千の風(平成18年9月16日)
千の風(平成18年9月16日)
A THOUSAND WINDS Author UnknownDo not stand at my grave and weep,
I am not there,I do not sleep.
I am a thousand winds that blow,
I am the diamond glints on snow.
I am the sunlight on ripened grain;
I am the gentle autumn’s rain.
When you awake in the morning hush,I am the swift uplifting rush
Of quiet birds in circled flight.
I am the soft star that shines at night.
Do not stand at my grave and cry,I am not there,I do not die.
『千の風になって』 訳 和尚
どうぞ、私のお墓の前に立って、泣かないでください。
私は、そこにはいません。私は、眠ってもいません。
私は、あなたの歩みのなかに、1000の風となって、吹いています。
私は、こごえる木々の芽に、温もりをはこびます。
春、木々や草が一切となって花の蕾を開くとき、それは、私の喜びです。
夏、黄金色に実らせた糧のうえに、私は、耀く陽光となって、降りそそいでいます。
秋、シトシトと雨が降りそそいでいたら、それは私のあなたへの感謝です
冬、ダイアモンドのような輝きとなって、私は、大地を覆う雪の上にいます。
あなたが眼をつぶって眠りのなかにいるとき、私は、夜空にきらめく星々の瞬きとなって、あなたを見つめています。
あなたが、朝の静けさのなかで目を醒ましたとき、私は、すばやく駆け上がる風となって、回りながら鳥たち羽を休ませるでしょう。
どうぞ、お墓の前に立って、悲しまないで下さい。
私は、そこにいません。
私は、あなたが気がつけば、すぐ側に、千の風となって、生きています……。
千の風、それは、作者がいません。アン・ランダースが大好きな詩として新聞に掲載したことで、瞬く間に世界中に広がりました。千の風は、一人一人、千の風となって吹いています。日本では、朝日新聞「天声人語」がきっかけで、大きな反響を呼びました。多くのメモリアルで、この詩が朗読されています。
禅宗が語る現実の有り様は、今でも、地水火風の土と水と炎と風の中に、我々自身が生まれ、生かされ、土と水と炎と風の中に去って行くことです。
この地水火風の中に生き、最も自分らしく生きて表現していくことは、自分らしく死ぬことにかかわってきます。自分らしく生きる対象は、家族であったり、仕事であったり、趣味であったり、知識であったり、地域であったり、ボランティアであったりです。じぶん自身の年齢と他者や社会との関わりのなかで変化するものの、その動機は、いかに自分らしく生きることであり、それは、自分らしく死ぬが含まれているでしょう。人間の生が有限に限られていることに気づけば、その目的は無限な道であり、自己主張は、いつも途中にあることをまぬがれないものの、じぶん自身の死は、他者や社会に評価をゆだねることで果たさられます。
だからこそ、葬送という儀礼が必要なのだと思います。今は葬儀ということを中心に死者の儀礼が執行されますが、私が考える内容は、あくまで、葬送の儀式です。何故ならば、亡くなったという事実(葬儀)は一瞬のことで、時間は刻々と進んでゆくからです。いつまでも亡くなったという事実のままに止まることはできません。送ることで、残された人たちも、その事実から一歩一歩踏み出さなければならないからです。問題は、送る先なのです。
かっては、その送る先が明確でありました。死者の世界というべきもので、生者の領域とはハッキリと区別されていたのでしょう。死出の旅路をいそいでいるので、一杯飯を供えたり、死に装束もそうでしょう。棺に置く守り刀は、魂のいない亡骸に悪霊(火車とも)が侵入するのを防ぐためともいわれています。鐘や銅鑼などを鳴らすのもこのためです。団子を供えるのも四十九日の長旅に無事に死者の領域に到着するようにそなえるためです。また、私が葬家の方々と接して、今では、誰も三途の川を渡るという発想も持っている人はいません。今は、その区別が曖昧に、境界がなくなっていることを感じます。それは、今日までの古来のしきたりによる死の文化の衰退といえるものです。だからこそ、葬儀だけが中心になり、送る儀式は、火葬場への道のりだけになってしまった気がいたします。
私の葬送の儀式にのぞんだ方々は、告別式の後半や、安骨・初七日の法要で、下記の言葉を語っていることを聞いているはずです。
《 我々が生きる世界の延長として死後の世界が存在するとしたならば、旅立ちと言えばよいのか、帰ると言えばよいのか。旅立っていったモノの行こうとする世界。
それは、時間で言えば、今だ来ない時間ともなります。我々の過去や現在は、未来の一部としてあると捉えると、独立した未来という時間の中に、人として完成された存在の尊厳が輝きます。
存在から言えば、私たちを覆う大きな命の連鎖の中に旅立って行きます。それは、貴方の活き活きと生きていたことが、家族が生きていることの証明になり、大きな大きな私たちを覆う命という渦の中で、それぞれの人の、浄土更には天国という、命と時の世界の中で生きていることになるからです。
その場所で、あなたは、私たちと、同時に生きるとするなら、気ままに季節の飾られた花々に成り、風になり、その風に舞う花びらになり、雲になり、空にな、時間になることができるでしょう。
いつも思うのですが、人の体がなくなると言う意味を考えたとき、火葬場にて炎の中をくぐり抜けていくことは、実人生をも炎とたとえることで、さらに深い意味を持つと考えられます。その時、人は平然と、勇気を持って炎の中をくぐり抜けていかなければなりません。後戻りできない人生を象徴することなのです。いきいきと生きた実人生での年月そのものを炎として、歩んだ現実の世界で遭遇した苦悩、怒り、まよいを炎として、実人生は、実り有る人生に終止符を打ち、生まれ変わらなければなりません。
旅立ちの扉は貴方の肉体が火葬場にて炎の中をくぐり抜けていくことから始まります。そして、形あるものは、最後の別れとして、炎のなかをくぐり抜けます》と。
私たちは、私たち自身の誕生と死を確認するすべを持たないことの自覚がめばえたときから、始まりも終わりもない世界を持つともいえます。確実な誕生や死は、いつも他者にゆだねられ、この身は、自分の生のみを最後まで生きつづけるという自覚こそ大切なことだと思います。
それでも俯瞰して眺めると、「人の一生は、みずから朽ち、消滅して、形なき限りなきものとなることの旅路です。形なき限りなきものとは、永遠の一なるもののあらゆる変容のしるしです」。
1000の風の英文を手にいれて、つたない訳詩の試みをしてみました。死体を遺体ということで、霊魂が分離します。お墓は、亡骸が納められる場所です。そのお墓に沢山のお骨が納められているとすれば、この場所も、旅立った逝ったものの、道の交差点かも知れません。私なら、「その墓の前に立って、泣くなら、どうぞ悲しみが止むまで、そこに止まってください、ここは悲しみによって貴方を癒す場所です」と告げるでしょう。自分にとって悲しみの場所を持つことは、逝ってしまったものにとっては、嬉しくもあり、とても辛いものです。そんなとき、千の風が身体を吹き抜け、思わず「有り難う」という気持ちが、顔を空に上げさせたとき、この詩の持つ力が私たちの身体にみなぎることを念じます。私たちは、家族の中であなたが創られ、貴方が創った家族の中に生き生きと暮らしていた想い出を忘れることはありません。
朝日新聞 [天声人語] より転載
だれがつくったかわからない一編の短い詩が欧米や日本で静かに広がっている。
愛する人を亡くした人が読んで涙し、また慰めを得る。そんな詩である。 英国では95年、BBCが放送して大きな反響を呼んだ。アイルランド共和軍(IRA)のテロで亡くなった24歳の青年が「ぼくが死んだときに開封してください」と両親に託していた封筒に、その詩が残されていた。
米国では去年の9月11日、前年の同時多発テロで亡くなった父親をしのんで11歳の少女が朗読した。米紙によるとすでに77年、映画監督ハワード・ホークスの葬儀で俳優のジョン・ウェインが朗読したという。87年、女優マリリン・モンローの25回忌にも朗読されたらしい。
日本では、95年に「あとに残された人へ 千の風」(三五館)として出版された。最近では、作家で作詞・作曲家の新井満さんが曲をつけて、自分で歌うCD「千の風になって」を制作した。
人の道(平成18年9月18日)
人の道(平成18年9月18日)
人の一生は、巡礼の旅路なり。日ごと遍路は、遠き道あり、近き道あり。往く道もあり、もどり道あり。
巡礼の旅路は、巡り廻る道。
そして、巡り廻る旅路は、回帰と再生の繰り返し。
回帰は、人の振り返りなら、再生は旅立ちか。
法事において、焼香に行くことは回帰として、席に戻ることは、再生として。
立ち止まることなく巡り廻る旅路に、人生を任せることも巡礼の旅路なり。
振り返りは、じぶん自身を問うことなら、旅立ちは、今の一歩を歩むこと。
白装束は、死に装束。生きて着る死に装束こそ、禅の教え。
杖は墓標の今日の旅路なり。
聖地を旅する人たちを巡礼者とするなら、遊行の人たちは、野を越え山を越え川を渡ってひたすらに歩きます。釈迦のように。きっと釈迦もこの言い伝えの中に生きていたのだろうと思います。釈迦の歩く姿は、年齢によっても大きくかわりますが、その最後は、ふる里を望んで横たわったことだ。死に場所として。しかし、そこが最後の地点であるとは思いません。
釈迦の時代、人生を四つの長さに区切っていたと言います。
先ずは知識を吸収しと、知識をじぶん自身のものとするためを第一と考えました。そのためには、この目的に違う退けようとする誘惑を自己のうちに認めることが求められます。
《学生期(がくしょうき)》
次が、仕事に就き、結婚し、産まれた子どもを育みながら家庭を形成しながらも、両親や親しいモノの死を通して、先祖をまつり家族を守ることを憶える。第一番目が独り歩むことを強いられるとすれば、この二つめは、大勢の人物が登場して、自分を豊かにするのでしょうか。
《家住期(かじゅうき)》
三番目は、家族も巣立ちを迎える頃になり、そろそろ人生の完成を目指す時期ともいえ、漂白の道に脚を踏み入れ、独りになるための過程を模索いたします。それは、芸術・宗教・思索の道が見えてくるものの、孤高の世界が見えてはいるものの、元に戻って、家族の側で過ごすともいえます。《林住期(りんじゅうき)》
最後は、じぶん自身を灯明として、法を灯明として生きることが、聖者として生きていくということであり、もはや巡る道もなく、旅をしているという意識もない。これを遊行期というのですが、禅者は更に参ぜよ三十年と云い放ちます。
一生を越えて歩めというのか、一生どころか一〇〇〇年をも越えた禅者がいました。中国は南泉和尚です。彼には、もはや一人という概念も、南泉和尚という名前も越えています。死んで前の家の水田を耕す牛となるといった人です。
確かに、南泉和尚亡きあとでしょう。どこか畑や道ばたに牛となり、馬となって、草をはんでいる姿に接することを意識したとき、南泉が草をはんでいるのか、私が草をはんでいいるのか、私には解らない時があります?
そう言えば、禅のコトバに、「釈迦も弥勒も修行中」というコトバがありますが、釈迦は、過去の人、弥勒は、五十六億七千万年に出現する未来の人ですが、禅は、いつでも今・ここです。どうやら、これは、私が釈迦になり、弥勒になるほかはないのでしょうが……。
家族のなかで、人が生まれ、死んでいく場所こそ家だといわれていた頃、家は年々歳々変わらぬものとして在った。今は、帰宅して休むところとしての拠り所となっている。
極端なことをいえば、子供もいないし、年寄りもいない家が、構造として出来上がっているともいえます。それは、子どもから取り残された、お年寄りだけがいる家の増加でもあるのでしょう。人の命が生産され、人の命が廃棄される場所の役割が、家ではなくなり、人の命が消費される場所が家となったようにみえます。
生まれるようとする場所と死のうとする場所は、顔を持ちませんし、生まれた後と死んだ後の場所は、近づくこともできません。人は誕生と死の間だけ、家という拠り所を必要としているのでしょうか。
それでも、家に、人が住んでさえいれば、今でも、道は必要とされます。道だけは、人がいさえすれば、長く続いています。道はその家から始まります。隣の家にゆく道。会社への道。学校への道。友達のうちへの道。仲間と集う場所への道と。
道により生かされている私は、その道に頼ってはいるものの、道は行く先を拒みませんし、その道を行きたどり得たとしても、道自身は何もしゃべりません。
老子は「もの有り、混沌として、天地に先立って生ず。音もなく、無にして、独立して、不変であり、十方に通じている。それは万物の母であり、仮に道という。真の名を付けるなら「大」という。大とは、逝くことであり、逝くとは、遠ざかることであり、遠ざかるとは返ってくることである」といいます。その道は、あるがままを規範といたします。
道は、むなしいうつわと云えますが、くみ出しても尽きることはなく、自慢することもなく、争うこともなく、間違うこともなく、傷つけることもない。
ある僧が尋ねた。 「道とはどのようなものでしょうか」。
趙州和尚が答えた。 「その垣根の外にある」。
ある僧。 「その道のことではありません」。
趙州和尚。 「ではどの道のことだ」。
ある僧。 「大道のことでございます」。
趙州和尚。 「大道のことなら、長安の都に通じているよ」。
あまりにも有名な禅問答ですが、臨済宗のとある老師は、「道というのも、もともとは、こっちの家からあちらの家に行く道なのですね。その道を修祓(しゅうふつ)する、ととのえ祓う、それが道徳ということです。」と言いました。
巡礼と回帰は、最少単位の人と人との出会いや、結びつきを現実的に反省し整える姿なのだと。大道とは、現実的に、反省し整える姿、そのモノ、真っ只中にあるのだと教えてくれています。
『人の道』と言うも、すべては今歩いている足元から始まります。私が歩くから道は存在すると同時に、歩いている私が無ければ、その道も存在しません。
どうも、我々は先を急いで、目的地を目指しますが、実は真の目的地は、目先ではなく歩くそのものなかに、あるがままにあると言えるのでしょう。
あなたは、いつから、一年が始まりますか?(平成20年8月1日)
あなたは、いつから、一年が始まりますか?
(平成20年8月1日)
日本には一年に二度、大きな、そして人々が大移動する喜びの行事があります。今はあまり使わない言葉かも知れませんが、「盆と正月が一緒に来たような」と言う言葉。実は、盆と正月とは、人々、民衆、そして家々の祖霊たちにとっては、盆と正月は里帰りによる喜びの対照の日々でした。
まず、正月の神様の起源は、柳田国男氏によれば、一年を守護する神、農作を守護する田の神、家を守護する祖先の霊、祖霊の三つを一つの神として祭った年神(としがみ)であるとしています。門松も床の間や仏壇に供える鏡餅も、神たちが降臨する依代(よりしろ)であり、降臨した後は、神そのものでもあり祖霊そのものでもあります。どちらの神や祖霊たちも、根本は、稲の豊作を祈願することを象徴として、死と再生の行事でもあり、だからこそ、一年の無事を祈り、生活の稔りを占うこととなります。この正月の神たちも、祖霊たちであることから、祖霊たちにとっては、山や川から家々に戻る喜びの日々であり、里帰りの行事ともいえるのです。
東京のお盆は七月です。毎年毎年繰り返し訪れる盂蘭盆の、お盆の意味は倒懸(とうけん)、逆さまという意味です。
その盂蘭盆の語源は、イランであり、死者の霊魂をウルヴァンと呼ぶことにあるといいます。
“逆さまに吊された苦”と“死者の霊魂”の伝説が、遙か彼方の日本で実を結び、お盆の行事が生まれました。
もともとの意味は、逆さまに吊された霊魂を救うべく、僧を家々に招いて食事を提供することが、供養の中身であり、それが法事の原点です。これは、死者に対してお経をあげることが法事ではなかったことを意味いたしました。
その倒懸という逆さまの意味が薄れてきたのが現代のお盆という気がいたします。
家々に子供たちや親戚が一同に集う季節が、日本には二度あると最初に書きましたが、逆さまに吊された霊魂を救う意味が薄れてくれば、実は、逆さまに吊された苦そのものを活きている私達に、死者の霊魂を安らぎに見立てたとすると、逆の意味の内容となって考いることがうかがえます。すると、本来、家という癒し場所であるはずの、今は失おうとしている機能が見えてくるような気がいたします。
各地の盆踊りは、お盆様と共に踊ることや、帰ってきた喜び、仕事からの解放と様々です。するとこのお盆の四日間が喜びの日々であることから、その日以外が逆さまな状態を意識してしまうのです。お盆をわざわざ逆さまという意味にした理由は、そしてこの季節自体にも意味があるような気がいたします。
東京では、お盆が開けることは、あの長く暑い夏の到来を告げることと同じです。しかし、出会いと別れということで考えたら、正月のように、一年の初めに喩えることも出来るもではないでしょうか。
お盆には、どんなものでもよいのですが、精霊棚(しょうりょうだな)を作ります。同時に、篠竹とか棚を組んでマコモのゴザを敷いて、四隅を竹や篠竹で飾って、縄で結び、鬼灯(ほおずき)や昆布などで飾ります。
お供え物は、まずは器の中に水を張り、みそはぎの花を浮かべたものです。また、水の子あるいは、水の実とも言い、茄子(なす)などを細かく切ったものを皿に供えたものです。なぜ茄子なのかというと、茄子の種は、数多くあり、それが108の煩悩の数にたとえられて、それを取り除くという意味があるからです。そして、そうめんを供えます。
そして、マコモやゴザの上には、茄子(なす)の牛、胡瓜(きゅうり)の馬です。なぜに馬と牛かと言うと、馬に乗って急いで来てもらい、牛の背にお土産をたくさん積んで、ゆっくり帰るという意味だそうです。亡き方々の乗り物ですから、13日は、内に向き、16日には外に向くと言われています。
お盆にて迎えた精霊たちに対面して、どんなことを思えばよいのか、すればよいのか?
あの声、あの姿、あの匂い、あの年月は、私たちにとっても、この声、この姿、この匂い、この年月です。せめてこの期間だけでも、だから…………
あの声が聞こえなくとも、話しかけたい
あの姿が見えなくとも、食べものを供えたい
あの匂いの代わりに、香りを届けたい
そして、この年月の寂しさを、お花で飾りたい
生と死があるから、花々は実を結ぼうとし
迎えた朝は必ず夕暮れになろうとする
せめて、今、ここに、一緒にいることを祈り、灯りをともしつづけたい
そこで、祖霊たちに捧げる真の供物とはと考えてみると、その場所に立ち、私たちの確かな追憶によって、懐かしい親しみの人たちを、私たちの心の中に甦らせることだと気づくでしょう。
私たちがこのことを意識するなら、祖霊たちは私たちとともに生き続け、祖霊の心象は救われ、私たちの悲嘆が実り多いものになるように協力してくれるでしょう。
こうして精靈棚には、食べ物を象徴として多くの供物を捧げました。これは、人は、死して魂となっても、旺盛な食欲に支えられているものだとの気づきです。でもよく振り返ってみると、これは私たち活きている人間の貪欲さであり、気がつかないけれど、心の貧しさの原点です。このゆえに、お盆は、みずからじぶん自身を見つめ直す誓いでもあります。
お盆は、私たちの幸せを祈り、願う祖先たちの心痛を安らかにして、迷いの道から遠ざかることを祈り願うものでもあるのでしょう。
されば、何よりも大切な心構えは、多くの祖先たちと、今を活きる私たちの、ともに幸せを語れる集いの場所がお盆であって欲しいと思います。
あなたは、いつから、一年が始まりますか?
さて、お盆の季節には、どうしても帰るという行為がつきまといます。八月の盆は、日本全国に繰り広げられる生きている者の、あちらから、こちらに、こちらから、あちらに移動します。これは、生きている人たちも帰る、亡くなった者たちも帰る。帰ることは出逢いのためであり、ふたたび大移動が始まることは、一年という別れを意味いたします。
そのためか、盆の入りにはあちらこちらの家々で、迎え火が炊かれます。どこの家々も夕刻に炊かれます。明けの送り火が夕刻に炊かれるのは、一日の終わりとして、16日の夕刻に帰る足元を照らし、ちらちらと燃える火と烟により、また帰って行くという意味です。
送り火は炊かなければいけないものか、そんなことを考えます。でも、炊かなければならない。これは、共に生きる場所が違うということを意味しているのでしょうか。
おそらく、亡くなった者たちから見れば、お盆が終わって帰ろうとするとき、また戻ることが出来るだろうか、また戻っても喜んで迎えてくれるだろうか、迎えられる家族や家があるだろうか、そんなことを思いながら、一年が始まって行くのだろうと、彼らを送りながら思いを馳せます。
これには、待続けるという行為と離れていかなければならない自覚があるのでしょうか。しかし、おおかたの私たちは、そんなことを思いも及ばず、知らずに季節が巡ってきているはずです。待つこともないし、離れる自覚もないのではないかと思います。
私たちが16日に、祖霊たちを送った後に気づいたことがあります。
祖霊たちはどこに暮らしているのだろうと。古来からの言い伝えは山や川や海です。でも、ある人は、すぐ近くにいると言いますし、夢の中によく出てくるとも。ある人は、思ったこともないと、夢などにちっとも出てきたこともないと。
でも遺骸が納められたお墓の前に立ったとき、遺品を手にしたとき、遺影の視線に気がついたとき、そこから、天空や見えない世界に繋がっているような錯覚を覚えます。きっとその時、知らず相見(まみ)えているのではないかと。私の思いが彼方の世界に届けば、その思いを糧に、祖霊たちも季節を数え過ごしているでしょう。
亡くなって祀(まつ)られることは、いずれは一人という偲ぶ対照から、幾度となく繰り返されて、また盆を迎えるうちに、より大きな変容という普遍性を与えられて行くでしょう。
前住職 二十三回忌にて(平成20年9月1日)
前住職 二十三回忌にて(平成20年9月1日)
トルストイの『人生論』に次の言葉があります。「お前は、みながお前のために生きることを望んでいるのか、みんなが自分よりお前を愛するようになってもらいたいのか。
お前のその望みがかなえられる状態は、一つだけある。それは、あらゆる存在が自分よりも他を愛するようになる時だけだとしたら、お前も、一個の生ある存在として、自分自身よりも他の存在を愛さなければいけない。
この条件のもとでのみ、人間の幸福と生命は可能となり、この条件のもとでのみ、人間の生命を毒してきたものが消滅する。
存在同士の闘争も、苦痛の切なさも、死の恐怖も消滅するのである。
他の存在の幸福のうちに自分の生命を認めさえすれば、死の恐怖も永久に消え去ってくれる。」
平成20年8月25日(火)、父の子ども達だけの家族で、夕方、父の二十三回忌法要を、執り行いました。本来の住職にたいする宗派式の法要とは違っていましたが、望んだことです。
鎌倉の円覚寺僧堂に在錫(ざいしゃく)している息子も呼んでの法要でした。次の世代の陽岳寺跡取りは、僧堂で様々なことを覚えてきたのか、立ち居振る舞い、気づかいと動きがすっかり雲水となっていることを嬉しく思いました。お経の始めや、回向(えこう)の読み上げを息子に託したのですが、回向文は、宗派のものを息子は読み上げました。その読み上げを聞きながら、私は、すっかりと安心した気持ちになっていることに気づきます。
その回向を読み上げる前に、私は、十七回忌に作った回向文も、前机にそろえて準備したのです。
回向という漢文をそのまま音読みにしても、言葉は伝わらないものですし、まして、人の心に考えさせ、波紋を広げさせることはできないものです。和尚の法要は、つねに”慈”という信(まこと)を捧げたかが問われます。それこそ一生を尽くして、”慈”の字を参究することが禅宗の和尚の努めだからです。
そこで、祭壇を前にして深く思うことは、真慈とは、総てを捧げ尽くした信(まこと)であり、これこそが人間の幸福であることと検証することが、和尚の法要となることです。だからこそ、その真慈に対して、三拝を繰り返します。その真慈を貫き通したことに、仏は、明らかにして、それこそがあるがままの姿であると示したまえと……言葉ではなくと……。
そんな法要を行いつつも、前住職である前に、私の父としてという思いもわき起こります。それには息子がその場に参加することは、今何よりも必要なことです。
父子唱和(ふししょうわ)という禅語があります。それは、潙山(いさん)禅師と仰山(ぎょうざん)禅師が互いに問答を投げかけ合うことで、ことの真実を明らかにした様をあらわす言葉です。これをなぞらえて、潙山が父ならば、仰山は息子のようでもあります。潙山は息子のため、仰山は父のため、真慈に対して応答して練り上げていきます。
父が遷化して22年、その孫が今修行に出かけて雲水として立つ姿に、巡り来たった、今日この時、陽岳寺にとっては真慈を尽くしたともいえることだと気づきました。人は死しても、会話が成り立つものだと、法要とは、回忌とは、彼岸とは、お盆とは、そうしたひとつの節目であって欲しい。
父が亡くなって2年がたったある日のことでした。父が選者をしていた短歌雑誌”沃野”の編集から父の追悼号を出したいからと、追悼文をたのまれました。沃野社は国民文学系と聞き、窪田空穂さんと仲間の植松寿樹先生が創刊した月刊誌で、父は、植松先生の教え子でした。原稿用紙何枚だったか忘れましたが、以下はその抜粋です。
《昭和58年10月6日、朝、父の兄が亡くなる。兄が病床について、私たちは一回の見舞いを除いて、なるべく伝えることを避けていた。父と母を車に乗せて、鎌倉に弔問に出かけた時のことは消えない思い出となり、母と私の脳裏に強く焼き付いている。冷たくなった兄の枕辺に、父が両手をつき、無言にうなだれていた姿を……。先に旅立った兄を前に、父は何を思い、何を伝え、何を願ったのか、今は知るよしもない。ただ、時間の止まったその光景だけが、ハッキリと残った。
父は長い下り坂を、一人転げ落ちているかのように、時折、手を差し伸べた。母はそっと手を取り、いつまでもさすっていた。遠くをじっと見つめている時があった。そんな時、母は一緒に黙って遠くを見つめた。母は父のことを、まるで子供のようだといった。時は悪く過ぎていった。
昭和60年3月16日、父にとっては内孫の、私にとっては初の男の子が生まれた。それは赤ら顔でシワのある四千㌘を超えた大きな子だった。早く父に見せたかった。そして抱いてもらいたかった。病院から長男が母子共に退院したその日、父に報告し、私の妻が産衣にくるまれた赤子を、そっと父の前に差し出すと、父の顔が穏やかになり、両手を差しのばす。私の母がするごとく、赤子を抱いた父の肩に手を添え、私は父を抱いた。
7月14日、父が入院した。昨日からの熱でグーグーといびきをかいて眠る。肺炎を起こしたのだ。母が動揺している。この夏は暑かった。
翌年の昭和61年8月12日、零時6分、父が母に見守られて、その腕の中で息を引き取った。父の生涯が終わったのだ。15日に葬儀のすべてが終わったが、夕刻ホッとしていると、前の三角公園から盆踊りの声がいつまでも聞こえていた。そして翌日は、富岡八幡宮の祭り囃子がこだましていた。父よありがとう。きっと、家族のそれぞれの拠り所として、心のうちに、ずっと生き続けるだろう。》
思い出してみれば、父が亡くなる何年か前に、父の親しい人が何人か亡くなっている。
「大阪の友喪ひし日昏なりわが義兄死にし」と詠んだが、その時、父を病魔がむしばんでいたのだ。義兄の死は、昭和58年6月4日のことだった。父と義兄とは、囲碁相手でもあり、また、話し相手でもあった。よく義兄が遊びに来ると、日長一日、碁をしたりビールを飲んで過ごして帰っていったものだ。父もそれと同じことを、義兄の住んだ船橋でしたことだった。通夜・告別式と無事にお弔いを終えての帰りです。
「義兄の死をいたわり呉るる点滅か黒々と更けくる夜のラ・ラポート」と歌った。
それは湾岸道路沿いの広大な船橋ヘルスセンター跡地に、東洋で最大と銘打って出現した、ショッピングセンターのシンボルタワーのきらめきを、目にしたときの歌だった。私が幼いとき、父に連れられ、水が怖くて泣き、父の胸にすがりついたことがある海辺でもあった。と同時に、私の最後のサラリーマン時代も、何故かこの場所に縁があった。
それは、この”ららぽーと”のオープン前の商調協の対策時代から、オープンして一年、運営がスムーズに動くのを見届けるまでが私の仕事だったからだ。建設中の財務諸表や収益モデル、モール店や旗艦店とのポスシステムのコンピュータシステム、大型店を含めて固定資産の分離作業、それにオープンしてからは、資金の回収と分配作業と休むことができない日々を過ごした場所でもあったからです。
父が、義兄の死であっても、ららぽーとと歌ってくれたことが懐かしく思ったものです。
その病魔に対し、「薬飲めば直る病ひと聞かされて暗に直ると自ら治む」と詠んだが、これ以降の父の残したノートには白紙が続いていた。
冒頭に、トルストイの人生論から掲げた言葉に、父だった住職がどこまで幸福に迫れ切れたか分かりませんが、和尚という立場に立たれた限りは、優れて築き上げた気高さとして、ひとえに、自分のすべてを滅ぼして、ただ人のためだけに、ただ相手の中にだけ生きようとすることに心がけたことを思います。
それは、父に接する人の目や耳や鼻や口や皮膚ですべてを受け止め、父に接する人の胸で呼吸し、人の頭で考え、人の心で感じることを、修めようとする試みです。このことによって初めて人間は、他人の幸福を引き寄せて自分自身のものにすることができます。
だからこそ、法要において、今日、集う殊勲は、この真慈を捧げ、共に、この気品に包まれることをと、祈念するのです。
平成21年お施餓鬼会を振り返って(平成21年6月1日)
お施餓鬼会を振り返って(平成21年6月1日)
平成21年5月23日、陽岳寺のお施餓鬼が、今年も無事厳修できましたこと、心よりお礼申し上げます。たとえ、あの人たちの声が聞こえなくとも、今、話しかけたい 。
たとえ、あの人たちが食べなくとも、好きだったものをお供えしたい。
昨年のお施餓鬼の後の役員会のときでした。陽岳寺の次の世代が修行の道場に上がってから一年が経っていたときです。「護寺会会員から、袈裟とか衣とか、何か応援したいと思うけれども、どうでしょうか」と聞かされました。
平成19年11月末、M子さんから、次の世代のためにと、袈裟や衣料として使って下さいと寄付がありました。そして20年の2月半には、Kさんから同じように寄付がありました。このお二方も、次の世代の帰還を楽しみにしていたのですが、今は、すでに故人となっています。昨年12月半ばには、総代のNさんの奥様が、寄付金を持参して頂きました。
考えてみれば、一人前の和尚として、季節の袈裟や衣をひとそろえ新調しようと思えば、上限はきりがありません。あるもので過ごすのが禅宗らしいと思うのですが、こうしたことを思ってもらえる、考えてくれる、動いてくれること事態が有り難いことです。
その上、今年のお施餓鬼の冒頭、挨拶に立った檀家総代のYさんの口から、陽岳寺の次の世代が、3年以上の修行の末、来年の7月末には帰ってくるだろうと告げられました。そこで、その次の世代のために私たち一人一人も、全員が何かできることをしたいと話されました。「会員一人一人全員が、ほんの少額でも寄進して頂き、新しい袈裟や衣となって身にまとってくれたら嬉しく思う」と。
この言葉は、昨年11月末のご祈祷のときの挨拶にもありました。その祈祷会が終わって一週間が過ぎた頃、総代のYさんが心筋梗塞で入院したと、やはり総代のUさんから連絡が入りました。
驚いて心配していましたが、12月の末に手術が成功したことを、病院からYさんの喜ぶ声で電話がありまして、ホッとしたことは記憶に新しいことです。その後、リハビリを続け、今年の1月末には退院したことを娘さんの口からお聞きしていました。
大腿部の血管を心臓の血管につなげるという大手術の生還でした。「千葉の中央メディカルセンターの医療技術は、日本でも指折りの数に入るほど」という、喜びと褒め言葉を聞いてから、すでに4ヶ月が過ぎていました。
お施餓鬼の当日、そのYさんの左足はパンパンにむくんで、そのむくんだふくらはぎから大腿部に向かって傷跡が長く続いていました。杖を使い、足の歩みはおぼつかなくなっていました。それでも、強い意志は健在でした。
お施餓鬼が終わって、翌々日には、「本当は、役員が、参加されたお檀家さんのお世話をしなければならないのに、言葉が足らず行き届かなくて」と電話があり、檀信徒と陽岳寺に対する熱意に頭が下がりました。
たとえ、あの人たちの喜ぶ顔が見えなくとも、お花をお供えしたい。
たとえ、あの人たちの姿が見えなくとも、手を合わせたい。
その施餓鬼は、56億7千万年後に出現するであろう弥勒菩薩を待てない、一年に一回の試みです。誰が考えたのか、56億7千万年という数字は、出現しないという数字に思えます。何故5,6,7と続く、その出現しない数字を、出現するのだと信じる気持ちが、こうして2,600年以上にわたって続いていることを驚きます。
陽岳寺においても、370年にわたって続いていることを思えば、この重みは、何百人、何千人、何万人の願いや祈りがあり、同じ数の不幸や不運が繰りかえして、乗り越えてきた歴史です。
ここから、これは辛抱と忍耐、そして精進という言葉が導きだされるでしょうか。お施餓鬼の法要の中身を、我々はなかなか知らないものです。形にしてしまうと心が忘れられ、伝わって来なくなるからです。法要に参加している和尚も、中身が薄れてしまうと、ただ、お経を読んでいるだけに見えてきますから不思議です。
「仏は、きびしさや一途さという我が心の鬼を造り、鬼は、優しさや受け容れるという我が心の仏を造る」ともいえるお施餓鬼会に、参加した一人一人に親しくお話しを聞かなければならないのですが、できないことに心苦しく思います。
もう、あの人たちと巡り逢うことができないから、何度でも、お香を献じたい。
もう、あの人たちと巡り逢うことができないけれど、何度でも、感謝を捧げたい。
心臓にペースメーカーを入れ、ガンが何度か発病し、危篤を乗り越えて「四つの病気を抱えて、来年は来ることができるか」、そんなことを思いながらも、参加してくれるお年寄りは、一期一会です。
そうかと思うと、足を悪くして行けなくなってしまったと電話で残念の思いを語る、90歳を優に超えた女性もいます。その方が90歳になったとき、「80代はまだ良かったが、90代半ばになって、辛い」という言葉には、未体験ゾーンというより、生涯わかりえない言葉もあるのだと思ったものです。このことで寝込んでしまうのでかと脳裏によぎります。今までも乗り越えてきたではないかと無事を願ってです。
いつもは夫婦二人で参加していたのに、「奥様は?」に、「妻がガンでリンパ節を切除したのですが、広がってしまって」と語る顔は、人生の様々なことを二人して乗り越えて歩んできた道の非情さと、それでも現実を受け入れて歩まなければならない道が思い浮かびます。
父を亡くして母に「これからは貴方がお寺のことを尽くすのですよ」と守って、家族を背負ってお寺に来る若い男性の、落ち着いて、穏やかに一生懸命に勤める清々しさは、こちらまでも洗われるようです。
「お寺のすることが好きだから」と父から連絡があり、お施餓鬼に通ってくる若い男性には、「有り難う」と。思いだして見れば、この子の祖父や祖母が鉄砲洲に住んでいた頃、この祖父や祖母、伯父もそうだった。お寺に来ては長話をしていたことを想い出します。これは、変わらない家族のDNAなのか。
連絡も入れずに、当日、突然に訪れる人や、昨日振り込んだからと言って来る人。
「母が寝たきりになり、お寺に行けません。」と、娘さんの必死な声で「お願いしますね」と……。
この法要に参加する一人一人の思いは、一人として同じものではありません。お施餓鬼の法要に、見つめる目、聞き取ろうとする耳は真剣です。法要の言葉に、式場がシーンとして、これは陽岳寺の法要が大きく変わってきたことの証しです。生きている人に誕生日があるように、亡くなったものに年忌があり、その変わった内容を聞き漏らさないようにと、真剣さが伝わってまいります。
私の中に脈々と流れる尊い血という歴史。今・ここに、いっしょに、いるから……。
ここから、尊い私が、生まれた。
ジテンキジンシュー 我ら、汝等に、この食を、施さん。
今年も、親しかった家族から切り離された多くの先に旅立たれた人への思いと、すべてを残して旅立っていた人の思いを、お施餓鬼の法要は、結びつけたと信じています。