたは、いつから、一年が始まりますか?(平成20年8月1日)
前住職 二十三回忌にて(平成20年9月1日)
平成21年お施餓鬼会を振り返って(平成21年6月1日)
奥付
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赤とんぼ

赤とんぼ

 先日、京都は妙心寺山内の奥さんと、電話で話していてのことである。
二人で、どうしてこんな世の中になってしまったのだろうか話し合っていた。
「つい最近聞いた話であるが、今、首都圏で判っている範囲での話だが、年間30万人の堕胎手術が行われているという。実数は、おそらくこの倍であろうと言うのです。交通事故の死亡者が1万人、中高年の自殺者が3万人、何年か前の記憶では、癌の死亡者が30万人を超えていた思うのだが、これらの数字と較べて、何が起きていると思いますか。」
この問いに、蟠桃院の奥さんは、「この頃の子ですけれど、『赤とんぼ』を歌わなくなったとおもわへん。15年ぐらい前に、韓国のお坊さんが、そのことを指摘していたんよ。日本は、今に大変なことになると言いはったんですせ。だから、『赤とんぼ』を、どんどん歌いなはれと、お言いでした。」

「そう言えば、『赤とんぼ』を、歌わなくなりましたね。」
「何ですか、『ちょうちょ』は良く歌うのですが、やはり、イメージが暗いせいでしょうかね。」
確かに、この歌を、子ども達は歌わなくなったような気がする。しかしそれは、演歌も同様だろうし、大正以前は、共に無かった歌のような気がする。
何と言おうと、子ども達が、夕日を浴びて、家路を歩く姿こそ、この歌の景色に似つかわしいと思うのです。
『赤とんぼ』の歌詞は、三木露風(1889年(明治22年)兵庫県龍野(たつの)市生まれ)が作詞いたしました。夕焼け空に飛ぶ赤とんぼをながめて、子供のころを思い出して作られたそうです。

作曲は、山田耕筰です。
夕焼け小焼けの赤とんぼ 負われてみたのはいつの日 
山の畑のくわの実を 小かごにつんだはまぼろしか
十五でねえやはよめに行き お里の便りも絶え果てた
夕焼け小焼けの赤とんぼ とまっているよさおの先

 この曲から何を思い浮かべるか。日本人ほど夕焼けが好きな民族はいないと、誰かが話していた。
夕焼けも赤とんぼも、詩歌において、夏の季語である。夕焼けは何も夏に限ったものではないが、子ども心に思い出すのは、夏休みの日中の長い一日が、もう終ってしまうという情景であり、家路につかなければならないという、時間にかかわる内容の情景です。
日中の暑さの中の、蝉取りや、川遊びには、いつも年齢を超えた幼友達がいたものだ。子ども達一人一人が多様な時間を持ち、多くの時間を持つ者が、少ない時間を持つ子どもに、多くの時間を持つことの意味を教えていたように思うのだ。そんな日中から、夕焼けの記憶家の中へ場所を移ることは、私の知る範囲ではのことだが、昭和半ばの、日本の家庭の、団欒のひと時であったはずだ。
日中と夜との境は、光と闇とを仕切るカーテンのよう、炎天があり、西日があり、夕焼けがあり、夜が訪れるのである。夜は家族の休息の時間であり、語らいの時間でもあった。

『赤とんぼ』は、アキアカネと言い、田んぼに水が張られる頃、幼虫に孵(かえ)り、7月頃、成虫に成ります。夏の盛夏に高地に群れをなしている『赤とんぼ』をご覧になった方は多いと思いますが、産卵は涼しくなってからです。それまでは、生まれた所にいることは少ないのです。秋、平地に産卵のため帰ってくるのです。つまり、赤とんぼの風景とは、田んぼの風景と切っても切れない関係にあり、アキアカネに姿を変えてからは、一夏の時間そのものです。銀やんま、金やんまは、数少なく成虫の時間も短く、大きな旅は致しません。無数のアキアカネが空をおおう時、それは田んぼに水が無くなる季節でもあります。一気に産卵の時を迎えたのでした。
そんな風景が、何百年と繰り返されてきたのでしょう。
ここ深川には、田んぼはありませんが、川や堀が数多くあり、川や堀の引き込みの場所で、『赤とんぼ』も生きていたのでしょう。最近では、子ども達のいなくなった、プールに場所を変えているようですが、もう、無数の『赤とんぼ』を見ることはありません。

一夏の風景は、生から死へ、赤みを増しての死に際の変化です。赤とんぼになる前の生態は、よく知りませんが、田んぼと関係がある以上、卵から孵化するのは、田んぼに水が張られてからなのでしょうか。短い期間に成長し、蝶のように空を飛ぶことにおいて、最終を飾ることは、意味が有るように、意味付けをしなければ勿体無いと思うのです。

夕焼けは、和らぐ光であり、西方浄土を思い起こさせる。これは、私たちの体内に、ヨーロッパ人アメリカ人とは違って、歴史的記憶として刻み込まれているものと思いますが、あらためて考えてみようと思ったり気づく人は少なくなってしまったようです。
多分、私たちの年代の多くは、『赤とんぼ』の曲を、今でも、口ずさむことが多いと思うのですが、確かに、今の子ども達は、口ずさむことはほとんどないことに、気づきます。

私にとっては、『赤とんぼ』の曲は、寂しい曲だけれども、ものの哀れを感じさせる響きに、手をつないで、子ども達が家路に帰る風景を思い出させる曲でもあります。そして、この気持ちこそ、日本の土壌の中で、培われたものの中で、最も大切なものの一つだと思うのです。
「○ちゃん、△ちゃん、また明日ね!さようなら!」と、家に急ぐ。家では、お母さんが、お風呂と夕食の支度をしている。真っ黒に汚れた子ども達は、お風呂に入り、浴衣やくつろいだ服を着て、今日あったことをお母さんに話す。一家団欒の風景が浮かんできます。
今、こんな風景、いや、文化と言ってもよいかもしれないが、亡くなってしまったようです。その風景は、田んぼや、赤とんぼ、子ども、家……と、全てが結びついて、ゆっくりと時を刻んでいる風景であり、芳醇なものを育んでいた時間でもあったと思うのです。

ゆったりとした時間を取り戻すことこそ、必要なことと思います。少なくとも、『赤とんぼ』の曲を口ずさむことは、とても忙しい人には、出来ないことです。このことは、言ってみれば、この曲を口ずさむ事の中に、ゆったりとした時間が含まれているということでもあります。
私は、これを発展して、ゆったりとした時間は、人と人が、互いに手を結ぶあり方にもあるような気がいたします。
今のお母さんは、背中に赤ちゃんを背負わない。

良く考えてみると、背負うことは、お母さんの視線と一緒に同じものを見つめることであり、何か用事をすることも、母親だけの視線ではなく、赤ちゃんの視線でもあったような気がいたします。そして肝心なことは、赤ちゃんを背中に背負うということは、お母さんが、掃除や洗濯、買い物にいつもスキンシップで繋がっていたということかも知れません。
抱っこは、赤ちゃんの視線に、お母さんきりしか、眼に入りませんし、抱っこは、長時間に適しません。
どうでしょうか、お母さんと赤ちゃんの外出を観察いたしますと、ほとんどの母親が、バギーです。少し大きくなれば自転車の前に、幼子は乗ります。手をつなぐという習慣がなくなりつつあるようにも思えます。
様々なものと結びついているという自覚こそ、大切なことだと思うのです。


老い

老い

 平成16年11月1日、明治小学校にて、セーフテイ教室が開催されました。1、2年生の集いを拝見して、「変な人に声をかけられ、危ない思いをしたことがある人?」の指導員からの呼びかけに、3分の1の生徒が手を挙げ、その多さに驚きました。また、エレベーターを使用して通学している生徒の、これもまた、多数の生徒が手を挙げました。
 「どんなふうに、声をかけられたの」の質問に、「お菓子をあげる」とか「お小遣いをあげる」に、いっせいに子ども達が話し、会場のにぎやかさは大きく広がりました。
 ちょうど、奈良県の幼子が誘拐され殺害された事件が発生したあとでした。この事件は、すぐ近くの事件なのだと、たまたまこの地域にはなかったこと なのだと、社会は大きく変容しているのだとの思いを強くもちました。

 世間の変化がめまぐるしいということは、月日の速さも増しているということのなのだろう。

 つい何年か前のような気がするが、少子高齢化という言葉がありました。それも今や、少子高齢社会になっている。しかし、私に言わせれば、地域の生活環境の変化に、何故、年齢だけを浮き立たせて問題にするのかと意識を持ちます。この問題は、言葉の綾のように聞こえますが、大きな問題を含んでいると思っているからです。
 少子はいけない、高齢は、世の中にとって、いけない問題であると、考えることが出来るからです。その逆に、大きく生産し、大きく消費する世代だけが、世の中にあって価値があるような気がいたします。すべては、数でとらえる世の中の風潮に、そうかなァ~と疑問を持ちます。

 区の行政も、数字をたくさん出して、年金財政や、介護保険の数字をいいます。言われてみれば、もっともなような、でも、数字だけが一人歩きする危険はないのだろうか。
 個人的な嗜好ですが、老いという言葉は、私が好きな言葉です。この言葉に、寂しさや、喪失感、また、達観や存在感、威厳や重たいものを捨てたひょうひょうさ、狡猾さやしたたかさ、たくましさと、老いには、ありとあらゆる姿形があるからです。
 お年寄りが未曾有の多さに直面した社会の、それは、老いの熟成した社会と見ることができれば、こんなにも、世界で成熟した社会の出現した歴史を持った国はなかったとも言えるからです。
老いとは、在る面では、人が年を重ねることを意味いたしますが、実際には、老いが熟成した人間の出現と解釈できれば、老いとは、人と人との関係の中に生ずる優れた知識ではないかと思うのです。

 家族や世間と、密接に必要な関係が保持されているからこそ、老いは、成熟していくものだと、老いは、人の境遇、生き方、見識により、年代年代により、実りあるものと成っていくものだと思います。そして、老いが語られる場所も、その関係の中にあってこそ、意味があるものだとも思います。老いとは、血縁、地縁、共縁、と縁が連なる、その関係そのもののなかに育まれるのではないでしょうか。私の父や母、その母方の父や母の記憶も、威厳があり、日に暖まった縁側の温もりと、そこに座り、孫達がはしゃぎ回る姿を、笑顔で見ていた姿の記憶が、実に懐かしい思い出です。布団の綿入れの時には、孫達を上手く使って、私の母も、母の姉たちも、一緒になって、綿埃の中に居た思い出は忘れることができません。老いは、こうした光景の中にあったと思うのです。
 老いを喪失した、老齢や加齢には、魅力をそぎ落としてしまった、少子高齢という、問題だけが浮き彫りにされた言葉に響きます。

 核家族が定着し、作家の黒井千次さんは、平成16年10月28日の読売新聞のコラムに、『老人は孫の目を失い、夫は背後からの親の目を失う。妻は姑という監視者をなくした。
 「自由だけど、老いも家族の形もあいまいになり、不安定になった。高齢社会とは老人なき社会ではないか」』と、語っていました。
何か、老いにあるすべてが喪失して、老齢という、加齢のいまいましさだけが表現されている言葉を、我々は使用しているような気がいたします。
この何年間か、生活福祉にかかわる、ホームレスの問題や低所得の問題を、少しながら社会勉強をしました。ホームレスという言葉には、絶望的な響きがあることを思います。
 あらためて、家庭という意味の欠落を意識いたします。孫と子ども、老齢の老いを育むことで、子どもが親を育む。兄弟姉妹が、兄弟姉妹を育み、友達や地域が、人間を育む。

 そんな関係の中の、家庭から言えば、このホームレスになった人も、おじさんやおばさん、父や母、兄や弟、姉や妹、従兄弟や姪や甥という関係を現に有しているはずです。何某かの問題さえなければ、それは、家族や家庭、親族の間に、れっきとした居場所をもっている人です。居場所さえあれば、人間としての、成熟という老いの表現する場所があるはずです。
 生活保護となった瞬間、世間は視線を投げかけます。母子家庭も、特殊な思いをもちます。お互いが、この視線や思いをもつことで、地域や家族が切り離さないよう、人と人との輪の中に、成熟する過程を奪うことだけは止めたいと思います。
 私たち、現実には、人と接する限りは、名前を持ち、誰々さんの立場で接します。
 この名前を大切にすることは、あくまで、ホームレスも、生活保護も、母子家庭も、徹底して、誰々さんとの関係でありたいと思うのです。
このホームレスや生活が破壊された人たちの入所する塩崎荘の食堂にあった言葉が、今も、忘れられません。

わたしたちは、花を咲かそう人にありたい。
みんなで 笑おうね 楽しいものね
一人 ひとり もっている花を、大きく咲かせたい。

 この施設のなかにいて、大きな花を咲かそうとする人でありたいと。今の、自分を語ります。
 みずから、笑おうね、楽しもうねと、くじけないようにと、どんな時にも前向きに強さを出そうと、今の、心境を語りながらも、みんなでと、人と人との関係を大切にすることが歌われます。これは、みんなでと言う関係を喪失したことゆえなのか、いまの自分たちの自覚なのか、それゆえに今のみんなでと、多くの意味を含むのだろうと思います。
 今の自分の、それは、じぶん自身の可能性を、人間の尊厳を、成熟する人として、大きく咲かせたいと記していたと、この塩崎荘にかかげてあったから、良い言葉に響くのではなく、私たち一人一人の心に、刻んでも良いのではないでしょうか。
昨年の暮れに、お札を送ったときの添え書きの文章にも引かれます。

 『その老いについての禅の言葉です。<年老いて心狐(しんこ)なり>となって、寂しく、心細くを徹して行くか、あるいは、<年老いて精と成り、魔と成る>となって、怪となり、魔物となって、場数を踏んだしたたかさや、一筋縄では行かない剛の者として、高らかに行くかです。一つの見方として、人をたぶらかし、よそおうとする節目と見るのもよいことかもしれません。』心狐も精も魔も、老いの成熟さです。家族の温もりの中にいる成熟さを見据えて、歩いてきた道の厳しさを、自らに表して歩む老いとみたいのです。


……ロス

……ロス N・Iさんの為に

 20年30年……と時を重ねて連れ添った夫婦に、いずれはどちらか一方の死が訪れる。その訪れは、突然の場合もあり、一つとして同じものはない。
たとえ残された夫婦の一人が、良き理解者の恵まれた家族の相談相手を持っていた場合でも、一人になってしまったと言う孤独感と愛する者を失ってしまった喪失感を、癒すには数年かかる場合もあり、一生持ちつづける場合もあります。

私の母も、そう言えば父が亡くなって10年たとうとした時、「お父さんが亡くなって困るのは、真に相談できる人がいないことなの」と、寂しそうに言った言葉を思い出す。息子である私を目の前に、そう言った言葉の奥の、寂しさを癒すことが出来なかった我が身の情けなさを反省したものだった。


 とある日曜日、49日の納骨の法事があった。突然先だった定年後すぐの夫の遺骨を抱えた婦人は、物静かに落ち着いて、着実冷静に物事を見据える目を持っていた。この年代の老いは、そんな夫婦の人生の黄昏を、やがては一人づつ別れ離れになる時が訪れるであろうとことの花道でもある。夫が退職し、新しいカメラを買い、パソコンを購入して、アドレスを手にしての突然の旅立ち、老いた母を残しての旅立ちでもあったのです。夫婦には、一男一女の優しく心強い恵まれたお子さんがいたのだが、婦人の心には、どうしようもない悲しみと、一人になってしまったんだという不安感が現れていた。

私との会話の途中に、「相談することができる人がいないのです」と言う言葉があった。私は、夫婦の対話の、何でもない婦人の言葉を吸収するご主人の、いなくなってみて、かけがえのない存在だったことの重みを、その婦人に見ました。誰も代わることのできない、誰も聴くことができない、つらいことがらです。
ふと私の母の言葉を思い出した。娘さんと息子さんのいる席での婦人の言葉に、数年前私が落胆した通りに、この娘・息子さんも思っただろうか。いくら母をいたわる努力をしても、けっして父の変わりが出来ないことを、いずれ知るだろう。

悲嘆と失望が、実り多くそれぞれの人を潤すことの結実の難しさをつくづく思います。
それでも、潤いのある人格を形成する為には、こう願う以外に方法はないではないかと自問自答します。そして、今は、実り多い潤いの果実を早く熟すことを願って、先に旅立っていった夫からの試練と捕らえて欲しいのです。
人は一人で生まれ、一人で去って行きます。その過程において、歩んできた道の違う男女が、幸せな家庭を築くことを誓って二人になります。やがて、人格を持つ一人を生み育むのです。何千年と人は同じことを繰り返しながら、ロミオとジュリエットにならない限り、最後の別れは一人旅立ちです。とても不思議に思えてしまいます。

榎本クリニック院長・榎本稔先生が日経新聞の夕刊に、書いていた文章です。
『パチンコ依存症者は一般に、物静かで無口で目立たない。自己主張は乏しく、消極的な性格である。友人は少なく、他人と付き合うことに気をつかい、ささいなことで傷ついたり、気配りで自分が疲れてしまい、程よい人間関係がつくれない傾向がある。反面、負けず嫌いで、強い自尊心をもち、他人からの干渉を嫌う。心は強い空虚感に被われ、イライラし、不安を感じ、葛藤している』

極端なたとえだが、依存症という言葉が、特別に引っかかった。別に、婦人がパチンコ依存症になっているというのではない。何十年連れ添った夫婦の関係は、どの夫婦でもお互いに依存し、分担して家庭が成り立つ以上、突然の死によって、一人に放り出された時のあり様は、戸惑うばかりである。夫婦関係は、良い意味で依存症によって成り立っている所があるのではなかろうか。パチンコ台を男と見、女と見、あるいは混ざってみた場合、何処かに共通点があるような気もする。突然に世の中にパチンコ屋が無くなってしまったとしたら、その喪失感はどのようなものだろうか。

人は一人では生きて行けないくせに、一人で生まれます。内面的にも、多重人格は激しい葛藤を産み、耐えられないことでしょう。古来から宗教は、全人格的な統一を掲げます。なぜならば、そこに絶対的な安らぎがあると思うからでしょう。
人はさまざまな恩恵を受けて生きることしかできないのに、ことあるたびに独立を目指します。独立した次に、さらなる目の前に立ちはだかる壁に闘志を燃やし、あきらめ打ちのめされ、孤立します。孤立した瞬間、さまざまな恩恵は、嫉妬や悪意に変化します。

人として最後までなくならないものに、自尊心があります。よくいう人格とは、自尊心そのものではないかと思うことがあります。心はどんなにも大切なものであり、どんなにも人を惑わす悪童でもあります。

禅は、安らぎを求めません。禅は一人を目指しません。禅はかといって二人をも求めません。禅は心を求めません。禅はどう対処したかの行為、その一点に就きます。その行為の中に、求めて得られない安らぎがあるといえるからです。


後姿

後姿

 私の知人からこんな質問を受けた。それは昨年亡くなった江東区内の大きな会社の創業者のお墓のことだった。知人は長らくその方の秘書的な仕事をしていた人でした。

 「和尚!納骨も終わってしばらくしてのことです。墓地には名刺受が置いてありまして、その中にたくさんの名刺が置かれていたそうなんです。遺族がお参りした時、持って帰るのですが、お礼も言えないので、何かお礼の言葉をその側に立てておこうかと言うのです。どんなものでしょうか?」

私は、即座に、「必要ありません。もしお礼がしたかったら、その名刺の方にお礼状でも差し出したらいかがですか。故人を偲んで墓参に来るのに、名詞を遺族に残そうと考えていたら、いかがなものでしょうか?」と話しました。
彼は、「私も、墓参に行くのに名刺は置いて行きません。よかった、同じ意見です」と、同調してくださいました。

家族が思えば、お礼の言葉を立てたり、刻んだりすることに、抵抗はないのですが、名刺を置いて行く人物を訊ねたら、何やらあまり思わしくない人と答えられたので、そう答えたのでした。

昨年のNHK紅白歌合戦を、何年かぶりに家族と一緒に見たときのことです。歌手の武田哲也さんが、歌の中で、「こりゃ哲也、他人様に指差してはいかんよ!指差すってことは、残りの三本指は自分を指しちょるってことを、忘れたらいかん!」と言っていました言葉を何故か思い出しました。
他人を誹謗し非難することは、自分を卑しめることになることと、自分を売り込むことも、自分を卑しめることになると、同列のことと思えたからです。
しかしながら、こと仕事となると別なことです。セールスや仕事上の付き合いは、自分の熱意を売りこみ認めてもらわなければ成り立ちません。信頼してもらわなければ仕事になりません。

私が望み願うことは、上野宋雲院の故山本禅登師のお話です。
『人間には前からお辞儀される人と、後ろからお辞儀される人の二通りある。前からお辞儀される人は、金と力のある人だ。人間は金と力に弱い。だから金と力のある人の前に出ると、その金と力のあやかりたいと思って、お辞儀をする。言いかえると、その人にお辞儀をするのではなくて、金と力にお辞儀するのだ。ところが、後ろからお辞儀される人は、それと違う。
その人は誰にも親しまれ、尊敬される人なのだ。だから、その人の前にでると、親しい仲だからお辞儀はしない。後姿に、心から、ああ立派な人だなあと、お辞儀するのだ。……金と力はあったほうがいい。しかし、それよりも、後ろからお辞儀されるような人になってくれた方がわしは嬉しい』と、後藤楢根氏の言葉を記して、法光(昭和44年1月号)誌に、「新しい年に当たって考えてみよう」と書いていました。

個人の社会と接する取り組みの姿勢の是非を問うことはできませんが、私など、お金も力もないし、かといって、後ろからお辞儀される人でもないし、せめて、考え方、物の見方の私なりの一面観を伝えるということぐらいしか出来ないが、禅登師も考えてみようと言ったことに、禅宗僧侶の意味を推し量っている今日この頃です。


寿陵

寿陵

生前に墓地を取得することは、現代人にとって、必要なことであると思う人が増えている。その理由として、終の棲家としてと考えている人が大半である。しかしながら、その終の棲家も、家族の延長である『……家之墓』、女性だけの墓、何らかの特定の仲間を募っての墓、夫婦墓、寺院が経営する合霊塔形式墓等と多種多様になってきた。いずれにしても、生前に確保することから、寿陵といえるだろう。

さてその寿陵のことだが、何か言葉からすれば、お目出度いことのような気がする。はたして、そうだろうか。
 禅僧の墓石は、昔から寿塔といった。なぜ寿なのか不思議に思うのだが、それより前、中国の古い制度に寿蔵という制度があったらしい。蔵と言うからには、暗く穴の中のような場所であるらしい。
韓国で先ごろ元大統領が、大統領の罪を、それ以上に追求し責めて獄中に縛ることをせず、禅寺に隠遁することで社会的には許されると言う、実に文化的に成熟した社会ならではの事件があった。
日本ではそんなに話題に上がらなかったが、韓国国民の持つ共有された伝統は、現代に受け継がれて、文化を形成しているのだなと、羨ましく思ったことがあった。隠遁は、自らが自らを裁くことでも有り、それを受け入れて良しとする市民も、そのことを自らの中に持っていなければ成り立たないからだ。

中国的東洋世界では新しい支配者に交代した場合、その支配に従うことを欲しない人達が数多くいた。新しい支配者も謀反、反逆さえしなければ隠遁生活を許容する風習があり、姿を隠す場所を、寿蔵と言ったらしい。穴蔵での生活の起源を考えると、あまり立派な穴蔵は意にそぐわないものがあるが、チョット前まで、ある意味では我々日本の現代人にも通じることだったはずだ。

『塔』についていえば、塔は天を指し、石や土を積み上げる。昔も今も変わりはないように思えるが、内実は同だろうか。塔を積み上げると言う行為そのものの持つ意味はなくなっているかもしれない。積み上げても崩れる塔は、海辺の砂遊びや、それこそ賽の河原の石積みであり、我々の現実生活の年輪であり、過去そのものと言っていいはずである。合理的や便利さ快適性等、たくさんの人が追求してきた中に、積み上げて行くと言う我々の行為がおろそかにされたような気がする。肝心な場所は地下の穴蔵であると言うことは言うまでもない。人が葬られる場所は、塔の下なのだ。そこでこそ、人が眠るに、につかわしい。

江戸時代の熊さん八さんの庶民は、寿陵を建てようにも、その余裕はなかったのではないだろうか。その意味では、現代人は大方、墓を持つ文明の暮らしをしていることになる。

私は、いつも思うのだが、江戸時代の熊さん、八さんのお墓は何処に残っているのだろうか。寺の古い過去帖は関東大震災で燃えてしまっているので解らないのだが、江戸時代前の熊さん八さん、もっと前の熊さん八さんのお墓なんて、どこにも残っていやしないように思える。どう考えてみても、我々が日ごろ踏みしめている大地こそ、彼等が埋まっている穴蔵なのだと、何か確信さえするのだ。

年をとって、足が弱くなり車椅子生活になたっとしても、良識有る施設では、足置きのペダルは上げて、できるだけ足の裏を地面につけることによって、老化の予防と回復を助ける。大地は私達をあらゆる意味で刺激する。その大地は、先人達が眠る大地だからだ。私達が生きる恩恵は、大地から多く受ける。



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