父殺し・母殺し・友だち殺し・子殺し(平成20年1月1日)
父殺し・母殺し・友だち殺し・子殺し(平成20年1月1日)
昨年一年間の事件をみて、子殺し、親殺し、友だち殺し、自分殺しのいかにたくさんあったことか。もっとも人が生きるということ事態に、海を殺し、山や川を殺し、国を滅ぼし、地域や家族を殺していることが極端に言えば含まれているのかも知れません。人はそれに気づいているにも拘わらず、時間に流されて、振り返ったとき何もできないということに気づきます。そんな日常に生きているからこそ、願い・希望・祈りが誕生するのでしょうか。人が追い求めた理想の世界とは、殺し終わったあとに出現する絶え間ない世界だったとしたらゾッと致します。その絶え間ない世界は、苦となって果てしなく続くことです。これを業(ごう)と呼びます。
人間として生まれた限りは、社会に対して責任が発生いたします。その責任の放棄の果てが業となると考えてみました。もっとも普通の人の日常は、そんなこと考えもしないことです。しかし、ほとんどの事件が、その日常普通の人が起こすように思えます。
そんな責任有る存在としての自己に、真っ向う立ち向かった臨済宗の祖師に、臨済義玄(りんざいぎげん)がいます。彼は、五無間(ごむげん)の業を作ってこそ、悟ることができると物騒なことを書きました。
『大徳、五無間(ごむげん)の業を作って、方(はじ)めて解脱(げだつ)を得(う)。問う、如何なるか是れ五無間の業。
師云く、父を殺し母を害し、仏身血(けつ)を出だし、和合僧(わごうそう)を破し、経像を焚焼(ふんしょう)する等、これは是れ、五無間の業なり。
云く、如何なるか是れ父。師云く、無明(むみょう)是れ父。汝が一念心、起滅(きめつ)の処(ところ)を求むるに得ず。響(ひび)きの空に応ずるが如く、随処(ずいしょ)に無事なるを、名づけて父を殺すと為す。
云く、如何なるか是れ母。師云く、貪愛(とんあい)を母と為す。汝が一念心、欲界の中に入って、其の貪愛を求むるに、唯だ諸法の空相なるを見て、処々無著(むじゃく)なるを、名づけて母を害すと為す。
云く、如何なるか是れ仏身血を出だす。師云く、汝清浄法界の中に向(おいて、一念心の解(げ)を生ずること無く、便ち処々暗黒なる。是れ仏身血を出だす。
云く、如何なるか是れ和合僧を破す。師云く、汝が一念心、正に煩悩結使(ぼんのうけっし)の、空の所依(しょえ)無きが如くなるに達する、是れ和合僧を破す。
云く、如何なるか是れ経像を焚焼す。師云く、因縁空、心空、法空を見て、一念決定(けつじょう)断じて、逈然(けいねん)として無事なる、便ち是れ経像を焚焼す。
大徳、若し是(かく)の如く達得(たっとく)せば、他(か)の凡聖の名に礙(さ)えらるることを免(まぬが)れん。』
この五無間のいわれは、仏説広博厳浄不退転輪経から創作し意味づけしたものですが、お経には、「五無間の満足成就は、害母・害父・壊僧・殺羅漢・出仏身血」と、記されています。
先ずは、人にとってもっとも身近な存在である父や母を、こういう形で表現するということに、古人の姿や思いが見えないでしょうか。きっと身近なゆえに、父や母を殺すという表現が、大罪を犯すことに敢えて踏み込んで表現したのではないでしょうか。禅宗の殺しとは、このようでなければならないと臨済は説くのです。殺すなら自己の妄執に限る、殺した跡の自由さに気づけと……。またそこから父とは母とはの思いも伝わります。
君たちのそのつどの思いは、どこから起こってどこに消えて行くということを考えてみたことがあるだろうか。まるで、連なる人の思いは、空に響くこだまのようなものだと思わないか。その限りなくこだまする連鎖する思いの起こりよう、無くなりよう、連なるさまを理解したなら、たとえ、そのつどの一念心が起こったとしても、無事平穏な状態にいられる自分になることを思わないか。父とは無事平穏な状態だ、それを父殺しというのだ。
父の居場所とは、子供心に見たあこがれに近いものかも知れません。父がいて家族が守られているからでもあります。守られていれば、そこに父は居ない、私も居ないのかも知れません。
次の母殺しとは、そのつどの思いが繋がって感覚的欲望の中に向かってゆくとき、欲望そのものの実体は、変化するものの仮の姿であると理解したなら、そのつどの思いを意識することが、母殺しといいいます。
つまり、そのつどの思いに引きずられるなと言うことで、「美しい、可愛い、悲しい、寂しい、楽しい、欲しい」と、その出所を追い求めるなと、そのつどの思いの連鎖を断てと言うことでもあるのでしょう。
子どもが母に抱かれるように、子どもを尽きない自己の思いと譬えてみると、その一つ一つの思いを母の胸にすくい取るとも考えられます。どんな人にとっても、母とはすべてを受け入れて包み、あやしてくれる存在なのだなと見えてきます。母殺しとは時間の分断とも考えることが出来ますが、この時間の分断は、途切れさすのではなく、安らかな時間に導くと考えられます。
次の仏身から血を出すです。仏身とは、人間の本来性ですが、その本来性に血を出さすなと読み替えると、仏という何ものにもとらわれないない自身の本来性という思いをも描くなとなります。描くと、清浄法界という本来性が血を出すからです。これは父と母を殺したあと、人が求める習性は、次には、聖なるものとなりがちですが、臨済は、その聖なるものまで拒否いたします。ここら辺が、仏教の中道を行くという発想として、良く現れているところです。
それではどうしたら良いかというと、雪峰義存(せっぽうぎそん)という禅師に参じ、厳格な持律で頭陀行を重んじた玄沙師備(げんしゃしび)禅師が答えます。
ある日のこと、修行僧が、「何になったら生死に拘(とら)われなくなるか」と問いました。師備は、「漆桶(真っ黒けの漆桶)になりきれ」と答えました。これを仏身から血を出させるといいます。
先の長い名前の経には、『方便を滅せずして如来の想を滅するのが出仏身血』と書かれています。如来の想とは、人が人格を磨こうとか、人間の品格とか、聖人君子に近づこうとか考えることは、却って垢にまみれることだと、人の一念の浮かぶ思いを、或いは価値とか意味するものを否定するのではなく、そのままに囚われることなく、そのままに過ごせとの意味です。
禅宗の厳しさは、その意味あるものだ、価値あるものだと、その意味ある価値あるものを否定するのではなく、いかに意味があろうと、価値があろうと、その意味の中に価値の中に没入していくと、囚われになり自由を失うと主張するところです。漆桶とは混沌のまま、その行為に成りきることで、日々問われているものに行為として成りきる、それが、答えの同時存在と解釈します。
最後に和合僧を壊すとは、そのつどの思いが、どこにいても、煩悩や執着は虚空のように足場がないことに気づくことです。和という字は、なごむ・やわらぐ意味もありますが、この場合の和は、隠すのではないかと思います。様々な性格、それこそ貪瞋痴を隠す、抑えることとしら、合うという字が、口に蓋(ふた)をする原義を考えたらピッタリのような気がいたします。
すると、お互いが干渉せずに水の流れるが如く、とどまることのない関係という意味になるでしょうか。僧はもともと複数を差します。考えてみれば、臨済は、煩悩や執着、貪瞋痴等々を僧と見立てたのでしょうか。こうした見識はとても柔軟性が豊かな証拠です。私など、臨済という人物の偉大さ、峻厳さを描きます。それは、あの臨済の一喝のせいなのですが、思いもよらない人間性発見でもあります。
最後に、経像を焼いてしまうとは、因縁も本来空であり、心も法も、もともと空なのだと、人の本来性そのままに固く決するならば、事ある世界に、事無しでいることができるといえます。逈然の逈(けい)の字は、はるか・遠い・かなた・抜け出る意味がありますが、やはり超然としてという訳が好きです。これが経像を焼き捨てるということです。
こうして五無間の業を殺すことに徹することができたなら、凡とは聖という名前に引っかかることはないであろうと、臨済は言います。
釈尊の『諸行無常、諸法無我』に対して、我々は、だからこそ、超然(ちょうぜん)とすることを学ぶことが大事なのだと思います。
ついでに臨済が話したあと、常にいう言葉は、「我が語に、とらわれるな!」です。
その後
今では、私たちの仕事の多くの部分は、極端に言って、亡くなった方の法事と葬儀の執行という部分のみを担うことを要求されている。
それすらも要求されないことがある。
しかし、それは、この国の人々にとって、とても悲惨で愚かなことである。
悲しいけれど、人の死をきっかけとして、その後、その前と、私たちはもっと大切に考えることが必要です。
死者と私たちの、旅立ちが始まるから。
それすらも要求されないことがある。
しかし、それは、この国の人々にとって、とても悲惨で愚かなことである。
悲しいけれど、人の死をきっかけとして、その後、その前と、私たちはもっと大切に考えることが必要です。
死者と私たちの、旅立ちが始まるから。
ほとけさま(平成17年5月1日)
ほとけさま(平成17年5月1日)
金子みすゞ童謡集『このみちをゆこうよ』に、《さびしいとき》という、詩があります。わたしがさびしいときに、よその人は知らないの。
わたしがさびしいときに、お友だちはわらうの。
わたしがさびしいときに、お母さんはやさしいの。
わたしがさびしいときに、ほとけさまはさびしいの。
わたしがさびしいときにと、今のわたしというテーマに、金子みすずは、素朴にうたいます。きっと、わたしがたのしいときには、お母さんはうれしいことでしょうし、ほとけさまはたのしいことでしょう。みすゞにとって、仏さまは、私を映す鏡のような存在であるけれども、鏡と異にすることは、仏さまは、私と同じに寂しくとも、寂しいままに、私を包んでくれる存在に響きます。
わたしがさびしいときに、よその人は、お友だちは、お母さんは、ほとけさまはと、それぞれの繋がりの中の世界を、みすゞは、謡うと同時に、わたしがさびしいときの全体の世界をも謡っています。 わたしがさびしいときに、世界もまたさびしいのと。
平成17年4月23日、土曜日、とある49歳で亡くなった男性の七回忌法要で、姉妹が焼香をする姿を見て、新鮮にして、不思議な思いで、見つめている自分がありました。この便りを出させたのも、この光景のせいです。彼が亡くなって発見されたのは、それは6年前でしたが、近くの人の注意でした。昼も夜も灯りがついていることに不審に思ったからでした。
人にとって、やっと、なつかしく過去を振り返って見ることができる年齢は、50前後の年齢ではないでしょうか。これは、わたし自身の経験からで、他の人にも強制するものではありませんが、もしかして、こうして便りを出すうちに、私も振り返ることで、何かを綴るようになってしまった身を振り返ってのことかも知れません。
人にとっての過去って、いったい何処にあり、何の意味があり、今の私をどう支えてくれているのだろうかと、考えたことがありました。
年を重ねて来た、自分の過去の一つ一つの年輪は、何処に刻まれているのだろう。人の心の奥にそれはあるのだろうかと。
彼が突然亡くなってしまうなんて、とても思いもよらないことでした。しかし、彼の将来を、彼の現状を照らして考えたとき、私の想像は、とても心配していた内容でしたし、おそらく4人の姉妹達も同じ想いで過ごしていたことと思うのです。
この当時、私は、閉じこもりで、人とまともに話がすることができない彼を、もっと周囲の人たちが注意して観察していてくれたらと、このこと故に、成熟していない社会を情けないと思ったことでした。彼は、そんな社会の犠牲者かもしれないと思ったものでした。
彼が亡くなる1年前に、88歳のお母さんが亡くなりました。お父さんは、お母さんが亡くなった年の15年前になくなりました。
建具職人として一徹だった父は、息子に、自分の仕事を継いでもらいたかった思いがあったものの、息子の不器用さと性格と気質に、諦めた模様でした。その分、厳しかった父だったのでしょう。父が亡くなり、遺骨と一緒にカンナやゲンノウが共に葬られました。そして、多くのノミやカンナが、和尚さんにと、私の手元に贈られてきたのでした。仕事場の二階には、建具職人が自ら造った仏壇に、その後お参りしたのでしたが、老いた妻は、その度にこの仏壇のことを話しもし、前に座った私も思いだしていました。
この家とのかかわりはこの年からでした。昭和59年の5月からでのことです。
それから、痩せてはいるもののしっかり者で賢い老いた母との二人暮らしが続くわけですが、母にとっては、この息子さんが気がかりで、ようやく仕事を見つけても、長く我慢ができなく、辞めてしまうのです。母と二人の家で、彼もいたたまれず、やがて、夜になると家を出て、ふらついていたようです。これは、昼にでると近所の人に見られるからと、人目を気にする行為に、悪さをするでもなく、酒を飲むでもなく、じぶん自身を人混みの中に埋没させることが、彼なりのじぶん自身の保ち方だったような気がしたものでした。
家にいれば、じっと閉じこもり、姉妹達も交替で、母と弟の元へと通う姿が続きました。やがて、母が区の新しくできた施設に入所し、平成14年に母が亡くなるわけですが、年月は、彼から両親を、彼の手の届かない処へと、遠ざけるかの仕置きをしたみたいでした。
一年を超えての、本当の一人暮らしだったはずです。一人になってしまったのだと言う実感は、今までにない試練だったはずです。その一年という年月。
彼は、幼かった頃の姉や妹と遊んだ楽しかった、もう二度と帰れない思い出にひたっただろうか。姉や妹に心配をかけて、叱られてしょげ返ったことや、母そして父親や周囲の自分に対する過大な期待に、答えることのできない自分のふがいなさを、情けなく思っただろうか。嫌なものは嫌と通してきた貴方にとって、ではどうしても好きなものが有ったのだろうか。
母亡き後の一人暮し。自分はどうなるのだろうかと、考えたことがあっただろうか。何を目的として、生きていこうかと考えただろうか。このままの生活が、いつまで続くだろうかと考えただろうか。
現状の彼は、食べることの生活に追われて、ただ時間だけが過ぎていくのみであったはずです。外に出ることは、人に注目されることであり、それは最低限の外出のみで、望むことでなかったはずです。一度休んでしまった仕事は、再び顔を出すことに、彼はじぶん自身がいとおしく、これ以上傷つくのが嫌で、壁を乗り越えることができなかったのでしょう。彼なりにですが、よく考えてみると、彼は、一つ一つの彼の困難な問題に、じぶん自身で結論を出してもいたことです。
お寺に自転車で来て、カギをかけずに駐輪し、「自転車を盗まれた」といったときのあの顔。
公園に清掃に行かなければならないのに、休んでしまって、閉じこもり、福祉事務所に行くように姉たちに頼まれ、お寺で話したときの顔。みんなに連れられて寺に来た、はずかしそうな彼のことを思い出します。
一年間、ひもじくカップラーメンをすすって、どうして過ごしていたのか、いつも母や父の姿が、心の中にあっただろうか?と思いだすと心があつくなります。人にとっての拠り所って、案外そんなものかもしれませんが、もしそうでなかったら、彼は、逆に真の強い人ということになります。
金子みすゞ童謡集“あかりほうへ”のなかに、『はすとにわとり』の詩があります。
どろのなかから はすがさく。
それをするのは はすじゃない。
たまごのなかから とりがでる。
それをするのは とりじゃない。
それにわたしは きがついた。
それもわたしの せいじゃない。
蓮が咲くのでもないし、まして泥が咲かすのではない。鳥がでてくるのでもないし、まして卵が出すのでもない。それに、私は気がついたのですが、気がつかせたのは私ではない。
命の営みの中のわたし達の一つ一つの行為、結局、その営み事態がなせることなら、営みとは、命であり、世界であり、仏さまでありと、みすゞは言っているようです。
平成17年4月23日、七回忌法要にて、姉妹達が彼に焼香し合掌する姿を見て、「彼を拝ませたのは誰だろう?」と考えると、私の心が熱くなります。
仏が仏に合掌する
仏が仏に合掌する
この文章は、『ほとけさま』からの続きです。金子みすゞ童謡集『このみちをゆこうよ』に、《さびしいとき》という、詩があります。
わたしがさびしいときに、よその人は知らないの。
わたしがさびしいときに、お友だちはわらうの。
わたしがさびしいときに、お母さんはやさしいの。
わたしがさびしいときに、ほとけさまはさびしいの。
金子みすゞの詩を呼んでいて、上手いと感じるのは、「わたしがさびしいときに、ほとけさまはさびしいの」のと、世界いっぱいに自己が広がる感性です。禅宗では、これを見性というのでしょうか、前文の、対立して変化して行く自己の形があるからこそ、その殻を破ってはじき出した自己が、天地一杯に広がり、わたしと、ほとけさまが一つとなる、総てが、自己そのものであり、ほとけさまそのものの世界が現出するといってよいでしょう。禅でいう、平等の世界です。
わたしがさびしいときに、ほとけさまはさびしいの。
わたしがさびしいときに、よその人は知らないの。
わたしがさびしいときに、お友だちはわらうの。
わたしがさびしいときに、お母さんはやさしいの。
この金子みすゞの詩を、順序を逆にしてみて、世界一杯に広がった自己から、対立の世界にと戻ってくると、「よその人は知らないの。お友だちはわらうの。お母さんはやさしいの。」は、善し悪し、好き嫌いをこえて、「知らないお友だち、わらうお友だち、やさしいお母さん」それぞれが際だって、みすゞの心に浮かぶことだと思います。禅でいう絶対差別の世界です。よく「やなぎは緑、花はくれない」という消息です。
みすゞにとっては、ここまでくると、対立していているかに見える平等と差別は、一つのものとなってくるようです。これを、『金子みすゞの心』といえるのではないかと思うのです。
4月23日、土曜日、とある49歳で亡くなった男性の七回忌法要で、姉妹が焼香をする姿を見て、新鮮にして、不思議な思いで、見つめている私がありました。
世界が変わったように、新鮮にして、美しい、この光景は、『仏が、仏に合掌する姿』にたとえられ見えたのです。彼が喜んでいるといったら、幽界に踏み入ることになります。対立が終わり、シーンとして合掌する姿に、彼もいない、姉妹もいない、そんな波穏やかな法要と形容したら言い過ぎでしょうか。6年の年月が、姉妹にも辛い時間であったことは確かなことです。しかし、6年の年月が、このようにしたとしたら、しなければならないとしたら、いえいえ、こうなって欲しいと願う私の心情なのかもしれませんが、『仏が、仏に合掌する姿』として見えたことは確かなことです。
総ての法要が、このように見えるものなら、私にとっては、法要の意義は、はかりしれないものです。
彼を想い、その彼の母を想い、父を想いと、そして、そのつれづれの記憶のなかにいる自分を思うと、対立する自己があるものです。だからこそ、そこには、やるせなさや平穏、つらさや安らぎ、ふがいなさの苦渋があり、それは、今の自分の気持ちに、涙や笑いを誘います。時のいたずらといったら、俯瞰(ふかん)した見方になるのでしょうが、過去の自分と今の自分の対立です。人はこの世界の中に生きていますが、もう一つ別の世界があるからこそ、此岸と彼岸のように、この世界が輝きます。
『ほとけさま』の便りを出させたのも、長く親しくこの際だった光景のせいです。
そこで、これは、一体誰が、こうさせていることのなだろうかと考えてみました。じぶん自身の計らいであるはずがなく、まして、自分以外の他者からの計らいのはずもなく、金子みすゞ童謡集“あかりほうへ”のなかに、『はすとにわとり』の詩で表した内容に感心したこともありました。
どろのなかから はすがさく。
それをするのは はすじゃない。
たまごのなかから とりがでる。
それをするのは とりじゃない。
それにわたしは きがついた。
それもわたしの せいじゃない。
金子みすゞの素敵な感性は、『どろのなかから はすがさく。』という、力強く活き活きとした差別の世界を見据えながらも、『それもわたしの せいじゃない。』と、絶対平等の世界に同時に生きることが出来る人だということでしょう。根源の世界に生きるからこそ、はからいを捨てて、あるがままの世界が見えるのだと。これらのことは、金子みすゞの、気づきです。気づくからこそ、見えて、『金子みすゞの心』を、わたし達は見ることができるのです。
気づくことが、どんなに世界をかえるか、これは、同時に囚われると対立の世界は出口をなくすことを意味します。『はすがさく、はすじゃない。とりがでる、とりじゃない。きがついた、せいじゃない』と、不連続にして連続ものの見方。これは、今の自分を精一杯に生きることにつながります。
姉妹が合掌する姿に、これは、命の営みの中のわたし達の一つ一つの行為であるけれども、拝ませたのは、彼でもなく、姉妹でもないと、気づけば、この一連の行為の中に世界や命が表現され、営みとは、『仏が仏に合掌する』ことになるのでしょう。
至道無難禅師の言葉に、「じひするうちは、じひに心あり。じひじゅくするとき、じひを知らず。じひしてじひしらぬとき、ほとけというなり。」があります。
合掌して、合掌しようとするとき、合掌に心があっては、真の合掌とはいえず、本当の合掌を知らないことなのでしょう。合掌して合掌を知らずときとは、ただひたすらに合掌する姿勢に、合掌があり、仏ということなのだと、禅師はいいます。世界一杯に合掌が満ちるとは、今までの自己がなくなり、彼と一つになって、母と一つになって、父と一つになって、その彼も、母も、父もなくなって、合掌していることもなくなることです。
雪峰禅師の『尽大地これ汝が自己』とは、このことを言い、無功用(むくよう)とは、この合掌する行為のことです。さらに、百尺竿頭に一歩を進めよという禅語がありますが、この6年間という百尺竿頭があったればこそ、百尺そのものが、天地一杯に、合掌という形で表現されたことになることを思います。
戒名(平成12年3月14日)
戒名(平成12年3月14日)
どの新聞にも、葬儀とお墓と戒名の話題が、必ず定期的に掲載され、その記事を見るたびに、私はドキッとさせられます。どの言葉も、私と密接に繋がって、お寺の存在価値を問う内容だからです。お彼岸が近づいたこともあるのでしょうが、今日より、読売新聞の朝刊「葬送のかたち(1)」で、またもや取り上げられています。
このホームページは、陽岳寺和尚として、そんな世の中に、私はどう変化して接して、どう私の主張を貫き、その足跡である私の記録を、私の次の世代に、良いこともだめなことも残しておきたいと思って書き記すものです。
平成12年2月の末日、寺の電話がなった。受話器の奥から、搾り出す声で、名前を告げた婦人は、2月の半ばに、主人が亡くなって葬儀が終わり、これから四十九日とか法要のお寺さんを捜しているのだという。この寺の電話は、近くの書店で、臨済宗と告げて探してもらったというのです。
こんな電話が、年に何回か掛かってくる。その度に、葬儀屋さんと専属の僧侶の対応に、憤りを感じます。何も知らない遺族につけこんで、法外に請求し、式が終ってしまえばそれまでの考え方は、遺族のその後の心情や生活を考えると、ただ利益だけを追求する、まったく無責任な非道な振る舞いです。
現実の私達僧侶は、葬儀という式を通して、遺族に徹底的に尽くすことによって、私達の真価が評価されます。そしてその尽くす内容は、押し付けではなく、自分自身の到達した仏教をいかに説くかということです。そのためには、日頃、”如是我聞”の意味を、研鑚することが第一義です。
しかしながら、説くといっても、悲しみの真っ只中にいる人に向かって、振りかざして説く事も出来はせず、語らせることだけでも、充分仏教を説いたことにもなるのです。もちろん死者の生前からの交際があればなおさらですが、現状は、生前に僧侶と知り合うことの意義を見つけようとする人は、とても少ないのです。多くの人が縁起でもないと思っていることでしょう。
僧侶が側にいるという事の意味は、とても大きなことだと思います。そんな親密な関係の中においては、お布施はいくらです、戒名はいくらですと、どだい段階を設けて、請求する事自体可笑しなことなのです。近くの人と話していて、不幸があり、内のお寺さんから、いくら取られたと、頻繁に言われます。その度に、私は答えることが出来ません。
千葉県市川市行徳の方の葬儀に、なんで三多摩の福生市の僧侶が来て、「葬儀の祭祀は、私が執り行いますが、納骨や四十九日忌以降の法要は、どなたかお近くのお寺さんに頼まれるとよいでしょう。」と平然と言ったという。葬儀屋さんは、またも互助会で、葬儀に入る前に、「臨済宗のお寺は、千葉県、都内は非常に少なく」と、嘘を平気につくのです。そして、その互助会の専属の僧侶が言う、「近くの寺に頼めばよいでしょう。」を聞いて、これではお寺が、社会に認知されるどころか、それこそ自ら壊している姿と言えないでしょうか。仏教の教義など何処にも無く、ただ形ばかりの法要は、真に何のための葬儀かが問われていないことが原因でありましょう。人の死に携わるものとして、自ら自浄作用の機能しない産業化した葬式産業に警鐘を鳴らします。
その電話で、人が亡くなるということ、生きるということ、戒名の意義等ひとしきり話をして、戒名だけは付けて貰わなかったことから、「名前を付けるのなら、一緒に考えましょうと、それでよかったら相談いたしましょうと、家族とよく話して、また電話してください。戒名料はありません、差し上げた戒名に、価値を付けるのは貴方です。私はただ受け取るだけですから。」と、受話器を下ろしました。
一週間も経つと、きっと何処かに頼んだのだろうと忘れていた。
3月第一週を過ぎたある日、一度お話を聞きたいと、娘と一緒に訪ねたいと、今度は住所を名乗って、電話が鳴り、その翌日、婦人と娘さんがお寺にやって来ました。
ご主人の遺影と新聞の切抜き、それにご主人の来歴を綺麗に清書された文面を持参しての訪問に、お寺を思い切りよく訪ねてくれた事、ご主人の闘病生活のこと、亡くされての落胆した気持ちのこと等沢山お話して、戒名を創ったら封書でお送りしますといって、帰られていきました。
○△様
冠省、戒名お贈りいたします。
梅寿院徳寶無端居士(バイジュイントクホウムタンコジ)です。
出典は、正法眼蔵≪梅花≫の「老梅樹、太(ハナハ)だ無端なり。」の言葉を体としました。
≪いま開演ある「老梅樹」、それ「太無端」なり、「忽開花」す、自結菓する。あるいは春をなし、あるいは冬をなす。あるいは「狂風」をなし、あるいは「暴雨」をなす。あるいは衲僧の頂門なり、あるいは古仏の眼晴なり。あるいは草木となれり、あるいは清香となれり。……老梅樹の忽ち開花のとき、花開世界起なり。花開世界起の時節、すなはち春到なり。この時節に開五葉の一花あり。…≫
詳しくは、手に入ればですが、原文を参照してください。道元禅師は禅宗でも、曹洞宗ですが、顕している内容は、臨済宗の私の思うことと同じです。
さて、どんな名前がふさわしいのか、私は考えました。30年間の都立O高校の古文の教諭生活、T高校校長、私立K大学付属K高校校長と歴任されたご主人に、下町のちっぽけな寺の住職が戒名を授けることに、果たして命名する資格があるのか私にはわかりませんが、古文より引用致すことにしました。本来戒名は、信頼敬服する和尚から、授けるられるものですが、私を知らない○△様に、電話と一回の面識で、戒名を授けるのは無理がありますと、私は思います。授かる前に、ご一緒に考えて見ましょう。
頂きました新聞の切抜き、
「動と静、文と武が調和した自主創造の良い伝統は、創立以来、師弟の太いきずなによって支えられてきた。『教育には心のふれあいが大切』と常々語っていた徳寶先生は、”トッポウさん”の愛称で親しまれた。自主・自立・創造の意気にあふれたO高校魂を忘れないで欲しいですね』と卒業生にエールを送る。」を、拝見いたしました。この切抜きを大切に保存する事自体、故人へのお気持ちと誇りをお察し致します。
ご主人が亡くなられたその日、私は、船橋に居ました。ここのところの寒さが嘘のように、暖かく、公園の梅の木に、梅花が咲き始めている姿に接していました。その時、思い出していたのが、正法眼蔵≪梅花≫の「老梅樹、太(ハナハ)だ無端なり。」の言葉でした。亡くなられた日時をお伺いしたとき、真っ先に、この言葉を思い出したのです。そして、亡くなられたご自身を、老梅樹に喩えようと思ったのです。心のふれあいは太いきずなであり、そのこと自体が、互いにそれぞれの人格の確認という意味があるからです。師弟の絆は、お互いの人格を認め合うことが、より太い絆となると思うのです。人は、絆を強く意識するということは、気がつかないことですが、逆に、個性を強く意識していることなのです。真の自主、自立、創造の意気は、この意味より、理解できること思います。
また、人として太(ハナハ)だ無端なりは、端が無いということです。どうどうと真中だということを、どんな立場・状況であろうと、端で無いんだという確信です。
老梅樹の一枝に花開くとき、即ち同時に自主、自立、創造の意気が開くということです。そしてそのことが逆に、老梅樹の自主、自立、創造の意気なのです。道元は老梅樹の一枝に可憐な花をさかす時、そこに春があるのだといいます。人に喩えれば、自主、自立、創造の意気は、春と変わりありません。徳とは自結菓なのでしょう。真の寶とは、そこに生きていることを言うのではないかと思います。その故、樹は寿に、言い換えることが出来ると思います。
朝夕、位牌と対面したとき、「今の私は、無端なり。」と、対話することができます。
この戒名を授かれますように、陽岳寺 和尚
平成12年3月10日
揺れ動く婦人は、再三娘と相談し、私に電話をくれました。
婦人は、無端という言葉の響きが、寂しいといいます。
私は、「戒名を授かる前ですから、何度でも言ってください。四十九日までに決めればよいのですから。」と、「無端という言葉が寂しいと思うなら、それに代えて、咸新(かんしん:みな新たなり)と維新(いしん:これ新たなり)の中から、選んでみてはいかがでしょうか。」と、咸新の意味と維新の意味を申し添えました。婦人こそ、「老梅樹、太(ハナハ)だ無端なり。」の、地を行く姿に映りました。
自主、自立、創造の意気が開くということ、老梅樹の一枝に可憐な花をさかす時、そこに春があり、去年の花と今年の花は、花としては同じだが、年々歳々、一枝に宿す可憐な花こそ、人の今の表現であり、新たなる自分の顕現なのでしょう。無端は、咸新でもあり、これ新たなりです。
揺れる婦人を、娘が気遣うことこそ、やがて娘に支えられ、手を引かれて歩く姿は、今の自分の新たな姿です。
揺れながら、迷いながら、自分を見つめて、もう変えませんと、3月14日、受話器の向こうで決した言葉は、梅寿院徳寶咸新居士(バイジュイントクホウカンシンコジ)でした。
朝夕に、位牌に対面し、「今日も、みな新たなり。」と、亡きご主人に感謝を捧げ、今在ることを喜びとすることを、願って止みません。