目次
輝いている時
夢中(ゆめのなか)
芝浜
江戸っ子
亀住町(平成13年7月1日)
モンセ・ワトキンス~夢のゆくえ~(平成14年1月3日)
新牌開眼
英霊(平成17年5月23日)
目覚め
よわい「齢」
また始めたらよい
三大聖樹(平成19年4月17日)
滅度(平成19年9月18日)
安住の地(平成20年11月15日)
心眼(平成22年3月1日)
とかくこの世は
とかくこの世は
祈り(平成17年11月29日)
品位(平成18年1月20日)
ニャンニーシンズ(平成18年3月1日)
鍵(平成18年4月25日)
チベット(平成20年5月1日)
SYOHOU
諸法
四十四の問い~ミヒャエル・エンデ
先ゆく輩
さき行く輩
祖師年譜
ダルマ
慧可
五洩霊黙和尚
石鞏慧蔵禅師
大珠慧海禅師
西川の黄三郎
馬祖道一禅師(馬大師)
五百生 百丈和尚
大梅山法常(752-839)
麻谷山宝徹禅師(平成12年1月27日)
鎮州普化(ふけ)和尚
寒山・拾得
虹の彼方に
ヘイヴン・ペックの場合―続貧しいけれど、豊かだった―
生前葬
平和を我らにーGIVE PEACE A CHANCE(平成13年10月31日)
ソクラテスとヤージャニダッタ
蓮(平成14年6月2日)
心-KOKORO(平成14年6月25日)
独り暮らし(平成15年4月12日)
老いが、咲いていた!(平成16年7月5日)
深濱-fukahama
死に顔
松山鏡(ソクラレストとヤージャニダッタの続き)
真ん中(平成20年4月1日)
百万回いきたネコ(平成21年1月1日)
夜来る鳥(平成21年1月1日)
だいじょうぶ、だいじょうぶ(平成21年2月1日)
無常への帰依
無常への帰依
希望(平成12年1月2日)
葬式坊主
泥棒
赤とんぼ
老い
……ロス
後姿
寿陵
ついで参り
目標
六道を行く
もの言わぬ羅漢達…揀択をこえて…
宮本武蔵
五合庵断章(平成10年10月17日)
K子さん!(平成12年7月19日)
今は昔
十一面観世音菩薩
尽七日忌(平成19年5月1日)
OSYOU
OSYOU
この手のひらに―禅僧の死―(平成10年11月18日)
戒(平成10年7月25日)
幽霊
みんな仏教徒(平成10年5月27日)
最後の晩餐(平成10年5月23日)
禅問答(平成10年5月31日)
分銅
天国は汝ら自身に宿る(平成10年11月24日)
宗派
穢れ(平成12年8月30日)
お彼岸
仏心
仏心
ご祈祷
施餓鬼会にて(平成17年5月28日)
永遠の命
輪廻する葦(平成10年5月27日)
連鎖する命(平成10年6月2日)
涅槃(平成10年8月12日)
鏡(平成10年7月25日加筆)
流星
TAO(平成11年1月3日)
四大
挨拶
冥福
盂蘭盆
祈り(平成14年7月4日)
仏事歳時記
再び 最後の晩餐
この手のひらにII(平成18年11月18日)
死んで生きる智慧(平成19年3月27日)
五百生(平成19年11月20日)
破地獄偈(平成20年5月24日)
この指止まれ
この指止まれ
家族と家庭(平成11年1月5日)
導師(平成11年2月26日)
家から個人へ、そして家族・友達へI
家から個人へ、そして家族・友達へII
脳死そして臓器移植(平成11年3月2日)
独り決めの生き方
僧堂I
僧堂II
僧堂III
恥じ
僧堂IV
返事
父殺し・母殺し・友だち殺し・子殺し(平成20年1月1日)
その後
その後
ほとけさま(平成17年5月1日)
仏が仏に合掌する
戒名(平成12年3月14日)
無用の用(平成12年2月21日)
世話
大きく育て!(平成11年1月18日)
しもべ(平成10年11月7日)
電話(平成10年8月22日)
意思
寡黙
妄想(平成10年8月2日)
川(平成10年8月22日)
風如(風のように)(平成10年6月18日)
追悼(平成10年5月27日)
受容(平成10年6月18日)
蒸発
臨終(平成10年6月8日)
外道
障子(平成13年3月10日)
日月(にちげつ)
年寄りの出番より
人生とは、闇を照らす一瞬の蛍の光
時の旅人
時計(平成12年1月3日)
星(平成11年10月15日)
溝(平成11年8月2日)
過去心…念の起こる処(平成11年6月19日)
与える時間(平成11年5月24日)
桜(平成12年3月2日)
無常(平成11年4月16日)
川(平成10年9月17日)
有時(時の構造)(平成12年2月5日)
時の旅人(平成12年2月1日)
揺れる木々の葉
この人生の速さはなんだ(平成14年12月26日)
法句経より-時の旅人(平成15年2月4日)
寂然不動 如春在花(寂然不動、春の花に在るが如し) (平成16年9月19日)
ZENGO
自立
橋は流れて(平成10年9月18日)
無事
過去(平成10年5月23日)
たまごっち(平成10年5月23日)
一衆觸礼(いっしゅうそくれい)
六道を輪廻する
二人三脚
生老病死
筋肉番付
ポケモン
俺は、親馬鹿か!
塵も積もれば山となる
生と死と永遠
最終章
一章
二章
三章
四章~(未完)
時間旅行
時間旅行
命の歌-母の短歌
礎-いしずえ-
離魂(平成19年8月25日)
海辺橋
海辺橋
ふるさと(平成18年3月4日)
千の風(平成18年9月16日)
人の道(平成18年9月18日)
あなたは、いつから、一年が始まりますか?(平成20年8月1日)
前住職 二十三回忌にて(平成20年9月1日)
平成21年お施餓鬼会を振り返って(平成21年6月1日)
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時間旅行

大いなる普遍の命が、
限りあるしるしに降り注いでいることを知るとき、今、ここにおいて、安らぐ。
さあ、旅立とう。
お経、回向を時間飛行と言う私。いつしか、命を時間と読み替えている私がいました。命とは過去・現在・未来の人間の営みとしてです。
 たとえば、父にとって母にとっての未来は、私の今にあるから。私の過去は、父や母に宿っているということもできます。命ってそんな時間の関係の中に描けるのではないかと思うのです。
 亡くなった親しき者を、追憶し、お経を読み、回向を手向ける。
 過去への扉が開くと、未来が渦をなして飛び込んでくる。彩なす時の美しさよ。


命の歌-母の短歌

昭和60年の7月、ショートステイに入居したその日、父は熱を出し、入院してしまった。
母は懸命に父が入院する病院に通い、看病した。また、その年は、内孫の長男誕生の年でもあった。
翌年の8月12日父は、母に看取られ、旅立っていった。
父の一周忌の頃を境に、母は父を偲びながらも、夫の属した沃野社に、歌を送りはじめる。
平成12年12月13日母が没し、その遺品を整理していると、無造作に散らかった書類や手紙の中から、
母の筆跡のノートがでてきた。読んでみると、それは亡くなった父への、思慕に近い想いだったのです。
そして、日記より、歌に託すことで、少しずつ癒されました。これも、母は母の今を表現していることの記録です。
今まで振り向きもしなかった短歌。父も同人だった『沃野』に投稿することで、母は父と一緒にいたのです。
下記は、短歌雑誌『沃野』に掲載された母の歌と批評の全文です。そして、記すことで、私も母を父を、偲びます。

命の歌-母の短歌

平成2年7月号 
 温き秋しばし続くを祈れるに蕾を垂れて睡蓮咲かず
 舞ひ舞ひて散りゆく落葉舗装路に只積りゐて土に還らず
 父知らぬ幼いだきて南方の空を恋ひたる昭和去りゆく
 空襲に焼けし雛夫も娘もしらずわがまなうらの幼き姫達
 夜の更けてもどる人待つ苛立ちのもう無き吾に待つ人もなし
  10月号に載った田井中みづほ氏の批評-『今帰るか帰って来たのかと、帰宅の遅い夫を、或る時は案じ、また或る時は苛ち待った日々を、今は感慨もひとしお、作者の夫恋の心情が具体的な描写に依りよく解り、また五句の「なし」と言い切った詞の裏面より泛(うか)ぶ慕情を一層深く感受出来る』-母は十月号表紙に、批評ありと記している

平成2年9月号
 聞きてより見(まみ)ゆるこの日待ち侘びし二千年経るという彼岸桜
 日本武尊手入れなせしといふ桜今日寺庭に青葉輝く
 二千年の世を生き濯ぐ桜鉄棒のささへは枕当てがふ如し
 花どきを彩る姿想ひつつ江戸彼岸桜又尋ねたし

平成2年10月号
 吾が姓の変わりて五十年去りゆきし時を語りたき夫のいまさず
 五月夜のおぼろに見ゆる細き月二人にて見ぬ湯河原の宿
 藤つつじ牡丹咲きゐて南方(みんなみ)に夫征でゆきぬ身籠る吾は
 目の前に魚雷命中僚船は沈めりと夫の手紙黄ばめる
 祈りつつ五年を待ちて帰る夫娘と迎へしは夏逝く夕べ

平成2年11月号
 アムール川に魂安かれと花火上がり映像に見る戦むなしき
 幾十年「沃野」紐で綴ぢ保存せし亡夫の手つき今日目に浮ぶ
 2月号に載った田井中みづほ氏の批評-『沃野も創刊号よりとなれば随分の嵩になる、丹念に紐で綴ぢ、大切に保存された夫君を偲ばれての作で、一読、亡夫とは委員長であった向井宗直先生の事、作品として亡夫の姿を具体的に簡潔に描写され、読者にも亡き向井先生のありし日の姿が泛んで来る。唯、結句の「今日」が忌の日であったか、或は特別の何かの日か解りかねるのと、初句の終わりに”の”と二句の「沃野」の下に”を”との助詞が欲しいのと「紐」は略せる。助詞の使用に依って調べも滑らかになる。』-母は沃野の背に、”批評のる”と書いている。
 ことさらに乾く夏なり台風の予報ひそかに恃(たの)みて待ちぬ
 使ひ水バケツに溜めて土にまく渇水の夏のならひとなりぬ
 休む間も惜しと編みゆけば易々と手の動き孫娘(まご)のセーター仕上る

平成2年12月号
 若き日の歌溢れつつはらからと幼にかへり車の旅す
 高原を登るにつれて花々の色濃く咲けりしじまの中に
 稜線に影うつしゆく白雲の湧きつ流れつ行方はてなし
 愛らしき幼孫(まご)の顔吾に似るといふ嬉しく聞きぬお世辞と知れど
 庭のバラ紅きを切りて母の日の吾に贈ると娘は訪ねくる

平成3年1月号
 籠いつぱいに桑の実つめる指先の紅に染まるを小川にひたす
 夏焼けの葉はそのままにやまぼうし緑の萌えて秋の陽に照る
 野分過ぎ朝の道路に貼りつける落葉を一人掃きなやみをり
 「午後の紅茶」と甘き名の缶捨てられてごみとなり果て道に散らばる
 朝あさを旅立つ如く振り返り手を振りてゆく二人の孫は

平成3年2月号
 七福神初参りの朝雪晴れて車少き箱根路を行く
 雪の道登りて行きぬ枯枝に積もりたる雪花と見紛ふ
 バスの窓より眺むる富士は裾長くひきをり三島の町羨しかり
 うかびたる短歌(うた)しるさむと座るわが膝にのりくる幼の笑顔
 無心に笑む幼をいだく古希過ぎたる吾にこの日のありし不思議さ

平成3年3月号
 春さくら夏はあぢさゐ秋はもみぢ尼君おはせし柿生のみ寺
 雪被たる富士の姿ぞ吾が前に夕日背に負ひ裾長く引く
 輝ける夕日背に落ち大き富士わが前にあり忍野八海
 バスにつき左右に富士の姿あり何処までも見えて旅ゆく楽し
 伏せ字多きモーパッサン読みし少女の日老いて開きぬときめきもなく

平成3年4月号
 詠み人の名よりよみ上ぐる父の声はらから集ひし遠き初春
 人の世の別れを重ね年暮れて明くれば常のごと又日は昇る
 亡夫の姿うすれつつゆくこの家に男(お)の子二人の声弾みをり
 永代橋の橋際の椿に赤き色見え初め今年の春もま近し
 福耳ゆゑ後半生は幸せと吾に告げゆく媼(おうな)のありき

平成3年5月号
 時々はゆつたり朝寝楽しまむ願へど老は早々と覚む
 若きらと住むは戸惑ひ時にありて老いゆく吾をしみじみと意識す
 娘の選びくれしブレザーさ些かの気後れあれど春なれば着る
 風やみて春の日ざしのやさしければ金魚緋目高水面を泳ぐ
 汝を生みしは大寒なりと母の言葉今日七十二歳一人迎ふる

平成3年6月号
 手伝ふと椅子引き寄せて流し水に小さき手ぬらし悩ます二歳
 指二本丸めし程の小さき花酷暑の名残りか紅椿愛し
 行き過ぎて振返り道掃く吾に目を合せほほえめるブロンドの少女
 日当りよき部屋にうつりて朝毎の鏡はむごし小皺大皺
 折々の家内の争ひを嘆く日あり夫逝きてより知る一人の友に

平成3年7月号
 椿散り五月の光さす庭におだまきの白、紫、えんじ
 いつしかにおだまきの咲く庭となり今年の春も陽ざしやさしき
 話さむと思へど言葉出て来ず物忘れも多くなりしこの頃
 聞かれても答いでずに時過ぎてはたと思ひいづぎぼうし紅紫檀
 寺庭に仰ぐ不思議なるナンジャモンジャ白き十字の花の咲ける木

平成3年8月号
 ユリの木といふ名にひかれ幾年月今日仰ぎ見る黄みどりの花
 ユリに木の並木を見むと一人来ぬ迎賓館の道花は真盛り
 しばし見上ぐるユリの木の花愛らしく不思議の苑に遊べる如し
 白檀の薫りほのかに古りし扇逝きし義兄若き日の中国みやげ
 物言へず吾を見てゐし病める夫思ひ出重ね人は悲しき

平成3年9月号
 戯れ心秘めて楽しも星柄のシャツ着て夕べ空見つつ行く
 テレビ見て一芯二葉に新芽つめば梅雨のさ中に勢ふ茶の木は
 レンゲ田がテレビに見えて思ひ出す花にねころび仰ぎし碧空
 幾千か昼顔淡きくれなゐの基地にそひゐて朝光そそぐ
 花子といふペルシャ猫ゐて瓶にさすトルコキキョウを好みて食ぶる

平成3年10月号
 その背より大きランドセル負ふ孫を門に見送る春の光に
 鱗根は重り合ひてゆるるなるその姿百合と名づけたりとぞ
 吾亦紅、あざみ、女郎花野の花を瓶にさすなり今日の幸せ
 石に沿ひ又かき分けて流れゆく釜無川の瀬音涼しき
 高架線の車窓より見る桜花街の屋根屋根彩りて行く

平成4年1月号
 今は娘の住む家に柘榴実りたり亡夫の手植ゑしこの木に多(さは)に
 石蕗の日当たりよきは花咲きて木陰はあはれ蕾も見えず
 スモッグに星かげうすき下町の空雨に拭はれ明星光る
 久方の澄める星空しばし仰ぎ心ほのぼの今朝の明けゆく
 老母のさみしき心計られず吾も老いて知る同じ思ひぞ

平成4年 2月号
 碧空は穏やかに日ざし温かく姿見えず富士、筑波、日光連山
 「林道湖」紫の花想ひたり開拓地なれば「林道」なりと
 老い初めて幾年続けし旅も終わりなるや逝きしはらからよ面影浮ぶ
 老医師の家も壊されたちまちにビル建ちにけり吾が住める街

平成4年3月号
 駅の段やうやく上る目の前をさっそうとゆく長き脚羨し
 やまぼうしの紅す枯れたる葉も散りて師走残るはもう幾日か
 春迎へ年齢(とし)重ぬるはなけれどもこの年逝くはさみしきものよ
 自我芽生え思ひ適はぬと泣き続けやがて「直つた」と笑ひぬ孫は
 ガラスのビル青空に染み残月は丸くかかりて今朝の目に入る

平成4年4月号
 狭庭なれど春を告ぐる沈丁花の開き初めしよ暖冬二月
 小雨ふりて温く明けしに夕つ方北風吹きて月青く冴ゆ
 幼子の顔うかびきて苺買ふ荷の重けれど足軽く行く
 落着かず暮らす日多くばたばたと今日も過ぎゆく年越えたれど
 夕つ方一瞬のとこめきに似たるなり皺多き指にリングを飾る

平成4年5月号
 あちこちとスウィッチ押しビデオ電気器具わが知らぬもの玩ぶ三歳
  8月号に載った松下宣子氏の批評-『全くこの頃の電気器具は小型化し扱いはより簡単となりスウィッチの一つで点ったり消えたり、動いたり止まったり幼い者の玩具ともなり得るものが沢山ある。玩具として作られたものよりも子供は大人の使うものを自分が扱えることでより満足感が湧くようである。「わが知らぬもの」に自身の老いを嘆き、孫の順調な生育を喜ぶ作者の感慨がこめられている。”孫歌は作るな”とよくいわれるがこの一首はそれを越えたよい歌と思う。』
 引きてゐるわが手振りほどきかけ出す孫老の力はもう及ばざり
 車多き街なかなれば危なしと追ひかけゆきて孫と競争
 隅田川長閑かにながれ遊覧船貨物船ゆく春の大川
 隅田川大橋渡りゆきビルの並ぶ街浜町辺り煮豆(まめ)買ひに行く

平成4年6月号
 階のぼる足音小さくきこえくる姿は待ちをり「お休みなさい」を
 一人住まふは淋しきものと息は言へり密かに思ふ気儘も欲しと
 夜嵐に吹きよせられて桜花はなびらあはれ色褪せて塵
 春は優し土たまりゐて一株のたんぽぽ咲かす橋の一隅
 首輪なき黒ぶちの犬吾が傍に信号待ちて渡りてゆきぬ
   九月号に載った柳田馨氏の批評-『街頭に出合った犬に目を凝らし、さりげない風情で親しみを匂わせる作者の姿がよく出ている。「首輪なき犬」多分飼い主のいない野犬だけに作者の心が動いたものと思われる。下句の「信号待ちて渡りゆきぬ」は、一句に接続助詞が二つ続くことになるので再考願いたい。一例としては「信号待ち」と述べることも考えられる。』
平成4年7月号
 梅、椿、辛夷に桃の桜咲き春の行方の見ゆるこの道
 孫の通ふ幼稚園そして小学校と続く道吾も花仰ぎゆく
 ケーキ食ぶる真人の笑顔なかなかに愛らしく今日七歳となる
 脳に埋める記憶装置のあらばよしと埒なき事を夜明けに思ふ
 華やかなりし銀幕うかぶデートリッヒ九十歳の死を早朝報ず

平成4年8月号
 六十余年遙かに越えて師の君も友も健やかに老い今日を集ふ
 戦の海を渡りし文の束に命伝へ合ひし日は遠く去る
 白き花は空に向かひて山ぼうし静かに初夏の訪れを告ぐ
 白き花葉かげにはつか見えながら蕾の見えず今朝散り初めし

平成4年9月号
 防火水槽の隅に群れゐる緋の色の鯉かと紛ふ金魚育ちて
 「雪の下道」通りきて八幡宮に出でたればふと口ずさむ鎌倉の歌
 次々と唱歌の言葉あふれ出で幼にかへるなつかしき道
 大銀杏世の移ろひを見守りて立ち古りぬ語り合ひてみたしよ
  12月号に載った柳田馨氏の批評-『一本の大銀杏をじっくり見据え、単なる描写ではなく自己の心に湧いた思いを、ズバリ詠み込んだ作であろう。「世の移ろひを見守りて」と密度の高い捉え方をしているのに魅かれる。見守る如くと比喩法を使わずに、真正面から見守りてと掴み取った作者の姿勢も立派、何か悠久の時の流れを感じさせて呉れるような歌である。』
 帰宅せし吾に抱けよと手をのべくる幼にみやげのお守り付ける

平成4年10月号
 枝陰に姿は見えねど鶯の声さはやかに山の家の朝
 咲き初めししもつけの花も下草とて笹の葉と共に刈られてしまひぬ
 刈られたるしもつけの花拾ひ集め濡布に包み家苞(ほう)とせり
 叢を分け入り山を下りつつ蕨を折りぬ古希とうに過ぎ
 亡夫の忌の又巡り来ぬ病み初めし齢もいつしか同じになりて

平成4年11月号
 厳しかりし暑さ逝くかと思ふ日にみんみん蝉をやうやく聞きぬ
 九月三日の花言葉はダリヤなりときく吾が住む街に見たることもなし
 枯るるなと山ぼうしの木朝な夕な見上ぐる雨の降らぬ夏逝く
 暑さ故葉先の色も枯れゆけば朝な夕なに水撒きてやる
 家人らのすけじゅーる書くカレンダー合間にYと吾も書き込む

平成4年12月号
 植ゑし苗茎の色違ひそれぞれに咲く花の色想ふは楽し
 鉢に植ゑし朝顔十六輪花咲きぬ明日は幾つと蕾数ふる
 純白に桃色にまた紫にと咲きたり露に濡るる朝顔
 やうやくに涼風立ちて黄ばみたる葉かげに見ゆる小花の幾つ
 目ざむれば車の騒音耳に入るこの街に住みて二十余年か

平成5年2月号
 五百粁の路ゆき帰るバスの旅終へぬ明日より又平凡な日々
 吾を迎ふる孫二人見え息の顔も見えて二日のバス旅終る
 小さき孫は「さみしかった」と手をのべくる吾も柔らかきその頬撫づる
 道路はプラタナス塀内は山ぼうし枯葉舞ひ散り冬に入りゆく
 書も読みたしテレビも見たし編物もと思ひつのれど憧れなるか

平成5年3月号
 亡き人の面影今は朧(おぼろ)にて行く先知らぬバスに乗る夢
 千両と水仙一輪瓶ににさし写真にかざる吾の正月
 筋雲は明けやらぬ空にたなびけど瞬く星の美はしき元朝
 ほのぼのと空明け初めて元朝をビルの形くっきりと立つ
 古びたる箪笥鏡台位置を変へ新たになり今日より吾が部屋

平成5年4月号
 亡き母の継ぎ当て縫直し常のこと豊な世に在る吾の思ひ出
 帽子をとり声かけくるる人ありて朝の道掃くひとときなごむ
 夜の明けと暮るるひと時を仰ぐ空今宵上弦の月輝りてをり
 父と子がボール投げ合ひ楽しげな公園の午後の平和な景色
 歌つくらむと一人し掛くるベンチありて今日如月の青空広し

平成5年5月号
 眉月の上に明星輝きて風吹きぬくる如月の空
 雨情の歌聞きつつ吾も歌作せむと鉛筆持てど一字も書けず
 兄は自転車弟は手を払ひかけ出す散歩に老の歩調合はざり
 話し継がむとすれど言葉の浮かび来ずこの頃の吾に吾と驚く
 幹細き木なれど歳々に咲く朴半(ぼくはん)椿花華やかに芯ゆたかなる

平成5年6月号
 荒るる海を刻かけて渡り来し佐渡ケ島雪の山脈墨絵の如し
 晴れしかと思ふ間もなく小雪舞ひ冬もどりせしや日本海は
 朝寒むの空に鳶舞ひ海猫も舞ひ舞ひてショー見るは楽しも
 翼ひろげ一直線に飛び交ひつ海面(うなも)かすめつ魚とる鳶は
 駅弁をもとめて乗りし新幹線旅の別れの夕餉となせり

平成5年7月号
 テーブル掛けに染めし牡丹の歌胸に染む植松家を訪ひし遠き日のこと
 重き鉢購ひて帰る牡丹の花は寿樹先生の御歌心にありて
 もったりと牡丹の花は皆ひらき晩春の宵肌やや寒き
  10月号に載る荒木富美子氏の批評-『中国では「花王」と称される牡丹を、これは造語であろうか「もったり」と言う初句の表白が、此の場合は非常に相応しく、春逝かんとする季節感を、結句然りげ無く据えた点お見事。』
 白き胡蝶舞ひ初めしごと蘭は咲き光明るき吾が窓辺なり
 実生の木に白き小花の咲き初めぬ亡夫の蒔きし名の知れぬこの木

平成5年8月号
 咲き満ちし桃畑の道廻りゆく心の足らふ桃源郷ここは
 水瓶に次々と咲く睡蓮の花終りては水に沈みゆく
 明けやらぬ朝を目覚むるわが癖の幾年なりや今日も覚めたり
 スタンドの仄かな灯りに白き花真夜も舞ひゐる胡蝶蘭あり
 一廻り年上の義姉なり今直ぐに逢ひに来よとぞ電話かけくる

平成5年9月号
 大会に行きましようよと病む夫を励まし励まし看とりし日ありき
 今吾もここに居ますと亡き夫に呼びかくる箱根大会は今日
 隣寺の竹の落葉は墓地に積り朝毎に掃く吾を困らす
 墓石の間に積む落葉掃き難し隣寺よりきりなく舞ひ入る

平成5年10月号
 久々に雨上り仰ぐ夜の空星影一つ二つもう一つ
 駆けぬけてわが前を走りゆく孫よ遅れてならじ息をはずます
 孫二人後姿のもつれつつラヂオ体操の朝のさはやか
 児を背負ひ空襲の一夜をころげつつ逃げまどひたる8月一日
 負ひし児は五十路を過ぎて二人子の母とはなりぬ平和なる世に

平成5年11月号
 楽しきことあれこれ持ちて老の道健やかなれと願ひつつ行く
 早起きも日課となりぬ今朝も又車少き歩道より掃く
 掃き終へて心足らひぬ六時半さあ長年のラジオ体操せむ
 小さきラジオ耳につけては山ぼうしを見上げつつ動かす首を手足を
 見上げたる山ぼうしの一枝に害虫の白き網の如広がるが見ゆ

平成5年12月号
 刺す虫の姿見えねどただかゆし竹の虫とぞ医師は宣ふ
 竹の毛虫か赤く腫れたる雨の腕の痒さ耐へゐつ半月余り
 雲をはらふ風強ければ十五夜の月の光の冴えて気高し
 吾が背に空を見上ぐる幼孫雲の流れの面白しと云ふ
 一鉢の君子蘭求め十年余り鉢の数増し華やぎも増す

平成6年2月号
 ゆったりと土色の水流れをり隅田川大橋渡りつつ見ゆ
 家をめぐるプラタナスの街路樹風に散り乾けり音のかさこそと舞ふ
 モチの枯葉しきりに落ちて山ぼうしの枯葉も交り庭に散り敷く
 娘孫のセーターを編む一ときもありて多忙な年暮れむとす
 セーターを編み上げむとていそいそと部屋にこもりて一途になりぬ

平成6年3月号
 大方の葉を落したるプラタナス朝の道掃き易くはかどる
 日当りよき吾が部屋に居れど折々は夫を偲びてただ過しをり
 七草の明けやらぬ空に半月と星一つ見えて清き朝なり
 七草の皆揃はねど粥を炊き家族一年の健康祈る
 贈られしカトレヤの花萎れたり十日余りを手もとにありて

平成6年7月号
 桜見たく春をふたたび訪れぬ二千年の命の花溢れ咲く
 実相寺の寺庭に生きる桜木の幹に泪あり永き歳月
 一鉢の牡丹求めしは去年なりき命短し縁日の花
 一本の杖を頼りに歩む友もゐるクラス会七十六歳
 ひと月も便りなき老姉(あね)に電話すれば骨折入院中と娘より聞かさる

平成6年8月号
 離れ住む娘の苦労思ふなり一人親なる吾は目覚めて
 妻なりし日は遠く去りいま我はおばあちゃんとのみ呼ばれておりぬ
 風強き朝を花びら散り敷けり山ぼうしの花多に咲きしか
 人通り少き早朝を起き出でて道掃き墓地を掃きをり
 セーターを編み上げて目をやる窓の外椿の若葉紫陽花の花
  11月号に載った円谷泰秋氏の批評-『大変素直な写実歌で歌調も整っているが歌材が多いため焦点が明瞭でない。「椿若葉紫陽花の花」と名詞の並列でなく一方の印象を強く詠出して感動の焦点化をはかる工夫をしてほしい。』

平成6年9月号
 久しく逢はざりし妹を訪れぬ寺町五十八番地わが生れし所
 父母も兄弟もありてももろともに此処に暮せし面影なつかし
 一人行く老の通る道厳しかり何をなすとも皆忘れゆく
 老いいよよ深まりゆくらしわが義姉の同じ電話日に幾度かけくる
 水引草の紅の花も白き花も共に咲きたり喜びありて

平成6年10月号
 吾が耳にそつと口よせ「玩具買って」五歳も孫と二人の秘密
 やんちゃなる二人孫留守の家の内心は休めど何か淋しき
 日々上る気温きりなく三十九度を越すとぞ聞けり八月三日
 朝顔も草むらの葉も首垂れて太陽の通り過ぐるを待ちをり
 窓明けられぬ暑き都会の昼も夜もクーラーに頼り息つてをり

平成6年11月号-翌号より母は沃野の第三同人に昇格した。
 名を知らぬ鉢の草花赤ピンク白に黄色が今朝も開きぬ
 朝七時花ひらき初め夕つ方静かに閉じぬ花の一日
 日照り続き枯葉の目立つ庭の木々一日の雨に息つくがみゆ
 水不足の声聞こゆれば庭の木々に水やりにつつ心とがめつ
 孫たちの夏休み終り静けさのもどれど老一人穴あく如し

平成7年1月号
 月下美人今宵咲くらし部屋内に端座してその刻(とき)を待ちゐる
 湯上りの一缶のビール分けて飲み一ときありて嫁と楽しむ
 虫の音も小鳥の声も聞かぬ待ち月見ることさへ忘れてをりぬ
 水槽の金魚はあはれその上に足場かかりて冬に入りゆく
 改築をなすとて狭きわが部屋にテレビを置きて幼と過ごす

平成7年2月号
 秒きざむ時計の音のみ高ければ一人起き出で歌思ひをり
 夜明け待ちていつもの如く街路樹の掃落掃きする今日の始り
 枯葉よとシャンソンくちずさみプラタナスの落葉散りしく歩道掃く
 おほかたの葉は散りはてし山法師冬支度成ると朝日あびおり
 明けやらぬ空の清さよ星かげのまたたきをりてこの身も清し
 共に生くると結ばれたりし遠き日よ思ひ出ばかり一人残りて
 自らきめし生命にあらぬ故老深む日日を何か励まぬ

平成7年3月号
 新しき年のカレンダー白き壁にかざりて過ぎし年を思ふも
 戦時下の三年の月日スマトラに過ごせし夫の歳月重し
 戦終りぼろぼろになりて帰りし夫子はとまどひぬこれが父かと
  6月号に載る島野達也氏の批評-『戦争が終わって復員してきた父の顔を初めて見た娘も五十歳を過ぎた。その日の体験は娘にとっても作者にとっても忘れ難いものであり、作者の人生の記録としての歌である。ただ、詠まれた状況は作者の家族だけの問題ではなかった筈である。従って、ここでは向井さんだけの人生体験を詠むのでなければ、読む人に感動を与えられない。「ぼろぼろになりて」「とまどひぬ」が一般的表現にとどまっているということを分かってほしい。』
 父の顔をその日初めて見し娘なり時過ぎていま五十路となりぬ
 時の流れの早くして夫かたへより消えぬ墓守る媼(おうな)かわれは
 風もなく雲さへ見えぬ朝の空見上げつつ深く呼吸するなり

平成7年4月号
 得意げに縄跳びをする弟孫七十跳びしと更に続くる
  7月号に載る石井祐二氏の批評-『幼稚園児か、それとも小学校一年生くらいの孫なのだろうか。とにかく縄跳びが出来るようになって嬉しくてしかたない。七十回程跳べるようになったと作者に知らせては、もっと跳べるようになりたいと練習に励んでいるのである。その様子を作者は目を細めて見守っているのである。「跳びしと更に続くる」が実にいい。作者の優しい人柄が伝わってくる一首である。』
 紅きバラにリボンをかけて贈りくるる十歳の孫のはにかめる顔
 大型のトラック行き交ふこの街に赤きトンボの群れて嬉しき
 人の影も声も聞こえぬ島のホテル磯打つ波の音のみ高し
 富士の山ま白く清かに仰がるる神々しかり秘本の山

平成7年5月号
 夜は更けラジオより聞こゆる「荒城の月」藤原義江なり思ひみざりき
 次々と流れくる唄なつかしき「ほこを収めて」「乾杯の唄」
 「恋はやさし」「カラタチの花」「この道」等一とき楽し今日は良き日ぞ
 時を忘れ唄声に酔ふ一ときの吾等がテナー藤原義江

平成7年6月号
 花みづき咲く季となり道を行く人が楽しとわれに告げゆく
 やまぼうし、花みずき門冠りの木緑かかげてわが歌となる
 夫の木の今年は房の花をつけ咲き満つる日の切に待たるる
 洋蘭を分けたる五鉢花咲きて友にも贈り喜びとなす
平成7年6月号をもって投稿はない。多分、これ以降、母は歌の投稿を躊躇することがあったのだろう。

礎-いしずえ-

昭和60年の7月、ショートステイに入居したその日、父は熱を出し、併設する病院に、入院してしまった。母は懸命に父が入院する病院に通い、看病した。その入居する前の3月には、待望の内孫が誕生していた。
 父が具合悪くなり始めてより、母は父との全てを忘れまいと、日記を記し始めた。そして昭和61年8月12日、父が亡くなった。日記はしばらく続くが、それは、母の父への思慕と、母の生き苦しさだ。
 そして平成12年12月13日母が没した。この項は、そんな母の記録である。
 遺品を整理していると、無造作に散らかった書類や手紙の中から、母の筆跡のノートがでてきた。読んでみると、記された内容に母の気持ちが込められて、当時それを理解できなかった不甲斐なさ、すまなさもあるが、この記録があったが故、今、母を父を、改めて考える事が出来た。この記録がなければ、時はただ過ぎ去り、今の私に至る私の過去の一部は、埋没していたと思う。
 読み、そして整理していくうちに、公開してみたくなった。父と母の二人を、慕い追慕して、称えて祝福することが、追悼の意味になり、ひいては残された私達の礎になるからと思ったからです。
 そして、親しい人を亡くした同じ思いをしている人たちに捧げたいと思ったのです。さらに、この美しい思いを、いまだ大切な者を亡くしていない貴方に贈る。

礎-いしずえ-

昭和61年8月11日(月)晴れ暑い
 いつものごとく朝が明ける。私は自分の仕事をすませ、家に入り、皆で朝食、テレビを見、片づけものをしていると電話がはいる。NTの声。箱根に一家できているとのこと、Yとも話す。次の電話がかかる。病院からである。
 「ご主人さんの様子がいつもとチョット異なっていて、食事もとらないし、タンが絡まり苦しそう、奥さん、直ぐ来てください。息子さんも一緒に。」
 びっくりてしまう。いそいで病院に行く。主人は、いつもと違う。食事どころか、口から物が入らない。でも、この時は、こんな夜が来るとは、思っていなかった。
 午後から苦しそうで、顔が何となく変わってきた。今夜は病院に泊まらせてもらおう。久しぶりに主人の側で一緒に過ごせる。
 一度家に帰り、支度をして病院に行く。暑い夜である。タンをとってもらうと少し楽になったので、MM、FY、FSさんには帰ってもらう。側のいすをベッドにして、横になる。静かになったと思ったのに、苦しそうな息、のどの奥でゼイゼイと音がする。顔を仰向けにしているが、その目は異う。胸をさすっていながら、何故こんなに苦しまねばならないのかしらと思ひ、たまらない気持ちになる。
 看護婦さんが、「奥さん、お家へ電話して、早く、早く」
 もうお終い。夢を見ているような、時間が流れる。
 「ご免なさい。お父さん。」12時6分。このまま止まって
 家に帰る。今夜は家で、この部屋で、二人で寝ましょう。
 8月12日の真夜中、12時6分、とうとうこの日が来てしまった。

8月20日(水)くもり晴れ
 とうとう一週間の上も時が過ぎてしまった。毎日毎日が何となく過ぎる。主人はもういない。NTが可愛そう。どうぞどうにかして気持ちよく暮らせる日がくるよう。もう私には何とかしてあげようと思っても、手の伸べようがない。

8月21日(木)
 目がさめる。0時30分、こんなに早くさめては困る。灯りを消した。布団の中で目をつむり、頭の中であれこれと思う。下手の考え休むに似たりとか。いつもいつもおろかなことを知らない間に浮かべている。主人は永遠にいってしまった。私は一人となってしまう。よく判っていたけれど、どうにもならないこの現実、早く自分の活かし方を考えねば……。いやいやそんなに急がず、ゆっくり、そのうちに何かをみつけるでしょう。

8月22日(金)くもり晴れ暑し
 鈴木医院へ行く。すがすがしい葬儀でしたと、何度もおっしゃって下さる。皆様よくおやりになりましたねともおっしゃって下さる。血液検査をして下さる。安定剤を頂き、帰りに郵便局で古い通帳の全払いをする。これは私が最初に主人から賜ったものである。もう主人の名前の物は終わりである。息子が掃除をしている。私は孫とこちらにいる。なかなか大変なことである。いろいろあって私は疲れる。頭の中がボーッとして、何とか自分の生き方を考えねば……。

8月24日(日)晴れ暑し
 主人を本堂から金曜日に客間に移したので、客間の掃除をする。孫がづっとそばについていて、遊びながらの仕事。新聞見ていても眠くなるし、どうしてこんなに眠いのでしょう。ただ、毎日が過ぎてゆく。朝夕は大部涼しさを感ずるが、日中はまだまだ暑い。

8月30日(土)
 連日の暑さ、早く涼しくならなければ。私はどうしてよいか判らない。三年有余、病人の主人一筋に暮らして、今、私はどうしてよいか判らない。家のことも、もう私の時代ではない。でも長い間のくせで体が働いてしまう。私自身の生活を持ちたい。

9月5日(金)晴れ
 昨日は35度以上。くらべるといくらか涼しい。主人の死亡通知の手紙を沢山出したので、7人も訪ねて来てくれた。私は一人である。何をどうしてよいやら。夕方、孫娘が刺繍で、学校帰りに来てくれる。

9月10日(水)くもり
 箱根出発。くもりでも丁度さしつかえない。天気、楽しい旅の始まり。久々の箱根旅行。嬉しい。家具健保の保養所は、大変に立派なごうかな御影色の良い場所で快適である。

9月11日(木)くもり
 タクシーにて午後2時過ぎまで箱根各地を廻る。すべて具合良好。夕5時半頃帰宅する。この旅行をさそって下さった方に感謝をする。

9月13日くもり雨
 朝目をさますと、タオルケット一枚では、やや寒く、初めて毛布を使う。でも日中はまだ暑い。

9月14日
 今朝も毛布を掛ける。日中はやや小寒く、袖のある物がほしくなる。夜、床につく時も毛布をかける。

9月20日
 今日から秋の彼岸が始まる。目がさめると朝の2時、困ってしまう。これから6時近くまでの時をすごすことが苦しい。お父さん、助けて。何故こうなったのかしら。
 これから先こんなにして生きていかなければならないのかしら。現実の状態が判り過ぎていて、口から出すことが出来ない。

9月22日(月)
 彼岸の三日目、久しぶりで暑い。主人との別れる日も近くなる。孫が日毎に活発となりだんだんと私には、重荷となってくる。でも愛らしい。

9月23日(火)
 彼岸の中日、昼近くT子、Y子が来くれる。船橋の姉と娘たち4人、お参りにみえる。一日中気持ちよく晴れた。初秋の一日でした。皆さんが主人の死を悔やんで下さる。

9月28日(日)晴れ
 明日の納骨の支度を、息子達がしてくれる。私も手伝う。すっかり座敷の支度を終え、分骨を皆でする。本当は私にはどうしてよいのやら判らない。白い主人のお骨を見て、涙がこみ上げてくる。じっとこらえなければならない。お父さん、さようなら。今までも私があなたに何をしてあげられたのでしょう。又これからさきがある。後の月日、年月をどの様に過ごしたらよいのでしょう。

10月2日(水)晴れ
 日毎に秋らしくなりました。主人もとうとうつめたいお墓の中に入ってしまいました。もうお終いです。昨日は冷たい雨が降り、目地をしていないお墓が気になりました。今日、石屋さんに、電話しましたところ、直ぐに来て目地をとめてくました。……。
 船橋の姉、上の姉から電話がありました。

10月7日(火)
 昨日MさんIさんとご一緒に高島屋に中村先生他の展示会を見に行って、いろいろと見て、又その上食事を「ざくろ」でする。その折りにお二人の手作りのポプリのハンガー、お人形ポケットチーフを頂いて嬉しくなり、気持ちが明るくなった。
 Iさんへお礼の電話を入れる。Wさんよりお返しのお礼の電話あり。S先生へ行っている間のこととて直ぐ折り返して、私から電話を入れる。私のことを心配して、短歌をしつこく進めて下さる。

10月12日(日)
 君逝きて今日二ヶ月目の日をむかふいざ友だちと旅に遊ばむ

10月14日(火)
 宮古国民休暇村で、朝6時目をさます。快晴。この寒さが心地よし。朝食もおいしい。食前に散歩に出る。気持ちよし。
 宮古から特急バスで盛岡に向かう。山を見ながら青い美しい空に浮かぶ雲をながめ、やや紅葉の始まっている木を眺め、楽しいはずなのに、気分が悪くなり、大失敗をしてしまう。皆さん、大変ご心配をかけて申わけなし。タクシーにて小岩井牧場、他に行き、7時30分家に着く。
 駅のホームで息子に会う。ビックリしたり感謝したり、感激、皆さんにお礼を申し上げて、家に帰る。

10月18日(土)晴れ北風強し
 急に季節が早くなり、冬型となる。午後Wさんのお宅におじゃまをする。旅の話等いろいろとして4時頃家にもどる。相変わらず短歌の話が出るが、私にはどうにもならない。
 なかなか夜は寝付かれず、今0時を過ぎる。

11月12日(水)晴れ 室内やや寒し
 11月もなかばとなってしまった。昨日は船橋のF家へ行く。姉は家の中に居る姿のせいか、やっぱり年を取ったと思う。夕方、北風の中を家に着いたのは5時頃。寒さはだんだん近づいてくる。
 スカートで外を歩いていると膝が寒い。今日夕方3時にY整形外科ににけん引に行く。午前中にHYが来る。歌はあいかわらず出来ない。編み物も思うようにはいまない。

11月18日(火)晴れ 予報より暖かい
 お手紙を書くことにしました。
今日はG婦人会で、浅草のビューホテルに、FYと二人ででかける。ここは国際劇場であった場所にできたホテルです。清澄町まで歩いて行き、その後はタクシーで行く。
 全部で6名の顔ぶれ。フランス料理です。28階建で、食事は27階。お父さんの知っている浅草とは随分変わりました。仕方がありません。でもお父さんも連れてきて上げたいと思ひました。

11月19日(水)くもり晴れ
 お金を使いすぎました。先週にコート、今日はスカート、スカーフ等。ごめんなさい。お父さんのお金をこんなに使ってしまって、でも必要な服だったのです。心は満たされないわ、いつまでこれが続くのでしょう。このおろかなる者。

11月21日
 百箇日も過ぎました。私の心の中では未だ思ひが切れません。どうして貴男だけが居ないのかしら、私の住む世界とは異なった土地へ行ってしまいました。今日は指の注射です。とても痛いんです。自分の為にこの手をなおします。

11月23日
 朝4時前に目がさめてしまいました。丈夫で居た日のことのみ思ひ出します。どうぞ帰ってきて。
 何ともなく暮らしていた日が輝いて居たとは知りませんでした。三原山の爆発のニュースで、昨日から大変です。今日も一日、どうにか過ごしてゆかねばなりません。みんな夢です。夢の中の出来事です。流れでゆきます。流されてゆきます。

11月26日雨くもり
 少々もどったり進んだりしながら、寒くなってゆきます。じっとしていると目の中から自然に涙が出てきて困ります。今、芦谷先生とHKさんに年賀欠礼の手紙を書きました。

12月1日
 29日夕方三越劇場へFYの長唄を聞きにゆく。その足で八王子へ行く。やっぱり八王子は寒い。一晩のつもりが二晩となり、大変御馳走になる。6時近く帰る。

12月2日(火)
 初めての編み物の日。FYに連れて行ってもらう。手を痛くしないようがんばりましょう。

12月4日(木)
 三人が湯河原へ昼過ぎ出かけました。家の中で一人になりました。どうしても思ひだしてしまいます。それ思わず涙があふれ出てきます。夜になって、今日夕方石屋さんが亡くなったと電話が入りました。気の毒なことです。又さみしくなってしまいました。

 12月5日(金)
 一人で表から庭の掃除、家の中の掃除、一人の食事を作るのは楽しい仕事でした。湯河原へ出かけて三人は、午後早く1時30分頃帰ってきましたので、Y整形外科へ治療に行き、三回目の指の注射をしてもらいました。今は、夜の11時です。おやすみなさい。

12月9日(火)
 昨日も、一日中温かくよいお天気でした。やっぱりあなたのお姿が見えなくてさみしいわ。一人でお洗濯をして又布団の中に入りました。7日の日に、高橋さんとお電話でお話をしました。あなたのかわりに、孫の歌を詠んだのだそうです。色紙に書いていただきたいと思ひました。元気でいてほしかった。お布団の中にいてもよいのに。明日の朝は、小林、峰尾の姉と三人で温泉に行きます。

12月14日(日)
 朝4時。早く目さめてしまいました。11日から13日にかけて、小林の姉たちと積翠寺温泉に行ってきましたので、昨晩は少々早く床に着きましたので、今朝は3時前にさめたのです。今、お洗濯中です。温泉に9回入ってきました。腰の痛みがとれると嬉しいのですが、中央線の沿線の景色は私にはなつかしいものでした。でも峰尾の姉のおしゃべりは、私にはチョットさみしく思われました。甲府の駅で少々の買い物をしました。帰ると高橋さんより葉書がきていました。誌代受取りやら、私への思ひやりでした。やっぱりお父さんの貴男は遠くへゆき過ぎます。私は一人で困ってしまいます。

12月19日(木)くもり雨
 寒い一日でした。孫は驚く程の成長ぶりです。単語も随分おぼえ、私達の話すことをきいて、まねをします。あなたに見ていただき度いと思ひます。又、夕方に大島に噴火があり、テレビはそのニュースで大変です。

12月25日(木)くもり
 さむくなりました。昨日、森下Sさんよりあなたの大好物のメロンを送って下さいました。早速お供え致しましたが、あんなに好きだったのに、実際にはお口に入らないなんて悲しい。テレビのシルバーシートを見ていました。早くこういふ事を知っていたら、もっともっと上手にお父さんのお世話が出来たのに、くやまれます。

12月31日(水)晴れくもり温かし
 とうとう最後の日がきてしまった。明日から新年。私の心の中はあまり感激は無い。お父さんが居てくれたら。去年の今日は、どの様にしていたのか全然思ひだせない。
 この記念すべき年よ、さようなら。だんだんお父さんと離れて行く。
 毎朝お線香を二本づつ着けてあげているのが判りますか?早くおそばに行き度いから。
 金ぴらごぼう、筑前たき、紅白なます、これだけのものを作りました。今、紅白歌合戦を見ています。どんな来年がくるのでしょう。
 今日、八王子の戸井田さんから贈り物を頂きました。本当にすまないことと思って居ります。
 ぼうぼうとただぼうぼうと君の居ない道は五里霧中

昭和62年1月20日(水)晴れ暖かし
 一月もとうとうこんなにたってしまいました。二十日の晩はよく眠ることが出来ずに居りましたので、安定剤を飲みましたら、明け方うとうとしまして夢の中に居りました。お父さんに自転車に乗せてもらっているのです。前にのっているのでしょうか?
 あなたのお顔は見ることは出来ません。どうしてなのでしょう。お別れしてから初めての夢の出会いですのに。
帰る家が見つからないで、二人であっちこっちと自転車でさがしましたが、とうとう見つかりませんでした。六時頃目がさめてしまいました。また、お目にかかりたいのです。
 今日、私は六十八歳の誕生日を迎えました。一人ではあまりにもさみしい。忘れないうちに夢のことを書いておきたかったのです。ノートを買いたくても、何となく買えなかったのです。このノートを二三日前に、眞幸にもらいました。

2月3日(火)節分、雪くもり時々晴れ
 早いものでとうとう二月になってしまいました。一月三十日にNTの家に泊まりに行き、一日に(日)に帰ってきました。NYはとても大人らしく、落ちついて良い娘となりました。あなたに見てもらい度いものです。真人ももう直ぐ二才になります。男の子らしく体をよく動かし、とてもオイタで楽しいやら、たのもしいやら困るやら……。
 子供というものは、すばらしいものです。
今日、古田さんから、お志を送って下さいました。パレンバンの時代がなつかしく、終戦直後に八王子の家にお見えになった日のことが思い出されます。随分と長い月日、いやいや年月がたったものです。お父さんのこと、驚いていらっしゃいました。
沃野の二月号が送られてきました。私も歌を作り度いのですが、何と云うことでしょう、一寸もうかんでまいりません。よほど才能が無いのですね。字が書けるようになり歌が作れる様になりましたら最高です。どうぞ力をかして下さい。お願いです。
 編み物は楽しくて、これだけは有りがたいと思っています。もう少し自由がほしいと思います。

2月8日(日) 午前1時10分
 なかなか寝付かれません。推理小説も読み上げてしまったし、沃野二月号もぱらぱらと見たし、本当に困ったことです。お手紙をかきます。
 四日の午前中から左の腰が痛くて、体がまがりません。前にこごむことも、トイレで紙を使うことも不自由。何をしても面白くなく、それより明日の築地の本願寺の法要に行かれなくなりそうと思って居りましたら、五日の日は、朝起きることも着る物も出来ず、大変な日になりました。朝の中におとなりのハリ医に行きましたが痛みはとれません。葉子にかわって行ってもらいました。本当に残念でなりませんでした。
 今日はいくらか楽になり、よかったと思っています。ハリ医に当分通うようになるでしょう。家の者の迷惑になりたくないと思ってもどうにもなりません。娘達も心配して電話をかけてきたりしてくれます。
早くお父さんと一緒になり度く思っていても、なかなか大変なことです。これだけの痛さでどうにもならなくなってしまうのですもの、おそばに行くには並大抵ではなさそうです。何の楽しみがあるのでしょうね。
 今、一時二十五分です、もうお休みなさい。
 午前一時 なき夫につげむと手紙書き 今静かなる寝につかむとす
 何も彼も 運命と思ひみとりたる夫がまなざし 今も我が目にうち
 君送り 別れより早や一年の廻りきぬ あの炎暑の日が 遠くかなしき

2月26日(木)北風強く寒し
今年の冬は、私にとっては殊のほか、寒くてなりません。その上、腰は痛いし真っ赤な下血があります。騒ぐほどのことではないと思いますが一寸心配です。編み物の川奈先生のお宅に午前は行きました。スカートをはいてゆきましたら、厚いタイツをはいて居るのに何てお寒いのでしょう。午後久しぶりで福島の義姉より電話をもらい一寸長くお話をしました。つくづく年をとることがいやになりました。
 眞幸が面白い本を買ってきたので、それをづっと読んで居ましたが、五冊とも終わってしまいさみしくなりました。今、十一時を少し過ぎました。
三月一日晴れていても寒い
 お父さん。今日は腰の調子が大変良くなりました。でも午前にハリ、午後けん引にゆきました。
 この頃いつも迷っています。あなたの居ないこの家は、私はさみしい。でも何処へ行ったっておなじことでしょうね。八王子へいっそ行ってしまおうかしなどと、でもこの先私がどんな老後がくるのか?
 それを謙がえるとうっかり口に出すことも出来ないし、心の中で今こんなことばかり思っております。
 今日、息子が別府へ出かけました。南禅寺の同窓会です。明日の夕方はもどります。

3月30日くもり晴れ
 大部暖かくなってきました。季のうつり変わりというのは、お寒い日が来たり、今日は暖かいなどといふ日が来たりしながら、いつのまにかすこしずつ暖かくなるものです。ジャケットさえ暑いのがうっとうしくなりました。でも夕方は北風がけっこう強いのです。
 東京駅へ京都行きの切符を二枚に買い換えに行ってきました。一人で切符を買うことが出来るようになりました。その足で吉祥寺まで行きスカートの直しを頼み伊勢丹をぶらぶらしてきました。ほしいものばかりなのはどうしたことでしょう。この年になるのに……、パジャマとパンティーを二枚買ってきました。電車で家へ帰るのにも、あなたの待っていらっしゃらないことを思うと、どこへも帰ることが出来ません。涙が出てしまいます。東京駅でいつかコーヒーを一緒に飲んだ店を見ました。一人で行って飲むのもさみしく思ひ、又九段下で電車を降りて千鳥が淵の桜見に行きたいと思ひました。一人といふことは何処へ行ってもさみしいことばかりです。
 今、十一時二十分過ぎです。おやすみなさい。

4月11日(土)晴れくもり
 今日はお寒い一日でした。私は昨日(十日)に京都妙心寺へあなたの法要にNTと来ました。高いお佛だんの上で陽岳寺宗直和尚と読み上げたのをはっきり聞いてきました。
 本当に遠い処に行ってしまったのですね。でもその後、NTと二人で京都見物をすることが出来、夜は大そう立派なプリンスホテルで宿り幸せに過ごしました。一夜明け、今日もその続きです。本当にお父さん、有り難うございました。
 NTとの二人旅も初めてで嬉しうございました。
 二日とも雨も降らず花盛りの京都を楽しむことが出来、その上京都御所も拝観でき、帰りの新幹線の中から折りよく富士山の姿がよく見えてずっと以前のことを思い出し、なつかしく禎子と話しました。家に着いたのは五時四十五分頃でした。

4月23日(木)
 十九日~二十一日と、第四のクラス会で総勢十人で、伊勢神宮から紀伊勝浦へ行ってきました。三日間心配としていた雨も降らず暖かくむしろ暑ささえ感じるくらいでした。貴男の行きたいと云っていらっしゃった海岸渡寺へも参詣することが出来ました。ご一緒ならどんなに嬉しかったことでしょう。でもこの段々ではとてもむずかしいと思ひ乍ら一歩一歩のぼりました。有賀さんにお願ひをして写真をとってもらいました。初めての紀州路は、それは美しく楽しうございました。
 二日目から眼のはずれにいつも蚊がとんでいるようで、気になりましたので、今日野口眼科へ行ってきました。先生に「網膜剥離」で殊によると手術をしなくてはならないと云われ、ああと思ひましたが、早く体が終わればおそばに行かれると思ひました。でも結果は老いの為に「網膜」にたるみが出来て、その影が蚊の様に、見えるといふことです。
 つくづく老いはせまるつつあると思ひました。遊んで歩いたのでつかれが出たのでしょう。血圧は百六でした。

4月30日(木)晴れ暖かくよい日和り
 今日で五日間風邪の引きっぱなし。お風呂もずっと入りません。いえ入れません。本当にゆううつ。
 NTいわく「お母さんどうしてこんなに弱くなったの」ですって。鈴木先生と野口眼科とにお薬をもらってくる。内孫も私のがうつったのかしら、この方のお薬ももらってくる。眼の方はまだ暗闇のなかに金色の稲妻が見える。今夜久しぶりでお風呂に入る。もう風邪とは縁切りとしたい。

5月5日---
 八王子へ行ってきます。NY・NMと三人で五晩一緒にくらしてきます。何となく楽しくなってきました。二人ともとても良い子供です。夕食にハンバーグと南瓜の煮物を作りましたら、大喜びでした。買い物もNYと二人で行き、楽しうございました。久しぶりでくらす八王子の家は、この家とは異なり静かで、つくづくこの家で活していたらと思いました。

5月10日
 朝食の支度も嬉しく今日でこの娘たちとの生活も終わりです。洗濯をすませるとNMがミルクコーヒー、自分製の蒸しパンで、お十時のお茶をしてくれました。何と幸せでしょう。

5月11日
 雨が少なくお水が足りそうもないとニュースで申して居りました。困ったことにならねばよいと思ひます。朝七時頃若い人三人は蓼科高原へ出かけてゆきました。一人で掃除をしたり、井上さん等三人にお茶を出したり、お参りのお客さんの応対をしたり、なかなかいそがしいうございます。久しぶりで夕方、指圧をしてもらいました。もうこれからは無理をしないでくらしましょう。夜の一人はくらしは、一寸だけさみしいと思ひます。

5月14日 朝
 昨夜は、おなかの中がきれいになることが出来て、これは幸せです。いつもこんなだと嬉しいのに---。
 それにしても、何もしないでいると直ぐに居眠りが出て、どうしようも無いほどみっともなくて困ります。今朝は久しぶりに雨が降って居ります。心の中もしっとりとする思ひです。
 おじいちゃん。貴男の居ないことは、私はさみしい。私達の建てた家なのに、この家すらこんなに、私にとっては変わってしまったのです。
 風邪の後遺症もようやくおさまった様です。体の調子を良く保ってゆくことはなかなかむずかしいことです。おじいちゃん、何故逝ってしまったの。

5月16日 四十七回目の結婚記念日
 昨年は、あなたは病院のベットの中で迎えましたね。今年は初めて私一人さみしく、くらしました。
 その日のことを語る人もなく、心の中で思い出をたどりました。私は黒地に菊の花を染めた、お気に入りの着物を着ていました。夢の様に月日は過ぎてゆきます。この先まだまだ一人で、この日を迎えなくてはならないなんて、いやです。
 今毎日をどの様に自分に納得がいく様にして過ごしてゆく方法がほしいのです。ただ毎朝、目さめて、食事をして、何となく心にもなく一日が過ぎてゆくのです。私一人の為に考えましょう。
 我が胸の内なるくさりはなちたし 夫逝きし後の一人旅ゆえ

6月16日 晴れ涼しい
 おぢいちゃん、今テレビを見ていました。隅田川をバスで川上より相生橋までの旅でした。
 いつか二人で歩きました待乳山やら人形町、川のふちを見たり、又行ってみたいと思って居りました。江東区の水上バスで見物をしている処を見ました。又一緒に行きたいですね。この頃右の足と膝が痛みます。歩けるでしょうか。今夜十一時です。一人で居ります。皆寝てしまいました。私もやすみます。

7月18日 朝五時
 毎日毎日、くる日もくる日も、思って居ります。あなたの居ないこの日々のむなしさを。
 お盆を迎えて灯をたきました。いそがしい時はまぎれますが、あなたは家に帰ってきて下さったのですか。待って居りましたのに。
 お盆にお檀家のSKさん、KKさんからお金を、MGさんから又FY・NYからお盆提灯をもらいました。提灯はきれいにくるくると廻りました。

8月7日 くもり むし暑い
 沃野八月号、特別企画の主人の追悼号を五冊送ってきました。うれしいやら、やっぱり悲しい。ちょっぴり変な気持ちになりました。
 皆さんは私の知らないあなたのことを沢山書いてくださいました。もっともっと、いろいろのことをお聞きしておけばよかったと思ひで、さみしくなりました。
 生きているのが何のカチも無い様な気持ちで、体の中から力がぬけてゆきそう。もう涙も出ない様になりました。どうぞ夢の中ででも、お会い出来ないものでしょうか。
 高橋さんへ早速下手な手紙を書き、一万円を現金書留で送るようにしました。
 十二時も過ぎました。

8月30日 日
 おじいちゃん、昨日も暑かった。私はこの暑いのがとってもいやです。早く少しでも涼しくなってほしいわ。昨日は鈴木先生のご主人の告別式でした。やっぱりあなたと同じ暑い八月です。先生は一人になってしまわれました。いくら立派なお仕事をお持ちでも、どんなにおさみしいことでしょうね。こうして女ばかり残ってしまいます。私もまだまださみしいです。
 この気持ちは私が生きている間は、どうにもならないでしょうね。
 夫逝きし又八月は廻りきぬ こころあせれどしのびよる老い
 夫の君を送りて先生一人となり給う 同じ八月同じ暑き日

9月1日
 今朝四時、目がさめました。トイレに行き、又お布団の中に入りますと、うとうととして眠ってしまったのかしら。どこの病院なのでしょうか。何で四中(父の努めていた中学校)の話になったのでしょうか?新しく出来た四中をおじいちゃんに見せてあげましょうといふ事になりました。
 誰かが自動車にのせてくれました。
「お父さん、よかったわね」
 手を取り身体をささえて、四中の家庭科の実習のようでした。それを見て帰ろうとして、二人で身体を寄せ合い乍ら歩きました。出る時に私の不注意で、上に着る物を充分に持ってこなかったので、寒くはないかしらと心配をしながら歩きました。でもお父さんはよく歩ってくれました。
 誰か知らないが、たしか知っている人の様な気がしました。声をかけて下さるんです。嬉しうございました。どうも車をさがしたのに、どこに居るのか判りません。愛子さんと野矢さんと、も一人誰かです。
「八重子さんじゃない」と、声をかけてくれました。それまでで、目がさめてしまいました。
「嬉しかったわ」、おじいちゃんに会うことが出来て。
「又、お会いしましょうね」、あのまま醒めなければよかったのに。
又、今日も遠のいた台風上がりの暑さの日が続きます。とうとう暑い暑い、八月ともお別れです。

9月23日 朝
 おじいちゃん、十九日(土)にUH先生の奥様が、お墓参りをして下さいました。八十六歳の奥様にお参りをして頂くなんて嬉しいのですが、さみしく思います。おみ足も元気で本当にすばらしいことです。内孫もよく見て頂きました。
 重いブドーを沢山頂きましたが、あなたには召し上がって頂けなくて本当に残念です。ご親戚のお墓参りも一緒にさせて頂きました。三好町の円通寺さんです。
 駅までの道を歩き乍ら、お話を致しました。
「時々はこうして、お話をしなくては」と、おっしゃって下さいました。東亜でコーヒーを御馳走になってしまいました。
 昨日、可愛らしい箸袋やら紙人形を送って下さいました。
あなたのおかげで、この様なおつき合いが出来ましたこと嬉しうございました。(この箸袋他は、多田さんの作られた品だそうです)
 九月十二日にも東京歌会にも初めて行くことが出来ました。歌会といふのも初めての経験です。皆さん次々と指名されて、熱心に意見をのべていらっしゃいました。
 今日は入りの日ように次いで大勢のお参りがありました。その中に坂入さま、Uよし子様もお参りをして下さいました。あなたのお墓の前は、お線香とお花でいっぱいになりました。嬉しうございました。

9月26日 雨晴れ
 時々強い雨と風が吹き付けます。部屋で机を出して、新聞をゆっくり読みました。この様な形で落ち着いて何かをしようかしら。どうにかして自分のくらしを持ち度いのです。
 嫁が内孫を寝かせる為に布団をしいて一緒に横になりました。寝ないで立ち上がってしまいましたので、「二かいで寝かせなさい」と申しますと、「どうも失礼致しました」と、二階に行ってしまいましたが、そのうち又内孫をだいて「ここがいいんですって」と云います。
「二階で寝るようにしつけてね」と、云いました。私の出発です。

10月18日 晴れ気温高し
 おじいちゃん、今日、秋の台風が、日本中を吹き荒らして北海道に去ってゆき、その余波で随分と暑うございます。
 小林の父の五十回忌、母の二十三回忌でした。二十四、五名ぐらいの人の集ひです。大そうにぎやかでございました。父のことを会ったこともない人々(孫・ひこ)が多く、遠い昔のことになりました。その頃のことなど語り合い、涙を流してしまいました。皆といろいろのことを話すということは、本当に楽しいことです。極楽寺さんの和尚様も九十歳の上と聞き、その唱えるお経に又涙を流してしまいました。帰らぬ昔がなつかしく娘時代のもどってきたさっかくにとらわれました。
 NYの家のザクロが、今年は大豊作です。甘い実が、それは沢山に成り、小林の家に帰りましてからのお茶席で、皆さんに喜ばれました。皆それぞれに持って帰られました。
 私が、家に帰りましたのは夕方六時でした。KYちゃんの車で、家まで送って頂きました。これで父の忌も最後となるのでしょうね。良平さんの家がお家賃一万八千円で空いているのだそうです。そこで一人で住んでみたいと思ひます。そんな事を話しましたら、禎子に怒られてしまいました。思ふ様にはならないものですね。

11月22日 書く
 九月十二日、十月十日、沃野の東京歌会に行きました。UH夫人。三輪さんからのお誘いのお電話でした。皆さんとても喜んで下さいました。
 大へん恥ずかしいですが、とても面白くて嬉しくなりました。十一月の会は十四日ですが、三輪さんか歌を出すとよいと又お電話です。思ひ切って恥をしのんで書いて葉書を送りました。当日は胸がどきどき致し、落ち着きません。
 花見せぬ金木犀と語り居り 翌朝に咲く花のマジック
 あなたがいらっしゃたらどんなにねげくでしょう。ご免なさい。これからは自分の道と思い、出来るかぎり、つくってゆきたいと思ひます。

12月18日
 大きな地震です。十七日の編み物の先生のお宅で十一時八分、まあ本当におどろきました。大へんに揺れました。そしてもう治まるかしらと思っているのになかなか鎮まりません。どんなことになるのかしらと思って居りました。すぐラジオをかけて下さいましたので、大へんなことです。震度四といふことですが実際には、五ぐらいではないでしょうか。小さいときに体験した大震災の時以来です。でも何事も無くてよろしうございました。
 その間、頭の中がずっとゆれていて目まひの様な状態でした。千葉県の東部が強かったようです。
 歌ってなかなか出来ません。朝、外の掃除の時は、考えるよい時間なのです。ポケットに手帳を入れておくことにしました。直ぐに書き付けないと忘れてしまいます。小林周子さんもおっしゃっていらっしゃいましたが、十二日の東京歌会で、山本かね子さんが、主人は「私の家内は、センスがよいのだ」と、云っていたとか、困ってしまいます。何故どうしてそんな事を云ったのか、恥ずかしい。

 歌のセンスなき妻の悲あいはきわまれり 亡夫(つま)と会ふ日の語り草となさん
 煩落ちず目見澄みてゐる宗直よ 語らひ酌む日を疑はず待つ
 白沢を解って呉れよと衝き上ぐる思を耐へて咫尺(しせき)に対す
 妻やさしく息夫婦やさしく脇へ侍る ふとよぎる妬み心すまなし
 由緒ある寺の住職息に継がせ 満ち足らへるを病が冒す
 妻持たぬ頃よりぞいさかひし無く六十年 この仲合(なから)を絶たれてなるか
 直る直ると呟き帰る深川の巷は 寒き春初め風

 母が亡くなったのは、平成12年12月14日です。今思うと、12日だったら、トリプル12だなんて、思ったりするが、31日でも、1月1日でも、数字自身には、はじめから意味はない。意味が付くのは、いつも後からです。赤穂浪士の討ち入りの日と同じだけれど、旧暦と新暦では違うのだろう。
私は、檀家に不幸があると、陽岳寺仏事心得なるものを、渡すことにしています。世代間の仏事の伝承を少しでも手助けするためでもありますが、実際は、寺にとってもそのことが経済基盤を成り立たせることでもあるからです。実際は、寺が無くなってしまえば、困るのはそこを利用する契約者(檀家)だからです。その意味では、各自が最小限の負担によって寺を維持することが、より最良の方法なのですが、誰かが怠れば、誰かに負担が掛かっていることでもあるのですが、怠った人は、眼中にないことでもあります。

 前述の陽岳寺仏事心得の『喪』を、抜粋してみました。
 《『喪』とは、亡くなった方を想い、世の中のつきあい(特に祝い事)を避けて、身を慎むことです。
 『喪』には、二つの意味があります。自分の心構えとしての『追悼』と、外へ『忌を及ぼさない』という他人への配慮です。
 では、『喪』の期間はいつまでなのでしょうか。
 理論的には一生の期間です。これは『追悼』という家の中のこととしてはよいのですが、家の外に対しては実際的ではありません。実生活ではきまりがないと困ります。しかし、実のところ喪中の基準・定説はありません。もっぱら、その土地の風習、その家の習慣にならうばかりです。時代によって変化もしました。

 対外的な『喪中の期間』について考えてみます。現代では四十九日、あるいは納骨までを『厳守すべき喪の期間』とし、後ははじめてのお盆過ぎ迄か、初めてのお正月過ぎ迄のどちらか長い方、あるいは、一周忌までを『穏やかな喪の期間』と考え、実生活に対処されているのが大方のようです。これが一般的ではないでしょうか。ですから、祝い事は内々ですませ、翌年の年賀は欠礼(年末早めに欠礼の通知を出す)するのが通例です。
 祝い事は内々ですませ、ということは内々ならば祝い事をしても良いということです。年賀は欠礼、ということは、他に対してであって、家内の正月の祝い事まで止めることはありません。このように、内なる喪中と外なる喪中とを 分ける必要もあります。

 年賀欠礼の通知を出したのに賀状が来た、と怒る人がいますが、これは怒る方が間違いです。喪中の欠礼通知とは、自らの忌を他へ及ぼさないようにと、自分の行動を律することであって他人の行動を制限するものではありません。
 あるいは、他人の祝い事へ顔を出すことで祝い事に気まずい雰囲気をつくるような事態を避けようという気配りなのです。実際の話、昨日お葬式を出した人が婚礼に見えたとき、婚礼の主宰者はどう挨拶をしたらいいのか困惑します。
 では、その結婚式や披露宴のように前々から予定が決まっているような祝い事はどうするのかです。
 まず自分の家の場合ですが、喪の期間中のいつに当たるかにもよりますが、言い訳をしながら実行してしまう『生活の智慧』とでも云うべき対処方もあります。しかし、これは一方法であって、全てに当てはまる普遍性は持ち得ません。その時に遭遇したら、当事者が関係者と熟考を重ね、一番良い対処方を模索する以外に答えはありません。
 他家の場合は、前もって主宰者へ欠席すべきかを聞くのが丁寧でしょう。》

 自分で、上記のように綴ったくせに、私は、今年、結婚式に呼ばれて、2回祝辞を述べ、4回結婚式で乾杯をいたしました。「おめでとうございます」の言葉に、母や父は笑っていたことでしょうし、祝辞の中で、母のことを話して涙を誘ったり、8月には、町会子供御輿の先導を引き受けたり、考えてみれば、まったく喪にひたることなく、過ごしてきたと言えるのです。ですが、それも私にとっては、喪なのでした。お祝いの言葉に、乾杯の発声に、母のことを忘れていたと言うことではなく、実は反対に、いつも母の姿や顔、思い出が脳裏に出入りして、ひょっとして、逆に、脳裏から母を追い出そうとしているかのように、「独りぼっちになってしまった」という意識が強く覆うのでした。

 父を亡くしたときの時とは、大きく違っていた。父の時は、それは私も哀しみを持ったが、長く連れ添った母の哀しみを軽くすることで、癒すことで、私の喪失体験は希薄になっていたと思う。だが、その母をも亡くす意味は、二人ともいなくなってしまった実感が、ほっぽり出されたような、そこに父の思いも新に加わって、やりきれない思いに、未だに打ちひしがれて、早く普通に戻らなければと思うのですが、その時、新しい普通を作らなければと思うものの、出来ない私の普通であったのです。

 子供は、「お父さん少し飲み過ぎじゃないの!」と心配し、声を掛けてくれるのですが、止まらないことに「悪い、一年間、時間をくれ!」と、それは、やがて依存症のように、外に出なければいられないように、彷徨っていることに気が付きました。親が子を長い間見守る力は、親の存在が無くなった時、大きくその重みを感じたのでした。そして、一周忌まではと思っていた一年間は、喪に服していなければならない一年だと、気が付いたのです。
 喪の大切さに気が付いたのは、その時でした。喪に服するとは、衣服を着るように自ら着なければ、喪家の狗のように、やせ衰えて見るも無惨に身を滅ぼすもとなのだと、喪って怖いものだなと、体験して始めて知ることでした。葬式の葬が、遺体をほうむり去ることなら、喪はなくすことです。人が真剣に生きていれば生きているほど、人を亡くすことによって、多くのものを、また、なくすのです。

 法事は、自分の所も含めて、数多く経験しているものの、母の一周忌は格別なものがあります。それは何か母と会えるような、七夕の出会いのような気持ちになるのは不思議です。こんな気持ちを、私は知らなかったし、これからも幾度となく行う法事に対して、新しい視点をくれた、母や父を嬉しく思う。
 お寺に親しく接するそれぞれの施主が、同じ思いを懐いていたことを、同じ土俵の上にのれたみたいな気がします。この5月に、私の先輩のご婦人である山本恵子さんの一周忌があった。恵子さんの遺した沢山の絵手紙を拝見したときも、この人の心に触れて、自分が目を開かされた。どうして亡くなった人からこんなにも学ぶのか。私が執り行った葬儀でも、亡くなった者を理解しようとすればするほど、その生き様が私を生かしてくれるように思える。私が生かされれば、亡くなった多くの人たちもまた生かされると思います。

 もうじき、一周年の喪が明ける。亡くしたものは、もう一生帰って来ないことからすれば、これからも喪ははずれないことになる。逆に喪を大事することが、縁起をかつぐことになるです。

離魂(平成19年8月25日)

離魂(りこん)(平成19年8月25日)

 これから記す物語は、中国の古いお話です。五祖法演(ごそほうえん)禅師という方が、この話を持ち出して、「張家にいる倩女(せんじよ)と、王宙(おうちゆう)と共に過ごす倩女、さてどちらが本物の倩女だろうか?」という問題を投げかけています。

 《 昔、中国の清河(せいが)というところに、張(ちよう)という姓の一家が暮らしていました。そのあるじ鑑(かん)には、娘が二人いましたが、その末の娘は、倩(せん)という名前でした。とても気だてがよく、美しい娘でしたので、父は上の娘ともども、いたわり、こよなく愛したのでした。
 父の遠い親戚に、王宙という若者がいて、倩も幼かった頃より慕っておりましたので、大人になったら倩を王宙に嫁がせることが、張家と王家のあいだで自然に決まっていたのでした。もちろん、若者も娘も、お互いに望んでいたことでした。
 ところが、倩が成人すると、彼女の美しさや、教養が評判になってきました。すると縁談の申し込みもふえるようになりました。やがて娘の父は、王宙との縁談を惜しむようになったそうです。王宙よりも、もっともっと政府のえらい人で、大事な役目に就いている男に嫁がせたいと思ったのでした。

 父親の心の変化に、娘が気づくと、とても気が重くなりました。王宙に、父親の変化と、王宙への思いがつのることを告げたのです。告げられた王宙は悩み苦しみ、思い切って二人して、都に行って住もうと誘い、二人は駆け落ちすることを決めたのでした。
 決行の日時と場所を決めました。ある日の夜のことです。倩は一人村里から離れて山間に隠れました。そこに、同じように王宙も自宅から忍び抜け出て、山間にいたると、倩の名を呼びました。倩も追っ手に見つかりはしなかと潜んでいましたが、王宙の声に、「ここです」と、ささやきました。王宙も、「倩か?」と声をかけたのでした。

 落ち合った二人は、そこからは舟で身を隠しながらも、ようやく蜀(しよく)の国に着いたのでした。二人は、五年という歳月、幸せに過ごしたと云うことでした。
 五年の歳月は、穏やかな暮らしの二人でしたが、自分たち二人の幸せを思うと、故郷の父や母を想い出します。会いたい想いは二人をおおい、故郷を訪ねることを決めました。
 出て行った通りに同じ道を、二人は河を舟で故郷、清河に着きました。舟に妻である倩を残して、王宙は、独り倩の家、張家を訪ね、父・張鑑に今までのことをつぶさに話し、今までのことを謝り、許しを請うたのでした。
 倩の父は、「私の娘は、五年前のあの日より、ずっと家の奥にある娘の寝室に、病んで眠っている。これは何ということだ」と、驚いたのでした。そこで、王宙は、舟に倩を待たせていることを告げると、すぐさま、父は人を使いに出して確かめたのでした。やがて使い人が帰ってくると、張鑑(ちようかん)に、娘・倩が舟に待っていることを告げたのでした。
 すると驚いたことに、寝室に病で眠り続けていた倩が、ベッドから突然起き上がって喜んだということでした。その時、忽然と舟の中の倩が、姿を消したことは云うまでもないことです。 》
 
 今年の夏は、空梅雨で暑いと聞かされたのが五月・六月、しかしよくもまあ~雨が降った七月でした。これでは冷夏と思っていたところ、今度は暑いこと暑いこと、いつまで続くのだろうか。
 そんな暑い日の八月半ばを過ぎて、訃報が伝わってまいりました。亡くなった彼は、高校時代の友人でもあり、一緒に電車で通学した六名の仲間でもありました。奥さんから告げられた、「ずいぶんと姿形が変わってしまいましたが、向井さんに、会わせたかった」との言葉に、彼と会ったのが、訃報を貰って、二日後でした。

 自宅に眠っている彼の姿は、とても五十八歳とは思えない、変わり果てた姿でした。痩せこけ、フサフサだった髪の毛はまばらに白髪になり、はるかに年齢を加えて到った彼でした。読経の後、奥さんに「これが彼の本当の姿だったのでしょうか」と、私の見たこともない彼となってしまったことに、枕元で奥さんが話します。
 昨年九月に父親の四十九日忌をし、夫婦二人で検診をしたところ、癌が見つかり、リンパに転移していて、すでに手遅れと診断されたこと。築地の癌研に六月まで通院していたが、六月以降は処置を施すことを断念して自宅療養していたこと。築地まで通っていたので、向井さんがすぐ近くなので、何度も、寄っていかないかと話したのですが、彼はガンとして首を縦に振らなかっ
たこと。二人で最後の温泉旅行に彼が運転して伊豆に行ったこと。父の五年という看護に疲れ果
てていたこと。
 話しを聞いているとき、お母さんが亡くなった原因は自殺だったこと思い出し話すと、「朝五時半に散歩に行くと言って老いた父に声をかけたのが、最後の母の言葉で、自宅物置で首を吊っていた母を発見し、その母を抱きかかえて綱から降ろしたのも彼だったのです」と話す奥さんの言葉に、彼を見つめていた。「あれからです。主人が変わってしまったのは。それでも、主人は家族に心配をかけられないと、本当に、亡くなる直前まで、独りでいろんな整理をしていました。主人がいなくなると、私は、何もわからないことばかりで……。」

 気がつくと、すでに大人となった息子と娘が、二人の会話を聞いていた。私は、高校時代電車通学に一緒だった友人たちは、6名いたのですが、これで3人が亡くなってしまったことで、共有していたはずの思い出が、私一人のモノとなってしまったことを、何も言わない彼を見て思っていた。
 お通夜に弔問するからと、彼の家族に挨拶し、家を後にした私は、私の故郷でもある変わってしまったこの町を後にして、電車に乗った。電車から移り変わる窓の外の流れに、ふと思い出したのは、倩女と王宙の物語に、五祖法演が突きつけてくる、魂の無くなった彼の肉体と、離れていった彼の魂のことでした。
 幼かった頃、あの町で、母の親戚の葬儀に連れられて行ったことです。火葬場で「おじちゃんはすごいな、真っ赤になって、燃えている!」と、驚きと恐れに、母の手を強く握りしめていたことを、成人して母によく言われたことを思いだしていました。「人はああして真っ赤になって、どこか遠くに逝くのだな」と。幼心にたたき込んだ記憶は、倩女離魂(せんじよりこん)の話しに、人は死して何かしらの、言葉ではいえないものとなって旅だってゆく光景に重なります。

 ものを言わぬ彼を前にして、「魂魄(こんぱく)は肉身を離れることを得ず。肉身は魂魄を離れることを得ず。故に云う、肉身と魂魄と一如不二。何が故に是の如くなる。正法元来不思議無し。倩女と離魂と、等閑(とうかん)に他に随い去る。如今一如に帰す、忘却す来時の路(みち)」が、立ちふさがります。真実を見るためには、目前の事実になりきることだと、古人の言葉が耀きます。
 さらに、「情(じよう)を越え見(けん)を離る、縛(ばく)を去り粘(ねん)を解く」と、この公案に関して古人の言葉は厳しく、現実の語る内容に、迫りくる彼の姿が浮かびます。

 この物語を突きつける五祖法演禅師の境界は、「鉄製の木が花を咲かせた」と、五祖を褒め称えるのか、その働きは、「真っ黒な崑崙山が大空を走った」と詩(うた)っています。元来、倩女離魂は有り得ない話しです。そのあり得ない話しに、あえて花を咲かせようと考える、そんな人間をあざ笑う五祖法演禅師でもあります。没蹤跡(もつしようせき)(足跡を残さない)となってしまった彼を崑
崙山に見立て、真っ黒な大きな山が、漆黒な夜空を走っている姿は、離魂となっても、肉身と魂魄一如となっても、うかがい知れないものです。昔を語れあえる現身の一人が居なくなった。
 電車の椅子に腰掛けながらも、「忘却す来時の路」が、三十年来の映像となって頭の中によぎり、見知らぬ彼となった佇まいに、どちらが本物の彼かと、窓の外をうつろに眺めていたのでした。ふと気がつくと、来た道を戻って帰ることに、「忘却す来時の路」が、これでは、没蹤跡とは正反対の、足跡だけが頼りのように思え、現実が心という世界の中に取り込まれて、更にふくらみ続けます。これからも寂しさや懐かしさが訪れる来た路を歩むだろう。


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