目次
輝いている時
夢中(ゆめのなか)
芝浜
江戸っ子
亀住町(平成13年7月1日)
モンセ・ワトキンス~夢のゆくえ~(平成14年1月3日)
新牌開眼
英霊(平成17年5月23日)
目覚め
よわい「齢」
また始めたらよい
三大聖樹(平成19年4月17日)
滅度(平成19年9月18日)
安住の地(平成20年11月15日)
心眼(平成22年3月1日)
とかくこの世は
とかくこの世は
祈り(平成17年11月29日)
品位(平成18年1月20日)
ニャンニーシンズ(平成18年3月1日)
鍵(平成18年4月25日)
チベット(平成20年5月1日)
SYOHOU
諸法
四十四の問い~ミヒャエル・エンデ
先ゆく輩
さき行く輩
祖師年譜
ダルマ
慧可
五洩霊黙和尚
石鞏慧蔵禅師
大珠慧海禅師
西川の黄三郎
馬祖道一禅師(馬大師)
五百生 百丈和尚
大梅山法常(752-839)
麻谷山宝徹禅師(平成12年1月27日)
鎮州普化(ふけ)和尚
寒山・拾得
虹の彼方に
ヘイヴン・ペックの場合―続貧しいけれど、豊かだった―
生前葬
平和を我らにーGIVE PEACE A CHANCE(平成13年10月31日)
ソクラテスとヤージャニダッタ
蓮(平成14年6月2日)
心-KOKORO(平成14年6月25日)
独り暮らし(平成15年4月12日)
老いが、咲いていた!(平成16年7月5日)
深濱-fukahama
死に顔
松山鏡(ソクラレストとヤージャニダッタの続き)
真ん中(平成20年4月1日)
百万回いきたネコ(平成21年1月1日)
夜来る鳥(平成21年1月1日)
だいじょうぶ、だいじょうぶ(平成21年2月1日)
無常への帰依
無常への帰依
希望(平成12年1月2日)
葬式坊主
泥棒
赤とんぼ
老い
……ロス
後姿
寿陵
ついで参り
目標
六道を行く
もの言わぬ羅漢達…揀択をこえて…
宮本武蔵
五合庵断章(平成10年10月17日)
K子さん!(平成12年7月19日)
今は昔
十一面観世音菩薩
尽七日忌(平成19年5月1日)
OSYOU
OSYOU
この手のひらに―禅僧の死―(平成10年11月18日)
戒(平成10年7月25日)
幽霊
みんな仏教徒(平成10年5月27日)
最後の晩餐(平成10年5月23日)
禅問答(平成10年5月31日)
分銅
天国は汝ら自身に宿る(平成10年11月24日)
宗派
穢れ(平成12年8月30日)
お彼岸
仏心
仏心
ご祈祷
施餓鬼会にて(平成17年5月28日)
永遠の命
輪廻する葦(平成10年5月27日)
連鎖する命(平成10年6月2日)
涅槃(平成10年8月12日)
鏡(平成10年7月25日加筆)
流星
TAO(平成11年1月3日)
四大
挨拶
冥福
盂蘭盆
祈り(平成14年7月4日)
仏事歳時記
再び 最後の晩餐
この手のひらにII(平成18年11月18日)
死んで生きる智慧(平成19年3月27日)
五百生(平成19年11月20日)
破地獄偈(平成20年5月24日)
この指止まれ
この指止まれ
家族と家庭(平成11年1月5日)
導師(平成11年2月26日)
家から個人へ、そして家族・友達へI
家から個人へ、そして家族・友達へII
脳死そして臓器移植(平成11年3月2日)
独り決めの生き方
僧堂I
僧堂II
僧堂III
恥じ
僧堂IV
返事
父殺し・母殺し・友だち殺し・子殺し(平成20年1月1日)
その後
その後
ほとけさま(平成17年5月1日)
仏が仏に合掌する
戒名(平成12年3月14日)
無用の用(平成12年2月21日)
世話
大きく育て!(平成11年1月18日)
しもべ(平成10年11月7日)
電話(平成10年8月22日)
意思
寡黙
妄想(平成10年8月2日)
川(平成10年8月22日)
風如(風のように)(平成10年6月18日)
追悼(平成10年5月27日)
受容(平成10年6月18日)
蒸発
臨終(平成10年6月8日)
外道
障子(平成13年3月10日)
日月(にちげつ)
年寄りの出番より
人生とは、闇を照らす一瞬の蛍の光
時の旅人
時計(平成12年1月3日)
星(平成11年10月15日)
溝(平成11年8月2日)
過去心…念の起こる処(平成11年6月19日)
与える時間(平成11年5月24日)
桜(平成12年3月2日)
無常(平成11年4月16日)
川(平成10年9月17日)
有時(時の構造)(平成12年2月5日)
時の旅人(平成12年2月1日)
揺れる木々の葉
この人生の速さはなんだ(平成14年12月26日)
法句経より-時の旅人(平成15年2月4日)
寂然不動 如春在花(寂然不動、春の花に在るが如し) (平成16年9月19日)
ZENGO
自立
橋は流れて(平成10年9月18日)
無事
過去(平成10年5月23日)
たまごっち(平成10年5月23日)
一衆觸礼(いっしゅうそくれい)
六道を輪廻する
二人三脚
生老病死
筋肉番付
ポケモン
俺は、親馬鹿か!
塵も積もれば山となる
生と死と永遠
最終章
一章
二章
三章
四章~(未完)
時間旅行
時間旅行
命の歌-母の短歌
礎-いしずえ-
離魂(平成19年8月25日)
海辺橋
海辺橋
ふるさと(平成18年3月4日)
千の風(平成18年9月16日)
人の道(平成18年9月18日)
あなたは、いつから、一年が始まりますか?(平成20年8月1日)
前住職 二十三回忌にて(平成20年9月1日)
平成21年お施餓鬼会を振り返って(平成21年6月1日)
奥付
奥付

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無用の用(平成12年2月21日)

無用の用(平成12年2月21日)

 お寺から見ると、今まで永続していた環境や文化的なものが激変してきていることを思う。このことをお寺にとって良いことか、悪いことか、都合の良いことか、都合の悪いことかは、寺に暮らすものがそれぞれ判断を下せばよい事なのだが、同じことが、お寺の中でも起きていることを思えば、一ケ寺の事ではなく、お寺全体の問題でもあると思う。

平成12年1月6日午前、Nさんから電話がありました。母が亡くなったとの知らせでした。ちょうど一ヶ月前ぐらいに、私は居なかったのですが、留守の者が、Nさんが墓地にお参りに来たとき、母が病院で危篤であること、亡くなったら知らせるので、遠方だけれども葬儀に出向いてくれるかとの応対があったこと、できる限り出向くので、すぐ知らせてくださるようにと返答しておいたと、聞いたことを思い出したのです。

掛かってきた電話の内容は、母が亡くなったこと、葬儀はお金がないから出来なく、お寺さんは来てくれるな、戒名は付けなければならないのか、四十九日の納骨の日程を打ち合わせさせてくれとの内容でした。年の瀬に母の代わりに墓参に来たことと、伝言された内容が変わって来ていることに、戸惑いがあった。どうしてそうなってしまったのだろうか訝ったものの、こうしたときの、私の説得力のなさ、不甲斐なさは、寺を預る住職としての私と、一僧侶としての私との葛藤が顔を出します。その場に立ち会えない和尚は、寺にとっても存在する価値は無いと思うからです。

寺を預り、この寺の墓地に眠る大勢の方々は、名前を言えば、あるいは、戒名を言えば、その人直接本人の顔や、経歴または家族や知人の顔が浮かび、墓を掃除するたびに、墓が私に語りかけてくれるような、妙な親しみを覚えつつも、安堵感を持つ。家族は元気に、たくましく生活しているとか、あれから大分子供たちは大きくなったとか、子供も大分年をとったようようですとか、行方が判りませんとか、この墓の後見人は、社会的には立派な人のようですが、実母が眠っているのにどうして何年も、お参りが来ないのだろうか、そんな墓の苔むした姿が偲びがたく、半年に一遍、私はそれらの墓を、たわしで洗います。
私から息子さんやその奥さんや子供さんたちに、墓参りに来いとは言えないけれど、こうして私が気持ちを振り向けることで、許してやってくださいと念じたりもします。いつも思うのですが、葬儀が終れば、ほとんどの亡くなった方の遺骨は、この寺の墓地に葬られることによって、納骨以降は、私との対話が専らなのです。その意味では、葬儀とは、家族から、私の元へと引継ぎ式のような錯覚を持つこともあります。亡くなった者が、生きているかのようにです。そのためにも、私は、家族からより多くの生前のことを聞き、亡くなる時の状況を詳しく聞くことにしています。不思議なくらい、詳細に渡って、家族は私に話してくれます。

Nさんのお母さんも、最初は熱が出て、風邪を引いたかのようでした。身体の不具合で、昨年の2月、病院に検査に行ったのでした。診断は、脳種痘であり、即刻入院となりました。何しろ84歳でしたので手術はできず、薬で様子を見ることに専念しました。入院は次第に,母親の体力を奪うかのように、9月頃のMRIの診断によると、左脳半分に患部が広がり、点滴と流動食で身体を維持していたそうなのでした。やがて脳肝にも広がり、意識がわからなくなり、平成12年1月5日午前8時45分帰らぬ人となりました。ご主人が亡くなってから、挫折と転居を繰り返しながらの日々もありました。26年間4人男二人、女二人の子供たちを育てあげることは、並大抵の苦労ではなかったのです。晩年は娘さん夫婦と暮らすことで、安らいだ日々を送っていたのですが、いつも穏やかに、気の優しい人でした。ほぼ一年にわたる闘病生活は、ほんのわずかな蓄えも無くなり、葬儀のためのお金もなくなっていたのでした。子供たちも、母の葬儀費用が都合がつかず、仕方なく子供たちだけで、10日の荼毘にされたのでした。

私は、訃報電話の翌日、お母さんと一緒に暮らしておりました、娘さんに電話いたしました。私は、人が誕生することの意味、そして亡くなることの尊さを話し、火葬にされ肉体が無くなる別れに立ち会うことの意義のために、誰でもいいのではなく、その菩提寺の和尚である私だけが、遺体と親しく向き合うことのできる祭祀者であることを、説明しました。受話器の先の、いくらか咽る声を聞きつつ、手紙に託すことで、電話を切ったのでした。

≪冠省 お母様の亡くなられた訃報をお知らせいただきありがとうございました。電話では、納骨の日に、戒名を差し上げることになっておりましたが、10 日火葬と伺いまして、速達ならば間に合うはずと、Mさんに承知していただき、早速郵送いたします。 Mさん、そしてご理解いただきましたご主人、長期にわたる看護に厚くお礼申し上げます。たぶん幾度となく葛藤を繰り返されたこと思います。しかしそのことも、もはや過去のこととして、きっと悔いのないことと、今は思うのではないかと拝察いたします。 

お父さんの戒名と一緒に並べた場合に揃うように、末尾の“心”字を先ず揃えました。そしてお母さんの名前の「いと」を、“綸(いと=りん)という漢字に変換いたしました。綸という字は、「綸…」と、…に漢字を使って熟語とすれば、天子・詔(みことのり)という意味を持ちます。つまり、この“綸(いと)”は、もともと尊い、かけがえのないものと言う意味を持つことに通じると思います。何がかけがえがないのかと言うと、自らの存在は、総て、糸で繋がっているという意味にとりたいと思います。このことは、私達は、知らずに母親・父親の姿を見て、育ってきたし、その子どもも、更にその子供もと、繰り返すことからも言えます。それは、自己の選択を拒否された運命を思います。子供たちの最初の産声は、そんな出会いであり、絶対の価値を持つことの表現でもあります。父母を亡くすと言う意味も、そこから出発していただきたいと思います。

次に、“綸”の上の字は、“綾(あや=りょう)”です。“綾”は、人と人の織り成す綾であり、人生の軌跡であり、私は、人の生、そのものを“綾”とみなしました。そして言い換えてみれば、綾全体を“容(うつわ)”とすれば、人の心は、綸と綸の織り成す綾の上で、心を咲かすかのように、可憐であり、悲しくもあり、嬉しくもあり、退屈であるとも言えるでしょう。生前にはかなわぬ夢を、果たすことこそ、総てを受け入れるということであり、容認するということでもあると思うのです。死とはこのようにも解釈できることでしょう。 

その母親が、火葬になれば、もはや見ることも出来ず、さわることも出来ない存在になります。生きてさえいれば、あるいは母の姿・形がどこかに在るということは、子にとって大きな支えです。その支えを現実に失うことが、葬儀の核心であるということは、子ども達にとっても旅立ちの儀式であり、もちろん母親にとっては帰郷の儀式なのです。私が望むことは、このことを良く考えて、母を最後まで慕いそして偲んで、それぞれにとって、お別れの会としてください。49日および納骨の式を含めた、お寺での追悼式にお会いいたしましょう。≫

後日、火葬の日には、兄弟達が、和尚の手紙を回し読みながら、母を送りましたと、娘さんから手紙を頂きました。
私は出かけることが出来なかったけれども、兄弟達に、私なりの引導を渡すことが出来たのかもしれないと思ったのです。

今、私が、切に思うことは、人が生きるということの意味が、とても希薄になっているように感じられるのです。自分を離れた、かって肉体を一つにしていた父母すらも、一体となって感じることが出来ない、そんな子供達を育む現代の親達は、何年か前に、いけしゃあしゃあと、今を生きている内が花であり、楽しみと遊ぶのに、忙しくってしょうがないと叫ぶ、年寄りを前にしたことがあるが、自分を大切にすることは、ひるがえって自分以外をも大切にすることによって成り立つ事実を、しっかりと認識することこそ、より良く生きることの出発点の大事だと思うのです。


世話

世話

 人が生きて、息を吸うと言う事には、息を吐く事が含まれていて始めて、息を吸う事ができる。
15年ぐらい前のことだろうか、彼を注意深く見つめるようになったのは。
彼の父親が昭和57年の春に、79歳で亡くなったときからだ。彼の父親は、ガラス職人だった。その当時、江東デルタ地帯にはガラス工場がたくさんあり、職人達が溶鉱炉の熱気に打たれながら、真っ赤になったガラスと格闘する姿があちこちで見うけられたものだった。
その頃、彼は公立の小学校の用務員をして、生計をたてていた。人の良い彼は、純朴でいて長い年月に起きるさまざまな事柄を、受け入れ過ごしていた。

 彼には、老いた母がいて、なかなか気難しく、その頃、都営住宅で、ベッドに寝ては起きる日々を送っていた。そして年齢が少し離れた、知恵遅れの障害を持った兄が母親と同居していた。彼と彼の妻は、都営住宅に通っては、二人の世話をしていた。
しばらくして、兄の様態が悪くなり、兄は入院する事になった。老いた母と入院した兄の世話に夫婦は奔走する事になる。兄は入院したまま、平成2年夏、61歳で、帰らぬ人となった。

兄が亡くなった頃、彼の母は、ほとんど寝たきりの状態になりながらも、狭い都営住宅の真ん中にベッドを置き、掃除も行き届かない部屋に、横たわっていた。それでも母の口は達者でした。夫婦は、三度三度の食事、排泄の世話、洗濯と夫婦は都営住宅に、毎日通っていた。

平成4年の暮れ頃からだろうか、彼の妻の健康が損なわれた。胃がんだった。翌年の正月には、妻が入院して、平成5年3月、57歳の若さで急ぐように亡くなっていた。次々と肉親に旅立たれる彼は、それでも不幸を表面に出さず、母の介護に余念がなく、淡々と毎日が過ぎて、彼も定年を迎えたので、母の世話に忙しかった。その頃、彼の子供たちが次々と結婚し巣立っていった。

平成8年4月、桜が咲いているさなかに、彼の母が、90歳で旅立っていた。
それぞれの葬儀は質素に、父親の葬儀には行けなかったけれど、兄の葬儀は、母のベッドの傍で執り行われ、母の葬儀妻の葬儀も遺骨にした後、肉親が祭られる自宅の仏壇の前で、残された家族と親戚だけで、本当にしめやかに執り行われた。
平成11年9月、久しぶりに彼の笑顔を見た。年も70歳を越して、日焼けて飾り気ない彼は、忙しそうにしていた。
「長男の息子が3歳になり、孫の世話に追われて、忙しい」という。

めぐり合わせの人生とは、儚くも美しく、不思議でしょうがない。私が知る彼は、いつもあわただしく、人の世話に追われている。こうして18年の短い年月にもかかわらず、彼一人の18年間に4人の大切な家族がいなくなり、何一つ愚痴を言うわけではなく、孫の世話に追われる彼を見て、彼の強さを思った。

何かを望む人間は、そこに弱さを見つけることができるように、望まない人間には弱さはない。ただ生きることに徹して、目前の事実を受け入れ消化する姿に、打たれる。それこそ一息一息の呼吸に、生命はある。また、来年の春に、あわただしい彼の姿を見るのが、楽しみだ。


大きく育て!(平成11年1月18日)

大きく育て!(平成11年1月18日)

 平成11年1月8日夕刻、電話が鳴った。
近くの特別養護老人ホームのM園、O指導員からの電話だった。
「入園していた八十二歳の女性・I岱子さんが、本日、Yクリニックで亡くなったのだが、葬儀が出来ないだろうか。さらに遺骨を引きとって頂けないだろうか」との内容であった。

「遺骨の引き取る家族・姉妹がなく、早急に決めなければならないので、ご理解の上、決断して欲しい」と、さらに続いた。
「今までは、こうした例では、東京都の多摩霊園の合霊塔に埋葬していたのだが、近くに埋葬できれば、その上葬儀までできれば、園の人達もお別れができるし、本人にとっても嬉しいことだと思う」の言葉に、私は、引きうけてしまったのでした。
さて、引きうけるにあたって、私は本人のことは一切知らないし、顔も見たことはないので、何か本人を知る手がかりを教えてくれないと葬儀は出来ませんとO指導員に伝えた。O指導員は、I岱子さんの、ここに来る前の、雇用主であるMさんの電話番号を教えてくれた。

Mさんとの電話

岱子さんは、本当に気の毒な人なのです。岱子さんは、福島で、警察官の父と母とのあいだに大正5年4月28日に生まれたそうです。岱子さん4歳の時、お母さんが亡くなられたそうです。下に弟がいたそうですが、知能の発達が少し遅かったと聞いております。父親はすぐに再婚したそうです。その父親も、岱子さん10歳のときに、亡くなられたそうです。しばらくは、一緒に暮らしていたそうですが、後妻との間に妹が生まれていて、暮らしは楽ではなく、やがて、当時としてはハイカラな、女性が一人で生きて行くには理想の、美容師の道を選ばれたそうです。しかしながら、当時の美容師は徒弟制度で住み込みの、はたから見ているほどに楽ではなく、辛いこともたくさんあったろうと思います。なんでも、上京して有名な先生についたと聞いております。

おとなしく、辛抱強く、芯に気品のようなものがあって、品の良い穏やかな、それは美しい人でした。
戦争が激しくなってまいりますと、パーマをかける婦人達もいなくなり、郷里の福島に帰ったと聞いております。そこで、男の人との同棲生活が始まりました。内縁関係だったそうです。ご主人や廻りの人の意見で、籍には入れられなかったそうです。岱子さんはそのことを、あまり語りませんでしたので、私もそれ以上聞くことはしませんでした。戦後すぐに、上京したことを思えば、長く続かなかったのでしょうね。

私との出会いは、30年ぐらい前のことなのですが、私が美容院を開店させた時、美容師募集の広告で、岱子さんは応募してきたのです。住み込みを希望でした。その時以来10年ちょっとのお付き合いです。私が身体を悪くしたこともあり、私の子供達を、それは良く尽くして下さいました。子供達もよくなついて、慕っておりました。岱子さんは65歳を過ぎて、大田区のアパートで一人暮しを始めました。しばらくは元気で過ごしていたのですが、なんせ、年寄りの一人暮しは心配で、何度か救急車に運ばれるということがあってより、大田区の福祉事務所に通い、何か良い方法がないものかと思案していた時だったのです。たまたま江東区のM園で、一人空きができて、それに飛びついたのです。福祉事務所の担当者の機転とM園との出会いは、ついていたというのでしょうか、運が良かったのですね。岱子さんは76歳になっていました。

和尚の思い

Mさんから電話にて、岱子さんの話を聞くにつけ、なんとも気の毒な話しであり、姉妹も義理の母も姿・形を現さない。これは、何かしらの事情で岱子さん自ら、音信を切った理由があるのだろうし、また、その反対かもしれない。生きていればの話しだが、恐らく先方も今更会いたくはないのかもしれない。
父親の名も母親の名もわからない娘が、82歳という年齢で、天寿をまっとうし、親しく見送られて旅立って行く。
不思議なもので、まったく身寄りのわからない人でも、両親を窺い知ることができると思ったのは、名前であった。人は見ず知らずの他人から、名前を頂くことはないのだが、たまにではあるが、そんなこともある。それは、葬儀において付けられる法名・戒名の類だ。突然の不幸に動転し、葬儀屋さんに誰でも良いとお坊さんを頼み、葬儀後、納骨をしなければならないが、我が家には、墓はないし、はてあれは何処のお坊さんだったのだろうかと思って、尋ねてみれば、何処の誰かもわからず、困って、近くの寺を訪ねてみて初めて、自分が法名・戒名をその時すでに頂いた身であることを、しみじみと確認する。
確かに両親からもらった名前を人は、いつまでも携えて歩き、他人はその名前で、人をわける。

中国の今の北京を中心として、五嶽がある。禅学大辞典よりの抜粋である。
『中国において、古くより国の鎮めとして尊び信仰された五つの名山。戦国時代、五行思想の影響により五岳の観念が生まれたが、漢代に至って、東岳泰山、西岳華山、南岳せん山、北岳恒山、中岳嵩山と定められた。その後6世紀末になって南岳は衡山に、17世紀になって北岳は恒山に改められた。衡山には南岳懐譲禅師・石頭希遷禅師等ゆかりの南台寺・祝聖寺・福厳寺等があり、嵩山には仏陀禅師や菩提達磨ゆかりの少林寺・嵩岳寺・会善寺がある。』

五岳の筆頭、泰山は岱山といい支山15、嶺は7、谷は15で、大山脈を束ね、岱宗とも言った。泰山からは、泰山のような安らかさ安堵感を導き、人の命は、泰山のように重い。また仰ぎ尊ばれる山であり、その故に人から慕われるということか。太山からは大きさと始まりを感じられる。山東省泰安市にある岱山は、大きいさまの敬称として、また胎に似て始めの意味も、持ったらしい。
名前から、親の教養がうかがえるし、その家の長子として、親の願いが伝わる名前に違いない。だが、もしこの意味を知ったとしたら、誇りに思っただろうか。自分の行く末を考えると、重荷になっただろうか。時に誇りに思い、身を歎いただろうか。そんなことを考えながら岱子さんのM園での、振る舞いを聞くうちに岱子さんは、とっくにこの意味の問題を卒業していたのを知りました。

誇りに思うことになったきっかけは、大きくなると言うことは、一変に大きな山になるということではなく、実は一つ一つの小さな土くれが積み重なった結果が大きな山だと、気づいたからでしょう。このことは大変大きな意味を持ちます。人生の一つ一つの作業の、あるいは行為の結晶が、間違いなく大きな山だと、気が付いたからなのでしょう。また、山は山自身の大きさを自ら語りませんことから、そのままの素直な自分が大事だと気が付いたからなのでしょう。

禅の言葉に、「太山、只、重さ三斤。(従容録)」とある通りです。
岱子さんの葬儀は、1月12日通夜、13日告別式の日取りで、場所は陽岳寺、喪主はM園の園長が勤めた形で執り行われ、Mさんたち家族12名ぐらいとM園のO指導員、寮母さんたち、元気な入園者とお別れをし、出棺した霊柩車はM園の玄関前に到着、式に来れなかった人の見送りを得て、瑞江の火葬場に向かい、荼毘にふされました。そして、幼くして亡くなったご両親の元へと旅立って行きました。
没年 平成11年1月8日 午後1時38分
伊藤岱子  享年82歳
戒名 岱壽妙素 信女
平成11年1月13日 陽岳寺三界萬霊塔に埋葬される。
もし、この項を御覧になって、ご存知の方がおられましたら、一度お参り下さい。
ちなみに、戒名の岱素とは、自分が生まれる前、自分を生んだ両親も生まれる前、地球が誕生する前の意味を持ちます。もっとも、その意味に憑かれたら大間違いですが。そのままに暮らすことを、『妙』と言います。


しもべ(平成10年11月7日)

しもべ(平成10年11月7日)

 昭和59年6月後半、横浜で葬儀をした時の話しである。通夜,葬儀と自宅で執り行われたのであるが、喪主である長男の嫁が奥に入っていて、一向に挨拶にあらわれないのである。長男には妹がいて、その代りにせっせと忙しく立ち振る舞う様子に不思議と思ったものだった。今でも台所から一歩も出ようとしない、その奥さんの顔が今でも私の脳裏に焼き付いて、今どうしているのだろうか思うことがあります。

所かわって埼玉の狭山市で、これも、ずいぶん前の平成5年1月半ばの話です。通夜と葬儀をおこなった時のことです。小さな会館で儀式は行われました。親族一同が式の会場に参列している最中、出頭前の親族と導師の控え室に、ひとかたまりとなった母親と三人の子供の姿があった。亡くなった方の親戚の姪っ子と子供達で、子供達は幼稚園ぐらいの年齢だった。可愛い盛りの女の子たちだった。

 「小学校?それとも幼稚園ですか?」
母親らしい女性が応えた。
「いっていません!いいえ、いいんです。子供達にとって、充分よけれとの思いで考えてのことです」
「そうですか」
私は、子供達の広くは綯い部屋の隅で、固まって遊ぶ姿を見ていました。何も言えませんでした。
通夜の勤めを終えて帰ってきた時も、その塊は、そこにいました。そして、翌日の葬儀の時も、かわることなく、その情景がありました。
子供達の感情やさまざまな体験の扉を閉めて、自分の思いで、子供達を鎖に縛って良いのだろうか?
この子達にとっても、その親にとっても、出会いと別れの、大切な節目をもかえてしまうものかと思うのです。そしてそのことによって、その人のこれからがどう変化していくのかは、誰も知らないことで、すべては自分で背負って行かなければならないことなのですけれど。

2年前の平成9年1月のとある夜、横浜の、あの妹さんから電話がありました。いつも、それは突然にやってきます。私にとっては、避けることが出来ないことなのですけれども。
「兄が亡くなりました」と、鼻をすする妹さんの悲しい声に、
「どうしたのですか?」と、最初、応えるのが精一杯でした。
妹の兄は私よりも二つか三つ年上だから、不自然な死に方に違いなく、すぐに笑顔やすました彼の顔が浮かびます。この寺の墓地に墓はないものの、長い付き合いの一家には、どこもそうですが、さまざまなことが降りかかって来るのを、じっと見つめます。

前年の五月に法事をしたとき、
「妻と息子、娘でアメリカに転勤です。今度は長くなりそうですので、日本との別れに、年会ではないのですが両親の法事をして行きます。食事は、隅田川の上で、船に揺られてのんびりしたいと思います」
「ニフティーサーブのアドレスに、郵便を送ってください」
さらに6月か7月頃に、メールを送ったことがあった。返事もすぐにきて、仕事にもなれて、元気にやっているらしく、メールのやりとりは、日本とアメリカの垣根を取り払ったかのようですと書いてあった。
妹の話しは、こうだった。
「実は去年の12月29日午前9時15分に、兄は休暇で、家族そろってオレゴンのスキー場に行く途中、交通事故で亡くなりました。吹雪の中、奥さんが運転する車は、スピードの出し過ぎで横転、20メートルほど転がりながら大破して、助手席に乗っていた娘さんと奥さんは助かりましたが、後席にいた兄と息子さんは亡くなりました。1月8日荼毘にふし、奥さんのの希望で現地に埋葬いたしました。私は、少しでもと兄の骨を分けてもらい、多摩霊園にある、両親の眠る墓に埋葬してあげたいと思います」。
後日、追悼の会を催したいとのメールが舞い込んで来ました。

発起人のK氏からのものだった。
「彼は私立Y大学の工学部を卒業、富士通に入社、コンピューターのウェハスのラインを立ち上げたりと、それは失敗と苦労の連続の中を歩みつづけた仲間です。彼が勤めていた会社やK重工やK製作所の仲間が、せめてささやかな宴を催して、彼を偲び、そして語りたいと思いますが、力を貸してください」との内容だった。

妹さんからも、再び電話があり、独りぼっちになってしまったこと、ビザの期限が切れるであろう兄嫁のこと、娘のこと、冬ごろもした別荘での兄や兄の友達との楽しかったひとときを、涙ながらに話す妹さんの言葉が、一言一言、しみ入り、逆境に早く立ち直ることを願った。そして『偲ぶ会』に賛成し、私に出来ることは、協力いたしますと電話を切りました。

それより、2月7日の当日まで、メールのやりとりで、式次第やプロフィールの作り方や、進行の仕方を決め、偲ぶ会が決行された。
私は、冒頭15分強頂いて、彼の52年の生涯を思い、悼み、そして願った、会に賛同しかけつけてくれた大学の恩師や会社の先輩、仲間七〇名がそれぞれの想い出を語り、彼の冥福を祈った。
四十九日の法要が過ぎ、一周忌、三回忌とまたたくまに過ぎ去っていた。彼の妻と娘の消息は、オレゴンから途絶えたままに今日を迎えている。

彼女は、地球のハルマゲドンをひたすら信じて、その証人になるべく、アメリカの地を歩いているのだろうか。


電話(平成10年8月22日)

電話(平成10年8月22日)

 昭和63年2月初め、私が仏教情報センターでの電話相談の日のことでした。午前11時頃だったと思うのですが、電話が鳴りました。受話器を耳に当て、「仏教情報センターテレフォン相談室です」と応答しますと、受話器の向こうで「……」沈黙が続きます。
かすかな息遣いが感じられましたので、「どうしましたか。大丈夫ですか」と呼び掛けてしばらく待ちます。かすかだった息遣いが大きく、受話器の向こうでは、嗚咽が始まりました。私は何か差し迫った予感を覚えて、声をおとしてゆっくりと何度か「どうしましたか。大丈夫ですか」と呼び掛けたのですが、嗚咽は止まりません。
受話器の向こうのしばらく続いていた嗚咽が止み、
「すみませんでした。ずっと電話をしたいと思っておりましたもので、なかなか出来ずつらくて気が付いたらダイアルを回しておりまして、つながった音に、とても不安を感じ、次に涙がでて……」。受話器の向こうの女性の沈黙と鼻をすする音に、多少の落ち着きを感じて、「さあ。話して頂けますか」と声をかけました。

広島の近くK県K市在住の女性で、年令は42才、二人の娘がいて姉は高校2年で妹は中学3年の受験に追われているとのこと。夫はがんで入院中、しかも末期の肺がんだそうで、あとどのくらいの命か不明とのこと。
夫の仕事はK市の小さな材木屋さんで、主人のいなくなった仕事場で伝票等の整理をしたり、家事、受験、病院の往復と夫の世話、将来のこと等、不安やいらだち、心細さを受話器の向こうで語りかけてきました。
私は、この年の1月から仏教ホスピスの会員として、『癌患者・家族の語らいの集い』に出席しておりましたので、緊急のときのため、国立がんセンターの先生と世話人の僧侶と私の電話番号を教えて、電話を切りました。
これで良かったのか、あまりに遠方であるため、岡山にある仏教テレフォン相談のことをも告げたのです。

「ありがとうございました」との最後のことばに、『めげないでください』と念じてやみませんでした。
時は、一年の歳月が立ち、秋彼岸の何日か前です。午後、私の寺の電話に彼女の声が聞こえ、夫が旅立ったこと、お店を閉めたこと、娘が進学したこと、彼女が勤めていて、今日はなぜか会社を休んでしまって、あのときの電話を思い出して、今、ダイアルを回したことを語りかけてきました。



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