目次
輝いている時
夢中(ゆめのなか)
芝浜
江戸っ子
亀住町(平成13年7月1日)
モンセ・ワトキンス~夢のゆくえ~(平成14年1月3日)
新牌開眼
英霊(平成17年5月23日)
目覚め
よわい「齢」
また始めたらよい
三大聖樹(平成19年4月17日)
滅度(平成19年9月18日)
安住の地(平成20年11月15日)
心眼(平成22年3月1日)
とかくこの世は
とかくこの世は
祈り(平成17年11月29日)
品位(平成18年1月20日)
ニャンニーシンズ(平成18年3月1日)
鍵(平成18年4月25日)
チベット(平成20年5月1日)
SYOHOU
諸法
四十四の問い~ミヒャエル・エンデ
先ゆく輩
さき行く輩
祖師年譜
ダルマ
慧可
五洩霊黙和尚
石鞏慧蔵禅師
大珠慧海禅師
西川の黄三郎
馬祖道一禅師(馬大師)
五百生 百丈和尚
大梅山法常(752-839)
麻谷山宝徹禅師(平成12年1月27日)
鎮州普化(ふけ)和尚
寒山・拾得
虹の彼方に
ヘイヴン・ペックの場合―続貧しいけれど、豊かだった―
生前葬
平和を我らにーGIVE PEACE A CHANCE(平成13年10月31日)
ソクラテスとヤージャニダッタ
蓮(平成14年6月2日)
心-KOKORO(平成14年6月25日)
独り暮らし(平成15年4月12日)
老いが、咲いていた!(平成16年7月5日)
深濱-fukahama
死に顔
松山鏡(ソクラレストとヤージャニダッタの続き)
真ん中(平成20年4月1日)
百万回いきたネコ(平成21年1月1日)
夜来る鳥(平成21年1月1日)
だいじょうぶ、だいじょうぶ(平成21年2月1日)
無常への帰依
無常への帰依
希望(平成12年1月2日)
葬式坊主
泥棒
赤とんぼ
老い
……ロス
後姿
寿陵
ついで参り
目標
六道を行く
もの言わぬ羅漢達…揀択をこえて…
宮本武蔵
五合庵断章(平成10年10月17日)
K子さん!(平成12年7月19日)
今は昔
十一面観世音菩薩
尽七日忌(平成19年5月1日)
OSYOU
OSYOU
この手のひらに―禅僧の死―(平成10年11月18日)
戒(平成10年7月25日)
幽霊
みんな仏教徒(平成10年5月27日)
最後の晩餐(平成10年5月23日)
禅問答(平成10年5月31日)
分銅
天国は汝ら自身に宿る(平成10年11月24日)
宗派
穢れ(平成12年8月30日)
お彼岸
仏心
仏心
ご祈祷
施餓鬼会にて(平成17年5月28日)
永遠の命
輪廻する葦(平成10年5月27日)
連鎖する命(平成10年6月2日)
涅槃(平成10年8月12日)
鏡(平成10年7月25日加筆)
流星
TAO(平成11年1月3日)
四大
挨拶
冥福
盂蘭盆
祈り(平成14年7月4日)
仏事歳時記
再び 最後の晩餐
この手のひらにII(平成18年11月18日)
死んで生きる智慧(平成19年3月27日)
五百生(平成19年11月20日)
破地獄偈(平成20年5月24日)
この指止まれ
この指止まれ
家族と家庭(平成11年1月5日)
導師(平成11年2月26日)
家から個人へ、そして家族・友達へI
家から個人へ、そして家族・友達へII
脳死そして臓器移植(平成11年3月2日)
独り決めの生き方
僧堂I
僧堂II
僧堂III
恥じ
僧堂IV
返事
父殺し・母殺し・友だち殺し・子殺し(平成20年1月1日)
その後
その後
ほとけさま(平成17年5月1日)
仏が仏に合掌する
戒名(平成12年3月14日)
無用の用(平成12年2月21日)
世話
大きく育て!(平成11年1月18日)
しもべ(平成10年11月7日)
電話(平成10年8月22日)
意思
寡黙
妄想(平成10年8月2日)
川(平成10年8月22日)
風如(風のように)(平成10年6月18日)
追悼(平成10年5月27日)
受容(平成10年6月18日)
蒸発
臨終(平成10年6月8日)
外道
障子(平成13年3月10日)
日月(にちげつ)
年寄りの出番より
人生とは、闇を照らす一瞬の蛍の光
時の旅人
時計(平成12年1月3日)
星(平成11年10月15日)
溝(平成11年8月2日)
過去心…念の起こる処(平成11年6月19日)
与える時間(平成11年5月24日)
桜(平成12年3月2日)
無常(平成11年4月16日)
川(平成10年9月17日)
有時(時の構造)(平成12年2月5日)
時の旅人(平成12年2月1日)
揺れる木々の葉
この人生の速さはなんだ(平成14年12月26日)
法句経より-時の旅人(平成15年2月4日)
寂然不動 如春在花(寂然不動、春の花に在るが如し) (平成16年9月19日)
ZENGO
自立
橋は流れて(平成10年9月18日)
無事
過去(平成10年5月23日)
たまごっち(平成10年5月23日)
一衆觸礼(いっしゅうそくれい)
六道を輪廻する
二人三脚
生老病死
筋肉番付
ポケモン
俺は、親馬鹿か!
塵も積もれば山となる
生と死と永遠
最終章
一章
二章
三章
四章~(未完)
時間旅行
時間旅行
命の歌-母の短歌
礎-いしずえ-
離魂(平成19年8月25日)
海辺橋
海辺橋
ふるさと(平成18年3月4日)
千の風(平成18年9月16日)
人の道(平成18年9月18日)
あなたは、いつから、一年が始まりますか?(平成20年8月1日)
前住職 二十三回忌にて(平成20年9月1日)
平成21年お施餓鬼会を振り返って(平成21年6月1日)
奥付
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夜来る鳥(平成21年1月1日)

夜来る鳥(平成21年1月1日)

「夜来る鳥」、この本は、岩瀬成子(いわせじょうこ)さんが言葉を、そして、味戸ケイコ(あじとけいこ)さんが絵を描き、PHP研究所が1997年に出版したものです。今は、絶版となっています。
 
《 真夜中に、真っ黒な森の中で、イタチのお別れの会が、動物たちによって行われました。
 イタチは重い病気にかかって、ぐったりとしています。
 イタチを取りまいて、タヌキや野ウサギ、野ねずみや鹿たちが坐っています。木々の枝には、フクロウやトビ、鳥たちが見ています。森の奥の、漆黒の闇の中、月明かりが、横たわるイタチだけを照らしています。
 タヌキが、「どこまでも続くと思うと、いきなり消えるもの、なあんだ」と、横たわるイタチに言いました。
 イタチは弱々しい声で、「いのち」と答えました。イタチは、弱々しく燃える自分自身の命の灯を描いていたのだと思います。
 ところが、タヌキは、「いいえ、イタチの足あとです」と、自ら答えました。
 すると回りの動物たちみんなは、手をたたきました。
 次に野ねずみが、「ピカピカ光って美しいもの、なあんだ」とたずねました。
 イタチはようやく「星」と答えました。
 イタチは、漆黒の闇の彼方に広がる、星々の瞬きを見ていたのでしょうか。消えかける命の瞼のスクリーンには、漆黒の彼方にキラキラと輝く星々だけが写っていたのだと思います。
 ところが、野ねずみは、「いいえ、イタチの目です」と答えました。
 動物たちは、尻尾で地面をたたきました。この時、イタチにもはっきりと、森の仲間たちにとって、自分の命がどのようなものだったのか理解できたと思います。感謝したと思います。
 もしかして、イタチと他の動物たちとのかかわりは、そんなに長い時間ではなかったかもしれません。少なかったかもしれません。それでも、精いっぱいに仲間であった。家族であった。共に生きた時間を持つことができた。別れの時間を持つことができた。そして、イタチの命を見つけてくれた、たたえてくれた。
 最後に鹿が、「聞こえなくても、いつまでも聞こえているもの、なあんだ」と、たずねました。
 イタチは目を閉じたままでしたが、かすかに震えたように見えました。
 もうイタチには答える力がなかったのです。答える力がなかったけれど、イタチの喜びを、動物たちもわかっていました。
 鹿は、「イタチの声です」と自ら答えました。
 風が吹いて、栃やブナ、カエデがお別れすると、イタチは、もうピクリともしませんでした。動物たちは、しばらく、イタチを見つめていましたが、やがて、だれからともなく拍手が起こりました。また、風が吹き、林はざわめいたのでした。
 きっと、森の奥の動物たちは、繰り返し繰り返し、仲間たちのお別れをして、今に至っているのだと思います。》

 私たちはどうでしょうか。一人一人、自分の言葉で、イタチの命を語ることができるでしょうか。
 「どこまでも続くと思うと、いきなり消えるもの、なあんだ」
 何と答えるでしょうか。そして私たち自身の答は……。同じように、次の質問には何と答えるでしょうか。
 「ピカピカ光って美しいもの、なあんだ」
 「聞こえなくても、いつまでも聞こえているもの、なあんだ」
 そして、惜しみない時間が私たちに与えられたとしたら、質問は数限りなくあるはずです。
 それを発見するのは、私たちです。
 「見えなくとも、いつまでも見えるもの、なあんだ」
 「いきなり表れて、涙をさそうもの、なあんだ」
 「自分が悲しくなったとき、笑いながら見つめてくれるもの、なあんだ」
 「人が年数を重ねて思い出したとき、変わらないもの、なあんだ」とね。
 「あの時そう思っていたけれど、悲しくなかったけれど、今、自分が変わって、わかるようになって、有り難さが増すもの、なあんだ」

 ところで、この本の題名は、「夜来る鳥」です。鳥がちっとも登場していないと、いぶかるかもしれません。実は、このイタチのお別れ会を目撃しているもの達がいました。鳥と少女です。
 この物語は、森のなかの家で、夜、窓越しに漆黒の闇を見つめている少女に、突然と大きな鳥が訪ねてきて、少女を森の世界に誘うことから物語は始まります。その鳥はフクロウですが、その鳥の背中に乗って、少女は高く舞いあがり、森の奥の一カ所に、木立が開けた小さな広場を見渡せる木の上に舞い降りたちます。

 沈黙というより、静寂のしじまの出来事です。味戸ケイコさんの絵は、静寂のしじまを彷彿とさせます。森の闇の中で、淡々と進む目撃した出来事が、イタチの死を悼む、森の動物たちの儀式でした。
 夜来る鳥は、この出来事を少女に見せようと、遠くの森に誘います。少女の家では、両親も、もしかしたら、兄弟姉妹も一緒に暮らしているかもしれません。どうしてこの少女だけが、選ばれたのだろうかと考えてみると、きっと、この童話を見つめ読み進むもの自身が、この少女なのだと気がつきます。
 すると、この夜来る鳥は、作者の岩瀬成子さんが鳥となって子ども達を背中に乗せ、夜の世界に誘うのでしょうか。もしかしたら、夜の世界とは、子ども達にとっては未知な世界、不可解な世界なのかもしれません。すべてを闇で覆いつくすから。
 子ども達にとって、この世の中のおおかたの出来事が、未知な世界だと思います。それは、相対的な世界であり、変わりゆく世界なのですが、未だはっきりと口をあけているわけではありません。

 この動物たちがイタチに発する問いかけはどうでしょうか。抽象的な概念である、命と死の事実を見つめています。意味するものではなく、作られたものでもなくですが、答は生を語るものであるから不思議です。そこに、死は、生によって語れるものであることを表しているようです。
 走り行くイタチ自身には見ることがない足跡、自分の目のかがやき、聞くことを知らないイタチの鳴き声こそは、森の動物たちにとってイタチそのものです。ナゾナゾのような問いかけに、イタチは、今の自分の命、その自分が目撃する漆黒の彼方の星々の瞬きこそ、イタチにとっての答なのでしょうか。考えてみれば、イタチが、いのちや星と答えること事態、人間の思いで、不釣り合いです。

 言葉で言い表すことのできない死を、どう表現したらよいのか、動物たちに託して、少女の目撃した事実として、私たちに語たります。もともと私たちの心も、動物たちと同じように、同じものを写しています、それこそ、あるがままの姿をです。 
 岩瀬成子さんは、この後、半年をかけて、『月夜の誕生日』を出版いたします。死のテーマから生のテーマへ、岩瀬さんは、「生まれてきたものは必ずいつかは死ぬのですから、すべて生と死の間のドラマですから、これを抜きには考えられませんね。誕生日って生まれたことを確認できる大切な日ですよね」て言います。誕生の物語は、生のテーマで、少女が戸惑いながらも、次々と与えることで、生きる歓びを知る物語です。これも生きることは、与えることだと言うかのようです。改めて、私たちは何を、大切な人たちに与えているでしょうか。

だいじょうぶ、だいじょうぶ(平成21年2月1日)

だいじょうぶ、だいじょうぶ(平成21年2月1日)

 家族という絆のきしみやゆがみ、そして崩壊が言われるようになって久しくなります。孤独死も、都心だけではなく、数多く聞くようになってしまいました。
 人という字が支え合って出来ているように、その人という漢字の前に、わざわざ一(いち)を加えて一人(ひとり)を強調しても、その人の内容は、やはり支え合って生きているものです。独(ひと)りとは、争うことの好きな不快な犬の意味が、語源であると大漢語林にあります。

 『だいじょうぶ、だいじょうぶ』という童話があります。
 いとうひろしさんが、物語と絵を創り、講談社から1995年10月に出版されたものです。その内容は……。
 この物語の主人公は二人、お爺ちゃんと、”ぼく”という名の子供です。そして、”ぼく”が生まれて、ヨチヨチ歩き始めたときからはじまります。
 ”ぼく”とお爺ちゃんは、いつも二人で散歩をしました。
 ”ぼく”がヨチヨチしていたとき、家の近くを、ゆっくりと歩きました。でも、”ぼく”にとっては、大変な冒険だったのです。なぜなら、”ぼく”にとっては、何もかもが初めての出会いで、それこそ道のつながって続いていること、草や花や木々がさまざまな色と形をしていることが不思議でした。
 ポストと看板が何故あるのか、家々の玄関や、大きなコンクリートやレンガの建物の中には何が詰まっているのか。電信柱や電線は何のためかなど、わかるはずがありません。雨や曇り、晴れがあり、空にはまぶしい丸いような輝くものが動きながら、空をいろどるのです。在ることが不思議でした。
 道路には、大きな車や小さな車、自転車に乳母車、さまざまな人が歩いています。アリやミミズ、蝶やミツバチまでもです。
 お爺ちゃんは、古くからの友達のように、アリや蝶に話しかけました。ヨチヨチからトコトコへ、ゆっくりと時間が過ぎるにつれ、”ぼく”の世界はドンドン広がります。まるで、魔法にかかったようにです。
 そしてだんだんと、新しい発見や、楽しい出逢いが増すほど、困ったことや、怖いことがあることを、知るようになりました。
 「おむかいのケンちゃんは、わけもなく僕をぶつし、おすましのクミちゃんは、僕に会うたびに、顔をしかめます。犬はうなって歯をむき出し、自動車はタイヤをきしませて、走ってきます。
 飛行機は空から落ちることも知ったし、あちらにもこちらにも、恐ろしいバイ菌がうようよしてるってことも、知りました。いくら勉強したって、読めそうにない字があふれているし、なんだか、このまま大きくなれそうにないと、思えるときもありました。」
 だけど、そのたびに、お爺ちゃんが助けてくれました。お爺ちゃんは、”ぼく”の手をにぎり、おまじないのように、つぶやきました。
 「だいじょうぶ、だいじょうぶ」、「だいじょうぶ、だいじょうぶ」と。
 ”ぼく”は、そんな体験を通して、「無理して、みんなと仲良くしなくても、いいんだってこと。わざとぶつかってくるような車も、飛行機も、めったにないこと。たいていの病気やけがは、いつか治るもんだってこと。言葉がわからなくとも、心が通じることもあるってこと。この世の中、そんなに悪いことばかりじゃないってこと」を、知ることができました。
 「だいじょうぶ、だいじょうぶ。」
 僕とお爺ちゃんは、なんどもなんども、この言葉を、繰り返しました。
 「ケンちゃんとも、クミちゃんとも、いつのまにか仲良くなりました。犬に食べられたりしませんでした。なんども、ころんでけがもしましたし、なんども、病気になりました。でもそのたびに、すっかりよくなりました。車にひかれることもなかったし、頭に飛行機が落ちてくることもありませんでした。難しい本も、いつか読めるようになると思います。」
 ”ぼく”が、大きくなるにつれ、お爺ちゃんは、白髪がふえ、小さくなり、ずいぶんと年を取ってゆきました。
 この物語のおしまいは、挿絵です。その挿絵の真ん中には、お爺ちゃんがベッドに寝て、しかも点滴までしています。花が飾ってあって、窓があります。窓の向こうに青い空が見えればなおよいのですが……。
 「だいじょうぶ、だいじょうぶ。」
 ”ぼく”は、おじいちゃんの手をにぎり、語りかけます。「だいじょうぶだよ、お爺ちゃん。」

 私の母は、二年半の入院生活でした。たくさんの想い出があります。しかし、最後の二年間、母の言葉を聞くことはありませんでした。
 一週間に二度、母の故郷である八王子の山奥に通ったことは忘れません。そして、できるだけ小学校に通っていた子供たちをつれて行きました。
 子供に、母の食事の介助をさせるためです。「自分で食べられなくとも、だいじょうぶ、だいじょうぶ」とです。
 言葉がなくとも、表情がわからなくとも、寝たきりでも、やせて、しわくちゃになっても、だいじょうぶだいじょうぶ。
 子供が母の口の中に、スプーンにのせた食べ物を入れるとき、「お婆ちゃんア~ン」と言います。そのとき、子供が自分も大きな口を開けることに、可笑しく、どうして一緒になって口を開けてしまうのだろうかと、真剣に考えたことがありました。
 そのとき、何一つ表情を変えずに母もア~ンと口を開け、孫がスプーンを入れます。上あごにスッと食べ物を残してと、その繰り返す行為に、子供の霧中になる姿に、だいじょうぶの中に、いくつもの言葉があることに気づきました。
 それは、おだやかさや優しさであり、信頼や絆だったのですが、今では、懐かしさばかりがおおいます。

 昨年のことでした。お檀家さんでもあり、親しくしている婦人が危篤になりました。娘さんから連絡を受けて、一ヶ月ぐらいが過ぎたとき、「どうしているだろうか」と病院に見舞いに行きました。
 点滴のチューブで飾り、酸素マスクに息を荒げて横たわる婦人の姿に接し、何もしてあげられず、ただ見つめるだけの無力さをおぼえます。それに比して、危篤を繰り返しながらも生きようとする生命の力のたくましさに圧倒されます。娘さんは家族の助けを借りながら一週間、泊まり続けているとうかがいました。
 娘さんの口から、夜、母の姿を見ていて、「お母さん、もういいから、頑張らなくともいいから、有り難う。有り難うね、と思いがおこるのです」と聞かされました。息を引き継ぐというのでしょうか、フランクルの「What is past, will come. けれど生き抜かれた過去は、やってくる。」の言葉を思い出しました。これも、だいじょうぶと同じところから出てきている言葉です。

 しかし、今の時代は、なかなか「だいじょうぶ、だいじょうぶ」とは、言えないことかもしれません。でも、いつの時代にも、どんな時にも、人は、この「だいじょうぶ、だいじょうぶ」の中に、生きているはずだと、強く思います。たとえ、手をつないでなくとも、つながっているものがあるはずだと。
 だいじょうぶの中に生まれて、だいじょうぶの中に去って行く、そこには、しっかりとした絆があるはずです。釈尊の葦の葉のたとえのように、人が寄せ合って生きる、支え合って生きる自覚が、何よりも必要なのだと気づかせてくれます。

 そして、その「だいじょうぶ、だいじょうぶ」の出所を考えたとき、仏心というものを想像します。だいじょうぶとは、臨済録にある「道流、大丈夫児、今日はじめて知る、本来無事なることを」の、本来無事を指すからです。仏心とは、大丈夫にほかなりません。

 陽岳寺では、円覚寺の朝比奈老師が話された、「仏心のなかに生まれ、仏心のなかに生き、仏心のなかに息を引き取る」言葉を、「仏心を尊さにかえ、命や家族、慈しみの心にかえ、智慧や自然・世界にかえて違和感なく思い描くことができるとき、釈尊や無数の祖師たちに出逢うといえます」と、提言しています。
 だいじょうぶのなかに生まれ、だいじょうぶのなかに生き、だいじょうぶのなかに息を引き取る、そんな自覚を持った日本であり続けたいと思うのですが、いかがでしょうか?

無常への帰依

世の中自体が無常であることに異議がある人は少ないと思います。
無常へのこだわりを、いかに持つことができるかは大きな問題だと思うのです。
受け入れた無常を、寂しさ儚さと見るか、喜び微笑ましいことと見るかで、自分自身の立場が変化していることがわかれば、無常との付き合い方が わかるのでしょう。

希望(平成12年1月2日)
葬式坊主
泥棒
赤とんぼ
老い
……ロス
後姿
寿陵
ついで参り
目標
六道を行く
もの言わぬ羅漢達…揀択をこえて…
宮本武蔵
五合庵断章
K子さん!
今は昔
十一面観世音菩薩
尽七日忌(平成19年5月1日)

  八王子の広園寺は、臨済宗は南禅寺派の修行道場でもあります。その老師は丹波慈祥老師と言い、法は三浦一舟老師を継承していますが、京都南禅寺専門道場に、長年にわたって修行した方でもあります。
 その得度の寺は、丹波の高源寺です。妙心寺派に属し、中峰派の(玄住派)の本山です。中峰禅師という方は、中峰明本といい、臨済宗楊岐派(ようきは)の禅僧であり、高峰禅師にその法を継ぎました。多くの皇帝が、賜号を贈った、西暦1263年~1323年、中国は、杭州銭塘の人です。

 その中峰国師の玄住禅を丹羽老師は、『中峰広録』より、易しく約して下さいました。
 「私達は幻に住し、幻が生じ、幻が死す、幻が見、幻が聞くのであります」と。
 「このことに気づいた時から、私の今までの生き方が一変したように思います。言い換えれば、無字に住し、無字が生じ、無字が死す、無字が見、無字が聞き、無字が生きるのであります」と、南禅寺専門道場の平成13年10月1日号会報に、書かれていました。
 中峰和尚座右の銘に、「道心堅固にして、すべからく見性を要すべし」とありますが、この見性は、私という本性に気づくことであり、それを、中峰国師は『幻』と観たと表現しています。

 今、私達は個性とかアイディンテティーいう言葉を多用します。その個性をも、禅は『幻』と言うとしたら、禅は個性を否定するともいえます。その個性は永続的なものではなく、変わりやすいもので、対象としてとらえずに、もっと自由にと考えているのです。
 人が誕生して、一人前と言えるようになるには、また、大人と意識されるためには、子供から大人、あるいは一人前としての転換がなければ、なりません。その社会的な節目が、元服であり、成人式です。人にとって、社会通念上の何かしらの儀式は、通過儀礼ですが、もう元に戻れないという、過去への決別の儀式ですが、もっとも、最近では、成人になる若者の自覚の欠如が成人式事態の無意味さを表していますから、すべての決まり事の基盤が揺らぎ、心が揺らいでいるようにも見えます。これも、個を大切にすることなのでしょうか。

 その通過儀礼が、意味を失いかけているとき、『一人前』は、その時その時、年齢で、知識で、体力で、その環境でいう、私の好きな言葉でもあります。赤ちゃんは赤ちゃんの一人前、一年生は一年生で一人前、初心者は初心者で、一人前という意味で使うのが好きです。
私達には、当たり前と思っていることが、実は全く当たり前でなかったり、何とも思わないことが、何も気が付かないけれど、よく考えてみればとても不思議なことが身の回りに結構あるものです。

 赤ちゃんは、お母さんのお腹の中に10ヶ月も居ます。そして、世の中に生まれてきます。赤ちゃんが生まれとき、あの赤ちゃんの姿を見たとき、他の動物と何と違った状態で、私達は生まれてくることかと考えさせられます。目も見えなければ、自分で食べることも出来ないし、歩くことも、走ることも、座ることも、おしっこやうんちの片づけも出来ないではないですか。話すことも、しゃべることも、着飾ることも、初めは親も知らない、何も知らない。出来ることと言ったら、食べさせて貰うこと、寝かせて貰うこと、身体を綺麗にして貰うこと、温かくしてもらったり、汗を拭いて貰ったり、話しかけて貰ったり、動くものを見せて貰ったりと、本当に自分ではなにも出来ないのです。それらに反応することはあるものの、そこで、人間とは、教えられなければ何も出来ない動物なのだと、気が付きます。

 名前を何回も呼ばれて、繰り返されることによって、自分の名前を知り、他人と区別しなければならないことを知ることになります。そして、他を多く知ることによって、自分との違いをより鮮明に知ることができ、自我が形成すると言ったらよいのでしょう。それでいて、愛情を注がれる存在として、社会が認知して、社会が待望して生まれてくる。その何処に、特定された個性と言われるものがあるのだろうかと思います。
 色が白い、手足が長い、指が短い、二重の瞼だと体質的な特徴は数えられるものの、意志を持つ年頃になったとき多用する個性は、環境や、赤ちゃんを取り巻く人間の資質によって、発芽し育てられたものであって、生まれたときより持っている個性などと言うものはあり得ないと思えるのです。外側の世界から接触や誘導させられたり、刺激を受けて芽生える、花咲くものと言ったら良いのではないでしょうか。これが個性の芽とでも言えばよいのでしょう。

 植物を育てると同じに、どう育てるかによって、いかようにも変化するといえます。人は自分勝手には育たないものです。自分勝手に育ててしまうから、その勝手を個性と勝手違いするのでしょう。
 大切に育てられた個性の芽は、やがて、発芽いたしますが、それは育てられている環境と環境から注がれる情報を選択しながら善く成長し変わって行きます。それを、生き方と言い、私は、生き方を同じとする人はいないことが、そのことを個性と考えることに意味があると思えるのです。勝手違いの個性も、生き方を模索し求める個性も、同じ個性といえますが、見える人から見ると違うのではないでしょうか。
 個性を発揮して、生きることそのことが個性であるのですが、発揮するためには、個性を育む善い環境が常時必要なことです。その上で、人は、すべて魅力に溢れてといえるし、生きることそのことが、無理やり作るのではなく、個性を伸ばすことになると思います。
 しかも、その個性を『幻』と理解することは、大切にして、必要なことだとおもいます。ですが、その『幻』が実体として在るものに見えてきたとき、人は狂い、逸れるのも事実です。飽食の時代は、その個性を、大きく育てた時代とも言えないでしょうか。その結果、バブルとして弾けてしまった個性。『幻』をも幻として見ることが大事なのでしょう。

 『幻』と見ることは、造られた個性を否定することなのですが、それは、今までの自分を常時否定することが、より新しい個性を発揮することになることであり、それを発見したのが仏教です。今の自分を否定することによって、生まれ変わって生きることを、仏道と言うのだと思います。
見えているのも幻であり、見えないものも幻であり、その見ている者も幻とする者の、日本語の不可解な言葉使いがあります。
 幻とは、「無いのでは無い」であり、これは、有ることの強調表現なのか、あるいは否定の強調表現の用語は、自分の未来の行為を、否定の否定で表現することで、現実の自分を把握し、表現している方法なのだと気がつきます。自分の中身が現実にはみ出している姿と見ると、そこにも生き方が現れます。

 「自分で言うのも、恥ずかしいのですがとか、高い席から恐縮ですがとか、若輩者ですがとか」と、何気なしに使う言葉があります。この言葉も、前提として大勢の人がいて、突出して自己表現することを回避する言葉です。これも自己否定することが、自己表現する手段になっているという、今の自分を否定して、新しい自分を全面に出すという、禊ぎに似た行為でもあります。考えようによっては、自分を卑下し、同一化しなければ、社会の一員になれないようなそんな社会の未成熟さを表している言葉とも言えますが、善く考えてみれば、「偉いとか、いい男とか、いい女とかあるけれども、みんな同じなのよ!平等なのよ!それでいて、バラバラの個性じゃないの!」と、美しい表現なのではないかと思うのです。


希望(平成12年1月2日)

希望(平成12年1月2日)

今まで、この寺の住職をしてきて、また地域で役を務めるようになってから、随分といくつかの家庭が崩壊するところを見てきました。もちろんそれに比して喜ぶべきことは数多くあることは確かなのですが、悲しいことは尾を引きます。

平成11年の暮れの一日のことでした。寺の側のバス停にたって30分に一本のバスが来て、妻は東陽町までバスに乗りました。妻は後ろの席の窓がわに腰掛て外を見ていたそうです。二つ目のバス停で、野球帽を目深にかぶり、障害者用のアルミの杖に、中学生の男の子と一緒に乗り込んだ男性は、久しぶりに見る、彼と息子のGちゃんでした。妻は声はかけられなかったものの、元気そうだったと夕刻寺に戻って、私に報告してくれました。彼の、娘のHちゃんとGちゃんが、彼を見下しているとの噂を聞いた記憶が、Gちゃんが付き添っての姿は、胸を撫で下ろす内容であり、無事に生活していることを思うことが、この文章を書かせたのです。そして、彼の趣味であった篆刻の印材は、この寺の本堂の地下室に、埃をかぶって保管してあるのです。彼はもう要らないから、処分してくれと言ったものの、そう簡単に処分は出来ない。私にとっては、今でも悲惨だなと思っている事件なのです。

 彼は一般の家庭より禅僧になりたいと、修行をしたいと、その寺の住職であり、とある本山の管長でもある禅僧の弟子入りを許された男でした。九州の久留米にあるきびしい修行道場に一年行き、その後京都の祇園にある修行道場に5~6年行ったのではないかと思います。このことを今振り返ってみて何になるのだろうかと思うのですが、この記憶は折に触れて、話題になる事も事実であり、痛ましく、かわいそうな事件であり、今でも、なんともやりきれない思いなのです。ましてや彼の姿を誰かが見たとか、様子がどうだったかと聞くと、「あっそう。元気そうだった!よかった」と、胸をなでおろすようです。

この事件は、私の記憶の中でもそろそろ風化してきている内容なのですが、はたして彼にとってはどうだろうか。もちろん過ぎ去ったことに、心を縛られていては、この先の彼こそ大事なのであり、いまさら蒸し返してみても何の意味も持たないと思う。でも人一人の事件に、家族が絡むと、波紋は大きく広がり、その事件の周囲にいた私たちへどう教訓となるかは、この事件を、時がたって検証することも大事なのではないだろうかと思ったのです。

彼は大きな格式のあるお寺の副住職であり、いつも留守の住職に代わって寺の務めを果たしていたのです。その事件がなければ。
10年前、私の上の子どもが幼稚園の年長だったときです。7月の末の東京の暑い夕刻、その寺の玄関前に、ビニールのプールに水を張り、私の子どもは、彼の子ども二人と水遊びをしました。夕方子どもが帰ってきて、幼い子供同士の遊びのことを聞き、普通の団欒を私は過ごしていました。彼や彼の奥さんも、私の寺とはすぐ近くのことでもあり、彼が私より4~5歳年下で、比較的年齢が近いのと、私もどちらかと言えば、寺で育った環境ではなかったことより、彼とは馬が合う間柄だったのです。彼は、どちらかと言うと豪快なところがあり、私とは性格が違っておりました。

この地域は、5月、6月と付き合い寺院の施餓鬼が毎週土曜日と日曜日に催され、彼とは一緒にタクシーを使ったり、歩いたり、バスだったりと出かけることが多かったのです。事件が起きた後、彼の言動に歯止めがなく、他人のいるところにもかかわらず、大柄な態度と言動は目に余るものがあったことに気が付いたのですが、今でもそれが兆候だったのかは確信が持てないのですが、多分兆候だろうと思うのです。
忙しい寺でもあり、彼が全面的に任されていたこと、師匠は本山と道場のトップに君臨する立場にして、その傘を着ていたところもあったように思えるのですが、内心は、いつ尋ねてくるかわからぬ師匠にビクビクしていたところもあったようです。そして奥さんは子どもたちを育てる環境に、苦悩していたこともあるのでしょう。

今考えてみると、その頃の彼の生活は、破滅に向かってブレーキが利かなくなっていたようなところが見え、危ない気がしました。しかし人の意見など聞く耳を持たないところがありました。私と較べて明らかに違う風は、豪快に人と付き合い、懐が深く、高らかに生きる彼を頼もしく思っていました。今思い出しても、彼と付き合いだした最初の頃、彼は謙虚に生活していたと思うのですが、どうしてああなってしまったのか残念でしかたありません。
そういえば、彼の寺はヒノキ作りの本堂を建て替えたばかりで、広島から来た宮大工の棟梁たちが1年あまり近くのアパートに泊りがけでの工事は、三度の食事の支度や、二人の子どもの世話で戦争のようだった毎日を終わってのつかの間の休息だったような気が致します。
翌日聞いたことは、その晩、彼は子どもたちのいる前で、雲膜下出血で倒れ、救急車で、葛西の森山脳外科病院に入院、前頭葉に穴をあけ、出血を吸い出したと聞きました。3ヶ月の入院と6ヵ月の墨田区の東京都リハビリ病院入院は、その後の彼を大きく変えてしまったのです。言語障害と右半身不随の身体障害で彼は一級の手帳を手に、寺に戻ってきたのでしたが、彼と家族の居場所は、もうありませんでした。

彼がいなくなってより、寺はてんてこ舞いでした。彼が倒れてすぐ、寺は施餓鬼の法要が迫っており、押入れや帳簿類の点検にごった返して、彼の惨憺たる惨状が明るみに出てきたのです。ダンボール箱に通帳やカード、お布施や下着・衣類がごちゃ混ぜになってでてきたり、本堂建築の寄付金集計がでたらめだったこと、各種の契約書が見当たらないこと、過去帖が付いていないこと、お檀家さんの住所録がでたらめだったこと、夫婦喧嘩が耐えなかったこと、今思い出してもかなりハチャメチャだったことは確かです。師匠もここまで出鱈目だったことに思いも及ばず、ただ許せないことと思うばかりのようでした。

後になって聞いたことなのですが、彼の身分では考えられない相撲部屋の贔屓になったり、植木屋さんが入って判ったことなのですが、境内のあるところから彼のペットだったはずの珍しい亀達の死体がたくさん出てきたりと、唖然とする以外は考えられない事ばかりでした。
しかし、森山脳外科病院で入院中の彼には、何も思い当たることがなかったのです。私は、その思い当たることが無いということが、彼がいかに精神的に追い詰められていたことの証であるように思えるのです。彼は重症の病態で、住職である師匠が見舞いにこないことをいぶかることばかりでした。

彼が彼の能力では限界だったことが判るにつけ、なぜ相談しなかった、誰かに手を伸ばさなかったのか、残念に思うことばかりです。この病院の入院中に、彼は師匠から一回の訪問を受けました。その訪問の目的は、印鑑を押せと強いての、絶縁状を叩きつけることだった。彼の頭の中は真っ白になり、途方にくれる彼を目にすると、痛ましいばかりで、これからの道のりは決して楽ではなく、誰が彼を支えるのだろうかと、彼の家族はどうなってしまうのか、子どもたちはどう育つのだろうかと考えると、暗い気持ちになりました。
寺の和尚が若い身体障害者であれば、他の身体障害者にとっても希望であり、精神的負担はきっと彼のためにも、この寺や他の寺院のためにもハンディキャップはあるものの、優れた逸材を得ると思うのだが、彼の師匠は、「だめだ!」の一言で、退けてしまったのです。せめて、退職金や当座の生活費を支援していただけたらと思うのですが、かたくなに心を閉ざしている師匠を見ることが出来ませんでした。やはり、当事者でなければわからないことのようです。

彼の持ち物は処分された。倒れる半年ぐらい前に買ったカメラはその後、知り合いの寺に貰われたが、その寺の和尚が、カメラに入っていたフィルムを現像したところ、倒れる数時間前に水浴びをしていた私の長男が写っていたからと持ってきてくれたのを思い出す。
今、振り返ってみると、労災であったのだろうと思うのですが、その後の彼は、師匠と同じに、かたくなにしこりを胸に、沈黙しています。

雲膜下から9ヶ月経って、彼は、彼を受け入れてくれるリハビリ病院や職業訓練所を転々として、彼の将来の手がかりを探すかのようです。彼の様態は、まだら模様に調子が良くありません。特に雨や曇りは、彼を部屋に釘付けにして、疾患の症状が過ぎ去るまで、彼を動かせません。子ども達は、部屋でごろごろしている父を、邪魔に、蔑視を持って見るようになると、しばらくして彼から聞きました。さらに耐えなければならないことが、これからも彼の胸中を騒がせると思うと、悲惨に思うのです。一級の障害者の手帳は、さしあたっての生活の安定をもたらしているようですが、奥さんは勤めに出て、彼は部屋に閉じこもる日々が続いたようです。私は、賀状のみの付き合いになるのですが、左手で書く毛筆の筆跡は、現在、10年前と同じくらい達筆になっています。しかし、手紙の住所は彼の実家である所からです。

今、多分47~8歳になると思うのだが、寺を出た後、彼は寺を少し離れたところに、マンションを借り、子どもたちが大きくなるまで、地方都市の脆弱な福祉を避けて、江東区の補助を受けながら、生活している。
彼にとって、ぬぐい切れない過去とはと考えてみると、なんともやりきれない。せめて子どもたちがすくすくと育ってくれることを願う。



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