目次
輝いている時
夢中(ゆめのなか)
芝浜
江戸っ子
亀住町(平成13年7月1日)
モンセ・ワトキンス~夢のゆくえ~(平成14年1月3日)
新牌開眼
英霊(平成17年5月23日)
目覚め
よわい「齢」
また始めたらよい
三大聖樹(平成19年4月17日)
滅度(平成19年9月18日)
安住の地(平成20年11月15日)
心眼(平成22年3月1日)
とかくこの世は
とかくこの世は
祈り(平成17年11月29日)
品位(平成18年1月20日)
ニャンニーシンズ(平成18年3月1日)
鍵(平成18年4月25日)
チベット(平成20年5月1日)
SYOHOU
諸法
四十四の問い~ミヒャエル・エンデ
先ゆく輩
さき行く輩
祖師年譜
ダルマ
慧可
五洩霊黙和尚
石鞏慧蔵禅師
大珠慧海禅師
西川の黄三郎
馬祖道一禅師(馬大師)
五百生 百丈和尚
大梅山法常(752-839)
麻谷山宝徹禅師(平成12年1月27日)
鎮州普化(ふけ)和尚
寒山・拾得
虹の彼方に
ヘイヴン・ペックの場合―続貧しいけれど、豊かだった―
生前葬
平和を我らにーGIVE PEACE A CHANCE(平成13年10月31日)
ソクラテスとヤージャニダッタ
蓮(平成14年6月2日)
心-KOKORO(平成14年6月25日)
独り暮らし(平成15年4月12日)
老いが、咲いていた!(平成16年7月5日)
深濱-fukahama
死に顔
松山鏡(ソクラレストとヤージャニダッタの続き)
真ん中(平成20年4月1日)
百万回いきたネコ(平成21年1月1日)
夜来る鳥(平成21年1月1日)
だいじょうぶ、だいじょうぶ(平成21年2月1日)
無常への帰依
無常への帰依
希望(平成12年1月2日)
葬式坊主
泥棒
赤とんぼ
老い
……ロス
後姿
寿陵
ついで参り
目標
六道を行く
もの言わぬ羅漢達…揀択をこえて…
宮本武蔵
五合庵断章(平成10年10月17日)
K子さん!(平成12年7月19日)
今は昔
十一面観世音菩薩
尽七日忌(平成19年5月1日)
OSYOU
OSYOU
この手のひらに―禅僧の死―(平成10年11月18日)
戒(平成10年7月25日)
幽霊
みんな仏教徒(平成10年5月27日)
最後の晩餐(平成10年5月23日)
禅問答(平成10年5月31日)
分銅
天国は汝ら自身に宿る(平成10年11月24日)
宗派
穢れ(平成12年8月30日)
お彼岸
仏心
仏心
ご祈祷
施餓鬼会にて(平成17年5月28日)
永遠の命
輪廻する葦(平成10年5月27日)
連鎖する命(平成10年6月2日)
涅槃(平成10年8月12日)
鏡(平成10年7月25日加筆)
流星
TAO(平成11年1月3日)
四大
挨拶
冥福
盂蘭盆
祈り(平成14年7月4日)
仏事歳時記
再び 最後の晩餐
この手のひらにII(平成18年11月18日)
死んで生きる智慧(平成19年3月27日)
五百生(平成19年11月20日)
破地獄偈(平成20年5月24日)
この指止まれ
この指止まれ
家族と家庭(平成11年1月5日)
導師(平成11年2月26日)
家から個人へ、そして家族・友達へI
家から個人へ、そして家族・友達へII
脳死そして臓器移植(平成11年3月2日)
独り決めの生き方
僧堂I
僧堂II
僧堂III
恥じ
僧堂IV
返事
父殺し・母殺し・友だち殺し・子殺し(平成20年1月1日)
その後
その後
ほとけさま(平成17年5月1日)
仏が仏に合掌する
戒名(平成12年3月14日)
無用の用(平成12年2月21日)
世話
大きく育て!(平成11年1月18日)
しもべ(平成10年11月7日)
電話(平成10年8月22日)
意思
寡黙
妄想(平成10年8月2日)
川(平成10年8月22日)
風如(風のように)(平成10年6月18日)
追悼(平成10年5月27日)
受容(平成10年6月18日)
蒸発
臨終(平成10年6月8日)
外道
障子(平成13年3月10日)
日月(にちげつ)
年寄りの出番より
人生とは、闇を照らす一瞬の蛍の光
時の旅人
時計(平成12年1月3日)
星(平成11年10月15日)
溝(平成11年8月2日)
過去心…念の起こる処(平成11年6月19日)
与える時間(平成11年5月24日)
桜(平成12年3月2日)
無常(平成11年4月16日)
川(平成10年9月17日)
有時(時の構造)(平成12年2月5日)
時の旅人(平成12年2月1日)
揺れる木々の葉
この人生の速さはなんだ(平成14年12月26日)
法句経より-時の旅人(平成15年2月4日)
寂然不動 如春在花(寂然不動、春の花に在るが如し) (平成16年9月19日)
ZENGO
自立
橋は流れて(平成10年9月18日)
無事
過去(平成10年5月23日)
たまごっち(平成10年5月23日)
一衆觸礼(いっしゅうそくれい)
六道を輪廻する
二人三脚
生老病死
筋肉番付
ポケモン
俺は、親馬鹿か!
塵も積もれば山となる
生と死と永遠
最終章
一章
二章
三章
四章~(未完)
時間旅行
時間旅行
命の歌-母の短歌
礎-いしずえ-
離魂(平成19年8月25日)
海辺橋
海辺橋
ふるさと(平成18年3月4日)
千の風(平成18年9月16日)
人の道(平成18年9月18日)
あなたは、いつから、一年が始まりますか?(平成20年8月1日)
前住職 二十三回忌にて(平成20年9月1日)
平成21年お施餓鬼会を振り返って(平成21年6月1日)
奥付
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風如(風のように)(平成10年6月18日)

風如(風のように)(平成10年6月18日)

 昭和61年の正月も過ぎそろそろ2月に入ろうかという頃だった。ちょうど私が住職になった時より4、5年目の時だと思うのだが、定かではない。ヤスさんの兄貴が東京の清瀬市で亡くなったという知らせを聞き、ヤスさんの弟二人で車で通夜に出かけた時があった。何でそんなことを覚えているのかというと、清瀬の夜の冷たい暗さと通夜会場の近くにあった公園の薄暗い街灯その街灯に照らし出される体格のいい三人の兄弟の姿が妙に記憶の中に残っているからだ。その筋の人に似てとは言わないが襟を立てた外套は、ボタンをかけずに両ポケットに手を突っ込み、くわえたタバコの灯りが街灯の電球に妙に寂しそうにともり、大男の背中の丸い後ろ姿がまるで古びた映画の中の景色に映ったからだった。

 深川の漁師の家に生まれたヤスさんは、長距離のトラック運転手をしていて酒に喧嘩に、とにかく威勢はよかった。そういえば女性の話は聞いたことも無く、誰かと連れ立って歩いているのも見たことは無い。浮いた話はあったのか無かったのか知らぬが、晩年は確かに一人だった。思ったことをそのまま口に出すヤスさんの喧嘩はたえなかった。でも、菩提寺の住職である私に声をかける時は、妙にそわそわして正面を見ずに、早口でそそくさと用事を言い終わるとすばやくひるがえって帰っていった。そう言えばヤスさんはいつも雪駄をつっかけて履いていた。

得意の突っ張ってみてもしょうがない相手には、さっさと退散するのがヤスさんの得意手だったのだろうか。
そんなヤスさんが入院したという話を、弟のもと相撲取りの口から聞いた。病名は忘れてしまったが闘病生活は6年間にも及んだことは、今でもはっきり覚えている。ヤスさんが亡くなる5年前、寺のすぐそばの病院に引っ越してきた。そして亡くなる2年前だったか兄貴の七回忌法要に車椅子で参列した時のヤスさんの姿は今でも忘れない。髪は白く、病院やつれというのか肌は白く、ずいぶん小さくなってしまったもんだと、寂しく悲しく、人の移り変わりのさまをまざまざと見せられては愕然としたものだった。
平成6年12月21日ヤスさんは病院で静かに息をを引き取った。元気だった頃のヤスさんには似ずに。

葬儀は盛大だった。深川で深浜を知らなければ、祭りを語る資格はない。それほど大きな神輿に浜の漁師たちの担ぎ方は荒っぽく、手ぬぐいはほっかむりで、半纏は鮮やかなあい色にひときわ目立つことが、担ぎ手の誇りを更に増長させる。何しろ町会という組織を持たぬ番外神輿だから、寄せ集めの担ぎ手はなおさらに結束が厚くなるのが不思議なもので、それが深川の深浜なのだ。ヤスさんはその深浜の一人だったのだ。深浜の仲間が青い半纏を身に纏って送りに来てくれた。

私はヤスさんにはちょっと難しいことばだったかも知れませんが、仏教での世界の有り様を説き、その後《お祭りが好きで、おお酒のみで、短気で喧嘩ばやくて、気が小さくて照れ屋で、それでいて気が良くて、何とも忘れられない人でした》

《通夜告別式と大勢の人が貴方の6年間の闘病生活を忘れずにお別れに来てくれました。ヤスさんが元気だったころ、貴方は威勢が良く風を肩で切って本当に大きく見えました。ですがヤスさんは病院で普通の人が何十年とかかって年老いていくのを、6年間の月日で一気に年老いてくれました。太くて短かった人生、64年の生涯だったのですね。今思うといかにもヤスさんらしいと思うのです。ヤスさんは風のように過ぎ去っていった。せい一杯生きるということは、人生の蓄積に対してではなく様々な時によどみなく生きているということに違いない。今度はお父さんお母さんが兄貴たちのいる世界で仲良く過ごすっと良いですね。喧嘩はだめですよ。あとに残りヤスさんを送る我々も、いずれは貴方の後を追います。

今日、貴方は肉身を転じて佛界に入るため、長く目を閉じてしまった。貴方の姿はもう目にすることはできないが、目を閉じればそれぞれの人達の心の中に、一瞬一瞬のなかに、ヤスさんは永遠として生き続けることになります》

深浜の仲間が嗚咽をこらえて耐える姿がなんとも印象に残った葬儀でした。 どんなに気丈な心をもった人でも悲しいときは悲しさになりきる、それが人の道ということなのです。


追悼(平成10年5月27日)

追悼(平成10年5月27日)

 昭和五十七年十一月十一日、私は用事で八王子の姉の所に外出していた。母からの突然の電話だった。父が倒れたという知らせだった。その時、身体中の血がすっと下がっていくのがわかった。幸い家の近くに住む、すぐ上の姉とその連れ合いが駆け付け、そっと横たえ医者に連絡する処置をしてくれた御蔭で、私が帰った時には、落ち着いて眠っていた。医者は「心配ありません。様子を見て、変化があったら電話をしてください。」と、足早に帰っていったそうだ。それは始めに動脈硬化に似た発作で、風呂上がりのたちくらみに似て貧血を起こしたようだった。私達には暗い影のようなものが走ったかのようだった。この発作に似たものは、軽かったが十二月にも一回起きた。だが、それ以外の父の様子は、私達にすこぶる元気に映っていた。また、父自身もすこぶる忙しい毎日を送っていたのだった。 

 恐らくこの頃より父の体の中では、何かしらの異変が起きていたのだろう。父もこのことに気付いていたのではなかったか。私達には、寡黙な父だった。残念なことに、家族はいまだ気付いていなかった。

 そのころ父はかかりつけの医者に、動脈硬化と軽い糖尿があると診断され、毎日三度の薬を飲んでいた。
 翌年五十八年の正月二日、父に変化が起きた。母と参賀に行こうとしたとき、歩けなくなったのだ。はっきりと、父の病魔が姿を現したのだった。本当に突然だった。この時の母の気持ちは複雑だった。暗闇で誰かに押されるというのは、こういう時のことを言うのだろう。だが、母は、父が亡くなるまで誰かに押されていたのではなかったろうか。また、それは私にとっても、違う誰かに押されていたのだと、今、振り返って見ると思うのだった。

 父は歩くのに、初めは少し前かがみになり、歩幅が狭く、歩き出すと止まらなくなるふうになった。時は容赦なく過ぎて行き、母と私達は、その時というものに追い付こうと必死だった。私達は父に杖を使うようにと、注意した。父は、そう言うと厭な顔をした。父は、私達の言葉を無視して、自分から進んで散歩に行った。

 四月十五日より二ケ月後の精密検査によって、父の診断が下った。『パーキンソン症候群』それは聞きなれない言葉であり、同時に受け入れることの出来ない響きを持った言葉でもあった。誰もがそう思うごとく、「治してやりたい」と思い、また、「そうしなければ」と思った。だが、その時父の身体は、深く病魔に犯されていたのだと思う。父もそのことに気付いていた。
 このころより、母は、日々の父の様子や出来事を克明に、日記につけはじめる。それは、激しく過ぎていく父の思い出をつなぎ止めることに似て、父の中にいる病魔との戦いであった。

 母の五月の日記の中に、この頃では珍しく強い字の父のメモがある。それは、ニューヨーク・カット・ステーキと書かれた広告のコピーで『昨日を思ひ懇ひ煩わず、昨日を憂わず、今日を清く生きよ』書いてある。父のせい一杯の気持ちを、このコピーに仕立てて表したものか、胸が熱くなる。家族との会話がとだえ始めるのも、この頃だった。また、父は病魔に犯された自分を、他人に見せることを嫌った。

 六月、千葉県船橋にいた父の義兄が亡くなった。父と義兄とは、囲碁相手でもあり、また話し相手でもあった。よく義兄が遊びに来ると、ひがな一日、碁をしたりビールを飲んで過ごし帰って行った。父もそれと同じことを、船橋でしたことだろう。
 晴れた良い天気の日であった。父より六歳年上の鎌倉の兄夫婦と一緒に出掛けたのだった。年寄り四名を車に乗せて行ったのだが、大変と気を使ったのを思い出す。ちょうど今から十五年前のことだ。

 通夜、告別式と二日間に亙っての式に参列し、どうやら無事にお弔いを終えての帰り、

「義兄の死をいたはり呉るる点滅か黒々と更くる夜のラ・ラポート」と歌った。

それは湾岸道路沿いの広大な船橋ヘルスセンター跡地に、東洋で最大と銘打って出現した、ショツピングセンターのシンボルタワーのきらめきを、目にした時の歌だった。私が幼いとき、父に連れられ、水が怖くて泣き、父の胸にすがり突いたことがある海辺でもあった。

「後ろより突き飛ばされし如くなる廻りに騒に声かくる人ら」

「子に孫に伝はる病ひと知らされてよりかへり見る健康体なり」

 今、父の残したノートを見ると、このころ、はっきりと書体が以前と変わっているのが分かり、父の動揺が伝わってくる。「糖尿への経料」、「病名開眼」などと書かれ、その上に無造作な斜線が引かれているのを見ると、痛ましく揺れる父の心が間近に迫ってくる。
 十一月、父の古い友人だろうか、死去と書いてある。父はもう歌が作れなくなっていたのではないだろうか。作ろうと思っても、作れない。父の残したノートには、たくさんの朱線の跡があり、斜線の跡がある。

「大阪の友喪ひし日昏なりわが義兄死にし」

 やっとのおもいで出来た歌に、父の思いを巡らせてみると、痛ましい。だがこれから、より以上に辛い日々が続こうとは誰も想像できなかった。

「薬り飲めば直る病ひと聞かされて暗に直ると自ら治む」

 この歌が父の最後の歌だろうか。いつごろの歌だか分からないのだが、とにかくこの後のノートには、白紙がいつまでも続いている。 十月六日、朝、父の兄が亡くなる。兄が病床に就いて、私達は一回の見舞いを除いて、なるべく伝えることを避けていた。父と母を車に乗せて、鎌倉に弔問に出掛けた時の事は、消えない思い出となり、母と私の脳裏に強く焼き付いている。冷たくなった兄の枕辺に、父が両手をつき、無言にうなだれていた姿を。先に旅立った兄を前に、父は何を思い、何を伝え、何を願ったのか、今は知るよしもない。ただ、時間の止まったその光景だけが、はっきりと残った。

 父は長い下り坂を、一人転げ落ちているかのように、時折、手を差し延べた。母はそっと手を取り、いつまでもさすっていた。遠くを、じっと見詰めている時があった。そんな時、母は一緒に黙って遠くを見詰めた。母は父のことを、まるで子供のようだといった。それでも時は、悪く過ぎて行った。

 昭和六十年三月十六日、父にとっては内孫の、私にとっては初の男の子が生まれた。それは赤ら顔でしわのある四〇〇〇グラムを越えた大きな子だった。早く父に見せたかった。そして抱いてもらいたかった。病院から長男真人(まひと)が母子共に退院したその日、父に報告し、私の妻が産衣にくるまれた赤子をそっと父の前に差し出すと、父の顔が穏やかになり、両手をさしのばす。私は母がするごとく、赤子を抱いた父の肩に手を添え、その父を抱いた。

 七月十四日、父が入院した。昨日からの熱でグーグーといびきをかいて眠る。肺炎を起こしたのだ。母が動揺している。この夏は暑かった。
 翌年の昭和六十一年八月十二日、零時六分、父が母に見守られて、その腕の中で息を引き取った。父の生涯が終わったのだ。


受容(平成10年6月18日)

受容(平成10年6月18日)

 平成十年元日午後一時四十九分、家族に見守られてAさんちのT大婆さんが江東区内の病院で静かに息を引き取りました。家族の悲しみはわかっていたことですが、やはり悲しいことでした。T大婆さんの96年という気の遠くなるほどの生涯を思うにつけ、T婆さんが居なくなったんだという事実を受け入れる作業が、家族にとってみれば最初の作業です。病院からの帰宅は沈黙の帰省です。これから数日間の日常の起こるであろう変化を、家族一人一人が自分の役割を沈黙のうちに確認しなければならないのだし、この数日間がどう過ぎていくのかと漠然と想像するのが死者との道行きです。そこが死者と生きている家族の大きな違いです。帰省した家族は、大婆さんが死んだという確認の儀式を親しい近親者に知らせて執り行います。それが枕経という儀式です。

 小さな祭壇の前に布団を敷いて、眠るが如くに在る大婆さんを前に、中婆さんが唇を濡らし薄く紅を塗り、髪に櫛を指します。70年近く一緒に暮らしていたことを事実としてすべて想像し語り尽くすことは出来ないが、ただ70年という数字の重みを人は思わなければならない。声無き声を聞くことが、仏教のあるいは人として大切な思いやりの原点としたら、人のうめきをそっくり受け入れよう。

T婆さんは96歳で亡くなりましたが、88歳の時道路で転倒して車に両足の先を轢かれたことがありました。3ヶ月あまりの入院でしたが、複雑骨折は見事に治りまたいつもの通りに杖で歩く姿を見ることができるようになりました。腰を直角に折りゆっくりと歩く姿は、重い荷物を背負う姿に違いないと見せてくれました。その姿で自分の育った環境、戦後の深川での事、ご主人との別れ、引越し、仕事のこと、家族のことを話す声は力強く、小さな目は皺でさらに細くなってはいました眼光は光って人を見ぬく鋭さはちっとも衰えてはいないのが不思議に思えたものでした。

 やがて白内障で目が悪くなりますと、その頃口からでる言葉は、「年のせいで手術をしてくれないのが、悔しくてしょうがない」という言葉でした。明治生まれの家族を背負って生きてきた彼女の言葉は、烈しく強いものでした。

 亡くなる2年前のことです。風邪をこじらせて入院したことがありました。「お婆ちゃんが危ない」との知らせに病院に見舞いに行ったことがありました。「和尚さんがお見舞いにきてくれましたよ」と耳元で叫ぶ中婆さんの声に、大婆さんは目を開けました。ナースセンターの隣の個室に彼女は中婆さんに付き添われ細いビニール管を体に何本もつけ横たわる姿は痛ましく、つい昨日まで元気だった彼女の姿と程遠く、近くまで死が近づいていることを思いましたが、「有難うございます」と握手した彼女の力は強く、「私は、こんなに元気です」と人に訴える指の力は、まだまだ元気だ!大した物だ!さすがに怪物だ!と驚いたものです。「和尚さんが見舞いにきてくれて、アタシは死んでもまだ死にきれない」。彼女の生命はまだまだ元気で、死への準備はとうぶん先のことのように見えたものでした。

 そんな彼女が一週間ぐらいして退院したとの知らせに、ただ”凄い”の一言でした。やがて、散歩の機会は少なく重い荷物を背負う姿はあまり見えなくなりまして、だんだんと家に居る機会のほうが多くなってまいりました。その頃からです、彼女の心に変化が少しずつ出てきましたのは。「有難う」「すまないねーっ」。

 人は年をとり、自分で自分のことが出来なくなることが必ずきます。徐々に人の世話になって行かなければ人は生きていくことができないと、その事実を受け入れるという繰り返しの作業の中で同時に近づいてくる自分の死を少しずつ予感し、また受け入れるという作業を繰り返します。自分の葬式は自分で出来ないの通り、このことも人の最後の受け入れるという儀式であると思うのです。

 去年の12月末、「危ないんです」との中婆さんの知らせに、私は「おばあちゃん変わりましたか」と聞いてみました。その返事は「有難うと私を拝むんですよ」とのことでした。お婆ちゃんがよい正月を迎えられますよう、私は真っ赤な小さな達磨を「枕元に飾ってください」託しました。  「お婆ちゃんが亡くなりました。和尚さんに頂いた達磨を胸に放さず、看護婦さんは真っ赤なリンゴと間違えて取り上げようとしたんですが、お婆ちゃんは胸に放さず、眠るように息をひきとりました。本当によい死に方でした。1月1日午後1時49分でした」。


蒸発

蒸発

 もうだいぶ前のことです。ある葬儀を頼まれまして(昭和60年1月)東武線の北千住の先の草加に出掛けて行ったときの話しです。
亡くなられた御主人は83歳でした。前年の暮れより容態が悪化しまして、奥さんと息子さんたち四人に見守られるうち、安らかに天寿をまっとうしたとのことでした。生前のご主人は、熟練の機械工でいわゆる職人気質で気むずかしく、頑固な性格だったようであります。

 告別式を終えまして、火葬場で荼毘にふされるのを待っている間、遺影を前にしまして三人の息子さんたちとお話を致しておりました。

「母も私達も亡くなった父には随分と苦労をかけられました。けっして幸福とはいえませんでした。今でもその頃の事を忘れることはできません。父はもと深川(江東区)で、小さな町工場を経営していたのですが、失敗しまして草加に引っ越してまいりました。それからというもの仕事に出ては人と折り合いがうまくゆかなかったり、何か気にくわない事があったりで、家に居て独りふさぎこんでいます日がおおくなりました。
豊かだったというわけではありませんが、いっそう家計は苦しくなりまして、長男である私が大手の電気会社の下請け工場に勤めに出ることになりました。きっと父もくるしかったのでしょう。その頃の父の心は、仕事の失敗とそれでも家族を養って行かなければならぬ負担で、いっそう暗い気持ちになっていたのではないでしょうか。弱かったんですね。でも、もし深川でつまづかなかったら、こんなことにはならなかったでしょう‥‥‥」。

「昭和三九年東京オリンピックの開かれました夏の事でした。父が62歳の、暑い日だったのをおぼえております。新幹線ができ、高速道路ができ、世間では景気がよく浮かれておりました。そんな日のことでした、父が居なくなったのです。まったく突然のことでした。
今思い出しましても、何て父親だろうと憎みながら、ただオロオロとうろたえていたのをおぼえております。その時の気持ちは、全くどうお話ししていいのかわかりません。それから七年間、父の姿を見ることはなかったのです。

警察に捜索願いを出したものの、じっと待っている事ができません、母と都内の飯場を探し、神奈川、千葉、埼玉の飯場を探し続けました。休日には盛り場という盛り場を、足を棒にして何処かでふっと会えることを夢見て、歩きつづけました。仕事から帰ってくる途中、ひょっとして父が帰ってきて居るのではないかと、玄関に入ると父が居るような気がしてみたり、父が帰ってきても家に絶対上げるものかと腹をたてたり、母の為なんとしても無事に帰ってきてくれと願いました」。

「それから7年間近い歳月が立ちました冬のある日、お宅のご主人が横浜の飯場に居るようだ、行って確認してもらいたいと、警察より連絡がございました。私共は直ぐに横浜にまいりました。父が居ました。薄汚れた、暗くじめじめして、体臭で酸っぱい臭いのする、平屋建てのプレハブを二段に仕切った1階の奥に、これも垢で黒光りする薄っぺらな布団にくるまって横になっていたのでございます。70歳に近い父の疲れ切った姿に、私達はまるで以前の父とは別人のように思え、声がでませんでした。ただ涙がほほをつたわり落ちたのをあぼえております。忘れようと思いましても、忘れることは出来ません。けっして忘れは致しません」。

「父が自宅に戻りましてしばらくは、7年間の疲れを癒すごとく、暖かな畳の上で床についておりました。7年の間に、次男、三男も勤めに出るようになっておりましたので、家計の方も随分と楽になっておりました。ですけれど父は寡黙でございました。私達もいろいろと聴きたいこと、話して貰いたいことがたくそんあったのでございますが、多くは聞くことができませんでした。」

「それから十何年かがたちました、昨年の暮れの事でございます。父はいたって健康だったのでございますが、急に呼吸が苦しくなり入院することとなりました。何ですか肺に穴があいたんだそうです。今年に入りまして、医師より父がもう長くないことを知らされました。父は安らかに、ほんとうに眠るように息が止まりました。父の最後の言葉が、私達の心を涙で濡らしました」。
「長いこと迷惑をかけたね。すまなかった、許しておくれ」。

その時の息子さん達の顔は、本当に優しさにみちあふれ、亡くなられたお父さんを慈愛で包まれているように見えました。ですがお父さんはどうだったのでしょうか。最後の言葉を、それこそはくまで苦しかっただろうと思うのです。


臨終(平成10年6月8日)

臨終(平成10年6月8日)

平成7年7月12日前2時35分、深川は福住町のとあるマンションの一室で、キクおばあちゃんが95年という永い命の時間に疲れたのでしょう、静かに本当に静かに消えるように息を引き取りました。
明治、大正、昭和、平成と随分長かった婦人の命でした。長かったが故に、今、思い残す事もなく、おだやかに死を迎えられたのだと思います。思えば、日本が戦争という暗い時代に突入した時代、困難な戦後を含めて、言い尽くせるものではありませんが、良いも悪いも、さまざまの事件がありました。
 婦人は明治三十三年四月二十八日、岐阜でうまれました。大正大震災前、上京し水道橋の産婆学校に入学、卒業し、同十三年、UK氏と深川は永代で結婚し、二男一女の母となりました。また助産婦として取り上げた、数え切れぬほどの小さな生命は5、000人に達すると言われます。この子供達もやがて成長し、そして婦人を大きく、大きく成長させたのでした。体は小さくとも、それこそ大きな人でした。昭和四十四年三月二十四日、夫UK氏との別れ、娘A子さんの夫との別れ。悲しいこともたくさんありました。良いこともたくさんありました。それにつけても、婦人の笑顔が今でもはきっりと目に浮かびます。何とも忘れられない人でした。

亡くなった前日、午後8時、私はあなたの様態が危ないとの知らせを、息子さんや娘さんから電話を受け、あなたの居るマンションへと急ぎました。玄関を開けてまっすぐにあなたが横たわる部屋にと急ぎました。あなたは酸素吸入をされながらベッドに横たわり、荒い息をして横たわっておりました。家族の導かれるままに、私はあなたが横たわるベットの傍らに座り、あなたの手を握り締めました。手はほんのりと温かくあなたの意思が指に伝わるのを感じました。そしてあなたの足をさすろうとした時、あなたの足はすでに冷たく、すでに死期が近づいている事をしりました。あなたの息は荒く、やがて静かに、そして、少しずつ冷たさが、あなたの心臓を目指して這い上がろうとするかのように、息はまた荒く、そして静かに、死は、体の抹消の部分より、ゆっくりと確実に間隔をせばめて近づいてくるのを見るおもいでした。私は、死を受容し、自らの肉体が最後の炎となって燃え尽きるのを待つかごとくの姿を見て、感動したと同時に、「頑張って」と、心のなかであなたにエールを送りました。「これこそが、天より与えられた人としての時間を最後まで完全燃焼した 姿なのだと」。
人間として、僧侶として、人間の尊厳をしかと確かめた思いです。

さて、我々が生きる世界の延長として死後の世界が存在するとしたならば、旅立ちと言えばよいのか、帰ると言えばよいのか。今、婦人が行こうとする世界。それは、もしかすると、生まれる前の世界であり、私たちの現実に生きている瞬間という、つかまえることの難しい時の狭間の世界なのかも知れません。いづれにしても、私たちを覆う大きな大きな命の渦の中に旅立って行きます。その場所で、婦人は、私たちと、同時に生きるとするなら、婦人は、気ままに季節の飾られた花々に成り、風になり、その風に舞う花びらになり、雲になり、空になることができるでしょう。
七月十三日、四ツ木火葬場にて、近親者に見守られて荼毘にふされされました。

旅立ちの扉は婦人の肉体が火葬場にて炎の中をくぐり抜けていくことから始まりました。きっと婦人は、勇気を持って平然と炎の中をくぐり抜けていきましたに違いありません。それは、現実の世界で遭遇する苦悩、怒り、まよいという炎の中を、勇気をもって平然とくぐり抜けて行く婦人の姿と違いありません。思い起こせば婦人が歩いた九十五年という長い年月そのものが炎でありました。そして、この世での最後の別れが、最後の炎のなかをくぐり抜けることのような気がするのです。

>後に残り婦人を送る我々も、いずれは婦人の後を追います。婦人の姿はもう目にすることはできませんが、目を閉じればそれぞれの人達の心の中に、我々の一瞬一瞬のなかに、婦人は永遠として今を生き続けることにります。



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