目次
輝いている時
夢中(ゆめのなか)
芝浜
江戸っ子
亀住町(平成13年7月1日)
モンセ・ワトキンス~夢のゆくえ~(平成14年1月3日)
新牌開眼
英霊(平成17年5月23日)
目覚め
よわい「齢」
また始めたらよい
三大聖樹(平成19年4月17日)
滅度(平成19年9月18日)
安住の地(平成20年11月15日)
心眼(平成22年3月1日)
とかくこの世は
とかくこの世は
祈り(平成17年11月29日)
品位(平成18年1月20日)
ニャンニーシンズ(平成18年3月1日)
鍵(平成18年4月25日)
チベット(平成20年5月1日)
SYOHOU
諸法
四十四の問い~ミヒャエル・エンデ
先ゆく輩
さき行く輩
祖師年譜
ダルマ
慧可
五洩霊黙和尚
石鞏慧蔵禅師
大珠慧海禅師
西川の黄三郎
馬祖道一禅師(馬大師)
五百生 百丈和尚
大梅山法常(752-839)
麻谷山宝徹禅師(平成12年1月27日)
鎮州普化(ふけ)和尚
寒山・拾得
虹の彼方に
ヘイヴン・ペックの場合―続貧しいけれど、豊かだった―
生前葬
平和を我らにーGIVE PEACE A CHANCE(平成13年10月31日)
ソクラテスとヤージャニダッタ
蓮(平成14年6月2日)
心-KOKORO(平成14年6月25日)
独り暮らし(平成15年4月12日)
老いが、咲いていた!(平成16年7月5日)
深濱-fukahama
死に顔
松山鏡(ソクラレストとヤージャニダッタの続き)
真ん中(平成20年4月1日)
百万回いきたネコ(平成21年1月1日)
夜来る鳥(平成21年1月1日)
だいじょうぶ、だいじょうぶ(平成21年2月1日)
無常への帰依
無常への帰依
希望(平成12年1月2日)
葬式坊主
泥棒
赤とんぼ
老い
……ロス
後姿
寿陵
ついで参り
目標
六道を行く
もの言わぬ羅漢達…揀択をこえて…
宮本武蔵
五合庵断章(平成10年10月17日)
K子さん!(平成12年7月19日)
今は昔
十一面観世音菩薩
尽七日忌(平成19年5月1日)
OSYOU
OSYOU
この手のひらに―禅僧の死―(平成10年11月18日)
戒(平成10年7月25日)
幽霊
みんな仏教徒(平成10年5月27日)
最後の晩餐(平成10年5月23日)
禅問答(平成10年5月31日)
分銅
天国は汝ら自身に宿る(平成10年11月24日)
宗派
穢れ(平成12年8月30日)
お彼岸
仏心
仏心
ご祈祷
施餓鬼会にて(平成17年5月28日)
永遠の命
輪廻する葦(平成10年5月27日)
連鎖する命(平成10年6月2日)
涅槃(平成10年8月12日)
鏡(平成10年7月25日加筆)
流星
TAO(平成11年1月3日)
四大
挨拶
冥福
盂蘭盆
祈り(平成14年7月4日)
仏事歳時記
再び 最後の晩餐
この手のひらにII(平成18年11月18日)
死んで生きる智慧(平成19年3月27日)
五百生(平成19年11月20日)
破地獄偈(平成20年5月24日)
この指止まれ
この指止まれ
家族と家庭(平成11年1月5日)
導師(平成11年2月26日)
家から個人へ、そして家族・友達へI
家から個人へ、そして家族・友達へII
脳死そして臓器移植(平成11年3月2日)
独り決めの生き方
僧堂I
僧堂II
僧堂III
恥じ
僧堂IV
返事
父殺し・母殺し・友だち殺し・子殺し(平成20年1月1日)
その後
その後
ほとけさま(平成17年5月1日)
仏が仏に合掌する
戒名(平成12年3月14日)
無用の用(平成12年2月21日)
世話
大きく育て!(平成11年1月18日)
しもべ(平成10年11月7日)
電話(平成10年8月22日)
意思
寡黙
妄想(平成10年8月2日)
川(平成10年8月22日)
風如(風のように)(平成10年6月18日)
追悼(平成10年5月27日)
受容(平成10年6月18日)
蒸発
臨終(平成10年6月8日)
外道
障子(平成13年3月10日)
日月(にちげつ)
年寄りの出番より
人生とは、闇を照らす一瞬の蛍の光
時の旅人
時計(平成12年1月3日)
星(平成11年10月15日)
溝(平成11年8月2日)
過去心…念の起こる処(平成11年6月19日)
与える時間(平成11年5月24日)
桜(平成12年3月2日)
無常(平成11年4月16日)
川(平成10年9月17日)
有時(時の構造)(平成12年2月5日)
時の旅人(平成12年2月1日)
揺れる木々の葉
この人生の速さはなんだ(平成14年12月26日)
法句経より-時の旅人(平成15年2月4日)
寂然不動 如春在花(寂然不動、春の花に在るが如し) (平成16年9月19日)
ZENGO
自立
橋は流れて(平成10年9月18日)
無事
過去(平成10年5月23日)
たまごっち(平成10年5月23日)
一衆觸礼(いっしゅうそくれい)
六道を輪廻する
二人三脚
生老病死
筋肉番付
ポケモン
俺は、親馬鹿か!
塵も積もれば山となる
生と死と永遠
最終章
一章
二章
三章
四章~(未完)
時間旅行
時間旅行
命の歌-母の短歌
礎-いしずえ-
離魂(平成19年8月25日)
海辺橋
海辺橋
ふるさと(平成18年3月4日)
千の風(平成18年9月16日)
人の道(平成18年9月18日)
あなたは、いつから、一年が始まりますか?(平成20年8月1日)
前住職 二十三回忌にて(平成20年9月1日)
平成21年お施餓鬼会を振り返って(平成21年6月1日)
奥付
奥付

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 夢と言えば、ヨーロッパでは、フロイトやユングを思い出します。日本では、余り知られていませんが、今から830年ほど前に生まれ、60歳で没した、京都高山寺の明恵房高弁上人に、師こそ、ご自身の見た夢を克明に記した人であり、『夢記』という著述があります。
 時代によって持つ意味は変わるものの、≪夢≫も大きく意味合いが変った言葉です。
 古来より、禅宗では、人が亡くなると、床の間や枕もとに、「夢」という字を掲げたものでした。
 人生の軌跡を夢として把握したのです。人の生そのものが、≪夢≫であったなら、生そのものの≪事実≫は何処にあるのだろうか?

輝いている時
夢中(ゆめのなか)
芝浜
江戸っ子
亀住町(平成14年7月1日)
モンセ・ワトキンス~夢のゆくえ~(平成14年1月3日)
新牌開眼
英霊(平成17年5月23日)
目覚め
よわい「齢」
また始めたらよい
三大聖樹(平成19年4月17日)
滅度(平成19年9月18日)
安住の地(平成20年11月15日)
心眼(平成22年3月1日)

輝いている時

輝いている時

平成12年5月15日、それはK子さん(無情への帰依-K子さん)の亡くなった日です。
そして平成13年5月15日、K子さんの本が、ご主人と多くの方々の協力によって出来上がりました。
その真新しい本の表紙には、『皆さんお元気ですか』とK子さんの字で題名が記され、K子さんが出した葉書の絵が乗せられています。大きくK子さんの左手で、一生懸命何かを掴んでいる淡彩の日本画です。右手で筆を使いながら、葉書一杯に描いたものです。そして言葉が添えられています。
『つかまえていないとにげだす自分。』
京都大徳寺の塔中寺院で、高校生の小僧生活をする一人息子に送ったものだと思います。
受け取った息子さんは、きっと、捕まえる自分と、捕まえられる自分に、母の鋭い問いかけが、充分に伝わったと思いますし、胸に迫るものがあります。”しっかり修行をするのですよ”の絵手紙でした。

ページをめくって、何て素直な表現なのだろうと感心する絵手紙が沢山あります。
例えば、可愛らしい立ち姿の仏様が描かれ、
『仏のそばにいながら信仰が今だわからぬ自分。なんと罪深いことか』と、添え書きがありました。そして、その次のページには、
『仏が背をさすってくれるのでもなし、乾いた喉をいやしてくれるでもなし。今、私に、そっと肩をおしてくれる麻由良が仏なり。どうぞ、おたっしゃで』と、娘が母親の肩を揉む絵手紙。
説明したらしかられ、K子さんに、「余計なこと言わなさんな!」と怒られそうです。罪深く思う仏と、仏が仏の肩を揉みほぐす光景の絵手紙。

『なんも悪いことしてへんのに、なんでうちばっかりこんなめに合うのやら、神仏などこの世にいるものかと思う。しかしここ一番とゆう時、心の奥底からこぼれるように「あなた(神仏)様の御心のままに」とさけんでいる自分に気づかされます。自分でもどうしようも出来ないならせめて我が身を神仏にゆだねるしかないのですから、おばあちゃん、がんばって下さい。』
二人の汚れない合掌童子の廻りに、薄墨で書かれた文章です。K子さんの大きく影響を受けた、病床のお祖母ちゃんに宛てた絵手紙に、K子さんの素朴で、屈託のない心を思います。

全部を紹介できませんが、京都にいる息子に、K子さんはこんな絵手紙を出しています。
『アンタが元気でいることが、お母さんの力です。暑いですが体に気っつけて下さい。和尚様に合掌』
七夕の笹に、母の思いを沢山ぶら下げた絵手紙に、息子はどう受け取ったのだろうか。母親の全身全霊を傾けてぶつける言葉を強く感じます。こういう言葉が発せられる母の心は、何のとらわれもなく、カラッとして何もない大きな心そのものを思います。母親の子どもへの心とは、美しさそのものだと気がつきます。
お母さんにとって、一人一人の家族が元気でいることが、お母さんの力なのですが、家族一人一人にとっても、母親が元気でいることが、家族一人一人の力なのでしょう。
今、お母さんが居なくなって一年が経ちました。
どの家族にとっても大切な人が失われた時、それを現実的に補うということは出来ません。だからこそ、体に風が吹き抜け、心が空っぽになり、虚しく、癒されないのです。

私の母が亡くなったのは、昨年それは平成12年12月13日でした。
少しずつ母の残した書き物やメモを整理しなければと思ったのが翌年の3月、実際には4月、先ず日記のみ整理してみました。
その赤裸々な日記を発見し、母の亡くしたものの大きさと苦悶に、情けなくも初めて気がつき、気配りがたりなかったことを悔い、取り返すことの出来ない時間を作ってしまったことを知りました。
父の納骨が終わって、母は
、『主人もとうとうつめたいお墓の中に入ってしまいました。もうお終いです。』と記します。
この言葉は、12月31日の日記に書かれた、
『とうとう最後の日がきてしまった。明日から新年。私の心の中はあまり感激は無い。お父さんが居てくれたら。去年の今日は、どの様にしていたのか全然思ひだせない。この記念すべき年よ、さようなら。だんだんお父さんと離れて行く。』の内容にいたって、大切なものを亡くした母の心の辛さ、悲しみ、痛みを、更に理解させてくれました。
母は、遠くに逝ってしまった父を思い、慕い、途方にくれながらも必死に自分の道を模索し、立ち直ろうともがくのですが、父が居ないことに必死に耐えている。自分に耐えられないことも含めて、父がどんどん遠ざかることにも耐えられずに、耐えています。

少しでも側にいたい、元に戻りたい、8月12日以前にいたい、その年の内にいたいと。
そして、少しずつではありますが、自分のために、時間を使うことを覚え、歩き出しもします。
11月21日の日記は、そのことの証明でもあります。
『百箇日も過ぎました。私の心の中では未だ思ひが切れません。どうして貴男だけが居ないのかしら、私の住む世界とは異なった土地へ行ってしまいました。今日は指の注射です。とても痛いんです。自分の為にこの手をなおします。』
この章を読んでいて、母に告げたいことがありました。それは、父のことを遠くに行ってしまった嘆く母に、「実際にどんどん遠くに行ってしまうのはアナタなのです。」と。もちろん解っていることなのですが、発言することによって、その時間を互いに共有することが出来たならなと、遅ればせながら気が付いた、馬鹿息子でもありました。

父は8月12日に戻れれば、ベッドの上で点滴を受けているはずです。時が刻まれるということが、生きているということです。そのことが遠ざかるのです。今そこに居たのにそこから時間距離が遠ざかってします。地球の自転を止めることも出来ないし、宇宙の渦をかき混ぜることも出来ない人間の宿命でもあります。そのこと故に、その一刻一刻に時の焦点が当たっていて、輝いているということでもあると思うのです。
人にとって、一番見えないものは、自分が時を刻んで、動いていると言うことなのでしょう。そのことを、母は次の言葉で日記に残していました。
『何ともなく暮らしていた日が輝いて居たとは知りませんでした。三原山の爆発のニュースで、昨日から大変です。今日も一日、どうにか過ごしてゆかねばなりません。みんな夢です。夢の中の出来事です。』
母の残した言葉で、11月23日に記した、心に残る言葉です。
現実に、貴男がどんなことになっても、元気でいることが、私の力ですと言う時、その時の重みは、較べるものもなく輝いています。ただ普段問題なのは、私達は気が付いていないと言うことなのでしょう。
私は、亡くなった母の言葉を読み、K子さんの絵手紙を見て、人間の純粋性を知ります。それは、とても美しいことであると同時に、人が輝いている時なのだと思いました。残念なことに、その時、本人は気づいていないのでしょう。
残された文章を読み、亡くなった人は嘘は付かないと、妙に感服している私だったのです。


夢中(ゆめのなか)

夢中(ゆめのなか)

長く住職の務めをしていると、様々な事件に出くわします。
35歳という年齢の彼の、ある秋が終ろうとして、ちょうど冷たい木枯らしが吹いた夜の出来事でした。彼は、オートバイが大好きで、今日も9時に彼が勤める上野のオート売店のシャッターを閉め、いつもの通り京葉道路に出て江戸川の自宅に、オートバイで向う途中のことだったのです。家に着く300メートル手前の、京葉道路の交差点を渡った所に、白いワンボックスカーが停車していたのです。その車に彼が気付いたかどうかは知る由がないのですが、少なくとも、午後11時過ぎ、彼はその白いワンボックスカーの後部に、ブレーキもかけずに突っ込んだのでした。


上野からだと、普段の道路だと30分もあれば帰って来れる時間ですが、1時間30分の空白があるのですが、後で付き合っていた恋人に、その時間のことを聞いたのですが、その穴は埋められませんでした。いずれ解かることがあるかもしれませんが、彼の命の時間が止まったことを、解決することはできません。
しかし、遺族にとっては、妙に引っかかることでもあります。遺族にとっては、朝、彼が出勤する「行ってきます」の言葉が、残響のように、耳に木霊(こだま)して、棺の中に眠る彼が、今すぐにでも「ただいま」と言って、起き上がるのではないかと、思ってしまうのです。それはすぐ側に居る予感のような、空間が歪んで、彼がそこに座っていたりと、一瞬先の現実を想像し、期待して、ただ棺を見つめては、起こりえない期待する現実を、待っているかのようでした。
線香の火を灯すことは、待つことの意味があり、荼毘にされるまで、何本も何本も、一日中、遺族である、彼の弟と母は、線香をとぼしました。

衝突の後、彼は救急車でB都立病院に運ばれました。彼の死亡時間は0時過ぎでした。彼が亡くなったという私への訃報は、都立病院のBの治療室で、検死が終って翌日の午前9時に、弟から電話の一報で知らされました。弟と老いた母が、目を真っ赤にして、呆然と立ち尽くす姿を想像いたしました。
「どうしたの」と、まず驚き、事故か突然の病気かと、咄嗟に判断いたしました。確か彼は、年齢も若かったはずだしと、次から次に、記憶が蘇って、繋ぎ合わせて、第一報の弟さんの「母と二人になってしまいました」の言葉が、妙に響いていました。弟のすぐ近くに、息をしない冷たくなった兄がいるではないかと、「今、まだ三人でいるでしょう」と、それを、「二人」と言わせる事実の大きさに、言葉が出ませんでした。そして、二人と言わせる、受け入れの早さに、そんなものかと推し測りながらも、いや、その前の段階が省いてあると気がついたのです。

第一報の電話の向こうの母親の顔が眼に浮かび、いたたまれない思いが伝わってくるようでした。私には、どうしても兄の若さきり記憶に無く、亡くなるということが、事実として伝わってこないのです。人は、年老いて亡くなることだけではないと理解していても、現実には、年齢の若さを維持して亡くなることには、抵抗があります。まして、母親、兄弟、知人、恋人にとっては、言い尽くせることでないことは、百も承知のことです。出切ることなら、その場に居ることを遠慮したいものです。他人とはいえ、僧侶として側に居なければならない重圧は、責務の辛さであり、それが私の立場なのです。いつも悲しい場面に居なければならない、立ち会わなければならない立場こそ、僧侶として在るための現代の条件だと思います。

その立場を、自分から、現実のものにするために、そして遺族と共に歩くために、枕経にうかがうことは必要なことであり、翌日、兄と対面いたしました。兄の、傷つき、痛ましい顔に接して、手を合わせ読経し、夢でないことを知りました。そして、家族には、夢であることを願いました。

事実が記憶に刻まれ、過去の事実として、思い出になります。しかし、未だ現実の事実でなくても、記憶に刻まれることがあります。記憶に刻まれたという事実は変わらぬもの、現実の事実かどうかは、過去の思い出ということだけでは、わからないのです。

 邯鄲之夢(かんたんの)、そして邯鄲之枕という故事が中国にあります。
盧生という青年が、邯鄲の旅館で、道士の枕を借りて寝ているうちに、栄枯盛衰の50年の夢をみたが、目が覚めてみると、それは、粟飯がまだ炊きあがらないほどの短い時間であった故事であり、人間の盛衰の儚さにたとえる。一炊の夢ともいいます。『唐、沈既済、枕中記』
そして、芭蕉葉之夢という故事も、中国のものです。
昔、焚き木取りが捕らえた鹿に芭蕉の葉をかけて隠しておいたところ、その場所を忘れ、人に持ち帰られてしまった。そこで焚き木取りは鹿を捕らえたのは夢だったと思って家に帰るが、その夜、隠した場所やその鹿を持ち帰った人の夢を見て、その人を探し出し、鹿の所有をめぐって争った、という寓話から出た語で、人生の得失が夢のように儚い喩え。『列子、周穆王』          (大修館書店の大漢語林より)

 あくまでこれは物語です。邯鄲之夢の場合、盧生は郷里から、都の官吏登用試験を目指して旅をしていました。その度の途中の、とある旅籠でのことでした。彼は、居合わせた道士の枕を借りたのです。すると、ぐっすりと寝込んでしまいました。身体は寝込んでいるものの、彼の旅は先に進みます。その先の彼の栄枯盛衰、挫折と成功、喜びと怒り、人の50年間にありとあらゆる体験したのでした。夢から覚めた盧生は、自己の栄誉や栄華を極めたり、その時代の若者の目指す文化を経験し、彼は、もと来た道を辿り始めるのです。この夢と現実が織り成す事実は、夢の続きで、自分の目標の否定と修正が、行われたことは間違いがありません。

 更に、芭蕉葉之夢の場合は、普通に言われることは、事実の忘却ということです。焚き木取りにとっては、事実が事実として成り立っていない以上、この事実はなかったことではないでしょうか。そうすると、夢で見たことは、事実の裏づけではなく、夢の中の体験こそ、事実の体験として、目覚めて、確認した時、過去の事実が、今の事実と結びついて、今、感慨を生ずるということができるのではないでしょうか。

 あくまで物語なのですが、こう較べてみると、単なる物語ではすまないことを含んでいます。
 人生の夢を、事実として下すことも、現実の人生を夢と下すことも、時には必要なことであると思うのです。
そして、その通りに、夢だ事実だと下したとしても、そこから現在が始まるのも事実です。夢が夢でなくなり、現実が夢であることも、同じ事実のような気がいたします。

 さて、兄に枕経を献じた、私は、悲しみに交わる前に、怒りました。怒る相手は兄であり、親不孝そのものを行じた兄の行為です。人が生きているという事は、ほんの少しの時間の接点の危うさであることは、こういったことがあるということが、その証明です。気付かないことですが、現実にはそれだけが絶対といえる事実に違いないことも確かなことです。絶対の事実を共有することが出来ないという事実が、死であり、悲しみであり、悔しさであり、儚さであり、私たちの表現であり、遺族ということの証明なのだと思います。
 それは、例えば、母にとっては、子供を亡くすという、自らの根拠を失うことであり、積み上げてきた過去の蓄積が崩れ、未来が喪失することだと思います。
 昔の人は、このことを指して、一言、≪夢≫と言ったのではないでしょうか。事実でなければ、痛みは現実のものではないみたいに。

 いつも葬儀は、私にとって、突然に居なくなる人の旅立ちへの、最後の手伝いです。そして私の、戸惑いでもあります。何故なら、いつも、予期しないことで、一つとして同じ内容はないからです。
 その予期しないことに遭遇して、真剣に考えてこそ、死者とより出会うことができ、私たちとの、今の事実を確認できることが大切なことです。現実には、今の事実以外は、目に見えぬものですが、そこに、夢や思い出、希望や願いを見ることが出来たら、メッセージが伝えられると思うのです。

 兄にとって、この事件は、「いずれは来るもの」とも考えたことがなかったことです。兄は、ただひたすらに、兄にとっては心地よいオートバイのエンジン音に包まれ、エンジンの振動に揺られて、アスファルト道路の上を、ひたすら走りつづけて、多分、今も走りつづけているはずなのです。それが夢とは知らずに。
 葬儀とは、走る兄にブレーキをかけ、無理やりサドルから降ろして、葬儀に参列した遺族や仲間に、挨拶し、手を振って去って行くために、用意したステージでもあります。

 そうしないと、兄の愛する、母や弟が、立ち止まって考え、別れることが出来ないではありませんか。
 どんな登場の仕方か分らない、確実に訪れるであろう死。思い出さない限りは、どんな人でも、日常の生活の中に埋没し、折込済みと表現されるものであると、葬儀において、説得しなければならないのだと思います。それを、『したたかさ』と言い、『一途な生の中に』とも現します。それは今を生きている、豊かに潤いのある姿でもあります。

 10年、20年…経って、母や弟がこの事件を思い出して、すべてが夢であったと回想したとき、痛みが消えるときなのかもしれない。それには、兄より、多くの恵みがもたらされ、兄が残された家族を守っていることを、知ることはもちろんのことです。

芝浜

芝浜

 魚屋の熊五郎が、昨夜もふんだんに酒を飲み、翌朝早く、女房に起こされて、夜明け前に天秤棒を肩に、出かけて行った。女房は、亭主が出かけた後、片づけものをしていたが、なかなか夜は明けない。
そこに、熊さん、あわてて、草鞋を脱ぐのも忘れて、 帰ってくるやいなや、
「ばかに、早く起こしやがって、後から誰かつけてきやしないか、早く戸締まりをしないか!」と、女房に。
女房は、「お前さんが、明日からお酒を断つっていうから、あたしも遅くならないようにと、つい、早く起こしまって、すまなかったねー」
熊五郎は女房に、財布を拾ったことを話した。 

長屋を出た熊五郎は、問屋もまだ開いてはいないし、そこで、浜にでて、夜が明けるのを待とうとするが、眠くてしょうがない。浜に出て、顔を洗って、戻ろうとすると、足に引っかかるものがある。見ると、皮の財布ではないか。ずっしりと重いので、「これは天から授かったものにちがいない」と、懐に入れ、仕入れもしないで、すっとんで帰ってきた」のだと。

女房は、財布の中身を数えると、50両の大金に、「これは、拾ったもんなんだね」と、「いったい、このお金をどうしようっていうつもりだい」と、亭主に問いただした。
「どうもこうもあったもんじゃねえやい。おめえにも、長いこと世話をかけた。これからは贅沢をして、楽にしてあげるぜ。友達を呼んで、一杯やろうって!」
すると、女房は「お前さん、この財布は、私が預かるよ。あんたは、疲れてるだろうから、いいからひと眠りおし」と、寝かせてしまった。
朝が、早かったものだから、熊さんはぐっすりと寝込んでしまい、女房にゆり起こされた。
「お前さん!夜が明けたよ」と、熊さんは「あーっ、よく寝たもんだ。湯に行って来るから、手ぬぐいを貸してくんな」。女房は、「あいよー」っと、湯屋に送り出した。

熊さんは、湯からでると、あっちこっち立ち回り、酒の肴をかって来ると、「今、けえったよ」。
女房は、買い出しの支度をして、「さあ、行ってらっしゃい」と、送りだそうとしたが、熊さん。
「冗談じゃない。今日は、とんでもない日だ。こんな日は、友達を呼んで、一杯やろうに決まっているもんだ」と、そこに、友達がやってきて、「さあ、上がってくんねい」。車座になって、皆で、飲むは飲むは、空瓶が転がり、友達は酔っぱらって帰り、熊さんも横になって、高いびきとなってしまった。ようやく宵闇が迫って、熊さんは起きだして、女房に、更に酒をねだろうとするのでした。
女房は、「お前さんに、聞きたいことがあるんだよ」と、今日の出来事の説明を求めたのでした。   

風呂から出て、酒の肴を買い、友達を呼んで、お祝い事と称して、よくも飲んで食べたりしたもんだよと、そのお代はどこから出るんだいと、畳みかけるのでした。熊五郎だって、芝浜で拾ってきた、50両という大金の入った財布を、お前に預けたじゃないかと、何を寝ぼけたこと言ってんだい。承知しねえぞと、威張りきる。
「何を寝ぼけたこと、言ってんじゃないよ。お前さん、頭は大丈夫かい?冗談言っちゃいけないよ。お前さんから預かったものなんかありゃしないよ」と、女房。
「この唐変木のコンコンチキめ。冗談じゃねえや」と言う熊五郎に畳みかけるように、女房は、「やだねー。何を言っているやら。夢じゃないのかねえ」。
熊五郎は、女房に、そう言われると、言い返すことが出来なく、すっかりしょぼくれ、ほとほと自分に愛想をつかして、「今日の始末だけは何とかしてくれ。すまねえ。すまねえ。この上は、生涯酒を断つ。とんでもねえことをしたもんだ。明日からは、酒を断って、一生懸命かせぐから、勘弁してくれ。すまなかった」と。
女房は、しおれる熊五郎に「いいんだよ。いいんだよ。わかってくれれば。そうしてくれるなら、わたしゃ、どんなに嬉しいか。お前さんが好きなお酒を生涯断つのは、私も辛い。そのかわり3年、我慢しておくれ。そうしたら、どうにかなると思うから。ありがとうね。お前さん」と、それからは、早寝早起きで、必死になって働きました。そうすると、安くて、生きが良くて、うまいとなれば、評判が上がり、益々商いの方も繁盛し、夫婦仲もよくと、あっと言う間に3年がたった大晦日。

この頃の大晦日は、掛け売りの集金やら、一年の締めですから、それに、翌日は元日と、餅が届き、門松は立って、晴れ着を用意して、その晩は、家族水入らずで、一杯やりながら年越しそばを食べ、一年の無事を感謝し、明くる年の無事を願うと、そこに除夜の鐘でも鳴ってみれば、言うことがないでしょう。熊さん一家もご多分に漏れず、熊さんが外回りをしている間に、畳替えをして、障子を張り替え、大晦日を迎えたのでした。
女房、「 お前さんが、よく働いてくれるものだから、借金取りも、今年は来ないし、家も小綺麗にすることが出来るし、これも皆お前さんのお陰だよ。あたしゃどんなに嬉しいか。感謝してるよ、お前さん。今夜、お前さんが一生懸命働いた他に、あたしも、貯めたお金があるのさ。数えてみようかい」と、熊五郎の前に、竹筒に入った、2分金をぶちまけると、熊五郎は「こいつは驚いた。お前が稼いだのかね」と。
女房は、「お前さん、忘れちまったのかい。3年前に、お前さんが芝浜で拾ったお金だよ!」
熊五郎、「ちきしょう。そうだったのかい。やっぱり。こいつぁ、夢じゃねえだろうね」

女房は、3年前のことを話しはじめた。お金を見たとき、嬉しかったこと。しかし、熊五郎を心配してみてると、ただ飲んで食って働かないで、お金を拾ったことが知れたら、お上からどんな仕打ちがあるかと考えたこと。酔った熊五郎を寝かせて、大家さんに相談したら、拾ったものを使ってしまうのは良くないと言われ、お上に届けて、この話は無かったことに、いっそ夢にしてしまったこと。そうしたら、この間のことだけれど、お前さんが留守の時、お上から呼び出しがあって、このお金は落とし主がないからと、下げ渡されたこと。しかし、すぐにお前さんにこのことを話したら、また元に戻ってしまうんではないかと、今日まで黙っていたんだと。

「すまなかったね。今夜という今夜は、あたしゃ嬉しかったよ。お前さんは、本当にまっとうな人間になったんだね。今まで、夢に騙していたこと、どうか堪忍しておくれ。このお金は、お上から頂いたもんだ、もう一晩で使おうが、誰に何言われるものではない、どうか、受け取っておくれ」と、涙ながらに話す女房。
「うーん。そうかえ。そうだったのかえ。お前が言うとおり、あん時、このお金があったら、俺のことだ、ぱっぱと使っちまっただろう。そうしたら、お上に知れて、俺はどうなったやら。ああ、ありがてえ。お前に、夢にされたお陰で、俺は稼ぐ気になった。世の中に、かかあほど有り難いものはねえなあ。かかあ大明神……」と、熊五郎。
女房は、今日が約束の3年目であり、改めて、酒をすすめた。
熊五郎「そうかい。あんまりいい心持ちなんで、それじゃ一杯やろうかえ」
女房「そうしてくれるかえ。一本つけようかね」
女房が、台所に立とうとすると、熊五郎。
「ちょっと、待ちねえ。酒はやめとこう」
女房「なんだい。お前さん、どうしてだね」
熊五郎「うーん。ここで酒を飲んだら、また夢になるといけねえ」

この年の始めに、現三木助の自殺の知らせが飛び込んできた。今の三木助の落語は聞いたことはないが、父、桂三木助の落語は、好きな落語家の一人だ。特に”芝浜”は、好きで、テープを何度も聞いた。

三木助の語りが、人情の機微を巧みに表現する様は、絶品といって良い。もちろん、三木助の語りの他ではあるが、何故この話に興味を引かれるかというと、この話の、夢というテーマである。ふとしたことから、なんとたくましい庶民の知恵ではないかと、そして、考えれば、この過去と未来と現在と、存在というテーマを扱っているではないかと、発見し驚いたのです。
この世は、夢と現実の織りなす葛藤に似ている。特に、過去の事実を、現在において夢とする設定は、未来を開くすべとなって、この芝浜は成り立っている。夢としなければ、現実が成り立たないと決断することは、斬新に見えて、古い。戦国武将の辞世の句は、過去の事実を夢と見て、絶対の今を現出させるのです。

この発想は仏教の生き方であり、前後裁断、前三三後三三と、時を止める禅語に共通するのです。
過去の事実を夢と見るということは、今の現実を生きる知恵であり、記憶やしがらみを両断して、今をよりよく生きさせる。

そう言えば、我々の祖先は、人が死ぬと、枕元に《夢》という字を飾ったものだ。今、我々が語る《夢》は、希望や願望であり、未だ手にすることが出来ないものであり、夢とは、かなわないこと、「夢のようなことを言わないの」と、現実離れしたものの代名詞でもあるのです。そのくせ、世間には《夢》が反乱し、人口の一人一人に多くの《夢》があるのだから、この国には、かなわないものがあふれていることになる。それも、潤いであることは確かなことであると思うが、もう一つ、事実を夢と見ることによって、現実をありのままに見ることも、時に必要なことだと思います。
芝浜の魅力は、自己の過去を断ち切り、今を、強く生きる知恵であることを、若き三木助師匠に捧げます。


江戸っ子

江戸っ子

 深川というところは、同じ江戸でも神田、日本橋、浜町、八丁堀とは違って、隅田川を越さなければならなかったせいか、ちょっと違う。何故かしら、大川(隅田川)を越えることに、コンプレックスというか、誇り・プライドみたいなものがあるのだ。ここで生まれたわけではない私にさえ、30年以上暮らすとあるのは、不思議だ。

だから、そのぶん、深川に対する思いこみは強いことは人一倍確かだ。深川に暮らす人だったら、この郷土に生きているという実感は強いと思うのは、私だけだろうか。とにかく、この川(大川)が江戸っ子を強烈に意識させるといったら、「ずいぶんと古くさいねえーえ」と、言われるかもしれないのを承知で書いていることでもある。つまりは、同じ江戸っ子でも、この川を挟んで、中央区側と深川では違うのだ。
池波正太郎も、無頼漢が巣くう地と書くし、辰巳芸者も足袋は履いていないやら、調べればたくさん出てくるに違いないが、手っ取り早く、富岡八幡宮の大祭に表れる。

この祭りの御輿の担ぎかたは、「ワッショイ、コラサ」と、徹底して御輿を運ぶ。この”運ぶこと”が、浅草、神田の「ソイヤ、セイヤ」の担ぎ方の違いになって表れる。浅草、神田は、天を突き担ぐ。だから一向に前に進まない。深川の御輿も天を突くことはあるが、『天を差す』と言い、永代橋、清洲橋の渡御にこの担ぎ方をするのだが、この時は、御輿を差しながら走る。
永代橋崩落の事件のせいか知らないが、橋の前後は、御輿をもみながら、差したと思ったら、一気に橋を駆け抜けてゆくから、いさぎよい。もっとも、いさぎよいと深川っ子は真にそう思うが、他から見ればそんなことはないかもしれない。これも、思い入れの馬鹿な表現なのだ。橋の床下は、大川が結構早く流れて、神輿を突き上げる手は天を指し仰ぎ、脚は川を指すといったら、考え過ぎじゃないのと笑われるかもしれない。永代橋が縦に揺れて、担ぎ手に伝わってくるのも、小気味がいいものだ。

戦後すぐの祭りの写真を見ていたら、けっこう裸の担ぎ手が見えたので、羨ましく思えた。それは、今は言わないが、「昔、深川の祭りは、裸祭り」と、言われていたからだ。
ご存じの通り、半纏も揃えられなかった貧しい深川っ子達への配慮なのだ。そのくせ御大尽たちは、縮緬の半纏を作ったという。貧しい漁師などの子供達は、みんな裸でこの祭りに、参加を許されたからだ。
川向こうの祭りの今は、半纏の粋を競うところがあるが、深川は町内半纏以外は許されない。その柄も、神田、浅草は柄を競うが、深川は町会の大紋がものを言う。

私が住む深川二丁目北町会も、『深二北』の大紋で、祭りに参加する。四〇〇世帯ちょっとの世帯で、この五日か三日の祭りに、一千万円の寄付を集めて、あっという間に使ってしまう。四〇〇人からの担ぎ手を集めて、たった一日の連合渡御のためである。
各町の五〇基の御輿の連合の熱気は、明け方から日が暮れても盛んだ。
江戸っ子というと、すぐ『宵越しの銭は持たない』という言葉が浮かんできますが、深川の祭りもそんな良き伝統を持っているのです。
さらに、町会に関わりをもって見渡せば、三代にわたっての深川っ子というのは、ごく少ないことに気がつきます。雑多な人間の移動、交差によって成り立っているのでしょう。

参考に、平川秀雄氏の『巷談永代』をお読み下さい。
さて、禅で語る言葉に、『坐って半畳、寝て一畳』があります。禅堂で暮らす禅僧の生活は、今でも坐って半畳、寝て一畳の生活をしています。ただ少しの贅沢は、後ろに障子一枚の灯りに、書き物が出来る程度の棚が付きます。そして前には、その畳の縁には太い敷居があります。禅堂の床の瓦敷からまたいで畳の上の座布団に着座いたしますが、その縁は、単縁(たんぶち)といい、黒々と磨かれています。けっして素足で触れることはいたしません。何故なら、寝るときに、剃った頭を直に触れて、枕になる縁でもあるからです。裸電球一つの暗い禅堂の単縁に、柏布団にくるまれて、雲水の頭が並ぶ姿は、妙に美しく、絵になるものでもあります。

その禅から多くの知識を得て、興味深い小説家に、ミヒャエル・エンデがいる。エンデと言えば、『もも』『はてしない物語』とか、次元を含んだ童話や小説・エッセイがあり、禅の問答を含んだ興味深い作品もある。

その彼の思想の発展したものに、地域貨幣がある。そしてその驚く発想は、貨幣がある一定の期間を過ぎれば、一割、二割と減価してゆくということに、とてもユニークな考え方で面白い。その貨幣をつかんだ人は、蓄積することを無意味として、使いきることを前提にした貨幣なのだ。流通を目的とした貨幣であり、エンデは国家というより、ある地域のみに限定する物々交換券に近い。そして、肝心なことは、その地域にのみ流通する豊かな文化がなければ成り立たないことだ。

私は、この貨幣のことを知ったとき、江戸っ子の『宵越しの銭は持たねえ』を、思い出した。身一つ、無一文に恐い物はない。それこそ戸締まりしなくても、鍵を掛けなくても心配はいらない。そういえば、修行道場の禅堂にも鍵は無く、心張り棒もないし、障子の向こうは外だし、障子戸に鍵はいらない。

金は天下の回り物を現実に回す江戸っ子の、この言葉の意味は、果てしなく当時の状況を示唆してくれていると言えないだろうか。この言葉の背景には、信頼が裏打ちされた世界があり、精神的にも豊かで潤いのある心情を持つ人々が多数を占めていたといえないだろうか。今日切りで生きるといったら褒めすぎであろうか。しかも貧しさの中でである。
富とは、人々を怠惰にして、人と人の絆を分断してゆくものなのだろう。
江戸っ子の魂に、触れた気がしてならない。


亀住町(平成13年7月1日)

亀住町(かめずみちょう)(平成13年7月1日)

 赤ちゃんのぐっすりと眠る寝顔をみると、不思議と安らぐものです。人の一生の時間を、赤ちゃんからお年寄りまでの直線として描いた時、一般的に、人は年を取れば取るほど、睡眠時間が短くなり、朝早く目を覚ますようです。そう言えば、早朝暗いうちに目が覚め、布団の中でラジオを聞いていると話していたのを覚えています。当たり前のことなのですが、子供にとって、未来は限りあるくらいにあり、その為、よく眠ることによって体力・知力等を蓄え備えます。
年を取るということは、未来が少なくなってゆくことになります。すると、時間を有意義に使おうと、自分の睡眠時間を減らして、少ない未来と一日の24時間を目一杯に使うかのようなのです。その点では、長寿とは、一日の時間を目一杯使おうとする人間の姿とも言えるのではないでしょうか。
しかし、病にぐっすりと眠るお年寄りの姿を見ていると、不思議に、子供の姿を思い浮かべることがあります。このことを考えてみると、子供帰りというのか、人の行為と時間とがぴったりと合わさって蕩々と過ぎてゆく大きな川を、今度は想像します。子供の頃、この川はまだ上流で早く流れていましたが、今は、やがて海に注ぐかのように流れて、人と時とが一体となっているかのようです。無数の星を散りばめた、天の川に似て。
亀住町30番地は昭和初期の陽岳寺の番地でした。その後、戦後ですけれど、いっとき、冬木町二丁目を名乗っていたそうです。その時の番地は冬木町二丁目一番地の一だったそうです。

陽岳寺が亀住町の頃、明治小学校より北側は、万年町(まんねんちょう)と聞きました。
『鶴は千年、亀は万年』と、亀の町会だったのだと、なかなか洒落て名前を付けたものだと、感心したものです。
明治期前から、この町会名前だったことから、この辺り一帯に、何か亀伝説でもありはしないかと探してみたけれど、歴史は途絶えて、何も伝わっていません。でも、何処かで、不思議な亀に出くわした子どもの話は聞かないか?亀の背中に乗って消えてしまった青年の話は聞かないか?いつの日か、知らない白髪の年寄りがふっと現れたという話は聞かないか?何処か交差点の角とか、軒下の茂みの中にじっとすまして遠くを見ている亀に出くわした人はいないだろうか?たかだか人間の二千年の歴史に、何万年の亀伝説を語るなんて、その二千年の中の、数十年の私なんて、亀にとっては、くしゃみした時間かもしれない。

鳥は空を高く飛び、眼下の大きな視界を自分のものといたします。コウノトリの仕事は子を授けながらも、真に授けたものは幸福であり、それは授かった人間の意識でもあります。
子供を授かったことは千年の栄えであり、幸せなのです。また1000年は10の3乗だから、鳥にとっては、3次元の自由とも考えられます。10,000年は10の4乗だから、4次元を自由にすると言っていた人がいました。面白い発想です。

亀こそは、時空を越えて、幸福を運ぶ存在です。ただし、時空を越える幸福は、単なる幸だけではありません。浦島太郎の伝説はそのことを示します。亀こそ、ほんの一瞬が数年、数十年、数百年……の時の重みを担った動物ではないだろうか。ミヒャエルエンデの『もも』も、時間を自由に行き来した亀がいたからこそ、この作品が成り立つ条件でした。

他にも、亀の言い伝えはたくさんあります。千歳の亀は人と話すといい、その歳で毛が生え、五千歳の亀は神亀といい、一万歳の亀は霊亀という。そして、千歳の亀の甲羅を火であぶり臼でついて服用すれば、千年の寿命を持つと言うが、あやめれば何やらたたりがありそうな。小さな頃の記憶では、世界は大きな亀の上に乗っていたような記憶があります。
しかし、実際は地を這いつくばって生きているではないですか。しかも地面から数ミリ数センチの視界による俯瞰です。以前草亀を飼って居たとき、器から長く首を出して、外を見ていたことを思い浮かべます。視界を広げようとしていたのだろうか?
さて、亀が地を這いつくばって生きているそのことは、人もたいして変わるものではありません。

一年間に一週間、蜻蛉が成虫の姿をして世を謳歌します。その時、蜻蛉の何十倍何百倍と生きている人間に出くわしたし、人間に語ることが出来る蜻蛉がいたとして、蜻蛉の生まれる前の父や母、祖母や祖父の先祖について、語ってくれとせがまれたとき、人間の口から出る言葉に、糾問する蜻蛉にとって満足する答えは得られるだろうか。また、蜻蛉の未来を尋ねられたとき、一週間の命を話したとしたら、蜻蛉は、その一週間をどう思うだろうか。一週間の単位を知ってはいるものの、80年の単位を知らない人間にとって、その期間を這いつくばって勝手次第に生きていることすら知らないで生きている人間にとって、蜻蛉の命をかえりみて、語る人間はいないと思う。命ではないのだと思う。

そのたかだか何十年の人間の命を、グリム童話は面白く語っています。
「神様が世界を創り、生き物たちの寿命を考えた。ロバには30年の命を上げた。しかし、ロバは背中に重い荷物をのせての30年は辛すぎる、そこで神様は、18年引いて、12年としたそうです。犬にも、年老いて餌を食べるにも、歯がなくなって、ただヨダレを垂らして唸っているのはかわいそうと、12年引いて、18年としました。猿も道化となって30年は長すぎると、10年削って、20年としたのです。人間だけが、長生きがしたいというので、30年にロバの辛抱の18年、年老いて横たわる犬の12年、そして、最後は猿の10年を足し70歳としました」と、しかし、85歳を過ぎる寿命は、更に、15年を生き物から差し引くとすると、この生き物は何ものか。私の子供は、すぐに猫と答えた。子供の感性は直感的だ。

人が、天寿を全うすることは、誰でもが全うすることなのですが、長寿こそ、この上ない人にとって、この物語は、人が自分の寿命と思うところの寿命は、実は、ロバ、犬、猿、猫から足された時間なのだと教えます。それは、大切な命であることの喩えです。さらに、人は植物・動物の命を得て生きます。
母親父親が、自分の子の危険に、とっさに反応するように、かって、使命感に、責任感にどれだけの人たちが自らの命をなくしたかを考えてみると、今の時代、他人の命を物質であると思うところに、命がかえって軽んぜられていると、このグリム童話から教わっていいのではないかと思います。
先日、6月10日のことだが、101歳の長寿で亡くなられたお年寄りの女性の葬儀をしました。85歳にまだ15年も足すことになります。こんな年齢の方は、正直全く初めてのことであり、ご長男が80歳では、普通の一般的な家庭の葬儀とは、事情が違うことに気が付くと、ひょっとして、このことが、時空を越えた違いなのではないかと思ったのです。蜻蛉のごとき私と考えたとき、人にとっての時空を越えるということは、ほんの数十年、数年のことなのだと、全く身近にあって計り知れないこと、それこそが時空を越えて、異次元の世界なのではないかと、不思議に思いました。
そう言えば、この方のご主人の名前は亀吉だったことを思い出して、可笑しく思いました。その葬儀の中で私が思ったことです。

《耳が不自由になり、視力がなくなり、自分自身の姿形が見えなくなったときの手探りの状態とは、恐らく、自分自身の手や足、口、目までもがおぼつかない世界だと思います。百歳近くになって、年齢を数える意味はあるのだろうかと考えます。多分、百年という期間の止めどない時間も、刻一刻の時間であり、人と違う差はないものの、圧倒的に違うのか。今、感動しています。耳を澄ますこともなく、白濁した視界か或いは闇の世界で、流れる時間は、きっと、さまざまな風が体を吹き抜けていくかに似て、その風こそ、貴女を運ぶもののように、貴女は身を任せて、そして、風に吹かれた貴女は、「少し眠る時間ですよ」「お食事の時間ですよ」と揺り動かされて気づく、今の時間でした。そんなゆったりとした時間を過ごしていたのでしょう。ここ数年続いたと言います。それが本当の年老いて枯れるという幸福の姿のことなのでしょうが、多くの人は、そこまでいたりません。まったく想像のできない世界です。》 

長寿とは、時空を越えると言ったものの、亀の動きがゆっくりと見えるように、ゆっくりとした時間の流れの中の今を表現するものだと思ったのです。 赤ちゃんのぐっすりと眠る寝顔をみると、不思議と安らぐものです。考えてみると、赤ちゃんからお年寄りまでの直線を描いたとして、一般的に、人は年を取れば取るほど、睡眠時間が短くなり、朝早く目を覚ますようです。
そう言えば、早朝暗いうちに目が覚め、布団の中でラジオを聞いていると話していたのを覚えています。当たり前のことなのですが、子供にとって、未来は限りあるくらいにあり、その為、よく眠ることによって体力・知力等を蓄え備えます。すると、年を取るということは、未来が少なくなってゆくことになります。すると、時間を有意義に使おうと、自分の睡眠時間を減らして、少ない未来と一日の24時間を目一杯に使うかのようなのです。

その点では、長寿とは、一日の時間を目一杯使おうとする人間の姿とも言えるのではないでしょうか。しかし、病にぐっすりと眠るお年寄りの姿を見ていると、不思議に、子供の姿を思い浮かべることがあります。すると、未来がたくさんあるように思えるのですが、しかし、よく考えてみると、子供帰りというのか、人の行為と時間とがぴったりと合わさって蕩々と過ぎてゆく大きな川を想像します。子供の頃、この川はまだ上流で早く流れていましたが、今は、やがて海に注ぐかのように流れて、人と時とが一体となっているかのようです。


モンセ・ワトキンス~夢のゆくえ~(平成14年1月3日)

モンセ・ワトキンス~夢のゆくえ~(平成14年1月3日)

 外資系生命保険のテレビコマーシャルは、「知らなかった!と、ここまで保証してくれたとは!知らなかった、比べてみると、こんなに安かった!」と、流れる。
そう、やはり世界の中の、日本は辺境なのなのだろうか。情報の選択の、何が耳を、目をこらさなければ、聞こえない、見えないに、トップニュースが、ゴシップでは、”知らなかった”というより、”知るよしもないし”、”知るべき頭の働きもない”のが、私の普段でもあります。

経済が悪いといっても、塀の中で、好きな本と格闘する私にとっては、新聞か、お茶の時間にみるテレビしかニュースの取得は限られています。それでも次々とわき起こる事件は、入っては消えてゆくのみの、塀の外のことでしかないと思うことでもあります。もっとも、世界が繋がっているかぎりは、どんなことでも、”関係ない”ということはあり得ないと承知のことの、やはり、”あまり関係ない”ことの事件は、お茶の間のテレビの向こうの出来事なのです。

そうした事件の中で、この年の前半より、南アメリカのアルゼンチンに、何やら経済破綻の情報が流れました。このことは世界経済に信用不安を投げかけると、特にアメリカの経済に大きく打撃を与えると、アメリカは、IMFを動かしてもいた。日本での情報は、アルゼンチン、ペルー、ボリビア、チリ、コロンビアの情報は皆目流れてこないことから、日本に於ける失われた10年と同じほど、これらの国では、経済の破綻による貧困と、暴力と、麻薬とが蔓延していたなどとは知らなかったことでもあります。そういえば、ペルーの藤森前大統領のことなど、最近はちっともニュースにならないことを思い出しました。きっとペルーでは、忘れることのできないことであるのでしょう。どう問題なのかすら知らない私達に、こうしたことの背景を知らぬ私達の生活に、やがて根を張る問題が含んでいて、10年後、15年後変化して行く世界が在るのもかかわらず、今手を打てる問題に、”知らなかった”ということが、日本は多すぎるような気が致します。
ただ距離が遙か彼方にあると言うだけでなく、日本に近い国の貧困問題は、結局、日本にかかわってくるのだと、強く思います。

平成13年の暮れも押し迫った頃、井戸光子氏より、一冊の本を戴きました。
題名は『虹のゆくえ』で、著者はモンセ・ワトキンスであり、翻訳者は彼女でした。そして、大晦日、寺の用事も一段落して、ブックカバーの青い空に雲が目についた。中心に、白黒の客船の写真、”河内丸”だという。『夢のゆくえ』という空に、海の色を意識したのか、表紙には『19世紀末、太平洋を越えて、はるか中南米の地に渡った日本人たちがいた。百年後のいま、その子孫たちは、「黄金の国=ジパング」をめざして、還流してきた。在日15年、日本社会と文化に通暁した、スペイン人ジャーナリストが、一世紀に渡る移民の夢の「いま」を語るドキュメンタリー。』とあった。(モンセ・ワトキンスと井戸光子氏のことは、『モンセ・ワトキンスをごぞんじですか?』井戸光子氏著をご参照下さい)

この本は、今から、百年前、二ヶ月かけて多くの日本人が、河内丸という客船で、国が広いという南アメリカの貧しい国々え、夢を描いた移民のドキュメンタリーであり、100年後の二世三世日系人たちの、日本の失われた10年の空間えの還流問題に焦点を当てた優れた本です。奴隷制度が廃止された国の、外国人労働者の移民は、ひと財産を夢見るには、あまりにも背景が悪い。過酷と困難の中に、夢を託すことは想像を絶する100年でもあったに違いない。それが今も続いているからこそ、数千人の日系移民の子孫が、30万人となって還流して、この社会に根ざそうとしている。日系人と言われ、この国に生まれた彼等の子ども達は、もはや故国には帰れない。ではと、受け入れる環境を考えてみれば、お粗末なかぎりだ。そのお粗末な環境で育った子ども達も、この国の未来を背負う子ども達と考えると、一人一人何ができるのかと、やはり考えねばならないことです。

この問題を読んで、それにも増して、多くの中国、台湾、フィリピン、タイの人々の出稼ぎ海外移住問題は、いったい何十万人なのか、何百万人の問題となって、今あるのだと類推できる。皆、どこかに貧困問題があることから、日本に渡っては、経済問題、犯罪問題となり、コロニーを形成するにあたって二世問題が教育文化問題となる。
平成13年の暮れに報道された、青森県の住宅供給公社での多額横領事件で、5億円のペルー送金が問題になったのも、そう言えば、ペルー人女性だったのを思い出すしますが、何故青森なのだろうかと考えてみれば、地方都市と南アメリカの国々との関係も、根は南アメリカの貧困問題であり、日本の根は地方都市での働き手の日本人がたりないということです。この女性は、ペルーに広大な敷地に豪勢な家を建てていたではないか。
日本にとって、100年前の日本の貧困問題が、100年後の貧困問題になるとは、時間もグローバル化するような、私達の祖先の知らずに播いた種が、100年後に咲いた花をどう観賞するか、どう刈り入れるかが問われている。

 『夢のゆくえ』 モンセ・ワトキンス氏著 井戸光子氏訳 抜粋ノート
在日日系人の家庭では~
つまり親たちの場合には、最終的に日本に定住すると決めてはいても、心はいつも祖国を向いている。反対に子ども達は、祖国への思いは親より数段少ないか、全くない場合もあるし、国へ帰るということも考えていない。

 例えば、十年間日本で暮らしてきた親が突然、ペルーへ買えると言い出したとします。その子供は、おそらく親が日本に来たときの数倍の苦労をペルーですることになるでしょう。それは、なぜか?日本は閉鎖的な社会だといわれますが、見方をかえれば、誰とも関係を持たずに生きていける国なのだということです。ところが、ペルーではそうはいかない。家族や友達とのつながりを重要視する国だからです…。在日ペルー人はコミュニケーションのない日常生活に慣れてしまっています。例えばスパーでの買い物に言葉は不要でしょう?ポケットに金さえ入っていれば何でもできるわけです。

 日系人がいじめにあっているということを考えると、この問題は将来、深刻化する可能性がありますよ。
 子ども達にとっては、スペイン語で考えるよりも、日本語でものを考える方がよほど楽なのだということがよくわかる。

 一日中働いて夜遅くに疲れきって帰る親たち、したがって親の監視の目が届かない若者たち。このような日系人の若者の、日本人に対する態度に変化がうかがえると、警鐘を鳴らす声もある。 
 小さいころから学校で同級生から虐待されたため、日本人に恨みを抱いており、侮辱されることを許さないし、敵対関係をはらんだ社会にしようと意図的に行動しているように見える者もいる。
 また地方では、一家そろって生活する家族が増えてくると、「誰のものでもない」国で成長する青少年が増えてくる。これらの青少年は日本にも出身国にも適応しない。前述したように、社会から疎外された日系人青少年の犯罪組織が生まれてくるのではないかという懸念は、もはや遠い将来のことではない。気にとめようとする者がいないし、また遅くならないうちに手を打とうという者もいないが、それは私達の目の前で確実に生じつつあるのだ。
 1999年五月に発表された警察庁の報告書によると、1998年の犯罪調査では、検挙者の国籍のトップは中国、次いでベトナム、そして第3位にブラジルだった。外国人が引き起こした犯罪31,700件のうち、ブラジル人が摘発された事件は3,278件で、検挙者は536人にのぼった。この数字は前年の2倍である。
 日系人社会がだんだん大きくなるのを間近で見ている人たちは皆、彼らのあいだで精神障害とアルコール依存症が増えていると指摘する。
  ざっと問題を拾ってみても、日本人社会が彼らにしてきた残酷な仕打ちは目に余る。1991年以降、日本で生まれた子ども達は2万人に達していて、これに、親たちが呼び寄せた子ども達が加わると言う。問題は、時と共に、つぎの芽を吹くんで、現在も進行中なのだ。
 私は思うのだが、本来、仏教は、貧困とカースト制度という枠の中から、その枠を打破しようと生まれてきた。その仏教の中の大衆部と言われる優れた大乗仏教は、東方の国に移ったものの、肝心なときには作用していない。いじめや虐待、戦争を嫌い非戦非暴力を説き、他を受け入れるという仏教の優れた善さを、日本人がもう一度目を向けて欲しいと思う。
 
 ワトキンスの日本社会への提言を、願いを、聞いてみよう。
 『日本社会が望もうが望むまいが、いずれにしても、もはやグローバル化の波から日本が身を守るすべはない。資本の流れもモノの流れも、ますます自由になり、労働者が国境を越えて移動することもますます活発になるからだ。世界第二位の経済大国であり、輸出大国である日本は、他国に投資し、製品を全世界に輸出して、このグローバル化の原因をつくりだした国のひとつでもある。グローバル化の有益な部分だけは利用するが、自国にこの波が押し寄せると抵抗する、それは許されない。

 将来に向けては、日本側もラテンアメリカ側も、長い目で良い関係をつくりだすことが必要である。日本においては、国籍や居住権、入国管理や外国人登録など、数々の差別を改革し、公正な社会をつくるには、裁判や刑罰システムの整備とともに、医療サービスや年金制度も外国人に適用されるべきである。外国人労働者に対する理解と寛容、日系人労働者を尊重する態度が求められる。彼らに対してはまだ、恵まれなかった過去を思い出させる「貧乏人の同胞」という偏見がまかり通っているからだ。またラテンアメリカ側では、彼ら自身が抱えている問題をまず解決し、日本人との共生の道を探ることが必要だ。共生こそが、両者に利益をもたらす道である。』


新牌開眼

新牌開眼

 人が産まれて、名前を付す作業は、これからの人生に様々な意味を持ちます。このとき、誕生する前の名前はどうだったのだろうとは、人は考えもしません。ですが、人が亡くなった後の戒名という名前を付したあとはどうでしょうか。「この次に産まれてきたときは、私は、絶対、玉の輿になるのだ」と言った若い女の子がいました。「また、次の時代に、一緒になれればいいね」と言った、若い夫婦がいました。その時、自分は、死ななければ、そして、さ迷わなければ産まれてくるとは意識しない。

 生前のうかがい知れない名前を前にして、生まれた後の名前に慣れ親しみ、そして、亡くなった後の名前から、その次の名前は、誰かに託すいがいにないことを気づくのです。この連続の中に、人は命を繋いでいると考えることが出来れば、人は、願いや祈りの中に、旅立った者と送った者の、安らぎを見つけることができます。
 このことに気づけば、この連続の中に、人は命を繋いでいると考えることが出来ます。
 人はいったい幾つの名前を持って生まれてくるのだろうかとも思います。

 人は、多くの名前を刻まれて、刻まれて誕生してくるのではと、そして死んで逝くのではと、このことは、名前とは、人が命を繋いでいることの意識そのものかも知れないと、この作業の務めを知り、やたらな名前を付すことはできないものだと気づきます。
 名前や法名は、それこそ長い時間の中の、ほんの一時の名前です。それ故にこそ、かけがえのない名前や法名でもあります。
 人が亡くなって、自然に帰るも、仏や神になるも、一時のモノではないでしょうか。この世界が続くかぎり、授かった命は、やがて去ってゆく。そうわかってはいるからこそ、せめて一時、変わらぬものの名前を通しての命を、大切なモノとして、慈しんで惜しむからこそ、名前があるのだと考えています。
 私たちは、もし生まれ変わったら……と、亡くなって父や母の元へと、また幼くして亡くなった者が集う処にと、祖先の集い憩う処にと、神の御許にと、生前に言うのですが、この世界が生き生きとして続くかぎり、すべてはいっときの中から発する人の願いや希望のような気がいたします。だからこそ、この活き活きとして続く世界に、変化する名前が在ることが、とても新鮮にして、嬉しいことなのだと思うのです。

 また、名前や戒名・法号とか洗礼名は、その世界や教義のあり方を模索することでもあるのでしょう。そして、名前を付すことを、人がおこなっているかぎりは、付す人の世界観やモノの見方となり、時代を表現することです。そして、そのことが同時に、この世界をどう生きて行くかとなり、掟や規範、戒律に発展することとなります。名前や法号・戒名を授かるとは、戒律、逝き方の規範を持つことでもあるのです。
仏教の戒律は、キリスト教やイスラムより絶対のものではありません。人が社会の仲で暮らすことのうちの、一つ一つの疑問に、真摯に釈尊が当時の社会情勢に鑑みて応えたものです。

 その戒律を、考えてみて思うことは、嘘をついてはいけない、盗んではいけない、人を傷つけてはいけないとありますが、一つに集約すれば、『自分に対して、いつも素直であり続けたい』と言うことが、他の律を網羅しているのではないかと思うようになりました。
 人が社会で、理解できないことを理解しようと学ぶことも、行為も、そのことによって、社会・法則・ことわりの道を模索することとすれば、今、生きている場所や生きる方向を考える糧です。そこで、いつも自分に対して正直であり続けたいと思うことは、人の本心ではないでしょうか。
 ですが、そうは思っても、現実はそのとおりには行かないものです。でも、「いつも正直であり続けたい」と、このことに関してなら、自分や他者に対して、優しく、厳しくと、人は告白や慚愧の思いを、涙を流して、悔い改めることができるはずだと思いました。
そして、この『いつも正直であり続けたいとする自分』というものをどうとらえ考えたらよいのかということ、ここにこそ禅宗の真価があるのだと、私は考えます。

 こころは保(たも)ちがたく、かるくたちさわぎ、意(おもい)のままに、従いゆくなり。
このこころを、ととのうるは善(よ)し。
かくととのえられし心は、たのしみをぞもたらす。

底深き淵の、澄みて、静かなるごとく、心あるものは、道をききて、こころ、安泰(やすらか)なり。

 かって、抑鬱症の自殺願望を持った女性の、自殺しなかった理由を、人から聞いたことがありました。
「このわたしが死んでも、わたしの名前は消えません。名前が消えない以上、わたしの存在はなくなりません。それでは無理をして自殺する意味がありませんから。」の言葉でした。このとき強く、深く名前というものを意識致しました。この女性が、自身の存在の末梢を退ける理由として、名前を考えたことは、そして洞察したことに、驚いたのです。
 わたし達自身は、普段、名前や他者の中のわたしと名前のつながりなど考えもしないことです。もし名前がなかったら、まわりのものから区別され、独立することを失ってしまいます。また、人の名前だけでなく、わたしの祖父や父、祖母や母という名称からくる、息子や娘、孫や甥・姪、友達という名前が無かったとしたら、関係そのものを失うことを意味し、現実が混乱し、生活の結び付きを無くすことに等しいことでしょう。
 これは、存在するもの、存在したものの根拠を失うことに等しくなります。現実に、わたし達は、名前が付されたときから、世界に向き合う者は、名前ではなくわたし自身なのですが、他者から見た名前のわたしを、世界は区別するようです。二重構造みたいです。
 名前は消えない。自分がいなくなったとしても、それで、すべてが消せるものではありません。わたしが生きるとは、縁起構造(関係)によって生きるのであり、わたしがいなくなったとしても、わたしの縁を及ぼした他者からの縁は、消えるどころか、生き続けるからです。この縁が変化して生きつづけるとするなら、わたしの最後まで、その縁を、育てて見届けることこそ、必要なことです。わたしの存在は、抹消できるかも知れませんが、わたしというものが、縁により、綾になって広がっているかぎり、わたしの心は、その綾であり、綾が抹消されなければ、わたしの名前が取り残される限りは、この世界に生きつづけるともいえるでしょう
 わたしの経験も、わたしの過去も、わたしの未来も、わたしも、すべては、綾の中の縁とも言え、すべては汝=他者の関係において世界は成り立っています。西田幾多郎によれば、わたしを対照的に限定するものは、一般的自己でもなければ、自然でもなく、それは『歴史という如きもの』でなければならないと言います。
 陽岳寺の法事回向の文面の言葉です。
 『それゆえに、世界はつねにわたし自身と一緒にあるならば、一粒の砂も、一輪の花も、わたしも、世界全体を背景にもたなければ、存在しなくなることに気がつきます。そして、一粒の砂も、一輪の花も、わたしも、今ここにあることは、その背景の、家や道路、学校やあらゆる生活の中の古びたモノも、かけがえのないものとして、じぶん自身に意味を与える歴史であり、それは、世界にたった一人のわたしが、常にわたしであることを現してくれているモノでもあるのです。また同時に、このことは、その背景の意味や思いを変えてみれば、尽きない豊かさを含んで、人は、実りある途中に有るともいえるのです。人の尊厳とはこのことを言うのではないかと、だからこそ、何人も、この尊厳を傷つけることをしてはいけないことなのです。』
 今の自分の置かれた現状に、苦しみ、悩み、現状をわたし自身の考えや見方で変えられず、次の世には、変わって生まれ変わりたいと思うことがあります。「今度、生まれ変わったら、玉の輿に乗るんだ」と言った19歳の若い女の子の位牌を前にして、「きっと、そうなるよ」と、願い、祈り続ける意外に選択肢はありません。わたしとは、他性により、構成されるものとするなら、苦しみ悩みも他性によりもたらされます。この子の心に、結果として、手を貸せずに残された遺族にとって、それでは、この子が生まれ変わるまで、どこまで、どう拘わればよいのか。そして、生まれ変わったことを確認することができないならば、どうすればよいのでしょうか。

 白隠禅師は、坐禅和讃の中で、「当所すなわち蓮華国、この身すなわち仏なり」と結びます。今ここに生きるわたしが暮らすここが、蓮華国という浄土や極楽であれば、わたしたちが次の世に産まれる次の世は、当所という、今この場所のはずです。わたしの身体が、この世界から抹消され、わたしの死後、新に、新しい名前が、戒名として祀られます。そして、この世を生きてきた、残された者の過去の証として、それは、過去を引き継がない未来を開ける、生活の中の、特別な場所に移されます。この特別な場所は、願いや祈り、感謝や歓喜、畏敬や尊さの場所であると同時に、未来への扉でもあると考えることができます。この場所によって、繋がっていると 。
 そのわたしの存在が、再び、三度と誕生したとき、その時々のわたしの生は、その時々のご両親に託す意外に方法はありません。こう気づいたとき、わたしそのものも、その時々の両親となり、授かった託された命を、精一杯育むことが必要なのだと気がつきます。ここに、届かぬ願い・祈りが、聞こえぬ願い・祈りを聴くことの立場が、どう拘わればよいのか、どうすればよいのかの扉が、現れます。

 戒名は、自分がいなくなった世に、次の世を予感させるものでもあるのでしょう。それは、生まれ変わることを意識してという意味だからでもあります。そんな、連続する関係の中に生きるわたしたちの、生活の中で、位牌や、墓石を拝む意味は、届かない願いを繰り返すことの連続のうちにあります。仏壇のなかに、いくつもの位牌が立ち並ぶとするなら、それは、いくつもの名前を持ち、産まれて来て、死んで行くという、道の交差点です。そして、その届かない願いを、聴かなければならない存在であると確信したとき、感謝や歓喜、畏敬や尊さとなって、祈り願うわたしの心が充たされるのではないかと思うのです。届かない願いを繰り返すことのうちに、聞こえない願いを聞くこと、このことが、わたし達の行為に現れるとするなら、それは、わたし以外の、今を生きるものを、良く育み、保つという無心の行為の中に厳然として現れていると考えられます。
 わたし達の、産まれれば、縁が、広がり、死ねば、また縁が広がる、こう考えてみれば、仏壇の中の、祀られた位牌の奥、お寺の領域、そこは、象徴としての、わたしたちの未来への開かれた扉です。人間の自由な発想が、届かない願いに束縛されない、自由な未来を生みだすと言えるからです。
 「もう一度生まれてくるかいがないほどに、一回でわたしがそれほど多くをなせるというのか」と、エンデが言う言葉には、千金の値があります。
 19歳の自死した遺骨と戒名を前にして、何度でも、生まれ変わって、おもうがままに、生きつづけること、ただただ、願い祈るばかりです。


英霊(平成17年5月23日)

英霊(えいれい)(平成17年5月23日)

 古事記を読めば、神々の誕生と死の躍動感に踊らされるでしょう。これらは昔の話しではなく、その延長の今も、神々は神様は誕生しているともいえるのではないかと……ふと思います。

 神様が、今でも誕生するなんて、おかしな話しだと思うかも知れませんが、これは本当の話なのです。今もどんどん誕生しているなら、きっと、忘れられてしまったり、死んでしまったり、どこかに消えてしまった神様も、きっと、いるに違いありません。まるで、人間みたいにです。

 神々の神話は、人の尽くせぬ思いが、やがて死霊・生き霊となり、人々に恐れられ、神として祀(まつ)りあげることで始まりました。人は神様のたたりを恐れ、封印し、祀(まつ)ることで、たたりを鎮(しず)めることをしたのです。神社のこんもりとした森、これは、鎮守(ちんじゅ)の森ですが、その領域は、封印された神々が眠る場所です。

 しかし、考えてみれば、こうして鎮守の森に祀られる神様は、ずいぶんと恵まれている神様かも知れません。反面、逆に考えれば、縛られ、押さえつけられた悲しい神様となるのかもしれません。

 いかに人間が悪さや悪戯(いたずら)をするといっても、年齢を加えて行けば、反省もし、人に良いことをしようとするものです。考えてみれば、祀られた神様は、年齢を加えても一向に止まらない悪さや悪戯の持ち主とも言えます。

 祀ることで、鎮めることでしか、平和が訪れることがなければ、祭礼は天変地異への恐れや、戦火や暴挙に被災することの無事への祈りとなります。「何もなければ良いのだが」と、だからこそ、祭りの字の示偏は、月(肉片)という供え物を、手で捧げて、足で出かけて、お供えする人の姿なのだと思うのです。

 多くの怨霊(おんれい)は、祀られないでいることが多いことでしょう。取り返しのつかない出来事に、すまないと、謝る気持が起きずに、よこしまな心が芽生えたり、人を強く、うらやんだり、ねたんだりするそんな人間は、悪霊(あくれい)や怨霊として、しばしば、いたずらや悪さをすると言ってもよいのでしょう。

 これは、人間の思いや願いが、死んでからも、わたし達の世界に留まるという意味からです。この留まるという思いは、わたし達が気づかずに、自然と口からでる言葉に現れたりします。それは、わたし達の世界が、私たちの心の世界を含んでいることによってなおさらです。これは、わたし達のことを人間というように、人と人との間というように、人が支え合っていると書くように、世界とは、人の意志や感情の交差する世界だからです。人の意志や感情の行為のうえに出来上がったもの、それが世界だからです。

 神様はどこにも宿ることが出来るといったら、不思議な気がするでしょう。神社やお寺で引いたおみくじを、木々の枝にゆわくのも、誰もが同じことをしているからではなく、先人の知恵から引き継いだ、そこに神々が取り付くという意味です。

 神主さんが、白い御幣(ごへい)でお祓(はら)いをするのも、その御幣に神様をくっつけることです。だからこそ、その御幣を祀ったりするのです。神様に、側にいて見守ってほしいからです。

 この時の神様は、もちろん、良い神様です。良い神様は何処にでもいます。祀る必要のない神様といってもよいでしょうか。その良い神様は、井戸、水道、屋根や梁、柱、床の間、玄関や裏口、門、道や道路の角、境界の四隅や、河や海、沼や池、田畑や山という自然、人が住む里のあちこちの東西南北、それに地、火、水、風に適した場所の、あらゆる所にいます。お箸や、食器、椅子や机、鉛筆や筆、紙やお人形、お裁縫の針や料理の包丁、そして、食べ物まで、神様や仏様はどこにもいるのです。

 これらは、安全と恐れから、感謝に願い、また、物や食べ物を大切なものであることを、粗末にしてはいけないことですと、昔の人が伝えて残そうとしたものかも知れませんし、現実にそうして拝んできたことなのでしょう。

 また、家や地域の出入口にいる神様は、わたし達の生活を見守り、外からの侵入者を防ぐ役割を果たしています。不思議なことは、この神様達は、けっして神社や祠などに閉じ込めて置くべき神様ではないことです、現実のわたし達の生活に密接にかかわっているからです。密接にかかわっているからこそ、忘れるのではなく、くり返し語らなければなりません。

 こうして神様というと、わたし達の願いや祈りを聞き届けてくれと思うかも知れませんが、実のところは、神様や仏様にもいろんな神様や仏様が居て、聞く耳は持っているのですが、聞き届けてくれるかはわからないのです。神様によっては、その願いを自分のために利用する怖い神様もいるのです。

 鎮守の森を持つ、ただ鎮まっていてくれればよいという神様、鎮まっていてくれるからこそ、わたし達に平安が届けられるのです。平安でいれば、感謝すること必要なことです。その神様も、元は、頭が良くて、綺麗だったり、荒くれ者だったり、何か一つのことにたけていたり、女性であったりと千差万別です。

 その千差万別を一つにした神様、それを、英霊というのだと思います。祀られてしまった良い神様のような気がします。本来、この英霊達の一人一人は、わたし達のすぐ近くにいたはずですし、すぐ近くで、わたし達の行く末を見守ってくれる神様や仏様なはずです。

 わたし達のすぐ近くの彼方に散っていった、わたし達と血が繋がる人たちの思いだからです。わたし達の家族という絆で結ばれた英霊の、一つにできない思いを、英霊という無名の呼び名で、一つにまとめ上げた集団としての神様です。

 この神様は、英雄を強いられたかわいそうな神様ともいえます。鎮めればよいのか、しかし、考えてみると鎮める以前にたたりを起こさない、心がけない神様でもあります。

 それを、慰めればよいのか、それならば、その前に先の大戦は大きな過ちであったと、この責任を追求することこそ、この英霊にたいして名誉を回復させことなのでしょう。敗戦と言わずに、今も、終戦と言い続け、うそで固めた仕打ちは、この英霊に対して最も失礼なことではないかと思うのです。慰めなければならない神様なんて聞いたことがありません。

 この意味から、縛られ方が違って、いまだに、英霊として祀りあげることで、浮かばれない神様として見ると、どうも、鎮める相手は国家という意思のような気がいたします。

 英霊は、明治維新7,751柱、西南戦争6,971柱、日清戦争13,619柱、台湾征討1,130柱、北清事変1,256柱、日露戦争88,429柱、第一次世界大戦4,850柱、済南事変185柱、満洲事変17,176柱、支那事変191,243柱、大東亜戦争2,133,885柱となり、合計2,466,495柱です。今も減ることはなく、増え続けています。また本当に理由が分からないのですが、巻き添えになった多くの満州や沖縄などの一般人とは隔離されています。しかも散らした命の尊さも含めれば、尊い命に、どれだけの差があるのでしょうか?

 尊い命が散ったわけですが、散らした意思は、鎮められたのでしょうか?

 尊い命が散った異国で、その国の人々の子孫の気持ちは慰められたのでしょうか?

 この国の散った命に寄り添う家族や親族の思いは、鎮めることで慰められたのでしょうか?

 彼ら散っていた命に対して、誓いはないのでしょうか?

 その誓いは、なぜ不戦の誓いなのでしょうか、なぜ非戦の誓いなのでしょうか?

 争いの真相である人間の意志は、突き止められたのでしょうか?

 明治憲法下の国家物語と、現行憲法の国民物語に、一線は引かれているのでしょうか?

 過去現在未来、正しい戦争とはあったのでしょうか?あるのでしょうか?

 それでは、国を守ることとはどんな意味があるのでしょうか?

 ただ柱の数を、積み重ねることで、何を言おうとしているのでしょうか?

 生き残った兵士達が、幾年も口を閉ざして語れない戦闘体験は辛すぎます……。

 個人としての尊厳に対して意思を持たせない祀り方に、もうこれ以上祀らせないという、引き継がない確乎とした意志を持つことで、英霊は、祀られた意味が消えて、解き放たれると思うのです。それは家々に帰すということです。もともと、仏教やキリスト教でも、弔うことができるのです。

 英霊は、神々に祀られたが故に、今も、我々に、たたる神々とも言えます。祀られていることで、英霊だけは、今でも、大きく成長する意思を含むように見えてしかたありません。

 アジアには、古くから、我々の生活する何処にでも、善悪を問わず、多様な神々が混然とし生きています。これは、多様な文化を受け入れることのできる文化圏を意味します。このことを英霊という名で否定する意思は、危険な意思といわざるを得ません。

 人それぞれの尽くせぬ思いが、忘れられたら、鎮めることもできない怨霊、死霊、鬼神、幽鬼、幽魂となり、さ迷うこととなるでしょう。一つに祀らなければ、それぞれの家庭で、それぞれの見守る祖先の一人となったのにと、残念に思う8月の熱い季節が今年もめぐってきます。

 アジアには、古くから、我々の生活する何処にでも、善悪を問わず、多様な神々が混然とし生きています。これは、多様な文化を受け入れることのできる文化圏を意味します。このことを英霊という名で否定する意思は、危険な意思といわざるを得ません。

 人それぞれの尽くせぬ思いが、忘れられたら、鎮めることもできない怨霊、死霊、鬼神、幽鬼、幽魂となり、さ迷うこととなるでしょう。一つに祀らなければ、それぞれの家庭で、それぞれの見守る祖先の一人となったのにと残念に思います。


目覚め

目覚め

わたし達が誕生したとき、この世に私は産まれたのだと、その確認するすべを持たないことと、また、亡くなったと確認するすべを持たないことの、わたし達の魂や霊魂はどう拘わっていると考えればよいのでしょうか。「今日は赤ちゃん!」と言うことはあっても、誕生して「今日は、ママ!」とは言いません。同じように、生ある内に、自身の肉体の別れを告げることはできないのです。
人の生と死の確認に関して、私は、始まりも終わりもない世界を持つと言ったことがあります。
それでは、始まりもなく終わりもない世界の内の、日常、眠ることと、目を醒ますことはどうでしょうか。目を醒ましたときに、特別の情況を除いて、当たり前のように目を醒まし、当たり前のように活動に入る私は、その時、眠るとき、明日の目覚めはないと確信することはないのです。目覚めはないと確信しても、そのことを裏付けるものを、持つことはできません。
そこに私の霊魂や魂の問題は、どう拘わっているのでしょう。それとも、私の魂や霊魂の存在は在るのでしょう。
仏教は、この世界から五蘊(うん)という、色という肉体、受という感覚、想という知覚、行という意思、識という意識で構成されたものが人間なのだと言います。これは一瞬たりとも滞らずに変わり続けるということです。変わり続けることを意識した瞬間に、以前の私ではないと意識したとしても、その私は、すでに変容の中のしるしとなっているのです。
それでは、花が枯れたとき、その花の聖霊は、どこに居るのでしょうか。死んだのでしょうか。私たちが言う、土に帰るという言葉には、変化という意味が隠されています。それは、何処から来て何処に帰って行くのかという意味でもあります。
“何処にも帰らないし、何処からも来なかった”、ただ条件が整ったとき、顕れるのではないか。この条件こそ、総てのものを含んで、ただ一つの命として私を顕そうとしているものです。何もないところからは、来ようとしても来られないし、何もないところには帰えりようもないことから、むしろ、豊潤な大地や海、生物や動物、空や星々の間の命の中から、時を隔てて、次々と顕れては消えるものなのではないかと、そんな思いが致します。
それを永遠の命と呼ぶなら、顕れることを生といい、消えてゆくことが死と言うでしょう。生も死も、永遠の命の作用とするなら、生を撰ぶことは、死も撰んでいることになります。そして、死も生も、永遠の命の霊性であるとわかるのです。生は五蘊が集まることであり、死は、その五蘊が欠けることです。
こう考えてくると、私という意識は、時間と存在の狭間に、縁として顕れる、五蘊(うん)ではないかと。それは、色という肉体、受という感覚、想という知覚、行という意思、識という意識で構成されたものです。
それでは、私が、事実を受け入れることとはどのような意味を持つのでしょうか。意識は、いつでも、今・ここです。過去の問題や未来の不確かさの中に居るときでもです。眠っているときも、時間を忘れて行為に集中するとき、変容そのものの中に、わたし達は、自分の存在を委ねているのではないでしょうか。
禅では、山が動くといい、海深くを歩くといい、風になるといいます。ゴーンと撞く鐘そのものに、或いは、大きな樫の木になるといいます。この時、わたし達は“生まれ変わるという”行為の真っ只中に居て、目覚めているのではないか。
わたし達にとって、一番大切な命という問題に、誕生したことを受け入れたという認識は無いのですから。それは、訪れることの不確かなものを受け入れる能力を持ち合わせていないのです。むしろ、わき起こる雲の中に、光りとなり、風となり、熱となって、無数の水の中に、流れとなって、真っ白く我が身を投ずることです。
その圧倒される白く輝きの中で、自己の存在のあるかなきかの、はかない揺籃(ようらん)に定着させるために、風となって、我が身を完全に没入させることです。それが、祖霊たちや、仏、神々との出会いでもあると思うのです。


よわい「齢」

よわい「齢」 

 お年寄りの葬儀のとき、私は、しばしば、亡くなられたその人を偲んで、こう語ります。
 『人って、支え合って生きるものですが、夫婦の日常の生活は、意識しなければ、共にしっかりしようなどとは、普段、視線に入りもしないし、思わないものです。それは、季節が、人の意識に寄り添うがごとく、いつも一緒にあるに似ています。季節の花々の違いのようには、人は咲かないものなのでしょうか。

 年毎に、年齢を重ねて咲く、今年の花にたとえて見たいものです。散る桜を前に、もっと咲きたかったと、貴方の声が響きますが、あなたは、今も散る枯木の花ではなく、咲かしているではありませんか。散らしているのは、家族の心です。

 病を抱え、傷ついた人間を、自然の老木にたとえて……、若木に比して人を圧倒する姿は、本来、人も年をとればとるほど老齢の枯木に似ている姿なのですが、異なって見えるのは、人の思いのなせることなのでしょう。人が年を重ねた末の、悲哀や年輪を偲ばせた変形した姿・形のたくましさを、もっと見つめてもらいたい。
 そして、老いて浮かべる仕草や声の張りを、いつまでも、心に留めて欲しい。老いて、倒れて、散っていった命を含めて、いつまでも、家族と呼んで欲しい。残された家族の行く末を、散っていった命に託せる家族であって欲しい。残されたものの、ほとばしる若さのなかで、家族の老いを、思いだしてもらいたい。

 ヘルマンヘッセの、「人は年を重ねるほど、若くなる」と言う言葉の意味を、現実に意識できるようになりたいと、貴方の死から受けとりたい。
あっという間の過去は目に見えず、若い人と年を重ねた人も、同じなのですが、十年二十年と較べて、貴方の歩みは確実に違う重みを、枯木のくるおしい姿を見て、若さや勢いを見て、なおさらに持つのです。
 思い起こせば、貴方が歩いた、そのよわいの年月は、それぞれに、春には一斉に咲き誇る桜の姿であり、花の散ったあとの一斉若葉の繁るさまであり、雨に打たれて生き生きとして、陽光に踊り輝き、秋には葉の色を変えて散る家族の姿の記憶であります。そして、四季折々のこの街の祭りと催すものの記憶でもあります。
 人が許容や受容と言う意味を解りかけて来たとき、四季それぞれの姿は、同時に次の季節の予感を当来する姿でもあり、人それぞれの記憶を積み重ねた季節でもあります。
 そして(季節が春であれば)、やっと、この寒々とした季節の終わりを迎えての風の中、あの夏の暑さが、そして、寒かった冬の与えてくれたものとするなら、今を歩きながら、私たちが語らう着実な今は、去っていった過去によって表現されていることを知るのです。
記憶のなかの事実には、懐かしさが似合います。必死になって築いてきたものは、崩されないように、倒れないように、流されないようにと、前を見つめて歩いた記憶だからです。』

 高齢社会という呼び名は、本来ならば、高齢社会は長寿が満喫できる社会になり、子ども達や青年期壮年期の大人たちから見てもそうでしょうが、それぞれの年代の自分たちから見れば、遙かな時間を経過したその社会の輝く宝を、数多く持つ社会ともいえるでしょう。それは一時一時の貴重な時間を費やした結晶の現れであり、過去何世代にわたり、未来に対しても何世代も先を見通す知恵に支えられた社会ともいえるのではないかと思います。
 少子社会といえば、それこそかけがえのない命を、大事に育むことが最も尊ばれる社会といえることでしょう。こう考えてみれば、今の日本こそ、日本の歴史上、最も輝いている時代であると言えるのではないかと思いました。

 先日、地元の工務店の社長が、「和尚、これ、だれか欲しいひとはいませんかねェ~」と。見ると、会社の前の路傍に、盆栽が数鉢、置いてありました。盆栽の持ち主が亡くなって、遺族が家を改築したらしく、面倒が見られなくなり、いらなくなって引き取った盆栽だそうでした。
 私は「社長ねェ~。盆栽というのは、厳密に言うと、本来、絶対自分のものにならないものです。300年、500年かけて育てていくモノで、自分が育てられる期間は、せいぜい20年、30年、40年という期間でしょう。これって、預かっているという意味だと思うのです。自分が育てて愛(め)でるのは、せいぜいそれだけの時間で、後は、次のひとに託さなければという気持ちが生まれてこなければ、盆栽の命を粗末にするだけです。何10年、100年経ったモノを、自分の代で枯らせますか?次の世代が大切に育てることで生きてきた命なのだと思いますよ。こうした覚悟が生じてこなければ、育てられません」と言ってみました。

 古ぼけた齢を重ねた茶碗や壷、軸物をお宝と称して、金額に換算することを、テレビでおもしろ可笑しく放送しています。壊れていたり、まがい物、名前がないモノ、偽物だったらいくら古くても見向きもされません。しかし、40年、50年前のオモチャのお宝と称されるモノを見ては、新に作られていくお宝もたくさんあるのだと知ります。が、テレビの画面の中では、すべてがお金に換算されてゆくことにためらいが生じます。このよわいを重ねたものも、盆栽と同じように、自分のモノではなく、世代を越えて渡すものです。そのものにとっては一時の間に過ぎません。
 そう言いながらも、この盆栽が高齢社会のお年寄りのように、ふと見えたモノですから、人間も育てられ育つことから、お年寄りが育てるもの、それこそ、若い人にとっては手の届かない、人間の心なのだと気づいたのでした。

 誰にとっても明日が未知なる日であるように、年を重ねたよわいも、つねに未知なるものです。それは、繰り返してくるものでもなく、身体のきしみや痛み、思うようにならない筋肉、おぼつかない動きに沿って日々新たに生じてくるものです。それを、深川や下町の古老はうまいことをいったものです。じっと今の自分を見つめて「意気地がなくなった」と。
 かって物語に出てきた長老、年寄り、古株、賢人、落語に出てくるご隠居さんは、今、何処にいるのでしょうか?そう言えば、寺の世界では今でも、書状の宛名には、誰々老和尚、老丈室、老大師と付します。老という字は、敬うという意味がありますが、敬われる対象であるかは、じぶん自身にはわかりません。年齢に固執する人は、自分を見ない。

 さて、前文に記した、「ヘルマンヘッセの、人は年を重ねるほど、若くなる」という言葉は、ヘッセの「成熟するにつれて人はますます若くなる」という「成熟」を「年齢を重ねる」という言葉に書き換えたものです。何故かといえば、老齢の枯木に喩えたかったからです。また、どうして植物と同じように、人間の中に、威厳を持ち、枝を一杯に広げ、空高く聳え、幹の肌は荒々しくと、人は見ないのだろうかとの思いです。

 「死に対して、私は昔と同じ関係を持っている。私は死を憎まない。そして死を恐れていない。
  私が妻と息子たちに次いで誰と、そして何と最も好んでつきあっているかを一度調べてみれば、それは死者だけであること、あらゆる世紀の、音楽家の、詩人の、画家の、死者であることがわかるだろう。彼らの本質はその作品の中に濃縮されている生きつづけている。それは私にとって、たいていの同時代の人よりもはるかに現在的で、現実的である。
 そして私が生前知っていた、愛したそして「失った」死者たち、私の両親ときょうだいたち、若い頃の友人たちの場合も同様なのである-彼らは、生きていた当時と同様に今日もなお私と私の生活に属している。私は彼らの思い、彼らを夢に見、彼らをともに私の日常生活の一部と見なす。
 このような死との関係は、それゆえ妄想でも美しい幻想でもなく、現実的なもので、私の生活に属している。私は無常についての悲しみをよく知っている。
  それを私はあらゆる枯れてゆく花をみるときに感じることができる。しかし、それは絶望をもたぬ悲しみである。」(《人は成熟するにつれて若くなる-ヘルマン・ヘッセ》V・ミヒェルス編/岡田朝雄訳/草思社刊/1995年)


また始めたらよい

また始めたらよい

 それは、私が生まれる以前、地球は、初め、水に覆われていました。 ……そう、地球の鼓動を聞きながら、私は、水の中に命を与えられていたといえるでしょう。 そこには、かぐわしい香りと色彩にあふれていましたが、まだ世界が混沌といわれていたときのことです。まだ私は生まれていなかったし、多分、時間や場所の概念もなかったはずです。それは、私と名づける前の私の状態といえるのでしょう。
 混沌には、水も空も大地も、ともにあったし、多くの命として、今を生きていたはずだ。
 その混沌とした世界から、私が産まれるには、混沌自身が苦悩を持たなければ、意識としての私は生まれるわけがない。
 そして混沌自身が苦悩を持つためには、出会いと夢、葛藤と忍耐、希望と誓い、安らぎと揺らぎ、祈りや願いという慈愛がなければならないのでしょう。
 区別と差別が生じて、形有るものが芽生えるけれども、それは混沌とした世界がなくなったというわけではないのです。
 混沌自身の苦悩は、私が新しい今、ここを手に入れても、ずっと、ずっと、私の今、ここがなくなるまで、続くのです。
 私が生まれることが、混沌には、苦悩であったとも言えるかもしれない。何故なら、生まれた私は、混沌を忘れるから……。
 そして、私が生まれでたとき空と大地と水が与えられたのでした。ちょうど、私の父と母が与えられたように……。
 初めに、お釈迦様は、諸行無常といいました。
 ものみな、移ろいゆくことを定めとして、立ち止まることを許されない。そして、それゆえにこそ、存在するものの根拠があるとしたら、誕生も消滅も継続も、時の法則そのもの。
 総てのものが存在しうるのは、この変わりゆくことにおいてあり、このことがなくては、世界の何ものも存在しえない。一切のものの可能性とは、このあらゆるものの変わりゆくことにおいてあり、これこそが、一時性の正体なのだ。
 もしこの一時性がなかったら、変わることもなく、あらゆる命在るものの姿形は止まってしまいます。この瞬間という一時性は、広がることも長さを保つこともないが、無限の可能性を秘めた点でもあります。
 だからこそ、釈尊は、一切は一時的であるということに徹することが、私の教えだ言ったのです。それは、何ものにも執着するな、この世の総てから超然とすることを学べと。
 産まれてきてたとき、すでに亡くなっていた運命の君こそ、このことがよく解っていたはずです。それは、未だ自分が誕生していないから……。
 お釈迦様は、次に、縁起の話をされました。
 この世界のすべての何もかもが、一つに繋がっていると話されたのでした。
 そして、総てのものが一つに繋がっていたとしたら、その繋がっているものに名前があるのは、命を繋いでいることの意識そのものかも知れないと、気づきます。 繋がることが意識といえるとすれば、それは、名前がなく、すべてがこんとんとしてある状態、それこそが、母の体内で形成されようとしていた命の営みそのもののような気がいたします。 
 生まれ出るまえは、命そのものと言ってよいとしたら、生まれ出たあとのものは、人間や動物、木々や草花、山や河や海、空も、含まれて、すべては一つに繋がったもの、それこそが、命の営みといえるもの、生まれる前も、生きているときも、死んだあとも、すべては、その命の営みの中のことだ。
 生まれでなかった君にしてみたら、きっと、この地球上のすべての人は君自身だし、今、誕生しようとしている命の萌えでようする芽も君だし、すでに亡くなっていった大勢の人も君自身といえるでしょう。
 その次に、お釈迦様は、諸法無我といって、この世界の有り様を語りました。
 君自身は命の営みそのもの。君に教えて語ることなんて、何一つない。まして、思い煩うことなんて君自身にはあり得なかったはずだから。
 思い煩い、じぶん自身への哀しみを通して、あり得るとしたら、君の誕生を望みえなかった、また、今か今かと待ち望んでいた、君のママやパパ、お祖父ちゃんやお祖母ちゃん、それに、君にとっては、これから年月を隔てて生まれ出ようとしているだろう妹や弟かもしれない。
 人間の世界って、自分という心を持つゆえに、自分が寂しいと思えば寂しいし、哀しいと思えば哀しいし、面白いと思えば面白い。そうやって、悲しみや寂しさ、面白さや楽しさで繋がっている世界でもあるからです。
 それは、世界は物語に満ちているということです。
 諸法無我は、そんな人間の世界を、混沌の世界から見なおしてみることをすすめます。すると、移ろいゆくものが見えてきます。
 混沌の苦悩は、悲しみのままに、辛さのままに、疲れ果てたままに、嘆きのままに覆われる勇気を与えます。そのままに、たたずむことが、明日をかえると。
 陽はまた昇り、季節はめぐるように、「また始めたらよい」と、力強く、心地よい響きが、君に届かないものか。届きさえすれば……。
 そして、君は、朝という字が十月十日と書くように、朝が来るたびに生まれ、夕べに眠ることをおぼえるでしょう。
 そして、君は、陽が昇ると、君を取り巻くすべてが、命あることに気づくはず。
 「さ、君となって、また始めるがよい。」
 きっと、君は、目が醒めると、私となって、生まれることができるでしょう。
 変わることが現実に生きる世界にあっては、死でさえも、不変のものとして、真実とは言いがたいものです。
 変わり続ける世界に大きな力となって、「また始めたらよい」の言葉は、変容のしるしから投げかけられた言葉でもあり、そのことを、たしかに君は知っているはずです。
 さて、この祈りは中身は、悩みや感謝とするなら、ヘルマン・ヘッセが、『放浪』のなかで、しるす言葉が光ります。
「祈りは歌のように神聖で、救いとなる。祈りは信頼であり、確認である。ほんとうに祈るものは、願いはしない。ただ自分の境遇と苦しみを語るだけである。小さい子どもが歌うように、悩みと感謝を口ずさむのである。」
 転身への祈り、それは、徹底できぬ自身への、素直さえの回帰という意味でもあります。
 じぶん自身の計らいの中の、気づきは、人を変えるものです。この変えられた自分を希うことを、この祈りの本意と、考えました。


三大聖樹(平成19年4月17日)

三大聖樹(平成19年4月17日)

 釈尊の物語として、三つの樹木が登場いたします。その場面は、誕生、成道、そして涅槃です。この三大聖樹、無憂樹、菩提樹、沙羅双樹を考えて気づいたことがありました。 釈尊誕生は、摩耶夫人がルンビニ園にて、緑葉高木の鮮やかな赤い色の花ををつけた、無憂樹(むゆうじゅ)の下でのことでした。無憂樹は、別名、阿輪迦樹(あしゅかじゅ)ともいい、アシュカの意味は、憂いのないこと、恐れがないことです。

 釈尊が誕生したことが、憂いのないことなのか、すべての赤ちゃん誕生のことだったのか。やはりこれは母親から赤ちゃん誕生の物語の、満ち足りた母と子の絆を語っているもののように思えます。産むまえの葛藤や痛みという心の積み重ねがあったゆえにこそ、この心が余計にクローズアップされるのだとも思います。しかし、その後にわたって、いくら母親とはいうものの、この心持ちを維持し続けることは難しいことでもあるのでしょう。産んだあとの、この心の達成感や至福の思い、穏やかさは、母と子の絆の誕生を象徴するものと考えなければならないと思います。この無憂樹の木の下で生まれた釈尊の、七歩歩いて「天上天下、唯我独尊」と天を指し、地を指したという故事は、天を指し地を指し示すことで、六歩の歩みの困難さを形容しているように思えます。恐れなく進めの指針こそ、「オギャー」という叫びに、誕生するものすべての宣言として、仏教は、人の歩みのすべてに、「天上天下唯我為尊」と表現したのだと思います。

 あらためて今の私たちの状況は、この「オギャー」が、深い人間性誕生の叫びとして聞こえないのではないかと思います。自分の命は尊いものとしても、同じ命を授かったわたし以外の赤ちゃんは遠い存在に思えます。「自分は、この世界の産声が聞こえているか」と、母と子の絆、世界の誕生として、産声を聞かなければならないことを、強く意味しているのだとも思います。そうでなければ、生まれた赤ちゃんの「天上天下唯我為尊」の叫びと、母親の憂いのないこととが繋がっていることが想像できないからです。

 そして釈尊の歩いた七歩のうち、地獄・餓鬼・畜生・修羅・人・天が六歩であり、七歩目ばかりが際だって問題とされています。しかし、「天上天下唯我為尊」は、あまねく六歩それぞれの歩みに、かぶさっていることを気づくということを、今はただ願うばかりです。

 釈尊の、最初の一歩から数えて三十五年にわたる遍歴の六歩こそ、無憂樹に導かれた歩みだったと考えてみました。憂いのない、恐れなくして進んだ道として……。これは釈尊誕生、四月八日のことでした。仏教の始まりは、四門出遊(しもんしゅつゆう)の故事からです。四門出遊とは、釈尊が、気づきから出家をこころざし、思索や瞑想、そして目覚めに到る動機を与えたものです。母を幼くして亡くしたものの、すべてを与えられて王宮内に過ごす釈尊の疑問を象徴とする故事です。

 それは、王宮の閉ざされた東門・南門・西門・北門からかいま見た外の世界、そこに釈尊を突き動かす動機があったからです。そこから見たものは、他者の老・病・死の世界です。その他者の老病死が、釈尊には、老いねばならぬ我が身となり、病むであろう我が身となり、また、現実の死者の姿と悲しむ親しいものの姿を前にして釈尊自身を襲う死の影が、「青春の高ぶりはことごとく断たれた」と述懐したことで、うかがい知ることができます。

 この身をおそう老・病・死の影が、釈尊を、生の思索へと導き、やがて苦の発見となって、釈尊を病ませたのだと思います。その時の思いは、「人は生老病死のあり方の中にあり、傷つき痛みのなかにあり、愁(なげ)きのなかにある。かかる者が、その原因を知ることができれば、それはより高きあり方であり、優れた生き方となって身を覆うであろう。それが、求むることであり、それが聖なる求めというものである」です。そこから、「大いなる放棄 を決意することになったのでしょうか。これは、啓示でもなく、選ばれたものでもない、現実をじっと深く見すえたものの宿命なのでしょう。そして、釈尊二十九歳にして、仏教は始まったのではないかと思いを馳せます。

 釈尊の出家から三十五歳までの歩みは、数多く仏典に飾られています。実際には思索と瞑想の試みであり、肉体を酷使する遍歴ともいえる旅だったとも思います。旅からとどまれば木陰や緑陰花々の中の散策と瞑想を繰り返し、時々は、質問や糾弾など問いの矢をうけたこととも思います。

 そして、ブッダガヤにて、心身ともに疲れ果てた釈尊の身体を癒したのは、少女の差し出したミルク粥でした。現在の臨済宗・曹洞宗の専門道場の朝食を粥座(しゅくざ)いって、お粥を頂ますが、この故事を受け継いでいることが推察できます。

 身体の回復が釈尊を、菩提樹の木陰に座らせ、瞑想にと誘い、悟りを得たのでした。釈尊三十五歳、十二月八日、明け方のことでした。この菩提樹の別名は、ヒッパラジュといい、畢鉢羅樹と書きます。道樹、覚樹ともいい、クワ科の常緑高木だそうです。これ以降の旅は、釈尊の歩みそのものが、菩提樹のように葉を茂らせ、人々のうえに緑陰として枝を広げます。

 ここから幼名シッダルタは、釈尊となって、ブッダと呼ばれます。語り得ないものを手にしたブッダの、更に確かなものにするために、そして伝えるための釈尊の歩みは、ここから、憂いもない、恐れもない確かな一歩となったようです。これからの歩みも遍歴の旅です。その足元は、人々の歩みにそって共に歩む地獄・餓鬼・畜生・修羅・人・天道の道でもあります。しかし、今は、菩提樹の茂る葉が頭上を覆っています。

 このことがいかに大事であるかと気がついたのですが、釈尊の歩いた道は、荒涼とした砂漠や、岩がごろごろとした場所ではなかったことです。これは、水もなく、新鮮な食べるものがない場所で、いかに生きて行くか、勝ち取ろうとする闘争心ではなかったということです。そして、もっとも見落としてならないことは、目に見えない神や、神の王国という物語の世界をつくらなかったということでしょう。

 自然と人々の生活のなかでの、事実を見つめて、人の暮らしの内に生きる智慧を思索したことだったと思うのです。ここに、文明が発達すればするほど、仏教の考え方を必要とする理由があるのだとも思います。人の自己が芽生えて、他者を分離し、「こちら」と「あちら」をおぼえ、「今から」と「今まで」を知り、「みずから」と「おのずから」の差が不明になったともいえないでしょうか。これは、「おのずから (自然に)」という形の自発性に、「みずから(意志)」の働きを「あるべきよう」と置き換えてみることのいかにむずかしいことか、釈尊を確かなものとして描くことができる人にとっては、今もここに歩んでいるといえさせるものです。

 菩提樹の木は、昼も夜も、雨の日も、穏やかな日も、照りつける暑さの日も、ただただ腕を広げて、四十五年の歩みのうち、人々を覆っていたのだと思います。やがて時が過ぎ、釈尊最後の地に向かわせます。その日は、釈尊八十歳、二月十五日のことでした。

 釈尊の言葉に、蘆(あし)の例(たと)えがあります。蘆の群生する水辺に立ち、「この蘆の群生は、一本の蘆だけでは立つことができない。蘆が寄り添い、支え合うことによって生きているのだ」という教えです。釈尊入滅の、その場所はクシナーラ、ウパヴァッタヴァの沙羅の林でした。釈尊が横たわった場所の、四方に二本ずつあったという沙羅の木、釈迦が入滅すると白色に変じたと云われています。沙羅は、インド原産の常緑高木で、小さな淡黄色の花をつけ、香りがあります。日本ではなぜか、夏つばきのことをいうのですが、これはツバキ科で、初夏から白色の五弁花をつけます。

 今考えてみると、釈尊の死は、人として避けることができない生老病死という輪廻の中に息を引き取ったという意味になるのでしょうか。私には、地獄・餓鬼・畜生・修羅・人・天・解脱の七歩は、人のあり方であり、死に方でなく、亡くなったという事実がとても大きな意味を持つものと思えるのです。天に召されたのでもなく、地に落とされたのでもなく、生老病死という時間をかけて思索し、忽然として沙羅双樹のもとで息を引き取ったという、そのことにです。

 人は木々の下に安らぎを求めるのでしょうか?植物のイメージは人の争いとは遠く離れたものがあります。無憂樹に導かれ、菩提樹という知恵を得て、そして沙羅の群生林のうちに息を引き取った釈尊の言わんとしたことは、“人は、それぞれ自身の世界を持つのですが、その世界観をいがみ合うことに苦心するのではなく、独りでは生きて行くことが出来ない”ことを考えさせると言うことではなかったかと思うのです。蘆は自覚しなくても、あるべきように、寄り添って生きるのですが、人は、自覚しなければ今生きている世界を保ち得ないと、三本の聖樹は、私たちへの教えとして、私たちの歩みに今も聳えていることがうかがえます。三大聖樹、無憂樹、菩提樹、沙羅双樹は、私たちへの釈尊からのメッセージです。

滅度(平成19年9月18日)

滅度(めつど)(平成19年9月18日)

 多くのお年寄りの人達の死に接して、やはり、病院にてベッドの上で亡くなることがとても多いことです。
 M氏との出逢いは、おそらく私が住職になって、すぐに始まったのではないかと思います。彼岸や祖先の命日に、いつも、お寺の玄関の縁に腰掛けては、お話しして行きました。親戚と待ち合わせしてです。いつもベレー帽をかぶって、優しい人となりを感じていました。しかし、その奥さんの姿を見たこともなかったことに気がついたのは、昭和57年6月にお母さんが亡くなったときです。
 自宅にて葬儀が執り行われたとき、今でも憶えていることは、妻であるSさんが、奥の部屋にいるものの、挨拶に現れなかったことでした。その時、精神障害とうかがったものの、私がお会いしたのは、そのSさんが亡くなった時だったのです。
 それは、平成17年のことですので、実に、23年が経っていました。
 Sさんの葬儀が終わって、M氏の笑みが、肩の荷を降ろして、やっと、自分だけを見つめればよい時間を持ったことがうかがえました。
 平成19年9月17日、Mさんが、一人病院にて亡くなりました。お子さんも、親戚も付き合いがないのか、家の近くの親切な人達だけで葬儀が行われました。
 その婦人から訃報をいただいたとき、「夫婦とも老いて、とうとう私が、M氏の人生の締めくくりとして、立ち会い、最後を全うするのに、安らかなのかしら」と云っていた言葉が印象に残りました。これでいいのだろうかと、これでいいのだには、八十八年かけて歩んだM氏が、最後に選んだことに対する婦人の波紋でもあります。
 四十二章経というお経に、釈尊の言葉、「人の命は吐いて吸う、短い間にしかない」があります。これは、言葉としては理解できるものの、事実として理解できない吾々のために説かれたのものです。きっと、今、事実としてかみしめているのはM氏であり、M氏の姿から、浮かぶメッセージでもあります。
 そのM氏が亡くなる2日前、毎日来てくれる20年来の付き合いというご近所の婦人に、「毎日来なくていいんですよ」と、これは、申し訳ないと気遣うのことなのか、それとも、自分の生に覚悟が尽いた果ての言葉だったのか、肺炎に、酸素マスクを口にして病臥することとは、息を吐いて吸う事の繰り返しの中に時間があり、その儚い時間の中に、走馬燈のように過去の思い出が数多く思い出されていたのだと思いました。
 一呼吸の時間の刹那に、どれだけの長さを含んで、目蓋を閉じているのだろうかと思います。その一呼吸を、健康にして、時間に追い立てられる吾々には、普段、意識することはできません。
 それこそ到りついた過去の積み重ねたものは、そんな吐く息吸う息の、繰り返しの中に、あるような気がいたします。
 M氏の戒名に、どんなに良い字を選んでも、どんなにか考えて意味を付したとしても、この戒名を仏壇にかかげて、M氏の両親が、そしてその両親もしてきたように、毎日、線香の香を手向ける人はいないと思うと、寂しいと思います。
 しかし、M氏は、そのことを含めて、考えてみれば、後半の人生をかけて、ゆっくりと時間をかけて、身に染みこませてきたのだと考えてみました。奥さんが亡くなられたときも、戒名はいらないと言われたことに、現れているとも思いました。それでも、電話口で話しをして、戒名を受けていただき、自宅から奥さんの葬儀まで出しました。
 いつの頃だったか、M氏が、「結婚する前から、妻Sは、かわいそうな境遇で、私は、最後まで面倒を見てやりたいと思っています」と言われたことがありました。
 M氏の生きがいのように、妻の身体の病体と、M氏の加齢との競いに、M氏は、遺言を書きたいと、この件で、お寺のことは記さなければならないとも言い、私は、お寺のことは、お寺にまかすことで、M氏の不安は解消されるように願っておりますと告げました。そして、「最後に、骨を拾うから、とにかく、今の生活を大切に」と。それに対して、「私は仏教が好きで、今でも、勉強している。後悔しないよう、悔いのないよう、まっとうしたい」と。

 これは禅宗に伝わる《五燈会元(ごとうえげん)》という本に書かれていることです。
 それは、釈尊が亡くなろうとした時のことです。釈尊は鹿野園のクシナ城に至り、付き随った人々に、「今私は、身体の中に異変が起きて背中が痛む、とても旅を続けることはできない、とうとう私も多くの人々と同じように、涅槃に入らなけばならない」と言い。キレンガという川のほとり、そこは沙羅の木々が群生する、双樹の下(もと)で、右脇を下にして足を累(かさ)ねて、亡くなった話しです。
 しかし、伝えられたところによると、再び立ち、何故か、母の為に説法したと伝えられています。その言葉は、世には無常の偈と言われており、それは「諸行は無常なり、是れ生滅の法なり。生滅滅し已わって、寂滅を楽と為す」です。
 M氏も、眠る姿となって、語っている内容は、この無常の偈を、M氏が親しくして亡くなっていった人に対して、「我もまた、諸行は無常なり、是れ生滅の法なり。生滅滅し已わって、寂滅を楽と為す」と、その姿から、聞こえてくるようです。
 その言葉を発する少し前、釈尊は、迦葉尊者に西天一祖として法を伝えたのですが、側に控えていた阿難尊者には、こう告げています。
 「法の本法は無法なり、無法の法も亦た法なり。今無法を付する時、法法何ぞ曾て法ならん」と。
 《 釈尊の伝えた法の根元は無法への気づきであり、それが法といえるものであると。今、その無法への気づきを伝えるが、無法への気づきは、それを伝えても、それがどうして法であろうか 》と、阿難に対して、問いを残しております。
 寂滅を楽と為す、楽の内容を、無法の気づきの境界とする、もう一度、法が見えてくるのでしょうか、その法と無法とは表裏一体、裏と表のような気がいたします。
 その法のままに生きることを、仏道と言うものの、本来、人の歩む道に、あの道もこの道もあるものではありません。大空を飛ぶ鳥の姿の後にも先にも、紅葉した落ちる葉の、風に、光にくるくると舞う姿の、これは今の姿であるものの、どこにも道はありません。
 そのどこにも道はないところを道とよび、言い、意味を見出そうとするものは、人間の心なのでしょう。
 その道がなければ歩めないのは人間であり、鳥や魚やけものは、道なき道を跡(あと)なき道とするものの、人間は、道なき未来を選択肢と言い、道なき跡を結果と生涯とあえて言うものです。
 本来、後先なき道の歩む人の、幻の道を見出しての喜びや、惜しいと悔やんで、取り返しのつかないことをしてしまったとする一喜一憂、それは落葉に譬えれば、表をだし裏を見せて落ちる葉の姿を形容するかのようです。
 本来、葉っぱや人の行為に、裏も表もないはずの、敢えて明暗をつけ価値や運不運として、人は生きてゆくのだと思います。その道は、来し方去ってゆくという隔たりだけでなく、すべての数える時間も年齢も、人にとっては、人生という膨大な時間が生じるようです。
 過去、日本人は、人の生きた道を、夢としました。夢の道とすることで、道を突き放して、その道に縛られない本来の一葉を、自己の姿として見てもらいたく思います。枝から地に落ちる時間の中に、他の一葉と比べようもない長い時間と距離があるはずなのです。
 それを発見するのも自分ですし、脚色できるのも自分です。芭蕉や西行が放つ夢の言葉もそこにあると言えばよいのでしょう。
 裏を見せ表を見せて散る一葉の、裏や表は、自己が認めるものではなく、他が認める裏や表ですが、裏や表は、人に譬えれば行為です。
 さて、釈尊が、迦葉尊者に対して伝えた法を、迦葉から次の阿難尊者に渡す布石としたあと、釈尊は、いよいよ、荼毘にふされます。
 棺が燃え火が盛んになるも、まだもとの如しと。そして付き随ってきたお弟子さんたちが、釈尊を讃えて叫びます、「総ての人のわき起こる諸もろの盛んなる炎こそ、その火で能く焼きつくさんをことを願う。請う釈尊、三昧の火、金色に耀く身を荼毘したまえ」と。 すると、棺は、火三昧をおこし、多くの灰を降らせたと言います。
 「我もまた、諸行は無常なり、是れ生滅の法なり。生滅、滅し已わって、寂滅を楽と為す」。
 我れ灰となって土となる。この我れは、母や父の残したもの、その父や母もすでに灰となり、我れもまた灰となる。我れを精神とし、土は物体とすると、精神と物体が一如となり、その先に進むかのようです。
◎禅宗は、普段当たりまえのことに真理を見、当たり前でないことに、人の思いの介在を見つめます。僧堂では、”自己を無くせ”、”成りきれと”言われたものです。

安住の地(平成20年11月15日)

安住の地(平成20年11月15日)

《岸は海にささやく、「おまえの波が賢明に言おうとしている事を、私あてに書きなさい」、海は泡で何度も何度も書く、そして、湧きかえる絶望とともに、書いた文字を拭い去る。》タゴール

 それは、平成14年の秋の彼岸だった思う。ある檀家さんに連れられて訪ねてきたのは、その檀家の叔父さんのSだった。訪問した理由は、「鳩ヶ谷のお寺の墓を、この寺に移したいという」といことだった。鳩ヶ谷のお寺さんが、Sさんの家は、「子がいないし、承継者もいないのでいずれ無縁にします」と、面と向かっていうのです。
 そのSさんの奥さんが亡くなって、平成9年の7月で、その時は、奥さんの実家の墓がその寺にあるので、近くて良いしとその墓所を購入したのだという。実家の墓は広かったが、そこそこの広さの墓所手に入れ、墓石を建てて納骨したのは、5年前のことだ。
 Sさんも80歳を過ぎて、体力に自身がなくなり、急に不安で不安でしかたがないという。陽岳寺なら、甥っ子もいるし、ずっとついで詣りをしてもらえるから、是非分けて欲しいということだった。
 私は、「でも、奥さんが亡くなって葬られたとき、実家の父母が眠るその墓地を、貴方が承知で選んだはずではなかったのでは?」と聞くと。「それはそうだが、こっちの方が親戚が多いので」という。
 年老いて、背が曲がるようになって、「無縁はいずれ整理する」と、その鳩ヶ谷の寺の主は、よく言えたもんだと驚き、宗派はと聞くと、真言宗という。

 いずれ整理するといわれた墓には、入れないのが人情だ。
 何で、奥さんが亡くなったとき相談してくれなかったのと、今更だが、聞いてみても、どっちにしろ、そんな願い事に、困惑しながら、困ってしまう。この寺でなければならない条件は、その叔父さんの実家の墓があるからなのだ。では、鳩ヶ谷の寺には、奥さんの実家があるじゃないのですかと聞くと、「家内は6人兄弟で、男もいるけれど、家内を除いて、誰もその墓の後見をしようとしないのです」という。一方的にそんなことを言われても、確かめようもないし、第一、その家内の実家の人達を私は知らない。それに奥さんも知らない。
 少し考えさせて下さいと、断りたい気持ちを胸に、なんでこんな気持ちにさせる坊さんがいるだよと、腹を立てながら、こっちに振らないでと思ったのです。

《そよ風が蓮にささやく、「おまえの秘密は何?」「それはわたしそのもの」、蓮は答える、「盗んでごらん、私は消えてしまうから!」》タゴール

 よくお墓を得ることは、安心を得ることでもありますとか、死後の安住の地を得ることはなどと、うたい文句のお墓の宣伝が入ってきます。
 私は言いたいです。死後の安住の地は、土地という場所ではないんですよと。あなたが生きたあかしは、あなたの縁が結ぶモノにあるんですよと。家族や友人、あなたが親切にした多くの人たちの生き様に託されるんですと。あなたの生き様には、託すお寺さんがはいっていますかと。 
その後、何度か、そのお年寄りの親戚と話しがありました。
「どうしても、墓が欲しいと!」
 幸いに一番小さな墓所が空いていたので、引き受けたのです。正直、話しを聞かなければ、こうはならなかったのに!と思ったものでした。
 決まってから、そして数日が経ちました。さらに相談があると、何とかしてくれと……。

 そして、平成15年の春彼岸のことだった。「妻の実家の墓の後見がないことに、鳩ヶ谷の寺は、三十七回忌に永代供養をしてあげるからと、300万円をよこせと言うので、耐えられなく、そのお墓も更地に戻したいので、遺骨と、土を少し、一緒に納骨してくれ」と頼まれたのです。その必死な一途な様子に、困ってしまいます。
 「それは、家が違うでしょう」と、空しい言葉と想いながらもつい口にしてしまったのです。結局、一つのお墓に受け入れることで、そのお年寄りの心が安心できるならと、「いいですよ……」と。
「永代供養はどうしましょうか」との問いに、「あなたがお参りされるわけですから、必要のないことです」と、すべては終わった。私は先がないのでと、平成14年度から15万円の護寺会費を納めたのです。


 そして、鳩ヶ谷のお墓二つの墓所のお寺から改葬を許され、整理することが決まって、陽岳寺の墓所に石塔を建てたのです。小さなお墓だったので、立てに5つの遺骨を納骨したのが、平成15年の8月2日のことでした。
 強い意志だったと思うのです。体の中から絞り出すように声を発して、この大挙を成し遂げたのでした。

《空は月を捕らえるために罠をしかけたりはしない。月を縛っているのは、彼女自身の自由だ。空に満ちる光は、草にたまる露のしずくの中に、おのがいやはての姿を探す。》タゴール

 その年の9月彼岸に、過去帳を新しく書き換えました。やがて、Sさんの身体に変化が現れ始めました。「今、調子があまり良くないのですよ。腎臓が悪いのです。」と、声はずいぶんと弱っていたことを思い出します。
 そして平成16年の2月に、甥っ子が亡くなったことがあったが、体調がすぐれなく出席できなかった記憶があります。温かくなれば元気になれるでしょうと思ったものでした。
 思い出したように、墓参に顔を出すことはあったのですが、その数はめっきりと少なく、やがて平成18年頃からは便りだけになった気がします。
 平成19年の暮れの便りに、クビ頸椎に癌ができて手術することを決断したことを聞く。手や腕にしびれがあり、それが段々とひどくなるようだと、本人はそれが辛いらしい。医者は、高齢でもあることだし、そのほかに、腹部にも癌があるので躊躇している。だけれでも、そのクビの頸椎の癌さえ取れれば、少しは楽になるとSさんは思っている。しかし、その癌の切除は、完全に取れるか、切ってみなければ分からないという。それでもSさんは切って欲しいという、優に86才を超えても、人は生きたい望みをもつ。
 平成20年10月終わり、Sさんは亡くなった。親戚が決めた通夜葬儀の段取りに、私の日程の都合が悪く、最後を確かめることはできなかった。

《死んだ木の葉が大地に化して自らを喪うとき、彼らは森の命に参加している。》タゴール

 築いたものが朽ちかけ、無くなろうとすることに、人の思いは死してなお強い。そう思う心に、受容し受け入れることを、どうしたら刻み込むことができるのだろうか。
 親しかった人の心の暖かさをもてあそび、親切に尽くしてくれた人の心の芽を折り、今までの好意という行為にさざ波を与えたもの、それは、人が亡くなろうとする潔さ以前の心であり、遺言書にこんな効果があろうとは、考えることもなかった。
 「それでは、人が傷つきますと、何で、生前に話をしてくれないのか」と、四十九日後に、受け容れなければならない私も困ります。
 ふと、人の気持ちがよく変わることを、久々に、目の当たりにする。変わらなくなったことが、人の死か、そんなことを思いながら、S氏のやせた姿を思い出す。でも変わっていいのだと、変わらなかったら余計に悩むこともあるから……。

《初めての太陽が、新しい存在の出現にあたって、たずねた「おまえは誰か?」、返事はなかった。年また年は過ぎ去り、最後の太陽が、静かな夕暮れ、西の海の岸辺で、最後の問いをなげかけた、「おまえは誰か?」、答えはなかった。》タゴール

 本当の安住の地とは、安住の地を求めてさまようのではなく、生前に接した人の、すがすがしい思い出の中に住みながらも、やがて、忘れられるということかもしれない。


心眼(平成22年3月1日)

心眼(しんがん)(平成22年3月1日)


 涅槃経の獅子吼菩薩品に、象を仏性にたとえて、目の見えない者を一切の無明の衆生にたとえとしている話しがあります。
《たとえば王がいて、一人の大臣に、「汝、一頭の象を引いて、目の見えない多くの者に示しなさい」と告げたとしよう。
 大臣は王の命令を聞き、目の見えない多くの者を召し出して、象に触れさすだろう。
 すると、この者たちは、象をなでて、牙に触れた者は、象は大根のようだといった。耳に触れた者は、象は大きなザルのようなものだといった。頭に触れた者は、象は石のようだと言った。鼻に触れた者は、象は杵(きね)のようだと言った。足に触れた者は、象は木の臼(うす)のようだ言った。背に触れた者は、象は牀(ゆか)のようだと言った。お腹に触れた者は、象は大きな甕(かめ)のようだと言った。尾に触れた者は、象は太い縄のようだと言った。
 象の全体について説く者はなかったというが、しかし、これは説かなかったということではない。このように部分部分は象という全体ではないが、これらを、離れて更に象というモノがあるのではない。》と経典には書いてあります。

 この物語が、禅宗の語録にあります。
 問う、「衆盲の象を模し、各々異端を説く、と。如何なるか是れ真象。」
 多くの目の見ない者が、象の体をなでて、めいめい異なった部分について語った、といいますが、本物の象とは、いったい、どんなものですか」と問いました。
 師云く、「仮なし。自(も)と是れ知らざるなり」と。
 師は、「仮などというものは何もない。みんな真だ。牙は象の牙、耳は象の耳だ。一つ一つが真の法身片々である。それをお前が知らないだけだ」と。
 禅は、「目がなかったなら、どうして見ることができるか。これは、目だけではなく、耳がなかったら、どう聴けるか。口がなかったならば、どう伝えることができるだろうか。目もなく、耳もなく、鼻も舌も身体も心もなかったら、どのように見、聞き、嗅ぎ、味わい、触れ、思うことができるか」、と。

 このお話が、落語になると、心眼という落語になります。
 円朝全集13巻にあるこの『心眼』は、横浜にいた圓丸という目の見えない弟子が、兄弟喧嘩をしたことから思いついて作られたものです。芝居にもなり、明治44年2月7日に、初演がおこなわれたそうです。
 この作者の三遊亭円朝の戒名は、三遊亭無舌居士といいます。舌がなくして話す。京都は嵐山の臨済宗天竜寺、滴水禅師に参禅し落語の奥義を会得したとき、この居士名をいただいたものです。
 そして、奥義を会得したときに詠まれた歌が、「閻王に舌を抜かれて是からは、心のままに偽(うそ)も云はるる」、です。
 円朝は、こうして、眼なくして見、耳なくして聞き、口なくして話すことができるようなり、作られた作品が、この『心眼』でした。

 『心眼』の出だしは、「さてこれは、心眼ともうす心の眼というお話でございますが、物の色を目で見ましても、ただ赤いのでは紅梅かボケの花かバラか牡丹か分かりませんせんが、ハハア、早咲きの牡丹であるなと心で受けませんと、五色も見分けがつきませんから、心眼と外題いたしました」とあります。
 このお話の登場人物は、大坂町の盲目梅喜(ばいき)という針医者と、お竹という良くできた女房に、芸者の小春、弟の松之助、近江屋の金兵衛です。
《江戸浅草に住む盲人の梅喜は下手な針医者であるがために、仕事がない。そこで、横浜の懇意な人が横浜に来るようにと呼んでくれたのです。弟の松之助と横浜に出稼ぎに行ったのですが、下手はどこに行こうとも下手で、一年か半年はいるつもりが、三日で、帰ってきてしまいました。しかも歩いてです。
 長屋に帰ってみると、女房のお竹に、このいきさつをすべて話しました。
「すべては目が見えない俺の手間がかかって、馬鹿にされ、情けなく、口惜しくって、腹が立って。お竹や、これというのも俺の目が悪いばかりだ。口惜しい、どうにかして、せめてこの眼の片方でもいいから開けてくれ」と、お竹に願ったのです。
 もとより、梅喜思いのお竹は、茅場町のお薬師さまに信心をして、三七、二十一日断食して、夜中参りをしようと決めたのです。そして、満願の日、梅喜は、疲れ果てお薬師さまの賽銭箱のそばに寝てしまいました。

 朝になり、近江屋の金兵衛さんが、お薬師さまにお参りしたとき、寝ている梅喜を見つけます。梅喜は目が開いて、視界が開けてみると、すべては、初めて見るモノばかりで、それこそ、金兵衛さんも初めて見る人となっていることに驚くのです。
 金兵衛さんと二人して、帰りの、目が見えなかったときの世界と、目が開いて見える世界は、まるで二つの世界があるようでした。見える世界は、華やかで、大きなモノと小さなモノ、川や橋や海、それに人の器量までもがさまざまで、器量の善し悪しは撫でたって分からないことです。
 梅喜は、帰りしな浅草の観音さまにお参りします。観音さまのお堂の隅に、人だかりがする場所があります。そこには大きな姿見がありました。金兵衛に呼ばれて、その鏡の中を覗いてみると、そこには、いい男の梅喜がこちらを覗いていました。
 梅喜は、歩きながら思いました。「私はこの位の器量を持っていながら、家内は、金兵衛さんが言うことには、鎧橋のうえを渡っていた下女より悪いという」と。
 その人混みから、梅喜は金兵衛さんとはぐれてしまいます。そこにたまたま芸者の小春
に出会います。芳町の小春姐さんは、もともと、梅喜の下手な治療を受けながらも、惜しいくらい実にいい男だと、目が開いていたらと、岡惚れしていました。
 そこで出会った小春は、お腹もへっていたので、二人して釣り堀の料理屋へ……。

 その頃、お竹は、眼がさめてみると、自分の目が見えないことに、「これは、お薬師さまが、願いを聞き届けてくれ、亭主の目が開いた」と、喜んでいた。そこに、梅喜を見失った金兵衛さんが知らせに来てくれ、いきさつを聞かされたのでした。お竹は、梅喜の杖をたよりに、浅草を捜し捜し、その茶店にたどりつき、梅喜と小春の部屋のふすまを開けます。
 お竹、「何だとエー」。梅喜、「どこの人だエー」。お竹、「お前の女房のお竹だよ」。梅喜、「これはどうも」。お竹「何だとエー、今、聞いていれば、あいつの顔はこんなだとか、あんなだとかでいけないから、小春姐さんと夫婦になろうなんて、お前さん、そんなことが言えたぐりかねエ-」。…………。
 お竹は、そんな梅喜にあきれて、「死んでやルー」と、止めようとする梅喜ともども、庭の池にドブーンーと。
 「しっかりおしよー梅喜さん、起きよー」と揺り動かされて起きた、梅喜は、「ああ……夢かア、おや、目が見えないって者てのは、妙なもんだなア、寝ているうちにはいろいろのものが見えたが、眼がさめたら何も見えない。『心眼』というお話でございました。》

 目だけで見ると思うと、なんと浅はかな、見るモノと見られるモノと、二つになった途端に、狂い始めてわからなくなる人間の、夢と現実を織り交ぜるこの心眼。
 円朝が悟ったとき詠んだ、「閻王に舌を抜かれて是からは、心のままに偽(うそ)も云はるる」の歌。心のままに偽も云はるるは、人の思いという煩悩妄想も、そのまま、口なくして話すと、それは真となって、耳なくして聞く人の心を打ちます。
 目なくして見る梅喜と目が開けての梅喜、どちらが、人として真か。
 円朝は、確かな目で見る現実を、不確かな目なくして見る世界にこそ、たしかな現実があると、心眼で示します。こうして、私たちに、それでも、どちらが現実かと考えるようにと……。
 円朝の辞世の句は、「目を閉じて聞き定めけり露の音」となっている。しか墓碑には、「聾(みみし)ひて聞き定めけり露の音」とある。これは、後に西宮の南天棒老師が、「聾ひて」では、理屈に読めるので、ということらしい。
 目閉じては、心無くしてと読める。心空っぽこそ、心眼の極意。

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