目次
輝いている時
夢中(ゆめのなか)
芝浜
江戸っ子
亀住町(平成13年7月1日)
モンセ・ワトキンス~夢のゆくえ~(平成14年1月3日)
新牌開眼
英霊(平成17年5月23日)
目覚め
よわい「齢」
また始めたらよい
三大聖樹(平成19年4月17日)
滅度(平成19年9月18日)
安住の地(平成20年11月15日)
心眼(平成22年3月1日)
とかくこの世は
とかくこの世は
祈り(平成17年11月29日)
品位(平成18年1月20日)
ニャンニーシンズ(平成18年3月1日)
鍵(平成18年4月25日)
チベット(平成20年5月1日)
SYOHOU
諸法
四十四の問い~ミヒャエル・エンデ
先ゆく輩
さき行く輩
祖師年譜
ダルマ
慧可
五洩霊黙和尚
石鞏慧蔵禅師
大珠慧海禅師
西川の黄三郎
馬祖道一禅師(馬大師)
五百生 百丈和尚
大梅山法常(752-839)
麻谷山宝徹禅師(平成12年1月27日)
鎮州普化(ふけ)和尚
寒山・拾得
虹の彼方に
ヘイヴン・ペックの場合―続貧しいけれど、豊かだった―
生前葬
平和を我らにーGIVE PEACE A CHANCE(平成13年10月31日)
ソクラテスとヤージャニダッタ
蓮(平成14年6月2日)
心-KOKORO(平成14年6月25日)
独り暮らし(平成15年4月12日)
老いが、咲いていた!(平成16年7月5日)
深濱-fukahama
死に顔
松山鏡(ソクラレストとヤージャニダッタの続き)
真ん中(平成20年4月1日)
百万回いきたネコ(平成21年1月1日)
夜来る鳥(平成21年1月1日)
だいじょうぶ、だいじょうぶ(平成21年2月1日)
無常への帰依
無常への帰依
希望(平成12年1月2日)
葬式坊主
泥棒
赤とんぼ
老い
……ロス
後姿
寿陵
ついで参り
目標
六道を行く
もの言わぬ羅漢達…揀択をこえて…
宮本武蔵
五合庵断章(平成10年10月17日)
K子さん!(平成12年7月19日)
今は昔
十一面観世音菩薩
尽七日忌(平成19年5月1日)
OSYOU
OSYOU
この手のひらに―禅僧の死―(平成10年11月18日)
戒(平成10年7月25日)
幽霊
みんな仏教徒(平成10年5月27日)
最後の晩餐(平成10年5月23日)
禅問答(平成10年5月31日)
分銅
天国は汝ら自身に宿る(平成10年11月24日)
宗派
穢れ(平成12年8月30日)
お彼岸
仏心
仏心
ご祈祷
施餓鬼会にて(平成17年5月28日)
永遠の命
輪廻する葦(平成10年5月27日)
連鎖する命(平成10年6月2日)
涅槃(平成10年8月12日)
鏡(平成10年7月25日加筆)
流星
TAO(平成11年1月3日)
四大
挨拶
冥福
盂蘭盆
祈り(平成14年7月4日)
仏事歳時記
再び 最後の晩餐
この手のひらにII(平成18年11月18日)
死んで生きる智慧(平成19年3月27日)
五百生(平成19年11月20日)
破地獄偈(平成20年5月24日)
この指止まれ
この指止まれ
家族と家庭(平成11年1月5日)
導師(平成11年2月26日)
家から個人へ、そして家族・友達へI
家から個人へ、そして家族・友達へII
脳死そして臓器移植(平成11年3月2日)
独り決めの生き方
僧堂I
僧堂II
僧堂III
恥じ
僧堂IV
返事
父殺し・母殺し・友だち殺し・子殺し(平成20年1月1日)
その後
その後
ほとけさま(平成17年5月1日)
仏が仏に合掌する
戒名(平成12年3月14日)
無用の用(平成12年2月21日)
世話
大きく育て!(平成11年1月18日)
しもべ(平成10年11月7日)
電話(平成10年8月22日)
意思
寡黙
妄想(平成10年8月2日)
川(平成10年8月22日)
風如(風のように)(平成10年6月18日)
追悼(平成10年5月27日)
受容(平成10年6月18日)
蒸発
臨終(平成10年6月8日)
外道
障子(平成13年3月10日)
日月(にちげつ)
年寄りの出番より
人生とは、闇を照らす一瞬の蛍の光
時の旅人
時計(平成12年1月3日)
星(平成11年10月15日)
溝(平成11年8月2日)
過去心…念の起こる処(平成11年6月19日)
与える時間(平成11年5月24日)
桜(平成12年3月2日)
無常(平成11年4月16日)
川(平成10年9月17日)
有時(時の構造)(平成12年2月5日)
時の旅人(平成12年2月1日)
揺れる木々の葉
この人生の速さはなんだ(平成14年12月26日)
法句経より-時の旅人(平成15年2月4日)
寂然不動 如春在花(寂然不動、春の花に在るが如し) (平成16年9月19日)
ZENGO
自立
橋は流れて(平成10年9月18日)
無事
過去(平成10年5月23日)
たまごっち(平成10年5月23日)
一衆觸礼(いっしゅうそくれい)
六道を輪廻する
二人三脚
生老病死
筋肉番付
ポケモン
俺は、親馬鹿か!
塵も積もれば山となる
生と死と永遠
最終章
一章
二章
三章
四章~(未完)
時間旅行
時間旅行
命の歌-母の短歌
礎-いしずえ-
離魂(平成19年8月25日)
海辺橋
海辺橋
ふるさと(平成18年3月4日)
千の風(平成18年9月16日)
人の道(平成18年9月18日)
あなたは、いつから、一年が始まりますか?(平成20年8月1日)
前住職 二十三回忌にて(平成20年9月1日)
平成21年お施餓鬼会を振り返って(平成21年6月1日)
奥付
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チベット(平成20年5月1日)

チベット(平成20年5月1日)

 地球のいただきに7,000年という年月をへて暮らしてきた民族が揺れている。揺れているどころか、そこに文化を継承して住めないのだ。地球のいただきという神秘の扉の中に暮らすからこそ、伝わって生きてきた神秘が途絶えようとするあえぎのような気がする。
 多くのいただきの民族が山から追われて、地平に暮らすことを考えてみただけで、ぞっとする。あれから50年が過ぎているからでもあります。
 赤茶色の衣を着たラマ僧たちの敬虔さ、そして、チベットの人たちの聖地への旅姿を見るにつけ、それは、遙か彼方に向かって五体投地を繰り返しながら何ヶ月かけて旅をする人たちの姿に、圧倒されるからです。

 チベットの創世記は、水中の山脈が隆起したことから始まります。そして、この物語は、水が引き4,000メートル級の高原が誕生したことから始まり、今に至っています。
 サンスクリット語で、雪の住みかというヒマラヤが誕生し、その雪の国に最初住みついたものたちは、野蛮な聖霊や動物といった物の怪たちと、彼らの伝説にあります。
 その雪の国に、やがて人々が誕生するわけですが、その人々の子孫は、観音菩薩にさかのぼります。それは、觀音菩薩の化身としての1匹の雄猿と、ターラ菩薩の化身である鬼女です。この二人は、ヤルルン渓谷(古代王朝発祥の地)にて結婚し、6人の子供を産みました。その子供たちこそ、チベット民族のさきがけです。この古事により、チベットという名は、慈悲の菩薩、觀音菩薩の地という名前が付されたということです。
 人類の起源が類人猿ということに驚きはしないものの、鬼は想像がつきません。しかし、鬼は、類人猿よりも精神面や容姿において人間に近い存在といわれていることに、彼らの創造性豊かな感性を感じます。
 そのチベット人による王国が誕生したのは、紀元前127年のことです。そして、やがてチベットは、チベット人により統一されるのですが、7世紀に入ってのことでした。その頃の宗教は、ボン教という教えであり、栄えていたということです。
 チベットに、インドから仏教が広がるのは、8世紀です。またたく間にチベットに広がったのですが、ボン教にその広がる下地があったからです。
 幾多の変遷をたどって、仏教は、人々の信仰を築きあげます。13世紀にはいると、チベットはモンゴル帝国により統治されるのですが、チベット仏教は皮肉にもモンゴル人の心を改宗させてしまいます。モンゴルにチベット仏教が伝わったのはこうした理由によるものです。
 そして14世紀の後半、チベット仏教は教理と実践による一大体系となり、宗教国家として現代に至っているといえるでしょう。
 仏教には三宝という仏・法・僧がありますが、チベット仏教は、それに、生き仏が加わり、四宝という特色があります。今、ダライ・ラマとパンチョン・ラマという言葉がニュースに伝わっておりますが、ラマとは活き仏のことです。そして、その特色は、小乗、大乗、密教(タントラ)を体系にまとめあげて、実践の指針を提示していることです。
 チベット仏教ゲルグ派の高僧ゲシェー・ロサン・ケンラプ師の法話が、http://www.tibethouse.jp/culture/shine.htmlにあります。師は、ダラムサラのネチュン僧院で教えていて、2002年の夏に来日いたしました。
 《私たちは他の存在を味方・敵・無関心な相手の三つに分別します。このような分別を行うのも自分自身へのとてつもない執着心があり、なんとしても自分を守りたいと思っているからです。自分の味方である存在は慈しみ、自分の敵である存在には怒りをおぼえる。さらに愛着も怒りも覚えない無関心な相手というものがいる。怒り・貪(むさぼ)り・無知の三煩悩(さんぼんのう)はこれらのものが基盤となって生じるのです。 
 ですから他者を味方・敵・無関心な相手の三つに分別してはいけません。そもそもそう分別する理由さえないのです。敵も味方も真髄(しんずい)を欠いています。今あなたが敵だと思いこんでいた相手が、将来味方に変じたり、味方だと思っていた相手が敵に変じたりすることもあるわけですから。また今、大したことのない相手だと思っていた存在が、将来あなたにとって、とても有益な相手になることもあります。こうした事実はわざわざ経典にあたる必要もありません。そのことについて思い巡らしてみれば、そうとわかるはずです。一時たりとも離れ離れになっているに忍びない愛しい相手が、いつしかその名前を聞くだけでもむかつくような相手になっている。反対に、最初はなんて嫌な相手だろうと嫌悪していた相手が、いつのまにか限りなく愛しい相手になっている・・・。 
 私は別に敵も味方も存在しないと言っているわけではありません。敵も味方も存在します。ただ、敵であるから憎(にく)む、味方であるから愛するという態度を捨てて、どうしてあるものが敵と感じられ、あるものが味方と感じられるのか、その理由を理解し、敵味方を分別するような態度を捨てなさいと言っているのです。 》
 ダライ・ラマ14世が、「自己保存のための他者に対しての大切にする思いやりは限界がある。しかし、智慧にてその思いやりを普遍的なものにすれば、その思いやりを敵に捧げることは可能だ」という言葉は、ゲシェー・ロサン・ケンラプ師の言葉と同意です。
 
 チベット仏教をアメリカやヨーロッパに一躍有名にしたのは、『死者の書』です。《チベット「死者の書」の世界(中沢新一著 角川ソフィア文庫)より》

 それはチベットの山々のはるか彼方のこと。一人の村人が、今、死を迎え、最後の儀式と作法をのぞんでいる。家族は、親しいラマ僧を、その男の臨終によんだ。
 ラマ僧は、お寺にはいり、読み書きや呪文の教えを受けた十歳になるかならない小坊主を連れて、山を越え、谷を渡り、死者になろうとする家へいそぎました。
 その家に着くと、そこで、すぐさま、死に逝く者に添って、観察し、導くのでした。
 帰路、ラマ僧は、この小坊主にも、そろそろ、教えの扉を開いてよい頃だと思います。それは、人の死を目の当たりにし、この小坊主とラマ僧との信頼がなした故にです。
 ラマ僧は、小坊主に説きます。
「心(生命存在)とは、それぞれの生命組織の中で活動している状態のことをいう。ミミズはミミズという生命組織をとおして、自分の世界を生きているし、犬は犬、餓鬼は餓鬼、人は人の生命の条件にしたがって自分の世界をつくり、それを生きることになる。それぞれの生命体が、自分のまわりにつくりだしている世界というものは、その生き物にとってだけ意味をもつ世界だ。心はその中をいきながら、自分は根源に達していると感じることができない。だから、途中(バルド)なのだ。」
 数日後、このラマ僧と小坊主は、火葬にした、あの死者のいなくなった家に行きます。そして、死者の意識に向かって経を唱え、祈り、さとし、力を与え解脱、そして再生へと向かう死者の意識を、輪廻から觀音菩薩の慈悲に導くのです。
 この菩薩の慈悲への導きは、死者の意識が持つ幻影や記憶を遮断するためです。なぜなら、人の意識は途中にあるために、意味を解体しなければならないからです。
 なぜ解体しなければならないか、それは、意識は貪(むさぼ)り・怒り・愚かさを含んで、死してなお、再生に向かう途中に影響を及ぼすからです。
 
 ラマ僧は小坊主に言う。「有機体でできたこの身体はかならず滅びる。でも、生命はそれぞれの生命の死を超えて、流れ続ける。心の流れが、とだえないから、生命には再生があるから、人は世界に対して、本当に優しくなれるのだ。」
 「この世界にある生きもので、一度たりともお前のお父さんやお母さんでなかったものはない。この牛をごらん。今は牛だが、過去の生ではお前のお母さんだったことがある。そのとき、お前に優しくしてくれたはずだ。」
 「さあ、觀音菩薩による救いの力を待とう」と小坊主に呼びかけるのですが、死者の意識の力にかけるものであります。そのかけは、死者の意識が、死ぬことが、単なる苦しみではないのと同じように、生まれてくることは、喜びでだけではないからです。だからこそ、生と死のむこうにある、心の本質を知ることが求められます。小坊主がすこしずつ解りかけてくると、ラマ僧は、昔、インド人からおぼえた言葉を、小坊主に教えます。
誕生のときには、あなたが泣き
全世界は喜びに沸く。
死ぬときには、全世界が泣き
あなたは喜びにあふれる。
かくのごとく、生きることだ。
 死者の書は、最期にいたって、この言葉で結ばれています。生きる指針として人間賛歌の言葉でもあります。この言葉ゆえに、ラマ僧は、死はすべてを奪うものではなく、ほんとうの豊かさをあたえてくれる機会だというのです。

諸法

世界には様々な法があるかもしれない。また、それが人が創った限りは、矛盾 があり、顛倒があり、違背があります。
仏教は、世界自身が語り、世界自身が在らしめた法です。世界が一つに認識さ れた時、仏教の名前は亡くなるかもしれないが、世界がある限り、仏教の智慧は 輝いている。

四十四の問い~ミヒャエル・エンデ

四十四の問い~ミヒャエル・エンデ

  未だ全問に答えていませんが、気長に答えることとします。
もし、貴方が別な答えを出そうとするなら、私にメールを下さい。
貴方の答えを掲載いたします。『虹の彼方に』管理人

 エンデ自身がこの問いを出してより、これに答えた人は数多くいただろうと思う。しかし私はそれを読んだこともないので、知りようもない。答えたとしても誰も意味はないかもしれない。
 だけど、答えようとすることから、エンデに親しく接するような気がする。

1、あなたがこのような本を編むとしたら、なにを基準にしてえらびますか?
≪普通こう言った文章に接するとき、問い自体の新鮮さや、共感に賛同します。何もいちいち答えると言うのではなく、問い自体に、答えが含まれているものです。≫
2、あなたの人生を変えた本や、本のくだりがありますか?
≪この本に関して言えば、東洋では省みることをしなくなった、東洋の英知によって思考されていると思うのです。≫

3、人生の問題に直面していて、ぴったりのときに、ちょうどぴったりの本を手に入れ、ぴったりのページを開き、まさにぴったりの答えを得たとすれば、それは偶然だと思いますか?
≪人生の問題に直面していて、ぜんぜん外れた本を手に入れ、はずれたページを開き、まさにはずれた答えを得たとすれば、それは偶然だとおもいますか?≫
4、天使や悪魔や奇跡について聖書は語りますが、それでは聖書はファンタジー文学に属するのでしょうか?
≪答えは問いの中にあるという意味がよく分かる。蛇足は、記録するということを、何故記録しなければならないかと考えてみて、伝えるということも、目的や真意を考えてみると、ファンタジー文学は、聖書になり、日本書紀にもなるということか?≫
5、トルストイが書くモスクワ、フォンターネが語るベルリン、モーパッサンが描くパリ、これらの都市は現実にあるのか、あるいはそもそもかってあったのでしょうか?
≪よく私が問うことがあるのです。それは「世界は幾つあるの?貴方にとって世界とはどんな意味があるのですか?」また「具体的とは、現実とは?」です。≫

6、ゲーテが親しく呼びかけた月(おんみはふたたび茂みと谷をみたし……)(「月に寄す」)と、あの二人の宇宙飛行士が歩きまわった、泥や埃から成る塊は同じ一つの天体でしょうか?
≪この世の中で、一体”同じ”と言うことはあるのだろうか?そのことの意味を考えたとき、”同じ”という意味が解るのでしょう。≫
7、戦争の残虐さからなにも学ばず、自分も変わることなく戦争を体験した者に、戦争の残虐さの叙述がなにかを教えたり、そればかりかその者を変えることができるでしょうか?
≪最近行われた戦争を見る限りは、地域的限定の民族的なもののようです。民族を成り立たしめるものに、宗教があるようですが、宗教も、数や地域の占有を追及すると、資本主義の考え方と何ら変わるものではありません。人が何かを学ぶことはあるのだろうか?歴史は繰り返すの格言は、正しいのだろうか?≫

8、千人の苦しみは、一人の苦しみよりも大きいのでしょうか?
≪苦しみ自体個人的なものである限り、苦しみは千差万別です。千人の苦しみは、一人の苦しみです。≫
9、一平方キロメートルの赤い面は、一平方メートルの同じ色の面よりももっと赤いでしょうか?
≪一平方メートルが、1000個集まったものが、一平方キロメートル。一個の赤い面が、千個集まると、真赤っか。≫
10、人の意識の外にある世界”自体”を想像するには、少なくとも一人の人間が必要ではないでしょうか。つまりそのような世界を想像する人間が?
≪それでは、世界を考えてみましょうと言った瞬間、私は、世界の外に弾かれていた。≫
11、現実に対してわたしたちがもつ観念が変われば、現実も変わるでしょうか?
≪よく言うのですが、鏡は現実を映すといいます。私たちの眼も、現実を映しているのですが、見るという。≫
12、それを表す言葉がまだない、そのようなものを考えることができますか?
≪聖書は、始めに言葉ありと言った。禅は、父母未生以前の貴方の生命は?と問います。いつも問題は、言葉の無い世界のことなのです。≫
13、言葉がまだ話せず、したがってまだ考えることもできないとされる幼児が、言葉に意味があるとわかるのはどうしてでしょうか?
≪伝えると言う意思を持つことは、伝えられる情報を持つことでもあります。≫
14、「すでに」とか「さっき」という語の意味を説明できますか?
≪エンデのこの問いの鋭さは、説明という言葉を使うことです。迷宮に誘い、迷宮から誘うということを

15、詩を”理解した”というとき、それはどのようなことでしょうか?
≪このごろ思うことですが、僧侶は詩人でもあると思うのです。何故なら、僧侶自身こそ、”語り部”なのです。≫
16、百年、二百年後の人たちが、わたしたちがもつ世界観に、信じられぬと首をふることは考えられることでしょうか?
≪私は、現代から遡って、過去の時代にに、禅やお茶、武道が登場したことじたいが信じられない現代なのです。≫
17、すべては無意味だと、人に説きつづけてやまないニヒリストを駆り立てるものは、何なのでしょうか?
≪大嘘つきのコンコンチキ
18、上手にキリスト像を描く画家は、その画家自身が一種のキリストであるべきだと期待するのは正しいでしょうか?
≪誰もキリストを見たわけではなく、聖書の解釈によって、迫真のキリスト、痛々しいキリストと
19、恐ろしい拷問死を、美しい絵、美しい音楽、美しい詩歌で表現するとき、なにがそれを正当化するのでしょうか?

20、美は客観的事実なのでしょうか、それとも主観的体験なのでしょうか、それともこのように問うこと自体が、そもそもまちがっているのでしょうか?

21、両の手を打ち合わせたとき、片方の手はどのような音を発するのでしょう?
≪白隠禅師隻手の音声です。エンデ自身が何処で、この公案を仕入れてきたのか分かりませんが、エンデの作品には全編に渡って禅のテーマがあふれています。”あるがまま”こそ、禅そのものだからです。≫
22、磁針が常に北を指すようにする力は針にあるのでしょうか、それとも地球にあるのでしょうか?
≪私が立つことを出来るのは、地球に重力があるからこそできるのでしょうか?それでは、もし私が立つことを、重力より自由になりたいが為なのだと考えた時、私が寝たきりになってしまったとしたら、それは重力のせいなのだろうか。重力に捕まってしまったということでしょうか。寝たきりも、立つことも共に重力があってこその寝たきりであり、立つことであるとすれば、私は足で地球を持ち上げ、背中に地球を乗せることは私の重力こそ、地球の重力です。≫

23、おおぜいの人が同じ本を読むとき、本当にみんな同じものを読むのでしょうか?

24、読者と本のあいだに生じることは、どこで起こるのでしょうか?

25、精神なくして精神を否定できるのでしょうか?
≪できないんじゃ、ない?……?≫
26、長編小説を書くことはもうできないと、長編小説なみの分量の本を書くのはどうしてなのでしょうか?

27、”予知の語り手”ではないと主張する作家たちが書く物語を、だれが考えだすのでしょうか?

28、詩的虚構と嘘のちがいは何なのでしょうか?
≪良心 ≫
29、芸術は省略にあるとすれば、最高の芸術とはなにもしないことではないでしょうか?
≪禅というイメージは、禅と言ったとき、語っていないものを、あなたは見ることが出来ますか?≫
30、そもそも読者に詩人を理解する義務があるのでしょうか、あるいは詩人に読者が理解できるように書く義務があるのでしょうか?

31、「本」という語をモールス符合、ゴシック文字、点字、そして中国の表意文字(漢字)で見るとき、そしてこれらの文字を知らないとき、まったく異なるものだと思わざるをえないのではないですか?

32、小説でカフカが言わんとすることが、評論家がその小説を解釈して述べることであるとすれば、なぜカフカはそれをはじめから書かなかったのでしょうか?

33、本に登場する人物は、その本が読まれないとき、なにをしているのでしょうか?

34、美しさを願うとは、うわべを美しくすることを願うことでしょうか?

35、平均的人間というものに出会ったことがありますか?
≪ありません。平均年齢という年齢にも出会ったことがありません。》
36、ドイツ、イギリス、フランス、スペイン、イタリアの全文学が二十六のアルファベットから成っていることは、実に不思議なことではありませんか?

37、カバラが教えるように、神が二十二の文字と十の数字でこの世界を造ったとは考えられるでしょうか?

38、重力を克服するダンスは重力なしにありうるでしょうか?
≪私たちが、立って歩くということは、重力があることによって成り立っています。寝ると言う行為は、疲れを癒すということですから、その疲れは重力が原因であるようです。≫
39、思考とは脳のなかの電気化学的プロセスにほかならないという考えは、脳のなかのどのような電気化学的プロセスが考えたのでしょうか?

40、現実が”実際に作用すること”と関連があるとすれば、夢はどのような現実を持つのでしょうか?

41、人を病や健やかにする本があるでしょうか?

42、だれもが人生で妖精から三つの願いがかなえられるのを、あなたも見たことがありますか?

43、むずかしいこと、それとも楽なこと、むずかしいのはどちらだと思いますか?
≪信心銘よりの出題みたいに思えるないようです。あえて、素直に、むずかしいことです。≫
44、本当に問いは四十四問だったか、数えなおしてみますか、それともわたしの言葉をそのまま信じますか?
≪数えなおした瞬間、エンデの罠にはまり、そのまま信じることは、貴方をなくす。≫


さき行く輩

禅の優れて、馴染むところは、過去の多くの祖師方、それら総ては人間であるということです。
 これって、とても大事なことであるのです。もちろん私には及ぶべくもない優れた方々ですが、皆違った個性を発揮して、実に生き生きとして、歴史を闊歩する姿は、とても人間を感じるのです。
 皆、禅で共通するのです。
 禅は、人を縛らない、その人そのものの個性を、超出させるのです。
 達磨さん、普化和尚、臨済和尚、馬祖和尚、大梅和尚、良寛さん、沢庵禅師、一休さん、道元禅師、そうとは思いませんか?

祖師年譜

祖師年譜
菩提達磨  ?-536(鼻祖)
鑑智僧サン  ?-606(三祖)
神秀   606-706
青原行思 673-741
南陽慧忠 ? -775
西川黄三郎 ?-?
麻谷山宝徹 ?-?
石頭希遷 700-791
石鞏慧蔵 ?-?
西蔵智蔵 735-814
薬山惟儼 744-827
主峰宗密 780-841
黄檗希運 ? -860
徳山宣鑑 782-865
洞山良价 807-869
仰山慧寂 807-883
興化存奨 830-888
塩官斉安 ?-842
曹山本寂 840-901
雪峰義存 822-908
布袋     -916
保福従展  ?-928
帰宗策真  ?-979
智門師寛  ?-?
天台徳韶 891-972
南院慧ギョウ860-930
報慈蔵ショ  ?-?
同安観志 ?-?
大陽警玄 943-1027
石霜楚円 986-
白雲守端 1025-1072
汾陽善昭 947-1024
黄龍祖心 1025-1100
五祖法演   ?-1104
長蘆清了 1088-1151
天堂宗玉 1091-1162
太祖慧可 487-593(二祖)
牛頭法融 594-657 
南嶽懐譲 677-744
馬祖道一 709-788
ホウ居士  ? -808
丹霞天然 739-824
五洩霊黙 748-818
南泉普願 748-834
イ山霊祐 771-853
鎮州普化   -860
径山鑑宗 -866
睦州道蹤 780-877
長慶大安 793-883
石霜慶諸 807-888
趙州従シン 778-897
紫胡利蹤 800-880
雲居道膺 828-902
疎山匡仁 837-909
投子大同 819-914
長慶慧稜 854-932
法眼文益 885-958
帰宗道詮   -985
徳山縁密  ?-?
風穴延沼 896-973
首山省念 926-993
法灯泰欽  ?-974
梁山縁観 ?-?
雲峰文悦 998-1062
雪チョウ重顕 980-
投子義青 1032-1083
大慧宗コウ 1089
大イ慕テツ   ?-1095
真丈克文 1025-1102
圜悟克勤 1063-1135
宏智正覚 1091-1157
雪チョウ智鑑1105-1192
大医道信 580-651(四祖)
大満弘忍 601-674(五祖)
大鑑恵能 638-713(六祖)
永嘉玄覚 675-713
荷沢神会 670-758
大珠慧海 ?-?
百丈懐海 749-814
鳥カ道林  -824
大梅法常 752-839
汾州無業 759-820
五洩霊黙 747-818
雲巌曇晟 780-841
臨済義玄 815-866
夾山善会 805-881
雲巖全ケツ 828-887 
章敬懐惲 757-818
香厳智閑 ?-898
九峰道詮 930-985
玄沙師備   -908
大隋法真 834-919
雲門文エン 864-949
霊樹如敏  ?-920
洞山守初 910-990
香林澄遠 908-987
鏡清道フ  868-937
同安道丕 ?-?
龍牙居遁 835-923
永明延寿 904-975
浮山法遠 991-1067
楊岐方会 992-
黄竜慧南 1002-1069
兜率従悦 1044-1091
芙蓉道楷 1043-1118
丹霞子淳 1064-1117
雪峰慧空 1096-1158
天堂如浄 1162-1227



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