目次
輝いている時
夢中(ゆめのなか)
芝浜
江戸っ子
亀住町(平成13年7月1日)
モンセ・ワトキンス~夢のゆくえ~(平成14年1月3日)
新牌開眼
英霊(平成17年5月23日)
目覚め
よわい「齢」
また始めたらよい
三大聖樹(平成19年4月17日)
滅度(平成19年9月18日)
安住の地(平成20年11月15日)
心眼(平成22年3月1日)
とかくこの世は
とかくこの世は
祈り(平成17年11月29日)
品位(平成18年1月20日)
ニャンニーシンズ(平成18年3月1日)
鍵(平成18年4月25日)
チベット(平成20年5月1日)
SYOHOU
諸法
四十四の問い~ミヒャエル・エンデ
先ゆく輩
さき行く輩
祖師年譜
ダルマ
慧可
五洩霊黙和尚
石鞏慧蔵禅師
大珠慧海禅師
西川の黄三郎
馬祖道一禅師(馬大師)
五百生 百丈和尚
大梅山法常(752-839)
麻谷山宝徹禅師(平成12年1月27日)
鎮州普化(ふけ)和尚
寒山・拾得
虹の彼方に
ヘイヴン・ペックの場合―続貧しいけれど、豊かだった―
生前葬
平和を我らにーGIVE PEACE A CHANCE(平成13年10月31日)
ソクラテスとヤージャニダッタ
蓮(平成14年6月2日)
心-KOKORO(平成14年6月25日)
独り暮らし(平成15年4月12日)
老いが、咲いていた!(平成16年7月5日)
深濱-fukahama
死に顔
松山鏡(ソクラレストとヤージャニダッタの続き)
真ん中(平成20年4月1日)
百万回いきたネコ(平成21年1月1日)
夜来る鳥(平成21年1月1日)
だいじょうぶ、だいじょうぶ(平成21年2月1日)
無常への帰依
無常への帰依
希望(平成12年1月2日)
葬式坊主
泥棒
赤とんぼ
老い
……ロス
後姿
寿陵
ついで参り
目標
六道を行く
もの言わぬ羅漢達…揀択をこえて…
宮本武蔵
五合庵断章(平成10年10月17日)
K子さん!(平成12年7月19日)
今は昔
十一面観世音菩薩
尽七日忌(平成19年5月1日)
OSYOU
OSYOU
この手のひらに―禅僧の死―(平成10年11月18日)
戒(平成10年7月25日)
幽霊
みんな仏教徒(平成10年5月27日)
最後の晩餐(平成10年5月23日)
禅問答(平成10年5月31日)
分銅
天国は汝ら自身に宿る(平成10年11月24日)
宗派
穢れ(平成12年8月30日)
お彼岸
仏心
仏心
ご祈祷
施餓鬼会にて(平成17年5月28日)
永遠の命
輪廻する葦(平成10年5月27日)
連鎖する命(平成10年6月2日)
涅槃(平成10年8月12日)
鏡(平成10年7月25日加筆)
流星
TAO(平成11年1月3日)
四大
挨拶
冥福
盂蘭盆
祈り(平成14年7月4日)
仏事歳時記
再び 最後の晩餐
この手のひらにII(平成18年11月18日)
死んで生きる智慧(平成19年3月27日)
五百生(平成19年11月20日)
破地獄偈(平成20年5月24日)
この指止まれ
この指止まれ
家族と家庭(平成11年1月5日)
導師(平成11年2月26日)
家から個人へ、そして家族・友達へI
家から個人へ、そして家族・友達へII
脳死そして臓器移植(平成11年3月2日)
独り決めの生き方
僧堂I
僧堂II
僧堂III
恥じ
僧堂IV
返事
父殺し・母殺し・友だち殺し・子殺し(平成20年1月1日)
その後
その後
ほとけさま(平成17年5月1日)
仏が仏に合掌する
戒名(平成12年3月14日)
無用の用(平成12年2月21日)
世話
大きく育て!(平成11年1月18日)
しもべ(平成10年11月7日)
電話(平成10年8月22日)
意思
寡黙
妄想(平成10年8月2日)
川(平成10年8月22日)
風如(風のように)(平成10年6月18日)
追悼(平成10年5月27日)
受容(平成10年6月18日)
蒸発
臨終(平成10年6月8日)
外道
障子(平成13年3月10日)
日月(にちげつ)
年寄りの出番より
人生とは、闇を照らす一瞬の蛍の光
時の旅人
時計(平成12年1月3日)
星(平成11年10月15日)
溝(平成11年8月2日)
過去心…念の起こる処(平成11年6月19日)
与える時間(平成11年5月24日)
桜(平成12年3月2日)
無常(平成11年4月16日)
川(平成10年9月17日)
有時(時の構造)(平成12年2月5日)
時の旅人(平成12年2月1日)
揺れる木々の葉
この人生の速さはなんだ(平成14年12月26日)
法句経より-時の旅人(平成15年2月4日)
寂然不動 如春在花(寂然不動、春の花に在るが如し) (平成16年9月19日)
ZENGO
自立
橋は流れて(平成10年9月18日)
無事
過去(平成10年5月23日)
たまごっち(平成10年5月23日)
一衆觸礼(いっしゅうそくれい)
六道を輪廻する
二人三脚
生老病死
筋肉番付
ポケモン
俺は、親馬鹿か!
塵も積もれば山となる
生と死と永遠
最終章
一章
二章
三章
四章~(未完)
時間旅行
時間旅行
命の歌-母の短歌
礎-いしずえ-
離魂(平成19年8月25日)
海辺橋
海辺橋
ふるさと(平成18年3月4日)
千の風(平成18年9月16日)
人の道(平成18年9月18日)
あなたは、いつから、一年が始まりますか?(平成20年8月1日)
前住職 二十三回忌にて(平成20年9月1日)
平成21年お施餓鬼会を振り返って(平成21年6月1日)
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芝浜

芝浜

 魚屋の熊五郎が、昨夜もふんだんに酒を飲み、翌朝早く、女房に起こされて、夜明け前に天秤棒を肩に、出かけて行った。女房は、亭主が出かけた後、片づけものをしていたが、なかなか夜は明けない。
そこに、熊さん、あわてて、草鞋を脱ぐのも忘れて、 帰ってくるやいなや、
「ばかに、早く起こしやがって、後から誰かつけてきやしないか、早く戸締まりをしないか!」と、女房に。
女房は、「お前さんが、明日からお酒を断つっていうから、あたしも遅くならないようにと、つい、早く起こしまって、すまなかったねー」
熊五郎は女房に、財布を拾ったことを話した。 

長屋を出た熊五郎は、問屋もまだ開いてはいないし、そこで、浜にでて、夜が明けるのを待とうとするが、眠くてしょうがない。浜に出て、顔を洗って、戻ろうとすると、足に引っかかるものがある。見ると、皮の財布ではないか。ずっしりと重いので、「これは天から授かったものにちがいない」と、懐に入れ、仕入れもしないで、すっとんで帰ってきた」のだと。

女房は、財布の中身を数えると、50両の大金に、「これは、拾ったもんなんだね」と、「いったい、このお金をどうしようっていうつもりだい」と、亭主に問いただした。
「どうもこうもあったもんじゃねえやい。おめえにも、長いこと世話をかけた。これからは贅沢をして、楽にしてあげるぜ。友達を呼んで、一杯やろうって!」
すると、女房は「お前さん、この財布は、私が預かるよ。あんたは、疲れてるだろうから、いいからひと眠りおし」と、寝かせてしまった。
朝が、早かったものだから、熊さんはぐっすりと寝込んでしまい、女房にゆり起こされた。
「お前さん!夜が明けたよ」と、熊さんは「あーっ、よく寝たもんだ。湯に行って来るから、手ぬぐいを貸してくんな」。女房は、「あいよー」っと、湯屋に送り出した。

熊さんは、湯からでると、あっちこっち立ち回り、酒の肴をかって来ると、「今、けえったよ」。
女房は、買い出しの支度をして、「さあ、行ってらっしゃい」と、送りだそうとしたが、熊さん。
「冗談じゃない。今日は、とんでもない日だ。こんな日は、友達を呼んで、一杯やろうに決まっているもんだ」と、そこに、友達がやってきて、「さあ、上がってくんねい」。車座になって、皆で、飲むは飲むは、空瓶が転がり、友達は酔っぱらって帰り、熊さんも横になって、高いびきとなってしまった。ようやく宵闇が迫って、熊さんは起きだして、女房に、更に酒をねだろうとするのでした。
女房は、「お前さんに、聞きたいことがあるんだよ」と、今日の出来事の説明を求めたのでした。   

風呂から出て、酒の肴を買い、友達を呼んで、お祝い事と称して、よくも飲んで食べたりしたもんだよと、そのお代はどこから出るんだいと、畳みかけるのでした。熊五郎だって、芝浜で拾ってきた、50両という大金の入った財布を、お前に預けたじゃないかと、何を寝ぼけたこと言ってんだい。承知しねえぞと、威張りきる。
「何を寝ぼけたこと、言ってんじゃないよ。お前さん、頭は大丈夫かい?冗談言っちゃいけないよ。お前さんから預かったものなんかありゃしないよ」と、女房。
「この唐変木のコンコンチキめ。冗談じゃねえや」と言う熊五郎に畳みかけるように、女房は、「やだねー。何を言っているやら。夢じゃないのかねえ」。
熊五郎は、女房に、そう言われると、言い返すことが出来なく、すっかりしょぼくれ、ほとほと自分に愛想をつかして、「今日の始末だけは何とかしてくれ。すまねえ。すまねえ。この上は、生涯酒を断つ。とんでもねえことをしたもんだ。明日からは、酒を断って、一生懸命かせぐから、勘弁してくれ。すまなかった」と。
女房は、しおれる熊五郎に「いいんだよ。いいんだよ。わかってくれれば。そうしてくれるなら、わたしゃ、どんなに嬉しいか。お前さんが好きなお酒を生涯断つのは、私も辛い。そのかわり3年、我慢しておくれ。そうしたら、どうにかなると思うから。ありがとうね。お前さん」と、それからは、早寝早起きで、必死になって働きました。そうすると、安くて、生きが良くて、うまいとなれば、評判が上がり、益々商いの方も繁盛し、夫婦仲もよくと、あっと言う間に3年がたった大晦日。

この頃の大晦日は、掛け売りの集金やら、一年の締めですから、それに、翌日は元日と、餅が届き、門松は立って、晴れ着を用意して、その晩は、家族水入らずで、一杯やりながら年越しそばを食べ、一年の無事を感謝し、明くる年の無事を願うと、そこに除夜の鐘でも鳴ってみれば、言うことがないでしょう。熊さん一家もご多分に漏れず、熊さんが外回りをしている間に、畳替えをして、障子を張り替え、大晦日を迎えたのでした。
女房、「 お前さんが、よく働いてくれるものだから、借金取りも、今年は来ないし、家も小綺麗にすることが出来るし、これも皆お前さんのお陰だよ。あたしゃどんなに嬉しいか。感謝してるよ、お前さん。今夜、お前さんが一生懸命働いた他に、あたしも、貯めたお金があるのさ。数えてみようかい」と、熊五郎の前に、竹筒に入った、2分金をぶちまけると、熊五郎は「こいつは驚いた。お前が稼いだのかね」と。
女房は、「お前さん、忘れちまったのかい。3年前に、お前さんが芝浜で拾ったお金だよ!」
熊五郎、「ちきしょう。そうだったのかい。やっぱり。こいつぁ、夢じゃねえだろうね」

女房は、3年前のことを話しはじめた。お金を見たとき、嬉しかったこと。しかし、熊五郎を心配してみてると、ただ飲んで食って働かないで、お金を拾ったことが知れたら、お上からどんな仕打ちがあるかと考えたこと。酔った熊五郎を寝かせて、大家さんに相談したら、拾ったものを使ってしまうのは良くないと言われ、お上に届けて、この話は無かったことに、いっそ夢にしてしまったこと。そうしたら、この間のことだけれど、お前さんが留守の時、お上から呼び出しがあって、このお金は落とし主がないからと、下げ渡されたこと。しかし、すぐにお前さんにこのことを話したら、また元に戻ってしまうんではないかと、今日まで黙っていたんだと。

「すまなかったね。今夜という今夜は、あたしゃ嬉しかったよ。お前さんは、本当にまっとうな人間になったんだね。今まで、夢に騙していたこと、どうか堪忍しておくれ。このお金は、お上から頂いたもんだ、もう一晩で使おうが、誰に何言われるものではない、どうか、受け取っておくれ」と、涙ながらに話す女房。
「うーん。そうかえ。そうだったのかえ。お前が言うとおり、あん時、このお金があったら、俺のことだ、ぱっぱと使っちまっただろう。そうしたら、お上に知れて、俺はどうなったやら。ああ、ありがてえ。お前に、夢にされたお陰で、俺は稼ぐ気になった。世の中に、かかあほど有り難いものはねえなあ。かかあ大明神……」と、熊五郎。
女房は、今日が約束の3年目であり、改めて、酒をすすめた。
熊五郎「そうかい。あんまりいい心持ちなんで、それじゃ一杯やろうかえ」
女房「そうしてくれるかえ。一本つけようかね」
女房が、台所に立とうとすると、熊五郎。
「ちょっと、待ちねえ。酒はやめとこう」
女房「なんだい。お前さん、どうしてだね」
熊五郎「うーん。ここで酒を飲んだら、また夢になるといけねえ」

この年の始めに、現三木助の自殺の知らせが飛び込んできた。今の三木助の落語は聞いたことはないが、父、桂三木助の落語は、好きな落語家の一人だ。特に”芝浜”は、好きで、テープを何度も聞いた。

三木助の語りが、人情の機微を巧みに表現する様は、絶品といって良い。もちろん、三木助の語りの他ではあるが、何故この話に興味を引かれるかというと、この話の、夢というテーマである。ふとしたことから、なんとたくましい庶民の知恵ではないかと、そして、考えれば、この過去と未来と現在と、存在というテーマを扱っているではないかと、発見し驚いたのです。
この世は、夢と現実の織りなす葛藤に似ている。特に、過去の事実を、現在において夢とする設定は、未来を開くすべとなって、この芝浜は成り立っている。夢としなければ、現実が成り立たないと決断することは、斬新に見えて、古い。戦国武将の辞世の句は、過去の事実を夢と見て、絶対の今を現出させるのです。

この発想は仏教の生き方であり、前後裁断、前三三後三三と、時を止める禅語に共通するのです。
過去の事実を夢と見るということは、今の現実を生きる知恵であり、記憶やしがらみを両断して、今をよりよく生きさせる。

そう言えば、我々の祖先は、人が死ぬと、枕元に《夢》という字を飾ったものだ。今、我々が語る《夢》は、希望や願望であり、未だ手にすることが出来ないものであり、夢とは、かなわないこと、「夢のようなことを言わないの」と、現実離れしたものの代名詞でもあるのです。そのくせ、世間には《夢》が反乱し、人口の一人一人に多くの《夢》があるのだから、この国には、かなわないものがあふれていることになる。それも、潤いであることは確かなことであると思うが、もう一つ、事実を夢と見ることによって、現実をありのままに見ることも、時に必要なことだと思います。
芝浜の魅力は、自己の過去を断ち切り、今を、強く生きる知恵であることを、若き三木助師匠に捧げます。


江戸っ子

江戸っ子

 深川というところは、同じ江戸でも神田、日本橋、浜町、八丁堀とは違って、隅田川を越さなければならなかったせいか、ちょっと違う。何故かしら、大川(隅田川)を越えることに、コンプレックスというか、誇り・プライドみたいなものがあるのだ。ここで生まれたわけではない私にさえ、30年以上暮らすとあるのは、不思議だ。

だから、そのぶん、深川に対する思いこみは強いことは人一倍確かだ。深川に暮らす人だったら、この郷土に生きているという実感は強いと思うのは、私だけだろうか。とにかく、この川(大川)が江戸っ子を強烈に意識させるといったら、「ずいぶんと古くさいねえーえ」と、言われるかもしれないのを承知で書いていることでもある。つまりは、同じ江戸っ子でも、この川を挟んで、中央区側と深川では違うのだ。
池波正太郎も、無頼漢が巣くう地と書くし、辰巳芸者も足袋は履いていないやら、調べればたくさん出てくるに違いないが、手っ取り早く、富岡八幡宮の大祭に表れる。

この祭りの御輿の担ぎかたは、「ワッショイ、コラサ」と、徹底して御輿を運ぶ。この”運ぶこと”が、浅草、神田の「ソイヤ、セイヤ」の担ぎ方の違いになって表れる。浅草、神田は、天を突き担ぐ。だから一向に前に進まない。深川の御輿も天を突くことはあるが、『天を差す』と言い、永代橋、清洲橋の渡御にこの担ぎ方をするのだが、この時は、御輿を差しながら走る。
永代橋崩落の事件のせいか知らないが、橋の前後は、御輿をもみながら、差したと思ったら、一気に橋を駆け抜けてゆくから、いさぎよい。もっとも、いさぎよいと深川っ子は真にそう思うが、他から見ればそんなことはないかもしれない。これも、思い入れの馬鹿な表現なのだ。橋の床下は、大川が結構早く流れて、神輿を突き上げる手は天を指し仰ぎ、脚は川を指すといったら、考え過ぎじゃないのと笑われるかもしれない。永代橋が縦に揺れて、担ぎ手に伝わってくるのも、小気味がいいものだ。

戦後すぐの祭りの写真を見ていたら、けっこう裸の担ぎ手が見えたので、羨ましく思えた。それは、今は言わないが、「昔、深川の祭りは、裸祭り」と、言われていたからだ。
ご存じの通り、半纏も揃えられなかった貧しい深川っ子達への配慮なのだ。そのくせ御大尽たちは、縮緬の半纏を作ったという。貧しい漁師などの子供達は、みんな裸でこの祭りに、参加を許されたからだ。
川向こうの祭りの今は、半纏の粋を競うところがあるが、深川は町内半纏以外は許されない。その柄も、神田、浅草は柄を競うが、深川は町会の大紋がものを言う。

私が住む深川二丁目北町会も、『深二北』の大紋で、祭りに参加する。四〇〇世帯ちょっとの世帯で、この五日か三日の祭りに、一千万円の寄付を集めて、あっという間に使ってしまう。四〇〇人からの担ぎ手を集めて、たった一日の連合渡御のためである。
各町の五〇基の御輿の連合の熱気は、明け方から日が暮れても盛んだ。
江戸っ子というと、すぐ『宵越しの銭は持たない』という言葉が浮かんできますが、深川の祭りもそんな良き伝統を持っているのです。
さらに、町会に関わりをもって見渡せば、三代にわたっての深川っ子というのは、ごく少ないことに気がつきます。雑多な人間の移動、交差によって成り立っているのでしょう。

参考に、平川秀雄氏の『巷談永代』をお読み下さい。
さて、禅で語る言葉に、『坐って半畳、寝て一畳』があります。禅堂で暮らす禅僧の生活は、今でも坐って半畳、寝て一畳の生活をしています。ただ少しの贅沢は、後ろに障子一枚の灯りに、書き物が出来る程度の棚が付きます。そして前には、その畳の縁には太い敷居があります。禅堂の床の瓦敷からまたいで畳の上の座布団に着座いたしますが、その縁は、単縁(たんぶち)といい、黒々と磨かれています。けっして素足で触れることはいたしません。何故なら、寝るときに、剃った頭を直に触れて、枕になる縁でもあるからです。裸電球一つの暗い禅堂の単縁に、柏布団にくるまれて、雲水の頭が並ぶ姿は、妙に美しく、絵になるものでもあります。

その禅から多くの知識を得て、興味深い小説家に、ミヒャエル・エンデがいる。エンデと言えば、『もも』『はてしない物語』とか、次元を含んだ童話や小説・エッセイがあり、禅の問答を含んだ興味深い作品もある。

その彼の思想の発展したものに、地域貨幣がある。そしてその驚く発想は、貨幣がある一定の期間を過ぎれば、一割、二割と減価してゆくということに、とてもユニークな考え方で面白い。その貨幣をつかんだ人は、蓄積することを無意味として、使いきることを前提にした貨幣なのだ。流通を目的とした貨幣であり、エンデは国家というより、ある地域のみに限定する物々交換券に近い。そして、肝心なことは、その地域にのみ流通する豊かな文化がなければ成り立たないことだ。

私は、この貨幣のことを知ったとき、江戸っ子の『宵越しの銭は持たねえ』を、思い出した。身一つ、無一文に恐い物はない。それこそ戸締まりしなくても、鍵を掛けなくても心配はいらない。そういえば、修行道場の禅堂にも鍵は無く、心張り棒もないし、障子の向こうは外だし、障子戸に鍵はいらない。

金は天下の回り物を現実に回す江戸っ子の、この言葉の意味は、果てしなく当時の状況を示唆してくれていると言えないだろうか。この言葉の背景には、信頼が裏打ちされた世界があり、精神的にも豊かで潤いのある心情を持つ人々が多数を占めていたといえないだろうか。今日切りで生きるといったら褒めすぎであろうか。しかも貧しさの中でである。
富とは、人々を怠惰にして、人と人の絆を分断してゆくものなのだろう。
江戸っ子の魂に、触れた気がしてならない。


亀住町(平成13年7月1日)

亀住町(かめずみちょう)(平成13年7月1日)

 赤ちゃんのぐっすりと眠る寝顔をみると、不思議と安らぐものです。人の一生の時間を、赤ちゃんからお年寄りまでの直線として描いた時、一般的に、人は年を取れば取るほど、睡眠時間が短くなり、朝早く目を覚ますようです。そう言えば、早朝暗いうちに目が覚め、布団の中でラジオを聞いていると話していたのを覚えています。当たり前のことなのですが、子供にとって、未来は限りあるくらいにあり、その為、よく眠ることによって体力・知力等を蓄え備えます。
年を取るということは、未来が少なくなってゆくことになります。すると、時間を有意義に使おうと、自分の睡眠時間を減らして、少ない未来と一日の24時間を目一杯に使うかのようなのです。その点では、長寿とは、一日の時間を目一杯使おうとする人間の姿とも言えるのではないでしょうか。
しかし、病にぐっすりと眠るお年寄りの姿を見ていると、不思議に、子供の姿を思い浮かべることがあります。このことを考えてみると、子供帰りというのか、人の行為と時間とがぴったりと合わさって蕩々と過ぎてゆく大きな川を、今度は想像します。子供の頃、この川はまだ上流で早く流れていましたが、今は、やがて海に注ぐかのように流れて、人と時とが一体となっているかのようです。無数の星を散りばめた、天の川に似て。
亀住町30番地は昭和初期の陽岳寺の番地でした。その後、戦後ですけれど、いっとき、冬木町二丁目を名乗っていたそうです。その時の番地は冬木町二丁目一番地の一だったそうです。

陽岳寺が亀住町の頃、明治小学校より北側は、万年町(まんねんちょう)と聞きました。
『鶴は千年、亀は万年』と、亀の町会だったのだと、なかなか洒落て名前を付けたものだと、感心したものです。
明治期前から、この町会名前だったことから、この辺り一帯に、何か亀伝説でもありはしないかと探してみたけれど、歴史は途絶えて、何も伝わっていません。でも、何処かで、不思議な亀に出くわした子どもの話は聞かないか?亀の背中に乗って消えてしまった青年の話は聞かないか?いつの日か、知らない白髪の年寄りがふっと現れたという話は聞かないか?何処か交差点の角とか、軒下の茂みの中にじっとすまして遠くを見ている亀に出くわした人はいないだろうか?たかだか人間の二千年の歴史に、何万年の亀伝説を語るなんて、その二千年の中の、数十年の私なんて、亀にとっては、くしゃみした時間かもしれない。

鳥は空を高く飛び、眼下の大きな視界を自分のものといたします。コウノトリの仕事は子を授けながらも、真に授けたものは幸福であり、それは授かった人間の意識でもあります。
子供を授かったことは千年の栄えであり、幸せなのです。また1000年は10の3乗だから、鳥にとっては、3次元の自由とも考えられます。10,000年は10の4乗だから、4次元を自由にすると言っていた人がいました。面白い発想です。

亀こそは、時空を越えて、幸福を運ぶ存在です。ただし、時空を越える幸福は、単なる幸だけではありません。浦島太郎の伝説はそのことを示します。亀こそ、ほんの一瞬が数年、数十年、数百年……の時の重みを担った動物ではないだろうか。ミヒャエルエンデの『もも』も、時間を自由に行き来した亀がいたからこそ、この作品が成り立つ条件でした。

他にも、亀の言い伝えはたくさんあります。千歳の亀は人と話すといい、その歳で毛が生え、五千歳の亀は神亀といい、一万歳の亀は霊亀という。そして、千歳の亀の甲羅を火であぶり臼でついて服用すれば、千年の寿命を持つと言うが、あやめれば何やらたたりがありそうな。小さな頃の記憶では、世界は大きな亀の上に乗っていたような記憶があります。
しかし、実際は地を這いつくばって生きているではないですか。しかも地面から数ミリ数センチの視界による俯瞰です。以前草亀を飼って居たとき、器から長く首を出して、外を見ていたことを思い浮かべます。視界を広げようとしていたのだろうか?
さて、亀が地を這いつくばって生きているそのことは、人もたいして変わるものではありません。

一年間に一週間、蜻蛉が成虫の姿をして世を謳歌します。その時、蜻蛉の何十倍何百倍と生きている人間に出くわしたし、人間に語ることが出来る蜻蛉がいたとして、蜻蛉の生まれる前の父や母、祖母や祖父の先祖について、語ってくれとせがまれたとき、人間の口から出る言葉に、糾問する蜻蛉にとって満足する答えは得られるだろうか。また、蜻蛉の未来を尋ねられたとき、一週間の命を話したとしたら、蜻蛉は、その一週間をどう思うだろうか。一週間の単位を知ってはいるものの、80年の単位を知らない人間にとって、その期間を這いつくばって勝手次第に生きていることすら知らないで生きている人間にとって、蜻蛉の命をかえりみて、語る人間はいないと思う。命ではないのだと思う。

そのたかだか何十年の人間の命を、グリム童話は面白く語っています。
「神様が世界を創り、生き物たちの寿命を考えた。ロバには30年の命を上げた。しかし、ロバは背中に重い荷物をのせての30年は辛すぎる、そこで神様は、18年引いて、12年としたそうです。犬にも、年老いて餌を食べるにも、歯がなくなって、ただヨダレを垂らして唸っているのはかわいそうと、12年引いて、18年としました。猿も道化となって30年は長すぎると、10年削って、20年としたのです。人間だけが、長生きがしたいというので、30年にロバの辛抱の18年、年老いて横たわる犬の12年、そして、最後は猿の10年を足し70歳としました」と、しかし、85歳を過ぎる寿命は、更に、15年を生き物から差し引くとすると、この生き物は何ものか。私の子供は、すぐに猫と答えた。子供の感性は直感的だ。

人が、天寿を全うすることは、誰でもが全うすることなのですが、長寿こそ、この上ない人にとって、この物語は、人が自分の寿命と思うところの寿命は、実は、ロバ、犬、猿、猫から足された時間なのだと教えます。それは、大切な命であることの喩えです。さらに、人は植物・動物の命を得て生きます。
母親父親が、自分の子の危険に、とっさに反応するように、かって、使命感に、責任感にどれだけの人たちが自らの命をなくしたかを考えてみると、今の時代、他人の命を物質であると思うところに、命がかえって軽んぜられていると、このグリム童話から教わっていいのではないかと思います。
先日、6月10日のことだが、101歳の長寿で亡くなられたお年寄りの女性の葬儀をしました。85歳にまだ15年も足すことになります。こんな年齢の方は、正直全く初めてのことであり、ご長男が80歳では、普通の一般的な家庭の葬儀とは、事情が違うことに気が付くと、ひょっとして、このことが、時空を越えた違いなのではないかと思ったのです。蜻蛉のごとき私と考えたとき、人にとっての時空を越えるということは、ほんの数十年、数年のことなのだと、全く身近にあって計り知れないこと、それこそが時空を越えて、異次元の世界なのではないかと、不思議に思いました。
そう言えば、この方のご主人の名前は亀吉だったことを思い出して、可笑しく思いました。その葬儀の中で私が思ったことです。

《耳が不自由になり、視力がなくなり、自分自身の姿形が見えなくなったときの手探りの状態とは、恐らく、自分自身の手や足、口、目までもがおぼつかない世界だと思います。百歳近くになって、年齢を数える意味はあるのだろうかと考えます。多分、百年という期間の止めどない時間も、刻一刻の時間であり、人と違う差はないものの、圧倒的に違うのか。今、感動しています。耳を澄ますこともなく、白濁した視界か或いは闇の世界で、流れる時間は、きっと、さまざまな風が体を吹き抜けていくかに似て、その風こそ、貴女を運ぶもののように、貴女は身を任せて、そして、風に吹かれた貴女は、「少し眠る時間ですよ」「お食事の時間ですよ」と揺り動かされて気づく、今の時間でした。そんなゆったりとした時間を過ごしていたのでしょう。ここ数年続いたと言います。それが本当の年老いて枯れるという幸福の姿のことなのでしょうが、多くの人は、そこまでいたりません。まったく想像のできない世界です。》 

長寿とは、時空を越えると言ったものの、亀の動きがゆっくりと見えるように、ゆっくりとした時間の流れの中の今を表現するものだと思ったのです。 赤ちゃんのぐっすりと眠る寝顔をみると、不思議と安らぐものです。考えてみると、赤ちゃんからお年寄りまでの直線を描いたとして、一般的に、人は年を取れば取るほど、睡眠時間が短くなり、朝早く目を覚ますようです。
そう言えば、早朝暗いうちに目が覚め、布団の中でラジオを聞いていると話していたのを覚えています。当たり前のことなのですが、子供にとって、未来は限りあるくらいにあり、その為、よく眠ることによって体力・知力等を蓄え備えます。すると、年を取るということは、未来が少なくなってゆくことになります。すると、時間を有意義に使おうと、自分の睡眠時間を減らして、少ない未来と一日の24時間を目一杯に使うかのようなのです。

その点では、長寿とは、一日の時間を目一杯使おうとする人間の姿とも言えるのではないでしょうか。しかし、病にぐっすりと眠るお年寄りの姿を見ていると、不思議に、子供の姿を思い浮かべることがあります。すると、未来がたくさんあるように思えるのですが、しかし、よく考えてみると、子供帰りというのか、人の行為と時間とがぴったりと合わさって蕩々と過ぎてゆく大きな川を想像します。子供の頃、この川はまだ上流で早く流れていましたが、今は、やがて海に注ぐかのように流れて、人と時とが一体となっているかのようです。


モンセ・ワトキンス~夢のゆくえ~(平成14年1月3日)

モンセ・ワトキンス~夢のゆくえ~(平成14年1月3日)

 外資系生命保険のテレビコマーシャルは、「知らなかった!と、ここまで保証してくれたとは!知らなかった、比べてみると、こんなに安かった!」と、流れる。
そう、やはり世界の中の、日本は辺境なのなのだろうか。情報の選択の、何が耳を、目をこらさなければ、聞こえない、見えないに、トップニュースが、ゴシップでは、”知らなかった”というより、”知るよしもないし”、”知るべき頭の働きもない”のが、私の普段でもあります。

経済が悪いといっても、塀の中で、好きな本と格闘する私にとっては、新聞か、お茶の時間にみるテレビしかニュースの取得は限られています。それでも次々とわき起こる事件は、入っては消えてゆくのみの、塀の外のことでしかないと思うことでもあります。もっとも、世界が繋がっているかぎりは、どんなことでも、”関係ない”ということはあり得ないと承知のことの、やはり、”あまり関係ない”ことの事件は、お茶の間のテレビの向こうの出来事なのです。

そうした事件の中で、この年の前半より、南アメリカのアルゼンチンに、何やら経済破綻の情報が流れました。このことは世界経済に信用不安を投げかけると、特にアメリカの経済に大きく打撃を与えると、アメリカは、IMFを動かしてもいた。日本での情報は、アルゼンチン、ペルー、ボリビア、チリ、コロンビアの情報は皆目流れてこないことから、日本に於ける失われた10年と同じほど、これらの国では、経済の破綻による貧困と、暴力と、麻薬とが蔓延していたなどとは知らなかったことでもあります。そういえば、ペルーの藤森前大統領のことなど、最近はちっともニュースにならないことを思い出しました。きっとペルーでは、忘れることのできないことであるのでしょう。どう問題なのかすら知らない私達に、こうしたことの背景を知らぬ私達の生活に、やがて根を張る問題が含んでいて、10年後、15年後変化して行く世界が在るのもかかわらず、今手を打てる問題に、”知らなかった”ということが、日本は多すぎるような気が致します。
ただ距離が遙か彼方にあると言うだけでなく、日本に近い国の貧困問題は、結局、日本にかかわってくるのだと、強く思います。

平成13年の暮れも押し迫った頃、井戸光子氏より、一冊の本を戴きました。
題名は『虹のゆくえ』で、著者はモンセ・ワトキンスであり、翻訳者は彼女でした。そして、大晦日、寺の用事も一段落して、ブックカバーの青い空に雲が目についた。中心に、白黒の客船の写真、”河内丸”だという。『夢のゆくえ』という空に、海の色を意識したのか、表紙には『19世紀末、太平洋を越えて、はるか中南米の地に渡った日本人たちがいた。百年後のいま、その子孫たちは、「黄金の国=ジパング」をめざして、還流してきた。在日15年、日本社会と文化に通暁した、スペイン人ジャーナリストが、一世紀に渡る移民の夢の「いま」を語るドキュメンタリー。』とあった。(モンセ・ワトキンスと井戸光子氏のことは、『モンセ・ワトキンスをごぞんじですか?』井戸光子氏著をご参照下さい)

この本は、今から、百年前、二ヶ月かけて多くの日本人が、河内丸という客船で、国が広いという南アメリカの貧しい国々え、夢を描いた移民のドキュメンタリーであり、100年後の二世三世日系人たちの、日本の失われた10年の空間えの還流問題に焦点を当てた優れた本です。奴隷制度が廃止された国の、外国人労働者の移民は、ひと財産を夢見るには、あまりにも背景が悪い。過酷と困難の中に、夢を託すことは想像を絶する100年でもあったに違いない。それが今も続いているからこそ、数千人の日系移民の子孫が、30万人となって還流して、この社会に根ざそうとしている。日系人と言われ、この国に生まれた彼等の子ども達は、もはや故国には帰れない。ではと、受け入れる環境を考えてみれば、お粗末なかぎりだ。そのお粗末な環境で育った子ども達も、この国の未来を背負う子ども達と考えると、一人一人何ができるのかと、やはり考えねばならないことです。

この問題を読んで、それにも増して、多くの中国、台湾、フィリピン、タイの人々の出稼ぎ海外移住問題は、いったい何十万人なのか、何百万人の問題となって、今あるのだと類推できる。皆、どこかに貧困問題があることから、日本に渡っては、経済問題、犯罪問題となり、コロニーを形成するにあたって二世問題が教育文化問題となる。
平成13年の暮れに報道された、青森県の住宅供給公社での多額横領事件で、5億円のペルー送金が問題になったのも、そう言えば、ペルー人女性だったのを思い出すしますが、何故青森なのだろうかと考えてみれば、地方都市と南アメリカの国々との関係も、根は南アメリカの貧困問題であり、日本の根は地方都市での働き手の日本人がたりないということです。この女性は、ペルーに広大な敷地に豪勢な家を建てていたではないか。
日本にとって、100年前の日本の貧困問題が、100年後の貧困問題になるとは、時間もグローバル化するような、私達の祖先の知らずに播いた種が、100年後に咲いた花をどう観賞するか、どう刈り入れるかが問われている。

 『夢のゆくえ』 モンセ・ワトキンス氏著 井戸光子氏訳 抜粋ノート
在日日系人の家庭では~
つまり親たちの場合には、最終的に日本に定住すると決めてはいても、心はいつも祖国を向いている。反対に子ども達は、祖国への思いは親より数段少ないか、全くない場合もあるし、国へ帰るということも考えていない。

 例えば、十年間日本で暮らしてきた親が突然、ペルーへ買えると言い出したとします。その子供は、おそらく親が日本に来たときの数倍の苦労をペルーですることになるでしょう。それは、なぜか?日本は閉鎖的な社会だといわれますが、見方をかえれば、誰とも関係を持たずに生きていける国なのだということです。ところが、ペルーではそうはいかない。家族や友達とのつながりを重要視する国だからです…。在日ペルー人はコミュニケーションのない日常生活に慣れてしまっています。例えばスパーでの買い物に言葉は不要でしょう?ポケットに金さえ入っていれば何でもできるわけです。

 日系人がいじめにあっているということを考えると、この問題は将来、深刻化する可能性がありますよ。
 子ども達にとっては、スペイン語で考えるよりも、日本語でものを考える方がよほど楽なのだということがよくわかる。

 一日中働いて夜遅くに疲れきって帰る親たち、したがって親の監視の目が届かない若者たち。このような日系人の若者の、日本人に対する態度に変化がうかがえると、警鐘を鳴らす声もある。 
 小さいころから学校で同級生から虐待されたため、日本人に恨みを抱いており、侮辱されることを許さないし、敵対関係をはらんだ社会にしようと意図的に行動しているように見える者もいる。
 また地方では、一家そろって生活する家族が増えてくると、「誰のものでもない」国で成長する青少年が増えてくる。これらの青少年は日本にも出身国にも適応しない。前述したように、社会から疎外された日系人青少年の犯罪組織が生まれてくるのではないかという懸念は、もはや遠い将来のことではない。気にとめようとする者がいないし、また遅くならないうちに手を打とうという者もいないが、それは私達の目の前で確実に生じつつあるのだ。
 1999年五月に発表された警察庁の報告書によると、1998年の犯罪調査では、検挙者の国籍のトップは中国、次いでベトナム、そして第3位にブラジルだった。外国人が引き起こした犯罪31,700件のうち、ブラジル人が摘発された事件は3,278件で、検挙者は536人にのぼった。この数字は前年の2倍である。
 日系人社会がだんだん大きくなるのを間近で見ている人たちは皆、彼らのあいだで精神障害とアルコール依存症が増えていると指摘する。
  ざっと問題を拾ってみても、日本人社会が彼らにしてきた残酷な仕打ちは目に余る。1991年以降、日本で生まれた子ども達は2万人に達していて、これに、親たちが呼び寄せた子ども達が加わると言う。問題は、時と共に、つぎの芽を吹くんで、現在も進行中なのだ。
 私は思うのだが、本来、仏教は、貧困とカースト制度という枠の中から、その枠を打破しようと生まれてきた。その仏教の中の大衆部と言われる優れた大乗仏教は、東方の国に移ったものの、肝心なときには作用していない。いじめや虐待、戦争を嫌い非戦非暴力を説き、他を受け入れるという仏教の優れた善さを、日本人がもう一度目を向けて欲しいと思う。
 
 ワトキンスの日本社会への提言を、願いを、聞いてみよう。
 『日本社会が望もうが望むまいが、いずれにしても、もはやグローバル化の波から日本が身を守るすべはない。資本の流れもモノの流れも、ますます自由になり、労働者が国境を越えて移動することもますます活発になるからだ。世界第二位の経済大国であり、輸出大国である日本は、他国に投資し、製品を全世界に輸出して、このグローバル化の原因をつくりだした国のひとつでもある。グローバル化の有益な部分だけは利用するが、自国にこの波が押し寄せると抵抗する、それは許されない。

 将来に向けては、日本側もラテンアメリカ側も、長い目で良い関係をつくりだすことが必要である。日本においては、国籍や居住権、入国管理や外国人登録など、数々の差別を改革し、公正な社会をつくるには、裁判や刑罰システムの整備とともに、医療サービスや年金制度も外国人に適用されるべきである。外国人労働者に対する理解と寛容、日系人労働者を尊重する態度が求められる。彼らに対してはまだ、恵まれなかった過去を思い出させる「貧乏人の同胞」という偏見がまかり通っているからだ。またラテンアメリカ側では、彼ら自身が抱えている問題をまず解決し、日本人との共生の道を探ることが必要だ。共生こそが、両者に利益をもたらす道である。』


新牌開眼

新牌開眼

 人が産まれて、名前を付す作業は、これからの人生に様々な意味を持ちます。このとき、誕生する前の名前はどうだったのだろうとは、人は考えもしません。ですが、人が亡くなった後の戒名という名前を付したあとはどうでしょうか。「この次に産まれてきたときは、私は、絶対、玉の輿になるのだ」と言った若い女の子がいました。「また、次の時代に、一緒になれればいいね」と言った、若い夫婦がいました。その時、自分は、死ななければ、そして、さ迷わなければ産まれてくるとは意識しない。

 生前のうかがい知れない名前を前にして、生まれた後の名前に慣れ親しみ、そして、亡くなった後の名前から、その次の名前は、誰かに託すいがいにないことを気づくのです。この連続の中に、人は命を繋いでいると考えることが出来れば、人は、願いや祈りの中に、旅立った者と送った者の、安らぎを見つけることができます。
 このことに気づけば、この連続の中に、人は命を繋いでいると考えることが出来ます。
 人はいったい幾つの名前を持って生まれてくるのだろうかとも思います。

 人は、多くの名前を刻まれて、刻まれて誕生してくるのではと、そして死んで逝くのではと、このことは、名前とは、人が命を繋いでいることの意識そのものかも知れないと、この作業の務めを知り、やたらな名前を付すことはできないものだと気づきます。
 名前や法名は、それこそ長い時間の中の、ほんの一時の名前です。それ故にこそ、かけがえのない名前や法名でもあります。
 人が亡くなって、自然に帰るも、仏や神になるも、一時のモノではないでしょうか。この世界が続くかぎり、授かった命は、やがて去ってゆく。そうわかってはいるからこそ、せめて一時、変わらぬものの名前を通しての命を、大切なモノとして、慈しんで惜しむからこそ、名前があるのだと考えています。
 私たちは、もし生まれ変わったら……と、亡くなって父や母の元へと、また幼くして亡くなった者が集う処にと、祖先の集い憩う処にと、神の御許にと、生前に言うのですが、この世界が生き生きとして続くかぎり、すべてはいっときの中から発する人の願いや希望のような気がいたします。だからこそ、この活き活きとして続く世界に、変化する名前が在ることが、とても新鮮にして、嬉しいことなのだと思うのです。

 また、名前や戒名・法号とか洗礼名は、その世界や教義のあり方を模索することでもあるのでしょう。そして、名前を付すことを、人がおこなっているかぎりは、付す人の世界観やモノの見方となり、時代を表現することです。そして、そのことが同時に、この世界をどう生きて行くかとなり、掟や規範、戒律に発展することとなります。名前や法号・戒名を授かるとは、戒律、逝き方の規範を持つことでもあるのです。
仏教の戒律は、キリスト教やイスラムより絶対のものではありません。人が社会の仲で暮らすことのうちの、一つ一つの疑問に、真摯に釈尊が当時の社会情勢に鑑みて応えたものです。

 その戒律を、考えてみて思うことは、嘘をついてはいけない、盗んではいけない、人を傷つけてはいけないとありますが、一つに集約すれば、『自分に対して、いつも素直であり続けたい』と言うことが、他の律を網羅しているのではないかと思うようになりました。
 人が社会で、理解できないことを理解しようと学ぶことも、行為も、そのことによって、社会・法則・ことわりの道を模索することとすれば、今、生きている場所や生きる方向を考える糧です。そこで、いつも自分に対して正直であり続けたいと思うことは、人の本心ではないでしょうか。
 ですが、そうは思っても、現実はそのとおりには行かないものです。でも、「いつも正直であり続けたい」と、このことに関してなら、自分や他者に対して、優しく、厳しくと、人は告白や慚愧の思いを、涙を流して、悔い改めることができるはずだと思いました。
そして、この『いつも正直であり続けたいとする自分』というものをどうとらえ考えたらよいのかということ、ここにこそ禅宗の真価があるのだと、私は考えます。

 こころは保(たも)ちがたく、かるくたちさわぎ、意(おもい)のままに、従いゆくなり。
このこころを、ととのうるは善(よ)し。
かくととのえられし心は、たのしみをぞもたらす。

底深き淵の、澄みて、静かなるごとく、心あるものは、道をききて、こころ、安泰(やすらか)なり。

 かって、抑鬱症の自殺願望を持った女性の、自殺しなかった理由を、人から聞いたことがありました。
「このわたしが死んでも、わたしの名前は消えません。名前が消えない以上、わたしの存在はなくなりません。それでは無理をして自殺する意味がありませんから。」の言葉でした。このとき強く、深く名前というものを意識致しました。この女性が、自身の存在の末梢を退ける理由として、名前を考えたことは、そして洞察したことに、驚いたのです。
 わたし達自身は、普段、名前や他者の中のわたしと名前のつながりなど考えもしないことです。もし名前がなかったら、まわりのものから区別され、独立することを失ってしまいます。また、人の名前だけでなく、わたしの祖父や父、祖母や母という名称からくる、息子や娘、孫や甥・姪、友達という名前が無かったとしたら、関係そのものを失うことを意味し、現実が混乱し、生活の結び付きを無くすことに等しいことでしょう。
 これは、存在するもの、存在したものの根拠を失うことに等しくなります。現実に、わたし達は、名前が付されたときから、世界に向き合う者は、名前ではなくわたし自身なのですが、他者から見た名前のわたしを、世界は区別するようです。二重構造みたいです。
 名前は消えない。自分がいなくなったとしても、それで、すべてが消せるものではありません。わたしが生きるとは、縁起構造(関係)によって生きるのであり、わたしがいなくなったとしても、わたしの縁を及ぼした他者からの縁は、消えるどころか、生き続けるからです。この縁が変化して生きつづけるとするなら、わたしの最後まで、その縁を、育てて見届けることこそ、必要なことです。わたしの存在は、抹消できるかも知れませんが、わたしというものが、縁により、綾になって広がっているかぎり、わたしの心は、その綾であり、綾が抹消されなければ、わたしの名前が取り残される限りは、この世界に生きつづけるともいえるでしょう
 わたしの経験も、わたしの過去も、わたしの未来も、わたしも、すべては、綾の中の縁とも言え、すべては汝=他者の関係において世界は成り立っています。西田幾多郎によれば、わたしを対照的に限定するものは、一般的自己でもなければ、自然でもなく、それは『歴史という如きもの』でなければならないと言います。
 陽岳寺の法事回向の文面の言葉です。
 『それゆえに、世界はつねにわたし自身と一緒にあるならば、一粒の砂も、一輪の花も、わたしも、世界全体を背景にもたなければ、存在しなくなることに気がつきます。そして、一粒の砂も、一輪の花も、わたしも、今ここにあることは、その背景の、家や道路、学校やあらゆる生活の中の古びたモノも、かけがえのないものとして、じぶん自身に意味を与える歴史であり、それは、世界にたった一人のわたしが、常にわたしであることを現してくれているモノでもあるのです。また同時に、このことは、その背景の意味や思いを変えてみれば、尽きない豊かさを含んで、人は、実りある途中に有るともいえるのです。人の尊厳とはこのことを言うのではないかと、だからこそ、何人も、この尊厳を傷つけることをしてはいけないことなのです。』
 今の自分の置かれた現状に、苦しみ、悩み、現状をわたし自身の考えや見方で変えられず、次の世には、変わって生まれ変わりたいと思うことがあります。「今度、生まれ変わったら、玉の輿に乗るんだ」と言った19歳の若い女の子の位牌を前にして、「きっと、そうなるよ」と、願い、祈り続ける意外に選択肢はありません。わたしとは、他性により、構成されるものとするなら、苦しみ悩みも他性によりもたらされます。この子の心に、結果として、手を貸せずに残された遺族にとって、それでは、この子が生まれ変わるまで、どこまで、どう拘わればよいのか。そして、生まれ変わったことを確認することができないならば、どうすればよいのでしょうか。

 白隠禅師は、坐禅和讃の中で、「当所すなわち蓮華国、この身すなわち仏なり」と結びます。今ここに生きるわたしが暮らすここが、蓮華国という浄土や極楽であれば、わたしたちが次の世に産まれる次の世は、当所という、今この場所のはずです。わたしの身体が、この世界から抹消され、わたしの死後、新に、新しい名前が、戒名として祀られます。そして、この世を生きてきた、残された者の過去の証として、それは、過去を引き継がない未来を開ける、生活の中の、特別な場所に移されます。この特別な場所は、願いや祈り、感謝や歓喜、畏敬や尊さの場所であると同時に、未来への扉でもあると考えることができます。この場所によって、繋がっていると 。
 そのわたしの存在が、再び、三度と誕生したとき、その時々のわたしの生は、その時々のご両親に託す意外に方法はありません。こう気づいたとき、わたしそのものも、その時々の両親となり、授かった託された命を、精一杯育むことが必要なのだと気がつきます。ここに、届かぬ願い・祈りが、聞こえぬ願い・祈りを聴くことの立場が、どう拘わればよいのか、どうすればよいのかの扉が、現れます。

 戒名は、自分がいなくなった世に、次の世を予感させるものでもあるのでしょう。それは、生まれ変わることを意識してという意味だからでもあります。そんな、連続する関係の中に生きるわたしたちの、生活の中で、位牌や、墓石を拝む意味は、届かない願いを繰り返すことの連続のうちにあります。仏壇のなかに、いくつもの位牌が立ち並ぶとするなら、それは、いくつもの名前を持ち、産まれて来て、死んで行くという、道の交差点です。そして、その届かない願いを、聴かなければならない存在であると確信したとき、感謝や歓喜、畏敬や尊さとなって、祈り願うわたしの心が充たされるのではないかと思うのです。届かない願いを繰り返すことのうちに、聞こえない願いを聞くこと、このことが、わたし達の行為に現れるとするなら、それは、わたし以外の、今を生きるものを、良く育み、保つという無心の行為の中に厳然として現れていると考えられます。
 わたし達の、産まれれば、縁が、広がり、死ねば、また縁が広がる、こう考えてみれば、仏壇の中の、祀られた位牌の奥、お寺の領域、そこは、象徴としての、わたしたちの未来への開かれた扉です。人間の自由な発想が、届かない願いに束縛されない、自由な未来を生みだすと言えるからです。
 「もう一度生まれてくるかいがないほどに、一回でわたしがそれほど多くをなせるというのか」と、エンデが言う言葉には、千金の値があります。
 19歳の自死した遺骨と戒名を前にして、何度でも、生まれ変わって、おもうがままに、生きつづけること、ただただ、願い祈るばかりです。



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