目次
輝いている時
夢中(ゆめのなか)
芝浜
江戸っ子
亀住町(平成13年7月1日)
モンセ・ワトキンス~夢のゆくえ~(平成14年1月3日)
新牌開眼
英霊(平成17年5月23日)
目覚め
よわい「齢」
また始めたらよい
三大聖樹(平成19年4月17日)
滅度(平成19年9月18日)
安住の地(平成20年11月15日)
心眼(平成22年3月1日)
とかくこの世は
とかくこの世は
祈り(平成17年11月29日)
品位(平成18年1月20日)
ニャンニーシンズ(平成18年3月1日)
鍵(平成18年4月25日)
チベット(平成20年5月1日)
SYOHOU
諸法
四十四の問い~ミヒャエル・エンデ
先ゆく輩
さき行く輩
祖師年譜
ダルマ
慧可
五洩霊黙和尚
石鞏慧蔵禅師
大珠慧海禅師
西川の黄三郎
馬祖道一禅師(馬大師)
五百生 百丈和尚
大梅山法常(752-839)
麻谷山宝徹禅師(平成12年1月27日)
鎮州普化(ふけ)和尚
寒山・拾得
虹の彼方に
ヘイヴン・ペックの場合―続貧しいけれど、豊かだった―
生前葬
平和を我らにーGIVE PEACE A CHANCE(平成13年10月31日)
ソクラテスとヤージャニダッタ
蓮(平成14年6月2日)
心-KOKORO(平成14年6月25日)
独り暮らし(平成15年4月12日)
老いが、咲いていた!(平成16年7月5日)
深濱-fukahama
死に顔
松山鏡(ソクラレストとヤージャニダッタの続き)
真ん中(平成20年4月1日)
百万回いきたネコ(平成21年1月1日)
夜来る鳥(平成21年1月1日)
だいじょうぶ、だいじょうぶ(平成21年2月1日)
無常への帰依
無常への帰依
希望(平成12年1月2日)
葬式坊主
泥棒
赤とんぼ
老い
……ロス
後姿
寿陵
ついで参り
目標
六道を行く
もの言わぬ羅漢達…揀択をこえて…
宮本武蔵
五合庵断章(平成10年10月17日)
K子さん!(平成12年7月19日)
今は昔
十一面観世音菩薩
尽七日忌(平成19年5月1日)
OSYOU
OSYOU
この手のひらに―禅僧の死―(平成10年11月18日)
戒(平成10年7月25日)
幽霊
みんな仏教徒(平成10年5月27日)
最後の晩餐(平成10年5月23日)
禅問答(平成10年5月31日)
分銅
天国は汝ら自身に宿る(平成10年11月24日)
宗派
穢れ(平成12年8月30日)
お彼岸
仏心
仏心
ご祈祷
施餓鬼会にて(平成17年5月28日)
永遠の命
輪廻する葦(平成10年5月27日)
連鎖する命(平成10年6月2日)
涅槃(平成10年8月12日)
鏡(平成10年7月25日加筆)
流星
TAO(平成11年1月3日)
四大
挨拶
冥福
盂蘭盆
祈り(平成14年7月4日)
仏事歳時記
再び 最後の晩餐
この手のひらにII(平成18年11月18日)
死んで生きる智慧(平成19年3月27日)
五百生(平成19年11月20日)
破地獄偈(平成20年5月24日)
この指止まれ
この指止まれ
家族と家庭(平成11年1月5日)
導師(平成11年2月26日)
家から個人へ、そして家族・友達へI
家から個人へ、そして家族・友達へII
脳死そして臓器移植(平成11年3月2日)
独り決めの生き方
僧堂I
僧堂II
僧堂III
恥じ
僧堂IV
返事
父殺し・母殺し・友だち殺し・子殺し(平成20年1月1日)
その後
その後
ほとけさま(平成17年5月1日)
仏が仏に合掌する
戒名(平成12年3月14日)
無用の用(平成12年2月21日)
世話
大きく育て!(平成11年1月18日)
しもべ(平成10年11月7日)
電話(平成10年8月22日)
意思
寡黙
妄想(平成10年8月2日)
川(平成10年8月22日)
風如(風のように)(平成10年6月18日)
追悼(平成10年5月27日)
受容(平成10年6月18日)
蒸発
臨終(平成10年6月8日)
外道
障子(平成13年3月10日)
日月(にちげつ)
年寄りの出番より
人生とは、闇を照らす一瞬の蛍の光
時の旅人
時計(平成12年1月3日)
星(平成11年10月15日)
溝(平成11年8月2日)
過去心…念の起こる処(平成11年6月19日)
与える時間(平成11年5月24日)
桜(平成12年3月2日)
無常(平成11年4月16日)
川(平成10年9月17日)
有時(時の構造)(平成12年2月5日)
時の旅人(平成12年2月1日)
揺れる木々の葉
この人生の速さはなんだ(平成14年12月26日)
法句経より-時の旅人(平成15年2月4日)
寂然不動 如春在花(寂然不動、春の花に在るが如し) (平成16年9月19日)
ZENGO
自立
橋は流れて(平成10年9月18日)
無事
過去(平成10年5月23日)
たまごっち(平成10年5月23日)
一衆觸礼(いっしゅうそくれい)
六道を輪廻する
二人三脚
生老病死
筋肉番付
ポケモン
俺は、親馬鹿か!
塵も積もれば山となる
生と死と永遠
最終章
一章
二章
三章
四章~(未完)
時間旅行
時間旅行
命の歌-母の短歌
礎-いしずえ-
離魂(平成19年8月25日)
海辺橋
海辺橋
ふるさと(平成18年3月4日)
千の風(平成18年9月16日)
人の道(平成18年9月18日)
あなたは、いつから、一年が始まりますか?(平成20年8月1日)
前住職 二十三回忌にて(平成20年9月1日)
平成21年お施餓鬼会を振り返って(平成21年6月1日)
奥付
奥付

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無常への帰依

無常への帰依

世の中自体が無常であることに異議がある人は少ないと思います。
無常へのこだわりを、いかに持つことができるかは大きな問題だと思うのです。
受け入れた無常を、寂しさ儚さと見るか、喜び微笑ましいことと見るかで、自分自身の立場が変化していることがわかれば、無常との付き合い方が わかるのでしょう。

希望(平成12年1月2日)
葬式坊主
泥棒
赤とんぼ
老い
……ロス
後姿
寿陵
ついで参り
目標
六道を行く
もの言わぬ羅漢達…揀択をこえて…
宮本武蔵
五合庵断章
K子さん!
今は昔
十一面観世音菩薩
尽七日忌(平成19年5月1日)

  八王子の広園寺は、臨済宗は南禅寺派の修行道場でもあります。その老師は丹波慈祥老師と言い、法は三浦一舟老師を継承していますが、京都南禅寺専門道場に、長年にわたって修行した方でもあります。
 その得度の寺は、丹波の高源寺です。妙心寺派に属し、中峰派の(玄住派)の本山です。中峰禅師という方は、中峰明本といい、臨済宗楊岐派(ようきは)の禅僧であり、高峰禅師にその法を継ぎました。多くの皇帝が、賜号を贈った、西暦1263年~1323年、中国は、杭州銭塘の人です。

 その中峰国師の玄住禅を丹羽老師は、『中峰広録』より、易しく約して下さいました。
 「私達は幻に住し、幻が生じ、幻が死す、幻が見、幻が聞くのであります」と。
 「このことに気づいた時から、私の今までの生き方が一変したように思います。言い換えれば、無字に住し、無字が生じ、無字が死す、無字が見、無字が聞き、無字が生きるのであります」と、南禅寺専門道場の平成13年10月1日号会報に、書かれていました。
 中峰和尚座右の銘に、「道心堅固にして、すべからく見性を要すべし」とありますが、この見性は、私という本性に気づくことであり、それを、中峰国師は『幻』と観たと表現しています。

 今、私達は個性とかアイディンテティーいう言葉を多用します。その個性をも、禅は『幻』と言うとしたら、禅は個性を否定するともいえます。その個性は永続的なものではなく、変わりやすいもので、対象としてとらえずに、もっと自由にと考えているのです。
 人が誕生して、一人前と言えるようになるには、また、大人と意識されるためには、子供から大人、あるいは一人前としての転換がなければ、なりません。その社会的な節目が、元服であり、成人式です。人にとって、社会通念上の何かしらの儀式は、通過儀礼ですが、もう元に戻れないという、過去への決別の儀式ですが、もっとも、最近では、成人になる若者の自覚の欠如が成人式事態の無意味さを表していますから、すべての決まり事の基盤が揺らぎ、心が揺らいでいるようにも見えます。これも、個を大切にすることなのでしょうか。

 その通過儀礼が、意味を失いかけているとき、『一人前』は、その時その時、年齢で、知識で、体力で、その環境でいう、私の好きな言葉でもあります。赤ちゃんは赤ちゃんの一人前、一年生は一年生で一人前、初心者は初心者で、一人前という意味で使うのが好きです。
私達には、当たり前と思っていることが、実は全く当たり前でなかったり、何とも思わないことが、何も気が付かないけれど、よく考えてみればとても不思議なことが身の回りに結構あるものです。

 赤ちゃんは、お母さんのお腹の中に10ヶ月も居ます。そして、世の中に生まれてきます。赤ちゃんが生まれとき、あの赤ちゃんの姿を見たとき、他の動物と何と違った状態で、私達は生まれてくることかと考えさせられます。目も見えなければ、自分で食べることも出来ないし、歩くことも、走ることも、座ることも、おしっこやうんちの片づけも出来ないではないですか。話すことも、しゃべることも、着飾ることも、初めは親も知らない、何も知らない。出来ることと言ったら、食べさせて貰うこと、寝かせて貰うこと、身体を綺麗にして貰うこと、温かくしてもらったり、汗を拭いて貰ったり、話しかけて貰ったり、動くものを見せて貰ったりと、本当に自分ではなにも出来ないのです。それらに反応することはあるものの、そこで、人間とは、教えられなければ何も出来ない動物なのだと、気が付きます。

 名前を何回も呼ばれて、繰り返されることによって、自分の名前を知り、他人と区別しなければならないことを知ることになります。そして、他を多く知ることによって、自分との違いをより鮮明に知ることができ、自我が形成すると言ったらよいのでしょう。それでいて、愛情を注がれる存在として、社会が認知して、社会が待望して生まれてくる。その何処に、特定された個性と言われるものがあるのだろうかと思います。
 色が白い、手足が長い、指が短い、二重の瞼だと体質的な特徴は数えられるものの、意志を持つ年頃になったとき多用する個性は、環境や、赤ちゃんを取り巻く人間の資質によって、発芽し育てられたものであって、生まれたときより持っている個性などと言うものはあり得ないと思えるのです。外側の世界から接触や誘導させられたり、刺激を受けて芽生える、花咲くものと言ったら良いのではないでしょうか。これが個性の芽とでも言えばよいのでしょう。

 植物を育てると同じに、どう育てるかによって、いかようにも変化するといえます。人は自分勝手には育たないものです。自分勝手に育ててしまうから、その勝手を個性と勝手違いするのでしょう。
 大切に育てられた個性の芽は、やがて、発芽いたしますが、それは育てられている環境と環境から注がれる情報を選択しながら善く成長し変わって行きます。それを、生き方と言い、私は、生き方を同じとする人はいないことが、そのことを個性と考えることに意味があると思えるのです。勝手違いの個性も、生き方を模索し求める個性も、同じ個性といえますが、見える人から見ると違うのではないでしょうか。
 個性を発揮して、生きることそのことが個性であるのですが、発揮するためには、個性を育む善い環境が常時必要なことです。その上で、人は、すべて魅力に溢れてといえるし、生きることそのことが、無理やり作るのではなく、個性を伸ばすことになると思います。
 しかも、その個性を『幻』と理解することは、大切にして、必要なことだとおもいます。ですが、その『幻』が実体として在るものに見えてきたとき、人は狂い、逸れるのも事実です。飽食の時代は、その個性を、大きく育てた時代とも言えないでしょうか。その結果、バブルとして弾けてしまった個性。『幻』をも幻として見ることが大事なのでしょう。

 『幻』と見ることは、造られた個性を否定することなのですが、それは、今までの自分を常時否定することが、より新しい個性を発揮することになることであり、それを発見したのが仏教です。今の自分を否定することによって、生まれ変わって生きることを、仏道と言うのだと思います。
見えているのも幻であり、見えないものも幻であり、その見ている者も幻とする者の、日本語の不可解な言葉使いがあります。
 幻とは、「無いのでは無い」であり、これは、有ることの強調表現なのか、あるいは否定の強調表現の用語は、自分の未来の行為を、否定の否定で表現することで、現実の自分を把握し、表現している方法なのだと気がつきます。自分の中身が現実にはみ出している姿と見ると、そこにも生き方が現れます。

 「自分で言うのも、恥ずかしいのですがとか、高い席から恐縮ですがとか、若輩者ですがとか」と、何気なしに使う言葉があります。この言葉も、前提として大勢の人がいて、突出して自己表現することを回避する言葉です。これも自己否定することが、自己表現する手段になっているという、今の自分を否定して、新しい自分を全面に出すという、禊ぎに似た行為でもあります。考えようによっては、自分を卑下し、同一化しなければ、社会の一員になれないようなそんな社会の未成熟さを表している言葉とも言えますが、善く考えてみれば、「偉いとか、いい男とか、いい女とかあるけれども、みんな同じなのよ!平等なのよ!それでいて、バラバラの個性じゃないの!」と、美しい表現なのではないかと思うのです。


希望(平成12年1月2日)

希望(平成12年1月2日)

今まで、この寺の住職をしてきて、また地域で役を務めるようになってから、随分といくつかの家庭が崩壊するところを見てきました。もちろんそれに比して喜ぶべきことは数多くあることは確かなのですが、悲しいことは尾を引きます。

平成11年の暮れの一日のことでした。寺の側のバス停にたって30分に一本のバスが来て、妻は東陽町までバスに乗りました。妻は後ろの席の窓がわに腰掛て外を見ていたそうです。二つ目のバス停で、野球帽を目深にかぶり、障害者用のアルミの杖に、中学生の男の子と一緒に乗り込んだ男性は、久しぶりに見る、彼と息子のGちゃんでした。妻は声はかけられなかったものの、元気そうだったと夕刻寺に戻って、私に報告してくれました。彼の、娘のHちゃんとGちゃんが、彼を見下しているとの噂を聞いた記憶が、Gちゃんが付き添っての姿は、胸を撫で下ろす内容であり、無事に生活していることを思うことが、この文章を書かせたのです。そして、彼の趣味であった篆刻の印材は、この寺の本堂の地下室に、埃をかぶって保管してあるのです。彼はもう要らないから、処分してくれと言ったものの、そう簡単に処分は出来ない。私にとっては、今でも悲惨だなと思っている事件なのです。

 彼は一般の家庭より禅僧になりたいと、修行をしたいと、その寺の住職であり、とある本山の管長でもある禅僧の弟子入りを許された男でした。九州の久留米にあるきびしい修行道場に一年行き、その後京都の祇園にある修行道場に5~6年行ったのではないかと思います。このことを今振り返ってみて何になるのだろうかと思うのですが、この記憶は折に触れて、話題になる事も事実であり、痛ましく、かわいそうな事件であり、今でも、なんともやりきれない思いなのです。ましてや彼の姿を誰かが見たとか、様子がどうだったかと聞くと、「あっそう。元気そうだった!よかった」と、胸をなでおろすようです。

この事件は、私の記憶の中でもそろそろ風化してきている内容なのですが、はたして彼にとってはどうだろうか。もちろん過ぎ去ったことに、心を縛られていては、この先の彼こそ大事なのであり、いまさら蒸し返してみても何の意味も持たないと思う。でも人一人の事件に、家族が絡むと、波紋は大きく広がり、その事件の周囲にいた私たちへどう教訓となるかは、この事件を、時がたって検証することも大事なのではないだろうかと思ったのです。

彼は大きな格式のあるお寺の副住職であり、いつも留守の住職に代わって寺の務めを果たしていたのです。その事件がなければ。
10年前、私の上の子どもが幼稚園の年長だったときです。7月の末の東京の暑い夕刻、その寺の玄関前に、ビニールのプールに水を張り、私の子どもは、彼の子ども二人と水遊びをしました。夕方子どもが帰ってきて、幼い子供同士の遊びのことを聞き、普通の団欒を私は過ごしていました。彼や彼の奥さんも、私の寺とはすぐ近くのことでもあり、彼が私より4~5歳年下で、比較的年齢が近いのと、私もどちらかと言えば、寺で育った環境ではなかったことより、彼とは馬が合う間柄だったのです。彼は、どちらかと言うと豪快なところがあり、私とは性格が違っておりました。

この地域は、5月、6月と付き合い寺院の施餓鬼が毎週土曜日と日曜日に催され、彼とは一緒にタクシーを使ったり、歩いたり、バスだったりと出かけることが多かったのです。事件が起きた後、彼の言動に歯止めがなく、他人のいるところにもかかわらず、大柄な態度と言動は目に余るものがあったことに気が付いたのですが、今でもそれが兆候だったのかは確信が持てないのですが、多分兆候だろうと思うのです。
忙しい寺でもあり、彼が全面的に任されていたこと、師匠は本山と道場のトップに君臨する立場にして、その傘を着ていたところもあったように思えるのですが、内心は、いつ尋ねてくるかわからぬ師匠にビクビクしていたところもあったようです。そして奥さんは子どもたちを育てる環境に、苦悩していたこともあるのでしょう。

今考えてみると、その頃の彼の生活は、破滅に向かってブレーキが利かなくなっていたようなところが見え、危ない気がしました。しかし人の意見など聞く耳を持たないところがありました。私と較べて明らかに違う風は、豪快に人と付き合い、懐が深く、高らかに生きる彼を頼もしく思っていました。今思い出しても、彼と付き合いだした最初の頃、彼は謙虚に生活していたと思うのですが、どうしてああなってしまったのか残念でしかたありません。
そういえば、彼の寺はヒノキ作りの本堂を建て替えたばかりで、広島から来た宮大工の棟梁たちが1年あまり近くのアパートに泊りがけでの工事は、三度の食事の支度や、二人の子どもの世話で戦争のようだった毎日を終わってのつかの間の休息だったような気が致します。
翌日聞いたことは、その晩、彼は子どもたちのいる前で、雲膜下出血で倒れ、救急車で、葛西の森山脳外科病院に入院、前頭葉に穴をあけ、出血を吸い出したと聞きました。3ヶ月の入院と6ヵ月の墨田区の東京都リハビリ病院入院は、その後の彼を大きく変えてしまったのです。言語障害と右半身不随の身体障害で彼は一級の手帳を手に、寺に戻ってきたのでしたが、彼と家族の居場所は、もうありませんでした。

彼がいなくなってより、寺はてんてこ舞いでした。彼が倒れてすぐ、寺は施餓鬼の法要が迫っており、押入れや帳簿類の点検にごった返して、彼の惨憺たる惨状が明るみに出てきたのです。ダンボール箱に通帳やカード、お布施や下着・衣類がごちゃ混ぜになってでてきたり、本堂建築の寄付金集計がでたらめだったこと、各種の契約書が見当たらないこと、過去帖が付いていないこと、お檀家さんの住所録がでたらめだったこと、夫婦喧嘩が耐えなかったこと、今思い出してもかなりハチャメチャだったことは確かです。師匠もここまで出鱈目だったことに思いも及ばず、ただ許せないことと思うばかりのようでした。

後になって聞いたことなのですが、彼の身分では考えられない相撲部屋の贔屓になったり、植木屋さんが入って判ったことなのですが、境内のあるところから彼のペットだったはずの珍しい亀達の死体がたくさん出てきたりと、唖然とする以外は考えられない事ばかりでした。
しかし、森山脳外科病院で入院中の彼には、何も思い当たることがなかったのです。私は、その思い当たることが無いということが、彼がいかに精神的に追い詰められていたことの証であるように思えるのです。彼は重症の病態で、住職である師匠が見舞いにこないことをいぶかることばかりでした。

彼が彼の能力では限界だったことが判るにつけ、なぜ相談しなかった、誰かに手を伸ばさなかったのか、残念に思うことばかりです。この病院の入院中に、彼は師匠から一回の訪問を受けました。その訪問の目的は、印鑑を押せと強いての、絶縁状を叩きつけることだった。彼の頭の中は真っ白になり、途方にくれる彼を目にすると、痛ましいばかりで、これからの道のりは決して楽ではなく、誰が彼を支えるのだろうかと、彼の家族はどうなってしまうのか、子どもたちはどう育つのだろうかと考えると、暗い気持ちになりました。
寺の和尚が若い身体障害者であれば、他の身体障害者にとっても希望であり、精神的負担はきっと彼のためにも、この寺や他の寺院のためにもハンディキャップはあるものの、優れた逸材を得ると思うのだが、彼の師匠は、「だめだ!」の一言で、退けてしまったのです。せめて、退職金や当座の生活費を支援していただけたらと思うのですが、かたくなに心を閉ざしている師匠を見ることが出来ませんでした。やはり、当事者でなければわからないことのようです。

彼の持ち物は処分された。倒れる半年ぐらい前に買ったカメラはその後、知り合いの寺に貰われたが、その寺の和尚が、カメラに入っていたフィルムを現像したところ、倒れる数時間前に水浴びをしていた私の長男が写っていたからと持ってきてくれたのを思い出す。
今、振り返ってみると、労災であったのだろうと思うのですが、その後の彼は、師匠と同じに、かたくなにしこりを胸に、沈黙しています。

雲膜下から9ヶ月経って、彼は、彼を受け入れてくれるリハビリ病院や職業訓練所を転々として、彼の将来の手がかりを探すかのようです。彼の様態は、まだら模様に調子が良くありません。特に雨や曇りは、彼を部屋に釘付けにして、疾患の症状が過ぎ去るまで、彼を動かせません。子ども達は、部屋でごろごろしている父を、邪魔に、蔑視を持って見るようになると、しばらくして彼から聞きました。さらに耐えなければならないことが、これからも彼の胸中を騒がせると思うと、悲惨に思うのです。一級の障害者の手帳は、さしあたっての生活の安定をもたらしているようですが、奥さんは勤めに出て、彼は部屋に閉じこもる日々が続いたようです。私は、賀状のみの付き合いになるのですが、左手で書く毛筆の筆跡は、現在、10年前と同じくらい達筆になっています。しかし、手紙の住所は彼の実家である所からです。

今、多分47~8歳になると思うのだが、寺を出た後、彼は寺を少し離れたところに、マンションを借り、子どもたちが大きくなるまで、地方都市の脆弱な福祉を避けて、江東区の補助を受けながら、生活している。
彼にとって、ぬぐい切れない過去とはと考えてみると、なんともやりきれない。せめて子どもたちがすくすくと育ってくれることを願う。


葬式坊主

葬式坊主 藤木さんへ

 平成11年5月31日夜7時半過ぎ 電話が鳴った。5月の初めに私の寺で葬儀を準備してくれた葬儀社の人からだった。葬儀が終わって片づけが全部済んで挨拶の時だった、

「これを縁に、場合によっては葬儀の導師を引き受けてくれますでしょうか」と、言われた。初めての葬儀社の人だったが、葬儀社の場所が遠いので、「何かありましたら」と、返事をした。その彼からの電話だ。
「宗派は何処でも良いのです。墓地がないので、もし良かったら譲ってあげてください。戒名も多分頼まれると思いますので、付けてあげてください。亡くなられたのは、5月31日です。性はM、名はYで、大正11年1月生まれだから、77歳です。自宅は足立区Mで、電話は……です。6月2日、6時から通夜、3日は10時から告別式で、場所はM葬祭場です。いかがでしょうか。是非お引き受け下さい」

私は、最初ためらいました。何故なら、先ず場所が足立区のM葬祭場で、自宅が足立区のMでは、お墓のお参りが遠くはないか?事情によって墓地が遠くなってしまうのはやむを得ないこととしても、新規に墓地を取得するのなら、自宅に近い所が良いに決まっている。そうとなれば、近くのお寺の住職に頼むのが一番であるに超したことはないと、思うからです。

その旨を、電話で話すと、是非にという。あのような葬儀を初めて知った、あの時の葬儀の感動が忘れられず、あのような葬儀を自分でも手掛けてみたいというのだ。
葬儀社の人から、そう言われて嬉しく思い、引き受けないわけにはいかないと思ったのです。
「お引き受け致しましょう。それでは、どんな方ですかわからないと、葬儀の組み立てができませんので、電話してみてもかまいませんか」
「有難うございます。お願い致します。戒名もお願い致します。また誠に恐縮ですが、お布施は○○円、お車代は○円でよろしいでしょうか」
「戒名に付いては、お引き受けできません。俗名で葬儀を致しましょう。先方が戒名についてどんな考えを持っているか知りませんが、もし私が戒名を付けたとして、何処か寺院墓地を取得した場合、トラブルが発生致します。私も陽岳寺という名前をだすことから、起こる可能性があるトラブルは避けたいものです。またお布施に付いては、喪主が決めるのが筋であり、私は出されたものを、そのまま受け取るだけです」
こうしたやり取りがあって、葬儀はM家に電話をすることから始まることになった。

この度、何かの縁で私が葬儀を執行するはめになったこと、MYさんが亡くなったことへの同情、私とお寺の紹介、MYさんの亡くなった時の様子、生前の生い立ちと仕事のこと、家族のこと、私が知らなければならないと思うことを、亡くなった人の家族から多く聞くことによって、私と残された家族との信頼が、儀式を通してなりたつ。それは一本の電話から、いつも始まることなのです。
6月1日午後3時すぎ、私は葬儀社から教わったナンバーに電話をした。
私。「もしもし。私、葬儀社からこの度依頼されたお寺ですけれど、今よろしいですか。ちょっとお話がしたいのですが」
電話の向うで、チャイムが聞こえた。誰か来客か?
私。「大丈夫ですか。かけ直しましょうか」
M家の奥さん。「ちょっとお待ち下さい」
M家の奥さん。「もしもし、大丈夫ですから。どう言うことですか」
私。「セレモニーさんからこの度、葬儀を依頼されました寺の住職ですけれど」
M家の奥さん。「ああっ!お寺さんですか。今忙しいので、後にしてください」
受話器を切られた。
私は、すぐに、この話はお断りしようと思い、葬儀社の名刺を紛失していたので、私と葬儀社の共通の友人に電話をし、私の勝手ではあるが、この度の件はなかったことにしてくださいと伝言を頼んだのです。
その友人は快く、いきさつを聞いて了解してくれたのですが、私にとっては何とも後味が悪く、すぐに、この文章を書き、何が問題なのか考えることにいたしました。

葬儀社にとって、葬儀は常に緊急なものです。このような場合に備えて、知り合いの各宗派の僧侶を用意していなければ、成り立たないものです。多分、この葬儀社も専属のお願いする僧侶がいたはずです。その人達に頼まず、わざわざ私に依頼されたことを思うと、私に頼んだことによって番狂わせで、憤慨したかもしれません。そしてそのことに、私は弁解するつもりはありませんし、すまない思いで一杯です。
また、知るか知らないか 解りませんが、M家に対してもすまない思いです。

M家にとって、葬儀の坊さんってそんなものに見られているのかという思いが強く、ここのところが自分の修行の足らなさなのか、また、知らずに強く自負の念が芽生えていることにも、僧侶として揺れる部分を見ます。おそらく、通夜の日に挨拶して、そのまま通夜の読経をして、翌日、葬儀の引導を渡せば、私の依頼された勤めは終わるのでしょう。
M家にしても、葬儀の連絡に終われ、葬儀の意味を改めて考えるということをせずに、人が亡くなった、葬儀をしなければ、戒名を付けなければと準備に忙しく、足元を見つめることさえ不可能に近いことはよくわかるのですが、私は、自分自身を、その中に立たせるのをためらうものがありました。私を本当に必要とする人は、葬儀社ではなく、葬家の人であるはずが、葬家の人は、僧侶ならば誰でも良いのだと見えたからです。戒名・葬儀ってそんなものなのか、もしそうだとしたら、亡くなった人を汚すものだし、いっそのこと葬儀をしなければ良いのにと思えるのです。

私は、和尚、僧侶を天職として自分に位置付けています。それは、私の生き方であり、おのれ自身を全うし続けることであり、裏表ない人格を、和尚ないし僧侶というのだと思うからです。

私が考える葬儀は、死者をだした家族、喪主との喪失感の共有をすることから葬儀は始まることでなければならないと確信いたします。その場だけの葬儀は、やはり容赦してもらいたいのです。共に考え、共に残された人達の胸の中に何時までも残る葬儀であり、このことを機会に自分達の足元を見つめなおし、否定し、肯定して限りある人生を歩んで行きたいと思うからです。

大多数の寺院が、現実には、葬儀や墓地の収入から成り立っていることを思えば、私の寺も同じなのですが、これではいけないと思いつつ、ただ時間が経過するのみで、出口が見えないのがとても歯がゆく感じられます。
寺や僧侶は、ただ問われるのみにて、我々から現代を常に問うことが必要なことであると思うのですが、そのことは、我々の足元を固く踏みしめて、一人一人が自己を行ずることでもあると思うのです。
私は葬式坊主に違いないが、私の思うがままに葬式坊主である


泥棒

泥棒

  平成10年9月始めの、ある日のことだった。寺は本堂の外壁塗装工事をしていて、職人が2人、仕事をしていた。昼過ぎて2時ごろだったと思う。
それは、本当に突然の事件だった。今思い起こせば、まったくの偶然のことに違いないのだが、庫裏に一人いた私は、ふと気配を感じたのだ。気配と言っても、確かなものではなく(だから気配というのだろうが!)、本当に偶然と言うことのほうが、正しい表現のような気がするのだが、何故か、玄関に出ていったのだ。

若い二十歳ぐらいの男がタイル張りの土間に立っていて、ビックリして、間の抜けた顔をしている。
「この辺は、お寺がたくさんありますね。何軒ぐらいあるでしょうか?」
こんな尋ね言葉はない。他人にものを尋ねるのに、いきなり、ズバリと挨拶もせずに尋ねるとは?しかも他人さまの玄関の中に、突然佇んでのことである。唐突な質問を浴びせ掛けられ、私は面食らった。何の用だろうか、呼び鈴も押さずにどうして、ここまで入ってきたのだろうか。


 私の目に、彼の後ろの、寺の建物を守る韋駄天様が映る。この韋駄天様は、禅院の庫裏には欠かせないもので、建物の火事や盗難から守るべき守護神である。陽岳寺にはもともと無かったのであるが、先代の住職が、多分通販で買った、台湾製の木像で、正直言ってあまり傑作な仏像ではないのです。それでもお墓参りに来る方々は、この韋駄天様に手を合わせて、幾らかの賽銭を投ずるので、お賽銭箱には多少のお金が入っていました。墓参の方は、そこで、線香とシキビを受け取り、お墓に行くのです。

その賽銭箱が置いてある場所が、妙に殺風景な気がしたのです。在るべきものがない景色は、何かが欠けているように、何かが違うと思った。そう言えば、彼と目を合わせたとき、彼の右手は、彼の前にある紺色の布製のバッグのチャックを閉めた行為の後だった。彼の左手は、その布製のバッグをしっかり大事そうに抑えていた。

私は、彼の後ろの韋駄天様を気にしながら、賽銭箱のないことに気が付き、彼を問い詰めた。
「おい!そのバッグを開けてみろ!」
後でよく考えてみると、私も他人に、いきなりこういった言葉を吐くとは、恐れ入った。修行の道場では、天を突くような勢いで、『この大ばか者!』『コリャー!』と、修行僧は吐く。確信が、突然言葉を発せさせるのである。しかも、腹の底からである。まさか、初対面の人に『コリャー。この大馬鹿モン!』とは言えない。何故なら、ばつが悪そうに、突っ立っているからです。
私は、彼の抱えているバッグに手をかけ、無理やりバッグのチャックを開けた。後で、刑事さんから、『してはいけないことなのです』と言われたのでした。調書では彼がバッグを、私から言われて、開けたことになっていると、書いたようです。
バッグの中には、小さな賽銭箱と、白い手袋と、剃刀が他に入っていたのです。
「これは何だ!」
彼は、「ごめんなさい!勘弁してください!」と言った。
私は、咄嗟に「外に出ろ!」と、言い、彼をつかんで玄関のドア―を開け、外に連れ出した。後で考えてみたら、やはり、「外に出ろ!」はない。まるで喧嘩の常套言葉ではないか。まして、寺には私、一人だけだったので、そこまで言うことは無いのにと、反省したことでした。しかし、もし彼が、暴れ出したらと、考えてのことでもあったのです。

「勘弁してください」と言う彼は、あどけなさが残った、何故か無抵抗の彼でした。
咄嗟に、彼の名前や住所、連絡先になるものを聞いたのです。
「名前は?」。
彼は「○○△△」と答えた。
「学生?」。
「違います。」。
「ご両親の連絡先の電話番号とかは?」。
「電話はありません」。
「働いているの」。
「はい。建設会社に」
「勤め先の名前と連絡先の電話番号は」
「電話はありません」
「アノネー。君は、勝手に侵入して泥棒をしたんだよ。ご両親に話して罰を与えてもらわなければ、君のこれからの為にも良くないと思う。君が、君の素性を話すことが出来なければ、私は義務として警察に、連絡しなければならないよ!」
彼は、しぶしぶ了解したように、覚悟を決めたように、思えた。

私は、ペンキ職人の勝っチャンを呼んで、彼を捕まえてもらい、庫裏より無線電話を持ってきて、110番に電話したのでした。
しばらくすると、深川警察署の刑事さんが二人、覆面パトカーでやってきた。制服警官も、その後、送れてパトカーでやってきました。
玄関に着くと、泥棒を取り押さえ、盗まれたものは、この賽銭箱ですかと、もと紅茶の空き箱を利用した、不細工な箱を手にした。私は、その賽銭箱が世に出るとは思ってもいなかったので、やはり寺の備品は粗末なものでも、やはり間に合わせはよくないと、妙なことを思って、恥じらいでいた。(今は、私が、どこぞで景品で当てたものであるが、下の子どもが組み立てた、列記とした立派な賽銭箱が代わりに置いてある。)
その賽銭箱を確保して、刑事さんは、「捕られたものは、他にありませんか」と言った。

賽銭箱を、彼から取り戻していたので、厳密には、捕られたものは無いことになるのが、不思議な気持ちだった。正確に言うと「捕られて取り返したものは」有りませんか?が、正しい日本語だろう。 後に、賽銭箱の中身は、4千円ちょっとで、警察署の刑事課のクリーム色の床に、その賽銭箱と千円札、五百円玉、百円、五十円、10円、5円、1円硬貨とが、几帳面に、恥ずかしそうに、並べられ、記念撮影をされたのでした。
「無いようです」と言い、「刑事さん、あまり大業にしないで下さい。彼が反省してくれたらよいのですから」と、付け加えた。
刑事さんも、「承知しました」と、私の意思をくんでくれたようでした。
「先ずは、署に行って、話をうかがいたいので、恐れ入りますが、住職さんも一緒に来てくださいませんか」
家内と下の息子が、外出から帰っていて、何があったのだろうと、のぞいていた。
「泥棒だよ!」。
「なに、捕まえたの?」と、興奮した様子。
「ちょっと警察に行ってくるから」と、3時ごろだったと思うが、彼と一緒に、覆面パトカーに乗り、深川署に出かけたのでした。

警察署について、3階の刑事課に行くのに、ジロジロ見られて、「窃盗犯!確保!………」とか飛び交う中、大部屋に到着したのです。だだっ広い室内は、机はたくさんあるのだが、人間はほとんど居ませんでした。部屋の中央に、皆と向き合うような形で、この部屋で一番偉い人と思われる人が座って、こちらを見ている。彼の後ろには、なんと!神棚が有るではないか。”八幡様”だろうか?と妙なことを思いつく。そして、八幡様が祭ってあるなら、もう少し懇切丁寧に、お祭りの神輿の行列を規制してくれたらよいのにと、都合のよいように、すぐ思いつくのだから、人間って職業に関係なく、勝手なものだ。
「住職さん!こちらの部屋にどうぞ」と、これが取調室だろうか?と思案しながら、その部屋に入って、ソファーにすわった。覆面パトカーの刑事さんが、お茶を出してくれて、一人ポツネンと座っておりました。

しばらくすると、もう一人の刑事さんがあらわれ、「住職さん、告訴することに致しましたので、ご協力お願いいたします」と。書院の少し古いワープロを持ってきて、正面にすわった。
「実は、前歴が出てきましたものですから、訓戒ではいけません。逮捕して、地裁に送りたいので、調書を取らしてください」
「そうですか、逮捕ですか?前科があるのですか?わからないものですね!」
それから、私は、順を追って、いきさつを話し、刑事さんはカチカチとワープロを打ちました。
気になるのは、彼のことです。彼は7日間、警察の留置所で取調べを受け、裁判の日まで、拘置所に逗留することになるのです。私の判断が、人をこのように拘束すると思うと、正しかったのかと、もっと他に方法はなかったものかと、しばらくずっと考えておりました。このことは、調書の最後に、私の捺印を強要されましたからでもあるのです。宅急便の印鑑と違う、重みは、最後の文面に、告訴するとの内容があったからです。私は、捺印いたしました。

6時か7時ごろまで警察に居たのですが、部屋の偉そうな人や、後から帰ってきた人が、コンビニで弁当を注文するらしく、560円の何々弁当とか、やけに細かく、電話でしゃべっているのです。こちらも無償の時間を、警察のため、世のため費やしているのに、お腹が空いてきて、少しはこちらの思いをくんで、弁当ぐらい出したらよいのにと、思ったのですが、警察も、緊縮財政で大変なんだと、妙に同情し、感心したりもしたのです。あまり長く、警察に居るものではないことが、よくわかりました。

そのあと、刑事さんと、今度は白黒の、あのパトカーで、寺に帰ってまいりましたが、その後も、写真をとったりと、夜8時ぐらいまで、時を費やしました。
1日たって、彼のことが気になって、「チョコレートでも、差し入れしてこようか?」と、家内に真剣に、告げたのですが、「ちょっと!おかしいんじゃない」という家内の言葉に、忘れることに致しました。
数日たって、元紅茶の箱の賽銭箱は、警察より凱旋してまいりました。
そして、それから1ヶ月がたった頃です。彼の弁護士から電話が入りました。
「私、彼の弁護人と致しまして、ご住職にお願いの儀がありまして、参上して、お話を聞いて下さいませんでしょうか」と、丁重なる電話に、「どうぞ、いらして下さい。うかがいましょう」と、日時を約束して、彼の消息を聞き、電話を切りました。
そして数日が過ぎ、弁護士が見習の女性弁護士と一緒に訪ねてまいりました。
まず弁護士は、迷惑をかけたこと、ビックリしただろうこと、怖がらせた想いをさせたこと、彼も後悔していること等を謝罪と共に、話してくました。そして彼の身の上を、話したのです。
弁護士
「彼は、五歳の時、ご両親の離婚をきっかけにして、お父さんの仕事の関係上、一緒に住めないので、岩手県のお父さんの実家に養育を頼み、年寄り夫婦と一緒に暮らしたのです。小学生の時、お爺さんが亡くなったそうです。そこで、お父さんの兄のところに引き取られて、暮らすようになったのですが、彼は友だちもいなく、いじめられ、一人で時間を費やすようになっていたそうです。彼の知性の発達が少し、幼稚なのもこのようなせいかもしれません。しらず、本屋さんで万引きしたり、お店で、お菓子やジュース類をくすねたりと、窃盗をするようになってたそうです。何回か補導を繰り返して、少年院に繰り返し、入所したそうです。今年の3月、彼は出所いたしました。
お兄さんが、引取りを拒否いたしましたもので、やむなく、お父さんと一緒に暮らすことになります。彼は、自立を考えまして、少年院で取得した特殊車両の免許をいかそうと、住み込みの建設会社を探すのですが、受け入れてくれる会社が、なかなか見つからなかったのです。とにかく、彼は、家を出たかったのです。四月初め、彼は二十歳になりました。そして職を探しに行くと、家を出たのですが、公園やサウナ、あるいは路上に寝泊りしながら、お寺や神社の賽銭箱を狙って窃盗を繰り返してきたそうです。半年にわたって、窃盗を繰り返して、逮捕された時の所持金は、1000円弱でした。ご迷惑をおかけいたしましたが、どういう風にお感じになられましたでしょうか」と。

「ウーン。気の毒に。人格を形成する大切な時期に、多感な年頃に、辛い経験の連続だったでしょうね?明るく跳ね返すことができれば、またその辛さを共有してくれる誰かがいたら、また、違った人生を歩むのでしょうが?実の父と、そんなに小さな時に別れていたら、一つ屋根の家に、いくら親子といえども、心を打ち解けて、普通に暮らすのは容易ではなかったでしょうね?彼が、家を出たいと、思う気持ちが辛いですね。しかし、特殊車両の免許は施設で取らせてくれるのに、現場に行く時必要とする、普通車両や、大型車両の免許は取らせてくれなかったのですかね?なんか、ちぐはぐですね?彼は、未熟な社会の、可哀想な被害者でもあるのではないでしょうか?」。
弁護士
「そこで、お願いがあるのですが、10月末日に、第一回めの公判があるのですが、彼の弁護証人になっては頂けませんでしょう」。

「ちょっと待ってください。捕まえて告発したのが、私と言うことになってますので、彼を弁護したら、可笑しなことになりますよね。裁判が成り立たないですよ。それに、彼を捕まえた刑事さんの立場が可笑しくなったら、可哀想ですし」。
弁護士
「刑事さんの立場は、離れておりますので大丈夫ですし、和尚さんのお立場で、今、さっき仰られたことを、そのままお話いただければよいわけですから」。

「ウーン。わかりました。お引き受けいたしましょう」と、簡単に引き受ける私は、どうも成り行きで、変てこな方向に進むことになってしまって、『行ってみるか』で、即決即断したのです。
10月某日、私は霞ヶ関の、大きな建物の家裁・地裁とかかれてある、建物に、生まれて初めて足を踏み入れたのです。長い廊下を、部屋番号を探して、エレベーターを使って探し当て、着いてみると、そこは、あたりまえのことですが、テレビで見るのとまったく同じ風景でした。弁護士さんが待っていて、挨拶し、検察官と判事さんと書記の人が出てくると、開廷です。傍聴人が二人居ましたが、彼らは事件と何のかかわりも無い人のようでした。私は、被告人の関係者、つまり父親を探したのですが、居ませんでした。
彼が奥の扉から布の紐を身体に巻いて、警備の人に連れられて出廷してきたのです。寺に泥棒に入ってきた時と、変わりなく、多少うつむきながらも、元気そうだったので、懐かしく思いました。
唐突に、裁判は始まっているようでした。裁判官と検察官、弁護人のやり取りは、何を言っているのか、主語や述語がない会話のようで、よくわからず、裁判官の「証人は前に出来てください」の言葉に、私は、何故か、周囲を見回して、席を立ちました。

書記のような人から、一枚の紙を頂きますと、宣誓と書いて有りました。詳しくは、『真実に誓って、申し述べることを誓います』と、あるのです。
こういう言葉に出くわすと、すぐに反応して考えてしまうのです。私は禅宗の僧侶ですから、”真実”と言う言葉には、世間の人より多少、理屈っぽい。その”真実”のため、修行し、日夜造業造作してきたからです。それより『事実を、脚色なしに、私の見たままに、思い、話すことをおゆるし下さい』と言ったほうが、私にはとても言いやすい。
また、”誓う”と言う言葉も、誓う行為の自己を考えると、とても難しい言葉であり、行為です。そして、”事実”と言う言葉も同じように、難しい問題を含んでいるのですが、裁判所でそれを言ったとしたら、何もいえなくなってしまう。西田幾多郎や歴史に名を残す哲学者が全員でてきたって、話が先に進まないことなのですから。

『神に誓って』と言ったほうが、言いやすい。しかしながら、”神”に関しては、神学等何千年の歴史を持たない日本では、社会全体に神の確立が出来ていないので、やはり無理でしょう。
それでは、”仏”ではだめだろうかと思うのですが、もともと許す、受け入れるという色彩が強いので、あまり似つかわしくないかもしれない。それにしても、ただ自分の思ったことを、話にきたのに、最初から、ちょっと当惑したことでもあったのです。
私は、弁護士の方から、頼まれたとおり、彼の罪は罪かもしれないが、彼を動かしたものは、日本の未熟な社会のゆえなのでしょうと、その意味では、彼は被害者でもあるのです。私は、今日の彼にとっては大切な日だと思うのですが、彼の肉親が、この場所に立ち会って欲しかったです。この彼を見て、そして、父親も、彼に許しを乞うて欲しかったのですと、思う通りに話しました。
すると、裁判官が、机から乗り出して、弁護人に「私もそう思います。父親は今日、どうしたのですか」と、話されたのです。その時、制服の裁判官が、とても親しみのあるように、感じられました。

『へーっ、裁判所も、アットホームなものを、持っているんだ』と、思い、嬉しくなりました。
弁護士は、「今日は、仕事がかち合っていて、私も説得したのですが、だめだったのです」と、困ったような声を出しました。
突然、裁判官が私に向かって「向井さん!もし彼が出て、相談に行ったら、いろいろと相談に乗ってやってくれますか」と、こちらに顔を向けたものですから、「ええ、私にできることなら」と、答えたのです。
裁判官は、「そうですか、それでは、次回は3日後です。判決になります」と、事務的に検察官と弁護士に目配せしながら、簡単に日取りを決め、裁判は終わったのでした。
彼は、警護の人に、布の紐で繋がれ、法廷を去ってゆきました。どんな気持ちなのだろうか、知る由もないのですが、彼が姿が、可哀想で、今でも、思い出します。
その日から、一週間後ぐらいでしたか、弁護士から電話がありました。弁護士からの電話は、判決は、執行猶予2年ついての懲役3年であり、判決日、翌日には拘置所を出たことが知らされました。
驚いたのは、お賽銭4千何がしかの窃盗に、懲役3年と言う響きです。もちろん、ことはこの寺のお賽銭だけではなく、あちこちの窃盗がからむことではあるのですが、少年院から出てきて、二十歳になり、半年も流浪をして、また、社会から重い刑罰を受ける、ちょっと智慧が足りない若者の、なんとも悲しい軌跡ではないですか。

この話には余談があります。
裁判官から、相談云々と言われたことが、忘れられずに、私は近くの運送屋の社長に、もし彼が訪ねてきたら、今度は幸せになって欲しいからと、運転手の助手に雇ってもらえないかと、たずねたのです。社長は、すかさず「ああっ、いいよ。お安いもんだわ」と承知してくれました。しかしながら、よく考えてみると、もし彼が仕事中に、悪さをしたら、私にも責任がでてくるなと、その時は、こちらも覚悟をしておいたほうがよいなと思ったのです。しかし、すぐにあまり調子よく、すぐに引き受けないほうがいいなと、よく考えなければと、ぜんぜん反対のことも思ってしまうのです。

判決が出て、2週間たった頃だと思うのですが、突然、彼と父親が「本当にご迷惑をおかけいたしました。有難うございました」と挨拶に来られました。彼の顔は、はにかみながらも、落ち着く場所が見つかったみたいにホットした表情でした。
「よかったね、元気に暮らすんだよ」と、別れて、またしばらくたった、ある夜のことです。
電話が鳴りました。ペンキ屋の勝っちゃんからです。
彼が寺に、泥棒に入った日、勝っチャンは本堂の外壁に、塗料を塗っていたのでした。勝っチャンは足場板の上で、玄関に入る前の彼の、うろついているさまを上から見ていて、『お参りにしては、やにうろうろしているな』と、不審に思って仕事をしていたのでした。

「和尚!あの野郎、もう出ているのかい?俺が、仕事をして帰り道、あの野郎が、歩いているじゃないのよ。後をつけたら、うろうろしながら、自販機の釣銭が出る所に手を突っ込んでみたり、床下を覗いてみたりしてるんだよ。あまりと思ったんで、コラッ!何シテル!と、怒鳴ったら、あいつ、一目散にいっちまいやがんの。出てきてるんだー」と、言うことだけ言って、電話は切られた。

私は、しばらく大笑い。「こいつは、変わらないもんだなー」と、大笑い。しかしこの笑いは、何故か、嬉しくもあり、悲しくもある大笑いだったのです。
最後に、陽岳寺の玄関に祭ってある韋駄天様は、安物の韋駄天様かもしれないが、天下一品の、他には無い、韋駄天様なのだ。


赤とんぼ

赤とんぼ

 先日、京都は妙心寺山内の奥さんと、電話で話していてのことである。
二人で、どうしてこんな世の中になってしまったのだろうか話し合っていた。
「つい最近聞いた話であるが、今、首都圏で判っている範囲での話だが、年間30万人の堕胎手術が行われているという。実数は、おそらくこの倍であろうと言うのです。交通事故の死亡者が1万人、中高年の自殺者が3万人、何年か前の記憶では、癌の死亡者が30万人を超えていた思うのだが、これらの数字と較べて、何が起きていると思いますか。」
この問いに、蟠桃院の奥さんは、「この頃の子ですけれど、『赤とんぼ』を歌わなくなったとおもわへん。15年ぐらい前に、韓国のお坊さんが、そのことを指摘していたんよ。日本は、今に大変なことになると言いはったんですせ。だから、『赤とんぼ』を、どんどん歌いなはれと、お言いでした。」

「そう言えば、『赤とんぼ』を、歌わなくなりましたね。」
「何ですか、『ちょうちょ』は良く歌うのですが、やはり、イメージが暗いせいでしょうかね。」
確かに、この歌を、子ども達は歌わなくなったような気がする。しかしそれは、演歌も同様だろうし、大正以前は、共に無かった歌のような気がする。
何と言おうと、子ども達が、夕日を浴びて、家路を歩く姿こそ、この歌の景色に似つかわしいと思うのです。
『赤とんぼ』の歌詞は、三木露風(1889年(明治22年)兵庫県龍野(たつの)市生まれ)が作詞いたしました。夕焼け空に飛ぶ赤とんぼをながめて、子供のころを思い出して作られたそうです。

作曲は、山田耕筰です。
夕焼け小焼けの赤とんぼ 負われてみたのはいつの日 
山の畑のくわの実を 小かごにつんだはまぼろしか
十五でねえやはよめに行き お里の便りも絶え果てた
夕焼け小焼けの赤とんぼ とまっているよさおの先

 この曲から何を思い浮かべるか。日本人ほど夕焼けが好きな民族はいないと、誰かが話していた。
夕焼けも赤とんぼも、詩歌において、夏の季語である。夕焼けは何も夏に限ったものではないが、子ども心に思い出すのは、夏休みの日中の長い一日が、もう終ってしまうという情景であり、家路につかなければならないという、時間にかかわる内容の情景です。
日中の暑さの中の、蝉取りや、川遊びには、いつも年齢を超えた幼友達がいたものだ。子ども達一人一人が多様な時間を持ち、多くの時間を持つ者が、少ない時間を持つ子どもに、多くの時間を持つことの意味を教えていたように思うのだ。そんな日中から、夕焼けの記憶家の中へ場所を移ることは、私の知る範囲ではのことだが、昭和半ばの、日本の家庭の、団欒のひと時であったはずだ。
日中と夜との境は、光と闇とを仕切るカーテンのよう、炎天があり、西日があり、夕焼けがあり、夜が訪れるのである。夜は家族の休息の時間であり、語らいの時間でもあった。

『赤とんぼ』は、アキアカネと言い、田んぼに水が張られる頃、幼虫に孵(かえ)り、7月頃、成虫に成ります。夏の盛夏に高地に群れをなしている『赤とんぼ』をご覧になった方は多いと思いますが、産卵は涼しくなってからです。それまでは、生まれた所にいることは少ないのです。秋、平地に産卵のため帰ってくるのです。つまり、赤とんぼの風景とは、田んぼの風景と切っても切れない関係にあり、アキアカネに姿を変えてからは、一夏の時間そのものです。銀やんま、金やんまは、数少なく成虫の時間も短く、大きな旅は致しません。無数のアキアカネが空をおおう時、それは田んぼに水が無くなる季節でもあります。一気に産卵の時を迎えたのでした。
そんな風景が、何百年と繰り返されてきたのでしょう。
ここ深川には、田んぼはありませんが、川や堀が数多くあり、川や堀の引き込みの場所で、『赤とんぼ』も生きていたのでしょう。最近では、子ども達のいなくなった、プールに場所を変えているようですが、もう、無数の『赤とんぼ』を見ることはありません。

一夏の風景は、生から死へ、赤みを増しての死に際の変化です。赤とんぼになる前の生態は、よく知りませんが、田んぼと関係がある以上、卵から孵化するのは、田んぼに水が張られてからなのでしょうか。短い期間に成長し、蝶のように空を飛ぶことにおいて、最終を飾ることは、意味が有るように、意味付けをしなければ勿体無いと思うのです。

夕焼けは、和らぐ光であり、西方浄土を思い起こさせる。これは、私たちの体内に、ヨーロッパ人アメリカ人とは違って、歴史的記憶として刻み込まれているものと思いますが、あらためて考えてみようと思ったり気づく人は少なくなってしまったようです。
多分、私たちの年代の多くは、『赤とんぼ』の曲を、今でも、口ずさむことが多いと思うのですが、確かに、今の子ども達は、口ずさむことはほとんどないことに、気づきます。

私にとっては、『赤とんぼ』の曲は、寂しい曲だけれども、ものの哀れを感じさせる響きに、手をつないで、子ども達が家路に帰る風景を思い出させる曲でもあります。そして、この気持ちこそ、日本の土壌の中で、培われたものの中で、最も大切なものの一つだと思うのです。
「○ちゃん、△ちゃん、また明日ね!さようなら!」と、家に急ぐ。家では、お母さんが、お風呂と夕食の支度をしている。真っ黒に汚れた子ども達は、お風呂に入り、浴衣やくつろいだ服を着て、今日あったことをお母さんに話す。一家団欒の風景が浮かんできます。
今、こんな風景、いや、文化と言ってもよいかもしれないが、亡くなってしまったようです。その風景は、田んぼや、赤とんぼ、子ども、家……と、全てが結びついて、ゆっくりと時を刻んでいる風景であり、芳醇なものを育んでいた時間でもあったと思うのです。

ゆったりとした時間を取り戻すことこそ、必要なことと思います。少なくとも、『赤とんぼ』の曲を口ずさむことは、とても忙しい人には、出来ないことです。このことは、言ってみれば、この曲を口ずさむ事の中に、ゆったりとした時間が含まれているということでもあります。
私は、これを発展して、ゆったりとした時間は、人と人が、互いに手を結ぶあり方にもあるような気がいたします。
今のお母さんは、背中に赤ちゃんを背負わない。

良く考えてみると、背負うことは、お母さんの視線と一緒に同じものを見つめることであり、何か用事をすることも、母親だけの視線ではなく、赤ちゃんの視線でもあったような気がいたします。そして肝心なことは、赤ちゃんを背中に背負うということは、お母さんが、掃除や洗濯、買い物にいつもスキンシップで繋がっていたということかも知れません。
抱っこは、赤ちゃんの視線に、お母さんきりしか、眼に入りませんし、抱っこは、長時間に適しません。
どうでしょうか、お母さんと赤ちゃんの外出を観察いたしますと、ほとんどの母親が、バギーです。少し大きくなれば自転車の前に、幼子は乗ります。手をつなぐという習慣がなくなりつつあるようにも思えます。
様々なものと結びついているという自覚こそ、大切なことだと思うのです。


老い

老い

 平成16年11月1日、明治小学校にて、セーフテイ教室が開催されました。1、2年生の集いを拝見して、「変な人に声をかけられ、危ない思いをしたことがある人?」の指導員からの呼びかけに、3分の1の生徒が手を挙げ、その多さに驚きました。また、エレベーターを使用して通学している生徒の、これもまた、多数の生徒が手を挙げました。
 「どんなふうに、声をかけられたの」の質問に、「お菓子をあげる」とか「お小遣いをあげる」に、いっせいに子ども達が話し、会場のにぎやかさは大きく広がりました。
 ちょうど、奈良県の幼子が誘拐され殺害された事件が発生したあとでした。この事件は、すぐ近くの事件なのだと、たまたまこの地域にはなかったこと なのだと、社会は大きく変容しているのだとの思いを強くもちました。

 世間の変化がめまぐるしいということは、月日の速さも増しているということのなのだろう。

 つい何年か前のような気がするが、少子高齢化という言葉がありました。それも今や、少子高齢社会になっている。しかし、私に言わせれば、地域の生活環境の変化に、何故、年齢だけを浮き立たせて問題にするのかと意識を持ちます。この問題は、言葉の綾のように聞こえますが、大きな問題を含んでいると思っているからです。
 少子はいけない、高齢は、世の中にとって、いけない問題であると、考えることが出来るからです。その逆に、大きく生産し、大きく消費する世代だけが、世の中にあって価値があるような気がいたします。すべては、数でとらえる世の中の風潮に、そうかなァ~と疑問を持ちます。

 区の行政も、数字をたくさん出して、年金財政や、介護保険の数字をいいます。言われてみれば、もっともなような、でも、数字だけが一人歩きする危険はないのだろうか。
 個人的な嗜好ですが、老いという言葉は、私が好きな言葉です。この言葉に、寂しさや、喪失感、また、達観や存在感、威厳や重たいものを捨てたひょうひょうさ、狡猾さやしたたかさ、たくましさと、老いには、ありとあらゆる姿形があるからです。
 お年寄りが未曾有の多さに直面した社会の、それは、老いの熟成した社会と見ることができれば、こんなにも、世界で成熟した社会の出現した歴史を持った国はなかったとも言えるからです。
老いとは、在る面では、人が年を重ねることを意味いたしますが、実際には、老いが熟成した人間の出現と解釈できれば、老いとは、人と人との関係の中に生ずる優れた知識ではないかと思うのです。

 家族や世間と、密接に必要な関係が保持されているからこそ、老いは、成熟していくものだと、老いは、人の境遇、生き方、見識により、年代年代により、実りあるものと成っていくものだと思います。そして、老いが語られる場所も、その関係の中にあってこそ、意味があるものだとも思います。老いとは、血縁、地縁、共縁、と縁が連なる、その関係そのもののなかに育まれるのではないでしょうか。私の父や母、その母方の父や母の記憶も、威厳があり、日に暖まった縁側の温もりと、そこに座り、孫達がはしゃぎ回る姿を、笑顔で見ていた姿の記憶が、実に懐かしい思い出です。布団の綿入れの時には、孫達を上手く使って、私の母も、母の姉たちも、一緒になって、綿埃の中に居た思い出は忘れることができません。老いは、こうした光景の中にあったと思うのです。
 老いを喪失した、老齢や加齢には、魅力をそぎ落としてしまった、少子高齢という、問題だけが浮き彫りにされた言葉に響きます。

 核家族が定着し、作家の黒井千次さんは、平成16年10月28日の読売新聞のコラムに、『老人は孫の目を失い、夫は背後からの親の目を失う。妻は姑という監視者をなくした。
 「自由だけど、老いも家族の形もあいまいになり、不安定になった。高齢社会とは老人なき社会ではないか」』と、語っていました。
何か、老いにあるすべてが喪失して、老齢という、加齢のいまいましさだけが表現されている言葉を、我々は使用しているような気がいたします。
この何年間か、生活福祉にかかわる、ホームレスの問題や低所得の問題を、少しながら社会勉強をしました。ホームレスという言葉には、絶望的な響きがあることを思います。
 あらためて、家庭という意味の欠落を意識いたします。孫と子ども、老齢の老いを育むことで、子どもが親を育む。兄弟姉妹が、兄弟姉妹を育み、友達や地域が、人間を育む。

 そんな関係の中の、家庭から言えば、このホームレスになった人も、おじさんやおばさん、父や母、兄や弟、姉や妹、従兄弟や姪や甥という関係を現に有しているはずです。何某かの問題さえなければ、それは、家族や家庭、親族の間に、れっきとした居場所をもっている人です。居場所さえあれば、人間としての、成熟という老いの表現する場所があるはずです。
 生活保護となった瞬間、世間は視線を投げかけます。母子家庭も、特殊な思いをもちます。お互いが、この視線や思いをもつことで、地域や家族が切り離さないよう、人と人との輪の中に、成熟する過程を奪うことだけは止めたいと思います。
 私たち、現実には、人と接する限りは、名前を持ち、誰々さんの立場で接します。
 この名前を大切にすることは、あくまで、ホームレスも、生活保護も、母子家庭も、徹底して、誰々さんとの関係でありたいと思うのです。
このホームレスや生活が破壊された人たちの入所する塩崎荘の食堂にあった言葉が、今も、忘れられません。

わたしたちは、花を咲かそう人にありたい。
みんなで 笑おうね 楽しいものね
一人 ひとり もっている花を、大きく咲かせたい。

 この施設のなかにいて、大きな花を咲かそうとする人でありたいと。今の、自分を語ります。
 みずから、笑おうね、楽しもうねと、くじけないようにと、どんな時にも前向きに強さを出そうと、今の、心境を語りながらも、みんなでと、人と人との関係を大切にすることが歌われます。これは、みんなでと言う関係を喪失したことゆえなのか、いまの自分たちの自覚なのか、それゆえに今のみんなでと、多くの意味を含むのだろうと思います。
 今の自分の、それは、じぶん自身の可能性を、人間の尊厳を、成熟する人として、大きく咲かせたいと記していたと、この塩崎荘にかかげてあったから、良い言葉に響くのではなく、私たち一人一人の心に、刻んでも良いのではないでしょうか。
昨年の暮れに、お札を送ったときの添え書きの文章にも引かれます。

 『その老いについての禅の言葉です。<年老いて心狐(しんこ)なり>となって、寂しく、心細くを徹して行くか、あるいは、<年老いて精と成り、魔と成る>となって、怪となり、魔物となって、場数を踏んだしたたかさや、一筋縄では行かない剛の者として、高らかに行くかです。一つの見方として、人をたぶらかし、よそおうとする節目と見るのもよいことかもしれません。』心狐も精も魔も、老いの成熟さです。家族の温もりの中にいる成熟さを見据えて、歩いてきた道の厳しさを、自らに表して歩む老いとみたいのです。


……ロス

……ロス N・Iさんの為に

 20年30年……と時を重ねて連れ添った夫婦に、いずれはどちらか一方の死が訪れる。その訪れは、突然の場合もあり、一つとして同じものはない。
たとえ残された夫婦の一人が、良き理解者の恵まれた家族の相談相手を持っていた場合でも、一人になってしまったと言う孤独感と愛する者を失ってしまった喪失感を、癒すには数年かかる場合もあり、一生持ちつづける場合もあります。

私の母も、そう言えば父が亡くなって10年たとうとした時、「お父さんが亡くなって困るのは、真に相談できる人がいないことなの」と、寂しそうに言った言葉を思い出す。息子である私を目の前に、そう言った言葉の奥の、寂しさを癒すことが出来なかった我が身の情けなさを反省したものだった。


 とある日曜日、49日の納骨の法事があった。突然先だった定年後すぐの夫の遺骨を抱えた婦人は、物静かに落ち着いて、着実冷静に物事を見据える目を持っていた。この年代の老いは、そんな夫婦の人生の黄昏を、やがては一人づつ別れ離れになる時が訪れるであろうとことの花道でもある。夫が退職し、新しいカメラを買い、パソコンを購入して、アドレスを手にしての突然の旅立ち、老いた母を残しての旅立ちでもあったのです。夫婦には、一男一女の優しく心強い恵まれたお子さんがいたのだが、婦人の心には、どうしようもない悲しみと、一人になってしまったんだという不安感が現れていた。

私との会話の途中に、「相談することができる人がいないのです」と言う言葉があった。私は、夫婦の対話の、何でもない婦人の言葉を吸収するご主人の、いなくなってみて、かけがえのない存在だったことの重みを、その婦人に見ました。誰も代わることのできない、誰も聴くことができない、つらいことがらです。
ふと私の母の言葉を思い出した。娘さんと息子さんのいる席での婦人の言葉に、数年前私が落胆した通りに、この娘・息子さんも思っただろうか。いくら母をいたわる努力をしても、けっして父の変わりが出来ないことを、いずれ知るだろう。

悲嘆と失望が、実り多くそれぞれの人を潤すことの結実の難しさをつくづく思います。
それでも、潤いのある人格を形成する為には、こう願う以外に方法はないではないかと自問自答します。そして、今は、実り多い潤いの果実を早く熟すことを願って、先に旅立っていった夫からの試練と捕らえて欲しいのです。
人は一人で生まれ、一人で去って行きます。その過程において、歩んできた道の違う男女が、幸せな家庭を築くことを誓って二人になります。やがて、人格を持つ一人を生み育むのです。何千年と人は同じことを繰り返しながら、ロミオとジュリエットにならない限り、最後の別れは一人旅立ちです。とても不思議に思えてしまいます。

榎本クリニック院長・榎本稔先生が日経新聞の夕刊に、書いていた文章です。
『パチンコ依存症者は一般に、物静かで無口で目立たない。自己主張は乏しく、消極的な性格である。友人は少なく、他人と付き合うことに気をつかい、ささいなことで傷ついたり、気配りで自分が疲れてしまい、程よい人間関係がつくれない傾向がある。反面、負けず嫌いで、強い自尊心をもち、他人からの干渉を嫌う。心は強い空虚感に被われ、イライラし、不安を感じ、葛藤している』

極端なたとえだが、依存症という言葉が、特別に引っかかった。別に、婦人がパチンコ依存症になっているというのではない。何十年連れ添った夫婦の関係は、どの夫婦でもお互いに依存し、分担して家庭が成り立つ以上、突然の死によって、一人に放り出された時のあり様は、戸惑うばかりである。夫婦関係は、良い意味で依存症によって成り立っている所があるのではなかろうか。パチンコ台を男と見、女と見、あるいは混ざってみた場合、何処かに共通点があるような気もする。突然に世の中にパチンコ屋が無くなってしまったとしたら、その喪失感はどのようなものだろうか。

人は一人では生きて行けないくせに、一人で生まれます。内面的にも、多重人格は激しい葛藤を産み、耐えられないことでしょう。古来から宗教は、全人格的な統一を掲げます。なぜならば、そこに絶対的な安らぎがあると思うからでしょう。
人はさまざまな恩恵を受けて生きることしかできないのに、ことあるたびに独立を目指します。独立した次に、さらなる目の前に立ちはだかる壁に闘志を燃やし、あきらめ打ちのめされ、孤立します。孤立した瞬間、さまざまな恩恵は、嫉妬や悪意に変化します。

人として最後までなくならないものに、自尊心があります。よくいう人格とは、自尊心そのものではないかと思うことがあります。心はどんなにも大切なものであり、どんなにも人を惑わす悪童でもあります。

禅は、安らぎを求めません。禅は一人を目指しません。禅はかといって二人をも求めません。禅は心を求めません。禅はどう対処したかの行為、その一点に就きます。その行為の中に、求めて得られない安らぎがあるといえるからです。


後姿

後姿

 私の知人からこんな質問を受けた。それは昨年亡くなった江東区内の大きな会社の創業者のお墓のことだった。知人は長らくその方の秘書的な仕事をしていた人でした。

 「和尚!納骨も終わってしばらくしてのことです。墓地には名刺受が置いてありまして、その中にたくさんの名刺が置かれていたそうなんです。遺族がお参りした時、持って帰るのですが、お礼も言えないので、何かお礼の言葉をその側に立てておこうかと言うのです。どんなものでしょうか?」

私は、即座に、「必要ありません。もしお礼がしたかったら、その名刺の方にお礼状でも差し出したらいかがですか。故人を偲んで墓参に来るのに、名詞を遺族に残そうと考えていたら、いかがなものでしょうか?」と話しました。
彼は、「私も、墓参に行くのに名刺は置いて行きません。よかった、同じ意見です」と、同調してくださいました。

家族が思えば、お礼の言葉を立てたり、刻んだりすることに、抵抗はないのですが、名刺を置いて行く人物を訊ねたら、何やらあまり思わしくない人と答えられたので、そう答えたのでした。

昨年のNHK紅白歌合戦を、何年かぶりに家族と一緒に見たときのことです。歌手の武田哲也さんが、歌の中で、「こりゃ哲也、他人様に指差してはいかんよ!指差すってことは、残りの三本指は自分を指しちょるってことを、忘れたらいかん!」と言っていました言葉を何故か思い出しました。
他人を誹謗し非難することは、自分を卑しめることになることと、自分を売り込むことも、自分を卑しめることになると、同列のことと思えたからです。
しかしながら、こと仕事となると別なことです。セールスや仕事上の付き合いは、自分の熱意を売りこみ認めてもらわなければ成り立ちません。信頼してもらわなければ仕事になりません。

私が望み願うことは、上野宋雲院の故山本禅登師のお話です。
『人間には前からお辞儀される人と、後ろからお辞儀される人の二通りある。前からお辞儀される人は、金と力のある人だ。人間は金と力に弱い。だから金と力のある人の前に出ると、その金と力のあやかりたいと思って、お辞儀をする。言いかえると、その人にお辞儀をするのではなくて、金と力にお辞儀するのだ。ところが、後ろからお辞儀される人は、それと違う。
その人は誰にも親しまれ、尊敬される人なのだ。だから、その人の前にでると、親しい仲だからお辞儀はしない。後姿に、心から、ああ立派な人だなあと、お辞儀するのだ。……金と力はあったほうがいい。しかし、それよりも、後ろからお辞儀されるような人になってくれた方がわしは嬉しい』と、後藤楢根氏の言葉を記して、法光(昭和44年1月号)誌に、「新しい年に当たって考えてみよう」と書いていました。

個人の社会と接する取り組みの姿勢の是非を問うことはできませんが、私など、お金も力もないし、かといって、後ろからお辞儀される人でもないし、せめて、考え方、物の見方の私なりの一面観を伝えるということぐらいしか出来ないが、禅登師も考えてみようと言ったことに、禅宗僧侶の意味を推し量っている今日この頃です。


寿陵

寿陵

生前に墓地を取得することは、現代人にとって、必要なことであると思う人が増えている。その理由として、終の棲家としてと考えている人が大半である。しかしながら、その終の棲家も、家族の延長である『……家之墓』、女性だけの墓、何らかの特定の仲間を募っての墓、夫婦墓、寺院が経営する合霊塔形式墓等と多種多様になってきた。いずれにしても、生前に確保することから、寿陵といえるだろう。

さてその寿陵のことだが、何か言葉からすれば、お目出度いことのような気がする。はたして、そうだろうか。
 禅僧の墓石は、昔から寿塔といった。なぜ寿なのか不思議に思うのだが、それより前、中国の古い制度に寿蔵という制度があったらしい。蔵と言うからには、暗く穴の中のような場所であるらしい。
韓国で先ごろ元大統領が、大統領の罪を、それ以上に追求し責めて獄中に縛ることをせず、禅寺に隠遁することで社会的には許されると言う、実に文化的に成熟した社会ならではの事件があった。
日本ではそんなに話題に上がらなかったが、韓国国民の持つ共有された伝統は、現代に受け継がれて、文化を形成しているのだなと、羨ましく思ったことがあった。隠遁は、自らが自らを裁くことでも有り、それを受け入れて良しとする市民も、そのことを自らの中に持っていなければ成り立たないからだ。

中国的東洋世界では新しい支配者に交代した場合、その支配に従うことを欲しない人達が数多くいた。新しい支配者も謀反、反逆さえしなければ隠遁生活を許容する風習があり、姿を隠す場所を、寿蔵と言ったらしい。穴蔵での生活の起源を考えると、あまり立派な穴蔵は意にそぐわないものがあるが、チョット前まで、ある意味では我々日本の現代人にも通じることだったはずだ。

『塔』についていえば、塔は天を指し、石や土を積み上げる。昔も今も変わりはないように思えるが、内実は同だろうか。塔を積み上げると言う行為そのものの持つ意味はなくなっているかもしれない。積み上げても崩れる塔は、海辺の砂遊びや、それこそ賽の河原の石積みであり、我々の現実生活の年輪であり、過去そのものと言っていいはずである。合理的や便利さ快適性等、たくさんの人が追求してきた中に、積み上げて行くと言う我々の行為がおろそかにされたような気がする。肝心な場所は地下の穴蔵であると言うことは言うまでもない。人が葬られる場所は、塔の下なのだ。そこでこそ、人が眠るに、につかわしい。

江戸時代の熊さん八さんの庶民は、寿陵を建てようにも、その余裕はなかったのではないだろうか。その意味では、現代人は大方、墓を持つ文明の暮らしをしていることになる。

私は、いつも思うのだが、江戸時代の熊さん、八さんのお墓は何処に残っているのだろうか。寺の古い過去帖は関東大震災で燃えてしまっているので解らないのだが、江戸時代前の熊さん八さん、もっと前の熊さん八さんのお墓なんて、どこにも残っていやしないように思える。どう考えてみても、我々が日ごろ踏みしめている大地こそ、彼等が埋まっている穴蔵なのだと、何か確信さえするのだ。

年をとって、足が弱くなり車椅子生活になたっとしても、良識有る施設では、足置きのペダルは上げて、できるだけ足の裏を地面につけることによって、老化の予防と回復を助ける。大地は私達をあらゆる意味で刺激する。その大地は、先人達が眠る大地だからだ。私達が生きる恩恵は、大地から多く受ける。


ついで参り

ついで参り

 今日は、お聞きしたいことがありましてメールしました。

お墓参りの事なんですが、日曜日に、従姉の7回忌の法要があります。同じ霊園に、それも従姉のすぐそばに伯父の(従姉の父)お墓があります。そういう場合、従姉のお墓に参ったあと、伯父のお墓参りをしてもいいのでしょうか?
ついで参りはいけない、と言われたことがあるのですが・・・。
でも、伯父のお墓の前を素通り、というのも伯父がかわいそうな気がして。
どうなのでしょうか?
私も、父母のお墓参りに行ったとき伯父が別に作ったお墓の方へも寄るのですが・・・
お墓参りのきまりのようなものが、あるのでしょうか?
お忙しいこと思いますが、教えて頂けますでしょうか?
よろしくお願いします。

 お答えします。
 実は、私も、よく知らないことなのですが、一緒に考えてみましょう。
 まず、ものの見方には二つあります。お参りするほうと、されるほうです。お参りする方としては、どうせ行くなら同じ墓地にある他の墓も寄ってお参りしたら、一遍に方が済むと思うものです。このことを、詳しく言えば、『一遍に』と『方が済む』が問題なのでしょう。
 お参りされるほうから言えば、墓地に埋葬された遺骨は、自分のことを振り返って欲しい、思い出して欲しい、会いに来て欲しい、語り掛けて欲しい、家族の成長を目の前で見せて欲しいと……願っていることでしょう。

 しかし考えてみると、そのお墓には他に埋葬されている方がおりませんか。もし居ましたら、父親のお参りに行って、祖母のあるいは祖父のお参りを、ついでにすることになります。なにか変ですね?
 基本は、いつでもそうなのですが、お墓はお参りして、はじめて墓であると言う事です。ついでと言う言葉は、そぐわないことなのです。
 ある目的を持って、一途にものを突き進むことがあります。
 例えば山の向うにある村に、道を通そうとトンネルを掘ったとします。ところが、穴を掘ると、今まで地中に隠されていたものが、掘り出されます。小判であったり、化石であったりします。

 『偶然』『不思議』という言葉はこの時使われますが、小判や化石を目的とする発掘には、出てきて当たり前、出なければ、致し方ないことなのです。この意味では、世の中『偶然』『不思議』ということはあり得ないことになります。まして、小判や化石が、ここに有るから、居るから掘ってくれと言うことはないのです。勿論、掘ってくれなかったら恨むとか、ついででも良いから掘ってくれ、ということもないのです。
 死者は見とおしていると言う言葉があるとすれば、その人が語らしめたことです。
 お墓参りに決まりなどないのです。もしあったならば、作法ばっかり気になって、偲ぶこともできません。何事も、自分の良心に素直なことが大事です。

 さらに、それでもついで参りが気になることがありましたら、これぞ、極意です。「ついで参りで、ごめんなさい」「お久しぶりです」「こんな形でなくては、なかなか来れないの」と、お参りするのです。そして『偶然』、『不思議』のお話は、「あら不思議。偶然ね」と、なります。


目標

 平成12年2月28日の日経新聞朝刊の春秋からである。
『目標をみつけることが目標になってしまった十八の今』と、東洋大学が毎年募集する「現代学生百人一首」で秀逸作品には、卒業控えて入試に埋まるこの季節の日本の若者の心模様が浮かびあがる。自分が何をすべきなのか。それがわからない。

目標

 私が、高校一年生のとき、叔父から突然この寺を継いで見ないかと言われた。それは、まったく私にとっては、突然のことでした。今、振り返ってみると、叔父も、父の姉も、そして何より父にとって、大きな願いだったのだと思う。もうこの三人も、泉下の人となって久しい。
叔父は慶応の教授をしていたことより、私にとっては雲の上の存在だった。それこそ私にとっては、親しく話をしたという記憶はないのだが、その存在だけは、今でも大きくある。叔父が私をどう見ていたのか、そしてこの寺の後継者としてどう適任と思って、私にゆだねたのか、今は知る由もない。叔父の父は、私にとっては、祖父だが、私の小さかった頃に亡くなったことと、その当時の私の住んでいた西八王子は、まだまだ田舎で、遠方であったことより、記憶は全くといっていいほどない。

祖母についても同様に、あまり記憶はなく、かえって母方の、祖母のほうが目に浮かぶことが多い。小さかった頃の環境と体験の記憶が、大人になっても、大きな比重を占めるということは、いかに大事なことであることの証明でもあろう。
多感な時代だったということで、高校時代、大学時代は、眼前にぶら下げられた目標を決断することと、将来の自分のしたいことを探すことと、自分の熱中できることを通すことの不安と、すべてを拒否することと、父の身体の変調を戸惑いに似て察知する私の、早急に決断できない自己ジレンマに陥っていた時代であった。大きな葛藤を引きずりながらも、時は流れて、その葛藤は、この寺に住むことになってまでも、最後の最後まで、葛藤を繰り返していた。

職業とか、仕事を選択することが目標であれば、仕事をやめたとき、職業を変えた時、多感な頃の十八の今はどういう立場にあるのだろうか。どうやら、多くの人が、一生の仕事を持つことは、不可能な時代になっているような気がするし、一生といっても、仕事についてはリタイアするまでと区切りを持つわけだし、多種多様に激変する時代になったことは、一人の人間にとっても、一生は多種多様なものになってしまったような気がする。リタイアしても、その後の長さを考えると、人の生涯はいつも途中であることの自覚が必要であり、”人生の定年はない”を旗印に、生きて行くことが肝要なことと思う。考えてみれば、仏教の教えそのものだ。禅で言う、前後際断とは、道元が言う「たきぎははひとなる、さらにかへりてたきぎとなるにあらず。しかあるを、灰はのち薪はさきと見取すべからず。しるべし、薪は薪の法位に住して、さきありのちあり、前後ありといへども、前後際断せり。」の通り、今している仕事はリタイアしてする仕事と、後先のモノではなく、独立して、最前を尽くすことこそ、仏道と言える。たとえ目標があったとしても、前後際断、今を行じるのみであり、目標は、あくまで未だ至らないモノにすぎなく、今を行じることが歩んできた道と目標を含んで、後先なく、前後際断。

モンセ・ワトキンス著、井戸光子訳の《夢のゆくえ》(現代企画室)に、1999年3月にイエズス会のスペイン人司祭マヌエル・エルナンデスに対して行ったインタビューがある。彼は30年以上にわたって、日本で刑務所訪問を続けている偉大な人であり、服役する人に発して言う彼の言葉に、共感を持つ。

『まず、私たちはお説教するのではなくて、彼らの話に耳をかたむけなければなりません。すると、彼らがどう変わっていっているか、わかるんです。とは言っても、助言をすることもあります。
「妄想にとらわれないように」とね。つまり、家族のことをあまりにも心配したり、刑務所での処遇で誤解したりしないように、「妄想には注意」と言うわけです。また「この世の中には原因不明のことはあり得ない。なぜあなたがここにいるのか考えてみるように」とも言います。
また、自分たちは社会の犠牲者だ、という思いを捨てるように話します。

同時に、悪人はいないということ、そして踏みはずしても正しい道に戻る可能性はあるのだということも、じっくり考えてもらいます。人は、強制されて変わるものではありません。変わろうと思わなければ、六年も七年も刑務所にいるまでです。自分の人生を、ビデオを見ているように見なおしてごらんと、言うんですよ。「自分が変わるために、今、これから何をやればいいのか考えなさい。ここに舞い戻ってくるのは最も簡単なことなのだから」とね。また彼らが家族に手紙を書くときには、刑務所にいると書かないようにと言います。「仲間と一緒に労働して、学んで、一定の時期がたてば卒業できる、いわばそんな”国際産業大学”にいる」わけですから』

マヌエル・エルナンデスの言う言葉は、仏教の教えでもある。聞くと言うことは、お経の最初に出てくる”如是我聞(にょぜがもん)”に徹する姿勢ですし、妄想にとらわれないとは、今いる自分の立っているところ、それは、目に見えないモノを含めての実在を直視しなさいということです。今、何をやれば良いのか考えて、ただひたすら歩むことが仏道なのだから、考えてみれば、目標とは、目前の自分自身の事実にかかわっていると言えます。だとするなら、おのれ自信の根拠を考えてみると、人は生まれた環境により、生い立ちにより、自分以外の世界から影響され生きる訳ですから、明確不明確にかかわらず、目標が、おのれを導くとも言えるです。
目標が、明確に、自分自身を決することの決断ができるかどうかに価値があるように思えますが、悩むことも、前後祭断で独立し、不明確な目標がそうさせるとも言えます。

確かな目標を持つことを、その目標に向かって生きることを、時代を大海原に譬えてみると、上手に泳げる人たちは、ほんの一握りで、多くの人たちは、漕ぎ出だすことの困難さと、沖に出て、翻弄され、もがき喘ぐことに終始しているかにみえます。
目標に向かって漕いでいるときも、目標を見いだせずただ漕ぐことも、漕いでいることに関しては同じ行為です。目標に向かっていても、自分の意図する目標でないかも知れないことを考えれば、目標は、今、漕いでいる事実であり、目標が漕がせると思えば、共に、漕ぐことが目標なのでしょう。明確な目標と、不明確な未だ明確でない目標も、共に、今を漕がせるのです。
しかし、どちらが優れているか、確かなモノかは、価値判断でもあり、目標に向かって今を上手に泳ぐことも、翻弄されて喘ぐことも、共に今を生きる姿と違いないのですから、考えてみれば、与えられた場所と時間に、一生懸命漕ぐことに、居場所があり、目標が現れるということなのです。


六道を行く

 人の一生は、巡礼の旅路。日ごと遍路は、遠き道あり、近き道あり、往く道あり、もどり道あり。
巡礼の道は、回帰と再生の繰り返し、回帰は、人の振り返り、再生は旅立ちとして、振り返りはおのれ自身を問うことであり、旅立ちは今の一歩を歩むことである。
白装束は死に装束、杖は墓標の今日の旅路なり。

六道を行く


かって、「私は、両親に望んで産んでくれといったわけではない。両親の営みの中で、ただ産まれただけです」と平然と言う三十前の女性と話したことがあった。彼女の中に、大きなゆがみを見た。「もっと、私のほうに向いて、愛情を注いでください」と言うかのように思えたのだ。
だが、両親をも知る私は、どんなに愛されて育まれても、そう受け取ることの出来ない彼女の心の歪みは、どうしたら良いのだろうと、手を差し伸べられない私の不甲斐なさの、無力感がおおう。

達磨の『二入四行論』に「仏心とは何をいうのか」という問答がある。
心が特別な姿形をもたぬのを真如(ありのままなるもの)という。
心が変化すべくもないないのを、法性(存在の本質)という。
心が支配されるものをもたぬのを解脱という。
心そのものがさまたげられないで自由なのを菩提という。
心そのものがひっそりと静まりかえっているのを涅槃という。
と、ある。

問題は心にある。心そのものが仏であるという、禅の主張は、八世紀から九世紀にかけての馬祖和尚以降に見られるという。

「人心とは、平常心もしくは衆生心の意であり、当たり前の人間の心の全体であり、善悪正邪の動きの総てを含む。それは、精神の奥底に隠れている真性とか良心とかいうよりも、むしろ日常生活の表に働いている具体的な心である」と柳田聖山氏は「臨済義玄の人間観」で言う。

この頃より禅は具体的に生身の人間をたからかにうたう。そして私達の生身の総てを肯定し、現実世界の実践的・主体的な人格そのものこそ、ほかでもなく祖師そして仏であるという意味で、人間讃歌の宣言を主張する。
さらに「仏心の宗を明らかにして、寸分たがうことなく、行と解とが照応するもの、それを祖という。また、悪を見て嫌うことなく、善を見て履行したいと思うことなく、愚者を捨てて賢人を招こうとはせず、迷いを抛(なげう)って悟りにつこうとせず、大道に達して枠を超え、仏心に通じて並々ならず、凡聖と同じ範疇には住まわぬもの、彼をこそ超越的に祖とは呼ぶ」と宝林伝の達磨の章に記述されている通り、人の道を説く。

『黄檗宛陵録(筑摩書房・禅の語録より)』に、
「衆生が本来仏なのでしたら、その上さらに四生(胎生、卵生、湿生、化生)だの六道(地獄、餓鬼、畜生、修羅、人間、天)だのと、さまざまに違った姿かたちを取ることはないはずでしょう」

  黄檗が答えた「諸仏はその本体が円かに充足しており、増えることも減ることもない。それが六道に転入していっても、どこかででも円かさを失わぬ。かくてあらゆるたぐいの衆生も、一つ一つが仏である。喩えてみれば、一つの水銀の丸が、飛び散って諸処に分かれたとしても、その一粒一粒はみなやはり円いようなものだ。
しかし分散しない時は、一つの丸としてある。この一つのものが一切であり、一切のものが一つである。さまざまな姿かたちというものは、喩えていえば住み家のようなもので、ロバの住み家と縁を切って人間の住み家に入り、また人間の身を脱して天人の身に生まれるといった具合だ。声聞とか縁覚とか、菩薩とか仏とかいった家にしても、すべて君自身がどれに入居するかを決めるのであり、そのために家の違いがあるわけだ。しかし本源の真性には、そんな違いはあり得ないのだ」。この黄檗の会話は、万人を救う言葉だ。

平成十一年一月のある日のことだ。八十を過ぎたT婆さんとバッタリ出くわした。
T婆さんの弟、Sちゃんが昨年の夏ごろ、脳梗塞の発作が起きてより塞ぎこんで、何よりも「本人がやんなっちゃうよ、死にたいよ!とこぼす言葉に、わたしゃ心配で、……」、残されたたった一人の弟の今の姿が、なにより悲しいと言う。
しばらくたって、ふと気になり思い立って、夜、Sちゃんの所へ電話をしてみた。
たどたどしい電話口のSちゃんの会話が、痛々しく寂しい。
「いつかSちゃんのことが話題に上がってね、元気を出さなくてはしょうがないよ。少し元気をつけてもらおうと思って電話したんだよ。それで、どう?」
「それは、すいません。どうのこうのって全く困ってしまう。もう情けないやら……」辛く悲しく、人の一生の老年になっての、行きついた姿を見ると、たまらなくつらい。

昨年の夏前までは、元気に大きな声で話す言葉に勢いがあり、顔色も日に焼けて、下町の町工場の気さくな親父さんだったSちゃん。今はその面影は無かった。幾つになっただろうか、七十五歳を過ぎた年齢に、老いの病気が重く覆い被さる。
「Sちゃん!そう歎くなよ!Sちゃん。言葉が不自由になってしまったが、まだ喋れるじゃない。それは、危なっかしい歩き方かもしれないが、まだ歩けるじゃない。耳も味覚もまだ残っているじゃない。Sちゃん!ついているよ!まだまだ、見放されていないってことだよ!そう思おうよ!」。 電話の向うで、すすり上げる声がした。
後日、又、T婆さんと会った。
「電話してくれたんだって。Sちゃん、喜んでいたよ」「なっとくしたみたい。少し元気がでたみたい」。
みんな、六道を歩いている。


もの言わぬ羅漢達…揀択をこえて…

もの言わぬ羅漢達…揀択をこえて…

 平成10年7月9日午前4時ごろ、突然バタンという音で眼をさました。隣の部屋で寝ている母に違いない。母の部屋のドアーが開いて、膝をつき両手をつき、情けない困った顔の母の顔が私を見ていた。母のいるジュータンに、あっちこっちに汚物が散乱していた。昨夜、母は初めて成人用の紙オムツをして寝たのだった。

1ヶ月前より、トイレにて大便をしぼりきれなくて、タラタラと肛門より垂れ流しのような状態になっていて、よく下着を汚していた。下剤を飲まなければ便がでないし、弱い下剤でも1日2日で効き始めると、何回もトイレに行かなくてはならない。その度に、少しずつ下着を汚すことになってしまう。下腹に力が入らないのだ。


 母の姿をみて、トイレに坐らせ、ジュータンを拭きはじめた。トイレにつれて行く時、母は右足を苦しく痛がっていた。母のお尻を洗浄し、新しい紙オムツをつけて、新しい寝巻きをはかせ、寝室に運んだ。ベットに坐らせ母の足を触りながら、「何処が痛い」の言葉に、母は太ももを痛いと言った。朝はまだ暗く、明るくなるまでもう1度休むことを願い、眠った。

7月はお盆の季節で、脳梗塞をおこして少し痴ほう気味の母の看病が出来ないので、7月11日に、北砂の特養老人ホームにショートステイを申し込んでいたところだった。9日の午前中に、北砂のホームの人と、枝川の介護支援センターの人が、母を見に来ることになっていた。8時頃、母を起こし、背負って1階の食卓についた。母は右足を痛がっていた。

10時頃、KSホームとE介護支援センターの人が母の様子をうかがいに来て、母の足の様態に、「念のため、レントゲンで見てもらったらいかがでしょう」との言葉に、すぐ近くのS外科病院にすぐ連絡し、手配を頼んだのでした。結果は、その場で入院でした。右大たい骨骨折でした。思ってもいなかったことに、その後の約1ヶ月は朝、昼、晩の食事の介助や就寝の「おやすみ」を言うため、私の家族や姉達はひどく疲れた毎日を過ごしたことになった。手術は成功裏に終わったのだが、入院直後、病床で脳梗塞の発作がおこったようで、ベッドの上で、母は右半身不随の状態におちいった。病院は、驚いたことに、院長、看護婦、ケースワーカーの連絡がまったくとれていず、私達は、病院を信用せず早く転院をしなければ、病人が本当の病人になってしまうと、真剣に母の状態が少しでも快方に向かうことを祈った。

転院前日の終身前、咳きをしながら当直の看護婦に、「隣の部屋の患者がインターホンを押して、20分たっても看護婦がこない。もし俺に何かあったらどうするんだと」怒っていたことを話したら、「夜間看護婦が3人しかいないのでどうしようもないのです。私は週に2日のアルバイトなので」という話だった。信じられないことがここでは頻繁に起きていたのだ。次いでだからすこし就けたそう。

母が入院して世話になったのは、不思議なことに、隣の病人だった。暑かった夏にベットの上掛けを気にしてくれたり、水を飲ませてくれたり、手足を吹いてくれたりした。また同室の病人の食器の搬入や片づけを彼女はしてくれた。彼女が退院しては、私達もそれを見習ったりした。彼女は1週間食事を食べずにいて、転院して行った。

その何日か前、K町のS婆さんが、腰をうったといって、救急車で運ばれてきた。彼女はベッドの上で、すぐに尿の管を挿され、寝たきり生活を始めてしまった。私達が退院する頃には、彼女はすっかり痴ほうが進んで、やがて千葉の老人病院に転院したことを聞いた。ある日のことだった、「管を挿していては、歩くことができなくなってしまう」の言葉に、息子サンはS婆さん管をはずしてもらった。食事の後のことだ、S婆さんが尿意を催して、息子サンがナースコールをしたのだった。看護婦が来てわけを聞くと、簡易便器をだして、その息子に「貴方が介助してください」といった。息子サンは怒って「金を払っているのだから、少しは看護婦らしいことをしろ」と、言ってはいけないことを言ってしまった。

3週間ほどして院長に様態を伺った時のことだ、「大分足もくっついて来たので、そろそろ軽いリハビリをするように」と、看護婦に言い渡してくれた。リハビリの先生は、夜6時頃出勤して、白衣姿で病人を訪ね、数分で出てくるという始末なのだ。約1ヶ月いて、母のところに来たのは1回で、それも、2分いたかどうかであった。ちなみに院長が病状を説明してくれたのは、この時と、手術後のお礼を渡した時と、入院した時、転院の許可をもらいに行った時だった。考えてみると、回診している姿を見たことがなかったのが不思議に思われる。

ある日のことだった、姉から電話があった。例によって朝8時病院に行ったときのことだった。「母の病室が3階の3人部屋に突然変わってしまった」と言う電話に、駆けつけた。こんな部屋があったのかまったく知らなかったが、その部屋に入って驚いたのは、まるで生きた年寄りの捨て場のような雰囲気をまず受けた。なんとなく、この部屋に入る看護婦の様子が、入ってはいけない場所に入るような素振りに、彼女達はすぐに駆け足で出て行った。私達は、部屋がえを頼んで、夕方には個室の病室に移ってホッとした。

ある日の朝だった、部屋を閉め切って、クーラーなしで、母の顔は赤く、身体は汗をかき、ほてっていた。急いで窓を空け、真夏の掛け布団をとり、汗をふいた。看護婦に聞いたら。「夜中身体が震えていたので、寒いと思って布団をかけました」とのことだった。母は半身不随で、右腕や右足を、震えて動かすさまを取り違えて施した措置だったのだ。

母は近くの医院から、常時薬をもらっていて、朝、昼、夜と決まって投薬があった。ピンクの薬は、朝と夜といった具合にきまっていたが、医院からもらってきた薬の、投薬はまったくでたらめだった。掛かり付けの医院の先生には、「どうして、よりによって、あそこに入院しちゃったの!」と言われた。まったく、こうなるとは思ってもみなかった自分の落ち度なのだが、本当に入院するとは思わなかったのだ。


入院したその日に、『院長にはいくら、看護婦さん達にはいくら、介助の人にはいくら、後日執刀医にはいくら』と、現金を渡したが、怠け者には何を渡しても何の薬にもならないと残念でしょうがない。この病院が、数年先、特養老人ホームを塩浜のほうで移転して開業するという。元気な人しか入院できず、身体の弱ったお年よりが真の病人になって退院?する病院が、ここまで凄かったのかと思うと、この病院を認可している公共機関は、一体どこに目を持っているのだろうかと疑う。

平成10年8月5日、西葛西にある老人保険施設のKに足が完治しないまま、母は転院した。当初食事もまったく取れなくて、微熱続きの母は、この施設の献身的な介助によって、順調に身体を回復して行った。だが、残念なことに母の右半身麻痺は治らず、痴ほうは進んでしまっていた。

施設入所当初、母のいる5階のエレベーターが止まり、ドアーが開いた瞬間、明るい光線が飛び込んできたと同時に、私は唖然としたものでした。正面にナースセンターがあり、そこから広い通路がエレベーターまで真っ直ぐに走ってあり、その両脇に各4人部屋や3人部屋が配置してある作りでした。通路の中心を開けて壁沿いに沢山の車椅子とそれに腰掛けたお年寄りが一斉に、突然現れた私を見たかのように思えたからでした。私にとっては異様な光景が飛び込んできたと同時に、私には受け入れがたく、「いやだなーっ」と、何度も思ったのものでした。後になって知ったのですが、みんな誰かが来るのを、心の中で待っていたからでした。

年寄りの大勢の動かない顔、うつろな顔、曲がった顔が全体に大きな壁絵のような景色に映ったからでした。その時のことをいまでも強い印象をもって覚えています。こうなりたくないという気持ちが、一人一人を見ることをさせずに、さっさと車椅子の前を通りすぎ、ナースセンターにて、母の場所に行きました。
この日より、西葛西のK通いが続きました。私は、昼食の様子や、リハビリ、おやつの時間を筆でスケッチしていました。そして気がついたとき、私自身が変わっていたのでした。

チョウさん
『細面の顔に、いつもいたづらっ子のように、口を尖らせて、眼をまん丸に開いて、人を真正面から望む。首を立てに振って合図をよこすのか、挨拶をするのか解らない。ただ真剣に人を捕らえていることだけは、眼を見れば解る。食事時、特製のプラスチック前掛けを胸に、その中に食べ落ちた食事がボロボロとこぼれてゆく姿は、豪快そのものだ』

チュウさん
『身体が細く、いつも食堂の奥の席に座って、全体を見渡している姿は仙人のよう。歩く姿はヒョコヒョコとユーモラスに、それでいて飄々としている。しかも、足早に歩く。しかしながら意外にすばしっこく、おやつの時、余った果物を我先にとほうばる姿は忍者のよう』

シャチョウ
『歩く姿勢がなんと、しばらく空や天井を見たことがないのではないかと思われる。太って、腰を直角以上に曲げ、両手を介護人にゆだねて歩く。眼はわるく室内でも、サングラスをしている。だが、声はそれこそ天を突くような大きな音を出す。食事する風景は、頭をななめに表を下にして、手は機用におかずやご飯を、スプーンでさらうが、半分はエプロンやトレーに落ちる。本人は必死かどうかわからぬが、見ているものには必死に見えて、たくましさを感じる。いつだったか、大きな声で「ショウチャン!ショウチャン!」と叫んでいる姿が目に残った』

トウさん
『手の甲に少しむくみがあるのか、やはりボ―ッとしている。この人もリハビリ中にて、ほとんど口を聞くことはない。たまに、食事時手を貸すと、ジッと見つめて、また同じ作業を繰り返す』

貴婦人
『やせていて、色が蝋のように白い。車椅子に座った姿は、貴婦人を思わす。いつも遠くを見つめていて、人を見つめている時も、その後ろに誰かいるのではないかと思ってしまう。食事の時違うところを見つめながら、右手はおかずを拾う。スプーンは、口元に行かず、中身はトレーにこぼれるのだが、辛抱強く繰り返す。この往復の動作が、淡々と行われるところに、なぜだか自然の美しさを覚えてしまうから不思議だ。私が軽く首を振ると、微笑んで笑みをかえす』

年寄りの一人一人を見ていて感じることは、意志や考え方はわからないけれど、何よりもひたむきに食べ、見つめる姿が、いつのまにか神々しい清らかさを放つかのように思われた。清らかさとは一途さなのではないだろうかと、思えてきた。

いかなる知識や見識をとったとしても、最後の1枚、プライドだけは残ってしまうものなのだが。食事を前にして、その最後のプライドを忘れ、人はものを食べている姿に、その人の純粋なあり様を見ることが出来るような気がする。

 そう言えば、檀家の牡丹町のT婆さんを、渋谷のS病院に見舞いに行った時もそうだった。渋谷のI婆さんもそうだ。冬木町のKと話していた時、「私も、一人になって、寝たきりになったときどうなるのか?娘が近くに嫁いでいるのだが、そう心配もかけられないが、なるようにしかならず、かといって準備をしようにも、そのときになってみなければわからないし!」。

平成10年12月14日、母は八王子の上川病院に転院した。転院した夕方、姉の長女が病院に見舞いに言ってくれた。電話でその姪と話しをした。
「数多くの病院を見学しての結果で、ここを今、最良の預けられる老人病院と考えてのこと。だが、私の心の中には、判断はこれで良かったのだろうかと暗くなる気持ち。遠く八王子の彼方に、今、母は何をしているだろうかと思うと、つらい。母の産まれ故郷とは言え、一番上の姉が棲んでいるとはいえ、やはり、気持ちは手元にいて欲しい。」

姪は、老人病院に数度見舞いに来てくれた。そして、見舞いでの院内の様子の体験を聞くと、長くいると涙が出てきそうだと言う。姪も感情を成長させて、優しさを高めてゆく。私の長男は。中学2年だが、私の外出中の日中、私のいない寺を留守番するはめになる、そのことで、人は身に降りかかる事件によって、少しずつ成長し、感情を豊かに、自分を見つめて、変化して行き、たくましくなってゆくのだなと思う。

病院で様々なお年寄りの姿を見つめることが出来て、ふと感じたことは、その姿、顔が、古びた石や木造の羅漢像の姿と良く似ているとことだった。そういえば、寺の本尊も、羅漢像も、石塔も、お骨も、キリスト像やクロスもみなそうだ。何も言わない。いつもしゃべっているのは、私のほうだ。何を言っているのか知りたいと思う気持ちが、自問自答する。

何も言わないからこそ、引かれるのかわからないが、様々な像の、そこに人間の純粋の叫びや驚き、悲しみの表情を、投影して見ることが出来るからだと思った。悲しいかな私達は望んでも、現実にはそこまで、衣を拭い去ることは出来ない。
話しかけても、ただその純粋な姿を留めて、「お前達に、わかるかな?」と、問いかける姿に引かれる自分があるだけです。自己の本性の目覚めと言えば良いのか、荒天の雲が一気に晴れえと向かうすがすがしさに似ている。本人の意思は伺うことができないけれど、きっと、今まで経験したことのない、本人にとっての自己に違いない。

現実のもの言わぬ羅漢達の、ただ現実を黙々と食べている姿に、自己を投げ出して、たくましく生きる姿は、時に神々しいような光をはなつ。


宮本武蔵

宮本武蔵

 二十一歳で京都吉岡一門との決闘、慶長十七年一六一二年四月十三日小倉での岩流佐々木小次郎との決闘で、武蔵の名を知らぬ人はいません。時に武蔵二十九歳でした。十三歳の時はじめて勝負をしてより、二十九歳まで六十余回勝負して、負けることがなかったようです。そして武蔵の消息はここでプツリときえてしまいます。行雲流水の自己鍛練の修行が続くのだと思います。

寛永二十年の十月十日、武蔵六十歳の時、熊本の金峰山、岩戸観音の洞窟にて、天道と観世音を鏡として『五輪書』を一気に書き上げます。
「其より以来は尋入べき道なくして光陰を送る」と、それでは五十一歳で、養子の宮本伊織を引き連れ九州の小倉に現れた時、武蔵の心境はどうだったのでしょうか、『五輪書ー空の巻』は語ります。

 「空という心は、物ごとのなき所、しれざる事を空と見たつるなり。勿論空はなきなり。ある所をしりて、なき所をしる。
世の中において、あしく見れば、物をわきまへざる所を空と見る所、実の空にはあらず。皆まよふ心なり。
この兵法の道においても、武士として道をおこなふに、士の法をしらざる所、空にはあらずして、色々まよひありて、せんかたなき所を空いうなれども、これ実の空にはあらざるなり。
武士は兵法の道をたしかに覚へ、そのほか武芸をよくつとめ、武士のおこなふ道、少しもくらからず、心のまよふ所なく、朝々時々におこたらず、心意二つの心をみがき、観見二つの眼をとぎ、少しもくもりなく、まよひの雲の晴れたる所こそ、実の空としるべきなり。
実の道をしらざる間は、仏法によらず、世法によらず、おのれおのれはたしかなる道とおもひ、よき事とおもへども、心の直道よりして、世の物差しにあわせて見る時は、その身その身の心のひいき、その目その目のひずみによって、実の道にはそむくものなり。その心を知って、直なる心を本とし、実の心を道として、兵法を広くおこなひ、ただしく明らかに、大きなる所をおもひとって、空を道とし、道を空と見る所なり」

宮本武蔵は正保二年五月十九日一六四五年、熊本の千葉城で没しました。世寿六十二歳でした。その七日まえ、自誓の心にて遺書をしたためます。
独行道
一、世々の道そむく事なし              
一、身に楽みをたくまず               
一、よろずに依怙の心なし              
一、一生の間よくしん思はず             
一、我事におひて後悔をせず             
一、善悪に他をねたむ心なし             
一、何れの道にも別をかなしまず           
一、自他共にうらみかこつ心なし           
一、れんぼの道思ひよる心なし            
一、物事にすき好む事なし              
一、私宅におひて望む心なし             
一、身ひとつに美食を好まず             
一、末々什物となる古き道具所持せず         
一、兵具は格別余の道具たしなまず          
一、道におひては死をいとはず思ふ          
一、老身に財宝所持もちゆる心なし          
一、仏神は尊し仏神をたのまず            
一、常に兵法の道をはなれず             
正保二年五月十二日     新免武蔵 判 

武蔵の一生を二つにくぎるとするならば、二十九歳佐々木小次郎との決闘が境になるだろう。前半は武術の鍛練、果たし合いと話題が豊富であるが、後半生は果たし合いもなくひたすらに求道の旅だったようだ。おそらく前者が自己の外に向かっての修行だとすれば、後者は自己の内に向かっての修行だったのだろう。死の七日前にしたためた厳しい自戒の文に、宮本武蔵の求心的な孤高の生涯がうかがわれます。

中国は唐の時代の禅僧のことばで、「仏道とは、悪いことはするなかれ。良いことを行ずるだけだ。そんなことは三歳の子供でもよく知っているが、八十の年寄りでもこれを行うことができんのじゃ」とあります。現代の我々も何か自戒を持ちたいものです。


五合庵断章(平成10年10月17日)

五合庵断章(平成10年10月17日)

 世の中は供へとるらしわが庵は 形を絵に描きて手向けこそすれ

 今よりはいくつ寝ぬれば春は来む 月日よみつゝ待たぬ日はなし

 なにとなく心さやぎていねられず あしたは春のはじめと思へば

 「いったい良寛さんはどんな正月を迎えていたのであろうか」、ふとそんな思いに駆られて著作を調べてみると意外と数が少ないのに驚きます。それにしても歌はいかにも童心の良寛さんらしく、閑散とした部屋に絵に画いたお供えを前にして指折り数える姿、心はしゃぐ姿が目に浮かびます。
漢詩では「ただ 明朝 新たに歳を迎うるに慣れ 玄鬢(ゲンビン:黒髪)の化して霜となるを省みず」と除夜を歌った詩が有るのみで、その内容は自省の詩です。


北陸の冬は厳しい。まして日本海に面した国上山は海風がはこぶ湿った雪に覆われ、何といっても来る日も来る日も続くあの灰色の空は憂鬱になる。戸外に出て暖を取るための粗朶も集められず、何百年かたった杉、老松の根元を掻き分けてふもとに下りて行くことも出来ず、できる事はただじっと春を待つのみ。

「玄冬 十一月 はげしくみぞれが降る。山は白一色と化し、道に人影はない。昔を思えば、夢のように、今は一人草庵の扉をとざす。よもすがら炉にそだを焚き、古人の詩を読む。」

「孤峰 独宿の夜、外はみぞれが降りしきり、思いは悲しい。山に黒猿の叫びが響き、凍てついた谷川はせせらぎの音を消す。窓ぎわの燈火は動かず、床に置いた硯の水は乾ききる。徹夜 目は冴え、眠られぬままに、筆に息を吹きかけいささかの詩を書く」

厳しい冬篭りで、蓄えも底をつき、ただひたすら暖かくなるのを待つ良寛にとって、ひとりぼっちの正月自体には、それほどの意味を持たなかったかもしれない。否、厳しい閉ざされた冬があってこそ、暖かな春の訪れをつげる、陽気をひたすら待つ良寛であったのでろう。白一色の世界と灰色の長い長い冬だからこそ、子供達と戯れる便りの暖かさが待ち焦がれる。粥をすすって寒夜を消し、日を数えて陽春をまつと良寛は歌うが、それにしても北国の冬は長い。

冬夜長  三首

 「冬夜長し 冬夜長し 冬夜 悠々としていつか明けん。燈に焔なく 炉に炭なし ただ聞く 枕上 夜雨の声」
「ひとたび思う 少年の時 書を読んで 空堂に在り。燈火 しばしば油を添え いまだ厭わざりき 冬夜の長きことを」
「老朽 夢 覚めやすし 覚め来って 空堂に在り。堂上 一盞の燈 挑げ尽くして 冬夜長し」

 年が明けて旧暦二月になると木々の枝には新芽がふきだし、雪を溶かすかのように草は萌えいで、岩にしがみつく苔は緑をとりもどす。暖かな風が吹くかとおもえば、老いた梅の枝からほのかな薫りを辺りにまきちらす。国上山の中腹五合庵より眺めれば、ふもとにはいく筋もの煙がたなびき、まるで踊っているように見えたに違いない。

「草鞋に杖をとり 江村の路を歩めば、まさにこれ 東風二月の時。鴬は高いこずえにうつりさえずるが、その鳴き声はまだ小さく、雪は低い垣根に残って、草色微かなり。たまたま友に会い風流を語り、しずかに本をひもとき、手であごをささう。この夕べ 風光 ようやく穏やかに、梅花と詩情とふたつながら相い宜しい。」
「春気 ようやく和調にして 錫を鳴らし東城に出づ。園中の柳は青々として池上の浮き草は漂っている。(托鉢の)鉢は香し 千家の飯 心はなげうつ 万乗の栄え。古仏の跡を追慕して 次第に食を乞うて行く」

「比類なき愚かさゆえ 草木をもって友となす。老いぼれたこの身には もはや迷とか悟とか問うに物憂く ただみずから笑うのみ。すねをかかげてのどかに水を渉り ふくろを携え行き春を歩く。敢えて世塵を厭うのではないが いささか余生を過ごす。」
春になればすべてが、生き生きとする。それは冬が厳しければ厳しいほど一層に思われたに違いない。友と酒を酌み交わし、草を摘み、子供達と遊び、梅をかぎ、桜・桃の花を愛でる。良寛禅師こそ真の自由人であった。

 ひさかたののどけき空に酔ひ伏せば 夢も妙なり花の木の下

 国上山雪ふみわけて来しかども 若菜摘むべく身はなりにけり

 鉢の子にすみれたんぽゝこき混ぜて 三世の仏に奉りてむ

 霞たつながき春日をこどもらと 手まりつきつゝこの日暮らしつ

 いざこども山べに行かむ桜見に 明日ともいはゞ散りもこそせめ

 五合庵

 索々たり五合庵 室は懸磬のごとくしかり。 戸外には 杉千株 壁上には 偈数篇。

 釜中 ときに塵あり 甑裡さらに烟なし。 ただ東村の叟ありて しきりに叩く 月下の門。

 *注 懸磬(ケンケイ) 貧しく何も無し  甑裡(ソウリ) 飯を蒸すこしきの中 偈(ゲ) 禅宗における漢詩

良寛禅師がここ五合庵に住み着いたのは、今から数えておよそ百八十年前、文化元年頃のことと思われる。その時良寛四十七歳であった。
宝暦八年(一七五八)、越後国三島郡出雲崎の名主橘屋山本以南の長子として良寛禅師は生まれた。幼名は栄蔵といった。家業はなかなか思うようにならなかった。安永四年(一七七五)、栄蔵は十八歳で名主役見習となるが、突然尼瀬の光照寺に出家する。安永八年(一七七九)、備中玉島円通寺の国仙禅師が光照寺に立ち寄るのをきっかけに受戒剃髪、大愚と号し良寛が誕生する。時に良寛二十二歳であった。以後国仙に師事すること十三年間のながきにわたった。寛政二年(一七九〇)、国仙より印可の偈を受ける。

「良や愚のごとく 道うたたひろし。騰々任運 誰か看ることを得ん ために附す山形爛藤の杖 到る処壁間午睡の閑」

 これより一生を清貧の乞食生活として送り、国上山の五合庵へ住み着いたのは文化元年(一八〇四)良寛四十七歳の時であった。五合庵下山が五十九歳の時と言われ、国上山ふもとの乙子神社境内の草庵に六十九歳まで居たと言われるので、つごう国上山には二十三年間居たことになる。天保二年(一八三一)、正月六日午後四時頃、島崎の木村家の庵で示寂。良寛七十四歳のことであった。

 つたえきく良寛の辞世に 「うらをみせおもてをみせて散るもみじ」とあり、次の言葉が忍ばれる。

「災難に逢う時節には、災難に逢うがよく候。死ぬ時節には、死ぬがよく候。是はこれ災難をのがるゝ妙法にて候。」


K子さん!(平成12年7月19日)

K子さん!(平成12年7月19日)

確か平成12年4月29日だったと思う。K子さんが突然救急車で入院したのは!
K子さんのご主人のSさんは、一緒に修行した経験はないものの、私の修業道場の先輩でもあることより、僧堂を出てより、たびたびお邪魔するにつけ、K子さんとお話をする機会が増えていました。

18年前の記憶は不確かなことなのですが、当時K子さんは、腎臓透析に上野のJ病院に通っていると言われました。K子さんが何処か信頼できる病院はないかと話をしているところ、私の従姉妹の夫がT病院の放射線科で技師をしているから、聞いてみましょうと、言った言葉がきっかけで、それ以来T病院に腎臓透析を通う姿を、私は見ることになりました。K子さんは1週間に2回、欠かさず病院に通って、約半日透析を繰り返していたことになります。

お寺の奥さんであるK子さんの大切な仕事の一つは、寺の留守を守ることがあります。留守を守ると言っても、この守り方一つで寺が人の絶えない寺になるか、尋ねにくい寺になるかと色々なのですが、K子さん程その勤めが似合う人はいないのではないかと、妙な誉め言葉ですが思う人でした。

透析をしていると、時に血液が濃くなり、脳溢血、脳血栓を引き起こすことがあるということなのか、留守中、それは突然の出来事だったらしい。K子さんが倒れた。
帰宅したSさんが発見し、娘さんに連絡をとり、救急車でT病院に搬送された。CTスキャンにより、脳に出血が認められ、手術。術後は言語障害が発生したのですが、筆談での会話は何とか出来るというのです。
風の便りにK子さんが入院した事を聞いた私は、Sさんに電話をして、K子さんの様態を聞き、この変化に驚き、医療処置を病院に任せ、祈り気遣う家族の姿を想像しながら、私はメールを送りました。

Sent: Sunday, May 07, 2000 10:10 PM
Subject: 具合はどうですか
その後、奥様の具合はどうですか?
心配しております。少しでも良くなりますように!

Sさんからのメールです。
平成12年5月8日
ありがとうございます。昨夜危険な状態といはれて、娘が泊まり込みました。今朝の連絡で何とか持ち越したようです。今朝息子に連絡してすぐ帰るようにしました。あわただしいことです。脳溢血も起こしたようで、意識があるときと無いときがあり、この一両日が危険な状態とのこと、心配です。ではまた 
平成12年5月14日
毎日重い空気の中で生活しています。
昏睡状態というのは、一心に眠り込んでいる状態、しかしそこには意識が無いといわれている。事実呼びかけにも何も反応しない。寝てるから。脳幹まで冒されてはどうしようもない。医者もこれ以上手がつけられないと言う。しかし足が突然動いた。また周りで話をしていると涙を出している。
これは脳の深いところで聞いているのではないか。それはその反応が現れているのではないか。看護婦さんはわかりませんと言うが、身内の者にしてみれば、そこにかすかな期待を持ちたい。今日もこれから励ましに行って来ます。
 


平成12年5月15日、K子さんは家族が見守る中、心臓が停止し、息を引き取りました。
52歳でした。通夜・葬儀はしめやかに、そして多くのお別れを惜しむ人たちに囲まれ、旅立っていきました。残像として、いつまでも印象に残るK子さんでした。
平成12年7月12日、私はお盆の棚経で、船橋を訪れました。蒸し暑い夏の始まりはここ何日か続いて、この日から私の実質のお盆の到来でもあります。

Mさんのお宅は、今年の4月始め、ご主人を亡くして、初盆になります。しかしながら、初盆を迎えるべき老妻は、病院のベッドの住人として、脳死状態でいるのです。3週間前食物に喉を詰まらせ、15分の心臓停止から蘇生した老妻の意識は、元に戻ることはなく、それより病院生活に入ってしまったという。
もう何年も前から、『植物人間』、『植物状態』という言葉が一般に使われるようになっています。『動物人間』、『動物状態』とは言わないことに、面白く思います。動物が植物になることに、何か否定的なイメージが有るとすれば、幻想に過ぎなく、厳密な定義など、もともとないくせに、『植物人間』、『植物状態』という言葉が、一人歩きしているのだと思うのです。
Mさん宅で、Sさんのメールの
「昏睡状態というのは、一心に眠り込んでいる状態、しかしそこには意識が無いといわれている。事実呼びかけにも何も反応しない。寝てるから。脳幹まで冒されてはどうしようもない。医者もこれ以上手がつけられないと言う。しかし足が突然動いた。また周りで話をしていると涙を出している。

これは脳の深いところで聞いているのではないか。それはその反応が現れているのではないか。看護婦さんはわかりませんと言うが、身内の者にしてみれば、そこにかすかな期待を持ちたい。」という内容が、私の頭の中をめぐりました。
そこで、老妻の様子をうかがい、メールの内容をお話いたしましたら、応対していただいた、息子さんたち、娘さん、お子さんのお嫁さんたちが、この内容に一斉に頷きました。

そこで気がついたのです。ぐっすり眠り込んだ夜、目を覚ましたときは、もう朝という時があります。ふと考えることは、この熟睡している時間の私は、私を意識することもなく、夢も見ることはない。しかしながら、ひょっとして、鼾をかいているかもしれない、寝返りを何度もうっていることだろう、手は布団を引っ張っているかもしれない、動かそうと意識せずに生理的に動いている私も、私の一部であり、目をあいて活動する私の時間のやはり何パーセント何十パーセントは、意識しない私が含まれていると思う。そう思うと、考えようには、植物人間でベッドに横たわってしまった私と、眠っている私は、同一の状態に近い場合もあるのではないかと思うのです。

人は、意識の無い部分と、ある部分と合わせて、個性を表現いたします。意識のある部分だけを取り出して、人の存在の価値や意義を云々することは、価値や意義を見出さない部分を作ってしまうことになるのではないかと、考えてしまいます。
昏睡状態に陥った人の意思はと、考えた場合、最後まで生きようと血が流れ機能が働きます。このことも意思に違いありません。意識の応諾は得られないかもしれない、こちらの意思は通じないけれど、応諾しない通じないことも昏睡状態の人を形成する部分なのです。

脳死をもって、人の死とすることが、一般に浸透し始めています。忘れてならないことは、このことだと思います。そうしなければ、一人の人の意思や意識だけが、人なのだと選り分けすることになってしまう気がいたします。
船橋のMさん宅で、K子さんの顔が浮かび、「ほうや!陽岳寺さん!全部私ですわ!」と話し掛けてくれたような、「マダマダ修行がたりません!」と叱られたような、とても懐かしい気持ちにさせてくれたK子さんでした。(SさんとK子さんに!


今は昔

今は昔

私が小学生も低学年の頃、西八王子の田舎より見た、ここ深川の思い出は、何と言っても隅田川の大きさと沢山の水路だった。その水路には、沢山の艀(はしけ)が浮かび、人が生活していたのだ。

陽岳寺に、小津安二郎本家の墓地があるが、彼の映画にも水上生活者の風景があった記憶がある。今では考えられない景色なのだ。彼の映画にあって、今はない景色は、暖かな家族の団欒の風景であり、その団欒の風景は、船の上であったり、横丁の路地であったりだった。

多分さまざまな職種があって、雑多に交じり合って、町を形成していたのだと思う。
禅語に「佛殿裏に香を焼き、山門頭に合掌す。」という語が有ります。
禅僧が修行の道場で、ふすまの開け閉め、下駄草履の扱い、低頭の仕方、畳み敷居のまたぎ方、ぞうきんがけの仕方、歩くときも寝るときも規矩(きく)に則りそれこそ着衣喫飯、行住座臥、僧侶としてのなりふりだとか、姿形がそれなりに、見えるにはやはり長い年月と修養がそうさせるのです。しかし、修行道場での生活は、団体生活ですので、それを乱す者には容赦ない罰刑があります。大勢の雲水達が修行がしやすいようにとの老婆心からです。

職人の世界でも、大店の店でも修業道場に似て、掟とか、家訓、弟子と師匠の決まりといったことが沢山あったと思うのですが、今は、見事に無くなった気がいたします。それと共に過去の文化も崩壊したような気がいたします。
禅僧の日常から、つまり修行の中から、多くの禅僧が大悟、小悟をえては、それを慣らしてきました。古人は、「到り得て帰り来って別事無し」と語をつけます。
禅僧としての、日常の風情であり、同時に人間としてのありようであるとも思います。

古来、日本人は自己を習練し、磨き、人格の完成を目指すことを人生の目的としてきました。だからこそ武道、茶道、弓道、華道等、”道”と言う字が当てられてきました。
それに引き換え、現代最も卓越した企業の課題は、”利潤の追求”です。追求の後の分配は、豊かさなのでしょうが、そこが気になるのです。豊かさが、物質であり、有り余る余暇であり、束縛の無い自由さなのでしょう。
現在でも習字を習うときなど、姿勢、息に気を付け身を調えてから字を習います。この身を調えることが、求心的な行為であり、自己を習うということです。この自己というものを忘れて、豊かさばかりを追求した結果が、現代の姿なのでしょう。

かって、この国に、禅が出現し、武道、茶道、弓道、華道等、”道”という文化を形成したことが嘘のような、現代です。
この違いは根底にある探求の方法です。利潤を追求する発想は、積み上げて積み上げて達成しようとします。それはより強い鎧を着てガードする考え方でもあります。この鎧は、年金制度、保険制度などでもあります。
しかしながら、過去の文化は、精神的にガードする思想、見方を削いで削いで、自分自身を消滅することにより、優れた独立性を確立したものっだのです。

ある僧が師に、「如何なるか祖師西来意?」(達磨さんがはるばるインドより中国へ渡ってきた目的はどのようなものでしょうか?お釈迦様の説くギリギリの処はどのようなものでしょうか?)と尋ねましたところ、「照顧脚下」と答えられたという故事が有りますが、人々自己の足元をしっかりと固めて、それぞれが行ずべきことを行ずる、それをこの「佛殿裏に香を焼き、山門頭に合掌す。」という禅語で現したものであり、削いで削いで行ずるそれぞれの姿のあり様だと思うのです。


十一面観世音菩薩

十一面観世音菩薩

おん・まかきゃるにきゃや・そわか

1パラミータ
 《ある人が「私たちに神の王国についてお示しください」とイエスに問いかけました。
イエスは答えました。「そこには時間というものがない。そこには永遠がある。時のない瞬間が、それが彼方だ」とラージニシ・和尚は云います。彼方とはパラミータです。空そのもの、もともとの完成された智慧そのものといえるでしょう。この物語は、その彼方から始まります》

未だ私が産まれる以前のはるか”彼方”。それは天も地もなく、悠久さは、みちみちていることが統べてであり、いまだ世界を形づくる以前の、瑠璃色の水が覆うのです。太虚といい、混沌という宇宙。
禅は、そんな世界を、私という、一身上の世界に当てはめます。

滋味というその水は、彼方を深々と、芳しくたたえる。この悠久さには、時が経つという記憶もない。
しかし、やがて、ゆっくりと悠久の滋味の中に、千枚の花びらを持つ花が誕生したのでした。それは、ゆっくりと、すべての生き物が誕生する余韻に先駆けてのことです。
凛として、白く、弁の中に七色の虹を放つ花は、ゆったりと、幾本ともなく咲き、”彼方”を覆いつくしたのです。
やがて、天と地が誕生し、光が誕生すると闇が広がり、太陽と月が生まれました。
その花は、太陽と月の輝きを受けて、次々と命あるモノを生みおとして、悠久の水を、それぞれの体内に注ぎ込むことを心がけたのです。
命が芽生えたモノたちは、その水から外に目指して、羽や翼のあるモノ、ヒレのあるモノ、尻尾のあるモノとして生まれ、いつしか人が登場しました。


2蓮華

 誕生したあらゆるモノは、未だ、混沌の中に、混沌のまま、それが、今、生まれたままに、あるがままにあるという、天地の間に、滋味あふれて憩いでいる姿でもありました。
 混乱も、争うことも、優れていることも、劣っていることもなく、世界の一々として、光と闇が入り交じる、朧(おぼろ)そのままに光り輝いていたと言えるでしょう。


 しかし、世界にモノが溢れて、悠久の水が使い果たされ、体内に注がれた命がやがて枯れるようになると、時が刻まれ、諸行無常の世界が誕生いたします。
 世界の誕生は、時と空間の誕生です。
 此岸というこの世界で、人々は、”彼方”に咲くその花を、愛で、『蓮華』と呼んだのです。
浄土は遠い彼方に遠ざかるのですが、蓮華は今でも滋味あふれる瑠璃色の光を放って、世界を照らしています。


3 我
 人が思いを抱き、物を自分のモノとし、いつまでも命あるモノと願うようになると、そこに、いつしか「わたくし」という幻を、それは、まるで確かなものであるようにと信じてしまいました。浄土が後退し、やぶれて、どうやら我という私の想いが出現したのであります。
 それ以降、生きることは分別の繰り返しとなり、病に侵されていることすら知らず、むしろ、病に深く侵されることこそ、人の価値が上がるとことを目指す思いが、世界に蔓延するようになったのです。

 潤いの中で生まれた私が、渇きを求めて、外に飛び出すかのようにして、私が生まれ、人々は、同じように病を宿すようになったのです。
 私という病を。そして、私という分別を、世界を。


4十一面観世音菩薩 
    おん・まかきゃるにきゃや・そわか
 「時に、観世音菩薩は仏に申して曰く、世尊、我に心呪あり、十一面と名づく。此の心呪は十一億の諸仏の諸説なり。我今これを説かん。一切の衆生の為の故に。
 一切の衆生をして善法を念ぜしめんと欲するが故に、一切の衆生をして憂悩なからしめんと欲するが故に、一切の衆生の病を除かんと欲するが故に、
 一切の障難災怪悪夢を除滅せんと欲するが為の故に、
 一切の横病死を除かんと欲するが故に、
 一切のもろもろの悪心者を除きて、調柔ならしめんと欲するが故に、
 一切のもろもろの魔鬼神の障難を除きて起らざらしめんと欲するが故なり。
正面の三面を、菩薩面となし、左面の三面を瞋面(しんめん)とし、右面の三面を菩薩の面にてつのと牙をだし、後ろに一面ありて、大笑面と作し、頂上の一面は仏面となす。」
 おん・まかきゃるにきゃや・そわか 南無観世音。
 その名を十一面観世音菩薩いう。
人に智慧と慈悲を、諦めと意気地を、勇みと情けの花を咲かすため、地蔵菩薩と毘沙門天を引き連れて創造されたその化身故に、気がつけば、欲すれば、呼びかけに応じてすぐ傍に、佇み、包み、慈悲となって、人を覆います。

それは、自分自身に自由であることの全てを、思い出させるのです。
それは、未だ私が産まれるはるか彼方、それは天と地に分かれないその日、それは太虚といい、混沌という、光も闇もない世界。深く悠久の水に覆われた、すぐ近くの彼方のことです。
   おん・まかきゃるにきゃや・そわか

陽岳寺本尊十一面観世音菩薩物語

天地未だ別れざりし時、一日(いちじつ)すこぶる風吹きてそのあとに、いとど深き水の太虚(たいこ)を覆い尽くせり。奇なるかな妙なるかな、その水いと芳しき水なり。 
 日ならず月ならず、その香り尽きず。芳しき無尽蔵の水、その故や、如何に……?。 
それ無尽蔵なる花の、水の中に咲くが故なり。白くいとけなき、千枚の花びらを持つ花の、水中にゆかしく咲きぬ。太陽と月、交わりて、その花生まれいでたり。 
しこうして、その花より、あらゆる命、生まれ出でたり。 
いずこにも病(やまい)見当たらず。世はおしなべて、光と闇の入り交じりし朧(おぼろ)なる、瑠璃色の混沌なりき。 
皆、ありのままに天地の間に憩いたり。 
天地別れて後(のち)、世界が生まれ出でたり。世界は、時間と存在の織りなす綾にして、人々、生き死にを繰り返しながら、その花を、蓮華と呼びぬ。 
諸行無常の娑婆世界。浄土は久しからず。人、思いを抱き、物を引き寄せ、いつしか「わたくし」という幻を永久(とわ)なる器と信じたり。即ち、浄土やぶれて我あり。 
我が心の田に、木の櫛をさして境界を造る。 
我が田にクシ。 
しこうして、私生まれ、諸人(もろびと)等しく病を宿したり。私という病なり。 
時に、観世音菩薩は仏に申して曰く、世尊、我に深き願う思いあり、十一面と名づく。此の心の願いは十一億の諸仏の諸説なり。我、今これを説かん。 
一切の衆生をして、ことわりの法を、念ぜしめんと欲するが故に、 
一切の衆生をして、行方知らぬ迷いの道を、なからしめんと欲するが故に、 
一切の衆生をして、病の源を知らしめんと欲するが故に、 
一切の降りかかる災いを、ひるがえ見せしめんと欲するが為の故に、 
一切の横病死者の心痛を安らめんと欲するが故に、 
一切のもろもろの悪心者を除きて、素直さの深奥を知らしめんと欲するが故に、 
一切のもろもろの魔鬼神の降りかかる障難を除きて、起らざらしめんと欲するが故なり。 
我、この世界に、もろびとの苦しみがある限り、共に歩まんと……、人の心に、悩みの種がすむ限り、深く耳を澄まして、恐れにひるむことなく共に歩むことを誓わん。すがたかたちを変えて、諸人と共に歩まんと、求める人のかたわらに立たん。 
諸人の苦しみと悩みとは、生老病死・くじかれた夢・親しいものとの別れ・恐れと憎しみとの会い別れなりき。生きることとは、移りかわりであり、その移り変わりの多くの要素の、一つ一つの事柄には心は無い。 
しかるに、生きるためには、みな必要なものばかりであると気づきしとき、乗り越えなければならない我が身に、豊かさや実りがもたらされんと。 
我ら、強くすこやかに力あるとき、みずからむち打ち、みずから励まして、自己のうちの、形なき限りなきものを求めたまえと、変わらざる源をもとめたまえと。奮い立つ心をおこさんと。 
我ら、今えりごのみの心を見極め、自己の内なる愛憎、好悪を知り、ただ瑠璃色の混沌のごと、何物にも染まらず、我等の所有する一切の概念を忘れ、いかなる思いも留めようとせず、抱かず、ただ虚心にて、ここに、立ち、座れり。 
我ら、今、誠に愛憎の記憶を投げ捨てたり。苦しきは時間と存在の記憶なりと、我、まことに知れり。 
観世音菩薩、頭部に深き願う思いとする、十一のしるしを掲げるは、心の根源を突き止めたあかしとして、正面の三面を、菩薩面となし、左面の三面を、怒る瞋面(しんめん)とし、右面の三面を菩薩の面にてつのと牙をだし、後ろに一面ありて、呵々大笑面と作し、頂上の一面は仏面となす。」 
オン・マキャキャルニキャヤ・ソワカ。 南無観世音。その名は、十一面観世音菩薩。自由自在な心と、名づけられし、観自在菩薩。 
それは、未だ私が産まれる以前のはるか彼方、それは天と地に分かれないその日、それは、太虚といい、混沌という、深く悠久の水に覆われた、すぐ近くの彼方のことです。

『御開帳綺譚(文芸春秋社刊)』玄侑宗久師著作を参考にして


尽七日忌(平成19年5月1日)

尽七日忌(平成19年5月1日)

 島崎藤村に、”三人の訪問者”という随筆があります。その最後は、  「まだ誰か訊ねてきたような気がする。それが私の家の戸口に佇んでいるような気がする私はそれが「死」であることを感知する。おそらく私が、「季節の冬」「まずしさの貧」「人生の老」という三人の訪問者から、自分の先入主となった物の考え方の間違っていたことを教えられたように、「死」もまた思いも寄らないことを私に教えるかもしれない」と結んでいます。
戸口に立っている「死」は、けっして訪問することはありません。思いを馳せることはできますが、人生の不可思議や不思議、矛盾の気配を察する、その気配だけでよいと思います。何故なら、私たちは、生と死という事実のなかに生きているからです。
四十九日忌の法要は、亡くなられてから七日七日と七回数えて、その七日の忌明けの意味があります。そして、東京では、この頃が遺骨を自宅からお墓に納骨する習慣となっています。通夜・葬儀から続いて四十九日忌の法要は、その短い時間の長さに対して、そろそろ、訪れた死という不可解なるものを、自分自身で考え、そこからそれぞれの糧とすることで、人生に潤いを与える試みでもあるのだと、試練として考えていただきたいと思います。

 昔の人は、死への旅立ちに対して、様々な道を創造しています。その代表が、まずは四十九日忌ではなかったか。もはや私の側へともどれない現身に対して、旅立つことを強いられて死者の道に歩む姿を四十九日という日数に見出したのだと考えてみました。その道は、さらに、地獄や極楽、天国へと次々に創造していったのではないかと思います。これは先人達の私たちへのメッセージとしての智慧でもあります。
 平成19年3月30日のある葬儀の日、外国に出張に行って、なんとしても父の葬儀に間に合わせようと、十何時間かかけて、やっとの思いで通夜の29日、飛行機の切符を手に入れ、父の葬儀に参列した喪主である、息子さんがいました。彼が飛行機に乗っている時間に、電車を乗り継いで父の元にと駆けつける時間に、生前の父の姿を思い、そこから「自分にとって父とは」と、父の死を考えていたことを話されました。
 息子さんの葬儀の挨拶は、とても考えられた父の背中の話でした。その言葉を聞きながら、すぐに駆けつけられなかった彼の長い時間は、身近さゆえに、考えることもなかった父という人格を、考えさせられた時間だったことを思いました。もう見(まみ)えることができないという思いが、より身近な父にあえたのではないかと、それが死ではないかと……。

多くの亡くなられた方々の棺の中に眠る姿を見て、花に覆われた棺のふたが閉ざされることに立ち会っては、生は何処にあったのか、死は何処にあるのかと、不思議な疑問を持ちます。
 そんな疑問に「棺の中に眠っている死者を指し、すぐそこに在るではないか」と、確かに死であることに違いないけれど、でもそこにあるのは、父だった死者であり、母だった死者であり、親しいものだった死者であり、友人だった死者の姿が、冷たくなって在るように思えてなりません。
 私の死にしても、私に訪れた死は、私の死ではなく、他者の死を通じて知る命の死であることから、私が経験できない、他者にとっての私の対照的な死であり、相対的な死ということです。

私の父の死、私の母の死、私の友人の死と、死とは認識ではないかと、だからこそ、その認識を確かなものにするために、通夜をして、葬儀をして、荼毘に付してと、人は、悼み、驚き、悲しみ、寂しさに包まれ敬虔に、同じことを繰り返し行ってきたのではないかと思うのです。わき起こる感情や思いすべてが死ではないかと思うのです。確かなものとするためにです。
 しかし、相対的な死であっても、私が形成されている環境を思ったとき、たとえば、家族とか、父や母との関係において自分がいることを思えば、親しいものの死は、自己意識という私の一分が喪失したともいえるものです。
 それは、私と他者との、あいだの、不確かなものとして、突然に、家族のここの関係の揺るぎない絆のきしみや、ほころび、崩れとして現れるものでもあるのでしょう。そのあいだの表現として、悲しみや寂しさという、立ち止まりや佇みが、決して避けるものではなく必要なのだとも思います。そして、立ち止まりや佇みのあと、歩みがうながされるのだとも思います。
 「今でも、亡くなったということが信じられないのです。夫婦二人で過ごしていて、主人がいなくなり、ひとりお茶を飲んでいるとき、ふと、すぐ側に主人がいるような、ドアーを開け帰って来るようです。遺品となってしまった時計が回り続けることに、生きているようで、ハンガーに吊された主人の服が寂しさを誘い、どこかで私を見ているようで」と言った、婦人がいました。人と人とのあいだとは、縁というものですが、その縁は、根拠、相即といえるものでもあり、拠り所といえばわかりやすいでしょう。だから、貴方から私へのあいだは途絶えてしまいましたが、私の貴方へのあいだは、途絶えていないのです。

 決別へ誘う思考こそ、死を確かなものとするためのものです。そうしなければ、送る遺族として、迷いが生じることでしょう。死を確かなものにしなければ、残されたものが確かな足取りとして歩めないからでもあります。こう考えてみると、死は、私たちの内部にある観念だと思えてなりません。
 だからこそ、亡くなったものの思い出は、つきることなく、時間を超えて、私たちの中にわき起こり、ジレンマとなって次々に覆うのだとも思います。死は形がなく、時間的にも私たちのうかがい知れるものではありません。まして、突然に訪れてしまった死は、好きになれるものではありませんが、そうであっても、忌み嫌うものではなく、葬りさるものでもなく、わき上がる寂しさと涙の後に、考えるもののように思えます。

 そして、死が遠ざかるとは、私が変わること、時間がたつこと、忘れることで、死は遠ざかってゆくように思えるのです。変わらない貴方と私のあいだとして……。
 そこから、新たなあいだを形成してゆくためには、個人は消滅を繰り返すものの、決して消滅しない、断絶しない、死を超えて彼方に広がる、生命といわれるものが必要になるのだと思います。
 「禅は、今でも、今・ここです」。だとしたら、死も、今・ここに、あるはずです。しかし、現実には今・ここの死を対象化して見ることはできません。何故というなら、私が生という物語を創造して、生きているからです。

 人は巡礼のように、回帰と旅立ちの繰り返しのなかに生きているといってもよいでしょう。ここに不可解で不思議なものとして、生と死が、浮かんで参ります。そこで、生きているということを対象化し、認識し考える自己をもまた対象化し、相対的なものとして想定するとなると、認識し考える自己は、手や足を思うとおりに動かす自己と、無意識に手や足を動かす自己と、行為を強要し押さえようとする自己はすべて対象化し、相対的に考える自己となり、大きな矛盾を含んで、バラバラになることに気づくでしょう。そのバラバラの自己も、死は認識できないとすれば、実は、生を認識していると思っている自己こそ、創り上げられた自己であると思えてしかたありません。

 こう考えてくると、もともと、生死という場所に居て、死を問うこと、生を問うことなどできない存在において、質問自体が成り立たないことにも気づかなければ、すべては観念の世界の、創り上げられたものとして在ると言えないでしょうか。 鏡のなかの私のように。
 今ここに生きている、死は、ここにある。だけれども、私の死は対象化して捉えることができない。生も対象化して捉えることはできない。そのために、残された私たちが生きるために思い出を相対的なものとして共有し、天国を必要とし、一歩一歩遠ざかる階段を必要とし、生まれ変わることを必要とし、風や空、海を必要とするのではないかと思います。

 また人が、個別として、単体として生きている場合を除くと、生命体という意味では、子孫が生きることにおいては、地球や宇宙までも含めて、活発な生命体内部における個別な死は、その生命体にとっては痛みであり、死はないといってもよいでしょう。その痛みは、残されたものが、生き続けなければならないという記憶でもあります。

 禅で言う自己とは、生と死の、今、ここに生きているということ、その事実そのものです。禅は、私の無心の働きとして、私を超えて生の讃歌を世界に満ちあふれさせます。それが、相対的な自己や他者を創り上げないで生きる唯一の智慧だと、釈尊から伝えられたメッセージなのです。