目次
輝いている時
夢中(ゆめのなか)
芝浜
江戸っ子
亀住町(平成13年7月1日)
モンセ・ワトキンス~夢のゆくえ~(平成14年1月3日)
新牌開眼
英霊(平成17年5月23日)
目覚め
よわい「齢」
また始めたらよい
三大聖樹(平成19年4月17日)
滅度(平成19年9月18日)
安住の地(平成20年11月15日)
心眼(平成22年3月1日)
とかくこの世は
とかくこの世は
祈り(平成17年11月29日)
品位(平成18年1月20日)
ニャンニーシンズ(平成18年3月1日)
鍵(平成18年4月25日)
チベット(平成20年5月1日)
SYOHOU
諸法
四十四の問い~ミヒャエル・エンデ
先ゆく輩
さき行く輩
祖師年譜
ダルマ
慧可
五洩霊黙和尚
石鞏慧蔵禅師
大珠慧海禅師
西川の黄三郎
馬祖道一禅師(馬大師)
五百生 百丈和尚
大梅山法常(752-839)
麻谷山宝徹禅師(平成12年1月27日)
鎮州普化(ふけ)和尚
寒山・拾得
虹の彼方に
ヘイヴン・ペックの場合―続貧しいけれど、豊かだった―
生前葬
平和を我らにーGIVE PEACE A CHANCE(平成13年10月31日)
ソクラテスとヤージャニダッタ
蓮(平成14年6月2日)
心-KOKORO(平成14年6月25日)
独り暮らし(平成15年4月12日)
老いが、咲いていた!(平成16年7月5日)
深濱-fukahama
死に顔
松山鏡(ソクラレストとヤージャニダッタの続き)
真ん中(平成20年4月1日)
百万回いきたネコ(平成21年1月1日)
夜来る鳥(平成21年1月1日)
だいじょうぶ、だいじょうぶ(平成21年2月1日)
無常への帰依
無常への帰依
希望(平成12年1月2日)
葬式坊主
泥棒
赤とんぼ
老い
……ロス
後姿
寿陵
ついで参り
目標
六道を行く
もの言わぬ羅漢達…揀択をこえて…
宮本武蔵
五合庵断章(平成10年10月17日)
K子さん!(平成12年7月19日)
今は昔
十一面観世音菩薩
尽七日忌(平成19年5月1日)
OSYOU
OSYOU
この手のひらに―禅僧の死―(平成10年11月18日)
戒(平成10年7月25日)
幽霊
みんな仏教徒(平成10年5月27日)
最後の晩餐(平成10年5月23日)
禅問答(平成10年5月31日)
分銅
天国は汝ら自身に宿る(平成10年11月24日)
宗派
穢れ(平成12年8月30日)
お彼岸
仏心
仏心
ご祈祷
施餓鬼会にて(平成17年5月28日)
永遠の命
輪廻する葦(平成10年5月27日)
連鎖する命(平成10年6月2日)
涅槃(平成10年8月12日)
鏡(平成10年7月25日加筆)
流星
TAO(平成11年1月3日)
四大
挨拶
冥福
盂蘭盆
祈り(平成14年7月4日)
仏事歳時記
再び 最後の晩餐
この手のひらにII(平成18年11月18日)
死んで生きる智慧(平成19年3月27日)
五百生(平成19年11月20日)
破地獄偈(平成20年5月24日)
この指止まれ
この指止まれ
家族と家庭(平成11年1月5日)
導師(平成11年2月26日)
家から個人へ、そして家族・友達へI
家から個人へ、そして家族・友達へII
脳死そして臓器移植(平成11年3月2日)
独り決めの生き方
僧堂I
僧堂II
僧堂III
恥じ
僧堂IV
返事
父殺し・母殺し・友だち殺し・子殺し(平成20年1月1日)
その後
その後
ほとけさま(平成17年5月1日)
仏が仏に合掌する
戒名(平成12年3月14日)
無用の用(平成12年2月21日)
世話
大きく育て!(平成11年1月18日)
しもべ(平成10年11月7日)
電話(平成10年8月22日)
意思
寡黙
妄想(平成10年8月2日)
川(平成10年8月22日)
風如(風のように)(平成10年6月18日)
追悼(平成10年5月27日)
受容(平成10年6月18日)
蒸発
臨終(平成10年6月8日)
外道
障子(平成13年3月10日)
日月(にちげつ)
年寄りの出番より
人生とは、闇を照らす一瞬の蛍の光
時の旅人
時計(平成12年1月3日)
星(平成11年10月15日)
溝(平成11年8月2日)
過去心…念の起こる処(平成11年6月19日)
与える時間(平成11年5月24日)
桜(平成12年3月2日)
無常(平成11年4月16日)
川(平成10年9月17日)
有時(時の構造)(平成12年2月5日)
時の旅人(平成12年2月1日)
揺れる木々の葉
この人生の速さはなんだ(平成14年12月26日)
法句経より-時の旅人(平成15年2月4日)
寂然不動 如春在花(寂然不動、春の花に在るが如し) (平成16年9月19日)
ZENGO
自立
橋は流れて(平成10年9月18日)
無事
過去(平成10年5月23日)
たまごっち(平成10年5月23日)
一衆觸礼(いっしゅうそくれい)
六道を輪廻する
二人三脚
生老病死
筋肉番付
ポケモン
俺は、親馬鹿か!
塵も積もれば山となる
生と死と永遠
最終章
一章
二章
三章
四章~(未完)
時間旅行
時間旅行
命の歌-母の短歌
礎-いしずえ-
離魂(平成19年8月25日)
海辺橋
海辺橋
ふるさと(平成18年3月4日)
千の風(平成18年9月16日)
人の道(平成18年9月18日)
あなたは、いつから、一年が始まりますか?(平成20年8月1日)
前住職 二十三回忌にて(平成20年9月1日)
平成21年お施餓鬼会を振り返って(平成21年6月1日)
奥付
奥付

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 母が亡くなったのは、平成12年12月14日です。今思うと、12日だったら、トリプル12だなんて、思ったりするが、31日でも、1月1日でも、数字自身には、はじめから意味はない。意味が付くのは、いつも後からです。赤穂浪士の討ち入りの日と同じだけれど、旧暦と新暦では違うのだろう。
私は、檀家に不幸があると、陽岳寺仏事心得なるものを、渡すことにしています。世代間の仏事の伝承を少しでも手助けするためでもありますが、実際は、寺にとってもそのことが経済基盤を成り立たせることでもあるからです。実際は、寺が無くなってしまえば、困るのはそこを利用する契約者(檀家)だからです。その意味では、各自が最小限の負担によって寺を維持することが、より最良の方法なのですが、誰かが怠れば、誰かに負担が掛かっていることでもあるのですが、怠った人は、眼中にないことでもあります。

 前述の陽岳寺仏事心得の『喪』を、抜粋してみました。
 《『喪』とは、亡くなった方を想い、世の中のつきあい(特に祝い事)を避けて、身を慎むことです。
 『喪』には、二つの意味があります。自分の心構えとしての『追悼』と、外へ『忌を及ぼさない』という他人への配慮です。
 では、『喪』の期間はいつまでなのでしょうか。
 理論的には一生の期間です。これは『追悼』という家の中のこととしてはよいのですが、家の外に対しては実際的ではありません。実生活ではきまりがないと困ります。しかし、実のところ喪中の基準・定説はありません。もっぱら、その土地の風習、その家の習慣にならうばかりです。時代によって変化もしました。

 対外的な『喪中の期間』について考えてみます。現代では四十九日、あるいは納骨までを『厳守すべき喪の期間』とし、後ははじめてのお盆過ぎ迄か、初めてのお正月過ぎ迄のどちらか長い方、あるいは、一周忌までを『穏やかな喪の期間』と考え、実生活に対処されているのが大方のようです。これが一般的ではないでしょうか。ですから、祝い事は内々ですませ、翌年の年賀は欠礼(年末早めに欠礼の通知を出す)するのが通例です。
 祝い事は内々ですませ、ということは内々ならば祝い事をしても良いということです。年賀は欠礼、ということは、他に対してであって、家内の正月の祝い事まで止めることはありません。このように、内なる喪中と外なる喪中とを 分ける必要もあります。

 年賀欠礼の通知を出したのに賀状が来た、と怒る人がいますが、これは怒る方が間違いです。喪中の欠礼通知とは、自らの忌を他へ及ぼさないようにと、自分の行動を律することであって他人の行動を制限するものではありません。
 あるいは、他人の祝い事へ顔を出すことで祝い事に気まずい雰囲気をつくるような事態を避けようという気配りなのです。実際の話、昨日お葬式を出した人が婚礼に見えたとき、婚礼の主宰者はどう挨拶をしたらいいのか困惑します。
 では、その結婚式や披露宴のように前々から予定が決まっているような祝い事はどうするのかです。
 まず自分の家の場合ですが、喪の期間中のいつに当たるかにもよりますが、言い訳をしながら実行してしまう『生活の智慧』とでも云うべき対処方もあります。しかし、これは一方法であって、全てに当てはまる普遍性は持ち得ません。その時に遭遇したら、当事者が関係者と熟考を重ね、一番良い対処方を模索する以外に答えはありません。
 他家の場合は、前もって主宰者へ欠席すべきかを聞くのが丁寧でしょう。》

 自分で、上記のように綴ったくせに、私は、今年、結婚式に呼ばれて、2回祝辞を述べ、4回結婚式で乾杯をいたしました。「おめでとうございます」の言葉に、母や父は笑っていたことでしょうし、祝辞の中で、母のことを話して涙を誘ったり、8月には、町会子供御輿の先導を引き受けたり、考えてみれば、まったく喪にひたることなく、過ごしてきたと言えるのです。ですが、それも私にとっては、喪なのでした。お祝いの言葉に、乾杯の発声に、母のことを忘れていたと言うことではなく、実は反対に、いつも母の姿や顔、思い出が脳裏に出入りして、ひょっとして、逆に、脳裏から母を追い出そうとしているかのように、「独りぼっちになってしまった」という意識が強く覆うのでした。

 父を亡くしたときの時とは、大きく違っていた。父の時は、それは私も哀しみを持ったが、長く連れ添った母の哀しみを軽くすることで、癒すことで、私の喪失体験は希薄になっていたと思う。だが、その母をも亡くす意味は、二人ともいなくなってしまった実感が、ほっぽり出されたような、そこに父の思いも新に加わって、やりきれない思いに、未だに打ちひしがれて、早く普通に戻らなければと思うのですが、その時、新しい普通を作らなければと思うものの、出来ない私の普通であったのです。

 子供は、「お父さん少し飲み過ぎじゃないの!」と心配し、声を掛けてくれるのですが、止まらないことに「悪い、一年間、時間をくれ!」と、それは、やがて依存症のように、外に出なければいられないように、彷徨っていることに気が付きました。親が子を長い間見守る力は、親の存在が無くなった時、大きくその重みを感じたのでした。そして、一周忌まではと思っていた一年間は、喪に服していなければならない一年だと、気が付いたのです。
 喪の大切さに気が付いたのは、その時でした。喪に服するとは、衣服を着るように自ら着なければ、喪家の狗のように、やせ衰えて見るも無惨に身を滅ぼすもとなのだと、喪って怖いものだなと、体験して始めて知ることでした。葬式の葬が、遺体をほうむり去ることなら、喪はなくすことです。人が真剣に生きていれば生きているほど、人を亡くすことによって、多くのものを、また、なくすのです。

 法事は、自分の所も含めて、数多く経験しているものの、母の一周忌は格別なものがあります。それは何か母と会えるような、七夕の出会いのような気持ちになるのは不思議です。こんな気持ちを、私は知らなかったし、これからも幾度となく行う法事に対して、新しい視点をくれた、母や父を嬉しく思う。
 お寺に親しく接するそれぞれの施主が、同じ思いを懐いていたことを、同じ土俵の上にのれたみたいな気がします。この5月に、私の先輩のご婦人である山本恵子さんの一周忌があった。恵子さんの遺した沢山の絵手紙を拝見したときも、この人の心に触れて、自分が目を開かされた。どうして亡くなった人からこんなにも学ぶのか。私が執り行った葬儀でも、亡くなった者を理解しようとすればするほど、その生き様が私を生かしてくれるように思える。私が生かされれば、亡くなった多くの人たちもまた生かされると思います。

 もうじき、一周年の喪が明ける。亡くしたものは、もう一生帰って来ないことからすれば、これからも喪ははずれないことになる。逆に喪を大事することが、縁起をかつぐことになるです。

離魂(平成19年8月25日)

離魂(りこん)(平成19年8月25日)

 これから記す物語は、中国の古いお話です。五祖法演(ごそほうえん)禅師という方が、この話を持ち出して、「張家にいる倩女(せんじよ)と、王宙(おうちゆう)と共に過ごす倩女、さてどちらが本物の倩女だろうか?」という問題を投げかけています。

 《 昔、中国の清河(せいが)というところに、張(ちよう)という姓の一家が暮らしていました。そのあるじ鑑(かん)には、娘が二人いましたが、その末の娘は、倩(せん)という名前でした。とても気だてがよく、美しい娘でしたので、父は上の娘ともども、いたわり、こよなく愛したのでした。
 父の遠い親戚に、王宙という若者がいて、倩も幼かった頃より慕っておりましたので、大人になったら倩を王宙に嫁がせることが、張家と王家のあいだで自然に決まっていたのでした。もちろん、若者も娘も、お互いに望んでいたことでした。
 ところが、倩が成人すると、彼女の美しさや、教養が評判になってきました。すると縁談の申し込みもふえるようになりました。やがて娘の父は、王宙との縁談を惜しむようになったそうです。王宙よりも、もっともっと政府のえらい人で、大事な役目に就いている男に嫁がせたいと思ったのでした。

 父親の心の変化に、娘が気づくと、とても気が重くなりました。王宙に、父親の変化と、王宙への思いがつのることを告げたのです。告げられた王宙は悩み苦しみ、思い切って二人して、都に行って住もうと誘い、二人は駆け落ちすることを決めたのでした。
 決行の日時と場所を決めました。ある日の夜のことです。倩は一人村里から離れて山間に隠れました。そこに、同じように王宙も自宅から忍び抜け出て、山間にいたると、倩の名を呼びました。倩も追っ手に見つかりはしなかと潜んでいましたが、王宙の声に、「ここです」と、ささやきました。王宙も、「倩か?」と声をかけたのでした。

 落ち合った二人は、そこからは舟で身を隠しながらも、ようやく蜀(しよく)の国に着いたのでした。二人は、五年という歳月、幸せに過ごしたと云うことでした。
 五年の歳月は、穏やかな暮らしの二人でしたが、自分たち二人の幸せを思うと、故郷の父や母を想い出します。会いたい想いは二人をおおい、故郷を訪ねることを決めました。
 出て行った通りに同じ道を、二人は河を舟で故郷、清河に着きました。舟に妻である倩を残して、王宙は、独り倩の家、張家を訪ね、父・張鑑に今までのことをつぶさに話し、今までのことを謝り、許しを請うたのでした。
 倩の父は、「私の娘は、五年前のあの日より、ずっと家の奥にある娘の寝室に、病んで眠っている。これは何ということだ」と、驚いたのでした。そこで、王宙は、舟に倩を待たせていることを告げると、すぐさま、父は人を使いに出して確かめたのでした。やがて使い人が帰ってくると、張鑑(ちようかん)に、娘・倩が舟に待っていることを告げたのでした。
 すると驚いたことに、寝室に病で眠り続けていた倩が、ベッドから突然起き上がって喜んだということでした。その時、忽然と舟の中の倩が、姿を消したことは云うまでもないことです。 》
 
 今年の夏は、空梅雨で暑いと聞かされたのが五月・六月、しかしよくもまあ~雨が降った七月でした。これでは冷夏と思っていたところ、今度は暑いこと暑いこと、いつまで続くのだろうか。
 そんな暑い日の八月半ばを過ぎて、訃報が伝わってまいりました。亡くなった彼は、高校時代の友人でもあり、一緒に電車で通学した六名の仲間でもありました。奥さんから告げられた、「ずいぶんと姿形が変わってしまいましたが、向井さんに、会わせたかった」との言葉に、彼と会ったのが、訃報を貰って、二日後でした。

 自宅に眠っている彼の姿は、とても五十八歳とは思えない、変わり果てた姿でした。痩せこけ、フサフサだった髪の毛はまばらに白髪になり、はるかに年齢を加えて到った彼でした。読経の後、奥さんに「これが彼の本当の姿だったのでしょうか」と、私の見たこともない彼となってしまったことに、枕元で奥さんが話します。
 昨年九月に父親の四十九日忌をし、夫婦二人で検診をしたところ、癌が見つかり、リンパに転移していて、すでに手遅れと診断されたこと。築地の癌研に六月まで通院していたが、六月以降は処置を施すことを断念して自宅療養していたこと。築地まで通っていたので、向井さんがすぐ近くなので、何度も、寄っていかないかと話したのですが、彼はガンとして首を縦に振らなかっ
たこと。二人で最後の温泉旅行に彼が運転して伊豆に行ったこと。父の五年という看護に疲れ果
てていたこと。
 話しを聞いているとき、お母さんが亡くなった原因は自殺だったこと思い出し話すと、「朝五時半に散歩に行くと言って老いた父に声をかけたのが、最後の母の言葉で、自宅物置で首を吊っていた母を発見し、その母を抱きかかえて綱から降ろしたのも彼だったのです」と話す奥さんの言葉に、彼を見つめていた。「あれからです。主人が変わってしまったのは。それでも、主人は家族に心配をかけられないと、本当に、亡くなる直前まで、独りでいろんな整理をしていました。主人がいなくなると、私は、何もわからないことばかりで……。」

 気がつくと、すでに大人となった息子と娘が、二人の会話を聞いていた。私は、高校時代電車通学に一緒だった友人たちは、6名いたのですが、これで3人が亡くなってしまったことで、共有していたはずの思い出が、私一人のモノとなってしまったことを、何も言わない彼を見て思っていた。
 お通夜に弔問するからと、彼の家族に挨拶し、家を後にした私は、私の故郷でもある変わってしまったこの町を後にして、電車に乗った。電車から移り変わる窓の外の流れに、ふと思い出したのは、倩女と王宙の物語に、五祖法演が突きつけてくる、魂の無くなった彼の肉体と、離れていった彼の魂のことでした。
 幼かった頃、あの町で、母の親戚の葬儀に連れられて行ったことです。火葬場で「おじちゃんはすごいな、真っ赤になって、燃えている!」と、驚きと恐れに、母の手を強く握りしめていたことを、成人して母によく言われたことを思いだしていました。「人はああして真っ赤になって、どこか遠くに逝くのだな」と。幼心にたたき込んだ記憶は、倩女離魂(せんじよりこん)の話しに、人は死して何かしらの、言葉ではいえないものとなって旅だってゆく光景に重なります。

 ものを言わぬ彼を前にして、「魂魄(こんぱく)は肉身を離れることを得ず。肉身は魂魄を離れることを得ず。故に云う、肉身と魂魄と一如不二。何が故に是の如くなる。正法元来不思議無し。倩女と離魂と、等閑(とうかん)に他に随い去る。如今一如に帰す、忘却す来時の路(みち)」が、立ちふさがります。真実を見るためには、目前の事実になりきることだと、古人の言葉が耀きます。
 さらに、「情(じよう)を越え見(けん)を離る、縛(ばく)を去り粘(ねん)を解く」と、この公案に関して古人の言葉は厳しく、現実の語る内容に、迫りくる彼の姿が浮かびます。

 この物語を突きつける五祖法演禅師の境界は、「鉄製の木が花を咲かせた」と、五祖を褒め称えるのか、その働きは、「真っ黒な崑崙山が大空を走った」と詩(うた)っています。元来、倩女離魂は有り得ない話しです。そのあり得ない話しに、あえて花を咲かせようと考える、そんな人間をあざ笑う五祖法演禅師でもあります。没蹤跡(もつしようせき)(足跡を残さない)となってしまった彼を崑
崙山に見立て、真っ黒な大きな山が、漆黒な夜空を走っている姿は、離魂となっても、肉身と魂魄一如となっても、うかがい知れないものです。昔を語れあえる現身の一人が居なくなった。
 電車の椅子に腰掛けながらも、「忘却す来時の路」が、三十年来の映像となって頭の中によぎり、見知らぬ彼となった佇まいに、どちらが本物の彼かと、窓の外をうつろに眺めていたのでした。ふと気がつくと、来た道を戻って帰ることに、「忘却す来時の路」が、これでは、没蹤跡とは正反対の、足跡だけが頼りのように思え、現実が心という世界の中に取り込まれて、更にふくらみ続けます。これからも寂しさや懐かしさが訪れる来た路を歩むだろう。

海辺橋

 陽岳寺の本堂は、昭和5年頃に建築されたものですが、その頃には、水洗設備が整備されていました。深川に下水道が整備されたのは、そのもっと以前のような気がいたします。
 海辺橋。この深川の小さな地域にとって、ここに暮らす庶民のなくてはならない橋でした。大川を間に、深川では井戸水は塩分がきつくて洗濯や、打ち水にしか使うことが出来なかったのです。
 それ以前は、この海辺橋に水船がつき、この地域に天秤棒に樽を担いだ水売りが毎日毎日売り歩いたといわれております。それだけではなく、この橋を基点にして、芭蕉は奥の細道の旅に出たのです。
 考えてみれば、旅立ちと帰参の橋としての意味があるのが、この水辺橋です

ふるさと(平成18年3月4日)

ふるさと(平成18年3月4日)

もう寝ようとして、家族が夜王という番組を見ていたのを、私もつられて、それを見ていた。窓が大きく開いた広い豪華な部屋で、遼介というホストに抱かれながらレミという名のデザイナーが今、死のうとするとき、遼介の優しく放つことば、「元気になったら、生まれ、育った故郷に、一緒に行こう。」その刹那、彼女は目を閉じたのだが、私は、「やはり故郷だよな~」と。
平成17年11月ごろだったか、お寺に電話がなった。商社に勤めるというその男性は、「アメリカから宅急便を送ったが返ってきてしまった、住所を教えてください」の、電話だった。なんと50年ぐらい前の旧住所で送ったらしく、返送されたらしい。そのとき、今の住所を教えて電話を切った。そして、年内だったが、だいぶ経って、宅急便が届いた。
荷物は遺骨だった。そして翌18年2月の中ごろを過ぎていたと思うが、その遺骨の主の親戚と名乗る二人連れが訪ねてきた。始めて来たような、その人たちは、アメリカの婦人のもとに何度か訪問していたが、「その遺骨の主は、私は日本人だ。私が死んだら日本のお墓に葬って欲しいと言っていたのです」と、聞いた。
その遺骨の主の親戚と名乗る人は、「となりの寺の檀家であり、法事とか墓参で幾度も来ている」と、親しげに言った。それでいて、初めての訪問というのも、狐に摘まれたような、世の中の廻る流れのなかに、この寺だけが、ぽかっと穴が開いていたような、なんだか解らないというままにことが進んでゆくような、「まっいいか!」。

この婦人の帰還は、多分、50年、もしかすると、60年か70年ぶりなのだろうか、80歳を過ぎて亡くなったらしい。しばらく本堂に安置していたが、宅急便の包装のまま、納骨をした。
送られてきたことが、家族や本人の意志として、名前も不明のまま、亡くなった年齢も年月も不明のまま、もしかすると何か知らせがあるかも知れないが、こちらも知らないままが優しさかと、ただ受け入れた。
現実の届けられた遺骨は、何も語りはしないし、それを待っている遺骨たちも、感情は持たない。意味をもたせるのは、受け入れたのが人間だからだが、届けられた遺骨は、日本を、東京を、深川を故郷として、それを象徴とする墓地として、両親や家族が眠るふるさととして、空を飛び、何千キロを一日でたどり着いたという意味を持つ。きっと行ったときは、風景も違うし、耳に聞こえることばも違う、習慣も何もかも違った世界であり、日本から遙かに遠い国だったのだろうと思う。思えば、50年以上だ、子ども達も成長し、夫は亡くなって、老いの身となって、小荷物となって還ってくる、50年以上前に、誰が想像できたであろうか?
それほどに、遠く旅をした者にとってたどり着いた故郷は、懐かしく、記憶のなかに、みずみずしく消えないものなのだろう。ますます色濃く自身の心によみがえる懐かしさや親しさなのだろうと思う反面、アメリカに人生の大半を置いたモノとして、地域と他者によって培ってじぶん自身をかもち出していた関係とは何だったのだろうと考えてしまう。
そう言えば、釈迦も、晩年、故郷に近づこうと、旅の途中に倒れた。生まれ育った故郷を仰いで亡くなったが、2,500年の時を隔てて、今でも、インドやネパールに、アジア共通な、特別な故郷感があるのだろうかとも思う。
私は、人が亡くなってする北枕とは、人生の旅をした者として、最後の最後に、故郷を望む姿として見えて仕方がない。そう考えるだけで、枕経をする私の読経も、亡くなった者への手助けとして、故郷に旅立とうとする意思に添えるようにと、経を読む気持ちに、力を加えられるのです。
それにしても、何故、故郷は懐かしく、記憶に消えないものだろうか?
血気あふれるキリストは、ゴルゴダの丘に倒れたが、故郷をどう思っていたのだろうか?マホメッドもどう思っていたのだろうか?これは、一人の人間としてです。もっとも、思惟が若ければ、人と人との関係の拡大に注ぐ意志は強く、故郷を思うことは少ないかも知れない。
これは、人は何処から来て、何処に往くのかという問いを含んでいるような気がします。
もっとも、旅路の途中に神や仏に出会い、往くところが換わったと思っていることもあるのですが。
故郷は、天国でもなかったし、まして地獄でもない。コウノトリは居たかも知れないが、死に神はいなかった。
考えてみれば、人間が産まれた育った場所は、トンボや魚たち、動物達にとっても特別な場所でもあるのだろう。産まれた場所を離れずにずっと住み続ける生物は、突然の棲家変えに、生きて行くことは苦労を強いられると思います。
回遊魚といわれるモノたちにとっても、いつしか巡ることが終われば、それは、次の世代の旅立ちという廻りに代わることでもあろうが、もしかして、それが現実を生きる者にとっての信仰なのかも知れないと思ったりもするのです。しかし何故、回帰するのかの疑問は残ります。
日本人が故郷や、幼かった思い出や、懐かしい頃、楽しく充実していた頃を思い描くとき、それは、じぶん自身にとって、何よりもそのとき生きていた関係を、意識に大切なモノとして描いているのではないかと思うのです。
更に、家族が、活き活きとして活発だった頃、それは、関係が緊張してお互いの心を発展させ支え合う関係として息づいていたのだと思います。そして、家族の中心にいた自己の働きが、家族の変化と分離を通して、縮小して行くような、それは、中心が希薄になってゆくような感覚かも知れません。そこに、人にとっての故郷が誕生する。この故郷は、具体的な場所やモノ・人を指すのでは在りません。まして、50年も時間が経っているとすれば、具体的な場所やモノ・人は、記憶のなかにしかないからです。そうだとするなら、真の失った故郷に近づくには、どうしたらよいのか。

故郷を、他者を通して成立する自己の原点として考えてみたとき、それは、過程であることに気がつきます。すると、故郷とは、帰れない旅路に……。老いてタイムカプセルのスイッチに手を伸ばしたとき、その失った故郷が発言する。
釈迦の故郷を望む姿を前にして、すでに言葉が息づいています。言うは釈迦ではなく他者の私ですが。人の心とは、関係の中で生きる過程そのものです。レミも、婦人も、釈迦も、故郷を望む過程に、旅立って逝くようです。


千の風(平成18年9月16日)

千の風(平成18年9月16日)

 A THOUSAND WINDS Author Unknown
Do not stand at my grave and weep,
I am not there,I do not sleep.
I am a thousand winds that blow,
I am the diamond glints on snow.
I am the sunlight on ripened grain;
I am the gentle autumn’s rain.
When you awake in the morning hush,I am the swift uplifting rush
Of quiet birds in circled flight.
I am the soft star that shines at night.
Do not stand at my grave and cry,I am not there,I do not die. 

『千の風になって』           訳 和尚

どうぞ、私のお墓の前に立って、泣かないでください。
私は、そこにはいません。私は、眠ってもいません。
私は、あなたの歩みのなかに、1000の風となって、吹いています。
私は、こごえる木々の芽に、温もりをはこびます。
春、木々や草が一切となって花の蕾を開くとき、それは、私の喜びです。
夏、黄金色に実らせた糧のうえに、私は、耀く陽光となって、降りそそいでいます。
秋、シトシトと雨が降りそそいでいたら、それは私のあなたへの感謝です
冬、ダイアモンドのような輝きとなって、私は、大地を覆う雪の上にいます。
あなたが眼をつぶって眠りのなかにいるとき、私は、夜空にきらめく星々の瞬きとなって、あなたを見つめています。
あなたが、朝の静けさのなかで目を醒ましたとき、私は、すばやく駆け上がる風となって、回りながら鳥たち羽を休ませるでしょう。
どうぞ、お墓の前に立って、悲しまないで下さい。
私は、そこにいません。
私は、あなたが気がつけば、すぐ側に、千の風となって、生きています……。

 千の風、それは、作者がいません。アン・ランダースが大好きな詩として新聞に掲載したことで、瞬く間に世界中に広がりました。千の風は、一人一人、千の風となって吹いています。日本では、朝日新聞「天声人語」がきっかけで、大きな反響を呼びました。多くのメモリアルで、この詩が朗読されています。

  禅宗が語る現実の有り様は、今でも、地水火風の土と水と炎と風の中に、我々自身が生まれ、生かされ、土と水と炎と風の中に去って行くことです。

  この地水火風の中に生き、最も自分らしく生きて表現していくことは、自分らしく死ぬことにかかわってきます。自分らしく生きる対象は、家族であったり、仕事であったり、趣味であったり、知識であったり、地域であったり、ボランティアであったりです。じぶん自身の年齢と他者や社会との関わりのなかで変化するものの、その動機は、いかに自分らしく生きることであり、それは、自分らしく死ぬが含まれているでしょう。人間の生が有限に限られていることに気づけば、その目的は無限な道であり、自己主張は、いつも途中にあることをまぬがれないものの、じぶん自身の死は、他者や社会に評価をゆだねることで果たさられます。

  だからこそ、葬送という儀礼が必要なのだと思います。今は葬儀ということを中心に死者の儀礼が執行されますが、私が考える内容は、あくまで、葬送の儀式です。何故ならば、亡くなったという事実(葬儀)は一瞬のことで、時間は刻々と進んでゆくからです。いつまでも亡くなったという事実のままに止まることはできません。送ることで、残された人たちも、その事実から一歩一歩踏み出さなければならないからです。問題は、送る先なのです。

 かっては、その送る先が明確でありました。死者の世界というべきもので、生者の領域とはハッキリと区別されていたのでしょう。死出の旅路をいそいでいるので、一杯飯を供えたり、死に装束もそうでしょう。棺に置く守り刀は、魂のいない亡骸に悪霊(火車とも)が侵入するのを防ぐためともいわれています。鐘や銅鑼などを鳴らすのもこのためです。団子を供えるのも四十九日の長旅に無事に死者の領域に到着するようにそなえるためです。また、私が葬家の方々と接して、今では、誰も三途の川を渡るという発想も持っている人はいません。今は、その区別が曖昧に、境界がなくなっていることを感じます。それは、今日までの古来のしきたりによる死の文化の衰退といえるものです。だからこそ、葬儀だけが中心になり、送る儀式は、火葬場への道のりだけになってしまった気がいたします。

  私の葬送の儀式にのぞんだ方々は、告別式の後半や、安骨・初七日の法要で、下記の言葉を語っていることを聞いているはずです。

《 我々が生きる世界の延長として死後の世界が存在するとしたならば、旅立ちと言えばよいのか、帰ると言えばよいのか。旅立っていったモノの行こうとする世界。

  それは、時間で言えば、今だ来ない時間ともなります。我々の過去や現在は、未来の一部としてあると捉えると、独立した未来という時間の中に、人として完成された存在の尊厳が輝きます。

  存在から言えば、私たちを覆う大きな命の連鎖の中に旅立って行きます。それは、貴方の活き活きと生きていたことが、家族が生きていることの証明になり、大きな大きな私たちを覆う命という渦の中で、それぞれの人の、浄土更には天国という、命と時の世界の中で生きていることになるからです。

  その場所で、あなたは、私たちと、同時に生きるとするなら、気ままに季節の飾られた花々に成り、風になり、その風に舞う花びらになり、雲になり、空にな、時間になることができるでしょう。
 いつも思うのですが、人の体がなくなると言う意味を考えたとき、火葬場にて炎の中をくぐり抜けていくことは、実人生をも炎とたとえることで、さらに深い意味を持つと考えられます。その時、人は平然と、勇気を持って炎の中をくぐり抜けていかなければなりません。後戻りできない人生を象徴することなのです。いきいきと生きた実人生での年月そのものを炎として、歩んだ現実の世界で遭遇した苦悩、怒り、まよいを炎として、実人生は、実り有る人生に終止符を打ち、生まれ変わらなければなりません。

 旅立ちの扉は貴方の肉体が火葬場にて炎の中をくぐり抜けていくことから始まります。そして、形あるものは、最後の別れとして、炎のなかをくぐり抜けます》と。

  私たちは、私たち自身の誕生と死を確認するすべを持たないことの自覚がめばえたときから、始まりも終わりもない世界を持つともいえます。確実な誕生や死は、いつも他者にゆだねられ、この身は、自分の生のみを最後まで生きつづけるという自覚こそ大切なことだと思います。

  それでも俯瞰して眺めると、「人の一生は、みずから朽ち、消滅して、形なき限りなきものとなることの旅路です。形なき限りなきものとは、永遠の一なるもののあらゆる変容のしるしです」。

1000の風の英文を手にいれて、つたない訳詩の試みをしてみました。死体を遺体ということで、霊魂が分離します。お墓は、亡骸が納められる場所です。そのお墓に沢山のお骨が納められているとすれば、この場所も、旅立った逝ったものの、道の交差点かも知れません。私なら、「その墓の前に立って、泣くなら、どうぞ悲しみが止むまで、そこに止まってください、ここは悲しみによって貴方を癒す場所です」と告げるでしょう。自分にとって悲しみの場所を持つことは、逝ってしまったものにとっては、嬉しくもあり、とても辛いものです。そんなとき、千の風が身体を吹き抜け、思わず「有り難う」という気持ちが、顔を空に上げさせたとき、この詩の持つ力が私たちの身体にみなぎることを念じます。私たちは、家族の中であなたが創られ、貴方が創った家族の中に生き生きと暮らしていた想い出を忘れることはありません。
朝日新聞 [天声人語] より転載

だれがつくったかわからない一編の短い詩が欧米や日本で静かに広がっている。
愛する人を亡くした人が読んで涙し、また慰めを得る。そんな詩である。 英国では95年、BBCが放送して大きな反響を呼んだ。アイルランド共和軍(IRA)のテロで亡くなった24歳の青年が「ぼくが死んだときに開封してください」と両親に託していた封筒に、その詩が残されていた。
米国では去年の9月11日、前年の同時多発テロで亡くなった父親をしのんで11歳の少女が朗読した。米紙によるとすでに77年、映画監督ハワード・ホークスの葬儀で俳優のジョン・ウェインが朗読したという。87年、女優マリリン・モンローの25回忌にも朗読されたらしい。
日本では、95年に「あとに残された人へ 千の風」(三五館)として出版された。最近では、作家で作詞・作曲家の新井満さんが曲をつけて、自分で歌うCD「千の風になって」を制作した。



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