目次
輝いている時
夢中(ゆめのなか)
芝浜
江戸っ子
亀住町(平成13年7月1日)
モンセ・ワトキンス~夢のゆくえ~(平成14年1月3日)
新牌開眼
英霊(平成17年5月23日)
目覚め
よわい「齢」
また始めたらよい
三大聖樹(平成19年4月17日)
滅度(平成19年9月18日)
安住の地(平成20年11月15日)
心眼(平成22年3月1日)
とかくこの世は
とかくこの世は
祈り(平成17年11月29日)
品位(平成18年1月20日)
ニャンニーシンズ(平成18年3月1日)
鍵(平成18年4月25日)
チベット(平成20年5月1日)
SYOHOU
諸法
四十四の問い~ミヒャエル・エンデ
先ゆく輩
さき行く輩
祖師年譜
ダルマ
慧可
五洩霊黙和尚
石鞏慧蔵禅師
大珠慧海禅師
西川の黄三郎
馬祖道一禅師(馬大師)
五百生 百丈和尚
大梅山法常(752-839)
麻谷山宝徹禅師(平成12年1月27日)
鎮州普化(ふけ)和尚
寒山・拾得
虹の彼方に
ヘイヴン・ペックの場合―続貧しいけれど、豊かだった―
生前葬
平和を我らにーGIVE PEACE A CHANCE(平成13年10月31日)
ソクラテスとヤージャニダッタ
蓮(平成14年6月2日)
心-KOKORO(平成14年6月25日)
独り暮らし(平成15年4月12日)
老いが、咲いていた!(平成16年7月5日)
深濱-fukahama
死に顔
松山鏡(ソクラレストとヤージャニダッタの続き)
真ん中(平成20年4月1日)
百万回いきたネコ(平成21年1月1日)
夜来る鳥(平成21年1月1日)
だいじょうぶ、だいじょうぶ(平成21年2月1日)
無常への帰依
無常への帰依
希望(平成12年1月2日)
葬式坊主
泥棒
赤とんぼ
老い
……ロス
後姿
寿陵
ついで参り
目標
六道を行く
もの言わぬ羅漢達…揀択をこえて…
宮本武蔵
五合庵断章(平成10年10月17日)
K子さん!(平成12年7月19日)
今は昔
十一面観世音菩薩
尽七日忌(平成19年5月1日)
OSYOU
OSYOU
この手のひらに―禅僧の死―(平成10年11月18日)
戒(平成10年7月25日)
幽霊
みんな仏教徒(平成10年5月27日)
最後の晩餐(平成10年5月23日)
禅問答(平成10年5月31日)
分銅
天国は汝ら自身に宿る(平成10年11月24日)
宗派
穢れ(平成12年8月30日)
お彼岸
仏心
仏心
ご祈祷
施餓鬼会にて(平成17年5月28日)
永遠の命
輪廻する葦(平成10年5月27日)
連鎖する命(平成10年6月2日)
涅槃(平成10年8月12日)
鏡(平成10年7月25日加筆)
流星
TAO(平成11年1月3日)
四大
挨拶
冥福
盂蘭盆
祈り(平成14年7月4日)
仏事歳時記
再び 最後の晩餐
この手のひらにII(平成18年11月18日)
死んで生きる智慧(平成19年3月27日)
五百生(平成19年11月20日)
破地獄偈(平成20年5月24日)
この指止まれ
この指止まれ
家族と家庭(平成11年1月5日)
導師(平成11年2月26日)
家から個人へ、そして家族・友達へI
家から個人へ、そして家族・友達へII
脳死そして臓器移植(平成11年3月2日)
独り決めの生き方
僧堂I
僧堂II
僧堂III
恥じ
僧堂IV
返事
父殺し・母殺し・友だち殺し・子殺し(平成20年1月1日)
その後
その後
ほとけさま(平成17年5月1日)
仏が仏に合掌する
戒名(平成12年3月14日)
無用の用(平成12年2月21日)
世話
大きく育て!(平成11年1月18日)
しもべ(平成10年11月7日)
電話(平成10年8月22日)
意思
寡黙
妄想(平成10年8月2日)
川(平成10年8月22日)
風如(風のように)(平成10年6月18日)
追悼(平成10年5月27日)
受容(平成10年6月18日)
蒸発
臨終(平成10年6月8日)
外道
障子(平成13年3月10日)
日月(にちげつ)
年寄りの出番より
人生とは、闇を照らす一瞬の蛍の光
時の旅人
時計(平成12年1月3日)
星(平成11年10月15日)
溝(平成11年8月2日)
過去心…念の起こる処(平成11年6月19日)
与える時間(平成11年5月24日)
桜(平成12年3月2日)
無常(平成11年4月16日)
川(平成10年9月17日)
有時(時の構造)(平成12年2月5日)
時の旅人(平成12年2月1日)
揺れる木々の葉
この人生の速さはなんだ(平成14年12月26日)
法句経より-時の旅人(平成15年2月4日)
寂然不動 如春在花(寂然不動、春の花に在るが如し) (平成16年9月19日)
ZENGO
自立
橋は流れて(平成10年9月18日)
無事
過去(平成10年5月23日)
たまごっち(平成10年5月23日)
一衆觸礼(いっしゅうそくれい)
六道を輪廻する
二人三脚
生老病死
筋肉番付
ポケモン
俺は、親馬鹿か!
塵も積もれば山となる
生と死と永遠
最終章
一章
二章
三章
四章~(未完)
時間旅行
時間旅行
命の歌-母の短歌
礎-いしずえ-
離魂(平成19年8月25日)
海辺橋
海辺橋
ふるさと(平成18年3月4日)
千の風(平成18年9月16日)
人の道(平成18年9月18日)
あなたは、いつから、一年が始まりますか?(平成20年8月1日)
前住職 二十三回忌にて(平成20年9月1日)
平成21年お施餓鬼会を振り返って(平成21年6月1日)
奥付
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老いが、咲いていた!(平成16年7月5日)

老いが、咲いていた!(平成16年7月5日)

 平成16年6月30日、午後八時、N氏の娘さんより、「父が、午後6時55分に、上野のN総合病院にて、亡くなりました。穏やかな姿で、きっと喜んで、生をまっとうしたことと思います」と、家族の誰もが、夫や父の死を、冷静に見つめる姿に、N氏が育んだ、N氏の家族らしい姿に、N氏の面影が浮かびました。
 それでも、突然の訃報に、驚き、同時に、何故と言う言葉の先がありません。
 お寺を使っての、葬儀の依頼に、先ずはいったん、家に休んでと、葬儀社のK商店を教えて、電話を切りました。
 多分、午後10時ごろ、黒い寝台車に揺られて、家族は、「ただいま」と、帰宅したはずです。
 傷つき疲れた貴方にとって、突然に居なくなるN氏の無念もさることながら、家族にとっては、やはり、N氏を喪失することの戸惑いがあります。
 この夏の暑さは気になりますが、家族にとっては、やはり、自宅で落ち着いて、先ずは、この数ヶ月の移り変わりの日々を振り返ってみることが、それが、癒すことであり、悲しみ悼むためには、自宅にいることこそ、必要なことだと思います。それでも、家族にとっては、言葉を発しない、N氏の眠る姿を前にして、どんなに優しい言葉でも、励ますことの難しく、人の力の無力さを、覚えるときです。
そしてこのことは、N氏の旅立ちへの、最後の手伝いをする私の、戸惑いでもあります。

 葬儀という時間を大切にするために、その数ヶ月、そして、それ以前の時間が、葬儀という形で収まるためには、家族それぞれが、自分の中で、記憶を書き換える作業が、受け入れるための時間が、必要なことだと思うのです。突然と始まったN氏の死ではなく、生きる希望を断ちきられた葬儀ではなく、N氏の生涯が、この葬儀により、後戻りできない人生を象徴として、実りある人生に終止符を打ち、新しく生まれ変わることの意味を、家族が共有できさえすれば、家族にとっても、旅立ちの意味が含まれると思うのです。


N氏が治療の中で、家族とともに、快方に向かうことを疑わずに、兆候の改善と、新たな発症の繰り返しの中、いずれはと予想していたものの、考えてみれば、予期できないことに、困惑していたのではないでしょうか。それでもN氏は、いつも強く、じぶん自身の快方を信じて、周りには、少しも弱さを見せませんでした。この強さゆえに、突然と襲う不幸なのです。

 家族が落ち着いた頃を見計らって、翌日の午後4時、電話を入れて、再度、お話しを聞きながらも、病床にて、「すべてを治して帰るから」と語るN氏の気持は、暗くなる気持ちを吹っ切って、家に帰るのだと、強い未来への決意を知ります。
 きっと、病床にいても、「有り難う」「心配するな」と語りかけ、人をいたわるN氏の思いやりの言葉が、たびたびと、家族に安らぎを与えと、これは、貴方の自分に厳しく、人へは、思いやりの証明でもあるのでしょう。
 そして、何度も何度もぶり返す体調の変化に、家族が、N氏のために時間を費やすことが増えることに、「すまない」と悔やみ、「申し訳ない」といたわり、「もう少し待ってくれ」と、いぶかりながらも、その葛藤を見せない、強いこころざしにおおわれていたのだと思います。
 N氏が病床にて眠る様子に、そっと帰宅した家族に、どうして電話をできたのか、「どうして黙って帰ってしまったのか」と、N氏の葛藤が顔を出します。
3月の半ばに、N氏がちょうど入院した頃、お寺では、N氏の家族が彼岸の墓参に来ないのを、いぶかっておりました。そして、入退院の繰り返しに、5月、お施餓鬼の返事が来ないことに、何かあったのだろうと想像するも、頼りがないのは無事のことと、平穏を装うことでもありました。
 そんな中、体調のゆっくりと進行する変化に向かって、6月10日に再入院し、N氏の更なる仕事を持ち込んでの強い意識が、周囲をなごませるのでしょうか、そして26日、急な体調の変化が襲います。

 このことは、考えてみれば、N氏の知らない出来事が、N氏の何処かで進行していることの、それは、私たちの将来とか未来というものの、不確かなものの証明です。
 そして、その不確かなものに振り回されるより、不確かなものを現実の事実として、病床で、受け入れたN氏に代わって、その不確かなものを、観念でしか受け入れることしか方法を持たない私たちの作業が、如何に、動揺をきたすか、N氏は、知るよしもないのでしょう。
 また、夫婦にとっては、共に築き上げようと誓った家庭が、誰も替わることの出来ない、私一人で立たなければならない、この夫婦の過ごした年月の意味を見いだし、何を語らなければならないのかと、考えなければならないことほど、辛いことはありません。
むすめ達にとっても、父の様態と、意欲に揺れて、そこに荒れ狂うの時間の流れに奔流され、時の流れを止めることのできない不安と、自己の苦痛に襲われることの、繰り返しの連続する時間を、家族は、持っていたはずです。

 それでも、29日まではなんとか、N氏の意志は強く、その思いは、気づかないことです。
火葬場より寺への、車の中で、
 「そう言えば、3月、むくみで入院したとき、先生が、この状態でゆけば3ヶ月持つかどうか心配ですと、おっしゃいました。でもまれにですが、治る方もいるのですの言葉に、父は、勝手に、その治るほうに、自分がいるのだと、受けとったのです。あとになって、先生が、そんな父を、微笑みながら、見つめていました。たった数パーセントの確率を、父は、それが100パーセント自分にあるのだと、思ったみたいで……。」と、娘さんが語りました。

 家族にとっては、N氏の症状の変化は、ゆっくりとした症状の変化に見えたのでしょうか、「もしかして」と、N氏の死が浮かぶものの、N氏の強さに、気持ちが救われることの繰り返しの日々を持っていたのでしょう。
28日、29日と、意識を保ってはいたものの、もしかしてと、この二夜の、病院で、もっとも尊くて、短い夜を過ごしたのだろうと、朝が、来なければよかったのにと……思います。
 そして、30日、早朝、急変し、突然として、N氏の意識は、夢の中に、入ってしまったかのようです。同時に、N氏の意識が薄れたあとのN氏の事実は、N氏が知るよりは、家族が知る限りの事実の変化になりました。
考えてみれば、たった十数時間のことです。77七年の生涯のたった、十数時間の大きな変化でした。

人にとって、年齢を重ねるということは、本来、より自分を見つめるという意味があります。でも、現実には、次々と与えられる試みに、未だ来ない時間に、着実な自分を重ねて、今という時間を、走っていたはずです。
過去や未来が与えられ、築くものとするなら、もう与えられない、もう築くことが出来ない未来を前にして、さかのぼることのできない過去をどう私達は、保てばよいのでしょうか。
いくら思い出して豊かな時間が続こうが、なつかしい経験を思い出しても、過去は夢のまた夢です。
だからこそ、築き上げた時間の、失うことを予感して、N氏の生涯を受け入れるという作業が、大切なのだと、充実した生涯だったと、N氏は、今、喜んでいるのだと、娘さんが繰り返し語るのです。
それでも、幻のように思ってしまいます。その嘘のような幻のような日々は、夢の中の事実でもあります。

事実が記憶に刻まれ、過去の事実として、思い出になります。しかし、現実を隠して、記憶に刻まれることもあります。また、いまだかって、未来の事実が、記憶に刻まれたことはないのですが、あのとき、こうしていればよかったと、事実でない未来が、記憶に刻ますこともあります。
記憶に刻まれたという事実は変わらぬものの、現実の事実かどうかは、過去の思い出ということだけでは、わかりません。その解からないということが、人の夢の、儚さであり、過去の思い出の懐かしさや苦渋に繋がります。
人って、支え合って生きるものですが、夫婦の日常の生活は、意識しなければ、共にしっかりしようなどとは、普段、思わないものです。
 それは、季節が、人の意識に寄り添うがごとく、いつも一緒にあるに似ています。季節の花々の違いのようには、人は咲かないものなのでしょうか。年毎に、年齢を重ねて咲く、今年の花々にたとえて見たいものです。散る前に、もう一度、そして、何度も何度も咲きたかったと、N氏の声が響くようです。
 不思議に老いの姿が似合わないN氏でした。N氏の、それでも、77才という年齢の、一途に自分を生かし切ることにたけたN氏は、人生に定年はないのだと……、心に強く想いがあればこそです。普段とかわらぬままの、N氏の老いとは、熟達した見識と知識の見事さなのかと、推しはかります。
 病を抱え、傷ついた人間を、自然の老木にたとえて……、若木に比して人を圧倒する姿は、本来、人も年をとればとるほど老齢の枯木に似ている姿なのですが、異なって見えるのは、人の思いのなせることなのでしょう。
人が年を重ねた末の、悲哀や年輪を偲ばせた変形した姿・形のたくましさを、もっと見つめてもらいたい。
あっという間の過去は目に見えず、若い人と年を重ねた人も、同じはずなのですが、N氏の77年は確実に違う重みを、昔から言えば、77歳はすでに老齢なのでしょうが、その老いが似つかわしくない老齢のN氏の枯木のくるおしい姿を見て、若さや勢いを見て、なおさらに持つのです。

 通夜の夜、娘さんが、「父の写真をたくさん、棺(ひつぎ)の周りに飾ってよいですか」と、聞いてきました。
 私は「どうぞどうぞ、おいて下さい」と、写真を受けとり、棺の周りに立てかけて見えるようにいたしました。そして一枚一枚、子供の頃の写真、子ども達との写真、孫達との写真をうち解けた家族写真をおきながらも、一枚一枚見ながら、思わず嬉しくなりました。
今まで、N氏とせっして気がついて不思議に思っていたことは、若々しく老いた姿を見ることがなかったことです。繰り返し訪れる季節のなか、言葉を交わすことが少なかったとはいえ、30年以上にわたる付き合いのなか、いつも変わらぬN氏と接していたのですが、棺の中に眠るN氏も、77才とはいえ、老いた姿にはほど遠く見えました。
 子ども達や孫達に、式場に囲まれて、もっと老いた姿を見せたかったなと、思っていたことでしたので、この写真には、驚きました。そして、人って解らないものだと、改めて、感心したのでした。
 このことを、火葬場への車のなかで、娘さん達告げたとき、娘さん達が、答えました。
「そう言えば、私たちに接するとき、もちろん小さかった頃よりずっとですが、Nは、いつも父としての姿がつよく、そう言えば、子供の頃も、今の孫達に接するような、あんな姿は信じられないのです。仕事場に行っても、孫はどうしているか、今、何に興味を持っているのか、勉強はしているか、スポーツはどうだと、孫の話だけです。
 
 いつだったか、私が、銀行で8万円を、置き引きにあったのです。父に電話すると、何だそんなことか。孫が事故にでも、何かあったのかと思った。ビックリさせるな。そんなことは、大したことではないと、そんなことで電話をするなと、言われたんです。父に、言われてみると、そうだなと、納得してしまうんです。マンションを買おうと決断しかねていたとき、父に相談したら、即座に、買えと言われ、私たちは、即決したのです。これからは自分で決めなければならないですね。」

 孫達に囲まれ、ソファーの中心に座って、カメラに向かって、顔を崩すN氏の写真、それは、まさしく老いが咲いたN氏でした。


深濱-fukahama

深濱-fukahama

 仮通夜のため、この男の家に行ったとき時も、この家には、人が、ごった返していた。そして、枕経で、すすり泣く声を聞きながら、顔に白い布をはがして眠っている男を、前にして、この男の、男気をねぎらった。

終わって、男親が、「足が弱って、痛く、情けない。この親不孝が」と、かすれた声で、私に、ささやいた。キッチンのカウンターには、ありとあらゆる酒瓶が林立している。「家族や、友人に飲ませるのが好きで」と、婦人。

 通夜の日には、700人が、焼香の列をつくった。そして、男の最後の花道を飾った。通夜と葬儀の経中に流した涙の、経を終えて振り返る顔々は、うつむきながらの、やるせなく、疲れて、希望のない、うつろな顔々だった。
 翌日、告別の式が済み、棺が引き出されると、ふたが開けられ。200人から300人が列をなし、この男の想いを、花々で飾った。

 そして、ふたが閉じられようとするとき、棺に、深濱の男達が群がり、「ヨシ!これで最後だ、思う存分飲め!」と、怒号の中に、なみなみと酒をそそぐや、式場は、涙があふれ、たちまち、嗚咽にかわった。

 それは、平成16年6月28日、午後12時だった。この男のために喪服を着た人が群れ、冷房の効かなくなった部屋は、熱気に満ちていた。
その暑さの中、挨拶が終わり、人気がひくと、その熱気は急に冷め、家族と私と、男達が10人残された。棺の中には、49才で亡くなった精悍な男の遺体が横たわり、沈黙して、荼毘を待っていた。

 後は、瑞江の火葬場にと、霊柩車まで棺を送るだけだった。隊列を組んで、10人の男達によって運び出された棺が、階段を下りきったところ、それは、むっとする梅雨の晴れ間の蒸し暑さの中でのことだった。

 この男の旅立ちを、待っていたかのように、隊列の両脇に、深濱の半纏を着た若者が、激しく拍子木を打ち出した。
その場が、一変した。

日焼けした神輿総代の荒々しい発声が、「オイ サッ!オイサッ!」と続くや、その隊列を囲む黒い群れが、小さく上下に揺れ始めた。「オイサッ!オイサッ!」と、霊柩車に続くわずかな道のりを、まるで深濱の大神輿のように、ユッサユッサと、男は、担がれて進んだ。
棺が霊柩車にたどり着いたとき、神輿総代の男が、家族や私の目の前で、荒々しく「指せ!」と、叫んだ。棺には、10人だった男達が、群れてふくれあがり、黒い服に真っ青の深濱の半纏におおわれ、高らかに持ち上げられた。男達の手は、棺を叩いて、「指せ!指せ!」と、日差しが照りつける中、それは、いつまでも続くかのようだった。
男達の眼には、涙があふれ、家族は拳を握り しめて天を指し、49才の男の妻も目頭を熱くして、棺を仰いだ。
いつまでも続くことではないとの思いが湧いたき、棺は、静かに霊柩車に納められた。


 この別れの驀引けに、この男にふさわしい深濱の儀式、それは、どんな言葉よりも、どんなお経よりも、この仲間達にもっとも合った別れの方法に思えた。
たとえ声には出さなくても、誰もが、この時、「オイサッ!オイサッ!」「差せ!差せ!」と、叫んでいた。私も……。

 人の別れの道行きが、涙であふれることの、この姿は、特別なこととして、まぶたに残った。それにしても、この時々に、流していた涙は、すべて、棺の中に眠る男に向かって流した、涙でした。ただ一人、涙を流さず、嗚咽することもない男がいたはずだ。棺の中に。この男だけは涙を流さず、静けさにあふれていることが、さらに涙を誘ったと思った。

 哀しみは、過去から、未来からと、私たちに迫ってきます。この迫り来るモノを受けて、涙と嗚咽という形で、哀しみという潤いを、私たちは与えられます。しかし、ユッサ!ユッサ!と揺れる棺を思いだし、この涙だけは、過去や未来から来たものではなく、哀しみや寂しさでもないと思った。あの時の涙は、過去に出逢った涙ではない。

 あの時の、止めどなくあふれる涙を追ってみたいと、次男の嫁が、着物の袖をまくり上げて、拳を差し上げる姿を、棺の向こうに見たことを思いだしていた。「差せ!差せ!」のリズムに、ジーンと、身体が動いていた。
 男も、担ぎ手も、囃(はや)しても含めて、その場に立ち会った者すべてが、過去や未来から来たものではない涙に、自身の全存在を傾けていたのではないかと。そして、存在の総てを傾けたとき、涙が止めどなくあふれたのではないか。その時、自己という形を離れて、この場の時計が止まっていた。
 この男の最後の花道に、それは、一瞬のことだったが、揺れる棺の中で、確かに、男も泣いていた。それは、この男に最もふさわしく、最後の涙に違いない。

…………。
 三年三年ごとに来る深川の本祭りに、旅立った者の想いが重なり、じぶん自身の身の三年、六年、九年と加算されることを思うと、あまりにも四十九才の旅立ちは哀しいものです。
 この家のまわりには、いつも、深濱の想いがつきまとうかのようです。深川の祭の、神輿の誇りは、深濱です。その深濱の神輿総代は、町神輿の総代とは違うのでしょう。深濱の相談役が、この夏も、神輿を盛大に繰り出すと言っていました。
 でも、男の遺骨が納骨されないかぎりは、重い腰を上げることに、息が上がりません。そして、8月1日、男は納骨された。考えてみれば、過去、何十人、何百人、何千人もの深濱の仲間が、旅立っていったことでしょう。その人達の思いを、また、残された家族の思いを込めての、熱い熱い夏の、濱の神輿の繰り出しなのでしょうと考えて見ました。これは、深濱の神輿だからこそ、言えることでもあるのだと……。

 暑かった夏の日が終わり、久しぶりに出逢った深濱の総代。
「男の写真を、花棒にサラシで巻き付けて、14日、15日と、八幡宮まで繰り出しました。そして、私は、半纏の下に、やはり「ヨシ」の形見を偲ばせていたんです。」


死に顔

死に顔

陽岳寺の本尊は、十一面観音菩薩です。いわれは、どこかで書いたので省略したいが、なぜ十一の顔を持つのだろうかと、ふと、お経ちゅうに思った。
お経ちゅうに思うなど不謹慎なことかと思うかも知れないが、よく、本当に、ふと湧いてくることが多いのです。
この十一の顔を持つ本尊の、なぜ十一なのかという問いの裏には、人は様々な顔を持つものだという思いがあったればこその問いでした。そして、顔とは、その顔とは、様々な自分を表現するものであり、顔とは、人と人との関係や縁起をあらわすものであると思ったからです。
「よく私は、頑固である。意地汚い。小心者である。本当は気が小さく弱いものなのです。忘れっぽい。おっちょこちょいです。食いしん坊である。欲が深い。マラソンが好きです。」と、自分を表現する言葉には、必ず、自分以外の関係や縁を指しているといえば、自分の表現は、関係とかつながりを語っていることとしていえるのです。
千手観音の千手を取りさってみれば、後に遺るのは十一面観世音菩薩だとすれば、本来、顔も千有ってもおかしくないはずだと、類推するのです。
この類推は、仏教の知識をなにも探ろうとせず、こう言い切ってしまう大胆さであり、おそらく専門家の方からは叱責を買うことは目に見えているが、そう考えてしまうのです。
こう書いて、なぜ十一とか千というたくさんの顔にこだわるのかといえば、人が一つの顔しか現さないときをふと浮かんだからです。それは、人の死に顔ではないかと。
「安らかな顔、眠るような顔、いい顔をしている。あまりの穏やかな顔に、ふと眼を醒ますのではないかと錯覚しそうな」と、人が一つの顔しか見せないことに、これが死の姿でもあるのだろうと気づいたからです。
そして、ある時、十九歳の女の子のプリクラ帳を拝見する機会がありました。
もちろん、その子のご両親から見せてもらったときのことでした。多分、二百枚以上の三百枚はあったかも知れません、プリクラの自画像収集でした。一回目を通したとき衝撃は、どれも、華やかな、楽しげにして眩しいものでした。しかし、くりかえし見て、この子の残したかったものは、言いたかったものはと考えたくなりました。カメラに向かって笑顔をした顔に強烈なライトが当たり、自分の隣に並ぶ人は変わるものの、目を見開いて、レンズに向かう顔や姿に、楽しかった一瞬の収集に見えたからです。しかも、みな同じ顔だったことに、なぜか、ひっつの顔のイメージが、死に顔を連想させ、なぜ、もっといろいろな顔をしていないのだろうと、十一面の姿を思いだしたのです。
考えてみれば、相手の顔は三百と違うものの、三百の楽しさの表現を一つの顔で現す子といえばよいのかもしれないが、奇妙に見えたのです。この楽しみの顔を、死に顔とはいえないものの、なにかおかしい。
そこに、この子の求めていたものがあるはずだと、三百という機会を、この子は、街角のプリクラ機で証明して、収集したことになる。この子が何故か、不憫に、哀れに、悲しく思えたのです。
三百という機会の巡り会いに、その数以上の、この子の顔が有ったはずです。その顔を見たかったのですが、あまりにも強烈なプリクラに圧倒されてしまいました。

松山鏡(ソクラレストとヤージャニダッタの続き)

松山鏡(ソクラレストとヤージャニダッタの続き)

 《舎衛城(シャエイジョウ)に住むヤージャニダッタは、鏡に写る自分の美貌を楽しんでいたが、ある日、じかに顔を見ようと思ったが見えないので、鏡中の像は悪魔の仕業であると早合点して、怖れて町中を走り回ったという、自己を失った愚かさの故事。その後、変わり果てたヤージャニダッタは、友に話を聞いてもらいました。友人はやさしくさとし、ヤージャニダッタは普段の彼に戻ったのです。》

  鏡に写る自分の顔に、鏡をとおさず自身で直接にふれたいものだと思ったのです。本当の姿という幻想をいだき探し求めようと、もがき遍歴する試みは、人間の追求してやまぬ心の構造を物語っています。
 そこに鏡が登場して、写されているものに、写す自身の心の歪みが写されているものが、物語りとなります。

この故事が、臨済録・示衆(じしゅう)にあります。「なんじ、ただ一個の父母有り、さらに何物を求めることがあるだろう。なんじ自ら振り返ってみなさい。古人云く、演若達多(エンニャダッタ)は頭(こうべ)を失った。求める心がなくなったとき、無事がおとずれる」と。

  「ただ一個の父母」とは、本当の自分のことです。演若達多(エンニャダッタ)は、この話の原型ヤージャニダッタという主人公の漢訳名です。そして、この話が中国から日本に伝わって、昔語り、謡曲、落語として伝わっています。

昔語りの松山鏡(まつやまかがみ) 

  松山鏡は、越後国、松の山という地に、貧しく暮らす、父と母、それに娘三人の物語です。 
  ある時、父が、山や河、難所を幾つもこえなければ行くことができない京都への旅に出ました。一ヶ月がすぎ、やっと自宅に帰ってきたある日の夕方のことでした。
大きな荷物を背負って、旅支度をといた父は、晩になって、大荷物をといて、中から細長い箱を取りだし、約束のお土産を娘に手渡しました。
  それはそれは、かわいらしく、都の匂いのするお人形さんやおもちゃでした。
そして妻には、銅製の鏡を、渡したのでした。二人の喜んだことは申すまでもありませんでしたが、妻にとっては、鏡は手にすることが始めてで、知らなかったのです。
  そんな妻の様子に、夫は、やさしく、「お前、それは鏡といって、都へ行かなければ手に入らないものだよ。ほら、こうして見てごらん、顔が写るから。」といいました。

  そして幾年かは、三人で平和に暮らしていたのですが、、娘が15才になったとき、母が具合を悪くしました。母の病気は重くなり、もう今日明日の命となったときの、その夕方。

  母は娘を、枕元に寄び、やせこけた手で、娘の手を握りながら、「長い間、有り難う。わたしはもう長いことはありません。これは京の土産にお父さんから頂いた、だいじな鏡です。この中にはわたしの魂が込めてあるのだから、いつでもおかあさんの顔を見たくなったら、この鏡をのぞいておくれ。どうか、わたしの代わりになって、おとうさんをだいじにして上げて下さい、たのんだよ。」といって、鏡を渡したのです。
娘は、目にいっぱい涙をためたまま、いつまでも、うつむいていました。

  それから間もなく、おかあさんは、息を引き取ったのでした。あとに残された娘は、悲しい心をおさえて、おとうさんの手助けをして暮らしていたのですが、寂しさがこみ上げてくると、娘はたまらなくなって、「ああ、お母さんに会いたい」と、鏡を出しました。

  するとどうでしょう、鏡の向こうにはお母さんが、にっこりと微笑みかけています。
 その後、お父さんは人にすすめられて、二度めのお母さんをもらいました。
 娘は、今度のお母さんとも、先のお母さんのように、親しく暮らしていました。
 それでも、娘はやはり時々、先のお母さんが恋しくなると、そっと部屋に入って、鏡を出してはのぞき込み、お母さんに向かって、笑いかけていたのでした。

  今度のお母さんは、時々、娘が悲しそうな姿をしていることを気にかけていました。またそんな時、部屋に入り込んでは、いつまでも出てこないことに、心配していました。
 そんなことを繰り返すと、お母さんは、娘が隠し事をしているのではないかと疑って、だんだん娘が憎らしくなりました。

  お母さんは、自分の思いを、お父さんに話しました。お父さんは「私が見届ける」といって、娘の後から部屋に入って行きました。そして娘が一心に鏡の中に見入っている姿を見たのでした。
 娘は、父に驚きながらも、こうしてお母さんにお目にかかっているのだと話しました。
「お母さんは居なくなりましたが、この鏡の中にいらしゃって、いつでも会いたい時には、会えるといって、この鏡をおかあさんが下さった」のだと話したのでした。

  お父さんは、このしおらしい娘の心がかわいそうになりました。すると、その時まで次の部屋で様子を見ていた、今度のお母さんが入って来て、娘の手を固く握りしめながら、「これですっかり分かりました。何という優しい心でしょう」といいながら、涙をこぼしたのです。(講談社学術文庫より)

  謡曲の松山鏡

  この話も、昔話の松山鏡と同じように、母の形見の鏡をのぞいては、そこに写る母の姿を偲んでいる娘の姿があります。

  ある日のことです。母の三回忌の命日、妻の夫が、持仏堂へ向かったのです。すると、そこにいた娘が何かを隠そうとしたのでした。これは、世間の噂のどおり、新しく結婚した今の妻を、娘が呪っているのだと思い、しかるのでした。

  しかし隠していたのは亡き母の娘に託した鏡であり、娘は鏡の中に浮かぶ、母の姿に思いを馳せ泣いていたのだと気がつくのでした。 

  そうした状況の中、持仏堂の中には、地獄から娘を心配する母の霊が現れ、鏡にまつわる説話を語ります。さらに、母を連れ戻そうと地獄から倶生神が現れます。その鏡は、同時に過去の母の娑婆での罪科が写る鏡でもあったのです。倶生神が、鏡を母に見せましたが、そこに写っていたのは菩薩の姿でした。
娘の母を思う心が、倶生神の心をうち、母を連れることなく地獄へ戻っていったという謡曲です。

落語の松山鏡

  越後の国の、松の山村に、百姓の庄助という男がいました。24才の時、父庄左衛門と死別し、妻はもらっていたものの、以降18年間というものの、毎日、両親が眠るお墓に、花と線香を欠かしたことがなかったのです。そのうち、村人から、孝行ものの庄助と噂が立つと、越後の国の領主に知れることになりました。庄助にとっては、貧乏で生前に親孝行ができずにいたことを悔い嘆いてのことだったのでした。

  名主の権右衛門共々、領主のもとに召され、褒美を下されることになったのですが、庄助は褒美は一切いらないから、できるなら父親に会わせて欲しいとひれ伏します。

  そこで、領主は、「いかなる無理難題でもお上の威光をもって、必ず庄助の望みをかなえさす」との約束を案じて、庄助に鏡をみせます。庄助は、鏡に映った父親の姿に大変感激します。その鏡は、朝廷より国の領主の印として預かった、八咫(やた)御鏡(みかがみ)であり、殿様は、「子は親に似たるものぞと亡き人の恋しきときは鏡をぞ見よ」の歌を添えて男に鏡を与えたのでした。

  庄助は、殿様に言われたとおり、誰にも見せず、鏡を納屋の中にしまい、朝には「お父っつぁま、行って参ります」と出かけ、夜は「ただいま帰ってまいりました」とやっております。

  これを妻が勘違いし、「夫の様子がおかしい。納屋になにか、隠しているんじゃないか」と、疑いだしたら切りがありません。ある日、夫が出かけた後、納屋に入り、鏡を見つけてしまったのです。

  妻も、鏡を見るのは初めてなので、鏡に映った姿に、「どうも様子がおかしいと思ったら、こんなところにアマッ子を隠して」と、腹を立て、地団駄ふんで悔しがります。仲睦まじかった夫婦も、庄助が帰宅すると、この夜は大喧嘩です。そこに通りかかったのが、隣町の尼寺の尼さん、二人の話を聞き、一緒に問題の納屋に入りました。納屋にしまわれていた鏡を尼さんが見て、「中の女は、面目ないと思ったか、坊主になって詫びている」。

  今更、鏡を心と言い換えて読むなどとは、不調法というものです。庶民の賢さは、笑いや芸能に……。

真ん中(平成20年4月1日)

真ん中(平成20年4月1日)

 谷川俊太郎質問箱(ほぼ日BOOKS)という本があります。この本は、糸井重里事務所が運営するインターネットサイトの『ほぼ日刊イトイ新聞』が、64問の質問をメールにて受付、谷川俊太郎氏に答えてもらったものです。
 その質問は例えばこんなふうです。
 しょうごろう 36歳の人の質問。
『人間をはじめ、多くの生物って左右対称ですけど。なんででしょう?』
 谷川俊太郎さんは答えました。
『こういう質問には、科学的な答えってのがあると思うんだけど、答を知るとまたその先を、「なんで?どうして?」って訊きたくなるのが、人間なんだよね。
 でも問い続けて最後の究極の答は、多分科学には出せない。で、ぼくの答。
 いまある世界ははるかな昔、左右もない上下もない混沌から生まれてきた、私たち人間の内部には、いまもその混沌が生きてうごめいている。
 だけどそれを解放すると、この世界の秩序があやうくなるから、人間はときどき鏡を見て、あるいはステレオを聴いて、あるいは三次元映像を見て、目も耳も二つずつある左右対称を楽しみ、確認して安心するのです。』

 左右対称を楽しむとは、バランスがとれているという意味でしょうか。それは地球の引力に対してもそうでしょうけれど、目は三角法の測量により長さを測ることにより、耳は、音源の移動に、相対的な位置を知る働きがあるからでしょうか。
 この左右対称は、対象を捕まえる、追いかける、ものを投げる、水の中に泳ぐ、愛し合うためには不可欠なものであるけれど、それを意識したとたんに、左右はばらばらの動きに、自己はコントロ-ルを失うものです。だって、われわれの手や足は、右や左と意識したら、思うように手や足を動かせないからでもあります。
 それよりも、意識して右足を出し、左足を出してと歩むことはスムーズではありませんことから、左右の間にいるものは何ですか?と、問いかけてみたいものです。
 『人間をはじめ、多くの生物って左右対称ですけど。なんででしょう?』の疑問は、生物の左右対称という在り方だけではなく、人の考え方や、見方となってもいます。そして、左右対称の在り方見方は、左右対称を意識しないことに成り立っているように思えます。 たとえば何気なしに行っている行為に、紙を半分に折る場合があります。左右の端を合わせることで、中心が浮かび上がってくるようにです。
 これを人間の場合で考えてみると、上と下、右と左、さらには、好きと嫌い、損や得、順や逆、西と東、始めと終わり、相対的なものを知ることで、人の位置を知る働きがあるといえるでしょう。
 順や逆、始めや終わり、左右や上下、損も得も、つまり相対的な関係は、我々の位置をはかるものです。そして相対的な関係のものには、必ず、真ん中があることが不思議なことです。 
 谷川俊太郎氏は、「いまある世界ははるかな昔、左右もない上下もない混沌から生まれてきた、私たち人間の内部には、いまもその混沌が生きてうごめいている。」と言います。
 仏教が中道を指向する理由も、この辺にあるのかもしれません。
 その混沌の働きとは、左右という世界に生きて、左右にとらわれない働きとすると、どう考えることができるでしょうか。
 谷川俊太郎氏は「確認して安心するのです」ということで、その混沌というものを含めて在るものに迫りません。しかし、混沌というものこそ、人間を人間たらしめるものではないかと考えさせられます。それが真ん中ではないかと。

 その真ん中を知るための試みとして、左右や損得という相対的な関係にあえて踏み込み、
損しても減らないもの、得をしても増えないものを考えてみます。
 もっとも、「そんなの関係ない!」は、すべての繋がりを切るものですが、切ったと思っているのは自分だけで、考えてみれば、かえってその繋がりを浮き上がらせているものだとも思います。真ん中がです。
 でも本当に人間として、価値あるものは、得をしても増えないもの、損をしても減らないものの中にあるのではないかと思います。たとえば、偉くなっても偉くならないもの、稲穂のように。鬼になっても鬼でないもの、鬼の目に涙とかです。
 かって長安の都を目指して旅する僧に「大道、長安に通ず」と言った禅僧がいましたが、大道などはあり得ん、今の一歩が大道ではないかと、右も左も前も後ろに行くも含んで、真ん中自身を語りました。
 損しても減らないものとは、優しさとか、思いやりともいえます。いくら働かせても、働かせても減らないものです。もっともっと山ほどあります。しかし、これを知るには、自分中心としながらも、そこから出てくるものは右か左かという発想では思い浮かばないことでもあります。
 また、得をしても増えないものとは、気づきではないでしょうか。それは、人はもともと自己に欠けているものとして、さらには、思っても見なかった自分に備わっているものに気づくことではないでしょうか。慈愛や慈悲、敬いや、いたわりこそ、誰もが持っている真ん中自身、宝物ではないでしょうか。ただただ、気づくことです。
 そしてさらに、社会にあることわりや、自分にとって見えない道が見えたとき、これが大事ではないでしょうか。ここからは、恵みとか喜びというもので表現できるものです。 あるいは、感謝もよいでしょう。私は、よく混沌の悲しみと言います。それは、もともと持っていたものを相対的世界に生きるために失うことです。失う必要性などあるわけはないのにです。
 こう考えてみると、順や逆、損や得、好きや嫌いという相対的なもののなかに、それを超えるものがたくさんたくさん潜んでいるように思います。
 これを見つけようと、人は、揺れるものかもしれません。
 禅宗の祖師は、「境縁にはよしあしはない。よしあしは心から起こる。心がもし無理に分別しなければ、妄情はどこから起ころうか。暇な時は誰が暇なのか、多忙なときは誰が多忙なのかを考えてごらんなさい。そうすれば、多忙の時にかえって暇な時の道理があり、暇なときにかえって多忙の時の道理があることをきっと信じるでしょう。」と言っています。
 そして、『人間をはじめ、多くの生物って左右対称ですけど。なんででしょう?』から導き出したものは、
 右にも左にも左右されないもの、まして、真ん中にも左右されないもの、
 また、そこに在ることも、無いこともないものが、在るためにです。


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