目次
輝いている時
夢中(ゆめのなか)
芝浜
江戸っ子
亀住町(平成13年7月1日)
モンセ・ワトキンス~夢のゆくえ~(平成14年1月3日)
新牌開眼
英霊(平成17年5月23日)
目覚め
よわい「齢」
また始めたらよい
三大聖樹(平成19年4月17日)
滅度(平成19年9月18日)
安住の地(平成20年11月15日)
心眼(平成22年3月1日)
とかくこの世は
とかくこの世は
祈り(平成17年11月29日)
品位(平成18年1月20日)
ニャンニーシンズ(平成18年3月1日)
鍵(平成18年4月25日)
チベット(平成20年5月1日)
SYOHOU
諸法
四十四の問い~ミヒャエル・エンデ
先ゆく輩
さき行く輩
祖師年譜
ダルマ
慧可
五洩霊黙和尚
石鞏慧蔵禅師
大珠慧海禅師
西川の黄三郎
馬祖道一禅師(馬大師)
五百生 百丈和尚
大梅山法常(752-839)
麻谷山宝徹禅師(平成12年1月27日)
鎮州普化(ふけ)和尚
寒山・拾得
虹の彼方に
ヘイヴン・ペックの場合―続貧しいけれど、豊かだった―
生前葬
平和を我らにーGIVE PEACE A CHANCE(平成13年10月31日)
ソクラテスとヤージャニダッタ
蓮(平成14年6月2日)
心-KOKORO(平成14年6月25日)
独り暮らし(平成15年4月12日)
老いが、咲いていた!(平成16年7月5日)
深濱-fukahama
死に顔
松山鏡(ソクラレストとヤージャニダッタの続き)
真ん中(平成20年4月1日)
百万回いきたネコ(平成21年1月1日)
夜来る鳥(平成21年1月1日)
だいじょうぶ、だいじょうぶ(平成21年2月1日)
無常への帰依
無常への帰依
希望(平成12年1月2日)
葬式坊主
泥棒
赤とんぼ
老い
……ロス
後姿
寿陵
ついで参り
目標
六道を行く
もの言わぬ羅漢達…揀択をこえて…
宮本武蔵
五合庵断章(平成10年10月17日)
K子さん!(平成12年7月19日)
今は昔
十一面観世音菩薩
尽七日忌(平成19年5月1日)
OSYOU
OSYOU
この手のひらに―禅僧の死―(平成10年11月18日)
戒(平成10年7月25日)
幽霊
みんな仏教徒(平成10年5月27日)
最後の晩餐(平成10年5月23日)
禅問答(平成10年5月31日)
分銅
天国は汝ら自身に宿る(平成10年11月24日)
宗派
穢れ(平成12年8月30日)
お彼岸
仏心
仏心
ご祈祷
施餓鬼会にて(平成17年5月28日)
永遠の命
輪廻する葦(平成10年5月27日)
連鎖する命(平成10年6月2日)
涅槃(平成10年8月12日)
鏡(平成10年7月25日加筆)
流星
TAO(平成11年1月3日)
四大
挨拶
冥福
盂蘭盆
祈り(平成14年7月4日)
仏事歳時記
再び 最後の晩餐
この手のひらにII(平成18年11月18日)
死んで生きる智慧(平成19年3月27日)
五百生(平成19年11月20日)
破地獄偈(平成20年5月24日)
この指止まれ
この指止まれ
家族と家庭(平成11年1月5日)
導師(平成11年2月26日)
家から個人へ、そして家族・友達へI
家から個人へ、そして家族・友達へII
脳死そして臓器移植(平成11年3月2日)
独り決めの生き方
僧堂I
僧堂II
僧堂III
恥じ
僧堂IV
返事
父殺し・母殺し・友だち殺し・子殺し(平成20年1月1日)
その後
その後
ほとけさま(平成17年5月1日)
仏が仏に合掌する
戒名(平成12年3月14日)
無用の用(平成12年2月21日)
世話
大きく育て!(平成11年1月18日)
しもべ(平成10年11月7日)
電話(平成10年8月22日)
意思
寡黙
妄想(平成10年8月2日)
川(平成10年8月22日)
風如(風のように)(平成10年6月18日)
追悼(平成10年5月27日)
受容(平成10年6月18日)
蒸発
臨終(平成10年6月8日)
外道
障子(平成13年3月10日)
日月(にちげつ)
年寄りの出番より
人生とは、闇を照らす一瞬の蛍の光
時の旅人
時計(平成12年1月3日)
星(平成11年10月15日)
溝(平成11年8月2日)
過去心…念の起こる処(平成11年6月19日)
与える時間(平成11年5月24日)
桜(平成12年3月2日)
無常(平成11年4月16日)
川(平成10年9月17日)
有時(時の構造)(平成12年2月5日)
時の旅人(平成12年2月1日)
揺れる木々の葉
この人生の速さはなんだ(平成14年12月26日)
法句経より-時の旅人(平成15年2月4日)
寂然不動 如春在花(寂然不動、春の花に在るが如し) (平成16年9月19日)
ZENGO
自立
橋は流れて(平成10年9月18日)
無事
過去(平成10年5月23日)
たまごっち(平成10年5月23日)
一衆觸礼(いっしゅうそくれい)
六道を輪廻する
二人三脚
生老病死
筋肉番付
ポケモン
俺は、親馬鹿か!
塵も積もれば山となる
生と死と永遠
最終章
一章
二章
三章
四章~(未完)
時間旅行
時間旅行
命の歌-母の短歌
礎-いしずえ-
離魂(平成19年8月25日)
海辺橋
海辺橋
ふるさと(平成18年3月4日)
千の風(平成18年9月16日)
人の道(平成18年9月18日)
あなたは、いつから、一年が始まりますか?(平成20年8月1日)
前住職 二十三回忌にて(平成20年9月1日)
平成21年お施餓鬼会を振り返って(平成21年6月1日)
奥付
奥付

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この指止まれ

この指止まれ

この指止まれ!

  一体どうしてしまったのだろうか?この国は!

 この国の未来は?
 家族の行く末は?
 子供たちの未来は?
 子孫にとっての故郷は?


家族と家庭(平成11年1月5日)

家族と家庭(平成11年1月5日)

毎日が矢のように過ぎ去って行きます。そして今、私は二人の男の子を養育しています。
私の母は、八王子の古いしきたりを持つ、織物の機屋の七人兄弟の二女として生まれ、五番目の子供でした。大勢の職工さんをかかえた旧家は序列が決まって、母は下二人の妹達の世話を結婚までよく面倒を見ていたそうです。今考えると、だからこそ、序列が守られていたわけになるのだろう。そう言えば、母は若くして亡くなった三男のことを、「やさしかったし、よく世話をしてくれた」と、話していた。長男は家名を継ぎ、今も健在で九十五歳を迎えて、「百歳まで生きるのだ」と豪語しているが、家督は継ぎの世代に繋がれているものの、家業は時代の流れで廃業し、多くの八王子の機屋と同様に転業している。

 父親は侵すべからざる存在として、家庭と家業の中心として君臨していたことは間違いない。母は、私達子供に、自分の育った環境をよく話してくれた。しかし私が物心ついた頃、不思議に思ったことは、母の育った伝統の習慣を、私達には伝えてこなかったことだ。父が、八王子の中学の国語の先生をしていたので、母が育った時の環境とはかけ離れていたことは事実だ。父も次男だったせいか、そして職場を外に持ったことにより、私には、母から教わった、父から教わった習慣が無い。

今、私に伝わった習俗を点検し、見つめなおそうとしようとする時、そして新しい年を迎えようとしている今、「いや、正月の気分がなくなったですね。歳末と言う雰囲気が、本当になくなった」と、友人は言う。友人の歳末を見る景色も変わったが、実は、友人の心も、年があらたまるという変化を、新しく感じられなくなってきていることを思う。
そのことを自分に照らし考えてみてもそうだ。 子供の頃の、正月を家族と迎える気持ちに変化があるのだ。昔も今も、正月じたいは変わらないし、同じ営みを続けている。確かに、子供の頃は貧しく、今とは食べるご馳走が正月以外食べることができなかったし、晴れ着を着る時もなかった。

二十三歳を過ぎての修行の道場は、これは伝統と格式の場で、まさしく言い伝えそのものの中に、どっぷりとつかった。正月3日間は禁足、午前中は大般若経の転読をして、4日目にして、般若札を信者宅に新年の挨拶を加えて届けるのが、雲水の仕事だった。なにより嬉しいことは、厳しい行が、正月はなかったことだ。

考えてみれば、家庭における習俗は常に変化していくのは当たり前であり、その変かに合わして習俗が多様性を持たなかったのが今なのだろうか。その変化は、家庭に電気製品が侵入した頃から始まるのではないか。便利さ合理性、そしてそれに反比例するかのように、習俗が亡くなっていったように思える。分析してみても昔に戻らない。正月の新聞を読んでも、過ぎ去った歴史は様々に捉えていることはいるが、現在も未来も語られていない。

禅の見方から見れば、家庭を築きながら、家庭を問うことは、私と家庭はすでに離反していることになる。それは父親でありながら、自らの父親を問うことに、父親が不在であることの家庭の悲劇であるともいえる。自己を問うことも、問う自分と問われる自分が分離していれば、二つは離れたままだ。されど、問わなければ一つになりえないというジレンマがあるのだから、ここが面白い。
どっちに転んでも、救われるのは、私がいかに離反していようと、家庭は歩みつづけるということだ。
もし煩悩を捨てて菩提に入らば、知らず、いずくにか仏地有らん。(ほう居士)


導師(平成11年2月26日)

導師(平成10年8月30日掲載 平成11年2月26日補筆)

 葬儀において、家族の深い悲しみを背にして祭壇の前に立つとき、亡くなった人が臨終あるいは意識がなくなる前に「ありがとう」と、感謝の言葉を残していった人のことに関しては、この言葉が本人にも見取った家族にも、その人の死はそして葬儀は、天より与えられた人としての使命を全うし、死を受け入れ、卒然として旅立って行くことの確認になります。

 辛く苦しく病魔にさいなまれ、死んでも死にきれない内に迎える辛い死の場合は、その死が突然訪れようと、ゆっくり進行しようと、葬儀の場合はこの辛く苦しい無念の心を晴らさなければ送ることができません。それには、まず涅槃の中身を説くことになり、その言葉ゆえに二度と苦しみのない浄土に生まれ変わることを決定していることを宣告いたします。その中身を家族が受け入れられなければ、無念の心を代わりに背負って、そして祈ります。

 自殺の場合は、叱る場合もありますが、自殺の先の束縛からの開放の目的を提示することによって容認する場合もあるでしょうが、残された遺族と共に歩こうということを考えると、遺族の対応を見ながら、迎合はせずに、堂々と正論を主張しながら、共に歩こうという対応も必要なときがあります。
 では突然死と言われる、心臓発作、交通事故等の場合は家族にとって、戸惑いと落胆は大きく、死者が若ければなおさら喪失感は大きく言葉もかけられないのが現実でしょう。まして葬儀は時間が限られていて、その後の対応がより大きな問題となるからです。

 平成10年8月旧盆にお経を詠みに行った家庭の話です。一人息子が国立H大学の大学院を卒業目前の3月、交通事故で亡くなったのでした。25歳だったそうです。卒業の記念旅行を車で出かけた際に、4人の内彼の息子一人だけがスピードの出し過ぎだったそうですが、車から放り出されて亡くなりました。運転手の後席に乗車していたそうです。葬儀は彼の友達のいるH市で執り行われたそうです。

父母は仕事の都合で千葉県に住んでいたのですが、5月江戸川区の西葛西に引っ越してきました。仕事の都合上、定住場所を持てないのか、定年まではこの葛西で過ごそうと思っているそうでした。彼を誇りとしていただけに、その喪失感は大きく、遺骨が大切に飾られておりましたのが辛い気持ちを表わしておりました。
定年になったら、父親の故郷近くに静かに暮らしたいという、ご夫妻にはただ聞くだけで、お別れに「25年というかけがえのない思い出を頂きましたね」と声を掛け、「何か私で役に立つことが出来ましたら」と去りました。寺への帰途、とてもやりきれない思いになりました。息子を突然亡くした夫婦が、いずれ立ち直ってくれることをただ願うばかりです。葬儀に良い悪いはな いのですが、やはり考えてしまいます。「私が葬儀を執行していたら、この夫婦にどう役に立てただろうか」と。

 葬儀における導師とは、文字通り”導く師”なのですが、私は死んでいった人を導くより、死んでいった人の家族や友達の人の心を通して、死者の魂を導くのだと思うのです。そして死者の家族と共に在り続けることも必要なことではないでしょうか。共に歩き歩きつづけるため、導師はそれまでとは違った視点で捕らえ、切り口をえぐり、別れの式に集まった人々を浄化させ、人の尊厳を高らかにうたいあげなければなりません。

 亡くなった人を、何処に導くのかと言えば、それぞれの人の心の故郷です。私は心の耀きの中に導くのを生業とするのだと思っております。なぜならば、人が生きる場所は、現実には迷い悩みや辛いとこにいることが多いからです。
またその中にこそ人の生きる場所はないのだと、決め付けたほうが却って安心できるからです。共に生きる場所は私達が生きる場所でもあり、その中に浄土を、心が常に耀いていることの発見をすることが大切なことと思うのです。後のことはお任せすることが大事なように思うのですが。


家から個人へ、そして家族・友達へI

家から個人へ、そして家族・友達へI

 禅では、人生を、『人が生まれる』と読むそうである。この読みはそれぞれの人にとって、多くの意味を持つと同時に、こんなにズバリと万人にあてはまる言葉もない。人間のこの世での一生は、『人が生まれる』より出発し、『生まれた人の寿命が尽きる』ことにより、幕を閉じる。そして、この間のいかなる時も、『人に生まれる』時を保持している。
凍てつく北風に背を丸めた時、冬の訪れを知ることと、草花が芽を出し、花を咲かせる時、春を認めることは、けっして春が来たから草花が花を咲かせるのとは違う。一人一人それぞれの冬であり、格別の春である。去年の冬と、今年の冬は、その人本人にとっては、まったく別のものであると思うのです。

 人が年を加えて、新聞の活字がぼやけて見えなくなった時の肉体的な衰えを知ること、そのことは、本人にとって未体験の領域に踏み込んでの、実体験です。人はいつでも未知との遭遇を経験しています。この意味では、赤ん坊も老人も、平等に初体験を繰り返します。もちろん軽く受け流すこともあるでしょうが、それが大きな意味を持つ場合もあります。

二十歳過ぎて、友達が次々と結婚して行く適齢期にたっした女性のあこがれに、「私も、近い将来こうして幸せな家庭を築きたい」という希望がある。やがて友達に、赤ちゃんが生まれて、大きくなって行く過程の母親やそれらを含んだ家庭の姿を見るに付け、結婚願望がしおれて行った女性を見ました。
勤めていた頃の友達と較べて、子供の成長や家族との関係に追われるように、毎日が過ぎて行く。毎日が自分の自由になりえると思う自分の姿と照らして、「ああまでして、なぜ結婚しなければいけないの」の言葉に、返答が詰まってしまった私であった。
 そういえば、「彼は四十過ぎて、可哀想に、まだ独身なんだよ」という友人の言葉に、別の友人が「なんで可哀想なんだい。結婚している我々のほうがよっぽど、彼から見ると、可哀想かもしれないんだよ」と言った。
「我々は、社会の年寄りを支えながら、次の世代の子供を育てているのだから」。
 何十年か後、彼らが年寄りになって、他人が育てた子供から年金や社会の恩恵を受けるとしたなら、今、何をしなければならないのだろうか。ひょっとすると、この考え方はもう時代に合っていないのかもしれない。なぜなら、アメリカでは401K年金が主流で、この考え方は個人の責任で自分の老後を設計するというのが原則であるからである。
 戦前までの様々なものの考え方の一つに、『家』というものがあった。家によって縛られる個人の人権の開放と言う意味で優れての効果は、女性や跡取問題の家へからの開放であったはずだし、そのほかにもたくさんあったはずだ。専門家ではないので、うまく言うことは出来ないが、国の施策も相続税とかそれに沿った方向に同調して、結局なくなったのは、家々での文化の伝統や習俗、家を守る人と人とのつながりではなかったろうか。不思議なことに、皇室が家制度を今も守っていて、守ることにより、伝統や文化が温存されている。
無い智慧を幾ら絞っても、この問題は大きなテーマであるので考えがおよばないが。いいたいことは、野放図の勝手自由と個人の責任と権利との関係である。だって、そこには自分意外を尊重すると言う発想が無いように思えてしょうがない。もちろん、他人を尊重すると言うことの中には、口を挟まないということはあるでしょう。ですが、そのことは自分の考えやものの見方を押し付けないと言うこととは別に、慈しむ、育む、見守る、受け入れるという、社会と接点を持ちつづける自分が欠落しているように思えてしょうがない。 

だいぶ、脱線してしまった。話しを元に戻そう。 彼女は、小さい時から父母の言うように、幼稚園は○○幼稚園、小学校は○○小学校、中学高校は○○学園、短大は○○短大にと規定の路線が走っているかのように進んで行った。
バブル崩壊後、本当はスポーツ選手の栄養管理の仕事をしたかったのだが、仕事がなく、給料はすごく安かったが、港区のS病院の栄養師として就職した。あまり人ずき会いは好きではなかったので、彼女に合っていたようだ。5年ほど勤めた時、やさしかった祖父の死去をきっかけに、父母に病院勤務を止めさせられ、実家の家業を手伝うはめになってしまったと。その間、親しく付き合う男性があらわれた。東北の出身で、言葉に東北訛りがひどく、それがもとでコンプレックスにおちいった男性を励ますうち、いつしかお互い想い合うようになり、結婚を約束したのだが、娘の父母の頑強な抵抗に会い、断念した彼女だった。
「二十七歳になって、結婚をせまられても、今まで、すべて親の言うなりに抵抗できずにいる自分がいやなんです」、「私この頃、一日がおわって布団に休む時、ホッとするんです。このまま死んでも良いと思ったりすることもあるんです」と言う彼女の屈折が、彼女を阪神大震災一週間後、神戸に走らせたりもした。 しかし、「あんたらは結局、よそもんや」と言う被災者の古老の言葉が、彼女を神戸から遠ざけた。今、彼女は家業の、保険の仕事の手伝いをしている。両親は彼女を「早く、嫁に行け」というが、彼女にとって、この問題だけは親の言う通りにはならない。 「だって、どうして結婚しなければいけないのかわからないんだもん」。
彼女も一生懸命に、自分自身を模索している。

葬儀において、告別式が終了して出棺の前の挨拶で、若い喪主がメモを見ながら会葬者に挨拶をしていた。「最後に残された私達遺族に、故人に受けました生前と変わらぬご厚誼を賜りますようお願いしまして、挨拶といたします」と、話していた。何度もこのような場所に立会いながら、『どうして、故人の生前と変わらぬご厚誼を遺族にも振り向ける』ことを、誰もが挨拶の終いに言うのだろうかと疑問に思った。喪主にそっと聞いてみたら、「こう言うもんだと言われた」と応えた。

その時ハッと気が付いたことは、故人を偲ぶために、追悼の場に来てくれた沢山の会葬者の厚情を、実は遺族への引継ぎの形で終わらせる、伝承の儀式の意味を持たせることによって式は終了するではないか。
私がする葬儀において、亡くなった故人を偲んで、徳をたたへ、人格を肯定し、今まで歩いてきた道を追想し、これからの旅立ちの道を照らす儀式の執行は、何の意識も無くその行為を『しきたりだから』と挨拶する中に、遺族への伝承の儀式にすりかわっていたことになっていたのだ。遺族、それは残された最少の血縁家族のことだ。では何の為にそのことが必要なのであろうか。言うまでもなく、残された家族の幸せ、安らぎ、つぎへの伝承である。

本来から言えば、家族は一人一人ばらばらの人格の集合であるから、家族の一人一人の人格へ、故人の生前と変わらぬご厚情を、今後は受けることになる。
人というものは、血にしろ、学問にしろ、事業にしろ必ず次への伝承のものがなければ滅びるということなのだ。伝承とは、別名、未来とも言うのではないか。滅びる先に未来は無いとするならば、我々は次の世代にもっと語り継ぐことをしなければならないし、語り継がれる世代は、謙虚に耳を傾けなければならない。どうしても説教調になってしまうのは職業柄いたしかたない。

私は最近、『先祖供養』という言葉を『精神的遺産への感謝』と言うようにしている。もちろんこの言葉が理解できるには、『人に生まれる』と言うことが実感できなければ無理だし、自分の中に流れている血の否定的なものや肯定的なものをそのまま受け入れるということが必要なのだが。


家から個人へ、そして家族・友達へII

家から個人へ、そして家族・友達へII

 過日、ある家に行ったときのことだった。その家の次男の嫁さんが、実に客である私達に応対がすばやく、菓子を出し、お茶を運び、その間にも私達の注意をそらさず、実に気持ちの良い接待をしてくれた。その時その家の姑が、「○○さんは、とてもおしこみが良いこと」と、みんなの面前で話されたのでした。

しばらくして、次男の嫁さんが帰った後、娘達が母親に、その『おしこみ』について、「失礼な言葉」とか、「もっと違う言葉」がなかったのかと、話題に上がったのでした。

少し前の大家族制度、あるいは家制度の中では、外部から来たものを含めて、その家での序列が決まっていて、その序列を護ることが、その家族を維持することであり、その家の格式を護ることにつながり、家の安泰つまり後世への存続へと繋がることだったと思うのです。
またそうでなくとも、大きな集団を維持するには、それなりのルールが必要であることは、誰しも異存はないでしょう。その意味で、『躾』、『おしこみ』は当然のことでもあったはずです。
その集団の中での自分の立場が決まっていて、そうしなければ、維持できないのですから、その枠を守れということだったのです。今では古い慣習となってしまったことのように見えて、このことの中から何か真理があるように思えて、仕方ないのです。何故なら、その次男の嫁さんの立ち居しぐさが、自然で美しいと思えたからです。もちろん、おしこみだけでなくて、次男の嫁の人間性のすばらしさ等があるのは、言うまでもないことです。

今は『学校崩壊』が話題になっていますが、その数年前には『家庭崩壊』が世間を騒がせていた時が、あったのを思い出しました。ある集団が崩壊する条件として、第一に挙げることができることは、集団を構成する個人の、その集団を維持する為の自覚のあり様です。小学校の生徒が、生徒とは何かとわかっていなければ、生徒とはいえないわけで、生徒の務めを果たすことによって、学級は成り立つことは当たり前のことなのです。そして生徒とは、知識を覚えるために、まず学校に毎日登校することも当たり前です。その他には、体力をつけたり、友達を見つけることも必要でしょうが、クラスでは先生と生徒との関係を保つことが必須条件なのは、誰しも認めることでしょう。この関係というところで、仏教がからみます。

先生が成り立つ条件として、生徒が必要なことは当たり前です。生徒がいなければ、先生はいませんから。また、生徒にとってみれば、先生がいなければ、いくら学校に行ったとしても、生徒ではありません。先生や生徒は、この対立する関係において、成立することであり、相手がいなければこの関係は維持できません。つまり、生徒は先生によって、自らの立場を確立することになります。生徒の務めを果たすとは、このことを言いますから、努めを果たせなければ、自らの立場を失うということにもなるのです。さらに努めを果たすことによって、クラスである全体を維持できることを考えれば、崩壊する理由は簡単です。

屋根の瓦を想像してみましょう、大きな屋根に瓦1枚では何の役にも立ちません、全体に敷くことによって、雨風を防ぐという働きを遂行致します。その全体の中の1枚の瓦を考えてみれば、必死になって1枚の瓦としての努めを果たすわけです。もし欠けていたり、ゆがんでいたり、斜めになっていたりすれば、全体の役目を果たすことができないでしょう。瓦1枚は、ただの1枚ではなく、大切な1枚です。
『躾』『おしこみは』は、集団での自己のより所を全うする為の、きまりだったのです。1枚の瓦を、補修することは、躾に該当することです。それぞれ1枚の瓦が、より堅固に任務を果たせば、屋根は二十年、三十年と年月を刻むことが出きるのです。

会社にしても、部長の仕事の役目を護ることによって、組織は成り立つことで、皆が勝って気ままに仕事をしていたら、その会社は潰れてしまうこと、目に見えています。組織を構成する個人は、自らその構成員としての責務を全うする事において、組織は維持されるということを自覚しなければなりません。自分の努めを果たすことは、組織を維持し発展することなのです。そして自分が努めを果たしているからこそ、組織は維持できていることでもあります。

家族にも同じことが言えますが、現在の家族は、さまざまに変質しているようです。まず自ら個人の存立する条件を直視して、自分の存立する条件は自分にはないということを知ることです。夫婦はその関係として、夫婦を全体として考えた場合、夫は1/2、妻は1/2で全体を支えます。連れ合いを亡くすと、人生の半分を亡くすというのは言い得て妙な言葉です。夫は夫の努めを果たすと言うで、さまざまな夫婦によって努めは異なることですが、それぞれに補完しあいながらも、家族は維持されて行くと思うのです。


脳死そして臓器移植(平成11年3月2日)

脳死そして臓器移植 …子供たちに光を!…(平成11年3月2日)

 1999年2月26日の夕刊から始まった高知赤十字病院の、一人のドナーカードを持った、44歳の女性の脳死が日本中をわかせた事件は、実に1968年の和田移植以来31年ぶりの、多臓器移植の夢を実現させた。関係機関は和田移植の二の足を踏まない鉄則のもと各機関が連携して、この歴史的な幕開けを演じた。

 日本の一人の女性の脳死が、しかも故人の善意の意思がそして女性の家族の理解と勇気が、これほどセンセーショナルに報道され、結果として6名の命を救ったことと、臓器提供を受けたそれぞれの患者がひとしくあらためて命の大切さを思い、感謝して冥福を祈ったのでした。

 私は一人の寺の和尚として、ひしひしといずれこの私も、私の関係する家族の葬儀を通して、このことにかかわる当事者の一人になることが、遅かれ早かれやってくると思うと、考えなければならないと思うのです。そして、人の死が二つあるという矛盾と、子供たちに、この究極の命の喜びを伝えられないというジレンマを悲しく思うのです。

 脳死は、心臓停止という死と人の尊厳を問う問題なのだろう。死は、心臓停止と脳死に分離された。心臓停止の死は、人工呼吸機によって延命され、脳死は、全脳死と脳幹死に分かれるらしいが、日本では全脳死を選択し、脳死者の臓器提供の意志確認と家族の同意をもって認めると言う、但し書き付きの二つの死が存在することになってしまった。

 人の尊厳を問題にすれば、人の死を、人為的な作用で加えてはならないことが鉄則でありはするが、脳死をもって、人の死とすることを確信することは、やはり自然死を是とする現状では、勇気を持たなければ言えないことだと思うのです。後世においてひるがえされるかもしれない判断を下すと言うことは、大義がなければ下すことは出来ません。

 生物は生物の死によって成り立っている現状があります。人も人に生まれて、生の時間のなか、意義を見出して、善意をもって歩む途中、自己の判断ではどうしようもできない、自分のいとしくも、借り物の肉体との決別の時を迎えた臨終の時に、自身の肉体の処置を、家族や医療従事者に遺言の執行として、依頼せざるを得ないのです。見届けることのできない理不尽さが在るかもしれません。信頼という言葉の意味を噛み締めながら考えても、最後には任せることしか選択はありません。

 医学では死を、機能停止と呼ぶのだろうか。私は死を、旅立ちと言い、家に帰ると言い、自然に輪廻すると言う。その上で浄土、天国と言い、仏や神と結びつける。自然は在るがままと言い、それを寿と言い、妙と言う。
 脳死において、刻々と変化する臨床と判定の時を追って繰り広げられる事実に、脳死患者の心臓を取り出す外科医のメスは、人の死を執行する立場(心臓停止の死における側より見れば)に、手術室は葬儀の場所に、外科医とコーディネーターが脳死者の意志を導くような気がするのです。

 せめて、僧侶がそばに控えて、家族に脳死者個人がいかに生きてきたか、そして呼吸が止まった時、脳の機能が止まった時が、人の終わりではないことを告げ、受け入れて貰えなければ、死者や家族の意思は次のステップに進まないと、私は思うのです。家族と共に、この事態と展開を見つめ、切り刻まれた遺体を鎮め、亡くなった人の尊厳をたたえ、家族の祈りを死者の魂へと送る勤めが葬儀という儀式の本位ならば、僧侶である私は、家族と共に見届けたい。

 脳死を人の死とするかの問題は、本来、人口呼吸機が作られたときに社会に問わなければならなかった。人工呼吸機は人の命の延命を願って作られたのではあるが、その時、人の命、生物の死、人の願いを、人は問わなかったのだろうか。確かに、心臓停止の人の死は、冷たくなって行く死に行く人の身体をそっと見守った時、臨終の決断は迫られない自然な死であると思う。そして大多数の人の死は、従来どおりの死であることに、間違いないことであると思う。人の死は、受け入れるまわりの一人一人によって違うし、一つとして同じ死はあり得ない。

 本来の死は、脳死も心停止も時間差はそれほどなかったのだが、人工呼吸機によって、その時間差が長時間にわたるようになってしまった。人は、その長時間の時間差を利用して、自己の命を支える臓器移植と言う究極の布施行を発見したことになる。そしてその布施行には、現時点で、家族の痛みをともなう。その痛みを喜びに昇華する立場を、僧侶はになっていると思う。
 「まだ生きているのに、マスコミはこんな騒ぎになるのか」と家族の動揺が、26日の夕刊に伝えられている。この言葉から、脳死の臨床判断と判定の食い違いによる報道の騒ぎが、脳死を日本で始めて受け入れるという、家族の作業の決断の苦渋がうかがえる。

 臓器を受け入れる立場は、考えてみれば辛く苦しい。受け入れた臓器は、はたして、受け入れた患者の体内で適合するだろうか、適合しなければ次の臓器移植か死を選ぶことになるのだろう。一生にわたって免疫攻撃を受ける。そのため、一生、免疫抑制剤の投薬と身体管理を受けなければならないという。外部から侵入した異物は、投薬と言うだまかしがなければ、他の臓器と一体となっての連携プレーが出来ないという。
 私だけがどうしてこのような身体をもってしまたのか、生きたい、死にたくない、人並みに最後をまっとうしたい。そのことが少しでも可能なら、実現できたらよいと思う。

 自分の死と対面して、暗い気持ちが少しでも好転したら、どんなに世の中を違った視点でとらえられるか、生きていることの意味をどんなにか肯定できるかと思うと、限りない意味をもつことになる。自然に臓器移植さえしたならば、内部の疾患を治せると、そんな時代が、すぐ近くに来ているのかもしれない。両親にしても、生まれた子供の治らぬ疾患が、善意の意志によって、子供の成長を見れるとしたなら、どんなにか救われることだろう。

 だが、現状は15歳以下の子は、その可能性が閉ざされている。命の尊厳に、年齢の差があってはならないはずなのだが、ドナーカードの臓器提供意志が採択されないらしい。幼い人の意志が確認できないのであれば、その意志が採択できるまで、家族が親がその子に代わって、意志を表示できないものだろうかと、考えてみる。が、そのことが社会に与える意味を、私は、はかり知ることができない。
 人が生きると言うことは、『生かされて、生きる』ということに違いがなく、自分が生かされて生きて、もはやこれまでと言う最後を迎えたとき、私の臓器が他人が使えるのであれば、私の意志として、脳死を死と認めて、求める人に提供しよう。 

追記 平成11年3月3日

 脳死患者から各病院へ臓器を搬送する報道をみて、臓器によって随分と時間差があることを知った。心臓と肺は短く、肝臓が、腎臓がそれに続く。脳の臓器移植は聞いたことがないのだが、考えてしまう。また、ふと思ったのは、実は脳にも死に至る時間があるということなのだろう。もし脳死が人の死と決まった場合、おそらく圧倒的に多いであろう、心臓停止や呼吸停止の病人の脳はどうなのだろうか。まだ生きていることになるのではないだろうか。

何やら大変なことに気がついたような気がする。確かに構造的に脳が破壊されたら、総ての機能は遅かれ早かれ停止してしまうだろう。それよりも、意識を生み出せなくなってしまうし、創造的活動も、感情の作用も、心の働きとしての作用がなされない。人格の創造的死と言えるわけだ。心臓はペースメーカーに代わることができるし、その内、技術の発達で総ての脳以外の器官は作られるのかもしれない。病院の緑色の心拍計の横一線のグラフに、付け加えて脳波計を置いたとしたら、心臓計の心臓停止の合図も、脳波計が元気にグラフをうっていれば未だ生きているということになる。
追記 平成11年3月4日
 人の死は、すべて個人的な死であると思う。部分的には脳死も心臓停止も細胞死も筋肉死もあるわけであるが、総てを含めて個人的死であると言いたい。死者に対面する人の感情は、それぞれ受け入れがたいものを持つ場合もあるし、共通する場合もある。場所や時間によっても違うのだろう。死体が冷たくなっても、まだ死んでいないと自分に叫ぶ場合もあるだろうし、どう対処していいか分からない場合もある。個人的な死である限り、死者に対面するそれぞれの人が、「死んだ。亡くなった。天に召された。土に還った」と、自分が納得する作業によって、それぞれの死を見つめるのだろう。

 友人がこんな話をしていた。
 「いや、昔、田舎の火葬場で、火葬うのため、重油に火をつけ、職員が裏のかまどの中をのぞこうとしたら、お棺の蓋が動いて、中からギャーと言う悲鳴が聞こえたと言う。職員はゾッとして、逃げ出したと言うんだ」
 「昔、まだ土葬だった頃の話で、火葬が行われない場合は葬儀が済んだら、墓地で穴を掘って座棺を埋葬したんだ。数週間して、遺族がフッと気になったらしい。気になりだすと、どうしてもて墓地を掘ってみなければと思ったんだ。墓を掘り返すなんてことは、出来るもんじゃない。だけど、掘ったんだね。棺桶の蓋の裏には、無数の引っかき傷があったんだって」

追記 平成11年3月12日

人の死は、それぞれに固有のものであることは言うまでもない。身内にとっての死は、二度と帰ってこない自覚の、死を容認するという作業があってはじめて成り立つことであり、そこには医療とは別個の死が存在する。二度と帰ってこないという確信が、医療の信頼のもと、脳死を受け入れる前提になることは間違いない。だが「そこに存在するだけでいい」と言う親族や家族の気持ちも否定することは決して出来るものではないことも確かだ。多くの檀家と接する私の鉄則に、「けっして檀家一人一人を評価してはならない」という守り事があるのだが、医療従事者も同じだと思う。このことは、それぞれの立場を、生きてきた過程を、心情を、考え方を、ただ受け入れると立場にあるということだ。

独り決めの生き方

独り決めの生き方

 平成11年9月19日の日本経済新聞に、文芸評論家秋山駿氏の、戦後に生きたわれわれの世代にとっての何かが変わりつつあるのかと、『遠去かる戦後の影』と題して、江藤淳氏へのエッセーが載っていた。

 『遠去かる戦後の影』の中には、”独り決めの生き方”が、示唆してある。
『「私は自分(子供がいなく、夫婦二人だけの家庭)になぞらえて推量する。これらの人達にとって、戦争・敗戦・戦後展開する新事実は、痛烈な、生の転換の時であった。彼等は決断した。
一個独立、一瞬目にした幻を追い、すべてを捨てて、前途も知らず、自分だけの新しい道を歩いて行くと、と。すべてを捨てて、のなかには、子供も入れば親族も入る、これは仕方がない。一瞬目にした幻とは、まるで蜃気楼のように浮かんだ文学のもっとも高い塔が、ここへ登っておいでよ、と手招きしたのである。……文学上でも人生上でも、同じ生の態度を貫こうとするとき、そこに生の原理が出現する。生の原理とは、いわば、自分独り決めに生きる、ということだ。妻に癌を告知しない、自殺する、すべて独り決めの行為である。……生きる、ということは、もう一人の人間とともに生きる、というのが人間生活の原則であって、もう一人の人間とは妻である。……江藤さんは独り決めに生きることに過ぎて、妻は妻で独り決めに生きるそこを覆ってしまった、それを謝罪しているのではないか、と感じたのである。……今日、核家族化の流れ、つまり親族から離れた、夫婦二人だけ……この夫婦に子供がなく、親族から切れていれば。

そもそも、一人の男と一人の女が手を結んで、夫婦というたった二人でこの地上に生きるのはなぜなのか、という、人間生活の根底の骨組、基本が露呈される。ただ、夫婦であるという、もっとも単純な人間の出会いの底に、どんな交流の声があるのか。江藤さんの、妻の死とともに味わう「生と死の時間」とは、人間が人間を思う、一つの源泉の声であったか。』と、結んでいた。

江藤淳氏の妻、慶子さんの葬儀での挨拶のとき、葬儀の司会者が、親族代表の挨拶を促した言葉を、彼が咎(とが)めた言葉は、「親族を代表してとは何事だ。後にも先にも慶子の身内は私一人だ」でした。この言葉から、秋山駿氏の鋭くも滋味ある文章が、始まる。

せんだて、突然に、ご主人を亡くされた婦人を、慰め元気づけようと話しをしていて、鬱的に閉じこもる彼女の口から、「庭の窓越しの木々を見て、真夏の昼の、強い光線が照りつけるのを見ると、とても外に出る気持ちはないのです。カーテンをして家に閉じこもっているのです。日が落ちてからなら、なんとか外に出れるのですけれど」と、彼女の、今の心境を聴いているうち、ふと、江藤淳氏の言葉が二重によみがえってきました。
江藤氏は、妻慶子さんの死後、「真夏のぎらぎらと照り注ぐ太陽に光る、庭の緑葉を見ると、辛く、とても外に出ることができる気分ではなかった」と、これに近い言葉を、NHKのクローズアップ現代で、話していたのを思い出したのです。

そして偶然思ったのは、「慶子の身内は、私一人だ」と叫んだ言葉は、心の同じ所から出た、同じ言葉ではないかということだったのです。
物言わぬ身となってしまった妻も、送ろうとする私も、一つだとしたら、どこに送ろうとしたのか。行き場のない自己の内に、共存するかのように、誰も踏み入れる事ができない、魂の叫びは、やがて自分を昇華することによって、「慶子の身内は、私一人だ」と叫んだ江藤氏の、慶子さんへの葬儀だったのだろうか。憶測ですが。二人の人間の、堅固に結ばれたの絆の深さ、脆さを、批評し論ずることはできませんが、ただ、じっと見つめることはできると思います。
そして、見つめて気付くことは、あのギラギラと照りつける、木々や緑の葉は、じつは江藤氏自身であり、また彼女自身の投影された病んだ姿であると気がつきました。すると、あの光線は、追い詰めるものの姿であると思うのです。照りつけるものも江藤氏自身であり、彼女自身であったと気がついたのです。

「妻は妻で独り決めに生きる、そこを覆ってしまった」という秋山駿氏の言葉の意味することを、考えてみれば、江藤氏の「慶子の身内は私だ」と叫ぶそのことこそ、私のある部分を亡くしたという、喪失感そのものと取ることが出来るのではないかと思います。私の一部となることになってしまった、慶子さんとは、また、彼女にとってのご主人とはと、考えたとき、突き詰めた、本当の独りになることは、秋山駿氏が言う「人間生活の根底の骨組、基本が露呈される」という言葉によって表現される以上に、波紋は広がるような気がいたします。そして「人間が人間を思う、一つの源泉の声であったか」と余韻のあるこの響きは、美しく、悲しく、やがては消えてゆくのでしょう。

ですが、これからますます、このようなケースは増えてゆくことは確かなように思われます。独りになってしまった、男と女の話しはここから始まるのです。秋山駿氏が言う「妻は妻で独り決めに生きる、そこを覆ってしまった」とは、どう考えたらよいのでしょうか。

人が、ぎらぎらと照りつける夏の光線になったり、照りつけられる木々や緑葉になったりすることの意味は、とても深い。そしてその意味から、木々や緑葉とそれを窓越しに見る人間は、どういう関係を保ち、どう距離を持ち、どう感情を交えるのかを考えることができるのではないかと、思えるのす。もっとも多くの人たちが、この問題を、何の問題もなく素通りしていることも事実でしょう。
これこそ人間の心と、世界・環境との有り方を示している事柄ではないかと思うからです。
この木々や緑葉は、亡き人と親しく住んだ窓越しに見るものでなければ、ならないのか。
旅先の窓では、駄目なのか。
遠くに在るものでは、いけないのか。
思い出す木々では、いけないのか。
枯れた木々や葉では、いけないのか。
夏を盛んに連想できる木々や葉でなくては、いけないのか。
夏の強い光線でなければ、いけないのか。
そのことを語る、今、そこに在る木々や緑葉こそ、ふさわしいことなのでしょう。何故ならば、そこに生活の思い出が隠されているからではないでしょうか。私が語るのではなく、実はそこに、今在る木々や緑葉が語るとしたら亡き人も共に見て生活した木々こそふさわしいのでしょうし、夏の強い光線は、強ければ強いほど自己を追い詰めるものになると思うのです。自己を悠鬱に落とし入れるそのものの記憶の扉が開くとは、そのことを言うのではないかと思うのです。

辛く耐えられない自分が、木々であり緑葉であり、光線は白日に晒し、思い出す働きをもち、そこを離れずに、窓越しにいることを欲する自己は、全体を意味するとしたら、つまり、木々や緑葉は記憶であり自分そのもので、光線は、その記憶の扉を開ける自己であるとしたら、未だその世界を飛びすことが出来ない自分は、それ全体と捉えてみると、独り決めに生きた男と、未だ独り決めに至らない女の、共に至った妙な共通点の一致は、何を意味しているのだろうか、とても不思議に感じます。

このひと時に、同時に垣間見る、生と死の時間の織成す、人間が人間を思う、一つの源泉の声を聴いて、我々はどう教訓に、どう取り入れて暮らしたらよいのか?

僧堂I

僧堂I

 平成11年11月6日、東京は有楽町、そごうデパートの七階にある、読売ホールで第37回”禅を聞く”講演会が、開催されました。本年は、東京にある臨済宗寺院により営まれています、臨済会の50周年に当たりまして、冒頭”禅寺の一日”と題しまして、修行の道場の《鳴り物》を披露できないものかと計画された、寸劇のような催し物でした。
実際に《鳴り物》を舞台に搬入し、雲水の寝起き、朝のお勤め、食事、坐禅、夜明け、警策、参禅、告報、托鉢と、それぞれの場面転換に、どう《鳴り物》が鳴り、《鳴り物》が、どう雲水を動かすのかと実演したのです。

道具は、小さな鐘から半鐘、大鐘(これだけは妙心寺の国宝、黄色の鐘をCDで用意)、喚鐘、雲板、法鼓(大太鼓のこと)、版木、柝、警策、鈴、本堂の荘厳用仏具、禅堂の単(畳一畳を連ねた、雲水の寝床兼坐禅場所)、食事の台という大道具をそろえ、朝のお経や、食事時のお経も、《鳴り物》ととらえて場内に響いた音は、おおいに、聴衆を魅了いたしました。一団で動く雲水の統制の取れた、無駄のない動きと、場面の転換の早さ、動きに合わせたスポットライトの点滅と強弱、暗闇に映る平林寺専門道場のスライド映写は、観客がどう捉え、何にどう魅了したのか興味を覚えましたが、終了の場内への托鉢で終わると、どよめきと拍手の喝采に、成功を確信いたしました。下記は、”禅寺の一日”の、冒頭のナレーションです。

 《冒頭ナレーション》
 私達が生きているということを考えました場合に、最低限3つの条件がございます。先ず第1は私です。自己を問う、その自己です。そしてその自己は、常に場所という限定をもって、立脚あるいは、束縛・限定されます。つまり2つ目は、場所であり、空間であります。そして3つ目は、今であり、時間であります。自己の存在が常に、何者かとかかわっていることからいえば、私という自分自身、そのもの、を問うことより、今の私を問い、場所の私を問い、存在を問うことになります。限定された自己そのものを問うことです。

 修業の道場は、この3つを大きなテーマとして、成り立っております。雲水は原則として、時計を持ちません。今を告げる時は、鳴り物という道具であり、自然の光と闇であります。多くの出版物による紹介で、修業道場の写真や内容を我々は知らされております。
 今回、少しではありますが、その内容にかかわって、雲水を突き動かし、静寂の道場に響く、時をテーマに、鳴り物を幾らかご紹介できればと、企画いたしました。それでは、これから臨済会有志一同によります、禅寺の一日をどうぞご覧下さい。

 僧堂のことを別名、「草の乱れずして生ずるを叢と曰い、木の乱れずして長ずるを林と曰う」という言葉より、修行僧を叢林に喩えます。
 広く鬱蒼とした道場に、修行僧が何十人いようと、閑散とした風景は、静寂をよく表現しています。静けさが、自然に近ければ近いほど、叢林の規則がよく保たれていると言えます。聞こえる音は、自然の風の音であり、その風による木々の揺らぎの音であり、時たま鳴く鳥達のささやく、鳴き声でしょう。しかし、注意深く耳を澄ませれば、静寂を破る音が、時たま木霊いたします。金属を打ち鳴らす音であり、板を鋭く叩く音であります。保たれた静寂を破り、乱す音は、また、かえってその静寂さを引き立たせることに、気がつくでしょう。
《最終のナレーション》
 いかがでしたでしょうか。厳格なる規矩・規則・法度を守るためには、時を告げる鳴り物が、重要なる意味をもちます。まして私語が禁じられている道場においては、すべてが鳴り物によって、雲水を整然と動かすことが、僧堂の、尚一層の体面を豊にすることが出来ることを、理解できましたでしょうか。
 禅寺の一日という題でしたが、本日皆様にお見せしたのは、僧堂の一日の朝の様子という、ごく一部です。私たちの毎日の生活の中で、見直さなければならないものがあるとすれば、少しでも、役に立てばと、敢えて上演いたしました。


 私達は、秘密のベールに覆われた中身が暴かれることに、とても好奇心が起こるものです。最近は聞きたくもない、見たくもない報道やドラマ、娯楽番組が多くありますが、暴く報道機関と、暴かれた内容に一喜一憂する読者の相関関係があります。真実をよりリアルに伝えることを暴くに、より興味を引き付けることを煽動・踊らすにすれば、メディアは、過激な事実を我々に押し付けて、我々に何を要求するのだろうかと、考えてしまうこともあります。

11月18日、午後4時、産経新聞の夕刊編集部の記者が、臨済会の行事担当者より紹介されて、この講演会の取材に来られました。この”禅寺の一日”は、各自が持場を、ただ忠実に遂行しただけのことですので、私達はプロの役者でもなく、司会でもなく、演出者でもないわけですから、そこに、意思はないわけです。
ただ僧堂の日常の現実を、切り取って再現しただけのことなのですが、上演となれば、何を訴え、聞かせたかったのか、記者としては、それが聞けなければ、記事になりえないのでしょう。帰り際、「向井さん、最後のナレーションの《私たちの毎日の生活の中で、見直さなければならないものがあるとすれば、少しでも、役に立てばと、敢えて上演いたしました。》の言葉に、何を伝えたかったのでしょうか」と聞かれました。私は困ったものの、咄嗟に答えてしまたのです。

「Hさん、ご覧になっていかがでしたか、20分弱の時間の中に、雲水の動きと連動して、鐘、太鼓、板、お経と多くの”鳴り物”がありましたが、やかましかったでしょうか?おそらく、皆さんそうだったと思うのですが、逆に静けさを感じたのではないでしょうか?」
考えてみると、修行僧は、禅堂の単の、畳一畳の上で、寝起きを含めて生活しています。そこには身の回りの限られた物のみを保持することが許されるだけの生活です。目的はただ一つ、仏道の成就であり、それは僧侶としての資質を養うことでもあり、智慧を育むともいえることです。その目的以外のものは、総てそぎ落とした、言ってみれば身一つの居ずまいとも言えます。
今、企業ではリストラという嵐が吹き荒れていますが、その究極の姿が、修道僧の姿ではないかと思うのです。そぎおとされた者は、真に輝いて美しいとも思います。

そして、道場は、一種の共産主義的な発想を持っていることが言えます。つまり托鉢は、その道場を支える人たちの、無垢の喜捨で成り立っています。集まった喜捨は、食事の原料や電気代等諸経費を差し引き、あまった資金は、それぞれの修行僧の、下着や限られた携行を許された品物に姿を換えます。このことは分かち合うということです。社会や家庭も含めて、今、最も羨望されている世界が、僧堂にはあるのです。無駄を極限まで、そぎおとした世界が。しかもその世界は、時代の波によって、リストラされた世界ではなく、人間の根本的な幸福と平安を求めるという理想に燃えての、沈黙の世界であり、しかも時代の嵐の中を何もなかったかのように、平然と時を刻んでいる世界でもあるのです。私達が、参考にするとすれば、そういう世界から出てきた音は、今の私達を洗礼する音でもあると思います。

記者のHさんは、こうも言いました。「向井さん、会社もそうですけれど、お寺も、今、環境が激変していると思いますが、どうなるのでしょうかね?」
普段、考えて、答えを出そうとしている問いではあるのですが、改まって、面と向かって言われると、答えようもない。答えられるとしたら、この変化する社会にとって、普遍に価値を持ち続けることが出来ていれば、また価値を発信していれば、何も恐れることはいらない。しかしながら普遍に価値を持ち続けるものはあるのだろうかと考えてみれば、答えとして、自らの中に、その価値を否定する意味を抱えてものこそ、真の価値を持つと言えるのだろう。

今、新聞を賑わす、国際社会の紛争と政治、経済の変化、科学の変化、価値観の変化、教育問題、老齢人口や少子化問題等あらゆる変化は、それらを支える個々の人々の、意識の変化という大きな川の流れのおこす、波頭のようなものであり、人々の変化は、個人の変化であり、それは、個性といい、我と言い、自己という、自我意識の変化であるような気がする。自己の確立、個性を競うといい、自分が自分らしくの潮流は、他人にも強要し、自我の領域を広げようと、行き着く果ては、企業の市場独占のように、弱者を切り捨て思想となって、蔓延するかのようです。排除された弱者の叫びは、社会の歪みとなって、喘いでいる。

その潮流に、個性を捨て、我を捨て、自己を無に帰す哲学・思想・宗教こそ、潮流の流れを変える力を持つのではないかと、そんな気がする。このことは、真の個性の確立、慈悲、慈愛の息吹であり、統括するのは、研ぎ澄まされた智慧ではないかと思うのです。


僧堂II

僧堂II

《その潮流に、個性を捨て、我を捨て、自己を無に帰す哲学・思想・宗教こそ、潮流の流れを変える力を持つのではないかと、そんな気がする。》

このことの意味を、とある人から質問されて、もう少し考えなければと思って、更に文章を付け足すことにしました。
 そして、その前に、まずは自己を問うことの意味を考えた時、疑問があります。その疑問とは、問う自己と問われる自己のどちらを指すのだろうかということなのです。
個性を持ち、我を持つ自己を考えてみた場合、すべては、対象化された自己であり、私の性格の弱さ、あるいは強さであり、私の良い面、悪い面であり、私の姿・形であり、私の行為あるいは、私のくせは、考えられる私であると思うのです。しかしながら本当に問題は、そのことを”考える私”がいるということなのです。つまり、その考えられる私は、"考える私"よりほとばしった私であり、"考える私"は、対象化できない自己であることに、気がつくのです。

自己を問うとは、あらゆる感情や行為の源となる、その自己のことです。真の個性とは、その個性となりようもないものであり、あえて真の個性と言いました。すべての人に平等に有り、うかがい知ることのできない、"うかがう自己"、それ自身を、慈悲、慈愛といい、それは行為でなく、人間の真の個性の当体を指し、そのことを知って、そこから芽吹く行為は、人を安らぐのです。そのことを次の文章で、表現いたしました。

《真の個性の確立、慈悲、慈愛の息吹であり、統括するのは、研ぎ澄まされた智慧ではないかと思うのです。》

"考える私"は、"問う私"でもあり、では、どんなものかを知ろうと探し当てたとき、探し当てた私は、対象的な私であり、さらに探す私があるわけであり、捕まえることのできない私は、それを智慧と呼べば、まさに智慧以外の何物でもないことを、うかがい知ることができるでしょう。そんな私の拠り所は、"考える私"という窺い知ることのできない私だとすれば、人間の意識のあり方は、厄介なことでもあり、面白いと思います。
一番頼りにならない私を、頼りにせざるを得ないことこそ、宿命なような気がいたします。そのことを知らないということは、迷いの元凶であり、感情の浮き沈みの中に人は一喜一憂し流されるのでしょう。しかしそれらがだめだと否定されれば、多くの人は生きる糧を失うことになります。今以上に迷いと感情の浮き沈みを受けます。”考える私”を知ってこそだと思います。

信念という言葉も、対象的に考えられるものならば、信念を貫くことに拠り所を持つ人は、かえって自分を不自由な所に押し込めることによって、また多様性や選択の範囲を狭めることによって、より良く生きることを、主張しているのだと思います。
老後の生き方が問題になっています。欲求や好奇心を大切にすることが、老化を防止することに役立つという。自発性や好奇心の衰えこそ、感情の老化の始まりという。それには普段から願望や欲求を抑えずに生きることが大切なことであり、楽しいことを自分にプレゼントするということと、いろいろな意味で装うことが大事であり、それはグルメ・麻雀・ブランドに凝る・エステサロン・ショッピング等、考えられるといいます。「年がいもなく」という言葉を退けて、老化を防ぐと言うより、前向きに人生を生きるということが必要なことであるという。楽しいことをしていると免疫機能も高まるというデーターもあるという。

心の赴くままに、しかも則(のり)を超えずとは、孔子の言葉ですが、”考える私”からしてみれば、今、ここで、食事をしている私、友達と話をしている私、散歩をしている私、景色に没入している私、潮騒を聞く私と捉えてみれば、それは対象的に考えられる私ではなく、考える私の連続した遍歴に、置き換えることができるような気がいたします。
夢窓国師の夢中問答集“46”に「自他身心の相を分ち、是非得失の念を浮かぶる物は、これ何物ぞ」とあり、問うものの主体を尋ねます。百丈禅師は、説法が終わり退出する僧達に、「大衆」と呼びかけ、振り返る僧達に、「これ何物ぞ」と問いかけたといいます。臨済は”一無位の真人”といい、倶底和尚は、指一本を”問う私”から示しました。みな”考える私”を指し示そうとの言葉であり行為に、違いありませんでしょう。
平成11年12月4日の読売新聞の朝刊に、第14回全国高等学校文芸コンクールの《詩》において、最優秀賞・読売新聞社賞に輝いた、奈良県立畝傍高等学校3年生、柳川杏美(あずみ)さんの『のっぺらぼうの話』掲載されていました。

掘り出しに行こうか あの日から生き埋めのままの 私の顔を 

重い石の下で まだ小さく呼吸している 一番最初の顔を 


その時が来たら 使い捨ての清潔なスペアは 全部生ゴミに出せばいい 

泥のこびりついた、汚い顔で 街中 笑って ねり歩こう


だけど 見つけられなかったら?

長い年月に朽ち果てた顔 スコップで掘り当てるには

少しやわらかすぎたよう


その時の私の顔と言ったら、 ―――のっぺらぼうだ。

そう、のっぺらぼうのお話 

あの時 山で出会った人、そば屋のご主人におくさんも

みんな探していたんだね。

もう戻らない 本当の顔


人は誰もが、本当のもの、真実を探す旅に出ることが、うかがえると思う詩です。
作者の柳川さんは、「本当の自分とは何だろう。理想像ばかり追い求めていると、本当の自分が見えなくなってしまう」と、この詩に表現したそうです。
審査員からは「合理化され、機能化され、記号化された社会への、高校生らしい批評精神が発揮されている」と、評されました。
探そうと、対象化された私の顔は、何処に行っても、今の自分には合わない。何枚剥がしても、あるいは取っても、得てして、探すのをあきらめたときこそ、探している自分と一つになれるような時があるものです。
剥ぎ取った仮面は、また脱ぎ捨てた仮面は、思うままに生きようとして、剥ぎ取り捨て去った仮面であり、探すのをあきらめたときこそ、思うようにならないことを自覚した素顔であり、なるようにしかならない世界の中を、自由に生きることができると理解できるのです。

ヴィトゲンシュタインは『反哲学的断章』で、『キリスト教では、神様が人間にむかって、いわばこう言っている。「悲劇を、つまり天国と地獄を、地上で演じるでないぞ。天国と地獄は、私の仕事なのだ」』と、書いています。私の好きな言葉です。
人は、行為による、運、不運によって、天国と地獄に行きます。仏教で言うなら、神は智慧そのものであり、仏であるともいえます。

真の天国と地獄は、窺い知ることをしてはならない、不可知の世界として、真実の世界として、私たち誰もが共有し、包まれていると言ってもよいでしょう。仏教で言うなら、神は智慧そのものであり、仏であるともいえます。その窺い知ることのできない私は、散歩する私であり、考える私であり、ジョギングする私であるのでしょう。さらに、窺い知ることのできない私は、虚空そのものとして、世界そのものとしてあるのではないかと思うのです。


僧堂III

僧堂III

 まるで中村先生の世界ですね。
田舎の武士の侍が馬から落ちて落馬して、女の婦人に笑われて、家に 帰って帰宅して、仏の前の仏前で、腹を切って切腹し、お墓の墓地に埋められた。
天国と地獄の間で、そのときそのときを生きている。そやから慎ましく,けなげに生きる姿こそ我が姿なり
 山本文渓師からのメールです。
古くからの禅宗の葬儀のメインは、引導といって漢文の内容で、死者に対して、導師の見識を示します。漢詩という古則にのっとり、それは古来の禅の宣揚の如く思えてしかたがありません。また、それで本当によいのだろうかと危惧を抱きました。形式が先行し、そこに相応しい雰囲気が感じられないと思うのです。何よりも大切なことは、死者を悼むという気持ちが、漢文では理解できなくて、表現できない時代に突入してしまったという気がするのです。

葬儀に参列した人たちの前で、「貴方の生は、きっと満足した人生だったのでしょう。しかし振り返って見たとき、私の見識では、別の言葉があります。喝!」では、家族が偲んで送り出そうとするときの言葉として、容認できないこともあるでしょう。漢文ですから、参列者にはよく理解できませんのが幸いとしているとしか思えません。痴呆だろうと、身障者だろうと、子供だろうと、事故だろうと、病気だろうと、老衰だろうと、人の最後の儀式には、死者を、悼んで、称えて、送り出してあげたいと思います。生前の軌跡がどんなに惨めで、無残で、傷を負っていようが、その思いを導師がさらりと担って、送り出したいと思います。葬式を通して人の最後にかかわる者にとって、死者と家族のそれぞれの思いを巡らし、家族が死を受け入れていく機会に立ち会えることを、私は、誇りに思います。もちろん生前に、折に触れ、ふれ合えることができれば、それに越したことはありません。

”一番頼りにならない私を、頼りにせざるを得ないことこそ、宿命なような気がいたします”は、人が意識を持ってしまったがゆえの、心の分離こそ、思考せざるを得ない、人の姿です。人のあらゆる行為に、意味を見出すことによって、人は自らの位置をはかります。またそのこと故に、人は罠にはまることも多いでしょう。天国と地獄の間を、そのときそのときを生きている姿こそ、今現実に時を刻んでいる、私たちの姿のです。天国と地獄は、私たちの意識です。慎ましくけなげに生きる姿は、人の意識の外から眺める表現です。

動物の生態を考えてみると、生まれて、食べ物をあさって、排泄して、寝て、危険を避けて、子孫を残して、死んでいくというのが摂理といってよいのでしょう。人間も同じような形態を取るのですが、大きく違うのは、そこに意識が有ることです。意識が有るとは、すべての行為に”生きる”という彩りを添えることができることであり、精彩を欠くことでもあると思います。動物それ自体には、天国や地獄が考えられません。人の意識は様々なものを創造し、その創造したものは、いつしか独立して歩き始めます。在るか無いかではなく、ある世界の私に私に包まれた時、無い世界が出現いたします。人の意識が無くなったと時、そこには在るか無いかの世界は無くなり、逆にすべては在る世界が現成するのだろうと思います。しかしそうは言っても人は意識を持ち、物事や世界を、”考える私”と分離して捕らえることを宿命としております。

『衆生病むが故にわれ又病む』、『当処即ち蓮華国』、『此の身即ち仏なり』の、即は同時と理解できることから、その分離前の世界であり、『衆生本来仏なり』は、本来仏であるにもかかわらず、分離している衆生となるということです。病むという行為や蓮華国や仏を、自己の外の世界と置き換えてみると、分離する前の世界、考える私の姿が見えてこないだろうか?

『「今、ここ」を生きる』人間は本来無一物、未練やこだわり、欲望を捨てれば、コップを空にすればいろんなものが入ってくるように、心身の器に「今」がたくたくと入ってくる。この「今を」大切にする考えです。一日だけ生ければ十分だ。明日も明後日もと思うから、この世が面倒になってくる。(中略)

ただ、生きていることはアカとつきあうことだし、泥ともつきあわないと花も咲かない。そうも考えております。

 
この言葉は、有名な作家の言葉です。
私たちは何気なく、捨てるという言葉を使いますが、物を捨てるという行為は、捨てない物が在るとの対の言葉です。いらなくなった物を捨てる場合はよいのですが。
未練やこだわり、欲望をだけを捨てることが本当にできるだろうか、自我にとってよいことを選りすぐって捨てることが、本当に良く生きるということなのだろうか、本当にそういうことなのだろうか。捨てるということは、何かを残すということを含んでのことでのことであり、取捨得失の世界において、何も捨てていないのではないだろうか。

未練といいこだわりといい欲望というも、その捨てようとしている対象は、実は自分にとってと考えることが、かえって選択しているように思えるのです。言葉の抹消へのこだわりかも知れませんが、コップを空にすることの喩えは、自己を捨てるとの喩えです。

”「今」がたくたくと入ってくる”も、入ってこなかったら、自分の行為に疑問をもってしまうでしょう。選りすぐったものを捨てても、コップは空になっていません。人間本来無一物とは、違う喩えだと気が付きます。


”そして、明日も明後日もと思うから、この世が面倒になる”も、「今、ここ」のとらえ方が、今ここが、自分にとって都合がよければ、それでよいという、自分勝手な教条主義に陥っての、自己満足の世界に陥ってしまいます。自己満足とは、自分にとって不満足なものを退けての、満足であり、いつまでたってもその葛藤は尽きることなく、かえって自分が不満足の世界にいることに気が付くでしょう。
禅の世界に足を突っ込んでいたことがある人の言葉だとは、思えません。
熱心な仏教徒であり、南朝を指示した北畠親房の神皇正統記に、『時は流れて、流れないものである。私のあるところいつもが現在である。時は現在に於いていつもが始めであり、終わりである。転地の始めは今日をもって始めとする理あり』文があり、この自覚こそが核心だと思います。

”ただ、生きていることはアカとつきあうことだし、泥ともつきあわないと花も咲かない。そうも考えております”も、以前、泥華と書いて、蓮の花の意味を持つと、花屋さんのおじいちゃんが亡くなった戒名に使ったことがありますが、泥の中でなければ花を咲かすことができないという意味で、禅より言えば、泥は世界であり、花は自己ですから、世界の中の自己であり、多即一の成り立ちは、世界のありようであり、泥の中でしか生きようのない私は、生き生きと泥の中で生きる私の姿が花であるという意味を持ちます。アカと付き合う自分は、潔癖な私ではなく、アカまみれの私の自覚でなければならないのでしょう。分離ということは、葛藤でもあるのですが、それに気づかないものです。何故ならば、人にとって、自分とは、いつも自分以外を、その世界から離して見ていて、自分もその世界に生きているとの気づきが無いからなのではないでしょうか。

般若心経の、色即是空、空即是色、はこのことを気づいたことの、言葉です。
道元禅師の『峰の色谷のひびきもみなながら我が釈迦牟尼の声と姿と』、良寛禅師の『おもしろや散るもみじ葉も咲く花もおのずからなる法のみすがた』も、このことを言うのでしょう。


恥じ

恥じ

 電話のベルが鳴る。いつもここから葬儀は始まります。
 たまに、「父や母が長く寝込んでいて、危篤の状態が続いているので、和尚さん、近いうちのことだと思うのですが、葬儀に来てくれますよね、予約といっては変なのですが、お願いしますね!」と、電話があることがある。
 そうして、本当に近いうちに知らせがあることもあるが、何年経っても、知らせが無いこともある。考えてみると、お寺に墓地を取得したときより、家族の安住の地を決めたときより、生まれたての子も、年寄も、すべて生前予約したということなのです。生まれるということは、死ぬことを含んで、生まれることであり、その為に、菩提寺があり、菩提寺の和尚は、生まれてこの生きている間、その子の安住の地が変わるまで、共に生きることが、双方に必要なことであると思うのです。共に生きるとは、連帯しているという意味です。

 最近のことですが、勇ましい、大阪の良識を見ました。日本もまんざら捨てたものではないと、思いました。それは、テレビでの年寄りのインタビューの事です。大阪府知事の民事裁判敗訴の報道に、「大阪の恥じです」と言う、マイクを向けた答えに、私は、最近耳にしなくなった言葉が、底流には残っているんだと思ったのです。インタビューの答えの若い人たちの答えは違いましたが、お年寄りには「恥じ」が残っているのを、耳に致しました。
 ここで、”恥じ”について書きたいと思いますが、”恥”の文化的、歴史的素養が私にはありませんので、私の勝手な解釈です。

 ”恥”というからには、”恥”を受け入れる共通な集団・社会があることが、前提になります。そして、その集団・社会に大阪にとって“恥”とは、共通のわきまえ論が、少なくとも、マイクに向かって言うお年寄りにはあるということが理解できるからです。つまりは、お年寄りには、集団・社会の常識が残っていると言えることは、確かです。

大阪府知事の問題が、集団・社会の恥じであるという事は、そのお年寄りにとっても、いまわしい恥なのですから。では何が恥なのでしょうか。裁判の結果が恥なのでしょうか。裁判は知事側の不戦の戦略が、結局裁判敗訴になり、その結果、世論を喚起して、知事の完全敗訴に終わったかのようです。戦わなかったのが恥か。結果として負けてしまったのが恥か。セクハラそのものが恥か。大阪を代表する知事そのもが恥か。その知事を選んでしまった大阪府民が恥か。アメリカのクリントン大統領にも、このような事件がありましたが、少なくとも合衆国国民のお年よりが、恥といっているのは聞いた事がありません。

 恥は、”弾(はじ)き出す”が語源とは思いませんが、大阪の集団・社会の長から、弾き出された事は確かな事です。ここで勘違いしては困る事は、社会・集団から、弾き出すではありません。その職務から弾き出された事なのです。では、その職務とセクハラはどう関わってくるのでしょうか。本来職務とセクハラは何のかかわりもないことなのですが、この事件ではかかわりを持って、扱われたようです。セクハラをするような府知事は、大雑把に言って、相応(ふさわ)しくないということでしょう。このことは、府知事の職務能力とは別な次元の問題です。つまりは、長の椅子に座る人格・資格・……が求められ、問われたということになります。当然、”恥”というお年寄りには、集団・社会にとって、自分を規制する”恥”が存在することになるのです。

 古来、恥と分は、切っても切れない間柄でしたが、最近は口にする人はいないようです。差別を助長するという見方や、折角の伸びる芽や楽しく過ごすことの芽を摘んでしまうとか、とにかくあまり良い印象の言葉ではないようだからです。
 ”分”とは、わきまえであるとか、さだめ、けじめ、わけ隔てる、つとめ、きまり、境遇と多種の意味がありますが、語源は一つのものあるいは、数あるものを分けるからきていることは間違いないでしょう。分をわきまえないから、恥じる。定めに従わないから、恥じる。けじめをつけないから、恥じる。つとめ、きまりに背くから恥じる。そして恥じる本人は、自分です。大阪の府知事の問題を、自分の問題として、恥じる行為は、府知事が大阪府民を代表する全体の一であり、恥じるお年寄りは、全体を構成する分ける一であるからです。これって、仏教の理論であり、しかも仏教を代表する、華厳の理論からくる事々無碍法界が、恥じると言わせたともいえます。少なくとも、お年寄りは全体を構成する、自分は一人だと、叫んでいるかのようでした。そして、そのお年寄自身も、所属する社会・集団を構成する一人として、分をわきまえて生きてきたと思うのです。さらに分をわきまえるとは、自分もその社会・集団に恥じないということであり、気が付こうが付くまいが、自分の行為はその社会・集団を逆に規制していることも事実です。
 ”恥じる”という言葉は、最近目にしなくなりましたが、目に付かないといって、社会が連帯していないという事ではないのです。

 そして、個性を大事にするとは、分を育てるという意味を持ちます。目立つという事も自己を主張する事も、分を育てるという意味を持つのですが、一人一人の分は、連帯している事は間違いのない事実です。今日の問題は、一人一人は、分を持っていることは明らかな事なのですが、その分を自覚しないことが大きな問題だと思います。地球レベル、国レベル、地域レベル、家族レベルの総てにおいて、人は連帯して生きているのです。恥じに代わる何かが必要な時代です。分を、ただ主義主張によって自覚できない障害が発生しているのです。ここに知らしむる、仏教の責任があると思います。

僧堂IV

僧堂IV

 世界の潮流は大きく変化している。この事に異議を唱える人は誰もいないであろう。あらゆる分野で変化している。
東京の下町深川でさえ、じわじわとその訪れが迫ってきていることを、感じます。

危機感を自覚して、小説が『知的な観察や見識によって不安を乗り越えようとする方向と、不安定な揺らぎにむしろ進んで共感しようとする方向(文芸評論家、清水良典氏)』とに進むことに大別する事ができるなら、ちっぽけな寺の住職である私にも、時代を探り、繋ぎ、次の時代に向かって、自分の言葉で、情報を発信しなければならないことがありそうです。この二つの流れの出所は、一緒のような気がいたします。つまりは位置、場所に変化が起きていることを察知した人は、賢明に知的に見識を掘り下げるか、流れの中に自己を投げ入れてともに揺らぐ方向に進むということだろう。
 小説が『この数年で、急激に規範性と連続性を失いつつある』という状況は、総ての日本の文化的資産(遺産)に共通のことと思われるのです。規範性と連続性こそ、私たちが、胡座をかいていたふかふかの座布団であり、ペシャンコになってしまえば、座布団も必要なくなり、ましてや椅子という文化に代わっていたことさえ気が付かないでは、椅子の文化創造を早急に、衣替えさせなければ、時代に生きることは出来ないのではないか。
規範性と連続性の崩壊は、次の規範性と連続性の始まりとすれば、一つの時代が終わったような、次の時代に猛スピードで走り抜けるかのようです。一つの時代とは、いつもこういう意味を持っていることなのでしょうが。

『もはや いかなる権威にも 倚りかかりたくはない ながく生きて 心底学んだのはそれぐらい 』と、茨城のり子氏は詩集”倚りかからず”の中で言う。権威が規範性と連続性を含むものなら、権威と既成の価値観が崩壊したことになるということか。しかしふと気が付いてみると、このことは禅そのものであることに愕然とする。権威と既成の価値観の中にいる、私の目指すものは、禅の真実に含まれている。『もはや いかなる権威にも 倚りかかりたくはない ながく生きて 心底学んだのはそれぐらい 』この詩の意味するところは、まさしく禅そのものではないかと気づきます。

最近目にする事の多い事柄は、社会や家族の病理という事です、滑らかな社会関係や家族関係が歪んでいるということなのでしょう。ちょっとした個人の記憶に触発する事柄によって、個人の奥深くのトラウマが触発され、突然激しく持ち上がる多重人格は、他との共存を強いる社会の、恐怖を物語ります。”切れ”るということも、触発された内面奥深くの記憶のなせることなのでしょう。切れるに巻き込まれた周辺の恐怖もさることながら、きっと本人にとっても、自覚されれば、後悔と慙愧に結びつきます。予防と切れるの本人の受け入れる環境は、ないように思えます。

また、最近のことですが、自動車に跳ねられ、身体の打撲骨折に脳挫傷で三日間意識不明におちいった人の、脳のリハビリの記憶を探す宛てのない日常は、内面奥深くの記憶のいかに大切なことをうかがわせる事件でした。
「私は誰!」と「今までの私が無い!」と、何をしっかりしなければわからない自分こそ、今いる自分の位置、場所がわからず、不安そのものの中で、もがく姿でもあります。今の自分の愚かさを叱咤し、懸命に自分を知悉している他人を探す旅に、人のもろさのやるせない情を抱きます。
仏教とは、一切の執着を否定することであり、その究極が良寛の『災難に遭うたら、災難に会うがよろしい』の言葉なのですが、このことを自覚するには、体験と洞察、それに時期が必要なようであり、気づく作業がともないます。やはり物質的なものに満たされた人からは、納得がいかないことであり、その満たされたものを捨てる覚悟を持つ人において出る言葉は、真に輝いた言葉なのです。

人は、誰でも、自分の存在を認めてくれることを求めています。そうでなくては、各種の地位はありえません。ピアニスト、社長さん、妻、夫、母親、父親とあらゆる呼び名を持つ地位とは、そういうものではないでしょうか。またそのことは、人は誰でも自分と違う他者を差別することを、自己のアイデンティティーの確立とだけ思いこむ、危ういものを含んでいることがいえると思います。
幼子の命を綿密に準備をして、何の躊躇うことのないまま、蟻塚を踏みにじる行為に似て、葬り去る母親の心は、ためらうと言う自分の位置を探る行為なしに、自己の確立だけを優先させた、それこそ今の社会に広がる病理の姿です。

自己の独立性を確立できない場に臨んで、人は人間嫌いに陥ったり、自分の存在と比べて慎ましく生きる路傍の草に愛おしさを重ねたり、弱者を排除するという相反する行動に出たりもします。これらは相対的な自分の社会での羅針盤の不具合によることが多いと思うのですが、それでも、そこに自分の位置を確認している作業、それこそ幼稚な心の働きなような気がいたします。自己の独立性の確認といい、アイデンティティーと言い、これこそ病理の源のような気が致します。
『災難に遭うたら、災難に会うがよろしい』は、自己の独立性の確認という作業を、木端無尽に粉砕することにおいて、普遍の独立性に気づくことだと思うのです。
下記による、老後の生き方を、もう一度再考したいと思います。

 『欲求や好奇心を大切にすることが、老化を防止することに役立つという。自発性や好奇心の衰えこそ、感情の老化の始まりという。それには普段から願望や欲求を抑えずに生きることが大切なことであり、楽しいことを自分にプレゼントするということと、いろいろな意味で装うことが大事であり、それはグルメ・麻雀・ブランドに凝る・エステサロン・ショッピング等、考えられるといいます。「年がいもなく」という言葉を退けて、老化を防ぐと言うより、前向きに人生を生きるということが必要なことであるという』

 人は成長し、いつしかその成長は老いと重なりと、以前、私は書きましたが、老化を防止することは、出来ない事実です。これは理屈になるかもしれませんが、老いと言う場合、私たちは若かった頃を、あるいは若い人の姿、言行を見て、自分の亡くしたものを回顧しつつ、今の自分と較べて享受できずに、不足するものを嘆き、あきらめます。
ほんの少しの老化の防止のためと考えて、普段から願望や欲求を抑えずに生きることが大切とは、常に満たされない自己の我を肥大増殖させるということであり、聞く耳を持たないことであり、いずれは破綻する事を含んでいると言えないでしょうか?

私の母は、この12月14日に、長期療養型の病院に入院して1年になります。姉や親戚が八王子に住んでいるとはいえ、山奥に近いところの病院に入院しているのです。深川から通えば、電車を使って3時間はかかりますし、車も中央高速は年がら年中渋滞です。せめて週に二度は母の顔を見に行きたいのですが、数えると一度しか行けません。
近い病院で療養してもらいたいのですが、今の看護より優れた看護は、おそらく東京都内ではないのではないかと絶対の確信をもっての判断のつもりです。私は週に一度、母の下に足を運びます。誰でも親の入院に、あたりまえと言えばあたりまえの事をしているだけなのですが、この頃は、「よく行きますね!」、「偉いわね!」と、私を見ている人が声をかけてくれます。ふと、私が気が付いたことは、母は一級の障害者で、半身不随になり、今や声も出ない身になりながらも、私自身を育ててくれているということです。

妻は留守番をしてくれることで、私を支えてくれ、近所の人は「ご苦労様」と、私を癒してくれます。母を寝たきりにさせないと選んだ病院は、それに答えて、北欧の車椅子に母を座らせ、一日一日と生を全うすることに献身な看護をしてくれます。ただ今を生きている姿は、全身で生きている姿でもあり、その姿を見るだけで、私にとっての過去の母の記憶は、すべて自分のためにあったのかと思うのです。そこには、願望や欲求という言葉はありません。

どんな親であり、振り返って気づく時、親とはあり難いものです。たとえ非道な親であっても、子が気づいたとき、非道は愛情へと、反転いたします。考えてみると、子に親があり、親には更に親があり、つまりは、総てが、今の私に注がれた愛情であると、気が付いたとき、そこには、感謝と慈しみが溢れるのではないかと思います。老いそのものを受け止める姿勢は、やがて、子どもたちへの指針ともなります。その人にとって年相応とは、実に飾らない言葉だと思います。
総ての人が、与えられた自分の命を、今、ここにおいて、全うしているのだという自覚が、欲求や好奇心を大切にするするという自我の肥大増殖を転換して、時を越えて、不変の命を手中にすることであると確信いたします。


返事

返事(平成12年10月28日のメールに対して)

 突然のメール失礼します。私は札幌学院大学4回生のMといいます。龍が動いて可愛らしく、内容も豊富で楽しく拝見させていただきました。「死・葬儀そしてその後・・・」に桜の写真が掲載されていたのを見て、正直、指が止まりました。高校時代写真部で写真が好きなのですが、このほんの小さな写真は心を切なくします。別れの象徴のような気がして、北海道の桜の花の咲ける時間はあまりに短いですから。
 今、私はターミナル・ケア、終末医療について研究をし卒業論文を書こうとしています。現在は緩和ケア病棟においてキリスト教圏から輸入された考え方の、ホスピスが主流です。そこで、終末期の患者に対して日本人にあった仏教的なケアを施そう、というビハーラ運動というものを知りました。現在はキリスト教主体の終末医療が主流で、厚生省認可の仏教主体の緩和ケア病棟は一つしかありません。私も、キリスト教的なホスピスよりも日本人には仏教的接触が有効なのでは思います。
勉強不足で申し訳ありませんが、臨済宗はビハーラ運動のような活動はあるのでしょうか。そしてビハーラ運動は一宗一派に片寄らない仏教超宗派の活動であることが基本姿勢となっています。臨済宗としてはこのことに対してどう考え、対応なさっているのでしょうか。

 ≪そう10年程前、私達仏教寺院の宗派を超えて、仏教情報センターという機関を作りました。テレフォン相談を主として活動いたしておりましたが、同時期に立ち上げた会に、癌患者家族語らいの集いがありました。この会は、後に情報センターから分裂し、片や、癌患者家族語らいの集い(築地本願寺東京ビハーラと共同の会)と仏教ホスピスの会「いのちを見つめる集い」(仏教情報センター)に分かれたものの、東京で、現在も活動している機関に違いありません。病院付属と言うことでもなく、設立当初の集いでは、確かに病院に出かけることはありました。
しかし、比重は、会場に患者さんや家族が集まり、識者の話を聞き、患者、家族、医師、看護婦、僧侶のグループミーテイングが中心でした。今も、両方の会員ですので、会報により知る所では、同じ形態です。

臨済宗としてはのご質問に、14派あり、それぞれに本山がありますので、残念ですが、私が答える立場ではありません。しかし、組織には属しておりますが、臨済宗の基本はそれぞれ一人一人の僧侶の資質です。資質と言いましても、レベルが高い低いのことではありません。このことの意味が、大きな運動に発展しないと言うことにも繋がっていると思うのですが、臨済宗として、ご指摘のような運動はないと思います。人々が求めていることに、答えを出そうとすることが出来ないことは、時代の流れに、流れることができないことで、もどかしさを感じますが、残念なことです。
さまざまな問題を抱えながらも、その問題に真正面から取り込むことのできないジレンマに、臨済宗の教団は、どこも悩んでいることと思います。
それ以上の答えは、禅文化研究所、各本山の教化研究所にお尋ねください。
新潟に、ビハーラの運動があり、木曽にも同じ動きがあることを、申し付け加えます。≫

そして活動の場が病棟中ということもあり、布教活動がおおっぴらにできない等の制限があるなかで臨済宗としてはそのような場合、どのような教義理念をもって患者に接していくのか、具体的教義理念はあるのでしょうか。

≪ 屁理屈に聞こえるかもしれませんが、臨済宗に布教ってあるのだろうかと、いつも戸惑って考えます。法を伝えることが、布教なら、もともと伝わってるものに、備わっているものに、目を覚ますこと、気付くことは、布教とは言わないでしょう。教義というと、大本の教えがあって、その教えを研鑚し追求すると言うことになると思うのですが、禅は、そのような教え的なものを削ぎ落とすことを、修行の第一といたしますので、どうも理念とか理想とかに合いません。”一人の人間として、あるがままに接すること”、これこそ具体的そのものに成り切ることと、今は申し上げます。≫

 また、ひろさちや氏は、成仏には生前からの修行が必要であり、これまでろくに信仰せず、今、まさに死にかけようとしている人には無駄である、という批判をしています。このことに臨済宗ならいかに応えるのか知りたく、メールをだしました。お手数ですが私のこの疑問にお応え願いましたら幸いです。教義についてほとんど無知なもので、無礼がありましたらどうぞお許しください。

≪ こうして書くことが、無礼なんて思わないことの、私の証拠です。
今、まさに死にかけていることこそ、生きている証です。生きていることは尊さです。その尊さは、かけがえのない命の表現です。そこに、喜ぶがあり、苦しさがあり、退屈があり、あがきがあり、満ち足りること、足りないことがあります。そして、それらは選択的に択一として選ぶのではないのです。
私も、至らないものですが、これでご容赦ください。不一≫

 質問に答えていただいたうえ、サイトで紹介までしていただき、本当にありがとうございます。仏教の各宗派によって何が違うかと本を色々と読みましたが、もう、それが多すぎたり根本では重複していたりと、心理学しか知らない大学生には早すぎたなと反省しています。あれから見逃していた全てのコンテンツを時間をかけて拝見させていただきました。死ほど生を考えさせてくれるものはないですね。まだ人生の浅い私はその表層しか理解できていないと思いますが。もしくは理解しているような気になり、そこにとどまって自分を満足させているだけなのか。
 素人ですが、仏教はこの時代だからこそ身を乗りべきなのではと思います。私もそうですが生きるうえでの指標や目的が即物的になり、それが当然のように世間では受け止められています。なにをなすべきなのか、勉強不足ですが、私も知識を増やし、卒論を書こうと思います。本当にありがとうございました。(平成12年11月3日返信M氏)

父殺し・母殺し・友だち殺し・子殺し(平成20年1月1日)

父殺し・母殺し・友だち殺し・子殺し(平成20年1月1日)

 昨年一年間の事件をみて、子殺し、親殺し、友だち殺し、自分殺しのいかにたくさんあったことか。もっとも人が生きるということ事態に、海を殺し、山や川を殺し、国を滅ぼし、地域や家族を殺していることが極端に言えば含まれているのかも知れません。人はそれに気づいているにも拘わらず、時間に流されて、振り返ったとき何もできないということに気づきます。そんな日常に生きているからこそ、願い・希望・祈りが誕生するのでしょうか。人が追い求めた理想の世界とは、殺し終わったあとに出現する絶え間ない世界だったとしたらゾッと致します。
 その絶え間ない世界は、苦となって果てしなく続くことです。これを業(ごう)と呼びます。
 人間として生まれた限りは、社会に対して責任が発生いたします。その責任の放棄の果てが業となると考えてみました。もっとも普通の人の日常は、そんなこと考えもしないことです。しかし、ほとんどの事件が、その日常普通の人が起こすように思えます。
 そんな責任有る存在としての自己に、真っ向う立ち向かった臨済宗の祖師に、臨済義玄(りんざいぎげん)がいます。彼は、五無間(ごむげん)の業を作ってこそ、悟ることができると物騒なことを書きました。

『大徳、五無間(ごむげん)の業を作って、方(はじ)めて解脱(げだつ)を得(う)。問う、如何なるか是れ五無間の業。
 師云く、父を殺し母を害し、仏身血(けつ)を出だし、和合僧(わごうそう)を破し、経像を焚焼(ふんしょう)する等、これは是れ、五無間の業なり。
 云く、如何なるか是れ父。師云く、無明(むみょう)是れ父。汝が一念心、起滅(きめつ)の処(ところ)を求むるに得ず。響(ひび)きの空に応ずるが如く、随処(ずいしょ)に無事なるを、名づけて父を殺すと為す。
 云く、如何なるか是れ母。師云く、貪愛(とんあい)を母と為す。汝が一念心、欲界の中に入って、其の貪愛を求むるに、唯だ諸法の空相なるを見て、処々無著(むじゃく)なるを、名づけて母を害すと為す。
 云く、如何なるか是れ仏身血を出だす。師云く、汝清浄法界の中に向(おいて、一念心の解(げ)を生ずること無く、便ち処々暗黒なる。是れ仏身血を出だす。
 云く、如何なるか是れ和合僧を破す。師云く、汝が一念心、正に煩悩結使(ぼんのうけっし)の、空の所依(しょえ)無きが如くなるに達する、是れ和合僧を破す。
 云く、如何なるか是れ経像を焚焼す。師云く、因縁空、心空、法空を見て、一念決定(けつじょう)断じて、逈然(けいねん)として無事なる、便ち是れ経像を焚焼す。
 大徳、若し是(かく)の如く達得(たっとく)せば、他(か)の凡聖の名に礙(さ)えらるることを免(まぬが)れん。』

 この五無間のいわれは、仏説広博厳浄不退転輪経から創作し意味づけしたものですが、お経には、「五無間の満足成就は、害母・害父・壊僧・殺羅漢・出仏身血」と、記されています。
 先ずは、人にとってもっとも身近な存在である父や母を、こういう形で表現するということに、古人の姿や思いが見えないでしょうか。きっと身近なゆえに、父や母を殺すという表現が、大罪を犯すことに敢えて踏み込んで表現したのではないでしょうか。禅宗の殺しとは、このようでなければならないと臨済は説くのです。殺すなら自己の妄執に限る、殺した跡の自由さに気づけと……。またそこから父とは母とはの思いも伝わります。
 君たちのそのつどの思いは、どこから起こってどこに消えて行くということを考えてみたことがあるだろうか。まるで、連なる人の思いは、空に響くこだまのようなものだと思わないか。その限りなくこだまする連鎖する思いの起こりよう、無くなりよう、連なるさまを理解したなら、たとえ、そのつどの一念心が起こったとしても、無事平穏な状態にいられる自分になることを思わないか。父とは無事平穏な状態だ、それを父殺しというのだ。
 父の居場所とは、子供心に見たあこがれに近いものかも知れません。父がいて家族が守られているからでもあります。守られていれば、そこに父は居ない、私も居ないのかも知れません。

 次の母殺しとは、そのつどの思いが繋がって感覚的欲望の中に向かってゆくとき、欲望そのものの実体は、変化するものの仮の姿であると理解したなら、そのつどの思いを意識することが、母殺しといいいます。
 つまり、そのつどの思いに引きずられるなと言うことで、「美しい、可愛い、悲しい、寂しい、楽しい、欲しい」と、その出所を追い求めるなと、そのつどの思いの連鎖を断てと言うことでもあるのでしょう。
 子どもが母に抱かれるように、子どもを尽きない自己の思いと譬えてみると、その一つ一つの思いを母の胸にすくい取るとも考えられます。どんな人にとっても、母とはすべてを受け入れて包み、あやしてくれる存在なのだなと見えてきます。母殺しとは時間の分断とも考えることが出来ますが、この時間の分断は、途切れさすのではなく、安らかな時間に導くと考えられます。

 次の仏身から血を出すです。仏身とは、人間の本来性ですが、その本来性に血を出さすなと読み替えると、仏という何ものにもとらわれないない自身の本来性という思いをも描くなとなります。描くと、清浄法界という本来性が血を出すからです。これは父と母を殺したあと、人が求める習性は、次には、聖なるものとなりがちですが、臨済は、その聖なるものまで拒否いたします。ここら辺が、仏教の中道を行くという発想として、良く現れているところです。
 それではどうしたら良いかというと、雪峰義存(せっぽうぎそん)という禅師に参じ、厳格な持律で頭陀行を重んじた玄沙師備(げんしゃしび)禅師が答えます。
 ある日のこと、修行僧が、「何になったら生死に拘(とら)われなくなるか」と問いました。師備は、「漆桶(真っ黒けの漆桶)になりきれ」と答えました。これを仏身から血を出させるといいます。
 先の長い名前の経には、『方便を滅せずして如来の想を滅するのが出仏身血』と書かれています。如来の想とは、人が人格を磨こうとか、人間の品格とか、聖人君子に近づこうとか考えることは、却って垢にまみれることだと、人の一念の浮かぶ思いを、或いは価値とか意味するものを否定するのではなく、そのままに囚われることなく、そのままに過ごせとの意味です。
 禅宗の厳しさは、その意味あるものだ、価値あるものだと、その意味ある価値あるものを否定するのではなく、いかに意味があろうと、価値があろうと、その意味の中に価値の中に没入していくと、囚われになり自由を失うと主張するところです。漆桶とは混沌のまま、その行為に成りきることで、日々問われているものに行為として成りきる、それが、答えの同時存在と解釈します。

 最後に和合僧を壊すとは、そのつどの思いが、どこにいても、煩悩や執着は虚空のように足場がないことに気づくことです。和という字は、なごむ・やわらぐ意味もありますが、この場合の和は、隠すのではないかと思います。様々な性格、それこそ貪瞋痴を隠す、抑えることとしら、合うという字が、口に蓋(ふた)をする原義を考えたらピッタリのような気がいたします。
すると、お互いが干渉せずに水の流れるが如く、とどまることのない関係という意味になるでしょうか。僧はもともと複数を差します。考えてみれば、臨済は、煩悩や執着、貪瞋痴等々を僧と見立てたのでしょうか。こうした見識はとても柔軟性が豊かな証拠です。私など、臨済という人物の偉大さ、峻厳さを描きます。それは、あの臨済の一喝のせいなのですが、思いもよらない人間性発見でもあります。

 最後に、経像を焼いてしまうとは、因縁も本来空であり、心も法も、もともと空なのだと、人の本来性そのままに固く決するならば、事ある世界に、事無しでいることができるといえます。逈然の逈(けい)の字は、はるか・遠い・かなた・抜け出る意味がありますが、やはり超然としてという訳が好きです。これが経像を焼き捨てるということです。
 こうして五無間の業を殺すことに徹することができたなら、凡とは聖という名前に引っかかることはないであろうと、臨済は言います。
 釈尊の『諸行無常、諸法無我』に対して、我々は、だからこそ、超然(ちょうぜん)とすることを学ぶことが大事なのだと思います。
 ついでに臨済が話したあと、常にいう言葉は、「我が語に、とらわれるな!」です。