目次
輝いている時
夢中(ゆめのなか)
芝浜
江戸っ子
亀住町(平成13年7月1日)
モンセ・ワトキンス~夢のゆくえ~(平成14年1月3日)
新牌開眼
英霊(平成17年5月23日)
目覚め
よわい「齢」
また始めたらよい
三大聖樹(平成19年4月17日)
滅度(平成19年9月18日)
安住の地(平成20年11月15日)
心眼(平成22年3月1日)
とかくこの世は
とかくこの世は
祈り(平成17年11月29日)
品位(平成18年1月20日)
ニャンニーシンズ(平成18年3月1日)
鍵(平成18年4月25日)
チベット(平成20年5月1日)
SYOHOU
諸法
四十四の問い~ミヒャエル・エンデ
先ゆく輩
さき行く輩
祖師年譜
ダルマ
慧可
五洩霊黙和尚
石鞏慧蔵禅師
大珠慧海禅師
西川の黄三郎
馬祖道一禅師(馬大師)
五百生 百丈和尚
大梅山法常(752-839)
麻谷山宝徹禅師(平成12年1月27日)
鎮州普化(ふけ)和尚
寒山・拾得
虹の彼方に
ヘイヴン・ペックの場合―続貧しいけれど、豊かだった―
生前葬
平和を我らにーGIVE PEACE A CHANCE(平成13年10月31日)
ソクラテスとヤージャニダッタ
蓮(平成14年6月2日)
心-KOKORO(平成14年6月25日)
独り暮らし(平成15年4月12日)
老いが、咲いていた!(平成16年7月5日)
深濱-fukahama
死に顔
松山鏡(ソクラレストとヤージャニダッタの続き)
真ん中(平成20年4月1日)
百万回いきたネコ(平成21年1月1日)
夜来る鳥(平成21年1月1日)
だいじょうぶ、だいじょうぶ(平成21年2月1日)
無常への帰依
無常への帰依
希望(平成12年1月2日)
葬式坊主
泥棒
赤とんぼ
老い
……ロス
後姿
寿陵
ついで参り
目標
六道を行く
もの言わぬ羅漢達…揀択をこえて…
宮本武蔵
五合庵断章(平成10年10月17日)
K子さん!(平成12年7月19日)
今は昔
十一面観世音菩薩
尽七日忌(平成19年5月1日)
OSYOU
OSYOU
この手のひらに―禅僧の死―(平成10年11月18日)
戒(平成10年7月25日)
幽霊
みんな仏教徒(平成10年5月27日)
最後の晩餐(平成10年5月23日)
禅問答(平成10年5月31日)
分銅
天国は汝ら自身に宿る(平成10年11月24日)
宗派
穢れ(平成12年8月30日)
お彼岸
仏心
仏心
ご祈祷
施餓鬼会にて(平成17年5月28日)
永遠の命
輪廻する葦(平成10年5月27日)
連鎖する命(平成10年6月2日)
涅槃(平成10年8月12日)
鏡(平成10年7月25日加筆)
流星
TAO(平成11年1月3日)
四大
挨拶
冥福
盂蘭盆
祈り(平成14年7月4日)
仏事歳時記
再び 最後の晩餐
この手のひらにII(平成18年11月18日)
死んで生きる智慧(平成19年3月27日)
五百生(平成19年11月20日)
破地獄偈(平成20年5月24日)
この指止まれ
この指止まれ
家族と家庭(平成11年1月5日)
導師(平成11年2月26日)
家から個人へ、そして家族・友達へI
家から個人へ、そして家族・友達へII
脳死そして臓器移植(平成11年3月2日)
独り決めの生き方
僧堂I
僧堂II
僧堂III
恥じ
僧堂IV
返事
父殺し・母殺し・友だち殺し・子殺し(平成20年1月1日)
その後
その後
ほとけさま(平成17年5月1日)
仏が仏に合掌する
戒名(平成12年3月14日)
無用の用(平成12年2月21日)
世話
大きく育て!(平成11年1月18日)
しもべ(平成10年11月7日)
電話(平成10年8月22日)
意思
寡黙
妄想(平成10年8月2日)
川(平成10年8月22日)
風如(風のように)(平成10年6月18日)
追悼(平成10年5月27日)
受容(平成10年6月18日)
蒸発
臨終(平成10年6月8日)
外道
障子(平成13年3月10日)
日月(にちげつ)
年寄りの出番より
人生とは、闇を照らす一瞬の蛍の光
時の旅人
時計(平成12年1月3日)
星(平成11年10月15日)
溝(平成11年8月2日)
過去心…念の起こる処(平成11年6月19日)
与える時間(平成11年5月24日)
桜(平成12年3月2日)
無常(平成11年4月16日)
川(平成10年9月17日)
有時(時の構造)(平成12年2月5日)
時の旅人(平成12年2月1日)
揺れる木々の葉
この人生の速さはなんだ(平成14年12月26日)
法句経より-時の旅人(平成15年2月4日)
寂然不動 如春在花(寂然不動、春の花に在るが如し) (平成16年9月19日)
ZENGO
自立
橋は流れて(平成10年9月18日)
無事
過去(平成10年5月23日)
たまごっち(平成10年5月23日)
一衆觸礼(いっしゅうそくれい)
六道を輪廻する
二人三脚
生老病死
筋肉番付
ポケモン
俺は、親馬鹿か!
塵も積もれば山となる
生と死と永遠
最終章
一章
二章
三章
四章~(未完)
時間旅行
時間旅行
命の歌-母の短歌
礎-いしずえ-
離魂(平成19年8月25日)
海辺橋
海辺橋
ふるさと(平成18年3月4日)
千の風(平成18年9月16日)
人の道(平成18年9月18日)
あなたは、いつから、一年が始まりますか?(平成20年8月1日)
前住職 二十三回忌にて(平成20年9月1日)
平成21年お施餓鬼会を振り返って(平成21年6月1日)
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輝いている時

輝いている時

平成12年5月15日、それはK子さん(無情への帰依-K子さん)の亡くなった日です。
そして平成13年5月15日、K子さんの本が、ご主人と多くの方々の協力によって出来上がりました。
その真新しい本の表紙には、『皆さんお元気ですか』とK子さんの字で題名が記され、K子さんが出した葉書の絵が乗せられています。大きくK子さんの左手で、一生懸命何かを掴んでいる淡彩の日本画です。右手で筆を使いながら、葉書一杯に描いたものです。そして言葉が添えられています。
『つかまえていないとにげだす自分。』
京都大徳寺の塔中寺院で、高校生の小僧生活をする一人息子に送ったものだと思います。
受け取った息子さんは、きっと、捕まえる自分と、捕まえられる自分に、母の鋭い問いかけが、充分に伝わったと思いますし、胸に迫るものがあります。”しっかり修行をするのですよ”の絵手紙でした。

ページをめくって、何て素直な表現なのだろうと感心する絵手紙が沢山あります。
例えば、可愛らしい立ち姿の仏様が描かれ、
『仏のそばにいながら信仰が今だわからぬ自分。なんと罪深いことか』と、添え書きがありました。そして、その次のページには、
『仏が背をさすってくれるのでもなし、乾いた喉をいやしてくれるでもなし。今、私に、そっと肩をおしてくれる麻由良が仏なり。どうぞ、おたっしゃで』と、娘が母親の肩を揉む絵手紙。
説明したらしかられ、K子さんに、「余計なこと言わなさんな!」と怒られそうです。罪深く思う仏と、仏が仏の肩を揉みほぐす光景の絵手紙。

『なんも悪いことしてへんのに、なんでうちばっかりこんなめに合うのやら、神仏などこの世にいるものかと思う。しかしここ一番とゆう時、心の奥底からこぼれるように「あなた(神仏)様の御心のままに」とさけんでいる自分に気づかされます。自分でもどうしようも出来ないならせめて我が身を神仏にゆだねるしかないのですから、おばあちゃん、がんばって下さい。』
二人の汚れない合掌童子の廻りに、薄墨で書かれた文章です。K子さんの大きく影響を受けた、病床のお祖母ちゃんに宛てた絵手紙に、K子さんの素朴で、屈託のない心を思います。

全部を紹介できませんが、京都にいる息子に、K子さんはこんな絵手紙を出しています。
『アンタが元気でいることが、お母さんの力です。暑いですが体に気っつけて下さい。和尚様に合掌』
七夕の笹に、母の思いを沢山ぶら下げた絵手紙に、息子はどう受け取ったのだろうか。母親の全身全霊を傾けてぶつける言葉を強く感じます。こういう言葉が発せられる母の心は、何のとらわれもなく、カラッとして何もない大きな心そのものを思います。母親の子どもへの心とは、美しさそのものだと気がつきます。
お母さんにとって、一人一人の家族が元気でいることが、お母さんの力なのですが、家族一人一人にとっても、母親が元気でいることが、家族一人一人の力なのでしょう。
今、お母さんが居なくなって一年が経ちました。
どの家族にとっても大切な人が失われた時、それを現実的に補うということは出来ません。だからこそ、体に風が吹き抜け、心が空っぽになり、虚しく、癒されないのです。

私の母が亡くなったのは、昨年それは平成12年12月13日でした。
少しずつ母の残した書き物やメモを整理しなければと思ったのが翌年の3月、実際には4月、先ず日記のみ整理してみました。
その赤裸々な日記を発見し、母の亡くしたものの大きさと苦悶に、情けなくも初めて気がつき、気配りがたりなかったことを悔い、取り返すことの出来ない時間を作ってしまったことを知りました。
父の納骨が終わって、母は
、『主人もとうとうつめたいお墓の中に入ってしまいました。もうお終いです。』と記します。
この言葉は、12月31日の日記に書かれた、
『とうとう最後の日がきてしまった。明日から新年。私の心の中はあまり感激は無い。お父さんが居てくれたら。去年の今日は、どの様にしていたのか全然思ひだせない。この記念すべき年よ、さようなら。だんだんお父さんと離れて行く。』の内容にいたって、大切なものを亡くした母の心の辛さ、悲しみ、痛みを、更に理解させてくれました。
母は、遠くに逝ってしまった父を思い、慕い、途方にくれながらも必死に自分の道を模索し、立ち直ろうともがくのですが、父が居ないことに必死に耐えている。自分に耐えられないことも含めて、父がどんどん遠ざかることにも耐えられずに、耐えています。

少しでも側にいたい、元に戻りたい、8月12日以前にいたい、その年の内にいたいと。
そして、少しずつではありますが、自分のために、時間を使うことを覚え、歩き出しもします。
11月21日の日記は、そのことの証明でもあります。
『百箇日も過ぎました。私の心の中では未だ思ひが切れません。どうして貴男だけが居ないのかしら、私の住む世界とは異なった土地へ行ってしまいました。今日は指の注射です。とても痛いんです。自分の為にこの手をなおします。』
この章を読んでいて、母に告げたいことがありました。それは、父のことを遠くに行ってしまった嘆く母に、「実際にどんどん遠くに行ってしまうのはアナタなのです。」と。もちろん解っていることなのですが、発言することによって、その時間を互いに共有することが出来たならなと、遅ればせながら気が付いた、馬鹿息子でもありました。

父は8月12日に戻れれば、ベッドの上で点滴を受けているはずです。時が刻まれるということが、生きているということです。そのことが遠ざかるのです。今そこに居たのにそこから時間距離が遠ざかってします。地球の自転を止めることも出来ないし、宇宙の渦をかき混ぜることも出来ない人間の宿命でもあります。そのこと故に、その一刻一刻に時の焦点が当たっていて、輝いているということでもあると思うのです。
人にとって、一番見えないものは、自分が時を刻んで、動いていると言うことなのでしょう。そのことを、母は次の言葉で日記に残していました。
『何ともなく暮らしていた日が輝いて居たとは知りませんでした。三原山の爆発のニュースで、昨日から大変です。今日も一日、どうにか過ごしてゆかねばなりません。みんな夢です。夢の中の出来事です。』
母の残した言葉で、11月23日に記した、心に残る言葉です。
現実に、貴男がどんなことになっても、元気でいることが、私の力ですと言う時、その時の重みは、較べるものもなく輝いています。ただ普段問題なのは、私達は気が付いていないと言うことなのでしょう。
私は、亡くなった母の言葉を読み、K子さんの絵手紙を見て、人間の純粋性を知ります。それは、とても美しいことであると同時に、人が輝いている時なのだと思いました。残念なことに、その時、本人は気づいていないのでしょう。
残された文章を読み、亡くなった人は嘘は付かないと、妙に感服している私だったのです。


夢中(ゆめのなか)

夢中(ゆめのなか)

長く住職の務めをしていると、様々な事件に出くわします。
35歳という年齢の彼の、ある秋が終ろうとして、ちょうど冷たい木枯らしが吹いた夜の出来事でした。彼は、オートバイが大好きで、今日も9時に彼が勤める上野のオート売店のシャッターを閉め、いつもの通り京葉道路に出て江戸川の自宅に、オートバイで向う途中のことだったのです。家に着く300メートル手前の、京葉道路の交差点を渡った所に、白いワンボックスカーが停車していたのです。その車に彼が気付いたかどうかは知る由がないのですが、少なくとも、午後11時過ぎ、彼はその白いワンボックスカーの後部に、ブレーキもかけずに突っ込んだのでした。


上野からだと、普段の道路だと30分もあれば帰って来れる時間ですが、1時間30分の空白があるのですが、後で付き合っていた恋人に、その時間のことを聞いたのですが、その穴は埋められませんでした。いずれ解かることがあるかもしれませんが、彼の命の時間が止まったことを、解決することはできません。
しかし、遺族にとっては、妙に引っかかることでもあります。遺族にとっては、朝、彼が出勤する「行ってきます」の言葉が、残響のように、耳に木霊(こだま)して、棺の中に眠る彼が、今すぐにでも「ただいま」と言って、起き上がるのではないかと、思ってしまうのです。それはすぐ側に居る予感のような、空間が歪んで、彼がそこに座っていたりと、一瞬先の現実を想像し、期待して、ただ棺を見つめては、起こりえない期待する現実を、待っているかのようでした。
線香の火を灯すことは、待つことの意味があり、荼毘にされるまで、何本も何本も、一日中、遺族である、彼の弟と母は、線香をとぼしました。

衝突の後、彼は救急車でB都立病院に運ばれました。彼の死亡時間は0時過ぎでした。彼が亡くなったという私への訃報は、都立病院のBの治療室で、検死が終って翌日の午前9時に、弟から電話の一報で知らされました。弟と老いた母が、目を真っ赤にして、呆然と立ち尽くす姿を想像いたしました。
「どうしたの」と、まず驚き、事故か突然の病気かと、咄嗟に判断いたしました。確か彼は、年齢も若かったはずだしと、次から次に、記憶が蘇って、繋ぎ合わせて、第一報の弟さんの「母と二人になってしまいました」の言葉が、妙に響いていました。弟のすぐ近くに、息をしない冷たくなった兄がいるではないかと、「今、まだ三人でいるでしょう」と、それを、「二人」と言わせる事実の大きさに、言葉が出ませんでした。そして、二人と言わせる、受け入れの早さに、そんなものかと推し測りながらも、いや、その前の段階が省いてあると気がついたのです。

第一報の電話の向こうの母親の顔が眼に浮かび、いたたまれない思いが伝わってくるようでした。私には、どうしても兄の若さきり記憶に無く、亡くなるということが、事実として伝わってこないのです。人は、年老いて亡くなることだけではないと理解していても、現実には、年齢の若さを維持して亡くなることには、抵抗があります。まして、母親、兄弟、知人、恋人にとっては、言い尽くせることでないことは、百も承知のことです。出切ることなら、その場に居ることを遠慮したいものです。他人とはいえ、僧侶として側に居なければならない重圧は、責務の辛さであり、それが私の立場なのです。いつも悲しい場面に居なければならない、立ち会わなければならない立場こそ、僧侶として在るための現代の条件だと思います。

その立場を、自分から、現実のものにするために、そして遺族と共に歩くために、枕経にうかがうことは必要なことであり、翌日、兄と対面いたしました。兄の、傷つき、痛ましい顔に接して、手を合わせ読経し、夢でないことを知りました。そして、家族には、夢であることを願いました。

事実が記憶に刻まれ、過去の事実として、思い出になります。しかし、未だ現実の事実でなくても、記憶に刻まれることがあります。記憶に刻まれたという事実は変わらぬもの、現実の事実かどうかは、過去の思い出ということだけでは、わからないのです。

 邯鄲之夢(かんたんの)、そして邯鄲之枕という故事が中国にあります。
盧生という青年が、邯鄲の旅館で、道士の枕を借りて寝ているうちに、栄枯盛衰の50年の夢をみたが、目が覚めてみると、それは、粟飯がまだ炊きあがらないほどの短い時間であった故事であり、人間の盛衰の儚さにたとえる。一炊の夢ともいいます。『唐、沈既済、枕中記』
そして、芭蕉葉之夢という故事も、中国のものです。
昔、焚き木取りが捕らえた鹿に芭蕉の葉をかけて隠しておいたところ、その場所を忘れ、人に持ち帰られてしまった。そこで焚き木取りは鹿を捕らえたのは夢だったと思って家に帰るが、その夜、隠した場所やその鹿を持ち帰った人の夢を見て、その人を探し出し、鹿の所有をめぐって争った、という寓話から出た語で、人生の得失が夢のように儚い喩え。『列子、周穆王』          (大修館書店の大漢語林より)

 あくまでこれは物語です。邯鄲之夢の場合、盧生は郷里から、都の官吏登用試験を目指して旅をしていました。その度の途中の、とある旅籠でのことでした。彼は、居合わせた道士の枕を借りたのです。すると、ぐっすりと寝込んでしまいました。身体は寝込んでいるものの、彼の旅は先に進みます。その先の彼の栄枯盛衰、挫折と成功、喜びと怒り、人の50年間にありとあらゆる体験したのでした。夢から覚めた盧生は、自己の栄誉や栄華を極めたり、その時代の若者の目指す文化を経験し、彼は、もと来た道を辿り始めるのです。この夢と現実が織り成す事実は、夢の続きで、自分の目標の否定と修正が、行われたことは間違いがありません。

 更に、芭蕉葉之夢の場合は、普通に言われることは、事実の忘却ということです。焚き木取りにとっては、事実が事実として成り立っていない以上、この事実はなかったことではないでしょうか。そうすると、夢で見たことは、事実の裏づけではなく、夢の中の体験こそ、事実の体験として、目覚めて、確認した時、過去の事実が、今の事実と結びついて、今、感慨を生ずるということができるのではないでしょうか。

 あくまで物語なのですが、こう較べてみると、単なる物語ではすまないことを含んでいます。
 人生の夢を、事実として下すことも、現実の人生を夢と下すことも、時には必要なことであると思うのです。
そして、その通りに、夢だ事実だと下したとしても、そこから現在が始まるのも事実です。夢が夢でなくなり、現実が夢であることも、同じ事実のような気がいたします。

 さて、兄に枕経を献じた、私は、悲しみに交わる前に、怒りました。怒る相手は兄であり、親不孝そのものを行じた兄の行為です。人が生きているという事は、ほんの少しの時間の接点の危うさであることは、こういったことがあるということが、その証明です。気付かないことですが、現実にはそれだけが絶対といえる事実に違いないことも確かなことです。絶対の事実を共有することが出来ないという事実が、死であり、悲しみであり、悔しさであり、儚さであり、私たちの表現であり、遺族ということの証明なのだと思います。
 それは、例えば、母にとっては、子供を亡くすという、自らの根拠を失うことであり、積み上げてきた過去の蓄積が崩れ、未来が喪失することだと思います。
 昔の人は、このことを指して、一言、≪夢≫と言ったのではないでしょうか。事実でなければ、痛みは現実のものではないみたいに。

 いつも葬儀は、私にとって、突然に居なくなる人の旅立ちへの、最後の手伝いです。そして私の、戸惑いでもあります。何故なら、いつも、予期しないことで、一つとして同じ内容はないからです。
 その予期しないことに遭遇して、真剣に考えてこそ、死者とより出会うことができ、私たちとの、今の事実を確認できることが大切なことです。現実には、今の事実以外は、目に見えぬものですが、そこに、夢や思い出、希望や願いを見ることが出来たら、メッセージが伝えられると思うのです。

 兄にとって、この事件は、「いずれは来るもの」とも考えたことがなかったことです。兄は、ただひたすらに、兄にとっては心地よいオートバイのエンジン音に包まれ、エンジンの振動に揺られて、アスファルト道路の上を、ひたすら走りつづけて、多分、今も走りつづけているはずなのです。それが夢とは知らずに。
 葬儀とは、走る兄にブレーキをかけ、無理やりサドルから降ろして、葬儀に参列した遺族や仲間に、挨拶し、手を振って去って行くために、用意したステージでもあります。

 そうしないと、兄の愛する、母や弟が、立ち止まって考え、別れることが出来ないではありませんか。
 どんな登場の仕方か分らない、確実に訪れるであろう死。思い出さない限りは、どんな人でも、日常の生活の中に埋没し、折込済みと表現されるものであると、葬儀において、説得しなければならないのだと思います。それを、『したたかさ』と言い、『一途な生の中に』とも現します。それは今を生きている、豊かに潤いのある姿でもあります。

 10年、20年…経って、母や弟がこの事件を思い出して、すべてが夢であったと回想したとき、痛みが消えるときなのかもしれない。それには、兄より、多くの恵みがもたらされ、兄が残された家族を守っていることを、知ることはもちろんのことです。

芝浜

芝浜

 魚屋の熊五郎が、昨夜もふんだんに酒を飲み、翌朝早く、女房に起こされて、夜明け前に天秤棒を肩に、出かけて行った。女房は、亭主が出かけた後、片づけものをしていたが、なかなか夜は明けない。
そこに、熊さん、あわてて、草鞋を脱ぐのも忘れて、 帰ってくるやいなや、
「ばかに、早く起こしやがって、後から誰かつけてきやしないか、早く戸締まりをしないか!」と、女房に。
女房は、「お前さんが、明日からお酒を断つっていうから、あたしも遅くならないようにと、つい、早く起こしまって、すまなかったねー」
熊五郎は女房に、財布を拾ったことを話した。 

長屋を出た熊五郎は、問屋もまだ開いてはいないし、そこで、浜にでて、夜が明けるのを待とうとするが、眠くてしょうがない。浜に出て、顔を洗って、戻ろうとすると、足に引っかかるものがある。見ると、皮の財布ではないか。ずっしりと重いので、「これは天から授かったものにちがいない」と、懐に入れ、仕入れもしないで、すっとんで帰ってきた」のだと。

女房は、財布の中身を数えると、50両の大金に、「これは、拾ったもんなんだね」と、「いったい、このお金をどうしようっていうつもりだい」と、亭主に問いただした。
「どうもこうもあったもんじゃねえやい。おめえにも、長いこと世話をかけた。これからは贅沢をして、楽にしてあげるぜ。友達を呼んで、一杯やろうって!」
すると、女房は「お前さん、この財布は、私が預かるよ。あんたは、疲れてるだろうから、いいからひと眠りおし」と、寝かせてしまった。
朝が、早かったものだから、熊さんはぐっすりと寝込んでしまい、女房にゆり起こされた。
「お前さん!夜が明けたよ」と、熊さんは「あーっ、よく寝たもんだ。湯に行って来るから、手ぬぐいを貸してくんな」。女房は、「あいよー」っと、湯屋に送り出した。

熊さんは、湯からでると、あっちこっち立ち回り、酒の肴をかって来ると、「今、けえったよ」。
女房は、買い出しの支度をして、「さあ、行ってらっしゃい」と、送りだそうとしたが、熊さん。
「冗談じゃない。今日は、とんでもない日だ。こんな日は、友達を呼んで、一杯やろうに決まっているもんだ」と、そこに、友達がやってきて、「さあ、上がってくんねい」。車座になって、皆で、飲むは飲むは、空瓶が転がり、友達は酔っぱらって帰り、熊さんも横になって、高いびきとなってしまった。ようやく宵闇が迫って、熊さんは起きだして、女房に、更に酒をねだろうとするのでした。
女房は、「お前さんに、聞きたいことがあるんだよ」と、今日の出来事の説明を求めたのでした。   

風呂から出て、酒の肴を買い、友達を呼んで、お祝い事と称して、よくも飲んで食べたりしたもんだよと、そのお代はどこから出るんだいと、畳みかけるのでした。熊五郎だって、芝浜で拾ってきた、50両という大金の入った財布を、お前に預けたじゃないかと、何を寝ぼけたこと言ってんだい。承知しねえぞと、威張りきる。
「何を寝ぼけたこと、言ってんじゃないよ。お前さん、頭は大丈夫かい?冗談言っちゃいけないよ。お前さんから預かったものなんかありゃしないよ」と、女房。
「この唐変木のコンコンチキめ。冗談じゃねえや」と言う熊五郎に畳みかけるように、女房は、「やだねー。何を言っているやら。夢じゃないのかねえ」。
熊五郎は、女房に、そう言われると、言い返すことが出来なく、すっかりしょぼくれ、ほとほと自分に愛想をつかして、「今日の始末だけは何とかしてくれ。すまねえ。すまねえ。この上は、生涯酒を断つ。とんでもねえことをしたもんだ。明日からは、酒を断って、一生懸命かせぐから、勘弁してくれ。すまなかった」と。
女房は、しおれる熊五郎に「いいんだよ。いいんだよ。わかってくれれば。そうしてくれるなら、わたしゃ、どんなに嬉しいか。お前さんが好きなお酒を生涯断つのは、私も辛い。そのかわり3年、我慢しておくれ。そうしたら、どうにかなると思うから。ありがとうね。お前さん」と、それからは、早寝早起きで、必死になって働きました。そうすると、安くて、生きが良くて、うまいとなれば、評判が上がり、益々商いの方も繁盛し、夫婦仲もよくと、あっと言う間に3年がたった大晦日。

この頃の大晦日は、掛け売りの集金やら、一年の締めですから、それに、翌日は元日と、餅が届き、門松は立って、晴れ着を用意して、その晩は、家族水入らずで、一杯やりながら年越しそばを食べ、一年の無事を感謝し、明くる年の無事を願うと、そこに除夜の鐘でも鳴ってみれば、言うことがないでしょう。熊さん一家もご多分に漏れず、熊さんが外回りをしている間に、畳替えをして、障子を張り替え、大晦日を迎えたのでした。
女房、「 お前さんが、よく働いてくれるものだから、借金取りも、今年は来ないし、家も小綺麗にすることが出来るし、これも皆お前さんのお陰だよ。あたしゃどんなに嬉しいか。感謝してるよ、お前さん。今夜、お前さんが一生懸命働いた他に、あたしも、貯めたお金があるのさ。数えてみようかい」と、熊五郎の前に、竹筒に入った、2分金をぶちまけると、熊五郎は「こいつは驚いた。お前が稼いだのかね」と。
女房は、「お前さん、忘れちまったのかい。3年前に、お前さんが芝浜で拾ったお金だよ!」
熊五郎、「ちきしょう。そうだったのかい。やっぱり。こいつぁ、夢じゃねえだろうね」

女房は、3年前のことを話しはじめた。お金を見たとき、嬉しかったこと。しかし、熊五郎を心配してみてると、ただ飲んで食って働かないで、お金を拾ったことが知れたら、お上からどんな仕打ちがあるかと考えたこと。酔った熊五郎を寝かせて、大家さんに相談したら、拾ったものを使ってしまうのは良くないと言われ、お上に届けて、この話は無かったことに、いっそ夢にしてしまったこと。そうしたら、この間のことだけれど、お前さんが留守の時、お上から呼び出しがあって、このお金は落とし主がないからと、下げ渡されたこと。しかし、すぐにお前さんにこのことを話したら、また元に戻ってしまうんではないかと、今日まで黙っていたんだと。

「すまなかったね。今夜という今夜は、あたしゃ嬉しかったよ。お前さんは、本当にまっとうな人間になったんだね。今まで、夢に騙していたこと、どうか堪忍しておくれ。このお金は、お上から頂いたもんだ、もう一晩で使おうが、誰に何言われるものではない、どうか、受け取っておくれ」と、涙ながらに話す女房。
「うーん。そうかえ。そうだったのかえ。お前が言うとおり、あん時、このお金があったら、俺のことだ、ぱっぱと使っちまっただろう。そうしたら、お上に知れて、俺はどうなったやら。ああ、ありがてえ。お前に、夢にされたお陰で、俺は稼ぐ気になった。世の中に、かかあほど有り難いものはねえなあ。かかあ大明神……」と、熊五郎。
女房は、今日が約束の3年目であり、改めて、酒をすすめた。
熊五郎「そうかい。あんまりいい心持ちなんで、それじゃ一杯やろうかえ」
女房「そうしてくれるかえ。一本つけようかね」
女房が、台所に立とうとすると、熊五郎。
「ちょっと、待ちねえ。酒はやめとこう」
女房「なんだい。お前さん、どうしてだね」
熊五郎「うーん。ここで酒を飲んだら、また夢になるといけねえ」

この年の始めに、現三木助の自殺の知らせが飛び込んできた。今の三木助の落語は聞いたことはないが、父、桂三木助の落語は、好きな落語家の一人だ。特に”芝浜”は、好きで、テープを何度も聞いた。

三木助の語りが、人情の機微を巧みに表現する様は、絶品といって良い。もちろん、三木助の語りの他ではあるが、何故この話に興味を引かれるかというと、この話の、夢というテーマである。ふとしたことから、なんとたくましい庶民の知恵ではないかと、そして、考えれば、この過去と未来と現在と、存在というテーマを扱っているではないかと、発見し驚いたのです。
この世は、夢と現実の織りなす葛藤に似ている。特に、過去の事実を、現在において夢とする設定は、未来を開くすべとなって、この芝浜は成り立っている。夢としなければ、現実が成り立たないと決断することは、斬新に見えて、古い。戦国武将の辞世の句は、過去の事実を夢と見て、絶対の今を現出させるのです。

この発想は仏教の生き方であり、前後裁断、前三三後三三と、時を止める禅語に共通するのです。
過去の事実を夢と見るということは、今の現実を生きる知恵であり、記憶やしがらみを両断して、今をよりよく生きさせる。

そう言えば、我々の祖先は、人が死ぬと、枕元に《夢》という字を飾ったものだ。今、我々が語る《夢》は、希望や願望であり、未だ手にすることが出来ないものであり、夢とは、かなわないこと、「夢のようなことを言わないの」と、現実離れしたものの代名詞でもあるのです。そのくせ、世間には《夢》が反乱し、人口の一人一人に多くの《夢》があるのだから、この国には、かなわないものがあふれていることになる。それも、潤いであることは確かなことであると思うが、もう一つ、事実を夢と見ることによって、現実をありのままに見ることも、時に必要なことだと思います。
芝浜の魅力は、自己の過去を断ち切り、今を、強く生きる知恵であることを、若き三木助師匠に捧げます。


江戸っ子

江戸っ子

 深川というところは、同じ江戸でも神田、日本橋、浜町、八丁堀とは違って、隅田川を越さなければならなかったせいか、ちょっと違う。何故かしら、大川(隅田川)を越えることに、コンプレックスというか、誇り・プライドみたいなものがあるのだ。ここで生まれたわけではない私にさえ、30年以上暮らすとあるのは、不思議だ。

だから、そのぶん、深川に対する思いこみは強いことは人一倍確かだ。深川に暮らす人だったら、この郷土に生きているという実感は強いと思うのは、私だけだろうか。とにかく、この川(大川)が江戸っ子を強烈に意識させるといったら、「ずいぶんと古くさいねえーえ」と、言われるかもしれないのを承知で書いていることでもある。つまりは、同じ江戸っ子でも、この川を挟んで、中央区側と深川では違うのだ。
池波正太郎も、無頼漢が巣くう地と書くし、辰巳芸者も足袋は履いていないやら、調べればたくさん出てくるに違いないが、手っ取り早く、富岡八幡宮の大祭に表れる。

この祭りの御輿の担ぎかたは、「ワッショイ、コラサ」と、徹底して御輿を運ぶ。この”運ぶこと”が、浅草、神田の「ソイヤ、セイヤ」の担ぎ方の違いになって表れる。浅草、神田は、天を突き担ぐ。だから一向に前に進まない。深川の御輿も天を突くことはあるが、『天を差す』と言い、永代橋、清洲橋の渡御にこの担ぎ方をするのだが、この時は、御輿を差しながら走る。
永代橋崩落の事件のせいか知らないが、橋の前後は、御輿をもみながら、差したと思ったら、一気に橋を駆け抜けてゆくから、いさぎよい。もっとも、いさぎよいと深川っ子は真にそう思うが、他から見ればそんなことはないかもしれない。これも、思い入れの馬鹿な表現なのだ。橋の床下は、大川が結構早く流れて、神輿を突き上げる手は天を指し仰ぎ、脚は川を指すといったら、考え過ぎじゃないのと笑われるかもしれない。永代橋が縦に揺れて、担ぎ手に伝わってくるのも、小気味がいいものだ。

戦後すぐの祭りの写真を見ていたら、けっこう裸の担ぎ手が見えたので、羨ましく思えた。それは、今は言わないが、「昔、深川の祭りは、裸祭り」と、言われていたからだ。
ご存じの通り、半纏も揃えられなかった貧しい深川っ子達への配慮なのだ。そのくせ御大尽たちは、縮緬の半纏を作ったという。貧しい漁師などの子供達は、みんな裸でこの祭りに、参加を許されたからだ。
川向こうの祭りの今は、半纏の粋を競うところがあるが、深川は町内半纏以外は許されない。その柄も、神田、浅草は柄を競うが、深川は町会の大紋がものを言う。

私が住む深川二丁目北町会も、『深二北』の大紋で、祭りに参加する。四〇〇世帯ちょっとの世帯で、この五日か三日の祭りに、一千万円の寄付を集めて、あっという間に使ってしまう。四〇〇人からの担ぎ手を集めて、たった一日の連合渡御のためである。
各町の五〇基の御輿の連合の熱気は、明け方から日が暮れても盛んだ。
江戸っ子というと、すぐ『宵越しの銭は持たない』という言葉が浮かんできますが、深川の祭りもそんな良き伝統を持っているのです。
さらに、町会に関わりをもって見渡せば、三代にわたっての深川っ子というのは、ごく少ないことに気がつきます。雑多な人間の移動、交差によって成り立っているのでしょう。

参考に、平川秀雄氏の『巷談永代』をお読み下さい。
さて、禅で語る言葉に、『坐って半畳、寝て一畳』があります。禅堂で暮らす禅僧の生活は、今でも坐って半畳、寝て一畳の生活をしています。ただ少しの贅沢は、後ろに障子一枚の灯りに、書き物が出来る程度の棚が付きます。そして前には、その畳の縁には太い敷居があります。禅堂の床の瓦敷からまたいで畳の上の座布団に着座いたしますが、その縁は、単縁(たんぶち)といい、黒々と磨かれています。けっして素足で触れることはいたしません。何故なら、寝るときに、剃った頭を直に触れて、枕になる縁でもあるからです。裸電球一つの暗い禅堂の単縁に、柏布団にくるまれて、雲水の頭が並ぶ姿は、妙に美しく、絵になるものでもあります。

その禅から多くの知識を得て、興味深い小説家に、ミヒャエル・エンデがいる。エンデと言えば、『もも』『はてしない物語』とか、次元を含んだ童話や小説・エッセイがあり、禅の問答を含んだ興味深い作品もある。

その彼の思想の発展したものに、地域貨幣がある。そしてその驚く発想は、貨幣がある一定の期間を過ぎれば、一割、二割と減価してゆくということに、とてもユニークな考え方で面白い。その貨幣をつかんだ人は、蓄積することを無意味として、使いきることを前提にした貨幣なのだ。流通を目的とした貨幣であり、エンデは国家というより、ある地域のみに限定する物々交換券に近い。そして、肝心なことは、その地域にのみ流通する豊かな文化がなければ成り立たないことだ。

私は、この貨幣のことを知ったとき、江戸っ子の『宵越しの銭は持たねえ』を、思い出した。身一つ、無一文に恐い物はない。それこそ戸締まりしなくても、鍵を掛けなくても心配はいらない。そういえば、修行道場の禅堂にも鍵は無く、心張り棒もないし、障子の向こうは外だし、障子戸に鍵はいらない。

金は天下の回り物を現実に回す江戸っ子の、この言葉の意味は、果てしなく当時の状況を示唆してくれていると言えないだろうか。この言葉の背景には、信頼が裏打ちされた世界があり、精神的にも豊かで潤いのある心情を持つ人々が多数を占めていたといえないだろうか。今日切りで生きるといったら褒めすぎであろうか。しかも貧しさの中でである。
富とは、人々を怠惰にして、人と人の絆を分断してゆくものなのだろう。
江戸っ子の魂に、触れた気がしてならない。


亀住町(平成13年7月1日)

亀住町(かめずみちょう)(平成13年7月1日)

 赤ちゃんのぐっすりと眠る寝顔をみると、不思議と安らぐものです。人の一生の時間を、赤ちゃんからお年寄りまでの直線として描いた時、一般的に、人は年を取れば取るほど、睡眠時間が短くなり、朝早く目を覚ますようです。そう言えば、早朝暗いうちに目が覚め、布団の中でラジオを聞いていると話していたのを覚えています。当たり前のことなのですが、子供にとって、未来は限りあるくらいにあり、その為、よく眠ることによって体力・知力等を蓄え備えます。
年を取るということは、未来が少なくなってゆくことになります。すると、時間を有意義に使おうと、自分の睡眠時間を減らして、少ない未来と一日の24時間を目一杯に使うかのようなのです。その点では、長寿とは、一日の時間を目一杯使おうとする人間の姿とも言えるのではないでしょうか。
しかし、病にぐっすりと眠るお年寄りの姿を見ていると、不思議に、子供の姿を思い浮かべることがあります。このことを考えてみると、子供帰りというのか、人の行為と時間とがぴったりと合わさって蕩々と過ぎてゆく大きな川を、今度は想像します。子供の頃、この川はまだ上流で早く流れていましたが、今は、やがて海に注ぐかのように流れて、人と時とが一体となっているかのようです。無数の星を散りばめた、天の川に似て。
亀住町30番地は昭和初期の陽岳寺の番地でした。その後、戦後ですけれど、いっとき、冬木町二丁目を名乗っていたそうです。その時の番地は冬木町二丁目一番地の一だったそうです。

陽岳寺が亀住町の頃、明治小学校より北側は、万年町(まんねんちょう)と聞きました。
『鶴は千年、亀は万年』と、亀の町会だったのだと、なかなか洒落て名前を付けたものだと、感心したものです。
明治期前から、この町会名前だったことから、この辺り一帯に、何か亀伝説でもありはしないかと探してみたけれど、歴史は途絶えて、何も伝わっていません。でも、何処かで、不思議な亀に出くわした子どもの話は聞かないか?亀の背中に乗って消えてしまった青年の話は聞かないか?いつの日か、知らない白髪の年寄りがふっと現れたという話は聞かないか?何処か交差点の角とか、軒下の茂みの中にじっとすまして遠くを見ている亀に出くわした人はいないだろうか?たかだか人間の二千年の歴史に、何万年の亀伝説を語るなんて、その二千年の中の、数十年の私なんて、亀にとっては、くしゃみした時間かもしれない。

鳥は空を高く飛び、眼下の大きな視界を自分のものといたします。コウノトリの仕事は子を授けながらも、真に授けたものは幸福であり、それは授かった人間の意識でもあります。
子供を授かったことは千年の栄えであり、幸せなのです。また1000年は10の3乗だから、鳥にとっては、3次元の自由とも考えられます。10,000年は10の4乗だから、4次元を自由にすると言っていた人がいました。面白い発想です。

亀こそは、時空を越えて、幸福を運ぶ存在です。ただし、時空を越える幸福は、単なる幸だけではありません。浦島太郎の伝説はそのことを示します。亀こそ、ほんの一瞬が数年、数十年、数百年……の時の重みを担った動物ではないだろうか。ミヒャエルエンデの『もも』も、時間を自由に行き来した亀がいたからこそ、この作品が成り立つ条件でした。

他にも、亀の言い伝えはたくさんあります。千歳の亀は人と話すといい、その歳で毛が生え、五千歳の亀は神亀といい、一万歳の亀は霊亀という。そして、千歳の亀の甲羅を火であぶり臼でついて服用すれば、千年の寿命を持つと言うが、あやめれば何やらたたりがありそうな。小さな頃の記憶では、世界は大きな亀の上に乗っていたような記憶があります。
しかし、実際は地を這いつくばって生きているではないですか。しかも地面から数ミリ数センチの視界による俯瞰です。以前草亀を飼って居たとき、器から長く首を出して、外を見ていたことを思い浮かべます。視界を広げようとしていたのだろうか?
さて、亀が地を這いつくばって生きているそのことは、人もたいして変わるものではありません。

一年間に一週間、蜻蛉が成虫の姿をして世を謳歌します。その時、蜻蛉の何十倍何百倍と生きている人間に出くわしたし、人間に語ることが出来る蜻蛉がいたとして、蜻蛉の生まれる前の父や母、祖母や祖父の先祖について、語ってくれとせがまれたとき、人間の口から出る言葉に、糾問する蜻蛉にとって満足する答えは得られるだろうか。また、蜻蛉の未来を尋ねられたとき、一週間の命を話したとしたら、蜻蛉は、その一週間をどう思うだろうか。一週間の単位を知ってはいるものの、80年の単位を知らない人間にとって、その期間を這いつくばって勝手次第に生きていることすら知らないで生きている人間にとって、蜻蛉の命をかえりみて、語る人間はいないと思う。命ではないのだと思う。

そのたかだか何十年の人間の命を、グリム童話は面白く語っています。
「神様が世界を創り、生き物たちの寿命を考えた。ロバには30年の命を上げた。しかし、ロバは背中に重い荷物をのせての30年は辛すぎる、そこで神様は、18年引いて、12年としたそうです。犬にも、年老いて餌を食べるにも、歯がなくなって、ただヨダレを垂らして唸っているのはかわいそうと、12年引いて、18年としました。猿も道化となって30年は長すぎると、10年削って、20年としたのです。人間だけが、長生きがしたいというので、30年にロバの辛抱の18年、年老いて横たわる犬の12年、そして、最後は猿の10年を足し70歳としました」と、しかし、85歳を過ぎる寿命は、更に、15年を生き物から差し引くとすると、この生き物は何ものか。私の子供は、すぐに猫と答えた。子供の感性は直感的だ。

人が、天寿を全うすることは、誰でもが全うすることなのですが、長寿こそ、この上ない人にとって、この物語は、人が自分の寿命と思うところの寿命は、実は、ロバ、犬、猿、猫から足された時間なのだと教えます。それは、大切な命であることの喩えです。さらに、人は植物・動物の命を得て生きます。
母親父親が、自分の子の危険に、とっさに反応するように、かって、使命感に、責任感にどれだけの人たちが自らの命をなくしたかを考えてみると、今の時代、他人の命を物質であると思うところに、命がかえって軽んぜられていると、このグリム童話から教わっていいのではないかと思います。
先日、6月10日のことだが、101歳の長寿で亡くなられたお年寄りの女性の葬儀をしました。85歳にまだ15年も足すことになります。こんな年齢の方は、正直全く初めてのことであり、ご長男が80歳では、普通の一般的な家庭の葬儀とは、事情が違うことに気が付くと、ひょっとして、このことが、時空を越えた違いなのではないかと思ったのです。蜻蛉のごとき私と考えたとき、人にとっての時空を越えるということは、ほんの数十年、数年のことなのだと、全く身近にあって計り知れないこと、それこそが時空を越えて、異次元の世界なのではないかと、不思議に思いました。
そう言えば、この方のご主人の名前は亀吉だったことを思い出して、可笑しく思いました。その葬儀の中で私が思ったことです。

《耳が不自由になり、視力がなくなり、自分自身の姿形が見えなくなったときの手探りの状態とは、恐らく、自分自身の手や足、口、目までもがおぼつかない世界だと思います。百歳近くになって、年齢を数える意味はあるのだろうかと考えます。多分、百年という期間の止めどない時間も、刻一刻の時間であり、人と違う差はないものの、圧倒的に違うのか。今、感動しています。耳を澄ますこともなく、白濁した視界か或いは闇の世界で、流れる時間は、きっと、さまざまな風が体を吹き抜けていくかに似て、その風こそ、貴女を運ぶもののように、貴女は身を任せて、そして、風に吹かれた貴女は、「少し眠る時間ですよ」「お食事の時間ですよ」と揺り動かされて気づく、今の時間でした。そんなゆったりとした時間を過ごしていたのでしょう。ここ数年続いたと言います。それが本当の年老いて枯れるという幸福の姿のことなのでしょうが、多くの人は、そこまでいたりません。まったく想像のできない世界です。》 

長寿とは、時空を越えると言ったものの、亀の動きがゆっくりと見えるように、ゆっくりとした時間の流れの中の今を表現するものだと思ったのです。 赤ちゃんのぐっすりと眠る寝顔をみると、不思議と安らぐものです。考えてみると、赤ちゃんからお年寄りまでの直線を描いたとして、一般的に、人は年を取れば取るほど、睡眠時間が短くなり、朝早く目を覚ますようです。
そう言えば、早朝暗いうちに目が覚め、布団の中でラジオを聞いていると話していたのを覚えています。当たり前のことなのですが、子供にとって、未来は限りあるくらいにあり、その為、よく眠ることによって体力・知力等を蓄え備えます。すると、年を取るということは、未来が少なくなってゆくことになります。すると、時間を有意義に使おうと、自分の睡眠時間を減らして、少ない未来と一日の24時間を目一杯に使うかのようなのです。

その点では、長寿とは、一日の時間を目一杯使おうとする人間の姿とも言えるのではないでしょうか。しかし、病にぐっすりと眠るお年寄りの姿を見ていると、不思議に、子供の姿を思い浮かべることがあります。すると、未来がたくさんあるように思えるのですが、しかし、よく考えてみると、子供帰りというのか、人の行為と時間とがぴったりと合わさって蕩々と過ぎてゆく大きな川を想像します。子供の頃、この川はまだ上流で早く流れていましたが、今は、やがて海に注ぐかのように流れて、人と時とが一体となっているかのようです。



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