目次
輝いている時
夢中(ゆめのなか)
芝浜
江戸っ子
亀住町(平成13年7月1日)
モンセ・ワトキンス~夢のゆくえ~(平成14年1月3日)
新牌開眼
英霊(平成17年5月23日)
目覚め
よわい「齢」
また始めたらよい
三大聖樹(平成19年4月17日)
滅度(平成19年9月18日)
安住の地(平成20年11月15日)
心眼(平成22年3月1日)
とかくこの世は
とかくこの世は
祈り(平成17年11月29日)
品位(平成18年1月20日)
ニャンニーシンズ(平成18年3月1日)
鍵(平成18年4月25日)
チベット(平成20年5月1日)
SYOHOU
諸法
四十四の問い~ミヒャエル・エンデ
先ゆく輩
さき行く輩
祖師年譜
ダルマ
慧可
五洩霊黙和尚
石鞏慧蔵禅師
大珠慧海禅師
西川の黄三郎
馬祖道一禅師(馬大師)
五百生 百丈和尚
大梅山法常(752-839)
麻谷山宝徹禅師(平成12年1月27日)
鎮州普化(ふけ)和尚
寒山・拾得
虹の彼方に
ヘイヴン・ペックの場合―続貧しいけれど、豊かだった―
生前葬
平和を我らにーGIVE PEACE A CHANCE(平成13年10月31日)
ソクラテスとヤージャニダッタ
蓮(平成14年6月2日)
心-KOKORO(平成14年6月25日)
独り暮らし(平成15年4月12日)
老いが、咲いていた!(平成16年7月5日)
深濱-fukahama
死に顔
松山鏡(ソクラレストとヤージャニダッタの続き)
真ん中(平成20年4月1日)
百万回いきたネコ(平成21年1月1日)
夜来る鳥(平成21年1月1日)
だいじょうぶ、だいじょうぶ(平成21年2月1日)
無常への帰依
無常への帰依
希望(平成12年1月2日)
葬式坊主
泥棒
赤とんぼ
老い
……ロス
後姿
寿陵
ついで参り
目標
六道を行く
もの言わぬ羅漢達…揀択をこえて…
宮本武蔵
五合庵断章(平成10年10月17日)
K子さん!(平成12年7月19日)
今は昔
十一面観世音菩薩
尽七日忌(平成19年5月1日)
OSYOU
OSYOU
この手のひらに―禅僧の死―(平成10年11月18日)
戒(平成10年7月25日)
幽霊
みんな仏教徒(平成10年5月27日)
最後の晩餐(平成10年5月23日)
禅問答(平成10年5月31日)
分銅
天国は汝ら自身に宿る(平成10年11月24日)
宗派
穢れ(平成12年8月30日)
お彼岸
仏心
仏心
ご祈祷
施餓鬼会にて(平成17年5月28日)
永遠の命
輪廻する葦(平成10年5月27日)
連鎖する命(平成10年6月2日)
涅槃(平成10年8月12日)
鏡(平成10年7月25日加筆)
流星
TAO(平成11年1月3日)
四大
挨拶
冥福
盂蘭盆
祈り(平成14年7月4日)
仏事歳時記
再び 最後の晩餐
この手のひらにII(平成18年11月18日)
死んで生きる智慧(平成19年3月27日)
五百生(平成19年11月20日)
破地獄偈(平成20年5月24日)
この指止まれ
この指止まれ
家族と家庭(平成11年1月5日)
導師(平成11年2月26日)
家から個人へ、そして家族・友達へI
家から個人へ、そして家族・友達へII
脳死そして臓器移植(平成11年3月2日)
独り決めの生き方
僧堂I
僧堂II
僧堂III
恥じ
僧堂IV
返事
父殺し・母殺し・友だち殺し・子殺し(平成20年1月1日)
その後
その後
ほとけさま(平成17年5月1日)
仏が仏に合掌する
戒名(平成12年3月14日)
無用の用(平成12年2月21日)
世話
大きく育て!(平成11年1月18日)
しもべ(平成10年11月7日)
電話(平成10年8月22日)
意思
寡黙
妄想(平成10年8月2日)
川(平成10年8月22日)
風如(風のように)(平成10年6月18日)
追悼(平成10年5月27日)
受容(平成10年6月18日)
蒸発
臨終(平成10年6月8日)
外道
障子(平成13年3月10日)
日月(にちげつ)
年寄りの出番より
人生とは、闇を照らす一瞬の蛍の光
時の旅人
時計(平成12年1月3日)
星(平成11年10月15日)
溝(平成11年8月2日)
過去心…念の起こる処(平成11年6月19日)
与える時間(平成11年5月24日)
桜(平成12年3月2日)
無常(平成11年4月16日)
川(平成10年9月17日)
有時(時の構造)(平成12年2月5日)
時の旅人(平成12年2月1日)
揺れる木々の葉
この人生の速さはなんだ(平成14年12月26日)
法句経より-時の旅人(平成15年2月4日)
寂然不動 如春在花(寂然不動、春の花に在るが如し) (平成16年9月19日)
ZENGO
自立
橋は流れて(平成10年9月18日)
無事
過去(平成10年5月23日)
たまごっち(平成10年5月23日)
一衆觸礼(いっしゅうそくれい)
六道を輪廻する
二人三脚
生老病死
筋肉番付
ポケモン
俺は、親馬鹿か!
塵も積もれば山となる
生と死と永遠
最終章
一章
二章
三章
四章~(未完)
時間旅行
時間旅行
命の歌-母の短歌
礎-いしずえ-
離魂(平成19年8月25日)
海辺橋
海辺橋
ふるさと(平成18年3月4日)
千の風(平成18年9月16日)
人の道(平成18年9月18日)
あなたは、いつから、一年が始まりますか?(平成20年8月1日)
前住職 二十三回忌にて(平成20年9月1日)
平成21年お施餓鬼会を振り返って(平成21年6月1日)
奥付
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妄想(平成10年8月2日)

妄想(平成10年8月2日)

 夏で嫌いなことを上げろと言われれば、私はすぐにも熱帯夜の続く残暑を上げるだろう。暑く寝苦しい夏も、ようやく終わりきったかに見える。朝晩の風に過ごしやすさと、きっと山の方では秋の景色にさわやかな風が吹いているに違いない。
昨夜は、雨が少し降ったせいか、ここ下町もひんやりとした空気にかわって、緑も生気を取り戻したかに元気だ。
平成4年10月12日、午前11時頃だったか、自宅の電話がなった。

電話の中で、「福祉事務所のTと申しますけれど、○○番地○号のMYさんのお宅で、近所の方が消毒液を散布したとかでえらく怒っているんですって。まことにすみませんが、ちょっと見て来てくれませんか」。
なんだか不思議な電話の中身だったので、「どうしたんですか」と尋ねてみると、Tさんは「きのうの夜、MYさんが警察のパトカーを呼んで、消毒液を撒かれて下水からその臭気が台所にはいって食事ができないって言うんですよ。そんなこと警察では対処できないって、今朝、警察から電話があったんですよ。そんなに臭いんですかね、ちょっと様子を見て来てくださいませんか。」

私は、MYさんのことはそんなに知らない。そのお宅にMTさんという大正元年8月生まれのお年寄りの男性がいて、年に2回、区役所からの届け物を運ぶだけでした。その家族構成も全く知らないし、考えてみるとそのMTさんにお会いしたことはなく、いつも50歳ぐらいの色が白く笑顔が引きつったような息子さんだろうか、その方に託して、お元気ですかと問いかけ、安否をうかがうだけだったからです。

「承知しました。またご連絡いたします。」と、MYさん宅の回りを調べるために、福祉事務所のTさんの電話を切ったのでした。
町会の消毒撒きは7月だったし、なんだか訳の分からない内容に不審をいだきながらも、さっそく自転車に乗りMYさん宅の回りと下水溝を嗅ぎました。そんなに臭い消毒の匂いはないのです。自転車を止めて、下水溝の穴に鼻をつけるとかすかに匂いました。
「ははーん、これだな。しかしこれくらいの匂いで何で。おかしいな」。
私は、MYさん宅の呼び鈴を押しました。留守だったのです。帰ろうとして近くの材木屋さんの所にさしかかりました。
材木屋のご主人を見かけたものでしたから、「昨日の夜、この辺でパトカー騒ぎなかった」と、尋ねました。「そういえば何か騒いでいたみたいだなぁー」。礼を言い、私はやはり近くの町会長の家を訪ねました。

「いいところに来た。いやぁ昨夜、MYとMTが酒飲んで親子ゲンカをして、MYの投げた仏壇の香炉がMTの手に当たったんだ。血を流してのケンカ仲裁で、パトカーは呼ぶしで大変だったんだ。なぁに、発端は消毒液の匂いが下水から上がるからと、息子が食事が食べられないと騒ぐんで、親父がわざと撒いたわけではないからと、これぐらいは我慢できない匂いではないからと、こんなことぐらいで騒いでは村八分になってしまうからと言うんだ。それで親子ゲンカになってしまった。息子がパトカーを呼んで、その後、誰が撒いたんだと調べたら、2件先の警察の寮の奥さんが、前の生け垣に散歩の犬や野良猫が、糞やおしっこをするというんで、臭いんで消毒乳液を撒いたんだな。いやぁ、その奥さんたちに説明して、夜、バケツで何杯も水を撒いたんだよ。もう臭くはないよ。しょうがねえ奴だよ、親父がかわいそうだよ」。

福祉事務所の電話の話をすると、「そうかい、ああよかった、頼んだよ」と、「とにかく、MYさんとMTさんにあってみます」と言い、私は町会長宅を辞して自宅に帰ったのです。
寺に帰ると、「今、MYさんていう人が来たわよ」と、「どんな感じだった」と私。「なにか落ち着きのない人みたい。目付きが怖いよう」と。
私は福祉事務所のTさんに電話をして、経過を報告すると共に、今後なにかご相談があるかもしれないからと言い、電話を切った。
「ちょっとまた行ってくる」。私は自転車に乗ってMYさんの家に出掛けました。
呼び鈴を押すと、しばらくしてMYさんがサッシ戸を少し明けて顔をだした。私は名乗って中にはいった。
「どうしたの」。彼は私の顔を見ずに、言葉を詰まらせながらも「親父が酒を飲んで暴れるし、村八分になっちゃうと騒ぐんです」。
彼の首のけい動脈のあたりが、ピクピクと痙攣するのを見ながら、「お父さんは。どうしたの」と私、「2階で寝ているんです。昨夜、遅くまで暴れていたものですから、それより臭くないですか」。彼は、玄関の脇の小窓を開けて、「ほら、匂うでしょ。台所の洗い場の穴から、臭いんですよ。意地悪ですよ。僕はこの匂いで食事もできないし、頭が痛くなりますよ」と、今度は外にでて、下水を指さし、「匂うでしょ」。「うーん」と私。 彼のしぐさと話に何か違和感を感じた私は、「そういえば匂うかな。それでわねぇ、福祉事務所のTさんという人がいるから相談してみたら」と、福祉事務所の場所を教えて別れた。

そのあと、私は自分の用事を終えて帰宅して、福祉事務所のTさんに電話をしたのです。
Tさんは電話にでるとすぐに、「来ましたよ」と、「エッ、もう来たのですか」と私。彼の行動の早さに驚いて、「それで、どんな相談だったのですか」
彼の相談の内容は、全く予想外の内容で唖然とした。
(1)夜中に風鈴を鳴らして邪魔をする。
(2)自転車のブレーキやペダルの音をだして、嫌がらせをする。
(3)夜中に大きな話し声がする。
(4)車のからぶかしと排気音とブレーキの音。
(5)玄関の扉が開くのだが、出て見ると誰もいない。
(6)玄関の呼び鈴が鳴るが、出て見ると誰もいない。
(7)朝、前のうちの人がガラス戸をバタバタさせる。
(8)外で口笛を吹く。
(9)夜中に誰かが歌をうたう。
(10)朝、近くの家の前まで掃除をするのだが、礼を言わずにかえってにらむ。
(11)消毒液の匂いがつよくて、じつは前の家のMKさんがそれらをやらせているんで、逮捕してくれないだろうかという内容だったのです。
翌日、考えたすえ、私はMKさんの家を訪ねました。2メートルぐらいの道路の、下町の軒を接しての住宅街に、噂はすぐに広まります。それは押さえなくてはなりません。また、どうやらたびたびのパトカー騒ぎだったようで近隣の恐怖感や、疎外をどうしたらよいのか、考えなくてはなりません。

近所の人達が、仮に彼が精神的な病気だったとしても、あたたかく見守ってくれるだろうか。私は、彼が逮捕してくれというMKさんに、それとなく注意をしてくれるようにとお願いすることにしたのです。
MKさんは、町会の副会長で温厚な人柄と実直な性格で、彼が言う人柄ではなく、私はMKさんに彼のお父さんの相談相手となって欲しかったのです。後に、そして今もMKさんは大変親身になって尽くしていただいております。
MKさんの口からいろいろな彼のこと、彼の父の話を聞くにつけ、私は彼に信頼され、心を開いてもらわなければならないと強く思うのでした。
その後、何度か彼を尋ねましたが、父親とは会えませんでした。ところが、偶然と路地で、買い物帰りの彼のお父さんに会ったのでした。
立ち話でしたが、昭和17年3月生まれの彼には友達がなく、彼が10年前タクシーの運転手をしていたとき、自動車に追突され、鞭打ち症になったこと。それで東大病院にかかっていたこと。

それ以後、仕事はしていないこと。父親は彼の変化に気付いて、病院に行けと言うのだが、彼がいっこうに行こうとしないこと。夜、かなりの酒を飲むこと。二人きりの生活に、会話があまりないこと。亡くなった彼の母親に精神障害があったこと。
彼には小さいころ妹がいたが、事情で養女にだし、恨んでいる彼女の手助けは当てにできないこと。彼の異変に周期があること。またその周期が早くなっているのではないかということ。
長い時間をかけての立ち話に、次々と事実がはっきりと見えてきて、50歳の息子をかかえた80歳を過ぎた父親の顔は暗く、苦悩のしわがなんともつらい姿でした。

さらに、父親は、彼にしっかりしろと、仕事を探せ、病院に行けと強いるのです。彼の心は、言葉でその父親の思いを聞くことも跳ね返すこともできないし、さりとて父親と離れて暮らすことも出きないのです。どちらも痛ましい心なのだと、ただうなづいて聞くばかりでした。
別れぎわに、「早く病院に行ければいいですね。きっとよくなりますよ」。
そして、親しい近所の女医さんに相談したところ、「早々に専門家の診断を必要とするわね。被害妄想のけがあるから」と、いうことだったのです。「進んで悪くならなければいいけれど」
私には、彼の心が彼の意志とは反対に、「たすけてくれ」と、叫んでいるように聞こえるのです。あの行動の早さは、「どうにかして!」の電波発信ではないのだろうか。だが、彼の心は開かない。私は保健所の保健婦Iさんに相談しました。彼を行かせるので診て下さいと。
彼にそのことを告げに行くと、彼と父親が玄関で二人の男と口論しているでのした。
保健所の衛生課の人で、もう10日もたっているのに、また消毒臭さの話しを必要にして、衛生課の人を閉口させているのです。私は説明をして、保健婦のIさんのところに診てもらうことになっているからと引きとってもらいました。
そして、翌日、彼は、保健所に行ったのでした。

保健婦さんの話では、「やはり妄想のけがあるので早く診察してもらったほうがよいですね」とのこと、11月9日に保健所で精神科の先生の診察がありますのでとのこと、彼も、その日にくるからということでした。
その頃から、近所にこの話が広がり始めたのです。私はMKさんと二人で、あまり騒がないでくれと、彼は病気なのだからと、見守って見てあげて下さいと、説明にあたりました。若い女性、子供のいる家庭では、不安にかられたであろうことは否定できません。
また、彼が福祉事務所のTさんに言った、風鈴の件、MKさんのガラス戸の件、夜中の人声の話などを調べました。
風鈴をしまってもらったり、MKさんの娘さんの出勤時のガラス戸の開け閉め、風向きによって音が伝わってくることなど気が付いたのです。
幸い、彼は11月8日まで静かに、父親との生活を送っていたのでした。
11月8日午前8時頃、MYさんの家に救急車が呼ばれ、タンカに運ばれる彼の姿があった。
クモ膜下出血であったと言う。
それから1週間後、11月16日、病院のベットのうえで、彼は、帰らぬ人となった。

平成10年夏、父親は元気に一人暮しを続けている。もし、あの時、一週間はやく精神科のカウンセラーに診てもらっていたらと考えると、相談にのることの難しさを思います。


川(平成10年8月22日)

川(平成10年8月22日)

もうだいぶ前の話だが、東京が台風に襲われたときだった。翌日は台風一過の快晴に恵まれた。翌日が快晴のほど、前夜の、前日の台風の激しさが嘘のように思われるが、各地の被害は、それが現実のすさましさを増幅させる。午後、電話が鳴った。
「実は、昨晩母がサンダルのままいなくなって、いくら近所を探し回ってもいないのです。内のお婆さんがお参りに行っていないか、境内を見てくれませんか。」と、息子の奥さんの緊急の電話に、墓地と本堂の前をいそいで探して電話に、
「いません。心配ですね。もしいらしたら電話で連絡いたします」と、電話を切った。
それから、一ヶ月が過ぎた八月の初めだった。電話が鳴った。
「母が見つかりました。隅田川に死体が揚がったそうです」
それはこう言うことでした。一ヶ月前の嵐の夜、何かの用事でS婆さんはサンダル履きで外に出たのだった。彼女の家は保谷市の郊外で、宅地開発が徐々に進んだ雑草と宅地の混ざった街で、歩いて七、八分の所に小さな川が流れていた。その川にどうも転落したらしく、一ヶ月をかけて神田川を下り、隅田川に流れ着いたらしかった。八十一歳だった。

当時を振り返ってみても、保谷市に流れている小さな川が、どういうふうにして隅田川に繋がっているのか考えたことも、及びもつかなかった記憶がある。そして、葬儀のとき飯田橋より保谷市に向かう車中で、右に流れる神田川の水面を、この川をS婆さんはどんな思いで流れたのだろうかと、深川近くまで川が運んでくれたのだろうかと不思議な思いで、見た。また、その小さな川は、一ヶ月たっても水の勢いは急だったこと、川沿いに葦やカヤが背丈を競いで伸びていたことを今でも覚えて、たまに神田川を通る時、ふとこの事件を思い出します。
S婆さんには三人のお子さんがいて、長男と姉妹だった。姉妹のうちの姉は家を飛び出て、行方が知れず、月島から保谷市に転居したものだから、お寺っきり姉との接点がないので、もし姉が墓参りに来たら妹が探しているからと、何度も何度も言われたものだった。

当時からすれば、隅田川も様変わりし、保谷市東伏見あたりもずいぶんかわっただろうが、人の記憶は当時の有りようを留めて、ふと、お姉さんは「どうしているのだろうと」と懐かしく思い出す。あれから十四年もたってしまうと、妹さんの家族もずいぶんと変化しただろう。
亡くなったS婆さん、姉妹に志賀直哉の言葉を贈る。

『人間ができて何千万年になるか知らないが、その間に数えきれない人間が生まれ、生き死んでいった。私もそのひとりとして生まれ、今生きているのだが、例えていえば悠々と流れるナイルの水の一滴のようなもので、その一滴は、後にも先にもこの私だけで、何万年さかのぼってもいず、何万年たっても再び生まれてはこないのだ。しかもなお、その私は依然として大河の一滴にすぎない。それでさしつかえないのだ』


風如(風のように)(平成10年6月18日)

風如(風のように)(平成10年6月18日)

 昭和61年の正月も過ぎそろそろ2月に入ろうかという頃だった。ちょうど私が住職になった時より4、5年目の時だと思うのだが、定かではない。ヤスさんの兄貴が東京の清瀬市で亡くなったという知らせを聞き、ヤスさんの弟二人で車で通夜に出かけた時があった。何でそんなことを覚えているのかというと、清瀬の夜の冷たい暗さと通夜会場の近くにあった公園の薄暗い街灯その街灯に照らし出される体格のいい三人の兄弟の姿が妙に記憶の中に残っているからだ。その筋の人に似てとは言わないが襟を立てた外套は、ボタンをかけずに両ポケットに手を突っ込み、くわえたタバコの灯りが街灯の電球に妙に寂しそうにともり、大男の背中の丸い後ろ姿がまるで古びた映画の中の景色に映ったからだった。

 深川の漁師の家に生まれたヤスさんは、長距離のトラック運転手をしていて酒に喧嘩に、とにかく威勢はよかった。そういえば女性の話は聞いたことも無く、誰かと連れ立って歩いているのも見たことは無い。浮いた話はあったのか無かったのか知らぬが、晩年は確かに一人だった。思ったことをそのまま口に出すヤスさんの喧嘩はたえなかった。でも、菩提寺の住職である私に声をかける時は、妙にそわそわして正面を見ずに、早口でそそくさと用事を言い終わるとすばやくひるがえって帰っていった。そう言えばヤスさんはいつも雪駄をつっかけて履いていた。

得意の突っ張ってみてもしょうがない相手には、さっさと退散するのがヤスさんの得意手だったのだろうか。
そんなヤスさんが入院したという話を、弟のもと相撲取りの口から聞いた。病名は忘れてしまったが闘病生活は6年間にも及んだことは、今でもはっきり覚えている。ヤスさんが亡くなる5年前、寺のすぐそばの病院に引っ越してきた。そして亡くなる2年前だったか兄貴の七回忌法要に車椅子で参列した時のヤスさんの姿は今でも忘れない。髪は白く、病院やつれというのか肌は白く、ずいぶん小さくなってしまったもんだと、寂しく悲しく、人の移り変わりのさまをまざまざと見せられては愕然としたものだった。
平成6年12月21日ヤスさんは病院で静かに息をを引き取った。元気だった頃のヤスさんには似ずに。

葬儀は盛大だった。深川で深浜を知らなければ、祭りを語る資格はない。それほど大きな神輿に浜の漁師たちの担ぎ方は荒っぽく、手ぬぐいはほっかむりで、半纏は鮮やかなあい色にひときわ目立つことが、担ぎ手の誇りを更に増長させる。何しろ町会という組織を持たぬ番外神輿だから、寄せ集めの担ぎ手はなおさらに結束が厚くなるのが不思議なもので、それが深川の深浜なのだ。ヤスさんはその深浜の一人だったのだ。深浜の仲間が青い半纏を身に纏って送りに来てくれた。

私はヤスさんにはちょっと難しいことばだったかも知れませんが、仏教での世界の有り様を説き、その後《お祭りが好きで、おお酒のみで、短気で喧嘩ばやくて、気が小さくて照れ屋で、それでいて気が良くて、何とも忘れられない人でした》

《通夜告別式と大勢の人が貴方の6年間の闘病生活を忘れずにお別れに来てくれました。ヤスさんが元気だったころ、貴方は威勢が良く風を肩で切って本当に大きく見えました。ですがヤスさんは病院で普通の人が何十年とかかって年老いていくのを、6年間の月日で一気に年老いてくれました。太くて短かった人生、64年の生涯だったのですね。今思うといかにもヤスさんらしいと思うのです。ヤスさんは風のように過ぎ去っていった。せい一杯生きるということは、人生の蓄積に対してではなく様々な時によどみなく生きているということに違いない。今度はお父さんお母さんが兄貴たちのいる世界で仲良く過ごすっと良いですね。喧嘩はだめですよ。あとに残りヤスさんを送る我々も、いずれは貴方の後を追います。

今日、貴方は肉身を転じて佛界に入るため、長く目を閉じてしまった。貴方の姿はもう目にすることはできないが、目を閉じればそれぞれの人達の心の中に、一瞬一瞬のなかに、ヤスさんは永遠として生き続けることになります》

深浜の仲間が嗚咽をこらえて耐える姿がなんとも印象に残った葬儀でした。 どんなに気丈な心をもった人でも悲しいときは悲しさになりきる、それが人の道ということなのです。


追悼(平成10年5月27日)

追悼(平成10年5月27日)

 昭和五十七年十一月十一日、私は用事で八王子の姉の所に外出していた。母からの突然の電話だった。父が倒れたという知らせだった。その時、身体中の血がすっと下がっていくのがわかった。幸い家の近くに住む、すぐ上の姉とその連れ合いが駆け付け、そっと横たえ医者に連絡する処置をしてくれた御蔭で、私が帰った時には、落ち着いて眠っていた。医者は「心配ありません。様子を見て、変化があったら電話をしてください。」と、足早に帰っていったそうだ。それは始めに動脈硬化に似た発作で、風呂上がりのたちくらみに似て貧血を起こしたようだった。私達には暗い影のようなものが走ったかのようだった。この発作に似たものは、軽かったが十二月にも一回起きた。だが、それ以外の父の様子は、私達にすこぶる元気に映っていた。また、父自身もすこぶる忙しい毎日を送っていたのだった。 

 恐らくこの頃より父の体の中では、何かしらの異変が起きていたのだろう。父もこのことに気付いていたのではなかったか。私達には、寡黙な父だった。残念なことに、家族はいまだ気付いていなかった。

 そのころ父はかかりつけの医者に、動脈硬化と軽い糖尿があると診断され、毎日三度の薬を飲んでいた。
 翌年五十八年の正月二日、父に変化が起きた。母と参賀に行こうとしたとき、歩けなくなったのだ。はっきりと、父の病魔が姿を現したのだった。本当に突然だった。この時の母の気持ちは複雑だった。暗闇で誰かに押されるというのは、こういう時のことを言うのだろう。だが、母は、父が亡くなるまで誰かに押されていたのではなかったろうか。また、それは私にとっても、違う誰かに押されていたのだと、今、振り返って見ると思うのだった。

 父は歩くのに、初めは少し前かがみになり、歩幅が狭く、歩き出すと止まらなくなるふうになった。時は容赦なく過ぎて行き、母と私達は、その時というものに追い付こうと必死だった。私達は父に杖を使うようにと、注意した。父は、そう言うと厭な顔をした。父は、私達の言葉を無視して、自分から進んで散歩に行った。

 四月十五日より二ケ月後の精密検査によって、父の診断が下った。『パーキンソン症候群』それは聞きなれない言葉であり、同時に受け入れることの出来ない響きを持った言葉でもあった。誰もがそう思うごとく、「治してやりたい」と思い、また、「そうしなければ」と思った。だが、その時父の身体は、深く病魔に犯されていたのだと思う。父もそのことに気付いていた。
 このころより、母は、日々の父の様子や出来事を克明に、日記につけはじめる。それは、激しく過ぎていく父の思い出をつなぎ止めることに似て、父の中にいる病魔との戦いであった。

 母の五月の日記の中に、この頃では珍しく強い字の父のメモがある。それは、ニューヨーク・カット・ステーキと書かれた広告のコピーで『昨日を思ひ懇ひ煩わず、昨日を憂わず、今日を清く生きよ』書いてある。父のせい一杯の気持ちを、このコピーに仕立てて表したものか、胸が熱くなる。家族との会話がとだえ始めるのも、この頃だった。また、父は病魔に犯された自分を、他人に見せることを嫌った。

 六月、千葉県船橋にいた父の義兄が亡くなった。父と義兄とは、囲碁相手でもあり、また話し相手でもあった。よく義兄が遊びに来ると、ひがな一日、碁をしたりビールを飲んで過ごし帰って行った。父もそれと同じことを、船橋でしたことだろう。
 晴れた良い天気の日であった。父より六歳年上の鎌倉の兄夫婦と一緒に出掛けたのだった。年寄り四名を車に乗せて行ったのだが、大変と気を使ったのを思い出す。ちょうど今から十五年前のことだ。

 通夜、告別式と二日間に亙っての式に参列し、どうやら無事にお弔いを終えての帰り、

「義兄の死をいたはり呉るる点滅か黒々と更くる夜のラ・ラポート」と歌った。

それは湾岸道路沿いの広大な船橋ヘルスセンター跡地に、東洋で最大と銘打って出現した、ショツピングセンターのシンボルタワーのきらめきを、目にした時の歌だった。私が幼いとき、父に連れられ、水が怖くて泣き、父の胸にすがり突いたことがある海辺でもあった。

「後ろより突き飛ばされし如くなる廻りに騒に声かくる人ら」

「子に孫に伝はる病ひと知らされてよりかへり見る健康体なり」

 今、父の残したノートを見ると、このころ、はっきりと書体が以前と変わっているのが分かり、父の動揺が伝わってくる。「糖尿への経料」、「病名開眼」などと書かれ、その上に無造作な斜線が引かれているのを見ると、痛ましく揺れる父の心が間近に迫ってくる。
 十一月、父の古い友人だろうか、死去と書いてある。父はもう歌が作れなくなっていたのではないだろうか。作ろうと思っても、作れない。父の残したノートには、たくさんの朱線の跡があり、斜線の跡がある。

「大阪の友喪ひし日昏なりわが義兄死にし」

 やっとのおもいで出来た歌に、父の思いを巡らせてみると、痛ましい。だがこれから、より以上に辛い日々が続こうとは誰も想像できなかった。

「薬り飲めば直る病ひと聞かされて暗に直ると自ら治む」

 この歌が父の最後の歌だろうか。いつごろの歌だか分からないのだが、とにかくこの後のノートには、白紙がいつまでも続いている。 十月六日、朝、父の兄が亡くなる。兄が病床に就いて、私達は一回の見舞いを除いて、なるべく伝えることを避けていた。父と母を車に乗せて、鎌倉に弔問に出掛けた時の事は、消えない思い出となり、母と私の脳裏に強く焼き付いている。冷たくなった兄の枕辺に、父が両手をつき、無言にうなだれていた姿を。先に旅立った兄を前に、父は何を思い、何を伝え、何を願ったのか、今は知るよしもない。ただ、時間の止まったその光景だけが、はっきりと残った。

 父は長い下り坂を、一人転げ落ちているかのように、時折、手を差し延べた。母はそっと手を取り、いつまでもさすっていた。遠くを、じっと見詰めている時があった。そんな時、母は一緒に黙って遠くを見詰めた。母は父のことを、まるで子供のようだといった。それでも時は、悪く過ぎて行った。

 昭和六十年三月十六日、父にとっては内孫の、私にとっては初の男の子が生まれた。それは赤ら顔でしわのある四〇〇〇グラムを越えた大きな子だった。早く父に見せたかった。そして抱いてもらいたかった。病院から長男真人(まひと)が母子共に退院したその日、父に報告し、私の妻が産衣にくるまれた赤子をそっと父の前に差し出すと、父の顔が穏やかになり、両手をさしのばす。私は母がするごとく、赤子を抱いた父の肩に手を添え、その父を抱いた。

 七月十四日、父が入院した。昨日からの熱でグーグーといびきをかいて眠る。肺炎を起こしたのだ。母が動揺している。この夏は暑かった。
 翌年の昭和六十一年八月十二日、零時六分、父が母に見守られて、その腕の中で息を引き取った。父の生涯が終わったのだ。


受容(平成10年6月18日)

受容(平成10年6月18日)

 平成十年元日午後一時四十九分、家族に見守られてAさんちのT大婆さんが江東区内の病院で静かに息を引き取りました。家族の悲しみはわかっていたことですが、やはり悲しいことでした。T大婆さんの96年という気の遠くなるほどの生涯を思うにつけ、T婆さんが居なくなったんだという事実を受け入れる作業が、家族にとってみれば最初の作業です。病院からの帰宅は沈黙の帰省です。これから数日間の日常の起こるであろう変化を、家族一人一人が自分の役割を沈黙のうちに確認しなければならないのだし、この数日間がどう過ぎていくのかと漠然と想像するのが死者との道行きです。そこが死者と生きている家族の大きな違いです。帰省した家族は、大婆さんが死んだという確認の儀式を親しい近親者に知らせて執り行います。それが枕経という儀式です。

 小さな祭壇の前に布団を敷いて、眠るが如くに在る大婆さんを前に、中婆さんが唇を濡らし薄く紅を塗り、髪に櫛を指します。70年近く一緒に暮らしていたことを事実としてすべて想像し語り尽くすことは出来ないが、ただ70年という数字の重みを人は思わなければならない。声無き声を聞くことが、仏教のあるいは人として大切な思いやりの原点としたら、人のうめきをそっくり受け入れよう。

T婆さんは96歳で亡くなりましたが、88歳の時道路で転倒して車に両足の先を轢かれたことがありました。3ヶ月あまりの入院でしたが、複雑骨折は見事に治りまたいつもの通りに杖で歩く姿を見ることができるようになりました。腰を直角に折りゆっくりと歩く姿は、重い荷物を背負う姿に違いないと見せてくれました。その姿で自分の育った環境、戦後の深川での事、ご主人との別れ、引越し、仕事のこと、家族のことを話す声は力強く、小さな目は皺でさらに細くなってはいました眼光は光って人を見ぬく鋭さはちっとも衰えてはいないのが不思議に思えたものでした。

 やがて白内障で目が悪くなりますと、その頃口からでる言葉は、「年のせいで手術をしてくれないのが、悔しくてしょうがない」という言葉でした。明治生まれの家族を背負って生きてきた彼女の言葉は、烈しく強いものでした。

 亡くなる2年前のことです。風邪をこじらせて入院したことがありました。「お婆ちゃんが危ない」との知らせに病院に見舞いに行ったことがありました。「和尚さんがお見舞いにきてくれましたよ」と耳元で叫ぶ中婆さんの声に、大婆さんは目を開けました。ナースセンターの隣の個室に彼女は中婆さんに付き添われ細いビニール管を体に何本もつけ横たわる姿は痛ましく、つい昨日まで元気だった彼女の姿と程遠く、近くまで死が近づいていることを思いましたが、「有難うございます」と握手した彼女の力は強く、「私は、こんなに元気です」と人に訴える指の力は、まだまだ元気だ!大した物だ!さすがに怪物だ!と驚いたものです。「和尚さんが見舞いにきてくれて、アタシは死んでもまだ死にきれない」。彼女の生命はまだまだ元気で、死への準備はとうぶん先のことのように見えたものでした。

 そんな彼女が一週間ぐらいして退院したとの知らせに、ただ”凄い”の一言でした。やがて、散歩の機会は少なく重い荷物を背負う姿はあまり見えなくなりまして、だんだんと家に居る機会のほうが多くなってまいりました。その頃からです、彼女の心に変化が少しずつ出てきましたのは。「有難う」「すまないねーっ」。

 人は年をとり、自分で自分のことが出来なくなることが必ずきます。徐々に人の世話になって行かなければ人は生きていくことができないと、その事実を受け入れるという繰り返しの作業の中で同時に近づいてくる自分の死を少しずつ予感し、また受け入れるという作業を繰り返します。自分の葬式は自分で出来ないの通り、このことも人の最後の受け入れるという儀式であると思うのです。

 去年の12月末、「危ないんです」との中婆さんの知らせに、私は「おばあちゃん変わりましたか」と聞いてみました。その返事は「有難うと私を拝むんですよ」とのことでした。お婆ちゃんがよい正月を迎えられますよう、私は真っ赤な小さな達磨を「枕元に飾ってください」託しました。  「お婆ちゃんが亡くなりました。和尚さんに頂いた達磨を胸に放さず、看護婦さんは真っ赤なリンゴと間違えて取り上げようとしたんですが、お婆ちゃんは胸に放さず、眠るように息をひきとりました。本当によい死に方でした。1月1日午後1時49分でした」。



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