目次
輝いている時
夢中(ゆめのなか)
芝浜
江戸っ子
亀住町(平成13年7月1日)
モンセ・ワトキンス~夢のゆくえ~(平成14年1月3日)
新牌開眼
英霊(平成17年5月23日)
目覚め
よわい「齢」
また始めたらよい
三大聖樹(平成19年4月17日)
滅度(平成19年9月18日)
安住の地(平成20年11月15日)
心眼(平成22年3月1日)
とかくこの世は
とかくこの世は
祈り(平成17年11月29日)
品位(平成18年1月20日)
ニャンニーシンズ(平成18年3月1日)
鍵(平成18年4月25日)
チベット(平成20年5月1日)
SYOHOU
諸法
四十四の問い~ミヒャエル・エンデ
先ゆく輩
さき行く輩
祖師年譜
ダルマ
慧可
五洩霊黙和尚
石鞏慧蔵禅師
大珠慧海禅師
西川の黄三郎
馬祖道一禅師(馬大師)
五百生 百丈和尚
大梅山法常(752-839)
麻谷山宝徹禅師(平成12年1月27日)
鎮州普化(ふけ)和尚
寒山・拾得
虹の彼方に
ヘイヴン・ペックの場合―続貧しいけれど、豊かだった―
生前葬
平和を我らにーGIVE PEACE A CHANCE(平成13年10月31日)
ソクラテスとヤージャニダッタ
蓮(平成14年6月2日)
心-KOKORO(平成14年6月25日)
独り暮らし(平成15年4月12日)
老いが、咲いていた!(平成16年7月5日)
深濱-fukahama
死に顔
松山鏡(ソクラレストとヤージャニダッタの続き)
真ん中(平成20年4月1日)
百万回いきたネコ(平成21年1月1日)
夜来る鳥(平成21年1月1日)
だいじょうぶ、だいじょうぶ(平成21年2月1日)
無常への帰依
無常への帰依
希望(平成12年1月2日)
葬式坊主
泥棒
赤とんぼ
老い
……ロス
後姿
寿陵
ついで参り
目標
六道を行く
もの言わぬ羅漢達…揀択をこえて…
宮本武蔵
五合庵断章(平成10年10月17日)
K子さん!(平成12年7月19日)
今は昔
十一面観世音菩薩
尽七日忌(平成19年5月1日)
OSYOU
OSYOU
この手のひらに―禅僧の死―(平成10年11月18日)
戒(平成10年7月25日)
幽霊
みんな仏教徒(平成10年5月27日)
最後の晩餐(平成10年5月23日)
禅問答(平成10年5月31日)
分銅
天国は汝ら自身に宿る(平成10年11月24日)
宗派
穢れ(平成12年8月30日)
お彼岸
仏心
仏心
ご祈祷
施餓鬼会にて(平成17年5月28日)
永遠の命
輪廻する葦(平成10年5月27日)
連鎖する命(平成10年6月2日)
涅槃(平成10年8月12日)
鏡(平成10年7月25日加筆)
流星
TAO(平成11年1月3日)
四大
挨拶
冥福
盂蘭盆
祈り(平成14年7月4日)
仏事歳時記
再び 最後の晩餐
この手のひらにII(平成18年11月18日)
死んで生きる智慧(平成19年3月27日)
五百生(平成19年11月20日)
破地獄偈(平成20年5月24日)
この指止まれ
この指止まれ
家族と家庭(平成11年1月5日)
導師(平成11年2月26日)
家から個人へ、そして家族・友達へI
家から個人へ、そして家族・友達へII
脳死そして臓器移植(平成11年3月2日)
独り決めの生き方
僧堂I
僧堂II
僧堂III
恥じ
僧堂IV
返事
父殺し・母殺し・友だち殺し・子殺し(平成20年1月1日)
その後
その後
ほとけさま(平成17年5月1日)
仏が仏に合掌する
戒名(平成12年3月14日)
無用の用(平成12年2月21日)
世話
大きく育て!(平成11年1月18日)
しもべ(平成10年11月7日)
電話(平成10年8月22日)
意思
寡黙
妄想(平成10年8月2日)
川(平成10年8月22日)
風如(風のように)(平成10年6月18日)
追悼(平成10年5月27日)
受容(平成10年6月18日)
蒸発
臨終(平成10年6月8日)
外道
障子(平成13年3月10日)
日月(にちげつ)
年寄りの出番より
人生とは、闇を照らす一瞬の蛍の光
時の旅人
時計(平成12年1月3日)
星(平成11年10月15日)
溝(平成11年8月2日)
過去心…念の起こる処(平成11年6月19日)
与える時間(平成11年5月24日)
桜(平成12年3月2日)
無常(平成11年4月16日)
川(平成10年9月17日)
有時(時の構造)(平成12年2月5日)
時の旅人(平成12年2月1日)
揺れる木々の葉
この人生の速さはなんだ(平成14年12月26日)
法句経より-時の旅人(平成15年2月4日)
寂然不動 如春在花(寂然不動、春の花に在るが如し) (平成16年9月19日)
ZENGO
自立
橋は流れて(平成10年9月18日)
無事
過去(平成10年5月23日)
たまごっち(平成10年5月23日)
一衆觸礼(いっしゅうそくれい)
六道を輪廻する
二人三脚
生老病死
筋肉番付
ポケモン
俺は、親馬鹿か!
塵も積もれば山となる
生と死と永遠
最終章
一章
二章
三章
四章~(未完)
時間旅行
時間旅行
命の歌-母の短歌
礎-いしずえ-
離魂(平成19年8月25日)
海辺橋
海辺橋
ふるさと(平成18年3月4日)
千の風(平成18年9月16日)
人の道(平成18年9月18日)
あなたは、いつから、一年が始まりますか?(平成20年8月1日)
前住職 二十三回忌にて(平成20年9月1日)
平成21年お施餓鬼会を振り返って(平成21年6月1日)
奥付
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また始めたらよい

また始めたらよい

 それは、私が生まれる以前、地球は、初め、水に覆われていました。 ……そう、地球の鼓動を聞きながら、私は、水の中に命を与えられていたといえるでしょう。 そこには、かぐわしい香りと色彩にあふれていましたが、まだ世界が混沌といわれていたときのことです。まだ私は生まれていなかったし、多分、時間や場所の概念もなかったはずです。それは、私と名づける前の私の状態といえるのでしょう。
 混沌には、水も空も大地も、ともにあったし、多くの命として、今を生きていたはずだ。
 その混沌とした世界から、私が産まれるには、混沌自身が苦悩を持たなければ、意識としての私は生まれるわけがない。
 そして混沌自身が苦悩を持つためには、出会いと夢、葛藤と忍耐、希望と誓い、安らぎと揺らぎ、祈りや願いという慈愛がなければならないのでしょう。
 区別と差別が生じて、形有るものが芽生えるけれども、それは混沌とした世界がなくなったというわけではないのです。
 混沌自身の苦悩は、私が新しい今、ここを手に入れても、ずっと、ずっと、私の今、ここがなくなるまで、続くのです。
 私が生まれることが、混沌には、苦悩であったとも言えるかもしれない。何故なら、生まれた私は、混沌を忘れるから……。
 そして、私が生まれでたとき空と大地と水が与えられたのでした。ちょうど、私の父と母が与えられたように……。
 初めに、お釈迦様は、諸行無常といいました。
 ものみな、移ろいゆくことを定めとして、立ち止まることを許されない。そして、それゆえにこそ、存在するものの根拠があるとしたら、誕生も消滅も継続も、時の法則そのもの。
 総てのものが存在しうるのは、この変わりゆくことにおいてあり、このことがなくては、世界の何ものも存在しえない。一切のものの可能性とは、このあらゆるものの変わりゆくことにおいてあり、これこそが、一時性の正体なのだ。
 もしこの一時性がなかったら、変わることもなく、あらゆる命在るものの姿形は止まってしまいます。この瞬間という一時性は、広がることも長さを保つこともないが、無限の可能性を秘めた点でもあります。
 だからこそ、釈尊は、一切は一時的であるということに徹することが、私の教えだ言ったのです。それは、何ものにも執着するな、この世の総てから超然とすることを学べと。
 産まれてきてたとき、すでに亡くなっていた運命の君こそ、このことがよく解っていたはずです。それは、未だ自分が誕生していないから……。
 お釈迦様は、次に、縁起の話をされました。
 この世界のすべての何もかもが、一つに繋がっていると話されたのでした。
 そして、総てのものが一つに繋がっていたとしたら、その繋がっているものに名前があるのは、命を繋いでいることの意識そのものかも知れないと、気づきます。 繋がることが意識といえるとすれば、それは、名前がなく、すべてがこんとんとしてある状態、それこそが、母の体内で形成されようとしていた命の営みそのもののような気がいたします。 
 生まれ出るまえは、命そのものと言ってよいとしたら、生まれ出たあとのものは、人間や動物、木々や草花、山や河や海、空も、含まれて、すべては一つに繋がったもの、それこそが、命の営みといえるもの、生まれる前も、生きているときも、死んだあとも、すべては、その命の営みの中のことだ。
 生まれでなかった君にしてみたら、きっと、この地球上のすべての人は君自身だし、今、誕生しようとしている命の萌えでようする芽も君だし、すでに亡くなっていった大勢の人も君自身といえるでしょう。
 その次に、お釈迦様は、諸法無我といって、この世界の有り様を語りました。
 君自身は命の営みそのもの。君に教えて語ることなんて、何一つない。まして、思い煩うことなんて君自身にはあり得なかったはずだから。
 思い煩い、じぶん自身への哀しみを通して、あり得るとしたら、君の誕生を望みえなかった、また、今か今かと待ち望んでいた、君のママやパパ、お祖父ちゃんやお祖母ちゃん、それに、君にとっては、これから年月を隔てて生まれ出ようとしているだろう妹や弟かもしれない。
 人間の世界って、自分という心を持つゆえに、自分が寂しいと思えば寂しいし、哀しいと思えば哀しいし、面白いと思えば面白い。そうやって、悲しみや寂しさ、面白さや楽しさで繋がっている世界でもあるからです。
 それは、世界は物語に満ちているということです。
 諸法無我は、そんな人間の世界を、混沌の世界から見なおしてみることをすすめます。すると、移ろいゆくものが見えてきます。
 混沌の苦悩は、悲しみのままに、辛さのままに、疲れ果てたままに、嘆きのままに覆われる勇気を与えます。そのままに、たたずむことが、明日をかえると。
 陽はまた昇り、季節はめぐるように、「また始めたらよい」と、力強く、心地よい響きが、君に届かないものか。届きさえすれば……。
 そして、君は、朝という字が十月十日と書くように、朝が来るたびに生まれ、夕べに眠ることをおぼえるでしょう。
 そして、君は、陽が昇ると、君を取り巻くすべてが、命あることに気づくはず。
 「さ、君となって、また始めるがよい。」
 きっと、君は、目が醒めると、私となって、生まれることができるでしょう。
 変わることが現実に生きる世界にあっては、死でさえも、不変のものとして、真実とは言いがたいものです。
 変わり続ける世界に大きな力となって、「また始めたらよい」の言葉は、変容のしるしから投げかけられた言葉でもあり、そのことを、たしかに君は知っているはずです。
 さて、この祈りは中身は、悩みや感謝とするなら、ヘルマン・ヘッセが、『放浪』のなかで、しるす言葉が光ります。
「祈りは歌のように神聖で、救いとなる。祈りは信頼であり、確認である。ほんとうに祈るものは、願いはしない。ただ自分の境遇と苦しみを語るだけである。小さい子どもが歌うように、悩みと感謝を口ずさむのである。」
 転身への祈り、それは、徹底できぬ自身への、素直さえの回帰という意味でもあります。
 じぶん自身の計らいの中の、気づきは、人を変えるものです。この変えられた自分を希うことを、この祈りの本意と、考えました。


三大聖樹(平成19年4月17日)

三大聖樹(平成19年4月17日)

 釈尊の物語として、三つの樹木が登場いたします。その場面は、誕生、成道、そして涅槃です。この三大聖樹、無憂樹、菩提樹、沙羅双樹を考えて気づいたことがありました。 釈尊誕生は、摩耶夫人がルンビニ園にて、緑葉高木の鮮やかな赤い色の花ををつけた、無憂樹(むゆうじゅ)の下でのことでした。無憂樹は、別名、阿輪迦樹(あしゅかじゅ)ともいい、アシュカの意味は、憂いのないこと、恐れがないことです。

 釈尊が誕生したことが、憂いのないことなのか、すべての赤ちゃん誕生のことだったのか。やはりこれは母親から赤ちゃん誕生の物語の、満ち足りた母と子の絆を語っているもののように思えます。産むまえの葛藤や痛みという心の積み重ねがあったゆえにこそ、この心が余計にクローズアップされるのだとも思います。しかし、その後にわたって、いくら母親とはいうものの、この心持ちを維持し続けることは難しいことでもあるのでしょう。産んだあとの、この心の達成感や至福の思い、穏やかさは、母と子の絆の誕生を象徴するものと考えなければならないと思います。この無憂樹の木の下で生まれた釈尊の、七歩歩いて「天上天下、唯我独尊」と天を指し、地を指したという故事は、天を指し地を指し示すことで、六歩の歩みの困難さを形容しているように思えます。恐れなく進めの指針こそ、「オギャー」という叫びに、誕生するものすべての宣言として、仏教は、人の歩みのすべてに、「天上天下唯我為尊」と表現したのだと思います。

 あらためて今の私たちの状況は、この「オギャー」が、深い人間性誕生の叫びとして聞こえないのではないかと思います。自分の命は尊いものとしても、同じ命を授かったわたし以外の赤ちゃんは遠い存在に思えます。「自分は、この世界の産声が聞こえているか」と、母と子の絆、世界の誕生として、産声を聞かなければならないことを、強く意味しているのだとも思います。そうでなければ、生まれた赤ちゃんの「天上天下唯我為尊」の叫びと、母親の憂いのないこととが繋がっていることが想像できないからです。

 そして釈尊の歩いた七歩のうち、地獄・餓鬼・畜生・修羅・人・天が六歩であり、七歩目ばかりが際だって問題とされています。しかし、「天上天下唯我為尊」は、あまねく六歩それぞれの歩みに、かぶさっていることを気づくということを、今はただ願うばかりです。

 釈尊の、最初の一歩から数えて三十五年にわたる遍歴の六歩こそ、無憂樹に導かれた歩みだったと考えてみました。憂いのない、恐れなくして進んだ道として……。これは釈尊誕生、四月八日のことでした。仏教の始まりは、四門出遊(しもんしゅつゆう)の故事からです。四門出遊とは、釈尊が、気づきから出家をこころざし、思索や瞑想、そして目覚めに到る動機を与えたものです。母を幼くして亡くしたものの、すべてを与えられて王宮内に過ごす釈尊の疑問を象徴とする故事です。

 それは、王宮の閉ざされた東門・南門・西門・北門からかいま見た外の世界、そこに釈尊を突き動かす動機があったからです。そこから見たものは、他者の老・病・死の世界です。その他者の老病死が、釈尊には、老いねばならぬ我が身となり、病むであろう我が身となり、また、現実の死者の姿と悲しむ親しいものの姿を前にして釈尊自身を襲う死の影が、「青春の高ぶりはことごとく断たれた」と述懐したことで、うかがい知ることができます。

 この身をおそう老・病・死の影が、釈尊を、生の思索へと導き、やがて苦の発見となって、釈尊を病ませたのだと思います。その時の思いは、「人は生老病死のあり方の中にあり、傷つき痛みのなかにあり、愁(なげ)きのなかにある。かかる者が、その原因を知ることができれば、それはより高きあり方であり、優れた生き方となって身を覆うであろう。それが、求むることであり、それが聖なる求めというものである」です。そこから、「大いなる放棄 を決意することになったのでしょうか。これは、啓示でもなく、選ばれたものでもない、現実をじっと深く見すえたものの宿命なのでしょう。そして、釈尊二十九歳にして、仏教は始まったのではないかと思いを馳せます。

 釈尊の出家から三十五歳までの歩みは、数多く仏典に飾られています。実際には思索と瞑想の試みであり、肉体を酷使する遍歴ともいえる旅だったとも思います。旅からとどまれば木陰や緑陰花々の中の散策と瞑想を繰り返し、時々は、質問や糾弾など問いの矢をうけたこととも思います。

 そして、ブッダガヤにて、心身ともに疲れ果てた釈尊の身体を癒したのは、少女の差し出したミルク粥でした。現在の臨済宗・曹洞宗の専門道場の朝食を粥座(しゅくざ)いって、お粥を頂ますが、この故事を受け継いでいることが推察できます。

 身体の回復が釈尊を、菩提樹の木陰に座らせ、瞑想にと誘い、悟りを得たのでした。釈尊三十五歳、十二月八日、明け方のことでした。この菩提樹の別名は、ヒッパラジュといい、畢鉢羅樹と書きます。道樹、覚樹ともいい、クワ科の常緑高木だそうです。これ以降の旅は、釈尊の歩みそのものが、菩提樹のように葉を茂らせ、人々のうえに緑陰として枝を広げます。

 ここから幼名シッダルタは、釈尊となって、ブッダと呼ばれます。語り得ないものを手にしたブッダの、更に確かなものにするために、そして伝えるための釈尊の歩みは、ここから、憂いもない、恐れもない確かな一歩となったようです。これからの歩みも遍歴の旅です。その足元は、人々の歩みにそって共に歩む地獄・餓鬼・畜生・修羅・人・天道の道でもあります。しかし、今は、菩提樹の茂る葉が頭上を覆っています。

 このことがいかに大事であるかと気がついたのですが、釈尊の歩いた道は、荒涼とした砂漠や、岩がごろごろとした場所ではなかったことです。これは、水もなく、新鮮な食べるものがない場所で、いかに生きて行くか、勝ち取ろうとする闘争心ではなかったということです。そして、もっとも見落としてならないことは、目に見えない神や、神の王国という物語の世界をつくらなかったということでしょう。

 自然と人々の生活のなかでの、事実を見つめて、人の暮らしの内に生きる智慧を思索したことだったと思うのです。ここに、文明が発達すればするほど、仏教の考え方を必要とする理由があるのだとも思います。人の自己が芽生えて、他者を分離し、「こちら」と「あちら」をおぼえ、「今から」と「今まで」を知り、「みずから」と「おのずから」の差が不明になったともいえないでしょうか。これは、「おのずから (自然に)」という形の自発性に、「みずから(意志)」の働きを「あるべきよう」と置き換えてみることのいかにむずかしいことか、釈尊を確かなものとして描くことができる人にとっては、今もここに歩んでいるといえさせるものです。

 菩提樹の木は、昼も夜も、雨の日も、穏やかな日も、照りつける暑さの日も、ただただ腕を広げて、四十五年の歩みのうち、人々を覆っていたのだと思います。やがて時が過ぎ、釈尊最後の地に向かわせます。その日は、釈尊八十歳、二月十五日のことでした。

 釈尊の言葉に、蘆(あし)の例(たと)えがあります。蘆の群生する水辺に立ち、「この蘆の群生は、一本の蘆だけでは立つことができない。蘆が寄り添い、支え合うことによって生きているのだ」という教えです。釈尊入滅の、その場所はクシナーラ、ウパヴァッタヴァの沙羅の林でした。釈尊が横たわった場所の、四方に二本ずつあったという沙羅の木、釈迦が入滅すると白色に変じたと云われています。沙羅は、インド原産の常緑高木で、小さな淡黄色の花をつけ、香りがあります。日本ではなぜか、夏つばきのことをいうのですが、これはツバキ科で、初夏から白色の五弁花をつけます。

 今考えてみると、釈尊の死は、人として避けることができない生老病死という輪廻の中に息を引き取ったという意味になるのでしょうか。私には、地獄・餓鬼・畜生・修羅・人・天・解脱の七歩は、人のあり方であり、死に方でなく、亡くなったという事実がとても大きな意味を持つものと思えるのです。天に召されたのでもなく、地に落とされたのでもなく、生老病死という時間をかけて思索し、忽然として沙羅双樹のもとで息を引き取ったという、そのことにです。

 人は木々の下に安らぎを求めるのでしょうか?植物のイメージは人の争いとは遠く離れたものがあります。無憂樹に導かれ、菩提樹という知恵を得て、そして沙羅の群生林のうちに息を引き取った釈尊の言わんとしたことは、“人は、それぞれ自身の世界を持つのですが、その世界観をいがみ合うことに苦心するのではなく、独りでは生きて行くことが出来ない”ことを考えさせると言うことではなかったかと思うのです。蘆は自覚しなくても、あるべきように、寄り添って生きるのですが、人は、自覚しなければ今生きている世界を保ち得ないと、三本の聖樹は、私たちへの教えとして、私たちの歩みに今も聳えていることがうかがえます。三大聖樹、無憂樹、菩提樹、沙羅双樹は、私たちへの釈尊からのメッセージです。

滅度(平成19年9月18日)

滅度(めつど)(平成19年9月18日)

 多くのお年寄りの人達の死に接して、やはり、病院にてベッドの上で亡くなることがとても多いことです。
 M氏との出逢いは、おそらく私が住職になって、すぐに始まったのではないかと思います。彼岸や祖先の命日に、いつも、お寺の玄関の縁に腰掛けては、お話しして行きました。親戚と待ち合わせしてです。いつもベレー帽をかぶって、優しい人となりを感じていました。しかし、その奥さんの姿を見たこともなかったことに気がついたのは、昭和57年6月にお母さんが亡くなったときです。
 自宅にて葬儀が執り行われたとき、今でも憶えていることは、妻であるSさんが、奥の部屋にいるものの、挨拶に現れなかったことでした。その時、精神障害とうかがったものの、私がお会いしたのは、そのSさんが亡くなった時だったのです。
 それは、平成17年のことですので、実に、23年が経っていました。
 Sさんの葬儀が終わって、M氏の笑みが、肩の荷を降ろして、やっと、自分だけを見つめればよい時間を持ったことがうかがえました。
 平成19年9月17日、Mさんが、一人病院にて亡くなりました。お子さんも、親戚も付き合いがないのか、家の近くの親切な人達だけで葬儀が行われました。
 その婦人から訃報をいただいたとき、「夫婦とも老いて、とうとう私が、M氏の人生の締めくくりとして、立ち会い、最後を全うするのに、安らかなのかしら」と云っていた言葉が印象に残りました。これでいいのだろうかと、これでいいのだには、八十八年かけて歩んだM氏が、最後に選んだことに対する婦人の波紋でもあります。
 四十二章経というお経に、釈尊の言葉、「人の命は吐いて吸う、短い間にしかない」があります。これは、言葉としては理解できるものの、事実として理解できない吾々のために説かれたのものです。きっと、今、事実としてかみしめているのはM氏であり、M氏の姿から、浮かぶメッセージでもあります。
 そのM氏が亡くなる2日前、毎日来てくれる20年来の付き合いというご近所の婦人に、「毎日来なくていいんですよ」と、これは、申し訳ないと気遣うのことなのか、それとも、自分の生に覚悟が尽いた果ての言葉だったのか、肺炎に、酸素マスクを口にして病臥することとは、息を吐いて吸う事の繰り返しの中に時間があり、その儚い時間の中に、走馬燈のように過去の思い出が数多く思い出されていたのだと思いました。
 一呼吸の時間の刹那に、どれだけの長さを含んで、目蓋を閉じているのだろうかと思います。その一呼吸を、健康にして、時間に追い立てられる吾々には、普段、意識することはできません。
 それこそ到りついた過去の積み重ねたものは、そんな吐く息吸う息の、繰り返しの中に、あるような気がいたします。
 M氏の戒名に、どんなに良い字を選んでも、どんなにか考えて意味を付したとしても、この戒名を仏壇にかかげて、M氏の両親が、そしてその両親もしてきたように、毎日、線香の香を手向ける人はいないと思うと、寂しいと思います。
 しかし、M氏は、そのことを含めて、考えてみれば、後半の人生をかけて、ゆっくりと時間をかけて、身に染みこませてきたのだと考えてみました。奥さんが亡くなられたときも、戒名はいらないと言われたことに、現れているとも思いました。それでも、電話口で話しをして、戒名を受けていただき、自宅から奥さんの葬儀まで出しました。
 いつの頃だったか、M氏が、「結婚する前から、妻Sは、かわいそうな境遇で、私は、最後まで面倒を見てやりたいと思っています」と言われたことがありました。
 M氏の生きがいのように、妻の身体の病体と、M氏の加齢との競いに、M氏は、遺言を書きたいと、この件で、お寺のことは記さなければならないとも言い、私は、お寺のことは、お寺にまかすことで、M氏の不安は解消されるように願っておりますと告げました。そして、「最後に、骨を拾うから、とにかく、今の生活を大切に」と。それに対して、「私は仏教が好きで、今でも、勉強している。後悔しないよう、悔いのないよう、まっとうしたい」と。

 これは禅宗に伝わる《五燈会元(ごとうえげん)》という本に書かれていることです。
 それは、釈尊が亡くなろうとした時のことです。釈尊は鹿野園のクシナ城に至り、付き随った人々に、「今私は、身体の中に異変が起きて背中が痛む、とても旅を続けることはできない、とうとう私も多くの人々と同じように、涅槃に入らなけばならない」と言い。キレンガという川のほとり、そこは沙羅の木々が群生する、双樹の下(もと)で、右脇を下にして足を累(かさ)ねて、亡くなった話しです。
 しかし、伝えられたところによると、再び立ち、何故か、母の為に説法したと伝えられています。その言葉は、世には無常の偈と言われており、それは「諸行は無常なり、是れ生滅の法なり。生滅滅し已わって、寂滅を楽と為す」です。
 M氏も、眠る姿となって、語っている内容は、この無常の偈を、M氏が親しくして亡くなっていった人に対して、「我もまた、諸行は無常なり、是れ生滅の法なり。生滅滅し已わって、寂滅を楽と為す」と、その姿から、聞こえてくるようです。
 その言葉を発する少し前、釈尊は、迦葉尊者に西天一祖として法を伝えたのですが、側に控えていた阿難尊者には、こう告げています。
 「法の本法は無法なり、無法の法も亦た法なり。今無法を付する時、法法何ぞ曾て法ならん」と。
 《 釈尊の伝えた法の根元は無法への気づきであり、それが法といえるものであると。今、その無法への気づきを伝えるが、無法への気づきは、それを伝えても、それがどうして法であろうか 》と、阿難に対して、問いを残しております。
 寂滅を楽と為す、楽の内容を、無法の気づきの境界とする、もう一度、法が見えてくるのでしょうか、その法と無法とは表裏一体、裏と表のような気がいたします。
 その法のままに生きることを、仏道と言うものの、本来、人の歩む道に、あの道もこの道もあるものではありません。大空を飛ぶ鳥の姿の後にも先にも、紅葉した落ちる葉の、風に、光にくるくると舞う姿の、これは今の姿であるものの、どこにも道はありません。
 そのどこにも道はないところを道とよび、言い、意味を見出そうとするものは、人間の心なのでしょう。
 その道がなければ歩めないのは人間であり、鳥や魚やけものは、道なき道を跡(あと)なき道とするものの、人間は、道なき未来を選択肢と言い、道なき跡を結果と生涯とあえて言うものです。
 本来、後先なき道の歩む人の、幻の道を見出しての喜びや、惜しいと悔やんで、取り返しのつかないことをしてしまったとする一喜一憂、それは落葉に譬えれば、表をだし裏を見せて落ちる葉の姿を形容するかのようです。
 本来、葉っぱや人の行為に、裏も表もないはずの、敢えて明暗をつけ価値や運不運として、人は生きてゆくのだと思います。その道は、来し方去ってゆくという隔たりだけでなく、すべての数える時間も年齢も、人にとっては、人生という膨大な時間が生じるようです。
 過去、日本人は、人の生きた道を、夢としました。夢の道とすることで、道を突き放して、その道に縛られない本来の一葉を、自己の姿として見てもらいたく思います。枝から地に落ちる時間の中に、他の一葉と比べようもない長い時間と距離があるはずなのです。
 それを発見するのも自分ですし、脚色できるのも自分です。芭蕉や西行が放つ夢の言葉もそこにあると言えばよいのでしょう。
 裏を見せ表を見せて散る一葉の、裏や表は、自己が認めるものではなく、他が認める裏や表ですが、裏や表は、人に譬えれば行為です。
 さて、釈尊が、迦葉尊者に対して伝えた法を、迦葉から次の阿難尊者に渡す布石としたあと、釈尊は、いよいよ、荼毘にふされます。
 棺が燃え火が盛んになるも、まだもとの如しと。そして付き随ってきたお弟子さんたちが、釈尊を讃えて叫びます、「総ての人のわき起こる諸もろの盛んなる炎こそ、その火で能く焼きつくさんをことを願う。請う釈尊、三昧の火、金色に耀く身を荼毘したまえ」と。 すると、棺は、火三昧をおこし、多くの灰を降らせたと言います。
 「我もまた、諸行は無常なり、是れ生滅の法なり。生滅、滅し已わって、寂滅を楽と為す」。
 我れ灰となって土となる。この我れは、母や父の残したもの、その父や母もすでに灰となり、我れもまた灰となる。我れを精神とし、土は物体とすると、精神と物体が一如となり、その先に進むかのようです。
◎禅宗は、普段当たりまえのことに真理を見、当たり前でないことに、人の思いの介在を見つめます。僧堂では、”自己を無くせ”、”成りきれと”言われたものです。

安住の地(平成20年11月15日)

安住の地(平成20年11月15日)

《岸は海にささやく、「おまえの波が賢明に言おうとしている事を、私あてに書きなさい」、海は泡で何度も何度も書く、そして、湧きかえる絶望とともに、書いた文字を拭い去る。》タゴール

 それは、平成14年の秋の彼岸だった思う。ある檀家さんに連れられて訪ねてきたのは、その檀家の叔父さんのSだった。訪問した理由は、「鳩ヶ谷のお寺の墓を、この寺に移したいという」といことだった。鳩ヶ谷のお寺さんが、Sさんの家は、「子がいないし、承継者もいないのでいずれ無縁にします」と、面と向かっていうのです。
 そのSさんの奥さんが亡くなって、平成9年の7月で、その時は、奥さんの実家の墓がその寺にあるので、近くて良いしとその墓所を購入したのだという。実家の墓は広かったが、そこそこの広さの墓所手に入れ、墓石を建てて納骨したのは、5年前のことだ。
 Sさんも80歳を過ぎて、体力に自身がなくなり、急に不安で不安でしかたがないという。陽岳寺なら、甥っ子もいるし、ずっとついで詣りをしてもらえるから、是非分けて欲しいということだった。
 私は、「でも、奥さんが亡くなって葬られたとき、実家の父母が眠るその墓地を、貴方が承知で選んだはずではなかったのでは?」と聞くと。「それはそうだが、こっちの方が親戚が多いので」という。
 年老いて、背が曲がるようになって、「無縁はいずれ整理する」と、その鳩ヶ谷の寺の主は、よく言えたもんだと驚き、宗派はと聞くと、真言宗という。

 いずれ整理するといわれた墓には、入れないのが人情だ。
 何で、奥さんが亡くなったとき相談してくれなかったのと、今更だが、聞いてみても、どっちにしろ、そんな願い事に、困惑しながら、困ってしまう。この寺でなければならない条件は、その叔父さんの実家の墓があるからなのだ。では、鳩ヶ谷の寺には、奥さんの実家があるじゃないのですかと聞くと、「家内は6人兄弟で、男もいるけれど、家内を除いて、誰もその墓の後見をしようとしないのです」という。一方的にそんなことを言われても、確かめようもないし、第一、その家内の実家の人達を私は知らない。それに奥さんも知らない。
 少し考えさせて下さいと、断りたい気持ちを胸に、なんでこんな気持ちにさせる坊さんがいるだよと、腹を立てながら、こっちに振らないでと思ったのです。

《そよ風が蓮にささやく、「おまえの秘密は何?」「それはわたしそのもの」、蓮は答える、「盗んでごらん、私は消えてしまうから!」》タゴール

 よくお墓を得ることは、安心を得ることでもありますとか、死後の安住の地を得ることはなどと、うたい文句のお墓の宣伝が入ってきます。
 私は言いたいです。死後の安住の地は、土地という場所ではないんですよと。あなたが生きたあかしは、あなたの縁が結ぶモノにあるんですよと。家族や友人、あなたが親切にした多くの人たちの生き様に託されるんですと。あなたの生き様には、託すお寺さんがはいっていますかと。 
その後、何度か、そのお年寄りの親戚と話しがありました。
「どうしても、墓が欲しいと!」
 幸いに一番小さな墓所が空いていたので、引き受けたのです。正直、話しを聞かなければ、こうはならなかったのに!と思ったものでした。
 決まってから、そして数日が経ちました。さらに相談があると、何とかしてくれと……。

 そして、平成15年の春彼岸のことだった。「妻の実家の墓の後見がないことに、鳩ヶ谷の寺は、三十七回忌に永代供養をしてあげるからと、300万円をよこせと言うので、耐えられなく、そのお墓も更地に戻したいので、遺骨と、土を少し、一緒に納骨してくれ」と頼まれたのです。その必死な一途な様子に、困ってしまいます。
 「それは、家が違うでしょう」と、空しい言葉と想いながらもつい口にしてしまったのです。結局、一つのお墓に受け入れることで、そのお年寄りの心が安心できるならと、「いいですよ……」と。
「永代供養はどうしましょうか」との問いに、「あなたがお参りされるわけですから、必要のないことです」と、すべては終わった。私は先がないのでと、平成14年度から15万円の護寺会費を納めたのです。


 そして、鳩ヶ谷のお墓二つの墓所のお寺から改葬を許され、整理することが決まって、陽岳寺の墓所に石塔を建てたのです。小さなお墓だったので、立てに5つの遺骨を納骨したのが、平成15年の8月2日のことでした。
 強い意志だったと思うのです。体の中から絞り出すように声を発して、この大挙を成し遂げたのでした。

《空は月を捕らえるために罠をしかけたりはしない。月を縛っているのは、彼女自身の自由だ。空に満ちる光は、草にたまる露のしずくの中に、おのがいやはての姿を探す。》タゴール

 その年の9月彼岸に、過去帳を新しく書き換えました。やがて、Sさんの身体に変化が現れ始めました。「今、調子があまり良くないのですよ。腎臓が悪いのです。」と、声はずいぶんと弱っていたことを思い出します。
 そして平成16年の2月に、甥っ子が亡くなったことがあったが、体調がすぐれなく出席できなかった記憶があります。温かくなれば元気になれるでしょうと思ったものでした。
 思い出したように、墓参に顔を出すことはあったのですが、その数はめっきりと少なく、やがて平成18年頃からは便りだけになった気がします。
 平成19年の暮れの便りに、クビ頸椎に癌ができて手術することを決断したことを聞く。手や腕にしびれがあり、それが段々とひどくなるようだと、本人はそれが辛いらしい。医者は、高齢でもあることだし、そのほかに、腹部にも癌があるので躊躇している。だけれでも、そのクビの頸椎の癌さえ取れれば、少しは楽になるとSさんは思っている。しかし、その癌の切除は、完全に取れるか、切ってみなければ分からないという。それでもSさんは切って欲しいという、優に86才を超えても、人は生きたい望みをもつ。
 平成20年10月終わり、Sさんは亡くなった。親戚が決めた通夜葬儀の段取りに、私の日程の都合が悪く、最後を確かめることはできなかった。

《死んだ木の葉が大地に化して自らを喪うとき、彼らは森の命に参加している。》タゴール

 築いたものが朽ちかけ、無くなろうとすることに、人の思いは死してなお強い。そう思う心に、受容し受け入れることを、どうしたら刻み込むことができるのだろうか。
 親しかった人の心の暖かさをもてあそび、親切に尽くしてくれた人の心の芽を折り、今までの好意という行為にさざ波を与えたもの、それは、人が亡くなろうとする潔さ以前の心であり、遺言書にこんな効果があろうとは、考えることもなかった。
 「それでは、人が傷つきますと、何で、生前に話をしてくれないのか」と、四十九日後に、受け容れなければならない私も困ります。
 ふと、人の気持ちがよく変わることを、久々に、目の当たりにする。変わらなくなったことが、人の死か、そんなことを思いながら、S氏のやせた姿を思い出す。でも変わっていいのだと、変わらなかったら余計に悩むこともあるから……。

《初めての太陽が、新しい存在の出現にあたって、たずねた「おまえは誰か?」、返事はなかった。年また年は過ぎ去り、最後の太陽が、静かな夕暮れ、西の海の岸辺で、最後の問いをなげかけた、「おまえは誰か?」、答えはなかった。》タゴール

 本当の安住の地とは、安住の地を求めてさまようのではなく、生前に接した人の、すがすがしい思い出の中に住みながらも、やがて、忘れられるということかもしれない。


心眼(平成22年3月1日)

心眼(しんがん)(平成22年3月1日)


 涅槃経の獅子吼菩薩品に、象を仏性にたとえて、目の見えない者を一切の無明の衆生にたとえとしている話しがあります。
《たとえば王がいて、一人の大臣に、「汝、一頭の象を引いて、目の見えない多くの者に示しなさい」と告げたとしよう。
 大臣は王の命令を聞き、目の見えない多くの者を召し出して、象に触れさすだろう。
 すると、この者たちは、象をなでて、牙に触れた者は、象は大根のようだといった。耳に触れた者は、象は大きなザルのようなものだといった。頭に触れた者は、象は石のようだと言った。鼻に触れた者は、象は杵(きね)のようだと言った。足に触れた者は、象は木の臼(うす)のようだ言った。背に触れた者は、象は牀(ゆか)のようだと言った。お腹に触れた者は、象は大きな甕(かめ)のようだと言った。尾に触れた者は、象は太い縄のようだと言った。
 象の全体について説く者はなかったというが、しかし、これは説かなかったということではない。このように部分部分は象という全体ではないが、これらを、離れて更に象というモノがあるのではない。》と経典には書いてあります。

 この物語が、禅宗の語録にあります。
 問う、「衆盲の象を模し、各々異端を説く、と。如何なるか是れ真象。」
 多くの目の見ない者が、象の体をなでて、めいめい異なった部分について語った、といいますが、本物の象とは、いったい、どんなものですか」と問いました。
 師云く、「仮なし。自(も)と是れ知らざるなり」と。
 師は、「仮などというものは何もない。みんな真だ。牙は象の牙、耳は象の耳だ。一つ一つが真の法身片々である。それをお前が知らないだけだ」と。
 禅は、「目がなかったなら、どうして見ることができるか。これは、目だけではなく、耳がなかったら、どう聴けるか。口がなかったならば、どう伝えることができるだろうか。目もなく、耳もなく、鼻も舌も身体も心もなかったら、どのように見、聞き、嗅ぎ、味わい、触れ、思うことができるか」、と。

 このお話が、落語になると、心眼という落語になります。
 円朝全集13巻にあるこの『心眼』は、横浜にいた圓丸という目の見えない弟子が、兄弟喧嘩をしたことから思いついて作られたものです。芝居にもなり、明治44年2月7日に、初演がおこなわれたそうです。
 この作者の三遊亭円朝の戒名は、三遊亭無舌居士といいます。舌がなくして話す。京都は嵐山の臨済宗天竜寺、滴水禅師に参禅し落語の奥義を会得したとき、この居士名をいただいたものです。
 そして、奥義を会得したときに詠まれた歌が、「閻王に舌を抜かれて是からは、心のままに偽(うそ)も云はるる」、です。
 円朝は、こうして、眼なくして見、耳なくして聞き、口なくして話すことができるようなり、作られた作品が、この『心眼』でした。

 『心眼』の出だしは、「さてこれは、心眼ともうす心の眼というお話でございますが、物の色を目で見ましても、ただ赤いのでは紅梅かボケの花かバラか牡丹か分かりませんせんが、ハハア、早咲きの牡丹であるなと心で受けませんと、五色も見分けがつきませんから、心眼と外題いたしました」とあります。
 このお話の登場人物は、大坂町の盲目梅喜(ばいき)という針医者と、お竹という良くできた女房に、芸者の小春、弟の松之助、近江屋の金兵衛です。
《江戸浅草に住む盲人の梅喜は下手な針医者であるがために、仕事がない。そこで、横浜の懇意な人が横浜に来るようにと呼んでくれたのです。弟の松之助と横浜に出稼ぎに行ったのですが、下手はどこに行こうとも下手で、一年か半年はいるつもりが、三日で、帰ってきてしまいました。しかも歩いてです。
 長屋に帰ってみると、女房のお竹に、このいきさつをすべて話しました。
「すべては目が見えない俺の手間がかかって、馬鹿にされ、情けなく、口惜しくって、腹が立って。お竹や、これというのも俺の目が悪いばかりだ。口惜しい、どうにかして、せめてこの眼の片方でもいいから開けてくれ」と、お竹に願ったのです。
 もとより、梅喜思いのお竹は、茅場町のお薬師さまに信心をして、三七、二十一日断食して、夜中参りをしようと決めたのです。そして、満願の日、梅喜は、疲れ果てお薬師さまの賽銭箱のそばに寝てしまいました。

 朝になり、近江屋の金兵衛さんが、お薬師さまにお参りしたとき、寝ている梅喜を見つけます。梅喜は目が開いて、視界が開けてみると、すべては、初めて見るモノばかりで、それこそ、金兵衛さんも初めて見る人となっていることに驚くのです。
 金兵衛さんと二人して、帰りの、目が見えなかったときの世界と、目が開いて見える世界は、まるで二つの世界があるようでした。見える世界は、華やかで、大きなモノと小さなモノ、川や橋や海、それに人の器量までもがさまざまで、器量の善し悪しは撫でたって分からないことです。
 梅喜は、帰りしな浅草の観音さまにお参りします。観音さまのお堂の隅に、人だかりがする場所があります。そこには大きな姿見がありました。金兵衛に呼ばれて、その鏡の中を覗いてみると、そこには、いい男の梅喜がこちらを覗いていました。
 梅喜は、歩きながら思いました。「私はこの位の器量を持っていながら、家内は、金兵衛さんが言うことには、鎧橋のうえを渡っていた下女より悪いという」と。
 その人混みから、梅喜は金兵衛さんとはぐれてしまいます。そこにたまたま芸者の小春
に出会います。芳町の小春姐さんは、もともと、梅喜の下手な治療を受けながらも、惜しいくらい実にいい男だと、目が開いていたらと、岡惚れしていました。
 そこで出会った小春は、お腹もへっていたので、二人して釣り堀の料理屋へ……。

 その頃、お竹は、眼がさめてみると、自分の目が見えないことに、「これは、お薬師さまが、願いを聞き届けてくれ、亭主の目が開いた」と、喜んでいた。そこに、梅喜を見失った金兵衛さんが知らせに来てくれ、いきさつを聞かされたのでした。お竹は、梅喜の杖をたよりに、浅草を捜し捜し、その茶店にたどりつき、梅喜と小春の部屋のふすまを開けます。
 お竹、「何だとエー」。梅喜、「どこの人だエー」。お竹、「お前の女房のお竹だよ」。梅喜、「これはどうも」。お竹「何だとエー、今、聞いていれば、あいつの顔はこんなだとか、あんなだとかでいけないから、小春姐さんと夫婦になろうなんて、お前さん、そんなことが言えたぐりかねエ-」。…………。
 お竹は、そんな梅喜にあきれて、「死んでやルー」と、止めようとする梅喜ともども、庭の池にドブーンーと。
 「しっかりおしよー梅喜さん、起きよー」と揺り動かされて起きた、梅喜は、「ああ……夢かア、おや、目が見えないって者てのは、妙なもんだなア、寝ているうちにはいろいろのものが見えたが、眼がさめたら何も見えない。『心眼』というお話でございました。》

 目だけで見ると思うと、なんと浅はかな、見るモノと見られるモノと、二つになった途端に、狂い始めてわからなくなる人間の、夢と現実を織り交ぜるこの心眼。
 円朝が悟ったとき詠んだ、「閻王に舌を抜かれて是からは、心のままに偽(うそ)も云はるる」の歌。心のままに偽も云はるるは、人の思いという煩悩妄想も、そのまま、口なくして話すと、それは真となって、耳なくして聞く人の心を打ちます。
 目なくして見る梅喜と目が開けての梅喜、どちらが、人として真か。
 円朝は、確かな目で見る現実を、不確かな目なくして見る世界にこそ、たしかな現実があると、心眼で示します。こうして、私たちに、それでも、どちらが現実かと考えるようにと……。
 円朝の辞世の句は、「目を閉じて聞き定めけり露の音」となっている。しか墓碑には、「聾(みみし)ひて聞き定めけり露の音」とある。これは、後に西宮の南天棒老師が、「聾ひて」では、理屈に読めるので、ということらしい。
 目閉じては、心無くしてと読める。心空っぽこそ、心眼の極意。


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