大きく育て!(平成11年1月18日)
大きく育て!(平成11年1月18日)
平成11年1月8日夕刻、電話が鳴った。近くの特別養護老人ホームのM園、O指導員からの電話だった。
「入園していた八十二歳の女性・I岱子さんが、本日、Yクリニックで亡くなったのだが、葬儀が出来ないだろうか。さらに遺骨を引きとって頂けないだろうか」との内容であった。
「遺骨の引き取る家族・姉妹がなく、早急に決めなければならないので、ご理解の上、決断して欲しい」と、さらに続いた。
「今までは、こうした例では、東京都の多摩霊園の合霊塔に埋葬していたのだが、近くに埋葬できれば、その上葬儀までできれば、園の人達もお別れができるし、本人にとっても嬉しいことだと思う」の言葉に、私は、引きうけてしまったのでした。
さて、引きうけるにあたって、私は本人のことは一切知らないし、顔も見たことはないので、何か本人を知る手がかりを教えてくれないと葬儀は出来ませんとO指導員に伝えた。O指導員は、I岱子さんの、ここに来る前の、雇用主であるMさんの電話番号を教えてくれた。
Mさんとの電話
岱子さんは、本当に気の毒な人なのです。岱子さんは、福島で、警察官の父と母とのあいだに大正5年4月28日に生まれたそうです。岱子さん4歳の時、お母さんが亡くなられたそうです。下に弟がいたそうですが、知能の発達が少し遅かったと聞いております。父親はすぐに再婚したそうです。その父親も、岱子さん10歳のときに、亡くなられたそうです。しばらくは、一緒に暮らしていたそうですが、後妻との間に妹が生まれていて、暮らしは楽ではなく、やがて、当時としてはハイカラな、女性が一人で生きて行くには理想の、美容師の道を選ばれたそうです。しかしながら、当時の美容師は徒弟制度で住み込みの、はたから見ているほどに楽ではなく、辛いこともたくさんあったろうと思います。なんでも、上京して有名な先生についたと聞いております。
おとなしく、辛抱強く、芯に気品のようなものがあって、品の良い穏やかな、それは美しい人でした。
戦争が激しくなってまいりますと、パーマをかける婦人達もいなくなり、郷里の福島に帰ったと聞いております。そこで、男の人との同棲生活が始まりました。内縁関係だったそうです。ご主人や廻りの人の意見で、籍には入れられなかったそうです。岱子さんはそのことを、あまり語りませんでしたので、私もそれ以上聞くことはしませんでした。戦後すぐに、上京したことを思えば、長く続かなかったのでしょうね。
私との出会いは、30年ぐらい前のことなのですが、私が美容院を開店させた時、美容師募集の広告で、岱子さんは応募してきたのです。住み込みを希望でした。その時以来10年ちょっとのお付き合いです。私が身体を悪くしたこともあり、私の子供達を、それは良く尽くして下さいました。子供達もよくなついて、慕っておりました。岱子さんは65歳を過ぎて、大田区のアパートで一人暮しを始めました。しばらくは元気で過ごしていたのですが、なんせ、年寄りの一人暮しは心配で、何度か救急車に運ばれるということがあってより、大田区の福祉事務所に通い、何か良い方法がないものかと思案していた時だったのです。たまたま江東区のM園で、一人空きができて、それに飛びついたのです。福祉事務所の担当者の機転とM園との出会いは、ついていたというのでしょうか、運が良かったのですね。岱子さんは76歳になっていました。
和尚の思い
Mさんから電話にて、岱子さんの話を聞くにつけ、なんとも気の毒な話しであり、姉妹も義理の母も姿・形を現さない。これは、何かしらの事情で岱子さん自ら、音信を切った理由があるのだろうし、また、その反対かもしれない。生きていればの話しだが、恐らく先方も今更会いたくはないのかもしれない。
父親の名も母親の名もわからない娘が、82歳という年齢で、天寿をまっとうし、親しく見送られて旅立って行く。
不思議なもので、まったく身寄りのわからない人でも、両親を窺い知ることができると思ったのは、名前であった。人は見ず知らずの他人から、名前を頂くことはないのだが、たまにではあるが、そんなこともある。それは、葬儀において付けられる法名・戒名の類だ。突然の不幸に動転し、葬儀屋さんに誰でも良いとお坊さんを頼み、葬儀後、納骨をしなければならないが、我が家には、墓はないし、はてあれは何処のお坊さんだったのだろうかと思って、尋ねてみれば、何処の誰かもわからず、困って、近くの寺を訪ねてみて初めて、自分が法名・戒名をその時すでに頂いた身であることを、しみじみと確認する。
確かに両親からもらった名前を人は、いつまでも携えて歩き、他人はその名前で、人をわける。
中国の今の北京を中心として、五嶽がある。禅学大辞典よりの抜粋である。
『中国において、古くより国の鎮めとして尊び信仰された五つの名山。戦国時代、五行思想の影響により五岳の観念が生まれたが、漢代に至って、東岳泰山、西岳華山、南岳せん山、北岳恒山、中岳嵩山と定められた。その後6世紀末になって南岳は衡山に、17世紀になって北岳は恒山に改められた。衡山には南岳懐譲禅師・石頭希遷禅師等ゆかりの南台寺・祝聖寺・福厳寺等があり、嵩山には仏陀禅師や菩提達磨ゆかりの少林寺・嵩岳寺・会善寺がある。』
五岳の筆頭、泰山は岱山といい支山15、嶺は7、谷は15で、大山脈を束ね、岱宗とも言った。泰山からは、泰山のような安らかさ安堵感を導き、人の命は、泰山のように重い。また仰ぎ尊ばれる山であり、その故に人から慕われるということか。太山からは大きさと始まりを感じられる。山東省泰安市にある岱山は、大きいさまの敬称として、また胎に似て始めの意味も、持ったらしい。
名前から、親の教養がうかがえるし、その家の長子として、親の願いが伝わる名前に違いない。だが、もしこの意味を知ったとしたら、誇りに思っただろうか。自分の行く末を考えると、重荷になっただろうか。時に誇りに思い、身を歎いただろうか。そんなことを考えながら岱子さんのM園での、振る舞いを聞くうちに岱子さんは、とっくにこの意味の問題を卒業していたのを知りました。
誇りに思うことになったきっかけは、大きくなると言うことは、一変に大きな山になるということではなく、実は一つ一つの小さな土くれが積み重なった結果が大きな山だと、気づいたからでしょう。このことは大変大きな意味を持ちます。人生の一つ一つの作業の、あるいは行為の結晶が、間違いなく大きな山だと、気が付いたからなのでしょう。また、山は山自身の大きさを自ら語りませんことから、そのままの素直な自分が大事だと気が付いたからなのでしょう。
禅の言葉に、「太山、只、重さ三斤。(従容録)」とある通りです。
岱子さんの葬儀は、1月12日通夜、13日告別式の日取りで、場所は陽岳寺、喪主はM園の園長が勤めた形で執り行われ、Mさんたち家族12名ぐらいとM園のO指導員、寮母さんたち、元気な入園者とお別れをし、出棺した霊柩車はM園の玄関前に到着、式に来れなかった人の見送りを得て、瑞江の火葬場に向かい、荼毘にふされました。そして、幼くして亡くなったご両親の元へと旅立って行きました。
没年 平成11年1月8日 午後1時38分
伊藤岱子 享年82歳
戒名 岱壽妙素 信女
平成11年1月13日 陽岳寺三界萬霊塔に埋葬される。
もし、この項を御覧になって、ご存知の方がおられましたら、一度お参り下さい。
ちなみに、戒名の岱素とは、自分が生まれる前、自分を生んだ両親も生まれる前、地球が誕生する前の意味を持ちます。もっとも、その意味に憑かれたら大間違いですが。そのままに暮らすことを、『妙』と言います。
しもべ(平成10年11月7日)
しもべ(平成10年11月7日)
昭和59年6月後半、横浜で葬儀をした時の話しである。通夜,葬儀と自宅で執り行われたのであるが、喪主である長男の嫁が奥に入っていて、一向に挨拶にあらわれないのである。長男には妹がいて、その代りにせっせと忙しく立ち振る舞う様子に不思議と思ったものだった。今でも台所から一歩も出ようとしない、その奥さんの顔が今でも私の脳裏に焼き付いて、今どうしているのだろうか思うことがあります。所かわって埼玉の狭山市で、これも、ずいぶん前の平成5年1月半ばの話です。通夜と葬儀をおこなった時のことです。小さな会館で儀式は行われました。親族一同が式の会場に参列している最中、出頭前の親族と導師の控え室に、ひとかたまりとなった母親と三人の子供の姿があった。亡くなった方の親戚の姪っ子と子供達で、子供達は幼稚園ぐらいの年齢だった。可愛い盛りの女の子たちだった。
「小学校?それとも幼稚園ですか?」
母親らしい女性が応えた。
「いっていません!いいえ、いいんです。子供達にとって、充分よけれとの思いで考えてのことです」
「そうですか」
私は、子供達の広くは綯い部屋の隅で、固まって遊ぶ姿を見ていました。何も言えませんでした。
通夜の勤めを終えて帰ってきた時も、その塊は、そこにいました。そして、翌日の葬儀の時も、かわることなく、その情景がありました。
子供達の感情やさまざまな体験の扉を閉めて、自分の思いで、子供達を鎖に縛って良いのだろうか?
この子達にとっても、その親にとっても、出会いと別れの、大切な節目をもかえてしまうものかと思うのです。そしてそのことによって、その人のこれからがどう変化していくのかは、誰も知らないことで、すべては自分で背負って行かなければならないことなのですけれど。
2年前の平成9年1月のとある夜、横浜の、あの妹さんから電話がありました。いつも、それは突然にやってきます。私にとっては、避けることが出来ないことなのですけれども。
「兄が亡くなりました」と、鼻をすする妹さんの悲しい声に、
「どうしたのですか?」と、最初、応えるのが精一杯でした。
妹の兄は私よりも二つか三つ年上だから、不自然な死に方に違いなく、すぐに笑顔やすました彼の顔が浮かびます。この寺の墓地に墓はないものの、長い付き合いの一家には、どこもそうですが、さまざまなことが降りかかって来るのを、じっと見つめます。
前年の五月に法事をしたとき、
「妻と息子、娘でアメリカに転勤です。今度は長くなりそうですので、日本との別れに、年会ではないのですが両親の法事をして行きます。食事は、隅田川の上で、船に揺られてのんびりしたいと思います」
「ニフティーサーブのアドレスに、郵便を送ってください」
さらに6月か7月頃に、メールを送ったことがあった。返事もすぐにきて、仕事にもなれて、元気にやっているらしく、メールのやりとりは、日本とアメリカの垣根を取り払ったかのようですと書いてあった。
妹の話しは、こうだった。
「実は去年の12月29日午前9時15分に、兄は休暇で、家族そろってオレゴンのスキー場に行く途中、交通事故で亡くなりました。吹雪の中、奥さんが運転する車は、スピードの出し過ぎで横転、20メートルほど転がりながら大破して、助手席に乗っていた娘さんと奥さんは助かりましたが、後席にいた兄と息子さんは亡くなりました。1月8日荼毘にふし、奥さんのの希望で現地に埋葬いたしました。私は、少しでもと兄の骨を分けてもらい、多摩霊園にある、両親の眠る墓に埋葬してあげたいと思います」。
後日、追悼の会を催したいとのメールが舞い込んで来ました。
発起人のK氏からのものだった。
「彼は私立Y大学の工学部を卒業、富士通に入社、コンピューターのウェハスのラインを立ち上げたりと、それは失敗と苦労の連続の中を歩みつづけた仲間です。彼が勤めていた会社やK重工やK製作所の仲間が、せめてささやかな宴を催して、彼を偲び、そして語りたいと思いますが、力を貸してください」との内容だった。
妹さんからも、再び電話があり、独りぼっちになってしまったこと、ビザの期限が切れるであろう兄嫁のこと、娘のこと、冬ごろもした別荘での兄や兄の友達との楽しかったひとときを、涙ながらに話す妹さんの言葉が、一言一言、しみ入り、逆境に早く立ち直ることを願った。そして『偲ぶ会』に賛成し、私に出来ることは、協力いたしますと電話を切りました。
それより、2月7日の当日まで、メールのやりとりで、式次第やプロフィールの作り方や、進行の仕方を決め、偲ぶ会が決行された。
私は、冒頭15分強頂いて、彼の52年の生涯を思い、悼み、そして願った、会に賛同しかけつけてくれた大学の恩師や会社の先輩、仲間七〇名がそれぞれの想い出を語り、彼の冥福を祈った。
四十九日の法要が過ぎ、一周忌、三回忌とまたたくまに過ぎ去っていた。彼の妻と娘の消息は、オレゴンから途絶えたままに今日を迎えている。
彼女は、地球のハルマゲドンをひたすら信じて、その証人になるべく、アメリカの地を歩いているのだろうか。
電話(平成10年8月22日)
電話(平成10年8月22日)
昭和63年2月初め、私が仏教情報センターでの電話相談の日のことでした。午前11時頃だったと思うのですが、電話が鳴りました。受話器を耳に当て、「仏教情報センターテレフォン相談室です」と応答しますと、受話器の向こうで「……」沈黙が続きます。かすかな息遣いが感じられましたので、「どうしましたか。大丈夫ですか」と呼び掛けてしばらく待ちます。かすかだった息遣いが大きく、受話器の向こうでは、嗚咽が始まりました。私は何か差し迫った予感を覚えて、声をおとしてゆっくりと何度か「どうしましたか。大丈夫ですか」と呼び掛けたのですが、嗚咽は止まりません。
受話器の向こうのしばらく続いていた嗚咽が止み、
「すみませんでした。ずっと電話をしたいと思っておりましたもので、なかなか出来ずつらくて気が付いたらダイアルを回しておりまして、つながった音に、とても不安を感じ、次に涙がでて……」。受話器の向こうの女性の沈黙と鼻をすする音に、多少の落ち着きを感じて、「さあ。話して頂けますか」と声をかけました。
広島の近くK県K市在住の女性で、年令は42才、二人の娘がいて姉は高校2年で妹は中学3年の受験に追われているとのこと。夫はがんで入院中、しかも末期の肺がんだそうで、あとどのくらいの命か不明とのこと。
夫の仕事はK市の小さな材木屋さんで、主人のいなくなった仕事場で伝票等の整理をしたり、家事、受験、病院の往復と夫の世話、将来のこと等、不安やいらだち、心細さを受話器の向こうで語りかけてきました。
私は、この年の1月から仏教ホスピスの会員として、『癌患者・家族の語らいの集い』に出席しておりましたので、緊急のときのため、国立がんセンターの先生と世話人の僧侶と私の電話番号を教えて、電話を切りました。
これで良かったのか、あまりに遠方であるため、岡山にある仏教テレフォン相談のことをも告げたのです。
「ありがとうございました」との最後のことばに、『めげないでください』と念じてやみませんでした。
時は、一年の歳月が立ち、秋彼岸の何日か前です。午後、私の寺の電話に彼女の声が聞こえ、夫が旅立ったこと、お店を閉めたこと、娘が進学したこと、彼女が勤めていて、今日はなぜか会社を休んでしまって、あのときの電話を思い出して、今、ダイアルを回したことを語りかけてきました。
意思
意思
『衆生病むがゆえに我病む』という意味を理解できるでしょうか。私が病んでいる限りは、私が愚かである限りは、私が悲しんでいる限りは、私が憎しみに染まっている限りは、私が悪に足を踏み入れている限りは、私が飢えで苦しんでいる限りは、私が潤いを望んでいる限りは、私が支えを欲している限りは、私の意思が揺らいでいる限りは、私の感情が揺れている限りは、私が幸福である限りは、私の子供が成長するまでは、子供の子供が安心できるまでは、友人の病気が治るまでは、母や父を送るまでは、災害がなくなるまでは、私の心配が尽きるまでは、私の苦しみが尽きるまでは、仏は仏の、神は神の意思を、捨てることは無いという意味です。
人が生まれ、生きている限りは、神は神としての、仏は仏としての安らぎ、あるいは肩の荷を下ろすことは、無いということだと思うのです。年がら年中働いて、見守って下さるということでもあります。このことに気づき、感謝できれば良いのですが、すぐに忘れてしまうのも、人の性というものでしょうか。
諸行無常を語る仏教では、総てが変化してあるということは、絶対の定理ですし。存在するものは、変化することは真理です。時を含むことは、もちろんのことです。
『衆生病むがゆえに我病む』にとって、病む内容は、”時代の病み”でもあり、”時代の表現”でもあります。
仏教における、人の生き方の目標は、自分自身に忠実に生きることだと思います。そしてそれには、自分自身と、忠実と、自分自身に忠実に生きることと、忠実に生きる自分自身の意味を、それぞれが自己に問い掛けることが必要なことだと思います。
忠実に生きようとして、妨げになることは多くあります。忠実に生きて、死に臨むこともありました。
どんなに年をとっても、時に辛く苦しく、悲しく寂しく、不安や恐怖に、いらいらする時があります。いや、年をとればとるほど振り返ることが多くなり、今の自分と、これからの行く末を考えた時、まして、体の不具合の繰り返しと、自分の体調の変化に、強く危惧を抱く時、時の流れを止めることのできない不安と自己の苦痛に襲われるのはいたしかたないことです。
今を生きるということは、時に、辛く苦しく、悲しく寂しく、不安や恐怖に、いらいらすることも、それを取り除けない今の私なのだと徹することが、今を生きている、豊かに潤いのある姿だと思います。
今から10年前の平成2年、長い間築いたY氏とU婦人の、二人の生活の過去を持つ家と土地を処分することに、決断し、実行に移した、老いた仲睦まじい夫婦がいました。
それは、子供がいない二人の、終焉の地を求めてのことでした。未来を占い、過去を厳しく見つめてこそできる、綿密な計画通りの実行は、さらに、夫婦の固い結びつきを思います。
終焉の地は、市川市の終末型老人ホーム、ウェルピア市川000号室です。
この家、この建物こそ、生涯に渡って貫いた、夫婦の象徴であり、もはや人格そのものの、投影のような気がいたします。それは、夫婦が帰る場所であり、温もりと安心の宿る、後戻りできない棲家だったからです。
他人に迷惑をかけることを許さないY氏は、小学校の教師を勤め上げ、最後はいくつかの学校の校長を歴任した、厳しい教育者でした。子供達に自立を植え付ける立場から、自ら率先して模範となる頑固さを持ち、臨終まで、Y氏は、教師の姿勢を通したのでした。
半年前の5月のある日、私に一本の電話がかかりました。それは、この夫婦の後見人ともいえる人であり、私の寺の檀家のI氏の弟さんからでした。
「和尚!叔父(Y氏)さんの体が消耗して、すぐにっていう訳ではないんだが、叔父さんの希望なんだが、葬儀に来てくれないですか」との内容でした。
私は、U婦人と最後に会話したのは数年前になっており、今いる場所に引っ越しての暮らしに、「良い場所がみつかりましたね。その後はどうですか」と、声を掛け、婦人も「ええ、本当に、安心して余生を楽しく過ごしております」と、うかがった記憶が、薄っすらとある。
「向こうの寺の和尚が高齢で来れないのなら、承知いたしました」と、電話を切ったが、それ以降電話はなく、ふと、「どうしてるだろうか」思い出すことはあっても、「なんせ88歳だから、腰の骨を痛めてのことだから、時間はわからないと思うよ」と、平静の忙しさに忘れかけていたのです。9月の始めに、やはり弟さんから電話があった。その後の経過を掻い摘んで話してくれ、「またその時はお願いしますよ」と、電話を切った。
秋のお彼岸に、弟さんにお会いした時、これから老夫婦の所に、お見舞いに行ってきます。老衰が進んで、もうそんなに持たないと思いますので」と、別れた。
どうやら8月はじめ頃には、痩せて、000室のベッドに居ることがおおくなっていた。U婦人が懸命に付き添っていた。
10月7日、8日、9日、ウェルピア市川の開設十周年事業が行われるにあたり、看護病棟に移動することになった時、Y氏は激しく抵抗した。医師の常駐することのない病棟で、療養することの限界はあるのですが、設備と看護体制が、整っているため、この施設の中に終末を迎えることもできるようにできているのです。
Y氏は、たとえ看護用病室に療養することさえ、妥協するには時間が必要であったのでしょう。それはY氏の様態の悪化こそ、病室で看護用ベッドに横たわることを容認するための理由でした。
数ヶ月前から、Y氏は「もう白浜に帰りたい」と、生まれた故郷の漁村に帰ることを、言うようになっていた。そこにはY家の墓があり、そこに葬られることを、希望し、そして、冷静に、命の残り火を推し測りながら、一日一日と、灯火を燃やしていたのでした。いつしか、直面する事実をただ受け入れ、一刻一刻と生きていることの実感を享受して、過ごしていたのだと思います。ここ数ヶ月の早さで、U婦人の願いとは逆に、Y氏の身体は時に激しく、ユックリと消耗し、体力を燃焼し尽してしまったかのようでした。
10月に入って、婦人は菩提寺に電話して、戒名を依頼しておりました。その戒名が来たのが、9日でした。
そして同じ日に、Y氏の体調が急変し、設備の整った病院への入院が検討され、近くの総合病院へ転院することが決まったのです。しかし、このことはY氏の意思に強く反することであったのです。000号室から離れることは、挫折することを意味するかのように、思えたのかも知れません。白浜へと通じる入り口だったのではないかと思いました。
翌10日、嫌がるY氏を説得し、転院いたしました。そして点滴と薬による治療が施されることになったのです。
Y氏は、自分の意思がないがしろにされたことに、いたたまれず、危機感を持ちました。手段を尽くして訴える強い意思が、危篤の状態の中、体の不自由さを超えて働いたのでした。
目で訴え、点滴を外し、口で訴えたのでした。「帰せ!」と。
人にとって大切なものを守ることの純粋で清らか、ひた向きな姿を、立ち会った誰もが、奥深くから湧き出るものなのだと、知らされました。
誰も止めることの出来ない強い意思は、たとえ総てを奪うことになろうと、承知であり、Y氏は、10日、000室に戻りました。もちろん医師は反対し、命の保証はないこと、それでも帰ると、移せと、夕刻6時ちょっと前に、施設に戻ったのです。
それから1時間後、Y氏は静かに息を引き取ったのです。
誰もが、こんなことってあるのだろうかと、きっと不思議に思うことでしょう。葬儀は遺言により近親者だけで、Y氏を偲びました。参列する誰もが、Y氏を尊敬してやみませんでした。
Y氏の臨終の地を守りきった安堵が、自らの息を止めるとは、驚いて止みません。もうY氏の意思をはばもうとする者は、何処にも、誰もいません。
「こういう安らぎを得るドラマがあるのだな」と、声が出ませんでした。
本当に、「白浜に帰るのだ」と、Y氏が望んだこと通りになったのです。
平成12年10月10日、午後6時40分、眠るが如く、88年の生涯を終え、000室の扉から、白浜に帰って行きました。
葬儀を終って思ったことは、最後まで教師として生きていたのだと、強く思いました。もし私が同じ立場だったらと思うと、Y氏のように出きるとは思いません。そしてふと思ったことは、人として、自立ができなくなる時は必ずある。Y氏だったら、その時、どう行為するだろうか思いました。
「最後は人の世話になって良いのですよ!迷惑を沢山かけていいのですよ!もう頑張らなくてもいいんですよ!」と、Y氏が囁いているような気がするのです。
寡黙
寡黙
平成15年2月26日午前10時ごろ、私は、子どもの大学受験合格のお祝いにと、長男に付き添って車で秋葉原にいた。子どもが、パソコンショップのツートップで、パソコンキットを購入している間、車のなかで、本を読みながら待っていると、携帯電話が鳴った。電話は妻からで、M園の園長から電話で、身寄りのない入園者が亡くなったので、何とか、納骨を引き受けてくれないかとの内容でした。条件によって引き受けないことはないと妻に言い、帰り次第連絡を入れるからと、携帯のoffを押したのです。
そして、28日、M園の勤務交替の時間、午後6時45分を過ぎて、50分から通夜を執行いたしました。思いもがけず多くの人が参列してくれました。夜10時まで彼を偲んで、コーヒーにお砂糖を半分ぐらい入れて飲んでいたこと、これで陽岳寺さんには身寄りのないお二人の方を受け入れてくれてもらったこと、そう言えば、お二人とも「有り難うがとう」と、ことあるごとに言っていたこと、小さい頃に、田んぼでタニシを捕ったとか、母親の思いでを語っている姿があったなどおしゃべりをいたしました。それでも、彼は寡黙だった。青年期、壮年期が欠落しているのです。
翌日の、午後1時からは葬儀が行われましたが、私と園長さん、それに寮母のHさんと三人で、瑞恵の火葬場に行き、彼を荼毘にふしたのです。
M・Y氏 2月25日午後4時28分、貴方が亡くなられたという時間です。M園で、肺炎を発症し、区内のT病院に行き、わずか2週間で貴方が去っていった時間です。
普通、この時間は、遺族にとっては、大きな意味があります。でも、こうして遺族が招かれない貴方の最後に接して、貴方がこの世界から居なくなろうとしている時、私には、貴方は誰だったのかと、あらためて、問いたいと思います。これは、遺族が招かれていないからこそ可能な、貴方に向き合う最後の時間でもあります。
26日、園長から、葬儀をするために貴方のことを知りたいからとうかがい、多くの人が貴方の足跡を記していることを知り、貴方を知ります。そして園でのスナップを見て、これが私の知りうるかぎりの貴方の69年の生涯の記録なのでしょうか。貴方とこの寺との関係はありません。話を聞けば、遺族の参列も、遺骨の引き取りもないと言います。園としては、遺骨を納める場所が欲しいと、困って、そして、私が引き受けてくれれば願ってもないことだと、依頼してきたのです。
私は、依頼されたことより、遺族のいない葬儀に、自分を試されていると、試みとして、お寺の墓地におなたの遺骨を受け入れをきめたのでした。きめてより、やはり、私には貴方は誰なのだとの思いが強くわき起こってまいりました。それは、私は、葬儀とか儀式の執行者あるいは仲介者として、私は、メッセージの橋渡し人を務めることを心がけておりましたからです。貴方の場合は、渡そうとする人も、メッセージも考えられないことに気がつき、貴方は誰なのだと問うことに、問う私は貴方にとって何ものなのだと、受け入れることは、いったいどうした意味を持つのかと言うことに、迷っていることに、気がついたからです。
貴方の多くの残された思い出の写真を見ました。いくつかの写真の、そこには貴方の視線が写されれていました。抑鬱的な見つめることに意味があるような、感情が読めない、そんな視線を感じました。貴方が見つめるカメラのレンズにむかって放たれた視線から、貴方自身が覗けそうでもあります。人との接点って、そうしたチャンスに、見つめる眼は見つめられる眼に対して案外と無防備に開け放されているのではないかと気がつきます。貴方は誰なのだとのぞき込み、その視線の奥に、おぼろげなものがうかがえると思ったとき、貴方は遠ざかる。遠ざかりながら、近くに見えてくるのは、見ようとする意識で、貴方とは別のものです。貴方がまったく別の貴方として、取り込まれたとも呼べるのかもしれない。
こんなことを考えながら、ふと、実際の貴方は、喜ぶだろうか、怒るだろうかと、頭に浮かぶ。もはや、喜ぶこともなく、怒ることもない貴方の、歓びや、怒りを、そのおぼろげな安らぎのなかに確かめたいとも思いました。貴方の最後の遺骸を、この寺に受け入れる主としてです。
4階の男性三人部屋の貴方が生活していた室内を見ました。三列に並んだちょうど真ん中が貴方のベッドです。主のいなくなった貴方が休んでいたベッドや貴方の洋服タンスを見ました。事実は、あくまでもそこにベッドやタンスがあるだけです。ただそれだけのことが、人にとっては、掛け布団をまくり、いつでも受け入れることのできる状態のベッドに、もう帰ってきて、休むことができないという想いが、他者としての私をつくります。貴方を受け入れることを決めてからです。
そこで、ベッドこそ、年老いて生きることの、もっとも自分に親しく、大切な、温もりを提供するものだと知らされました。年齢を加えて行き、今まで、当たり前に、思うように行えていたことが、一つ一つ減って行ったとき、最後に安らぐことができるものがベッドだと気がつきました。人生の選択肢がいくらもなくなったとき、これだけは必要なモノ、それが、帰ってこれるためのベッドだと、貴方のベッドが語っていました。ベッド一つがもっとも親しき友とも言えるのではないか、何も言わずにどんな状態の自分でも支えてくれると。そのベッドの上で、ないがままにおくる、あるがままの人生を過ごしていた貴方に合わせます。
ベッドの枕元の上の電気には、近くの小学校の子ども達からきた葉書が飾られていました。その文面は、明るく子ども達の将来が書き添えてあります。屈託のない子どもの文面は、年をとっておぼつかなく、歩けなくなったモノにとって、かえって安らぎを与えることに、私を安らぎます。将に来る明るさが、将に来ないことを熟知した者を、明るく包むともいえ、ここにも、他者とのかかわりの中に、今の自分を現す貴方の心が置き去りにされていることを知りました。子ども達の将来が、枕元の上から、灯りといっしょにいつも照らしている生活が、貴方にはあり、きっと微笑ましく、子ども達の将来を託していたのかも知れないと、思ったのです。
他者とのかかわりの中で生きる人の、心を特定することなど、到底できることではないことと知りつつ、やはり、貴方は誰なのだと思います。
貴方がじっと見つめていた、景色に接して、貴方は貴方自身を紡ぎ出していたと思います。このM園に関係する人にとって、貴方は、かけがえのない存在でした。貴方をせっせと支えることは、その関係する人自身を支えることになるからでもあります。M園の世界の中に、貴方は貴方自身の世界をもち、一緒に施設で暮らす仲間たちそして関係する人たち80名を越えるそれぞれも自分の世界を持ちます。80人の貴方がいて、80人の世界を貴方は支えていると思うと、貴方は大勢の人の世界に別々に生きながら、その大勢の人を貴方自身の世界に生かしているとも言えると、貴方自身が誰であるかは、もはや、意味を問えなくなっていることに気がつきます。
こうして、亡くなってこそ贈る言葉が、貴方に届いている、いないことは、私には、もはや、問題となりません。あらためて貴方の世界を語ることに、生きていれば聞くことが出来れば、貴方はきっと真摯に耳を傾けることはできないと思います。この場に耳を傾ければ、いたたまれなく貴方はこの場所に止まることさえできないのではないかと思います。葬儀とは、そうしたものですと、私は思います。結果として、今の貴方の心地よさが伝わってくるようです。
関東大震災の傷跡と復興の土音の喧噪のなか、貴方は東京の下町で生まれました。自宅が火災に襲われたことを、実家が立ち行かなくなったことに重ね合わせることができます。そして貴方が、小学校5年生までの勉強を突然放棄し、妹さんと二人で、長野県佐久市の農家に住み込みで就労したことを語ることは、今の時代では、想像できず辛いことです。
幼い子どもが、働いて、家族を養うという事実、ましてそれが、戦争真っ最中の昭和19年から20年頃だと思えば、困難な時代に、自分を呪うこともできずに、ただひたすら働く以外に生きるすべがない世界が見えてきます。戦争が終わり、戦後の復興が叫ばれ、日本が大く息を吹き返すまで、貴方は小諸に移り、その機会をうかがっていたのかも知れません。日本の繁栄のかすかな足音と同じくするように、貴方は上京し、バブル直前まで、建設の多くの現場に貴方の姿が見えるのでしょうか。それは、昭和40年代から50年代の、繁栄を続けることのきしみとしてあらわれた、蒸発という現象だったのでしょうか。もっとも、そのとき、貴方の家族がどうなっていたのか知るよしもありませんので、蒸発かどうかは、わかりません。貴方を捜す家族が、あったのか、無かったのか、一人で上京する意味が知れないのです。一人の男の軌跡としてなら、その軌跡を追う時間が私にはありません。貴方を思い出す人が、何処かにいるのだろうか。
昭和61年1月、私は、昭和39年に蒸発者した男性の葬儀をしたことがあります。葬儀を終えて火葬場で家族と話しをしたことがあります。七年間の蒸発だったのですが、家族が必死に探し果てた父は、警察に発見され、横浜の飯場での様子をこう語っていました。
「70歳に近い父の疲れ切った姿に、私達はまるで以前の父とは別人のように思え、声がでませんでした。ただ涙がほほをつたわり落ちたのをあぼえております。忘れようと思いましても、忘れることは出来ません。けっして忘れは致しません」と。
「父が自宅に戻りましてしばらくは、7年間の疲れを癒すごとく、暖かな畳の上で床についておりました。父は寡黙でございました。私達もいろいろと聴きたいこと、話して貰いたいことがたくそんあったのでございますが、多くは聞くことができませんでした。」
「それから十何年かがたちました、昨年の暮れの事でございます。父はいたって健康だったのでございますが、急に呼吸が苦しくなり入院することとなりました。何ですか肺に穴があいたんだそうです。今年に入りまして、医師より父がもう長くないことを知らされました。父は安らかに、ほんとうに眠るように息が止まりました。父の最後の言葉が、私達の心を涙で濡らしました」。
「長いこと迷惑をかけたね。すまなかった、許しておくれ」。
その時の息子さん達の顔は、本当に優しさにみちあふれ、亡くなられたお父さんを慈愛で包まれているように見えました。お父さんも、最後の言葉を、それこそはくまで苦しかっただろうと思うのです。
家族がいれば、遺族がいれば、どんなにか貴方の心を癒すことができるか、貴方の最後に立ち会って、貴方の旅立ちを送る私の無念な気持ちでもあります。
詳しく貴方を追いかけてみれば、貴方が、昭和56年に、胃の三分の二を切除したことと、昭和58年には、足が悪くなり働けなくなることがわかりました。
昭和61年に中央区の福祉事務所で保護された時の年齢が、53才ですので、M園に入所するまでの、9年間、貴方は、病院と保護を繰り返してきたのでしょう。昭和56年からですと、14年間になり、M園を入れると、22年間になります。おそらく、普通の人の何倍かの苦労を、苦痛を自分に対して見つめ、歩んで来たことに、私は、驚きとともに、貴方の今のすべてに解放された安堵に慰められます。その安堵は、私がいだく安堵ですが、貴方の軌跡を受け止める私の務めでもあります。
貴方の歩みに接し没入した、中央区の福祉事務所の係りの人が、心をわずらったと聞きましたが、貴方のこの22年間は、善き人との出会いが多かったことを嬉しく思います。そして、心癒されますが、じっと寡黙を通した貴方の最後だけが、やはり気がかりです。
他者とのかかわりの中で、見ようとすれば、見えてくる自分と他人。そこに言葉があれば、語り出されるのです。貴方が、黙々と歩いてきたこと、多分その中で、そうすることで自分を見いだそうとして、いつしかホームレスになり、保護されたことで救われた、貴方の運命を思います。そう想うことで、貴方が今行こうとする彼方に向かって、貴方を讃え、語ります。
萌和泥祥居士。これがすべての役目を終えた貴方に与える、私からの法号です。
貴方の両親は、貴方が生まれたとき、昭和の和に、善しを付して、貴方の誕生を祝い、前途を祝しました。
人は、私は誰であり、私はなにか、私が私になることはと、他者のなかで行為することによって表現いたします。その他者を泥として、自分がより生きるためには、その他者を滋味あふれるものとしなければ、自分は実りあるモノになれません。
自分がここにいるという事実は自分以外の人にとって何らかの意味がなければ、自分を実りあるモノにすることはできないでしょう。実りあるモノとは、支えられ支える関係のなかで、泥のなかでのたうちまわり和する行為のなかで、他者のなかに萌えいずるモノ、それこそが、各々の蓮華であり、自己ではないでしょうか。
生きる、その行為が、他者において萌えいずるのです。この行為は、良しとかワルというものではなく、ただひたすら生きる行為が他者との関係を造り上げ、綾をなして進みます。時間は、私は誰であり、なぜ私なのか、そして私が私になることの繰り返しのなかに誕生するでしょう。
泥になごみ、和して、誕生し萌えいずること、それこそが、ご両親の願った、善しという字であり、祥という、自分の生涯を全うしたしるしとして、萌和泥祥居士をつつしんで、貴方に捧げます。
禅は、築き上げてきた私の心を、幻想として、その私の心を開くことを願います。貴方の視線も、穏やかな視線となることを願ってやみません。
やっと、貴方に会えた気がいたします。ゆっくりとお休みください、私たちの彼方で。本当にお疲れ様でした。
(もし、この文章を読み、心当たりの方がおりましたら、また、時間が経ち、彼に会うことの気持ちが整理できるようになりましたら、どうぞ、陽岳寺にお参りをお願いします。)