モンセ・ワトキンス~夢のゆくえ~(平成14年1月3日)
モンセ・ワトキンス~夢のゆくえ~(平成14年1月3日)
外資系生命保険のテレビコマーシャルは、「知らなかった!と、ここまで保証してくれたとは!知らなかった、比べてみると、こんなに安かった!」と、流れる。
そう、やはり世界の中の、日本は辺境なのなのだろうか。情報の選択の、何が耳を、目をこらさなければ、聞こえない、見えないに、トップニュースが、ゴシップでは、”知らなかった”というより、”知るよしもないし”、”知るべき頭の働きもない”のが、私の普段でもあります。
経済が悪いといっても、塀の中で、好きな本と格闘する私にとっては、新聞か、お茶の時間にみるテレビしかニュースの取得は限られています。それでも次々とわき起こる事件は、入っては消えてゆくのみの、塀の外のことでしかないと思うことでもあります。もっとも、世界が繋がっているかぎりは、どんなことでも、”関係ない”ということはあり得ないと承知のことの、やはり、”あまり関係ない”ことの事件は、お茶の間のテレビの向こうの出来事なのです。
そうした事件の中で、この年の前半より、南アメリカのアルゼンチンに、何やら経済破綻の情報が流れました。このことは世界経済に信用不安を投げかけると、特にアメリカの経済に大きく打撃を与えると、アメリカは、IMFを動かしてもいた。日本での情報は、アルゼンチン、ペルー、ボリビア、チリ、コロンビアの情報は皆目流れてこないことから、日本に於ける失われた10年と同じほど、これらの国では、経済の破綻による貧困と、暴力と、麻薬とが蔓延していたなどとは知らなかったことでもあります。そういえば、ペルーの藤森前大統領のことなど、最近はちっともニュースにならないことを思い出しました。きっとペルーでは、忘れることのできないことであるのでしょう。どう問題なのかすら知らない私達に、こうしたことの背景を知らぬ私達の生活に、やがて根を張る問題が含んでいて、10年後、15年後変化して行く世界が在るのもかかわらず、今手を打てる問題に、”知らなかった”ということが、日本は多すぎるような気が致します。
ただ距離が遙か彼方にあると言うだけでなく、日本に近い国の貧困問題は、結局、日本にかかわってくるのだと、強く思います。
平成13年の暮れも押し迫った頃、井戸光子氏より、一冊の本を戴きました。
題名は『虹のゆくえ』で、著者はモンセ・ワトキンスであり、翻訳者は彼女でした。そして、大晦日、寺の用事も一段落して、ブックカバーの青い空に雲が目についた。中心に、白黒の客船の写真、”河内丸”だという。『夢のゆくえ』という空に、海の色を意識したのか、表紙には『19世紀末、太平洋を越えて、はるか中南米の地に渡った日本人たちがいた。百年後のいま、その子孫たちは、「黄金の国=ジパング」をめざして、還流してきた。在日15年、日本社会と文化に通暁した、スペイン人ジャーナリストが、一世紀に渡る移民の夢の「いま」を語るドキュメンタリー。』とあった。(モンセ・ワトキンスと井戸光子氏のことは、『モンセ・ワトキンスをごぞんじですか?』井戸光子氏著をご参照下さい)
この本は、今から、百年前、二ヶ月かけて多くの日本人が、河内丸という客船で、国が広いという南アメリカの貧しい国々え、夢を描いた移民のドキュメンタリーであり、100年後の二世三世日系人たちの、日本の失われた10年の空間えの還流問題に焦点を当てた優れた本です。奴隷制度が廃止された国の、外国人労働者の移民は、ひと財産を夢見るには、あまりにも背景が悪い。過酷と困難の中に、夢を託すことは想像を絶する100年でもあったに違いない。それが今も続いているからこそ、数千人の日系移民の子孫が、30万人となって還流して、この社会に根ざそうとしている。日系人と言われ、この国に生まれた彼等の子ども達は、もはや故国には帰れない。ではと、受け入れる環境を考えてみれば、お粗末なかぎりだ。そのお粗末な環境で育った子ども達も、この国の未来を背負う子ども達と考えると、一人一人何ができるのかと、やはり考えねばならないことです。
この問題を読んで、それにも増して、多くの中国、台湾、フィリピン、タイの人々の出稼ぎ海外移住問題は、いったい何十万人なのか、何百万人の問題となって、今あるのだと類推できる。皆、どこかに貧困問題があることから、日本に渡っては、経済問題、犯罪問題となり、コロニーを形成するにあたって二世問題が教育文化問題となる。
平成13年の暮れに報道された、青森県の住宅供給公社での多額横領事件で、5億円のペルー送金が問題になったのも、そう言えば、ペルー人女性だったのを思い出すしますが、何故青森なのだろうかと考えてみれば、地方都市と南アメリカの国々との関係も、根は南アメリカの貧困問題であり、日本の根は地方都市での働き手の日本人がたりないということです。この女性は、ペルーに広大な敷地に豪勢な家を建てていたではないか。
日本にとって、100年前の日本の貧困問題が、100年後の貧困問題になるとは、時間もグローバル化するような、私達の祖先の知らずに播いた種が、100年後に咲いた花をどう観賞するか、どう刈り入れるかが問われている。
『夢のゆくえ』 モンセ・ワトキンス氏著 井戸光子氏訳 抜粋ノート 在日日系人の家庭では~ つまり親たちの場合には、最終的に日本に定住すると決めてはいても、心はいつも祖国を向いている。反対に子ども達は、祖国への思いは親より数段少ないか、全くない場合もあるし、国へ帰るということも考えていない。 例えば、十年間日本で暮らしてきた親が突然、ペルーへ買えると言い出したとします。その子供は、おそらく親が日本に来たときの数倍の苦労をペルーですることになるでしょう。それは、なぜか?日本は閉鎖的な社会だといわれますが、見方をかえれば、誰とも関係を持たずに生きていける国なのだということです。ところが、ペルーではそうはいかない。家族や友達とのつながりを重要視する国だからです…。在日ペルー人はコミュニケーションのない日常生活に慣れてしまっています。例えばスパーでの買い物に言葉は不要でしょう?ポケットに金さえ入っていれば何でもできるわけです。 日系人がいじめにあっているということを考えると、この問題は将来、深刻化する可能性がありますよ。 子ども達にとっては、スペイン語で考えるよりも、日本語でものを考える方がよほど楽なのだということがよくわかる。 一日中働いて夜遅くに疲れきって帰る親たち、したがって親の監視の目が届かない若者たち。このような日系人の若者の、日本人に対する態度に変化がうかがえると、警鐘を鳴らす声もある。 小さいころから学校で同級生から虐待されたため、日本人に恨みを抱いており、侮辱されることを許さないし、敵対関係をはらんだ社会にしようと意図的に行動しているように見える者もいる。 また地方では、一家そろって生活する家族が増えてくると、「誰のものでもない」国で成長する青少年が増えてくる。これらの青少年は日本にも出身国にも適応しない。前述したように、社会から疎外された日系人青少年の犯罪組織が生まれてくるのではないかという懸念は、もはや遠い将来のことではない。気にとめようとする者がいないし、また遅くならないうちに手を打とうという者もいないが、それは私達の目の前で確実に生じつつあるのだ。 1999年五月に発表された警察庁の報告書によると、1998年の犯罪調査では、検挙者の国籍のトップは中国、次いでベトナム、そして第3位にブラジルだった。外国人が引き起こした犯罪31,700件のうち、ブラジル人が摘発された事件は3,278件で、検挙者は536人にのぼった。この数字は前年の2倍である。 日系人社会がだんだん大きくなるのを間近で見ている人たちは皆、彼らのあいだで精神障害とアルコール依存症が増えていると指摘する。 |
私は思うのだが、本来、仏教は、貧困とカースト制度という枠の中から、その枠を打破しようと生まれてきた。その仏教の中の大衆部と言われる優れた大乗仏教は、東方の国に移ったものの、肝心なときには作用していない。いじめや虐待、戦争を嫌い非戦非暴力を説き、他を受け入れるという仏教の優れた善さを、日本人がもう一度目を向けて欲しいと思う。
ワトキンスの日本社会への提言を、願いを、聞いてみよう。
『日本社会が望もうが望むまいが、いずれにしても、もはやグローバル化の波から日本が身を守るすべはない。資本の流れもモノの流れも、ますます自由になり、労働者が国境を越えて移動することもますます活発になるからだ。世界第二位の経済大国であり、輸出大国である日本は、他国に投資し、製品を全世界に輸出して、このグローバル化の原因をつくりだした国のひとつでもある。グローバル化の有益な部分だけは利用するが、自国にこの波が押し寄せると抵抗する、それは許されない。
将来に向けては、日本側もラテンアメリカ側も、長い目で良い関係をつくりだすことが必要である。日本においては、国籍や居住権、入国管理や外国人登録など、数々の差別を改革し、公正な社会をつくるには、裁判や刑罰システムの整備とともに、医療サービスや年金制度も外国人に適用されるべきである。外国人労働者に対する理解と寛容、日系人労働者を尊重する態度が求められる。彼らに対してはまだ、恵まれなかった過去を思い出させる「貧乏人の同胞」という偏見がまかり通っているからだ。またラテンアメリカ側では、彼ら自身が抱えている問題をまず解決し、日本人との共生の道を探ることが必要だ。共生こそが、両者に利益をもたらす道である。』
新牌開眼
新牌開眼
人が産まれて、名前を付す作業は、これからの人生に様々な意味を持ちます。このとき、誕生する前の名前はどうだったのだろうとは、人は考えもしません。ですが、人が亡くなった後の戒名という名前を付したあとはどうでしょうか。「この次に産まれてきたときは、私は、絶対、玉の輿になるのだ」と言った若い女の子がいました。「また、次の時代に、一緒になれればいいね」と言った、若い夫婦がいました。その時、自分は、死ななければ、そして、さ迷わなければ産まれてくるとは意識しない。
生前のうかがい知れない名前を前にして、生まれた後の名前に慣れ親しみ、そして、亡くなった後の名前から、その次の名前は、誰かに託すいがいにないことを気づくのです。この連続の中に、人は命を繋いでいると考えることが出来れば、人は、願いや祈りの中に、旅立った者と送った者の、安らぎを見つけることができます。
このことに気づけば、この連続の中に、人は命を繋いでいると考えることが出来ます。
人はいったい幾つの名前を持って生まれてくるのだろうかとも思います。
人は、多くの名前を刻まれて、刻まれて誕生してくるのではと、そして死んで逝くのではと、このことは、名前とは、人が命を繋いでいることの意識そのものかも知れないと、この作業の務めを知り、やたらな名前を付すことはできないものだと気づきます。
名前や法名は、それこそ長い時間の中の、ほんの一時の名前です。それ故にこそ、かけがえのない名前や法名でもあります。
人が亡くなって、自然に帰るも、仏や神になるも、一時のモノではないでしょうか。この世界が続くかぎり、授かった命は、やがて去ってゆく。そうわかってはいるからこそ、せめて一時、変わらぬものの名前を通しての命を、大切なモノとして、慈しんで惜しむからこそ、名前があるのだと考えています。
私たちは、もし生まれ変わったら……と、亡くなって父や母の元へと、また幼くして亡くなった者が集う処にと、祖先の集い憩う処にと、神の御許にと、生前に言うのですが、この世界が生き生きとして続くかぎり、すべてはいっときの中から発する人の願いや希望のような気がいたします。だからこそ、この活き活きとして続く世界に、変化する名前が在ることが、とても新鮮にして、嬉しいことなのだと思うのです。
また、名前や戒名・法号とか洗礼名は、その世界や教義のあり方を模索することでもあるのでしょう。そして、名前を付すことを、人がおこなっているかぎりは、付す人の世界観やモノの見方となり、時代を表現することです。そして、そのことが同時に、この世界をどう生きて行くかとなり、掟や規範、戒律に発展することとなります。名前や法号・戒名を授かるとは、戒律、逝き方の規範を持つことでもあるのです。
仏教の戒律は、キリスト教やイスラムより絶対のものではありません。人が社会の仲で暮らすことのうちの、一つ一つの疑問に、真摯に釈尊が当時の社会情勢に鑑みて応えたものです。
その戒律を、考えてみて思うことは、嘘をついてはいけない、盗んではいけない、人を傷つけてはいけないとありますが、一つに集約すれば、『自分に対して、いつも素直であり続けたい』と言うことが、他の律を網羅しているのではないかと思うようになりました。
人が社会で、理解できないことを理解しようと学ぶことも、行為も、そのことによって、社会・法則・ことわりの道を模索することとすれば、今、生きている場所や生きる方向を考える糧です。そこで、いつも自分に対して正直であり続けたいと思うことは、人の本心ではないでしょうか。
ですが、そうは思っても、現実はそのとおりには行かないものです。でも、「いつも正直であり続けたい」と、このことに関してなら、自分や他者に対して、優しく、厳しくと、人は告白や慚愧の思いを、涙を流して、悔い改めることができるはずだと思いました。
そして、この『いつも正直であり続けたいとする自分』というものをどうとらえ考えたらよいのかということ、ここにこそ禅宗の真価があるのだと、私は考えます。
こころは保(たも)ちがたく、かるくたちさわぎ、意(おもい)のままに、従いゆくなり。
このこころを、ととのうるは善(よ)し。
かくととのえられし心は、たのしみをぞもたらす。
底深き淵の、澄みて、静かなるごとく、心あるものは、道をききて、こころ、安泰(やすらか)なり。
かって、抑鬱症の自殺願望を持った女性の、自殺しなかった理由を、人から聞いたことがありました。
「このわたしが死んでも、わたしの名前は消えません。名前が消えない以上、わたしの存在はなくなりません。それでは無理をして自殺する意味がありませんから。」の言葉でした。このとき強く、深く名前というものを意識致しました。この女性が、自身の存在の末梢を退ける理由として、名前を考えたことは、そして洞察したことに、驚いたのです。
わたし達自身は、普段、名前や他者の中のわたしと名前のつながりなど考えもしないことです。もし名前がなかったら、まわりのものから区別され、独立することを失ってしまいます。また、人の名前だけでなく、わたしの祖父や父、祖母や母という名称からくる、息子や娘、孫や甥・姪、友達という名前が無かったとしたら、関係そのものを失うことを意味し、現実が混乱し、生活の結び付きを無くすことに等しいことでしょう。
これは、存在するもの、存在したものの根拠を失うことに等しくなります。現実に、わたし達は、名前が付されたときから、世界に向き合う者は、名前ではなくわたし自身なのですが、他者から見た名前のわたしを、世界は区別するようです。二重構造みたいです。
名前は消えない。自分がいなくなったとしても、それで、すべてが消せるものではありません。わたしが生きるとは、縁起構造(関係)によって生きるのであり、わたしがいなくなったとしても、わたしの縁を及ぼした他者からの縁は、消えるどころか、生き続けるからです。この縁が変化して生きつづけるとするなら、わたしの最後まで、その縁を、育てて見届けることこそ、必要なことです。わたしの存在は、抹消できるかも知れませんが、わたしというものが、縁により、綾になって広がっているかぎり、わたしの心は、その綾であり、綾が抹消されなければ、わたしの名前が取り残される限りは、この世界に生きつづけるともいえるでしょう
わたしの経験も、わたしの過去も、わたしの未来も、わたしも、すべては、綾の中の縁とも言え、すべては汝=他者の関係において世界は成り立っています。西田幾多郎によれば、わたしを対照的に限定するものは、一般的自己でもなければ、自然でもなく、それは『歴史という如きもの』でなければならないと言います。
陽岳寺の法事回向の文面の言葉です。
『それゆえに、世界はつねにわたし自身と一緒にあるならば、一粒の砂も、一輪の花も、わたしも、世界全体を背景にもたなければ、存在しなくなることに気がつきます。そして、一粒の砂も、一輪の花も、わたしも、今ここにあることは、その背景の、家や道路、学校やあらゆる生活の中の古びたモノも、かけがえのないものとして、じぶん自身に意味を与える歴史であり、それは、世界にたった一人のわたしが、常にわたしであることを現してくれているモノでもあるのです。また同時に、このことは、その背景の意味や思いを変えてみれば、尽きない豊かさを含んで、人は、実りある途中に有るともいえるのです。人の尊厳とはこのことを言うのではないかと、だからこそ、何人も、この尊厳を傷つけることをしてはいけないことなのです。』
今の自分の置かれた現状に、苦しみ、悩み、現状をわたし自身の考えや見方で変えられず、次の世には、変わって生まれ変わりたいと思うことがあります。「今度、生まれ変わったら、玉の輿に乗るんだ」と言った19歳の若い女の子の位牌を前にして、「きっと、そうなるよ」と、願い、祈り続ける意外に選択肢はありません。わたしとは、他性により、構成されるものとするなら、苦しみ悩みも他性によりもたらされます。この子の心に、結果として、手を貸せずに残された遺族にとって、それでは、この子が生まれ変わるまで、どこまで、どう拘わればよいのか。そして、生まれ変わったことを確認することができないならば、どうすればよいのでしょうか。
白隠禅師は、坐禅和讃の中で、「当所すなわち蓮華国、この身すなわち仏なり」と結びます。今ここに生きるわたしが暮らすここが、蓮華国という浄土や極楽であれば、わたしたちが次の世に産まれる次の世は、当所という、今この場所のはずです。わたしの身体が、この世界から抹消され、わたしの死後、新に、新しい名前が、戒名として祀られます。そして、この世を生きてきた、残された者の過去の証として、それは、過去を引き継がない未来を開ける、生活の中の、特別な場所に移されます。この特別な場所は、願いや祈り、感謝や歓喜、畏敬や尊さの場所であると同時に、未来への扉でもあると考えることができます。この場所によって、繋がっていると 。
そのわたしの存在が、再び、三度と誕生したとき、その時々のわたしの生は、その時々のご両親に託す意外に方法はありません。こう気づいたとき、わたしそのものも、その時々の両親となり、授かった託された命を、精一杯育むことが必要なのだと気がつきます。ここに、届かぬ願い・祈りが、聞こえぬ願い・祈りを聴くことの立場が、どう拘わればよいのか、どうすればよいのかの扉が、現れます。
戒名は、自分がいなくなった世に、次の世を予感させるものでもあるのでしょう。それは、生まれ変わることを意識してという意味だからでもあります。そんな、連続する関係の中に生きるわたしたちの、生活の中で、位牌や、墓石を拝む意味は、届かない願いを繰り返すことの連続のうちにあります。仏壇のなかに、いくつもの位牌が立ち並ぶとするなら、それは、いくつもの名前を持ち、産まれて来て、死んで行くという、道の交差点です。そして、その届かない願いを、聴かなければならない存在であると確信したとき、感謝や歓喜、畏敬や尊さとなって、祈り願うわたしの心が充たされるのではないかと思うのです。届かない願いを繰り返すことのうちに、聞こえない願いを聞くこと、このことが、わたし達の行為に現れるとするなら、それは、わたし以外の、今を生きるものを、良く育み、保つという無心の行為の中に厳然として現れていると考えられます。
わたし達の、産まれれば、縁が、広がり、死ねば、また縁が広がる、こう考えてみれば、仏壇の中の、祀られた位牌の奥、お寺の領域、そこは、象徴としての、わたしたちの未来への開かれた扉です。人間の自由な発想が、届かない願いに束縛されない、自由な未来を生みだすと言えるからです。
「もう一度生まれてくるかいがないほどに、一回でわたしがそれほど多くをなせるというのか」と、エンデが言う言葉には、千金の値があります。
19歳の自死した遺骨と戒名を前にして、何度でも、生まれ変わって、おもうがままに、生きつづけること、ただただ、願い祈るばかりです。
英霊(平成17年5月23日)
英霊(えいれい)(平成17年5月23日)
古事記を読めば、神々の誕生と死の躍動感に踊らされるでしょう。これらは昔の話しではなく、その延長の今も、神々は神様は誕生しているともいえるのではないかと……ふと思います。
神様が、今でも誕生するなんて、おかしな話しだと思うかも知れませんが、これは本当の話なのです。今もどんどん誕生しているなら、きっと、忘れられてしまったり、死んでしまったり、どこかに消えてしまった神様も、きっと、いるに違いありません。まるで、人間みたいにです。
神々の神話は、人の尽くせぬ思いが、やがて死霊・生き霊となり、人々に恐れられ、神として祀(まつ)りあげることで始まりました。人は神様のたたりを恐れ、封印し、祀(まつ)ることで、たたりを鎮(しず)めることをしたのです。神社のこんもりとした森、これは、鎮守(ちんじゅ)の森ですが、その領域は、封印された神々が眠る場所です。
しかし、考えてみれば、こうして鎮守の森に祀られる神様は、ずいぶんと恵まれている神様かも知れません。反面、逆に考えれば、縛られ、押さえつけられた悲しい神様となるのかもしれません。
いかに人間が悪さや悪戯(いたずら)をするといっても、年齢を加えて行けば、反省もし、人に良いことをしようとするものです。考えてみれば、祀られた神様は、年齢を加えても一向に止まらない悪さや悪戯の持ち主とも言えます。
祀ることで、鎮めることでしか、平和が訪れることがなければ、祭礼は天変地異への恐れや、戦火や暴挙に被災することの無事への祈りとなります。「何もなければ良いのだが」と、だからこそ、祭りの字の示偏は、月(肉片)という供え物を、手で捧げて、足で出かけて、お供えする人の姿なのだと思うのです。
多くの怨霊(おんれい)は、祀られないでいることが多いことでしょう。取り返しのつかない出来事に、すまないと、謝る気持が起きずに、よこしまな心が芽生えたり、人を強く、うらやんだり、ねたんだりするそんな人間は、悪霊(あくれい)や怨霊として、しばしば、いたずらや悪さをすると言ってもよいのでしょう。
これは、人間の思いや願いが、死んでからも、わたし達の世界に留まるという意味からです。この留まるという思いは、わたし達が気づかずに、自然と口からでる言葉に現れたりします。それは、わたし達の世界が、私たちの心の世界を含んでいることによってなおさらです。これは、わたし達のことを人間というように、人と人との間というように、人が支え合っていると書くように、世界とは、人の意志や感情の交差する世界だからです。人の意志や感情の行為のうえに出来上がったもの、それが世界だからです。
神様はどこにも宿ることが出来るといったら、不思議な気がするでしょう。神社やお寺で引いたおみくじを、木々の枝にゆわくのも、誰もが同じことをしているからではなく、先人の知恵から引き継いだ、そこに神々が取り付くという意味です。
神主さんが、白い御幣(ごへい)でお祓(はら)いをするのも、その御幣に神様をくっつけることです。だからこそ、その御幣を祀ったりするのです。神様に、側にいて見守ってほしいからです。
この時の神様は、もちろん、良い神様です。良い神様は何処にでもいます。祀る必要のない神様といってもよいでしょうか。その良い神様は、井戸、水道、屋根や梁、柱、床の間、玄関や裏口、門、道や道路の角、境界の四隅や、河や海、沼や池、田畑や山という自然、人が住む里のあちこちの東西南北、それに地、火、水、風に適した場所の、あらゆる所にいます。お箸や、食器、椅子や机、鉛筆や筆、紙やお人形、お裁縫の針や料理の包丁、そして、食べ物まで、神様や仏様はどこにもいるのです。
これらは、安全と恐れから、感謝に願い、また、物や食べ物を大切なものであることを、粗末にしてはいけないことですと、昔の人が伝えて残そうとしたものかも知れませんし、現実にそうして拝んできたことなのでしょう。
また、家や地域の出入口にいる神様は、わたし達の生活を見守り、外からの侵入者を防ぐ役割を果たしています。不思議なことは、この神様達は、けっして神社や祠などに閉じ込めて置くべき神様ではないことです、現実のわたし達の生活に密接にかかわっているからです。密接にかかわっているからこそ、忘れるのではなく、くり返し語らなければなりません。
こうして神様というと、わたし達の願いや祈りを聞き届けてくれと思うかも知れませんが、実のところは、神様や仏様にもいろんな神様や仏様が居て、聞く耳は持っているのですが、聞き届けてくれるかはわからないのです。神様によっては、その願いを自分のために利用する怖い神様もいるのです。
鎮守の森を持つ、ただ鎮まっていてくれればよいという神様、鎮まっていてくれるからこそ、わたし達に平安が届けられるのです。平安でいれば、感謝すること必要なことです。その神様も、元は、頭が良くて、綺麗だったり、荒くれ者だったり、何か一つのことにたけていたり、女性であったりと千差万別です。
その千差万別を一つにした神様、それを、英霊というのだと思います。祀られてしまった良い神様のような気がします。本来、この英霊達の一人一人は、わたし達のすぐ近くにいたはずですし、すぐ近くで、わたし達の行く末を見守ってくれる神様や仏様なはずです。
わたし達のすぐ近くの彼方に散っていった、わたし達と血が繋がる人たちの思いだからです。わたし達の家族という絆で結ばれた英霊の、一つにできない思いを、英霊という無名の呼び名で、一つにまとめ上げた集団としての神様です。
この神様は、英雄を強いられたかわいそうな神様ともいえます。鎮めればよいのか、しかし、考えてみると鎮める以前にたたりを起こさない、心がけない神様でもあります。
それを、慰めればよいのか、それならば、その前に先の大戦は大きな過ちであったと、この責任を追求することこそ、この英霊にたいして名誉を回復させことなのでしょう。敗戦と言わずに、今も、終戦と言い続け、うそで固めた仕打ちは、この英霊に対して最も失礼なことではないかと思うのです。慰めなければならない神様なんて聞いたことがありません。
この意味から、縛られ方が違って、いまだに、英霊として祀りあげることで、浮かばれない神様として見ると、どうも、鎮める相手は国家という意思のような気がいたします。
英霊は、明治維新7,751柱、西南戦争6,971柱、日清戦争13,619柱、台湾征討1,130柱、北清事変1,256柱、日露戦争88,429柱、第一次世界大戦4,850柱、済南事変185柱、満洲事変17,176柱、支那事変191,243柱、大東亜戦争2,133,885柱となり、合計2,466,495柱です。今も減ることはなく、増え続けています。また本当に理由が分からないのですが、巻き添えになった多くの満州や沖縄などの一般人とは隔離されています。しかも散らした命の尊さも含めれば、尊い命に、どれだけの差があるのでしょうか?
尊い命が散ったわけですが、散らした意思は、鎮められたのでしょうか?
尊い命が散った異国で、その国の人々の子孫の気持ちは慰められたのでしょうか?
この国の散った命に寄り添う家族や親族の思いは、鎮めることで慰められたのでしょうか?
彼ら散っていた命に対して、誓いはないのでしょうか?
その誓いは、なぜ不戦の誓いなのでしょうか、なぜ非戦の誓いなのでしょうか?
争いの真相である人間の意志は、突き止められたのでしょうか?
明治憲法下の国家物語と、現行憲法の国民物語に、一線は引かれているのでしょうか?
過去現在未来、正しい戦争とはあったのでしょうか?あるのでしょうか?
それでは、国を守ることとはどんな意味があるのでしょうか?
ただ柱の数を、積み重ねることで、何を言おうとしているのでしょうか?
生き残った兵士達が、幾年も口を閉ざして語れない戦闘体験は辛すぎます……。
個人としての尊厳に対して意思を持たせない祀り方に、もうこれ以上祀らせないという、引き継がない確乎とした意志を持つことで、英霊は、祀られた意味が消えて、解き放たれると思うのです。それは家々に帰すということです。もともと、仏教やキリスト教でも、弔うことができるのです。
英霊は、神々に祀られたが故に、今も、我々に、たたる神々とも言えます。祀られていることで、英霊だけは、今でも、大きく成長する意思を含むように見えてしかたありません。
アジアには、古くから、我々の生活する何処にでも、善悪を問わず、多様な神々が混然とし生きています。これは、多様な文化を受け入れることのできる文化圏を意味します。このことを英霊という名で否定する意思は、危険な意思といわざるを得ません。
人それぞれの尽くせぬ思いが、忘れられたら、鎮めることもできない怨霊、死霊、鬼神、幽鬼、幽魂となり、さ迷うこととなるでしょう。一つに祀らなければ、それぞれの家庭で、それぞれの見守る祖先の一人となったのにと、残念に思う8月の熱い季節が今年もめぐってきます。
アジアには、古くから、我々の生活する何処にでも、善悪を問わず、多様な神々が混然とし生きています。これは、多様な文化を受け入れることのできる文化圏を意味します。このことを英霊という名で否定する意思は、危険な意思といわざるを得ません。
人それぞれの尽くせぬ思いが、忘れられたら、鎮めることもできない怨霊、死霊、鬼神、幽鬼、幽魂となり、さ迷うこととなるでしょう。一つに祀らなければ、それぞれの家庭で、それぞれの見守る祖先の一人となったのにと残念に思います。
目覚め
目覚め
わたし達が誕生したとき、この世に私は産まれたのだと、その確認するすべを持たないことと、また、亡くなったと確認するすべを持たないことの、わたし達の魂や霊魂はどう拘わっていると考えればよいのでしょうか。「今日は赤ちゃん!」と言うことはあっても、誕生して「今日は、ママ!」とは言いません。同じように、生ある内に、自身の肉体の別れを告げることはできないのです。
人の生と死の確認に関して、私は、始まりも終わりもない世界を持つと言ったことがあります。
それでは、始まりもなく終わりもない世界の内の、日常、眠ることと、目を醒ますことはどうでしょうか。目を醒ましたときに、特別の情況を除いて、当たり前のように目を醒まし、当たり前のように活動に入る私は、その時、眠るとき、明日の目覚めはないと確信することはないのです。目覚めはないと確信しても、そのことを裏付けるものを、持つことはできません。
そこに私の霊魂や魂の問題は、どう拘わっているのでしょう。それとも、私の魂や霊魂の存在は在るのでしょう。
仏教は、この世界から五蘊(うん)という、色という肉体、受という感覚、想という知覚、行という意思、識という意識で構成されたものが人間なのだと言います。これは一瞬たりとも滞らずに変わり続けるということです。変わり続けることを意識した瞬間に、以前の私ではないと意識したとしても、その私は、すでに変容の中のしるしとなっているのです。
それでは、花が枯れたとき、その花の聖霊は、どこに居るのでしょうか。死んだのでしょうか。私たちが言う、土に帰るという言葉には、変化という意味が隠されています。それは、何処から来て何処に帰って行くのかという意味でもあります。
“何処にも帰らないし、何処からも来なかった”、ただ条件が整ったとき、顕れるのではないか。この条件こそ、総てのものを含んで、ただ一つの命として私を顕そうとしているものです。何もないところからは、来ようとしても来られないし、何もないところには帰えりようもないことから、むしろ、豊潤な大地や海、生物や動物、空や星々の間の命の中から、時を隔てて、次々と顕れては消えるものなのではないかと、そんな思いが致します。
それを永遠の命と呼ぶなら、顕れることを生といい、消えてゆくことが死と言うでしょう。生も死も、永遠の命の作用とするなら、生を撰ぶことは、死も撰んでいることになります。そして、死も生も、永遠の命の霊性であるとわかるのです。生は五蘊が集まることであり、死は、その五蘊が欠けることです。
こう考えてくると、私という意識は、時間と存在の狭間に、縁として顕れる、五蘊(うん)ではないかと。それは、色という肉体、受という感覚、想という知覚、行という意思、識という意識で構成されたものです。
それでは、私が、事実を受け入れることとはどのような意味を持つのでしょうか。意識は、いつでも、今・ここです。過去の問題や未来の不確かさの中に居るときでもです。眠っているときも、時間を忘れて行為に集中するとき、変容そのものの中に、わたし達は、自分の存在を委ねているのではないでしょうか。
禅では、山が動くといい、海深くを歩くといい、風になるといいます。ゴーンと撞く鐘そのものに、或いは、大きな樫の木になるといいます。この時、わたし達は“生まれ変わるという”行為の真っ只中に居て、目覚めているのではないか。
わたし達にとって、一番大切な命という問題に、誕生したことを受け入れたという認識は無いのですから。それは、訪れることの不確かなものを受け入れる能力を持ち合わせていないのです。むしろ、わき起こる雲の中に、光りとなり、風となり、熱となって、無数の水の中に、流れとなって、真っ白く我が身を投ずることです。
その圧倒される白く輝きの中で、自己の存在のあるかなきかの、はかない揺籃(ようらん)に定着させるために、風となって、我が身を完全に没入させることです。それが、祖霊たちや、仏、神々との出会いでもあると思うのです。
よわい「齢」
よわい「齢」
お年寄りの葬儀のとき、私は、しばしば、亡くなられたその人を偲んで、こう語ります。『人って、支え合って生きるものですが、夫婦の日常の生活は、意識しなければ、共にしっかりしようなどとは、普段、視線に入りもしないし、思わないものです。それは、季節が、人の意識に寄り添うがごとく、いつも一緒にあるに似ています。季節の花々の違いのようには、人は咲かないものなのでしょうか。
年毎に、年齢を重ねて咲く、今年の花にたとえて見たいものです。散る桜を前に、もっと咲きたかったと、貴方の声が響きますが、あなたは、今も散る枯木の花ではなく、咲かしているではありませんか。散らしているのは、家族の心です。
病を抱え、傷ついた人間を、自然の老木にたとえて……、若木に比して人を圧倒する姿は、本来、人も年をとればとるほど老齢の枯木に似ている姿なのですが、異なって見えるのは、人の思いのなせることなのでしょう。人が年を重ねた末の、悲哀や年輪を偲ばせた変形した姿・形のたくましさを、もっと見つめてもらいたい。
そして、老いて浮かべる仕草や声の張りを、いつまでも、心に留めて欲しい。老いて、倒れて、散っていった命を含めて、いつまでも、家族と呼んで欲しい。残された家族の行く末を、散っていった命に託せる家族であって欲しい。残されたものの、ほとばしる若さのなかで、家族の老いを、思いだしてもらいたい。
ヘルマンヘッセの、「人は年を重ねるほど、若くなる」と言う言葉の意味を、現実に意識できるようになりたいと、貴方の死から受けとりたい。
あっという間の過去は目に見えず、若い人と年を重ねた人も、同じなのですが、十年二十年と較べて、貴方の歩みは確実に違う重みを、枯木のくるおしい姿を見て、若さや勢いを見て、なおさらに持つのです。
思い起こせば、貴方が歩いた、そのよわいの年月は、それぞれに、春には一斉に咲き誇る桜の姿であり、花の散ったあとの一斉若葉の繁るさまであり、雨に打たれて生き生きとして、陽光に踊り輝き、秋には葉の色を変えて散る家族の姿の記憶であります。そして、四季折々のこの街の祭りと催すものの記憶でもあります。
人が許容や受容と言う意味を解りかけて来たとき、四季それぞれの姿は、同時に次の季節の予感を当来する姿でもあり、人それぞれの記憶を積み重ねた季節でもあります。
そして(季節が春であれば)、やっと、この寒々とした季節の終わりを迎えての風の中、あの夏の暑さが、そして、寒かった冬の与えてくれたものとするなら、今を歩きながら、私たちが語らう着実な今は、去っていった過去によって表現されていることを知るのです。
記憶のなかの事実には、懐かしさが似合います。必死になって築いてきたものは、崩されないように、倒れないように、流されないようにと、前を見つめて歩いた記憶だからです。』
高齢社会という呼び名は、本来ならば、高齢社会は長寿が満喫できる社会になり、子ども達や青年期壮年期の大人たちから見てもそうでしょうが、それぞれの年代の自分たちから見れば、遙かな時間を経過したその社会の輝く宝を、数多く持つ社会ともいえるでしょう。それは一時一時の貴重な時間を費やした結晶の現れであり、過去何世代にわたり、未来に対しても何世代も先を見通す知恵に支えられた社会ともいえるのではないかと思います。
少子社会といえば、それこそかけがえのない命を、大事に育むことが最も尊ばれる社会といえることでしょう。こう考えてみれば、今の日本こそ、日本の歴史上、最も輝いている時代であると言えるのではないかと思いました。
先日、地元の工務店の社長が、「和尚、これ、だれか欲しいひとはいませんかねェ~」と。見ると、会社の前の路傍に、盆栽が数鉢、置いてありました。盆栽の持ち主が亡くなって、遺族が家を改築したらしく、面倒が見られなくなり、いらなくなって引き取った盆栽だそうでした。
私は「社長ねェ~。盆栽というのは、厳密に言うと、本来、絶対自分のものにならないものです。300年、500年かけて育てていくモノで、自分が育てられる期間は、せいぜい20年、30年、40年という期間でしょう。これって、預かっているという意味だと思うのです。自分が育てて愛(め)でるのは、せいぜいそれだけの時間で、後は、次のひとに託さなければという気持ちが生まれてこなければ、盆栽の命を粗末にするだけです。何10年、100年経ったモノを、自分の代で枯らせますか?次の世代が大切に育てることで生きてきた命なのだと思いますよ。こうした覚悟が生じてこなければ、育てられません」と言ってみました。
古ぼけた齢を重ねた茶碗や壷、軸物をお宝と称して、金額に換算することを、テレビでおもしろ可笑しく放送しています。壊れていたり、まがい物、名前がないモノ、偽物だったらいくら古くても見向きもされません。しかし、40年、50年前のオモチャのお宝と称されるモノを見ては、新に作られていくお宝もたくさんあるのだと知ります。が、テレビの画面の中では、すべてがお金に換算されてゆくことにためらいが生じます。このよわいを重ねたものも、盆栽と同じように、自分のモノではなく、世代を越えて渡すものです。そのものにとっては一時の間に過ぎません。
そう言いながらも、この盆栽が高齢社会のお年寄りのように、ふと見えたモノですから、人間も育てられ育つことから、お年寄りが育てるもの、それこそ、若い人にとっては手の届かない、人間の心なのだと気づいたのでした。
誰にとっても明日が未知なる日であるように、年を重ねたよわいも、つねに未知なるものです。それは、繰り返してくるものでもなく、身体のきしみや痛み、思うようにならない筋肉、おぼつかない動きに沿って日々新たに生じてくるものです。それを、深川や下町の古老はうまいことをいったものです。じっと今の自分を見つめて「意気地がなくなった」と。
かって物語に出てきた長老、年寄り、古株、賢人、落語に出てくるご隠居さんは、今、何処にいるのでしょうか?そう言えば、寺の世界では今でも、書状の宛名には、誰々老和尚、老丈室、老大師と付します。老という字は、敬うという意味がありますが、敬われる対象であるかは、じぶん自身にはわかりません。年齢に固執する人は、自分を見ない。
さて、前文に記した、「ヘルマンヘッセの、人は年を重ねるほど、若くなる」という言葉は、ヘッセの「成熟するにつれて人はますます若くなる」という「成熟」を「年齢を重ねる」という言葉に書き換えたものです。何故かといえば、老齢の枯木に喩えたかったからです。また、どうして植物と同じように、人間の中に、威厳を持ち、枝を一杯に広げ、空高く聳え、幹の肌は荒々しくと、人は見ないのだろうかとの思いです。
「死に対して、私は昔と同じ関係を持っている。私は死を憎まない。そして死を恐れていない。
私が妻と息子たちに次いで誰と、そして何と最も好んでつきあっているかを一度調べてみれば、それは死者だけであること、あらゆる世紀の、音楽家の、詩人の、画家の、死者であることがわかるだろう。彼らの本質はその作品の中に濃縮されている生きつづけている。それは私にとって、たいていの同時代の人よりもはるかに現在的で、現実的である。
そして私が生前知っていた、愛したそして「失った」死者たち、私の両親ときょうだいたち、若い頃の友人たちの場合も同様なのである-彼らは、生きていた当時と同様に今日もなお私と私の生活に属している。私は彼らの思い、彼らを夢に見、彼らをともに私の日常生活の一部と見なす。
このような死との関係は、それゆえ妄想でも美しい幻想でもなく、現実的なもので、私の生活に属している。私は無常についての悲しみをよく知っている。
それを私はあらゆる枯れてゆく花をみるときに感じることができる。しかし、それは絶望をもたぬ悲しみである。」(《人は成熟するにつれて若くなる-ヘルマン・ヘッセ》V・ミヒェルス編/岡田朝雄訳/草思社刊/1995年)