目次
輝いている時
夢中(ゆめのなか)
芝浜
江戸っ子
亀住町(平成13年7月1日)
モンセ・ワトキンス~夢のゆくえ~(平成14年1月3日)
新牌開眼
英霊(平成17年5月23日)
目覚め
よわい「齢」
また始めたらよい
三大聖樹(平成19年4月17日)
滅度(平成19年9月18日)
安住の地(平成20年11月15日)
心眼(平成22年3月1日)
とかくこの世は
とかくこの世は
祈り(平成17年11月29日)
品位(平成18年1月20日)
ニャンニーシンズ(平成18年3月1日)
鍵(平成18年4月25日)
チベット(平成20年5月1日)
SYOHOU
諸法
四十四の問い~ミヒャエル・エンデ
先ゆく輩
さき行く輩
祖師年譜
ダルマ
慧可
五洩霊黙和尚
石鞏慧蔵禅師
大珠慧海禅師
西川の黄三郎
馬祖道一禅師(馬大師)
五百生 百丈和尚
大梅山法常(752-839)
麻谷山宝徹禅師(平成12年1月27日)
鎮州普化(ふけ)和尚
寒山・拾得
虹の彼方に
ヘイヴン・ペックの場合―続貧しいけれど、豊かだった―
生前葬
平和を我らにーGIVE PEACE A CHANCE(平成13年10月31日)
ソクラテスとヤージャニダッタ
蓮(平成14年6月2日)
心-KOKORO(平成14年6月25日)
独り暮らし(平成15年4月12日)
老いが、咲いていた!(平成16年7月5日)
深濱-fukahama
死に顔
松山鏡(ソクラレストとヤージャニダッタの続き)
真ん中(平成20年4月1日)
百万回いきたネコ(平成21年1月1日)
夜来る鳥(平成21年1月1日)
だいじょうぶ、だいじょうぶ(平成21年2月1日)
無常への帰依
無常への帰依
希望(平成12年1月2日)
葬式坊主
泥棒
赤とんぼ
老い
……ロス
後姿
寿陵
ついで参り
目標
六道を行く
もの言わぬ羅漢達…揀択をこえて…
宮本武蔵
五合庵断章(平成10年10月17日)
K子さん!(平成12年7月19日)
今は昔
十一面観世音菩薩
尽七日忌(平成19年5月1日)
OSYOU
OSYOU
この手のひらに―禅僧の死―(平成10年11月18日)
戒(平成10年7月25日)
幽霊
みんな仏教徒(平成10年5月27日)
最後の晩餐(平成10年5月23日)
禅問答(平成10年5月31日)
分銅
天国は汝ら自身に宿る(平成10年11月24日)
宗派
穢れ(平成12年8月30日)
お彼岸
仏心
仏心
ご祈祷
施餓鬼会にて(平成17年5月28日)
永遠の命
輪廻する葦(平成10年5月27日)
連鎖する命(平成10年6月2日)
涅槃(平成10年8月12日)
鏡(平成10年7月25日加筆)
流星
TAO(平成11年1月3日)
四大
挨拶
冥福
盂蘭盆
祈り(平成14年7月4日)
仏事歳時記
再び 最後の晩餐
この手のひらにII(平成18年11月18日)
死んで生きる智慧(平成19年3月27日)
五百生(平成19年11月20日)
破地獄偈(平成20年5月24日)
この指止まれ
この指止まれ
家族と家庭(平成11年1月5日)
導師(平成11年2月26日)
家から個人へ、そして家族・友達へI
家から個人へ、そして家族・友達へII
脳死そして臓器移植(平成11年3月2日)
独り決めの生き方
僧堂I
僧堂II
僧堂III
恥じ
僧堂IV
返事
父殺し・母殺し・友だち殺し・子殺し(平成20年1月1日)
その後
その後
ほとけさま(平成17年5月1日)
仏が仏に合掌する
戒名(平成12年3月14日)
無用の用(平成12年2月21日)
世話
大きく育て!(平成11年1月18日)
しもべ(平成10年11月7日)
電話(平成10年8月22日)
意思
寡黙
妄想(平成10年8月2日)
川(平成10年8月22日)
風如(風のように)(平成10年6月18日)
追悼(平成10年5月27日)
受容(平成10年6月18日)
蒸発
臨終(平成10年6月8日)
外道
障子(平成13年3月10日)
日月(にちげつ)
年寄りの出番より
人生とは、闇を照らす一瞬の蛍の光
時の旅人
時計(平成12年1月3日)
星(平成11年10月15日)
溝(平成11年8月2日)
過去心…念の起こる処(平成11年6月19日)
与える時間(平成11年5月24日)
桜(平成12年3月2日)
無常(平成11年4月16日)
川(平成10年9月17日)
有時(時の構造)(平成12年2月5日)
時の旅人(平成12年2月1日)
揺れる木々の葉
この人生の速さはなんだ(平成14年12月26日)
法句経より-時の旅人(平成15年2月4日)
寂然不動 如春在花(寂然不動、春の花に在るが如し) (平成16年9月19日)
ZENGO
自立
橋は流れて(平成10年9月18日)
無事
過去(平成10年5月23日)
たまごっち(平成10年5月23日)
一衆觸礼(いっしゅうそくれい)
六道を輪廻する
二人三脚
生老病死
筋肉番付
ポケモン
俺は、親馬鹿か!
塵も積もれば山となる
生と死と永遠
最終章
一章
二章
三章
四章~(未完)
時間旅行
時間旅行
命の歌-母の短歌
礎-いしずえ-
離魂(平成19年8月25日)
海辺橋
海辺橋
ふるさと(平成18年3月4日)
千の風(平成18年9月16日)
人の道(平成18年9月18日)
あなたは、いつから、一年が始まりますか?(平成20年8月1日)
前住職 二十三回忌にて(平成20年9月1日)
平成21年お施餓鬼会を振り返って(平成21年6月1日)
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礎-いしずえ-

昭和60年の7月、ショートステイに入居したその日、父は熱を出し、併設する病院に、入院してしまった。母は懸命に父が入院する病院に通い、看病した。その入居する前の3月には、待望の内孫が誕生していた。
 父が具合悪くなり始めてより、母は父との全てを忘れまいと、日記を記し始めた。そして昭和61年8月12日、父が亡くなった。日記はしばらく続くが、それは、母の父への思慕と、母の生き苦しさだ。
 そして平成12年12月13日母が没した。この項は、そんな母の記録である。
 遺品を整理していると、無造作に散らかった書類や手紙の中から、母の筆跡のノートがでてきた。読んでみると、記された内容に母の気持ちが込められて、当時それを理解できなかった不甲斐なさ、すまなさもあるが、この記録があったが故、今、母を父を、改めて考える事が出来た。この記録がなければ、時はただ過ぎ去り、今の私に至る私の過去の一部は、埋没していたと思う。
 読み、そして整理していくうちに、公開してみたくなった。父と母の二人を、慕い追慕して、称えて祝福することが、追悼の意味になり、ひいては残された私達の礎になるからと思ったからです。
 そして、親しい人を亡くした同じ思いをしている人たちに捧げたいと思ったのです。さらに、この美しい思いを、いまだ大切な者を亡くしていない貴方に贈る。

礎-いしずえ-

昭和61年8月11日(月)晴れ暑い
 いつものごとく朝が明ける。私は自分の仕事をすませ、家に入り、皆で朝食、テレビを見、片づけものをしていると電話がはいる。NTの声。箱根に一家できているとのこと、Yとも話す。次の電話がかかる。病院からである。
 「ご主人さんの様子がいつもとチョット異なっていて、食事もとらないし、タンが絡まり苦しそう、奥さん、直ぐ来てください。息子さんも一緒に。」
 びっくりてしまう。いそいで病院に行く。主人は、いつもと違う。食事どころか、口から物が入らない。でも、この時は、こんな夜が来るとは、思っていなかった。
 午後から苦しそうで、顔が何となく変わってきた。今夜は病院に泊まらせてもらおう。久しぶりに主人の側で一緒に過ごせる。
 一度家に帰り、支度をして病院に行く。暑い夜である。タンをとってもらうと少し楽になったので、MM、FY、FSさんには帰ってもらう。側のいすをベッドにして、横になる。静かになったと思ったのに、苦しそうな息、のどの奥でゼイゼイと音がする。顔を仰向けにしているが、その目は異う。胸をさすっていながら、何故こんなに苦しまねばならないのかしらと思ひ、たまらない気持ちになる。
 看護婦さんが、「奥さん、お家へ電話して、早く、早く」
 もうお終い。夢を見ているような、時間が流れる。
 「ご免なさい。お父さん。」12時6分。このまま止まって
 家に帰る。今夜は家で、この部屋で、二人で寝ましょう。
 8月12日の真夜中、12時6分、とうとうこの日が来てしまった。

8月20日(水)くもり晴れ
 とうとう一週間の上も時が過ぎてしまった。毎日毎日が何となく過ぎる。主人はもういない。NTが可愛そう。どうぞどうにかして気持ちよく暮らせる日がくるよう。もう私には何とかしてあげようと思っても、手の伸べようがない。

8月21日(木)
 目がさめる。0時30分、こんなに早くさめては困る。灯りを消した。布団の中で目をつむり、頭の中であれこれと思う。下手の考え休むに似たりとか。いつもいつもおろかなことを知らない間に浮かべている。主人は永遠にいってしまった。私は一人となってしまう。よく判っていたけれど、どうにもならないこの現実、早く自分の活かし方を考えねば……。いやいやそんなに急がず、ゆっくり、そのうちに何かをみつけるでしょう。

8月22日(金)くもり晴れ暑し
 鈴木医院へ行く。すがすがしい葬儀でしたと、何度もおっしゃって下さる。皆様よくおやりになりましたねともおっしゃって下さる。血液検査をして下さる。安定剤を頂き、帰りに郵便局で古い通帳の全払いをする。これは私が最初に主人から賜ったものである。もう主人の名前の物は終わりである。息子が掃除をしている。私は孫とこちらにいる。なかなか大変なことである。いろいろあって私は疲れる。頭の中がボーッとして、何とか自分の生き方を考えねば……。

8月24日(日)晴れ暑し
 主人を本堂から金曜日に客間に移したので、客間の掃除をする。孫がづっとそばについていて、遊びながらの仕事。新聞見ていても眠くなるし、どうしてこんなに眠いのでしょう。ただ、毎日が過ぎてゆく。朝夕は大部涼しさを感ずるが、日中はまだまだ暑い。

8月30日(土)
 連日の暑さ、早く涼しくならなければ。私はどうしてよいか判らない。三年有余、病人の主人一筋に暮らして、今、私はどうしてよいか判らない。家のことも、もう私の時代ではない。でも長い間のくせで体が働いてしまう。私自身の生活を持ちたい。

9月5日(金)晴れ
 昨日は35度以上。くらべるといくらか涼しい。主人の死亡通知の手紙を沢山出したので、7人も訪ねて来てくれた。私は一人である。何をどうしてよいやら。夕方、孫娘が刺繍で、学校帰りに来てくれる。

9月10日(水)くもり
 箱根出発。くもりでも丁度さしつかえない。天気、楽しい旅の始まり。久々の箱根旅行。嬉しい。家具健保の保養所は、大変に立派なごうかな御影色の良い場所で快適である。

9月11日(木)くもり
 タクシーにて午後2時過ぎまで箱根各地を廻る。すべて具合良好。夕5時半頃帰宅する。この旅行をさそって下さった方に感謝をする。

9月13日くもり雨
 朝目をさますと、タオルケット一枚では、やや寒く、初めて毛布を使う。でも日中はまだ暑い。

9月14日
 今朝も毛布を掛ける。日中はやや小寒く、袖のある物がほしくなる。夜、床につく時も毛布をかける。

9月20日
 今日から秋の彼岸が始まる。目がさめると朝の2時、困ってしまう。これから6時近くまでの時をすごすことが苦しい。お父さん、助けて。何故こうなったのかしら。
 これから先こんなにして生きていかなければならないのかしら。現実の状態が判り過ぎていて、口から出すことが出来ない。

9月22日(月)
 彼岸の三日目、久しぶりで暑い。主人との別れる日も近くなる。孫が日毎に活発となりだんだんと私には、重荷となってくる。でも愛らしい。

9月23日(火)
 彼岸の中日、昼近くT子、Y子が来くれる。船橋の姉と娘たち4人、お参りにみえる。一日中気持ちよく晴れた。初秋の一日でした。皆さんが主人の死を悔やんで下さる。

9月28日(日)晴れ
 明日の納骨の支度を、息子達がしてくれる。私も手伝う。すっかり座敷の支度を終え、分骨を皆でする。本当は私にはどうしてよいのやら判らない。白い主人のお骨を見て、涙がこみ上げてくる。じっとこらえなければならない。お父さん、さようなら。今までも私があなたに何をしてあげられたのでしょう。又これからさきがある。後の月日、年月をどの様に過ごしたらよいのでしょう。

10月2日(水)晴れ
 日毎に秋らしくなりました。主人もとうとうつめたいお墓の中に入ってしまいました。もうお終いです。昨日は冷たい雨が降り、目地をしていないお墓が気になりました。今日、石屋さんに、電話しましたところ、直ぐに来て目地をとめてくました。……。
 船橋の姉、上の姉から電話がありました。

10月7日(火)
 昨日MさんIさんとご一緒に高島屋に中村先生他の展示会を見に行って、いろいろと見て、又その上食事を「ざくろ」でする。その折りにお二人の手作りのポプリのハンガー、お人形ポケットチーフを頂いて嬉しくなり、気持ちが明るくなった。
 Iさんへお礼の電話を入れる。Wさんよりお返しのお礼の電話あり。S先生へ行っている間のこととて直ぐ折り返して、私から電話を入れる。私のことを心配して、短歌をしつこく進めて下さる。

10月12日(日)
 君逝きて今日二ヶ月目の日をむかふいざ友だちと旅に遊ばむ

10月14日(火)
 宮古国民休暇村で、朝6時目をさます。快晴。この寒さが心地よし。朝食もおいしい。食前に散歩に出る。気持ちよし。
 宮古から特急バスで盛岡に向かう。山を見ながら青い美しい空に浮かぶ雲をながめ、やや紅葉の始まっている木を眺め、楽しいはずなのに、気分が悪くなり、大失敗をしてしまう。皆さん、大変ご心配をかけて申わけなし。タクシーにて小岩井牧場、他に行き、7時30分家に着く。
 駅のホームで息子に会う。ビックリしたり感謝したり、感激、皆さんにお礼を申し上げて、家に帰る。

10月18日(土)晴れ北風強し
 急に季節が早くなり、冬型となる。午後Wさんのお宅におじゃまをする。旅の話等いろいろとして4時頃家にもどる。相変わらず短歌の話が出るが、私にはどうにもならない。
 なかなか夜は寝付かれず、今0時を過ぎる。

11月12日(水)晴れ 室内やや寒し
 11月もなかばとなってしまった。昨日は船橋のF家へ行く。姉は家の中に居る姿のせいか、やっぱり年を取ったと思う。夕方、北風の中を家に着いたのは5時頃。寒さはだんだん近づいてくる。
 スカートで外を歩いていると膝が寒い。今日夕方3時にY整形外科ににけん引に行く。午前中にHYが来る。歌はあいかわらず出来ない。編み物も思うようにはいまない。

11月18日(火)晴れ 予報より暖かい
 お手紙を書くことにしました。
今日はG婦人会で、浅草のビューホテルに、FYと二人ででかける。ここは国際劇場であった場所にできたホテルです。清澄町まで歩いて行き、その後はタクシーで行く。
 全部で6名の顔ぶれ。フランス料理です。28階建で、食事は27階。お父さんの知っている浅草とは随分変わりました。仕方がありません。でもお父さんも連れてきて上げたいと思ひました。

11月19日(水)くもり晴れ
 お金を使いすぎました。先週にコート、今日はスカート、スカーフ等。ごめんなさい。お父さんのお金をこんなに使ってしまって、でも必要な服だったのです。心は満たされないわ、いつまでこれが続くのでしょう。このおろかなる者。

11月21日
 百箇日も過ぎました。私の心の中では未だ思ひが切れません。どうして貴男だけが居ないのかしら、私の住む世界とは異なった土地へ行ってしまいました。今日は指の注射です。とても痛いんです。自分の為にこの手をなおします。

11月23日
 朝4時前に目がさめてしまいました。丈夫で居た日のことのみ思ひ出します。どうぞ帰ってきて。
 何ともなく暮らしていた日が輝いて居たとは知りませんでした。三原山の爆発のニュースで、昨日から大変です。今日も一日、どうにか過ごしてゆかねばなりません。みんな夢です。夢の中の出来事です。流れでゆきます。流されてゆきます。

11月26日雨くもり
 少々もどったり進んだりしながら、寒くなってゆきます。じっとしていると目の中から自然に涙が出てきて困ります。今、芦谷先生とHKさんに年賀欠礼の手紙を書きました。

12月1日
 29日夕方三越劇場へFYの長唄を聞きにゆく。その足で八王子へ行く。やっぱり八王子は寒い。一晩のつもりが二晩となり、大変御馳走になる。6時近く帰る。

12月2日(火)
 初めての編み物の日。FYに連れて行ってもらう。手を痛くしないようがんばりましょう。

12月4日(木)
 三人が湯河原へ昼過ぎ出かけました。家の中で一人になりました。どうしても思ひだしてしまいます。それ思わず涙があふれ出てきます。夜になって、今日夕方石屋さんが亡くなったと電話が入りました。気の毒なことです。又さみしくなってしまいました。

 12月5日(金)
 一人で表から庭の掃除、家の中の掃除、一人の食事を作るのは楽しい仕事でした。湯河原へ出かけて三人は、午後早く1時30分頃帰ってきましたので、Y整形外科へ治療に行き、三回目の指の注射をしてもらいました。今は、夜の11時です。おやすみなさい。

12月9日(火)
 昨日も、一日中温かくよいお天気でした。やっぱりあなたのお姿が見えなくてさみしいわ。一人でお洗濯をして又布団の中に入りました。7日の日に、高橋さんとお電話でお話をしました。あなたのかわりに、孫の歌を詠んだのだそうです。色紙に書いていただきたいと思ひました。元気でいてほしかった。お布団の中にいてもよいのに。明日の朝は、小林、峰尾の姉と三人で温泉に行きます。

12月14日(日)
 朝4時。早く目さめてしまいました。11日から13日にかけて、小林の姉たちと積翠寺温泉に行ってきましたので、昨晩は少々早く床に着きましたので、今朝は3時前にさめたのです。今、お洗濯中です。温泉に9回入ってきました。腰の痛みがとれると嬉しいのですが、中央線の沿線の景色は私にはなつかしいものでした。でも峰尾の姉のおしゃべりは、私にはチョットさみしく思われました。甲府の駅で少々の買い物をしました。帰ると高橋さんより葉書がきていました。誌代受取りやら、私への思ひやりでした。やっぱりお父さんの貴男は遠くへゆき過ぎます。私は一人で困ってしまいます。

12月19日(木)くもり雨
 寒い一日でした。孫は驚く程の成長ぶりです。単語も随分おぼえ、私達の話すことをきいて、まねをします。あなたに見ていただき度いと思ひます。又、夕方に大島に噴火があり、テレビはそのニュースで大変です。

12月25日(木)くもり
 さむくなりました。昨日、森下Sさんよりあなたの大好物のメロンを送って下さいました。早速お供え致しましたが、あんなに好きだったのに、実際にはお口に入らないなんて悲しい。テレビのシルバーシートを見ていました。早くこういふ事を知っていたら、もっともっと上手にお父さんのお世話が出来たのに、くやまれます。

12月31日(水)晴れくもり温かし
 とうとう最後の日がきてしまった。明日から新年。私の心の中はあまり感激は無い。お父さんが居てくれたら。去年の今日は、どの様にしていたのか全然思ひだせない。
 この記念すべき年よ、さようなら。だんだんお父さんと離れて行く。
 毎朝お線香を二本づつ着けてあげているのが判りますか?早くおそばに行き度いから。
 金ぴらごぼう、筑前たき、紅白なます、これだけのものを作りました。今、紅白歌合戦を見ています。どんな来年がくるのでしょう。
 今日、八王子の戸井田さんから贈り物を頂きました。本当にすまないことと思って居ります。
 ぼうぼうとただぼうぼうと君の居ない道は五里霧中

昭和62年1月20日(水)晴れ暖かし
 一月もとうとうこんなにたってしまいました。二十日の晩はよく眠ることが出来ずに居りましたので、安定剤を飲みましたら、明け方うとうとしまして夢の中に居りました。お父さんに自転車に乗せてもらっているのです。前にのっているのでしょうか?
 あなたのお顔は見ることは出来ません。どうしてなのでしょう。お別れしてから初めての夢の出会いですのに。
帰る家が見つからないで、二人であっちこっちと自転車でさがしましたが、とうとう見つかりませんでした。六時頃目がさめてしまいました。また、お目にかかりたいのです。
 今日、私は六十八歳の誕生日を迎えました。一人ではあまりにもさみしい。忘れないうちに夢のことを書いておきたかったのです。ノートを買いたくても、何となく買えなかったのです。このノートを二三日前に、眞幸にもらいました。

2月3日(火)節分、雪くもり時々晴れ
 早いものでとうとう二月になってしまいました。一月三十日にNTの家に泊まりに行き、一日に(日)に帰ってきました。NYはとても大人らしく、落ちついて良い娘となりました。あなたに見てもらい度いものです。真人ももう直ぐ二才になります。男の子らしく体をよく動かし、とてもオイタで楽しいやら、たのもしいやら困るやら……。
 子供というものは、すばらしいものです。
今日、古田さんから、お志を送って下さいました。パレンバンの時代がなつかしく、終戦直後に八王子の家にお見えになった日のことが思い出されます。随分と長い月日、いやいや年月がたったものです。お父さんのこと、驚いていらっしゃいました。
沃野の二月号が送られてきました。私も歌を作り度いのですが、何と云うことでしょう、一寸もうかんでまいりません。よほど才能が無いのですね。字が書けるようになり歌が作れる様になりましたら最高です。どうぞ力をかして下さい。お願いです。
 編み物は楽しくて、これだけは有りがたいと思っています。もう少し自由がほしいと思います。

2月8日(日) 午前1時10分
 なかなか寝付かれません。推理小説も読み上げてしまったし、沃野二月号もぱらぱらと見たし、本当に困ったことです。お手紙をかきます。
 四日の午前中から左の腰が痛くて、体がまがりません。前にこごむことも、トイレで紙を使うことも不自由。何をしても面白くなく、それより明日の築地の本願寺の法要に行かれなくなりそうと思って居りましたら、五日の日は、朝起きることも着る物も出来ず、大変な日になりました。朝の中におとなりのハリ医に行きましたが痛みはとれません。葉子にかわって行ってもらいました。本当に残念でなりませんでした。
 今日はいくらか楽になり、よかったと思っています。ハリ医に当分通うようになるでしょう。家の者の迷惑になりたくないと思ってもどうにもなりません。娘達も心配して電話をかけてきたりしてくれます。
早くお父さんと一緒になり度く思っていても、なかなか大変なことです。これだけの痛さでどうにもならなくなってしまうのですもの、おそばに行くには並大抵ではなさそうです。何の楽しみがあるのでしょうね。
 今、一時二十五分です、もうお休みなさい。
 午前一時 なき夫につげむと手紙書き 今静かなる寝につかむとす
 何も彼も 運命と思ひみとりたる夫がまなざし 今も我が目にうち
 君送り 別れより早や一年の廻りきぬ あの炎暑の日が 遠くかなしき

2月26日(木)北風強く寒し
今年の冬は、私にとっては殊のほか、寒くてなりません。その上、腰は痛いし真っ赤な下血があります。騒ぐほどのことではないと思いますが一寸心配です。編み物の川奈先生のお宅に午前は行きました。スカートをはいてゆきましたら、厚いタイツをはいて居るのに何てお寒いのでしょう。午後久しぶりで福島の義姉より電話をもらい一寸長くお話をしました。つくづく年をとることがいやになりました。
 眞幸が面白い本を買ってきたので、それをづっと読んで居ましたが、五冊とも終わってしまいさみしくなりました。今、十一時を少し過ぎました。
三月一日晴れていても寒い
 お父さん。今日は腰の調子が大変良くなりました。でも午前にハリ、午後けん引にゆきました。
 この頃いつも迷っています。あなたの居ないこの家は、私はさみしい。でも何処へ行ったっておなじことでしょうね。八王子へいっそ行ってしまおうかしなどと、でもこの先私がどんな老後がくるのか?
 それを謙がえるとうっかり口に出すことも出来ないし、心の中で今こんなことばかり思っております。
 今日、息子が別府へ出かけました。南禅寺の同窓会です。明日の夕方はもどります。

3月30日くもり晴れ
 大部暖かくなってきました。季のうつり変わりというのは、お寒い日が来たり、今日は暖かいなどといふ日が来たりしながら、いつのまにかすこしずつ暖かくなるものです。ジャケットさえ暑いのがうっとうしくなりました。でも夕方は北風がけっこう強いのです。
 東京駅へ京都行きの切符を二枚に買い換えに行ってきました。一人で切符を買うことが出来るようになりました。その足で吉祥寺まで行きスカートの直しを頼み伊勢丹をぶらぶらしてきました。ほしいものばかりなのはどうしたことでしょう。この年になるのに……、パジャマとパンティーを二枚買ってきました。電車で家へ帰るのにも、あなたの待っていらっしゃらないことを思うと、どこへも帰ることが出来ません。涙が出てしまいます。東京駅でいつかコーヒーを一緒に飲んだ店を見ました。一人で行って飲むのもさみしく思ひ、又九段下で電車を降りて千鳥が淵の桜見に行きたいと思ひました。一人といふことは何処へ行ってもさみしいことばかりです。
 今、十一時二十分過ぎです。おやすみなさい。

4月11日(土)晴れくもり
 今日はお寒い一日でした。私は昨日(十日)に京都妙心寺へあなたの法要にNTと来ました。高いお佛だんの上で陽岳寺宗直和尚と読み上げたのをはっきり聞いてきました。
 本当に遠い処に行ってしまったのですね。でもその後、NTと二人で京都見物をすることが出来、夜は大そう立派なプリンスホテルで宿り幸せに過ごしました。一夜明け、今日もその続きです。本当にお父さん、有り難うございました。
 NTとの二人旅も初めてで嬉しうございました。
 二日とも雨も降らず花盛りの京都を楽しむことが出来、その上京都御所も拝観でき、帰りの新幹線の中から折りよく富士山の姿がよく見えてずっと以前のことを思い出し、なつかしく禎子と話しました。家に着いたのは五時四十五分頃でした。

4月23日(木)
 十九日~二十一日と、第四のクラス会で総勢十人で、伊勢神宮から紀伊勝浦へ行ってきました。三日間心配としていた雨も降らず暖かくむしろ暑ささえ感じるくらいでした。貴男の行きたいと云っていらっしゃった海岸渡寺へも参詣することが出来ました。ご一緒ならどんなに嬉しかったことでしょう。でもこの段々ではとてもむずかしいと思ひ乍ら一歩一歩のぼりました。有賀さんにお願ひをして写真をとってもらいました。初めての紀州路は、それは美しく楽しうございました。
 二日目から眼のはずれにいつも蚊がとんでいるようで、気になりましたので、今日野口眼科へ行ってきました。先生に「網膜剥離」で殊によると手術をしなくてはならないと云われ、ああと思ひましたが、早く体が終わればおそばに行かれると思ひました。でも結果は老いの為に「網膜」にたるみが出来て、その影が蚊の様に、見えるといふことです。
 つくづく老いはせまるつつあると思ひました。遊んで歩いたのでつかれが出たのでしょう。血圧は百六でした。

4月30日(木)晴れ暖かくよい日和り
 今日で五日間風邪の引きっぱなし。お風呂もずっと入りません。いえ入れません。本当にゆううつ。
 NTいわく「お母さんどうしてこんなに弱くなったの」ですって。鈴木先生と野口眼科とにお薬をもらってくる。内孫も私のがうつったのかしら、この方のお薬ももらってくる。眼の方はまだ暗闇のなかに金色の稲妻が見える。今夜久しぶりでお風呂に入る。もう風邪とは縁切りとしたい。

5月5日---
 八王子へ行ってきます。NY・NMと三人で五晩一緒にくらしてきます。何となく楽しくなってきました。二人ともとても良い子供です。夕食にハンバーグと南瓜の煮物を作りましたら、大喜びでした。買い物もNYと二人で行き、楽しうございました。久しぶりでくらす八王子の家は、この家とは異なり静かで、つくづくこの家で活していたらと思いました。

5月10日
 朝食の支度も嬉しく今日でこの娘たちとの生活も終わりです。洗濯をすませるとNMがミルクコーヒー、自分製の蒸しパンで、お十時のお茶をしてくれました。何と幸せでしょう。

5月11日
 雨が少なくお水が足りそうもないとニュースで申して居りました。困ったことにならねばよいと思ひます。朝七時頃若い人三人は蓼科高原へ出かけてゆきました。一人で掃除をしたり、井上さん等三人にお茶を出したり、お参りのお客さんの応対をしたり、なかなかいそがしいうございます。久しぶりで夕方、指圧をしてもらいました。もうこれからは無理をしないでくらしましょう。夜の一人はくらしは、一寸だけさみしいと思ひます。

5月14日 朝
 昨夜は、おなかの中がきれいになることが出来て、これは幸せです。いつもこんなだと嬉しいのに---。
 それにしても、何もしないでいると直ぐに居眠りが出て、どうしようも無いほどみっともなくて困ります。今朝は久しぶりに雨が降って居ります。心の中もしっとりとする思ひです。
 おじいちゃん。貴男の居ないことは、私はさみしい。私達の建てた家なのに、この家すらこんなに、私にとっては変わってしまったのです。
 風邪の後遺症もようやくおさまった様です。体の調子を良く保ってゆくことはなかなかむずかしいことです。おじいちゃん、何故逝ってしまったの。

5月16日 四十七回目の結婚記念日
 昨年は、あなたは病院のベットの中で迎えましたね。今年は初めて私一人さみしく、くらしました。
 その日のことを語る人もなく、心の中で思い出をたどりました。私は黒地に菊の花を染めた、お気に入りの着物を着ていました。夢の様に月日は過ぎてゆきます。この先まだまだ一人で、この日を迎えなくてはならないなんて、いやです。
 今毎日をどの様に自分に納得がいく様にして過ごしてゆく方法がほしいのです。ただ毎朝、目さめて、食事をして、何となく心にもなく一日が過ぎてゆくのです。私一人の為に考えましょう。
 我が胸の内なるくさりはなちたし 夫逝きし後の一人旅ゆえ

6月16日 晴れ涼しい
 おぢいちゃん、今テレビを見ていました。隅田川をバスで川上より相生橋までの旅でした。
 いつか二人で歩きました待乳山やら人形町、川のふちを見たり、又行ってみたいと思って居りました。江東区の水上バスで見物をしている処を見ました。又一緒に行きたいですね。この頃右の足と膝が痛みます。歩けるでしょうか。今夜十一時です。一人で居ります。皆寝てしまいました。私もやすみます。

7月18日 朝五時
 毎日毎日、くる日もくる日も、思って居ります。あなたの居ないこの日々のむなしさを。
 お盆を迎えて灯をたきました。いそがしい時はまぎれますが、あなたは家に帰ってきて下さったのですか。待って居りましたのに。
 お盆にお檀家のSKさん、KKさんからお金を、MGさんから又FY・NYからお盆提灯をもらいました。提灯はきれいにくるくると廻りました。

8月7日 くもり むし暑い
 沃野八月号、特別企画の主人の追悼号を五冊送ってきました。うれしいやら、やっぱり悲しい。ちょっぴり変な気持ちになりました。
 皆さんは私の知らないあなたのことを沢山書いてくださいました。もっともっと、いろいろのことをお聞きしておけばよかったと思ひで、さみしくなりました。
 生きているのが何のカチも無い様な気持ちで、体の中から力がぬけてゆきそう。もう涙も出ない様になりました。どうぞ夢の中ででも、お会い出来ないものでしょうか。
 高橋さんへ早速下手な手紙を書き、一万円を現金書留で送るようにしました。
 十二時も過ぎました。

8月30日 日
 おじいちゃん、昨日も暑かった。私はこの暑いのがとってもいやです。早く少しでも涼しくなってほしいわ。昨日は鈴木先生のご主人の告別式でした。やっぱりあなたと同じ暑い八月です。先生は一人になってしまわれました。いくら立派なお仕事をお持ちでも、どんなにおさみしいことでしょうね。こうして女ばかり残ってしまいます。私もまだまださみしいです。
 この気持ちは私が生きている間は、どうにもならないでしょうね。
 夫逝きし又八月は廻りきぬ こころあせれどしのびよる老い
 夫の君を送りて先生一人となり給う 同じ八月同じ暑き日

9月1日
 今朝四時、目がさめました。トイレに行き、又お布団の中に入りますと、うとうととして眠ってしまったのかしら。どこの病院なのでしょうか。何で四中(父の努めていた中学校)の話になったのでしょうか?新しく出来た四中をおじいちゃんに見せてあげましょうといふ事になりました。
 誰かが自動車にのせてくれました。
「お父さん、よかったわね」
 手を取り身体をささえて、四中の家庭科の実習のようでした。それを見て帰ろうとして、二人で身体を寄せ合い乍ら歩きました。出る時に私の不注意で、上に着る物を充分に持ってこなかったので、寒くはないかしらと心配をしながら歩きました。でもお父さんはよく歩ってくれました。
 誰か知らないが、たしか知っている人の様な気がしました。声をかけて下さるんです。嬉しうございました。どうも車をさがしたのに、どこに居るのか判りません。愛子さんと野矢さんと、も一人誰かです。
「八重子さんじゃない」と、声をかけてくれました。それまでで、目がさめてしまいました。
「嬉しかったわ」、おじいちゃんに会うことが出来て。
「又、お会いしましょうね」、あのまま醒めなければよかったのに。
又、今日も遠のいた台風上がりの暑さの日が続きます。とうとう暑い暑い、八月ともお別れです。

9月23日 朝
 おじいちゃん、十九日(土)にUH先生の奥様が、お墓参りをして下さいました。八十六歳の奥様にお参りをして頂くなんて嬉しいのですが、さみしく思います。おみ足も元気で本当にすばらしいことです。内孫もよく見て頂きました。
 重いブドーを沢山頂きましたが、あなたには召し上がって頂けなくて本当に残念です。ご親戚のお墓参りも一緒にさせて頂きました。三好町の円通寺さんです。
 駅までの道を歩き乍ら、お話を致しました。
「時々はこうして、お話をしなくては」と、おっしゃって下さいました。東亜でコーヒーを御馳走になってしまいました。
 昨日、可愛らしい箸袋やら紙人形を送って下さいました。
あなたのおかげで、この様なおつき合いが出来ましたこと嬉しうございました。(この箸袋他は、多田さんの作られた品だそうです)
 九月十二日にも東京歌会にも初めて行くことが出来ました。歌会といふのも初めての経験です。皆さん次々と指名されて、熱心に意見をのべていらっしゃいました。
 今日は入りの日ように次いで大勢のお参りがありました。その中に坂入さま、Uよし子様もお参りをして下さいました。あなたのお墓の前は、お線香とお花でいっぱいになりました。嬉しうございました。

9月26日 雨晴れ
 時々強い雨と風が吹き付けます。部屋で机を出して、新聞をゆっくり読みました。この様な形で落ち着いて何かをしようかしら。どうにかして自分のくらしを持ち度いのです。
 嫁が内孫を寝かせる為に布団をしいて一緒に横になりました。寝ないで立ち上がってしまいましたので、「二かいで寝かせなさい」と申しますと、「どうも失礼致しました」と、二階に行ってしまいましたが、そのうち又内孫をだいて「ここがいいんですって」と云います。
「二階で寝るようにしつけてね」と、云いました。私の出発です。

10月18日 晴れ気温高し
 おじいちゃん、今日、秋の台風が、日本中を吹き荒らして北海道に去ってゆき、その余波で随分と暑うございます。
 小林の父の五十回忌、母の二十三回忌でした。二十四、五名ぐらいの人の集ひです。大そうにぎやかでございました。父のことを会ったこともない人々(孫・ひこ)が多く、遠い昔のことになりました。その頃のことなど語り合い、涙を流してしまいました。皆といろいろのことを話すということは、本当に楽しいことです。極楽寺さんの和尚様も九十歳の上と聞き、その唱えるお経に又涙を流してしまいました。帰らぬ昔がなつかしく娘時代のもどってきたさっかくにとらわれました。
 NYの家のザクロが、今年は大豊作です。甘い実が、それは沢山に成り、小林の家に帰りましてからのお茶席で、皆さんに喜ばれました。皆それぞれに持って帰られました。
 私が、家に帰りましたのは夕方六時でした。KYちゃんの車で、家まで送って頂きました。これで父の忌も最後となるのでしょうね。良平さんの家がお家賃一万八千円で空いているのだそうです。そこで一人で住んでみたいと思ひます。そんな事を話しましたら、禎子に怒られてしまいました。思ふ様にはならないものですね。

11月22日 書く
 九月十二日、十月十日、沃野の東京歌会に行きました。UH夫人。三輪さんからのお誘いのお電話でした。皆さんとても喜んで下さいました。
 大へん恥ずかしいですが、とても面白くて嬉しくなりました。十一月の会は十四日ですが、三輪さんか歌を出すとよいと又お電話です。思ひ切って恥をしのんで書いて葉書を送りました。当日は胸がどきどき致し、落ち着きません。
 花見せぬ金木犀と語り居り 翌朝に咲く花のマジック
 あなたがいらっしゃたらどんなにねげくでしょう。ご免なさい。これからは自分の道と思い、出来るかぎり、つくってゆきたいと思ひます。

12月18日
 大きな地震です。十七日の編み物の先生のお宅で十一時八分、まあ本当におどろきました。大へんに揺れました。そしてもう治まるかしらと思っているのになかなか鎮まりません。どんなことになるのかしらと思って居りました。すぐラジオをかけて下さいましたので、大へんなことです。震度四といふことですが実際には、五ぐらいではないでしょうか。小さいときに体験した大震災の時以来です。でも何事も無くてよろしうございました。
 その間、頭の中がずっとゆれていて目まひの様な状態でした。千葉県の東部が強かったようです。
 歌ってなかなか出来ません。朝、外の掃除の時は、考えるよい時間なのです。ポケットに手帳を入れておくことにしました。直ぐに書き付けないと忘れてしまいます。小林周子さんもおっしゃっていらっしゃいましたが、十二日の東京歌会で、山本かね子さんが、主人は「私の家内は、センスがよいのだ」と、云っていたとか、困ってしまいます。何故どうしてそんな事を云ったのか、恥ずかしい。

 歌のセンスなき妻の悲あいはきわまれり 亡夫(つま)と会ふ日の語り草となさん
 煩落ちず目見澄みてゐる宗直よ 語らひ酌む日を疑はず待つ
 白沢を解って呉れよと衝き上ぐる思を耐へて咫尺(しせき)に対す
 妻やさしく息夫婦やさしく脇へ侍る ふとよぎる妬み心すまなし
 由緒ある寺の住職息に継がせ 満ち足らへるを病が冒す
 妻持たぬ頃よりぞいさかひし無く六十年 この仲合(なから)を絶たれてなるか
 直る直ると呟き帰る深川の巷は 寒き春初め風

 母が亡くなったのは、平成12年12月14日です。今思うと、12日だったら、トリプル12だなんて、思ったりするが、31日でも、1月1日でも、数字自身には、はじめから意味はない。意味が付くのは、いつも後からです。赤穂浪士の討ち入りの日と同じだけれど、旧暦と新暦では違うのだろう。
私は、檀家に不幸があると、陽岳寺仏事心得なるものを、渡すことにしています。世代間の仏事の伝承を少しでも手助けするためでもありますが、実際は、寺にとってもそのことが経済基盤を成り立たせることでもあるからです。実際は、寺が無くなってしまえば、困るのはそこを利用する契約者(檀家)だからです。その意味では、各自が最小限の負担によって寺を維持することが、より最良の方法なのですが、誰かが怠れば、誰かに負担が掛かっていることでもあるのですが、怠った人は、眼中にないことでもあります。

 前述の陽岳寺仏事心得の『喪』を、抜粋してみました。
 《『喪』とは、亡くなった方を想い、世の中のつきあい(特に祝い事)を避けて、身を慎むことです。
 『喪』には、二つの意味があります。自分の心構えとしての『追悼』と、外へ『忌を及ぼさない』という他人への配慮です。
 では、『喪』の期間はいつまでなのでしょうか。
 理論的には一生の期間です。これは『追悼』という家の中のこととしてはよいのですが、家の外に対しては実際的ではありません。実生活ではきまりがないと困ります。しかし、実のところ喪中の基準・定説はありません。もっぱら、その土地の風習、その家の習慣にならうばかりです。時代によって変化もしました。

 対外的な『喪中の期間』について考えてみます。現代では四十九日、あるいは納骨までを『厳守すべき喪の期間』とし、後ははじめてのお盆過ぎ迄か、初めてのお正月過ぎ迄のどちらか長い方、あるいは、一周忌までを『穏やかな喪の期間』と考え、実生活に対処されているのが大方のようです。これが一般的ではないでしょうか。ですから、祝い事は内々ですませ、翌年の年賀は欠礼(年末早めに欠礼の通知を出す)するのが通例です。
 祝い事は内々ですませ、ということは内々ならば祝い事をしても良いということです。年賀は欠礼、ということは、他に対してであって、家内の正月の祝い事まで止めることはありません。このように、内なる喪中と外なる喪中とを 分ける必要もあります。

 年賀欠礼の通知を出したのに賀状が来た、と怒る人がいますが、これは怒る方が間違いです。喪中の欠礼通知とは、自らの忌を他へ及ぼさないようにと、自分の行動を律することであって他人の行動を制限するものではありません。
 あるいは、他人の祝い事へ顔を出すことで祝い事に気まずい雰囲気をつくるような事態を避けようという気配りなのです。実際の話、昨日お葬式を出した人が婚礼に見えたとき、婚礼の主宰者はどう挨拶をしたらいいのか困惑します。
 では、その結婚式や披露宴のように前々から予定が決まっているような祝い事はどうするのかです。
 まず自分の家の場合ですが、喪の期間中のいつに当たるかにもよりますが、言い訳をしながら実行してしまう『生活の智慧』とでも云うべき対処方もあります。しかし、これは一方法であって、全てに当てはまる普遍性は持ち得ません。その時に遭遇したら、当事者が関係者と熟考を重ね、一番良い対処方を模索する以外に答えはありません。
 他家の場合は、前もって主宰者へ欠席すべきかを聞くのが丁寧でしょう。》

 自分で、上記のように綴ったくせに、私は、今年、結婚式に呼ばれて、2回祝辞を述べ、4回結婚式で乾杯をいたしました。「おめでとうございます」の言葉に、母や父は笑っていたことでしょうし、祝辞の中で、母のことを話して涙を誘ったり、8月には、町会子供御輿の先導を引き受けたり、考えてみれば、まったく喪にひたることなく、過ごしてきたと言えるのです。ですが、それも私にとっては、喪なのでした。お祝いの言葉に、乾杯の発声に、母のことを忘れていたと言うことではなく、実は反対に、いつも母の姿や顔、思い出が脳裏に出入りして、ひょっとして、逆に、脳裏から母を追い出そうとしているかのように、「独りぼっちになってしまった」という意識が強く覆うのでした。

 父を亡くしたときの時とは、大きく違っていた。父の時は、それは私も哀しみを持ったが、長く連れ添った母の哀しみを軽くすることで、癒すことで、私の喪失体験は希薄になっていたと思う。だが、その母をも亡くす意味は、二人ともいなくなってしまった実感が、ほっぽり出されたような、そこに父の思いも新に加わって、やりきれない思いに、未だに打ちひしがれて、早く普通に戻らなければと思うのですが、その時、新しい普通を作らなければと思うものの、出来ない私の普通であったのです。

 子供は、「お父さん少し飲み過ぎじゃないの!」と心配し、声を掛けてくれるのですが、止まらないことに「悪い、一年間、時間をくれ!」と、それは、やがて依存症のように、外に出なければいられないように、彷徨っていることに気が付きました。親が子を長い間見守る力は、親の存在が無くなった時、大きくその重みを感じたのでした。そして、一周忌まではと思っていた一年間は、喪に服していなければならない一年だと、気が付いたのです。
 喪の大切さに気が付いたのは、その時でした。喪に服するとは、衣服を着るように自ら着なければ、喪家の狗のように、やせ衰えて見るも無惨に身を滅ぼすもとなのだと、喪って怖いものだなと、体験して始めて知ることでした。葬式の葬が、遺体をほうむり去ることなら、喪はなくすことです。人が真剣に生きていれば生きているほど、人を亡くすことによって、多くのものを、また、なくすのです。

 法事は、自分の所も含めて、数多く経験しているものの、母の一周忌は格別なものがあります。それは何か母と会えるような、七夕の出会いのような気持ちになるのは不思議です。こんな気持ちを、私は知らなかったし、これからも幾度となく行う法事に対して、新しい視点をくれた、母や父を嬉しく思う。
 お寺に親しく接するそれぞれの施主が、同じ思いを懐いていたことを、同じ土俵の上にのれたみたいな気がします。この5月に、私の先輩のご婦人である山本恵子さんの一周忌があった。恵子さんの遺した沢山の絵手紙を拝見したときも、この人の心に触れて、自分が目を開かされた。どうして亡くなった人からこんなにも学ぶのか。私が執り行った葬儀でも、亡くなった者を理解しようとすればするほど、その生き様が私を生かしてくれるように思える。私が生かされれば、亡くなった多くの人たちもまた生かされると思います。

 もうじき、一周年の喪が明ける。亡くしたものは、もう一生帰って来ないことからすれば、これからも喪ははずれないことになる。逆に喪を大事することが、縁起をかつぐことになるです。

離魂(平成19年8月25日)

離魂(りこん)(平成19年8月25日)

 これから記す物語は、中国の古いお話です。五祖法演(ごそほうえん)禅師という方が、この話を持ち出して、「張家にいる倩女(せんじよ)と、王宙(おうちゆう)と共に過ごす倩女、さてどちらが本物の倩女だろうか?」という問題を投げかけています。

 《 昔、中国の清河(せいが)というところに、張(ちよう)という姓の一家が暮らしていました。そのあるじ鑑(かん)には、娘が二人いましたが、その末の娘は、倩(せん)という名前でした。とても気だてがよく、美しい娘でしたので、父は上の娘ともども、いたわり、こよなく愛したのでした。
 父の遠い親戚に、王宙という若者がいて、倩も幼かった頃より慕っておりましたので、大人になったら倩を王宙に嫁がせることが、張家と王家のあいだで自然に決まっていたのでした。もちろん、若者も娘も、お互いに望んでいたことでした。
 ところが、倩が成人すると、彼女の美しさや、教養が評判になってきました。すると縁談の申し込みもふえるようになりました。やがて娘の父は、王宙との縁談を惜しむようになったそうです。王宙よりも、もっともっと政府のえらい人で、大事な役目に就いている男に嫁がせたいと思ったのでした。

 父親の心の変化に、娘が気づくと、とても気が重くなりました。王宙に、父親の変化と、王宙への思いがつのることを告げたのです。告げられた王宙は悩み苦しみ、思い切って二人して、都に行って住もうと誘い、二人は駆け落ちすることを決めたのでした。
 決行の日時と場所を決めました。ある日の夜のことです。倩は一人村里から離れて山間に隠れました。そこに、同じように王宙も自宅から忍び抜け出て、山間にいたると、倩の名を呼びました。倩も追っ手に見つかりはしなかと潜んでいましたが、王宙の声に、「ここです」と、ささやきました。王宙も、「倩か?」と声をかけたのでした。

 落ち合った二人は、そこからは舟で身を隠しながらも、ようやく蜀(しよく)の国に着いたのでした。二人は、五年という歳月、幸せに過ごしたと云うことでした。
 五年の歳月は、穏やかな暮らしの二人でしたが、自分たち二人の幸せを思うと、故郷の父や母を想い出します。会いたい想いは二人をおおい、故郷を訪ねることを決めました。
 出て行った通りに同じ道を、二人は河を舟で故郷、清河に着きました。舟に妻である倩を残して、王宙は、独り倩の家、張家を訪ね、父・張鑑に今までのことをつぶさに話し、今までのことを謝り、許しを請うたのでした。
 倩の父は、「私の娘は、五年前のあの日より、ずっと家の奥にある娘の寝室に、病んで眠っている。これは何ということだ」と、驚いたのでした。そこで、王宙は、舟に倩を待たせていることを告げると、すぐさま、父は人を使いに出して確かめたのでした。やがて使い人が帰ってくると、張鑑(ちようかん)に、娘・倩が舟に待っていることを告げたのでした。
 すると驚いたことに、寝室に病で眠り続けていた倩が、ベッドから突然起き上がって喜んだということでした。その時、忽然と舟の中の倩が、姿を消したことは云うまでもないことです。 》
 
 今年の夏は、空梅雨で暑いと聞かされたのが五月・六月、しかしよくもまあ~雨が降った七月でした。これでは冷夏と思っていたところ、今度は暑いこと暑いこと、いつまで続くのだろうか。
 そんな暑い日の八月半ばを過ぎて、訃報が伝わってまいりました。亡くなった彼は、高校時代の友人でもあり、一緒に電車で通学した六名の仲間でもありました。奥さんから告げられた、「ずいぶんと姿形が変わってしまいましたが、向井さんに、会わせたかった」との言葉に、彼と会ったのが、訃報を貰って、二日後でした。

 自宅に眠っている彼の姿は、とても五十八歳とは思えない、変わり果てた姿でした。痩せこけ、フサフサだった髪の毛はまばらに白髪になり、はるかに年齢を加えて到った彼でした。読経の後、奥さんに「これが彼の本当の姿だったのでしょうか」と、私の見たこともない彼となってしまったことに、枕元で奥さんが話します。
 昨年九月に父親の四十九日忌をし、夫婦二人で検診をしたところ、癌が見つかり、リンパに転移していて、すでに手遅れと診断されたこと。築地の癌研に六月まで通院していたが、六月以降は処置を施すことを断念して自宅療養していたこと。築地まで通っていたので、向井さんがすぐ近くなので、何度も、寄っていかないかと話したのですが、彼はガンとして首を縦に振らなかっ
たこと。二人で最後の温泉旅行に彼が運転して伊豆に行ったこと。父の五年という看護に疲れ果
てていたこと。
 話しを聞いているとき、お母さんが亡くなった原因は自殺だったこと思い出し話すと、「朝五時半に散歩に行くと言って老いた父に声をかけたのが、最後の母の言葉で、自宅物置で首を吊っていた母を発見し、その母を抱きかかえて綱から降ろしたのも彼だったのです」と話す奥さんの言葉に、彼を見つめていた。「あれからです。主人が変わってしまったのは。それでも、主人は家族に心配をかけられないと、本当に、亡くなる直前まで、独りでいろんな整理をしていました。主人がいなくなると、私は、何もわからないことばかりで……。」

 気がつくと、すでに大人となった息子と娘が、二人の会話を聞いていた。私は、高校時代電車通学に一緒だった友人たちは、6名いたのですが、これで3人が亡くなってしまったことで、共有していたはずの思い出が、私一人のモノとなってしまったことを、何も言わない彼を見て思っていた。
 お通夜に弔問するからと、彼の家族に挨拶し、家を後にした私は、私の故郷でもある変わってしまったこの町を後にして、電車に乗った。電車から移り変わる窓の外の流れに、ふと思い出したのは、倩女と王宙の物語に、五祖法演が突きつけてくる、魂の無くなった彼の肉体と、離れていった彼の魂のことでした。
 幼かった頃、あの町で、母の親戚の葬儀に連れられて行ったことです。火葬場で「おじちゃんはすごいな、真っ赤になって、燃えている!」と、驚きと恐れに、母の手を強く握りしめていたことを、成人して母によく言われたことを思いだしていました。「人はああして真っ赤になって、どこか遠くに逝くのだな」と。幼心にたたき込んだ記憶は、倩女離魂(せんじよりこん)の話しに、人は死して何かしらの、言葉ではいえないものとなって旅だってゆく光景に重なります。

 ものを言わぬ彼を前にして、「魂魄(こんぱく)は肉身を離れることを得ず。肉身は魂魄を離れることを得ず。故に云う、肉身と魂魄と一如不二。何が故に是の如くなる。正法元来不思議無し。倩女と離魂と、等閑(とうかん)に他に随い去る。如今一如に帰す、忘却す来時の路(みち)」が、立ちふさがります。真実を見るためには、目前の事実になりきることだと、古人の言葉が耀きます。
 さらに、「情(じよう)を越え見(けん)を離る、縛(ばく)を去り粘(ねん)を解く」と、この公案に関して古人の言葉は厳しく、現実の語る内容に、迫りくる彼の姿が浮かびます。

 この物語を突きつける五祖法演禅師の境界は、「鉄製の木が花を咲かせた」と、五祖を褒め称えるのか、その働きは、「真っ黒な崑崙山が大空を走った」と詩(うた)っています。元来、倩女離魂は有り得ない話しです。そのあり得ない話しに、あえて花を咲かせようと考える、そんな人間をあざ笑う五祖法演禅師でもあります。没蹤跡(もつしようせき)(足跡を残さない)となってしまった彼を崑
崙山に見立て、真っ黒な大きな山が、漆黒な夜空を走っている姿は、離魂となっても、肉身と魂魄一如となっても、うかがい知れないものです。昔を語れあえる現身の一人が居なくなった。
 電車の椅子に腰掛けながらも、「忘却す来時の路」が、三十年来の映像となって頭の中によぎり、見知らぬ彼となった佇まいに、どちらが本物の彼かと、窓の外をうつろに眺めていたのでした。ふと気がつくと、来た道を戻って帰ることに、「忘却す来時の路」が、これでは、没蹤跡とは正反対の、足跡だけが頼りのように思え、現実が心という世界の中に取り込まれて、更にふくらみ続けます。これからも寂しさや懐かしさが訪れる来た路を歩むだろう。

海辺橋

 陽岳寺の本堂は、昭和5年頃に建築されたものですが、その頃には、水洗設備が整備されていました。深川に下水道が整備されたのは、そのもっと以前のような気がいたします。
 海辺橋。この深川の小さな地域にとって、ここに暮らす庶民のなくてはならない橋でした。大川を間に、深川では井戸水は塩分がきつくて洗濯や、打ち水にしか使うことが出来なかったのです。
 それ以前は、この海辺橋に水船がつき、この地域に天秤棒に樽を担いだ水売りが毎日毎日売り歩いたといわれております。それだけではなく、この橋を基点にして、芭蕉は奥の細道の旅に出たのです。
 考えてみれば、旅立ちと帰参の橋としての意味があるのが、この水辺橋です

ふるさと(平成18年3月4日)

ふるさと(平成18年3月4日)

もう寝ようとして、家族が夜王という番組を見ていたのを、私もつられて、それを見ていた。窓が大きく開いた広い豪華な部屋で、遼介というホストに抱かれながらレミという名のデザイナーが今、死のうとするとき、遼介の優しく放つことば、「元気になったら、生まれ、育った故郷に、一緒に行こう。」その刹那、彼女は目を閉じたのだが、私は、「やはり故郷だよな~」と。
平成17年11月ごろだったか、お寺に電話がなった。商社に勤めるというその男性は、「アメリカから宅急便を送ったが返ってきてしまった、住所を教えてください」の、電話だった。なんと50年ぐらい前の旧住所で送ったらしく、返送されたらしい。そのとき、今の住所を教えて電話を切った。そして、年内だったが、だいぶ経って、宅急便が届いた。
荷物は遺骨だった。そして翌18年2月の中ごろを過ぎていたと思うが、その遺骨の主の親戚と名乗る二人連れが訪ねてきた。始めて来たような、その人たちは、アメリカの婦人のもとに何度か訪問していたが、「その遺骨の主は、私は日本人だ。私が死んだら日本のお墓に葬って欲しいと言っていたのです」と、聞いた。
その遺骨の主の親戚と名乗る人は、「となりの寺の檀家であり、法事とか墓参で幾度も来ている」と、親しげに言った。それでいて、初めての訪問というのも、狐に摘まれたような、世の中の廻る流れのなかに、この寺だけが、ぽかっと穴が開いていたような、なんだか解らないというままにことが進んでゆくような、「まっいいか!」。

この婦人の帰還は、多分、50年、もしかすると、60年か70年ぶりなのだろうか、80歳を過ぎて亡くなったらしい。しばらく本堂に安置していたが、宅急便の包装のまま、納骨をした。
送られてきたことが、家族や本人の意志として、名前も不明のまま、亡くなった年齢も年月も不明のまま、もしかすると何か知らせがあるかも知れないが、こちらも知らないままが優しさかと、ただ受け入れた。
現実の届けられた遺骨は、何も語りはしないし、それを待っている遺骨たちも、感情は持たない。意味をもたせるのは、受け入れたのが人間だからだが、届けられた遺骨は、日本を、東京を、深川を故郷として、それを象徴とする墓地として、両親や家族が眠るふるさととして、空を飛び、何千キロを一日でたどり着いたという意味を持つ。きっと行ったときは、風景も違うし、耳に聞こえることばも違う、習慣も何もかも違った世界であり、日本から遙かに遠い国だったのだろうと思う。思えば、50年以上だ、子ども達も成長し、夫は亡くなって、老いの身となって、小荷物となって還ってくる、50年以上前に、誰が想像できたであろうか?
それほどに、遠く旅をした者にとってたどり着いた故郷は、懐かしく、記憶のなかに、みずみずしく消えないものなのだろう。ますます色濃く自身の心によみがえる懐かしさや親しさなのだろうと思う反面、アメリカに人生の大半を置いたモノとして、地域と他者によって培ってじぶん自身をかもち出していた関係とは何だったのだろうと考えてしまう。
そう言えば、釈迦も、晩年、故郷に近づこうと、旅の途中に倒れた。生まれ育った故郷を仰いで亡くなったが、2,500年の時を隔てて、今でも、インドやネパールに、アジア共通な、特別な故郷感があるのだろうかとも思う。
私は、人が亡くなってする北枕とは、人生の旅をした者として、最後の最後に、故郷を望む姿として見えて仕方がない。そう考えるだけで、枕経をする私の読経も、亡くなった者への手助けとして、故郷に旅立とうとする意思に添えるようにと、経を読む気持ちに、力を加えられるのです。
それにしても、何故、故郷は懐かしく、記憶に消えないものだろうか?
血気あふれるキリストは、ゴルゴダの丘に倒れたが、故郷をどう思っていたのだろうか?マホメッドもどう思っていたのだろうか?これは、一人の人間としてです。もっとも、思惟が若ければ、人と人との関係の拡大に注ぐ意志は強く、故郷を思うことは少ないかも知れない。
これは、人は何処から来て、何処に往くのかという問いを含んでいるような気がします。
もっとも、旅路の途中に神や仏に出会い、往くところが換わったと思っていることもあるのですが。
故郷は、天国でもなかったし、まして地獄でもない。コウノトリは居たかも知れないが、死に神はいなかった。
考えてみれば、人間が産まれた育った場所は、トンボや魚たち、動物達にとっても特別な場所でもあるのだろう。産まれた場所を離れずにずっと住み続ける生物は、突然の棲家変えに、生きて行くことは苦労を強いられると思います。
回遊魚といわれるモノたちにとっても、いつしか巡ることが終われば、それは、次の世代の旅立ちという廻りに代わることでもあろうが、もしかして、それが現実を生きる者にとっての信仰なのかも知れないと思ったりもするのです。しかし何故、回帰するのかの疑問は残ります。
日本人が故郷や、幼かった思い出や、懐かしい頃、楽しく充実していた頃を思い描くとき、それは、じぶん自身にとって、何よりもそのとき生きていた関係を、意識に大切なモノとして描いているのではないかと思うのです。
更に、家族が、活き活きとして活発だった頃、それは、関係が緊張してお互いの心を発展させ支え合う関係として息づいていたのだと思います。そして、家族の中心にいた自己の働きが、家族の変化と分離を通して、縮小して行くような、それは、中心が希薄になってゆくような感覚かも知れません。そこに、人にとっての故郷が誕生する。この故郷は、具体的な場所やモノ・人を指すのでは在りません。まして、50年も時間が経っているとすれば、具体的な場所やモノ・人は、記憶のなかにしかないからです。そうだとするなら、真の失った故郷に近づくには、どうしたらよいのか。

故郷を、他者を通して成立する自己の原点として考えてみたとき、それは、過程であることに気がつきます。すると、故郷とは、帰れない旅路に……。老いてタイムカプセルのスイッチに手を伸ばしたとき、その失った故郷が発言する。
釈迦の故郷を望む姿を前にして、すでに言葉が息づいています。言うは釈迦ではなく他者の私ですが。人の心とは、関係の中で生きる過程そのものです。レミも、婦人も、釈迦も、故郷を望む過程に、旅立って逝くようです。



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