目次
輝いている時
夢中(ゆめのなか)
芝浜
江戸っ子
亀住町(平成13年7月1日)
モンセ・ワトキンス~夢のゆくえ~(平成14年1月3日)
新牌開眼
英霊(平成17年5月23日)
目覚め
よわい「齢」
また始めたらよい
三大聖樹(平成19年4月17日)
滅度(平成19年9月18日)
安住の地(平成20年11月15日)
心眼(平成22年3月1日)
とかくこの世は
とかくこの世は
祈り(平成17年11月29日)
品位(平成18年1月20日)
ニャンニーシンズ(平成18年3月1日)
鍵(平成18年4月25日)
チベット(平成20年5月1日)
SYOHOU
諸法
四十四の問い~ミヒャエル・エンデ
先ゆく輩
さき行く輩
祖師年譜
ダルマ
慧可
五洩霊黙和尚
石鞏慧蔵禅師
大珠慧海禅師
西川の黄三郎
馬祖道一禅師(馬大師)
五百生 百丈和尚
大梅山法常(752-839)
麻谷山宝徹禅師(平成12年1月27日)
鎮州普化(ふけ)和尚
寒山・拾得
虹の彼方に
ヘイヴン・ペックの場合―続貧しいけれど、豊かだった―
生前葬
平和を我らにーGIVE PEACE A CHANCE(平成13年10月31日)
ソクラテスとヤージャニダッタ
蓮(平成14年6月2日)
心-KOKORO(平成14年6月25日)
独り暮らし(平成15年4月12日)
老いが、咲いていた!(平成16年7月5日)
深濱-fukahama
死に顔
松山鏡(ソクラレストとヤージャニダッタの続き)
真ん中(平成20年4月1日)
百万回いきたネコ(平成21年1月1日)
夜来る鳥(平成21年1月1日)
だいじょうぶ、だいじょうぶ(平成21年2月1日)
無常への帰依
無常への帰依
希望(平成12年1月2日)
葬式坊主
泥棒
赤とんぼ
老い
……ロス
後姿
寿陵
ついで参り
目標
六道を行く
もの言わぬ羅漢達…揀択をこえて…
宮本武蔵
五合庵断章(平成10年10月17日)
K子さん!(平成12年7月19日)
今は昔
十一面観世音菩薩
尽七日忌(平成19年5月1日)
OSYOU
OSYOU
この手のひらに―禅僧の死―(平成10年11月18日)
戒(平成10年7月25日)
幽霊
みんな仏教徒(平成10年5月27日)
最後の晩餐(平成10年5月23日)
禅問答(平成10年5月31日)
分銅
天国は汝ら自身に宿る(平成10年11月24日)
宗派
穢れ(平成12年8月30日)
お彼岸
仏心
仏心
ご祈祷
施餓鬼会にて(平成17年5月28日)
永遠の命
輪廻する葦(平成10年5月27日)
連鎖する命(平成10年6月2日)
涅槃(平成10年8月12日)
鏡(平成10年7月25日加筆)
流星
TAO(平成11年1月3日)
四大
挨拶
冥福
盂蘭盆
祈り(平成14年7月4日)
仏事歳時記
再び 最後の晩餐
この手のひらにII(平成18年11月18日)
死んで生きる智慧(平成19年3月27日)
五百生(平成19年11月20日)
破地獄偈(平成20年5月24日)
この指止まれ
この指止まれ
家族と家庭(平成11年1月5日)
導師(平成11年2月26日)
家から個人へ、そして家族・友達へI
家から個人へ、そして家族・友達へII
脳死そして臓器移植(平成11年3月2日)
独り決めの生き方
僧堂I
僧堂II
僧堂III
恥じ
僧堂IV
返事
父殺し・母殺し・友だち殺し・子殺し(平成20年1月1日)
その後
その後
ほとけさま(平成17年5月1日)
仏が仏に合掌する
戒名(平成12年3月14日)
無用の用(平成12年2月21日)
世話
大きく育て!(平成11年1月18日)
しもべ(平成10年11月7日)
電話(平成10年8月22日)
意思
寡黙
妄想(平成10年8月2日)
川(平成10年8月22日)
風如(風のように)(平成10年6月18日)
追悼(平成10年5月27日)
受容(平成10年6月18日)
蒸発
臨終(平成10年6月8日)
外道
障子(平成13年3月10日)
日月(にちげつ)
年寄りの出番より
人生とは、闇を照らす一瞬の蛍の光
時の旅人
時計(平成12年1月3日)
星(平成11年10月15日)
溝(平成11年8月2日)
過去心…念の起こる処(平成11年6月19日)
与える時間(平成11年5月24日)
桜(平成12年3月2日)
無常(平成11年4月16日)
川(平成10年9月17日)
有時(時の構造)(平成12年2月5日)
時の旅人(平成12年2月1日)
揺れる木々の葉
この人生の速さはなんだ(平成14年12月26日)
法句経より-時の旅人(平成15年2月4日)
寂然不動 如春在花(寂然不動、春の花に在るが如し) (平成16年9月19日)
ZENGO
自立
橋は流れて(平成10年9月18日)
無事
過去(平成10年5月23日)
たまごっち(平成10年5月23日)
一衆觸礼(いっしゅうそくれい)
六道を輪廻する
二人三脚
生老病死
筋肉番付
ポケモン
俺は、親馬鹿か!
塵も積もれば山となる
生と死と永遠
最終章
一章
二章
三章
四章~(未完)
時間旅行
時間旅行
命の歌-母の短歌
礎-いしずえ-
離魂(平成19年8月25日)
海辺橋
海辺橋
ふるさと(平成18年3月4日)
千の風(平成18年9月16日)
人の道(平成18年9月18日)
あなたは、いつから、一年が始まりますか?(平成20年8月1日)
前住職 二十三回忌にて(平成20年9月1日)
平成21年お施餓鬼会を振り返って(平成21年6月1日)
奥付
奥付

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家族と家庭(平成11年1月5日)

家族と家庭(平成11年1月5日)

毎日が矢のように過ぎ去って行きます。そして今、私は二人の男の子を養育しています。
私の母は、八王子の古いしきたりを持つ、織物の機屋の七人兄弟の二女として生まれ、五番目の子供でした。大勢の職工さんをかかえた旧家は序列が決まって、母は下二人の妹達の世話を結婚までよく面倒を見ていたそうです。今考えると、だからこそ、序列が守られていたわけになるのだろう。そう言えば、母は若くして亡くなった三男のことを、「やさしかったし、よく世話をしてくれた」と、話していた。長男は家名を継ぎ、今も健在で九十五歳を迎えて、「百歳まで生きるのだ」と豪語しているが、家督は継ぎの世代に繋がれているものの、家業は時代の流れで廃業し、多くの八王子の機屋と同様に転業している。

 父親は侵すべからざる存在として、家庭と家業の中心として君臨していたことは間違いない。母は、私達子供に、自分の育った環境をよく話してくれた。しかし私が物心ついた頃、不思議に思ったことは、母の育った伝統の習慣を、私達には伝えてこなかったことだ。父が、八王子の中学の国語の先生をしていたので、母が育った時の環境とはかけ離れていたことは事実だ。父も次男だったせいか、そして職場を外に持ったことにより、私には、母から教わった、父から教わった習慣が無い。

今、私に伝わった習俗を点検し、見つめなおそうとしようとする時、そして新しい年を迎えようとしている今、「いや、正月の気分がなくなったですね。歳末と言う雰囲気が、本当になくなった」と、友人は言う。友人の歳末を見る景色も変わったが、実は、友人の心も、年があらたまるという変化を、新しく感じられなくなってきていることを思う。
そのことを自分に照らし考えてみてもそうだ。 子供の頃の、正月を家族と迎える気持ちに変化があるのだ。昔も今も、正月じたいは変わらないし、同じ営みを続けている。確かに、子供の頃は貧しく、今とは食べるご馳走が正月以外食べることができなかったし、晴れ着を着る時もなかった。

二十三歳を過ぎての修行の道場は、これは伝統と格式の場で、まさしく言い伝えそのものの中に、どっぷりとつかった。正月3日間は禁足、午前中は大般若経の転読をして、4日目にして、般若札を信者宅に新年の挨拶を加えて届けるのが、雲水の仕事だった。なにより嬉しいことは、厳しい行が、正月はなかったことだ。

考えてみれば、家庭における習俗は常に変化していくのは当たり前であり、その変かに合わして習俗が多様性を持たなかったのが今なのだろうか。その変化は、家庭に電気製品が侵入した頃から始まるのではないか。便利さ合理性、そしてそれに反比例するかのように、習俗が亡くなっていったように思える。分析してみても昔に戻らない。正月の新聞を読んでも、過ぎ去った歴史は様々に捉えていることはいるが、現在も未来も語られていない。

禅の見方から見れば、家庭を築きながら、家庭を問うことは、私と家庭はすでに離反していることになる。それは父親でありながら、自らの父親を問うことに、父親が不在であることの家庭の悲劇であるともいえる。自己を問うことも、問う自分と問われる自分が分離していれば、二つは離れたままだ。されど、問わなければ一つになりえないというジレンマがあるのだから、ここが面白い。
どっちに転んでも、救われるのは、私がいかに離反していようと、家庭は歩みつづけるということだ。
もし煩悩を捨てて菩提に入らば、知らず、いずくにか仏地有らん。(ほう居士)


導師(平成11年2月26日)

導師(平成10年8月30日掲載 平成11年2月26日補筆)

 葬儀において、家族の深い悲しみを背にして祭壇の前に立つとき、亡くなった人が臨終あるいは意識がなくなる前に「ありがとう」と、感謝の言葉を残していった人のことに関しては、この言葉が本人にも見取った家族にも、その人の死はそして葬儀は、天より与えられた人としての使命を全うし、死を受け入れ、卒然として旅立って行くことの確認になります。

 辛く苦しく病魔にさいなまれ、死んでも死にきれない内に迎える辛い死の場合は、その死が突然訪れようと、ゆっくり進行しようと、葬儀の場合はこの辛く苦しい無念の心を晴らさなければ送ることができません。それには、まず涅槃の中身を説くことになり、その言葉ゆえに二度と苦しみのない浄土に生まれ変わることを決定していることを宣告いたします。その中身を家族が受け入れられなければ、無念の心を代わりに背負って、そして祈ります。

 自殺の場合は、叱る場合もありますが、自殺の先の束縛からの開放の目的を提示することによって容認する場合もあるでしょうが、残された遺族と共に歩こうということを考えると、遺族の対応を見ながら、迎合はせずに、堂々と正論を主張しながら、共に歩こうという対応も必要なときがあります。
 では突然死と言われる、心臓発作、交通事故等の場合は家族にとって、戸惑いと落胆は大きく、死者が若ければなおさら喪失感は大きく言葉もかけられないのが現実でしょう。まして葬儀は時間が限られていて、その後の対応がより大きな問題となるからです。

 平成10年8月旧盆にお経を詠みに行った家庭の話です。一人息子が国立H大学の大学院を卒業目前の3月、交通事故で亡くなったのでした。25歳だったそうです。卒業の記念旅行を車で出かけた際に、4人の内彼の息子一人だけがスピードの出し過ぎだったそうですが、車から放り出されて亡くなりました。運転手の後席に乗車していたそうです。葬儀は彼の友達のいるH市で執り行われたそうです。

父母は仕事の都合で千葉県に住んでいたのですが、5月江戸川区の西葛西に引っ越してきました。仕事の都合上、定住場所を持てないのか、定年まではこの葛西で過ごそうと思っているそうでした。彼を誇りとしていただけに、その喪失感は大きく、遺骨が大切に飾られておりましたのが辛い気持ちを表わしておりました。
定年になったら、父親の故郷近くに静かに暮らしたいという、ご夫妻にはただ聞くだけで、お別れに「25年というかけがえのない思い出を頂きましたね」と声を掛け、「何か私で役に立つことが出来ましたら」と去りました。寺への帰途、とてもやりきれない思いになりました。息子を突然亡くした夫婦が、いずれ立ち直ってくれることをただ願うばかりです。葬儀に良い悪いはな いのですが、やはり考えてしまいます。「私が葬儀を執行していたら、この夫婦にどう役に立てただろうか」と。

 葬儀における導師とは、文字通り”導く師”なのですが、私は死んでいった人を導くより、死んでいった人の家族や友達の人の心を通して、死者の魂を導くのだと思うのです。そして死者の家族と共に在り続けることも必要なことではないでしょうか。共に歩き歩きつづけるため、導師はそれまでとは違った視点で捕らえ、切り口をえぐり、別れの式に集まった人々を浄化させ、人の尊厳を高らかにうたいあげなければなりません。

 亡くなった人を、何処に導くのかと言えば、それぞれの人の心の故郷です。私は心の耀きの中に導くのを生業とするのだと思っております。なぜならば、人が生きる場所は、現実には迷い悩みや辛いとこにいることが多いからです。
またその中にこそ人の生きる場所はないのだと、決め付けたほうが却って安心できるからです。共に生きる場所は私達が生きる場所でもあり、その中に浄土を、心が常に耀いていることの発見をすることが大切なことと思うのです。後のことはお任せすることが大事なように思うのですが。


家から個人へ、そして家族・友達へI

家から個人へ、そして家族・友達へI

 禅では、人生を、『人が生まれる』と読むそうである。この読みはそれぞれの人にとって、多くの意味を持つと同時に、こんなにズバリと万人にあてはまる言葉もない。人間のこの世での一生は、『人が生まれる』より出発し、『生まれた人の寿命が尽きる』ことにより、幕を閉じる。そして、この間のいかなる時も、『人に生まれる』時を保持している。
凍てつく北風に背を丸めた時、冬の訪れを知ることと、草花が芽を出し、花を咲かせる時、春を認めることは、けっして春が来たから草花が花を咲かせるのとは違う。一人一人それぞれの冬であり、格別の春である。去年の冬と、今年の冬は、その人本人にとっては、まったく別のものであると思うのです。

 人が年を加えて、新聞の活字がぼやけて見えなくなった時の肉体的な衰えを知ること、そのことは、本人にとって未体験の領域に踏み込んでの、実体験です。人はいつでも未知との遭遇を経験しています。この意味では、赤ん坊も老人も、平等に初体験を繰り返します。もちろん軽く受け流すこともあるでしょうが、それが大きな意味を持つ場合もあります。

二十歳過ぎて、友達が次々と結婚して行く適齢期にたっした女性のあこがれに、「私も、近い将来こうして幸せな家庭を築きたい」という希望がある。やがて友達に、赤ちゃんが生まれて、大きくなって行く過程の母親やそれらを含んだ家庭の姿を見るに付け、結婚願望がしおれて行った女性を見ました。
勤めていた頃の友達と較べて、子供の成長や家族との関係に追われるように、毎日が過ぎて行く。毎日が自分の自由になりえると思う自分の姿と照らして、「ああまでして、なぜ結婚しなければいけないの」の言葉に、返答が詰まってしまった私であった。
 そういえば、「彼は四十過ぎて、可哀想に、まだ独身なんだよ」という友人の言葉に、別の友人が「なんで可哀想なんだい。結婚している我々のほうがよっぽど、彼から見ると、可哀想かもしれないんだよ」と言った。
「我々は、社会の年寄りを支えながら、次の世代の子供を育てているのだから」。
 何十年か後、彼らが年寄りになって、他人が育てた子供から年金や社会の恩恵を受けるとしたなら、今、何をしなければならないのだろうか。ひょっとすると、この考え方はもう時代に合っていないのかもしれない。なぜなら、アメリカでは401K年金が主流で、この考え方は個人の責任で自分の老後を設計するというのが原則であるからである。
 戦前までの様々なものの考え方の一つに、『家』というものがあった。家によって縛られる個人の人権の開放と言う意味で優れての効果は、女性や跡取問題の家へからの開放であったはずだし、そのほかにもたくさんあったはずだ。専門家ではないので、うまく言うことは出来ないが、国の施策も相続税とかそれに沿った方向に同調して、結局なくなったのは、家々での文化の伝統や習俗、家を守る人と人とのつながりではなかったろうか。不思議なことに、皇室が家制度を今も守っていて、守ることにより、伝統や文化が温存されている。
無い智慧を幾ら絞っても、この問題は大きなテーマであるので考えがおよばないが。いいたいことは、野放図の勝手自由と個人の責任と権利との関係である。だって、そこには自分意外を尊重すると言う発想が無いように思えてしょうがない。もちろん、他人を尊重すると言うことの中には、口を挟まないということはあるでしょう。ですが、そのことは自分の考えやものの見方を押し付けないと言うこととは別に、慈しむ、育む、見守る、受け入れるという、社会と接点を持ちつづける自分が欠落しているように思えてしょうがない。 

だいぶ、脱線してしまった。話しを元に戻そう。 彼女は、小さい時から父母の言うように、幼稚園は○○幼稚園、小学校は○○小学校、中学高校は○○学園、短大は○○短大にと規定の路線が走っているかのように進んで行った。
バブル崩壊後、本当はスポーツ選手の栄養管理の仕事をしたかったのだが、仕事がなく、給料はすごく安かったが、港区のS病院の栄養師として就職した。あまり人ずき会いは好きではなかったので、彼女に合っていたようだ。5年ほど勤めた時、やさしかった祖父の死去をきっかけに、父母に病院勤務を止めさせられ、実家の家業を手伝うはめになってしまったと。その間、親しく付き合う男性があらわれた。東北の出身で、言葉に東北訛りがひどく、それがもとでコンプレックスにおちいった男性を励ますうち、いつしかお互い想い合うようになり、結婚を約束したのだが、娘の父母の頑強な抵抗に会い、断念した彼女だった。
「二十七歳になって、結婚をせまられても、今まで、すべて親の言うなりに抵抗できずにいる自分がいやなんです」、「私この頃、一日がおわって布団に休む時、ホッとするんです。このまま死んでも良いと思ったりすることもあるんです」と言う彼女の屈折が、彼女を阪神大震災一週間後、神戸に走らせたりもした。 しかし、「あんたらは結局、よそもんや」と言う被災者の古老の言葉が、彼女を神戸から遠ざけた。今、彼女は家業の、保険の仕事の手伝いをしている。両親は彼女を「早く、嫁に行け」というが、彼女にとって、この問題だけは親の言う通りにはならない。 「だって、どうして結婚しなければいけないのかわからないんだもん」。
彼女も一生懸命に、自分自身を模索している。

葬儀において、告別式が終了して出棺の前の挨拶で、若い喪主がメモを見ながら会葬者に挨拶をしていた。「最後に残された私達遺族に、故人に受けました生前と変わらぬご厚誼を賜りますようお願いしまして、挨拶といたします」と、話していた。何度もこのような場所に立会いながら、『どうして、故人の生前と変わらぬご厚誼を遺族にも振り向ける』ことを、誰もが挨拶の終いに言うのだろうかと疑問に思った。喪主にそっと聞いてみたら、「こう言うもんだと言われた」と応えた。

その時ハッと気が付いたことは、故人を偲ぶために、追悼の場に来てくれた沢山の会葬者の厚情を、実は遺族への引継ぎの形で終わらせる、伝承の儀式の意味を持たせることによって式は終了するではないか。
私がする葬儀において、亡くなった故人を偲んで、徳をたたへ、人格を肯定し、今まで歩いてきた道を追想し、これからの旅立ちの道を照らす儀式の執行は、何の意識も無くその行為を『しきたりだから』と挨拶する中に、遺族への伝承の儀式にすりかわっていたことになっていたのだ。遺族、それは残された最少の血縁家族のことだ。では何の為にそのことが必要なのであろうか。言うまでもなく、残された家族の幸せ、安らぎ、つぎへの伝承である。

本来から言えば、家族は一人一人ばらばらの人格の集合であるから、家族の一人一人の人格へ、故人の生前と変わらぬご厚情を、今後は受けることになる。
人というものは、血にしろ、学問にしろ、事業にしろ必ず次への伝承のものがなければ滅びるということなのだ。伝承とは、別名、未来とも言うのではないか。滅びる先に未来は無いとするならば、我々は次の世代にもっと語り継ぐことをしなければならないし、語り継がれる世代は、謙虚に耳を傾けなければならない。どうしても説教調になってしまうのは職業柄いたしかたない。

私は最近、『先祖供養』という言葉を『精神的遺産への感謝』と言うようにしている。もちろんこの言葉が理解できるには、『人に生まれる』と言うことが実感できなければ無理だし、自分の中に流れている血の否定的なものや肯定的なものをそのまま受け入れるということが必要なのだが。


家から個人へ、そして家族・友達へII

家から個人へ、そして家族・友達へII

 過日、ある家に行ったときのことだった。その家の次男の嫁さんが、実に客である私達に応対がすばやく、菓子を出し、お茶を運び、その間にも私達の注意をそらさず、実に気持ちの良い接待をしてくれた。その時その家の姑が、「○○さんは、とてもおしこみが良いこと」と、みんなの面前で話されたのでした。

しばらくして、次男の嫁さんが帰った後、娘達が母親に、その『おしこみ』について、「失礼な言葉」とか、「もっと違う言葉」がなかったのかと、話題に上がったのでした。

少し前の大家族制度、あるいは家制度の中では、外部から来たものを含めて、その家での序列が決まっていて、その序列を護ることが、その家族を維持することであり、その家の格式を護ることにつながり、家の安泰つまり後世への存続へと繋がることだったと思うのです。
またそうでなくとも、大きな集団を維持するには、それなりのルールが必要であることは、誰しも異存はないでしょう。その意味で、『躾』、『おしこみ』は当然のことでもあったはずです。
その集団の中での自分の立場が決まっていて、そうしなければ、維持できないのですから、その枠を守れということだったのです。今では古い慣習となってしまったことのように見えて、このことの中から何か真理があるように思えて、仕方ないのです。何故なら、その次男の嫁さんの立ち居しぐさが、自然で美しいと思えたからです。もちろん、おしこみだけでなくて、次男の嫁の人間性のすばらしさ等があるのは、言うまでもないことです。

今は『学校崩壊』が話題になっていますが、その数年前には『家庭崩壊』が世間を騒がせていた時が、あったのを思い出しました。ある集団が崩壊する条件として、第一に挙げることができることは、集団を構成する個人の、その集団を維持する為の自覚のあり様です。小学校の生徒が、生徒とは何かとわかっていなければ、生徒とはいえないわけで、生徒の務めを果たすことによって、学級は成り立つことは当たり前のことなのです。そして生徒とは、知識を覚えるために、まず学校に毎日登校することも当たり前です。その他には、体力をつけたり、友達を見つけることも必要でしょうが、クラスでは先生と生徒との関係を保つことが必須条件なのは、誰しも認めることでしょう。この関係というところで、仏教がからみます。

先生が成り立つ条件として、生徒が必要なことは当たり前です。生徒がいなければ、先生はいませんから。また、生徒にとってみれば、先生がいなければ、いくら学校に行ったとしても、生徒ではありません。先生や生徒は、この対立する関係において、成立することであり、相手がいなければこの関係は維持できません。つまり、生徒は先生によって、自らの立場を確立することになります。生徒の務めを果たすとは、このことを言いますから、努めを果たせなければ、自らの立場を失うということにもなるのです。さらに努めを果たすことによって、クラスである全体を維持できることを考えれば、崩壊する理由は簡単です。

屋根の瓦を想像してみましょう、大きな屋根に瓦1枚では何の役にも立ちません、全体に敷くことによって、雨風を防ぐという働きを遂行致します。その全体の中の1枚の瓦を考えてみれば、必死になって1枚の瓦としての努めを果たすわけです。もし欠けていたり、ゆがんでいたり、斜めになっていたりすれば、全体の役目を果たすことができないでしょう。瓦1枚は、ただの1枚ではなく、大切な1枚です。
『躾』『おしこみは』は、集団での自己のより所を全うする為の、きまりだったのです。1枚の瓦を、補修することは、躾に該当することです。それぞれ1枚の瓦が、より堅固に任務を果たせば、屋根は二十年、三十年と年月を刻むことが出きるのです。

会社にしても、部長の仕事の役目を護ることによって、組織は成り立つことで、皆が勝って気ままに仕事をしていたら、その会社は潰れてしまうこと、目に見えています。組織を構成する個人は、自らその構成員としての責務を全うする事において、組織は維持されるということを自覚しなければなりません。自分の努めを果たすことは、組織を維持し発展することなのです。そして自分が努めを果たしているからこそ、組織は維持できていることでもあります。

家族にも同じことが言えますが、現在の家族は、さまざまに変質しているようです。まず自ら個人の存立する条件を直視して、自分の存立する条件は自分にはないということを知ることです。夫婦はその関係として、夫婦を全体として考えた場合、夫は1/2、妻は1/2で全体を支えます。連れ合いを亡くすと、人生の半分を亡くすというのは言い得て妙な言葉です。夫は夫の努めを果たすと言うで、さまざまな夫婦によって努めは異なることですが、それぞれに補完しあいながらも、家族は維持されて行くと思うのです。


脳死そして臓器移植(平成11年3月2日)

脳死そして臓器移植 …子供たちに光を!…(平成11年3月2日)

 1999年2月26日の夕刊から始まった高知赤十字病院の、一人のドナーカードを持った、44歳の女性の脳死が日本中をわかせた事件は、実に1968年の和田移植以来31年ぶりの、多臓器移植の夢を実現させた。関係機関は和田移植の二の足を踏まない鉄則のもと各機関が連携して、この歴史的な幕開けを演じた。

 日本の一人の女性の脳死が、しかも故人の善意の意思がそして女性の家族の理解と勇気が、これほどセンセーショナルに報道され、結果として6名の命を救ったことと、臓器提供を受けたそれぞれの患者がひとしくあらためて命の大切さを思い、感謝して冥福を祈ったのでした。

 私は一人の寺の和尚として、ひしひしといずれこの私も、私の関係する家族の葬儀を通して、このことにかかわる当事者の一人になることが、遅かれ早かれやってくると思うと、考えなければならないと思うのです。そして、人の死が二つあるという矛盾と、子供たちに、この究極の命の喜びを伝えられないというジレンマを悲しく思うのです。

 脳死は、心臓停止という死と人の尊厳を問う問題なのだろう。死は、心臓停止と脳死に分離された。心臓停止の死は、人工呼吸機によって延命され、脳死は、全脳死と脳幹死に分かれるらしいが、日本では全脳死を選択し、脳死者の臓器提供の意志確認と家族の同意をもって認めると言う、但し書き付きの二つの死が存在することになってしまった。

 人の尊厳を問題にすれば、人の死を、人為的な作用で加えてはならないことが鉄則でありはするが、脳死をもって、人の死とすることを確信することは、やはり自然死を是とする現状では、勇気を持たなければ言えないことだと思うのです。後世においてひるがえされるかもしれない判断を下すと言うことは、大義がなければ下すことは出来ません。

 生物は生物の死によって成り立っている現状があります。人も人に生まれて、生の時間のなか、意義を見出して、善意をもって歩む途中、自己の判断ではどうしようもできない、自分のいとしくも、借り物の肉体との決別の時を迎えた臨終の時に、自身の肉体の処置を、家族や医療従事者に遺言の執行として、依頼せざるを得ないのです。見届けることのできない理不尽さが在るかもしれません。信頼という言葉の意味を噛み締めながら考えても、最後には任せることしか選択はありません。

 医学では死を、機能停止と呼ぶのだろうか。私は死を、旅立ちと言い、家に帰ると言い、自然に輪廻すると言う。その上で浄土、天国と言い、仏や神と結びつける。自然は在るがままと言い、それを寿と言い、妙と言う。
 脳死において、刻々と変化する臨床と判定の時を追って繰り広げられる事実に、脳死患者の心臓を取り出す外科医のメスは、人の死を執行する立場(心臓停止の死における側より見れば)に、手術室は葬儀の場所に、外科医とコーディネーターが脳死者の意志を導くような気がするのです。

 せめて、僧侶がそばに控えて、家族に脳死者個人がいかに生きてきたか、そして呼吸が止まった時、脳の機能が止まった時が、人の終わりではないことを告げ、受け入れて貰えなければ、死者や家族の意思は次のステップに進まないと、私は思うのです。家族と共に、この事態と展開を見つめ、切り刻まれた遺体を鎮め、亡くなった人の尊厳をたたえ、家族の祈りを死者の魂へと送る勤めが葬儀という儀式の本位ならば、僧侶である私は、家族と共に見届けたい。

 脳死を人の死とするかの問題は、本来、人口呼吸機が作られたときに社会に問わなければならなかった。人工呼吸機は人の命の延命を願って作られたのではあるが、その時、人の命、生物の死、人の願いを、人は問わなかったのだろうか。確かに、心臓停止の人の死は、冷たくなって行く死に行く人の身体をそっと見守った時、臨終の決断は迫られない自然な死であると思う。そして大多数の人の死は、従来どおりの死であることに、間違いないことであると思う。人の死は、受け入れるまわりの一人一人によって違うし、一つとして同じ死はあり得ない。

 本来の死は、脳死も心停止も時間差はそれほどなかったのだが、人工呼吸機によって、その時間差が長時間にわたるようになってしまった。人は、その長時間の時間差を利用して、自己の命を支える臓器移植と言う究極の布施行を発見したことになる。そしてその布施行には、現時点で、家族の痛みをともなう。その痛みを喜びに昇華する立場を、僧侶はになっていると思う。
 「まだ生きているのに、マスコミはこんな騒ぎになるのか」と家族の動揺が、26日の夕刊に伝えられている。この言葉から、脳死の臨床判断と判定の食い違いによる報道の騒ぎが、脳死を日本で始めて受け入れるという、家族の作業の決断の苦渋がうかがえる。

 臓器を受け入れる立場は、考えてみれば辛く苦しい。受け入れた臓器は、はたして、受け入れた患者の体内で適合するだろうか、適合しなければ次の臓器移植か死を選ぶことになるのだろう。一生にわたって免疫攻撃を受ける。そのため、一生、免疫抑制剤の投薬と身体管理を受けなければならないという。外部から侵入した異物は、投薬と言うだまかしがなければ、他の臓器と一体となっての連携プレーが出来ないという。
 私だけがどうしてこのような身体をもってしまたのか、生きたい、死にたくない、人並みに最後をまっとうしたい。そのことが少しでも可能なら、実現できたらよいと思う。

 自分の死と対面して、暗い気持ちが少しでも好転したら、どんなに世の中を違った視点でとらえられるか、生きていることの意味をどんなにか肯定できるかと思うと、限りない意味をもつことになる。自然に臓器移植さえしたならば、内部の疾患を治せると、そんな時代が、すぐ近くに来ているのかもしれない。両親にしても、生まれた子供の治らぬ疾患が、善意の意志によって、子供の成長を見れるとしたなら、どんなにか救われることだろう。

 だが、現状は15歳以下の子は、その可能性が閉ざされている。命の尊厳に、年齢の差があってはならないはずなのだが、ドナーカードの臓器提供意志が採択されないらしい。幼い人の意志が確認できないのであれば、その意志が採択できるまで、家族が親がその子に代わって、意志を表示できないものだろうかと、考えてみる。が、そのことが社会に与える意味を、私は、はかり知ることができない。
 人が生きると言うことは、『生かされて、生きる』ということに違いがなく、自分が生かされて生きて、もはやこれまでと言う最後を迎えたとき、私の臓器が他人が使えるのであれば、私の意志として、脳死を死と認めて、求める人に提供しよう。 

追記 平成11年3月3日

 脳死患者から各病院へ臓器を搬送する報道をみて、臓器によって随分と時間差があることを知った。心臓と肺は短く、肝臓が、腎臓がそれに続く。脳の臓器移植は聞いたことがないのだが、考えてしまう。また、ふと思ったのは、実は脳にも死に至る時間があるということなのだろう。もし脳死が人の死と決まった場合、おそらく圧倒的に多いであろう、心臓停止や呼吸停止の病人の脳はどうなのだろうか。まだ生きていることになるのではないだろうか。

何やら大変なことに気がついたような気がする。確かに構造的に脳が破壊されたら、総ての機能は遅かれ早かれ停止してしまうだろう。それよりも、意識を生み出せなくなってしまうし、創造的活動も、感情の作用も、心の働きとしての作用がなされない。人格の創造的死と言えるわけだ。心臓はペースメーカーに代わることができるし、その内、技術の発達で総ての脳以外の器官は作られるのかもしれない。病院の緑色の心拍計の横一線のグラフに、付け加えて脳波計を置いたとしたら、心臓計の心臓停止の合図も、脳波計が元気にグラフをうっていれば未だ生きているということになる。
追記 平成11年3月4日
 人の死は、すべて個人的な死であると思う。部分的には脳死も心臓停止も細胞死も筋肉死もあるわけであるが、総てを含めて個人的死であると言いたい。死者に対面する人の感情は、それぞれ受け入れがたいものを持つ場合もあるし、共通する場合もある。場所や時間によっても違うのだろう。死体が冷たくなっても、まだ死んでいないと自分に叫ぶ場合もあるだろうし、どう対処していいか分からない場合もある。個人的な死である限り、死者に対面するそれぞれの人が、「死んだ。亡くなった。天に召された。土に還った」と、自分が納得する作業によって、それぞれの死を見つめるのだろう。

 友人がこんな話をしていた。
 「いや、昔、田舎の火葬場で、火葬うのため、重油に火をつけ、職員が裏のかまどの中をのぞこうとしたら、お棺の蓋が動いて、中からギャーと言う悲鳴が聞こえたと言う。職員はゾッとして、逃げ出したと言うんだ」
 「昔、まだ土葬だった頃の話で、火葬が行われない場合は葬儀が済んだら、墓地で穴を掘って座棺を埋葬したんだ。数週間して、遺族がフッと気になったらしい。気になりだすと、どうしてもて墓地を掘ってみなければと思ったんだ。墓を掘り返すなんてことは、出来るもんじゃない。だけど、掘ったんだね。棺桶の蓋の裏には、無数の引っかき傷があったんだって」

追記 平成11年3月12日

人の死は、それぞれに固有のものであることは言うまでもない。身内にとっての死は、二度と帰ってこない自覚の、死を容認するという作業があってはじめて成り立つことであり、そこには医療とは別個の死が存在する。二度と帰ってこないという確信が、医療の信頼のもと、脳死を受け入れる前提になることは間違いない。だが「そこに存在するだけでいい」と言う親族や家族の気持ちも否定することは決して出来るものではないことも確かだ。多くの檀家と接する私の鉄則に、「けっして檀家一人一人を評価してはならない」という守り事があるのだが、医療従事者も同じだと思う。このことは、それぞれの立場を、生きてきた過程を、心情を、考え方を、ただ受け入れると立場にあるということだ。


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