ソクラテスとヤージャニダッタ
ソクラテスとヤージャニダッタ
陽岳寺の本山が、京都の妙心寺であり、宗派は臨済宗妙心寺派に属することをよく知っているという方々は、案外と少ないものです。山門の表札に『禅宗』と書かれていても、禅宗には今日、臨済宗、曹洞宗、黄檗宗が日本にあり、韓国にも曹渓宗という禅宗があり、台湾と中国にも、禅宗があります。
禅宗の起こりは、もちろん釈尊に始まります。そのことから、禅宗では釈尊を、始祖(しそ)と言います。そのインドから中国に六世紀初め頃飛来した禅宗の使者は、達磨さんですので、鼻祖(びそ)と言います。その中国で、八世紀九世紀に、禅宗は大いに栄えました。禅は、内なる心の実践であり、その外に顕れた形が、坐禅であり、黙想であり、やがて、生活全般の行住坐臥まで含めて、哲学的、或いは観念的に思想として形成して行き、やがて、五家七宗の彩りを数えました。その中の一宗派が臨済宗であり、臨済義玄( を宗祖(しゅうそ)と言います。日本に渡って、臨済宗は十四派に分派しましたが、江戸時代に白隠禅師を出した妙心寺派が、今日、最大の派閥になっております。
坐禅には二つの方法があると言われております。一つには心を安定させるため、瞑想に近く、ストレスを癒す働きを求めるための手段としての方法でもあります。二つには自分を無や空という概念、或いは宇宙とか虚空という概念に成りきるそのことが、本来清浄なるところに立っているということであり、自己が消え失せた状態としての坐禅と言えるのでしょう。前者は、スリランカ、ビルマ、タイに残り、後者は、中国、日本、台湾に伝わりました。また前者を、上座部仏教、後者を大乗仏教と喩えると、更に意味が解ると思います。
達磨が伝えた禅は、「心が牆壁のごとく、木石のごとくなるように心を内に向ける壁観」と伝わっており、この実践を求めることから始まりました。
初期の禅の代表者である縁法師は言います。
「一切の経論は、心が起こした不始末のあと始末にすぎぬ。道を求めるという心を起こすと、つくろいが生まれる。心を起こさなければ、なんで坐禅が必要であろう。つくろいが生まれなければ、なんでわざわざ念を正すことがあろう。道という心を起こして悟に入ることにこだわらなければ、道理も事実も何もない。」
動かぬ前の心に還れと、それは、あっちを立てこっちを立ててと見通すのではなく、見通す前の心に還れと言いました。見通す前の心とは、自分に返れと言うことであり、自己を捕まえようと言うことであり、自己を理解すると言うことです。その自己は、自意識という確実にあるという物ではなく、自己とは働きそのものですから、じっとしている自己だったら捕まえることもできるでしょうが、動いている自己を捕まえると言うことは、捕まえようとする自己も、その働きと一体になることで、捕まえることができるわけです。捕まえた自己はさっきまでの自己ですから、はからいを止めることでもあります。
どうして、そうしなければならないかというと、これは私たちの世界の見方を、違う角度から見つめなさいと言うことでもあります。違う角度から見つめるとは、違う角度の見方が別に存在すると言うことではなく、本来、その違う角度の見方しかないモノを、私たちが暮らす現実生活の物差しが、過去の事物と、現実の事物と比較対照することによって成り立っているという錯覚です。その錯覚を尺度としている限り、違う角度からの見方を得ることはできません。
臨済義玄のことを記した『臨済録』という本があります。その中に、ヤージャニダッタの故事があります。
『修行者よ、時の過ぎるのを惜しめ。君たちはわきみちにあたふたと、禅をおさめ道をおさめ、名目をあてにし説明をあてにして、仏をさがし祖師をさがし、友人をさがして、見込みどおりにやろうとばかりする。まちがってはならぬ。道の仲間よ、君たちにはちゃんと一人の父母がいられる。いったい何を探すのだ。君たちは、自分で自分を映し返してみるがよい。古人もいう。「ヤージャニダッタは自分の首を失ったが、欲求心がやんだとき、そのまま何事もなかった」と。』(舎衛の町に住む美貌の青年ヤージャニダッタが、鏡に映る自分の顔をみて、いちど自分の顔そのものを直接に見たいと思いつめ、どうしても直接見ることのできない自分に、発狂してこの問題をすり抜けるかの時、友人に教えられて正気に戻ったという、首楞厳経の故事。)
眼は眼自身を見ることができません。このことの示唆する内容も、ヤージャニダッタの故事と内容を同じくするものです。私たちは、私たちの正確な姿を見ようと、可笑しくないかと、似合っているかと、鏡の中の私たちを映します。正しくは、左右逆の映像であり、大小、或いは特定の波長の色を付いていることがありますが、やはり、自分の姿を映したものに過ぎなく、生の自分ではありません。何年か前に、鏡を三面鏡でなく、二面鏡に正面をガラスにして中に水を入れて、それに、自分を映すと、自分の姿が、左右変わらずに映すことができると考案して売り出した人がいましたが、現実とは何か、正確さとは何かと問い続けることから出てきた答えとも見えるのですが、ジレンマを含んで、面白い。
かって、神戸新聞の随筆覧に、久米正雄氏という人が、「不思議なことに人間は、自分の顔というものを遂に見たことがなくて死んでしまう。目玉と視神経とを長く伸ばして一度ジカに自分で自分の顔を見たい」と書き、斎藤素厳氏は「往来でふと飾窓や鏡にうつる姿をみて何ていやな奴だろうと思うと、それが自分なのである。自分の顔が見えないことは私にとって偉大な救いだ」言うことが、中山延二氏の著作《世の中》に書いてあります。それと同じように、自分を知ると言うことも、映す自分と、映された自分の関係と同じように、「不思議なことに人間は、自分というものを、遂に知ることがなくて死んでしまう。」のでしょうか。
知らないことを知っていると思うことと、知恵がないのにあると思うことと、死を恐れることは同じだ」と言ったのは、ソクラテスです。知らないことを恐れるなと言っていることと同じです。
ソクラテスは、『死を知っている者は誰もいないのに、人々はまるで死が最大の害悪であるとよく知っているかのように、死を恐れる。これこそ、「知らないのに知っているいると思う」という、最も不面目な無知にほかならない。私は、あの世のことはよく知らないから、その通りにまた、知らないと思っている。』から、死を恐れるものとは思わないと、《ソクラテスの弁明》の中で言います。
ソクラテスは、「ソクラテスよりも知恵ある者は誰もいない」という、デルポイの信託の意味を訪ねて、多くの知恵ある人を訪ねます。そして「わたしは、知らないことは知らないと思う。ただそれだけのことで、勝っていることを知る」のです。そして知ったことは、この信託の否定できないことの事実となり、神だけが本当の知者であることをも知るのです。ソクラテスの“知の探求”生活スタイルの、自分は知恵に対してはじっさい何の値打ちもないのだということを知りえるための旅は、結局、神を実証する旅であり、神の指示にしたがっていることにもなります。
「ほかでもない君たちが自ら信じきれぬゆえに、寸時も休まずさがしまわり、自分の首を放っといて他の首をさがして、自分でやめることができぬのである。完全で本来的なボサツでさえ、理法の世界にあらわれると、浄土の中にいながら、凡を嫌って聖を慕う。こんな連中は、よりごのみの心がふっきれないで、汚れと清浄という分別を残している。しかし、禅宗の考えというものは、そうでない。ずばり現在であって、何らの時間的限定がない。」と、臨済が言うヤージャニダッタの故事は、ソクラテスに似ます。
知の探求は、自分の探求であり、神仏の探求でもあり、一人一人のそれぞれの心の問題です。
その心は、「君たちの一瞬の疑いの心が、土という要素に自分を固まらせるのであり、君たちの一瞬の渇愛の心が、水という要素に自分を溺れさせるのであり、君たちの一瞬の怒りの心が、火という要素に自分を焼かせるのであり、君たちの一瞬の歓び心が、風という要素に自分を舞い上がらせるのである。」であり、その為に、土と水と炎と風の中で、形を離れ、その意味の完成を求める~!ことを、臨済は言います。「心は無形にして十方に通貫し、目前に現用す。人はそのことに思い至らないため、すなわち、名を認め句を認め、文字の中に向かって仏法を意度(いたく)せんと求む。天地遙かにことなる。」と。
禅は、真実と事実を見極めることを第一と、人を育てます。つまり、自分を見失うことを嫌うのです。それにはどうしても、ソクラテスのようにヤージャニダッタのように、自分を、知を追いかけなければなりません。人は、近くを追いかけて遠くを見失い、遠くを見つめるあまり近くが見えなくなります。事実は、それを見てうかがう人によって、正反対にも、いかようにも変化するものです。事実を、世界の表現とするならば、真実は仏や神です。その仏や神は、事実の中に宿るとも言えるのです。
蓮(平成14年6月2日)
蓮(平成14年6月2日)
お寺の本堂の仏壇には、金の蓮が飾ってあります。この花の意味など考えたこともないことに気がついたのは、タゴールの詩集”家なき鳥”だった。この詩の中で、貧しさの中に必死に生きる少女の言う言葉が胸を打った。
「蓮は、花を付けて種を沢山、数多くの筒の中に蓄えます。やがて季節が変わって風が吹き、種を播いて、多くの株がまた誕生するのです。そのことより、富と豊かさを表す」と、言うのです。
そう言えば、釈尊はアーリア系の人種であり、ヨーロッパや中近東などでも、池に蓮を咲かせて愛でる習慣があることに気がつくと、発想は同じものなのではないかと思ったのです。
でも何故に蓮の花を供えるのか、そして、お経を唱えぐるぐると回る行道での読経に、蓮の花びらをかたどった散華をまくのも、蓮だ。拈華微笑(ねんげみしょう)と言って、釈尊が迦葉(かしょう)尊者に法を託したのも、蓮の花(金波羅華)だった。霊柩車の装飾も、仏壇の彫刻も、蓮は多い。金蓮は本尊の前に、具えられ、よく見ると、蕾と花、開いた葉に、まだ大きくならない葉、花の散った後の種を含んだサヤがあるのです。富を豊かさに替えてみて、実りと豊かさを象徴する考え方そのものは、やはり深刻な貧困や悩み、葛藤、患い中から生まれてくるものです。
でも、実りや豊かさなら、肥沃な大地に育つ植物なら沢山あるはずなのに、何故蓮なのだと疑問を持ちます。思い当たることは、蓮の育つ環境である、泥であることに気がつきます。それは、今自分が生きている、立っている湿潤で肥沃な足元なのだと気がつくと、嬉しさをもちます。また、その泥は、私の心とも言えます。そこから一歩も出られないことを忘れて、外にも向かって何ものかを求めてようとする、人間の無知をも示していると思うのです。
「お前達は、泥の中に住んでいるのだよ」と、その泥を多くの意味を持つものと置き換えてみれば、その中でしか生きられないことを知ることが大切なことだと思うのです。そして、そう知ることが、あの蓮の花が咲くことに、蕾に、多き広げた葉に、まだ、くるまっている葉に、花びらが落ちた茎にたとえられると思ったのです。その一つ一つが比較にならない、一つ一つの豊かさなのだと思います。
豊かさとは、今、多くの栄養分をもつ泥ではないかと、それを体中に浴びているではないかと、それが生きているということではないかと、すでに備わっている現実を知ることだと思います。すると、貧しさとは、そのことを知らずにもがき苦しむことと言えます。しかし、そのもがき苦しむところにこそ、豊かさの源泉があるとすれば、どちらも大切なおろそかにできないモノなのです。どちらも誠実に真っ正面から向かう姿勢こそ必要だと実感いたします。
仏教の至る所は、豊かさの自覚とも言えるのです。それが実りとも言えるのではないかと気がつきました。
誰でも、自分自身の姿を、あるがままに捉えることは難しいことです。何故ならば、自分自身の姿を捉えること自体矛盾を含んでいるからです。観察する自分と観察される自分の二つの自分が存在してしまうからです。どちらが真か影か虚か。
私にとっても、見つめなければならない私の姿を見つめてよと言われたのは妻からでした。それは平成12年12月13日、母の死においてでした。
2年間にわたる母の療養生活を必死に支えていた私の梁が、葬儀と納骨が終った後から、無くなってしまったことに由来するのだと思います。その少し前、母が療養生活で家を出て、私と妻と、二人の確かさをもたらす子ども達が住む家となって、私の気持ちが徐々に変わっていった気がするのです。
一つの平凡な家族でも、年月の変化に、家族の様相は、平凡なりに大きく変化するのは当然です。厳密には、それ以前から、父が亡くなってからです。ジワジワと進んでいた変化は、母にとっては寂しさと諦めの感情を生み、妻にとっても責任と不安を生んでいたことの進行形です。
一緒に暮らすことは、私も、妻の側に立ち、母をかばい、母の側に立ち、妻をかばうという嫁と姑の関係の中で、子であり夫であることの綾取りを繰り返していた。二世代家族同居に起こるさまざまなことの板挟みに、母の子離れを促し、妻の孤独感を乗り越えることをひたすら願って、男の中性化現象の見本のようになっていたことです。板挟みの中で、否、板挟みだからこそ私も揺れるのですが、私に見えないモノは、板挟みは私が作ったものだということでした。
のほほんと毎日を過ごしていた私には、自分自身が見えなかったと言えます。では、今は見えるのかといえば、情けない話ですがよく解らないことでもあります。でも母が亡くなってから見えたものは、それは父の死を通して夫婦というもののもろさと確かさ、そしてその夫婦がやがてどちらか一人になった時の、取り残された者のもろさを、母を通して見えたことは、哀しくも美しい母の心だと教わったことです。親しく亡くなった者を忍ぶとは、美しいし、悲しいし、癒されることのない時間に、一人佇まなければならない自覚なのだと、それが、死を真っ正面から受け止めることなのだと思いました。
母のそうした時間を体験している時、それは、励ますことの意味もまとまらなく、結局は、側にいるだけの私のうろたえている時間でもあったし、そんな私をじれったいと見ていたか、母と子という私の間隙に入ることの戸惑い、難しさを持った妻の時間でもありました。
いくら頭で理解していようとも、大きな亡くしたモノの跡にポッカリと空いた穴は、埋めて癒すことのできないものです。だから、哀しいのだし、涙が出てきて止まらないことでもあり、そこから生まれる亡くした者の行為は、理解できない行為と見えることでもあるのでしょう。亡くして始めて分かる私であり、身体に刻まれるこの味は、ほろ苦く、甘いものでもあります。
自分が見えないことは、人の気楽さですが、見えれば、いたたまれないことでもあります。父の最後に至る過程を見、そして、母の至る道を見て、知った老いたる夫婦の道筋は、同じものではないことは知るものの、実は私たち夫婦も、長く続く限りは、この物語は終わらないし、私たちがいなくなってもこの物語は、子供の代へと続く気がいたします。
振り出しに戻った感があるモノの、振り出しに戻ったのではなく、全ての愛と死は続きの中なのです。だから、終わることが始まりになり、始まりは終わりを意味してこの繰り返しの中に、私たちは時を刻んでいるのです。いずれは、私たち夫婦も、父と母が経験した、どちらかの立場になるのだろうけれど、今は想像することもできない。
母の全身から感ずる老いが進んで行くと、その先が見えるような錯覚に陥る。自分で理解することのその先は、自分に降りかかった現実ではなく、仮想の理解です。母が、現実に父と築いたこの家を出て居なくなって、この家は世代交代が進み、次の世代に移ったと言えます。父と母が去ったが故に出来上がったこの家族で、これからの寺と家の経営をしなければならないことを意味するが、私にとっては、往復に五時間かけてゆく母への逢瀬が、私の真価を確かめるものだと自分に言い、その行為に意味を付け加えていた。ちょうど二年間母はその病院で療養生活を送ったわけですが、毎週、欠かさず八王子の郊外の母が居るところへ通うことに、意味など見出す必要があるわけはないのだが、母の意志がわからなくなって始めて、母の価値を知ったのだと、たとえ意志が通じなくても、そこに行けば生きていることが、子にとってかけがえのない礎であることを知ったと言ってもよい。それは私たち家族が元気でいることを、母の願いなのだと知ったし、その願いに答えるためと、平和な暮らしが続くことが必要なのだとも知ったのでした。
母が具合が悪くなって、家族みんなで外食をすることが多くなった。それは、母の想い出を子ども達にも記憶させるためでもあったし、家族が一つになることが、お互いに共通の時間を外で持ち過ごすことも大きな意味を持つものと思ったからです。そのことが家族が元気に生きていることの証明となることでもありました。こうして、家族とは何かを築こう築こうとして時を織る。母が、入院しても、母がこの席に一緒にいられないことが残念に、後ろめたさを憶えることもあったが、母の居ない家族での外出は続いた。いないが為にも、時という反物を織り続けることによって、縫いつける作業をしなければ、その時の意味を失うかのようにです。
父や母が居なくなると、自分だけで飲みに出かける回数が増えた。それは空虚さが全身を覆うかのようにでもありました。このことを考えてみると、自分にとって、母を亡くしたモノの正体を探り当てられないことからくる仕業なのか。そのことを考えてみても自分ではわからない。自分の弱さなのか。それをジッと見守ってくれる家族にすまないと思う。多くの別れに立ち会って、それは、私にとっても別れでもあるのだが、真に自分に降りからなければ、この喪失感は理解できないことなのだろうが、時はまぎれもなく進んでゆく。しかし、そんなときに、高校3年生の長男が急に頼もしく見え始めてきたことは嬉しいことだ。それは、私が年を取って行くことを意味するのだろうか。長男の振る舞いと言葉に、私がうなずくことの寂しさと、うなずくことの心地よさを認めたとき、あと10年ぐらいで、世代交代が実現しそうな予感は、妙に安堵して、落ち着く。そのぶん、妻には、距離に隔たりができて哀しい。
多くは、土曜日、日曜日と法事は多いのですが、考えてみれば、いつも自分が座って見上げる全面に古くあか光りする金連は、実りと豊かさを投げかけ、その金連に挟まれて立つ、灯明は、自分の足元と道を照らす。仏道とは、自らが輝くことであるが、それは、自らの今を知ることでもあるのです。
心-KOKORO(平成14年6月25日)
心-KOKORO(平成14年6月25日)
修行の僧堂を出て、まだ30年は経っていないが、後数年で、30年が経つ。「更に30年!」と、禅録にはあったが、意気込みとしてならわかるが、そんなに人生の残り時間はない。
しかし、このホームページを開設して、何年か経つが、私は、未だに、何を書いているのだろうと、迷う時がある。情けないとも思うし、頭の回転がついていけないもどかしさが充満する。誰かを読者として、書いている場合もあるが、ほとんどは呟きのものでしかない。一体誰が、呟いているのかというと、生きて、一瞬たりとも動いている、それを躍動している自分と言うのだろうが、今、キーボードの上を走らせ、整理しながら、茨の道に踏み入らさせている。
禅とうたっているものの、果たしてこれが禅なのか、師匠を亡くして一人歩く道は、模索の道でもあります。不安定の上に、安定を見つけ、ひとときの憩いの時に覆う疑問が、一瞬のうちに、立場を翻します。それでも、追いかけているものは、心なのだろうとすれば、それは、私の禅です。揺れる自分の心を、突き止めようとして探す、試みなのです。自分の今の表現は、明日の自分ではなく、それでしかないと知るものの、それでも、ふと気がつくと探している自分がいます。だから猶、揺れるのでしょう。むしろ、揺れるそのものの中に、境涯を見つけようとする自分が居ます。
達磨大師は「外、諸縁を息(や)め、内、心に喘(あえ)ぐこと無し」と、無事これ貴人の主体を指し示しますが、無事が貴人の境涯であれば、活発に躍動する無事こそ、貴人の真価だと思います。
寺を預かっていることの意味を考えると、多くの”無事これ貴人”との接触で、その一人一人の”無事”を、理解することを心がける意味で、無事の内の自己を取り込むことが出来ればと、私なりにその表現を受け入れることの繰り返しの連続です。時に苦渋となり、感心し、時間に追われ、哀しくなり、同情し、何とかならないものかと考え、眠くなり、……様々な、私の無事です。
十牛図、臨済録、碧巌録、正法眼蔵、総ての禅録は自身の心を探す試みの軌跡です。探し当てた心の記録であるが故に、探心記と言えますが、そこで探し求めた心は、仏に通じ神に通じ、探仏記となり、探神記になるのですが、しかし、私たちがそれを読もうとしても、やはり、人の書いたものは、あくまで、その人の探心記であり、自分のモノではありません。自分のモノにするためには、どうしても、自分で心を探す試みの旅に出なければ、確信が持てないのです。
大いなる哉、心(しん)や。
天の高きは極むべからず、しかるに心は天の上に出づ。
地の厚きは測るべからず、しかるに心は地の下に出づ。
日月の光はこゆべからず、しかるに心は、日月光明の表に出づ。
大千沙界は窮むべからず、しかるに心は大千沙界の外に出づ。
それ太虚か、それ元気か、心はすなはち太虚を包んで、元気を孕(はら)むものなり。
天地は我れを待って覆載(フサイ)し、日月は我れを待って運行し、四時は我れを待って変化し、万物は我れを待って発生(ほっしょう)す。
大なる哉、心や。 《興禅護国論の序-栄西禅師》
上記は、鎌倉時代、栄西禅師の表した興禅護国論の序です。自分自身の強い探心の希求が、中国への旅に結びつき、探心の到りえた栄西の格調高い響きです。
未だ禅が知れ渡っていないこの時代に、禅を昂揚する意気込みが感じられますし、自分の発した言葉に、一歩も引かない熱い血潮に、触れると壊されるような、近づきがたいものがあります。それ故に、心ときめく言葉でもあります。
「大いなるかな今の自分の心や」と、この詩をそらんずると、生きていることの充実感、或いは、閑かな時の流れを感じて、大きく飛翔することが出来ると思います。
太虚とは、言い尽くせることの出来ないもの、語ることができないもの、太虚そのものとして体験したとき、これこそが、心なのだと、それを、無相の自己と言い、無心とも言います。余談ですが、私は、この心という字が、ブランコで揺れているイメージがあります。上から、紐で吊して、或いは、心の真ん中の棒の上を釘で留めると、回転するイメージを持ちます。だから何なのと言えば、それだけのことなのですが。
臨済禅師が言う「赤肉団上に一無位の真人有り、常に汝等諸人の面前より出入す、未だ証拠せざるものは、看よ、看よ」の、”一無位の真人”こそ、栄西禅師の言う”太虚”と同じモノであり、者とか物というと、何か限定できるモノでありますが、これは、限定できないモノであるがため、位がないモノであり、これが心なのです。
心とは、語り得ぬものであり、一無位と言い、無心と指し示すのですが、私がないことそのものは、やはり語ることのできないものです。その心は元気を孕んでいる。どうして孕んでいるかというと、実現した私が語らせるのだと言えば、元気とは、私の働きの源と理解します。私とは、この元気の働きの表現でもあります。限定できるモノ、語ることのできるものは表現された私です。では、その語ることの出来ない心の表現した私は、どうしてあるのと言えば、喜怒哀楽愛悪欲の七情の変化を思います。その一つ一つは、相と縁が織りなす葛藤、想い、感情だと考えます。
無相の相の字は、辞書に、「二つ以上ものが互いに関係しあうことを表す」とあります。具体的には、事物、木の姿を見る、仲間、関係しあうことに恵まれる、助ける、関係することの働きの意味ではありますが、結びついていることの意味では、縁と同じ内容です。この相と縁により、私たちの日常は成り立っていますが、喜怒哀楽愛悪欲の七情の発露、そして、意欲、創造等意識を含んだあらゆる行為の実体は、この相と縁という、ネットワークの表現でもあると言えるのではないかと思います。
心の表現は、表現された私です。そして、この表現の源は、相とか縁、ネットワークに依存しております。これは、私という人間が、父となり、子となり、和尚となりと呼ばれることで、相と縁の関係を物語っている事実であり証明できるのではないかと思います。その相と縁の表現の私を自覚することは、同時に、相と縁のネットワーク故に、母や妻、子、友人と言う他者を巻き込んで、相互の縁起関係を成り立たしめているとも言えます。この相関関係の自分自身の立場、今立っていることの根拠は、しかも、その相と縁のネットワークは、現実の事物かどうかは問いません。記憶や、イメージ自身がネットワークの産物だとしたら、例えば亡くなった人とのネットワークは、記憶の中で結ばれていることでもありますので、その記憶が亡くならなければ、無くならないと言うことが出来ます。実は、記憶自身も、イメージもネットワークと考えれば、そこから生まれる意識も、私を飾るもの、飾るものも私自身と考えられないでしょうか。
実在したものを亡くしても、記憶の中で生きている、人を亡くすという意味の困難さが理解できると思いますが、そのことも、心の表現なのですし、表現された私でもあります。
この心は、様々な差別・平等を通り越したモノとも言えますが、同時に、このモノを掴んだとき、山となり、風となり、火となり、水となり、雲となり、時となり、今となることが出来ます。古来、悟りの現前と言ってきたものです。
この相や縁というネットワークを張り巡らせながらも、無とするところに、自己を置けば、一無位の真人は、具体的な事実として、”あるがまま”という事実が顕現すると言えます。このあるがままこそ、無相の自己が顕現した心-KOKOROと言えます。
ワールドカップを見ていて、自己実現と言う言葉を、何度か耳に致しました。妙にこの言葉が引っかかります。自分は自分さと、意味など理解してなくて、頻繁に親や友達に抵抗し使っていた若い頃の記憶がありますが、その自分も年を取ってみれば、よく言う”おじさん”そのものの実現された自己なのかも知れません。生きることは、自分らしさを実現するためと思うものの、その為には、何よりも自分に誠実なことが大事なことだと、何事も真剣に受け止めようと、その受け止めた今の自分の行為に、誠実さがあふれていれば、それこそが自己実現なのだと思う今日この頃なのです。
独り暮らし(平成15年4月12日)
独り暮らし(平成15年4月12日)
自分を語ることって、そして語れることって、更に語れる相手を持つって、人を助けるなって続く思いました。独り暮らしのお年寄りの家に訪ねる機会があります。
身体を気遣って、「どうですか?」「いかがですか?」「体調は?」などと訪ねると、思った以上のことが返ってくる場合があります。老人性鬱病の持病があり、精神科に通っているのですと、ケロッと言われると、思わず、「本当ですか?」と、今、話す相手がそんな症状を持っていたことなど想像が付かないほど、ビックリするときがあります。
本人も、「私は、何の隠すことも嫌だからと、どんどん話してしまうんです」と言う。その話の内容は、自分に降りかかってくればゾッとする内容の怖い話しだ。
家の中で、独り閉じこもって、自分が自分を外部と閉ざしてしまうことに、抵抗できずに、その家の中も、自分が居る場所すら我慢ができない場所と変わって、ひたすら震えながら気分が過ぎ去るまで、閉じこもることしか選択肢がない気持ち。その時の自分が何をしでかすかわからない恐怖。それこそ、刃物を持ち出し自分を傷つけるか、一歩外に飛び出し、他人に抱きついて世間の避難を浴びてしまうかも知れないことを、高らかに話してくれたりする。七十才近くのお年寄りの言葉にしては物騒な話しを、開けっぴろげに話されることに、この人の生命力を思います。それはうかがい知れない過ごしてきた苦しい時間に、耐えて変わってきた自分を、「隠してもしょうがない」「敢えて、話せる相手には、話してしまうんだ」の言葉が表しています。
そうなんです。こうして自分のことを、誇張しながら?話ができることに、いや、できるようになったからこそ、鬱病という怖い病気と付き合うことの姿勢がうかがえて、この人を、たくましく感じるのです。
とある女性は、「何でも聞いて下さい」と、言う。亡くなられた夫の話をし、こうして上がり口で対話していたことを思い出しながら、話していると、急に涙を見せながら、「ご免なさいね。涙もろくなりまして」と、時間を忘れて話し出す。「そうなんです、そうなんです」と、何度でも話す。話すことによって、独りぼっちになってしまった今の自分の、後戻りできない自分の、どう過ごして行けばよいものか、前に進めない揺れる心を表している。これが、独りになることの苦労、試練なのだろうと、辞して思います。
お年寄りの、と言っても、六十五才を過ぎての独り暮らしが、多くなったと実感する、今日この頃なのです。
平成15年4月13日
年老いて、亡くしたものの、帰ってこないという実感は大きい。午前、訪ねたくとも、足腰が弱って、訪ねることができなくなってしまった静岡に住むお年寄りと話していて、主人が亡くなったことより、息子が亡くなったことが、もう4年経ったのに、こたえると、しみじみと話していた。嫁さんはどうですかの問いに、今でも、耐えられない時間を過ごしていると聞く。電話してみようかなと思うが、つい、忙しさに紛れて、時間が経過していることに気づく。鬱病は怖いし、その時以来いまだに後を引いていることに、息子や娘が支えるだけ支えていることに希望を持ちながら、考えを止める。
もう頑張る必要はないかもしれない。頑張ろうとすればするほど、思い出すことが多くなり、余計に、楽になれないとするなら、頑張ることを止めることも必要なのだろう。でも、それができれば、こんな悩むことも、落ち込むことも、苦労はない。無責任なことだが、そうやって問い続けていることが、一生懸命に生きている姿に映ります。
もう、立ち直ろうとしない、立ち直ったところに何があると問えば、それで、いいじゃないの。立ち直った世界はどんな世界で、どうしなければならないとしたら、余計にストレスがたまります。
今の貴方ではいけない、しっかりしなさいと励まされることに、立ち直った自分は今の自分と同じか別かと問えば、立ち直らなくてもいいじゃないの。喪のまっただ中にいること、そのことが、苦労なのだから。どう考え方を変えたとしても、変えられない自分がいることが問題だとしたら、考え方など変えない方がより自然です。まっただ中は、問い続けることの連続です。その連続した時間こそ、今の自分を正直に表現するものであり、それを苦労と言うのだと思います。
自分の行く末より、亡くなったものの行く末を問えば、彼方の世界から帰ってきた者など、いまだかって一人もいないという事実こそ確かなものです。彼方の世界に行った者の意志を覗けば、その意志によって帰りたいと思わない世界が現存するとみることもできます。だって、本当に、絶対、誰も帰ってきたことはないのですから。
問題は取り残された私なのです。閉じ込もった私なのです。そう思って立ち止まったとき、自分の行く末が現れます。
今朝、独り暮らしの66才の女性の家を、久しぶりに訪ねました。昨年の10月親しかった友人を突然亡くして、考えることが多いという。まだ若いし、丈夫だし、誰か再婚相手はいませんかとの問いに、こう答えた。
「いっそのこと、大きな家に、みんなが寄り添っていける場所があればいいですねと。仕事ができる人はそれを仕事に、料理が好きな人はそれを仕事に、掃除が好きな人はそれを仕事に、テレビが好きな人はそれを仕事に、具合が悪い人はそれを仕事に、仲の良い夫婦はそれを仕事に、おしゃべりが好きな人はそれを仕事に、針仕事が得意な人はそれを仕事にと、みんなが寄り添っていけて、どんどん新しい人が入ってこれる、そんな大きな家があったら良いですね。アパートに閉じこもるのではなく、みんなで閉じこもれる場所、いいですね」と共感して帰ってきました。言ったことに振り返り、きっと、色々な問題があるだろうなと、それでも、誰も排除しない大きな家が、地域に広がれば、それも、大きな家に違いはないかなと。
老いが、咲いていた!(平成16年7月5日)
老いが、咲いていた!(平成16年7月5日)
平成16年6月30日、午後八時、N氏の娘さんより、「父が、午後6時55分に、上野のN総合病院にて、亡くなりました。穏やかな姿で、きっと喜んで、生をまっとうしたことと思います」と、家族の誰もが、夫や父の死を、冷静に見つめる姿に、N氏が育んだ、N氏の家族らしい姿に、N氏の面影が浮かびました。
それでも、突然の訃報に、驚き、同時に、何故と言う言葉の先がありません。
お寺を使っての、葬儀の依頼に、先ずはいったん、家に休んでと、葬儀社のK商店を教えて、電話を切りました。
多分、午後10時ごろ、黒い寝台車に揺られて、家族は、「ただいま」と、帰宅したはずです。
傷つき疲れた貴方にとって、突然に居なくなるN氏の無念もさることながら、家族にとっては、やはり、N氏を喪失することの戸惑いがあります。
この夏の暑さは気になりますが、家族にとっては、やはり、自宅で落ち着いて、先ずは、この数ヶ月の移り変わりの日々を振り返ってみることが、それが、癒すことであり、悲しみ悼むためには、自宅にいることこそ、必要なことだと思います。それでも、家族にとっては、言葉を発しない、N氏の眠る姿を前にして、どんなに優しい言葉でも、励ますことの難しく、人の力の無力さを、覚えるときです。
そしてこのことは、N氏の旅立ちへの、最後の手伝いをする私の、戸惑いでもあります。
葬儀という時間を大切にするために、その数ヶ月、そして、それ以前の時間が、葬儀という形で収まるためには、家族それぞれが、自分の中で、記憶を書き換える作業が、受け入れるための時間が、必要なことだと思うのです。突然と始まったN氏の死ではなく、生きる希望を断ちきられた葬儀ではなく、N氏の生涯が、この葬儀により、後戻りできない人生を象徴として、実りある人生に終止符を打ち、新しく生まれ変わることの意味を、家族が共有できさえすれば、家族にとっても、旅立ちの意味が含まれると思うのです。
N氏が治療の中で、家族とともに、快方に向かうことを疑わずに、兆候の改善と、新たな発症の繰り返しの中、いずれはと予想していたものの、考えてみれば、予期できないことに、困惑していたのではないでしょうか。それでもN氏は、いつも強く、じぶん自身の快方を信じて、周りには、少しも弱さを見せませんでした。この強さゆえに、突然と襲う不幸なのです。
家族が落ち着いた頃を見計らって、翌日の午後4時、電話を入れて、再度、お話しを聞きながらも、病床にて、「すべてを治して帰るから」と語るN氏の気持は、暗くなる気持ちを吹っ切って、家に帰るのだと、強い未来への決意を知ります。
きっと、病床にいても、「有り難う」「心配するな」と語りかけ、人をいたわるN氏の思いやりの言葉が、たびたびと、家族に安らぎを与えと、これは、貴方の自分に厳しく、人へは、思いやりの証明でもあるのでしょう。
そして、何度も何度もぶり返す体調の変化に、家族が、N氏のために時間を費やすことが増えることに、「すまない」と悔やみ、「申し訳ない」といたわり、「もう少し待ってくれ」と、いぶかりながらも、その葛藤を見せない、強いこころざしにおおわれていたのだと思います。
N氏が病床にて眠る様子に、そっと帰宅した家族に、どうして電話をできたのか、「どうして黙って帰ってしまったのか」と、N氏の葛藤が顔を出します。
3月の半ばに、N氏がちょうど入院した頃、お寺では、N氏の家族が彼岸の墓参に来ないのを、いぶかっておりました。そして、入退院の繰り返しに、5月、お施餓鬼の返事が来ないことに、何かあったのだろうと想像するも、頼りがないのは無事のことと、平穏を装うことでもありました。
そんな中、体調のゆっくりと進行する変化に向かって、6月10日に再入院し、N氏の更なる仕事を持ち込んでの強い意識が、周囲をなごませるのでしょうか、そして26日、急な体調の変化が襲います。
このことは、考えてみれば、N氏の知らない出来事が、N氏の何処かで進行していることの、それは、私たちの将来とか未来というものの、不確かなものの証明です。
そして、その不確かなものに振り回されるより、不確かなものを現実の事実として、病床で、受け入れたN氏に代わって、その不確かなものを、観念でしか受け入れることしか方法を持たない私たちの作業が、如何に、動揺をきたすか、N氏は、知るよしもないのでしょう。
また、夫婦にとっては、共に築き上げようと誓った家庭が、誰も替わることの出来ない、私一人で立たなければならない、この夫婦の過ごした年月の意味を見いだし、何を語らなければならないのかと、考えなければならないことほど、辛いことはありません。
むすめ達にとっても、父の様態と、意欲に揺れて、そこに荒れ狂うの時間の流れに奔流され、時の流れを止めることのできない不安と、自己の苦痛に襲われることの、繰り返しの連続する時間を、家族は、持っていたはずです。
それでも、29日まではなんとか、N氏の意志は強く、その思いは、気づかないことです。
火葬場より寺への、車の中で、
「そう言えば、3月、むくみで入院したとき、先生が、この状態でゆけば3ヶ月持つかどうか心配ですと、おっしゃいました。でもまれにですが、治る方もいるのですの言葉に、父は、勝手に、その治るほうに、自分がいるのだと、受けとったのです。あとになって、先生が、そんな父を、微笑みながら、見つめていました。たった数パーセントの確率を、父は、それが100パーセント自分にあるのだと、思ったみたいで……。」と、娘さんが語りました。
家族にとっては、N氏の症状の変化は、ゆっくりとした症状の変化に見えたのでしょうか、「もしかして」と、N氏の死が浮かぶものの、N氏の強さに、気持ちが救われることの繰り返しの日々を持っていたのでしょう。
28日、29日と、意識を保ってはいたものの、もしかしてと、この二夜の、病院で、もっとも尊くて、短い夜を過ごしたのだろうと、朝が、来なければよかったのにと……思います。
そして、30日、早朝、急変し、突然として、N氏の意識は、夢の中に、入ってしまったかのようです。同時に、N氏の意識が薄れたあとのN氏の事実は、N氏が知るよりは、家族が知る限りの事実の変化になりました。
考えてみれば、たった十数時間のことです。77七年の生涯のたった、十数時間の大きな変化でした。
人にとって、年齢を重ねるということは、本来、より自分を見つめるという意味があります。でも、現実には、次々と与えられる試みに、未だ来ない時間に、着実な自分を重ねて、今という時間を、走っていたはずです。
過去や未来が与えられ、築くものとするなら、もう与えられない、もう築くことが出来ない未来を前にして、さかのぼることのできない過去をどう私達は、保てばよいのでしょうか。
いくら思い出して豊かな時間が続こうが、なつかしい経験を思い出しても、過去は夢のまた夢です。
だからこそ、築き上げた時間の、失うことを予感して、N氏の生涯を受け入れるという作業が、大切なのだと、充実した生涯だったと、N氏は、今、喜んでいるのだと、娘さんが繰り返し語るのです。
それでも、幻のように思ってしまいます。その嘘のような幻のような日々は、夢の中の事実でもあります。
事実が記憶に刻まれ、過去の事実として、思い出になります。しかし、現実を隠して、記憶に刻まれることもあります。また、いまだかって、未来の事実が、記憶に刻まれたことはないのですが、あのとき、こうしていればよかったと、事実でない未来が、記憶に刻ますこともあります。
記憶に刻まれたという事実は変わらぬものの、現実の事実かどうかは、過去の思い出ということだけでは、わかりません。その解からないということが、人の夢の、儚さであり、過去の思い出の懐かしさや苦渋に繋がります。
人って、支え合って生きるものですが、夫婦の日常の生活は、意識しなければ、共にしっかりしようなどとは、普段、思わないものです。
それは、季節が、人の意識に寄り添うがごとく、いつも一緒にあるに似ています。季節の花々の違いのようには、人は咲かないものなのでしょうか。年毎に、年齢を重ねて咲く、今年の花々にたとえて見たいものです。散る前に、もう一度、そして、何度も何度も咲きたかったと、N氏の声が響くようです。
不思議に老いの姿が似合わないN氏でした。N氏の、それでも、77才という年齢の、一途に自分を生かし切ることにたけたN氏は、人生に定年はないのだと……、心に強く想いがあればこそです。普段とかわらぬままの、N氏の老いとは、熟達した見識と知識の見事さなのかと、推しはかります。
病を抱え、傷ついた人間を、自然の老木にたとえて……、若木に比して人を圧倒する姿は、本来、人も年をとればとるほど老齢の枯木に似ている姿なのですが、異なって見えるのは、人の思いのなせることなのでしょう。
人が年を重ねた末の、悲哀や年輪を偲ばせた変形した姿・形のたくましさを、もっと見つめてもらいたい。
あっという間の過去は目に見えず、若い人と年を重ねた人も、同じはずなのですが、N氏の77年は確実に違う重みを、昔から言えば、77歳はすでに老齢なのでしょうが、その老いが似つかわしくない老齢のN氏の枯木のくるおしい姿を見て、若さや勢いを見て、なおさらに持つのです。
通夜の夜、娘さんが、「父の写真をたくさん、棺(ひつぎ)の周りに飾ってよいですか」と、聞いてきました。
私は「どうぞどうぞ、おいて下さい」と、写真を受けとり、棺の周りに立てかけて見えるようにいたしました。そして一枚一枚、子供の頃の写真、子ども達との写真、孫達との写真をうち解けた家族写真をおきながらも、一枚一枚見ながら、思わず嬉しくなりました。
今まで、N氏とせっして気がついて不思議に思っていたことは、若々しく老いた姿を見ることがなかったことです。繰り返し訪れる季節のなか、言葉を交わすことが少なかったとはいえ、30年以上にわたる付き合いのなか、いつも変わらぬN氏と接していたのですが、棺の中に眠るN氏も、77才とはいえ、老いた姿にはほど遠く見えました。
子ども達や孫達に、式場に囲まれて、もっと老いた姿を見せたかったなと、思っていたことでしたので、この写真には、驚きました。そして、人って解らないものだと、改めて、感心したのでした。
このことを、火葬場への車のなかで、娘さん達告げたとき、娘さん達が、答えました。
「そう言えば、私たちに接するとき、もちろん小さかった頃よりずっとですが、Nは、いつも父としての姿がつよく、そう言えば、子供の頃も、今の孫達に接するような、あんな姿は信じられないのです。仕事場に行っても、孫はどうしているか、今、何に興味を持っているのか、勉強はしているか、スポーツはどうだと、孫の話だけです。
いつだったか、私が、銀行で8万円を、置き引きにあったのです。父に電話すると、何だそんなことか。孫が事故にでも、何かあったのかと思った。ビックリさせるな。そんなことは、大したことではないと、そんなことで電話をするなと、言われたんです。父に、言われてみると、そうだなと、納得してしまうんです。マンションを買おうと決断しかねていたとき、父に相談したら、即座に、買えと言われ、私たちは、即決したのです。これからは自分で決めなければならないですね。」
孫達に囲まれ、ソファーの中心に座って、カメラに向かって、顔を崩すN氏の写真、それは、まさしく老いが咲いたN氏でした。