目次
輝いている時
夢中(ゆめのなか)
芝浜
江戸っ子
亀住町(平成13年7月1日)
モンセ・ワトキンス~夢のゆくえ~(平成14年1月3日)
新牌開眼
英霊(平成17年5月23日)
目覚め
よわい「齢」
また始めたらよい
三大聖樹(平成19年4月17日)
滅度(平成19年9月18日)
安住の地(平成20年11月15日)
心眼(平成22年3月1日)
とかくこの世は
とかくこの世は
祈り(平成17年11月29日)
品位(平成18年1月20日)
ニャンニーシンズ(平成18年3月1日)
鍵(平成18年4月25日)
チベット(平成20年5月1日)
SYOHOU
諸法
四十四の問い~ミヒャエル・エンデ
先ゆく輩
さき行く輩
祖師年譜
ダルマ
慧可
五洩霊黙和尚
石鞏慧蔵禅師
大珠慧海禅師
西川の黄三郎
馬祖道一禅師(馬大師)
五百生 百丈和尚
大梅山法常(752-839)
麻谷山宝徹禅師(平成12年1月27日)
鎮州普化(ふけ)和尚
寒山・拾得
虹の彼方に
ヘイヴン・ペックの場合―続貧しいけれど、豊かだった―
生前葬
平和を我らにーGIVE PEACE A CHANCE(平成13年10月31日)
ソクラテスとヤージャニダッタ
蓮(平成14年6月2日)
心-KOKORO(平成14年6月25日)
独り暮らし(平成15年4月12日)
老いが、咲いていた!(平成16年7月5日)
深濱-fukahama
死に顔
松山鏡(ソクラレストとヤージャニダッタの続き)
真ん中(平成20年4月1日)
百万回いきたネコ(平成21年1月1日)
夜来る鳥(平成21年1月1日)
だいじょうぶ、だいじょうぶ(平成21年2月1日)
無常への帰依
無常への帰依
希望(平成12年1月2日)
葬式坊主
泥棒
赤とんぼ
老い
……ロス
後姿
寿陵
ついで参り
目標
六道を行く
もの言わぬ羅漢達…揀択をこえて…
宮本武蔵
五合庵断章(平成10年10月17日)
K子さん!(平成12年7月19日)
今は昔
十一面観世音菩薩
尽七日忌(平成19年5月1日)
OSYOU
OSYOU
この手のひらに―禅僧の死―(平成10年11月18日)
戒(平成10年7月25日)
幽霊
みんな仏教徒(平成10年5月27日)
最後の晩餐(平成10年5月23日)
禅問答(平成10年5月31日)
分銅
天国は汝ら自身に宿る(平成10年11月24日)
宗派
穢れ(平成12年8月30日)
お彼岸
仏心
仏心
ご祈祷
施餓鬼会にて(平成17年5月28日)
永遠の命
輪廻する葦(平成10年5月27日)
連鎖する命(平成10年6月2日)
涅槃(平成10年8月12日)
鏡(平成10年7月25日加筆)
流星
TAO(平成11年1月3日)
四大
挨拶
冥福
盂蘭盆
祈り(平成14年7月4日)
仏事歳時記
再び 最後の晩餐
この手のひらにII(平成18年11月18日)
死んで生きる智慧(平成19年3月27日)
五百生(平成19年11月20日)
破地獄偈(平成20年5月24日)
この指止まれ
この指止まれ
家族と家庭(平成11年1月5日)
導師(平成11年2月26日)
家から個人へ、そして家族・友達へI
家から個人へ、そして家族・友達へII
脳死そして臓器移植(平成11年3月2日)
独り決めの生き方
僧堂I
僧堂II
僧堂III
恥じ
僧堂IV
返事
父殺し・母殺し・友だち殺し・子殺し(平成20年1月1日)
その後
その後
ほとけさま(平成17年5月1日)
仏が仏に合掌する
戒名(平成12年3月14日)
無用の用(平成12年2月21日)
世話
大きく育て!(平成11年1月18日)
しもべ(平成10年11月7日)
電話(平成10年8月22日)
意思
寡黙
妄想(平成10年8月2日)
川(平成10年8月22日)
風如(風のように)(平成10年6月18日)
追悼(平成10年5月27日)
受容(平成10年6月18日)
蒸発
臨終(平成10年6月8日)
外道
障子(平成13年3月10日)
日月(にちげつ)
年寄りの出番より
人生とは、闇を照らす一瞬の蛍の光
時の旅人
時計(平成12年1月3日)
星(平成11年10月15日)
溝(平成11年8月2日)
過去心…念の起こる処(平成11年6月19日)
与える時間(平成11年5月24日)
桜(平成12年3月2日)
無常(平成11年4月16日)
川(平成10年9月17日)
有時(時の構造)(平成12年2月5日)
時の旅人(平成12年2月1日)
揺れる木々の葉
この人生の速さはなんだ(平成14年12月26日)
法句経より-時の旅人(平成15年2月4日)
寂然不動 如春在花(寂然不動、春の花に在るが如し) (平成16年9月19日)
ZENGO
自立
橋は流れて(平成10年9月18日)
無事
過去(平成10年5月23日)
たまごっち(平成10年5月23日)
一衆觸礼(いっしゅうそくれい)
六道を輪廻する
二人三脚
生老病死
筋肉番付
ポケモン
俺は、親馬鹿か!
塵も積もれば山となる
生と死と永遠
最終章
一章
二章
三章
四章~(未完)
時間旅行
時間旅行
命の歌-母の短歌
礎-いしずえ-
離魂(平成19年8月25日)
海辺橋
海辺橋
ふるさと(平成18年3月4日)
千の風(平成18年9月16日)
人の道(平成18年9月18日)
あなたは、いつから、一年が始まりますか?(平成20年8月1日)
前住職 二十三回忌にて(平成20年9月1日)
平成21年お施餓鬼会を振り返って(平成21年6月1日)
奥付
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ニャンニーシンズ(平成18年3月1日)

ニャンニーシンズ(平成18年3月1日)

 『ニャーンキ、シンズ、フジセウカーン。
ジョウライフンズー、ダイヒエンモンブカイジンシュウー、スシズヒンブーンニー。
ガサンチィクオショウーダイゼンズー、シンジーズンスンヒーンニー。
ジーホーサンシーイシーシブ、シソンブサモコサー、モコホジャホロミー。』

 上記を漢字にすると下記のようになります。
『仰冀真慈、俯垂昭鑑
上来諷誦、大悲円満無礙神呪、所集殊勲奉為。雅山直和尚大禅師、真慈、増崇品位。
十方三世一切諸仏、諸尊菩薩摩訶薩、摩訶般若波羅蜜。』

この回向(えこう)を漢訳致しますと、下記のようになります。
「仰(あお)ぎ、冀(こいねが)わくば、真慈(しんじ)、俯(ふ)して昭鑑(しょうかん)を垂(た)れたまえ。上来(じょうらい)、大悲円満無礙神呪を諷誦(ふじゅ)す。
集むる所の殊勲(しゅくん)は、雅山直和尚大禅師、真慈の為に奉(ささ)げ、品位を増崇(ぞうそう)したてまつる。十方三世一切諸仏、諸尊菩薩摩訶薩、摩訶般若波羅蜜。」
祖師回向(そしえこう)と言いまして、言い伝えられたものであります。これは、お寺の開山和尚とか、再興を果たした和尚の徳を讃える回向ではなく、普通の歴代の和尚に捧げる回向です。発音は、中国の呉音ないしは、宋音と言われておりますが、正しく発音しているつもりでも、意味が呪文のように、果たして先住や歴代に通じているのか、私の中で、意味なく巡るかのようです。きっと、この疑問は、確かに伝わることの、さらに、ことばとして、私のなかに伝わらないことのジレンマとして、過去の伝統の色褪せてとして、感じていることなのだろう。

 私たちの普段の言葉は、共通な言語の環境がなければ意思が通じないことではありますが、もう一つ、言葉自身が語っているものがあります。それは関係です。ことばである限り、その発する場において、その関係が意味を持つものだと思うのです。
意味不明の言葉の羅列も、この言葉としての土壌が整っている環境では、十分に意思をもって発せられる、届くものです。
よく「遺憾に思う」ということばが多くの人の口から発せられますが、そのことばを耳にする私は、意思は通じるものの、生の感情が遠ざけられて、無味なことばとして“遺憾”の中身が伝わってこないのです。それは、われわれの普段に使用することばとして、“遺憾”ということばはなく、異質な特別なことばであることと同じです。
それは、この“遺憾”ということばが、儀式の終わりを無理やりにもたらすことばとして使用されるかのように、この遺憾ということばを聴く私たちにとっては、終わったものとして、自身の中に共通な場を持っていないかのように思えるのです。そのことを承知しながら話すことばに、あいまいさが残ってしまうからです。
同じように、この“真慈”ということばも、ジョウライフンズ~も、そのことばがいつもの通りに空中に漂っては消えていくことに、これはことばだろうか、発する人の意思は、これはどんな意味として考えればよいのだろうと戸惑います。

「自己意識は他者にたいして即自かつ対自的に存在するかぎりで、また、そのことをとおして、即自かつ対自的に存在する。つまり、自己意識は承認されたものとしてしか存在しないのである。」
上記は、ヘーゲルの精神現象学の一文です。
自己意識の他者を通して成立する過程こそ、自己の存在そのものであるとする理論、それは、私とは、他者を認めるとき、あるいは、他者に話しかけるとき、自己が相対することから、意識するかにかかわらず、相即的に他者と自己の関係が成立するといえます。
これは、釈迦の縁起論“拠って成りたつ”という事実の見通しと違いません。父は子に対して、夫は妻に対して存在することとし、夫の根拠は妻にあり、父の根拠は子にあるとするモノの見方は、他者を通して成立する過程こそ自己意識の関係性であり、それを、自己意識は承認されたものとしてしか存在しないと、ヘーゲルも考えました。
この過程にあるものは、仏教的に考えてみれば、眼識・耳識・鼻識・舌識・身識・意識の六識の認識作用であり、逆に、自己や他者の存在を規定する手段ともいえるでしょう。

この関係の只中に在るものがことばです。ことば自身は、意思の伝達や表現するものですが、それだけではなく、ことばそれ自身が関係性を現しているものといえるからです。
また同時に、関係性において、ことばは在るともいえると思うのです。
この『ニャーンキ、シンズ、フジセウカーン』は、はたしてことばだろうか?という疑問がわきおこります。浪々と堂内に木霊する『ニャーンキ、シンズ、フジセウカーン』は、鐘の音によって区切られ、どこに目指そうとしているのか。それは、この堂内だけの木霊なのか。
共通な言語関係の途絶えた世界、それはことばだけでは意思が通じないことで、まして、生の感情は生起しない。それでいて、多くの衆僧の読経は、胸に響く、これはことばなのか?荘厳な音楽なのか
験(げん)を担ぐマジナイも含めて、自己自身と他者との関係、それは多くの死者を含めてでしょうが、共通なものがなければ、お互いの関係の内に流れません。
そのお互いの関係性は、釈尊が見通したとおりに、常に変化しているとすれば、この『ニャーンキ、シンズ、フジセウカーン』こそ、変わらないことで、お互いの関係に流れないものとして、意味が通じないモノとして在るのではないかと思ったりもします。

ヘーゲルには自己意識にかんして「われわれであるような我、我であるようなわれわれ」という言葉がありますが、この言葉は、子どもに接するとき、父や母に接するとき、親しい知り合いに接するとき、子どもは、親は、知り合いは、そして私はと、他者のなかでの私から、私のなかの他者を強く意識させる言葉でもあります。
しかし、家族から見れば死者は、亡くなったときから、いつも“我であるようなわれわれ”だと思うのです。もっとも、われわれであるような我として、死者を考えたこともない自分に気づきます。
この関係を考えることは、自分にとっては、じぶん自身の関係の中での存在を考えると言うことでもあり、だからこそ、この関係を含めて、心というのだとも思うのです。
トルストイの『人生論』に次の言葉があります。
「お前は、みながお前のために生きることを望んでいるのか、みんなが自分よりお前を愛するようになってもらいたいのか。お前のその望みがかなえられる状態は、一つだけある。それは、あらゆる存在が自分よりも他を愛するようになる時だけだとしたら、お前も、一個の生ある存在として、自分自身よりも他の存在を愛さなければいけない。
この条件のもとでのみ、人間の幸福と生命は可能となり、この条件のもとでのみ、人間の生命を毒してきたものが消滅する。存在同士の闘争も、苦痛の切なさも、死の恐怖も消滅するのである。
他の存在の幸福のうちに自分の生命を認めさえすれば、死の恐怖も永久に消え去ってくれる。」

 あらためて深く思うことは、『シンズーズンスンヒンニー』という、真慈という名の、総てを捧げ尽くした信(まこと)こそ人間の幸福であることを貫くことに、仏教は、明らかにして、あるがままの姿を示していると思うのです。
巡り来たった、今日この時、真慈を尽くした、亡くなってもっとも親しい者に、謹んでお経を念誦して、追悼のための盛儀を厳修することです。じぶん自身の中にあるからこそ、もっとも親しむ他者が、優れて築き上げた気高さは、偏に、自分のすべてを滅ぼして、ただ人のためだけに、ただ相手の中にだけ生きようとすることに心がけたこととなり、それは、親しき者に接する人の目や耳や鼻や口や皮膚ですべてを受け止め、他者の胸で呼吸し、他者の頭で考え、他者の心で感じることを、修めたからです。
このことによって初めて人間は、他人の幸福を引き寄せて自分自身のものにすることができます。今日、集う殊勲は、この真慈を捧げ、共に、この気品に包まれることを。
ジーホーサンシーイシーシブ、シソンブサモコサー、モコホジャホロミー。


鍵(平成18年4月25日)

鍵(かぎ)(平成18年4月25日)

一つの鍵が 手にはいると たちまち扉はひらかれる 
固く閉ざされた内部の隅々まで 明暗くっきり見渡せて 
人の性格も 謎めいた行動も 物と物との関係も 複雑にからまりあった事件も 
なぜ なにゆえ かく在ったか どうなろうとしていたか どうなろうとしているか 
あっけないほど すとん と胸に落ちる

ちっぽけだが それなくしてはひらかない黄金の鍵 
人がそれを見つけ出し きれいに解明してみせてくれたとき ああ と呻(うめ)く 
私も行ったのだ その鍵のありかの近くまで

もっと落ちついて ゆっくり佇(たたず)んでいたら 探し出せたにちがいない 
鍵にすれば 出会いを求めて 身をよじっていたのかも知れないのに

木の枝に無造作にぶらさがり 土の奥深くで燐光を発し 虫くいの文献 聞き流した語尾に内包され 海の底で腐食せず 渡り鳥の指標になってきらめき 束になって空中を ちゃりりんと飛んでいたり

生きいそぎ 死にいそぐひとびとの群れ 見る人が見たら この世はまだ あまたの鍵のひびきあい ふかぶかとした息づかいで 燦然と輝いてみえるだろう 《茨木のり子》

 茨木のり子といえば、『生前の死亡通知』で、この世をおさらばすることになりましたと、平成18年2月17日、79歳で忽然と去っていったことは、いまだ、記憶のなかにハッキリとあります。 
この詩の“鍵”を、ヘミングウェイの『シッダルタ』だったか、“さとり”と言い換えてみると、何とまーア、私にとっては、違和感のない詩になります。彼女には、わるいことですが、“気づきや目覚め”と変えてみても、意外と意味が通じることに気づきます。しかしどちらにしても、鍵の向こうの世界を対象にするかぎり、鍵や悟りは、目的ではありません。

彼女は、この詩のように、燦然と輝いている世界を、あえて、見ないで、旅立って行ったのでしょうか。きっと、多くの人々と同じように、その足並みのなかに今も彼女の足音が聞こえるようです。その足並みの音から、チャリンという響きあいをなびかせて……。 
鍵は、他者に対して、心を閉ざすとき現れるとするなら、鍵は、どこにでもあるもの、些細なもの、ちっぽけなものです。しかし、探し出そうとして、それがすぐ近くにあったとしても、手にすることはできないものとして、まるで、人間を見透かして生きるみたいでもあります。しかも、それなくしては世界がひらかない、黄金の鍵。 
彼女は、燦然と輝く世界を夢見ながら、その世界の鍵を探そうと語る世界は、鍵が焦点にあって、世界ではありません。鍵を持っていない人から見たら、生きいそぎ死にいそぐ人々の息は、ため息やあえぐ息だけではなく、きっと、ゆっくりと佇み、談笑し、会話に熱中する息も含まれているはずです。それらの息づかいは、見る人から見れば、ふかぶかとした息づかいに、すべてが活き活きと見えるのでしょうか。 
かすかな希望は、かぎ自身が出会いを求めていることから、探すことをしなければ、かぎみずから飛び込んで、手の中におさまっているのかも知れません。 
 長谷川宏氏は、近代出版発行『茨木のり子 思索の淵にて -詩と哲学のデュオ』にて、天国の鍵として、茨木のり子とデユエットしています。 
『鍵はそんな確固たる存在としてそこにある。鍵から、暗闇に包まれた小さな暗闇へ、そしてその向こうにある箱や部屋へ、さらには箱や部屋におさめられた宝物へと、想像の糸が確実に通じていて、心をときめかせる。鍵は、存在そのものが象徴的だ。さて、ローマのサン・ピエトロ寺院のシスティーナ礼拝堂といえば、なんといってもミケランジェロの天井画が圧巻だが、見ものはそれだけではない。首を上に曲げないでも見ることのできる壁画に、これはと思える一点、「ペテロに鍵を渡すキリスト」の絵がある。 
ラファエロの師ペルジーノの描いたフレスコ画だ。「マタイによる福音書」の「わたしはあなたに天の国の鍵を授ける。あなたが地上でつなぐことは、天上でもつながれる。あなたが地上で解くことは、天上でも解かれる」を図像化したもので、鍵という象徴性が見事に表現された絵だ。』 
これは、イエスからペテロに、今、天国の黄金の鍵が渡されようとする絵だそうですが、今から、2千年前に、そんな鍵の発想があったということが驚きます。これは、金属の鍵としてです。

釈迦は、迦葉の成長を、微笑んで許しました。知るものは、渡さないし、言いもしない、それでいて渡っているものです。 
古来、日本の多くの庶民は、鍵を手にした生活はしていなかったのだろうと思うのです。蔵などはめったになかったし、庶民の部屋をくぎるとすれば障子だけで、外界とのしきりは木戸と心張り棒の暮らしは、鍵など必要のない世界だったのではないかと……。 
きっと、開けなければならないものなど、考えたこともなかったのではないか。お天気に鍵はないのはもちろんのこと、畑や山、漁に出ることにも鍵は必要なく、おそらく運命の扉を開けることなど考えもしない。そのことは、扉を開けて外にでても、きっと、家を護ってくれている人がいて、天気が悪ければ、家にいて、洗濯もできないし、まして漁にはでられない。浦島太郎の玉手箱だって、鍵はなかった。

もう一度、彼女の『鍵』を読み直してみると、確かにあると思ったのでしょう。そして、すぐ近くまでいったのですが、どうもあるらしいと意識の中に思ってはいるものの、鍵が、確かにあると確信してはいません。問いはあるけれども、答えはない、それが鍵となる。 
鍵は、守るべき物ができてこそ生まれたものであるといえば、禅は、じぶん自身が、木の枝にぶらさがり、土をたがやし、虫くいの文献にみいり、聞き流した語尾にとらわれず、一人静かに部屋にいようとも、一歩を踏み出すこと、そこに チャリリンと揺れる自身を見出します。

  禅は、問いそのものではなく、問いを発するそのモノ自身を問います。しいて鍵というなら、問いを発した心そのもといってもよいでしょうか。

 南獄懐譲(なんがくえじょう)という禅師のことです。 
禅宗で中国から六番目の祖師、恵能(えのう)禅師に南獄が訪ねたときの故事です。 
「そなた、これまで何処にいたか」 
「嵩山(すうざん・達磨がいたところ)より、まいりました」 
「何ものが、やってきたのだ」 
「これとか、それとか、あれとか言えば、すでに違ってしまうでしょう」

答えの鍵を探そうとすれば、迷いの中に、南獄懐譲禅師は、「言えば違ってしまう」と答えています。 
何処にも行かない、何処にも去らない、そのままの自己、そのままを示した答えだと禅師は示します。 
禅は、おまえさんそのものが、鍵穴の向こうにいるじゃないかと、扉の向こうに立っていることを気づかせます。そして、問いであるとともに、問うモノそのものが答え、言うモノは知らず、知っているモノは言わぬ。 
晴れた日の空に浮かんで流される雲を見ていると、雲は流されていくことに、全身に陽を浴びながら消えていくことに、何の恐れもなく、こだわりもなく、これがあるがままの燦然とした姿なのだと気がつきます。雲は、知っているのか、知らないのか、人間の思いをこえているかのようです。 
苦しんでいるものに、悲しんでいるものに、かたわらにいて、何も言うなと肩に手を添える姿、燦然と輝いて見えるのは、私だけでしょうか。どうやら、生きいそぎ、死にいそぐ世界に、見つめるだけではなく、ふかぶかとした息づかいが必要と思うのですが。


チベット(平成20年5月1日)

チベット(平成20年5月1日)

 地球のいただきに7,000年という年月をへて暮らしてきた民族が揺れている。揺れているどころか、そこに文化を継承して住めないのだ。地球のいただきという神秘の扉の中に暮らすからこそ、伝わって生きてきた神秘が途絶えようとするあえぎのような気がする。
 多くのいただきの民族が山から追われて、地平に暮らすことを考えてみただけで、ぞっとする。あれから50年が過ぎているからでもあります。
 赤茶色の衣を着たラマ僧たちの敬虔さ、そして、チベットの人たちの聖地への旅姿を見るにつけ、それは、遙か彼方に向かって五体投地を繰り返しながら何ヶ月かけて旅をする人たちの姿に、圧倒されるからです。

 チベットの創世記は、水中の山脈が隆起したことから始まります。そして、この物語は、水が引き4,000メートル級の高原が誕生したことから始まり、今に至っています。
 サンスクリット語で、雪の住みかというヒマラヤが誕生し、その雪の国に最初住みついたものたちは、野蛮な聖霊や動物といった物の怪たちと、彼らの伝説にあります。
 その雪の国に、やがて人々が誕生するわけですが、その人々の子孫は、観音菩薩にさかのぼります。それは、觀音菩薩の化身としての1匹の雄猿と、ターラ菩薩の化身である鬼女です。この二人は、ヤルルン渓谷(古代王朝発祥の地)にて結婚し、6人の子供を産みました。その子供たちこそ、チベット民族のさきがけです。この古事により、チベットという名は、慈悲の菩薩、觀音菩薩の地という名前が付されたということです。
 人類の起源が類人猿ということに驚きはしないものの、鬼は想像がつきません。しかし、鬼は、類人猿よりも精神面や容姿において人間に近い存在といわれていることに、彼らの創造性豊かな感性を感じます。
 そのチベット人による王国が誕生したのは、紀元前127年のことです。そして、やがてチベットは、チベット人により統一されるのですが、7世紀に入ってのことでした。その頃の宗教は、ボン教という教えであり、栄えていたということです。
 チベットに、インドから仏教が広がるのは、8世紀です。またたく間にチベットに広がったのですが、ボン教にその広がる下地があったからです。
 幾多の変遷をたどって、仏教は、人々の信仰を築きあげます。13世紀にはいると、チベットはモンゴル帝国により統治されるのですが、チベット仏教は皮肉にもモンゴル人の心を改宗させてしまいます。モンゴルにチベット仏教が伝わったのはこうした理由によるものです。
 そして14世紀の後半、チベット仏教は教理と実践による一大体系となり、宗教国家として現代に至っているといえるでしょう。
 仏教には三宝という仏・法・僧がありますが、チベット仏教は、それに、生き仏が加わり、四宝という特色があります。今、ダライ・ラマとパンチョン・ラマという言葉がニュースに伝わっておりますが、ラマとは活き仏のことです。そして、その特色は、小乗、大乗、密教(タントラ)を体系にまとめあげて、実践の指針を提示していることです。
 チベット仏教ゲルグ派の高僧ゲシェー・ロサン・ケンラプ師の法話が、http://www.tibethouse.jp/culture/shine.htmlにあります。師は、ダラムサラのネチュン僧院で教えていて、2002年の夏に来日いたしました。
 《私たちは他の存在を味方・敵・無関心な相手の三つに分別します。このような分別を行うのも自分自身へのとてつもない執着心があり、なんとしても自分を守りたいと思っているからです。自分の味方である存在は慈しみ、自分の敵である存在には怒りをおぼえる。さらに愛着も怒りも覚えない無関心な相手というものがいる。怒り・貪(むさぼ)り・無知の三煩悩(さんぼんのう)はこれらのものが基盤となって生じるのです。 
 ですから他者を味方・敵・無関心な相手の三つに分別してはいけません。そもそもそう分別する理由さえないのです。敵も味方も真髄(しんずい)を欠いています。今あなたが敵だと思いこんでいた相手が、将来味方に変じたり、味方だと思っていた相手が敵に変じたりすることもあるわけですから。また今、大したことのない相手だと思っていた存在が、将来あなたにとって、とても有益な相手になることもあります。こうした事実はわざわざ経典にあたる必要もありません。そのことについて思い巡らしてみれば、そうとわかるはずです。一時たりとも離れ離れになっているに忍びない愛しい相手が、いつしかその名前を聞くだけでもむかつくような相手になっている。反対に、最初はなんて嫌な相手だろうと嫌悪していた相手が、いつのまにか限りなく愛しい相手になっている・・・。 
 私は別に敵も味方も存在しないと言っているわけではありません。敵も味方も存在します。ただ、敵であるから憎(にく)む、味方であるから愛するという態度を捨てて、どうしてあるものが敵と感じられ、あるものが味方と感じられるのか、その理由を理解し、敵味方を分別するような態度を捨てなさいと言っているのです。 》
 ダライ・ラマ14世が、「自己保存のための他者に対しての大切にする思いやりは限界がある。しかし、智慧にてその思いやりを普遍的なものにすれば、その思いやりを敵に捧げることは可能だ」という言葉は、ゲシェー・ロサン・ケンラプ師の言葉と同意です。
 
 チベット仏教をアメリカやヨーロッパに一躍有名にしたのは、『死者の書』です。《チベット「死者の書」の世界(中沢新一著 角川ソフィア文庫)より》

 それはチベットの山々のはるか彼方のこと。一人の村人が、今、死を迎え、最後の儀式と作法をのぞんでいる。家族は、親しいラマ僧を、その男の臨終によんだ。
 ラマ僧は、お寺にはいり、読み書きや呪文の教えを受けた十歳になるかならない小坊主を連れて、山を越え、谷を渡り、死者になろうとする家へいそぎました。
 その家に着くと、そこで、すぐさま、死に逝く者に添って、観察し、導くのでした。
 帰路、ラマ僧は、この小坊主にも、そろそろ、教えの扉を開いてよい頃だと思います。それは、人の死を目の当たりにし、この小坊主とラマ僧との信頼がなした故にです。
 ラマ僧は、小坊主に説きます。
「心(生命存在)とは、それぞれの生命組織の中で活動している状態のことをいう。ミミズはミミズという生命組織をとおして、自分の世界を生きているし、犬は犬、餓鬼は餓鬼、人は人の生命の条件にしたがって自分の世界をつくり、それを生きることになる。それぞれの生命体が、自分のまわりにつくりだしている世界というものは、その生き物にとってだけ意味をもつ世界だ。心はその中をいきながら、自分は根源に達していると感じることができない。だから、途中(バルド)なのだ。」
 数日後、このラマ僧と小坊主は、火葬にした、あの死者のいなくなった家に行きます。そして、死者の意識に向かって経を唱え、祈り、さとし、力を与え解脱、そして再生へと向かう死者の意識を、輪廻から觀音菩薩の慈悲に導くのです。
 この菩薩の慈悲への導きは、死者の意識が持つ幻影や記憶を遮断するためです。なぜなら、人の意識は途中にあるために、意味を解体しなければならないからです。
 なぜ解体しなければならないか、それは、意識は貪(むさぼ)り・怒り・愚かさを含んで、死してなお、再生に向かう途中に影響を及ぼすからです。
 
 ラマ僧は小坊主に言う。「有機体でできたこの身体はかならず滅びる。でも、生命はそれぞれの生命の死を超えて、流れ続ける。心の流れが、とだえないから、生命には再生があるから、人は世界に対して、本当に優しくなれるのだ。」
 「この世界にある生きもので、一度たりともお前のお父さんやお母さんでなかったものはない。この牛をごらん。今は牛だが、過去の生ではお前のお母さんだったことがある。そのとき、お前に優しくしてくれたはずだ。」
 「さあ、觀音菩薩による救いの力を待とう」と小坊主に呼びかけるのですが、死者の意識の力にかけるものであります。そのかけは、死者の意識が、死ぬことが、単なる苦しみではないのと同じように、生まれてくることは、喜びでだけではないからです。だからこそ、生と死のむこうにある、心の本質を知ることが求められます。小坊主がすこしずつ解りかけてくると、ラマ僧は、昔、インド人からおぼえた言葉を、小坊主に教えます。
誕生のときには、あなたが泣き
全世界は喜びに沸く。
死ぬときには、全世界が泣き
あなたは喜びにあふれる。
かくのごとく、生きることだ。
 死者の書は、最期にいたって、この言葉で結ばれています。生きる指針として人間賛歌の言葉でもあります。この言葉ゆえに、ラマ僧は、死はすべてを奪うものではなく、ほんとうの豊かさをあたえてくれる機会だというのです。

諸法

世界には様々な法があるかもしれない。また、それが人が創った限りは、矛盾 があり、顛倒があり、違背があります。
仏教は、世界自身が語り、世界自身が在らしめた法です。世界が一つに認識さ れた時、仏教の名前は亡くなるかもしれないが、世界がある限り、仏教の智慧は 輝いている。

四十四の問い~ミヒャエル・エンデ

四十四の問い~ミヒャエル・エンデ

  未だ全問に答えていませんが、気長に答えることとします。
もし、貴方が別な答えを出そうとするなら、私にメールを下さい。
貴方の答えを掲載いたします。『虹の彼方に』管理人

 エンデ自身がこの問いを出してより、これに答えた人は数多くいただろうと思う。しかし私はそれを読んだこともないので、知りようもない。答えたとしても誰も意味はないかもしれない。
 だけど、答えようとすることから、エンデに親しく接するような気がする。

1、あなたがこのような本を編むとしたら、なにを基準にしてえらびますか?
≪普通こう言った文章に接するとき、問い自体の新鮮さや、共感に賛同します。何もいちいち答えると言うのではなく、問い自体に、答えが含まれているものです。≫
2、あなたの人生を変えた本や、本のくだりがありますか?
≪この本に関して言えば、東洋では省みることをしなくなった、東洋の英知によって思考されていると思うのです。≫

3、人生の問題に直面していて、ぴったりのときに、ちょうどぴったりの本を手に入れ、ぴったりのページを開き、まさにぴったりの答えを得たとすれば、それは偶然だと思いますか?
≪人生の問題に直面していて、ぜんぜん外れた本を手に入れ、はずれたページを開き、まさにはずれた答えを得たとすれば、それは偶然だとおもいますか?≫
4、天使や悪魔や奇跡について聖書は語りますが、それでは聖書はファンタジー文学に属するのでしょうか?
≪答えは問いの中にあるという意味がよく分かる。蛇足は、記録するということを、何故記録しなければならないかと考えてみて、伝えるということも、目的や真意を考えてみると、ファンタジー文学は、聖書になり、日本書紀にもなるということか?≫
5、トルストイが書くモスクワ、フォンターネが語るベルリン、モーパッサンが描くパリ、これらの都市は現実にあるのか、あるいはそもそもかってあったのでしょうか?
≪よく私が問うことがあるのです。それは「世界は幾つあるの?貴方にとって世界とはどんな意味があるのですか?」また「具体的とは、現実とは?」です。≫

6、ゲーテが親しく呼びかけた月(おんみはふたたび茂みと谷をみたし……)(「月に寄す」)と、あの二人の宇宙飛行士が歩きまわった、泥や埃から成る塊は同じ一つの天体でしょうか?
≪この世の中で、一体”同じ”と言うことはあるのだろうか?そのことの意味を考えたとき、”同じ”という意味が解るのでしょう。≫
7、戦争の残虐さからなにも学ばず、自分も変わることなく戦争を体験した者に、戦争の残虐さの叙述がなにかを教えたり、そればかりかその者を変えることができるでしょうか?
≪最近行われた戦争を見る限りは、地域的限定の民族的なもののようです。民族を成り立たしめるものに、宗教があるようですが、宗教も、数や地域の占有を追及すると、資本主義の考え方と何ら変わるものではありません。人が何かを学ぶことはあるのだろうか?歴史は繰り返すの格言は、正しいのだろうか?≫

8、千人の苦しみは、一人の苦しみよりも大きいのでしょうか?
≪苦しみ自体個人的なものである限り、苦しみは千差万別です。千人の苦しみは、一人の苦しみです。≫
9、一平方キロメートルの赤い面は、一平方メートルの同じ色の面よりももっと赤いでしょうか?
≪一平方メートルが、1000個集まったものが、一平方キロメートル。一個の赤い面が、千個集まると、真赤っか。≫
10、人の意識の外にある世界”自体”を想像するには、少なくとも一人の人間が必要ではないでしょうか。つまりそのような世界を想像する人間が?
≪それでは、世界を考えてみましょうと言った瞬間、私は、世界の外に弾かれていた。≫
11、現実に対してわたしたちがもつ観念が変われば、現実も変わるでしょうか?
≪よく言うのですが、鏡は現実を映すといいます。私たちの眼も、現実を映しているのですが、見るという。≫
12、それを表す言葉がまだない、そのようなものを考えることができますか?
≪聖書は、始めに言葉ありと言った。禅は、父母未生以前の貴方の生命は?と問います。いつも問題は、言葉の無い世界のことなのです。≫
13、言葉がまだ話せず、したがってまだ考えることもできないとされる幼児が、言葉に意味があるとわかるのはどうしてでしょうか?
≪伝えると言う意思を持つことは、伝えられる情報を持つことでもあります。≫
14、「すでに」とか「さっき」という語の意味を説明できますか?
≪エンデのこの問いの鋭さは、説明という言葉を使うことです。迷宮に誘い、迷宮から誘うということを

15、詩を”理解した”というとき、それはどのようなことでしょうか?
≪このごろ思うことですが、僧侶は詩人でもあると思うのです。何故なら、僧侶自身こそ、”語り部”なのです。≫
16、百年、二百年後の人たちが、わたしたちがもつ世界観に、信じられぬと首をふることは考えられることでしょうか?
≪私は、現代から遡って、過去の時代にに、禅やお茶、武道が登場したことじたいが信じられない現代なのです。≫
17、すべては無意味だと、人に説きつづけてやまないニヒリストを駆り立てるものは、何なのでしょうか?
≪大嘘つきのコンコンチキ
18、上手にキリスト像を描く画家は、その画家自身が一種のキリストであるべきだと期待するのは正しいでしょうか?
≪誰もキリストを見たわけではなく、聖書の解釈によって、迫真のキリスト、痛々しいキリストと
19、恐ろしい拷問死を、美しい絵、美しい音楽、美しい詩歌で表現するとき、なにがそれを正当化するのでしょうか?

20、美は客観的事実なのでしょうか、それとも主観的体験なのでしょうか、それともこのように問うこと自体が、そもそもまちがっているのでしょうか?

21、両の手を打ち合わせたとき、片方の手はどのような音を発するのでしょう?
≪白隠禅師隻手の音声です。エンデ自身が何処で、この公案を仕入れてきたのか分かりませんが、エンデの作品には全編に渡って禅のテーマがあふれています。”あるがまま”こそ、禅そのものだからです。≫
22、磁針が常に北を指すようにする力は針にあるのでしょうか、それとも地球にあるのでしょうか?
≪私が立つことを出来るのは、地球に重力があるからこそできるのでしょうか?それでは、もし私が立つことを、重力より自由になりたいが為なのだと考えた時、私が寝たきりになってしまったとしたら、それは重力のせいなのだろうか。重力に捕まってしまったということでしょうか。寝たきりも、立つことも共に重力があってこその寝たきりであり、立つことであるとすれば、私は足で地球を持ち上げ、背中に地球を乗せることは私の重力こそ、地球の重力です。≫

23、おおぜいの人が同じ本を読むとき、本当にみんな同じものを読むのでしょうか?

24、読者と本のあいだに生じることは、どこで起こるのでしょうか?

25、精神なくして精神を否定できるのでしょうか?
≪できないんじゃ、ない?……?≫
26、長編小説を書くことはもうできないと、長編小説なみの分量の本を書くのはどうしてなのでしょうか?

27、”予知の語り手”ではないと主張する作家たちが書く物語を、だれが考えだすのでしょうか?

28、詩的虚構と嘘のちがいは何なのでしょうか?
≪良心 ≫
29、芸術は省略にあるとすれば、最高の芸術とはなにもしないことではないでしょうか?
≪禅というイメージは、禅と言ったとき、語っていないものを、あなたは見ることが出来ますか?≫
30、そもそも読者に詩人を理解する義務があるのでしょうか、あるいは詩人に読者が理解できるように書く義務があるのでしょうか?

31、「本」という語をモールス符合、ゴシック文字、点字、そして中国の表意文字(漢字)で見るとき、そしてこれらの文字を知らないとき、まったく異なるものだと思わざるをえないのではないですか?

32、小説でカフカが言わんとすることが、評論家がその小説を解釈して述べることであるとすれば、なぜカフカはそれをはじめから書かなかったのでしょうか?

33、本に登場する人物は、その本が読まれないとき、なにをしているのでしょうか?

34、美しさを願うとは、うわべを美しくすることを願うことでしょうか?

35、平均的人間というものに出会ったことがありますか?
≪ありません。平均年齢という年齢にも出会ったことがありません。》
36、ドイツ、イギリス、フランス、スペイン、イタリアの全文学が二十六のアルファベットから成っていることは、実に不思議なことではありませんか?

37、カバラが教えるように、神が二十二の文字と十の数字でこの世界を造ったとは考えられるでしょうか?

38、重力を克服するダンスは重力なしにありうるでしょうか?
≪私たちが、立って歩くということは、重力があることによって成り立っています。寝ると言う行為は、疲れを癒すということですから、その疲れは重力が原因であるようです。≫
39、思考とは脳のなかの電気化学的プロセスにほかならないという考えは、脳のなかのどのような電気化学的プロセスが考えたのでしょうか?

40、現実が”実際に作用すること”と関連があるとすれば、夢はどのような現実を持つのでしょうか?

41、人を病や健やかにする本があるでしょうか?

42、だれもが人生で妖精から三つの願いがかなえられるのを、あなたも見たことがありますか?

43、むずかしいこと、それとも楽なこと、むずかしいのはどちらだと思いますか?
≪信心銘よりの出題みたいに思えるないようです。あえて、素直に、むずかしいことです。≫
44、本当に問いは四十四問だったか、数えなおしてみますか、それともわたしの言葉をそのまま信じますか?
≪数えなおした瞬間、エンデの罠にはまり、そのまま信じることは、貴方をなくす。≫



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