目次
輝いている時
夢中(ゆめのなか)
芝浜
江戸っ子
亀住町(平成13年7月1日)
モンセ・ワトキンス~夢のゆくえ~(平成14年1月3日)
新牌開眼
英霊(平成17年5月23日)
目覚め
よわい「齢」
また始めたらよい
三大聖樹(平成19年4月17日)
滅度(平成19年9月18日)
安住の地(平成20年11月15日)
心眼(平成22年3月1日)
とかくこの世は
とかくこの世は
祈り(平成17年11月29日)
品位(平成18年1月20日)
ニャンニーシンズ(平成18年3月1日)
鍵(平成18年4月25日)
チベット(平成20年5月1日)
SYOHOU
諸法
四十四の問い~ミヒャエル・エンデ
先ゆく輩
さき行く輩
祖師年譜
ダルマ
慧可
五洩霊黙和尚
石鞏慧蔵禅師
大珠慧海禅師
西川の黄三郎
馬祖道一禅師(馬大師)
五百生 百丈和尚
大梅山法常(752-839)
麻谷山宝徹禅師(平成12年1月27日)
鎮州普化(ふけ)和尚
寒山・拾得
虹の彼方に
ヘイヴン・ペックの場合―続貧しいけれど、豊かだった―
生前葬
平和を我らにーGIVE PEACE A CHANCE(平成13年10月31日)
ソクラテスとヤージャニダッタ
蓮(平成14年6月2日)
心-KOKORO(平成14年6月25日)
独り暮らし(平成15年4月12日)
老いが、咲いていた!(平成16年7月5日)
深濱-fukahama
死に顔
松山鏡(ソクラレストとヤージャニダッタの続き)
真ん中(平成20年4月1日)
百万回いきたネコ(平成21年1月1日)
夜来る鳥(平成21年1月1日)
だいじょうぶ、だいじょうぶ(平成21年2月1日)
無常への帰依
無常への帰依
希望(平成12年1月2日)
葬式坊主
泥棒
赤とんぼ
老い
……ロス
後姿
寿陵
ついで参り
目標
六道を行く
もの言わぬ羅漢達…揀択をこえて…
宮本武蔵
五合庵断章(平成10年10月17日)
K子さん!(平成12年7月19日)
今は昔
十一面観世音菩薩
尽七日忌(平成19年5月1日)
OSYOU
OSYOU
この手のひらに―禅僧の死―(平成10年11月18日)
戒(平成10年7月25日)
幽霊
みんな仏教徒(平成10年5月27日)
最後の晩餐(平成10年5月23日)
禅問答(平成10年5月31日)
分銅
天国は汝ら自身に宿る(平成10年11月24日)
宗派
穢れ(平成12年8月30日)
お彼岸
仏心
仏心
ご祈祷
施餓鬼会にて(平成17年5月28日)
永遠の命
輪廻する葦(平成10年5月27日)
連鎖する命(平成10年6月2日)
涅槃(平成10年8月12日)
鏡(平成10年7月25日加筆)
流星
TAO(平成11年1月3日)
四大
挨拶
冥福
盂蘭盆
祈り(平成14年7月4日)
仏事歳時記
再び 最後の晩餐
この手のひらにII(平成18年11月18日)
死んで生きる智慧(平成19年3月27日)
五百生(平成19年11月20日)
破地獄偈(平成20年5月24日)
この指止まれ
この指止まれ
家族と家庭(平成11年1月5日)
導師(平成11年2月26日)
家から個人へ、そして家族・友達へI
家から個人へ、そして家族・友達へII
脳死そして臓器移植(平成11年3月2日)
独り決めの生き方
僧堂I
僧堂II
僧堂III
恥じ
僧堂IV
返事
父殺し・母殺し・友だち殺し・子殺し(平成20年1月1日)
その後
その後
ほとけさま(平成17年5月1日)
仏が仏に合掌する
戒名(平成12年3月14日)
無用の用(平成12年2月21日)
世話
大きく育て!(平成11年1月18日)
しもべ(平成10年11月7日)
電話(平成10年8月22日)
意思
寡黙
妄想(平成10年8月2日)
川(平成10年8月22日)
風如(風のように)(平成10年6月18日)
追悼(平成10年5月27日)
受容(平成10年6月18日)
蒸発
臨終(平成10年6月8日)
外道
障子(平成13年3月10日)
日月(にちげつ)
年寄りの出番より
人生とは、闇を照らす一瞬の蛍の光
時の旅人
時計(平成12年1月3日)
星(平成11年10月15日)
溝(平成11年8月2日)
過去心…念の起こる処(平成11年6月19日)
与える時間(平成11年5月24日)
桜(平成12年3月2日)
無常(平成11年4月16日)
川(平成10年9月17日)
有時(時の構造)(平成12年2月5日)
時の旅人(平成12年2月1日)
揺れる木々の葉
この人生の速さはなんだ(平成14年12月26日)
法句経より-時の旅人(平成15年2月4日)
寂然不動 如春在花(寂然不動、春の花に在るが如し) (平成16年9月19日)
ZENGO
自立
橋は流れて(平成10年9月18日)
無事
過去(平成10年5月23日)
たまごっち(平成10年5月23日)
一衆觸礼(いっしゅうそくれい)
六道を輪廻する
二人三脚
生老病死
筋肉番付
ポケモン
俺は、親馬鹿か!
塵も積もれば山となる
生と死と永遠
最終章
一章
二章
三章
四章~(未完)
時間旅行
時間旅行
命の歌-母の短歌
礎-いしずえ-
離魂(平成19年8月25日)
海辺橋
海辺橋
ふるさと(平成18年3月4日)
千の風(平成18年9月16日)
人の道(平成18年9月18日)
あなたは、いつから、一年が始まりますか?(平成20年8月1日)
前住職 二十三回忌にて(平成20年9月1日)
平成21年お施餓鬼会を振り返って(平成21年6月1日)
奥付
奥付

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その後

その後

今では、私たちの仕事の多くの部分は、極端に言って、亡くなった方の法事と葬儀の執行という部分のみを担うことを要求されている。
 それすらも要求されないことがある。
 しかし、それは、この国の人々にとって、とても悲惨で愚かなことである。
 悲しいけれど、人の死をきっかけとして、その後、その前と、私たちはもっと大切に考えることが必要です。
 死者と私たちの、旅立ちが始まるから。

ほとけさま(平成17年5月1日)

ほとけさま(平成17年5月1日)

金子みすゞ童謡集『このみちをゆこうよ』に、《さびしいとき》という、詩があります。

わたしがさびしいときに、よその人は知らないの。
わたしがさびしいときに、お友だちはわらうの。
わたしがさびしいときに、お母さんはやさしいの。
わたしがさびしいときに、ほとけさまはさびしいの。

わたしがさびしいときにと、今のわたしというテーマに、金子みすずは、素朴にうたいます。きっと、わたしがたのしいときには、お母さんはうれしいことでしょうし、ほとけさまはたのしいことでしょう。みすゞにとって、仏さまは、私を映す鏡のような存在であるけれども、鏡と異にすることは、仏さまは、私と同じに寂しくとも、寂しいままに、私を包んでくれる存在に響きます。
わたしがさびしいときに、よその人は、お友だちは、お母さんは、ほとけさまはと、それぞれの繋がりの中の世界を、みすゞは、謡うと同時に、わたしがさびしいときの全体の世界をも謡っています。 わたしがさびしいときに、世界もまたさびしいのと。
平成17年4月23日、土曜日、とある49歳で亡くなった男性の七回忌法要で、姉妹が焼香をする姿を見て、新鮮にして、不思議な思いで、見つめている自分がありました。この便りを出させたのも、この光景のせいです。彼が亡くなって発見されたのは、それは6年前でしたが、近くの人の注意でした。昼も夜も灯りがついていることに不審に思ったからでした。
人にとって、やっと、なつかしく過去を振り返って見ることができる年齢は、50前後の年齢ではないでしょうか。これは、わたし自身の経験からで、他の人にも強制するものではありませんが、もしかして、こうして便りを出すうちに、私も振り返ることで、何かを綴るようになってしまった身を振り返ってのことかも知れません。

人にとっての過去って、いったい何処にあり、何の意味があり、今の私をどう支えてくれているのだろうかと、考えたことがありました。
年を重ねて来た、自分の過去の一つ一つの年輪は、何処に刻まれているのだろう。人の心の奥にそれはあるのだろうかと。
彼が突然亡くなってしまうなんて、とても思いもよらないことでした。しかし、彼の将来を、彼の現状を照らして考えたとき、私の想像は、とても心配していた内容でしたし、おそらく4人の姉妹達も同じ想いで過ごしていたことと思うのです。
この当時、私は、閉じこもりで、人とまともに話がすることができない彼を、もっと周囲の人たちが注意して観察していてくれたらと、このこと故に、成熟していない社会を情けないと思ったことでした。彼は、そんな社会の犠牲者かもしれないと思ったものでした。
彼が亡くなる1年前に、88歳のお母さんが亡くなりました。お父さんは、お母さんが亡くなった年の15年前になくなりました。

建具職人として一徹だった父は、息子に、自分の仕事を継いでもらいたかった思いがあったものの、息子の不器用さと性格と気質に、諦めた模様でした。その分、厳しかった父だったのでしょう。父が亡くなり、遺骨と一緒にカンナやゲンノウが共に葬られました。そして、多くのノミやカンナが、和尚さんにと、私の手元に贈られてきたのでした。仕事場の二階には、建具職人が自ら造った仏壇に、その後お参りしたのでしたが、老いた妻は、その度にこの仏壇のことを話しもし、前に座った私も思いだしていました。
この家とのかかわりはこの年からでした。昭和59年の5月からでのことです。

それから、痩せてはいるもののしっかり者で賢い老いた母との二人暮らしが続くわけですが、母にとっては、この息子さんが気がかりで、ようやく仕事を見つけても、長く我慢ができなく、辞めてしまうのです。母と二人の家で、彼もいたたまれず、やがて、夜になると家を出て、ふらついていたようです。これは、昼にでると近所の人に見られるからと、人目を気にする行為に、悪さをするでもなく、酒を飲むでもなく、じぶん自身を人混みの中に埋没させることが、彼なりのじぶん自身の保ち方だったような気がしたものでした。
家にいれば、じっと閉じこもり、姉妹達も交替で、母と弟の元へと通う姿が続きました。やがて、母が区の新しくできた施設に入所し、平成14年に母が亡くなるわけですが、年月は、彼から両親を、彼の手の届かない処へと、遠ざけるかの仕置きをしたみたいでした。
一年を超えての、本当の一人暮らしだったはずです。一人になってしまったのだと言う実感は、今までにない試練だったはずです。その一年という年月。
彼は、幼かった頃の姉や妹と遊んだ楽しかった、もう二度と帰れない思い出にひたっただろうか。姉や妹に心配をかけて、叱られてしょげ返ったことや、母そして父親や周囲の自分に対する過大な期待に、答えることのできない自分のふがいなさを、情けなく思っただろうか。嫌なものは嫌と通してきた貴方にとって、ではどうしても好きなものが有ったのだろうか。

母亡き後の一人暮し。自分はどうなるのだろうかと、考えたことがあっただろうか。何を目的として、生きていこうかと考えただろうか。このままの生活が、いつまで続くだろうかと考えただろうか。
現状の彼は、食べることの生活に追われて、ただ時間だけが過ぎていくのみであったはずです。外に出ることは、人に注目されることであり、それは最低限の外出のみで、望むことでなかったはずです。一度休んでしまった仕事は、再び顔を出すことに、彼はじぶん自身がいとおしく、これ以上傷つくのが嫌で、壁を乗り越えることができなかったのでしょう。彼なりにですが、よく考えてみると、彼は、一つ一つの彼の困難な問題に、じぶん自身で結論を出してもいたことです。
お寺に自転車で来て、カギをかけずに駐輪し、「自転車を盗まれた」といったときのあの顔。
公園に清掃に行かなければならないのに、休んでしまって、閉じこもり、福祉事務所に行くように姉たちに頼まれ、お寺で話したときの顔。みんなに連れられて寺に来た、はずかしそうな彼のことを思い出します。
一年間、ひもじくカップラーメンをすすって、どうして過ごしていたのか、いつも母や父の姿が、心の中にあっただろうか?と思いだすと心があつくなります。人にとっての拠り所って、案外そんなものかもしれませんが、もしそうでなかったら、彼は、逆に真の強い人ということになります。
金子みすゞ童謡集“あかりほうへ”のなかに、『はすとにわとり』の詩があります。

どろのなかから はすがさく。
それをするのは はすじゃない。
たまごのなかから とりがでる。
それをするのは とりじゃない。
それにわたしは きがついた。
それもわたしの せいじゃない。

蓮が咲くのでもないし、まして泥が咲かすのではない。鳥がでてくるのでもないし、まして卵が出すのでもない。それに、私は気がついたのですが、気がつかせたのは私ではない。
命の営みの中のわたし達の一つ一つの行為、結局、その営み事態がなせることなら、営みとは、命であり、世界であり、仏さまでありと、みすゞは言っているようです。
平成17年4月23日、七回忌法要にて、姉妹達が彼に焼香し合掌する姿を見て、「彼を拝ませたのは誰だろう?」と考えると、私の心が熱くなります。


仏が仏に合掌する

仏が仏に合掌する

この文章は、『ほとけさま』からの続きです。

金子みすゞ童謡集『このみちをゆこうよ』に、《さびしいとき》という、詩があります。
わたしがさびしいときに、よその人は知らないの。
わたしがさびしいときに、お友だちはわらうの。
わたしがさびしいときに、お母さんはやさしいの。
わたしがさびしいときに、ほとけさまはさびしいの。
金子みすゞの詩を呼んでいて、上手いと感じるのは、「わたしがさびしいときに、ほとけさまはさびしいの」のと、世界いっぱいに自己が広がる感性です。禅宗では、これを見性というのでしょうか、前文の、対立して変化して行く自己の形があるからこそ、その殻を破ってはじき出した自己が、天地一杯に広がり、わたしと、ほとけさまが一つとなる、総てが、自己そのものであり、ほとけさまそのものの世界が現出するといってよいでしょう。禅でいう、平等の世界です。

わたしがさびしいときに、ほとけさまはさびしいの。
わたしがさびしいときに、よその人は知らないの。
わたしがさびしいときに、お友だちはわらうの。
わたしがさびしいときに、お母さんはやさしいの。

この金子みすゞの詩を、順序を逆にしてみて、世界一杯に広がった自己から、対立の世界にと戻ってくると、「よその人は知らないの。お友だちはわらうの。お母さんはやさしいの。」は、善し悪し、好き嫌いをこえて、「知らないお友だち、わらうお友だち、やさしいお母さん」それぞれが際だって、みすゞの心に浮かぶことだと思います。禅でいう絶対差別の世界です。よく「やなぎは緑、花はくれない」という消息です。
みすゞにとっては、ここまでくると、対立していているかに見える平等と差別は、一つのものとなってくるようです。これを、『金子みすゞの心』といえるのではないかと思うのです。
4月23日、土曜日、とある49歳で亡くなった男性の七回忌法要で、姉妹が焼香をする姿を見て、新鮮にして、不思議な思いで、見つめている私がありました。
世界が変わったように、新鮮にして、美しい、この光景は、『仏が、仏に合掌する姿』にたとえられ見えたのです。彼が喜んでいるといったら、幽界に踏み入ることになります。対立が終わり、シーンとして合掌する姿に、彼もいない、姉妹もいない、そんな波穏やかな法要と形容したら言い過ぎでしょうか。6年の年月が、姉妹にも辛い時間であったことは確かなことです。しかし、6年の年月が、このようにしたとしたら、しなければならないとしたら、いえいえ、こうなって欲しいと願う私の心情なのかもしれませんが、『仏が、仏に合掌する姿』として見えたことは確かなことです。
総ての法要が、このように見えるものなら、私にとっては、法要の意義は、はかりしれないものです。
彼を想い、その彼の母を想い、父を想いと、そして、そのつれづれの記憶のなかにいる自分を思うと、対立する自己があるものです。だからこそ、そこには、やるせなさや平穏、つらさや安らぎ、ふがいなさの苦渋があり、それは、今の自分の気持ちに、涙や笑いを誘います。時のいたずらといったら、俯瞰(ふかん)した見方になるのでしょうが、過去の自分と今の自分の対立です。人はこの世界の中に生きていますが、もう一つ別の世界があるからこそ、此岸と彼岸のように、この世界が輝きます。
『ほとけさま』の便りを出させたのも、長く親しくこの際だった光景のせいです。
そこで、これは、一体誰が、こうさせていることのなだろうかと考えてみました。じぶん自身の計らいであるはずがなく、まして、自分以外の他者からの計らいのはずもなく、金子みすゞ童謡集“あかりほうへ”のなかに、『はすとにわとり』の詩で表した内容に感心したこともありました。

どろのなかから はすがさく。
それをするのは はすじゃない。
たまごのなかから とりがでる。
それをするのは とりじゃない。
それにわたしは きがついた。
それもわたしの せいじゃない。

金子みすゞの素敵な感性は、『どろのなかから はすがさく。』という、力強く活き活きとした差別の世界を見据えながらも、『それもわたしの せいじゃない。』と、絶対平等の世界に同時に生きることが出来る人だということでしょう。根源の世界に生きるからこそ、はからいを捨てて、あるがままの世界が見えるのだと。これらのことは、金子みすゞの、気づきです。気づくからこそ、見えて、『金子みすゞの心』を、わたし達は見ることができるのです。
気づくことが、どんなに世界をかえるか、これは、同時に囚われると対立の世界は出口をなくすことを意味します。『はすがさく、はすじゃない。とりがでる、とりじゃない。きがついた、せいじゃない』と、不連続にして連続ものの見方。これは、今の自分を精一杯に生きることにつながります。
姉妹が合掌する姿に、これは、命の営みの中のわたし達の一つ一つの行為であるけれども、拝ませたのは、彼でもなく、姉妹でもないと、気づけば、この一連の行為の中に世界や命が表現され、営みとは、『仏が仏に合掌する』ことになるのでしょう。
至道無難禅師の言葉に、「じひするうちは、じひに心あり。じひじゅくするとき、じひを知らず。じひしてじひしらぬとき、ほとけというなり。」があります。
合掌して、合掌しようとするとき、合掌に心があっては、真の合掌とはいえず、本当の合掌を知らないことなのでしょう。合掌して合掌を知らずときとは、ただひたすらに合掌する姿勢に、合掌があり、仏ということなのだと、禅師はいいます。世界一杯に合掌が満ちるとは、今までの自己がなくなり、彼と一つになって、母と一つになって、父と一つになって、その彼も、母も、父もなくなって、合掌していることもなくなることです。
雪峰禅師の『尽大地これ汝が自己』とは、このことを言い、無功用(むくよう)とは、この合掌する行為のことです。さらに、百尺竿頭に一歩を進めよという禅語がありますが、この6年間という百尺竿頭があったればこそ、百尺そのものが、天地一杯に、合掌という形で表現されたことになることを思います。


戒名(平成12年3月14日)

戒名(平成12年3月14日)

 どの新聞にも、葬儀とお墓と戒名の話題が、必ず定期的に掲載され、その記事を見るたびに、私はドキッとさせられます。どの言葉も、私と密接に繋がって、お寺の存在価値を問う内容だからです。
お彼岸が近づいたこともあるのでしょうが、今日より、読売新聞の朝刊「葬送のかたち(1)」で、またもや取り上げられています。
このホームページは、陽岳寺和尚として、そんな世の中に、私はどう変化して接して、どう私の主張を貫き、その足跡である私の記録を、私の次の世代に、良いこともだめなことも残しておきたいと思って書き記すものです。

 平成12年2月の末日、寺の電話がなった。受話器の奥から、搾り出す声で、名前を告げた婦人は、2月の半ばに、主人が亡くなって葬儀が終わり、これから四十九日とか法要のお寺さんを捜しているのだという。この寺の電話は、近くの書店で、臨済宗と告げて探してもらったというのです。

こんな電話が、年に何回か掛かってくる。その度に、葬儀屋さんと専属の僧侶の対応に、憤りを感じます。何も知らない遺族につけこんで、法外に請求し、式が終ってしまえばそれまでの考え方は、遺族のその後の心情や生活を考えると、ただ利益だけを追求する、まったく無責任な非道な振る舞いです。

現実の私達僧侶は、葬儀という式を通して、遺族に徹底的に尽くすことによって、私達の真価が評価されます。そしてその尽くす内容は、押し付けではなく、自分自身の到達した仏教をいかに説くかということです。そのためには、日頃、”如是我聞”の意味を、研鑚することが第一義です。

しかしながら、説くといっても、悲しみの真っ只中にいる人に向かって、振りかざして説く事も出来はせず、語らせることだけでも、充分仏教を説いたことにもなるのです。もちろん死者の生前からの交際があればなおさらですが、現状は、生前に僧侶と知り合うことの意義を見つけようとする人は、とても少ないのです。多くの人が縁起でもないと思っていることでしょう。
僧侶が側にいるという事の意味は、とても大きなことだと思います。そんな親密な関係の中においては、お布施はいくらです、戒名はいくらですと、どだい段階を設けて、請求する事自体可笑しなことなのです。近くの人と話していて、不幸があり、内のお寺さんから、いくら取られたと、頻繁に言われます。その度に、私は答えることが出来ません。

千葉県市川市行徳の方の葬儀に、なんで三多摩の福生市の僧侶が来て、「葬儀の祭祀は、私が執り行いますが、納骨や四十九日忌以降の法要は、どなたかお近くのお寺さんに頼まれるとよいでしょう。」と平然と言ったという。葬儀屋さんは、またも互助会で、葬儀に入る前に、「臨済宗のお寺は、千葉県、都内は非常に少なく」と、嘘を平気につくのです。そして、その互助会の専属の僧侶が言う、「近くの寺に頼めばよいでしょう。」を聞いて、これではお寺が、社会に認知されるどころか、それこそ自ら壊している姿と言えないでしょうか。仏教の教義など何処にも無く、ただ形ばかりの法要は、真に何のための葬儀かが問われていないことが原因でありましょう。人の死に携わるものとして、自ら自浄作用の機能しない産業化した葬式産業に警鐘を鳴らします。

その電話で、人が亡くなるということ、生きるということ、戒名の意義等ひとしきり話をして、戒名だけは付けて貰わなかったことから、「名前を付けるのなら、一緒に考えましょうと、それでよかったら相談いたしましょうと、家族とよく話して、また電話してください。戒名料はありません、差し上げた戒名に、価値を付けるのは貴方です。私はただ受け取るだけですから。」と、受話器を下ろしました。
一週間も経つと、きっと何処かに頼んだのだろうと忘れていた。
3月第一週を過ぎたある日、一度お話を聞きたいと、娘と一緒に訪ねたいと、今度は住所を名乗って、電話が鳴り、その翌日、婦人と娘さんがお寺にやって来ました。
ご主人の遺影と新聞の切抜き、それにご主人の来歴を綺麗に清書された文面を持参しての訪問に、お寺を思い切りよく訪ねてくれた事、ご主人の闘病生活のこと、亡くされての落胆した気持ちのこと等沢山お話して、戒名を創ったら封書でお送りしますといって、帰られていきました。 
 ○△様
冠省、戒名お贈りいたします。
梅寿院徳寶無端居士(バイジュイントクホウムタンコジ)です。
出典は、正法眼蔵≪梅花≫の「老梅樹、太(ハナハ)だ無端なり。」の言葉を体としました。

≪いま開演ある「老梅樹」、それ「太無端」なり、「忽開花」す、自結菓する。あるいは春をなし、あるいは冬をなす。あるいは「狂風」をなし、あるいは「暴雨」をなす。あるいは衲僧の頂門なり、あるいは古仏の眼晴なり。あるいは草木となれり、あるいは清香となれり。……老梅樹の忽ち開花のとき、花開世界起なり。花開世界起の時節、すなはち春到なり。この時節に開五葉の一花あり。…≫

詳しくは、手に入ればですが、原文を参照してください。道元禅師は禅宗でも、曹洞宗ですが、顕している内容は、臨済宗の私の思うことと同じです。
さて、どんな名前がふさわしいのか、私は考えました。30年間の都立O高校の古文の教諭生活、T高校校長、私立K大学付属K高校校長と歴任されたご主人に、下町のちっぽけな寺の住職が戒名を授けることに、果たして命名する資格があるのか私にはわかりませんが、古文より引用致すことにしました。本来戒名は、信頼敬服する和尚から、授けるられるものですが、私を知らない○△様に、電話と一回の面識で、戒名を授けるのは無理がありますと、私は思います。授かる前に、ご一緒に考えて見ましょう。
頂きました新聞の切抜き、

「動と静、文と武が調和した自主創造の良い伝統は、創立以来、師弟の太いきずなによって支えられてきた。『教育には心のふれあいが大切』と常々語っていた徳寶先生は、”トッポウさん”の愛称で親しまれた。自主・自立・創造の意気にあふれたO高校魂を忘れないで欲しいですね』と卒業生にエールを送る。」を、拝見いたしました。この切抜きを大切に保存する事自体、故人へのお気持ちと誇りをお察し致します。

ご主人が亡くなられたその日、私は、船橋に居ました。ここのところの寒さが嘘のように、暖かく、公園の梅の木に、梅花が咲き始めている姿に接していました。その時、思い出していたのが、正法眼蔵≪梅花≫の「老梅樹、太(ハナハ)だ無端なり。」の言葉でした。亡くなられた日時をお伺いしたとき、真っ先に、この言葉を思い出したのです。そして、亡くなられたご自身を、老梅樹に喩えようと思ったのです。心のふれあいは太いきずなであり、そのこと自体が、互いにそれぞれの人格の確認という意味があるからです。師弟の絆は、お互いの人格を認め合うことが、より太い絆となると思うのです。人は、絆を強く意識するということは、気がつかないことですが、逆に、個性を強く意識していることなのです。真の自主、自立、創造の意気は、この意味より、理解できること思います。

また、人として太(ハナハ)だ無端なりは、端が無いということです。どうどうと真中だということを、どんな立場・状況であろうと、端で無いんだという確信です。
老梅樹の一枝に花開くとき、即ち同時に自主、自立、創造の意気が開くということです。そしてそのことが逆に、老梅樹の自主、自立、創造の意気なのです。道元は老梅樹の一枝に可憐な花をさかす時、そこに春があるのだといいます。人に喩えれば、自主、自立、創造の意気は、春と変わりありません。徳とは自結菓なのでしょう。真の寶とは、そこに生きていることを言うのではないかと思います。その故、樹は寿に、言い換えることが出来ると思います。
朝夕、位牌と対面したとき、「今の私は、無端なり。」と、対話することができます。
この戒名を授かれますように、陽岳寺 和尚
平成12年3月10日
 揺れ動く婦人は、再三娘と相談し、私に電話をくれました。
 婦人は、無端という言葉の響きが、寂しいといいます。
 私は、「戒名を授かる前ですから、何度でも言ってください。四十九日までに決めればよいのですから。」と、「無端という言葉が寂しいと思うなら、それに代えて、咸新(かんしん:みな新たなり)と維新(いしん:これ新たなり)の中から、選んでみてはいかがでしょうか。」と、咸新の意味と維新の意味を申し添えました。婦人こそ、「老梅樹、太(ハナハ)だ無端なり。」の、地を行く姿に映りました。

 自主、自立、創造の意気が開くということ、老梅樹の一枝に可憐な花をさかす時、そこに春があり、去年の花と今年の花は、花としては同じだが、年々歳々、一枝に宿す可憐な花こそ、人の今の表現であり、新たなる自分の顕現なのでしょう。無端は、咸新でもあり、これ新たなりです。
 揺れる婦人を、娘が気遣うことこそ、やがて娘に支えられ、手を引かれて歩く姿は、今の自分の新たな姿です。
 揺れながら、迷いながら、自分を見つめて、もう変えませんと、3月14日、受話器の向こうで決した言葉は、梅寿院徳寶咸新居士(バイジュイントクホウカンシンコジ)でした。 
 朝夕に、位牌に対面し、「今日も、みな新たなり。」と、亡きご主人に感謝を捧げ、今在ることを喜びとすることを、願って止みません。


無用の用(平成12年2月21日)

無用の用(平成12年2月21日)

 お寺から見ると、今まで永続していた環境や文化的なものが激変してきていることを思う。このことをお寺にとって良いことか、悪いことか、都合の良いことか、都合の悪いことかは、寺に暮らすものがそれぞれ判断を下せばよい事なのだが、同じことが、お寺の中でも起きていることを思えば、一ケ寺の事ではなく、お寺全体の問題でもあると思う。

平成12年1月6日午前、Nさんから電話がありました。母が亡くなったとの知らせでした。ちょうど一ヶ月前ぐらいに、私は居なかったのですが、留守の者が、Nさんが墓地にお参りに来たとき、母が病院で危篤であること、亡くなったら知らせるので、遠方だけれども葬儀に出向いてくれるかとの応対があったこと、できる限り出向くので、すぐ知らせてくださるようにと返答しておいたと、聞いたことを思い出したのです。

掛かってきた電話の内容は、母が亡くなったこと、葬儀はお金がないから出来なく、お寺さんは来てくれるな、戒名は付けなければならないのか、四十九日の納骨の日程を打ち合わせさせてくれとの内容でした。年の瀬に母の代わりに墓参に来たことと、伝言された内容が変わって来ていることに、戸惑いがあった。どうしてそうなってしまったのだろうか訝ったものの、こうしたときの、私の説得力のなさ、不甲斐なさは、寺を預る住職としての私と、一僧侶としての私との葛藤が顔を出します。その場に立ち会えない和尚は、寺にとっても存在する価値は無いと思うからです。

寺を預り、この寺の墓地に眠る大勢の方々は、名前を言えば、あるいは、戒名を言えば、その人直接本人の顔や、経歴または家族や知人の顔が浮かび、墓を掃除するたびに、墓が私に語りかけてくれるような、妙な親しみを覚えつつも、安堵感を持つ。家族は元気に、たくましく生活しているとか、あれから大分子供たちは大きくなったとか、子供も大分年をとったようようですとか、行方が判りませんとか、この墓の後見人は、社会的には立派な人のようですが、実母が眠っているのにどうして何年も、お参りが来ないのだろうか、そんな墓の苔むした姿が偲びがたく、半年に一遍、私はそれらの墓を、たわしで洗います。
私から息子さんやその奥さんや子供さんたちに、墓参りに来いとは言えないけれど、こうして私が気持ちを振り向けることで、許してやってくださいと念じたりもします。いつも思うのですが、葬儀が終れば、ほとんどの亡くなった方の遺骨は、この寺の墓地に葬られることによって、納骨以降は、私との対話が専らなのです。その意味では、葬儀とは、家族から、私の元へと引継ぎ式のような錯覚を持つこともあります。亡くなった者が、生きているかのようにです。そのためにも、私は、家族からより多くの生前のことを聞き、亡くなる時の状況を詳しく聞くことにしています。不思議なくらい、詳細に渡って、家族は私に話してくれます。

Nさんのお母さんも、最初は熱が出て、風邪を引いたかのようでした。身体の不具合で、昨年の2月、病院に検査に行ったのでした。診断は、脳種痘であり、即刻入院となりました。何しろ84歳でしたので手術はできず、薬で様子を見ることに専念しました。入院は次第に,母親の体力を奪うかのように、9月頃のMRIの診断によると、左脳半分に患部が広がり、点滴と流動食で身体を維持していたそうなのでした。やがて脳肝にも広がり、意識がわからなくなり、平成12年1月5日午前8時45分帰らぬ人となりました。ご主人が亡くなってから、挫折と転居を繰り返しながらの日々もありました。26年間4人男二人、女二人の子供たちを育てあげることは、並大抵の苦労ではなかったのです。晩年は娘さん夫婦と暮らすことで、安らいだ日々を送っていたのですが、いつも穏やかに、気の優しい人でした。ほぼ一年にわたる闘病生活は、ほんのわずかな蓄えも無くなり、葬儀のためのお金もなくなっていたのでした。子供たちも、母の葬儀費用が都合がつかず、仕方なく子供たちだけで、10日の荼毘にされたのでした。

私は、訃報電話の翌日、お母さんと一緒に暮らしておりました、娘さんに電話いたしました。私は、人が誕生することの意味、そして亡くなることの尊さを話し、火葬にされ肉体が無くなる別れに立ち会うことの意義のために、誰でもいいのではなく、その菩提寺の和尚である私だけが、遺体と親しく向き合うことのできる祭祀者であることを、説明しました。受話器の先の、いくらか咽る声を聞きつつ、手紙に託すことで、電話を切ったのでした。

≪冠省 お母様の亡くなられた訃報をお知らせいただきありがとうございました。電話では、納骨の日に、戒名を差し上げることになっておりましたが、10 日火葬と伺いまして、速達ならば間に合うはずと、Mさんに承知していただき、早速郵送いたします。 Mさん、そしてご理解いただきましたご主人、長期にわたる看護に厚くお礼申し上げます。たぶん幾度となく葛藤を繰り返されたこと思います。しかしそのことも、もはや過去のこととして、きっと悔いのないことと、今は思うのではないかと拝察いたします。 

お父さんの戒名と一緒に並べた場合に揃うように、末尾の“心”字を先ず揃えました。そしてお母さんの名前の「いと」を、“綸(いと=りん)という漢字に変換いたしました。綸という字は、「綸…」と、…に漢字を使って熟語とすれば、天子・詔(みことのり)という意味を持ちます。つまり、この“綸(いと)”は、もともと尊い、かけがえのないものと言う意味を持つことに通じると思います。何がかけがえがないのかと言うと、自らの存在は、総て、糸で繋がっているという意味にとりたいと思います。このことは、私達は、知らずに母親・父親の姿を見て、育ってきたし、その子どもも、更にその子供もと、繰り返すことからも言えます。それは、自己の選択を拒否された運命を思います。子供たちの最初の産声は、そんな出会いであり、絶対の価値を持つことの表現でもあります。父母を亡くすと言う意味も、そこから出発していただきたいと思います。

次に、“綸”の上の字は、“綾(あや=りょう)”です。“綾”は、人と人の織り成す綾であり、人生の軌跡であり、私は、人の生、そのものを“綾”とみなしました。そして言い換えてみれば、綾全体を“容(うつわ)”とすれば、人の心は、綸と綸の織り成す綾の上で、心を咲かすかのように、可憐であり、悲しくもあり、嬉しくもあり、退屈であるとも言えるでしょう。生前にはかなわぬ夢を、果たすことこそ、総てを受け入れるということであり、容認するということでもあると思うのです。死とはこのようにも解釈できることでしょう。 

その母親が、火葬になれば、もはや見ることも出来ず、さわることも出来ない存在になります。生きてさえいれば、あるいは母の姿・形がどこかに在るということは、子にとって大きな支えです。その支えを現実に失うことが、葬儀の核心であるということは、子ども達にとっても旅立ちの儀式であり、もちろん母親にとっては帰郷の儀式なのです。私が望むことは、このことを良く考えて、母を最後まで慕いそして偲んで、それぞれにとって、お別れの会としてください。49日および納骨の式を含めた、お寺での追悼式にお会いいたしましょう。≫

後日、火葬の日には、兄弟達が、和尚の手紙を回し読みながら、母を送りましたと、娘さんから手紙を頂きました。
私は出かけることが出来なかったけれども、兄弟達に、私なりの引導を渡すことが出来たのかもしれないと思ったのです。

今、私が、切に思うことは、人が生きるということの意味が、とても希薄になっているように感じられるのです。自分を離れた、かって肉体を一つにしていた父母すらも、一体となって感じることが出来ない、そんな子供達を育む現代の親達は、何年か前に、いけしゃあしゃあと、今を生きている内が花であり、楽しみと遊ぶのに、忙しくってしょうがないと叫ぶ、年寄りを前にしたことがあるが、自分を大切にすることは、ひるがえって自分以外をも大切にすることによって成り立つ事実を、しっかりと認識することこそ、より良く生きることの出発点の大事だと思うのです。


世話

世話

 人が生きて、息を吸うと言う事には、息を吐く事が含まれていて始めて、息を吸う事ができる。
15年ぐらい前のことだろうか、彼を注意深く見つめるようになったのは。
彼の父親が昭和57年の春に、79歳で亡くなったときからだ。彼の父親は、ガラス職人だった。その当時、江東デルタ地帯にはガラス工場がたくさんあり、職人達が溶鉱炉の熱気に打たれながら、真っ赤になったガラスと格闘する姿があちこちで見うけられたものだった。
その頃、彼は公立の小学校の用務員をして、生計をたてていた。人の良い彼は、純朴でいて長い年月に起きるさまざまな事柄を、受け入れ過ごしていた。

 彼には、老いた母がいて、なかなか気難しく、その頃、都営住宅で、ベッドに寝ては起きる日々を送っていた。そして年齢が少し離れた、知恵遅れの障害を持った兄が母親と同居していた。彼と彼の妻は、都営住宅に通っては、二人の世話をしていた。
しばらくして、兄の様態が悪くなり、兄は入院する事になった。老いた母と入院した兄の世話に夫婦は奔走する事になる。兄は入院したまま、平成2年夏、61歳で、帰らぬ人となった。

兄が亡くなった頃、彼の母は、ほとんど寝たきりの状態になりながらも、狭い都営住宅の真ん中にベッドを置き、掃除も行き届かない部屋に、横たわっていた。それでも母の口は達者でした。夫婦は、三度三度の食事、排泄の世話、洗濯と夫婦は都営住宅に、毎日通っていた。

平成4年の暮れ頃からだろうか、彼の妻の健康が損なわれた。胃がんだった。翌年の正月には、妻が入院して、平成5年3月、57歳の若さで急ぐように亡くなっていた。次々と肉親に旅立たれる彼は、それでも不幸を表面に出さず、母の介護に余念がなく、淡々と毎日が過ぎて、彼も定年を迎えたので、母の世話に忙しかった。その頃、彼の子供たちが次々と結婚し巣立っていった。

平成8年4月、桜が咲いているさなかに、彼の母が、90歳で旅立っていた。
それぞれの葬儀は質素に、父親の葬儀には行けなかったけれど、兄の葬儀は、母のベッドの傍で執り行われ、母の葬儀妻の葬儀も遺骨にした後、肉親が祭られる自宅の仏壇の前で、残された家族と親戚だけで、本当にしめやかに執り行われた。
平成11年9月、久しぶりに彼の笑顔を見た。年も70歳を越して、日焼けて飾り気ない彼は、忙しそうにしていた。
「長男の息子が3歳になり、孫の世話に追われて、忙しい」という。

めぐり合わせの人生とは、儚くも美しく、不思議でしょうがない。私が知る彼は、いつもあわただしく、人の世話に追われている。こうして18年の短い年月にもかかわらず、彼一人の18年間に4人の大切な家族がいなくなり、何一つ愚痴を言うわけではなく、孫の世話に追われる彼を見て、彼の強さを思った。

何かを望む人間は、そこに弱さを見つけることができるように、望まない人間には弱さはない。ただ生きることに徹して、目前の事実を受け入れ消化する姿に、打たれる。それこそ一息一息の呼吸に、生命はある。また、来年の春に、あわただしい彼の姿を見るのが、楽しみだ。


大きく育て!(平成11年1月18日)

大きく育て!(平成11年1月18日)

 平成11年1月8日夕刻、電話が鳴った。
近くの特別養護老人ホームのM園、O指導員からの電話だった。
「入園していた八十二歳の女性・I岱子さんが、本日、Yクリニックで亡くなったのだが、葬儀が出来ないだろうか。さらに遺骨を引きとって頂けないだろうか」との内容であった。

「遺骨の引き取る家族・姉妹がなく、早急に決めなければならないので、ご理解の上、決断して欲しい」と、さらに続いた。
「今までは、こうした例では、東京都の多摩霊園の合霊塔に埋葬していたのだが、近くに埋葬できれば、その上葬儀までできれば、園の人達もお別れができるし、本人にとっても嬉しいことだと思う」の言葉に、私は、引きうけてしまったのでした。
さて、引きうけるにあたって、私は本人のことは一切知らないし、顔も見たことはないので、何か本人を知る手がかりを教えてくれないと葬儀は出来ませんとO指導員に伝えた。O指導員は、I岱子さんの、ここに来る前の、雇用主であるMさんの電話番号を教えてくれた。

Mさんとの電話

岱子さんは、本当に気の毒な人なのです。岱子さんは、福島で、警察官の父と母とのあいだに大正5年4月28日に生まれたそうです。岱子さん4歳の時、お母さんが亡くなられたそうです。下に弟がいたそうですが、知能の発達が少し遅かったと聞いております。父親はすぐに再婚したそうです。その父親も、岱子さん10歳のときに、亡くなられたそうです。しばらくは、一緒に暮らしていたそうですが、後妻との間に妹が生まれていて、暮らしは楽ではなく、やがて、当時としてはハイカラな、女性が一人で生きて行くには理想の、美容師の道を選ばれたそうです。しかしながら、当時の美容師は徒弟制度で住み込みの、はたから見ているほどに楽ではなく、辛いこともたくさんあったろうと思います。なんでも、上京して有名な先生についたと聞いております。

おとなしく、辛抱強く、芯に気品のようなものがあって、品の良い穏やかな、それは美しい人でした。
戦争が激しくなってまいりますと、パーマをかける婦人達もいなくなり、郷里の福島に帰ったと聞いております。そこで、男の人との同棲生活が始まりました。内縁関係だったそうです。ご主人や廻りの人の意見で、籍には入れられなかったそうです。岱子さんはそのことを、あまり語りませんでしたので、私もそれ以上聞くことはしませんでした。戦後すぐに、上京したことを思えば、長く続かなかったのでしょうね。

私との出会いは、30年ぐらい前のことなのですが、私が美容院を開店させた時、美容師募集の広告で、岱子さんは応募してきたのです。住み込みを希望でした。その時以来10年ちょっとのお付き合いです。私が身体を悪くしたこともあり、私の子供達を、それは良く尽くして下さいました。子供達もよくなついて、慕っておりました。岱子さんは65歳を過ぎて、大田区のアパートで一人暮しを始めました。しばらくは元気で過ごしていたのですが、なんせ、年寄りの一人暮しは心配で、何度か救急車に運ばれるということがあってより、大田区の福祉事務所に通い、何か良い方法がないものかと思案していた時だったのです。たまたま江東区のM園で、一人空きができて、それに飛びついたのです。福祉事務所の担当者の機転とM園との出会いは、ついていたというのでしょうか、運が良かったのですね。岱子さんは76歳になっていました。

和尚の思い

Mさんから電話にて、岱子さんの話を聞くにつけ、なんとも気の毒な話しであり、姉妹も義理の母も姿・形を現さない。これは、何かしらの事情で岱子さん自ら、音信を切った理由があるのだろうし、また、その反対かもしれない。生きていればの話しだが、恐らく先方も今更会いたくはないのかもしれない。
父親の名も母親の名もわからない娘が、82歳という年齢で、天寿をまっとうし、親しく見送られて旅立って行く。
不思議なもので、まったく身寄りのわからない人でも、両親を窺い知ることができると思ったのは、名前であった。人は見ず知らずの他人から、名前を頂くことはないのだが、たまにではあるが、そんなこともある。それは、葬儀において付けられる法名・戒名の類だ。突然の不幸に動転し、葬儀屋さんに誰でも良いとお坊さんを頼み、葬儀後、納骨をしなければならないが、我が家には、墓はないし、はてあれは何処のお坊さんだったのだろうかと思って、尋ねてみれば、何処の誰かもわからず、困って、近くの寺を訪ねてみて初めて、自分が法名・戒名をその時すでに頂いた身であることを、しみじみと確認する。
確かに両親からもらった名前を人は、いつまでも携えて歩き、他人はその名前で、人をわける。

中国の今の北京を中心として、五嶽がある。禅学大辞典よりの抜粋である。
『中国において、古くより国の鎮めとして尊び信仰された五つの名山。戦国時代、五行思想の影響により五岳の観念が生まれたが、漢代に至って、東岳泰山、西岳華山、南岳せん山、北岳恒山、中岳嵩山と定められた。その後6世紀末になって南岳は衡山に、17世紀になって北岳は恒山に改められた。衡山には南岳懐譲禅師・石頭希遷禅師等ゆかりの南台寺・祝聖寺・福厳寺等があり、嵩山には仏陀禅師や菩提達磨ゆかりの少林寺・嵩岳寺・会善寺がある。』

五岳の筆頭、泰山は岱山といい支山15、嶺は7、谷は15で、大山脈を束ね、岱宗とも言った。泰山からは、泰山のような安らかさ安堵感を導き、人の命は、泰山のように重い。また仰ぎ尊ばれる山であり、その故に人から慕われるということか。太山からは大きさと始まりを感じられる。山東省泰安市にある岱山は、大きいさまの敬称として、また胎に似て始めの意味も、持ったらしい。
名前から、親の教養がうかがえるし、その家の長子として、親の願いが伝わる名前に違いない。だが、もしこの意味を知ったとしたら、誇りに思っただろうか。自分の行く末を考えると、重荷になっただろうか。時に誇りに思い、身を歎いただろうか。そんなことを考えながら岱子さんのM園での、振る舞いを聞くうちに岱子さんは、とっくにこの意味の問題を卒業していたのを知りました。

誇りに思うことになったきっかけは、大きくなると言うことは、一変に大きな山になるということではなく、実は一つ一つの小さな土くれが積み重なった結果が大きな山だと、気づいたからでしょう。このことは大変大きな意味を持ちます。人生の一つ一つの作業の、あるいは行為の結晶が、間違いなく大きな山だと、気が付いたからなのでしょう。また、山は山自身の大きさを自ら語りませんことから、そのままの素直な自分が大事だと気が付いたからなのでしょう。

禅の言葉に、「太山、只、重さ三斤。(従容録)」とある通りです。
岱子さんの葬儀は、1月12日通夜、13日告別式の日取りで、場所は陽岳寺、喪主はM園の園長が勤めた形で執り行われ、Mさんたち家族12名ぐらいとM園のO指導員、寮母さんたち、元気な入園者とお別れをし、出棺した霊柩車はM園の玄関前に到着、式に来れなかった人の見送りを得て、瑞江の火葬場に向かい、荼毘にふされました。そして、幼くして亡くなったご両親の元へと旅立って行きました。
没年 平成11年1月8日 午後1時38分
伊藤岱子  享年82歳
戒名 岱壽妙素 信女
平成11年1月13日 陽岳寺三界萬霊塔に埋葬される。
もし、この項を御覧になって、ご存知の方がおられましたら、一度お参り下さい。
ちなみに、戒名の岱素とは、自分が生まれる前、自分を生んだ両親も生まれる前、地球が誕生する前の意味を持ちます。もっとも、その意味に憑かれたら大間違いですが。そのままに暮らすことを、『妙』と言います。


しもべ(平成10年11月7日)

しもべ(平成10年11月7日)

 昭和59年6月後半、横浜で葬儀をした時の話しである。通夜,葬儀と自宅で執り行われたのであるが、喪主である長男の嫁が奥に入っていて、一向に挨拶にあらわれないのである。長男には妹がいて、その代りにせっせと忙しく立ち振る舞う様子に不思議と思ったものだった。今でも台所から一歩も出ようとしない、その奥さんの顔が今でも私の脳裏に焼き付いて、今どうしているのだろうか思うことがあります。

所かわって埼玉の狭山市で、これも、ずいぶん前の平成5年1月半ばの話です。通夜と葬儀をおこなった時のことです。小さな会館で儀式は行われました。親族一同が式の会場に参列している最中、出頭前の親族と導師の控え室に、ひとかたまりとなった母親と三人の子供の姿があった。亡くなった方の親戚の姪っ子と子供達で、子供達は幼稚園ぐらいの年齢だった。可愛い盛りの女の子たちだった。

 「小学校?それとも幼稚園ですか?」
母親らしい女性が応えた。
「いっていません!いいえ、いいんです。子供達にとって、充分よけれとの思いで考えてのことです」
「そうですか」
私は、子供達の広くは綯い部屋の隅で、固まって遊ぶ姿を見ていました。何も言えませんでした。
通夜の勤めを終えて帰ってきた時も、その塊は、そこにいました。そして、翌日の葬儀の時も、かわることなく、その情景がありました。
子供達の感情やさまざまな体験の扉を閉めて、自分の思いで、子供達を鎖に縛って良いのだろうか?
この子達にとっても、その親にとっても、出会いと別れの、大切な節目をもかえてしまうものかと思うのです。そしてそのことによって、その人のこれからがどう変化していくのかは、誰も知らないことで、すべては自分で背負って行かなければならないことなのですけれど。

2年前の平成9年1月のとある夜、横浜の、あの妹さんから電話がありました。いつも、それは突然にやってきます。私にとっては、避けることが出来ないことなのですけれども。
「兄が亡くなりました」と、鼻をすする妹さんの悲しい声に、
「どうしたのですか?」と、最初、応えるのが精一杯でした。
妹の兄は私よりも二つか三つ年上だから、不自然な死に方に違いなく、すぐに笑顔やすました彼の顔が浮かびます。この寺の墓地に墓はないものの、長い付き合いの一家には、どこもそうですが、さまざまなことが降りかかって来るのを、じっと見つめます。

前年の五月に法事をしたとき、
「妻と息子、娘でアメリカに転勤です。今度は長くなりそうですので、日本との別れに、年会ではないのですが両親の法事をして行きます。食事は、隅田川の上で、船に揺られてのんびりしたいと思います」
「ニフティーサーブのアドレスに、郵便を送ってください」
さらに6月か7月頃に、メールを送ったことがあった。返事もすぐにきて、仕事にもなれて、元気にやっているらしく、メールのやりとりは、日本とアメリカの垣根を取り払ったかのようですと書いてあった。
妹の話しは、こうだった。
「実は去年の12月29日午前9時15分に、兄は休暇で、家族そろってオレゴンのスキー場に行く途中、交通事故で亡くなりました。吹雪の中、奥さんが運転する車は、スピードの出し過ぎで横転、20メートルほど転がりながら大破して、助手席に乗っていた娘さんと奥さんは助かりましたが、後席にいた兄と息子さんは亡くなりました。1月8日荼毘にふし、奥さんのの希望で現地に埋葬いたしました。私は、少しでもと兄の骨を分けてもらい、多摩霊園にある、両親の眠る墓に埋葬してあげたいと思います」。
後日、追悼の会を催したいとのメールが舞い込んで来ました。

発起人のK氏からのものだった。
「彼は私立Y大学の工学部を卒業、富士通に入社、コンピューターのウェハスのラインを立ち上げたりと、それは失敗と苦労の連続の中を歩みつづけた仲間です。彼が勤めていた会社やK重工やK製作所の仲間が、せめてささやかな宴を催して、彼を偲び、そして語りたいと思いますが、力を貸してください」との内容だった。

妹さんからも、再び電話があり、独りぼっちになってしまったこと、ビザの期限が切れるであろう兄嫁のこと、娘のこと、冬ごろもした別荘での兄や兄の友達との楽しかったひとときを、涙ながらに話す妹さんの言葉が、一言一言、しみ入り、逆境に早く立ち直ることを願った。そして『偲ぶ会』に賛成し、私に出来ることは、協力いたしますと電話を切りました。

それより、2月7日の当日まで、メールのやりとりで、式次第やプロフィールの作り方や、進行の仕方を決め、偲ぶ会が決行された。
私は、冒頭15分強頂いて、彼の52年の生涯を思い、悼み、そして願った、会に賛同しかけつけてくれた大学の恩師や会社の先輩、仲間七〇名がそれぞれの想い出を語り、彼の冥福を祈った。
四十九日の法要が過ぎ、一周忌、三回忌とまたたくまに過ぎ去っていた。彼の妻と娘の消息は、オレゴンから途絶えたままに今日を迎えている。

彼女は、地球のハルマゲドンをひたすら信じて、その証人になるべく、アメリカの地を歩いているのだろうか。


電話(平成10年8月22日)

電話(平成10年8月22日)

 昭和63年2月初め、私が仏教情報センターでの電話相談の日のことでした。午前11時頃だったと思うのですが、電話が鳴りました。受話器を耳に当て、「仏教情報センターテレフォン相談室です」と応答しますと、受話器の向こうで「……」沈黙が続きます。
かすかな息遣いが感じられましたので、「どうしましたか。大丈夫ですか」と呼び掛けてしばらく待ちます。かすかだった息遣いが大きく、受話器の向こうでは、嗚咽が始まりました。私は何か差し迫った予感を覚えて、声をおとしてゆっくりと何度か「どうしましたか。大丈夫ですか」と呼び掛けたのですが、嗚咽は止まりません。
受話器の向こうのしばらく続いていた嗚咽が止み、
「すみませんでした。ずっと電話をしたいと思っておりましたもので、なかなか出来ずつらくて気が付いたらダイアルを回しておりまして、つながった音に、とても不安を感じ、次に涙がでて……」。受話器の向こうの女性の沈黙と鼻をすする音に、多少の落ち着きを感じて、「さあ。話して頂けますか」と声をかけました。

広島の近くK県K市在住の女性で、年令は42才、二人の娘がいて姉は高校2年で妹は中学3年の受験に追われているとのこと。夫はがんで入院中、しかも末期の肺がんだそうで、あとどのくらいの命か不明とのこと。
夫の仕事はK市の小さな材木屋さんで、主人のいなくなった仕事場で伝票等の整理をしたり、家事、受験、病院の往復と夫の世話、将来のこと等、不安やいらだち、心細さを受話器の向こうで語りかけてきました。
私は、この年の1月から仏教ホスピスの会員として、『癌患者・家族の語らいの集い』に出席しておりましたので、緊急のときのため、国立がんセンターの先生と世話人の僧侶と私の電話番号を教えて、電話を切りました。
これで良かったのか、あまりに遠方であるため、岡山にある仏教テレフォン相談のことをも告げたのです。

「ありがとうございました」との最後のことばに、『めげないでください』と念じてやみませんでした。
時は、一年の歳月が立ち、秋彼岸の何日か前です。午後、私の寺の電話に彼女の声が聞こえ、夫が旅立ったこと、お店を閉めたこと、娘が進学したこと、彼女が勤めていて、今日はなぜか会社を休んでしまって、あのときの電話を思い出して、今、ダイアルを回したことを語りかけてきました。


意思

意思

 『衆生病むがゆえに我病む』という意味を理解できるでしょうか。
私が病んでいる限りは、私が愚かである限りは、私が悲しんでいる限りは、私が憎しみに染まっている限りは、私が悪に足を踏み入れている限りは、私が飢えで苦しんでいる限りは、私が潤いを望んでいる限りは、私が支えを欲している限りは、私の意思が揺らいでいる限りは、私の感情が揺れている限りは、私が幸福である限りは、私の子供が成長するまでは、子供の子供が安心できるまでは、友人の病気が治るまでは、母や父を送るまでは、災害がなくなるまでは、私の心配が尽きるまでは、私の苦しみが尽きるまでは、仏は仏の、神は神の意思を、捨てることは無いという意味です。

人が生まれ、生きている限りは、神は神としての、仏は仏としての安らぎ、あるいは肩の荷を下ろすことは、無いということだと思うのです。年がら年中働いて、見守って下さるということでもあります。このことに気づき、感謝できれば良いのですが、すぐに忘れてしまうのも、人の性というものでしょうか。
諸行無常を語る仏教では、総てが変化してあるということは、絶対の定理ですし。存在するものは、変化することは真理です。時を含むことは、もちろんのことです。

『衆生病むがゆえに我病む』にとって、病む内容は、”時代の病み”でもあり、”時代の表現”でもあります。
仏教における、人の生き方の目標は、自分自身に忠実に生きることだと思います。そしてそれには、自分自身と、忠実と、自分自身に忠実に生きることと、忠実に生きる自分自身の意味を、それぞれが自己に問い掛けることが必要なことだと思います。
忠実に生きようとして、妨げになることは多くあります。忠実に生きて、死に臨むこともありました。
どんなに年をとっても、時に辛く苦しく、悲しく寂しく、不安や恐怖に、いらいらする時があります。いや、年をとればとるほど振り返ることが多くなり、今の自分と、これからの行く末を考えた時、まして、体の不具合の繰り返しと、自分の体調の変化に、強く危惧を抱く時、時の流れを止めることのできない不安と自己の苦痛に襲われるのはいたしかたないことです。

今を生きるということは、時に、辛く苦しく、悲しく寂しく、不安や恐怖に、いらいらすることも、それを取り除けない今の私なのだと徹することが、今を生きている、豊かに潤いのある姿だと思います。
今から10年前の平成2年、長い間築いたY氏とU婦人の、二人の生活の過去を持つ家と土地を処分することに、決断し、実行に移した、老いた仲睦まじい夫婦がいました。
それは、子供がいない二人の、終焉の地を求めてのことでした。未来を占い、過去を厳しく見つめてこそできる、綿密な計画通りの実行は、さらに、夫婦の固い結びつきを思います。
終焉の地は、市川市の終末型老人ホーム、ウェルピア市川000号室です。
この家、この建物こそ、生涯に渡って貫いた、夫婦の象徴であり、もはや人格そのものの、投影のような気がいたします。それは、夫婦が帰る場所であり、温もりと安心の宿る、後戻りできない棲家だったからです。

他人に迷惑をかけることを許さないY氏は、小学校の教師を勤め上げ、最後はいくつかの学校の校長を歴任した、厳しい教育者でした。子供達に自立を植え付ける立場から、自ら率先して模範となる頑固さを持ち、臨終まで、Y氏は、教師の姿勢を通したのでした。
半年前の5月のある日、私に一本の電話がかかりました。それは、この夫婦の後見人ともいえる人であり、私の寺の檀家のI氏の弟さんからでした。
「和尚!叔父(Y氏)さんの体が消耗して、すぐにっていう訳ではないんだが、叔父さんの希望なんだが、葬儀に来てくれないですか」との内容でした。

私は、U婦人と最後に会話したのは数年前になっており、今いる場所に引っ越しての暮らしに、「良い場所がみつかりましたね。その後はどうですか」と、声を掛け、婦人も「ええ、本当に、安心して余生を楽しく過ごしております」と、うかがった記憶が、薄っすらとある。
「向こうの寺の和尚が高齢で来れないのなら、承知いたしました」と、電話を切ったが、それ以降電話はなく、ふと、「どうしてるだろうか」思い出すことはあっても、「なんせ88歳だから、腰の骨を痛めてのことだから、時間はわからないと思うよ」と、平静の忙しさに忘れかけていたのです。9月の始めに、やはり弟さんから電話があった。その後の経過を掻い摘んで話してくれ、「またその時はお願いしますよ」と、電話を切った。
秋のお彼岸に、弟さんにお会いした時、これから老夫婦の所に、お見舞いに行ってきます。老衰が進んで、もうそんなに持たないと思いますので」と、別れた。
どうやら8月はじめ頃には、痩せて、000室のベッドに居ることがおおくなっていた。U婦人が懸命に付き添っていた。
10月7日、8日、9日、ウェルピア市川の開設十周年事業が行われるにあたり、看護病棟に移動することになった時、Y氏は激しく抵抗した。医師の常駐することのない病棟で、療養することの限界はあるのですが、設備と看護体制が、整っているため、この施設の中に終末を迎えることもできるようにできているのです。
Y氏は、たとえ看護用病室に療養することさえ、妥協するには時間が必要であったのでしょう。それはY氏の様態の悪化こそ、病室で看護用ベッドに横たわることを容認するための理由でした。

数ヶ月前から、Y氏は「もう白浜に帰りたい」と、生まれた故郷の漁村に帰ることを、言うようになっていた。そこにはY家の墓があり、そこに葬られることを、希望し、そして、冷静に、命の残り火を推し測りながら、一日一日と、灯火を燃やしていたのでした。いつしか、直面する事実をただ受け入れ、一刻一刻と生きていることの実感を享受して、過ごしていたのだと思います。ここ数ヶ月の早さで、U婦人の願いとは逆に、Y氏の身体は時に激しく、ユックリと消耗し、体力を燃焼し尽してしまったかのようでした。

10月に入って、婦人は菩提寺に電話して、戒名を依頼しておりました。その戒名が来たのが、9日でした。
そして同じ日に、Y氏の体調が急変し、設備の整った病院への入院が検討され、近くの総合病院へ転院することが決まったのです。しかし、このことはY氏の意思に強く反することであったのです。000号室から離れることは、挫折することを意味するかのように、思えたのかも知れません。白浜へと通じる入り口だったのではないかと思いました。

翌10日、嫌がるY氏を説得し、転院いたしました。そして点滴と薬による治療が施されることになったのです。
Y氏は、自分の意思がないがしろにされたことに、いたたまれず、危機感を持ちました。手段を尽くして訴える強い意思が、危篤の状態の中、体の不自由さを超えて働いたのでした。
目で訴え、点滴を外し、口で訴えたのでした。「帰せ!」と。
人にとって大切なものを守ることの純粋で清らか、ひた向きな姿を、立ち会った誰もが、奥深くから湧き出るものなのだと、知らされました。
誰も止めることの出来ない強い意思は、たとえ総てを奪うことになろうと、承知であり、Y氏は、10日、000室に戻りました。もちろん医師は反対し、命の保証はないこと、それでも帰ると、移せと、夕刻6時ちょっと前に、施設に戻ったのです。
それから1時間後、Y氏は静かに息を引き取ったのです。

誰もが、こんなことってあるのだろうかと、きっと不思議に思うことでしょう。葬儀は遺言により近親者だけで、Y氏を偲びました。参列する誰もが、Y氏を尊敬してやみませんでした。
Y氏の臨終の地を守りきった安堵が、自らの息を止めるとは、驚いて止みません。もうY氏の意思をはばもうとする者は、何処にも、誰もいません。
「こういう安らぎを得るドラマがあるのだな」と、声が出ませんでした。
本当に、「白浜に帰るのだ」と、Y氏が望んだこと通りになったのです。

平成12年10月10日、午後6時40分、眠るが如く、88年の生涯を終え、000室の扉から、白浜に帰って行きました。
葬儀を終って思ったことは、最後まで教師として生きていたのだと、強く思いました。もし私が同じ立場だったらと思うと、Y氏のように出きるとは思いません。そしてふと思ったことは、人として、自立ができなくなる時は必ずある。Y氏だったら、その時、どう行為するだろうか思いました。
「最後は人の世話になって良いのですよ!迷惑を沢山かけていいのですよ!もう頑張らなくてもいいんですよ!」と、Y氏が囁いているような気がするのです。


寡黙

寡黙

 平成15年2月26日午前10時ごろ、私は、子どもの大学受験合格のお祝いにと、長男に付き添って車で秋葉原にいた。子どもが、パソコンショップのツートップで、パソコンキットを購入している間、車のなかで、本を読みながら待っていると、携帯電話が鳴った。
電話は妻からで、M園の園長から電話で、身寄りのない入園者が亡くなったので、何とか、納骨を引き受けてくれないかとの内容でした。条件によって引き受けないことはないと妻に言い、帰り次第連絡を入れるからと、携帯のoffを押したのです。
そして、28日、M園の勤務交替の時間、午後6時45分を過ぎて、50分から通夜を執行いたしました。思いもがけず多くの人が参列してくれました。夜10時まで彼を偲んで、コーヒーにお砂糖を半分ぐらい入れて飲んでいたこと、これで陽岳寺さんには身寄りのないお二人の方を受け入れてくれてもらったこと、そう言えば、お二人とも「有り難うがとう」と、ことあるごとに言っていたこと、小さい頃に、田んぼでタニシを捕ったとか、母親の思いでを語っている姿があったなどおしゃべりをいたしました。それでも、彼は寡黙だった。青年期、壮年期が欠落しているのです。
翌日の、午後1時からは葬儀が行われましたが、私と園長さん、それに寮母のHさんと三人で、瑞恵の火葬場に行き、彼を荼毘にふしたのです。

M・Y氏 2月25日午後4時28分、貴方が亡くなられたという時間です。M園で、肺炎を発症し、区内のT病院に行き、わずか2週間で貴方が去っていった時間です。

普通、この時間は、遺族にとっては、大きな意味があります。でも、こうして遺族が招かれない貴方の最後に接して、貴方がこの世界から居なくなろうとしている時、私には、貴方は誰だったのかと、あらためて、問いたいと思います。これは、遺族が招かれていないからこそ可能な、貴方に向き合う最後の時間でもあります。
26日、園長から、葬儀をするために貴方のことを知りたいからとうかがい、多くの人が貴方の足跡を記していることを知り、貴方を知ります。そして園でのスナップを見て、これが私の知りうるかぎりの貴方の69年の生涯の記録なのでしょうか。貴方とこの寺との関係はありません。話を聞けば、遺族の参列も、遺骨の引き取りもないと言います。園としては、遺骨を納める場所が欲しいと、困って、そして、私が引き受けてくれれば願ってもないことだと、依頼してきたのです。
私は、依頼されたことより、遺族のいない葬儀に、自分を試されていると、試みとして、お寺の墓地におなたの遺骨を受け入れをきめたのでした。きめてより、やはり、私には貴方は誰なのだとの思いが強くわき起こってまいりました。それは、私は、葬儀とか儀式の執行者あるいは仲介者として、私は、メッセージの橋渡し人を務めることを心がけておりましたからです。貴方の場合は、渡そうとする人も、メッセージも考えられないことに気がつき、貴方は誰なのだと問うことに、問う私は貴方にとって何ものなのだと、受け入れることは、いったいどうした意味を持つのかと言うことに、迷っていることに、気がついたからです。

貴方の多くの残された思い出の写真を見ました。いくつかの写真の、そこには貴方の視線が写されれていました。抑鬱的な見つめることに意味があるような、感情が読めない、そんな視線を感じました。貴方が見つめるカメラのレンズにむかって放たれた視線から、貴方自身が覗けそうでもあります。人との接点って、そうしたチャンスに、見つめる眼は見つめられる眼に対して案外と無防備に開け放されているのではないかと気がつきます。貴方は誰なのだとのぞき込み、その視線の奥に、おぼろげなものがうかがえると思ったとき、貴方は遠ざかる。遠ざかりながら、近くに見えてくるのは、見ようとする意識で、貴方とは別のものです。貴方がまったく別の貴方として、取り込まれたとも呼べるのかもしれない。
こんなことを考えながら、ふと、実際の貴方は、喜ぶだろうか、怒るだろうかと、頭に浮かぶ。もはや、喜ぶこともなく、怒ることもない貴方の、歓びや、怒りを、そのおぼろげな安らぎのなかに確かめたいとも思いました。貴方の最後の遺骸を、この寺に受け入れる主としてです。

4階の男性三人部屋の貴方が生活していた室内を見ました。三列に並んだちょうど真ん中が貴方のベッドです。主のいなくなった貴方が休んでいたベッドや貴方の洋服タンスを見ました。事実は、あくまでもそこにベッドやタンスがあるだけです。ただそれだけのことが、人にとっては、掛け布団をまくり、いつでも受け入れることのできる状態のベッドに、もう帰ってきて、休むことができないという想いが、他者としての私をつくります。貴方を受け入れることを決めてからです。 
そこで、ベッドこそ、年老いて生きることの、もっとも自分に親しく、大切な、温もりを提供するものだと知らされました。年齢を加えて行き、今まで、当たり前に、思うように行えていたことが、一つ一つ減って行ったとき、最後に安らぐことができるものがベッドだと気がつきました。人生の選択肢がいくらもなくなったとき、これだけは必要なモノ、それが、帰ってこれるためのベッドだと、貴方のベッドが語っていました。ベッド一つがもっとも親しき友とも言えるのではないか、何も言わずにどんな状態の自分でも支えてくれると。そのベッドの上で、ないがままにおくる、あるがままの人生を過ごしていた貴方に合わせます。

ベッドの枕元の上の電気には、近くの小学校の子ども達からきた葉書が飾られていました。その文面は、明るく子ども達の将来が書き添えてあります。屈託のない子どもの文面は、年をとっておぼつかなく、歩けなくなったモノにとって、かえって安らぎを与えることに、私を安らぎます。将に来る明るさが、将に来ないことを熟知した者を、明るく包むともいえ、ここにも、他者とのかかわりの中に、今の自分を現す貴方の心が置き去りにされていることを知りました。子ども達の将来が、枕元の上から、灯りといっしょにいつも照らしている生活が、貴方にはあり、きっと微笑ましく、子ども達の将来を託していたのかも知れないと、思ったのです。

他者とのかかわりの中で生きる人の、心を特定することなど、到底できることではないことと知りつつ、やはり、貴方は誰なのだと思います。
貴方がじっと見つめていた、景色に接して、貴方は貴方自身を紡ぎ出していたと思います。このM園に関係する人にとって、貴方は、かけがえのない存在でした。貴方をせっせと支えることは、その関係する人自身を支えることになるからでもあります。M園の世界の中に、貴方は貴方自身の世界をもち、一緒に施設で暮らす仲間たちそして関係する人たち80名を越えるそれぞれも自分の世界を持ちます。80人の貴方がいて、80人の世界を貴方は支えていると思うと、貴方は大勢の人の世界に別々に生きながら、その大勢の人を貴方自身の世界に生かしているとも言えると、貴方自身が誰であるかは、もはや、意味を問えなくなっていることに気がつきます。

こうして、亡くなってこそ贈る言葉が、貴方に届いている、いないことは、私には、もはや、問題となりません。あらためて貴方の世界を語ることに、生きていれば聞くことが出来れば、貴方はきっと真摯に耳を傾けることはできないと思います。この場に耳を傾ければ、いたたまれなく貴方はこの場所に止まることさえできないのではないかと思います。葬儀とは、そうしたものですと、私は思います。結果として、今の貴方の心地よさが伝わってくるようです。

関東大震災の傷跡と復興の土音の喧噪のなか、貴方は東京の下町で生まれました。自宅が火災に襲われたことを、実家が立ち行かなくなったことに重ね合わせることができます。そして貴方が、小学校5年生までの勉強を突然放棄し、妹さんと二人で、長野県佐久市の農家に住み込みで就労したことを語ることは、今の時代では、想像できず辛いことです。
幼い子どもが、働いて、家族を養うという事実、ましてそれが、戦争真っ最中の昭和19年から20年頃だと思えば、困難な時代に、自分を呪うこともできずに、ただひたすら働く以外に生きるすべがない世界が見えてきます。戦争が終わり、戦後の復興が叫ばれ、日本が大く息を吹き返すまで、貴方は小諸に移り、その機会をうかがっていたのかも知れません。日本の繁栄のかすかな足音と同じくするように、貴方は上京し、バブル直前まで、建設の多くの現場に貴方の姿が見えるのでしょうか。それは、昭和40年代から50年代の、繁栄を続けることのきしみとしてあらわれた、蒸発という現象だったのでしょうか。もっとも、そのとき、貴方の家族がどうなっていたのか知るよしもありませんので、蒸発かどうかは、わかりません。貴方を捜す家族が、あったのか、無かったのか、一人で上京する意味が知れないのです。一人の男の軌跡としてなら、その軌跡を追う時間が私にはありません。貴方を思い出す人が、何処かにいるのだろうか。

昭和61年1月、私は、昭和39年に蒸発者した男性の葬儀をしたことがあります。葬儀を終えて火葬場で家族と話しをしたことがあります。七年間の蒸発だったのですが、家族が必死に探し果てた父は、警察に発見され、横浜の飯場での様子をこう語っていました。
「70歳に近い父の疲れ切った姿に、私達はまるで以前の父とは別人のように思え、声がでませんでした。ただ涙がほほをつたわり落ちたのをあぼえております。忘れようと思いましても、忘れることは出来ません。けっして忘れは致しません」と。
「父が自宅に戻りましてしばらくは、7年間の疲れを癒すごとく、暖かな畳の上で床についておりました。父は寡黙でございました。私達もいろいろと聴きたいこと、話して貰いたいことがたくそんあったのでございますが、多くは聞くことができませんでした。」 
「それから十何年かがたちました、昨年の暮れの事でございます。父はいたって健康だったのでございますが、急に呼吸が苦しくなり入院することとなりました。何ですか肺に穴があいたんだそうです。今年に入りまして、医師より父がもう長くないことを知らされました。父は安らかに、ほんとうに眠るように息が止まりました。父の最後の言葉が、私達の心を涙で濡らしました」。
「長いこと迷惑をかけたね。すまなかった、許しておくれ」。
その時の息子さん達の顔は、本当に優しさにみちあふれ、亡くなられたお父さんを慈愛で包まれているように見えました。お父さんも、最後の言葉を、それこそはくまで苦しかっただろうと思うのです。

家族がいれば、遺族がいれば、どんなにか貴方の心を癒すことができるか、貴方の最後に立ち会って、貴方の旅立ちを送る私の無念な気持ちでもあります。 
詳しく貴方を追いかけてみれば、貴方が、昭和56年に、胃の三分の二を切除したことと、昭和58年には、足が悪くなり働けなくなることがわかりました。
昭和61年に中央区の福祉事務所で保護された時の年齢が、53才ですので、M園に入所するまでの、9年間、貴方は、病院と保護を繰り返してきたのでしょう。昭和56年からですと、14年間になり、M園を入れると、22年間になります。おそらく、普通の人の何倍かの苦労を、苦痛を自分に対して見つめ、歩んで来たことに、私は、驚きとともに、貴方の今のすべてに解放された安堵に慰められます。その安堵は、私がいだく安堵ですが、貴方の軌跡を受け止める私の務めでもあります。
貴方の歩みに接し没入した、中央区の福祉事務所の係りの人が、心をわずらったと聞きましたが、貴方のこの22年間は、善き人との出会いが多かったことを嬉しく思います。そして、心癒されますが、じっと寡黙を通した貴方の最後だけが、やはり気がかりです。

他者とのかかわりの中で、見ようとすれば、見えてくる自分と他人。そこに言葉があれば、語り出されるのです。貴方が、黙々と歩いてきたこと、多分その中で、そうすることで自分を見いだそうとして、いつしかホームレスになり、保護されたことで救われた、貴方の運命を思います。そう想うことで、貴方が今行こうとする彼方に向かって、貴方を讃え、語ります。

萌和泥祥居士。これがすべての役目を終えた貴方に与える、私からの法号です。
貴方の両親は、貴方が生まれたとき、昭和の和に、善しを付して、貴方の誕生を祝い、前途を祝しました。
人は、私は誰であり、私はなにか、私が私になることはと、他者のなかで行為することによって表現いたします。その他者を泥として、自分がより生きるためには、その他者を滋味あふれるものとしなければ、自分は実りあるモノになれません。
自分がここにいるという事実は自分以外の人にとって何らかの意味がなければ、自分を実りあるモノにすることはできないでしょう。実りあるモノとは、支えられ支える関係のなかで、泥のなかでのたうちまわり和する行為のなかで、他者のなかに萌えいずるモノ、それこそが、各々の蓮華であり、自己ではないでしょうか。
生きる、その行為が、他者において萌えいずるのです。この行為は、良しとかワルというものではなく、ただひたすら生きる行為が他者との関係を造り上げ、綾をなして進みます。時間は、私は誰であり、なぜ私なのか、そして私が私になることの繰り返しのなかに誕生するでしょう。
泥になごみ、和して、誕生し萌えいずること、それこそが、ご両親の願った、善しという字であり、祥という、自分の生涯を全うしたしるしとして、萌和泥祥居士をつつしんで、貴方に捧げます。
禅は、築き上げてきた私の心を、幻想として、その私の心を開くことを願います。貴方の視線も、穏やかな視線となることを願ってやみません。
やっと、貴方に会えた気がいたします。ゆっくりとお休みください、私たちの彼方で。本当にお疲れ様でした。
(もし、この文章を読み、心当たりの方がおりましたら、また、時間が経ち、彼に会うことの気持ちが整理できるようになりましたら、どうぞ、陽岳寺にお参りをお願いします。)


妄想(平成10年8月2日)

妄想(平成10年8月2日)

 夏で嫌いなことを上げろと言われれば、私はすぐにも熱帯夜の続く残暑を上げるだろう。暑く寝苦しい夏も、ようやく終わりきったかに見える。朝晩の風に過ごしやすさと、きっと山の方では秋の景色にさわやかな風が吹いているに違いない。
昨夜は、雨が少し降ったせいか、ここ下町もひんやりとした空気にかわって、緑も生気を取り戻したかに元気だ。
平成4年10月12日、午前11時頃だったか、自宅の電話がなった。

電話の中で、「福祉事務所のTと申しますけれど、○○番地○号のMYさんのお宅で、近所の方が消毒液を散布したとかでえらく怒っているんですって。まことにすみませんが、ちょっと見て来てくれませんか」。
なんだか不思議な電話の中身だったので、「どうしたんですか」と尋ねてみると、Tさんは「きのうの夜、MYさんが警察のパトカーを呼んで、消毒液を撒かれて下水からその臭気が台所にはいって食事ができないって言うんですよ。そんなこと警察では対処できないって、今朝、警察から電話があったんですよ。そんなに臭いんですかね、ちょっと様子を見て来てくださいませんか。」

私は、MYさんのことはそんなに知らない。そのお宅にMTさんという大正元年8月生まれのお年寄りの男性がいて、年に2回、区役所からの届け物を運ぶだけでした。その家族構成も全く知らないし、考えてみるとそのMTさんにお会いしたことはなく、いつも50歳ぐらいの色が白く笑顔が引きつったような息子さんだろうか、その方に託して、お元気ですかと問いかけ、安否をうかがうだけだったからです。

「承知しました。またご連絡いたします。」と、MYさん宅の回りを調べるために、福祉事務所のTさんの電話を切ったのでした。
町会の消毒撒きは7月だったし、なんだか訳の分からない内容に不審をいだきながらも、さっそく自転車に乗りMYさん宅の回りと下水溝を嗅ぎました。そんなに臭い消毒の匂いはないのです。自転車を止めて、下水溝の穴に鼻をつけるとかすかに匂いました。
「ははーん、これだな。しかしこれくらいの匂いで何で。おかしいな」。
私は、MYさん宅の呼び鈴を押しました。留守だったのです。帰ろうとして近くの材木屋さんの所にさしかかりました。
材木屋のご主人を見かけたものでしたから、「昨日の夜、この辺でパトカー騒ぎなかった」と、尋ねました。「そういえば何か騒いでいたみたいだなぁー」。礼を言い、私はやはり近くの町会長の家を訪ねました。

「いいところに来た。いやぁ昨夜、MYとMTが酒飲んで親子ゲンカをして、MYの投げた仏壇の香炉がMTの手に当たったんだ。血を流してのケンカ仲裁で、パトカーは呼ぶしで大変だったんだ。なぁに、発端は消毒液の匂いが下水から上がるからと、息子が食事が食べられないと騒ぐんで、親父がわざと撒いたわけではないからと、これぐらいは我慢できない匂いではないからと、こんなことぐらいで騒いでは村八分になってしまうからと言うんだ。それで親子ゲンカになってしまった。息子がパトカーを呼んで、その後、誰が撒いたんだと調べたら、2件先の警察の寮の奥さんが、前の生け垣に散歩の犬や野良猫が、糞やおしっこをするというんで、臭いんで消毒乳液を撒いたんだな。いやぁ、その奥さんたちに説明して、夜、バケツで何杯も水を撒いたんだよ。もう臭くはないよ。しょうがねえ奴だよ、親父がかわいそうだよ」。

福祉事務所の電話の話をすると、「そうかい、ああよかった、頼んだよ」と、「とにかく、MYさんとMTさんにあってみます」と言い、私は町会長宅を辞して自宅に帰ったのです。
寺に帰ると、「今、MYさんていう人が来たわよ」と、「どんな感じだった」と私。「なにか落ち着きのない人みたい。目付きが怖いよう」と。
私は福祉事務所のTさんに電話をして、経過を報告すると共に、今後なにかご相談があるかもしれないからと言い、電話を切った。
「ちょっとまた行ってくる」。私は自転車に乗ってMYさんの家に出掛けました。
呼び鈴を押すと、しばらくしてMYさんがサッシ戸を少し明けて顔をだした。私は名乗って中にはいった。
「どうしたの」。彼は私の顔を見ずに、言葉を詰まらせながらも「親父が酒を飲んで暴れるし、村八分になっちゃうと騒ぐんです」。
彼の首のけい動脈のあたりが、ピクピクと痙攣するのを見ながら、「お父さんは。どうしたの」と私、「2階で寝ているんです。昨夜、遅くまで暴れていたものですから、それより臭くないですか」。彼は、玄関の脇の小窓を開けて、「ほら、匂うでしょ。台所の洗い場の穴から、臭いんですよ。意地悪ですよ。僕はこの匂いで食事もできないし、頭が痛くなりますよ」と、今度は外にでて、下水を指さし、「匂うでしょ」。「うーん」と私。 彼のしぐさと話に何か違和感を感じた私は、「そういえば匂うかな。それでわねぇ、福祉事務所のTさんという人がいるから相談してみたら」と、福祉事務所の場所を教えて別れた。

そのあと、私は自分の用事を終えて帰宅して、福祉事務所のTさんに電話をしたのです。
Tさんは電話にでるとすぐに、「来ましたよ」と、「エッ、もう来たのですか」と私。彼の行動の早さに驚いて、「それで、どんな相談だったのですか」
彼の相談の内容は、全く予想外の内容で唖然とした。
(1)夜中に風鈴を鳴らして邪魔をする。
(2)自転車のブレーキやペダルの音をだして、嫌がらせをする。
(3)夜中に大きな話し声がする。
(4)車のからぶかしと排気音とブレーキの音。
(5)玄関の扉が開くのだが、出て見ると誰もいない。
(6)玄関の呼び鈴が鳴るが、出て見ると誰もいない。
(7)朝、前のうちの人がガラス戸をバタバタさせる。
(8)外で口笛を吹く。
(9)夜中に誰かが歌をうたう。
(10)朝、近くの家の前まで掃除をするのだが、礼を言わずにかえってにらむ。
(11)消毒液の匂いがつよくて、じつは前の家のMKさんがそれらをやらせているんで、逮捕してくれないだろうかという内容だったのです。
翌日、考えたすえ、私はMKさんの家を訪ねました。2メートルぐらいの道路の、下町の軒を接しての住宅街に、噂はすぐに広まります。それは押さえなくてはなりません。また、どうやらたびたびのパトカー騒ぎだったようで近隣の恐怖感や、疎外をどうしたらよいのか、考えなくてはなりません。

近所の人達が、仮に彼が精神的な病気だったとしても、あたたかく見守ってくれるだろうか。私は、彼が逮捕してくれというMKさんに、それとなく注意をしてくれるようにとお願いすることにしたのです。
MKさんは、町会の副会長で温厚な人柄と実直な性格で、彼が言う人柄ではなく、私はMKさんに彼のお父さんの相談相手となって欲しかったのです。後に、そして今もMKさんは大変親身になって尽くしていただいております。
MKさんの口からいろいろな彼のこと、彼の父の話を聞くにつけ、私は彼に信頼され、心を開いてもらわなければならないと強く思うのでした。
その後、何度か彼を尋ねましたが、父親とは会えませんでした。ところが、偶然と路地で、買い物帰りの彼のお父さんに会ったのでした。
立ち話でしたが、昭和17年3月生まれの彼には友達がなく、彼が10年前タクシーの運転手をしていたとき、自動車に追突され、鞭打ち症になったこと。それで東大病院にかかっていたこと。

それ以後、仕事はしていないこと。父親は彼の変化に気付いて、病院に行けと言うのだが、彼がいっこうに行こうとしないこと。夜、かなりの酒を飲むこと。二人きりの生活に、会話があまりないこと。亡くなった彼の母親に精神障害があったこと。
彼には小さいころ妹がいたが、事情で養女にだし、恨んでいる彼女の手助けは当てにできないこと。彼の異変に周期があること。またその周期が早くなっているのではないかということ。
長い時間をかけての立ち話に、次々と事実がはっきりと見えてきて、50歳の息子をかかえた80歳を過ぎた父親の顔は暗く、苦悩のしわがなんともつらい姿でした。

さらに、父親は、彼にしっかりしろと、仕事を探せ、病院に行けと強いるのです。彼の心は、言葉でその父親の思いを聞くことも跳ね返すこともできないし、さりとて父親と離れて暮らすことも出きないのです。どちらも痛ましい心なのだと、ただうなづいて聞くばかりでした。
別れぎわに、「早く病院に行ければいいですね。きっとよくなりますよ」。
そして、親しい近所の女医さんに相談したところ、「早々に専門家の診断を必要とするわね。被害妄想のけがあるから」と、いうことだったのです。「進んで悪くならなければいいけれど」
私には、彼の心が彼の意志とは反対に、「たすけてくれ」と、叫んでいるように聞こえるのです。あの行動の早さは、「どうにかして!」の電波発信ではないのだろうか。だが、彼の心は開かない。私は保健所の保健婦Iさんに相談しました。彼を行かせるので診て下さいと。
彼にそのことを告げに行くと、彼と父親が玄関で二人の男と口論しているでのした。
保健所の衛生課の人で、もう10日もたっているのに、また消毒臭さの話しを必要にして、衛生課の人を閉口させているのです。私は説明をして、保健婦のIさんのところに診てもらうことになっているからと引きとってもらいました。
そして、翌日、彼は、保健所に行ったのでした。

保健婦さんの話では、「やはり妄想のけがあるので早く診察してもらったほうがよいですね」とのこと、11月9日に保健所で精神科の先生の診察がありますのでとのこと、彼も、その日にくるからということでした。
その頃から、近所にこの話が広がり始めたのです。私はMKさんと二人で、あまり騒がないでくれと、彼は病気なのだからと、見守って見てあげて下さいと、説明にあたりました。若い女性、子供のいる家庭では、不安にかられたであろうことは否定できません。
また、彼が福祉事務所のTさんに言った、風鈴の件、MKさんのガラス戸の件、夜中の人声の話などを調べました。
風鈴をしまってもらったり、MKさんの娘さんの出勤時のガラス戸の開け閉め、風向きによって音が伝わってくることなど気が付いたのです。
幸い、彼は11月8日まで静かに、父親との生活を送っていたのでした。
11月8日午前8時頃、MYさんの家に救急車が呼ばれ、タンカに運ばれる彼の姿があった。
クモ膜下出血であったと言う。
それから1週間後、11月16日、病院のベットのうえで、彼は、帰らぬ人となった。

平成10年夏、父親は元気に一人暮しを続けている。もし、あの時、一週間はやく精神科のカウンセラーに診てもらっていたらと考えると、相談にのることの難しさを思います。


川(平成10年8月22日)

川(平成10年8月22日)

もうだいぶ前の話だが、東京が台風に襲われたときだった。翌日は台風一過の快晴に恵まれた。翌日が快晴のほど、前夜の、前日の台風の激しさが嘘のように思われるが、各地の被害は、それが現実のすさましさを増幅させる。午後、電話が鳴った。
「実は、昨晩母がサンダルのままいなくなって、いくら近所を探し回ってもいないのです。内のお婆さんがお参りに行っていないか、境内を見てくれませんか。」と、息子の奥さんの緊急の電話に、墓地と本堂の前をいそいで探して電話に、
「いません。心配ですね。もしいらしたら電話で連絡いたします」と、電話を切った。
それから、一ヶ月が過ぎた八月の初めだった。電話が鳴った。
「母が見つかりました。隅田川に死体が揚がったそうです」
それはこう言うことでした。一ヶ月前の嵐の夜、何かの用事でS婆さんはサンダル履きで外に出たのだった。彼女の家は保谷市の郊外で、宅地開発が徐々に進んだ雑草と宅地の混ざった街で、歩いて七、八分の所に小さな川が流れていた。その川にどうも転落したらしく、一ヶ月をかけて神田川を下り、隅田川に流れ着いたらしかった。八十一歳だった。

当時を振り返ってみても、保谷市に流れている小さな川が、どういうふうにして隅田川に繋がっているのか考えたことも、及びもつかなかった記憶がある。そして、葬儀のとき飯田橋より保谷市に向かう車中で、右に流れる神田川の水面を、この川をS婆さんはどんな思いで流れたのだろうかと、深川近くまで川が運んでくれたのだろうかと不思議な思いで、見た。また、その小さな川は、一ヶ月たっても水の勢いは急だったこと、川沿いに葦やカヤが背丈を競いで伸びていたことを今でも覚えて、たまに神田川を通る時、ふとこの事件を思い出します。
S婆さんには三人のお子さんがいて、長男と姉妹だった。姉妹のうちの姉は家を飛び出て、行方が知れず、月島から保谷市に転居したものだから、お寺っきり姉との接点がないので、もし姉が墓参りに来たら妹が探しているからと、何度も何度も言われたものだった。

当時からすれば、隅田川も様変わりし、保谷市東伏見あたりもずいぶんかわっただろうが、人の記憶は当時の有りようを留めて、ふと、お姉さんは「どうしているのだろうと」と懐かしく思い出す。あれから十四年もたってしまうと、妹さんの家族もずいぶんと変化しただろう。
亡くなったS婆さん、姉妹に志賀直哉の言葉を贈る。

『人間ができて何千万年になるか知らないが、その間に数えきれない人間が生まれ、生き死んでいった。私もそのひとりとして生まれ、今生きているのだが、例えていえば悠々と流れるナイルの水の一滴のようなもので、その一滴は、後にも先にもこの私だけで、何万年さかのぼってもいず、何万年たっても再び生まれてはこないのだ。しかもなお、その私は依然として大河の一滴にすぎない。それでさしつかえないのだ』


風如(風のように)(平成10年6月18日)

風如(風のように)(平成10年6月18日)

 昭和61年の正月も過ぎそろそろ2月に入ろうかという頃だった。ちょうど私が住職になった時より4、5年目の時だと思うのだが、定かではない。ヤスさんの兄貴が東京の清瀬市で亡くなったという知らせを聞き、ヤスさんの弟二人で車で通夜に出かけた時があった。何でそんなことを覚えているのかというと、清瀬の夜の冷たい暗さと通夜会場の近くにあった公園の薄暗い街灯その街灯に照らし出される体格のいい三人の兄弟の姿が妙に記憶の中に残っているからだ。その筋の人に似てとは言わないが襟を立てた外套は、ボタンをかけずに両ポケットに手を突っ込み、くわえたタバコの灯りが街灯の電球に妙に寂しそうにともり、大男の背中の丸い後ろ姿がまるで古びた映画の中の景色に映ったからだった。

 深川の漁師の家に生まれたヤスさんは、長距離のトラック運転手をしていて酒に喧嘩に、とにかく威勢はよかった。そういえば女性の話は聞いたことも無く、誰かと連れ立って歩いているのも見たことは無い。浮いた話はあったのか無かったのか知らぬが、晩年は確かに一人だった。思ったことをそのまま口に出すヤスさんの喧嘩はたえなかった。でも、菩提寺の住職である私に声をかける時は、妙にそわそわして正面を見ずに、早口でそそくさと用事を言い終わるとすばやくひるがえって帰っていった。そう言えばヤスさんはいつも雪駄をつっかけて履いていた。

得意の突っ張ってみてもしょうがない相手には、さっさと退散するのがヤスさんの得意手だったのだろうか。
そんなヤスさんが入院したという話を、弟のもと相撲取りの口から聞いた。病名は忘れてしまったが闘病生活は6年間にも及んだことは、今でもはっきり覚えている。ヤスさんが亡くなる5年前、寺のすぐそばの病院に引っ越してきた。そして亡くなる2年前だったか兄貴の七回忌法要に車椅子で参列した時のヤスさんの姿は今でも忘れない。髪は白く、病院やつれというのか肌は白く、ずいぶん小さくなってしまったもんだと、寂しく悲しく、人の移り変わりのさまをまざまざと見せられては愕然としたものだった。
平成6年12月21日ヤスさんは病院で静かに息をを引き取った。元気だった頃のヤスさんには似ずに。

葬儀は盛大だった。深川で深浜を知らなければ、祭りを語る資格はない。それほど大きな神輿に浜の漁師たちの担ぎ方は荒っぽく、手ぬぐいはほっかむりで、半纏は鮮やかなあい色にひときわ目立つことが、担ぎ手の誇りを更に増長させる。何しろ町会という組織を持たぬ番外神輿だから、寄せ集めの担ぎ手はなおさらに結束が厚くなるのが不思議なもので、それが深川の深浜なのだ。ヤスさんはその深浜の一人だったのだ。深浜の仲間が青い半纏を身に纏って送りに来てくれた。

私はヤスさんにはちょっと難しいことばだったかも知れませんが、仏教での世界の有り様を説き、その後《お祭りが好きで、おお酒のみで、短気で喧嘩ばやくて、気が小さくて照れ屋で、それでいて気が良くて、何とも忘れられない人でした》

《通夜告別式と大勢の人が貴方の6年間の闘病生活を忘れずにお別れに来てくれました。ヤスさんが元気だったころ、貴方は威勢が良く風を肩で切って本当に大きく見えました。ですがヤスさんは病院で普通の人が何十年とかかって年老いていくのを、6年間の月日で一気に年老いてくれました。太くて短かった人生、64年の生涯だったのですね。今思うといかにもヤスさんらしいと思うのです。ヤスさんは風のように過ぎ去っていった。せい一杯生きるということは、人生の蓄積に対してではなく様々な時によどみなく生きているということに違いない。今度はお父さんお母さんが兄貴たちのいる世界で仲良く過ごすっと良いですね。喧嘩はだめですよ。あとに残りヤスさんを送る我々も、いずれは貴方の後を追います。

今日、貴方は肉身を転じて佛界に入るため、長く目を閉じてしまった。貴方の姿はもう目にすることはできないが、目を閉じればそれぞれの人達の心の中に、一瞬一瞬のなかに、ヤスさんは永遠として生き続けることになります》

深浜の仲間が嗚咽をこらえて耐える姿がなんとも印象に残った葬儀でした。 どんなに気丈な心をもった人でも悲しいときは悲しさになりきる、それが人の道ということなのです。


追悼(平成10年5月27日)

追悼(平成10年5月27日)

 昭和五十七年十一月十一日、私は用事で八王子の姉の所に外出していた。母からの突然の電話だった。父が倒れたという知らせだった。その時、身体中の血がすっと下がっていくのがわかった。幸い家の近くに住む、すぐ上の姉とその連れ合いが駆け付け、そっと横たえ医者に連絡する処置をしてくれた御蔭で、私が帰った時には、落ち着いて眠っていた。医者は「心配ありません。様子を見て、変化があったら電話をしてください。」と、足早に帰っていったそうだ。それは始めに動脈硬化に似た発作で、風呂上がりのたちくらみに似て貧血を起こしたようだった。私達には暗い影のようなものが走ったかのようだった。この発作に似たものは、軽かったが十二月にも一回起きた。だが、それ以外の父の様子は、私達にすこぶる元気に映っていた。また、父自身もすこぶる忙しい毎日を送っていたのだった。 

 恐らくこの頃より父の体の中では、何かしらの異変が起きていたのだろう。父もこのことに気付いていたのではなかったか。私達には、寡黙な父だった。残念なことに、家族はいまだ気付いていなかった。

 そのころ父はかかりつけの医者に、動脈硬化と軽い糖尿があると診断され、毎日三度の薬を飲んでいた。
 翌年五十八年の正月二日、父に変化が起きた。母と参賀に行こうとしたとき、歩けなくなったのだ。はっきりと、父の病魔が姿を現したのだった。本当に突然だった。この時の母の気持ちは複雑だった。暗闇で誰かに押されるというのは、こういう時のことを言うのだろう。だが、母は、父が亡くなるまで誰かに押されていたのではなかったろうか。また、それは私にとっても、違う誰かに押されていたのだと、今、振り返って見ると思うのだった。

 父は歩くのに、初めは少し前かがみになり、歩幅が狭く、歩き出すと止まらなくなるふうになった。時は容赦なく過ぎて行き、母と私達は、その時というものに追い付こうと必死だった。私達は父に杖を使うようにと、注意した。父は、そう言うと厭な顔をした。父は、私達の言葉を無視して、自分から進んで散歩に行った。

 四月十五日より二ケ月後の精密検査によって、父の診断が下った。『パーキンソン症候群』それは聞きなれない言葉であり、同時に受け入れることの出来ない響きを持った言葉でもあった。誰もがそう思うごとく、「治してやりたい」と思い、また、「そうしなければ」と思った。だが、その時父の身体は、深く病魔に犯されていたのだと思う。父もそのことに気付いていた。
 このころより、母は、日々の父の様子や出来事を克明に、日記につけはじめる。それは、激しく過ぎていく父の思い出をつなぎ止めることに似て、父の中にいる病魔との戦いであった。

 母の五月の日記の中に、この頃では珍しく強い字の父のメモがある。それは、ニューヨーク・カット・ステーキと書かれた広告のコピーで『昨日を思ひ懇ひ煩わず、昨日を憂わず、今日を清く生きよ』書いてある。父のせい一杯の気持ちを、このコピーに仕立てて表したものか、胸が熱くなる。家族との会話がとだえ始めるのも、この頃だった。また、父は病魔に犯された自分を、他人に見せることを嫌った。

 六月、千葉県船橋にいた父の義兄が亡くなった。父と義兄とは、囲碁相手でもあり、また話し相手でもあった。よく義兄が遊びに来ると、ひがな一日、碁をしたりビールを飲んで過ごし帰って行った。父もそれと同じことを、船橋でしたことだろう。
 晴れた良い天気の日であった。父より六歳年上の鎌倉の兄夫婦と一緒に出掛けたのだった。年寄り四名を車に乗せて行ったのだが、大変と気を使ったのを思い出す。ちょうど今から十五年前のことだ。

 通夜、告別式と二日間に亙っての式に参列し、どうやら無事にお弔いを終えての帰り、

「義兄の死をいたはり呉るる点滅か黒々と更くる夜のラ・ラポート」と歌った。

それは湾岸道路沿いの広大な船橋ヘルスセンター跡地に、東洋で最大と銘打って出現した、ショツピングセンターのシンボルタワーのきらめきを、目にした時の歌だった。私が幼いとき、父に連れられ、水が怖くて泣き、父の胸にすがり突いたことがある海辺でもあった。

「後ろより突き飛ばされし如くなる廻りに騒に声かくる人ら」

「子に孫に伝はる病ひと知らされてよりかへり見る健康体なり」

 今、父の残したノートを見ると、このころ、はっきりと書体が以前と変わっているのが分かり、父の動揺が伝わってくる。「糖尿への経料」、「病名開眼」などと書かれ、その上に無造作な斜線が引かれているのを見ると、痛ましく揺れる父の心が間近に迫ってくる。
 十一月、父の古い友人だろうか、死去と書いてある。父はもう歌が作れなくなっていたのではないだろうか。作ろうと思っても、作れない。父の残したノートには、たくさんの朱線の跡があり、斜線の跡がある。

「大阪の友喪ひし日昏なりわが義兄死にし」

 やっとのおもいで出来た歌に、父の思いを巡らせてみると、痛ましい。だがこれから、より以上に辛い日々が続こうとは誰も想像できなかった。

「薬り飲めば直る病ひと聞かされて暗に直ると自ら治む」

 この歌が父の最後の歌だろうか。いつごろの歌だか分からないのだが、とにかくこの後のノートには、白紙がいつまでも続いている。 十月六日、朝、父の兄が亡くなる。兄が病床に就いて、私達は一回の見舞いを除いて、なるべく伝えることを避けていた。父と母を車に乗せて、鎌倉に弔問に出掛けた時の事は、消えない思い出となり、母と私の脳裏に強く焼き付いている。冷たくなった兄の枕辺に、父が両手をつき、無言にうなだれていた姿を。先に旅立った兄を前に、父は何を思い、何を伝え、何を願ったのか、今は知るよしもない。ただ、時間の止まったその光景だけが、はっきりと残った。

 父は長い下り坂を、一人転げ落ちているかのように、時折、手を差し延べた。母はそっと手を取り、いつまでもさすっていた。遠くを、じっと見詰めている時があった。そんな時、母は一緒に黙って遠くを見詰めた。母は父のことを、まるで子供のようだといった。それでも時は、悪く過ぎて行った。

 昭和六十年三月十六日、父にとっては内孫の、私にとっては初の男の子が生まれた。それは赤ら顔でしわのある四〇〇〇グラムを越えた大きな子だった。早く父に見せたかった。そして抱いてもらいたかった。病院から長男真人(まひと)が母子共に退院したその日、父に報告し、私の妻が産衣にくるまれた赤子をそっと父の前に差し出すと、父の顔が穏やかになり、両手をさしのばす。私は母がするごとく、赤子を抱いた父の肩に手を添え、その父を抱いた。

 七月十四日、父が入院した。昨日からの熱でグーグーといびきをかいて眠る。肺炎を起こしたのだ。母が動揺している。この夏は暑かった。
 翌年の昭和六十一年八月十二日、零時六分、父が母に見守られて、その腕の中で息を引き取った。父の生涯が終わったのだ。


受容(平成10年6月18日)

受容(平成10年6月18日)

 平成十年元日午後一時四十九分、家族に見守られてAさんちのT大婆さんが江東区内の病院で静かに息を引き取りました。家族の悲しみはわかっていたことですが、やはり悲しいことでした。T大婆さんの96年という気の遠くなるほどの生涯を思うにつけ、T婆さんが居なくなったんだという事実を受け入れる作業が、家族にとってみれば最初の作業です。病院からの帰宅は沈黙の帰省です。これから数日間の日常の起こるであろう変化を、家族一人一人が自分の役割を沈黙のうちに確認しなければならないのだし、この数日間がどう過ぎていくのかと漠然と想像するのが死者との道行きです。そこが死者と生きている家族の大きな違いです。帰省した家族は、大婆さんが死んだという確認の儀式を親しい近親者に知らせて執り行います。それが枕経という儀式です。

 小さな祭壇の前に布団を敷いて、眠るが如くに在る大婆さんを前に、中婆さんが唇を濡らし薄く紅を塗り、髪に櫛を指します。70年近く一緒に暮らしていたことを事実としてすべて想像し語り尽くすことは出来ないが、ただ70年という数字の重みを人は思わなければならない。声無き声を聞くことが、仏教のあるいは人として大切な思いやりの原点としたら、人のうめきをそっくり受け入れよう。

T婆さんは96歳で亡くなりましたが、88歳の時道路で転倒して車に両足の先を轢かれたことがありました。3ヶ月あまりの入院でしたが、複雑骨折は見事に治りまたいつもの通りに杖で歩く姿を見ることができるようになりました。腰を直角に折りゆっくりと歩く姿は、重い荷物を背負う姿に違いないと見せてくれました。その姿で自分の育った環境、戦後の深川での事、ご主人との別れ、引越し、仕事のこと、家族のことを話す声は力強く、小さな目は皺でさらに細くなってはいました眼光は光って人を見ぬく鋭さはちっとも衰えてはいないのが不思議に思えたものでした。

 やがて白内障で目が悪くなりますと、その頃口からでる言葉は、「年のせいで手術をしてくれないのが、悔しくてしょうがない」という言葉でした。明治生まれの家族を背負って生きてきた彼女の言葉は、烈しく強いものでした。

 亡くなる2年前のことです。風邪をこじらせて入院したことがありました。「お婆ちゃんが危ない」との知らせに病院に見舞いに行ったことがありました。「和尚さんがお見舞いにきてくれましたよ」と耳元で叫ぶ中婆さんの声に、大婆さんは目を開けました。ナースセンターの隣の個室に彼女は中婆さんに付き添われ細いビニール管を体に何本もつけ横たわる姿は痛ましく、つい昨日まで元気だった彼女の姿と程遠く、近くまで死が近づいていることを思いましたが、「有難うございます」と握手した彼女の力は強く、「私は、こんなに元気です」と人に訴える指の力は、まだまだ元気だ!大した物だ!さすがに怪物だ!と驚いたものです。「和尚さんが見舞いにきてくれて、アタシは死んでもまだ死にきれない」。彼女の生命はまだまだ元気で、死への準備はとうぶん先のことのように見えたものでした。

 そんな彼女が一週間ぐらいして退院したとの知らせに、ただ”凄い”の一言でした。やがて、散歩の機会は少なく重い荷物を背負う姿はあまり見えなくなりまして、だんだんと家に居る機会のほうが多くなってまいりました。その頃からです、彼女の心に変化が少しずつ出てきましたのは。「有難う」「すまないねーっ」。

 人は年をとり、自分で自分のことが出来なくなることが必ずきます。徐々に人の世話になって行かなければ人は生きていくことができないと、その事実を受け入れるという繰り返しの作業の中で同時に近づいてくる自分の死を少しずつ予感し、また受け入れるという作業を繰り返します。自分の葬式は自分で出来ないの通り、このことも人の最後の受け入れるという儀式であると思うのです。

 去年の12月末、「危ないんです」との中婆さんの知らせに、私は「おばあちゃん変わりましたか」と聞いてみました。その返事は「有難うと私を拝むんですよ」とのことでした。お婆ちゃんがよい正月を迎えられますよう、私は真っ赤な小さな達磨を「枕元に飾ってください」託しました。  「お婆ちゃんが亡くなりました。和尚さんに頂いた達磨を胸に放さず、看護婦さんは真っ赤なリンゴと間違えて取り上げようとしたんですが、お婆ちゃんは胸に放さず、眠るように息をひきとりました。本当によい死に方でした。1月1日午後1時49分でした」。


蒸発

蒸発

 もうだいぶ前のことです。ある葬儀を頼まれまして(昭和60年1月)東武線の北千住の先の草加に出掛けて行ったときの話しです。
亡くなられた御主人は83歳でした。前年の暮れより容態が悪化しまして、奥さんと息子さんたち四人に見守られるうち、安らかに天寿をまっとうしたとのことでした。生前のご主人は、熟練の機械工でいわゆる職人気質で気むずかしく、頑固な性格だったようであります。

 告別式を終えまして、火葬場で荼毘にふされるのを待っている間、遺影を前にしまして三人の息子さんたちとお話を致しておりました。

「母も私達も亡くなった父には随分と苦労をかけられました。けっして幸福とはいえませんでした。今でもその頃の事を忘れることはできません。父はもと深川(江東区)で、小さな町工場を経営していたのですが、失敗しまして草加に引っ越してまいりました。それからというもの仕事に出ては人と折り合いがうまくゆかなかったり、何か気にくわない事があったりで、家に居て独りふさぎこんでいます日がおおくなりました。
豊かだったというわけではありませんが、いっそう家計は苦しくなりまして、長男である私が大手の電気会社の下請け工場に勤めに出ることになりました。きっと父もくるしかったのでしょう。その頃の父の心は、仕事の失敗とそれでも家族を養って行かなければならぬ負担で、いっそう暗い気持ちになっていたのではないでしょうか。弱かったんですね。でも、もし深川でつまづかなかったら、こんなことにはならなかったでしょう‥‥‥」。

「昭和三九年東京オリンピックの開かれました夏の事でした。父が62歳の、暑い日だったのをおぼえております。新幹線ができ、高速道路ができ、世間では景気がよく浮かれておりました。そんな日のことでした、父が居なくなったのです。まったく突然のことでした。
今思い出しましても、何て父親だろうと憎みながら、ただオロオロとうろたえていたのをおぼえております。その時の気持ちは、全くどうお話ししていいのかわかりません。それから七年間、父の姿を見ることはなかったのです。

警察に捜索願いを出したものの、じっと待っている事ができません、母と都内の飯場を探し、神奈川、千葉、埼玉の飯場を探し続けました。休日には盛り場という盛り場を、足を棒にして何処かでふっと会えることを夢見て、歩きつづけました。仕事から帰ってくる途中、ひょっとして父が帰ってきて居るのではないかと、玄関に入ると父が居るような気がしてみたり、父が帰ってきても家に絶対上げるものかと腹をたてたり、母の為なんとしても無事に帰ってきてくれと願いました」。

「それから7年間近い歳月が立ちました冬のある日、お宅のご主人が横浜の飯場に居るようだ、行って確認してもらいたいと、警察より連絡がございました。私共は直ぐに横浜にまいりました。父が居ました。薄汚れた、暗くじめじめして、体臭で酸っぱい臭いのする、平屋建てのプレハブを二段に仕切った1階の奥に、これも垢で黒光りする薄っぺらな布団にくるまって横になっていたのでございます。70歳に近い父の疲れ切った姿に、私達はまるで以前の父とは別人のように思え、声がでませんでした。ただ涙がほほをつたわり落ちたのをあぼえております。忘れようと思いましても、忘れることは出来ません。けっして忘れは致しません」。

「父が自宅に戻りましてしばらくは、7年間の疲れを癒すごとく、暖かな畳の上で床についておりました。7年の間に、次男、三男も勤めに出るようになっておりましたので、家計の方も随分と楽になっておりました。ですけれど父は寡黙でございました。私達もいろいろと聴きたいこと、話して貰いたいことがたくそんあったのでございますが、多くは聞くことができませんでした。」

「それから十何年かがたちました、昨年の暮れの事でございます。父はいたって健康だったのでございますが、急に呼吸が苦しくなり入院することとなりました。何ですか肺に穴があいたんだそうです。今年に入りまして、医師より父がもう長くないことを知らされました。父は安らかに、ほんとうに眠るように息が止まりました。父の最後の言葉が、私達の心を涙で濡らしました」。
「長いこと迷惑をかけたね。すまなかった、許しておくれ」。

その時の息子さん達の顔は、本当に優しさにみちあふれ、亡くなられたお父さんを慈愛で包まれているように見えました。ですがお父さんはどうだったのでしょうか。最後の言葉を、それこそはくまで苦しかっただろうと思うのです。


臨終(平成10年6月8日)

臨終(平成10年6月8日)

平成7年7月12日前2時35分、深川は福住町のとあるマンションの一室で、キクおばあちゃんが95年という永い命の時間に疲れたのでしょう、静かに本当に静かに消えるように息を引き取りました。
明治、大正、昭和、平成と随分長かった婦人の命でした。長かったが故に、今、思い残す事もなく、おだやかに死を迎えられたのだと思います。思えば、日本が戦争という暗い時代に突入した時代、困難な戦後を含めて、言い尽くせるものではありませんが、良いも悪いも、さまざまの事件がありました。
 婦人は明治三十三年四月二十八日、岐阜でうまれました。大正大震災前、上京し水道橋の産婆学校に入学、卒業し、同十三年、UK氏と深川は永代で結婚し、二男一女の母となりました。また助産婦として取り上げた、数え切れぬほどの小さな生命は5、000人に達すると言われます。この子供達もやがて成長し、そして婦人を大きく、大きく成長させたのでした。体は小さくとも、それこそ大きな人でした。昭和四十四年三月二十四日、夫UK氏との別れ、娘A子さんの夫との別れ。悲しいこともたくさんありました。良いこともたくさんありました。それにつけても、婦人の笑顔が今でもはきっりと目に浮かびます。何とも忘れられない人でした。

亡くなった前日、午後8時、私はあなたの様態が危ないとの知らせを、息子さんや娘さんから電話を受け、あなたの居るマンションへと急ぎました。玄関を開けてまっすぐにあなたが横たわる部屋にと急ぎました。あなたは酸素吸入をされながらベッドに横たわり、荒い息をして横たわっておりました。家族の導かれるままに、私はあなたが横たわるベットの傍らに座り、あなたの手を握り締めました。手はほんのりと温かくあなたの意思が指に伝わるのを感じました。そしてあなたの足をさすろうとした時、あなたの足はすでに冷たく、すでに死期が近づいている事をしりました。あなたの息は荒く、やがて静かに、そして、少しずつ冷たさが、あなたの心臓を目指して這い上がろうとするかのように、息はまた荒く、そして静かに、死は、体の抹消の部分より、ゆっくりと確実に間隔をせばめて近づいてくるのを見るおもいでした。私は、死を受容し、自らの肉体が最後の炎となって燃え尽きるのを待つかごとくの姿を見て、感動したと同時に、「頑張って」と、心のなかであなたにエールを送りました。「これこそが、天より与えられた人としての時間を最後まで完全燃焼した 姿なのだと」。
人間として、僧侶として、人間の尊厳をしかと確かめた思いです。

さて、我々が生きる世界の延長として死後の世界が存在するとしたならば、旅立ちと言えばよいのか、帰ると言えばよいのか。今、婦人が行こうとする世界。それは、もしかすると、生まれる前の世界であり、私たちの現実に生きている瞬間という、つかまえることの難しい時の狭間の世界なのかも知れません。いづれにしても、私たちを覆う大きな大きな命の渦の中に旅立って行きます。その場所で、婦人は、私たちと、同時に生きるとするなら、婦人は、気ままに季節の飾られた花々に成り、風になり、その風に舞う花びらになり、雲になり、空になることができるでしょう。
七月十三日、四ツ木火葬場にて、近親者に見守られて荼毘にふされされました。

旅立ちの扉は婦人の肉体が火葬場にて炎の中をくぐり抜けていくことから始まりました。きっと婦人は、勇気を持って平然と炎の中をくぐり抜けていきましたに違いありません。それは、現実の世界で遭遇する苦悩、怒り、まよいという炎の中を、勇気をもって平然とくぐり抜けて行く婦人の姿と違いありません。思い起こせば婦人が歩いた九十五年という長い年月そのものが炎でありました。そして、この世での最後の別れが、最後の炎のなかをくぐり抜けることのような気がするのです。

>後に残り婦人を送る我々も、いずれは婦人の後を追います。婦人の姿はもう目にすることはできませんが、目を閉じればそれぞれの人達の心の中に、我々の一瞬一瞬のなかに、婦人は永遠として今を生き続けることにります。


外道

外道

 毎年5月の第4土曜日は、私の寺のお施餓鬼で、今年は、平成14年5月25日でした。  お経が終わって、帰りしな、Sさんの息子さんから、
「和尚、少し宜しいですか。実は、弟が亡くなりまして、戒名を頂戴できないでしょうか。そして、父の墓に埋葬したいと思うのですが、今日はお忙しいようなので後日ご相談したいと思いますので、いつ窺ったら宜しいでしょうか。」と、持ちかけられました。
私は、少し深刻な内容そうでしたので、
「それでは、月曜日ではいかがでしょうかと。」約束し、彼は帰って行きました。
日曜日に、再度彼から電話があり、月曜日の午後に、彼は三多摩の郊外から車でやってきたのです。

彼の話は、故郷四国に住む父母の状態と、弟の家族のことを実情、そして、今の自分の現状と将来に渡って、真摯に語ってくれました。
それにしても、5月13日、耐えきれない頭痛に救急車で搬送され、翌日には不帰の人となった弟への厚い思慕に似た兄の思いは、ただ一つ、弟の妻への許し難い憤りに近いものからおこされたものだったのでしょう。
私は、詳しくは聞かなかったものの、弟の残された家族から、遺骨を取り上げることの毅然とした彼の態度に、誠実な彼の人柄を感じ、すべてを自分の責任で決行する強い意志を認めました。
老いた両親を四国に残し、東京で独立して、側に引き取りたいものの、長年住み着いた地を離れることを考えると、それが出来ないもどかしさが伝わって来ます。将来、いずれは東京に引き取ることの決心は付いても、今はその時期ではないことを知っての彼なのです。どう応援し、彼に報いることは、私の努めでもあります。

秀才だった弟さんも、50歳で大手の会社からリストラなのでしょうか、子会社に配属され、半年以上に渡って、12時間労働を強いられ働きづめだったと言います。兄が4月に会ったとき、弟さんは、白血病に犯され体力が落ちながらも、まだ大丈夫と働いていたのです。過労死というSさんの話を伺っていて、弟さんの内心は、自分の気力や体力がそろそろ限界に達して、壊れそうな予感を持ちながらも、もう少し大丈夫と、自分で体の変調を先に延ばしていたことを知りました。そして、倒れる以前の数日は、頭痛やめまいがしていたといます。弟の奥さんは、Eと言う宗教に勧誘され入信し、外出気味であり、そのことにも悩んでいたとも言います。弟さんは、外にも内にも、多くの逼迫する懸念を抱えていたと言えるのです。二人の息子さんは、一人は成人し社会人となり、もう一人は、高校生と聞きました。

彼の気持ちに答えて、この寺の墓地に、彼の遺骨を迎え入れることを賛同して、私は、弟さんが倒れる前日まで必死に気を張って自分を保っていたことは、何を意味するのか、考えられずにはいられませんでした。自己の免疫を保てない白血病の発症を知ったときの葛藤は、自分の将来に不安を投げかけるものです。頭痛が激しく我慢が出来なくなるまで、少なくてもその信号は何回もあったはずですが、そのことを自分で処理していたと知ると、家族は父親という命の何を見ていたのだろうかと疑問を持ちました。
14日に弟さんが死亡して、仏式で、葬儀をしたと聞きました。父親に秘めてした葬儀に、弟の妻は、「別れの儀式は、私の信ずる宗教の宗旨に合わなく、神様の天国で、私が、天に召されたときに、再会できるから」と、積極的ではなかった。意味のないものの葬儀を取り仕切ったのは、兄であるSでありました。

葬儀が終わって、遺骨を、弟の家でなく、彼の両親がいる家の仏壇の側に安置したとき、老いて痴呆が進んだ父親は、遺骨を抱いて泣き出したという。私は、老いて父親の泣くその姿を想い、老いた上に、更に自分の命の未来までも奪い取られるかのような、この残酷さの事態に、自分の一部をもぎ取られる老父の表現を、その妻は見たのだろうかと思った。もっとも、翌日には、こうしたことさえも忘れてしまった父親のことを聞き、安堵したと同時に、人生の絶妙な不思議に感心したのです。

弟の妻が、次の世界で出会うとしても、この世に残された人間にとっては、明日を知れない命ではありますが、20年生きたとして、その20年の後は、姿形・意識も変化していることになります。今、悲しみ、致し方なく別れることこそ、自分自身を直下に見ることであり、誠実に自分の今を表現することに気がつかないことに、憤りを持ちます。また、同時に、マインドコントロールというのでしょうか、人は、観念に縛られると、その観念にしがみついてぎこちない動きが、周囲を困惑させます。外の世界を見ようとしない、逼い空間に暮らし、集団のイメージだけを鋭く追い求める行為は、人間の持つ自然な情感をも痛めてしまうことを知ります。後悔もすることなく、ただひたすらに教義を追い求めて、その教義に沿わないものは受け入れることが出来なく、矛盾を矛盾として教義に照らして認めないEの宗教は、人として踏みはずす道でもあります。

馬祖の残された言葉に、『即心即仏(そくしんそくぶつ)』がります。心とは、喜怒哀楽愛悪欲(きどあいらくあいおよく)の七情の表現を持って示すことが出来ますし、仏を、単純にホッとした状態と置き換えてみますと、『即喜怒哀楽愛悪欲、即ホッとした状態』となります。その逆から見てまいりますと『即ホッとした状態、即喜怒哀楽愛悪欲』です。微妙なニュアンスが理解できると思うのですが、「身は社、心の神を持ちながら、よそを願うぞ愚かなりけり」の句の、心の神を仏に、自分自身の喜怒哀楽愛悪欲にいたたまれず、救いや癒しを求めてかけずり回ることは、私たちの日常の姿なのですが、先ずはそのことに気付くことが必要なのでしょう。あくまでも、自分の心の変化に気付くことがひつようです。禅が日常の生活を一歩離れたら、禅ではないことは、禅とは心そのものだからです。

繰り返すことの出来ない人間の一生であるが故に、今を大切にしなくて、再会も別れもないではないですか。世界が悲しみに溢れ、自分自身に降りかかった不幸なことを真っ正面から受け止めることが、亡くなった者への最高の哀悼の意味があります。 全身で泣かなくて、それ以上のもっと大きな命が世界には在るなどと、親しく過ごして夫が持っていた一つの大きな世界が消滅したことは、夫にとっては、比較できる以上の命を亡くしたことになるのです。それにしても、弟さんの51歳という年齢の全身に、アクセルを踏み放しの末期が気の毒で、惜しまれます。

弟さんの、相談し、受け止めて、判断し、実行をうながすことを、胸に収めてひた走りしていた行為に、弟さんの強靱な精神の強さと、度量の広さが見受けられます。そこから、責任感も見えてきますし、子ども達が巣立った後の、将来の葛藤も見えますが、全身で主張していたことは、受け入れていたことの事実なのでしょう。


障子(平成13年3月10日)

障子(平成13年3月10日)

 嬉しいことがあると、そのことのために何かしたいと思うものだ。
平成13年早々、Aさんから電話があった。
 「和尚さん、息子が結婚することになりまして、3月の16日ですけれど、九州から親戚が大勢来ることになったのですが、ついでに、未だお詣りしていない人がいるものですから、羽田からバスで10時半頃になろうかと存じますが、本堂でお経をお願いし、お話しを少ししてください。そうして、お墓参りをして、息子の結婚式に臨みたいと思うのですが、いかがでしょうか?」と。
 おめでとうございます。嬉しいことです。有り難うございます。」

 私は、このことが、寺にとって、滅多にあるものではないことに思い当たると、どんな風にしたらよいだろうかと考えた。結婚式と法事とは、お目出度とお弔いと対すれば、真っ向正反対の内容でありましょう。しかし、結婚が新しい家族の出発点とすれば、今まで自分が所属していた家族を支えていた故人に感謝をすることは、ましてその墓に実の父親が眠っていることを思えば、正当なことであり、結婚にこそ似つかわしい仏事でもあります。

 式の内容と、回向を作りなおすことを考えたが、先ずは、本当のところは、畳を新しくしたいのですが、なかなか出来ません。そこで、私は障子を貼り替えることにした。
 障子紙を剥がすと、そこには、黒く焦げた焼け跡があります。先代も先々代もその先代も、この障子を新品にしなかった。今も、この焼け跡を残しているのですが、焼け跡は無惨でもなく、懐かしい気がするし、この寺の誇りでもあるからです。

 張替は、糊の乗りが悪いと、洒落で言っているわけではないが、張りづらいこと甚だしい。この焼け跡のことを実際に知るものにとっては、悲惨な記憶でもあるのですが、既に50年以上も経ってしまえば、懐かしいことでもあるのでしょう。しかし、50年経っても終わらないことが、この国には多くあります。

 昭和20年の3月10日、この当たり一帯は、火の海となり、陽岳寺の庫裡は消失した。しかし、本堂だけはからくも残りました。幾度となく繰り返した災害の、大正年間の黒江町火事、大震災と火災に遭い、もうこりごりと本堂を鉄骨鉄筋コンクリートにした智慧でもあったのです。災害に備えて窓は小さく、屋根を張り出した本堂は、昭和の5年頃立ち上がったと言います。それから15年が経ち、もう一度火に囲まれるとは、しかも焼夷弾の雨の中に立ちつくすとは、誰ひとり考えられなかったことだと思います。

 庫裡に飛び移った火は、本堂の鉄の扉を溶かし、中に進入いたしましたが、先々代達と避難した人達が必死で水を掛け助かったと伝えられています。一昼夜燃えていたのですから、窓の外は、火車で、ガラスを等して障子を焦がしていたということでした。本堂の畳廊下の天井も黒く焼けこげ。柱や梁も黒く燻った痕を、今も残しています。

 戦後は、辺り一帯焼け野原で、高い建物は崩れ、本堂だけがポツンと建っていたと言います。仏教界は、この本堂を拠点として、葬儀や戦災殉難者や戦没者の慰霊、法事に、被災者の住まいとして使われていました。語り継がなければ忘れられてしまう記憶を、この障子が憶えていてくれるからこそ、残していこうと考えます。
本堂で執り行われる結婚式を控えての法事、あらゆる法事も、ちっぽけで大きな些細な刻んでいる歴史が支えているとも言えないでしょうか。


日月(にちげつ)

日月(にちげつ)

 人が亡くなって、亡くなった後の名前をつけることに、違和感を持ち始めて、もう随分と時間がたちます。そう思い言いながらも、その間に、何人もの名前をつけたことでしょう。初めは多くのことを考えながらつけたものです。でも、いつしか必ずと言ってよいほどに、亡くなった人の生前の名前はどうだったのだろうかと思いはせるようになりました。うかがい知れない名前を前にして、生まれた名前を浮かべることで、亡くなった後の名前が次の世代に引き継がれるという作業の連続の中に、人は命を繋いでいることを意識し始めたのです。
 この花の下に、この木の下に、この石の下に、この海の何処かにと、埋もれて記憶の中に収まることと、位牌の中に死後の名が刻まれ手を合わせることは、偲ぶ中に、残された私たちの永続性を発見するものです。亡くなった者の写真や遺品を、残された家族の家に飾ることも、残された者の、今を生きるあかしです。

 平成15年6月15日(日)朝、M氏から訃報を聞かされたとき、M氏に弟さんがいたことなど何も知らず、まったくに突然のことでした。月に一、二回と一人暮らしの明(これは実名です。文章の関係上掲載することをお許し下さい)氏を通って様子を見る姉とM氏の動揺が伝わって来ました。しかも亡くなって、15日間も経っていたからでもあります。誰も攻めることはできないことに、心が悔やまれますが、これは、結果として、哀しく寂しいものですが、明氏が旅立つことによって、あとを守っている兄弟姉妹の心の潤いと豊かさを、明氏自身が与えようとする試みなのかもしれません。寂しいし、哀しいし、歯がゆいし、だけれども、どうすることもできない明氏の重みです。

 受話器に耳をあて、亡くなった状況に不憫さがわくものの、それでも思いを馳せて明氏の死を、どう考えればよいものかと、そして、法号にどう表 現するかを考えます。もちろん、この法号を目にして気に入ってもらわなければとも思いますし、将来にわたって、仏壇に安置して合掌し接するとき、拝む人の心の成長に合わせて変化しながらも変わらぬ名が付けられればと考えます。
 長いこと墓守りをしていると、ごく普通の言葉に、思いがけないことの意味をかぎつけ驚くことがあります。そして、こうした言葉の意味を味わっていると、何故か楽しくなります。人々は生活の中に区切りとして、いろいろな意味を含んで言葉を使っているものの、そのうかがい知れない時代を超えて共通した言葉に、『日月(にちげつ)』があります。

 日居月諸 胡迭而微 ~ 日や月や なんぞ迭(たが)ひにして微(か)くる 居と諸は、日よ月よと強調する助詞であり、欠けることのない太陽と月の日食月食の現象に、日月さえもつねに安定したしたものではないと。日が月がと欠けることに、詩経では、男性や女性の心の変わり様を歌います。そこに見るものの心が加われば、日月という同じ刻む歩みに、過ぎ去った日々あるいはその日々の出来事や事物が、また来ようとする日々やその日々の理想や願望が表現されます。日よ月よと歌って、父よ母よ、恋人よ、若かった頃の自分よと意味を持つ言葉になる、それが日月です。
 また、日月は、昼と夜に、明と暗に、日が主なのか、月が主なのか、明が主なのか、暗が主なのか、明があるから暗があるのか、本来は暗なのに、闇が明に照らされて明るくなるのか、日を灯すことにより暗がなくなるのか、明が暗闇に閉ざされて漆黒の世界になるのか、暗と明を心の状態にたとえて、変わることのないものでさえ変わる現象に、心が翻弄されさまよい憂いが見えてきます。
 不日不月  曷其有括 ~ 日ならず月ならず 曷(いつ)かそれ括(あ=会)ふことあらむ

 日ならず月ならずの言葉は、幾日とも幾月とも知られないことです。人の別れや出会いであれば、またいつの日か会うことがあるだろうとなるのでしょう。会うだろうことを主とし、もう絶対に会わないだろうことを主として、それは『いつか』会うこともあるかもしれないと……。そして、日ならず月ならずは、遙か彼方の自分が生まれる以前の、人類誕生の以前かもしれません、そんな悠久な時を刻む意味でもあるのでしょう。

 如月之恒 如日之升 月の恒(ゆみは)るが如く 日の升(のぼ)るが如く 月の満ち欠けは、時間的に言って約一ヶ月、日の出日没は一日の時間ですが、月の満ちるがごとく、月の昇るが如くは、ごく自然の摂理をいいます。当たり前の出来事、ごく普通の自然の有り様です。そのことを人間の所業に当てはめて見ますと、自然なことが『自然』と語ると非難されるような、そんな時代となりました。
 そこに人や社会が入り込めば、ブランドという借り物で武装することを繰り返さなければ生きて行くなくなり、売買を通す内に、自分もレンタルの商品となっても、身体は売るものの心は売らない分裂人は、やがて身も心も筋肉や臓器、マスコミの意見で「自分の何処が自分なの」と、透明人間となることでしょう。一生懸命に老いや美にと戦っている老いて美しい改造人間、身体によいもの健康であるためにとひたすら渡り歩く飽食漢、非常識と常識の混乱にいる常識人、わからないと言えないどちらとも言えないノーと言うことを渇望する半分人。変遷する時代に、反故となるべき記したマニフェストのみが確かなものと信じるフェミニストたち、この人たちの未来では、やがてスイカからカボチャが誕生し、そのカボチャから人間の子ども達が、少子高齢社会を救うのかもしれません。“自然に?”ちょっと言葉が走りすぎたようです。

 明氏の名前ですが、分解すれば、日と月です。中国の詩経に『日居月諸(にっきょげっしょ)』という言葉があります。居と諸は助字で、強調する字です。
 詩経によれば、月日の過ぎ去ることが第一義となりますが、日よ月よと、呼びかける己自身の心も第一義の感嘆です。そして、この日と月は、父よ母よと呼びかける言葉でもあります。明というたった一字の、呼びかける意味と同時に、父や母、兄弟に照らされての“明”でもあったと言えます。

 お父さんが、明氏に、お店をすすめたのも、お母さんと一緒に暮らしたことも、お母さんが具合が悪くなったことも、明氏も具合を悪くして、お店をたたんだことも、照らされて明るく輝く月のようです。照らされてこそ輝く月は、日を慕ったという意味で、今も、年をさらに加えて一人過ごすお父さんの哀しみは表現できるものではありませんが、ひょっとして過ぎ去るものの内の、先に旅立ったお母さんへの贈りもののような気がいたします。
日月が過ぎ去る月日なら、日が出ると活動し、日が沈み月が出ると休息するその繰り返しが、過ぎ去ることですが、この繰り返しは“変わらぬもの”の“日”であり、“過ぎ去り変わるもの”は、“月”で表されてもいるのだと思います。変わらぬものと、変わるものは、裏表ですし、お互いになければならぬものとなり、互いの存在を裏付けるものとなって単独では語れないものなのでしょう。

 臨済宗の栄西禅師の言葉です。
 大いなる哉(かな)、心や。天の高きは極(きわ)むべからず、しかるに心は天の上に出づ。
地の厚きは測るべからず、しかるに心は地の下に出づ。
日月の光はこゆべからず、しかるに心は、日月光明の表に出づ。
大千沙界は窮むべからず、しかるに心は大千沙界の外に出づ。
それ太虚か、それ元気か、心はすなはち太虚を包んで、元気を孕(はら)むものなり。
天地は我れを待って覆載(ふさい)し、日月は我れを待って運行し、四時は我れを待って変化し、
万物は我れを待って発生(ほっしょう)す。大なる哉、心や。」
 繰り返しますが、日と月とは、別々のものであっても、一体のものです。父と子と、母と子と、弟と姉、弟と兄とは、別々のもではあっても、そこに関係・導いている糸があるかぎり、父の父たる所以は、子にあり、子の子たる所以は、父にあります。母と子も、弟と姉も、弟と兄も、この結びつきのあり方をいいます。人が亡くなって、私たちの心を覆う気持ちや思いは、この関係そのものの喪失や、揺らぎをさすのですが、日月で現されるものは、奥が深いと思います。その奥が深い部分を法号の、『肯』で表現いたしました。誕生も、生も、いきかたも、死も、日月の歩み何もかもを肯(うけが)うということを、明氏の死が、物語って言えるのではないかと……。

 こう綴ってきて、日月は、私たち一人一人の心と言ってもいいのではないかとも言えることに気がつきます。日肯月諸(にっこうげっしょ)と命名したことに、多くの人に共通する言葉なのだとも思いました。
 日ならず月ならず、いつしか私たちも旅立ちの時を迎えます。その時、月の満ち欠けが止まり、日が昇らず、日が沈まない時を迎えるのでしょうが、生きて、今を一途に生きれば、月の満ち欠けを止め、日の出と共に、日没と共に過ごす自然を取り戻すことができるのでしょう。


年寄りの出番より

年寄りの出番より

いつも突然の電話で始まります。平成十六年一月二十四日、午後十時三十分、息子のT氏より「父が、先ほど亡くなりました」と秀雄氏の訃報を告げられました。ここ何年か、部屋中にチューブを引っ張って、鼻に酸素を吸入していた秀雄氏のを思い浮かべながら、「どうしたのですか?」と。T氏からは、昨年の十月末日、秀雄氏も三週間ぐらいのつもりで、いつものように入院したことから始まる、この顛末を聞きました。
  突然に居なくなる貴方の無念もさることながら、家族にとって、貴方と言う存在が、突然に無くなることの、傷つき悲しみ悼む姿は、どんな言葉も、癒し、励ますことの難しいことです。人の力の無力さを、覚えることでもあります。
  いたたまれない思いが伝わってくるものの、亡くなったということの事実を、現実のものにするために、そして遺族と共に歩くために、貴方と対面したのが、仮通夜の二十五日です。やっとチューブから解放された貴方が、ひたすら休らぐ姿を確かめて、経文をあげるためにです。
  あらためて気がつくことは、人の死にようは、誰一人同じではないことです。でも、よく考えてみると、秀雄氏の老衰で眠るような死に様は、何故か合わないような、この結末が、悲運とか、不幸とかいうのではなく、最後まで、自分を信じて、結果を託すという平川さんらしい最後のような気がいたしました。
  十二月十五日の大量の喀血に、自分に起きた出来事として、冷静に、手を自身の血で濡らしながら、ナースコールをし、処置をまかしたことに、これは、最後まで、平川さんらしさを通すことで、平川さんの尊厳は、最後まで自分で守り通した心意気なんだろうと、すごい人だなと、改めて思います。 

 ふと、平川さん自身は、自分の死をどう考えていたのだろうかと思います。二十年間に、五人の肉親に旅立たれて、すべて平川さん自身の手で送ったことの意味は、今の平川さんにどう影響しているのだろうかと推しはかりもいたします。T氏は、「葬儀の手配・段取りをくまなくすること」って、冷静さを取り戻すことでもあるのでは」と、言いますが、それだけではないような気がいたします。 
奥さんのR子さんの旅立ちには、立ち会わないで、じっと家で終わるのを待機してた記憶があります。
  その時の告別式の言葉です。それは平成十一年四月早々、満開の桜にたくして、七十四歳で散ったR子さんへの私の追悼の言葉の一部です。

  「春、桜の花は満開の小さな花を一斉に競って咲き乱れます。そして、わずかの間に一斉に散って行く姿は、桜の根の旺盛な生命力ゆえに、枝葉は荒荒しく、幹の肌の気品は気高さを織り交ぜて、人の人生に儚くも悲しい影を投げかけます。人と違うところは老齢を重ねた桜ほど、目に過去の経過の結晶をさらして、それが人の感覚や思いを研ぎ澄ます。老いさらばえて咲く一斉いの開花の情景は今年限りの姿であり、ただ咲くばかりの狂おしさを思います。若木に比して人を圧倒する姿は、本来、人も年をとればとるほど老齢の桜に似ている姿なのですが、異なって見えるのは、人の思いのなせることなのでしょう。人が年を重ねた末の、悲哀や年輪を偲ばせた変形した姿・形のたくましさを、もっと見つめてもらいたい。『人は年を重ねるほど、若くなる』と言う言葉の意味を人はもっと考えなければいけません。若い人も年を重ねた人も、あっという間の過去は目に見えずとすると、同じなのですが、十年二十年と較べて四十年あるいは五十年は確実に違う重みを、老齢の桜のくるおしい姿を見て、なおさらに持つのです。 
思い起こせば、貴方が倒れた十七年前の五十七年間という、華々しく、勝気で、意気揚揚と突っ走っていた時間は、春には一斉に咲き誇り、花の散ったあとの一斉若葉の繁るさま、雨に打たれて生き生きとして、陽光に踊り輝き、秋には葉の色を変えて散る姿、四季のそれぞれの姿は、同時に次の季節の予感でもあり、誰も止められぬ勢いをていしていました。
そして、その後の十七年間の軌跡の中の、昨年四月三十日、貴方は、次男のAさんを病弱だったとはいえ、三十六歳という年齢で突然に亡くされました。家族全員にとって、それは痛ましくも悲しい出来事だった。貴方は気丈にも不幸にして早く旅立った息子を送るのは忍びなくと、「絶対に会わない」と病院に居座るかに聞きました。貴方の中で、何かが変わろうとしていたことは事実です。硬い意志をひるがえして、病院から自宅に戻ったと聞き、貴方の生き方も十七年間の闘病生活で受容に変わってきたのかとおもいました。それが、息子を一人で送るという決意であったと気が付いた時、桜は、まだ散っていなかったのです。 
  確かに不自由な身体を、早朝、全身に汗をかいてリハビリする貴方の姿の内面は、以前と変わらない姿です。目に見えぬものに頼まぬことを頼りに生きてきた貴方は、家族に尽すことによって、自分を支えていました。貴方の十七年間の軌跡を知るにつけ、関東一円の病院を回っても、真っ直ぐに生きざまを貫いた様は、後を思い出すことはなく、あっという間の過去を振り返ることなく、だからこそ、行きついた所で、最後の最後は、天に任すという、いさぎよい貴方の姿でした。人として生まれた限りは、不確かな時を迎えることは、確かな事実であり、その時、自分の力の何の頼りにならぬことを知りぬいた、桜の花びらのいさぎよさに似て、散り去る貴方の姿と重ね合わさります」と。 

十七年間に渡る妻の闘病生活を支えていたのは、平川さんです。その間に、次男の死、妹の死、母の死と、失ったものの大きさは、計りがたく、その分、平川さんを強くして、世界を、人を見抜く力を形づくってゆきました。それだけが強くしたことではありません、それより以前、戦後すぐの昭和二十三年に、二十四歳という若さで、働き盛りの父の死を看取り、それ以降五十六年間に渡って、昭和十九年に亡くした兄に代わって、一家を平和に支えてきたこの事実です。今の幸せな家族の礎となり託して、今、散ってゆく平川さんの姿が眼蓋に浮かびます。 
人と接しては、目を開いて、一途に見つめる眼は、人の動揺を見抜く鷹の目のような、その眼は、自分にも厳しいものだったと思います。それも、自分自身の困難な患う環境の中で、家族の過去・現在・未来を見つめていたことにもなります。
私に忘れられない姿は、多くありますが、今から10年以上前の正月、股引に半天という姿で、八幡宮の参詣する姿があります。あの姿に、深川に生まれ、深川によって育まれ、深川に息を引き取る、誰よりも深川を愛した、筋が通った深川の粋を、意気地を、勇みを、豪気さを、そして深川の情けを、見せて頂いた気がいたします。


人生とは、闇を照らす一瞬の蛍の光

人生とは、闇を照らす一瞬の蛍の光

  平成十八年七月三十一日、小説家の吉村昭氏が舌ガンから膵臓ガンに犯され絶命いたしました。自ら点滴の管を引きちぎり、カテーテルポートを引き抜くという行為に、妻であり芥川賞作家である、津村節子氏は、八月二十六日のお別れの会でこのことを話しております。

「吉村が覚悟し、自分で自分の死を決めることができたということは、彼にとっては良かったことではないかと、今になって思っております。」 
  妻として、一年と六ヶ月吉村氏を支えた、家族として、裏切られた思いは、結婚生活を含めると、何だったのだろうと苦しみ、煩悶する姿があります。そして、彼女は、

「ただ、私は彼のそういう死に方を目の前で見てしまったから、今、幾多郎のテープを聞きながら書斎にいるだろうか、宇和島や長崎や北海道に取材に行っているんじゃないか、というふうに思えないんです。まだ生きているとは思えないんです。あんまりひどい、勝手な人だと思います。私は目の前で、彼が自決するのを見てしまったのですから……。もう本当に死んでしまいました。どこにもいません。書斎にもいません。取材にも行ってません。吉村は本当に死んでしまったのです。」

  この津村節子氏の吉村氏への強い決意に驚きました。他人の私が推しはかることはできませんが、これは、偲ぶ会ではなく、友人や作家仲間の集うお別れの会での、津村夫人の決別として考えなのだろうと思いました。

  その頃、T氏は、危篤と安静のはざまに生死の時間を過ごしていました。T氏は、昨年の五月に不調を訴え、八月半ばに検査の結果、九月の一日に緊急の手術ときまったのです。私がそのことを知ったのは、T氏の息子さんから電話をいただきですから、八月二十四日でした。 
  T氏の症状は、舌の付け根にガンができて、舌と咽頭部を切除するという大手術です。

  八月二十二日に移転した有明の癌研に入院し、手術は成功いたしました。しかし、突然に、食べ物や飲み物を呑み込むことが難しく、その上、言葉が発せられなくなった事実、どう受け入れていったのか、受け入れまでに時間がどれ程かかったのかはわかりません。持病として喘息を持つ人でしたので、いかに身体が頑健だったとしても、肺は鍛えようもなく、肺に菌が入ったのでしょうか予断を許さない状態がつづいたとお聞きいたしました。

  T氏は、普段も寡黙な人であり、何事も独りで、会社や家庭で、決断してきた人でした。入院前も入院後も、症状を自身にかかえこみ、ベッドに過ごしていたのが、ちょうど一年前のことです。 
  もともと強い人でしたものの、退院し、自宅で療養しながらも、病気や症状が自らを更に強くしてゆくことを知ります。何のためにと言えば、自分のため、それは、家族への思いではなかったかと察します。

  舌ガンについては、私の別の知人も、時期を同じくして、手術していました。進行が早く、一刻もはやく切除しないと広がり、手遅れになることを聞いておりました。その知人は、舌の前部がガンでした。その部分を切除したあと、右腕の上腕部の筋肉を舌に移植し、その上腕部にお尻の肉を移植しました。彼は思ったほど経過が良く、退院後、始めは何ヶ月も、家に籠もっていたものです。次第に、電話でも話しが聞き取れるようになったことで自信を取り戻し、外に出られるようになりました。舌ガンは、手術しましても、その後のじぶん自身の精神に重くのしかかることを知りますし、良くも悪くも、病気は人を変えながらも造ると、つくづく思います。 

  そして今年の8月、この吉村昭氏の舌ガンから膵臓ガンへの転移の顛末を新聞や、文藝春秋誌で知るにつけ、私は氏を思いだし、どうしているだろうかと、この夏を過ごしていました。

  いつも突然の電話で始まります。平成十八年九月になり、T氏の息子さんより、T氏の危篤の電話を、豊島区の病院からいただきました。電話でしたが、七月の始めに緊急に入院し、今日に至る危篤の二ヶ月の経緯をお聞きしている最中、電話の向こうで、誰かに喚ばれたのか、電話が切れました。そして一時間も経たないうちに、再び息子より、あの後T氏が息を引き取ったことを知らされたのでした。七月始め、T氏の容態が悪化し、病院に緊急入院したとこえろ、「ここ何日か、長くて一週間だろう」と医師から言われたにもかかわらず、強い意思か、身体は傷ついてやつれていたものの、二ヶ月近く死のほとりで、ぎりぎりの生の時間を過ごしていたことを知ります。もう何度も危篤と言われて、病院に駆けつけ、T氏の姿を間近に見て、本当に危なくなって……、病院の看護士さんから、綺麗に清拭されたT氏をお寺に迎えたのは、T氏が亡くなって、二時間弱でした。娘さんから生前好きだったクラシックのCDが持ちこまれ、本堂のなかで、荘厳に響いていたのが印象的でした。

  妻や子どもから見送られたT氏は、死に対して生に対して、受動的に医療の行為を受けるなか、最後まで主体的な行為を繰り返しての、この一年と六ヶ月だと思いました。そして、その間も、沈黙のT氏からほとばしる多くの言葉を、遺族は身体にしみ込ませたと思います。

  吉村昭氏の妻、津村節子氏のお別れ会での言葉が九月始め“文藝春秋誌”に掲載されました。同じ舌ガンという言葉のなかに、「もう本当に死んでしまいました。どこにもいません。書斎にもいません。取材にも行ってません。吉村は本当に死んでしまったのです。」の言葉を思いだし比べてみました。「お父さん、あなた、兄貴、おいT」と問いかける言葉に、T氏は、祭壇でも何処でも、力強く「なんだ、どうした」と、すぐそばに居るように、これからの家族の行く末を守ってくれることを念じました。

  平成十七年一月に出版された「津村節子自選作品集」(岩波書店、全6巻)の最終巻に収録された書き下ろし「私の文学的歩み――遥かな光」に、《一九六一年、津村さんの書く少女小説で、なんとか生活できるようになった時、吉村さんが勤めをやめ、作家専業になった。未熟児で生まれた娘を抱え、不安はあったが、津村さんは〈かれの焦慮は私のものでもあり、反対はできなかった〉と書いている。

  しかし、それでも芽が出ぬ夫は二年後、「おれはきみの厄介になるのに疲れたと、再び働くと言い出す。これに対し津村さんは、疲れたのはこちらのほうだ、と私は言いたかった。/女房に稼がせて悠々と自分の書きたい物を書いているおれを、腹立たしく思っているのだろう/かれは私の心の中を見通していて、反論できなかった。躯の中を、野分が吹き抜けて行く様な気がしたと書いている。津村さんは、いまも無名時代のように書くことへの不安があるのだ。〈私はよく夜中にうなされてうめき声を出すらしく、吉村に起される。遥か海面に光が見えている深い海の中にいるような気持は、いまも続いている〉と八月十九日読売新聞で、鵜飼哲夫記者は記していた。

  夫婦の心の中に野分け(台風)が吹く想いとは、想像がつきません。芥川賞作家と直木賞作家、「夫婦で小説を書くなんて、地獄だなあ」と痛ましそうな表情で作家の八木義徳が言ったそうですが、「もうどこにもいません」の伏線は、こんなところにあったのでしょうか。

  アメリカインディアンのクロウフットは、一九八〇年の春、死の床にありました。呼吸が乱れ、苦痛に襲われていたのです。家族は彼に寄り添っていた。クロウフットの意識は保たれて、彼を心配する人々の愛に囲まれていた。 
  クロウフットがこちら側での命を終え、アーチをくぐって向こう側へ渡ろうとしているまさにそのとき、家の外では木々が芽吹き、花が咲きはじめて、春の息吹が満ちあふれていた。まるで死が、地上に再生をもたらすかのように。クロウフットの死を目の前にして、それまでずっと看病してきた長女がこう尋ねた。「人生って、なんなんでしょうね?」

  クロウフットはしばらく考えていたが、やがて老いた目を思い出に輝かせ、かすかに微笑みながら、娘のほうを向いて言った。『《風のささやきを聞け》より、めるくまーる出版』

人生とは、闇を照らす一瞬の蛍の光
冬の寒さに浮かぶバファロウーの白い意気
草原を横切り、夕日の中に消えていく小さな影 

  自死でなく、突然にしろ、病気にしろ、人生を振り返って死を受け入れることは、一瞬の光となり、一筋の線となって親しいものに夥しいほどの思い出が贈られるものです。それは、時間と存在の絆のなかに、死として迎えられることなのだろう思うのです。