仏が仏に合掌する
仏が仏に合掌する
この文章は、『ほとけさま』からの続きです。金子みすゞ童謡集『このみちをゆこうよ』に、《さびしいとき》という、詩があります。
わたしがさびしいときに、よその人は知らないの。
わたしがさびしいときに、お友だちはわらうの。
わたしがさびしいときに、お母さんはやさしいの。
わたしがさびしいときに、ほとけさまはさびしいの。
金子みすゞの詩を呼んでいて、上手いと感じるのは、「わたしがさびしいときに、ほとけさまはさびしいの」のと、世界いっぱいに自己が広がる感性です。禅宗では、これを見性というのでしょうか、前文の、対立して変化して行く自己の形があるからこそ、その殻を破ってはじき出した自己が、天地一杯に広がり、わたしと、ほとけさまが一つとなる、総てが、自己そのものであり、ほとけさまそのものの世界が現出するといってよいでしょう。禅でいう、平等の世界です。
わたしがさびしいときに、ほとけさまはさびしいの。
わたしがさびしいときに、よその人は知らないの。
わたしがさびしいときに、お友だちはわらうの。
わたしがさびしいときに、お母さんはやさしいの。
この金子みすゞの詩を、順序を逆にしてみて、世界一杯に広がった自己から、対立の世界にと戻ってくると、「よその人は知らないの。お友だちはわらうの。お母さんはやさしいの。」は、善し悪し、好き嫌いをこえて、「知らないお友だち、わらうお友だち、やさしいお母さん」それぞれが際だって、みすゞの心に浮かぶことだと思います。禅でいう絶対差別の世界です。よく「やなぎは緑、花はくれない」という消息です。
みすゞにとっては、ここまでくると、対立していているかに見える平等と差別は、一つのものとなってくるようです。これを、『金子みすゞの心』といえるのではないかと思うのです。
4月23日、土曜日、とある49歳で亡くなった男性の七回忌法要で、姉妹が焼香をする姿を見て、新鮮にして、不思議な思いで、見つめている私がありました。
世界が変わったように、新鮮にして、美しい、この光景は、『仏が、仏に合掌する姿』にたとえられ見えたのです。彼が喜んでいるといったら、幽界に踏み入ることになります。対立が終わり、シーンとして合掌する姿に、彼もいない、姉妹もいない、そんな波穏やかな法要と形容したら言い過ぎでしょうか。6年の年月が、姉妹にも辛い時間であったことは確かなことです。しかし、6年の年月が、このようにしたとしたら、しなければならないとしたら、いえいえ、こうなって欲しいと願う私の心情なのかもしれませんが、『仏が、仏に合掌する姿』として見えたことは確かなことです。
総ての法要が、このように見えるものなら、私にとっては、法要の意義は、はかりしれないものです。
彼を想い、その彼の母を想い、父を想いと、そして、そのつれづれの記憶のなかにいる自分を思うと、対立する自己があるものです。だからこそ、そこには、やるせなさや平穏、つらさや安らぎ、ふがいなさの苦渋があり、それは、今の自分の気持ちに、涙や笑いを誘います。時のいたずらといったら、俯瞰(ふかん)した見方になるのでしょうが、過去の自分と今の自分の対立です。人はこの世界の中に生きていますが、もう一つ別の世界があるからこそ、此岸と彼岸のように、この世界が輝きます。
『ほとけさま』の便りを出させたのも、長く親しくこの際だった光景のせいです。
そこで、これは、一体誰が、こうさせていることのなだろうかと考えてみました。じぶん自身の計らいであるはずがなく、まして、自分以外の他者からの計らいのはずもなく、金子みすゞ童謡集“あかりほうへ”のなかに、『はすとにわとり』の詩で表した内容に感心したこともありました。
どろのなかから はすがさく。
それをするのは はすじゃない。
たまごのなかから とりがでる。
それをするのは とりじゃない。
それにわたしは きがついた。
それもわたしの せいじゃない。
金子みすゞの素敵な感性は、『どろのなかから はすがさく。』という、力強く活き活きとした差別の世界を見据えながらも、『それもわたしの せいじゃない。』と、絶対平等の世界に同時に生きることが出来る人だということでしょう。根源の世界に生きるからこそ、はからいを捨てて、あるがままの世界が見えるのだと。これらのことは、金子みすゞの、気づきです。気づくからこそ、見えて、『金子みすゞの心』を、わたし達は見ることができるのです。
気づくことが、どんなに世界をかえるか、これは、同時に囚われると対立の世界は出口をなくすことを意味します。『はすがさく、はすじゃない。とりがでる、とりじゃない。きがついた、せいじゃない』と、不連続にして連続ものの見方。これは、今の自分を精一杯に生きることにつながります。
姉妹が合掌する姿に、これは、命の営みの中のわたし達の一つ一つの行為であるけれども、拝ませたのは、彼でもなく、姉妹でもないと、気づけば、この一連の行為の中に世界や命が表現され、営みとは、『仏が仏に合掌する』ことになるのでしょう。
至道無難禅師の言葉に、「じひするうちは、じひに心あり。じひじゅくするとき、じひを知らず。じひしてじひしらぬとき、ほとけというなり。」があります。
合掌して、合掌しようとするとき、合掌に心があっては、真の合掌とはいえず、本当の合掌を知らないことなのでしょう。合掌して合掌を知らずときとは、ただひたすらに合掌する姿勢に、合掌があり、仏ということなのだと、禅師はいいます。世界一杯に合掌が満ちるとは、今までの自己がなくなり、彼と一つになって、母と一つになって、父と一つになって、その彼も、母も、父もなくなって、合掌していることもなくなることです。
雪峰禅師の『尽大地これ汝が自己』とは、このことを言い、無功用(むくよう)とは、この合掌する行為のことです。さらに、百尺竿頭に一歩を進めよという禅語がありますが、この6年間という百尺竿頭があったればこそ、百尺そのものが、天地一杯に、合掌という形で表現されたことになることを思います。
戒名(平成12年3月14日)
戒名(平成12年3月14日)
どの新聞にも、葬儀とお墓と戒名の話題が、必ず定期的に掲載され、その記事を見るたびに、私はドキッとさせられます。どの言葉も、私と密接に繋がって、お寺の存在価値を問う内容だからです。お彼岸が近づいたこともあるのでしょうが、今日より、読売新聞の朝刊「葬送のかたち(1)」で、またもや取り上げられています。
このホームページは、陽岳寺和尚として、そんな世の中に、私はどう変化して接して、どう私の主張を貫き、その足跡である私の記録を、私の次の世代に、良いこともだめなことも残しておきたいと思って書き記すものです。
平成12年2月の末日、寺の電話がなった。受話器の奥から、搾り出す声で、名前を告げた婦人は、2月の半ばに、主人が亡くなって葬儀が終わり、これから四十九日とか法要のお寺さんを捜しているのだという。この寺の電話は、近くの書店で、臨済宗と告げて探してもらったというのです。
こんな電話が、年に何回か掛かってくる。その度に、葬儀屋さんと専属の僧侶の対応に、憤りを感じます。何も知らない遺族につけこんで、法外に請求し、式が終ってしまえばそれまでの考え方は、遺族のその後の心情や生活を考えると、ただ利益だけを追求する、まったく無責任な非道な振る舞いです。
現実の私達僧侶は、葬儀という式を通して、遺族に徹底的に尽くすことによって、私達の真価が評価されます。そしてその尽くす内容は、押し付けではなく、自分自身の到達した仏教をいかに説くかということです。そのためには、日頃、”如是我聞”の意味を、研鑚することが第一義です。
しかしながら、説くといっても、悲しみの真っ只中にいる人に向かって、振りかざして説く事も出来はせず、語らせることだけでも、充分仏教を説いたことにもなるのです。もちろん死者の生前からの交際があればなおさらですが、現状は、生前に僧侶と知り合うことの意義を見つけようとする人は、とても少ないのです。多くの人が縁起でもないと思っていることでしょう。
僧侶が側にいるという事の意味は、とても大きなことだと思います。そんな親密な関係の中においては、お布施はいくらです、戒名はいくらですと、どだい段階を設けて、請求する事自体可笑しなことなのです。近くの人と話していて、不幸があり、内のお寺さんから、いくら取られたと、頻繁に言われます。その度に、私は答えることが出来ません。
千葉県市川市行徳の方の葬儀に、なんで三多摩の福生市の僧侶が来て、「葬儀の祭祀は、私が執り行いますが、納骨や四十九日忌以降の法要は、どなたかお近くのお寺さんに頼まれるとよいでしょう。」と平然と言ったという。葬儀屋さんは、またも互助会で、葬儀に入る前に、「臨済宗のお寺は、千葉県、都内は非常に少なく」と、嘘を平気につくのです。そして、その互助会の専属の僧侶が言う、「近くの寺に頼めばよいでしょう。」を聞いて、これではお寺が、社会に認知されるどころか、それこそ自ら壊している姿と言えないでしょうか。仏教の教義など何処にも無く、ただ形ばかりの法要は、真に何のための葬儀かが問われていないことが原因でありましょう。人の死に携わるものとして、自ら自浄作用の機能しない産業化した葬式産業に警鐘を鳴らします。
その電話で、人が亡くなるということ、生きるということ、戒名の意義等ひとしきり話をして、戒名だけは付けて貰わなかったことから、「名前を付けるのなら、一緒に考えましょうと、それでよかったら相談いたしましょうと、家族とよく話して、また電話してください。戒名料はありません、差し上げた戒名に、価値を付けるのは貴方です。私はただ受け取るだけですから。」と、受話器を下ろしました。
一週間も経つと、きっと何処かに頼んだのだろうと忘れていた。
3月第一週を過ぎたある日、一度お話を聞きたいと、娘と一緒に訪ねたいと、今度は住所を名乗って、電話が鳴り、その翌日、婦人と娘さんがお寺にやって来ました。
ご主人の遺影と新聞の切抜き、それにご主人の来歴を綺麗に清書された文面を持参しての訪問に、お寺を思い切りよく訪ねてくれた事、ご主人の闘病生活のこと、亡くされての落胆した気持ちのこと等沢山お話して、戒名を創ったら封書でお送りしますといって、帰られていきました。
○△様
冠省、戒名お贈りいたします。
梅寿院徳寶無端居士(バイジュイントクホウムタンコジ)です。
出典は、正法眼蔵≪梅花≫の「老梅樹、太(ハナハ)だ無端なり。」の言葉を体としました。
≪いま開演ある「老梅樹」、それ「太無端」なり、「忽開花」す、自結菓する。あるいは春をなし、あるいは冬をなす。あるいは「狂風」をなし、あるいは「暴雨」をなす。あるいは衲僧の頂門なり、あるいは古仏の眼晴なり。あるいは草木となれり、あるいは清香となれり。……老梅樹の忽ち開花のとき、花開世界起なり。花開世界起の時節、すなはち春到なり。この時節に開五葉の一花あり。…≫
詳しくは、手に入ればですが、原文を参照してください。道元禅師は禅宗でも、曹洞宗ですが、顕している内容は、臨済宗の私の思うことと同じです。
さて、どんな名前がふさわしいのか、私は考えました。30年間の都立O高校の古文の教諭生活、T高校校長、私立K大学付属K高校校長と歴任されたご主人に、下町のちっぽけな寺の住職が戒名を授けることに、果たして命名する資格があるのか私にはわかりませんが、古文より引用致すことにしました。本来戒名は、信頼敬服する和尚から、授けるられるものですが、私を知らない○△様に、電話と一回の面識で、戒名を授けるのは無理がありますと、私は思います。授かる前に、ご一緒に考えて見ましょう。
頂きました新聞の切抜き、
「動と静、文と武が調和した自主創造の良い伝統は、創立以来、師弟の太いきずなによって支えられてきた。『教育には心のふれあいが大切』と常々語っていた徳寶先生は、”トッポウさん”の愛称で親しまれた。自主・自立・創造の意気にあふれたO高校魂を忘れないで欲しいですね』と卒業生にエールを送る。」を、拝見いたしました。この切抜きを大切に保存する事自体、故人へのお気持ちと誇りをお察し致します。
ご主人が亡くなられたその日、私は、船橋に居ました。ここのところの寒さが嘘のように、暖かく、公園の梅の木に、梅花が咲き始めている姿に接していました。その時、思い出していたのが、正法眼蔵≪梅花≫の「老梅樹、太(ハナハ)だ無端なり。」の言葉でした。亡くなられた日時をお伺いしたとき、真っ先に、この言葉を思い出したのです。そして、亡くなられたご自身を、老梅樹に喩えようと思ったのです。心のふれあいは太いきずなであり、そのこと自体が、互いにそれぞれの人格の確認という意味があるからです。師弟の絆は、お互いの人格を認め合うことが、より太い絆となると思うのです。人は、絆を強く意識するということは、気がつかないことですが、逆に、個性を強く意識していることなのです。真の自主、自立、創造の意気は、この意味より、理解できること思います。
また、人として太(ハナハ)だ無端なりは、端が無いということです。どうどうと真中だということを、どんな立場・状況であろうと、端で無いんだという確信です。
老梅樹の一枝に花開くとき、即ち同時に自主、自立、創造の意気が開くということです。そしてそのことが逆に、老梅樹の自主、自立、創造の意気なのです。道元は老梅樹の一枝に可憐な花をさかす時、そこに春があるのだといいます。人に喩えれば、自主、自立、創造の意気は、春と変わりありません。徳とは自結菓なのでしょう。真の寶とは、そこに生きていることを言うのではないかと思います。その故、樹は寿に、言い換えることが出来ると思います。
朝夕、位牌と対面したとき、「今の私は、無端なり。」と、対話することができます。
この戒名を授かれますように、陽岳寺 和尚
平成12年3月10日
揺れ動く婦人は、再三娘と相談し、私に電話をくれました。
婦人は、無端という言葉の響きが、寂しいといいます。
私は、「戒名を授かる前ですから、何度でも言ってください。四十九日までに決めればよいのですから。」と、「無端という言葉が寂しいと思うなら、それに代えて、咸新(かんしん:みな新たなり)と維新(いしん:これ新たなり)の中から、選んでみてはいかがでしょうか。」と、咸新の意味と維新の意味を申し添えました。婦人こそ、「老梅樹、太(ハナハ)だ無端なり。」の、地を行く姿に映りました。
自主、自立、創造の意気が開くということ、老梅樹の一枝に可憐な花をさかす時、そこに春があり、去年の花と今年の花は、花としては同じだが、年々歳々、一枝に宿す可憐な花こそ、人の今の表現であり、新たなる自分の顕現なのでしょう。無端は、咸新でもあり、これ新たなりです。
揺れる婦人を、娘が気遣うことこそ、やがて娘に支えられ、手を引かれて歩く姿は、今の自分の新たな姿です。
揺れながら、迷いながら、自分を見つめて、もう変えませんと、3月14日、受話器の向こうで決した言葉は、梅寿院徳寶咸新居士(バイジュイントクホウカンシンコジ)でした。
朝夕に、位牌に対面し、「今日も、みな新たなり。」と、亡きご主人に感謝を捧げ、今在ることを喜びとすることを、願って止みません。
無用の用(平成12年2月21日)
無用の用(平成12年2月21日)
お寺から見ると、今まで永続していた環境や文化的なものが激変してきていることを思う。このことをお寺にとって良いことか、悪いことか、都合の良いことか、都合の悪いことかは、寺に暮らすものがそれぞれ判断を下せばよい事なのだが、同じことが、お寺の中でも起きていることを思えば、一ケ寺の事ではなく、お寺全体の問題でもあると思う。平成12年1月6日午前、Nさんから電話がありました。母が亡くなったとの知らせでした。ちょうど一ヶ月前ぐらいに、私は居なかったのですが、留守の者が、Nさんが墓地にお参りに来たとき、母が病院で危篤であること、亡くなったら知らせるので、遠方だけれども葬儀に出向いてくれるかとの応対があったこと、できる限り出向くので、すぐ知らせてくださるようにと返答しておいたと、聞いたことを思い出したのです。
掛かってきた電話の内容は、母が亡くなったこと、葬儀はお金がないから出来なく、お寺さんは来てくれるな、戒名は付けなければならないのか、四十九日の納骨の日程を打ち合わせさせてくれとの内容でした。年の瀬に母の代わりに墓参に来たことと、伝言された内容が変わって来ていることに、戸惑いがあった。どうしてそうなってしまったのだろうか訝ったものの、こうしたときの、私の説得力のなさ、不甲斐なさは、寺を預る住職としての私と、一僧侶としての私との葛藤が顔を出します。その場に立ち会えない和尚は、寺にとっても存在する価値は無いと思うからです。
寺を預り、この寺の墓地に眠る大勢の方々は、名前を言えば、あるいは、戒名を言えば、その人直接本人の顔や、経歴または家族や知人の顔が浮かび、墓を掃除するたびに、墓が私に語りかけてくれるような、妙な親しみを覚えつつも、安堵感を持つ。家族は元気に、たくましく生活しているとか、あれから大分子供たちは大きくなったとか、子供も大分年をとったようようですとか、行方が判りませんとか、この墓の後見人は、社会的には立派な人のようですが、実母が眠っているのにどうして何年も、お参りが来ないのだろうか、そんな墓の苔むした姿が偲びがたく、半年に一遍、私はそれらの墓を、たわしで洗います。
私から息子さんやその奥さんや子供さんたちに、墓参りに来いとは言えないけれど、こうして私が気持ちを振り向けることで、許してやってくださいと念じたりもします。いつも思うのですが、葬儀が終れば、ほとんどの亡くなった方の遺骨は、この寺の墓地に葬られることによって、納骨以降は、私との対話が専らなのです。その意味では、葬儀とは、家族から、私の元へと引継ぎ式のような錯覚を持つこともあります。亡くなった者が、生きているかのようにです。そのためにも、私は、家族からより多くの生前のことを聞き、亡くなる時の状況を詳しく聞くことにしています。不思議なくらい、詳細に渡って、家族は私に話してくれます。
Nさんのお母さんも、最初は熱が出て、風邪を引いたかのようでした。身体の不具合で、昨年の2月、病院に検査に行ったのでした。診断は、脳種痘であり、即刻入院となりました。何しろ84歳でしたので手術はできず、薬で様子を見ることに専念しました。入院は次第に,母親の体力を奪うかのように、9月頃のMRIの診断によると、左脳半分に患部が広がり、点滴と流動食で身体を維持していたそうなのでした。やがて脳肝にも広がり、意識がわからなくなり、平成12年1月5日午前8時45分帰らぬ人となりました。ご主人が亡くなってから、挫折と転居を繰り返しながらの日々もありました。26年間4人男二人、女二人の子供たちを育てあげることは、並大抵の苦労ではなかったのです。晩年は娘さん夫婦と暮らすことで、安らいだ日々を送っていたのですが、いつも穏やかに、気の優しい人でした。ほぼ一年にわたる闘病生活は、ほんのわずかな蓄えも無くなり、葬儀のためのお金もなくなっていたのでした。子供たちも、母の葬儀費用が都合がつかず、仕方なく子供たちだけで、10日の荼毘にされたのでした。
私は、訃報電話の翌日、お母さんと一緒に暮らしておりました、娘さんに電話いたしました。私は、人が誕生することの意味、そして亡くなることの尊さを話し、火葬にされ肉体が無くなる別れに立ち会うことの意義のために、誰でもいいのではなく、その菩提寺の和尚である私だけが、遺体と親しく向き合うことのできる祭祀者であることを、説明しました。受話器の先の、いくらか咽る声を聞きつつ、手紙に託すことで、電話を切ったのでした。
≪冠省 お母様の亡くなられた訃報をお知らせいただきありがとうございました。電話では、納骨の日に、戒名を差し上げることになっておりましたが、10 日火葬と伺いまして、速達ならば間に合うはずと、Mさんに承知していただき、早速郵送いたします。 Mさん、そしてご理解いただきましたご主人、長期にわたる看護に厚くお礼申し上げます。たぶん幾度となく葛藤を繰り返されたこと思います。しかしそのことも、もはや過去のこととして、きっと悔いのないことと、今は思うのではないかと拝察いたします。
お父さんの戒名と一緒に並べた場合に揃うように、末尾の“心”字を先ず揃えました。そしてお母さんの名前の「いと」を、“綸(いと=りん)という漢字に変換いたしました。綸という字は、「綸…」と、…に漢字を使って熟語とすれば、天子・詔(みことのり)という意味を持ちます。つまり、この“綸(いと)”は、もともと尊い、かけがえのないものと言う意味を持つことに通じると思います。何がかけがえがないのかと言うと、自らの存在は、総て、糸で繋がっているという意味にとりたいと思います。このことは、私達は、知らずに母親・父親の姿を見て、育ってきたし、その子どもも、更にその子供もと、繰り返すことからも言えます。それは、自己の選択を拒否された運命を思います。子供たちの最初の産声は、そんな出会いであり、絶対の価値を持つことの表現でもあります。父母を亡くすと言う意味も、そこから出発していただきたいと思います。
次に、“綸”の上の字は、“綾(あや=りょう)”です。“綾”は、人と人の織り成す綾であり、人生の軌跡であり、私は、人の生、そのものを“綾”とみなしました。そして言い換えてみれば、綾全体を“容(うつわ)”とすれば、人の心は、綸と綸の織り成す綾の上で、心を咲かすかのように、可憐であり、悲しくもあり、嬉しくもあり、退屈であるとも言えるでしょう。生前にはかなわぬ夢を、果たすことこそ、総てを受け入れるということであり、容認するということでもあると思うのです。死とはこのようにも解釈できることでしょう。
その母親が、火葬になれば、もはや見ることも出来ず、さわることも出来ない存在になります。生きてさえいれば、あるいは母の姿・形がどこかに在るということは、子にとって大きな支えです。その支えを現実に失うことが、葬儀の核心であるということは、子ども達にとっても旅立ちの儀式であり、もちろん母親にとっては帰郷の儀式なのです。私が望むことは、このことを良く考えて、母を最後まで慕いそして偲んで、それぞれにとって、お別れの会としてください。49日および納骨の式を含めた、お寺での追悼式にお会いいたしましょう。≫
後日、火葬の日には、兄弟達が、和尚の手紙を回し読みながら、母を送りましたと、娘さんから手紙を頂きました。
私は出かけることが出来なかったけれども、兄弟達に、私なりの引導を渡すことが出来たのかもしれないと思ったのです。
今、私が、切に思うことは、人が生きるということの意味が、とても希薄になっているように感じられるのです。自分を離れた、かって肉体を一つにしていた父母すらも、一体となって感じることが出来ない、そんな子供達を育む現代の親達は、何年か前に、いけしゃあしゃあと、今を生きている内が花であり、楽しみと遊ぶのに、忙しくってしょうがないと叫ぶ、年寄りを前にしたことがあるが、自分を大切にすることは、ひるがえって自分以外をも大切にすることによって成り立つ事実を、しっかりと認識することこそ、より良く生きることの出発点の大事だと思うのです。
世話
世話
人が生きて、息を吸うと言う事には、息を吐く事が含まれていて始めて、息を吸う事ができる。15年ぐらい前のことだろうか、彼を注意深く見つめるようになったのは。
彼の父親が昭和57年の春に、79歳で亡くなったときからだ。彼の父親は、ガラス職人だった。その当時、江東デルタ地帯にはガラス工場がたくさんあり、職人達が溶鉱炉の熱気に打たれながら、真っ赤になったガラスと格闘する姿があちこちで見うけられたものだった。
その頃、彼は公立の小学校の用務員をして、生計をたてていた。人の良い彼は、純朴でいて長い年月に起きるさまざまな事柄を、受け入れ過ごしていた。
彼には、老いた母がいて、なかなか気難しく、その頃、都営住宅で、ベッドに寝ては起きる日々を送っていた。そして年齢が少し離れた、知恵遅れの障害を持った兄が母親と同居していた。彼と彼の妻は、都営住宅に通っては、二人の世話をしていた。
しばらくして、兄の様態が悪くなり、兄は入院する事になった。老いた母と入院した兄の世話に夫婦は奔走する事になる。兄は入院したまま、平成2年夏、61歳で、帰らぬ人となった。
兄が亡くなった頃、彼の母は、ほとんど寝たきりの状態になりながらも、狭い都営住宅の真ん中にベッドを置き、掃除も行き届かない部屋に、横たわっていた。それでも母の口は達者でした。夫婦は、三度三度の食事、排泄の世話、洗濯と夫婦は都営住宅に、毎日通っていた。
平成4年の暮れ頃からだろうか、彼の妻の健康が損なわれた。胃がんだった。翌年の正月には、妻が入院して、平成5年3月、57歳の若さで急ぐように亡くなっていた。次々と肉親に旅立たれる彼は、それでも不幸を表面に出さず、母の介護に余念がなく、淡々と毎日が過ぎて、彼も定年を迎えたので、母の世話に忙しかった。その頃、彼の子供たちが次々と結婚し巣立っていった。
平成8年4月、桜が咲いているさなかに、彼の母が、90歳で旅立っていた。
それぞれの葬儀は質素に、父親の葬儀には行けなかったけれど、兄の葬儀は、母のベッドの傍で執り行われ、母の葬儀妻の葬儀も遺骨にした後、肉親が祭られる自宅の仏壇の前で、残された家族と親戚だけで、本当にしめやかに執り行われた。
平成11年9月、久しぶりに彼の笑顔を見た。年も70歳を越して、日焼けて飾り気ない彼は、忙しそうにしていた。
「長男の息子が3歳になり、孫の世話に追われて、忙しい」という。
めぐり合わせの人生とは、儚くも美しく、不思議でしょうがない。私が知る彼は、いつもあわただしく、人の世話に追われている。こうして18年の短い年月にもかかわらず、彼一人の18年間に4人の大切な家族がいなくなり、何一つ愚痴を言うわけではなく、孫の世話に追われる彼を見て、彼の強さを思った。
何かを望む人間は、そこに弱さを見つけることができるように、望まない人間には弱さはない。ただ生きることに徹して、目前の事実を受け入れ消化する姿に、打たれる。それこそ一息一息の呼吸に、生命はある。また、来年の春に、あわただしい彼の姿を見るのが、楽しみだ。
大きく育て!(平成11年1月18日)
大きく育て!(平成11年1月18日)
平成11年1月8日夕刻、電話が鳴った。近くの特別養護老人ホームのM園、O指導員からの電話だった。
「入園していた八十二歳の女性・I岱子さんが、本日、Yクリニックで亡くなったのだが、葬儀が出来ないだろうか。さらに遺骨を引きとって頂けないだろうか」との内容であった。
「遺骨の引き取る家族・姉妹がなく、早急に決めなければならないので、ご理解の上、決断して欲しい」と、さらに続いた。
「今までは、こうした例では、東京都の多摩霊園の合霊塔に埋葬していたのだが、近くに埋葬できれば、その上葬儀までできれば、園の人達もお別れができるし、本人にとっても嬉しいことだと思う」の言葉に、私は、引きうけてしまったのでした。
さて、引きうけるにあたって、私は本人のことは一切知らないし、顔も見たことはないので、何か本人を知る手がかりを教えてくれないと葬儀は出来ませんとO指導員に伝えた。O指導員は、I岱子さんの、ここに来る前の、雇用主であるMさんの電話番号を教えてくれた。
Mさんとの電話
岱子さんは、本当に気の毒な人なのです。岱子さんは、福島で、警察官の父と母とのあいだに大正5年4月28日に生まれたそうです。岱子さん4歳の時、お母さんが亡くなられたそうです。下に弟がいたそうですが、知能の発達が少し遅かったと聞いております。父親はすぐに再婚したそうです。その父親も、岱子さん10歳のときに、亡くなられたそうです。しばらくは、一緒に暮らしていたそうですが、後妻との間に妹が生まれていて、暮らしは楽ではなく、やがて、当時としてはハイカラな、女性が一人で生きて行くには理想の、美容師の道を選ばれたそうです。しかしながら、当時の美容師は徒弟制度で住み込みの、はたから見ているほどに楽ではなく、辛いこともたくさんあったろうと思います。なんでも、上京して有名な先生についたと聞いております。
おとなしく、辛抱強く、芯に気品のようなものがあって、品の良い穏やかな、それは美しい人でした。
戦争が激しくなってまいりますと、パーマをかける婦人達もいなくなり、郷里の福島に帰ったと聞いております。そこで、男の人との同棲生活が始まりました。内縁関係だったそうです。ご主人や廻りの人の意見で、籍には入れられなかったそうです。岱子さんはそのことを、あまり語りませんでしたので、私もそれ以上聞くことはしませんでした。戦後すぐに、上京したことを思えば、長く続かなかったのでしょうね。
私との出会いは、30年ぐらい前のことなのですが、私が美容院を開店させた時、美容師募集の広告で、岱子さんは応募してきたのです。住み込みを希望でした。その時以来10年ちょっとのお付き合いです。私が身体を悪くしたこともあり、私の子供達を、それは良く尽くして下さいました。子供達もよくなついて、慕っておりました。岱子さんは65歳を過ぎて、大田区のアパートで一人暮しを始めました。しばらくは元気で過ごしていたのですが、なんせ、年寄りの一人暮しは心配で、何度か救急車に運ばれるということがあってより、大田区の福祉事務所に通い、何か良い方法がないものかと思案していた時だったのです。たまたま江東区のM園で、一人空きができて、それに飛びついたのです。福祉事務所の担当者の機転とM園との出会いは、ついていたというのでしょうか、運が良かったのですね。岱子さんは76歳になっていました。
和尚の思い
Mさんから電話にて、岱子さんの話を聞くにつけ、なんとも気の毒な話しであり、姉妹も義理の母も姿・形を現さない。これは、何かしらの事情で岱子さん自ら、音信を切った理由があるのだろうし、また、その反対かもしれない。生きていればの話しだが、恐らく先方も今更会いたくはないのかもしれない。
父親の名も母親の名もわからない娘が、82歳という年齢で、天寿をまっとうし、親しく見送られて旅立って行く。
不思議なもので、まったく身寄りのわからない人でも、両親を窺い知ることができると思ったのは、名前であった。人は見ず知らずの他人から、名前を頂くことはないのだが、たまにではあるが、そんなこともある。それは、葬儀において付けられる法名・戒名の類だ。突然の不幸に動転し、葬儀屋さんに誰でも良いとお坊さんを頼み、葬儀後、納骨をしなければならないが、我が家には、墓はないし、はてあれは何処のお坊さんだったのだろうかと思って、尋ねてみれば、何処の誰かもわからず、困って、近くの寺を訪ねてみて初めて、自分が法名・戒名をその時すでに頂いた身であることを、しみじみと確認する。
確かに両親からもらった名前を人は、いつまでも携えて歩き、他人はその名前で、人をわける。
中国の今の北京を中心として、五嶽がある。禅学大辞典よりの抜粋である。
『中国において、古くより国の鎮めとして尊び信仰された五つの名山。戦国時代、五行思想の影響により五岳の観念が生まれたが、漢代に至って、東岳泰山、西岳華山、南岳せん山、北岳恒山、中岳嵩山と定められた。その後6世紀末になって南岳は衡山に、17世紀になって北岳は恒山に改められた。衡山には南岳懐譲禅師・石頭希遷禅師等ゆかりの南台寺・祝聖寺・福厳寺等があり、嵩山には仏陀禅師や菩提達磨ゆかりの少林寺・嵩岳寺・会善寺がある。』
五岳の筆頭、泰山は岱山といい支山15、嶺は7、谷は15で、大山脈を束ね、岱宗とも言った。泰山からは、泰山のような安らかさ安堵感を導き、人の命は、泰山のように重い。また仰ぎ尊ばれる山であり、その故に人から慕われるということか。太山からは大きさと始まりを感じられる。山東省泰安市にある岱山は、大きいさまの敬称として、また胎に似て始めの意味も、持ったらしい。
名前から、親の教養がうかがえるし、その家の長子として、親の願いが伝わる名前に違いない。だが、もしこの意味を知ったとしたら、誇りに思っただろうか。自分の行く末を考えると、重荷になっただろうか。時に誇りに思い、身を歎いただろうか。そんなことを考えながら岱子さんのM園での、振る舞いを聞くうちに岱子さんは、とっくにこの意味の問題を卒業していたのを知りました。
誇りに思うことになったきっかけは、大きくなると言うことは、一変に大きな山になるということではなく、実は一つ一つの小さな土くれが積み重なった結果が大きな山だと、気づいたからでしょう。このことは大変大きな意味を持ちます。人生の一つ一つの作業の、あるいは行為の結晶が、間違いなく大きな山だと、気が付いたからなのでしょう。また、山は山自身の大きさを自ら語りませんことから、そのままの素直な自分が大事だと気が付いたからなのでしょう。
禅の言葉に、「太山、只、重さ三斤。(従容録)」とある通りです。
岱子さんの葬儀は、1月12日通夜、13日告別式の日取りで、場所は陽岳寺、喪主はM園の園長が勤めた形で執り行われ、Mさんたち家族12名ぐらいとM園のO指導員、寮母さんたち、元気な入園者とお別れをし、出棺した霊柩車はM園の玄関前に到着、式に来れなかった人の見送りを得て、瑞江の火葬場に向かい、荼毘にふされました。そして、幼くして亡くなったご両親の元へと旅立って行きました。
没年 平成11年1月8日 午後1時38分
伊藤岱子 享年82歳
戒名 岱壽妙素 信女
平成11年1月13日 陽岳寺三界萬霊塔に埋葬される。
もし、この項を御覧になって、ご存知の方がおられましたら、一度お参り下さい。
ちなみに、戒名の岱素とは、自分が生まれる前、自分を生んだ両親も生まれる前、地球が誕生する前の意味を持ちます。もっとも、その意味に憑かれたら大間違いですが。そのままに暮らすことを、『妙』と言います。