目次
輝いている時
夢中(ゆめのなか)
芝浜
江戸っ子
亀住町(平成13年7月1日)
モンセ・ワトキンス~夢のゆくえ~(平成14年1月3日)
新牌開眼
英霊(平成17年5月23日)
目覚め
よわい「齢」
また始めたらよい
三大聖樹(平成19年4月17日)
滅度(平成19年9月18日)
安住の地(平成20年11月15日)
心眼(平成22年3月1日)
とかくこの世は
とかくこの世は
祈り(平成17年11月29日)
品位(平成18年1月20日)
ニャンニーシンズ(平成18年3月1日)
鍵(平成18年4月25日)
チベット(平成20年5月1日)
SYOHOU
諸法
四十四の問い~ミヒャエル・エンデ
先ゆく輩
さき行く輩
祖師年譜
ダルマ
慧可
五洩霊黙和尚
石鞏慧蔵禅師
大珠慧海禅師
西川の黄三郎
馬祖道一禅師(馬大師)
五百生 百丈和尚
大梅山法常(752-839)
麻谷山宝徹禅師(平成12年1月27日)
鎮州普化(ふけ)和尚
寒山・拾得
虹の彼方に
ヘイヴン・ペックの場合―続貧しいけれど、豊かだった―
生前葬
平和を我らにーGIVE PEACE A CHANCE(平成13年10月31日)
ソクラテスとヤージャニダッタ
蓮(平成14年6月2日)
心-KOKORO(平成14年6月25日)
独り暮らし(平成15年4月12日)
老いが、咲いていた!(平成16年7月5日)
深濱-fukahama
死に顔
松山鏡(ソクラレストとヤージャニダッタの続き)
真ん中(平成20年4月1日)
百万回いきたネコ(平成21年1月1日)
夜来る鳥(平成21年1月1日)
だいじょうぶ、だいじょうぶ(平成21年2月1日)
無常への帰依
無常への帰依
希望(平成12年1月2日)
葬式坊主
泥棒
赤とんぼ
老い
……ロス
後姿
寿陵
ついで参り
目標
六道を行く
もの言わぬ羅漢達…揀択をこえて…
宮本武蔵
五合庵断章(平成10年10月17日)
K子さん!(平成12年7月19日)
今は昔
十一面観世音菩薩
尽七日忌(平成19年5月1日)
OSYOU
OSYOU
この手のひらに―禅僧の死―(平成10年11月18日)
戒(平成10年7月25日)
幽霊
みんな仏教徒(平成10年5月27日)
最後の晩餐(平成10年5月23日)
禅問答(平成10年5月31日)
分銅
天国は汝ら自身に宿る(平成10年11月24日)
宗派
穢れ(平成12年8月30日)
お彼岸
仏心
仏心
ご祈祷
施餓鬼会にて(平成17年5月28日)
永遠の命
輪廻する葦(平成10年5月27日)
連鎖する命(平成10年6月2日)
涅槃(平成10年8月12日)
鏡(平成10年7月25日加筆)
流星
TAO(平成11年1月3日)
四大
挨拶
冥福
盂蘭盆
祈り(平成14年7月4日)
仏事歳時記
再び 最後の晩餐
この手のひらにII(平成18年11月18日)
死んで生きる智慧(平成19年3月27日)
五百生(平成19年11月20日)
破地獄偈(平成20年5月24日)
この指止まれ
この指止まれ
家族と家庭(平成11年1月5日)
導師(平成11年2月26日)
家から個人へ、そして家族・友達へI
家から個人へ、そして家族・友達へII
脳死そして臓器移植(平成11年3月2日)
独り決めの生き方
僧堂I
僧堂II
僧堂III
恥じ
僧堂IV
返事
父殺し・母殺し・友だち殺し・子殺し(平成20年1月1日)
その後
その後
ほとけさま(平成17年5月1日)
仏が仏に合掌する
戒名(平成12年3月14日)
無用の用(平成12年2月21日)
世話
大きく育て!(平成11年1月18日)
しもべ(平成10年11月7日)
電話(平成10年8月22日)
意思
寡黙
妄想(平成10年8月2日)
川(平成10年8月22日)
風如(風のように)(平成10年6月18日)
追悼(平成10年5月27日)
受容(平成10年6月18日)
蒸発
臨終(平成10年6月8日)
外道
障子(平成13年3月10日)
日月(にちげつ)
年寄りの出番より
人生とは、闇を照らす一瞬の蛍の光
時の旅人
時計(平成12年1月3日)
星(平成11年10月15日)
溝(平成11年8月2日)
過去心…念の起こる処(平成11年6月19日)
与える時間(平成11年5月24日)
桜(平成12年3月2日)
無常(平成11年4月16日)
川(平成10年9月17日)
有時(時の構造)(平成12年2月5日)
時の旅人(平成12年2月1日)
揺れる木々の葉
この人生の速さはなんだ(平成14年12月26日)
法句経より-時の旅人(平成15年2月4日)
寂然不動 如春在花(寂然不動、春の花に在るが如し) (平成16年9月19日)
ZENGO
自立
橋は流れて(平成10年9月18日)
無事
過去(平成10年5月23日)
たまごっち(平成10年5月23日)
一衆觸礼(いっしゅうそくれい)
六道を輪廻する
二人三脚
生老病死
筋肉番付
ポケモン
俺は、親馬鹿か!
塵も積もれば山となる
生と死と永遠
最終章
一章
二章
三章
四章~(未完)
時間旅行
時間旅行
命の歌-母の短歌
礎-いしずえ-
離魂(平成19年8月25日)
海辺橋
海辺橋
ふるさと(平成18年3月4日)
千の風(平成18年9月16日)
人の道(平成18年9月18日)
あなたは、いつから、一年が始まりますか?(平成20年8月1日)
前住職 二十三回忌にて(平成20年9月1日)
平成21年お施餓鬼会を振り返って(平成21年6月1日)
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一章

エンディング、それは帰ると言えばよいのか、旅立ちなのか、始まりなのか、
……どうしるべを立てるか、最終章へのいざない……

一章

 親しかったものを亡くし、振り返ったとき、それは、振り返るたびにといったほうがよいかもしれませんが、「これは、故人が望んでいたことだろうか?」と、考えることがあります。しかし、あらためて考えてみると、故人への思いは茫漠(ぼうばく)として、具体的に浮かぶわけではないことに気がつきます。その思いも問いも、やがては、日常の中に埋没してゆくかのように、時の流れは速い。
 それなら意志を伝えられるうちに、じぶん自身のエンディングノートを記しておこうと思うのでしょう。
 自分がたどった足跡を通して、父母や兄弟への思い、出会いや別れ、得たものや失ったもの、大切に育んだもの、見守ることでやすらいだこと、充たされた思いや深く傷ついたこと、やり残したもの、畏敬や感謝、しかし、書き記すうちに、時間の経過は、家族や人を変えてゆくものです。
 
 それでも、記そうと、まず、じぶん自身の足跡から、光を当てる部分を撰ばなければならないでしょう。そして、撰んで光を当てた足跡が、残されたものにとって、客観的に評価できるだろうかと考えたとき、記し続けることこそ、じぶん自身の中の変化を語るものと気がつきます。
 もともとじぶん自身の足跡とは、他者とのかかわりの中にあるものです。愛する家族や愛しくごく親しい人は、ほんの一部の私への片面を知るのみです。そのことが、後になって、波紋を広げることは、世間にはよくあります。
 自分がいなくなることは、他者が持つ私の片面が解放され、解釈されることは思い描くことはできます。しかし、その内容の訂正は、できないのです。
 こんなことを思ったりすると、私が光を当てた足跡も、考えてみれば、元気なうちに伝えられればよいことで、エンディングノートとしての意味は、もっと他にあるはずです。しかし、記さなければならない。そこで、特定の人に向かって記すことを考えるのですが、これも、元気なうちにみずから語ればよいことです。特定の人に向かって語った内容を、それ以外の人にも語る意味は、ノートとしての意味はあります。とにかく記し続けることのうちに、自分がいなくなった後、人の思いが花を咲かせるのでしょう。

二章

二章

 先ずは、最終章として、葬送の儀を葬儀と送ることに分けて考えてみることにいたしました。
  こと葬送の儀に関してみずからのエンディングノートをしるすことはできるものの、葬送の儀の内容に関しては、宗派・宗教という枠がはめられ、例えば菩提寺の意向は無視することができないでしょう。
 案外と、わたし達は葬送の儀の内容を知らないものです。葬送の儀の内容を知る必要があると言えますが、知ることは、その宗派のものの考え方を確かめることになります。しかし、知れば知れるほど矛盾が生じ葛藤が生じてしまう場合もあります。
  じぶん自身の最終章にじぶん自身で書き込めることができるのでしょうか?じぶん自身として生前に、書き込みたいし、遺族としては、書き込めさせたい!と。
  また告別式に関しては、様々なことが考えられます。偲ぶ会やお別れ会もそうだとするなら、49日忌や1周忌などの法要のお食事も、時間の経過は別として、この部類に入るでしょう。

  こうして書いてきて、これらの問題には、まだ越えなければならない問題が含まれていることを知るべきでしょう。その一番の問題は、魂のことです。
  たとえば、神の子として、シモベとして、私を神は、こころよく受け入れてくれるだろうか?神と言っても、世界には数多くの神々がいると言ってよいでしょう。カトリックやプロテスタントも、その分類の中に多くの宗派があり、神がいます。イスラムにも、スンニ派やシ-ア派があると言えば、神は同じなのでしょうか、考えてみれば、人間の数ほどに神は在るといってよいのでしょうか。

 さて、家族葬と称して、火葬場で近親者を家族だけで荼毘にふすことが執行されことを見ました。
  それは葬送の儀でしょうか。荼毘にふされた人の父母や祖父祖母が、さらにその先の血縁の人たちが、えんえんと営まれてきた葬送の儀式は、ここで途絶えることになる意味って、考えたことがあったのでしょうか。
  葬送の儀とは、告別の葬儀と野辺送りの儀式を一体とするものです。告別の葬儀の式が終わって、柩の蓋が閉められ、柩は近親者に担がれ霊柩車に収まり、火葬場で荼毘にふされる。これを送る儀式といいます。葬儀がなければ、死体として焼かれ、壷に収められて、意味が付されないことになります。
  まして菩提寺を持っていたとしたら、その菩提寺にお墓があったとしたら、過去に祀られた祖霊たちの意味をどう考えればよいのでしょうか。 
 菩提寺を持つ家族の基本は、葬送の儀式をして、そこから、故人は墓地に納骨され、新に戒名として家族の仏壇にまつられ、自分たちの祖先として、私たちの命を受け継いできた証となります。そのことは同時に、自分たちもまつる側からまつられる側になることのいとなみを現していることを含んでいます。

 植物に喩えれば、祖先は根、私たちは幹であり、枝は子孫となり、根も大事、幹も大事、子孫も大事、根が枯れれば、幹も枝も枯れることを意味していることだと思います。
 菩提寺とは、根と幹と子孫に関わっている聖域と考えられないでしょうか。
  このことを無視することは、菩提寺からの断絶を意味することなのです。せめて、家族が決める前に、お寺の和尚に連絡して相談していただきたいと思います。
  家族が決めたからと、その通りにすれば、お寺は必要もなく、その寺の和尚も、本堂もいりません。

  さらにつけ加えれば、火葬をするため家族が窯の前にた立って見送る作業は、家族にとってどう考えればよいのでしょうか。お別れと言うことは解りますが、お別れした後、故人は何処に見送られるのでしょうか。また、故人の死後の居場所として、その人格は何を持つのでしょうか、お寺とは、その作業に方向付けをすることに関してあるといえば、その延長線上に49日があり、以降の年回があります。
  菩提寺を持っていると言うことは、葬儀の執行を菩提寺に委託し、以降の年回法要をも委託することを含んでいるわけです。故人を偲ぶ方法はいくらでもありますが、この儀式だけは、一人でもよいから、少しの近親者だけでもよいから、葬送の儀式をしていただきたいと思います。

  このことは、日本の文化や伝統という意味からも、とても大切なことと思うのです。私たちはこの時代生きて、次の時代に生きることは有りません。私たちの勝手や都合から、人としての最期をそれだけにしてよいのでしょうか。

三章

三章

 こうして、葬送の儀式のうち、告別式あるいは葬儀の内容にかんして後で述べるとして、葬儀だけは欠かさないでいただきたいことを、陽岳寺としてはひたすらお願いしておきます。だからといって、従前の通りとまでは言いません。

  式の場所にかんしては、広さは問いません。弔問客の人数も問いません。場所も問いません。荘厳も問いません。まして家族だけで式をする場合には、それこそ、ホテルだろうと、貸席だろうと、自宅だろうと、お寺だろうと、どこでも式場となります。柩の安置する場所も、正面でなければならないという理由はありません。
  まん中でも、端でも、入口でも決まっていません。別れの儀式に最適な場所、それを遺族が決めればよいだけですし、飾り方も決まっているものではありませんので、予算に合わせて、花の量を決めたらよいのです。
  式の時間にかんしても、1時間と決まっているわけではありません。まして、ホテルなどでする場合は、スケジュールを作り、そのスケジュールに合わせて時間を決めた方がよいでしょう。
  ただし、僧侶が占める式の時間だけは、お寺さんと相談することがよいと思います。

 それでは式の内容のことです。わたしは仏式の場合しか知りませんが、構成されるものは、お経、回向、引導または表白文といわれるものです。
  その前に、剃髪の偈、懺悔文、三帰依戒、鳴らしものなどもあるでしょうが、限られた時間の中ですので、いくつかは省かなければならないこともあるでしょうが、できたら、内容を吟味できれば、なお素晴らしいかも知れません。ここまではできないにしても、肝心なのは、進行している式の内容が理解できることです。
  理解できれば、今度は、その内容にかんして、故人を偲びながら考えることができるでしょう。できたら、エンディングのための人生ノートがあればなおよいことですし、その内容をお寺さんに見せておくことも必要なことだと思います。そうすれば、お寺さんは、進行する式の中に、故人の言葉を入れてくれるでしょう。
  
 考えることは、故人のエンディングに対して、大きさではなくて、内容で、いかに最上の式ができたかです。
 故人の旅立ちから、残された者として、伴侶へ、子ども達へ、兄弟に、友人たちへ、人が生きるとは、故人の生き様を視点を換えて表し、故人の人生は何の意味があったか、残したものは何かと、そこから故人のメッセージをとりだし、残されたものへの指針が生じます。
  残されたもの祈りも大切なのですが、故人の祈りもなお大切なものです。多くの言葉が願いや祈りとなって交差します。畏敬や感謝の気持ちが同時に発信できれば、最良な式となるでしょう。

四章~(未完)


時間旅行

大いなる普遍の命が、
限りあるしるしに降り注いでいることを知るとき、今、ここにおいて、安らぐ。
さあ、旅立とう。
お経、回向を時間飛行と言う私。いつしか、命を時間と読み替えている私がいました。命とは過去・現在・未来の人間の営みとしてです。
 たとえば、父にとって母にとっての未来は、私の今にあるから。私の過去は、父や母に宿っているということもできます。命ってそんな時間の関係の中に描けるのではないかと思うのです。
 亡くなった親しき者を、追憶し、お経を読み、回向を手向ける。
 過去への扉が開くと、未来が渦をなして飛び込んでくる。彩なす時の美しさよ。



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