臨終(平成10年6月8日)
臨終(平成10年6月8日)
平成7年7月12日前2時35分、深川は福住町のとあるマンションの一室で、キクおばあちゃんが95年という永い命の時間に疲れたのでしょう、静かに本当に静かに消えるように息を引き取りました。明治、大正、昭和、平成と随分長かった婦人の命でした。長かったが故に、今、思い残す事もなく、おだやかに死を迎えられたのだと思います。思えば、日本が戦争という暗い時代に突入した時代、困難な戦後を含めて、言い尽くせるものではありませんが、良いも悪いも、さまざまの事件がありました。
婦人は明治三十三年四月二十八日、岐阜でうまれました。大正大震災前、上京し水道橋の産婆学校に入学、卒業し、同十三年、UK氏と深川は永代で結婚し、二男一女の母となりました。また助産婦として取り上げた、数え切れぬほどの小さな生命は5、000人に達すると言われます。この子供達もやがて成長し、そして婦人を大きく、大きく成長させたのでした。体は小さくとも、それこそ大きな人でした。昭和四十四年三月二十四日、夫UK氏との別れ、娘A子さんの夫との別れ。悲しいこともたくさんありました。良いこともたくさんありました。それにつけても、婦人の笑顔が今でもはきっりと目に浮かびます。何とも忘れられない人でした。
亡くなった前日、午後8時、私はあなたの様態が危ないとの知らせを、息子さんや娘さんから電話を受け、あなたの居るマンションへと急ぎました。玄関を開けてまっすぐにあなたが横たわる部屋にと急ぎました。あなたは酸素吸入をされながらベッドに横たわり、荒い息をして横たわっておりました。家族の導かれるままに、私はあなたが横たわるベットの傍らに座り、あなたの手を握り締めました。手はほんのりと温かくあなたの意思が指に伝わるのを感じました。そしてあなたの足をさすろうとした時、あなたの足はすでに冷たく、すでに死期が近づいている事をしりました。あなたの息は荒く、やがて静かに、そして、少しずつ冷たさが、あなたの心臓を目指して這い上がろうとするかのように、息はまた荒く、そして静かに、死は、体の抹消の部分より、ゆっくりと確実に間隔をせばめて近づいてくるのを見るおもいでした。私は、死を受容し、自らの肉体が最後の炎となって燃え尽きるのを待つかごとくの姿を見て、感動したと同時に、「頑張って」と、心のなかであなたにエールを送りました。「これこそが、天より与えられた人としての時間を最後まで完全燃焼した 姿なのだと」。
人間として、僧侶として、人間の尊厳をしかと確かめた思いです。
さて、我々が生きる世界の延長として死後の世界が存在するとしたならば、旅立ちと言えばよいのか、帰ると言えばよいのか。今、婦人が行こうとする世界。それは、もしかすると、生まれる前の世界であり、私たちの現実に生きている瞬間という、つかまえることの難しい時の狭間の世界なのかも知れません。いづれにしても、私たちを覆う大きな大きな命の渦の中に旅立って行きます。その場所で、婦人は、私たちと、同時に生きるとするなら、婦人は、気ままに季節の飾られた花々に成り、風になり、その風に舞う花びらになり、雲になり、空になることができるでしょう。
七月十三日、四ツ木火葬場にて、近親者に見守られて荼毘にふされされました。
旅立ちの扉は婦人の肉体が火葬場にて炎の中をくぐり抜けていくことから始まりました。きっと婦人は、勇気を持って平然と炎の中をくぐり抜けていきましたに違いありません。それは、現実の世界で遭遇する苦悩、怒り、まよいという炎の中を、勇気をもって平然とくぐり抜けて行く婦人の姿と違いありません。思い起こせば婦人が歩いた九十五年という長い年月そのものが炎でありました。そして、この世での最後の別れが、最後の炎のなかをくぐり抜けることのような気がするのです。
>後に残り婦人を送る我々も、いずれは婦人の後を追います。婦人の姿はもう目にすることはできませんが、目を閉じればそれぞれの人達の心の中に、我々の一瞬一瞬のなかに、婦人は永遠として今を生き続けることにります。
外道
外道
毎年5月の第4土曜日は、私の寺のお施餓鬼で、今年は、平成14年5月25日でした。 お経が終わって、帰りしな、Sさんの息子さんから、「和尚、少し宜しいですか。実は、弟が亡くなりまして、戒名を頂戴できないでしょうか。そして、父の墓に埋葬したいと思うのですが、今日はお忙しいようなので後日ご相談したいと思いますので、いつ窺ったら宜しいでしょうか。」と、持ちかけられました。
私は、少し深刻な内容そうでしたので、
「それでは、月曜日ではいかがでしょうかと。」約束し、彼は帰って行きました。
日曜日に、再度彼から電話があり、月曜日の午後に、彼は三多摩の郊外から車でやってきたのです。
彼の話は、故郷四国に住む父母の状態と、弟の家族のことを実情、そして、今の自分の現状と将来に渡って、真摯に語ってくれました。
それにしても、5月13日、耐えきれない頭痛に救急車で搬送され、翌日には不帰の人となった弟への厚い思慕に似た兄の思いは、ただ一つ、弟の妻への許し難い憤りに近いものからおこされたものだったのでしょう。
私は、詳しくは聞かなかったものの、弟の残された家族から、遺骨を取り上げることの毅然とした彼の態度に、誠実な彼の人柄を感じ、すべてを自分の責任で決行する強い意志を認めました。
老いた両親を四国に残し、東京で独立して、側に引き取りたいものの、長年住み着いた地を離れることを考えると、それが出来ないもどかしさが伝わって来ます。将来、いずれは東京に引き取ることの決心は付いても、今はその時期ではないことを知っての彼なのです。どう応援し、彼に報いることは、私の努めでもあります。
秀才だった弟さんも、50歳で大手の会社からリストラなのでしょうか、子会社に配属され、半年以上に渡って、12時間労働を強いられ働きづめだったと言います。兄が4月に会ったとき、弟さんは、白血病に犯され体力が落ちながらも、まだ大丈夫と働いていたのです。過労死というSさんの話を伺っていて、弟さんの内心は、自分の気力や体力がそろそろ限界に達して、壊れそうな予感を持ちながらも、もう少し大丈夫と、自分で体の変調を先に延ばしていたことを知りました。そして、倒れる以前の数日は、頭痛やめまいがしていたといます。弟の奥さんは、Eと言う宗教に勧誘され入信し、外出気味であり、そのことにも悩んでいたとも言います。弟さんは、外にも内にも、多くの逼迫する懸念を抱えていたと言えるのです。二人の息子さんは、一人は成人し社会人となり、もう一人は、高校生と聞きました。
彼の気持ちに答えて、この寺の墓地に、彼の遺骨を迎え入れることを賛同して、私は、弟さんが倒れる前日まで必死に気を張って自分を保っていたことは、何を意味するのか、考えられずにはいられませんでした。自己の免疫を保てない白血病の発症を知ったときの葛藤は、自分の将来に不安を投げかけるものです。頭痛が激しく我慢が出来なくなるまで、少なくてもその信号は何回もあったはずですが、そのことを自分で処理していたと知ると、家族は父親という命の何を見ていたのだろうかと疑問を持ちました。
14日に弟さんが死亡して、仏式で、葬儀をしたと聞きました。父親に秘めてした葬儀に、弟の妻は、「別れの儀式は、私の信ずる宗教の宗旨に合わなく、神様の天国で、私が、天に召されたときに、再会できるから」と、積極的ではなかった。意味のないものの葬儀を取り仕切ったのは、兄であるSでありました。
葬儀が終わって、遺骨を、弟の家でなく、彼の両親がいる家の仏壇の側に安置したとき、老いて痴呆が進んだ父親は、遺骨を抱いて泣き出したという。私は、老いて父親の泣くその姿を想い、老いた上に、更に自分の命の未来までも奪い取られるかのような、この残酷さの事態に、自分の一部をもぎ取られる老父の表現を、その妻は見たのだろうかと思った。もっとも、翌日には、こうしたことさえも忘れてしまった父親のことを聞き、安堵したと同時に、人生の絶妙な不思議に感心したのです。
弟の妻が、次の世界で出会うとしても、この世に残された人間にとっては、明日を知れない命ではありますが、20年生きたとして、その20年の後は、姿形・意識も変化していることになります。今、悲しみ、致し方なく別れることこそ、自分自身を直下に見ることであり、誠実に自分の今を表現することに気がつかないことに、憤りを持ちます。また、同時に、マインドコントロールというのでしょうか、人は、観念に縛られると、その観念にしがみついてぎこちない動きが、周囲を困惑させます。外の世界を見ようとしない、逼い空間に暮らし、集団のイメージだけを鋭く追い求める行為は、人間の持つ自然な情感をも痛めてしまうことを知ります。後悔もすることなく、ただひたすらに教義を追い求めて、その教義に沿わないものは受け入れることが出来なく、矛盾を矛盾として教義に照らして認めないEの宗教は、人として踏みはずす道でもあります。
馬祖の残された言葉に、『即心即仏(そくしんそくぶつ)』がります。心とは、喜怒哀楽愛悪欲(きどあいらくあいおよく)の七情の表現を持って示すことが出来ますし、仏を、単純にホッとした状態と置き換えてみますと、『即喜怒哀楽愛悪欲、即ホッとした状態』となります。その逆から見てまいりますと『即ホッとした状態、即喜怒哀楽愛悪欲』です。微妙なニュアンスが理解できると思うのですが、「身は社、心の神を持ちながら、よそを願うぞ愚かなりけり」の句の、心の神を仏に、自分自身の喜怒哀楽愛悪欲にいたたまれず、救いや癒しを求めてかけずり回ることは、私たちの日常の姿なのですが、先ずはそのことに気付くことが必要なのでしょう。あくまでも、自分の心の変化に気付くことがひつようです。禅が日常の生活を一歩離れたら、禅ではないことは、禅とは心そのものだからです。
繰り返すことの出来ない人間の一生であるが故に、今を大切にしなくて、再会も別れもないではないですか。世界が悲しみに溢れ、自分自身に降りかかった不幸なことを真っ正面から受け止めることが、亡くなった者への最高の哀悼の意味があります。 全身で泣かなくて、それ以上のもっと大きな命が世界には在るなどと、親しく過ごして夫が持っていた一つの大きな世界が消滅したことは、夫にとっては、比較できる以上の命を亡くしたことになるのです。それにしても、弟さんの51歳という年齢の全身に、アクセルを踏み放しの末期が気の毒で、惜しまれます。
弟さんの、相談し、受け止めて、判断し、実行をうながすことを、胸に収めてひた走りしていた行為に、弟さんの強靱な精神の強さと、度量の広さが見受けられます。そこから、責任感も見えてきますし、子ども達が巣立った後の、将来の葛藤も見えますが、全身で主張していたことは、受け入れていたことの事実なのでしょう。
障子(平成13年3月10日)
障子(平成13年3月10日)
嬉しいことがあると、そのことのために何かしたいと思うものだ。平成13年早々、Aさんから電話があった。
「和尚さん、息子が結婚することになりまして、3月の16日ですけれど、九州から親戚が大勢来ることになったのですが、ついでに、未だお詣りしていない人がいるものですから、羽田からバスで10時半頃になろうかと存じますが、本堂でお経をお願いし、お話しを少ししてください。そうして、お墓参りをして、息子の結婚式に臨みたいと思うのですが、いかがでしょうか?」と。
おめでとうございます。嬉しいことです。有り難うございます。」
私は、このことが、寺にとって、滅多にあるものではないことに思い当たると、どんな風にしたらよいだろうかと考えた。結婚式と法事とは、お目出度とお弔いと対すれば、真っ向正反対の内容でありましょう。しかし、結婚が新しい家族の出発点とすれば、今まで自分が所属していた家族を支えていた故人に感謝をすることは、ましてその墓に実の父親が眠っていることを思えば、正当なことであり、結婚にこそ似つかわしい仏事でもあります。
式の内容と、回向を作りなおすことを考えたが、先ずは、本当のところは、畳を新しくしたいのですが、なかなか出来ません。そこで、私は障子を貼り替えることにした。
障子紙を剥がすと、そこには、黒く焦げた焼け跡があります。先代も先々代もその先代も、この障子を新品にしなかった。今も、この焼け跡を残しているのですが、焼け跡は無惨でもなく、懐かしい気がするし、この寺の誇りでもあるからです。
張替は、糊の乗りが悪いと、洒落で言っているわけではないが、張りづらいこと甚だしい。この焼け跡のことを実際に知るものにとっては、悲惨な記憶でもあるのですが、既に50年以上も経ってしまえば、懐かしいことでもあるのでしょう。しかし、50年経っても終わらないことが、この国には多くあります。
昭和20年の3月10日、この当たり一帯は、火の海となり、陽岳寺の庫裡は消失した。しかし、本堂だけはからくも残りました。幾度となく繰り返した災害の、大正年間の黒江町火事、大震災と火災に遭い、もうこりごりと本堂を鉄骨鉄筋コンクリートにした智慧でもあったのです。災害に備えて窓は小さく、屋根を張り出した本堂は、昭和の5年頃立ち上がったと言います。それから15年が経ち、もう一度火に囲まれるとは、しかも焼夷弾の雨の中に立ちつくすとは、誰ひとり考えられなかったことだと思います。
庫裡に飛び移った火は、本堂の鉄の扉を溶かし、中に進入いたしましたが、先々代達と避難した人達が必死で水を掛け助かったと伝えられています。一昼夜燃えていたのですから、窓の外は、火車で、ガラスを等して障子を焦がしていたということでした。本堂の畳廊下の天井も黒く焼けこげ。柱や梁も黒く燻った痕を、今も残しています。
戦後は、辺り一帯焼け野原で、高い建物は崩れ、本堂だけがポツンと建っていたと言います。仏教界は、この本堂を拠点として、葬儀や戦災殉難者や戦没者の慰霊、法事に、被災者の住まいとして使われていました。語り継がなければ忘れられてしまう記憶を、この障子が憶えていてくれるからこそ、残していこうと考えます。
本堂で執り行われる結婚式を控えての法事、あらゆる法事も、ちっぽけで大きな些細な刻んでいる歴史が支えているとも言えないでしょうか。
日月(にちげつ)
日月(にちげつ)
人が亡くなって、亡くなった後の名前をつけることに、違和感を持ち始めて、もう随分と時間がたちます。そう思い言いながらも、その間に、何人もの名前をつけたことでしょう。初めは多くのことを考えながらつけたものです。でも、いつしか必ずと言ってよいほどに、亡くなった人の生前の名前はどうだったのだろうかと思いはせるようになりました。うかがい知れない名前を前にして、生まれた名前を浮かべることで、亡くなった後の名前が次の世代に引き継がれるという作業の連続の中に、人は命を繋いでいることを意識し始めたのです。この花の下に、この木の下に、この石の下に、この海の何処かにと、埋もれて記憶の中に収まることと、位牌の中に死後の名が刻まれ手を合わせることは、偲ぶ中に、残された私たちの永続性を発見するものです。亡くなった者の写真や遺品を、残された家族の家に飾ることも、残された者の、今を生きるあかしです。
平成15年6月15日(日)朝、M氏から訃報を聞かされたとき、M氏に弟さんがいたことなど何も知らず、まったくに突然のことでした。月に一、二回と一人暮らしの明(これは実名です。文章の関係上掲載することをお許し下さい)氏を通って様子を見る姉とM氏の動揺が伝わって来ました。しかも亡くなって、15日間も経っていたからでもあります。誰も攻めることはできないことに、心が悔やまれますが、これは、結果として、哀しく寂しいものですが、明氏が旅立つことによって、あとを守っている兄弟姉妹の心の潤いと豊かさを、明氏自身が与えようとする試みなのかもしれません。寂しいし、哀しいし、歯がゆいし、だけれども、どうすることもできない明氏の重みです。
受話器に耳をあて、亡くなった状況に不憫さがわくものの、それでも思いを馳せて明氏の死を、どう考えればよいものかと、そして、法号にどう表 現するかを考えます。もちろん、この法号を目にして気に入ってもらわなければとも思いますし、将来にわたって、仏壇に安置して合掌し接するとき、拝む人の心の成長に合わせて変化しながらも変わらぬ名が付けられればと考えます。
長いこと墓守りをしていると、ごく普通の言葉に、思いがけないことの意味をかぎつけ驚くことがあります。そして、こうした言葉の意味を味わっていると、何故か楽しくなります。人々は生活の中に区切りとして、いろいろな意味を含んで言葉を使っているものの、そのうかがい知れない時代を超えて共通した言葉に、『日月(にちげつ)』があります。
日居月諸 胡迭而微 ~ 日や月や なんぞ迭(たが)ひにして微(か)くる 居と諸は、日よ月よと強調する助詞であり、欠けることのない太陽と月の日食月食の現象に、日月さえもつねに安定したしたものではないと。日が月がと欠けることに、詩経では、男性や女性の心の変わり様を歌います。そこに見るものの心が加われば、日月という同じ刻む歩みに、過ぎ去った日々あるいはその日々の出来事や事物が、また来ようとする日々やその日々の理想や願望が表現されます。日よ月よと歌って、父よ母よ、恋人よ、若かった頃の自分よと意味を持つ言葉になる、それが日月です。
また、日月は、昼と夜に、明と暗に、日が主なのか、月が主なのか、明が主なのか、暗が主なのか、明があるから暗があるのか、本来は暗なのに、闇が明に照らされて明るくなるのか、日を灯すことにより暗がなくなるのか、明が暗闇に閉ざされて漆黒の世界になるのか、暗と明を心の状態にたとえて、変わることのないものでさえ変わる現象に、心が翻弄されさまよい憂いが見えてきます。
不日不月 曷其有括 ~ 日ならず月ならず 曷(いつ)かそれ括(あ=会)ふことあらむ
日ならず月ならずの言葉は、幾日とも幾月とも知られないことです。人の別れや出会いであれば、またいつの日か会うことがあるだろうとなるのでしょう。会うだろうことを主とし、もう絶対に会わないだろうことを主として、それは『いつか』会うこともあるかもしれないと……。そして、日ならず月ならずは、遙か彼方の自分が生まれる以前の、人類誕生の以前かもしれません、そんな悠久な時を刻む意味でもあるのでしょう。
如月之恒 如日之升 月の恒(ゆみは)るが如く 日の升(のぼ)るが如く 月の満ち欠けは、時間的に言って約一ヶ月、日の出日没は一日の時間ですが、月の満ちるがごとく、月の昇るが如くは、ごく自然の摂理をいいます。当たり前の出来事、ごく普通の自然の有り様です。そのことを人間の所業に当てはめて見ますと、自然なことが『自然』と語ると非難されるような、そんな時代となりました。
そこに人や社会が入り込めば、ブランドという借り物で武装することを繰り返さなければ生きて行くなくなり、売買を通す内に、自分もレンタルの商品となっても、身体は売るものの心は売らない分裂人は、やがて身も心も筋肉や臓器、マスコミの意見で「自分の何処が自分なの」と、透明人間となることでしょう。一生懸命に老いや美にと戦っている老いて美しい改造人間、身体によいもの健康であるためにとひたすら渡り歩く飽食漢、非常識と常識の混乱にいる常識人、わからないと言えないどちらとも言えないノーと言うことを渇望する半分人。変遷する時代に、反故となるべき記したマニフェストのみが確かなものと信じるフェミニストたち、この人たちの未来では、やがてスイカからカボチャが誕生し、そのカボチャから人間の子ども達が、少子高齢社会を救うのかもしれません。“自然に?”ちょっと言葉が走りすぎたようです。
明氏の名前ですが、分解すれば、日と月です。中国の詩経に『日居月諸(にっきょげっしょ)』という言葉があります。居と諸は助字で、強調する字です。
詩経によれば、月日の過ぎ去ることが第一義となりますが、日よ月よと、呼びかける己自身の心も第一義の感嘆です。そして、この日と月は、父よ母よと呼びかける言葉でもあります。明というたった一字の、呼びかける意味と同時に、父や母、兄弟に照らされての“明”でもあったと言えます。
お父さんが、明氏に、お店をすすめたのも、お母さんと一緒に暮らしたことも、お母さんが具合が悪くなったことも、明氏も具合を悪くして、お店をたたんだことも、照らされて明るく輝く月のようです。照らされてこそ輝く月は、日を慕ったという意味で、今も、年をさらに加えて一人過ごすお父さんの哀しみは表現できるものではありませんが、ひょっとして過ぎ去るものの内の、先に旅立ったお母さんへの贈りもののような気がいたします。
日月が過ぎ去る月日なら、日が出ると活動し、日が沈み月が出ると休息するその繰り返しが、過ぎ去ることですが、この繰り返しは“変わらぬもの”の“日”であり、“過ぎ去り変わるもの”は、“月”で表されてもいるのだと思います。変わらぬものと、変わるものは、裏表ですし、お互いになければならぬものとなり、互いの存在を裏付けるものとなって単独では語れないものなのでしょう。
臨済宗の栄西禅師の言葉です。
大いなる哉(かな)、心や。天の高きは極(きわ)むべからず、しかるに心は天の上に出づ。
地の厚きは測るべからず、しかるに心は地の下に出づ。
日月の光はこゆべからず、しかるに心は、日月光明の表に出づ。
大千沙界は窮むべからず、しかるに心は大千沙界の外に出づ。
それ太虚か、それ元気か、心はすなはち太虚を包んで、元気を孕(はら)むものなり。
天地は我れを待って覆載(ふさい)し、日月は我れを待って運行し、四時は我れを待って変化し、
万物は我れを待って発生(ほっしょう)す。大なる哉、心や。」
繰り返しますが、日と月とは、別々のものであっても、一体のものです。父と子と、母と子と、弟と姉、弟と兄とは、別々のもではあっても、そこに関係・導いている糸があるかぎり、父の父たる所以は、子にあり、子の子たる所以は、父にあります。母と子も、弟と姉も、弟と兄も、この結びつきのあり方をいいます。人が亡くなって、私たちの心を覆う気持ちや思いは、この関係そのものの喪失や、揺らぎをさすのですが、日月で現されるものは、奥が深いと思います。その奥が深い部分を法号の、『肯』で表現いたしました。誕生も、生も、いきかたも、死も、日月の歩み何もかもを肯(うけが)うということを、明氏の死が、物語って言えるのではないかと……。
こう綴ってきて、日月は、私たち一人一人の心と言ってもいいのではないかとも言えることに気がつきます。日肯月諸(にっこうげっしょ)と命名したことに、多くの人に共通する言葉なのだとも思いました。
日ならず月ならず、いつしか私たちも旅立ちの時を迎えます。その時、月の満ち欠けが止まり、日が昇らず、日が沈まない時を迎えるのでしょうが、生きて、今を一途に生きれば、月の満ち欠けを止め、日の出と共に、日没と共に過ごす自然を取り戻すことができるのでしょう。
年寄りの出番より
年寄りの出番より
いつも突然の電話で始まります。平成十六年一月二十四日、午後十時三十分、息子のT氏より「父が、先ほど亡くなりました」と秀雄氏の訃報を告げられました。ここ何年か、部屋中にチューブを引っ張って、鼻に酸素を吸入していた秀雄氏のを思い浮かべながら、「どうしたのですか?」と。T氏からは、昨年の十月末日、秀雄氏も三週間ぐらいのつもりで、いつものように入院したことから始まる、この顛末を聞きました。突然に居なくなる貴方の無念もさることながら、家族にとって、貴方と言う存在が、突然に無くなることの、傷つき悲しみ悼む姿は、どんな言葉も、癒し、励ますことの難しいことです。人の力の無力さを、覚えることでもあります。
いたたまれない思いが伝わってくるものの、亡くなったということの事実を、現実のものにするために、そして遺族と共に歩くために、貴方と対面したのが、仮通夜の二十五日です。やっとチューブから解放された貴方が、ひたすら休らぐ姿を確かめて、経文をあげるためにです。
あらためて気がつくことは、人の死にようは、誰一人同じではないことです。でも、よく考えてみると、秀雄氏の老衰で眠るような死に様は、何故か合わないような、この結末が、悲運とか、不幸とかいうのではなく、最後まで、自分を信じて、結果を託すという平川さんらしい最後のような気がいたしました。
十二月十五日の大量の喀血に、自分に起きた出来事として、冷静に、手を自身の血で濡らしながら、ナースコールをし、処置をまかしたことに、これは、最後まで、平川さんらしさを通すことで、平川さんの尊厳は、最後まで自分で守り通した心意気なんだろうと、すごい人だなと、改めて思います。
ふと、平川さん自身は、自分の死をどう考えていたのだろうかと思います。二十年間に、五人の肉親に旅立たれて、すべて平川さん自身の手で送ったことの意味は、今の平川さんにどう影響しているのだろうかと推しはかりもいたします。T氏は、「葬儀の手配・段取りをくまなくすること」って、冷静さを取り戻すことでもあるのでは」と、言いますが、それだけではないような気がいたします。
奥さんのR子さんの旅立ちには、立ち会わないで、じっと家で終わるのを待機してた記憶があります。
その時の告別式の言葉です。それは平成十一年四月早々、満開の桜にたくして、七十四歳で散ったR子さんへの私の追悼の言葉の一部です。
「春、桜の花は満開の小さな花を一斉に競って咲き乱れます。そして、わずかの間に一斉に散って行く姿は、桜の根の旺盛な生命力ゆえに、枝葉は荒荒しく、幹の肌の気品は気高さを織り交ぜて、人の人生に儚くも悲しい影を投げかけます。人と違うところは老齢を重ねた桜ほど、目に過去の経過の結晶をさらして、それが人の感覚や思いを研ぎ澄ます。老いさらばえて咲く一斉いの開花の情景は今年限りの姿であり、ただ咲くばかりの狂おしさを思います。若木に比して人を圧倒する姿は、本来、人も年をとればとるほど老齢の桜に似ている姿なのですが、異なって見えるのは、人の思いのなせることなのでしょう。人が年を重ねた末の、悲哀や年輪を偲ばせた変形した姿・形のたくましさを、もっと見つめてもらいたい。『人は年を重ねるほど、若くなる』と言う言葉の意味を人はもっと考えなければいけません。若い人も年を重ねた人も、あっという間の過去は目に見えずとすると、同じなのですが、十年二十年と較べて四十年あるいは五十年は確実に違う重みを、老齢の桜のくるおしい姿を見て、なおさらに持つのです。
思い起こせば、貴方が倒れた十七年前の五十七年間という、華々しく、勝気で、意気揚揚と突っ走っていた時間は、春には一斉に咲き誇り、花の散ったあとの一斉若葉の繁るさま、雨に打たれて生き生きとして、陽光に踊り輝き、秋には葉の色を変えて散る姿、四季のそれぞれの姿は、同時に次の季節の予感でもあり、誰も止められぬ勢いをていしていました。
そして、その後の十七年間の軌跡の中の、昨年四月三十日、貴方は、次男のAさんを病弱だったとはいえ、三十六歳という年齢で突然に亡くされました。家族全員にとって、それは痛ましくも悲しい出来事だった。貴方は気丈にも不幸にして早く旅立った息子を送るのは忍びなくと、「絶対に会わない」と病院に居座るかに聞きました。貴方の中で、何かが変わろうとしていたことは事実です。硬い意志をひるがえして、病院から自宅に戻ったと聞き、貴方の生き方も十七年間の闘病生活で受容に変わってきたのかとおもいました。それが、息子を一人で送るという決意であったと気が付いた時、桜は、まだ散っていなかったのです。
確かに不自由な身体を、早朝、全身に汗をかいてリハビリする貴方の姿の内面は、以前と変わらない姿です。目に見えぬものに頼まぬことを頼りに生きてきた貴方は、家族に尽すことによって、自分を支えていました。貴方の十七年間の軌跡を知るにつけ、関東一円の病院を回っても、真っ直ぐに生きざまを貫いた様は、後を思い出すことはなく、あっという間の過去を振り返ることなく、だからこそ、行きついた所で、最後の最後は、天に任すという、いさぎよい貴方の姿でした。人として生まれた限りは、不確かな時を迎えることは、確かな事実であり、その時、自分の力の何の頼りにならぬことを知りぬいた、桜の花びらのいさぎよさに似て、散り去る貴方の姿と重ね合わさります」と。
十七年間に渡る妻の闘病生活を支えていたのは、平川さんです。その間に、次男の死、妹の死、母の死と、失ったものの大きさは、計りがたく、その分、平川さんを強くして、世界を、人を見抜く力を形づくってゆきました。それだけが強くしたことではありません、それより以前、戦後すぐの昭和二十三年に、二十四歳という若さで、働き盛りの父の死を看取り、それ以降五十六年間に渡って、昭和十九年に亡くした兄に代わって、一家を平和に支えてきたこの事実です。今の幸せな家族の礎となり託して、今、散ってゆく平川さんの姿が眼蓋に浮かびます。
人と接しては、目を開いて、一途に見つめる眼は、人の動揺を見抜く鷹の目のような、その眼は、自分にも厳しいものだったと思います。それも、自分自身の困難な患う環境の中で、家族の過去・現在・未来を見つめていたことにもなります。
私に忘れられない姿は、多くありますが、今から10年以上前の正月、股引に半天という姿で、八幡宮の参詣する姿があります。あの姿に、深川に生まれ、深川によって育まれ、深川に息を引き取る、誰よりも深川を愛した、筋が通った深川の粋を、意気地を、勇みを、豪気さを、そして深川の情けを、見せて頂いた気がいたします。