寂然不動 如春在花(寂然不動、春の花に在るが如し) (平成16年9月19日)
寂然不動 如春在花(寂然不動、春の花に在るが如し)
(平成16年9月19日)
秋彼岸、まだまだ蒸し暑く、それでも彼岸という季節が巡ってきてはいるものの、季節感のずれは、何とも致し方ない。暑さ寒さも彼岸までという言葉が、少しずつずれてきていることに、何故か、昔の言葉の魔力が、消えてしまいそうな予感に囚われる。それでも、夕刻の日の傾きは、彼岸という季節を物語っています。今年の一月になくなったHさんの息子さんと、孫二人が連れ立って、彼岸の墓参に来たときだった。孫といっても、一人は来年大学を卒業、もう一人は,母親が問題児という高校3年生男の子です。その上の孫が、丈の長い甚平を着ている姿を見て、息子さんが、「これは、お祖父ちゃんの形見です」と。
その妙に似合う姿を見て、「これ、お父さんが着たら、親父スタイルに見えるのに、君が着ると今風のファッションになるから不思議だね。」
季節も、9月19日、いくら、これも残暑なのか、蒸し暑いとはいえ、最早、秋。
甚平のスタイルは、季節感として似合わないと思うのだが、今、旬の若者が着ると、妙に映えるから、面白い。そう言えば、あの夏場の雑踏で、8月の池袋の地下通路、ブーツ姿の若い女性を拝見した。見ていて、足が臭くなるのでは、靴の中が汗でグシャグシャになるのではないかと思ったものだった。それこそ、この季節にふさわしくないという思いが、グシャグシャのイメージを作る。この季節感という語感は、その人の生い立ちの姿なのだろう。
そんな若者の着衣を見て、人間にとって着るものとは、人の季節を表現するものであると、つくづく思った。奔放に季節を表現するものが若者としたら、おじさんにとっての季節を忠実に現す着衣の甚平も、若者が着ると、その存在感が妙にまぶしく感じられて、嬉しい。
そして、この嬉しいと思う気持ちも、年を取ったことの証拠なのだろうと苦笑する。今の自分にはない、何事も自分のものとしてしまう勢いをみて、きっと、自分もおじさんという花を咲かせているのだろうと……。
「実は、昨年11月、母と別居しているんです」と、よく知る二人が墓参に訪れて話す。
「お母さんから聞いて知っていますよ。お母さんは気力も充実しているし、遠慮しながら、したいことをできない環境に、お互いのことを考えての、決心に、すごいひとですね」と。
息子さんは、「こないだなんて、男の人がお茶を飲んでいるのにでくわして、すごすごと帰ってきてしまいましたよ」と。神奈川県のS市から息子が住む、茨城県のU市に引っ越してから、4年目、それでも、3年間は一緒に暮らしたものの、天性の人との交わりのうまさは、ウィンドゴルフに、地域の人とすっかり交わり、今では、リードするまでの変貌に、ただ感嘆するのみです。
私の長男と同じ大学に通うことを知ってから、親しく感じて、話をしていたのですが、お嫁さんが、「母が別居していたことを知り、ホッといたしました」話す。
まてよ、もしかして、子どもや孫達と同居していたときにも、同じ男性が来ていたと聞き、これは、もしかして、恋愛か。う~ん、そうだとしたら、すごい。いいとか、悪いとかということを越えて、想像できない。
蒸し暑くても、どうなっているんだろうと思っても、草花は、秋の草花が、ススキはすでに白い穂を出しているし、稲刈りは進んでいるしと、時間は、人の遅い早いの作るものとして、草花は、じぶん自身で時を作り出している。
人間も、それぞれに、老いも若きも、模様という時間を創りだしている。
自立
自立
日本には、美しい季節があると、誰もが言う。その美しい四季折々の季節とは、木々と水との光の輝き、花々の競う姿であり、山間の化粧の姿だろう。
季節の変化する、そのものを美しいと思う人もいる。
季節の私達になすことは、たくさんある。
季節の中で、冬の寒さは、私達に厚く防寒具を着させ、夏の暑さは、私達の衣類を剥ぐ。
夏休み、冬休みは、子ども達を成長させ、たくさんの思い出を残す。
春は気持ちを和らぎ、秋は物憂くさせる。
季節の旬の食べ物は、私達の味覚を保ち、育む。
自然は、時に、私達を脅かす。台風、地震、旱魃、洪水、火山、津波………。
雨は、傘を差させ長靴を履かせる、強い日差しは、帽子を被らせる。
夜は、私達を眠らせ、朝は私達を目覚めさせる。
海や川やプールで、泳ぐ。
素敵な人に出会ったから、恋をする。
友達と話す。食べる。喧嘩する。仲良くなる。
仕事があるから、働く。会社に面接に行く。仕事がたくさんあって、残業する。
雨降って、友達と会えないから、つまらない。
誰も厚着をしたから冬が来るとは思わない。薄着をするから、夏が来るわけではない。
気持ちが和らぐから、春が来たのではない。物憂くなったから、秋が来たのではない。
季節の旬の味覚を味わったから、季節が来るのではない。
私達は怖くて脅かされたから、台風、地震、旱魃、洪水、火山、津波………が来るのではない。
傘を差したから長靴を履くから、雨が降ったのではない。帽子を被ったから、日差しが強烈になったのではない。
眠るから夜が来たのではない。目覚めるから朝になったのではない。
泳ぐから、海や川やプールがあるのではない。
恋をしたから、素敵な人に出会うのではない。
話すから食べるから喧嘩するから仲良くなるから、友達がいるのではない。
働くから、仕事があるのではない。面接に行くから、会社があるのではない。残業するから、仕事がたくさんあるのではない。
友達と会えなくつまらないから、雨が降るのではない。
橋は流れて(平成10年9月18日)
人橋上より過ぐれば、橋は流れて水は流れず
(平成10年9月18日)
小さいときの思い出で、忘れられない風景があります。それは東京の郊外、八王子に住んでいた頃のことです。今のような凄まじい住宅都市とはかけ離れて、あちこちに畑があり、はらっぱは広く、川の水はきれいで、何よりも懐かしいことは、近所の人々家々をほとんど知っていたということです。つまり、町が小さく、よその人があまりいなかったということでしょうか。道路も、とても広かったように思いました。同じ道路も、今たずねてみると、とても狭く感じられ、実に不思議に思うのですが。
八王子の中央高速のインターチェンジを降りて、国道十六号を入間市の方向に進みますと、拝島橋があり、ゆったりと流れる多摩川があります。支流に五日市町を流れる秋川と八王子市内を流れる浅川等、多くの支流を集めて川崎から東京湾へとそそぐ、第一級河川です。
子供のときの思い出のひとつに、これらの川でよく遊んだことがあります。拝島橋の多摩川へは、夕方、親戚の叔父に連れられて、よく釣りに出掛けたものでした。
叔父の家はつむぎの染めと織りの織家(はたや)で、染め場では、染料の入った釜からいつも鼻にツンとくる匂いの湯気がもうもうと立ち込め、織りの工場では、織はたを織る規則正しい織機が金属の騒音をまくし立てていました。
染め場のそばに、大きなコンクリート製の水槽があり、冬は冷たく、夏暖かな井戸水を、モーターでくみあげていた。今もモーターの唸る音や黒く光ったいくつもの釜がとても懐かしく、その光景が忘れられません。その水槽は深くて、回りが薄暗いせいにもより、底が真っ暗で、中にはうなぎとか鮠(はや)が黒い影を見せていた。
そのころ、叔父は午後3時頃になると、あとの仕事は人に任せて釣りに出掛けるのです。
もちろん、国道と云っても名ばかりの国道十六号を走って行くのですが、八王子インターチェンジもなく、切りどうしの舗装道路と砂利道で、しゃれたドライブインもなく、人家もまばらで、おぼえているのは拝島橋の手前の緑の奥に灰色の長い煙突が無気味だったことです。焼き場の煙突に煙が上がっていたことはおぼえてないのですが、往復に車の窓からいつもその煙突を見ていました。
拝島橋川岸に立ち、叔父がしつらえた釣りざおを、繰り返し繰り返し川上に向かって糸を流す。瀬釣りといって、糸の先端と端に玉浮きをつけ、あいだに疑似針をつけた仕掛けの釣りでした。
川面に浮かんだ玉浮きとその間の波をジット見つめて、にぶく光る一瞬に糸を上げる釣りに、子供の私には容易でなかった。叔父は、淡々と糸を垂れて場所を移り、時に私のそばに来てびくの中を覗き、中が空だと私の釣り棹をとり、自分で川上に糸を放り、当たりがなければ場所を移したほうが良いと、少し移動させるのでした。
やがて、いつものとおり夕闇が訪れて拝島橋の街灯がつき、あちこちに釣り人の影はあるものの、それは回りの景色と同じに動かなく、川の音だけが次第に大きくなり、いつまでも耳に残るのです。
川岸に立っている私は、川面を見つめているうちに、自分が玉浮きと一緒になってどんどんと押し流されてゆき、吐き気をもよおし、頭を振ってはもとの自分に帰るべくするのですが、川の瀬の流れは早く、川石に足を取られてよろけるのでした。暗くなると心細く、とくに帰りの支度の釣り糸をしまう作業がとても嫌だったことを思い出します。
禅語で『ひと橋上より過ぐれば、橋は流れて水は流れず』の語に接したとき、最初に思い出した情景は、子供の頃を過ごしたこの光景でした。水の流れに自己が没入した、無心の境地を指すのですが、子供心の私は、その流れから必死にこうべを振っていたのです。
もし、そこが日当たりのよい渓流のほとりで、まどろみながら空を見つめていて、雲と一緒にただよい、あるいは、せせらぎを聞きながら、そのせせらぎのうえに乗って流されていたら、その流れを拒否しようとは思わなかったでしょう。それこそ、目に写る自然を愛で一体となった姿。迷いも悟りもない無心の境涯というのでしょうか。
哲学者であり禅者である京都大学教授故久松真一師は、自分の弟子に『火焔裏(かえんり)に身を横たう』と短冊にしたため、進呈したという。
黄檗宗の二世木庵が、隠元に参じたとき発した句であるといいますが、私の好きな言葉のひとつです。火焔を自己の煩悩と置き換えてみますと、実はわれわれの日常世界が、選ぶと選ばないにかかわらず火焔裏の世界に違いありません。われわれはの日常は、火焔裏の世界です。その中で、我々は生きていると言いましても誤りではありません。
日常の生活を振り返って見ますと、おそらくいろんな事に執着し、後悔したことがあるでしょう。もちろん後悔しないで成功したことも数限りなくあると思うのですが、だいたいにおいて失敗が人を築きあげて行くごとく、みずから火焔裏に飛び込んで切り抜けたときの爽快さはたまらなく嬉しいものです。
われわれの現実生活では、われわれの自身の迷いや不安や欲望が、その火焔や水の流れに没入させることを躊躇させます。それこそ子供のころの多摩川での釣りのように。
ですが肝心なことは、没入する前から実はわれわれは炎の中、水の流れの中にいるということの自覚が必要だと思うのです。そのなかで、自身の立場・行為を観察し、恐れずに大いなる者へ身をゆだねて、後悔しない。自分がどこにいても、大いなる者が見守っていてくれるという確信が、自由無礙なる自己を創造してくれるに違いありません。それこそ、こうべを振ってはいけないのです。
無事
無事
禅の書物の中に、臨済録があります。その中に《求心やむところ、すなわち無事》という言葉があります。この世の中で自分で希望して生まれてきた人は誰もいません。そして誰もが願うのは苦しまずに死ぬことでしょう。できたらポックリとです。
私達は誕生と死の間の生を与えられただけに過ぎないのです。そしてもっとはっきりした事は、誕生と死の間の生きているこの瞬間だけなのです。これを真の意味での存在というのでしょう。私達に与えられているのは、この瞬間に、この場所に、私が存在するという事実だけです。この一点に集中したとき、何の悩みも、希望も無い、ただ有るがままの私が存在します。宇宙そのものの全存在に溶け込み、生も死も超えることができるでしょう。《求心やむところ、すなわち無事》とは、このことを言います。
この世で誰一人として、無事を願わない人は居ないと思うのですが、無事に気がついている人はごくまれです。どんな境遇においてもそのことに気がつけば、感謝が生おじるものです。そして大きな流れの中に自由を見出せると思うのです。一年無事で大過無く過ごせたり、また無かったりと、つくづく人の世とは慌ただしいものだと感慨ぶかいものがあり、後年振り返って見ますと、それがよりいっそう人生をおもしろいものにするのだと思います。だからこそ、精一杯に生きよと言うことなのでしょう
過去(平成10年5月23日)
過去(平成10年5月23日)
平成5年の正月、父の本を整理していましたら、昭和一七年一月号の短歌研究という雑誌が目にとまりました。なにげなくページをめくりましたところ、つい夢中になって読んでしまったのですが、「宣戦の詔勅を拝して」という題でした。北原白秋、相馬御風、窪田空穂、土屋文明、佐々木信綱、斎藤茂吉、土岐善麿等文壇のそうそうたる人達が寄稿していました。与謝野晶子
水軍の大尉となりて我が四郎 み軍にゆくたけく戦へ 土屋文明
永遠の平和のために戦への 勅の前に世界聴くべし 北原白秋
口を緊め思ひ沁みいる群童の 直立の姿いま見つまさに
花田比露思
この戦ひ長くつゞくぞ幸先の よきに心を緩めざらなむ
前田夕暮の『大詔渙発の日』の文には「昭和一六年一二月八日、畏くも、米英両国に対して宣戦の大詔が渙発せられた。ラジオの放送を聴いた時、熱いものがじいんとこみあげて来た。私は直ぐに庭に出て謹んで宮城遥拝した。到頭来るべき日が来た。……ラジオを聴き、更に感激して、二階の書斎から富士の方を見たら、素晴しく朱い太陽が、十二月八日の光輝ある歴史を象徴していた。
えんえん燃ゆる巨大な日の、一二月八日のこのひと時を今を
戦後五〇年の月日がたち、私達の生活には過去の戦争のことなど夢のような昔のことですが、アジアの国々にはいまだに傷跡を背負って生きている人がたくさんいます。過去が現在を、未来が現在を形作るとするなら、これは私達の過去の、有りのままのひとつの姿に違い有りません。