目次
輝いている時
夢中(ゆめのなか)
芝浜
江戸っ子
亀住町(平成13年7月1日)
モンセ・ワトキンス~夢のゆくえ~(平成14年1月3日)
新牌開眼
英霊(平成17年5月23日)
目覚め
よわい「齢」
また始めたらよい
三大聖樹(平成19年4月17日)
滅度(平成19年9月18日)
安住の地(平成20年11月15日)
心眼(平成22年3月1日)
とかくこの世は
とかくこの世は
祈り(平成17年11月29日)
品位(平成18年1月20日)
ニャンニーシンズ(平成18年3月1日)
鍵(平成18年4月25日)
チベット(平成20年5月1日)
SYOHOU
諸法
四十四の問い~ミヒャエル・エンデ
先ゆく輩
さき行く輩
祖師年譜
ダルマ
慧可
五洩霊黙和尚
石鞏慧蔵禅師
大珠慧海禅師
西川の黄三郎
馬祖道一禅師(馬大師)
五百生 百丈和尚
大梅山法常(752-839)
麻谷山宝徹禅師(平成12年1月27日)
鎮州普化(ふけ)和尚
寒山・拾得
虹の彼方に
ヘイヴン・ペックの場合―続貧しいけれど、豊かだった―
生前葬
平和を我らにーGIVE PEACE A CHANCE(平成13年10月31日)
ソクラテスとヤージャニダッタ
蓮(平成14年6月2日)
心-KOKORO(平成14年6月25日)
独り暮らし(平成15年4月12日)
老いが、咲いていた!(平成16年7月5日)
深濱-fukahama
死に顔
松山鏡(ソクラレストとヤージャニダッタの続き)
真ん中(平成20年4月1日)
百万回いきたネコ(平成21年1月1日)
夜来る鳥(平成21年1月1日)
だいじょうぶ、だいじょうぶ(平成21年2月1日)
無常への帰依
無常への帰依
希望(平成12年1月2日)
葬式坊主
泥棒
赤とんぼ
老い
……ロス
後姿
寿陵
ついで参り
目標
六道を行く
もの言わぬ羅漢達…揀択をこえて…
宮本武蔵
五合庵断章(平成10年10月17日)
K子さん!(平成12年7月19日)
今は昔
十一面観世音菩薩
尽七日忌(平成19年5月1日)
OSYOU
OSYOU
この手のひらに―禅僧の死―(平成10年11月18日)
戒(平成10年7月25日)
幽霊
みんな仏教徒(平成10年5月27日)
最後の晩餐(平成10年5月23日)
禅問答(平成10年5月31日)
分銅
天国は汝ら自身に宿る(平成10年11月24日)
宗派
穢れ(平成12年8月30日)
お彼岸
仏心
仏心
ご祈祷
施餓鬼会にて(平成17年5月28日)
永遠の命
輪廻する葦(平成10年5月27日)
連鎖する命(平成10年6月2日)
涅槃(平成10年8月12日)
鏡(平成10年7月25日加筆)
流星
TAO(平成11年1月3日)
四大
挨拶
冥福
盂蘭盆
祈り(平成14年7月4日)
仏事歳時記
再び 最後の晩餐
この手のひらにII(平成18年11月18日)
死んで生きる智慧(平成19年3月27日)
五百生(平成19年11月20日)
破地獄偈(平成20年5月24日)
この指止まれ
この指止まれ
家族と家庭(平成11年1月5日)
導師(平成11年2月26日)
家から個人へ、そして家族・友達へI
家から個人へ、そして家族・友達へII
脳死そして臓器移植(平成11年3月2日)
独り決めの生き方
僧堂I
僧堂II
僧堂III
恥じ
僧堂IV
返事
父殺し・母殺し・友だち殺し・子殺し(平成20年1月1日)
その後
その後
ほとけさま(平成17年5月1日)
仏が仏に合掌する
戒名(平成12年3月14日)
無用の用(平成12年2月21日)
世話
大きく育て!(平成11年1月18日)
しもべ(平成10年11月7日)
電話(平成10年8月22日)
意思
寡黙
妄想(平成10年8月2日)
川(平成10年8月22日)
風如(風のように)(平成10年6月18日)
追悼(平成10年5月27日)
受容(平成10年6月18日)
蒸発
臨終(平成10年6月8日)
外道
障子(平成13年3月10日)
日月(にちげつ)
年寄りの出番より
人生とは、闇を照らす一瞬の蛍の光
時の旅人
時計(平成12年1月3日)
星(平成11年10月15日)
溝(平成11年8月2日)
過去心…念の起こる処(平成11年6月19日)
与える時間(平成11年5月24日)
桜(平成12年3月2日)
無常(平成11年4月16日)
川(平成10年9月17日)
有時(時の構造)(平成12年2月5日)
時の旅人(平成12年2月1日)
揺れる木々の葉
この人生の速さはなんだ(平成14年12月26日)
法句経より-時の旅人(平成15年2月4日)
寂然不動 如春在花(寂然不動、春の花に在るが如し) (平成16年9月19日)
ZENGO
自立
橋は流れて(平成10年9月18日)
無事
過去(平成10年5月23日)
たまごっち(平成10年5月23日)
一衆觸礼(いっしゅうそくれい)
六道を輪廻する
二人三脚
生老病死
筋肉番付
ポケモン
俺は、親馬鹿か!
塵も積もれば山となる
生と死と永遠
最終章
一章
二章
三章
四章~(未完)
時間旅行
時間旅行
命の歌-母の短歌
礎-いしずえ-
離魂(平成19年8月25日)
海辺橋
海辺橋
ふるさと(平成18年3月4日)
千の風(平成18年9月16日)
人の道(平成18年9月18日)
あなたは、いつから、一年が始まりますか?(平成20年8月1日)
前住職 二十三回忌にて(平成20年9月1日)
平成21年お施餓鬼会を振り返って(平成21年6月1日)
奥付
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日月(にちげつ)

日月(にちげつ)

 人が亡くなって、亡くなった後の名前をつけることに、違和感を持ち始めて、もう随分と時間がたちます。そう思い言いながらも、その間に、何人もの名前をつけたことでしょう。初めは多くのことを考えながらつけたものです。でも、いつしか必ずと言ってよいほどに、亡くなった人の生前の名前はどうだったのだろうかと思いはせるようになりました。うかがい知れない名前を前にして、生まれた名前を浮かべることで、亡くなった後の名前が次の世代に引き継がれるという作業の連続の中に、人は命を繋いでいることを意識し始めたのです。
 この花の下に、この木の下に、この石の下に、この海の何処かにと、埋もれて記憶の中に収まることと、位牌の中に死後の名が刻まれ手を合わせることは、偲ぶ中に、残された私たちの永続性を発見するものです。亡くなった者の写真や遺品を、残された家族の家に飾ることも、残された者の、今を生きるあかしです。

 平成15年6月15日(日)朝、M氏から訃報を聞かされたとき、M氏に弟さんがいたことなど何も知らず、まったくに突然のことでした。月に一、二回と一人暮らしの明(これは実名です。文章の関係上掲載することをお許し下さい)氏を通って様子を見る姉とM氏の動揺が伝わって来ました。しかも亡くなって、15日間も経っていたからでもあります。誰も攻めることはできないことに、心が悔やまれますが、これは、結果として、哀しく寂しいものですが、明氏が旅立つことによって、あとを守っている兄弟姉妹の心の潤いと豊かさを、明氏自身が与えようとする試みなのかもしれません。寂しいし、哀しいし、歯がゆいし、だけれども、どうすることもできない明氏の重みです。

 受話器に耳をあて、亡くなった状況に不憫さがわくものの、それでも思いを馳せて明氏の死を、どう考えればよいものかと、そして、法号にどう表 現するかを考えます。もちろん、この法号を目にして気に入ってもらわなければとも思いますし、将来にわたって、仏壇に安置して合掌し接するとき、拝む人の心の成長に合わせて変化しながらも変わらぬ名が付けられればと考えます。
 長いこと墓守りをしていると、ごく普通の言葉に、思いがけないことの意味をかぎつけ驚くことがあります。そして、こうした言葉の意味を味わっていると、何故か楽しくなります。人々は生活の中に区切りとして、いろいろな意味を含んで言葉を使っているものの、そのうかがい知れない時代を超えて共通した言葉に、『日月(にちげつ)』があります。

 日居月諸 胡迭而微 ~ 日や月や なんぞ迭(たが)ひにして微(か)くる 居と諸は、日よ月よと強調する助詞であり、欠けることのない太陽と月の日食月食の現象に、日月さえもつねに安定したしたものではないと。日が月がと欠けることに、詩経では、男性や女性の心の変わり様を歌います。そこに見るものの心が加われば、日月という同じ刻む歩みに、過ぎ去った日々あるいはその日々の出来事や事物が、また来ようとする日々やその日々の理想や願望が表現されます。日よ月よと歌って、父よ母よ、恋人よ、若かった頃の自分よと意味を持つ言葉になる、それが日月です。
 また、日月は、昼と夜に、明と暗に、日が主なのか、月が主なのか、明が主なのか、暗が主なのか、明があるから暗があるのか、本来は暗なのに、闇が明に照らされて明るくなるのか、日を灯すことにより暗がなくなるのか、明が暗闇に閉ざされて漆黒の世界になるのか、暗と明を心の状態にたとえて、変わることのないものでさえ変わる現象に、心が翻弄されさまよい憂いが見えてきます。
 不日不月  曷其有括 ~ 日ならず月ならず 曷(いつ)かそれ括(あ=会)ふことあらむ

 日ならず月ならずの言葉は、幾日とも幾月とも知られないことです。人の別れや出会いであれば、またいつの日か会うことがあるだろうとなるのでしょう。会うだろうことを主とし、もう絶対に会わないだろうことを主として、それは『いつか』会うこともあるかもしれないと……。そして、日ならず月ならずは、遙か彼方の自分が生まれる以前の、人類誕生の以前かもしれません、そんな悠久な時を刻む意味でもあるのでしょう。

 如月之恒 如日之升 月の恒(ゆみは)るが如く 日の升(のぼ)るが如く 月の満ち欠けは、時間的に言って約一ヶ月、日の出日没は一日の時間ですが、月の満ちるがごとく、月の昇るが如くは、ごく自然の摂理をいいます。当たり前の出来事、ごく普通の自然の有り様です。そのことを人間の所業に当てはめて見ますと、自然なことが『自然』と語ると非難されるような、そんな時代となりました。
 そこに人や社会が入り込めば、ブランドという借り物で武装することを繰り返さなければ生きて行くなくなり、売買を通す内に、自分もレンタルの商品となっても、身体は売るものの心は売らない分裂人は、やがて身も心も筋肉や臓器、マスコミの意見で「自分の何処が自分なの」と、透明人間となることでしょう。一生懸命に老いや美にと戦っている老いて美しい改造人間、身体によいもの健康であるためにとひたすら渡り歩く飽食漢、非常識と常識の混乱にいる常識人、わからないと言えないどちらとも言えないノーと言うことを渇望する半分人。変遷する時代に、反故となるべき記したマニフェストのみが確かなものと信じるフェミニストたち、この人たちの未来では、やがてスイカからカボチャが誕生し、そのカボチャから人間の子ども達が、少子高齢社会を救うのかもしれません。“自然に?”ちょっと言葉が走りすぎたようです。

 明氏の名前ですが、分解すれば、日と月です。中国の詩経に『日居月諸(にっきょげっしょ)』という言葉があります。居と諸は助字で、強調する字です。
 詩経によれば、月日の過ぎ去ることが第一義となりますが、日よ月よと、呼びかける己自身の心も第一義の感嘆です。そして、この日と月は、父よ母よと呼びかける言葉でもあります。明というたった一字の、呼びかける意味と同時に、父や母、兄弟に照らされての“明”でもあったと言えます。

 お父さんが、明氏に、お店をすすめたのも、お母さんと一緒に暮らしたことも、お母さんが具合が悪くなったことも、明氏も具合を悪くして、お店をたたんだことも、照らされて明るく輝く月のようです。照らされてこそ輝く月は、日を慕ったという意味で、今も、年をさらに加えて一人過ごすお父さんの哀しみは表現できるものではありませんが、ひょっとして過ぎ去るものの内の、先に旅立ったお母さんへの贈りもののような気がいたします。
日月が過ぎ去る月日なら、日が出ると活動し、日が沈み月が出ると休息するその繰り返しが、過ぎ去ることですが、この繰り返しは“変わらぬもの”の“日”であり、“過ぎ去り変わるもの”は、“月”で表されてもいるのだと思います。変わらぬものと、変わるものは、裏表ですし、お互いになければならぬものとなり、互いの存在を裏付けるものとなって単独では語れないものなのでしょう。

 臨済宗の栄西禅師の言葉です。
 大いなる哉(かな)、心や。天の高きは極(きわ)むべからず、しかるに心は天の上に出づ。
地の厚きは測るべからず、しかるに心は地の下に出づ。
日月の光はこゆべからず、しかるに心は、日月光明の表に出づ。
大千沙界は窮むべからず、しかるに心は大千沙界の外に出づ。
それ太虚か、それ元気か、心はすなはち太虚を包んで、元気を孕(はら)むものなり。
天地は我れを待って覆載(ふさい)し、日月は我れを待って運行し、四時は我れを待って変化し、
万物は我れを待って発生(ほっしょう)す。大なる哉、心や。」
 繰り返しますが、日と月とは、別々のものであっても、一体のものです。父と子と、母と子と、弟と姉、弟と兄とは、別々のもではあっても、そこに関係・導いている糸があるかぎり、父の父たる所以は、子にあり、子の子たる所以は、父にあります。母と子も、弟と姉も、弟と兄も、この結びつきのあり方をいいます。人が亡くなって、私たちの心を覆う気持ちや思いは、この関係そのものの喪失や、揺らぎをさすのですが、日月で現されるものは、奥が深いと思います。その奥が深い部分を法号の、『肯』で表現いたしました。誕生も、生も、いきかたも、死も、日月の歩み何もかもを肯(うけが)うということを、明氏の死が、物語って言えるのではないかと……。

 こう綴ってきて、日月は、私たち一人一人の心と言ってもいいのではないかとも言えることに気がつきます。日肯月諸(にっこうげっしょ)と命名したことに、多くの人に共通する言葉なのだとも思いました。
 日ならず月ならず、いつしか私たちも旅立ちの時を迎えます。その時、月の満ち欠けが止まり、日が昇らず、日が沈まない時を迎えるのでしょうが、生きて、今を一途に生きれば、月の満ち欠けを止め、日の出と共に、日没と共に過ごす自然を取り戻すことができるのでしょう。


年寄りの出番より

年寄りの出番より

いつも突然の電話で始まります。平成十六年一月二十四日、午後十時三十分、息子のT氏より「父が、先ほど亡くなりました」と秀雄氏の訃報を告げられました。ここ何年か、部屋中にチューブを引っ張って、鼻に酸素を吸入していた秀雄氏のを思い浮かべながら、「どうしたのですか?」と。T氏からは、昨年の十月末日、秀雄氏も三週間ぐらいのつもりで、いつものように入院したことから始まる、この顛末を聞きました。
  突然に居なくなる貴方の無念もさることながら、家族にとって、貴方と言う存在が、突然に無くなることの、傷つき悲しみ悼む姿は、どんな言葉も、癒し、励ますことの難しいことです。人の力の無力さを、覚えることでもあります。
  いたたまれない思いが伝わってくるものの、亡くなったということの事実を、現実のものにするために、そして遺族と共に歩くために、貴方と対面したのが、仮通夜の二十五日です。やっとチューブから解放された貴方が、ひたすら休らぐ姿を確かめて、経文をあげるためにです。
  あらためて気がつくことは、人の死にようは、誰一人同じではないことです。でも、よく考えてみると、秀雄氏の老衰で眠るような死に様は、何故か合わないような、この結末が、悲運とか、不幸とかいうのではなく、最後まで、自分を信じて、結果を託すという平川さんらしい最後のような気がいたしました。
  十二月十五日の大量の喀血に、自分に起きた出来事として、冷静に、手を自身の血で濡らしながら、ナースコールをし、処置をまかしたことに、これは、最後まで、平川さんらしさを通すことで、平川さんの尊厳は、最後まで自分で守り通した心意気なんだろうと、すごい人だなと、改めて思います。 

 ふと、平川さん自身は、自分の死をどう考えていたのだろうかと思います。二十年間に、五人の肉親に旅立たれて、すべて平川さん自身の手で送ったことの意味は、今の平川さんにどう影響しているのだろうかと推しはかりもいたします。T氏は、「葬儀の手配・段取りをくまなくすること」って、冷静さを取り戻すことでもあるのでは」と、言いますが、それだけではないような気がいたします。 
奥さんのR子さんの旅立ちには、立ち会わないで、じっと家で終わるのを待機してた記憶があります。
  その時の告別式の言葉です。それは平成十一年四月早々、満開の桜にたくして、七十四歳で散ったR子さんへの私の追悼の言葉の一部です。

  「春、桜の花は満開の小さな花を一斉に競って咲き乱れます。そして、わずかの間に一斉に散って行く姿は、桜の根の旺盛な生命力ゆえに、枝葉は荒荒しく、幹の肌の気品は気高さを織り交ぜて、人の人生に儚くも悲しい影を投げかけます。人と違うところは老齢を重ねた桜ほど、目に過去の経過の結晶をさらして、それが人の感覚や思いを研ぎ澄ます。老いさらばえて咲く一斉いの開花の情景は今年限りの姿であり、ただ咲くばかりの狂おしさを思います。若木に比して人を圧倒する姿は、本来、人も年をとればとるほど老齢の桜に似ている姿なのですが、異なって見えるのは、人の思いのなせることなのでしょう。人が年を重ねた末の、悲哀や年輪を偲ばせた変形した姿・形のたくましさを、もっと見つめてもらいたい。『人は年を重ねるほど、若くなる』と言う言葉の意味を人はもっと考えなければいけません。若い人も年を重ねた人も、あっという間の過去は目に見えずとすると、同じなのですが、十年二十年と較べて四十年あるいは五十年は確実に違う重みを、老齢の桜のくるおしい姿を見て、なおさらに持つのです。 
思い起こせば、貴方が倒れた十七年前の五十七年間という、華々しく、勝気で、意気揚揚と突っ走っていた時間は、春には一斉に咲き誇り、花の散ったあとの一斉若葉の繁るさま、雨に打たれて生き生きとして、陽光に踊り輝き、秋には葉の色を変えて散る姿、四季のそれぞれの姿は、同時に次の季節の予感でもあり、誰も止められぬ勢いをていしていました。
そして、その後の十七年間の軌跡の中の、昨年四月三十日、貴方は、次男のAさんを病弱だったとはいえ、三十六歳という年齢で突然に亡くされました。家族全員にとって、それは痛ましくも悲しい出来事だった。貴方は気丈にも不幸にして早く旅立った息子を送るのは忍びなくと、「絶対に会わない」と病院に居座るかに聞きました。貴方の中で、何かが変わろうとしていたことは事実です。硬い意志をひるがえして、病院から自宅に戻ったと聞き、貴方の生き方も十七年間の闘病生活で受容に変わってきたのかとおもいました。それが、息子を一人で送るという決意であったと気が付いた時、桜は、まだ散っていなかったのです。 
  確かに不自由な身体を、早朝、全身に汗をかいてリハビリする貴方の姿の内面は、以前と変わらない姿です。目に見えぬものに頼まぬことを頼りに生きてきた貴方は、家族に尽すことによって、自分を支えていました。貴方の十七年間の軌跡を知るにつけ、関東一円の病院を回っても、真っ直ぐに生きざまを貫いた様は、後を思い出すことはなく、あっという間の過去を振り返ることなく、だからこそ、行きついた所で、最後の最後は、天に任すという、いさぎよい貴方の姿でした。人として生まれた限りは、不確かな時を迎えることは、確かな事実であり、その時、自分の力の何の頼りにならぬことを知りぬいた、桜の花びらのいさぎよさに似て、散り去る貴方の姿と重ね合わさります」と。 

十七年間に渡る妻の闘病生活を支えていたのは、平川さんです。その間に、次男の死、妹の死、母の死と、失ったものの大きさは、計りがたく、その分、平川さんを強くして、世界を、人を見抜く力を形づくってゆきました。それだけが強くしたことではありません、それより以前、戦後すぐの昭和二十三年に、二十四歳という若さで、働き盛りの父の死を看取り、それ以降五十六年間に渡って、昭和十九年に亡くした兄に代わって、一家を平和に支えてきたこの事実です。今の幸せな家族の礎となり託して、今、散ってゆく平川さんの姿が眼蓋に浮かびます。 
人と接しては、目を開いて、一途に見つめる眼は、人の動揺を見抜く鷹の目のような、その眼は、自分にも厳しいものだったと思います。それも、自分自身の困難な患う環境の中で、家族の過去・現在・未来を見つめていたことにもなります。
私に忘れられない姿は、多くありますが、今から10年以上前の正月、股引に半天という姿で、八幡宮の参詣する姿があります。あの姿に、深川に生まれ、深川によって育まれ、深川に息を引き取る、誰よりも深川を愛した、筋が通った深川の粋を、意気地を、勇みを、豪気さを、そして深川の情けを、見せて頂いた気がいたします。


人生とは、闇を照らす一瞬の蛍の光

人生とは、闇を照らす一瞬の蛍の光

  平成十八年七月三十一日、小説家の吉村昭氏が舌ガンから膵臓ガンに犯され絶命いたしました。自ら点滴の管を引きちぎり、カテーテルポートを引き抜くという行為に、妻であり芥川賞作家である、津村節子氏は、八月二十六日のお別れの会でこのことを話しております。

「吉村が覚悟し、自分で自分の死を決めることができたということは、彼にとっては良かったことではないかと、今になって思っております。」 
  妻として、一年と六ヶ月吉村氏を支えた、家族として、裏切られた思いは、結婚生活を含めると、何だったのだろうと苦しみ、煩悶する姿があります。そして、彼女は、

「ただ、私は彼のそういう死に方を目の前で見てしまったから、今、幾多郎のテープを聞きながら書斎にいるだろうか、宇和島や長崎や北海道に取材に行っているんじゃないか、というふうに思えないんです。まだ生きているとは思えないんです。あんまりひどい、勝手な人だと思います。私は目の前で、彼が自決するのを見てしまったのですから……。もう本当に死んでしまいました。どこにもいません。書斎にもいません。取材にも行ってません。吉村は本当に死んでしまったのです。」

  この津村節子氏の吉村氏への強い決意に驚きました。他人の私が推しはかることはできませんが、これは、偲ぶ会ではなく、友人や作家仲間の集うお別れの会での、津村夫人の決別として考えなのだろうと思いました。

  その頃、T氏は、危篤と安静のはざまに生死の時間を過ごしていました。T氏は、昨年の五月に不調を訴え、八月半ばに検査の結果、九月の一日に緊急の手術ときまったのです。私がそのことを知ったのは、T氏の息子さんから電話をいただきですから、八月二十四日でした。 
  T氏の症状は、舌の付け根にガンができて、舌と咽頭部を切除するという大手術です。

  八月二十二日に移転した有明の癌研に入院し、手術は成功いたしました。しかし、突然に、食べ物や飲み物を呑み込むことが難しく、その上、言葉が発せられなくなった事実、どう受け入れていったのか、受け入れまでに時間がどれ程かかったのかはわかりません。持病として喘息を持つ人でしたので、いかに身体が頑健だったとしても、肺は鍛えようもなく、肺に菌が入ったのでしょうか予断を許さない状態がつづいたとお聞きいたしました。

  T氏は、普段も寡黙な人であり、何事も独りで、会社や家庭で、決断してきた人でした。入院前も入院後も、症状を自身にかかえこみ、ベッドに過ごしていたのが、ちょうど一年前のことです。 
  もともと強い人でしたものの、退院し、自宅で療養しながらも、病気や症状が自らを更に強くしてゆくことを知ります。何のためにと言えば、自分のため、それは、家族への思いではなかったかと察します。

  舌ガンについては、私の別の知人も、時期を同じくして、手術していました。進行が早く、一刻もはやく切除しないと広がり、手遅れになることを聞いておりました。その知人は、舌の前部がガンでした。その部分を切除したあと、右腕の上腕部の筋肉を舌に移植し、その上腕部にお尻の肉を移植しました。彼は思ったほど経過が良く、退院後、始めは何ヶ月も、家に籠もっていたものです。次第に、電話でも話しが聞き取れるようになったことで自信を取り戻し、外に出られるようになりました。舌ガンは、手術しましても、その後のじぶん自身の精神に重くのしかかることを知りますし、良くも悪くも、病気は人を変えながらも造ると、つくづく思います。 

  そして今年の8月、この吉村昭氏の舌ガンから膵臓ガンへの転移の顛末を新聞や、文藝春秋誌で知るにつけ、私は氏を思いだし、どうしているだろうかと、この夏を過ごしていました。

  いつも突然の電話で始まります。平成十八年九月になり、T氏の息子さんより、T氏の危篤の電話を、豊島区の病院からいただきました。電話でしたが、七月の始めに緊急に入院し、今日に至る危篤の二ヶ月の経緯をお聞きしている最中、電話の向こうで、誰かに喚ばれたのか、電話が切れました。そして一時間も経たないうちに、再び息子より、あの後T氏が息を引き取ったことを知らされたのでした。七月始め、T氏の容態が悪化し、病院に緊急入院したとこえろ、「ここ何日か、長くて一週間だろう」と医師から言われたにもかかわらず、強い意思か、身体は傷ついてやつれていたものの、二ヶ月近く死のほとりで、ぎりぎりの生の時間を過ごしていたことを知ります。もう何度も危篤と言われて、病院に駆けつけ、T氏の姿を間近に見て、本当に危なくなって……、病院の看護士さんから、綺麗に清拭されたT氏をお寺に迎えたのは、T氏が亡くなって、二時間弱でした。娘さんから生前好きだったクラシックのCDが持ちこまれ、本堂のなかで、荘厳に響いていたのが印象的でした。

  妻や子どもから見送られたT氏は、死に対して生に対して、受動的に医療の行為を受けるなか、最後まで主体的な行為を繰り返しての、この一年と六ヶ月だと思いました。そして、その間も、沈黙のT氏からほとばしる多くの言葉を、遺族は身体にしみ込ませたと思います。

  吉村昭氏の妻、津村節子氏のお別れ会での言葉が九月始め“文藝春秋誌”に掲載されました。同じ舌ガンという言葉のなかに、「もう本当に死んでしまいました。どこにもいません。書斎にもいません。取材にも行ってません。吉村は本当に死んでしまったのです。」の言葉を思いだし比べてみました。「お父さん、あなた、兄貴、おいT」と問いかける言葉に、T氏は、祭壇でも何処でも、力強く「なんだ、どうした」と、すぐそばに居るように、これからの家族の行く末を守ってくれることを念じました。

  平成十七年一月に出版された「津村節子自選作品集」(岩波書店、全6巻)の最終巻に収録された書き下ろし「私の文学的歩み――遥かな光」に、《一九六一年、津村さんの書く少女小説で、なんとか生活できるようになった時、吉村さんが勤めをやめ、作家専業になった。未熟児で生まれた娘を抱え、不安はあったが、津村さんは〈かれの焦慮は私のものでもあり、反対はできなかった〉と書いている。

  しかし、それでも芽が出ぬ夫は二年後、「おれはきみの厄介になるのに疲れたと、再び働くと言い出す。これに対し津村さんは、疲れたのはこちらのほうだ、と私は言いたかった。/女房に稼がせて悠々と自分の書きたい物を書いているおれを、腹立たしく思っているのだろう/かれは私の心の中を見通していて、反論できなかった。躯の中を、野分が吹き抜けて行く様な気がしたと書いている。津村さんは、いまも無名時代のように書くことへの不安があるのだ。〈私はよく夜中にうなされてうめき声を出すらしく、吉村に起される。遥か海面に光が見えている深い海の中にいるような気持は、いまも続いている〉と八月十九日読売新聞で、鵜飼哲夫記者は記していた。

  夫婦の心の中に野分け(台風)が吹く想いとは、想像がつきません。芥川賞作家と直木賞作家、「夫婦で小説を書くなんて、地獄だなあ」と痛ましそうな表情で作家の八木義徳が言ったそうですが、「もうどこにもいません」の伏線は、こんなところにあったのでしょうか。

  アメリカインディアンのクロウフットは、一九八〇年の春、死の床にありました。呼吸が乱れ、苦痛に襲われていたのです。家族は彼に寄り添っていた。クロウフットの意識は保たれて、彼を心配する人々の愛に囲まれていた。 
  クロウフットがこちら側での命を終え、アーチをくぐって向こう側へ渡ろうとしているまさにそのとき、家の外では木々が芽吹き、花が咲きはじめて、春の息吹が満ちあふれていた。まるで死が、地上に再生をもたらすかのように。クロウフットの死を目の前にして、それまでずっと看病してきた長女がこう尋ねた。「人生って、なんなんでしょうね?」

  クロウフットはしばらく考えていたが、やがて老いた目を思い出に輝かせ、かすかに微笑みながら、娘のほうを向いて言った。『《風のささやきを聞け》より、めるくまーる出版』

人生とは、闇を照らす一瞬の蛍の光
冬の寒さに浮かぶバファロウーの白い意気
草原を横切り、夕日の中に消えていく小さな影 

  自死でなく、突然にしろ、病気にしろ、人生を振り返って死を受け入れることは、一瞬の光となり、一筋の線となって親しいものに夥しいほどの思い出が贈られるものです。それは、時間と存在の絆のなかに、死として迎えられることなのだろう思うのです。


時計(平成12年1月3日)

時計(平成12年1月3日) 

 人が誕生したとき、私たちは何者にも染まらない、無垢の精神と肉体で生まれてくると言います。しかしながら、実際は人は決められた時を知って生まれてまいります。空を渡る鳥たちのように、故郷に帰る時を守ると言う時計の番人を、自らの肉体の中に住まわせているのです。

鳥たちも、時間と空間を生まれながらにして、知っています。暗い夜に輝く星たちの乱舞を仰いで、夜間飛行する鳥の群れは、その証拠です。行っては帰る繰り返しの中に、誕生と消滅を織り込みながら、ひたすら夜間飛行する鳥たちの軌跡は、大空を背景に、時間と空間の交差する連続とした情景を、おぎなって果てしない創造の旅に誘います。

鳥たちの視線は、翼を広げれば、時間と空間が動くかのように、遥か下界に極小の望むものの姿も、しりえに遠ざかるのでしょうか。まるでテレビゲームの迷路の中を進むように、壁や風景が動くかのように。空間だけが動く世界は、奇妙な世界であり、やはり時は刻まれてこそ時なのでしょうが、動くということが、時を刻むのではないかと思います。

子どもの頃、あるいは若かりし頃、幾度となく通った駅や商店街、学校に20年ぶり、30年ぶり訪れたときの驚嘆は、空間と時間の変化の途切れた裂け目に溺れるかのような、戸惑いを感じるものです。この場所は紛れもなく、過去に自分がいた場所であり、今いる場所との隔たりは、人の時間旅行がいかに遠いところに来てしまったか、もう戻ることの出来ない時間旅行の位置を計測することから、現在の位置を浮き立たせます。時間と空間の動いた後は、動くものの世界の真っ只中に取り残されたかのようです。
さらに、そこに居たはずの人もいないとすれば、白々とした違和感に包まれて、見てはいけないものを見てしまったかのように、後悔と懐かしさが湧き上がります。それは、動くものと、動かないものの間に起こる、揺らぎのようです。厳密に言うと、動くものは同時に動かないものに支えられ、動かないものも同時に動くものに支えられてこそ、時間も空間も成り立っていると言えるかのようです。時計の針は動きながら、実は一歩も動いていない。

地球が自転し、太陽の周りを回転する事が、鳥達の羽を広げさせるとしたら、繰り返す環境の変化が羽を広げさせることであり、環境の変化という動くものが、動かない鳥達を動かし、同時に鳥達が動くことによって、動かない環境が変化してゆくという図式は、仏教の因果律として、最も具体的に世界の成り立ちをよく表現している。

今から20年30年後には、心や意識の一般的な性質やあり方は、ほぼ解明できると言う。自我についても、解明できることになるという。日本文化の精神性を支えてきた禅も、一つの時代を終わることになるとおもう。
しかしながら、人が生きつづける限り、禅は、足元にあるといえるだろう。

時間と空間の交差したところ、それは現在です。今・こことは、真に具体的ということであり、抽象的なものを一切排除した禅の境涯であり、絶対の現在です。私達各々の時計が刻む文字盤は、絶対現在を指すといえるのでしょう。何ものも入る余地のない”今・ここ”が世界であり、総てが内包されている世界を、誰もが認識する世界は、禅が世界に行き渡ったことであると思うのです。


星(平成11年10月15日)

星(平成11年10月15日)

仏教の縁起を注意深く、考えてまいりますと、実に奥が深く、仏陀の手のひらの上を、這いまわる赤ちゃんという思いです。私が、ここにいることを、説明するためには、どうしても避けて通れな問題があり、それは、私と時間と場所との関係です。縁起は関係でもあるのです。

私が幼かった頃、時はゆっくり流れていた。早く大きくなって、お兄ちゃんのように、お姉ちゃんのようになりたいと、両親に束縛されずに、自分で判断し、物事を決断することが羨ましく思ったものです。 には、時の経過が待ちきれない、幼い心があったように思うのです。
そして、知らず、年を重ねて気がつくのは、時の早さです。時計の時間の速度は、変わらぬものの、受け取る時間のスピードは違う。
年を重ねての懐かしい記憶は、本来、今に直近の記憶こそ、まぎれもなく忘れようもない記憶のはずが、子どもの頃の思い出がより鮮明に思い出すのは、私達に問題があるのだろうか。
遠く暮らす年寄りの便りを、私に告げた娘さんは、「故郷の深川が懐かしくて」と言う言葉でした。仏陀も自分の死期が迫った時、目指したのは故郷でした。たどり着くことが出来ずに、北方を目指して亡くなったことに気がつけば、何千年前から自然な感情なのでしょう。
そして、それが記憶のメカニズムですと言われれば、そんなものかと思うのです。

年を経て、鮮明に蘇る過去の記憶は、より近い記憶を退けての記憶であることは確かだと思うのですが。
そして、その退けられた記憶は、消去せられた記憶か、または意識を何かに集中した時に、同時にその周りで起こっているだろう、事象の変化を集中しているからこそ、記憶に留めることが出来ない記憶ではないかと、思ったりします。私達が何かに没頭している時、それが地下鉄で家に帰るとき、案外、景色を知らずに家にたどり着いているものです。また、ボーッとしている時にも、同様なことがおこることに似て。

年老いて、他人を認識できなくなってしまった年寄りに、「私は息子です。わかりますか?」と問い掛けて、解らなければ私の母ではないかといえば、私にとっては、正真正銘の母に違いない。でも母にとっては、もはや私は息子でもなく、自分以外の人なのであろうと考えてみると、人間とはいかに自己中心的なメカニズムの中に生きていることがわかる。しかしながら、すべての人が、そのメカニズムの世界で生きていて、互いに交信しなければ、自己の存在を意義あるものに出来ないとすれば、真実なものとは、このメカニズムそのもの、ということになるのではないか思う。
無二の親友と思っていた友人が、その友人から私を見ると、人生のとある通過点に出会った人物であり、通りがかりの人と変わらぬと思っていたということも、よくある話かもしれない。

人に裏切られ、騙されて知る悔しさ、自分のふがいなさは、そのことを知ったがゆえの思いであり、知らなければ、自分は騙されていなかったということになるのだろうか。騙されていたのは、ずっと過去の時間なのに、それを知った時点で、時間差分こそ、ふがいなさや悔しさの中身ともいえます。人は騙されまいと強く思うのですが、騙されているかどうかは、知らなければわからないのです。もしその時間差が、その人にとって、決定的に人生の大半を占めてでもいたら、その反動も大きなものに違いない。
今宵見る、星の輝きは、何億光年の過去の瞬間だ。その何億光年の時間に思いを馳せると、未だ降りそそがない、その後の星の輝きは、私達の未来にかかわるでしょう。

時間を距離に置き換えると、今も輝いているかもしれないし、もはや生滅してないかも知れないのです。何億光年も過去のものだからです。今見ているものと考えると、見られているものとは、常に時間差がつきまといます。厳密には同時間の瞬間に見えているものは、じつは総て過去の時間のものです。光が物質なら、いくら瞬時に空間を走るといっても、時間はかかります。では私達は、過去の星の輝きを見ているのでしょうか。

その意味で、確かなことは、今見ている星の輝きは、何億光年前にさかのぼって、見る星の輝きでもあり、さらに確かなことは、今の私は、星と時間を共有して、今現在の星の輝きでもあるという気がするのです。何億光年かかって、星の輝きが、私達を照らしているとしたら、見つめられているとしたら、照らされている私は、今、照らされているという、不思議な感慨があります。

私達が、現実に見たものすべてが真実であるかは、確かなことではありません。そして比較する物差しは、逆に私達を規定しようとするかのように煩わせます。 何か現状を、我々は錯覚していないか?と考えた時、そもそも時の速さの、規則性はそれぞれの人にとっては、あまり意味のないことのような気がするのです。 現に輝いている星を見て、我々は何億光年前の、「これは過去の星の輝きだ」とは、いいません。それは 輝いている星の輝きが、美しく神秘的であるからです。『星に願いを』という曲がありましたが、何億光年前の星に、祈りはしませんでしょう。今輝いている星に、祈るのです。

そして、その星は、現実を飛躍して、未だ来たらぬ想像の時間を含んだ、今の星の輝きなのです 。



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