OSYOU
OSYOU
本当のこと、私は、あなた、今、全体、部分、疎外、差別、平等、対立、一、多、相即、同時、分離、同一、全体、絶対、過去、現在、未来、一瞬、今を生きる、老い、死、誕生、永遠、もっともっとほとばしるままに、記すことができたらと思いますが、仏教の表現してきたことは、世界を表現していることなのです。世界が複雑になればなるほど、世界がネットワークで結ばれれば結びほど、その表現は増します。
総ては、土と水と炎と風の中を……
この手のひらに―禅僧の死―(平成10年11月18日)
この手のひらに―禅僧の死―(平成10年11月18日)
昭和46年3月初め、早朝、京都南禅寺山門の上より、左方向の眼下に『南禅寺専門道場』の甍を眺めている、私がいました。これから修行にしばらく入門の寺を下見の一人旅です。白く霜で浮き立つ砂利の参道を3人ないし4人の雲水達が、朝の托鉢へと整然と足を揃えて出立する姿は、厳格な規律を感じさせます。早朝の鋭利な刃物で切られるような景色と、門を閉ざした寺のたたずまいが、この門前に1ヶ月後に雲水の形をして立つかと思うと、不安と緊張を誘いました。こ1時間は眺めていたでしょうか、鐘楼の先の潜りの門が開き、赤茶色の着流しに頭を剃り上げた年配の男が、腕を後ろに出て法堂の方角に、ゆっくりと歩いて行く姿を見ました。南虎室老師です。その姿をずっと追う私は、どんな人物だろうと思いを巡らしていましたが、その姿だけが妙に思い出に残ります。
入門しての室内で、老師の大きく見えたこと、また動じざること岩のような存在でした。
最近ふと思うことがあって考えてみたことは、面と向かい合って私が老師の正面を見据えると、老師はたびたび、薮睨みのように、目玉を右前方に左に前方に向けることでした。そういえば、写真にも、そんなのがあった。どうして、正面から捕らえてくれなかったのか。不甲斐ない修行僧だった頃の、私の疑問です。
昭和58年11月18日、午後1時15分、京都は南禅寺僧堂の隠寮、一階は東南の廊下で、南禅寺派管長で南禅寺専門道場の師家である、勝平宗徹老師(室名・南虎室)が首をつって死んでいるのが発見された。61歳でした。
修行の道場を出て、五年ぐらいたった頃だ。その頃の深川の陽岳寺は、困窮してはいなかったが、住職である父が元気で、僧侶二人はいらず、私はサラリーマンとなって、銀座の会社に勤めておりました。経理・財務・企画の責任者として、若かったのですが仕事は忙しく、いつも帰宅は夜遅かった。会社の緊迫とした中で過ごすうちに、いつしか人相も変わっていたのでしょうか、東京は高輪のホテルで修行仲間の会が催されたときがありました。老師から「人相が変わったな」と、久しぶりの対面で言われた言葉が妙に心に残っております。
髪を伸ばして、朝から深夜までの仕事は、自分を振り返る余裕もなく、僧堂の生活を何だったのかと問う言葉もなかったのだと反省いたしましたが、勤めている限りは、今日は昨日の続きで、明日に仕事を残す毎日でした。それでも、老師の言葉がどこか頭の隅に引っかかっていたことは事実でした。
その会があってからも、相変わらず私は勤め人で、以前よりも忙しく、常に気をはっていなければならない毎日を続けておりました。
サラリーマン時代を通して、ずっと思っていた事は、私の仕事の取り組み方は、僧堂生活を絶えぬいたという自信が、作り上げたものであるということでした。気力の充実の仕方と自分の行為と責任の取り方。知らない知識や分野への挑戦の意欲。力の抜き方。一人で違った組織に合流する溶け込み方。資金の取立てによる裁判と強制執行。
会社の設立と滅失作業に、従業員の解雇後の転職斡旋問題。親会社への決算説明会や大勢の新規職員に対する訓練。東洋一の大規模ショッピングセンターの開設準備作業と軌道に乗せるまでの管理運営業務。サラリーマンの最後は、そのショッピングセンターのデパート、テナント、資産管理会社の固定資産と償却資産の金額確定分離計算とテナント、デパート、税務署との折衝による資産税の確定の仕事でした。ほとんど総て一人で問題をくぐりぬけてこられたのも、総ては僧堂生活に端を発しているのではないかと思っております。断っておきますが、僧堂は何も教えてくれないことに徹します。総ては、自分の目で見て、考えてを基本としながら、昔からの通りとなって、淡々と日々が過ぎ去って行きます。ただし、人を助けるゆとりはありません。自分の限界の 所で、生きて行く以外に、私の道はありませんでした。
そんなサラリーマン時代を終えて、私は寺の次代を担うため再び頭を剃ることになりました。昭和57年2月頃のことでした。修行を辞めてから10年という時間は、すっかり僧侶としての作法や振舞いの勘を狂わせておりましたが、寺での日常が少しずつ取り戻しながら禅録や思想書を読みふけるようになったのも、その頃からです。
昭和58年11月18日、夜のテレビニュースで、京都南禅寺管長勝平宗徹老師の自殺の一報が流れまし。死んだということより、自殺で、しかも首吊りという、絶対と言って良いほど似合わない死に方は、ニュース画面の普段では絶対に映像にならない、僧堂の雲水があわただしく動く映像に、遠い別世界のことのように見えました。
私は勤めていた関係で、その頃、僧堂との縁は全く希薄になっていて、修行仲間と僧堂の往来の話を聞くにつけ、懐かしく復縁を思っていたところでした。
やがて、日が立つと新聞や週刊誌、業界紙が記事を、書きはじめました。私は、集め読みました。
「何が、あったのだろうか」、「どうして」と、記事を探しました。
僧堂を出て、音信を絶ってより10年もたつと、道場にいる雲水もがらりとかわって、同期の雲水二人に連絡しても、「どうも、うつ病だったらしいよ」との収穫話だけです。
中外日報新聞の話です。
昭和58年春、中興本光国師350年の遠諱が大々的に行われた。5月頃「目が赤いですよ」と言われ血圧を測ったところ、上が200にも達したという。その時は医師の薬で一応、血圧も平常に服したが、7月頃から、やはり普通ではなくなった。9月10日、松江の寺に帰り,9月16日松江日赤で急性肝炎と診断され直ちに入院した。10月3日、MとKが見舞いに行った。入院中の管長は顔色が白くなり、ふっくらと健康そうに見えたという。目方も五キロほど増えて「これなら大丈夫」とMを安心させた。その後、「10月20日に退院し、28日に上山する」という連絡が本山に入った。ところが10月20日すぎ僧堂補佐員Tが見舞いに行き「あまり急いでは良くない、もっと養生して欲しい」と忠告して28日の上山は取り消された。僧堂の開講式を遅らせて、11月13日、管長は帰山した。「松江での管長さんと、帰られてからの管長さんの顔色があまりにも違っていたので驚いた。ふっくらと色白であった顔が、大分やつれて、色も黒っぽく見えた」とKは言う。15日に開講式を行ったが、いつもなら30分ぐらいのところを、1時間かけて講じた。
週間文春の記事です。
勝平師は午前中、道場1階で講義をし、そのあと11時から昼食をとったあと、2階の居室で一人で牛乳を飲んでいたようです。そのあと午後1時過ぎ、世話をする雲水が、午後の講義に出る予定の管長が来ないというので様子を見に行ったところ、一階の廊下で首をつって自殺していたらしい。大正11年8月,島根県平田市で生まれた勝平師は、旧制松江高校を卒業。旧海軍飛行予備学生となり、さらに昭和24年、東京大学文学部東洋史学科を卒業。大学院で学んだ後、26年南禅寺に入った。
週間朝日の記事です。
9月、本山の用務で九州を旅行中、倒れた。松江市に帰り、9月14日、日赤病院で初めての入院生活を送った。10月20日退院。自坊で静養の後,11月13日、本山に帰った。「15日から始まった大接心では雲水を相手に堂々とした声で提唱された」という。だが帰山した管長の姿は痛々しく、3ヶ月ほどでゲッソリやつれていた。9月に入院してから、鬱てきな状態が続いていたという。
週間新潮の記事に18日の事が書いてある。
関西のK百貨店Wが電話しているのだ。11月18日、午前9時ごろのことだった。「いろいろお世話になりました。ご病気のほうはいかがですか。といいますと。”まあまあ治って、お勤めさせてもらってます”というご返事なので、これからすぐにお伺いして、お目に掛かりたいのですがと申し上げますと、”実は今、大接心に入っていて、外部の人とは会えないんでね”、とのことで、”でも22日には一段落しますから、そのときに会いましょう”という約束を頂いて電話を切ったのです。それから4時間後に、ああいうことになってしまったのですから」
松江の赤十字病院の副院長の話「松江に帰っておられたとき、急に黄疸がでて食事がすすまないということで入院されたのですが、軽い黄疸で、経過は順調だったのです。まあ、ごく普通の肝炎でして、私も長い間、内科の医師をやってますけど、あの程度の病気で世をはかなむ、なんてことは考えられません」
自殺当時の識者の感想の新聞を読んで、(中外日報・読売新聞・週間文春・週間朝日・週間新潮・京都新聞)
①受け止める
竹田 益州 故建仁寺派管長
常住不変ということは願わしいことであるが、手に入れることは難しい。これが手に入っても入らなくても、努力するのが坐禅で、老師がその中心になって、やって頂いている。管長さんが、自分の責務が果たせるか,果たせないか自分で知っていられるわけで、勿論、果たせたんですけれども、もっと生きて欲しかった。
古田 紹欽 松ヶ丘文庫長
個人の自由な考え方をその人の位置付けの上において、何かということを私はかんがえたくないし、言いたくもない。人それぞれの生き方というものはその人自身にある。私は老師をよく知っていたから、その心中がわかるような気がする。
武邑 尚邦 本願寺派勧学寮員
仏道修行によっても解決することのできない人間の弱さというものをつくづく考えさせられた。
青山 俊薫師 曹洞宗愛知専門尼僧堂々長
勝平管長の死は、行も悟りも無常、”今”を問うことが大事、ウカウカするなと、という”提唱”と受け止めさせて頂いています。
雲井 昭善 仏教大学教授
だが、釈尊も,成道してから後でも、肉体的苦痛は、肉体があるかぎり味わってる。このへんは、別にして考えないといけないと思う。
壬生 滋雄 臨済宗永源寺派宗務総長
勝平さんは死を以って応えられた。それも一つの行き方ではなかったか。
今岡信一良 日本自由宗教連盟
”捨て果てて身は無きものと思えども、雪の降る日は寒くこそあれ”と禅僧の言葉もありますが、いろんな事情があったんだろうと思いますが、自殺しちゃいけないという事はないのではないか、そういうふうに考えています。
中村 尚志 取手市医師会病院長
この事件によって、勝平師の人間性について云々すべき事でもないと思います。とにかくこの事件は宗教とは切り離して考えるべきだと思います。心安らかな境地を獲得し、それで持続させるにも、心と身体の健康が大切であると言う平凡な、しかも大事な教訓を得ました。
匿名師家 京都臨済宗僧堂
そもそも、禅僧だからといって安然と死ねると思うのは錯覚だ。僧堂の老師というものは、孤独なもので、僧堂に閉じ込めて慰める人もいない。
②否定する
横井 邦一 円覚寺派宗務総長
世間で言う自殺と同じように扱われると場所柄、道場ですからまことに遺憾のきわみです。新聞報道のような形の上で見る限るは、はなはだ遺憾なことで困ったことだということは事実です。
福井 康順 元大正大学長
仏教界にとってあり難いことではない。
塙 瑞比古 笠間稲荷神社宮司
私の場合は、どうにも苦しい時は神前で祈願をこめて、心の安らぎを得てきました。これからも一貫してこの姿勢はかわらないでしょう。
二葉 憲香 京都女子学園長
私には死者を批判や批評のしようがない。真宗では、敢えて早く死ぬということはでてこない。
花山 勝友 武蔵野女子大学教授
一言で言うと恥ずかしいです。仏教全体の立場からみると、擁護するのはマイナスだと思うので、あえて言わせて頂いた。
勝又 俊教 大正大学前学長
最後まで生きてほしかった。宗教者は人の先達であるという意味で残念だ。
道端 良秀 日中友好仏教協会々長
勝平さんは禅者であるが煩悩が多い人間であるということが感じられる。どれだけ修行しようとも、 どうにもならないというものを感じます。これからも、もっと働いてもらいたかった。
田中 恒清 神道青年全国協議会々長
完璧さを追求しすぎたのではないか。それにしても、なんともやり切れない思いでいっぱいだ。
山中 長悦 ポックリ寺浄土宗吉田寺住職
病気になって、その責を果たすことが出来なければ、適当な人にその職をゆずり、医学に救いを求め、心の悩みは仏の慈悲にすがる。お気の毒にたえない。
奈良の中堅有名寺院の若手住職のリーダー
どんな理由があるにせよ、ああいう死を選ぶべきではなかった。
池山一切圓 天台宗生源寺輪番
私は自殺を肯定したり、自殺を勧めるものではありませんが、我々は一般の方に「命懸けで生きよ」と言っていますが、まさに命を賭けたことになります。
佐伯 真光 相模工業大学教授
あの方は”うつ病”だったと聞いています。むしろ、お付の人が気づいて休ませてあげるとか、それについて対処すべきだったと思います。
篠原 大雄老師 永源寺僧堂師家
本当のところは、本人自身にしか解りませんし、あるいは本人にもわからないままなのかも知れません。とにかく、生きていてこそです。
安斎 伸 上智大学教授
キリスト教では、自殺を悪で罪だと徹底して説いている。
那須 政隆 真言宗智山派元管長
外からの安易な批判は慎みたい思うと同時に心から同情申し上げたい。なぜ同情というような言葉を吐くかといえば、やはり生命を断つことは、人生にとってあまりいいことではないからです。
宮崎 蛮保 永平寺監院
仏家の一大事因縁は生死の問題を明らめるということだ。ところがその人が生死に使われておる。結局は頭の人間なんだ。師匠の老醜をうまくカバーする弟子を作っておかなきゃいかん。わしも死ぬ時には、うまいこと死にたいけど、どないになるやらわからん。生きとるうちに信心を積んどくことだ。それには願を立てること。願は叶うんだから。常に、こうあるようにと願っておることだ。願いは必ず叶えられるんだからね。
高田 亘 車折神社宮司
病気を苦にしていた、と仄聞している。自ら死を選ぶくらいならば、ほかに何らかの解決法があったのではないか、と同じ宗教者として思う次第である。
寺内 大吉
知育偏重の行き詰まり、そのもろさが仏教会にも出てきたと言えるのではないか。
③解らない
加藤 太信 新義真言宗管長
理屈をつけようと思えば出きるが、何とも言いようがない。病のしからしむるところじゃないかと思う。
鈴木 宗忠老師 妙心寺派龍沢僧堂師家
騒いだら仏様に気の毒だ。
横超 慧日 大谷大学名誉教授
私どもが人間である以上、悩むことはあるわけです。軽くものを言うような方ではなかったという印象を持っています。
渡部 宝陽 立正大学仏教学部長
そういうところに批判,批評をする方を、逆にうらやましく思います。孤独の世界を求めていくということは大変なことですから。
田村 克喜 筥崎宮宮司
みんな耐えて生きていく。どうしてもわかりません。私には、この問題は難しい。
西谷 敬治 西洋哲学者
非常に意外で判断がつかない。ただ、原因なしで起こるということはないから、何か原因があったはずだ。それが何かわからないが、そのうちにわかるかもしれない、と言うほかはない。
立花 大亀 元花園大学長
禅僧の生とか死とかいう問題ではないと思う。そっとしておいて、冥福を祈りたい。
当時の記事を改めて読んでみて、上記に掲載した元学園長ともあろう人が、週刊誌では全く正反対のことを言いながら、ふざけてみたり、祇園でもっと遊んでいたほうが良かったという現在東北方面の僧堂老師がいたりと、仏教会は多士済々だ。
当時の事を振り返ってみて、新聞紙上に老師の会下の者が、意見を発している新聞がなかったのは、寂しく思う。
老師は自分がうつ病にかかっていたのを、何人かに確かめていたことが、ここには記さないが、週刊新潮に書いてあった。老師はうつ病に、かかっていたのだ。
昔、父が亡くなった後の日記を、読んだことが言葉を思い出します。年をとって来て、パーキンソン症候群の病魔に侵されたとき、じっと今の自分を見つめて、「断崖から突き落とされた気がする」と。 この先に自分がどうなって行くのか、その予感を想像したとき、呪ったかもしれない。幸い、父は脳が侵されて意識が不明の状態になったおかげで、私達は救われたが、意識がはっきりと内向して、緊急に分裂を起こすであろう自分と、投げ出すことが出来ない立場に立ったとしたならば。
自分と違う意識が襲い掛かり、自分のコントロールがつかない状態が、愛する雲水の前で出現したとしならば。
運転手の居ない車はどこに行くのか不安な状態に違いなく、しかもそれは突然来るとしたならば。
竹田益州老師が言っていたが、「出雲の人は正直です。素直で、実に人間としても真面目です」と。まじめすぎてそんなボロボロの状態で、引くに引けず、相談する相手もいなく、休む間もない大接心に挑まなければならない。ボロボロにさせたのは、老師自らであると同時に、無責任な、「老師!老師!」と書き物をねだり媚びへつらう、派内の、弟子達の我々だったのかもしれない。
自殺は、どんな場合でも、それにかかわる人にとっては、何らかのメッセージがあるはずです。自分は自殺はしないが、あるいはしたくないがと言っても、そうなってしまうことは、無いとはいえない。仮になってしまても、死んでから悔い改める訳にはいかないのが現実ですが。理解できないのは、メッセージを受け取れないだけであり、それは、その人を知らないからだと思うのです。
自殺は罪だと人を非難しておいて、聖職者が葬儀の儀式において、神や仏に自殺者の許しを請い、許してもらうにも、自分のうちに罪を非難しておいて、その橋渡しをするに、人を愛し、人を罪もろともに受け入れる心が無ければ、矛盾を感じます。総てを承知の知力、知識、知恵、胆力、忍耐を持った人が、突然自殺してしまったのです。その事実だけが真実であり、それからはご都合に過ぎない問題です。
老師の近くに居たならば、ひょっとして何かわかったかもしれないが、優秀な雲水が周りに居て、何も出てこなかったのは、弟子達共通な問題を、投げかけてくれたのだと、今は思います。
人間勝平宗徹老師は、結果として存在を賭けて、そのものを我々一人一人に残してくれた。
修行中、問題意識が起きず、いつも怒られていた私。老師は、「こうした問題を出すんだ」と、そっと紙に書いてくれた。その問題を、切実に取り組めない年齢と幼さだったのかもしれない。
塀の外の賑やかさや静けさがいつも気になっていた私でもあった。
自殺した老師から、眼には見えない様々なものの種を、植えていただいた私にとって、今、一番願うことは、『一目でも言いから、会いたい』、ただそれだけです。
南虎室老師祥月命日に向けて
戒(平成10年7月25日)
戒(平成10年7月25日)
仏教本来の生き方を考えてみると、一人一人の生き方といったこの時点で、すでに本来の生き方では無くなってしまうことではあるのですが、すべてにおいて自由という標榜を掲げている以上、実に捕らえどころも無いものになってしまいます。またそのことは、それぞれにとって一つ一つ意味、価値観がちがっていても、自由においては普遍性を持つとも言えます。それゆえに、仏教にとって守らなければならないものとは、一体なにか?
秋月龍珉師は著作集”空の詩”において「戒とは、我とみずから誓って我が生活を規制すること」と言い、その目的は”調心”すなわち”心を坐らせる”と言います。ところが、このことは仏教以前のことであると言い、智慧の完成において、般若が動き出すところからが真の仏教の実践なのですと言います。 絶観論(初期禅宗史上貴重な敦煌出土文献にこの菩提達磨絶観論がある。その中で戒律について論じている部分があったので列挙してみる。訳は禅文化研究所編絶観論による)に、興味深い問答があります。
殺 「いったい、ものの生命をとることのできる条件がありますか」
「野火は山をもやし、暴風は樹木をさき、くずれた崖はけものをおしつぶし、洪水は虫をおぼらせる。きみの心がこれと同じなら、人だって殺すことができる。もし、とまどいの心があって、生命を意識し殺傷を意識し、心の中に吹き切れないものが有る限り、たとえ蟻一匹でも、君の生命をしばりあげるのだ」
盗 「いったい、ものを盗むことのできる条件がありますか」
「蜂は水面の花をつみ、雀は畑の葉をつつき、牛は水辺の豆をくい、馬は田の稲をかむ。どこまでも、他のものという考えを起こさねば、他人の山だってとりあげることができる。さもなければ、たとえ針の先ほどの細い葉でも、きみのくびに紐をつけて奴隷にする」
婬 「いったい、婬をおもいのままにする条件がありますか」
「天は地におっかぶさり、陽は陰にあわさり、便所は上の汚物をうけ、ふんすいは溝にそそぐ。きみの心がこれと同じなら、あらゆる行動は何のさまたげもない。もし胸中に分別の念をおこすなら、たとえ自分の妻でも、君の心を汚す」
嘘 「いったい、嘘言をいうことのできる条件がありますか」
「ものを言っても主体がなく、しゃべっても心がなく、声は鐘がなるのにおなじく、ものいう息は風の音に似ている。きみの心がこれと同じなら、ブッダとよんでも何も存在しない。さもなければ、たとえ念仏しても、嘘言である」
酒 「ある人は酒を飲み、肉をくい、五つの欲望のすべてを満たしています。ブッダのおしえを行ずる資格があるでしょうか」
「心すら存在しないのに、何人がよしあしを定めるのだ」
人を真の自由に導く仏教において、仏教徒となるに当たっての束縛の網に掛ける戒律があるのが面白い。中国で達磨から六番目の恵能禅師の『六祖壇経』は、戒壇においての無相心地戒を授ける説法である。
一つ 自らの清浄法身仏に帰依します。(大日如来)
人は生まれながらにして本来清浄と同時に耀いている、またそのことはあらゆる存在が自己の本性のうちにあることであり、そのことに反する行為は一切つつしみとしたい。
二つ 自らの千百億化身仏に帰依します。(釈迦如来)
人は自分を見失って迷路に入るとき、本性の変化をきづかない。一瞬の本来清浄の耀きが智慧を生むとき、また耀きのままに自ら照らすことを、これを本性の化身と言い、これに反する一切の行為はつつしみとしたい。
三つ 自らの当来円満報身仏に帰依します。(彌勒菩薩)
一瞬の本来清浄の耀きが、自らの過去のあるいは現在の闇を照らすことを報身と言い、自ら目覚め自ら修めます。これに反する一切の行為はつつしみとした。
四つの聖願
禅の説く気づきや目覚めという、人本来のかがやきの心が、自分のすべてに目覚めるように。
禅の説く気づきや目覚めという、人本来のかがやきの心が、自己の虚偽を払いのけるように。
禅の説く気づきや目覚めという、人本来のかがやきの心が、自己に限りなく時を越えて包まれるように。
禅の説く気づきや目覚めという、人本来のかがやきの心が、いつも心を謙虚に保って、すべてを敬う。
懺悔
過去の心、未来の心、現在の心が自己が,本来の自己で有り続けることを知ることが真の告白であり、懺とは死ぬまでそのことを守りぬくこと。悔とはこれまでの過ちを知ることである。
無相の三帰依戒
自己のうちの一瞬一瞬の本性の耀きの目覚めに、帰依いたします。
自己のうちの一瞬一瞬の本性の耀きの喜びに、帰依いたします。
自己のうちの一瞬一瞬の本性の耀きの汚れなさに、帰依いたします。
幽霊
幽霊
私が小学生の小さかった頃、西八王子はいたる所に原っぱがあった。遊び場所はその原っぱであり、民家の庭であり、垣根越しに庭は続いていたので、家々の庭を通り抜けることで、遠くに行くことが出来た。それは獣道ではなく、子どもだけの遠慮のない抜け道であり、お寺のお墓に通じていた。
薄暗いお墓で遊んだ記憶があるが、お化けや幽霊のことに関しては記憶がないので、いまだ怖いものを知らない、ただ暗くなるまでめ一杯遊ぶ年齢だったのだろう。そこには大きな欅があって、真夏、素手で登って蝉を手づかみで取った記憶がある。
「お父さん!幽霊っているの?」と、私の次男から小学校三年の夏、聞かれたことがあった。
「裕斗は見たことがあるの?お父さんは見たことがないので、わからないよ!ただお寺だからといって、お化けが出るとはかぎらないよ!お父さんは毎日、お墓や境内をきれいに掃除しているから、お墓に眠る亡くなった方々は、感謝はするけれど、恨んで悪さをするとは思えないよ!第一お父さんがいなければ皆困ってしまうもの!一人一人皆よく知っている人達であり、思い出せばすぐに、笑顔や姿を思い出す人達が、お墓にはたくさん眠っているからね!」
「ふーん、恐くないんだ!」と、次男は真剣に感心していた。
陽岳寺の門前は交通量の多い交差点で、年に数回交差点の何処かで必ず事故がある。人が亡くなったという事故は記憶にないが、トラックや乗用車に跳ねられ轢かれたり、ガードレールや電柱に車がぶつかるという事故は以外と多い。今年の五月末日、どこかの御婆さんが大きなトラックに轢かれるという事故があった。今この事故を目撃した人を捜す警察の立て看板が立っているが、轢かれた付近に花も置いてないし、そんな噂もないので無事なんだろうと思われる。
この文章の幽霊というテーマを書くに当たって、もし亡くなっていたとしたら、幽霊となって交差点に立つのだろうかと、妙なことを考えてしまった。そしてこんなことを思った。
昔から日本の幽霊には足がない。足がないと言うことは、自分で移動することが出来ないと理解できる。つまり移動するには、何者かに憑依することが必要なことのように思われるのです。しかし、憑依するといっても、自力で取りつくことができれば、それは自力で移動することが出来ることであり、足がないという象徴的な幽霊にはそぐわないことです。このことは、過去の日本人の意識と深くかかわっているように思える。私が知る限りでは、外国の幽霊は足があって、自分で歩けるからです。
やはり取りつくには、取りつかせる者のなかに、その条件を持っていなければならないと思うのです。幽霊が恐いという意識には、すでに幽霊が巣くっているといっても良いでしょう。お化けが出ると思ったら、お化けが出る準備はすでに、その人のうちに出来ているということなのでしょう。
「お化けは本当に居るのだろうか?」という問いに、私は見たことがないので答えられないが、人として恨み、辛み、想いを達せられずに亡くなった方はたくさんいたはずだから、それらのものを受ける人にとっては、お化けは怨念として常に存在することなのでしょう。このことは人間の善悪、良心の問題を含んでとても大切なことだと思います。しかし、存在というと禅の冷暖自知の原則からいって、触れなくては事実と言えないわけですから、人の創造した、幻とも言えるわけです。
最近の子ども達のマンガや映画、テレビドラマには、足のあるお化けがたくさん出てくるようになってきました。それは時にロボットだったり怪獣だったりするようです。町を壊し、人を傷つけるお化けは完全に存在する身体であり、子ども達も待ち望んでいる姿で現れ、ヒーローが退治するのです。 足を持つと言うことは、目的を持つことであり、血を吸わなければ生きて行けないドラキュラのように、擬人化したお化けは、目的遂行の為に生きる為に彼らの任務を、あのエイリアンのように遂行しなければならないのです。我々の知らない世界には存在するかもしれない、未来にはこういうこともあるかもしれないと、せっせと想像力を働かせて、それを楽しむ人間の、「恐いもの見たさ」の欲望には限りがない。
しかし、このことが現実に起きるかもしれないと思えれば、いずれは存在することになり、事実として成り立って行くことになってしまうことを考えれば、お化けは創造のすえ、存在することになる。まして、ドラキュラの求める他人の血を、お金や資産に代えてみれば、人間そのものとなって、現実の人間の姿そのものと言えるからです。時代が変化する限り、お化けは姿を代えて人を襲う。これは、もはや私の考える良き幽霊の範疇を超える。
やはり、幽霊は怨念を抱きながらも、現実の空間に漂いながら、自らは何も出来ずにいる姿こそ、痛ましさを感じることができると思うのです。晴らすことの出来ない怨念を抱きながら漂う幽霊を、目をこすって、はっと我に返ったとき恐怖を覚える幽霊の、脳裏に焼き付く姿こそ、それぞれの人の過去の真実の姿であり、幽霊を弔うには、我々自らの改心が必要なことです。
みんな仏教徒(平成10年5月27日)
みんな仏教徒(平成10年5月27日)
私がまだ八王子に住んでいて小さかった頃、母は父方の寺の墓参りに深川の陽岳寺に連れていってくれたものでした。まだ地下鉄の東西線もない頃でした。国鉄の中央線で東京駅に着くまでが、子供の頃の記憶はとても長かった。茶色の古ぼけた電車に酔って気持ちが悪かったり、そのため御茶ノ水の堀の景色を見るために、座席に膝で座り、土で汚れた運動靴が隣に座っている人のズボンやスカートを汚して、母に小声でしかられたものです。東京駅からチンチン電車に乗り換え、ガタンガタンと石畳の上を走って、ガチャンと門前仲町駅の次の駅が深川の停車場だ。目の前にある寺が、陽岳寺だった。
今からもう四十年も前のことなのだが、今思うと深川の寺の住職になっていようとは感慨深いものがある。たしか?現在の赤札堂は映画館だった。もちろん首都高速九号線は、油堀という運河だった。寺や神社は今も変りなく、元の場所にあるが商店街は様変わりだ。 母や父は、よくお不動様や八幡様にお参りしたものだ。今でも一日十五日は八幡様、二十八日はお不動様に縁日でにぎやかだが、昔もそうだった。このにぎやかさが、みょうに楽しく、もっとも親と一緒について行けば何か買ってもらえるという下心もあったのだが、人ごみの中を親と手をつないで歩くことがうれしかった。今、自分の子供に同じことをしていると思うと、人は繰り返しながら少しずつ微妙にあるいは急に時代は変わって行くのだなと思うのです。
今はあまり言わなくなったが、このお参りを”信心”と云いました。お賽銭を投げて、何かしらのお願いやお礼をまた報告を心の中でつぶやくのだ。誰も願いがかなわないからと言って、文句を言う人はいない。
さて、私が修行から帰ってきて陽岳寺の住職になってより、二十年がたとうとするのだが、情けない話だがこの”信心”という言葉が、なかなか言葉に表現することができなかった。形式として、習慣としてのお参りは日々欠かさない毎日なのだが、日常の中に埋没してしまった言葉を、掘り起こすという作業を試みてみた。 その前に、仏教徒という言葉の意味をあらためて考えてみた。仏教の基本的な言葉としての"空"と"縁起"は、信じると言う言葉以前に、実は世界や物事の成り立ちを説く言葉であると気がついてより、誰もが仏教徒としての自覚さえあれば、仏教徒なのだと思うようになったのです。
私流に云えば、『仏教徒とは因果の理を信ずる人』という意味で、因果は縁起と同意味の言葉です。禅では「一滴の水も大きな川や海を支える一滴の水であり、一塵の動きも世界の全体が関係している」と云います。大海を見てそれが一滴の水の集まりであることを知ると同時に、朝露の一滴の水は大海を代表する尊く愛しい一滴の水であるわけです。
一滴の水を「私」に譬え、「友達」に譬えてみると大海は世界となり自然・環境・宇宙になります。かけがえのない私と同時に、私は世界を支える一滴の水になります。個々のものはすべてが連鎖していると同時に、個はあくまでも個であることの認識が大切です。この意味から自立と共生は表裏一体、同時に支えあっています。禅では"同時"を"即"と言い換えて使いますが、同時が非常に大切です。片寄ったものの見方を矯正する働きがあります。同時はまた中道をも意味することになります。眼には見えませんが、世界中の人々は実は全員手と手を取り合って輪を結んでいることになります。ただ私達にはなかなかそれが見えないのが 、また実感できないのが残念なのですが。「私にはまだ真実が見えないけれども、このことは理解できる」 あなたは、正真正銘の仏教とです。
赤ちゃんが泣くのも何かの理由があって泣くのであり、勝手に泣いている訳ではありません。これを因果と言い、正しくは因縁果といいます。仏教徒になられたからと言って、他の教えはだめだというのではなく、神社や教会にて頭を下げたりお話を聞く、手を合わせることも大切なことであるでしょう。自然な気持ちで接することが大切です。人が大切に思っているものを、自分の心得違いの考えで排除するのは良くありません。
縁起に随うことのまっただ中に真の自由を見つけ、自分の生き甲斐、目的を行ずることこそ必要なことであると思います。これを"信心"と云います。お不動さんや八幡様で見かける、"信心"と別のものではありませんでした。 禅ではよく、不昧因果、不落因果と百丈野狐にて問題にいたしますが、因果を"くらまさず"と云います。縁起の世界において、すべての人の行為は、縁起を免れるものではありません。自ら躊躇せず飛び込むことの中に真の自由になりきった自己を発見できれば、 そこに自由人としての私が存在します。
その"私"は、鎌倉時代の栄西禅師の興禅護国論、序に有ります。 「大いなる、心や。天の高きは極むべからず、しかるに心は天の上に出づ。地の厚き測るべからず、しかるに心は地の下に出づ。日月の光はこゆべからず、しかるに心は、日月光明の表に出づ。大千沙界は極むべからず、しかるに心は大千沙界の外に出づ。それ太虚か、それ元気か、心はすなはち太虚を包んで、元気を孕むものなり。天地は我れを待って覆載し、日月は我れを待って運行し、四時は我れを待って変化し、万物は我れを待って発生す。大なる哉、心や。」
元気とは心と一体にして、つまらない自分、不愉快な自分、悲しい自分、愉快な自分これらすべて元気のなせる技にして、自分の中の主"元気玉"の姿・形を変えた姿です。この自分の中の元気玉を自由自在に扱えることができて、元気玉と一つになったとき、ここに自由があります。くれぐれも運命とか因縁と言ってあきらめるという意味ではありませんので注意が必要です。
最後の晩餐(平成10年5月23日)
最後の晩餐(平成10年5月23日)
平成九年の暮れですが、テレビのニュースステーションの番組で「もし明日あなたが死ぬとしたならば、命の火が消えるとしたならば、今日、最後の晩餐として何を食べたいと思いますか?」という内容の報道がありました。
私が見たのは、仲代達也と樹木きりんという俳優が出演した番組でした。
仲代達也氏は、ちょうど九州公演の最中だったらしくて、福岡の河豚屋(ふぐや)さんで、カウンターに河豚刺しや鍋をおいしそうに並べてニュウスキャスターとお話をしながら日本酒を飲みながら芝居の話や、自らの劇団の話を淡々と語り合っておりました。
樹木きりんさんの場合はまず場所が意表を突いておりました。それはここ陽岳寺と同じ宗派だったこともあるのですが、麻布にあります光林寺という寺の本堂の縁側にお茶とお菓子での対談になっておりました。もし明日命がないとしたら、「………食事をを頂く必要がないでしょう」との内容で、墓地を取得したいきさつなどを語り合っておりました。
もし明日あなたの命がないとしたならば………。現実にこのような企画の内容を考えたこともなく、一見無意味な内容でいて実はとても示唆ある内容で、ハッといたしました。修行から帰ってきて20年以上もたつのですが 、修行の道場で三度の食事をいただく前に読むお経なかに、五観(ごかん)の偈(げ)があります。
一つには功(こう)の多少(たしょう)を計(はか)り、彼(か)の来処(らいしょ)を量(はか)る。
(この食卓にいたる食べ物の過程を思い、感謝して頂きます)
二つには己(おのれ)が徳行(とくぎょう)の全闕(ぜんけつ)を 忖(はか)って供(く)に応(おう)ず。
(自分自身の徳のいたらなさを深く自省して頂きます)
三つには心(しん)を防ぎ、過貪等(とがとんとう)を離るるを宗(しゅう)とす。
(心を静めて、むさぼりを戒めます)
四つには正(まさ)に良薬(りょうやく)を事(こと)とするは、形枯(ぎょうこ)を療(りょう)ぜんがためなり。
(私の心と体に必要な量だけ頂きます)
五つには道業(どうぎょう)を成(じょう)ぜんがために、将(まさ)にこの食(じき)を受(う)くべし。
(私のめざす道の完成を成し遂げるために頂きます)
何度となく繰り返し唱えたお経の内容を鮮明に慚愧さとともに思い出しました。「四つには正(まさ)に良薬(りょうやく)を事(こと)とするは、形枯(ぎょうこ)を療(りょう)ぜんがためなり 」
通夜、葬儀、法事と人の死にからんだ行事には、不思議と酒とご馳走が盛りだくさんに供され出てまいります。
それはまだ幼稚園の頃だったろうか、親戚に不幸が続いたことがあった。火葬場で真っ赤に焼かれたお骨の熱気に恐怖をおぼえ,母の胸に取りつき、真っ赤に耐える故人を「すごいね。強いんだね」という私を、母はあまり不幸が続く物だから連れていくことを躊躇したそうである。私は、普段食べられないご馳走が食べられるのと、大人達がお酒を飲んでかもし出す別世界を恐さと好奇心で見るのが面白かったのを何故か今でも記憶に鮮明に あります。また、そのことを思い出すと、不思議に成人して小料理屋の水で打たれた入り口の盛り塩を妙に思い出します。
葬儀や法事・祭礼が”聖”や”死””安らぎの世界”の場所としたならば 、そのあとのご馳走は”俗”や”生””安らぎに反する世界”の場所になるに違いない。儀式とは死者の御霊の鎮めと追悼儀礼と同時に生者の誓いというのか、今を活きる人々のためにあるのだなとあらためて思いました。
明日死に行く人は、食事を食べたくとも食べることができないのです。明日も今の生の延長として生き続けるだろう人は、明日活きるために今日の食事を頂きます。それが、死んでいった人の命を生かすことに繋がると思うのです。
禅問答(平成10年5月31日)
禅問答(平成10年5月31日)
嘘つきのパラドックスといわれるものがある。「私が今言っていることは嘘である」という命題は、真か偽かと問われたとき、内容が正しければ、命題は偽になり、言っていることが嘘であれば、命題が真になるというパラドックスである。G・ベイトソンの”精神の生態学”に、”ダブル・バインド(拘束)”があります。「私の言うことに、従うな!」という命令です。命令を受け入れ私に従えば、結果従う事をゆるされず、従わなければ従った事になってしまう。この問題は、我々自身の生活の中で厄介な問題をひきおこします。子供への愛情に深刻に悩んでいる母親が、子供がまとわりつくのに絶えられず、「向こうで遊びなさい」とやさしく抱きしめ諭すとする。子供にとって見れば母親の心理は理解されずに、やさしく引きつった顔での自分を避ける姿が母親の愛情表現として、日常生活の中で蓄積されていったとしたら、親子関係はどうなってしまうのだろうか。実は、考えてみれば、社会構造の中にもこのてのパラドックスはいたるところにあると思います。
さて、ダブル・マインドに話をもどしますが、このことの真偽は不明ですので、結果は想像していただきますより仕方ありません。
まず、犬に正確な円と楕円を見せて、円と楕円が判断できれば、餌を与えたそうです。もちろん判断し識別ができなければショックという虐待を与えます。犬がショックを拒否したいことに異論はありませんでしょう。犬はこ実験が始まる事は”ご飯ですよー”と喜び、実験に参加したか解りませんが、問題は楕円を限りなく正確な円に近づけた時に起こりました。結果は発狂したそうであります。そのときの詳細な犬の様子はかかれていませんでしたが、かわいそうに発狂したそうです。
このことを知ったのは、もう15年以上ぐらい前だったと思うのですが、週刊読売の記事だったと思います。禅の問答を直感いたしました。それと同時に我々日常の中に、かず限りなくある問題をおもいました。
「前後左右にあなたは行っては行けません。もちろん斜め、上下はだめです。つまり、あなたはどちらの方向にも行けません。さらにじっとそこに止まることもいけません」「さあ、進め!」と言われたときに、自分の行動を問われたとき、ましてその問題があなたの全人生全人格を含んでの問題だったならば、どう一歩をふみだすか。 その家庭の環境において、自分の子供に何一つ愛情を持ち得ない母親が、子供に愛情を注がなければならないとしたならば。おそらく、現在は政治に経済に倫理にあるいはリストラ、失業問題が個人である私達に難問を吹き付けてまいります。企業は税金が高いからと言って、海外の安い税金の国に避難すれば良いでしょうが。会社や国や家庭は倒産、離散によって問題をクリアーすれば良い事になりますが、個人である私達一人一人は、どこに逃げても問題と共に有りつづけます。
それではパブロフの犬のように、精神の破壊によってこの問題をクリアーすれば良いのでしょうか。
いたずらっ子だった頃、夕方遅くまで遊んで家族を心配させ母親にしかられた事が、何度もありました。母親や姉の心配の大きさをおもったら、それに償うだけの心の大きさを、子供はもっていないものです。そのときの子供の反応はたいてい、「ワーッ、ごめんなさい」て母親の胸に抱きついたものです。実に立派に、母も子供も問題をクリアーするものです。その子供もだんだん複雑になってくると、「ワーッ、ごめんなさい」が言葉に出なくなり、後ろ向きになったりして「シクシク、……」になり、ストレスを積む事になります。問題を抱え込んで、答えの吐け口を見出せなくなり、自我の問題が露出いたします。
一人一人、問題も解決の答えも方法も違います。嘘つきのパラッドクス、ダブル・バインドにおいて迷路にはまり込み、ダブル・マインド化した場合において、この命題をインド哲学では、そのパラドックスを生み出している原因である《自己言及》を避けると言う、子供が母親の懐に飛び込むに似る簡単な方法でクリアーすることができるそうです。くれぐれも、自らの命を捧げることによっての解決は選ばないで下さい。
禅は、 《安禅は必ずしも山水をもちいず、心頭滅却すれば火もおのずから涼し》
問題は火であり炎です。限りなく沸く思いを炎にたとえてみますと、
《猛火焔裏の内に向かって清涼を行ず》
実はその限りなく沸く思いの炎の中に、勇猛果敢に分け入る心こそ、涼しさそのものであると同時に、清涼を行じている自分にきずくことこそあなたにとっての禅問答の答えであると同時にパラドックスの答えにもなります。回答者はあなた自身にして、採点し評価するもあなた自身です。
分銅
分銅
あるお年寄りの話である。
「太平洋戦争末期、今から思うと、時代の大きな流れで、予科連に志願して南方に配属になりました。海軍の飛行機の整備を任務としていたのです。離陸する帰ってくることのない戦闘機の軌跡を、南の空の遠くに、いつまでも見ていました。友人が乗る戦闘機は、私が整備したものです」
戦後、50年以上経過して、戦争体験者の多くが80前後の年齢に達しています。その80年前後の内の、数年の非日常体験は、彼らの中で時計の振り子のように、今でも揺れているのです。人にとっての重大な事実こそ、振り子の重さになり、それは悼み、悲しみ、後悔、せつなさといった、心の奥に作用するものこそ、大きな重みを持つと思うのです。
忘れることの出来ない記憶は、胸に秘めた分銅であり、この分銅は、さまざまな重みを計ることができる。しかしながら、様々な分銅ではなく、多くの変わりになる分銅ではないことが、人の固定観、一面観の出所になるようなきがする。
かって私は、人にとって進むべき道の選択肢は数限りなくあると書いた。そして悲しいかな、人はその内の一つきり選ぶことが出来ないのであるとも書いた。歩いてきた一本道はやがて二本に分かれ、その内の一本の道を進むのである。
知り合いの奥さんに言われたことがあった。
「私の弟は、数年前父の一周忌を前にして、父の位牌をもって突然消えてしまいました。今、どうしているか、消える前は、私に心配をかけ、無心する気が小さな繊細な子でした。調子がよくて、人なつきがとても良かった子でした」
私の知り合いにも、両親が他界したあと、可愛い二人を男の子と奥さんと離婚して後、行方不明になっている男がいる。もう年齢は50になるだろうか、5、6年前に突然いなくなった。私からの郵便がマンションのポストに入っていたというので、会社の人が私を尋ねてきた。サラリーマンなら退職金も申請せずに、会社に来ないなんて、何か事故に巻き込まれたか、自殺か、何か事情があるはずで、どうしていいかわからないと言っていた。
その後は何の便りもない。親戚もなく、兄弟もいない。そう言えば、彼も人なつきがよく、調子がいい。何か心配なところがあった。別れた奥さんに連絡したくとも、住所はわからないし、可愛かった男の子も、上の子は高校生になったのではないだろうか。離婚の理由も、ただ『だらしない!』という奥さんの言葉しか知らないし、ふと思い出すのです。
「今ごろどうしているのだろうか?」
「捜索願も出していないのではないかと思うのだが!」
選択肢を全く選ぶことが出来ない時、人はドロップアウトするのではないだろうか。道が続くものなら、続くその道の分かれ道を踏み出して歩くという行為が伴わないからです。
年をとるにしたがって、方向を左右する選択肢はそうたくさん有るわけではない。まして取り返しのつかなくなる年齢に達しようとする時、人は迷うものです。しかし迷ってもどれか一つ、決断しなければ、先に進むと言うことはできません。
人が歩いて、岐路に差し掛かったとき、必ず選択の大小の決断が行われるものです。決めるという行為に密着する後悔しない、間違っていない、これでいいんだということを含んでの決断です。人はいついかなる時も、一歩踏み出す道を歩いているのですが、その時、各自の分銅が揺れて、バランスを保っているのではないか思うのです。禅ではそれも分別といって嫌うのですが、そのことは、分別以前のもっと大きな分銅が、働くことと思うのです。
後悔しても時間を戻すことはできないと知りつつ、やはり後悔するなら、後悔以前の無心に行ずる姿そのままとなって、ひたすら歩くことも大切なことです。
天国は汝ら自身に宿る(平成10年11月24日)
天国は汝ら自身に宿る(平成10年11月24日)
宮尾登美子氏の『天涯の花』を読んでいて、主人公の平珠子が養父白塚国太郎の言葉が、自らに浸透した。
「あの先達さんや仏家にはきびしい修行があってな、行場めぐりでは鎖を伝って洞穴に下りていったり、滝に打たれて祈願したり、そんな鍛錬を経て自分を磨くことが出来るが、神職にはそれはないゆえに、ひたすら自らが自宅潔斎をせんならん、とくに神へのお供えものを調達する火を大切に、けがれないようにするのが、これが神職第一の修行と思いなさい」の宮司の言葉だ。
四国山脈の西日本中、最も天空に近いのが1,982メートルの石鎚山、1,955メートルの剣山があり、二峰とも神様がいる聖地で、ここに暮らす人間は選ばれた人になる。剣山の剣神社の祭神は、山の鎮めの神様で、オオヤマツミノミコト(イザナギ、イザナミノミコトの御子神)と弟のスサノオノミコト、安徳天皇である。それぞれ永久に安んじ奉るため、神に仕えるこの職をこの上なき栄誉と心得て、一心に身を清め、誠心誠意、相勤めることを神職の第一とすることが考えられる。
この神社で少しなれた頃の、珠子の言葉である。
「じゃけんど、お父さんと一緒に暮らして、お父さんの仕事を手伝うてるうち、だんだんと、神様は人間一人一人の持ってる良心ちゅうもんで、お社の奥においでになるのは、自分の良心の鏡や、いつもそこに映されているんやと思うようになったんです」「お祈りしてると、心がおだやかになるのは、ほんまなんです」
曹洞宗の尼僧を代表する、青山俊董師の幼少の頃の思い出話がある。師は小さかった頃、寺に預けられた。其の時の庵主さんの第一声が、薄暗い本堂の内陣に坐る金色の本尊、阿弥陀如来の結ぶ印、法界定印(両手の親指と親指、人差し指と人差し指を互いに結んで、お腹の所で輪を作る形)を指して、
「よいかえ!お前が悪さをしたと思った時、仏さまの作る印を見てごらん。丸い輪がいびつに三角になっていたら、仏さまが、悲しんでおられる証拠じゃ。仏さまを悲しませるんじゃないぞえ!」
師は子供心に、この言葉がよほど身を貫いたと見えて、何回も何回も、薄暗い内陣の奥に坐る阿弥陀如来の印を、いつも丸に結ばれていることを願い、恐れたそうであると、何かの本で読んだことがある。師はこのことがやがて、今ある自分の原点のような気がすると語っていたのを思い出します。青山俊董師にとっては、そのときの阿弥陀如来は、師の幼少の頃の、良心そのものを映す鏡だったのでしょう。
臨済宗の中興の祖、白隠禅師の幼少の頃の話の、人が亡くなった行き先の火炎地獄の切実な恐怖は、やはり師の生い立ちの原点になる。すべては、心の中に幼いうちに、良心の遍歴の怖さを、意識するにかかわらず持っていたことが大きく成長させていったと確信すると同時に、この地獄も白隠にとっての良心そのものだったのです。その証拠に『南無地獄大菩薩』と成長した白隠は揮毫している。
私は小学生のころ、八王子市千人町三丁目の小学校の傍の母の実家の貸家に、五人家族で住んでいました。夕方、そろばん塾にかよっていた記憶の中に、街灯が裸電球だった夜道を帰る私は、街灯と街灯の狭間の暗さが怖く、物陰から得たいの知れない黒いものが出てはこないかと、夜道の帰宅を足早に急いだことを思い出します。40年前の夜は暗く、やがて街頭テレビができて、バナナ売りの掛け声と共に、夜は明るさを増してきました。振り返ってみれば、お十夜の縁日のガス灯の懐かしい匂いや、見世物小屋の賑やかさと怖いもの見たさと一歩離れると、夜の暗さが迫って、懐かしくもある。誰と行ったのか、思い出せないのだが、その頃、夜はもう8時になると子供の声はしなかった。とにかく、夜は怖かったのを思い出します。夜は自分の影にも恐怖を覚えることから、自分の心のあやふやな部分が大きく増徴されるに違いない。
また自分の年を重ねて行く少年から青年の道筋で、大人に成ることへの不安や、いつまでも子供でいたいノスタルジックも、考えてみると、すべては良心のゆらぎだったと、今、思うのです。
神や阿弥陀如来、そして地獄が、自分の良心そのものだとしたら、剣山の社殿の奥のご神体も、青山師の育ったお寺のしゅみ壇の奥の阿弥陀如来も、白隠の火炎地獄も、実は自分自身そのものに違いない。ご神体や阿弥陀如来に対峙する自分自身の変化を恐れ、変わりなく無事の自分に安らかさを覚え、自分の至らなさを、良心に照らして、神や仏に誓い・祈る姿の自己をさらけ映すことによって、穏やかになれることは、神や仏が救ってくれることと同じ意味を持つ。
こうしたことが成り立つ前提に、自分や神仏に対する恐れや不明の自己に対する求心的な働き、それは例えば「これで良かったのだろうか」という類の問いかけがなければ、成り立たないと思えます。
大人に成って思うことは、今の何を問うことがわからないのが、現実のような気がします。いつしか、年を重ねて、気が付いてみれば50才に届こうとしている自分の、40数年の歩みはけっして、さまざまな一日一日の積み重ねであるにもかかわらず、それだけの重みを感じないのは、とても寂しいことのような気がします。
人に、今の自分を、今の瞬間を、一度きりの今を、今の出会いを、過去も未来も含んだ永遠の今を説く自分自身の今は、無心に静まり返っていたり、大きく波を打っていたりとしている。それでいながら、日中の行事を、波を打ちながらも、行ずる自分自身以外にはない自分自身ではあるのですが。
人は、ある程度の年齢に達すれば、実は悲しいかな私もそのような傾向を持つのだが、将来の老後に漠然たる不安の解消や安らぎを求めています。不確実の老後に、蟻とキリギリスの蟻のように、こつこつと働いて準備しているといってよいでしょう。
自分にとって人生は、まだまだタップリあると思って疑わない自分があることも事実です。自分が消滅する時の良心のありようを問う問題より、自分の始末を金銭という力で解決し、精神的な問題は先送りしながら、それで老後はひとまず安心する生活を送っている自分があることに、反省するのです。
不確実の老後に安心する方法は二つあります。そしてその二つをうまく使うと、とてもバリエーションがあります。一つは、お金で買うということです。いろいろな年金、生命保険、損害保険、各種の金額の高い低いを問わずの老人ホーム、お墓もそうです、最近では生前に葬儀の予約を受ける葬儀会社があることは、これから死のうとする人まで、不安や恐れになろうと思われる問題を、事前にすべて金銭で、解決しようとする人が、多くなってしまったような感があります。
このことはけっして悪いことでは有りませんが、少し寂しい気がいたします。二つ目は、自分自身の終焉とはと、問うことから始まります。このことは、一番大切なことです。内面的に求心的に自己(神仏)を求めることは、同時にまた、生き方の問題、つまり、外に向かって考えることに必ず連携するからです。つまり生き方を支えることになるからです。答えは貴方自身の中にあると同時に貴方そのものです。ですが、人と較べて生き様を問題にして優劣をもって考えれば、美化されてみたり,卑下されたりと、本質を見間違うことがあるでしょう。さらに、死にようは問いたくありません。何故ならば、死に方は選ぶものでは ないと思うからです。
人間にとって必要な感情はと問われた時、私は”恐れ”と”感謝”ですと応えます。
恐れ・怖さは自分の心の内部と対面いたします。夜道は暗く危ないの発想は、夜道を明るくし、危険なもの、不慮の事故は、予測と予防によって防いでしまった。人間が自己と対面する、機会がますます減って、後、問題はストレスだけが一番大きな問題として取り上げられるているような気がいたします。
感謝は、内面に向かう心を、外に向かわせる働きがあるように思えます。そして、感謝という気持ちに必要な知識は、現状の認識力と分析です。今ある自分は、与えられた知識=勝ち取った知識、勝ち取った地位=支えられている地位、歩んできた道のり=歩かせられた道のり、切り開いてきた運=捧げられた運に違いありませんからです。
せめて、極端な話ですが、怖さを忘れかけた我々は、真に感謝できる人間にならなければならないと思います。
私達、日本人は、人それぞれの価値観を認め合うことが、なかなか出来ません。日本人それぞれの価値観の違いが、実際にはほとんど差があってはならないという命題だ有るかのように思えるのです。ですから、自分と違う人間を認めたがらず、陰湿な攻撃をしかけたりするのかもしれない。しかしながら、確実に自己主張をし、容認する風潮は増していることは間違い無いと思います。自己主張は自分の正しさの誇示です。大切なことは、この自己主張もけっして、自己主張を受け入れてくれる世界あってこそです。そこに気づけば、そうできれば他人の違いがわかり、他人の元気を願い、他人の幸せを祈れるに違いなく、他人の喜ぶ姿を悲しむ自己など有り様はずがなく、またそのことは、感謝する自己があれば求心的に向かうと思われるのです。
良心の輝きが大切であり、神仏も光輝く存在になるに違いありません。そのとき、恐れや怖さに気が付いてもらいたいと思うのです。
宗派
宗派
「何宗でしたでしょうか?本山はどちらでしたでしょうか?」
この寺の住職をして、年に数回は、尋ねられる言葉です。毎月、本山の『花園誌』と『寺報』を配布してる寺がです。山門には、禅宗と書いてあります。法事には、臨済宗聖典という経本を皆でお読みいたします。
京都花園の妙心寺という本山が、東京では知られていないことが大きな原因だろうと、私は思っています。ですから、妙心寺の末寺に、甲斐の武田信玄で有名な、恵林寺とか、伊達正宗で有名な、松島の瑞巌寺、枯山水・石庭で有名な竜安寺、那須の雲巌寺があるんですよというと、「ああ、そうですか。」と判っていただけるのです。
また、禅宗となると、「永平寺ですか?」と、聞いてきます。「禅宗には、臨済宗と曹洞宗と黄檗宗がありまして、臨済宗の有名寺院は、関東では源氏や北条氏で知られる、鎌倉の円覚寺や建長寺があります。京都でも、南禅寺、東福寺、銀閣・金閣、相国寺、大徳寺、建仁寺、天竜寺などがあるのですよ!」と言いますと、もうそれぐらいで、頭の中は一杯のようです。どうも観光で有名な寺院ではないかと、不思議な気がします。
新しくお墓を取られた方や法事や葬儀を頼みにきます方々は、地域の人が、利便性やら、檀家や知人の紹介がほとんどです。その方々の事情はそれぞれで、仏教ならばそうたいして違わないだろうという思いがあるようです。
確かに、この地域でも浄土宗、日蓮宗、禅宗、真言宗、浄土真宗があり、しかも同じ宗派でも、分派しているのですから、一々その内容を知らなければ、寺を選ぶことができないとなれば、ほとんどの人は一生かかっても選ぶことはできないでしょう。これはとても厄介なことです。このホームページは、そうした疑問や戸惑いに答える内容を含んでもいます。また、もっとやっかいなことに、余計に解らなく進めてしまうものになるかもしれません。宗派と住職の考え方、捉え方、見方、生き方がどう交差して、参考にし、惹かれるものがあればよいと思っています。そこから、改めて、宗派って何だろうと考えられると思います。
新しく知り合った方々と話して、未だに多少残っているのに、家の過去の宗派があります。しかしながら、過去の宗派を聞いて見ますと、何々宗と唱えるお題目、名号は知っているものの、中身となると皆目知りませんん。そして、聞いてきます。
「ご本尊は、どうしたら良いのでしょう」。
「何とお唱えしたらよいのでしょう」。
これを聞いて、私は思うのです。何も染まっていないと。多くの人が宗派については、何も染まっていない状態にあると思います。いや、それ以上にほとんどといってよいくらいに、関心がないようにも見えるのです。姿、形あるものには、理解を示しますが、内容となれば、「行き着くところは、同じでしょう」とは言うのですが、”行き着くところには”それ以上は興味は示しません。
さかのぼって下るからこそ、時代や文化の特色や、宗派の意味が見えるのですが。実に、寛容にたけていると言えるのです。本山や宗派の大学、教学研究機関を除いて(ひょっとして除く必要はないかもしれないが)、末端の寺では、脱宗派が進んでいるのではないかと思えます。そう思う理由は、宗派の掟、戒律が無くなってきているように思えるのです。守るものが在ってこそ、広めたいこともあるのでしょうし、その守るものを説くことが出来なくなってしまった宗派の、宗派性は法式と出所の証明ではないかと思います。単立の宗教法人がとても多くなってきたのも、気になるところです。
しっかりした信仰を持ち得ない、日本人の精神は、何を支えとして、何を目的として、人間をどう捉えて、生活(死んでゆく身が、どう生きるか)するのか、何を求めての生か、その求めるものは正しいものなのか?なにが正しいかと考えたのか?宗教こそ、その問題に答えを導くものです。マインドコントロールを解くものこそ、仏教の教義のはずです。怨霊やたたり、カルトを退ける道です。
考えてみて、日本の仏教教団は、必ず何らかの意味で、名前を掲げ標榜しているものがあります。宗祖の名前を付すもの、教義の中身を掲げるもの、お題目を掲げるものと数多くあります。不思議に思うのは、お釈迦様に発した仏教が、何故に人の名前や、又、別な名前を掲げなければならないのでしょうか?そんなことは、問う以前に判りきった事なのですが、考えなければならないことでしょう。
「以前の掛け軸の本尊はどう致しましょうか」と、問われることがあります。
私は、「そのままで結構ですよ」と、そして「換えてしまって、その掛け軸をどうしたらよいのか、粗末にしたくなく、迷ったときは、寺に持ってきてください」と。
年を取って、今までの過去来歴を否定したくないし、また否定しようとも心の履歴は抹消できるものではなく、その上に積み重ねるように、この寺での履歴をそっと重ねた方が、その人が豊かになると思うからです。本尊を取り替えても、記憶に残るものまで、取りかえることはできないからです。”南無阿弥陀仏””南妙法蓮華経”と唱えていたからと言って、過去のお唱えは、間違いではないし、違うお唱えの言葉を無理やり言うことは、唱えるたびに不自然さがつきまとうものです。
こう言うと実に、無責任なことのように思えますが、現実の姿です。現状の末端の寺からは、ここから信仰とは宗教とはと、論じることには、難しいことなのです。本人が決める前に、祖先が決めてしまったことの、何に従うのかと考えて見たとき、思想性を葬るか、自分に都合のよい有り方を受け入れることしか、選択肢はないのかもしれません。私の寺のそれぞれの方は、『うちのお寺』とか『角のお寺』と言います。そして『うちのお寺の仲間達』は、法話の会を主催してみたり、お施餓鬼でも、和んで溶け合っているのです。
本山関係者が、この記事を読んだら、きっとビックリするかもしれません。本山は末寺末寺と意識いたしますが、末寺は本山をそんなに意識しません。それより『うちのお寺の仲間達』の幸福をただひたすら願い、思うことが、『うちのお寺』の基本的な有り方であると考えています。
本山は布教、教化と言います。ですが私は、布教、教化は致しません。『うちのお寺の仲間達』が、より自分に真実に生きることを願い、私は、同時代を一緒に生きることに喜びを感じていますですから、お経の後のお話は、私の考え方、見方、生き方を、話すだけです。それを布教と言うのだよといえば、そうなのかと思いますが、共鳴してくれれば、私は本望です。
この時代に、それぞれがそれぞれに生きている。そのそれぞれの一喜一憂のそれぞれに、祝福あれ!
穢れ(平成12年8月30日)
穢れ(平成12年8月30日)
まだ住職をして日が浅い頃のことだ。不思議なことがあった。近くの家の婆さんが、この寺の檀家になることを迷っていた。それは、とある神社の神徒で、それこそ先祖代々の神様を信じての家であり、墓はY県にあった。年をとって墓を仏式に改宗しようと、やはり決断を下すことは容易ではない。
まあ、親しく挨拶をして、婆さんも親密にこちらを慕ってくれての、改宗騒ぎでした。しかし、私からみれば、この改宗ということに、それでは、こちらの宗派を理解してくれたのか、あちらの宗派は一体なんだったのだろうかと、神と仏の差とは、名前の差は何処にあるのかと、受け入れるには相当考えも致しました。
墓を、田舎からこちらに移すことを決めてから、4霊の改名をいたしました。やはり、なくなられた方々は皆神様であり、何々の命(みこと)と命名されているでした。
神様が、仏様に改宗するとは思えず、仏様が神様に改宗するとは思えません。ともに死者が神として、仏として祭られることに意義があるのだと思いました。仏教に六道、神道に黄泉の国があることは知られています。
私が小さかったころ、古事記の中の物語を読んだ記憶があります。それは決まって、真っ白い衣装を着た伊邪那岐命(いざなぎのみこと)が、黄泉の国を失踪する場面でした。黄泉の国の化け物の襲撃に、命は様々な障害をクリアーして脱出する物語です。ハラハラドキドキした記憶があります。
暗闇の黄泉の国で、蛆(うじ)が湧く苦界にもがく亡者(もうじゃ)どもも、人間の末裔ではないか。そしてこの亡者どもも、やがては晴れて命としての神に昇天することがあるのだろうかと考えてみたり、否、命になれないから亡者としてしか生きる糧がないのだろうと考えてみたり、それでは人間の世界と同じではないかと、恐々と読んだものでした。今のRPGゲームの日本版原型であり、伊邪那岐命が伊邪那美命(いざなみのみこと)を慕っての冥界訪問・脱出物語ですが、神話における日本誕生物語でもありました。
712年に記された古事記によりますと、≪天地が開かれて、天上は高天原(たかまがはら)そして、地上はその時クラゲのように大海原にぷかりぷかり浮いているような状態でした。その時の神様は5人いらっしゃいまして、身を隠してしまいました。その次に7人の神様が誕生いたします。
国土・雲の根源の神様、泥・砂の神様、杭・支柱の神様、存在の神様、人格の完備と意識の発生の神様、男性の神様、女性の神様達でした。そして、この男性・女性の神様こそ、伊邪那岐神、伊邪那美神の神様だったのです。≫
天地開闢の神話は、その民族の正統性への証明でもあります。ですから、それが作られた年代も意味を持ちます。大陸にはすでに大文明が芽生えておりますから、その大陸に向けての開闢でもあると思います。
古事記は、≪ここより両男女神を、命(みこと)として区別し呼びます。つまり隠れた5人の神様が、諸々の命をもって、男女の2神に詔勅することによって、命となるのでしょう。
当然この神様たちは結婚し、お互いに慈しみあいました。愛し合って、そして出来た子ども達こそ、様々な神々の島々の誕生でした。その後、その島々に必要な、様々な神々が誕生いたします。
屋根を葺く神様、石や土・砂の神様、家の神様、海の・河の神様、凪(なぎ)と波の神様、分水嶺の神様、ヒサゴで水を汲んで施す神様、山の尾根や谷の神様、霧の神様、山地に迷う神様、鳥のように天空や海上を通う神様、食べ物も神様、物を焼く神様、火と光の神様、焼ける匂いの神様、鉱山の神様、粘土の神様、灌漑用の水の神様、生産の神様、糞尿の神様達、ありとあらゆる神様を産みました。≫
日常のあらゆるものを司る神が誕生するにあたって、誕生する神々の出現は人々の誕生を前提にして産声を上げていることに気づきます。そして、次に、邪神や悪神も誕生することから、すでに秩序が生まれていることが解ります。その秩序にのっとて神々が誕生するのです。
≪しかし、伊邪那美命は火の神様を産んだ時より、病がちになり、ついに死んでしまいました。
火の神の名は、火之迦具土神(ひのかぐつちのかみ)でした。伊邪那岐命は嘆き悲しみ、伊邪那美命を広島県の比婆の山に葬り、子である火之迦具土神の首を、十拳剣(とつかつるぎ)で切り落としてしまいます。切り刻まれた神の身体からは、頭、胸、腹、陰部、左手、右手、左足、右足と8神が誕生いたしました。さらに、この感情のほとばしりから様々な神々が誕生しつづけます。≫
神々の死からは、神々が誕生するのです。命によて死がうまれました。不思議に思うことは、神と命の差は、言葉であるのでしょう。その裏づけが命(めい)なのでしょうか。
天地の初め、黄泉の国はなかった。人格が死ぬことにより、黄泉の国が必要となり、誕生したことになるのでしょう。穢れが発生し、同時に禊が誕生いたしました。焼け死んでしまった伊邪那美命は、黄泉の国に行くことにより、神と人との分離、死と誕生の秩序が生まれたようです。そして、秩序が生まれるということは、混沌が発生しているという意味をもつのでしょう。
≪伊邪那岐命は、五神から受けた命の詔勅を、二人して成し遂げていないことに心を痛めたます。そして、愛する美しい伊邪那美命を連れ戻そうと、黄泉の国に侵入いたします。
彼女が葬られている古墳の入り口で、彼は『還るべし』と問い掛けます。彼女は、彼のその熱い思いを知り、嘆きます。
『悔しい。貴方が早く来ないので、黄泉の食べ物を食べてしまいました。その結果この国の住人となり、脱出は難しい。しかし、愛する貴方が迎えにきてくれたことに、私は嬉しく思います。還りたくないわけがない。黄泉神と話し合ってください。しかし、私を決してみてはいけません。』
この国を司る黄泉神(よもつかみ)に会って、彼女を連れ帰ろうと入り口より入っていった彼は、はやる気持ちに待ちきれず、その約束を破って火をかざして彼女の姿を見てしまいます。
彼女の身体は腐って蛆が沸き、雷神が全身に蠢く姿となっているのを見て、伊邪那岐命は、怖くなり逃げ出してしまいます。そのことを知った伊邪那美命は、『吾に辱を見せつ。』と怒り、予母都志許売(よもつしこめ)を追手として彼を追いかけます。≫
開闢の五神は、身を隠すことによって世界から消えました。また神の死は、神々の誕生というパターンもありました。しかし、伊邪那美命という人格を持った命が死ぬことは、初めて身体が腐乱し、蛆が湧き、死臭という香りも誕生したことでしょう。そして悪霊が取り付きます。いよいよ、禊と祓いの誕生です。
≪ 彼は、追手に追いつかれそうになると、身に付けている飾りを必死に投げ打ち、それを食べ物に変え、それを貪る予母都志許売を置いては、また逃げます。更に、雷神と黄泉軍が追手として押し寄せてきます。伊邪那岐命は十拳剣(とつかのつるぎ)を振りかざし、やっと黄泉の国の入り口、黄泉比良坂に到着すると、桃の実を投げつけ、呪力で退散させます。桃の実が邪鬼悪霊を退散さすとは、中国神話からきていますが、わが国の桃太郎伝説も、この流れを汲むものです。
この桃の実に、彼は『私を助けてくれたように、葦原の中国の人々が苦しい時、煩っている時、助けるように』と、神様を誕生させます。
いよいよ最後に彼女が追いついきました。彼は二人の間に、千引き石(ちびきのいし)を置き、彼女の侵攻を止めることが出来ました。
伊邪那美命は、最後に『愛しき我が夫よ。かくなる上は、汝が国の、一日に千人の領民の首を、切り落としてくれようぞ』と、叫びます。
それに答えて、伊邪那岐命は『愛しき我妻よ、私はそうとなれば一日に千五百人の産声を誕生させよう』と宣言しました。
このことにより、人の生き死にが始まりました。
日向に国に帰った伊邪那岐命は、身の穢れを禊ぎによって払います。そして多くの神々がここでも誕生するのですが、左の目を洗った時、天照大御神。右の目を洗った時、月読神。鼻を洗った時、須佐之男命を誕生させるのでした。以後、高天原を天照大御神、夜を月読神、海を須佐之男命に治めさせることにするのでした。この物語のあと、黄泉の国のことは話の出てきません。須佐之男命が告げる『母がいる根の国』という表現にかわります。≫
子供の頃に読んだ本は、童話だったのでしょうが、今読み直してみると、また違った読み方ができるものだと思いました。
黄泉の国とは、死者の行く闇の世界なのです。その国に、別の国の者が、足を踏み入れることは、穢れでもあるという。黄泉の国の食べ物を食べることは、その世界で生きるという意味を持つとしたら、何やら『飯を食う』という諺も、随分古い過去を持つのだなと感心した。
さて、仏教において、死者が懺悔し、三帰依文保持し、教義を説くことによって、仏様という覚者に祭り上げる発想は、禊祓うことによって、人が神に昇格するという神道と親しい。新鮮に感じることは、仏様となり、命(みこと)に祭られれば、それは死んで死なないという人格を手にしたことになります。
歴史的に言うと、山岳仏教のミイラ化した生き仏伝説などを考えてみた場合、虐げられた民衆の不条理を吸収していたのだと理解できるだろう。
穢れとは何だろうと考えてみた時、それは、人の尊厳であり、存在そのものであり、鎮められない葛藤そのものではないだろうかと思いました。
お彼岸
お彼岸
秋のお彼岸にしても、春のお彼岸にしても、大きな共通点は、夜と昼の長さの時間が均しいと言うことです。そして、これは分岐点をさし、身近には室内に日の差し込む角度が長くなったり、短くなったりとなります。
暗から明、明から暗は、同時に、寒さから暑さに向かうことを意味としたものと、暑さから寒さに向かうことの意味を持ちます。春夏秋冬から言えば、行きと戻りの中間地点でもあります。冬至を始発とすれば、折り返し点は夏真っ盛りの夏至です。どちらが行きなのか、戻りの地点なのかは、一年が環状の輪になっているとすれば、始発の地点が何処かによって変わってきます。どの時計も、針は真ん丸に、時を刻んで、ぐるぐる回るからと言って、元の時間に戻るとは言わないように、人生に戻りの季節がないように、人生に環状の輪は無く、いつも行きなのです。
戻ることは出来ない月日の季節の循環こそ、時計の針の動きに似て、矛盾を含んで、私は好きです。また巡ってきた秋は、去年と絶対に違う秋であり、お彼岸のはずなのです。それは、母を失って始めて迎えるお彼岸であり、父を失って、子を失って……、あるいは二度目の秋彼岸であり、結婚して始めて迎えるお彼岸であり、子が生まれて初めてであり、すべての人にとって、今年も始めて迎えるお彼岸なのです。
お彼岸は、寒さから暑さへ、暑さから寒さへの中間地点と言えますが、それは、命あるものの芽を吹き、青葉が茂り、花が咲く景色と、実をつけ、葉の色が変わり、やがては近づく試練の季節を乗り越えるため、身につけた一切の余分な身繕いを棄てようと営む行為にと向かう分岐点です。 このことから、春は、生き物を称え大切にし、自然を慈しむと言えます。秋は、自分が今・ここに居ることの意味を知り、亡くなった尊い祖先を敬い、しのぶことの意味が強いと思います。陽から陰へ、活動から停滞へ、華やぎから静けさへとも言えるのではないかと思います。
お彼岸とは、『人が、ふと立ち止まる』時かもしれません。精神的には、彼岸は、此岸(しがん)あっての故の彼岸なのですから。そして、彼岸は、正しい智慧であり、真理であり、悟ることです。何故この時期と言えば、太陽が西東に直角に交わり、西にも東にも近いからとも言えそうです。考えてみたら、それ以外の日は、此岸とでも言うのでしょうか。現実には、暦(こよみ)に、此岸はありません。
此岸が彼岸となり、彼岸が此岸となる。彼岸となり此岸となる、『と』こそ、人の立ち止まっている場所なのでしょう。何故なら、暦上は、丁度中間地点にお彼岸だからです。そうすると、これより一歩踏み出す先が、彼岸であり、此岸になります。 彼岸が在るためには、此岸がなければ成り立たない世界に私達が生きているとするならば、幸福を彼岸とすれば、不幸に生きていることを知らなければ、満たされるためには、満たされていないことを知らなければ、飛躍するためには、立ち止まって英気を養うことをしなければならないでしょう。
しかし、一歩踏み出した場所しか、私達が生きる世界がないということが現実なら、例え彼岸だろうが此岸だろうが、彼岸として生きることこそ、幸福なことだと、これが仏道です。
この時期、足下を見つめてみれば、様々な色に満ちあふれています。
春を代表する草は、春の七草で セリ(芹)・ナズナ(薺)・ゴギョウ(御形)〔=ハハコグサ〕・ハコベラ(繁縷)〔=ハコベ〕・ホトケノザ(仏の座)・スズナ(菘)〔=カブ〕・スズシロ(蘿蔔)〔=ダイコン〕です。
名もない路傍の草花と言っても可笑しくない草花たちですし、これらが食用になることを思うと、秋の七草は食べた記憶がありませんが、りっぱな草花で、この違いは何なのだろうと思います。
その秋の七草は、ハギ(萩)・オバナ(尾花)〔=ススキ〕・クズ(葛)・ナデシコ(撫子)・オミナエシ(女郎花)・フジバカマ(藤袴)・キキョウ(桔梗)です。どう比べても、秋の七草が種も背丈も変わって、草だけではなく、小木も入っていることから、華やかで在りながら、寂しさもあり、考え方が違うのではないかと、あとから考えて揃えたようにも思えます。
仏壇やお墓に供えるものは、春彼岸は『ぼたもち』、秋彼岸は『おはぎ』や『彼岸だんご』となります。最近では本当に少なくなりましたが、この頃になると、各自宅で、それらの外にも、五目ご飯とか造ったものです。昔の家々では、必ず、多く造って近所の家々に『お裾分け』したことは、忘れてならないことです。そう言えばと、初午なども、ご近所さんに配ったものでした。結婚式も棟上げ式もお祝いだけとは限らず、葬儀や通夜も入れれば、何かの行事には、必ず何か振る舞われたものですが、その地域に息づいて、分かち合うという習慣が、今は少なくなり、無くなっているのに気がつきます。
分かち合うとは、彼岸に到るための、六つの徳目の一つです。到彼岸とは、波羅蜜多(パーラミッタ)の漢訳です。 陽岳寺の法事で、最初に読むお経は、般若心経で、摩訶般若波羅蜜多心経と言います。摩訶は偉大とか、大きなという意味。般若は、プラジャナーと言い、正しい智慧、真理です。波羅蜜多が、到彼岸ですから、このお経の題名の訳は、『偉大な正しい智慧という真理に到るためのお釈迦様の教え』となります。
仏心
仏心
私たちが生きている環境に、無くてはならないもの、それは、空気です。頭の中では理解しているものの、当たり前のように思って、では、どんな味がするかといえば、季節によって、生活の中の場面によってかわります。食事の前の空気の匂いは、カレーライスのようでもあり、魚がこんがりと焼けた匂いであったりします。花々に覆われれば、薔薇の甘い匂いや、深い森に行けば、川に行けば、海辺ではと、様々な味と匂いに、私たちは出会います。
また走って息を切らしているときの元気な身体が吸う空気は、潤すかのようですが、弱った身体には、濃度がうすそうに思えます。苦しそうな空気です。
では、色はどうかといえば、澄み切った空は青く、どんよりした曇りの日は、灰色です。それに温度が加われば、清々しく、カラッとして、鬱とおしくと感じますが、空気本来のと言い方をすれば、わかりません。
現実には、煙のようなら見えるのですが、目の前の空気は見えません。近くや遠くに見えるものを介して在ると知識で理解します。そして、肌に感じる風を通して、冷たさや、暖かさ、やさしさや激しさでわかるのですが、でもそれは、風です。
ガスの匂いや、ひどい粉塵に襲われたときは、一刻も避けたいと思いますが、二酸化炭素に襲われればわからないのです。
無味無臭の空気は、生かされている環境の中では、とても解りにくいことです。
インドに、昔から伝えられている話があります。
青い海に群れをなして魚たちが泳いでいました。その中に、すばしっこく泳ぎの達者な魚がいました。
好奇心旺盛の若い魚です。その魚が、一緒に泳いでいる仲間に尋ねたのでした。
「世界のどこかに、果てしもない海があるというはなしを聞いたことがあるが、その海って、いったい何処にあるのだろうか?そんな海に出会ってみたいものだ」。
仲間達は、いっせいに、口をつぼめて、泡を出しながら言いました。
「ここにいる我々みんなも、海のことは聞いたことがある。だけど、何処にあるかは知らないし、わからない」
年老いた魚が、そのはなしを聞きつけ、若い魚を呼び、教えてあげました。
「お前たち、よく聞けよ。お前たちの話しの海って、今、わしらが泳いでいるここじゃよ。世界は、どこもかしこも海ばかりじゃないか。わしらはその海の中に住んでおるのじゃ。
わしらは海の中に生まれ、海の中で暮らし、海の中で死んでゆくのじゃ。わしらが今泳いでいる、暮らしている、これが海じゃ」。
仏の教えとは、人間の尊さ、おのれなき尊さ、人に和(なご)むことを、何よりも優れて尊ぶことです。そして、仏道とは、生活の中で、つくられたるもの移り行くこと、この世にあるもの一人あらずこと、おのれなきものに安らいがあることの中に、自分が居ることに気づくことです。
このことの表現として、合掌があるのだと思います。
そ して、「仏心の中に生まれ、仏心の中に生き、仏心の中に息を引き取る」ことの意味を、仏心を尊さに替え、命や家族、慈しみの心、智慧や自然に替え違和感なく思い描くことが出来るとき、釈尊や無数の祖師達に出会うと言えます。
仏心
仏心
私たちが生きている環境に、無くてはならないもの、それは、空気です。頭の中では理解しているものの、当たり前のように思って、では、どんな味がするかといえば、季節によって、生活の中の場面によってかわります。食事の前の空気の匂いは、カレーライスのようでもあり、魚がこんがりと焼けた匂いであったりします。花々に覆われれば、薔薇の甘い匂いや、深い森に行けば、川に行けば、海辺ではと、様々な味と匂いに、私たちは出会います。
また走って息を切らしているときの元気な身体が吸う空気は、潤すかのようですが、弱った身体には、濃度がうすそうに思えます。苦しそうな空気です。
では、色はどうかといえば、澄み切った空は青く、どんよりした曇りの日は、灰色です。それに温度が加われば、清々しく、カラッとして、鬱とおしくと感じますが、空気本来のと言い方をすれば、わかりません。
現実には、煙のようなら見えるのですが、目の前の空気は見えません。近くや遠くに見えるものを介して在ると知識で理解します。そして、肌に感じる風を通して、冷たさや、暖かさ、やさしさや激しさでわかるのですが、でもそれは、風です。
ガスの匂いや、ひどい粉塵に襲われたときは、一刻も避けたいと思いますが、二酸化炭素に襲われればわからないのです。
無味無臭の空気は、生かされている環境の中では、とても解りにくいことです。
インドに、昔から伝えられている話があります。
青い海に群れをなして魚たちが泳いでいました。その中に、すばしっこく泳ぎの達者な魚がいました。
好奇心旺盛の若い魚です。その魚が、一緒に泳いでいる仲間に尋ねたのでした。
「世界のどこかに、果てしもない海があるというはなしを聞いたことがあるが、その海って、いったい何処にあるのだろうか?そんな海に出会ってみたいものだ」。
仲間達は、いっせいに、口をつぼめて、泡を出しながら言いました。
「ここにいる我々みんなも、海のことは聞いたことがある。だけど、何処にあるかは知らないし、わからない」
年老いた魚が、そのはなしを聞きつけ、若い魚を呼び、教えてあげました。
「お前たち、よく聞けよ。お前たちの話しの海って、今、わしらが泳いでいるここじゃよ。世界は、どこもかしこも海ばかりじゃないか。わしらはその海の中に住んでおるのじゃ。
わしらは海の中に生まれ、海の中で暮らし、海の中で死んでゆくのじゃ。わしらが今泳いでいる、暮らしている、これが海じゃ」。
仏の教えとは、人間の尊さ、おのれなき尊さ、人に和(なご)むことを、何よりも優れて尊ぶことです。そして、仏道とは、生活の中で、つくられたるもの移り行くこと、この世にあるもの一人あらずこと、おのれなきものに安らいがあることの中に、自分が居ることに気づくことです。
このことの表現として、合掌があるのだと思います。
そ して、「仏心の中に生まれ、仏心の中に生き、仏心の中に息を引き取る」ことの意味を、仏心を尊さに替え、命や家族、慈しみの心、智慧や自然に替え違和感なく思い描くことが出来るとき、釈尊や無数の祖師達に出会うと言えます。
ご祈祷
ご祈祷
禅宗の祈祷の始まりは、西暦813年、百丈禅師が亡くなって、190年後『禅門規式』の、三八念誦からと言われています。三と八の日に、十仏名を唱えることで、報恩謝徳の思いをあらわしたと言われております。念とは、心にあること、誦とは、口に発することです。この頃、各宗派でも盛んに祈祷がおこなわれていて、その影響を受けたようです。
『禅苑清規(ぜんえんしんぎ1103年)』によれば、一つは、国家並びに仏法の隆昌、施主の増福・増慧するため、二つには、無常を感じて自己の修行完成を祈念する修法であったと言われています。これが、禅宗における、誓願としての“いのり”の初めと云われていると、臨済会編『葱嶺集』に記してありました。
また、蒙古襲来のおり、禅僧は坐禅ばかりして、「お祈りも申さぬ者」として批判されていた記録があります。幕府からも、天下太平檀那安穏のためお祈りせよと、ひまなく禅院に祈祷を依頼されたようです。その後、夢窓国師は、「坐禅工夫は退転す」と、この時代の一般寺院を表現しておます。今日、禅寺に残る、一日、一五日の祝聖(しゅくしん)という天下太平を祈る法式は、この時代の歴史を引き継いだものです。
そして、中世から現代に至って、禅宗の祈祷は、悪をつつしみ、善をなすべしの意味を持っています。善月祈祷というその善月が、諸天善神が四方を巡行して、ちまたの大小の善悪をもれなく四天王に報告する月として、帝釈天が鏡を持って、我らの世界を照らし、人の善悪を察する月が、正月、五月、九月であると、『勅修清規』に書かれています。身びいきの恐れから、贖罪の祈祷として、祈祷の中心でした。
そして今日、それ以外が主となって、祈祷は、日常のあらゆる場面に、顔を出します。受験、交通安全、家内安全、家庭円満、疫病退散、厄年祈祷、虫封じにぼけ封じ、悪魔払いや、各種お祓いには、つねに、その時代が顕れます。人の思いには切りがない分、これからも、人暮らしの変化に合わせて、様々に登場してくると言えるでしょう。
この祈祷の場所としては、東西南北の神々鬼神により結界がはられます。青龍(東=青)、朱雀(南=赤)、白虎(白=西)玄武(黒=北方)は中国古来の神話でもありますが、その神話に、仏教が合流し、帝釈天の守り神として、持国天・増長天・広目天・多聞天(毘沙門天)が、その四方の守り神として重なります。
大相撲の土俵の四隅も、結界をはった神域として、五穀豊穣や、国民和楽を祈る場所としてあります。さらに地鎮祭、上棟式、地下に埋もれた幽鬼としての遺骨のお祓いも、結界をはっての祈りの場所になるのです。
さて、陽岳寺護寺会の催すご祈祷は、“無事や平常であること”をテーマと考えます。何があっても無事を祈ることです。無事の基本は、変わり続けることの中に、何事にも変化しない自身の心の姿の自覚です。人の一生は、みずから朽ち、消滅して、かたちなき限りなきものとなることへの旅路ですというなら、生まれる前から、生まれても、そして旅立った後も、変わらない自分とはなにかと考えることです。
そのために、このご祈祷最初のお努めは、先ずは、何事も受け入れられる心構えとして、無心となることが強いられます。
これは、ひとえにじぶん自身に偽りのないようにと、素直さをいつまでも持てるようにとの意味です。これを懺悔と言います。
懺悔について、斎藤緑雨は、『眼前口頭』の中で、「懺悔の味わいは、人生の味わいである。」と記しています。しかし、その懺悔も、人生において、苦渋や自責、許されることのない罪、知らずに傷を付けていた事実の認識、叱責や出生において、苦悩や後悔がなければ懺悔も成り立たないことでもあります。原罪を持たぬ我々は、生活の中の、忙しさの中に、過ぎ去ることで、忘却という世界の中に生きているかのようです。
さて、祈祷とは、人の祈りを昇華させるものであると思うのですが、祈りがなければ、祈祷は成り立たないものです。その祈りの中身が、悩みや感謝とするなら、ヘルマン・ヘッセが、『放浪』のなかで、しるす言葉が光ります。
「祈りは歌のように神聖で、救いとなる。祈りは信頼であり、確認である。ほんとうに祈るものは、願いはしない。ただ自分の境遇と苦しみを語るだけである。小さい子どもが歌うように、悩みと感謝を口ずさむのである。」
また、祈りを昇華させるためには、祈る人と、その祈りを可能な現実なものにする超越する人格がなければなりません。超越する人格は、神や仏、亡き人や、聖者と考えられるものです。そしてその二つの間を取り持つ役割を担うものは、神官や僧侶です。なぜなら、祈りについての、その祈りの内容を、また、祈りのあとの現実を、具体的に示すことも必要なことだからです。もっとも何を祈るか見当もつかなく、ただ目前の欲望のみに囚われて、心を虚しくすることもあります。欲望を祈りに取り違えることは、現実をゆがめます。
カフカは、『カフカとの対話』の中で、“祈りを行為”に、“人を揺籃”に、そして、“やがて贈る側に転身を希う”と書いていました。
「祈りと芸術は、熱情的な意志の行為です。普通に見られる意志の可能性の領域を踏み越え、高めようとするものです。芸術も祈りも、それはともに暗闇に向かって差し出された手であり、その手は何ほどかの恩寵を掴み取り、やがては贈る側に転身したいと希(ねが)うのです。
祈りとは、消滅と生成に間に渡された光の弧の変容の手に我が身を投ずることであり、その途方もない光を、自己の存在のあるかなきかの、はかない揺籃(ようらん)に定着させるために、その光の弧のなかに我が身を完全に没入させることなのです。」(これらの文章の引用は、筑摩書房の筑摩哲学の森、別巻定義集からです。)
“光の弧”とは、プラスとマイナスの電極の間の、稲妻です。それは、消滅と誕生の間の揺籃する命でもあるのでしょう。芸術家にまかせることは置いておき、人が祈る行為により、揺籃する心から転身する。全てはこのことが尊いのでしょう。このことの中に、感謝が芽生え、知らず贈る側に居る自分を知ることがあるのでしょうか。祈る行為は、その中に、転身を希うことが含まれていることになります。
じぶん自身の計らいの中の、気づきは、人を変えるものです。この変えられた自分を希うことを、このご祈祷の本意と、考えました。
そして、過ぎゆく年の、来る年の、そして今日ただ今の無事や、平常であることを願い、祈りとしたいのです。
無事とは、禅語の『無事これ貴人なり』と、また、平常とは、これまた禅語の『平常心これ道』の、無事や平常の意味から引用いたしました。
平常とは、平等常住の略意で、涅槃・菩提・迷いのない世界・悟りの世界・名利を越えた世界・無心であるのですが、ここから一切の働き、一切の行為があらわれます。この行為や働きは、一切の善悪・順逆を離れているのです。善悪・順逆は我々心の分別です。このこと故に、私たちが世界に住んでいる限り、無事でないことは、まぬがれないことです。平常に生きることは、とても困難なことでもあります。
無事や平常は、逆に、この世間の事の中に住むからこそ、この日常ゆえに、対するものとして考えられます。日常を否定するのではなく、日常の生活のなかで、平常が現れなくてはならないのです。
カフカは、「やがては贈る側に転身したいと希(ねが)うのです。」と言うのですが、転身することです。
積極的に世間に事や日常にかかわることのなかに、転身することです。
徹底して、日常と平常は同じ道であるかと説くか、異なった道であると説くか、臨済が云う「歩々これ道場」は、行為は同じでも、無心か我が身では、雲泥の差が生じます。蓮如上人が、「婆さんや、糸をつむぎつむぎ念仏するのも結構じゃが、念仏しいしい糸をつむぎなされや」と、さとしたと言いますが、同じ行為でも、念仏するという無心の働き、それは、臨済が云う、「随所に主となる」行為です。身びいきの我が身に気づくことは、それは、じぶん自身の否定的転生です。絶対なるものとは、その光の弧のなかに我が身を完全に没入させることで現れます。
転身への祈り、それは、徹底できぬ自身への、素直さえの回帰という意味でもあります。
施餓鬼会にて(平成17年5月28日)
施餓鬼会にて(平成17年5月28日)
それはチベットの山々のはるか彼方のこと。一人の村人が、今、死を迎え、最後の儀式と作法をのぞんでいる。家族は、親しいラマ僧を、その男の臨終に呼んだ。
ラマ僧は、お寺にはいり、読み書きや呪文の教えを受けた十歳になるかならない小坊主を連れて、山を越え、谷を渡った。死者になろうとする家へいそぐ。
ラマ僧は、この小坊主にも、そろそろ、教えの扉を開いてよい頃だと思った。それには、人の死を目の当たりにし、この小坊主のうける様子にそくして説こうと。
誕生のときには、あなたが泣き
全世界は喜びに沸く。
死ぬときには、全世界が泣き
あなたは喜びにあふれる。
かくのごとく、生きることだ。
この言葉は、三万年の死の教えーチベット「死者の書」の世界(中沢新一著 角川ソフィア文庫)にある言葉です。
刻々に変わる人の臨終の姿に接して、変化して行く、その度に、法を説きます。このことは、臨終に接する親しいもの達に、死はすべてを奪うものではなく、ほんとうの豊かさをあたえてくれる機会だからこそ、山を越え谷を越えて、ラマ僧は人の臨終に出向くのです。
私は私という命をとおして、私の世界を生きています。そして、私の環境をとおして、私の世界を造り上げているともいえます。犬は犬の命をとおして、犬の世界を生きているといえるでしょう。
平成17年5月27日、フィリピンで60年ぶりの元日本兵発見のニュースに、真偽はともかく、元日本兵から眺めてみれば、また違ったものになることを思いながら、ふと、肉体は持たなくとも、もしかして、餓鬼は餓鬼、亡者は亡者という命をとおして、餓鬼あるいは亡者の世界を生きているのかも知れないと、こう考えることもできると思いました。
縁起や因果という条件が、命を左右し、それぞれの世界を作り続けるとするなら、お施餓鬼という眼に見えない世界に、亡者は餓鬼の姿ではなく、生前の最後に接した姿・形で瞼に浮かびます。しかし、私がつくる世界に、親しく亡くなった者の時間の経過は、浮かんでこないものです。
本日のお施餓鬼法要の冒頭の言葉を記します。
「若し人、三世一切の、仏を知らんと欲せなば、まさに、世界の一切は、おのれ自身の心が造ると、観ずべし」
これは、施餓鬼文、冒頭の言葉です。じぶん自身を含んで、世界を見渡し、判断するものは、私の心です。
この故にこそ生じ、限りなく変化し、親しかった家族から切り離された多くの故人への思いと、故人の思いを、お施餓鬼の法要は、七名の如来を迎え、称えて、助けとなるように、故人に送り届けます。
その七名の如来とは、旗に掲げた、南無宝勝如来(ナムホウシンジライ)南無多宝如来(ナムトホウジライ)南無妙色身如来(ナムメウシシンジライ)南無広博身如来(ナムコウハシンジライ)南無離怖畏如来(ナムリフイジライ)南無甘露王如来(ナムカンロヨウジライ)南無阿弥陀如来(ナムオミトジライ)です。
七名の如来の名号を唱え、掲げることで、
苦しみの姿を変じて、鏡の中に、仏の姿・形に変えさせることができます。
また、人は、惜しみ、むさぼることのくり返しのなかに、本来の我を忘れるが故に、総てが備わって、よみがえります。
美しい姿形の象徴故に、本来の自分らしさが整えられます。
広大無辺の象徴故に、与えられた物が、身をうるおします。
つねに追いつめられるが故に、恐れが遠のき、安らかになれることができます。
じぶん自身の欲による飢えの渇きの連鎖を断ちきるが故に、わずかな与えられた喜びを、大きく頂けることができます。
無数の餓鬼の限りなく創り出す心故に、この如来を前にすれば、心が入れ替わり、平穏にして、無事に生まれ変わり、救われます。
施餓鬼会の法要とは、弥勒菩薩の兜率天内院、四十九院を再現しようとする試みです。
五十六億七千万年後に出現するといわれる、弥勒菩薩を待てない我々の、せめて、一年に一回の試みです。亡くなられた方々と、供養する施主と、多くの尊宿和尚様方との出会いの場でもあります。
今この祭壇に、食べ物を象徴として多くの供物を捧げます。これは、人は、死して魂となっても、旺盛な食欲に支えられているものだとの気づきです。そして、これは人間の貪欲さであり、気がつかないけれど、心の貧しさなのかも知れません。だからこその、お施餓鬼会です。
これより、当山の檀信徒皆様方より願われ参加された、法号あるいは家々の先祖の名を、当山住職が読み上げますが、これは、安養の世界に往生を願う祈りです。香りによって届けたいと思います。また、お米と水の振る舞いは、我々自身の他者を思いやる心の育みの祈りとなります。
それは、心が充たされることの祈りです。
それは、潤いがもたらされることの祈りです。
それは、宇宙に偏満せる諸仏や神々に気づくことで、帰命することの祈りです。
さらに、この法要は、法華経の苦しみの心を救う道であり、みずからじぶん自身を見つめ直す誓いでもあります。
この故に、過去七世の父母に、今を生きる私たちの感謝を至心に捧げます。
それは、私たちの幸せを願い、無数の先に亡くなったもの達の心痛を安らかにして、生きとし生きる者が気づかなかった過ちをあらため、迷いの道から遠ざかることを願うものです。
ジテンキジンシュー 我ら、汝等に、この食を、施さん
命ある者の、自分が造りだしている世界は、この命ある者にとってだけ意味をもつ世界です。それを心と言うのでしょうが、その中をいきながら、根源に達していると感じることができない。「だから、途中なのだ。」と、ラマ僧は言います。
悟っても悟らなくとも、わたし達はこの途中にいることを忘れてはならないと思います。言葉を換えれば、未完成でしょうか。だからこそ、人の臨終に接して、知らずわたし達は、安らぎを求めます。
お施餓鬼の法要とは、時を経て、餓鬼や亡者に、永遠や安らぎという悟りや彼岸、完成を祈ることを忘れないための法要です。亡くなって久しく時をへて、日々、振り返ることを忘れたがちな者にとっても、これは途中にありながら、途中であることを無くす試みともなれば良いと思うのですが……。
永遠の命
永遠の命
多細胞の不死に近い動物が、この地球上には数多く存在するという。岡田節人(おかだときんど)(兵庫県出身、1927年生。京都大学名誉教授。生物学者、理学博士)氏が言うには、十八世紀より知られており、生物科学においては原始的な知識の一つであるという。あえて不死に近いと称する動物は、プラナリア(正式の日本語は渦虫類)といい、ヒルのような形をしていて渓流の石の下などに住んでいるそうだ。切っても切っても再生して元の通りになり、プラナリア自身、自らの体を前後に切って再生・増殖するという。遺伝的素性が同じの、自己の子供とは言えぬクローンのプラナリアは、かくて分離再生の増殖作業を繰り返して現在にいたっている。
氏が言うには、「このような生きざまで生きる動物の寿命を考えてみると、見方によれば、それは三日間だとも言えないでもなかろう。しかし、三日後に二分して生じた二匹のうちの一匹は、もとのと同じだ。別の一匹は新固体といえそうだが、本当にそうなのか?生殖を経由しないでつくられてきたのだから、これは分身であり、親子関係の全くないクローンなのだ。だから二分された時点をもって、新しい寿命の開始時点とはいえないし、またそれをもって、固体の生の終わり、つまり『死』とはいえないだろう。この二分切方式の生き方を続ける限り、固体の生命―寿命といえる―は持続する」。
つまり、見方によってはプラナリアは、永遠の生命を手にしていると言っても過言ではないのでなかろうか。氏は更に言う。
「そもそも生死、加齢といった言葉の意味が、プラナリアにとってはさだかでないものになってしまっている。つまり、生き物にはさまざまな生きざまがある、ということであって、生命・自然を人間の実感だけから延長して眺めるのは、折角の自然のもつ光彩をかげらせるということだ」。
プラナリアにとっては、二分した後、脳も眼も再生されるという。ただ残念なことには、この動物は大変に死にやすいらしい。環境の変化に大変に敏感で、住んでいる水質にちょっとでも気に食わぬとなると、懸命に逃げようとするらしい。おかげで、水質検査の道具として使われたりするそうだ。いま死と言ったが、正しくは、半永続的なるべき寿命の切断であり、殺されたといえる。
誕生と死を繰り返す循環型生命体としての成長あるいは老いという過程がない生命体にとってみれば、、誕生と死のメカニズムも存在しないことになってしまう。かれらは永遠をいつのまにか取得した存在であるわけだ。そうすると繁殖の必要性は、種の保存にとって最低限のものに限られるのだろうし、彼らが絶滅することの回避プログラムは、必要のないものになってしまうことになると岡田節人氏は云う。
一般的な生物は、自分の肉体的な変化の中で、つまりは成長と老いの過程の中で自らの存在を認識しつつ、次の世代に向かって自己の情報を発進し伝達するというプログラムを幾世代にわたって繰り返し、増殖し、種の保存を続けてきたことになるわけですが、彼らは生老病死のうちの生老死がないことになり、遺伝子という言葉自体も意味がなく、彼らにとっての存在への危険は、環境変化と外敵より自己を守る防御機能さえあれば良いことになってしまう。外敵より自己を守ることが、二分切方式だとしたら、彼らこそ生物の固体において、地球上、人類の目指すところの肉体の永遠性を手にした生物といえるのではないだろうか。 彼らからしてみれば、生老病死を持つ固体は下等な存在なのかもしれない。
われわれ人間はここで視点を変えてみて、実は人間も生老死がないとなれば、われわれ人間の習性・習俗もずいぶんと変わってきて、世の中はどんなになるのだろうか。
結婚がなければ子供はいない。子供がいなければ、守るべき家族もない。教育は何十年いや何百年するのだろうか。延命のための医療はいらない。自分のクローンばかり増えてもしょうがないので、人口の増加もなし。富の蓄積は必要のないものになってしまうだろうし、自分のクローンが数多くいる世界では見栄を張っても競争しても意味がない。老化しないのであれば健康への心配もさほどなく、何歳までと人生設計することもないし、失敗しても取り戻す時間は有り余っていて、人類の目標である不老不死は達せられているのであるから、年金はなく今までとは全く違う考え方や目的があるに違いない。
私達は、”命”と言うとき、その命は常に自分をあるいは固体を指していないだろうか。プラナリアにとって”命”と言うとき、実は我々にとって当たり前の誕生と死の存在しない”命”のことなのだ。
「人間にとって誕生と死が存在しない”命”とは?」と考えたとき、考えられる命とは、我々を覆う命のことではないであろうか。命を育む環境、地球、宇宙。それは、自分を取り巻く総ての環境をつつみこむ存在そのものであるに違いない。存在そのものが続く限り、地球も宇宙も環境も存続するとするならば、我々一人一人の命も存在そのものの中で、永遠として生死を超えて、命を育むに違いない。
人は死ぬものだから、死にたくないのだし、病気にかかるから、病気にかかりたくないのです。老化防止のため運動をしたりするのであって、不自由な生活はいやだから豊かな 生活したいし、競争するから勝ちたいのであって、不幸より幸せで居続けたいものです。 人の願いをよくよく考えてみれば、これってプラナリアの世界にとっても似ていると思うのですが?
輪廻する葦(平成10年5月27日)
輪廻する葦(平成10年5月27日)
どうして家庭において三世代四世代の大家族の姿が見えなくなってしまったのか?どうしていじめは起きるのか?どうして、子供達は外で昔のようにいろいろな年齢そうに渡ってのグループを作って遊ばないのだろうか。
老人ホームや各種の施設がなければならない世の中なのですか?何故、皆行き着くところ、自分が大事と自分の事しか考えないのだろうか? 昭和三十年以降、我々は何を求めて現代を歩いて来たのだろうか?もちろん、それぞれの人があらゆる角度で、無駄を省く事を追求し、我々自身の生活の質の向上と豊かさと幸せを目指して来た事は、間違いのない事実です。でも、何故ですか? 我々の求めて来たものは、何だったのでしょうか?
求めるその事自体を考えることも必要なことです。求めるということは、当然それに反する事は疎外を伴います。合理性や便利さ快適性面白さを追求すれば、それに反するものは我々の家庭内・企業内から排除されることになります。我々が捨ててきたもののうちに、答えはあるのだろうか?
社会は管理しやすい、それぞれ均一の固まりに仕分けすることを求めます。各種の施設が林立し、組織が組成されるという事は、そのことによって排除も同時進行しています。すべての組織・施設は人が構成して成り立つ以上、排除は人間に及ぶわけです。 また物を大量に消費する事に未来が開けるとしたなら、現代においての未来は悲惨を伴います。何故ならば、未来にとっての資源や繁栄を現代は食いつぶしているかのように思えるからです。未来にとっての現代は礎であるべきに思います。
礎は個人である私達一人一人です。いま、あなたの生まれてきた価値を問われた場合、あなたはどう答えられるでしょうか。私達の血液や、からだを生物として考えた場合、私達の遺伝子を次の世代へと伝達すると言う使命を負っていると言ってよいでしょう。次の世代へと渡すという行為を、私達の祖先は何千年何万年という時を経ておこなってまいりました。そして今があります。
今という時間には祖先が行ってきた何千年何万年と言う時が凝縮されていると言っても過言ではありません。つまり過去と言う総てが含まれているということになります。そして一人一人という単位から何十億人と言う単位に広げてみると、実は世界中がひとつの生命体として考えてみると、この生命体も同じことをしていることになります。命はひとつであると同時に、そのひとつの命は無数の命によって支えられている命です。私達はそのひとつひとつに過ぎないと同時に、実は全体の命を代表するかけがえのないひとつの命なのです。
私達はその大きな命から次の世代へと情報を伝達す使命を持って生まれ、やがてその大きな命に帰って行きます。人間とは輪廻する葦と変わりありません。地 上に生存する短い間、私達は生命維持プログラムをいじる権利を与えられます。ですがその権利は未来のためです。
礎は、ものの価値を命を次の世代えと継承する事に有ります。それぞれの人が常にそれぞれの立場において、情報(価値観・考え方・物の見方・自分自身の生き様)を、次の世代に向かって発信し伝承する事が必要なのではないでしょうか?
その中に人それぞれの尊厳が輝きます。もちろんその為には、様々な人が一人一人謂いたい事をいえて、それぞれの人が聞く耳を持っているという環境が大切ですが。
人が消費されない疎外されない世界を伝承できるなら、未来を含んだ今日も輝いているのですが?
連鎖する命(平成10年6月2日)
連鎖する命(平成10年6月2日)
葬儀においてまた日常の生活の中で、お清めとかお払い・禊〔みそぎ〕と言う行為をよく目にいたします。何がきれいで何が汚いかということは、その社会においての暗黙の決め事であり,また永いときを得て蓄積された個人観のものですが、時代を変遷しつつも底流に流れていると言ってもよいでしょう。時代に寄ってその底流の流れはあまり大きく変化しないものなのだなと思います。これもひとつの不浄観でありますが、裏切りがあります。官僚による密告。もっともこの裏切りも”正義を正す”と言う観念によって行われれば裏切者は官僚の社会であり、密告者こそ正義であると言う事になるわけですから、密告者の不浄観が社会に告発するということになります。そしてその不浄観を社会が受け入られなくなった場合は、社会そのものに閉塞観がただよい、息苦しい社会になって行くことでしょう。
古来、インドや中国では、人間の死体の腐って土に返る様をながめて、人間の虚しさを知るのも修行の一つだったとも聞きます。昔、肉屋の中で生きた鶏の足をしばり、逆さまにつるして首を折り、羽をむしってつるしてあるのを見て、いまでも鶏肉を食べられない大人を知っていますが、何がきれいで何が汚いかと問えば、不浄観が問題になります。もっともこの場合は、嫌悪感と同時に人間の持つ悲しみの感情と拒絶観が体にしみつき、まざりあったものを思います。この不浄観と虚しさが、やがて仏教を興すことの源にあるといったら、研究者の叱責をこうむるかもしれませんが、少しはあったろうと思うのです。この虚しさは、やがて空の思想へと発展したと言ったら、ますます叱責を買うかも知れません。
この虚しさを空あるいは無と言わずに、《実態が無い》と言うことから、この話を進めてみたいと思います。
この世界に存在する総ての物質、生命はそれ自身にとって、《実態が無い》と言うことと、また、この世界に存在する総ての物質、生命はそれ自身にとって、唯一のかけがえの無い存在であると同時に尊厳あるものであると言うことは同じことなのです。それゆえ、総てのものはあらゆる可能性を持ちながら、あらゆる束縛、拘束を持つ。
いま、世界は情報ネットワーク化により急速に狭まったかのように思えますが、実際は、私と言う一人の人格のネットワーク先が急速に拡大して、広がったと言うことなのではないでしょうか。良く言われることなのですが、私に友達が10人いて、その10人の友達も10人の友達がいたら100人になります。同じようにして100人は1,000人に、1,000人は10,000人になります。私を中心として、実は世界中にネットワークは昔から繋がっていたのは事実です。ただ、私と言う人格がそのネットワークを実際に見、感知することが難しかっただけの事です。今も昔も、私と言う人間が誕生したその瞬間にネットワークは張り巡らされます。ただしその情報の速度は極端に遅かったり、早かったりのまちまちですが。
赤ちゃんにたとえてみますと、母親から誕生した瞬間《実態の無い》(純粋無垢とも言う)赤ちゃんは母親と子供というネットワークを結び、直ちにまた時間をかけて、母親は母親と言う人格をはぐくみ、赤ちゃんは母親にとって子供という人格を形成していきます。そして二人目の赤ちゃんが生まれた瞬間、一人目の赤ちゃんと二人目の赤ちゃんはネットワークを結び、例えば姉と妹、兄と弟というように。ネットワークをはずせば二人とも独立とした尊厳ある一人の人間となります。このように、ネットワークで結ばれる事によって《実態の無い私》は、弟が誕生する事によって兄となり、姉となり、先生と生徒というそれぞれの経験の蓄積により人格を形成していきます。
つまり、ネットワークに流れているものは情報であり、《実体の無い私》を規定し、拘束するという性質を双方向にもつものですから、考えてみるとこのネットワークを無限に広げて行けば、《実体の無い私》は無限の可能性を人格形成、あるいは知識をつむことができます。ところが同時にそのことは、無限の束縛、拘束をも受けることになります。私と言う実体の無い人間を中心として、世界が、宇宙 がネットワークを結んでいるとはこの事をいいます。実際は私にとってのネットワークの世界はたった一つであるのですが、それぞれの私がそれぞれのネットワークを確立していることになりますので、実はこのネットワークは共有されている事にもなり、それぞれの私がネットワークの中心に位置していると同時に私あるいはそれぞれの私は、ネットワークを支えている一人ということにもなります。このネットワーク全体を、《大きな命》と呼び、仏と呼び、神と呼び、地球環境、生命体と呼んでみましたら、総ての生命体は実はひとつの生命体と認識できるような気がするのです。
ネットワークの中を双方向に流れているものは、まさしく人を規制する情報です。兄と弟は互いに独立とした尊厳ある生命体であるのですが、それでも兄は兄であり、どう転んでも弟は弟として平等と差別の関係が双方向に成立いたします。私がこのネットワークに一石を投じれば波紋は世界中に広がると同時に,他者が投げた一石は私をいかようにも揺るがします。生命を持つと言う事は、翻ってネットワークを共有するということでもあり、この情報ネットワークには、常に情報が流れて変化いたします。これを無常と呼び、このネットワークの関係を仏教では縁起といい、世界の有りよう、あるいは成り立ちを定義する言葉として重要な意味をもちます。
ネットワークは時間をも取り込みます。私にとって過去は常に今という瞬間を規制いたします。また未来は常に現在を規制することになります。家にいて外出前、外は雨が降っているとすると、玄関を出る前人は傘を持ちます。家の外は未来です。未来は現在を規制し、現在に傘を持たせるのです。子供が来年の2月に私立の学校の受験があるとすると、未来の受験が今を動かすのです。これも時間の双方向のネットワークです。しかも私を中心としてです。
このネットワークも常に波紋を投げかけます。私達は過去を終わってしまったことと思うのですが、過去は現在において始めて過去であり得ることを思うと、過去は過ぎ去った過去ではなく、過去も現在において常に変化いたします。《失敗は成功のもと》とは、言い得て妙なことばです。未来も現在において、常に変化いたします。このことより仏教では無常と言います。今が始まりとともに大事な大切な今となります。この常に変化する世界と時間の中で、大切な今という瞬間に、人は変化しない、永遠、幸福、友情、安定を求めてやみません。ここにそれぞれの人にとって、心の問題が意味をもって来ます。
ネットワー クの中心はあくまでそれぞれの私であるのですが、私の心は、いやな事があれば、ネットワーク全体を灰色に見ます。世界の端っこに、穴があったら入りたくなるのですが、穴に入ってもそこが世界の中心です。私が悲しめば世界も悲しむ事になります。どうもがいても私が世界の中心にいて世界を代表していると言っても過言ではありません。あるがままに生きるとは、一種の開き直りのような、現実を厳しく見つめた上での覚悟に似ている言葉です。命とはそれほど貴重なものです。私が薔薇色なら世界も薔薇色とはこのことを言いますが、私以外の人のネットワークの世界は多少は変化するかもしれませんが、私の色に染まりません。それぞれの人が世界の中心にいることになるからです。私は、それぞれの私を認めて、受け入れると言うことが大切です。
禅宗の修行とは、ネットワークのまただ中において、独立とした尊厳ある自己を認識することにあると思うのです。そこに、真の自由である私を発見していただきたいとつくづく思うのです。ネットワークのまただ中にいて不自由の世界を、今を輝かして下さい。それぞれの私の求める、変わらぬものを、永遠を、友情を、幸福を輝きの中に見出せることを念じて。
涅槃(平成10年8月12日)
涅槃(平成10年8月12日)
先日、脳の雲膜下出血にて重い脳障害が発生し、治る見こみがない人からの快気祝を頂いた。この悲しい祝い品は品物を各自で好きなものを選び、後日デパートより届くわけだが、ふと彼女も使うことが出来るのだろうかと考えてみたら、身体の中に寂しさがよぎった。
痴呆性の老人のところに、病院へ見舞いに行った時のことだった。ある時は、彼女は目をつぶり見舞いのゼリーも口にせず、このままでは寝たきりになるのも時間の問題だと見えたものだった。翌日に行った時は、彼女は私の顔を見て笑った。ふと「起きますか」との問いかけに、彼女は全身で答えたように思ったので、私はベットを起こし、大たい骨骨折の手術2週間ちょっと後の彼女の身体を足をベットから投げ出し、座らせてみた。彼女にとっては入院してから初めての腰掛だった。
元気だったのは一日で、また、具合が悪そうに眠る彼女の真実はどちらだろうと考えたとき、どちらも本物の姿なのだと気がついた。その姿は、本人にとって悲しくも有り、見るものを辛くやりきれない思いを誘うかと思えば、歩こうとする本人の意思を感じられてうれしく思うのも事実だし、一日の内の極端な変化でもあったのだ。
そしてその辛そうな姿を見たとき、かすかに「殺して」の声に、人の一生の無常なる試練を呪った。 現代の医療では残念であるが、時がたてばやがて痴呆はもっと進んで、おそらく最後は、彼女は安らかな顔をして穏やかに眠るがごとくに,息を引き取るに違いない。そしていつか、彼女の菩提寺の和尚として,私は彼女に引導を渡すことになるだろう。後日、リハビリのための転院先で彼女は元気を取り戻し,笑顔が戻ったのが何よりうれしく思うと同時に、繰り返しの時間の進行の最先端は不確実性の真っ只中であるとつくづく思うのです。ただただ老年の姿の変わり身の早さとそれに追いつかない老年の心の中を、何とかしてあげたいと思うのですが、出来るのは祈りと希望を与えることのできない自分への慙愧さのみです。
古来より仏教では、人は生まれ変わり死に変わりして、人の魂は永遠に輪廻を繰り返すと説いてきました。しかし現代では、現代と思っているのは私だけかもしれませんが、過去より未来永劫の間、人の魂が他の肉体に宿り繰り返すというようなことは想像の範囲を超えることであり、まして事実であるとは断定できないことと思うのです。しかしながら、ある一面においては、万物一体、地球は一つ、生命の連鎖と密接に関連していることと考えると、そっとしといたほうが優雅であると思うのです。
現在に至るまで、人は何兆人だか知らないが人の死のおかげで現在の自分があるわけですが、その人達の記憶と、遺体を含めての糞尿すら地上に記憶を留めていない。しいて言えば我々の大地がその存在の証になるわけで、このことは物質としての肉体の循環=リサイクルこそ、大地が人を生物を育むのは自明のことです。豊かな大地あるいは母なる大地が最も大切なことは、あたりまえのことです。その大地に人の肉体が消えて行くとき、人の思いや魂は何処に行くのだろうか?
過去、仏教の聖地インドではカースト制度や厳しい環境下、貧富や身分の差が激しく這い上がることなど困難な社会において絶望と悲嘆の交差する生に、更に生まれても生まれても辛く苦しい社会において生きるとしたなら、また限りなく困難な生を繰り返すとしたら、人は死んでも死にきれない。次の誕生に恐れ絶望を抱いたであろう。
過去の世界から翻って現代を考えてみると、このことは現代でも生命の連鎖を繰り返す人にとって、十分に通じることなのだ。公害病に散々悩まさられ、辛く苦しい戦いを強いられた人々。ベトナムの枯葉剤による遺伝子変化は現在も悲惨なる現実の問題としてテレビにて報道される。ダイオキシンによる被害は数年先の未来を予感させる。オゾン層破壊はどうか?各種の食品添加物の問題。船舶の鉛塗料と海洋汚染。海洋投棄とゴミ埋め立てによる有害物質流出の問題は、海だけでなく、飲み水と作物への影響が心配であると同時に、これはいずれ一人一人の問題として、個人にのしかかってくる。
つい最近まで日本の水道水は安全であったはずである。浄水機や安全な水を我々は今求めている。ごく近い将来、安全な空気を販売する時代になると否定することは、あながち出来ないのではないか。自分の脳を含めて身体中ガンに犯され、また環境汚染により免疫力の極端な低下にさいなまれ、多くの人類が「生きたい!でも殺してくれ」と叫ぶ未来がくるかもしれない。しかしながら、もし怨念やたたりが、映画「もののけ姫」のように現実に存在したならば、水俣の空はいつもどんよりと曇っているはずである。日本中いや世界中の戦争や被爆地、災害や事故の地は怖くて歩けない。
次の世代は過去の世代による負の恩恵の生活を強いられるとしたら、まさに人は命の連鎖を絶たねばならない時代に突入している。その上で人は生き続けなければならない、生きながら人は命の連鎖を絶たなければならぬだろう。ここに禅の必要性がある。
釈尊の悟った涅槃の内容を竹村牧男氏は著作【仏教は本当に意味があるか】で《マッジマニカーヤ》の中の《聖求経》の文を紹介しています。
『修行僧らよ。かくしてわたくしはみずから生ずるたちのものでありながら、生ずることがらのうちに患いを見て、不生なる無上の安穏・安らぎ(ニルバーナ)を求めて、不生なる無上の安穏・安らぎを得た。みずから、老いるもの、病むもの・死ぬもの・憂うるもの・汚れたもののうちに患いのあることを知って、不老・不病・不死・不憂・不汚なる無上の安穏・安らぎを求めて、不老・不病・不死・不憂・不汚なる無上の安穏・安らぎを得た。そうしてわれに知と見とが生じた、-「わが解脱は不動である。これは最後の生存である。もはや再び生存することはない』
牧村氏は、この本の中において釈尊の無上正等覚いわゆる悟り、そして解脱・涅槃を過去の仏典を屈指して追跡していて大変に面白い。
禅において最重要なことは、釈尊の追体験以外にない。この立場に立ってこそ、釈迦・達磨は大先輩になり、臨済、黄檗、南泉は先輩になることができるでしょう。そしてこの立場に立って更に一歩を踏み出すことがそれぞれの独立とした境涯をかもちだすことになると思うのです。その一歩を踏み出した言葉を禅録で見てみましょう。
「和尚は百年の後どこに行かれますか」
南泉和尚「山下の檀家で一頭の水牛になる」
「凡の次元より聖の次元に入ることはさておいて、聖の次元より凡の次元に入るとは、どういう場合でしょうか」
曹山和尚「一頭の水牛に成りきるところ」
南泉和尚は、日ごろ「およそ沙門たるものは、畜生の生活を行じなくてはならなぬ。畜生の生活を行じなければ、道理というものはない」と説いた。
「そもそも、南泉は何のつもりこのことを言ったのでしょう」
帰宗和尚「畜生を行じても、畜生の報いを受けぬところだよ」
趙州和尚「実在を知っている人は、どこで休止しますか」
南泉和尚「山の下で一頭の水牛になる」
南泉和尚「諸仏祖師は有を知らぬ、山猫や狸狐の部類は却って有を知る」
古来、南泉和尚が活躍していた時代、やはり前世の負債を重く背負った個人が死んでなお負債を払うという時代でした。一般には死んで浄土をめざすわけですが、南泉和尚を含めてすべての禅僧は西方浄土に旅立ちません。畜生となって働き生活し、活発に心を躍らせることに、人としての活躍する場所があると受け止めます。また畜生を自らの煩悩と言い換えてみますと、悩みや苦しみの真っ只中に宿命を背負うことにもなるわけです。真っ向受け止めむしろ積極的に悩みや苦しみの中に生きるところに、本来の自己が主体となって、自己が新たに世界にかかわって行くことになります。そこに悲壮感はなく却って爽快感こそ見て取れると思うのです。
私は自由という言葉をよく口にいたします。そして、その自由の表現として、自己の世界の一瞬の耀きと言います。この耀きのまま、不自由のまっただ中に没入したとき、輪廻あるいは生・老・病・死を超えて、あるがままの自己と真の自由を得ることが出来ると思うのです。このことは『鏡』において書いたごとくの自由なもののみ方と、だけど自分はこう狭くしか見ることが出来ないのだという、諦めの中での落ち着きどころに似て、すべては元のままの現風景を映し出して、自己の主体は細部を見ることも可能となります。
武者利光氏の著作『ゆらぎの発想』のなかで、「ゆらぐことが生きていることの証であるということを知り、迷いが多くて自信を失っていた自分に生きる力がわいてきました」と、読者の感想がありました。
氏は「常に典型(標準型)からのゆらぎが存在することによって、典型の近くにどんな異なった生存の条件があるのかを認識することができます。つまりゆらぎは、典型の近くにある、さまざまな生存のための条件を認識するための、触覚の役割を果たしているということが言えましょう」と言います。典型を見極める自己の鏡がとても大事なことです。武者氏には叱られてしまうかも知れませんが、典型を平常時の心と置き換え、ゆらぎを感情の変化や悩み苦しみと置き換えてみますと、「ものごとなんでも進化するためには、ゆらぎが必要です」の進化を生きる力、たくましさ、積極性と置き換えますと、悩みやつらさマイナスものこそ、人を人として自立させる糧になります。
更に煩悩を《ゆらぎ》とみた場合、そこに落ち着き場所をもうけてしばし、ゆらぎの中で、じっくりと自らのゆらぎと付き合ってみてはいかがでしょうか。南泉和尚も喜ぶかも知れません。
武者利光氏の言葉です。
『人間の進化にもゆらぎが必要ですか?
私が高校生の頃、生物の教師に「君たちは、親に似ることが遺伝だと思っているが、実は似ないのも遺伝なのだよ」といわれました。当時は何を言っているのか、その意味がよくわかりませんでしたが、ゆらぎを相手にしていると、わかるようになりました。進化にはゆらぎが必要です。親と子が全く同じ、子どもと孫が全く同じだとすると,進化はありません。進化がなければ、その生物は環境に適応できなくなるときがあります。生物の形態が、全く同じではなく,少しずつ似ていないという遺伝があって、初めて進化することができます。この親と子の違い、子と孫の違いが、ゆらぎです。
物事、なんでも進化するためには「ゆらぎ」が必要です。生物の形態がゆらいで,その中から環境に適したものが選ばれて生き残っていくことになります。』
私は、武者氏の”進化”を”成長”や”老い”と読み替えてみますと、このゆらぎの意味することは大変に興味深く、あるときは悩みに、また立ち止まって深く自分の存在について考えてみる思索のことだったりと自分のことに当てはめてみるとわかると思います。ゆらぎの中に自らの存在の涌き出る泉があるように思います。
もともと人の心は常に耀いて、生き生きと活発に活動しています。そこのところをどう見るかです。 「心は太虚を包んで元気を孕むものなり」マイナスはプラスに、プラスはマイナスに、自由は一心にありというところです。
鏡(平成10年7月25日加筆)
鏡(平成10年7月25日加筆)
鏡に鏡を映すと、鏡はその性質をいかんなく発揮して限りなく鏡を映す行為を重ねる。その闘志は滑稽に見えて悲しい。
人は外出の時に目的や場所を思案して服を選ぶ。その服が季節と合っているだろうか、乱れていないだろうか、おかしくはないだろうかと鏡の前に立つ。鏡は鏡の前にある事物を忠実にただありのままに映すのだ。人は鏡の持つ客観性をおのずから知り鏡の前に立つが、おのれ自身に客観性を持たぬことを知らない。それゆえ鏡の前に立つことは必然に長くなるが、独断にたければ短くなるのも道理に違いない。
幾世代にわたって人は鏡の持つ魔力に引かれ、数多くの物語をつくり、そして考えてきた。鏡の前で「この世で一番美しい人は誰か」と問う女性がいたり、水面に映る自分の容姿にうっとりと時を忘れる人もいた。鏡の前に据わり涙を流す女性を映した映画を見たこともあった。鏡の前に立つことはこれから始まるドラマの初めであったり、あるいは終幕の後であったりと。鏡に向かって口紅をさす女性はけっして鏡の中の女性自身に、口紅を塗ることはできないのが不思議に思えたりもする。
鏡の色を考えてみるとき、日常よく使う鏡は銀色の鏡なのだが、ものを映す鏡の中の鏡の色は自分の色を持ってはいない。もちろん銀色でなくてもよいわけで、内容は表面粒子の細かさとか並び方が光沢を造るのだろうか。すると、鏡とは物質の表面の状態をたんに云うだけであって、物質は問わないのかもしれない。物質の表面の輝きが鏡を造るとしたならば、鏡自身が自分の色を持ち得なくなったときに初めて、鏡は鏡となるのだろうか。
昔、中国で瓦を一生懸命に磨いて、鏡を造ろうとする禅僧がいた。心を磨いて仏心を造る喩え話なのだが、ひょっとしたら現代の技術を使ったら鏡になっていたかもしれない。すると歴史は少し違っていたかもしれない。
人は自分自身の中に何らかの鏡を持つといえる。
江戸時代、赤穂に盤珪禅師がいた。不生の仏心を広めた禅師であり、禅師の説く不生の仏心の話はわかりやすく庶民に好かれた。
説法の日に、「私が話すことを聞こうと思って、この場所に皆さんおいで下さいました。ですが、話を聞いている間にも、皆さんの不生の仏心は、寺の外にて、犬が鳴きますると、犬の声と聞き知り、鳥が鳴きますると鳥と知ります。目には赤白の色を見分け、鼻によしあしの香りをかぎしります。見ようの聞こうのと覚悟無くて、見たり聞いたり致すところが、霊妙な仏心が不生にして、見聞きすると申すものでござる」
「仏心は不生にして、しかも霊妙でござる。仏心には念と物が在りませんから、色々様々の念が起ころうが、払おうとも、止めようともかまわず、取り合わねば、自然と不生の仏心に叶いまする。不生の仏心にはもともと、迷い無いことを知りなさい。また、一切をよく照らし別けまする」
「鏡は元来無心なものでござる。写りたる影を除こうとも、除くまいとも存ぜず致さぬが、明鏡の徳と言います」
「見ようとも思わずして、20年来の友来れば、友と知り、火にかざせば熱いと知る、霊妙なる徳というものでござる」
私がまだ高校生の頃だったと思うが、夏休みに信州の霧が峰に行ったことがあった。ただ覚えていることは真っ白な世界だったことだ。冷たい風に霧の白い濃淡が流れて、私が流されているのかのように錯覚したことがあった。自然の猛威と美しさの中で、くるくる舞う小さな舟のような自分の存在が、何かに向かって太刀打ちできない存在だということを思い知らされるかのように、それは美しい怖さだったと思う。白い闇に違いない。
鏡は暗闇の中で、像を映しているだろうか。それは光の無い世界で、物を映すという行為はあり得るのだろうか。光がなければ物は鏡に映る筈がない。鏡が私自身だとすると、闇にあるのは私の意識そのものを映すことになるのだろう。
年老いてここは何処、家に帰らなければと自分の安らぐ居場所を求めて、非日常の少女時代の我が家や兄弟を探してさまよう老人の鏡は、いったい現実の何を映しているのだろうか。鏡は鏡として忠実に現実の在りようを映していることに間違いはないのだが、老女は闇の中にいると変わらぬ。光り輝く現実その物が闇と化した老女の心意識は辛く苦しい。
辛く苦しいがゆえに、自分自身をも忘れて欲しいと思うのだが、人は自分自身を忘れることは至難の技だ。そうして夢の中の世界を「ここは、どこ!」と、今日もさまようすがたは、悲しく痛ましく感じる。健康で、ものの判断力は一人前と何ら不思議に思わない健常者の鏡は、はたして現実をそのものに映しているのだろうか。おそらく誰一人として、忠実に映している人はいまい。だから、人は迷い、苦しむ。そして、楽しいのである。ここに、人間の地に付かぬ原点があると思うのだが、どなたかお聞かせ願いたいものである。
先日ごく親しい友人と話していて、彼の言った言葉が示唆に富んでいる。彼は週末になると聖路加ガーデンにて水泳をするのだが、最初の300メートル400メートルを泳ぐのに息を切らして何年もかかってしまった。700メートルを連続して泳ぐのに数ヶ月かかった。其れから2,3ヶ月で何時間も泳げるようになったのだが、
「2キロぐらいは泳ぐだろうか、まず背骨をまっすぐに意識して肩の力をぬき、全身の力をぬいて泳ぐのだが、不思議なのは水の抵抗を意識しなくなってしまうことなんです」
自己に鞭打ってがんばるその先に、頑張らなくても全うする忘我の自分は、すべてを見とおしていて、染まらない自分でもある。そういえば、平成10年の不景気に、
「実は、こういう景気だからこそうちらあたりの商売に光があたるのです」と言った人がいました。多品種少量の廉価で機能性に富んでいるカバンの会社なのだが、多品種ゆえに生み出すのが大変と思われたが、「大変だったのはもう通り越してしまいました。今では、お客さんや従業員に支えられてバッグが随時生み出されています。今は楽しいです」と、この社長さんも肩の力を抜いて、感謝にあふれていました。
自分自身を忘れることは、まさしく現実を受け入れる大きな一歩であり、私自身の意識が闇そのものとなることでもある。私は太虚そのものとなり、宇宙となることによって、初めて私自身の存在になるに違いなく、ここに真の宗教のあるべき姿がある。(平成10年7月25日加筆)
流星
流星
今、われわれは輝いているだろうか!流星の軌跡を追うか!
それとも、流星の輝きそれ自身となるか!
人の一生をよく、流れ星、流星にたとえます。夜空に流れる、流星のように時間は短くとも、それぞれに輝いて軌跡を描いているとも言えるからです。
人の死は失うことと得ることのシーソーです。
夫や妻の死は今の半分を失い、親の死は過去を失い、子供の死は未来を失い、友の死は一部を失うといいます。
失うことによって、夫や妻を知り、親を知り、子供や友を知り、自分を知ります。築いたものが大きければ、失うものも多く、得ることも多い。失ったものが大きいか、得たものが大きいか、死はさまざまに、残された私達を試します。
人が誕生したとき、私たちは何者にも染まらない、無垢の精神と肉体で生まれてくると言います。しかしながら、実際には、人は決められた時を、自らの中に刻まれて、誕生してくるともいえるでしょう。空を渡る鳥たちのように、ふるさとに帰る時を守ると言う、時の番人を、自らの肉体の中に住まわせているともいえます。
時の番人の登場の時刻は、私達のうかがい知ることの出来ない時間です。このことに備えるために、私達は、私達の命を、いつでも、本当の自己とは何かと、知る必要があるといえます。
そのことは、先に延ばすことはできない、いつでも、今ここが最後の場所であると。そしてこのことと同時に、今ここに、私はよみがえり再生するという。
ギリシャのエピクロスは、「私が存在するときには、死は存在せず、死が存在する時には、私はもはや存在しない」と語りかけてきます。言葉は時を越えます。
このことの意味を考えてみると、私達は、自分の誕生と死、そのものを確認するすべを持たないということです。自分自身の終末の時を迎えることはあっても、現実には、生の内に、自分の死そのものを絶対にできないということです。私達に出来る事は、自分の生のみを、最後まで生き続けるということです。
このことは、私たち個人個人の意識にとっては、始まりも終わりもない世界を持つともいえます。始まりもなく終わりもない世界には、残された者の行く末の心配や、この世界から居なくなることも、世界の消滅もありません。
確実な死とは、生き続ける、家族や友人・知人の生の中に、さまざまにゆだねるという意味を持つのだと思います。人の生き死にを確認するすべは、自分にはなく、遺族や友人知人、他者にあるといえます。
多くの人は、私という存在そのものに疑問を持つことは少ないかもしれません。しかしながら、状況によって、私は、いたたまれず、我慢ができなく、得心が行かず、憤りを感じるものです。特に、私がないがしろにされる、置いて行かれる、ついて行けないという時、一人という対象化された自己と、対象化された他者や社会の問題に直面いたします。
この原因は、私という自己の形を運ぶことにありそうです。
川を人の一生の時間と空間として見た場合、橋の上に立つ私を今の私とすれば、上流の川は小さい頃の私であり、これより下流の川と海はその後の私であり、川は私の総てであると言えば、上流の川は眼には見えないけれど、今も流れて在り、下流の川は海に今流れ込んで同時に有るといえるでしょう。
自分が今、存在すると言うことは、総てが存在して、私を表現してくれていることだと、仏教は教えます。さらに存在するものは時としてあるといえば、すべての時が、今を輝かせていることに気がつくのです。
人が誕生し、成長し、病気、老いる、そして死、これら総てに、時間を運ぶ自己が、かかわっているように思えます。
考えてみると、私達が充実している時を過ごすとき、つかの間の安らぎを得るとき、幸福なとき、ほっとするとき、時間は影のように表を見せない。
もし時間という概念がなかったら、私達は私達そのものをより実感できるのかもしれない。時間が私達を束縛し、苦しめ、悩ますといってもいいでしょう。
さて仏教の時間論は、釈尊登場より今日まで、”永遠の今”を主張としています。現在を中心に過去と未来を持つ現代人に、絶対現在を認識することはとても難しいことです。
過去や未来はただ今の命に集約され、自分を離れて時間や存在はあり得ない。存在するものはすべて時間としてあると、そしてその時間は"ただ今"があるのみであり、その今のまっただ中には、時間は存在しないことになる。
瞬間とは存在しない時間であると同時に、総ての時が含まれるという時間でもあると思うのです。
そんな時間の、未来は現在を、時に不安にし、時に愉快にします。過去は私達を縛り、現在を未来をいざないます。人は、現在が未来を過去までも溶融する智慧を持つことを、理解できません。移ろい変化する時の波間を、
人は翻ろうされ、逆らい難く、人はそれを運命と呼び、彷徨うことを煩悩の海といいます。
真の存在は知覚を超えて時を止めます。其のことは存在への結びつきを無くすことから、始まります
。自分を対象化して、固定化して描かれた自己ではなく、思い描いて創造した自己でもないところに働く自己、それこそが、今ここに私は完結している。今ここは、最後の場所であると発言する、生きる主体としての自己です。
詩人ウィリアム・ブレイクは「一粒の砂に世界を見、一輪の野の花に天界を見、一握のうちに無限を思い、一時のうちに永遠を思い」と表現いたしました。私達が、何ひとつかけていないことを知らせる為に。
人が誕生して年を重ねる先には、必ず行き着く先があります。それは、消滅か誕生か輪廻か。
ヘルマンヘッセが八十五歳で亡くなる四年前の作品、”野の仏”の中にある一節が答えを示してくれているように思います。
「人の一生は、みずから朽ち、消滅して、かたちなき限りなきものとなることへえの旅路です」と。
かたちなき限りなきものとは、永遠の一なるものの、あらゆる変容のしるしです。
土と水と炎と風のなかで、かたちをはなれ、その意味の完成を求めています。
仏陀は「姿形によって私を見る者、音によって私に従う者は、吾れを見るものにあらず、さとりに目醒むるものこそ、つねに吾れを見るものなり。」と永遠の一なるものを説きます。
答えは、貴方自身の中にあると同時に、貴方自身そのものです。
古来、道を求めた禅の先人達は、自由を他に求めず、無我から自他不二を通り越したところに働きいずる大悲心をもって、真の自由を得てまいりました。
真の自由とは輝きそのものに違い有りません。
一瞬一瞬動いてやまぬ心に正常な知識の光があり。
一瞬一瞬動いてやまぬ心に余計な分別以前の明瞭な知覚の光があり。
一瞬一瞬動いてやまぬ心に平等な知見の光がある。
それぞれの光が集まり智慧を構成し、その働きが輝きとなる時、私達は変容そのものとなり、世界を時間を自由に羽ばたくことが出来るでしょう。
流星の奇跡を追うか、それとも、流星の輝きそれ自身となるか。
TAO(平成11年1月3日)
TAO(平成11年1月3日)
インターネットという情報ネットワークが凄まじい勢いで世界中に張り巡らされて、国境と言う概念が薄れてゆく。この波に乗り遅れるかによって勝者が決まるかのように、あらゆる既成の体系が変化の波の中に翻弄されている。対応を一歩誤ると取り返しのつかない事態となる。何故ならば、構築体系化されたものは、次なる体系に、常に変化し再構築されなければ維持できないからだ。
お金や思想がその波に乗っかりまたたくまに、世界を何周もする時代に突入するj時代になってしまった。
そんな時代の人々を見つめると、不景気も手伝ってか、自然と家庭や家族への回帰現象がおきているように思える。家族よりさ迷い出た人間は、犯罪を助長するかのように、人を襲う。
社会は新たなる規律や道徳を求めて動き出している。国家や世界が分裂と統合を繰り返し、すぐ目の前に迫った二十一世紀を模索している。
だが、来るべき時代に即応したビジョンは見えてこない。モラルも見えてこない。社会はより魅力ある秩序を探して、混沌の海の中をさ迷う。
社会の基礎となる核は、家族や家庭だ。その器は家である。
中身は一人一人の集まりであるのだが、家族を超えた大きな塊が秩序を求めてさ迷う時、その核となる社会の単位は結集して、核内に堅固な秩序を本能の回帰するが如くに形成する。そしてより大きな次なる秩序を形成して行くかのように見える。次なるより大きな秩序とは、新しき国家か、それとも家族単位で世界を漂流するか。
道はその家から始まる。隣の家にゆく道。会社への道。学校への道。友達のうちへの道。仲間と集う場所への道。どうやら、第三の道というものが出現してしまった。それがインターネットという獣道だ。自然と対峙しない無機質なケーブルの中の道、あるいは、電波と成って空間を突っ走る道。瞬間に生み出された意志だけがその軌道を走りつづける。家族の一人一人と言う単位に直通する道。だが、道というからには、必ず訪ね行く場所がある。
ある僧が尋ねた。 「道とはどのようなことものでしょうか」。
趙州和尚が答えた。 「その垣根の外にある」。
ある僧。 「その道のことではありません」。
趙州和尚。 「ではどの道のことだ」。
ある僧。 「大道のことでございます」。
趙州和尚。 「大道のことなら、長安に通じているよ」。
あまりにも有名な禅問答であるが、京都長岡禅塾の半頭大雅老師の言葉である。
「道というのも、もともとは、こっちの家からあちらの家に行く道なんですね。その道を修祓(しゅうふつ)する、ととのえ祓う、それが道徳ということらしいんです。だから、今の日本のように道路がきたないのは、人と人との関係がうまくいっていないことのあらわれ、ということになりますね」。
家族回帰は、最少単位の人と人との出会いや、結びつきを現実的に反省し整える姿なのだと。大道とは、現実的に、反省し整える姿、そのモノ、真っ只中にあるのだと教えてくれています。どうも、我々は先を急いで、目的地を目指しますが、実は真の目的地は、目先ではなく歩くそのもの中にあると言えます。
『人の道』と言うも、『天の道』というも、すべては今歩いている足元から始まります。私が歩くから道は存在すると同時に、歩いている私が無ければ、その道も存在しません。
四大
四大
…土と水と炎と風の中を… 仏教で、地・水・火・風を、四大と言う。我々の肉体を形成する元素を指す言葉であるが、私はこの言葉が好きだ。
地は糧である。土は大地に、我々が生れ、育まれる総てを含んで、そして我々の帰る場所でも有る。母も大地より生れることを思えば、大地は穢れのないものでなければならない。我々も汚染されることを思えば、地球を汚染しなければ発展しない文明は、いずれ滅びる運命を持つことになる。悲しい運命をもって生れた子供達の未来を、何とか明るく輝いたものに出来ないだろうか?仏陀は『人々が病むために、吾もまた病む』と言ったという。その言葉から、仏陀を大地に連想しすると、大地を傷つけないことは、我々のつとめとしたい。
水は潤いである。言うまでも無く命を支え、心を潤す水は、一滴より始まって大河を形成し、海に至る。このことは、道そのものとして、姿かたちを変え、やがて大海を形成する。その大海より人類が誕生したことを思えば、我々は水その物と言えるかもしれない。我々自身が限りなく潤う為に、慈しみと悲しみをたたえて、人に接し、水を注ぐことが大切なことである。
火は命である。命は炎の中にともし火続ける。我々の心のざわめきは総て炎として、我々を焼き尽くすかのように、青い火、赤い火、大きくなったり小さくなったり、心の在りかを示すと同時に、命そのものとして存在し、私達の体内で燃焼する。永遠をつかさどる炎は、けっして私達が消滅しても消えることはないと、そのことを私達は胸に刻んで、未来へ後を託そう。
風はさまざまな物を運ぶ。風は季節を運び、風は人を創る。人が歩けば風を起こす。炎を盛んにするのも、また消し去るのも風が吹くことによってであり、そのことに、風に真正面に向かうことも、また背を向けて除けることもある。風は人を、植物を鍛える。私達を運ぶ。
土と水と炎と風の中で、人は生れ、育ち、老いそして形を離れて、その意味の完成を求めています。揺らめかないために。
挨拶
挨拶
挨拶(あいさつ)とは、もともと禅の言葉で、問答をくり返し合うことです。そこには、真剣さがあり、切迫した気迫の応酬があります。挨は、立ち止まり、思い迷うの意味がありますから、拶は、そんな挨に、切り返して迫るのが、挨拶の本意なのでしょう。
ずっと以前のことだが、「不思議だね。挨拶の言葉って、どうして今、現在のことを、問題にしているだろう」と、言われたことがあった。世界共通のことだそうだ。
「おはよう」「今日は」「今晩は」「最近会わないね。元気」
「どうも。どうも。お久しぶりです」。
出会いの挨拶は、当たり前の話ですが、貴方の今,ここ、どうしたのを問いかけます。時間、場所での状態を問います。
では、別れの挨拶は、「元気でね」「またお会い致しましょう(それまで元気で)」「いつまでも、お元気で」と、未来の状態を祈ります。
挨拶とは、今の状態を問い、未来の状態を祈るともいえます。
挨拶を出来ないでなくて、しない子どもが増えている。
この子達は、人との大切な出会いの瞬間、人と人とが出会うということから起こるさまざまな実りを、拒否することに等しいということに気づかない。何故なら、人が生きるということは、何かしら自分以外の人や社会と密接に関係することによって、人は自分を知るのですが、挨拶しないことは、その出会いを、拒否することに繋がるからです。自分を知ることは、他人を知ることでもあり、他者とのかかわりを常に受けることを知ることにもなるからです。
朝起きて、「おはよう」。学校に行く時は「行ってきます」、それすらない家庭があるのです。
しかしながら、挨拶を礼儀と等しくすると、こんな言葉があります。
『最もよく礼儀に習熟した人は行動するが、これにこたえるものがないとき、袖をまくりあげて相手を引っぱろうとする。それゆえに『道』が失われたのちに、『徳』がそこにあり、『徳』が失われたのちに仁愛がそこにくる。仁愛が失われたのちに道義がきて、道義が失われたのちに礼儀がくる。およそ、礼儀は忠誠と信義のうわべであり、騒乱の第一歩である』。
ふと、思い出したが、この言葉が”老子”か”孔子”の言葉だったやら、誰だったか思い出せない。
挨拶は礼儀の内に含まれるものかもしれないが、別のものと考えたい。他者と自分との関係の接続詞だからです。
多分、挨拶できない子ども達には、人と人との関係において大事な実りを欠落することになる。
網の目に喩えますと、魚を捕る網の一つ一つが、それぞれの子ども達だとします。その網を、海でも川でもよいから仕掛けます。魚がやってきまして、一つの目に掛かったとします。
魚をとった目は、他のたくさんの目に対して「どうだ上手いだろう。こんなでかい魚を俺様は一人で捕まえた」と選ぶって、他の目を、何の役にも立たないお前達だと思ったとしたら。
この一つの目は、自分で気がつかないけれど、他のたくさんの目と、密接にかかわっていることを解らないのです。それは、他の目は、魚をとることはできなかったかもしれませんが、全体で大きな網を構成していることを、理解できなかったことになります。他の目は、魚を取れませんでしたが、他の目がなければ、魚を捕った一目は役に立たないのです。それぞれの一目は全体を代表する一目であり、それぞれの一目は全体を支える一目であり、合わせて大きな一枚の網なのです。
挨拶とは、一目が他の目に、結びつきを確認する意味があるようにも思えるのです。そして全体を構成する一目にとっての役割を、人間に置き換えて考えてみた場合。人は、それぞれに身体的、精神的、環境的にさまざまな違いがあるのですが。次のことが大切なことです。
一、それぞれの人の、生き方が大切にされること
一、それぞれの人の、違いを受け入れること。
一、それぞれの人の、幸福を願うこと。
冥福
冥福
同じ町内にある明治小学校は、陽岳寺にあった寺子屋が発展したもので、来年で130周年になります。その校章は○の中に『明』が記され、燦然と輝く光線が八方にのびたデザインです。校章の由来には「若き子らの学び舎にとって、生命の根源としての日月と、成長の根源としての水と躍動する大気の中で愛と勇気の智恵を象徴する緑の大樹を形象化したものである。日月は、明治の明のシンボルである。」とあります。
『明』を夜と昼、光と闇、見える世界と見えない世界というように対立するものを含めた世界を極めることを、この校章は示し、これこそが教育の眼目ではないかと考え、明治の『明』を通り越した先人達の卓越した見識をみることができます。
さて、人が亡くなってから、通夜・葬儀・年に幾度となくの墓参・そして数年ごとの年回に、故人を偲び、冥福を祈ります。こうして墓守を続けて思うことは、いつも絶やさない樒(しきみ)や花が飾られているお墓があるかというと、彼岸とお盆と年末か新年に花が飾られ、線香が手向けられる墓が大半なのですが、淋しくなるのは、ほとんどと言っていいほどに、墓参に訪れる人がないお墓があることです。
毎朝、墓地を掃いて、訪れる人の居ない墓を前にして、ここに眠っている人の葬儀をしたことがあり、遺族が社会的に地位がある人だったとしても、今は良い子ども達や家庭に恵まれていたとしても、今の自分は、もちろん本人の努力により今の環境は在ることですが、やはり訪れることがなく、苔むした墓を見ると、後継者が居なくなってしまったのならともかく、立派にいることを思うと、寂しいかぎりです。
見るに見かねて、その墓石を洗って苔を取ると、その墓の主が「すまない」と、声を掛けてくる気がします。亡くなった当初の悲しさが嘘のようです。年数が経てば仕方ないものかと思うものの、中には、連れあいを葬って後、あとは私の楽しい人生とでも思っているとしたら悲しく思います。
「ご冥福をお祈り申し上げます。」の言葉に、辞書は、『冥福』を、死後の幸福と記しますが、幸福とは、安らぎと解釈いたします。しかしながら、この『冥』の字は、恐い内容を含んでいます。
日と六とで十六日の意であり、何故に十六日かというと、月が十六日を過ぎて、欠け始め暗くなることを指し、更にヮ冠で覆うことは、『幽冥』となることであると、大漢和辞典にある。しかし総ての意が、暗く奥深い中で、『冥合』のように、暗黙の間に意志の一致するというの意味を持つこともあり、『冥婚』のように、死して男女を一緒に添い遂げさせる壮絶な恋言葉もある。しかしながら、『冥』は徹底して暗く深いらしい。
そこで『冥界』とは、暗くて深いかどうかも解らない世界ですので、真っ暗闇では我々自身の姿も見えないと同様に、この『冥界』は、自分自身の姿形・精神もはっきりとは、見えないのではないかと思います。
そんな『冥界』の『冥』で覆われた冥福を、“死後の幸福”から“見えない幸福”と理解した方が幸福の意味が研ぎ澄まされると思います。見える幸福は、壊れやすく一時のものであり、その状態を維持することを考えれば簡単に苦に衣替えするのです。苦を含んでいる幸福と異なって、絶対の安らぎこそ、“冥福そのもの”であると思います。
ですから、現実に直ぐ側(そば)に冥界があったとしても、否、現実には裏表の世界であったとしても、一枚の紙の表面が、裏面を見れないように、また裏面になれないように、私達には見えなくてよいのです。もし私達に見えたら、私達が『冥界』の住人なったということですから。
「冥福を祈る」とは、亡くなった方の“絶対の安らぎ“を、真摯に観念すること、それが祈るということなのではないでしょうか。また、そうすることが私達の安らぎでもあることに気が付くべきです。祈るという行為は、心が渇望し揺らいでいることでもありますが。表面的、形式的に祈るのではいけません。こちらからはあちら側の姿形は見えないことは話しました。では、相手からはこちらの姿は見えるとしますと、祈るという行為を忘れてただひたすら祈ることが必要なのでしょう。何だか子どもの頃に読み聞かされた、小泉八雲の“耳なし抱一”の話に似ているとおもいませんか?因みに、抱一の全身に書き込まれたお経は、『見えない幸福』を謳っている般若心経です。これは本当に心を込めてお祀りしないといけません。
生前おばあちゃんが好きだった食べ物・飲み物を供えて、「おばあちゃん春になりましたね」とか、孫の卒業証書を供えて「太郎も中学生になりました」とか、「私もこんなに年を取りました」と家族をさらけだすことが、おばあちゃんの冥界での冥福をお祈りすることの本質なのだと思います。さらに言えば、冥界との対話なのだと思いました。私達一人一人がしなければ、誰がしてくれるのだろう。
今、私達が社会の景気や政治・経済に忙殺され、目前の事に振り回され、安らぎを得たいと思ったとき、私達の心に潤いや味わいというものが必要となするなら、『故人の冥福を祈る』ことそのことこそ、私達の安らぎでもあります。
私達は、普段目に見える世界だけで物事を判断しています。『明』と『冥福』を通して、目に見えない世界と見える世界は別のものではありません。耳に聞こえない声、舌で味わう事の出来ない味わいに触れてみる事が大切ではないでしょうか。
(四国の実相寺、やんと師からご指示を仰ぎました)
盂蘭盆
盂蘭盆
仏説盂蘭盆経
《釈尊がコーサラ国の首都・舎衛城の祇園精舎にいたときのことです。神通力が多才な目連尊者は、亡くなって久しい母の姿を見てみたいと、そして、もし苦しみを受けていれば、助けたいと思ったのです。
そこで、母を見てみると、やせ細り眼窩がくぼんで、恐ろしくも餓鬼となっているのではないですか。目連は悲しみ、哀れんで、母へ食べ物を差し出したのです。母は喜び、食べようとしたのですが、食べたいと思い、手を出すと火になり、炭となって食べられません。さらに苦しむ母の姿を見て、目連は泣きながら、いたたまれずに、釈尊に一部始終を話し、どうしたらよいのかを問いました。
釈尊は、「母親の罪が深いこと、それは物を惜しみ貪ることこそ餓鬼に生まれる原因である」からと目連に、告げました。すると、目連は、考えて、母がこうなった原因は、母一人のための行為ではなく、子供たちの幸せを望んだためなのだと、釈尊に母を救う方を、すがりました。
「目連の母への思いはよく解った。いかに神通力があったとしても、今の母を救うことはできない。多くの衆僧と威神の力でこそ、母は救われる」のだと。
母は業によって、餓鬼となった。その業による報いから解き放れる方法の一つが、七月一五日、僧自恣(そうじし)の日、修行を終えた僧たちに、ご馳走を献じて供養することだと告げたのです。そして、七月一五日、衆僧たちが、供養する人々の様々な願いを、心静かに禅定し祈願して、その食を受けると、目連の母は、この日を限りとして、苦しみから逃れたのでした。
釈尊は目連に、「生み育ててくれた母以外の、あらゆる父母の苦しみを救うため、孝慈をめざすあらゆる人は、この日、盂蘭盆供養を勤めなさい。父母を長く養い、慈愛の恩に報ずべし」と。》
季節感がなくなってきたというと、「そんなことはない!誰でも暑い寒いを感じるし!新緑も紅葉もきれいだし、好きだし!」と言うでしょう。しかし、季節感というのは、その時期の暑さ寒さを彩ってあることも確かなのですが、前の季節と次の季節をも含んでいてこその、しきたり・行事・催しにあるのではないかと思います。
例えば二十四節気とか、節句、七五三、七草、鏡割り、羽子板市、鬼灯(ほおずき)市、七夕、酉(とり)の市、お富士さん、お十夜、十五夜、ぼろ市、彼岸、クリスマス、正月、お盆に草市、闇市という季節と共にあるものです。季節感がなくなるとは、多くの歳事ものとの接触が、省略されて、なくなったとも言えると思います。
お盆と言うと、八月の旧盆を指し、夏休みの代名詞みたいですが、本来は、七月十五日を中心にした仏教の故事です。禅宗では今も、一年を、修行季節として、雨安居(うあんご)と雪安居(せつあんご)に分けます。修行僧が集まることを、結制(けっせい)と言います。結制した雨安居は、夏安居(げあんご)とも言い、四月十六日から七月十五日を制中(せいちゅう)言ったのです。そして、この夏の制中の終わりの日が、七月十五日でした。ちなみに、雪安居は十月十六日から一月十六日となりまして、その間は、制間(せいかん)と、今でも道場では呼んでいます。
七月十五日は、僧自恣の日と記します。自らほしいままにする日と書き、その期間の修行の成果を反省する日でもあったことから、その日を待って、信者の方々がご供養をしたということです。修行道場では、その日に限らず、うどん供養とか、大根供養、餅供養、最近では餃子供養と変わった差し入れがあります。粗末なご飯と一汁に漬け物ですから、修行僧の喜びでもあります。禅宗は千五百年以上の修行の伝統なればこそ、理解できる内容です。自恣の日は、現在では、起単留錫(きたんりゅうしゃく)と言って、道場での雲水の成績うかがいのような反省する日のこととなっています。
盂蘭盆の行事は、竺法護(じくほうご)の記した仏説盂蘭盆経より出たのではあるが、この経には、倒懸(とうけん)の故事は無い。盂蘭盆とは倒懸と言われ、『逆さまにつり下げられること』という意味なのです。
マハーバラータに《広野の穴の中に、多くの人が草の根に支えられ倒懸し、この草を一匹のネズミが噛んでいるという話》がある。ここに、倒懸という言葉が出てくるのだが、盂蘭盆ないしは烏蘭婆那(うらんばな)と言う意味はないらしい。盂蘭盆の正しい語源は、“ullambana”であり。これは、懸垂(けんすい)の義だそうであると、臨済会編・山本禅登著『葱嶺集(そうれいしゅう)』に書いてあった。
最近ではイラン語起源説が学会では有力らしい。イランでは死者の霊魂をウルヴァンと呼び、このウルヴァンが盂蘭盆の語源であるらしい。
日本で盂蘭盆会が催されたのは、七世紀初頭、中国では六世紀の前半という。盂蘭盆経の他にも、お盆にからんで、救抜焔口餓鬼陀羅尼経のお経があるが、共にサンスクリットの原本は無い。このことは原本が無い故に、語源や起源には、新たに解釈を施すことができるといえます。
“逆さまに吊された苦”と“死者の霊魂”の伝説こそ、遙か彼方の故事が、日本で重なって実を結んだ行事・お盆となったのです。ただし、逆さまに吊された苦そのものを私達に、死者の霊魂を安らぎに見立てれば、更に、意味のある内容となってくる。
現在のインドにあるベンガル仏教の死者を弔う法事も、衆僧の供養にあると聞いて、日本と同一の内容なのだと感心しながら、これは食を大事にしなければいけないことでもあるぞと、チンプンカンなことを思案していたりするのでした。
精霊棚(しょうりょうだな)は、ご仏壇とは別に、篠竹とか棚を組んでマコモのゴザを敷いて、四隅を竹や篠竹で飾って、縄で結び、鬼灯やそうめん、昆布などを飾りました。ゴザの上には、茄子の牛、胡瓜の馬です。なぜに馬と牛かと言うと、馬で来て、牛で帰ると言い、早く来て、ゆっくり帰るという意味だそうです。亡くなられたの乗り物ですから、十三日は、内に向き、十六日には外に向くと言われています。
乗り物の他には、水(器の中に水を張り、みそはぎの花を浮かべる)、水の子(水の実とも言い、茄子などを細かく切ったものを皿に供えたもの)、そうめんを供えます。茄子の種は、数多くあり、それが一〇八の煩悩の数にたとえられて、それを取り除くという意味もあるそうです。場所によっては、小さな舟を手当てして、サラシの帆に、菩提寺の和尚が筆で文句を書いたりいたします。灯籠流しに似て、川や海に十六日の夕刻、精霊流しとも言います。棚を作る行事は、他にも、七夕、十五夜も棚を作って祀り、お雛様、節句も奉りました。博多山笠が、崇福寺(臨済宗)の施餓鬼の精霊棚に由来することを以外と知りません。
提灯は、使わなくなってしまったものの代表ではないでしょうか。限られた行事以外は本当に使わなくなってしまいました。風情があるものですが、提灯の形によって使い方が決められているものです。盆提灯を、その季節以外に飾ったら、妙なものですし、お祭りには、各町会のはずれに結界として、竹と高張提灯をさしたり、盆踊りや、納涼船にも小さな提灯が私たちを楽しませます。
祈り(平成14年7月4日)
祈り(平成14年7月4日)
平成14年7月1日号の陽岳寺便り巻頭に、講談師・悟道軒圓玉の独演会のお知らせを掲載いたしましが、ちょっと変わった演目と、お寺という状況に、聴衆が来るだろうかと思いましたが、平成14年7月2日、当日、午後6時30分開演に、60名を越す聴衆が来場されました。世間の感心もまんざら捨てたものではないと、押し寄せた聴衆の熱意に、時間を 9時まで延長して「大石内蔵助 東下り」と、裁判のてん末をおもしろ可笑しく、毅然とした師匠の覚悟をまとめた「実録・我が獄中記」が、18年ぶりに演じられました。
独演会の前日、1日の毎日新聞夕刊に、「祈り」と題して、師匠が紹介されました。その副題は「病の私を思う、母に捧げる」とありました。その中で《母は戦地で病死した父に代わり、洋裁店を営んで一人息子を育てた。ホームに入所後、圓玉さんは母のたんすから、一片の紙に書かれた「祈り」という詩を見つけた。『より偉大なことができるように健康を求めたのに、より良きことができるようにと病弱を与えられた……』。米国の入院患者の作品らしいが、何度も読んだのか、線や丸の書き込みがある。母の心に、涙があふれた。》と江刺正嘉毎日新聞記者が書いています。痴呆で特養老人ホームに入所する母に恩返しする18年ぶりの公演だったのです。
その公演する師匠も、身体障害者4級、精神障害者2級の身です。平成元年の夜の川越で起こった交通事故は、母と子の運命を大きく変えて現在に至っております。この師匠の強さは、圧倒的な困難さの中で必死に生きる姿です。師匠の社会的弱者の偏見に孤軍奮闘する勇ましい姿は、同時に、自らの痛々しい姿でもあります。
その師匠が、陽岳寺での独演会の最後を結んで発した詩です。
大事をなそうとして 力を与えて欲しいと神に求めたのに
慎み深く柔順であるようにと 弱さを授かった。
より偉大なことが出来るように健康を求めたのに
より良きことができるようにと 病弱を与えられた。
幸せになろうとして 富を求めたのに
賢明であるようにと 貧困を授かった。
世の人々の賞賛を得ようとして 権力を求めたのに
神の前にひざまずくようにと 弱さを授かった。
人生を享楽しようと あらゆるものを求めたのに
あらゆることを喜べるようにと 生命を授かった。
求めたものは一つとして与えられなかったが
願いはすべて聞きとどけられた。
神の意にそわぬ者であるにかかわらず
心の中の言い表せない祈りはすべてかなえられた
私はあらゆる人の中でもっとも豊かに祝福されたのだ。
(ニューヨーク・リハビリテーション研究所の壁に書かれた一患者の詩)
ニューヨークの病院の壁に落書きがあるなんて、なかなか想像できないことではあるが、勝手に想像すれば、リハビリ研究所の暗い通路、それは、患者が歩行訓練に歯を食いしばって壁際の手すりを探りながら伝う姿か、或いは、広い部屋のリハビリ室の壁だろうが、落書きはアメリカでも落書きだろうから、書こうとすれば隅の壁 だろう。ここに記した人が、どんな病気だったのか、或いは、事故か不明だが、弱く、病弱であり、貧困の中に生涯を送ったことが告白されている。 年齢を想像すれば、大方の生涯を送った老いた者の言葉に聞こえる。
この詩の圧倒的な迫力は、『神の意に添わぬ者』の祈りに対して、『求めたものは一つとして与えられなかったが、願いはすべて聞き届けられた』という感謝です。その祝福の中身は、『弱さ、病弱、貧困』を通じた彼の生涯であり、『私はあらゆる人の中でもっとも豊かに、(神)に祝福された』と、私だけの神に出会い満たされた彼の存在が示されています。求めたものは、彼が持っているものの正対するものです。求めている限りは、絶対に与えられないことは、“放てば手に満ちあふれている“ことを導きます。今、自分が持っているもの、それゆえ求めていることを神に捨てれば、彼の求めている心そのものを、そのまま救ってくれたことになるでしょう。
この詩の中に語られている、“語られないもの“、それは、祈りです。その祈りとは『心の中の言い表せない』そのものであり、自分自身そのもの、それが心と言うものではないでしょうか。それが、丸ごとかなえられたとは、神が持っていってしまったような、虚ろになるのではなく、神に満たされたことと同じでしょう。すくい取ってしまった状態、何かを求めた意志そのものが亡くなってしまったことですから、『心の中の言い表せない』ものそのものが祝福されたと言えるのでしょう。
不思議なものです。師匠のお母さんが、何度となく読んだ詩を、師匠がなんどとなく読み、今、私がなんどとなく読む。師匠のお母さんがなんどとなく読み、自分の今の有り様を、自分も祝福されたものだと見たか、師匠が意識もなく重症だったとき、看病を老母が献身的にする姿が、この詩と重なります。
師匠が、お母さんの記した赤線や丸印を見て、師匠は今の自分の状況と、母の状況を考えたとき、絶望感に似た想いに襲われたと同時に、この詩の意味を知り、涙がにじんだと思います。それは、母がたどった足跡だからでもあります。そして、母の生きることの強さを想い、感謝したと思います。
仏教が無我を主張している理由は、あまりにも、私という自己にかかわる悲惨な現実、不幸な事件、多くの葛藤と揺らぎがあり、移りゆくことの負の面が、人生には多くあるものだとの、釈尊の観察かも知れません。
もっとも、これらの問題も、実在して悩む私という自己が、私になければ、このような問題もないではないかと考えれば、察しがつきます。現実の私の目の前の闇は、私自身が創造する闇でもあります。その闇を、怖いと見るか、美しいと見るかも、私が創造していると言えるでしょう。そうした私は創造されたものと見るとき、仏教の主張である、私という自己は実在するのではないということの徹底した自覚が浮かび上がってまいります。
この私は、過去未来を含んで、多くの記憶の集まりであり、情報の交信の集まりであり、力の集まりであり、願いの集まりです。実体なきものの私は、それらに、生かされて、支えられ、言葉では言い尽くせない創造された私でもあります。
自分の命は、今を生きているのではなく、語り尽くせぬ多くのしるしから、今を生かされていることの自覚です。生かされていることの自覚は、同時に生きていくことを支えるもの この世は、過去未来を含めた、この生かされているものの重々無尽の集合体として見ると、無我となったとき、祝福された私がいて、神に満たされ、神の意に添わぬ者は神の意志となることが出来るのです。
「前略、御免下さい。お変わりもございませんか。私は八十一歳の坂を一生懸命登っております。体の方が弱ってくると気持ちも弱くなるもので、早くお迎えがこないかとそればかり考えて仕舞います。皆と待ち合わせてお墓参りが出来た頃がなつかしく思います。一年置きに姉が亡くなり一人になって仕舞いました。卯木の義兄も姉を見送ってからすっかり弱って仕舞い一人さみしく暮らしております。私も足が弱って外出も出来なくなって仕舞ったので、余計さみしさが身にしみます。でもそのうちに迎えにきてくれると思いますので、それを楽しみに頑張りませう。ご住職様皆様もどうぞお体お大切に百歳迄も長生きして下さいます様お願い致します。お母様のお優しい面影が目に浮かびます。もう一度お会いしたいと思っておりますが、実現できる様頑張ります。では呉々もお身お大切にお願い致します。かしこ 平成十四年六月二十五日 H・K」
先日、お便りをいただいたH・Kさんのお手紙を、お手紙で掲載承諾を申し上げ、ご了承賜りましたこと、本当に有り難うございました。この手紙を幾度となく読み返して、貴方の寂しさがひしひしと伝わってまいりました。そして、この気持ちに似たものを心に持って日々を過ごされている方々が、少なくとも私の周りにいることに気付きました。
それ故、この手紙に答えを出そうと試みることは私の務めでもあると思いました。そして、貴方と同様の気持ちを持つかもしれない多くの人、未だ老いのなせる心の震えを知らない多くの人に伝わることを、願ってやみません。少しでも多くの人が貴方の気持ちを知り、何とかならないものかと念じることも、人それぞれの坂を登る指針となる姿でもあります。
『八十一歳という坂を一生懸命登る』という表現に、貴方の今までの坂を想います。楽しく坂を忘れて登っていたこともあったでしょうし、苦しく登ることが辛いこともあったことでしょうが、どの時代の坂を登っても、坂は眼前に様相を変えながら聳えているのだと推測致します。私には、この手紙を頂いて、正直、八十一歳にして、なお坂を登ることの意味を考えさせられました。その年齢から登る坂道の景色は想像できませんが、私も五十三歳の坂を登っているのでしょう。そこで、上を仰いでも、私からは、遙か上の方を登る貴方の姿が見えませんし、下を見ても、誰かが登ってくる姿に遇いません。この坂に居る限りは、先回りして、貴方をねぎらうことは出来ないと推察致します。私が登るこの坂の先には、貴方の歩く姿は、ないのかも知れません。
ただ言えることは、着実に、一歩一歩、歩くという行為なら、八十一も五十三も無く、たとえ坂が変わっても、共通した一歩です。その別々の一歩は、楽しくもあり、可笑しくもあり、憤ってみたり、豊かに満ち足りた様々な一歩を比較するのではなく、触れることによって、寂しさが変わることもあるかも知れません。これは、仏典を読んだり、小説や童話の登場人物の一歩一歩に、私たちが一喜一憂することと同じです。
前文の「祈り」を幾度となく繰り返し読まれることを、お勧め申し上げます。そして、少しでも、その寂しさが、豊かに実りあるものに変わることを念じて止みません。
此道や 行人(ゆくひと)なしに 秋の暮(芭蕉)
仏事歳時記
仏事歳時記 |
お盆 彼岸 暮れと正月 |
再び 最後の晩餐
再び 最後の晩餐
平成10年5月23日に、最後の晩餐として、この覧に掲載しました。6年半がたち、新に、続きを記します。
そして、実名で記す、大野君子さんは、平成16年12月11日、85歳で永眠されました。陽岳寺の合霊塔に合葬されました。お心当たりの方がいましたら、ご連絡下さい。
平成16年12月13日、あなたの訃報を知らされ、葬儀とあなたの遺骨を、この寺で預かることをきめてより、午後1時30分、あなたの話しをうかがいに、あるホームにゆきました。そこで、あなたについて知り得たことはほんのわずかで、あなたの資料は、あなた自身が持って、旅立ってしまったのだと、思いました。あなたの旅立ちを立ち会うことに、わたしがふさわしいとはけっして思いません。これから、わたしが語るあなたは、わたしにとってのあなたの事実です。
貴方のことをさがそうと、でも資料はないしと、貴方の名前の君子から探そうかと思って開いた漢和辞典。突然、君子花という花が飛び込んできました。それは、蓮の花の別名として、または、菊の花の別名としてと意味が書いてあったのです。
四君子は、蘭・菊・梅・竹で、中国あるいは日本でも、水墨画の良き題材になっています。でも、その四君子には、蓮がはいっていません。
でも君子花と言える植物の花は、蓮と菊です。ふと貴方のお父さんの名前が菊治さんであることが浮かびました。そして貴方が、生まれて育った入谷から吾妻、八広、京島、立花と、この下町の文化が色濃く残る町を、結婚しても出ることがなかった貴方の足跡を、この蓮の花咲く足元の泥として、地域として考えてみたのです。あなたは知ることがなかったと思うのですが、蓮は、豊かさと実りの象徴です。
この君子花そのものを、あなたの、陽岳寺での戒名にすれば、蓮そのもの戒名に、一字を加えることで、仏の世界に導き入れることができるのではないかと、思いました。
後の一字の意味で、あなたを表し、顕彰して、君子花と合わせて、あなたの足跡を、そしてあなた自身を、讃えたいと思います。
それにしても、あなたのことを知る手がかりは、わたしには多くはありません。でも何故、それほどまでにあなたのことを知りたいか、そこに、あなたがあなたであることの自己があるからです。
世界とは、わたし達のことを人間というように、人と人との間というように、人が支え合っていると書くように、世界とは、人の意志や感情の交差する世界だからです。人の意志や感情の行為のうえに出来上がったもの、それが世界だからです。
この世界ゆえに、あなたが最後に棲家としていた、ホームの、五〇二号室、それは、小さな部屋かも知れませんが、この広い世界のすべてが、あなたが暮らしている限りは、世界の中心として見つめていたことを、思いだして下さい。
ここで知る世界のニュースは、みな田舎か辺境の遠い便りの出来事です。あなたが何とか過ごしていても、この世界に向かって、あなたの便りを発信していたことを、あなたは知らなかったはずです。じぶん自身とは、そうした世界があってこそ、確立しているものです。
12月4日午後、わたしはあなたが、立川病院に、心筋梗塞の危険な症候が出ているため、搬送されたことを、その日の夕刻、ホームの先生の口から、聴いていました。そして、亡くなって知る、この4日以前のあなたが頻繁に買った、食べ物の伝票を見て、こうした行為も、世界に向かってあなたの情報を発信している姿なのだと、おいなりさんや、太巻きの寿司、マグロに卵焼き、カレーライスにカキフライにコロッケとレモン、毎日注文して、まるで、キリストの最後の晩餐みたいです。
ある有名な人が、「人間の本当の最後は、何も食べられることができないのよ、だから、わたしにとっての、最後の晩餐は、ありません」とハッキリという言葉を思いだしました。そんなものかと感心していたわたしは、あなたの伝票を見て、あれは嘘だと、あなたの行為に接して思いました。やはり、現実に直面した人の、足跡は、嘘がない。
病院に搬送されて、食事が取れなくなることを見越していたようなあなたの足跡。それは、毎日のように、昔を懐かしく思いだすように、好きだった食べ物を、もう一度食べて、昔の自分を懐かしむかのように、そして今ある自分が自分であることの、あなたの伝票が語っています。
わたしは、母の命日に、家族で、鰻をご馳走になりました。ついこの間です。父が亡くなって、父の命日には、母も含めて、わたしの子ども達と、やはり鰻を食べました。下町のご馳走は、寿司やさしみ、うなぎ、揚げ物に、カレーライスにカツ丼親子丼と、それも、家族で食べた、親しかったものと食べた、そこに、活き活きと生きる自分があったと、今の自分を自覚するからです。仏教の供養とは、今のすべての自分に対しての、自覚の供養です。
この意味から言えば、これから、ホームの料理に出る、おいなりさんや、太巻きの寿司、マグロに卵焼き、カレーライスにカキフライにコロッケとレモンと、みんなで食事を頂くならば、あなたが生きていたことが、みんなが今生きている証明ともいえます。
「ご馳走様」と、いったとき、あなたは、「はいお粗末様でした。」と、聞こえない声が、耳をそばだてれば、聴こうとすれば、すべての食卓に、聞こえるかも知れません。わたし達には、ただ聞こえないだけなのです。聴こうとしないから……。
人の思いや願いが、それは、人が確かな自己として存在していたということなのですが、死んでからも、わたし達の世界に留まるといえるかもしれません。この留まるという思いは、わたし達が気づかずに、自然と口からでる言葉に現れたりします。それは、わたし達の世界が、私たちの心の世界を含んでいることによってなおさらです。
細い身体に、小さな身体、やせたからだに、小さな声、そこに、強い意志が働いて、あなたは最後の晩餐を、幾度となくしていたことになるのです。誰と一緒の晩餐だったのか、何を話していたのか、何がそうさせていたのか、人の最期を数多く看取ってきた施設長は、「意外とあることなのです」と、言います。
そんな、あなたに贈る、わたしからの贈り字の一つは、晩餐の饗宴の饗の字です。それは、もてなす、ねぎらうから、うける、神が祭りを受け入れる、また多くの神々を祭るという意味があるのですが、この字は、また、食べ物を間に、二人が向き合うかたちでもあります。
あなたは、大正8年10月10日、父を小芝菊次さんに、母を渡邉やすさんの長女として下谷区入谷に生まれ、昭和32年7月1日に、大野参治さんと婚姻し、吾妻町に暮らします。それにしても、その時、あなたは38歳だったはずです。
そのご、9年がたち、昭和41年11月12日、あなたが47歳の時、参治さんが亡くなりました。この短かった出会いと別れの9年間に比し、その後のホームに入所するまでの34年間の長さ、京島で暮らすあなたは、平和に暮らしていたことになっています。その34年間、あなたが誰と、平和に暮らしていたのか、名前は知りません。そんなあなたの、親しかった人が急になくなってより、あなたは独り取り残され、にわかに体調を煩うことが多くなったようです。この体調を煩うことに、あなたの老いが、独り身を襲ったのでしょうか、老いの身体は、一人保つことは難しいことです。
平成12年、立花ホームより、厚生病院に入院しようとしたあなたが、突然に、このホームの入所が決まって、業平のホームにショートステイーに4日間過ごし、平成12年11月17日、81歳の時、このホームに入所いたしました。
参治さんを亡くされてより、この34年のうちの多くの月日、あなたは二人して、この“饗“という字のように、過ごしていたのではないかと思い当たったのです。だからこそ、今はなくなってしまった、二人して過ごした家が忘れられず、「家を片づけなければ、家に帰りたい」と、幾度となく言っていたのではないかと気がつきました。
そして、もしかすると、あなたは帰れない家で、名前を知らない誰かと二人して、食事をしていたのではないかと思いました。
おいなりさんや、太巻きの寿司、マグロに卵焼き、カレーライスにカキフライにコロッケとレモンと、あなたが最後に買い物をねだって食べていたこれらの食事が、最後の晩餐だったような気がするのです。
この手のひらにII(平成18年11月18日)
この手のひらにII(平成18年11月18日)
―禅僧の死― 平成10年11月18日、”この手のひらに”を書いたことを思いだす。老師が亡くなって、15年目頃だったろうか、そして、8年が過ぎた。今でも、老師が元気だったらと、たびたび思うことがある。亡くなった年齢は61才だったから、あと何年かしたら自分もその年になる。
島根県松江市奥谷町の万寿寺を自坊に、京都は南禅寺の管長と僧堂の師家として、この多忙さは、身にしみただろう。そして亡くなる何日か前、この自坊に過ごしていたと聞いた。だから一度は見たかった。ここに過ごして、ここから請われて出かけ、ここに帰ってきたから。
平成18年10月26日、南禅僧堂の同参(僧堂で同じ釜の飯を食べた仲間)10何名が出雲は松江、玉造温泉に集まった。ここ数年は、この仲間が毎年必ず一回は何処かに集まる。一回どころか二回は必ずあつまるようになった。そして、逢瀬は、一緒に食事をし、酒を少々飲んでは羽目を少しだけ外すという、たわいもないことなのだが、同じ釜の飯を食ったというだけで、坊さんとしては、原点だからだ。元気でいさえすればよい、南虎室老師会下、同参の仲間として。
私は、せっかく松江に集まるのだからと、万寿寺に行ったこともないし、是非、老師の墓にお参りしたいと仲間にせがんだ。考えてみれば、老師が亡くなってから、京都には何回も行きながら、僧堂にはどうしても足を向けることができない自分に、せめて松江の万寿寺に行ってみたいと思っていたことだった。そしてお墓参りをしたい。それ以前にも、松江でもう少し大きな会下の仲間が集まろうという計画があったが、老師の死でお流れになっていた。
10月26日、出雲空港におりた私は、「とうとう来た」の思いを秘めていた。考えてみれば、この出雲は、邪馬台国の発祥の地か、日本民族の国作りの原点でもある。この地で、ラフカディー・ハーンは、松江藩士の娘小泉節子と結婚した。そういえば、彼の50回忌法要は、万寿寺で行われたと聞いたが、それは50年も前の話であった。因みに、小泉八雲は、この地域や日本の各地に行われた今は途絶えてしまった葬送の儀式の風景を残してくれた。
その日は、玉造温泉に身体を休めて、翌日の27日、万寿寺に一同で出かけた。山門に白い塀、その塀の前には畑があり、その下には田んぼがあって、稲はきれいに刈り取られていた。畑の一部には冬野菜が少しだけ育ててあったが、米は自給するだけの量に違いないが、野菜は、少なかった。老師が南禅寺に出向してからは、この畑や稲作は、近所の知り合いが丹精していたと聞いた。
参道を登り、山門をくぐると、左に庫裡、右に本堂がある。本堂は開け放されていた。古い木造の作りに何年が経っているのか、きっとこの方丈に何度も座り立ちと偲ばれる褸。この本堂の裏が山になっていて、屏風のように山肌がえぐられて、そこに老師はいる。そのえぐられた山肌を目指し、少し登ったところが歴代の和尚が葬られている墓域である。老師は、ここに23年になるのか、何も言わずにいる。 苔むした石像が迎えた。
苔に覆われたその石仏は、苔に覆うがごとくまかせている。いずれは覆い被さって苔むしたこんもりとしたものになるのを許している。午前11時頃に拝塔したのだが、老師の墓は、木が鬱蒼として、木漏れ日が照らし、清々しい気分を与えてくれた。地は苔むし、幾つかの古い塔が並んでいた。
万寿寺本堂を見下ろすかのように配列された、歴代和尚の墓、そこに勝平老師の師匠である宗達和尚、その師匠の大喜老師、さらに大喜老師の師匠の大航老師の塔もあるのだろう。案内人を頼まぬ墓参りに、宗徹老師の墓だけは、友の禅僧が先に詣った。途中で花を買い、線香は、やはり友が持参していた。その花と線香を供え、一同で、大悲呪を唱えた。突然のろうろうとした大音声に懐かしさが滲んだ。老師は何も応えない。
大喜老師の師匠、大航老師は、「禅僧には学問は必要ない」と常々言われていた。勝平大喜老師が勉強をしたくて中学を無断で受験したとき、烈火のごとく怒った大航老師に、大喜老師は、学問への情熱で、師匠の怒りをよけた。 しかし、四髙(金沢大学)の合格発表となって、とうとう大航老師から破門を言い渡される。その後同志社大学神学部(授業料は無料だった)を卒業したのが万寿寺大先輩の大喜老師だった。
そうした先輩禅僧を見ていた宗達師は、「これからの時代は禅僧も学問が必要だ」と感じていたと宗徹老師は言った。
昭和16年秋、松江高校3年生だった宗徹老師は、二年半で高校を卒業し、東大に入学する。考えてみれば幼かった頃よりずっと、地方にいたとはいえ支那事変、日支事変と戦争の土音を何処かで聞いて育ち、思春期に入って、太平洋戦争のその時に、学生になり、昭和18年学徒出陣にさいして真っ先に徴兵された。23才であった。
宗徹老師は昭和18年12月10日、呉の海軍に入隊する。任務は偵察員であり、この頃サイパン島が陥落し、沖縄にはアメリカ軍が上陸をはじめていたし、特攻という最後の作戦に頼るしかない戦況だったという。
特攻に志願したが、「戦争で死ぬことが、すべての解決の道と思った私は、生き残った。死んだのは、すべてあんなやさいい奴が、あんな温和しい、柔和な奴が、と思える者ばかりであった」と、”たくあん石の悟り”のなかで言っている。
昭和20年8月15日まで、この呉の海軍兵舎で、毎日をどう過ごしていたのか、いずれにしても矛盾の中に悶々として死を決し、空を見上げる日々が訪れていたのではないかと思う。
昭和21年、再度上京して、東大に復学した。東京は荒れて荒廃した土地と化していた。滅び去った都に、何をもって生きたのか、現実の模様は地獄に近かったのか、それとも地獄に住み自責の念と無力さに打ちひしがれていたのか、道は遠かったし、人生の意味に悩んでいたのかもしれない。
また僧侶という生き方や資格に、自らを疑問に悩む姿があった。道は始めから引かれていた。しかしよくあることだが、その道を断念すのも、始めから引かれていて、宗徹老師も、この一本の道を改めて目指すことを、師匠や母に告げたのが、昭和26年だった。
戦争の焼け跡は復興へとおおきく舵を切っているが、引きずっているのは、じぶん自身の矛盾した足跡なのだろう。この間の生い立ちこそ、宗徹老師の人格を語るものだと思う。しかし私には語ることはできない。
昭和36年、宗徹老師は、修行を終えて松江の万寿寺に帰ってきた。柴山全慶老師について修行した時代、それは老師にとっては何よりもかけがえのない時間であり、老師が真っ直ぐに道を歩んでいた。師匠の宗達和尚も、老師の帰山を喜んだ。松江と京都では、気候も違うし、気質も違う。
小泉八雲のかじり読んだ伝統が随所に残っていて、のどかではあるものの、凛とした気骨の人々が生きている。この寺にわずか6年であったが、宗達和尚と宗徹老師はともに過ごした。老いた師匠に、若く修行を全うした宗徹老師の生活はどんな模様をなしていたのか、知る由もない。
昭和42年、寒松軒老師の5回に渡る説得に、松江をあとに、京都は南禅寺僧堂の師家に着任した。
後年になってのことだが、宗徹老師は、僧堂での大きな見性体験を話している。
「おのれに愛想を尽かした末にたどりついた。すべての感覚を無くし、自分が存在することすらない、狂喜じみた自分」だったと。この言葉の激しさに、宗徹老師の、自身に対する強い姿勢を思うし、あの生前の姿や動作からすると、不思議な気持ちにとらわれる。
寒松軒老師が残した、宗徹老師への最後の言葉、それは《花のひらくことは栽培の力を仮(か)らず、自ら春風の伊(かれ)を管對するに有り》だった。
禅語字彙によれば、さほどに世話をやかずとも、春が来れば花は自ら開く。只坐禅すれば自ら悟るときがあるの意とあった。
花が春風を呼んだのか、春風が花を咲かせたのか、どちらも同時現成する花は、じぶん自身。寒松軒老師の遺書か遺訓か、宗徹老師のひとり進むことを強いる。自ら花となって咲くことを寒松軒老師は突きつけた。この言葉は、寒松軒老師が宗徹老師が描いた椿の絵に、賛をしたもので、この後、寒松軒老師は遷化したのだった。
「ぱっと咲き、ぽたりと落ち、ぱっと咲いて幾百年の星霜を、人目にかからぬ山陰に落ちつきはらって暮らしている。あの色は只の赤ではない。
見ていると、ぱたり赤い奴が水の上に落ちた。静かな春に動いたものは只此一輪である。」
夏目漱石『草枕』の一節ですが、宗徹老師にとっては、椿は寒松軒老師と重なる。それは寒松軒老師がことのほか椿を愛していたからでもある。
山陰の地にひとり咲く赤い椿に春を感じさせるところがあると宗徹老師はいうが、私には、椿は冬を象徴とする花だとしか思えない。きびしさの中に咲く赤い花だ。耐えて耐えて咲いた椿は散り際とともにある。あの色は只の赤ではないと、まして赤い花が置かれた場所が真っ白な雪の上であったらと考えると、ゾッとする。
庫裡にて茶を進められたが、始めから墓参りだけが頭にあった。この山陰の寺の、屏風のように山肌が削られた苔むした歴代塔のひとつに、何を見つめるか、老師の眼差しは虎視のように鋭かったが、自らをもあの虎視で見つめていたのか。
墓に深々に頭を下げ、両耳に手のひらを空に向け、この手のひらに老師をのせること、しばし、温もりを感じながらも、これは……。今も、この山里にいてこそだろう、宗徹老師に別れを告げて参道をあとにした。
南虎室老師祥月命日に向けて
死んで生きる智慧(平成19年3月27日)
死んで生きる智慧(平成19年3月27日)
平成19年3月27日、桜が開花して花びらを散らす季節、長男が鎌倉はE寺専門道場に旅立っていきました。 思い出して重なるのは、昭和46年4月6日、やはり桜の季節に、京都はM寺専門道場に、私は一人雲水の旅支度で入門したことです。前日、近くの床屋さんで髪を剃っていただき、京都へ一人新幹線を乗った思い出が蘇ります。投宿さきの法衣店で、うどんの夕食を頂き、翌早朝、勇んでM寺専門道場に向かったものでした。それこそ右も左もわかないこの身を、修行道場に向かわせたものは、決心といったものではなく、ただただ奮い立たせる心許ないおのれ自身だったことを忘れません。それは、入門した後の生活が全く理解できない、何があるのかも不透明な気持ちを抱えての旅立ちだからです。
そして、E禅寺の山門に発ち、歩みを専門道場の大玄関に運ばせました。網代傘を玄関の脇に立て掛け、暗く広い大玄関の縁に、膝を折り腰掛け、頭を下げ袈裟文庫に額をつけて、震える大声にて、「たのーみーまーしょう」と声をかけたのでした。庭詰めの始まりです。二日間と聞いていた庭詰めの多くの時間は、目の前の袈裟文庫の感触です。それは身体だけが頼りの、腰の痛みと、足のむくみ、頭に血が上り、腕のしびれとの戦いだったような気がいたします。
その庭詰(にわづ)めをして、途中、追い出し棒を居丈高に掲げて、常住(じょうじゅう=修行中の雲水と専門道場の対外的世話をする係)の雲水に、「当道場は万衆で断ったはずだ。いつまでも居るのだ、出て行け」と、玄関先に追い出され、南禅寺の境内を歩く身に、咲き誇る桜は、美しさや見事な色彩となって身を覆うことより、身に堪(こた)えたことを忘れません。境内に咲き誇る桜自身は何も語らないものの、語らせる自分自身の思いは、気ままに自由に浮かぶ思いであり、そんな世界に歩んできたことの、別な世界の期待に、のどが渇きをおぼえたものでした。明日のことは何があるか不明の、身体だけが頼りの生活を強いられる布石のような思いがあります。
専門道場は静けさだけが、あふれています。専門道場は、別名、僧堂とも言い、また、叢林(そうりん)とも言います、「草の乱れずして生ずるを叢(そう)といい、木の乱れずして長ずるを林という」という言葉より、修行僧をたとえて叢林といったのです。
広く鬱蒼とした道場に、修行僧が何十人いようと、閑散とした風景は、静寂をよく表現しています。静けさが、自然に近ければ近いほど、叢林の規則がよく保たれて言えるといえます。聞こえる音は、自然の風の音であり、その風による木々の揺らぎの音であり、時たま鳴く鳥達のささやく、鳴き声でしょう。しかし、注意深く耳を澄ませれば、静寂を破る音が、時たま木霊いたします。それは、金属を打ち鳴らす音であり、板を鋭く叩く音であります。保たれた静寂を破り、乱す音は、また、かえってその静寂さを引き立たせることに気がつくでしょう。
その静けさのうち、長い二日間が過ぎ、庭詰めを終えて、次の入門のための単荷詰(たんがづ)めへと移りました。それは、旧い木造の寮舎の中で、京壁に対面して坐禅することです。もとより坐禅の経験は乏しい身にとって、これもまた、おしりの痛さ、膝の痛さ、姿勢を保つことの困難さ、首をただし続けることの苦労に、そして何よりも心がビクビクして落ち着かない集中心の欠如に、この三日間は苦しみました。
背中の後ろの障子は開け放たれ、緊張と眠気に、ときたまの単荷寮を通り過ぎる足音に、気が張ります。それ以外の気配は、風と、その風に舞う桜の花びらが障子に当たる音の訪れでした。緊張に寂しさが包まれて、遠いところに来てしまった思いをわき上がらせたものでした。
この同じ道を、今、息子が歩もうとしていることを思うと、旅立ちへの哀愁に包まれます。その点、母親は強くじぶん自身に決別を言い聞かせているようです。母親の本心はわからないものの、男親は、自分が歩んだ道に重なり、男親自身の旅立ちへと続く道なのだと、改めて感慨を持ちました。そして、私の父も同じようにこの感慨を、私の旅立ちに持ったのではないかと、思いがけずに知る私の父親の気持ちを偲ぶことでもあります。
専門道場での生活は、経験してみなければ、全く説明できないものです。しかし、数年間体験したものは、ここにこそ、禅宗の存在意義があるものだと気がつきます。
専門道場は、はるか中国は唐の時代に生きた百丈禅師(794~814)が創造した禅宗教団のあり方を踏襲するものです。時代時代により、その時代と専門道場との関わり方は変わらずにあるようにも思えるものの、時代や国が変わればそこに生きる人にとっては、その変わり様は変わって見えるものです。今時、米、味噌を除いては自給自足だなんて、履き物はわらじと下駄に素足と、生活は何もかもがトイレだけは水洗になったみたいですが、私の時は、未だに“くみ取り式”でした。
トイレは東司(とうす)といい、今でも、専門道場はその言葉を使用していますが、その司(つかさど)り用を足された排泄物は、雲水が天秤棒で担いで運んだものです。禅堂の側にそってあった東司から汲み出された排泄物は、畑のさきの竹藪の中に二つある置き場の一つに入れられます。コンクリートで造られたその肥置き場は、小さい頃の小学校の小プールより小さかったものの、充分と泳げる大きさであると思ったものでした。その二つある肥置き場の一方は半年ほど発酵を促し、その力を充分に殺してから畑に施肥のため蒔いたのです。
専門道場に入り、天秤棒にぶら下がった、桶の中の生の肥では、作物に害を及ぼし、その活力を殺すこと、そこではじめて用にこたえる肥料となるものだと、天秤棒にぶら下がって桶の中の中身は踊ります。化学肥料は便利なのですが、人の生き方に例えることが出来ないのは残念です。
深川にはじめて引っ越してきたとき、いたるところに様々な材木屋さんがありました。未だ新木場が湾岸に移る前で、木場があり、貯木場と川には、大きな材木がイカダのように繋がれて浮かんでいたのを覚えています。江戸の風情というのか、川波衆がその材木の上を渡る姿は、勇ましく、ポンポン船がそのイカダを引いている姿が、橋の上から見えたものでした。
人から聞いたことなのですが、ああして材木を真水と海水の混ざった川水に何ヶ月もさらすことで、木の持っている力がそがれて、木材としての用途がますのだと、木の持っているソリや割れる活力を殺すのだと聞いたことがあります。専門道場も、同じ意味に繋がっています。
それこそ夢や希望、生き甲斐や、人間の価値といった我々や個人が創り上げた世界を一度すべてふさいだあとの世界に何が残っているのか、専門道場とは、その世界を垣間見せ、そこに生きる舞台を提供する場所のような気がしてなりません。それこそ研修や学習で習得するのではなく、そこに過ごし生きるということでしか体験できない世界、自我を殺すとは、このことを言うのではないかと思います。だからこそ、数年の旅が禅寺の後継者には必要なのだと思うのです。
☆専門道場にての修行内容は、読経・掃除・托鉢・農作業・普請・公案・坐禅……を、朝起きたら顔を洗うように、365日、我慢するのではなく、相対的な自己を創造するのではなく、淡々と過ごして行くことにつきます。このことは、禅の大志を抱くことを含んで、やがて、今まで見たこともなかった自己の置かれている場所が見えてくれることを願うのです。
(平成19年3月27日息子の旅立ちから)
五百生(平成19年11月20日)
五百生(ごひゃくしょう)(平成19年11月20日)
これは、今から1200年以上前、百丈懐会(ひゃくじょうえかい)禅師という方のお話しで、中国は、唐代中頃のころの話しです。まだ日本には、本格的に禅が伝わっていません。馬祖道一(ばそどういつ)禅師→百丈懐会禅師→黄檗希運(おうばくきうん)禅師→臨済義玄(りんざいぎげん)禅師となって、臨済宗は始まりますが、その源をたどれば、馬祖の遙か前に、達磨がいて、釈尊がいることになります。
この頃になると、大勢の雲水を抱える禅宗教団の修行の道場は、たとえ山深い人里離れた場所であっても、まかないの惣菜(そうざい)など食糧の多くのものを自ら造って、活気のある生活をしていました。こうした生活様式は、他の仏教教団とは一線を画して、大きな違いだったのです。
畑には、多くの野菜、お茶、牛を飼い牛乳を生産していたのです。きっと、かまどには、一日中、煙が絶えることがなかったことでしょう。
もちろん、薪(まき)の切り出しや運搬も、雲水という修行僧の役目でした。きっと汗にまみれて作務(さむ=労働のこと)をする雲水は、汗くさかったし、衣服を買うこともままならなかったほどに、僧院は、多くの人をかかえていたと思われます。
こうしたの禅宗の修行生活の基礎をつくった人物が百丈和尚です。百丈和尚が若かりしとき、あまりにもぼろの衣と汗くささに、図書館の官吏は、経本の閲覧を拒んだと記録にありますが、身近に感じる故事です。
「一日作(な)さざれば、一日食(く)らわず」の言葉は、この百丈和尚の言葉で、大勢の雲水の集まりの中で、働かなければ生きて行けなかった環境があったのだろうと思いますが、それだけではなく、みずからを律し、人々のために働くという慈しみが感じられ、親しみが湧きます。
釈迦の時代を受けつぐ南伝の仏教を、田畑を耕し、家畜を飼い、草木を伐採し、収穫をあげ、医薬をつくること等、この時代頃より遠ざけられ、大乗の仏教の変化です。多分、釈迦時代のような、大檀越が少なかったのかもしれません。その結果、集団を運営する経済感覚が養われたのだとも思います。
典蔵(てんぞう)という賄(まかな)い係、副司(ふうす)という経理係、維那(いな)というお経係、知客(しか)という運営統括者、侍者(じしゃ)という衆僧接待係、直日(じきじつ)という衆僧統括者等という制度が確立されたのも、この百丈和尚の頃でした。
僧院の衆僧全員により、助け合って働くことを、普請(ふしん)といいますが、この百丈和尚の言葉のようです。修行道場にて、頻繁に行われる総茶礼(そうざれい)は、修行者全員でお茶を喫することですが、働くだけではなく、その場に集う全員でお茶を喫することその中に、お茶を通して意味が生じます。「お茶にしよう!」と、知らず、この時代の言葉を我々も受け継いでいます。
また、禅には、『道中(どうちゅう=作務を含めた行為による)の工夫』という言葉があります。それは、『靜中(じょうちゅう=坐禅による)の工夫に勝ること百千万倍』というごとく、作務という行為を通して、心を耕し、人を耕すということを発見したといえるでしょう。
禅宗の規則という厳格さと道場の静寂は、常に心を耕しながら真を求めてやまない雲水の姿がある故です。托鉢する多くの修行僧の雁行(がんこう=雁の飛んで連なる姿)も、ホーホーというかけ声のなかにも、静けさが表れています。この修行道場の制度が在ればこそ、今でも、禅宗は保たれているといっても過言ではありません。この修行道場の制度を作られた偉業の人物こそ、百丈和尚でした。
そんな多くの衆僧が集う僧院で、衆僧を指導する百丈和尚は、毎日、多くの修行者に法を説き、巧みに問答を仕掛けます。
あるとき、百丈和尚は、いつも説法をしているとき、一人の老人がそっと話しを聞いていることに気がつきました。毎日のことでしたが、衆僧が退くと、知らず老人の姿も消えていました。
そしてある日のことでした。衆僧が散々に散った後に、老人は一人のこり、百丈和尚の前に姿をさらしたのでした。
百丈和尚は、「おまえは誰だ?」と問いかけました。
すると、老人は答えました。
「わたしは人間ではありません。はるか昔、それは迦葉仏(かしょうぶつ=釈迦が誕生する前の、過去七仏の六番目の仏)の時代でしたが、この山に住んでいたのです。
あるとき、修行者が、『修行を完成した人は、因果の定めに落ちるでしょうか?』と、尋ねてきました。そこで私は、『因果の定めに落ちない』と答えたのです。
それ以来、五百回も野狐(やこ=きつね)の身として生まれ変わりを繰り返しているのです。どうか和尚さん、わたしに替わって、この身を救うお言葉を、述べて頂きますようお願いします。」
そして、百丈和尚に、たずねました。
「修行を完成した人は、因果の定めに、落ちるでしょうか?」
百丈和尚は言いました。「因果の定めを、くらまさず。」
老人はただちに悟り礼拝しました。
後日、百丈和尚は、修行僧に命じて、山奥の巌下に横たわる一匹の狐の骸を探し出し、亡僧の葬儀を執り行ったと言うことです。
因果の世界とは、縁起の世界と同じで、今、わたし達が生きる世界に違いありません。この縁起ゆえに、今の私があると言えば、この因果こそ、今の私を現すものです。
この故事に、飯田老師は、「老人何ものぞ、人にあらず、狐にあらず、神にあらず、仏にあらず、ただこれ因果じゃ。」と、今のこの私に成りきったなら、狐も人もないと、この一瞬を生きろ、因果そのものの中にこそ、おまえの生きる場所が在るではないかと諭します。別の言葉で言えば、今のあるがままのおまえ自身を、受け入れよということでしょうか。それは、自己が空なる、仏なる自覚でもあります。
因果や縁起のない世界とは、神や仏の世界でしょうし、そこには、この問答のように、問うことも、答えることもありません。因果や縁起も、本来空なる世界です。
その空が空の世界に住むことを、「狐が狐に安住して他をうらやまぬ時を仏と言い、人が人に満足せずして求めてやまぬ時を狐という」と、これも飯田老師の言葉です。
因果に落ちずに住むことで、長い年月の流転を繰り返し。くらまさないで、この繋縛(けばく)が解かれます。共に答えであることが、ここに引っかかれば、因果に落ちるし、因果にくらまされると、迷妄の世界に入ってゆきます。
自己そのものも本来空であり、因縁・業も、本来空であることを思えば、この本来空の場において、諸縁に対して真っ向に引き受けていく、これを仏道というのだと思います。
五百回は数えることに困難な数字です。狐だからこそ、人を騙そうとするのか?考えてみれば、百丈も狐に似て、人を迷わします。五百回も繰り返して生きることができるならば、その五百世の一生一生を充実して生きれば、この老人は多生の縁を、くり返し楽しんだはずですし、煩悩と菩提のあいだの往復を繰り返したはずです。
何ともこの世は、変化に富んで面白く、不可思議で、解ろうとすれば、人や狐を迷わします。何度となく迷ってみなければ、解らないことかも知れません。
「因果に落ちない」で、生まれ変わり。「因果の定めをくらまさず」に、死して、再びめぐる生のない所に行ったか、どっこい、狐はここにいる。
多回生の世界観を持つことで、再生の願望が現れ、また一回生の世界観である涅槃や解脱が現れます。仕事にしても、全存在を通して、立ち向かってゆき至れば、最早、そこにじぶん自身の存在はありません。しかし、立ち止まってみれば、因果は巡る風車のまっただ中にいたことに気づきます。
そして、その場所で、考えてみれば、因果の世界に迷うが故にこそ、智慧や慈悲が尊ばれる世界があるとみれば、もう一度生まれ変わって、狐となり、人となるのも人間の選択肢とみれば、案外と多回生の世界こそ、人を豊かにする世界なのかも知れません。
破地獄偈(平成20年5月24日)
破地獄偈(平成20年5月24日)
お互いが認め合うことで、たとえ、あの声が聞こえなくとも、今、話しかけたい 。たとえ、あの人が食べなくとも、今、美味しいものをお供えしたい。たとえ、喜ぶ顔が見えなくとも、お花とお香をお供えしたい。たとえ、あの姿が見えなくとも、手を合わせたい。今・ここに、いっしょに、いるから。だって、先祖の血、みんな集めて、私は、生まれたから。
施餓鬼会(せがきえ)の法要とは、弥勒菩薩(みろくぼさつ)の兜率天内院(とそつてんないいん)を再現しようとする試みです。
その彌勒菩薩は、五十六億七千万年後に出現するといわれています。しかし、私たちには、待つ時間はありません。
禅に、「釈迦も弥勒も修行中」という言葉がありますが、釈尊は過去の人、弥勒菩薩は未来の人です。ともに今逢うことができないならば、私という心の中に、釈迦と弥勒を再現させる以外に方法はないではないかと。それは、私が釈迦になり、弥勒となる以外にないではないかと。
そのヒントが、施餓鬼会法要のお経、施餓鬼文冒頭の言葉にあります。その内容は「若し人、三世一切の仏を知らんと欲せば、まさに法界性を、一切唯心が造ると観ずべし」です。世に、破地獄偈(はじごくげ)と呼ばれるものです。
それは、仏を知ろうと思ったならば、心が世界を創っていると見破りなさいということです。
釈尊は、クシナガラの郊外、シャーラ(沙羅)樹の林の中で最後のメッセージを発しますが、遺教經(ゆいきょうぎょう)というお経の中にあります。
「弟子たちよ、おまえたちは、おのおの、自らを灯火(ともしび)とし、自らをよりどころとせよ、他を頼りとしてはならない。この法を灯火(ともしび)とし、よりどころとせよ、他の教えをよりどころとしてはならない。」
「他の教え」とは、人間が創った教えと解してよいと思います。また「自らをよりどころとせよ」の、自らとは私なのですが、これは主体性を持った私という意味です。しかも、私の手、私の足、私の身体、私の心といったふうに、対象として考えられない私という意味です。
その私を、鏡とたとえると分かりやすく、鏡の性質に二つの特質があります。それは、鏡はあらゆるものをすべてそのまま映すということです。もう一つは、景色が変わっても、前の景色や残像を残さないということです。
映るものは時間とともに刻々と変わるけれども、永遠に鏡の中に残るものは何もないということです。私たちの心の中に、この鏡性という、それは静けさともいえるものですが、見届けているものがあり、それを、仏性・仏・父母未生己前本来面目・一無位の真人と、禅は位置づけているといえるでしょう。
その鏡性は、世界を映しながら、「すべての存在は本来空相であって、真実のものは何もないと見届けています。真実に存在するものは何もないのであるから、実法なしである」と、そう徹底して見ていくのが真正の見解(けんげ)といいます。
もっとも、真に存在するものは何もないといいながらも、実際には、世界(時間と空間)は因と縁により出現したものと解釈し、その因縁がなくなれば、消滅するものと考えています。だから実法無しと、一期一会の出会いとは、真にかけがえのない出会いのことを表しています。
「自らをよりどころとせよ」とは、よりどころとする私を見極めることの発言ですが、さらに、「この法を灯火とし、よりどころとせよ」と釈尊は重ねて告げます。
施餓鬼分の巻頭の語、「法界性を、一切唯心が造ると観ずべし」には、法と鏡性としての心がしるされます。この法と自ら(私=鏡性)の関係を一体としてつかむことが禅の宗旨といってもよいと思います。
臨済録には、「云何(いか)なるか是れ法。法とは是れ心法(しんぽう)なり。心法は形無くして、十方に通貫し、目前に現用す。」とあります。
目前に現用すという意味は、「眼に在っては見るといい、耳に在っては聞くといい、鼻に在っては香をかぎ、口に在っては談論し、手に在っては執捉(しっしゃく)し、足に在っては運奔(うんぽん)す。」と、心の働きになります。
鏡性自身は、私とも、仏とも、本来の面目とも、有とも無とも言えません。何故なら対象となるものではないからです。自らが働き出したときに、初めて対象(客観)として見ることができると解釈できます。
臨済録には、その現れ方という関係が、主観と客観を例にとり、四通り記さています。
《◎記:臨済録・山田無文老師・禅文化研究所出版》
◎主観を奪ってしまって、客観の世界に実在を発見していく。
我と世界とが一体という立場において、お互いの生活を分けていくと客観だけになってしまう。自分を忘れて映画に見とれてしまう。あるものは映画だけだ。自分というものはなくなってしまう。自分を忘れて花を眺める。我を忘れて子供を愛する。客観を生かし相手を生かしてゆく。こういう場合も人生にはある。
◎客観がなくなって、主観だけになってしまう。
そういう場合もあるはずである。相手をすっかり忘れてしまう。思う存分に歌ってやる。舞を舞う人が思う存分舞うようなものだ。天上天下唯我独尊だ。相手も周囲も社会も、何も考えずに自由自在に人間性を生かして、我を生かし、我を肯定していく。こういう場合も許される。
◎主観も客観もなくなってしまう。
お茶をやりながらお茶を忘れ、我を忘れておる。工場で機械を動かしながら、工場におることを忘れ、機械を忘れる。仕事と我とがピッタリ一つになって、そこに人も境も忘れてしまう。内外打成の一片の無字である。念仏三昧、そういう境地もある。
◎主観があり、客観があって、お互いのこの対立的な常識的な世界が開けてくる。
我もあり、人もあり、世界もある。「花有り、月有り、楼台(ろうたい)有り」だ。夏になったら、涼しい浴衣でも着て、家内子供連れて、有馬温泉へ行って風呂に入り、ゆっくりと涼みながら、帰ってこようか。我もあり世界もある。こういう境地もなくてはならん。この四つの世界を自由自在に使い分けていくものが、禅というものだ。
私たちの生活は、この主観と客観のかかわり方の変化に過ぎないのですが、その主観(私)と客観(世界)を対照的に観ていくのではなく、切っても切れない主観と客観を、一体として観ていくのが禅的な生活です。
ただし、主観は一切主張していませんし、認めることも、求めることも、願うことも、心配することも、物語を作ることもいたしません、言葉も発しません。思うことや考えることは客観として対照的なものですから、移り変わるものです。「釈迦とは誰ですか、弥勒とは誰ですか」と問われたとき、その問いをはっきりと聴いた主観こそ、釈迦や弥勒と一つも違わない普遍的な主観です。
この主観をつかみ、わかると、眼・耳・鼻・舌・心・意に触れるものが、そのまま実在となって現れると言えるでしょう。何故なら、一体となっているからです。
それを、生活という中に言い表してみると、縁に随ってそのままに、夫という衣装を着け、妻という衣装を着け、サラリーマンという衣装を着て、子供という衣装を着け、親という衣装着け供養するものという衣装を着けるという、主観が客観となって働きが輝きます。
施餓鬼会法要に参加するとは、お互いの主観がお施餓鬼という客観の世界を創造することです。お互いの心がそれを認めなかったら、このお施餓鬼は存在しえないことです。
だから、お互いが認め合うことで、たとえ、あの声が聞こえなくとも、今、話しかけたい 。たとえ、あの人が食べなくとも、今、美味しいものをお供えしたい。たとえ、喜ぶ顔が見えなくとも、お花とお香をお供えしたい。たとえ、あの姿が見えなくとも、手を合わせたい。今・ここに、いっしょに、いるから。だって、先祖の血、みんな集めて、私は、生まれたから。
法とは、世の中を眺めていく眼でもあります。その眼さえ分かれば、むやみにものを求めることも、さげすむこともないはずです。それは、逆に言えば、仏を見て、お金を見て、人を見て、すべてを見ていく眼となります。山田無文老師は言います。「人生の中に尊いものを発見するのではなくして、尊いものと卑しいものとを見分けていく眼をつかむことが人間の根本問題である。その眼さえ開ければ、何を見ても美しく思うように、自分の中に美しさの種を持つようになるものです。「我を見る者は法を見る。法を見る者は我をみる」と釈尊が言うとおりです。
ジテンキジンシュー 我ら、なんじに供物を施さん。