目次
輝いている時
夢中(ゆめのなか)
芝浜
江戸っ子
亀住町(平成13年7月1日)
モンセ・ワトキンス~夢のゆくえ~(平成14年1月3日)
新牌開眼
英霊(平成17年5月23日)
目覚め
よわい「齢」
また始めたらよい
三大聖樹(平成19年4月17日)
滅度(平成19年9月18日)
安住の地(平成20年11月15日)
心眼(平成22年3月1日)
とかくこの世は
とかくこの世は
祈り(平成17年11月29日)
品位(平成18年1月20日)
ニャンニーシンズ(平成18年3月1日)
鍵(平成18年4月25日)
チベット(平成20年5月1日)
SYOHOU
諸法
四十四の問い~ミヒャエル・エンデ
先ゆく輩
さき行く輩
祖師年譜
ダルマ
慧可
五洩霊黙和尚
石鞏慧蔵禅師
大珠慧海禅師
西川の黄三郎
馬祖道一禅師(馬大師)
五百生 百丈和尚
大梅山法常(752-839)
麻谷山宝徹禅師(平成12年1月27日)
鎮州普化(ふけ)和尚
寒山・拾得
虹の彼方に
ヘイヴン・ペックの場合―続貧しいけれど、豊かだった―
生前葬
平和を我らにーGIVE PEACE A CHANCE(平成13年10月31日)
ソクラテスとヤージャニダッタ
蓮(平成14年6月2日)
心-KOKORO(平成14年6月25日)
独り暮らし(平成15年4月12日)
老いが、咲いていた!(平成16年7月5日)
深濱-fukahama
死に顔
松山鏡(ソクラレストとヤージャニダッタの続き)
真ん中(平成20年4月1日)
百万回いきたネコ(平成21年1月1日)
夜来る鳥(平成21年1月1日)
だいじょうぶ、だいじょうぶ(平成21年2月1日)
無常への帰依
無常への帰依
希望(平成12年1月2日)
葬式坊主
泥棒
赤とんぼ
老い
……ロス
後姿
寿陵
ついで参り
目標
六道を行く
もの言わぬ羅漢達…揀択をこえて…
宮本武蔵
五合庵断章(平成10年10月17日)
K子さん!(平成12年7月19日)
今は昔
十一面観世音菩薩
尽七日忌(平成19年5月1日)
OSYOU
OSYOU
この手のひらに―禅僧の死―(平成10年11月18日)
戒(平成10年7月25日)
幽霊
みんな仏教徒(平成10年5月27日)
最後の晩餐(平成10年5月23日)
禅問答(平成10年5月31日)
分銅
天国は汝ら自身に宿る(平成10年11月24日)
宗派
穢れ(平成12年8月30日)
お彼岸
仏心
仏心
ご祈祷
施餓鬼会にて(平成17年5月28日)
永遠の命
輪廻する葦(平成10年5月27日)
連鎖する命(平成10年6月2日)
涅槃(平成10年8月12日)
鏡(平成10年7月25日加筆)
流星
TAO(平成11年1月3日)
四大
挨拶
冥福
盂蘭盆
祈り(平成14年7月4日)
仏事歳時記
再び 最後の晩餐
この手のひらにII(平成18年11月18日)
死んで生きる智慧(平成19年3月27日)
五百生(平成19年11月20日)
破地獄偈(平成20年5月24日)
この指止まれ
この指止まれ
家族と家庭(平成11年1月5日)
導師(平成11年2月26日)
家から個人へ、そして家族・友達へI
家から個人へ、そして家族・友達へII
脳死そして臓器移植(平成11年3月2日)
独り決めの生き方
僧堂I
僧堂II
僧堂III
恥じ
僧堂IV
返事
父殺し・母殺し・友だち殺し・子殺し(平成20年1月1日)
その後
その後
ほとけさま(平成17年5月1日)
仏が仏に合掌する
戒名(平成12年3月14日)
無用の用(平成12年2月21日)
世話
大きく育て!(平成11年1月18日)
しもべ(平成10年11月7日)
電話(平成10年8月22日)
意思
寡黙
妄想(平成10年8月2日)
川(平成10年8月22日)
風如(風のように)(平成10年6月18日)
追悼(平成10年5月27日)
受容(平成10年6月18日)
蒸発
臨終(平成10年6月8日)
外道
障子(平成13年3月10日)
日月(にちげつ)
年寄りの出番より
人生とは、闇を照らす一瞬の蛍の光
時の旅人
時計(平成12年1月3日)
星(平成11年10月15日)
溝(平成11年8月2日)
過去心…念の起こる処(平成11年6月19日)
与える時間(平成11年5月24日)
桜(平成12年3月2日)
無常(平成11年4月16日)
川(平成10年9月17日)
有時(時の構造)(平成12年2月5日)
時の旅人(平成12年2月1日)
揺れる木々の葉
この人生の速さはなんだ(平成14年12月26日)
法句経より-時の旅人(平成15年2月4日)
寂然不動 如春在花(寂然不動、春の花に在るが如し) (平成16年9月19日)
ZENGO
自立
橋は流れて(平成10年9月18日)
無事
過去(平成10年5月23日)
たまごっち(平成10年5月23日)
一衆觸礼(いっしゅうそくれい)
六道を輪廻する
二人三脚
生老病死
筋肉番付
ポケモン
俺は、親馬鹿か!
塵も積もれば山となる
生と死と永遠
最終章
一章
二章
三章
四章~(未完)
時間旅行
時間旅行
命の歌-母の短歌
礎-いしずえ-
離魂(平成19年8月25日)
海辺橋
海辺橋
ふるさと(平成18年3月4日)
千の風(平成18年9月16日)
人の道(平成18年9月18日)
あなたは、いつから、一年が始まりますか?(平成20年8月1日)
前住職 二十三回忌にて(平成20年9月1日)
平成21年お施餓鬼会を振り返って(平成21年6月1日)
奥付
奥付

閉じる


<<最初から読む

55 / 190ページ

無常への帰依

世の中自体が無常であることに異議がある人は少ないと思います。
無常へのこだわりを、いかに持つことができるかは大きな問題だと思うのです。
受け入れた無常を、寂しさ儚さと見るか、喜び微笑ましいことと見るかで、自分自身の立場が変化していることがわかれば、無常との付き合い方が わかるのでしょう。

希望(平成12年1月2日)
葬式坊主
泥棒
赤とんぼ
老い
……ロス
後姿
寿陵
ついで参り
目標
六道を行く
もの言わぬ羅漢達…揀択をこえて…
宮本武蔵
五合庵断章
K子さん!
今は昔
十一面観世音菩薩
尽七日忌(平成19年5月1日)

  八王子の広園寺は、臨済宗は南禅寺派の修行道場でもあります。その老師は丹波慈祥老師と言い、法は三浦一舟老師を継承していますが、京都南禅寺専門道場に、長年にわたって修行した方でもあります。
 その得度の寺は、丹波の高源寺です。妙心寺派に属し、中峰派の(玄住派)の本山です。中峰禅師という方は、中峰明本といい、臨済宗楊岐派(ようきは)の禅僧であり、高峰禅師にその法を継ぎました。多くの皇帝が、賜号を贈った、西暦1263年~1323年、中国は、杭州銭塘の人です。

 その中峰国師の玄住禅を丹羽老師は、『中峰広録』より、易しく約して下さいました。
 「私達は幻に住し、幻が生じ、幻が死す、幻が見、幻が聞くのであります」と。
 「このことに気づいた時から、私の今までの生き方が一変したように思います。言い換えれば、無字に住し、無字が生じ、無字が死す、無字が見、無字が聞き、無字が生きるのであります」と、南禅寺専門道場の平成13年10月1日号会報に、書かれていました。
 中峰和尚座右の銘に、「道心堅固にして、すべからく見性を要すべし」とありますが、この見性は、私という本性に気づくことであり、それを、中峰国師は『幻』と観たと表現しています。

 今、私達は個性とかアイディンテティーいう言葉を多用します。その個性をも、禅は『幻』と言うとしたら、禅は個性を否定するともいえます。その個性は永続的なものではなく、変わりやすいもので、対象としてとらえずに、もっと自由にと考えているのです。
 人が誕生して、一人前と言えるようになるには、また、大人と意識されるためには、子供から大人、あるいは一人前としての転換がなければ、なりません。その社会的な節目が、元服であり、成人式です。人にとって、社会通念上の何かしらの儀式は、通過儀礼ですが、もう元に戻れないという、過去への決別の儀式ですが、もっとも、最近では、成人になる若者の自覚の欠如が成人式事態の無意味さを表していますから、すべての決まり事の基盤が揺らぎ、心が揺らいでいるようにも見えます。これも、個を大切にすることなのでしょうか。

 その通過儀礼が、意味を失いかけているとき、『一人前』は、その時その時、年齢で、知識で、体力で、その環境でいう、私の好きな言葉でもあります。赤ちゃんは赤ちゃんの一人前、一年生は一年生で一人前、初心者は初心者で、一人前という意味で使うのが好きです。
私達には、当たり前と思っていることが、実は全く当たり前でなかったり、何とも思わないことが、何も気が付かないけれど、よく考えてみればとても不思議なことが身の回りに結構あるものです。

 赤ちゃんは、お母さんのお腹の中に10ヶ月も居ます。そして、世の中に生まれてきます。赤ちゃんが生まれとき、あの赤ちゃんの姿を見たとき、他の動物と何と違った状態で、私達は生まれてくることかと考えさせられます。目も見えなければ、自分で食べることも出来ないし、歩くことも、走ることも、座ることも、おしっこやうんちの片づけも出来ないではないですか。話すことも、しゃべることも、着飾ることも、初めは親も知らない、何も知らない。出来ることと言ったら、食べさせて貰うこと、寝かせて貰うこと、身体を綺麗にして貰うこと、温かくしてもらったり、汗を拭いて貰ったり、話しかけて貰ったり、動くものを見せて貰ったりと、本当に自分ではなにも出来ないのです。それらに反応することはあるものの、そこで、人間とは、教えられなければ何も出来ない動物なのだと、気が付きます。

 名前を何回も呼ばれて、繰り返されることによって、自分の名前を知り、他人と区別しなければならないことを知ることになります。そして、他を多く知ることによって、自分との違いをより鮮明に知ることができ、自我が形成すると言ったらよいのでしょう。それでいて、愛情を注がれる存在として、社会が認知して、社会が待望して生まれてくる。その何処に、特定された個性と言われるものがあるのだろうかと思います。
 色が白い、手足が長い、指が短い、二重の瞼だと体質的な特徴は数えられるものの、意志を持つ年頃になったとき多用する個性は、環境や、赤ちゃんを取り巻く人間の資質によって、発芽し育てられたものであって、生まれたときより持っている個性などと言うものはあり得ないと思えるのです。外側の世界から接触や誘導させられたり、刺激を受けて芽生える、花咲くものと言ったら良いのではないでしょうか。これが個性の芽とでも言えばよいのでしょう。

 植物を育てると同じに、どう育てるかによって、いかようにも変化するといえます。人は自分勝手には育たないものです。自分勝手に育ててしまうから、その勝手を個性と勝手違いするのでしょう。
 大切に育てられた個性の芽は、やがて、発芽いたしますが、それは育てられている環境と環境から注がれる情報を選択しながら善く成長し変わって行きます。それを、生き方と言い、私は、生き方を同じとする人はいないことが、そのことを個性と考えることに意味があると思えるのです。勝手違いの個性も、生き方を模索し求める個性も、同じ個性といえますが、見える人から見ると違うのではないでしょうか。
 個性を発揮して、生きることそのことが個性であるのですが、発揮するためには、個性を育む善い環境が常時必要なことです。その上で、人は、すべて魅力に溢れてといえるし、生きることそのことが、無理やり作るのではなく、個性を伸ばすことになると思います。
 しかも、その個性を『幻』と理解することは、大切にして、必要なことだとおもいます。ですが、その『幻』が実体として在るものに見えてきたとき、人は狂い、逸れるのも事実です。飽食の時代は、その個性を、大きく育てた時代とも言えないでしょうか。その結果、バブルとして弾けてしまった個性。『幻』をも幻として見ることが大事なのでしょう。

 『幻』と見ることは、造られた個性を否定することなのですが、それは、今までの自分を常時否定することが、より新しい個性を発揮することになることであり、それを発見したのが仏教です。今の自分を否定することによって、生まれ変わって生きることを、仏道と言うのだと思います。
見えているのも幻であり、見えないものも幻であり、その見ている者も幻とする者の、日本語の不可解な言葉使いがあります。
 幻とは、「無いのでは無い」であり、これは、有ることの強調表現なのか、あるいは否定の強調表現の用語は、自分の未来の行為を、否定の否定で表現することで、現実の自分を把握し、表現している方法なのだと気がつきます。自分の中身が現実にはみ出している姿と見ると、そこにも生き方が現れます。

 「自分で言うのも、恥ずかしいのですがとか、高い席から恐縮ですがとか、若輩者ですがとか」と、何気なしに使う言葉があります。この言葉も、前提として大勢の人がいて、突出して自己表現することを回避する言葉です。これも自己否定することが、自己表現する手段になっているという、今の自分を否定して、新しい自分を全面に出すという、禊ぎに似た行為でもあります。考えようによっては、自分を卑下し、同一化しなければ、社会の一員になれないようなそんな社会の未成熟さを表している言葉とも言えますが、善く考えてみれば、「偉いとか、いい男とか、いい女とかあるけれども、みんな同じなのよ!平等なのよ!それでいて、バラバラの個性じゃないの!」と、美しい表現なのではないかと思うのです。


希望(平成12年1月2日)

希望(平成12年1月2日)

今まで、この寺の住職をしてきて、また地域で役を務めるようになってから、随分といくつかの家庭が崩壊するところを見てきました。もちろんそれに比して喜ぶべきことは数多くあることは確かなのですが、悲しいことは尾を引きます。

平成11年の暮れの一日のことでした。寺の側のバス停にたって30分に一本のバスが来て、妻は東陽町までバスに乗りました。妻は後ろの席の窓がわに腰掛て外を見ていたそうです。二つ目のバス停で、野球帽を目深にかぶり、障害者用のアルミの杖に、中学生の男の子と一緒に乗り込んだ男性は、久しぶりに見る、彼と息子のGちゃんでした。妻は声はかけられなかったものの、元気そうだったと夕刻寺に戻って、私に報告してくれました。彼の、娘のHちゃんとGちゃんが、彼を見下しているとの噂を聞いた記憶が、Gちゃんが付き添っての姿は、胸を撫で下ろす内容であり、無事に生活していることを思うことが、この文章を書かせたのです。そして、彼の趣味であった篆刻の印材は、この寺の本堂の地下室に、埃をかぶって保管してあるのです。彼はもう要らないから、処分してくれと言ったものの、そう簡単に処分は出来ない。私にとっては、今でも悲惨だなと思っている事件なのです。

 彼は一般の家庭より禅僧になりたいと、修行をしたいと、その寺の住職であり、とある本山の管長でもある禅僧の弟子入りを許された男でした。九州の久留米にあるきびしい修行道場に一年行き、その後京都の祇園にある修行道場に5~6年行ったのではないかと思います。このことを今振り返ってみて何になるのだろうかと思うのですが、この記憶は折に触れて、話題になる事も事実であり、痛ましく、かわいそうな事件であり、今でも、なんともやりきれない思いなのです。ましてや彼の姿を誰かが見たとか、様子がどうだったかと聞くと、「あっそう。元気そうだった!よかった」と、胸をなでおろすようです。

この事件は、私の記憶の中でもそろそろ風化してきている内容なのですが、はたして彼にとってはどうだろうか。もちろん過ぎ去ったことに、心を縛られていては、この先の彼こそ大事なのであり、いまさら蒸し返してみても何の意味も持たないと思う。でも人一人の事件に、家族が絡むと、波紋は大きく広がり、その事件の周囲にいた私たちへどう教訓となるかは、この事件を、時がたって検証することも大事なのではないだろうかと思ったのです。

彼は大きな格式のあるお寺の副住職であり、いつも留守の住職に代わって寺の務めを果たしていたのです。その事件がなければ。
10年前、私の上の子どもが幼稚園の年長だったときです。7月の末の東京の暑い夕刻、その寺の玄関前に、ビニールのプールに水を張り、私の子どもは、彼の子ども二人と水遊びをしました。夕方子どもが帰ってきて、幼い子供同士の遊びのことを聞き、普通の団欒を私は過ごしていました。彼や彼の奥さんも、私の寺とはすぐ近くのことでもあり、彼が私より4~5歳年下で、比較的年齢が近いのと、私もどちらかと言えば、寺で育った環境ではなかったことより、彼とは馬が合う間柄だったのです。彼は、どちらかと言うと豪快なところがあり、私とは性格が違っておりました。

この地域は、5月、6月と付き合い寺院の施餓鬼が毎週土曜日と日曜日に催され、彼とは一緒にタクシーを使ったり、歩いたり、バスだったりと出かけることが多かったのです。事件が起きた後、彼の言動に歯止めがなく、他人のいるところにもかかわらず、大柄な態度と言動は目に余るものがあったことに気が付いたのですが、今でもそれが兆候だったのかは確信が持てないのですが、多分兆候だろうと思うのです。
忙しい寺でもあり、彼が全面的に任されていたこと、師匠は本山と道場のトップに君臨する立場にして、その傘を着ていたところもあったように思えるのですが、内心は、いつ尋ねてくるかわからぬ師匠にビクビクしていたところもあったようです。そして奥さんは子どもたちを育てる環境に、苦悩していたこともあるのでしょう。

今考えてみると、その頃の彼の生活は、破滅に向かってブレーキが利かなくなっていたようなところが見え、危ない気がしました。しかし人の意見など聞く耳を持たないところがありました。私と較べて明らかに違う風は、豪快に人と付き合い、懐が深く、高らかに生きる彼を頼もしく思っていました。今思い出しても、彼と付き合いだした最初の頃、彼は謙虚に生活していたと思うのですが、どうしてああなってしまったのか残念でしかたありません。
そういえば、彼の寺はヒノキ作りの本堂を建て替えたばかりで、広島から来た宮大工の棟梁たちが1年あまり近くのアパートに泊りがけでの工事は、三度の食事の支度や、二人の子どもの世話で戦争のようだった毎日を終わってのつかの間の休息だったような気が致します。
翌日聞いたことは、その晩、彼は子どもたちのいる前で、雲膜下出血で倒れ、救急車で、葛西の森山脳外科病院に入院、前頭葉に穴をあけ、出血を吸い出したと聞きました。3ヶ月の入院と6ヵ月の墨田区の東京都リハビリ病院入院は、その後の彼を大きく変えてしまったのです。言語障害と右半身不随の身体障害で彼は一級の手帳を手に、寺に戻ってきたのでしたが、彼と家族の居場所は、もうありませんでした。

彼がいなくなってより、寺はてんてこ舞いでした。彼が倒れてすぐ、寺は施餓鬼の法要が迫っており、押入れや帳簿類の点検にごった返して、彼の惨憺たる惨状が明るみに出てきたのです。ダンボール箱に通帳やカード、お布施や下着・衣類がごちゃ混ぜになってでてきたり、本堂建築の寄付金集計がでたらめだったこと、各種の契約書が見当たらないこと、過去帖が付いていないこと、お檀家さんの住所録がでたらめだったこと、夫婦喧嘩が耐えなかったこと、今思い出してもかなりハチャメチャだったことは確かです。師匠もここまで出鱈目だったことに思いも及ばず、ただ許せないことと思うばかりのようでした。

後になって聞いたことなのですが、彼の身分では考えられない相撲部屋の贔屓になったり、植木屋さんが入って判ったことなのですが、境内のあるところから彼のペットだったはずの珍しい亀達の死体がたくさん出てきたりと、唖然とする以外は考えられない事ばかりでした。
しかし、森山脳外科病院で入院中の彼には、何も思い当たることがなかったのです。私は、その思い当たることが無いということが、彼がいかに精神的に追い詰められていたことの証であるように思えるのです。彼は重症の病態で、住職である師匠が見舞いにこないことをいぶかることばかりでした。

彼が彼の能力では限界だったことが判るにつけ、なぜ相談しなかった、誰かに手を伸ばさなかったのか、残念に思うことばかりです。この病院の入院中に、彼は師匠から一回の訪問を受けました。その訪問の目的は、印鑑を押せと強いての、絶縁状を叩きつけることだった。彼の頭の中は真っ白になり、途方にくれる彼を目にすると、痛ましいばかりで、これからの道のりは決して楽ではなく、誰が彼を支えるのだろうかと、彼の家族はどうなってしまうのか、子どもたちはどう育つのだろうかと考えると、暗い気持ちになりました。
寺の和尚が若い身体障害者であれば、他の身体障害者にとっても希望であり、精神的負担はきっと彼のためにも、この寺や他の寺院のためにもハンディキャップはあるものの、優れた逸材を得ると思うのだが、彼の師匠は、「だめだ!」の一言で、退けてしまったのです。せめて、退職金や当座の生活費を支援していただけたらと思うのですが、かたくなに心を閉ざしている師匠を見ることが出来ませんでした。やはり、当事者でなければわからないことのようです。

彼の持ち物は処分された。倒れる半年ぐらい前に買ったカメラはその後、知り合いの寺に貰われたが、その寺の和尚が、カメラに入っていたフィルムを現像したところ、倒れる数時間前に水浴びをしていた私の長男が写っていたからと持ってきてくれたのを思い出す。
今、振り返ってみると、労災であったのだろうと思うのですが、その後の彼は、師匠と同じに、かたくなにしこりを胸に、沈黙しています。

雲膜下から9ヶ月経って、彼は、彼を受け入れてくれるリハビリ病院や職業訓練所を転々として、彼の将来の手がかりを探すかのようです。彼の様態は、まだら模様に調子が良くありません。特に雨や曇りは、彼を部屋に釘付けにして、疾患の症状が過ぎ去るまで、彼を動かせません。子ども達は、部屋でごろごろしている父を、邪魔に、蔑視を持って見るようになると、しばらくして彼から聞きました。さらに耐えなければならないことが、これからも彼の胸中を騒がせると思うと、悲惨に思うのです。一級の障害者の手帳は、さしあたっての生活の安定をもたらしているようですが、奥さんは勤めに出て、彼は部屋に閉じこもる日々が続いたようです。私は、賀状のみの付き合いになるのですが、左手で書く毛筆の筆跡は、現在、10年前と同じくらい達筆になっています。しかし、手紙の住所は彼の実家である所からです。

今、多分47~8歳になると思うのだが、寺を出た後、彼は寺を少し離れたところに、マンションを借り、子どもたちが大きくなるまで、地方都市の脆弱な福祉を避けて、江東区の補助を受けながら、生活している。
彼にとって、ぬぐい切れない過去とはと考えてみると、なんともやりきれない。せめて子どもたちがすくすくと育ってくれることを願う。


葬式坊主

葬式坊主 藤木さんへ

 平成11年5月31日夜7時半過ぎ 電話が鳴った。5月の初めに私の寺で葬儀を準備してくれた葬儀社の人からだった。葬儀が終わって片づけが全部済んで挨拶の時だった、

「これを縁に、場合によっては葬儀の導師を引き受けてくれますでしょうか」と、言われた。初めての葬儀社の人だったが、葬儀社の場所が遠いので、「何かありましたら」と、返事をした。その彼からの電話だ。
「宗派は何処でも良いのです。墓地がないので、もし良かったら譲ってあげてください。戒名も多分頼まれると思いますので、付けてあげてください。亡くなられたのは、5月31日です。性はM、名はYで、大正11年1月生まれだから、77歳です。自宅は足立区Mで、電話は……です。6月2日、6時から通夜、3日は10時から告別式で、場所はM葬祭場です。いかがでしょうか。是非お引き受け下さい」

私は、最初ためらいました。何故なら、先ず場所が足立区のM葬祭場で、自宅が足立区のMでは、お墓のお参りが遠くはないか?事情によって墓地が遠くなってしまうのはやむを得ないこととしても、新規に墓地を取得するのなら、自宅に近い所が良いに決まっている。そうとなれば、近くのお寺の住職に頼むのが一番であるに超したことはないと、思うからです。

その旨を、電話で話すと、是非にという。あのような葬儀を初めて知った、あの時の葬儀の感動が忘れられず、あのような葬儀を自分でも手掛けてみたいというのだ。
葬儀社の人から、そう言われて嬉しく思い、引き受けないわけにはいかないと思ったのです。
「お引き受け致しましょう。それでは、どんな方ですかわからないと、葬儀の組み立てができませんので、電話してみてもかまいませんか」
「有難うございます。お願い致します。戒名もお願い致します。また誠に恐縮ですが、お布施は○○円、お車代は○円でよろしいでしょうか」
「戒名に付いては、お引き受けできません。俗名で葬儀を致しましょう。先方が戒名についてどんな考えを持っているか知りませんが、もし私が戒名を付けたとして、何処か寺院墓地を取得した場合、トラブルが発生致します。私も陽岳寺という名前をだすことから、起こる可能性があるトラブルは避けたいものです。またお布施に付いては、喪主が決めるのが筋であり、私は出されたものを、そのまま受け取るだけです」
こうしたやり取りがあって、葬儀はM家に電話をすることから始まることになった。

この度、何かの縁で私が葬儀を執行するはめになったこと、MYさんが亡くなったことへの同情、私とお寺の紹介、MYさんの亡くなった時の様子、生前の生い立ちと仕事のこと、家族のこと、私が知らなければならないと思うことを、亡くなった人の家族から多く聞くことによって、私と残された家族との信頼が、儀式を通してなりたつ。それは一本の電話から、いつも始まることなのです。
6月1日午後3時すぎ、私は葬儀社から教わったナンバーに電話をした。
私。「もしもし。私、葬儀社からこの度依頼されたお寺ですけれど、今よろしいですか。ちょっとお話がしたいのですが」
電話の向うで、チャイムが聞こえた。誰か来客か?
私。「大丈夫ですか。かけ直しましょうか」
M家の奥さん。「ちょっとお待ち下さい」
M家の奥さん。「もしもし、大丈夫ですから。どう言うことですか」
私。「セレモニーさんからこの度、葬儀を依頼されました寺の住職ですけれど」
M家の奥さん。「ああっ!お寺さんですか。今忙しいので、後にしてください」
受話器を切られた。
私は、すぐに、この話はお断りしようと思い、葬儀社の名刺を紛失していたので、私と葬儀社の共通の友人に電話をし、私の勝手ではあるが、この度の件はなかったことにしてくださいと伝言を頼んだのです。
その友人は快く、いきさつを聞いて了解してくれたのですが、私にとっては何とも後味が悪く、すぐに、この文章を書き、何が問題なのか考えることにいたしました。

葬儀社にとって、葬儀は常に緊急なものです。このような場合に備えて、知り合いの各宗派の僧侶を用意していなければ、成り立たないものです。多分、この葬儀社も専属のお願いする僧侶がいたはずです。その人達に頼まず、わざわざ私に依頼されたことを思うと、私に頼んだことによって番狂わせで、憤慨したかもしれません。そしてそのことに、私は弁解するつもりはありませんし、すまない思いで一杯です。
また、知るか知らないか 解りませんが、M家に対してもすまない思いです。

M家にとって、葬儀の坊さんってそんなものに見られているのかという思いが強く、ここのところが自分の修行の足らなさなのか、また、知らずに強く自負の念が芽生えていることにも、僧侶として揺れる部分を見ます。おそらく、通夜の日に挨拶して、そのまま通夜の読経をして、翌日、葬儀の引導を渡せば、私の依頼された勤めは終わるのでしょう。
M家にしても、葬儀の連絡に終われ、葬儀の意味を改めて考えるということをせずに、人が亡くなった、葬儀をしなければ、戒名を付けなければと準備に忙しく、足元を見つめることさえ不可能に近いことはよくわかるのですが、私は、自分自身を、その中に立たせるのをためらうものがありました。私を本当に必要とする人は、葬儀社ではなく、葬家の人であるはずが、葬家の人は、僧侶ならば誰でも良いのだと見えたからです。戒名・葬儀ってそんなものなのか、もしそうだとしたら、亡くなった人を汚すものだし、いっそのこと葬儀をしなければ良いのにと思えるのです。

私は、和尚、僧侶を天職として自分に位置付けています。それは、私の生き方であり、おのれ自身を全うし続けることであり、裏表ない人格を、和尚ないし僧侶というのだと思うからです。

私が考える葬儀は、死者をだした家族、喪主との喪失感の共有をすることから葬儀は始まることでなければならないと確信いたします。その場だけの葬儀は、やはり容赦してもらいたいのです。共に考え、共に残された人達の胸の中に何時までも残る葬儀であり、このことを機会に自分達の足元を見つめなおし、否定し、肯定して限りある人生を歩んで行きたいと思うからです。

大多数の寺院が、現実には、葬儀や墓地の収入から成り立っていることを思えば、私の寺も同じなのですが、これではいけないと思いつつ、ただ時間が経過するのみで、出口が見えないのがとても歯がゆく感じられます。
寺や僧侶は、ただ問われるのみにて、我々から現代を常に問うことが必要なことであると思うのですが、そのことは、我々の足元を固く踏みしめて、一人一人が自己を行ずることでもあると思うのです。
私は葬式坊主に違いないが、私の思うがままに葬式坊主である


泥棒

泥棒

  平成10年9月始めの、ある日のことだった。寺は本堂の外壁塗装工事をしていて、職人が2人、仕事をしていた。昼過ぎて2時ごろだったと思う。
それは、本当に突然の事件だった。今思い起こせば、まったくの偶然のことに違いないのだが、庫裏に一人いた私は、ふと気配を感じたのだ。気配と言っても、確かなものではなく(だから気配というのだろうが!)、本当に偶然と言うことのほうが、正しい表現のような気がするのだが、何故か、玄関に出ていったのだ。

若い二十歳ぐらいの男がタイル張りの土間に立っていて、ビックリして、間の抜けた顔をしている。
「この辺は、お寺がたくさんありますね。何軒ぐらいあるでしょうか?」
こんな尋ね言葉はない。他人にものを尋ねるのに、いきなり、ズバリと挨拶もせずに尋ねるとは?しかも他人さまの玄関の中に、突然佇んでのことである。唐突な質問を浴びせ掛けられ、私は面食らった。何の用だろうか、呼び鈴も押さずにどうして、ここまで入ってきたのだろうか。


 私の目に、彼の後ろの、寺の建物を守る韋駄天様が映る。この韋駄天様は、禅院の庫裏には欠かせないもので、建物の火事や盗難から守るべき守護神である。陽岳寺にはもともと無かったのであるが、先代の住職が、多分通販で買った、台湾製の木像で、正直言ってあまり傑作な仏像ではないのです。それでもお墓参りに来る方々は、この韋駄天様に手を合わせて、幾らかの賽銭を投ずるので、お賽銭箱には多少のお金が入っていました。墓参の方は、そこで、線香とシキビを受け取り、お墓に行くのです。

その賽銭箱が置いてある場所が、妙に殺風景な気がしたのです。在るべきものがない景色は、何かが欠けているように、何かが違うと思った。そう言えば、彼と目を合わせたとき、彼の右手は、彼の前にある紺色の布製のバッグのチャックを閉めた行為の後だった。彼の左手は、その布製のバッグをしっかり大事そうに抑えていた。

私は、彼の後ろの韋駄天様を気にしながら、賽銭箱のないことに気が付き、彼を問い詰めた。
「おい!そのバッグを開けてみろ!」
後でよく考えてみると、私も他人に、いきなりこういった言葉を吐くとは、恐れ入った。修行の道場では、天を突くような勢いで、『この大ばか者!』『コリャー!』と、修行僧は吐く。確信が、突然言葉を発せさせるのである。しかも、腹の底からである。まさか、初対面の人に『コリャー。この大馬鹿モン!』とは言えない。何故なら、ばつが悪そうに、突っ立っているからです。
私は、彼の抱えているバッグに手をかけ、無理やりバッグのチャックを開けた。後で、刑事さんから、『してはいけないことなのです』と言われたのでした。調書では彼がバッグを、私から言われて、開けたことになっていると、書いたようです。
バッグの中には、小さな賽銭箱と、白い手袋と、剃刀が他に入っていたのです。
「これは何だ!」
彼は、「ごめんなさい!勘弁してください!」と言った。
私は、咄嗟に「外に出ろ!」と、言い、彼をつかんで玄関のドア―を開け、外に連れ出した。後で考えてみたら、やはり、「外に出ろ!」はない。まるで喧嘩の常套言葉ではないか。まして、寺には私、一人だけだったので、そこまで言うことは無いのにと、反省したことでした。しかし、もし彼が、暴れ出したらと、考えてのことでもあったのです。

「勘弁してください」と言う彼は、あどけなさが残った、何故か無抵抗の彼でした。
咄嗟に、彼の名前や住所、連絡先になるものを聞いたのです。
「名前は?」。
彼は「○○△△」と答えた。
「学生?」。
「違います。」。
「ご両親の連絡先の電話番号とかは?」。
「電話はありません」。
「働いているの」。
「はい。建設会社に」
「勤め先の名前と連絡先の電話番号は」
「電話はありません」
「アノネー。君は、勝手に侵入して泥棒をしたんだよ。ご両親に話して罰を与えてもらわなければ、君のこれからの為にも良くないと思う。君が、君の素性を話すことが出来なければ、私は義務として警察に、連絡しなければならないよ!」
彼は、しぶしぶ了解したように、覚悟を決めたように、思えた。

私は、ペンキ職人の勝っチャンを呼んで、彼を捕まえてもらい、庫裏より無線電話を持ってきて、110番に電話したのでした。
しばらくすると、深川警察署の刑事さんが二人、覆面パトカーでやってきた。制服警官も、その後、送れてパトカーでやってきました。
玄関に着くと、泥棒を取り押さえ、盗まれたものは、この賽銭箱ですかと、もと紅茶の空き箱を利用した、不細工な箱を手にした。私は、その賽銭箱が世に出るとは思ってもいなかったので、やはり寺の備品は粗末なものでも、やはり間に合わせはよくないと、妙なことを思って、恥じらいでいた。(今は、私が、どこぞで景品で当てたものであるが、下の子どもが組み立てた、列記とした立派な賽銭箱が代わりに置いてある。)
その賽銭箱を確保して、刑事さんは、「捕られたものは、他にありませんか」と言った。

賽銭箱を、彼から取り戻していたので、厳密には、捕られたものは無いことになるのが、不思議な気持ちだった。正確に言うと「捕られて取り返したものは」有りませんか?が、正しい日本語だろう。 後に、賽銭箱の中身は、4千円ちょっとで、警察署の刑事課のクリーム色の床に、その賽銭箱と千円札、五百円玉、百円、五十円、10円、5円、1円硬貨とが、几帳面に、恥ずかしそうに、並べられ、記念撮影をされたのでした。
「無いようです」と言い、「刑事さん、あまり大業にしないで下さい。彼が反省してくれたらよいのですから」と、付け加えた。
刑事さんも、「承知しました」と、私の意思をくんでくれたようでした。
「先ずは、署に行って、話をうかがいたいので、恐れ入りますが、住職さんも一緒に来てくださいませんか」
家内と下の息子が、外出から帰っていて、何があったのだろうと、のぞいていた。
「泥棒だよ!」。
「なに、捕まえたの?」と、興奮した様子。
「ちょっと警察に行ってくるから」と、3時ごろだったと思うが、彼と一緒に、覆面パトカーに乗り、深川署に出かけたのでした。

警察署について、3階の刑事課に行くのに、ジロジロ見られて、「窃盗犯!確保!………」とか飛び交う中、大部屋に到着したのです。だだっ広い室内は、机はたくさんあるのだが、人間はほとんど居ませんでした。部屋の中央に、皆と向き合うような形で、この部屋で一番偉い人と思われる人が座って、こちらを見ている。彼の後ろには、なんと!神棚が有るではないか。”八幡様”だろうか?と妙なことを思いつく。そして、八幡様が祭ってあるなら、もう少し懇切丁寧に、お祭りの神輿の行列を規制してくれたらよいのにと、都合のよいように、すぐ思いつくのだから、人間って職業に関係なく、勝手なものだ。
「住職さん!こちらの部屋にどうぞ」と、これが取調室だろうか?と思案しながら、その部屋に入って、ソファーにすわった。覆面パトカーの刑事さんが、お茶を出してくれて、一人ポツネンと座っておりました。

しばらくすると、もう一人の刑事さんがあらわれ、「住職さん、告訴することに致しましたので、ご協力お願いいたします」と。書院の少し古いワープロを持ってきて、正面にすわった。
「実は、前歴が出てきましたものですから、訓戒ではいけません。逮捕して、地裁に送りたいので、調書を取らしてください」
「そうですか、逮捕ですか?前科があるのですか?わからないものですね!」
それから、私は、順を追って、いきさつを話し、刑事さんはカチカチとワープロを打ちました。
気になるのは、彼のことです。彼は7日間、警察の留置所で取調べを受け、裁判の日まで、拘置所に逗留することになるのです。私の判断が、人をこのように拘束すると思うと、正しかったのかと、もっと他に方法はなかったものかと、しばらくずっと考えておりました。このことは、調書の最後に、私の捺印を強要されましたからでもあるのです。宅急便の印鑑と違う、重みは、最後の文面に、告訴するとの内容があったからです。私は、捺印いたしました。

6時か7時ごろまで警察に居たのですが、部屋の偉そうな人や、後から帰ってきた人が、コンビニで弁当を注文するらしく、560円の何々弁当とか、やけに細かく、電話でしゃべっているのです。こちらも無償の時間を、警察のため、世のため費やしているのに、お腹が空いてきて、少しはこちらの思いをくんで、弁当ぐらい出したらよいのにと、思ったのですが、警察も、緊縮財政で大変なんだと、妙に同情し、感心したりもしたのです。あまり長く、警察に居るものではないことが、よくわかりました。

そのあと、刑事さんと、今度は白黒の、あのパトカーで、寺に帰ってまいりましたが、その後も、写真をとったりと、夜8時ぐらいまで、時を費やしました。
1日たって、彼のことが気になって、「チョコレートでも、差し入れしてこようか?」と、家内に真剣に、告げたのですが、「ちょっと!おかしいんじゃない」という家内の言葉に、忘れることに致しました。
数日たって、元紅茶の箱の賽銭箱は、警察より凱旋してまいりました。
そして、それから1ヶ月がたった頃です。彼の弁護士から電話が入りました。
「私、彼の弁護人と致しまして、ご住職にお願いの儀がありまして、参上して、お話を聞いて下さいませんでしょうか」と、丁重なる電話に、「どうぞ、いらして下さい。うかがいましょう」と、日時を約束して、彼の消息を聞き、電話を切りました。
そして数日が過ぎ、弁護士が見習の女性弁護士と一緒に訪ねてまいりました。
まず弁護士は、迷惑をかけたこと、ビックリしただろうこと、怖がらせた想いをさせたこと、彼も後悔していること等を謝罪と共に、話してくました。そして彼の身の上を、話したのです。
弁護士
「彼は、五歳の時、ご両親の離婚をきっかけにして、お父さんの仕事の関係上、一緒に住めないので、岩手県のお父さんの実家に養育を頼み、年寄り夫婦と一緒に暮らしたのです。小学生の時、お爺さんが亡くなったそうです。そこで、お父さんの兄のところに引き取られて、暮らすようになったのですが、彼は友だちもいなく、いじめられ、一人で時間を費やすようになっていたそうです。彼の知性の発達が少し、幼稚なのもこのようなせいかもしれません。しらず、本屋さんで万引きしたり、お店で、お菓子やジュース類をくすねたりと、窃盗をするようになってたそうです。何回か補導を繰り返して、少年院に繰り返し、入所したそうです。今年の3月、彼は出所いたしました。
お兄さんが、引取りを拒否いたしましたもので、やむなく、お父さんと一緒に暮らすことになります。彼は、自立を考えまして、少年院で取得した特殊車両の免許をいかそうと、住み込みの建設会社を探すのですが、受け入れてくれる会社が、なかなか見つからなかったのです。とにかく、彼は、家を出たかったのです。四月初め、彼は二十歳になりました。そして職を探しに行くと、家を出たのですが、公園やサウナ、あるいは路上に寝泊りしながら、お寺や神社の賽銭箱を狙って窃盗を繰り返してきたそうです。半年にわたって、窃盗を繰り返して、逮捕された時の所持金は、1000円弱でした。ご迷惑をおかけいたしましたが、どういう風にお感じになられましたでしょうか」と。

「ウーン。気の毒に。人格を形成する大切な時期に、多感な年頃に、辛い経験の連続だったでしょうね?明るく跳ね返すことができれば、またその辛さを共有してくれる誰かがいたら、また、違った人生を歩むのでしょうが?実の父と、そんなに小さな時に別れていたら、一つ屋根の家に、いくら親子といえども、心を打ち解けて、普通に暮らすのは容易ではなかったでしょうね?彼が、家を出たいと、思う気持ちが辛いですね。しかし、特殊車両の免許は施設で取らせてくれるのに、現場に行く時必要とする、普通車両や、大型車両の免許は取らせてくれなかったのですかね?なんか、ちぐはぐですね?彼は、未熟な社会の、可哀想な被害者でもあるのではないでしょうか?」。
弁護士
「そこで、お願いがあるのですが、10月末日に、第一回めの公判があるのですが、彼の弁護証人になっては頂けませんでしょう」。

「ちょっと待ってください。捕まえて告発したのが、私と言うことになってますので、彼を弁護したら、可笑しなことになりますよね。裁判が成り立たないですよ。それに、彼を捕まえた刑事さんの立場が可笑しくなったら、可哀想ですし」。
弁護士
「刑事さんの立場は、離れておりますので大丈夫ですし、和尚さんのお立場で、今、さっき仰られたことを、そのままお話いただければよいわけですから」。

「ウーン。わかりました。お引き受けいたしましょう」と、簡単に引き受ける私は、どうも成り行きで、変てこな方向に進むことになってしまって、『行ってみるか』で、即決即断したのです。
10月某日、私は霞ヶ関の、大きな建物の家裁・地裁とかかれてある、建物に、生まれて初めて足を踏み入れたのです。長い廊下を、部屋番号を探して、エレベーターを使って探し当て、着いてみると、そこは、あたりまえのことですが、テレビで見るのとまったく同じ風景でした。弁護士さんが待っていて、挨拶し、検察官と判事さんと書記の人が出てくると、開廷です。傍聴人が二人居ましたが、彼らは事件と何のかかわりも無い人のようでした。私は、被告人の関係者、つまり父親を探したのですが、居ませんでした。
彼が奥の扉から布の紐を身体に巻いて、警備の人に連れられて出廷してきたのです。寺に泥棒に入ってきた時と、変わりなく、多少うつむきながらも、元気そうだったので、懐かしく思いました。
唐突に、裁判は始まっているようでした。裁判官と検察官、弁護人のやり取りは、何を言っているのか、主語や述語がない会話のようで、よくわからず、裁判官の「証人は前に出来てください」の言葉に、私は、何故か、周囲を見回して、席を立ちました。

書記のような人から、一枚の紙を頂きますと、宣誓と書いて有りました。詳しくは、『真実に誓って、申し述べることを誓います』と、あるのです。
こういう言葉に出くわすと、すぐに反応して考えてしまうのです。私は禅宗の僧侶ですから、”真実”と言う言葉には、世間の人より多少、理屈っぽい。その”真実”のため、修行し、日夜造業造作してきたからです。それより『事実を、脚色なしに、私の見たままに、思い、話すことをおゆるし下さい』と言ったほうが、私にはとても言いやすい。
また、”誓う”と言う言葉も、誓う行為の自己を考えると、とても難しい言葉であり、行為です。そして、”事実”と言う言葉も同じように、難しい問題を含んでいるのですが、裁判所でそれを言ったとしたら、何もいえなくなってしまう。西田幾多郎や歴史に名を残す哲学者が全員でてきたって、話が先に進まないことなのですから。

『神に誓って』と言ったほうが、言いやすい。しかしながら、”神”に関しては、神学等何千年の歴史を持たない日本では、社会全体に神の確立が出来ていないので、やはり無理でしょう。
それでは、”仏”ではだめだろうかと思うのですが、もともと許す、受け入れるという色彩が強いので、あまり似つかわしくないかもしれない。それにしても、ただ自分の思ったことを、話にきたのに、最初から、ちょっと当惑したことでもあったのです。
私は、弁護士の方から、頼まれたとおり、彼の罪は罪かもしれないが、彼を動かしたものは、日本の未熟な社会のゆえなのでしょうと、その意味では、彼は被害者でもあるのです。私は、今日の彼にとっては大切な日だと思うのですが、彼の肉親が、この場所に立ち会って欲しかったです。この彼を見て、そして、父親も、彼に許しを乞うて欲しかったのですと、思う通りに話しました。
すると、裁判官が、机から乗り出して、弁護人に「私もそう思います。父親は今日、どうしたのですか」と、話されたのです。その時、制服の裁判官が、とても親しみのあるように、感じられました。

『へーっ、裁判所も、アットホームなものを、持っているんだ』と、思い、嬉しくなりました。
弁護士は、「今日は、仕事がかち合っていて、私も説得したのですが、だめだったのです」と、困ったような声を出しました。
突然、裁判官が私に向かって「向井さん!もし彼が出て、相談に行ったら、いろいろと相談に乗ってやってくれますか」と、こちらに顔を向けたものですから、「ええ、私にできることなら」と、答えたのです。
裁判官は、「そうですか、それでは、次回は3日後です。判決になります」と、事務的に検察官と弁護士に目配せしながら、簡単に日取りを決め、裁判は終わったのでした。
彼は、警護の人に、布の紐で繋がれ、法廷を去ってゆきました。どんな気持ちなのだろうか、知る由もないのですが、彼が姿が、可哀想で、今でも、思い出します。
その日から、一週間後ぐらいでしたか、弁護士から電話がありました。弁護士からの電話は、判決は、執行猶予2年ついての懲役3年であり、判決日、翌日には拘置所を出たことが知らされました。
驚いたのは、お賽銭4千何がしかの窃盗に、懲役3年と言う響きです。もちろん、ことはこの寺のお賽銭だけではなく、あちこちの窃盗がからむことではあるのですが、少年院から出てきて、二十歳になり、半年も流浪をして、また、社会から重い刑罰を受ける、ちょっと智慧が足りない若者の、なんとも悲しい軌跡ではないですか。

この話には余談があります。
裁判官から、相談云々と言われたことが、忘れられずに、私は近くの運送屋の社長に、もし彼が訪ねてきたら、今度は幸せになって欲しいからと、運転手の助手に雇ってもらえないかと、たずねたのです。社長は、すかさず「ああっ、いいよ。お安いもんだわ」と承知してくれました。しかしながら、よく考えてみると、もし彼が仕事中に、悪さをしたら、私にも責任がでてくるなと、その時は、こちらも覚悟をしておいたほうがよいなと思ったのです。しかし、すぐにあまり調子よく、すぐに引き受けないほうがいいなと、よく考えなければと、ぜんぜん反対のことも思ってしまうのです。

判決が出て、2週間たった頃だと思うのですが、突然、彼と父親が「本当にご迷惑をおかけいたしました。有難うございました」と挨拶に来られました。彼の顔は、はにかみながらも、落ち着く場所が見つかったみたいにホットした表情でした。
「よかったね、元気に暮らすんだよ」と、別れて、またしばらくたった、ある夜のことです。
電話が鳴りました。ペンキ屋の勝っちゃんからです。
彼が寺に、泥棒に入った日、勝っチャンは本堂の外壁に、塗料を塗っていたのでした。勝っチャンは足場板の上で、玄関に入る前の彼の、うろついているさまを上から見ていて、『お参りにしては、やにうろうろしているな』と、不審に思って仕事をしていたのでした。

「和尚!あの野郎、もう出ているのかい?俺が、仕事をして帰り道、あの野郎が、歩いているじゃないのよ。後をつけたら、うろうろしながら、自販機の釣銭が出る所に手を突っ込んでみたり、床下を覗いてみたりしてるんだよ。あまりと思ったんで、コラッ!何シテル!と、怒鳴ったら、あいつ、一目散にいっちまいやがんの。出てきてるんだー」と、言うことだけ言って、電話は切られた。

私は、しばらく大笑い。「こいつは、変わらないもんだなー」と、大笑い。しかしこの笑いは、何故か、嬉しくもあり、悲しくもある大笑いだったのです。
最後に、陽岳寺の玄関に祭ってある韋駄天様は、安物の韋駄天様かもしれないが、天下一品の、他には無い、韋駄天様なのだ。



読者登録

素山さんの更新情報・新作情報をメールで受取りますか?(読者登録について