目次
輝いている時
夢中(ゆめのなか)
芝浜
江戸っ子
亀住町(平成13年7月1日)
モンセ・ワトキンス~夢のゆくえ~(平成14年1月3日)
新牌開眼
英霊(平成17年5月23日)
目覚め
よわい「齢」
また始めたらよい
三大聖樹(平成19年4月17日)
滅度(平成19年9月18日)
安住の地(平成20年11月15日)
心眼(平成22年3月1日)
とかくこの世は
とかくこの世は
祈り(平成17年11月29日)
品位(平成18年1月20日)
ニャンニーシンズ(平成18年3月1日)
鍵(平成18年4月25日)
チベット(平成20年5月1日)
SYOHOU
諸法
四十四の問い~ミヒャエル・エンデ
先ゆく輩
さき行く輩
祖師年譜
ダルマ
慧可
五洩霊黙和尚
石鞏慧蔵禅師
大珠慧海禅師
西川の黄三郎
馬祖道一禅師(馬大師)
五百生 百丈和尚
大梅山法常(752-839)
麻谷山宝徹禅師(平成12年1月27日)
鎮州普化(ふけ)和尚
寒山・拾得
虹の彼方に
ヘイヴン・ペックの場合―続貧しいけれど、豊かだった―
生前葬
平和を我らにーGIVE PEACE A CHANCE(平成13年10月31日)
ソクラテスとヤージャニダッタ
蓮(平成14年6月2日)
心-KOKORO(平成14年6月25日)
独り暮らし(平成15年4月12日)
老いが、咲いていた!(平成16年7月5日)
深濱-fukahama
死に顔
松山鏡(ソクラレストとヤージャニダッタの続き)
真ん中(平成20年4月1日)
百万回いきたネコ(平成21年1月1日)
夜来る鳥(平成21年1月1日)
だいじょうぶ、だいじょうぶ(平成21年2月1日)
無常への帰依
無常への帰依
希望(平成12年1月2日)
葬式坊主
泥棒
赤とんぼ
老い
……ロス
後姿
寿陵
ついで参り
目標
六道を行く
もの言わぬ羅漢達…揀択をこえて…
宮本武蔵
五合庵断章(平成10年10月17日)
K子さん!(平成12年7月19日)
今は昔
十一面観世音菩薩
尽七日忌(平成19年5月1日)
OSYOU
OSYOU
この手のひらに―禅僧の死―(平成10年11月18日)
戒(平成10年7月25日)
幽霊
みんな仏教徒(平成10年5月27日)
最後の晩餐(平成10年5月23日)
禅問答(平成10年5月31日)
分銅
天国は汝ら自身に宿る(平成10年11月24日)
宗派
穢れ(平成12年8月30日)
お彼岸
仏心
仏心
ご祈祷
施餓鬼会にて(平成17年5月28日)
永遠の命
輪廻する葦(平成10年5月27日)
連鎖する命(平成10年6月2日)
涅槃(平成10年8月12日)
鏡(平成10年7月25日加筆)
流星
TAO(平成11年1月3日)
四大
挨拶
冥福
盂蘭盆
祈り(平成14年7月4日)
仏事歳時記
再び 最後の晩餐
この手のひらにII(平成18年11月18日)
死んで生きる智慧(平成19年3月27日)
五百生(平成19年11月20日)
破地獄偈(平成20年5月24日)
この指止まれ
この指止まれ
家族と家庭(平成11年1月5日)
導師(平成11年2月26日)
家から個人へ、そして家族・友達へI
家から個人へ、そして家族・友達へII
脳死そして臓器移植(平成11年3月2日)
独り決めの生き方
僧堂I
僧堂II
僧堂III
恥じ
僧堂IV
返事
父殺し・母殺し・友だち殺し・子殺し(平成20年1月1日)
その後
その後
ほとけさま(平成17年5月1日)
仏が仏に合掌する
戒名(平成12年3月14日)
無用の用(平成12年2月21日)
世話
大きく育て!(平成11年1月18日)
しもべ(平成10年11月7日)
電話(平成10年8月22日)
意思
寡黙
妄想(平成10年8月2日)
川(平成10年8月22日)
風如(風のように)(平成10年6月18日)
追悼(平成10年5月27日)
受容(平成10年6月18日)
蒸発
臨終(平成10年6月8日)
外道
障子(平成13年3月10日)
日月(にちげつ)
年寄りの出番より
人生とは、闇を照らす一瞬の蛍の光
時の旅人
時計(平成12年1月3日)
星(平成11年10月15日)
溝(平成11年8月2日)
過去心…念の起こる処(平成11年6月19日)
与える時間(平成11年5月24日)
桜(平成12年3月2日)
無常(平成11年4月16日)
川(平成10年9月17日)
有時(時の構造)(平成12年2月5日)
時の旅人(平成12年2月1日)
揺れる木々の葉
この人生の速さはなんだ(平成14年12月26日)
法句経より-時の旅人(平成15年2月4日)
寂然不動 如春在花(寂然不動、春の花に在るが如し) (平成16年9月19日)
ZENGO
自立
橋は流れて(平成10年9月18日)
無事
過去(平成10年5月23日)
たまごっち(平成10年5月23日)
一衆觸礼(いっしゅうそくれい)
六道を輪廻する
二人三脚
生老病死
筋肉番付
ポケモン
俺は、親馬鹿か!
塵も積もれば山となる
生と死と永遠
最終章
一章
二章
三章
四章~(未完)
時間旅行
時間旅行
命の歌-母の短歌
礎-いしずえ-
離魂(平成19年8月25日)
海辺橋
海辺橋
ふるさと(平成18年3月4日)
千の風(平成18年9月16日)
人の道(平成18年9月18日)
あなたは、いつから、一年が始まりますか?(平成20年8月1日)
前住職 二十三回忌にて(平成20年9月1日)
平成21年お施餓鬼会を振り返って(平成21年6月1日)
奥付
奥付

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虹の彼方に

 モノが見えるということは、視力があり、認知する機能があり、それを記憶する機能があり、判断する機能がなければ、成り立たない。しかし、見えているからといって、見えないことがたくさんあるのです。もっと見たい。そして総てを見通す術を手にしたいと、誰もが思うことでしょう。

 人を見る時、真正面から見れば、長四角の彼、上から見れば、真丸の彼、斜め上方から見れば、楕円形の彼、受け入れられる彼は長四角だが、怖いと思う彼は真丸の彼、彼の全体は円柱のように、人は見る角度によって、装いが違うものです。
 見えたり見えなかったり、虹にたとえて、実は、探している真実は、その彼方にきっと在るのではないかと………。
しかし、それが虹の姿だとしたら、……。


ヘイヴン・ペックの場合―続貧しいけれど、豊かだった―

ヘイヴン・ペックの場合―続貧しいけれど、豊かだった―

題名 豚の死なない日 続豚の死なない日著 ロバート・ニュートン・ペック
訳 金原瑞人  刊 白水社

 正月、ホテルの宴会担当の女性と話をしていて、やはり、この業界にとっても、10年、20年先の姿を想像することの難しい東京になってきたことを、顕著に感じました。
彼女によると、結婚式に見る変化は、従来の形は全くと言っていいほど、役に立たなくなってきているといいます。その言葉に、少しでも、その先の世界を見たいがために、いったいどんな風にというと、先ず、仲人が間に入る形式がなくなってきたこと。雛壇があって、そこに新郎新婦が座るスタイルは変化し、新郎新婦の位置が、段差のないテーブルに移動してきていること。珍しいこと、新規なこと、変わったことと、親の姿が見えなくなってきていること等、その変わり様は目まぐるしく、もはや、ホテルの営業を始めた頃とは格段に違ったものになってきたという。
その時、このことは、もう少し経てば、これと同じことが人の終末においても起きてくるのだろうと、感じました。

自分たちでものごとを考えてすることは必要なことであると思いますが、親が見えてこないことに、危機感を覚えます。私たちの歴史はどこにあるのだろうか?ただ壊されるだけの歴史だったのか、と歴史の何を、私たちはつかんでいたのだろうかと考えてしまいます。
中学で日本史を習ったとき、下克上の世の中と教わったが、何に対して下克上なのかと不思議に思ったことがあった。どうしてそう思ったかというと、つまりは、モラルが壊れたことが、壊された方には問題になり、壊した方に、正当性があることの裏付けは、民主主義の原点ではないかと、薄々思ったのだ。上を壊して、下に正義があると。

2000年という年は、モラルが、破壊され喪失した時代と言えないだろうか。
特に、議員や公務員の犯罪発生率を調べれば、この国の至っている現状がわかる。人が生きる社会は、何らかのモラルがなければ、安心して生きていくことが出来ない。古いモラルが無くなったなら、新しいモラルが形成されなければ秩序を維持できないのだが、混沌自体が秩序になってしまったら、それは狂気の世界です。
昨年の11月に、私の叔父がなくなりました。私はその通夜の式場で、本当に久しぶりに、小学校の友人に会い、親しく話をしました。後日、その友人から、メールをもらいました。
その葬儀を、どういう風に感じて、どう思ったかを、幼なじみに聞いた返事です。

 幼なじみのメール。『今日告別式に出て、壇払いの席でお坊さんのお決まりの説法(?)を聞きました、私も、妻も何を言っているのかわからない説法でした、もう少し砕けてわかりやすくしてほしい、お釈迦さまの話????あまり学のない私たちには無駄な時間でした、それより早く飲みたい。半分過ぎた人生残りを大切に遊びたい、宜しく。』
壇払いの話とは、説法といえるものではなく、僧侶本人が勝手に思いこんでいるだけの、まったく通じない話でした。葬儀を執行したのは、八王子の市街の中心に、大きな寺領をかかえて、伽藍を維持している、浄土宗のG寺の住職でした。
幼なじみの友人は、「煩悩の餓鬼となって、飢えをしのぐために、さらに美味いものを食べて、遊びたい。今を楽しみたい。充実したい」と、言ってることと同じです。彼の表現を、別に言い換えれば、こういうことでしょう。人は、その為に、人を殺し、傷つけ、略奪し、追いつめると言ったら、言い過ぎでしょうか?
大勢の人が集い、叔父に対する葬儀の執行に、この住職の表現は、我々に語りかけてくるものがなにもないのです。叔父のことも語らないし、今後の遺族のあり方も語らない。仏教こそが、真にそのことの意味を追求してきたはずではなかったのか。
法式や形式が、時代と合わなくなったと知ったなら、修整することも出来ない住職を頂くことに、拒否できない檀信徒は、はっきり言って不幸です。そのことこそ、豊かさの追求なのです。
父親や母親は、子供に何を与えてきたのだろうか、といぶかる時代です。何を伝えたいのかと自問したとき、自問する大人は、果たして、何を伝えたいのか、伝えたいものがあるとすれば、そうさせる根幹の思想・概念を考えたことがあるのか、多くの人たちは、ただ目前にぶら下がる問題のみに追われて、その背景を自分の足で、じっくり着実に考えることを忘れている。
 以下に、記す内容は、冒頭の本の一部です。ご一読下さい。
 《豚の死なない日》より
1960年後半頃より1970年前半にかけて、アメリカでは、ヤングアダルトという分野の作品に、きわめて優れた作品が出版された。本作品も1972年に発表され、一躍作家として認められた。白水社からは金原瑞人氏が翻訳で、1996年に出版した。後に、彼の訳文から、随所に、この本の簡潔にして、言葉を差し挟むことの困難なほどの、圧倒的な迫力の現実描写から語られるものこそ、今、日本に一番欠けて、喪失してしまった、人が生きるという原点にあるものが語られてある。装飾的なものを一切しりぞけ、人が必死に生きることの、真の価値が描かれている。
《父、ヘイヴン・ペックに……。父は寡黙で穏やかで、豚をころすのが仕事だった。》この本の、巻頭の言葉だ。農夫の心はウサギの心のようにやさしい。農夫の目は青い。しかし農夫の目はワシのように鋭く人の心を見抜く。

ヘイヴン・ペックがいう。「それにタナーだって、おたがいの土地の境には柵を立てたほうがいいと思っている。わしと同じようにな。ベンジャミンはわかっているんだ。柵はいがみあうためのものじゅあなくて、仲良くやっていくためのものだってことをな」

ヘイヴンは大地の道理を語る。「今の町の連中にはさっぱり縁のなくなってしまったものだ。あいつらにはそれがわからないから、くだらんものだと思っているがな」
 「そうとも。大地の掟といってもいい。日没の頃のソロモンをみればわかる。あのでかい牛も夕方だけは落ち着かなくなるだろう。それは昔、日が暮れるとオオカミたちがやってきたせいなんだ。一度もみたことがなくても、ソロモンはオオカミがどういうものか知っている。一日の仕事が終わったら、ゆっくり休まなくてはいけないことも、守ってくれる囲いが必要なこともな。囲いの中にいれば、壁に体をぴったりつけて、反対側をみていればいい」

「父さん、僕たちは豊かじゃないよ。」「豊かじゃないか。互いに守るべき人がいて、耕すべき土地がある。それにこの土地はいつかわしらのものになる。……日が沈むのをみれば、目頭が熱くなり、胸は高鳴る。風の音に耳を傾ければ音楽だってきこえるじゃないか。心はうきうきして、ステップを踏みたくなる。まるでヴァイオリンでもきいているようだ」

「たいせつなのは、仕事をする力があるかどうかということだ。ときどき、もうこれ以上、クレイ・サンダーのところの豚を殺せないんじゃないかと思うこともある。しかしわしは毎日豚を殺す。殺さなくてはいけないからな。それがわしの仕事なんだ」「人間は自分の仕事から逃げてはいけない」

「わしら大人がみんなおまえのように夢ばかりみていたら、無理だろう。あのソロモンだって夢があるだろうが、それでも足はちゃんと動かしているぞ。」

「口をつぎむ時を心得ろ」と父さんにいわれたことがある。その言葉は考えれば考えるほど正しく思える。

「うちの旅人はどうだ?」父さんの声だ。「帰ってきましたよ」母さんが答えた。「夢の世界からね」

「ロバート、そんなことしてなんになる。事実から目をそむけるな」

「不公平だね、父さん」僕はいった。「世の中というのは不公平なものだ」父さんが答えた。

「一日が終わっても、この豚のにおいは消えない。だが母さんは今まで、これぽっちも文句をいったことはない。一度わしは、母さんにすまないとあやまったことがあった」
「母さんはなんていったの?」
「こういってくれた。誠実な仕事のにおいじゃありませんか。あなたがあやまる必要はないし、わたしも聞きたくありません、とな」

父さんは一度ぼくに教えてくれたことがある。木は人間を三回温めてくれるんだ、と。一回目は木を切るとき、二回目はそれを引っぱるとき、そして三回目は燃やすときだ。
「冬がそこまできてるね、父さん」

「ロバート、ひとついっておくことがある。『ほしい』というのは弱い言葉だ。ほしいと思ったからといって、何がどうなるものでもない。大切なのは自分がどうするか、自分の手で何をするかということだ」

「父さん、どうしてぼくたちは『質実の民』でなくちゃいけないの?どうして?」
「それがわしらの生き方だからだ」
「ぼくは一生ああいうコートは着られないの?どうしてもだめなの?」
「着られるさ。自分で稼げばいい。おまえもそのうち一人前になる。それも、すぐにな」
「まだまだ先の話だよ」ぼくがいった。
「先じゃだめなんだ、ロバート。すぐに一人前にならなくては。今年の冬のあいだに大人になるんだ」

「すべてのものには終わりがある。そういうものなんだ。嘘じゃない。真実から目をそむけるな」
「春がきたら、おまえはもう男の子じゃない。一人前の男になるんだ。13歳の大人だ。この土地で何かやるときには、つねにおまえが責任を持て。おまえひとりが頼りなんだ」

「父さんはいつも働いてます。休むことを知らないだけじゃなくて、もっと困ったことに、心も働きっぱなしなんです。顔をみればわかります。命がけで何かを追い求めているみたいで、ぼくにはそれがなんだかわからないけど、いつだってそれは父さんの手の届かないところにあって、絶対につかまえることはできないように思えるんです」

父さんは冬のあいだは持ちこたえた。5月3日に、牛小屋でねむっているあいだに死んだ。父さんはいつもぼくより早く起きる。その朝ぼくがいってみると、牛小屋は物音ひとつしなかった。父さんは自分で作ったわらの寝床に横になったままだった。そばにいかなくても死んでいるのがわかった。
「父さん」ぼくは一度だけ声をかけた。「だいじょうぶ、今朝は寝てていいからね。起きることなんかないよ。仕事はぼくがやるから。もう父さんは働かないでいい、休んでていいんだよ」

「墓標も墓石もない。そこに眠っているのが誰なのか、60年の生涯にどんなことをしてきたのか、それを伝えるものは何もない。ぼくはキャリー叔母さんと母さんにはさまれて、父さんの墓をあとにした。ふたりともしっかり前を向いて歩いていた。ぼくはそんなふたりと並んで歩いていることを誇らしく思った。母さんのやさしそうな顔は無表情でさびしげだった。母さんの心を占めているものを言葉にすることはできない。ぼくたちはそれぞれ心の中の父さんに思いを馳せた。

このヴァーモントの土の下にぼくの父ヘイヴン・ペックがいる。額に汗して懸命に働き、自分のものにしたいと願っていた土の奥深くに眠っている。今、父さんはヴァーモントの土の一部になったのだ。「おやすみ、父さん」ぼくはいった。「13年間、父さんといっしょに暮らせて幸せだったよ」

《続・豚の死なない日》より
 父ヘイヴン・ペック亡き後の、愛児ロバート・ペックの苦難。父の記憶を頼りに、父から教わったことを、土台に、家族を支え着実に力強く歩むロバート。
そこに、ちょうど大恐慌が興り、世界は一瞬のうちに、大不景気に、父から譲り受けた5エーカーの小さな農場にも押し寄せてきます。老いた乳牛デイジーの乳が出なくなってしまったことからはじまる、その顛末。働き牡牛ソロモンの死の顛末は、すべて彼の肩に掛かってきて、農場は暗雲が立ちこめる。そこに大干ばつが襲う。彼は銀行への月12ドルの借金返済、農場の固定資産税支払いと、ついに現金の収入が途絶えて、父や兄たちが葬られている農場を、手放すことになってしまうのです。


牡牛ソロモンの死を、受け入れたロバートは、ひたすら大地に穴を掘った。母は静かな声で祈りを捧げた。「死に安らぐものは、土の一部となる。雲が空の一部であるように」

「自然の世界には悪いものも汚いものもないからな。……ヘイヴンにもう一度会いたいもんだなあ。いつだって信頼できるりっぱな隣人だった」と言わせるヘイヴンも立派だが、そう言うタナーも立派だ。良き大人たちに囲まれるロバートは、その時「父が死んだとき、僕は神様が太陽を空からはぎとってしまわれたような気がした。自分が火がつかないランプになったような気持ちだった。そして乳のでなくなったデイジーを、手放す決心をするとき、「デイジー、なんで僕たちは親しい仲間をこんなにたくさん失わなくちゃいけないんだろう?」と。生と死を切り離して考えるのではなく、生も死も受け入れよと自問するロバート。いつか母さんも、叔母さんも、この手で葬らなくてはならない時が来るだろうと、考えていた。

彼は種をまいたばかりの畑に立ちつくしていた。そばにいるのは神様だけだ。その時突然、神様に最後までやりとげさせてください、とたのむのはやめようと思った。ただ、やりとげる力をお貸しくださいとだけ祈った。すべてを彼に託した父の死後、半年たった時。

デイジーを、犬用の餌として売ったロバート。デイジーはばたばた暴れたが、逃げ道はない。「さがってろ、坊主」。ハンマーが眉間の小さなつむじの下のあたりをうち砕く音。デイジーが倒れる音。彼は、帰りの道すがら、デイジーの名前を呼び続けた。どうか、どこか緑の濃いところでソロモンと暮らしていますように、と祈りながら。

トウモロコシの種を撒いた畑を干ばつが襲う。「父さんはいってたよ。仕事をやめるのは疲れたときじゃない。仕事が終わったときだって」と、ロバートは、畑に、丘の下からバケツで水を運ぶ。
「あら星よ」母さんがいった。「感謝の祈りを忘れていたわね」「この世には、こうした恵みにあずかれない者もおります。その人々にも祝福がありますように。」ロバートは、生まれてから今まで今日ほど神様に感謝したことはなかった。

「母さん、ぼく疲れたよ。今日はいろんなことをきかされたんで、わけがわからなくなりそうだ。頭がこんがらがっちゃうよ」ぼくは母さんの頬にふれた。「だけどぼくだってそろそろ自分でちゃんと考えられる年だよ。何が正しいか考えて、間違ったことはしないようにする。だから信じて」

要するにぼくたちが成長するということは単に背が大きくなるということではないのだ。ある意味では、マルコム先生は、本当の農夫だ。かたい決意をもって種をまいている。収穫するのはぼくたちだ。先生をみると、先生以上の何かを感じる。ある意味では、戦士のようだ。でなければろうそくに似ている。敵は僕たちの中にある闇だ。

「大人になるっていうことはがまんしなくちゃいけないってことだ。男らしくするってことだ。」ウィルヘンリーが弟のジェイコブ。ヘンリーとロバート・ペックに言った言葉です。男らしくとは、いくじがないなんて思われたくないことなのです。

いったい大恐慌の時代に、貧しい13才の少年が、こぶしをかためて、母と叔母を養うために、あえて冬の風の中を歩く姿を、どう想像したらよいのか、けんとうもつかない。

「13歳の挫折なんて挫折のうちに入らないわ」と慰める、幼き恋人は「耕すべき土地を失うことがあっても、そこで人生が終わるわけわけじゃないんだから」と、「冬が終わる前にたきぎを全部燃やしてしまうなんてばかげているわ」と、決してあきらめてはいけないと、こういうときだからこそ、胸を張って、堂々としろと励ます。

父の残した農場を無くすことの葛藤を通して、多くのことを学び、最後のこの3人の家族は、友人の家の2階に間借りするすりことになる。一つ一つの問題を真っ正面から受け止め、着実に乗り越えてゆくことは、それが成長するということの証。引っ越しはクリスマスイブの夜。多くの友人がこの親子を祝福してくれた。その夜、少年は、「こんなに心が満たされたのは生まれてはじめてだよ。こんなに幸せなことも」と、感謝した。


生前葬

生前葬

生前葬儀をしたいからと言われたのは、秋彼岸の中日だった。
S氏が、奥さんの家の墓参りに訪れたときだ。それは、久しぶりの対面だったと思うが、少し身体全体が、少しやつれた感じがしたが、年を取ったのかなと思った。
後ろに見守るかのように付きそう奥さんを背にして、彼は言った。

「今年、脳梗塞で倒れたのがきっかけで、墓を建てようと思うと思うのだけれども、どうでしょうか?父親も、脳梗塞が原因で、亡くなったことを思うと、何かをしなければと思う」と、言う。
「今の医療と、食事制限に、言語と身体運動リハビリで、父の年齢を超えることが出来そうなことは、自分にとっては嬉しいことだ」とも言い、深くうなずきながら話すS氏の様子に、引き込まれる。S氏は、もともと、エネルギッシュな人でもあり、言葉も少し詰まらせ気味の語り口は、熱く、仕事を離れて、何かをしたいという、熱い意気込みを受けた。
「今、自分は、67歳である」と、言う。そして、「親父が亡くなった年齢を過ぎて、生前葬儀をしたいのだが、どう思うか」と、それは、唐突な問いであった。

戸惑いつつも、悲しみを伴わない葬儀に、私は今まで経験が無く考えもしなかったことなのだが、とっさに、葬儀とは字の通り、葬り去ることが原義だし、何を葬り去るのかが明解であれば、逆に進められることではないだろうかと、思ったのです。
そして、考えてみれば、葬儀の内容の核心は、意識の変革であり、魂の肉体からの解放ということでもあるわけですから、そうすると、葬儀の対象者は、生きているか死んでいるかは問わなくてもよいのではないかと思いました。逆に、意味さえ確信できれば、生きているものにとって、必ずや必要なステップになると思うのではないかと考えてみたのでした。

葬儀以後は、今までの世界でありながら、新しい世界でなければならないことは、現実の欲望や、行為と悩みからの解脱、迫り来る内外の心理的圧迫要因からの解消し、離れることが出来なければならないし、出来なければ決心だけでも力強く持たなければならないでしょう。
更に、時という問題も絡みます。生きていれば、過去や未来のあらゆるいましめが、今を決定し、動かすことが現実なら、少なくても、未来を過去を解放し、自由を取り戻さなければならないでしょう。生前葬儀は、そのことを中心に、表現されなければ、見せかけだけの儀式に終わり、意味を喪失すると思います。

時を通じてのみ、時は征服されるという言葉がありますが、それを実践することになるのです。
S氏の誕生日は、5月5日だという。葬儀の日時は、その誕生日の日か、それに近い日が適しているように思われた。それは、あくまで人生における中間地点の日なのですが、場合によって、初めと終わりの交差する日だからでもあります。生きている者にとって、毎日が始まりと終わりであることに違いないものの、誕生日という初めがあることは、亡くなることの終わりがあることでもあります。しかも誕生日は何回も刻むことが出来るものの、死亡日が一回であることに、興味を持ちます。本来、誕生日と死亡日は各一つしかないものの、年齢を数えるべき、誕生日は加齢の数だけあります。でも、考えてみれば、誕生日の前日は、その年の年齢最後の、死亡日と考えると、加齢の分だけ年齢の死亡日もあるはずなのです。

誕生日の前日に、その年齢の最後を偲び、反省し、行く末の明日に向かって、未来を誓うと言う作業があってしかるべきなのでしょう。そんなことしていては、ややっこしいし、理屈っぽいことです。
これは、初めの前に終わりがあるかということで、本当の死亡日の終わりの日は、うかがい知ることが出来ないことです。そして、本当に問題なのは、その始めも終わりも、今という時に、あることなのだけれども、でも、初めがなければ終わりがなかったことを、単純に思えば、やはり、生前葬儀日は、誕生日が適しているように思われます。

「それでは、本当の葬式は、家族だけの密葬という形が良いでしょうね」と、奥さんの前で、本当の葬儀を約束するのも、奇妙な感じがいたしましたが、却ってあっけらかんとして、隠すことなく話せるのも、生前葬儀の後の葬儀の重要度が違ってきているからでしょう。
その意味では、思い通りに行かないことが多い人生だけれど、このことだけは、決めて逝きたいと、その意志が生前葬儀なのでしょう。場所は、会社の近くのホテルとし、引き物も既に考えているとのこと、後は、導師がウンと言う返事があれば、走り出すことだったのです。
以上が、生前葬に関する9月23日の取り交わされた内容です。

私にとっては、これから、手探りの状態で取りかからなければならない難しい問題です。
儀式の内容はこれからとして、奇妙なことに、例えば、この葬儀には、喪がないのです。喪がない葬儀なんて、普通は葬儀とは言わないはずなのに。哀しみを伴わないことからみても、喪はないのです。
因みに、『喪』とは、亡くなった方を想い、世の中のつきあい(特に祝い事)を避けて、身を慎むことです。それには、二つの意味があります。自分の心構えとしての 『追悼』と、外へ『忌を及ぼさない』という他人への配慮です。
他にも、普通、葬儀には、御霊前とか御仏前を持参致しますが、本人を前にして、ご仏前、ご霊前はそぐわないことから見ても、これは、意味と内容を、よほど考えなくてはいけないのでしょう。

何と言っても、一番難しいことは、生きている者に引導を渡すことです。これは、死んでいる者に引導を渡す比ではないからです。葬儀から弔う内容を削除したものが、生前葬儀とすれば、弔わない内容の葬儀とは、どんな内容が良いのだろうか。普通は、この場合、懺悔式、授戒会、得度式があぶり出されると思うのだが、そう考えて次に、生きている人の何を弔うかを考えた方が適しているように思えるのだ。
S氏の、用件を終えての、帰りしなのいくらか足を引きずるように見える姿に、病後の痛ましさを覚えたものの、それでも芯に強い意志をかくしている姿を見てとると、S氏の強さと、たくましさを嬉しく思いました。


平和を我らにーGIVE PEACE A CHANCE(平成13年10月31日)

平和を我らにーGIVE PEACE A CHANCE(平成13年10月31日)

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 1980年12月8日午後10時50分、この時間は、ダコタ・アパートの前で、マーク・デヴィド・チャップマンが放った銃弾で、ジョン・オノ・レノンが倒れた時間です。ジョン・レノンは、すぐさま、ルーズベルト病院に搬送されたが、もはや二度と、私達の前には、帰えっては来ない人となってしまったのです。
40歳2ヶ月の、何とあっけない彼の死だったことか。残念で仕方がないと同時に、彼が背負っていた、ビートルズという大型スクリーンの残像が、消え失せようとしていることに、ふる里のほろ苦い郷愁を憶える。彼は、沢山の歌を遺してくれたが、忘れられない思い出は、何と言っても、私の青春そのものと共にあったということです。
そして、再び蘇るかのように聞く彼の歌声。

IMAGINE
想像してごらん 天国なんてないと その気になれば簡単さ 僕らの足元には地獄はなく 頭上にはただ空があるだけ
想像してごらん すべての人々が 今日のために生きていると

想像してごらん 国なんてないと そんなにむずかしいことじゃない 殺したり 死んだりする理由もなく 宗教さえもない
想像してごらん すべての人々が 平和な暮らしを送っていると

※印 僕を夢想家だと思うかもしれない だけど 僕はひとりじゃないはずさ いつの日か きみも僕らに加われば この世界はひとつに結ばれる

想像してごらん 財産なんかないと 果たしてきみにできるかな?欲もなければ飢える必要もなく 人はみな兄弟なのさ
想像してごらん すべての人々が 世界を分かちあっていると
※印(繰り返し)
 

あれから21年も経っていたのかと、移り変わりの速さに驚く。
2001年9月11日、ニュウヨークの貿易センタービルに、2機のジャンボ旅客機がイスラム過激派によりハイジャックされ、突っ込んでいった。
世界に誇り、アメリカを象徴するビルの、猛煙を上げて崩落する姿は、世界中に放映された。それを、世界中の人々が、テレビの前で、まるですぐ目の前で起きているかのような思いで、目を見張り、その惨劇を目撃した。まるで、映画のように、他人の死として、犠牲者の悲惨な姿の膨大な数に、その膨大な数の、癒すことが出来ないことを予感した。
巻き添えになった多くの市民の死を悼む。それは犠牲者と家族や友人に対して悼む以外に、方法を持たない私の、無力さでもある。
ビル街にポッカリと口を広げたような瓦礫の惨状の姿。40日が過ぎても、未だに煙をあげ続けているのだ。まるで、ニューヨークの地中に取り残された魂の、空に向かって舞い上がる姿に見える。それは、亡くなった者の魂の叫びのように見える。
速く舞いあがれと、大型クレーン車からの放水は続く。瓦礫の下では、亡くなった者の、怒り、憤り、哀しみ、驚き、嘆きの思いや叫びが火となって燃えているかのようだ。放水は、その人のやるせない思いを、冷ますかのような祈りに思える。ことの大きさを、今も告げる。

アメリカは、怒り、星条旗の下に、堅い絆によって結ばれようと、一つになろうと結束を誓った。人々は、星条旗をかざして、自分を表現しなければ、結末を模索することの困難な、出口の見つからない連鎖の中に突入することは出来ないと思うかのように見えた。
遠い国の事件が、すぐ近くの国の事件として見えるこの不思議さ。そして、この事件は、戦争となって、イスラム過激派のテロ実行犯が属するリーダーが拠点とするアフガニスタンと隣国パキスタンに場所を移したのです。

長い間に渡って戦うこと以外に日常がなかったといえる民族は、何を守ろうとして、戦ってきたのだろうか。その為、教育というベールまでも脱いでしまったとき、人は獣となったかに見える。国や民族の誇りを犯された若者達の怒りは、敵の喉を、研ぎ澄まされたナイフや刀で、掻き切ることを知ることで、怒りと怖れのすさまじさを知ることが出来る。

国々との平和と平等の交信が、その国を照らす明かりだとすれば、それを自ら閉ざす行為は、暗闇を選択する行為である。自ら、その闇の中で手探りをして、出口を模索し叫ぶ声が、あの日の澄み切ったニューヨークの空を襲った雷鳴であり、轟音となって飛び込んでいったテロ達の叫びなのだろう。それは、アフガニスタンの山々に木霊し、響く叫びに思える。
とにかく、世界は、戦うことを止めなければならない。

過去の歴史を見れば解るように、戦争で、解決する時代は、もう当の昔に終わってしまったことに、まだ、気がついていない。世界の良識は、テロ首謀者達を捕獲するために、何十人、何百人、何千人、何万人を殺せば気が済むのだろうか。
偶像を破壊することで、自らの神までも冒涜した彼らは、その報いをもうとっくに受けている。受け入れることは難しいことは承知していることだが、彼らを許すことが、世界の良識の試練として、今は、アフガニシタンの空が、澄み渡ることを祈ろう。


ソクラテスとヤージャニダッタ

ソクラテスとヤージャニダッタ

陽岳寺の本山が、京都の妙心寺であり、宗派は臨済宗妙心寺派に属することをよく知っているという方々は、案外と少ないものです。山門の表札に『禅宗』と書かれていても、禅宗には今日、臨済宗、曹洞宗、黄檗宗が日本にあり、韓国にも曹渓宗という禅宗があり、台湾と中国にも、禅宗があります。

禅宗の起こりは、もちろん釈尊に始まります。そのことから、禅宗では釈尊を、始祖(しそ)と言います。そのインドから中国に六世紀初め頃飛来した禅宗の使者は、達磨さんですので、鼻祖(びそ)と言います。その中国で、八世紀九世紀に、禅宗は大いに栄えました。禅は、内なる心の実践であり、その外に顕れた形が、坐禅であり、黙想であり、やがて、生活全般の行住坐臥まで含めて、哲学的、或いは観念的に思想として形成して行き、やがて、五家七宗の彩りを数えました。その中の一宗派が臨済宗であり、臨済義玄( を宗祖(しゅうそ)と言います。日本に渡って、臨済宗は十四派に分派しましたが、江戸時代に白隠禅師を出した妙心寺派が、今日、最大の派閥になっております。

坐禅には二つの方法があると言われております。一つには心を安定させるため、瞑想に近く、ストレスを癒す働きを求めるための手段としての方法でもあります。二つには自分を無や空という概念、或いは宇宙とか虚空という概念に成りきるそのことが、本来清浄なるところに立っているということであり、自己が消え失せた状態としての坐禅と言えるのでしょう。前者は、スリランカ、ビルマ、タイに残り、後者は、中国、日本、台湾に伝わりました。また前者を、上座部仏教、後者を大乗仏教と喩えると、更に意味が解ると思います。

達磨が伝えた禅は、「心が牆壁のごとく、木石のごとくなるように心を内に向ける壁観」と伝わっており、この実践を求めることから始まりました。
初期の禅の代表者である縁法師は言います。
「一切の経論は、心が起こした不始末のあと始末にすぎぬ。道を求めるという心を起こすと、つくろいが生まれる。心を起こさなければ、なんで坐禅が必要であろう。つくろいが生まれなければ、なんでわざわざ念を正すことがあろう。道という心を起こして悟に入ることにこだわらなければ、道理も事実も何もない。」
動かぬ前の心に還れと、それは、あっちを立てこっちを立ててと見通すのではなく、見通す前の心に還れと言いました。見通す前の心とは、自分に返れと言うことであり、自己を捕まえようと言うことであり、自己を理解すると言うことです。その自己は、自意識という確実にあるという物ではなく、自己とは働きそのものですから、じっとしている自己だったら捕まえることもできるでしょうが、動いている自己を捕まえると言うことは、捕まえようとする自己も、その働きと一体になることで、捕まえることができるわけです。捕まえた自己はさっきまでの自己ですから、はからいを止めることでもあります。
どうして、そうしなければならないかというと、これは私たちの世界の見方を、違う角度から見つめなさいと言うことでもあります。違う角度から見つめるとは、違う角度の見方が別に存在すると言うことではなく、本来、その違う角度の見方しかないモノを、私たちが暮らす現実生活の物差しが、過去の事物と、現実の事物と比較対照することによって成り立っているという錯覚です。その錯覚を尺度としている限り、違う角度からの見方を得ることはできません。

臨済義玄のことを記した『臨済録』という本があります。その中に、ヤージャニダッタの故事があります。
『修行者よ、時の過ぎるのを惜しめ。君たちはわきみちにあたふたと、禅をおさめ道をおさめ、名目をあてにし説明をあてにして、仏をさがし祖師をさがし、友人をさがして、見込みどおりにやろうとばかりする。まちがってはならぬ。道の仲間よ、君たちにはちゃんと一人の父母がいられる。いったい何を探すのだ。君たちは、自分で自分を映し返してみるがよい。古人もいう。「ヤージャニダッタは自分の首を失ったが、欲求心がやんだとき、そのまま何事もなかった」と。』(舎衛の町に住む美貌の青年ヤージャニダッタが、鏡に映る自分の顔をみて、いちど自分の顔そのものを直接に見たいと思いつめ、どうしても直接見ることのできない自分に、発狂してこの問題をすり抜けるかの時、友人に教えられて正気に戻ったという、首楞厳経の故事。)

眼は眼自身を見ることができません。このことの示唆する内容も、ヤージャニダッタの故事と内容を同じくするものです。私たちは、私たちの正確な姿を見ようと、可笑しくないかと、似合っているかと、鏡の中の私たちを映します。正しくは、左右逆の映像であり、大小、或いは特定の波長の色を付いていることがありますが、やはり、自分の姿を映したものに過ぎなく、生の自分ではありません。何年か前に、鏡を三面鏡でなく、二面鏡に正面をガラスにして中に水を入れて、それに、自分を映すと、自分の姿が、左右変わらずに映すことができると考案して売り出した人がいましたが、現実とは何か、正確さとは何かと問い続けることから出てきた答えとも見えるのですが、ジレンマを含んで、面白い。

かって、神戸新聞の随筆覧に、久米正雄氏という人が、「不思議なことに人間は、自分の顔というものを遂に見たことがなくて死んでしまう。目玉と視神経とを長く伸ばして一度ジカに自分で自分の顔を見たい」と書き、斎藤素厳氏は「往来でふと飾窓や鏡にうつる姿をみて何ていやな奴だろうと思うと、それが自分なのである。自分の顔が見えないことは私にとって偉大な救いだ」言うことが、中山延二氏の著作《世の中》に書いてあります。それと同じように、自分を知ると言うことも、映す自分と、映された自分の関係と同じように、「不思議なことに人間は、自分というものを、遂に知ることがなくて死んでしまう。」のでしょうか。

知らないことを知っていると思うことと、知恵がないのにあると思うことと、死を恐れることは同じだ」と言ったのは、ソクラテスです。知らないことを恐れるなと言っていることと同じです。
ソクラテスは、『死を知っている者は誰もいないのに、人々はまるで死が最大の害悪であるとよく知っているかのように、死を恐れる。これこそ、「知らないのに知っているいると思う」という、最も不面目な無知にほかならない。私は、あの世のことはよく知らないから、その通りにまた、知らないと思っている。』から、死を恐れるものとは思わないと、《ソクラテスの弁明》の中で言います。
ソクラテスは、「ソクラテスよりも知恵ある者は誰もいない」という、デルポイの信託の意味を訪ねて、多くの知恵ある人を訪ねます。そして「わたしは、知らないことは知らないと思う。ただそれだけのことで、勝っていることを知る」のです。そして知ったことは、この信託の否定できないことの事実となり、神だけが本当の知者であることをも知るのです。ソクラテスの“知の探求”生活スタイルの、自分は知恵に対してはじっさい何の値打ちもないのだということを知りえるための旅は、結局、神を実証する旅であり、神の指示にしたがっていることにもなります。

「ほかでもない君たちが自ら信じきれぬゆえに、寸時も休まずさがしまわり、自分の首を放っといて他の首をさがして、自分でやめることができぬのである。完全で本来的なボサツでさえ、理法の世界にあらわれると、浄土の中にいながら、凡を嫌って聖を慕う。こんな連中は、よりごのみの心がふっきれないで、汚れと清浄という分別を残している。しかし、禅宗の考えというものは、そうでない。ずばり現在であって、何らの時間的限定がない。」と、臨済が言うヤージャニダッタの故事は、ソクラテスに似ます。
知の探求は、自分の探求であり、神仏の探求でもあり、一人一人のそれぞれの心の問題です。
その心は、「君たちの一瞬の疑いの心が、土という要素に自分を固まらせるのであり、君たちの一瞬の渇愛の心が、水という要素に自分を溺れさせるのであり、君たちの一瞬の怒りの心が、火という要素に自分を焼かせるのであり、君たちの一瞬の歓び心が、風という要素に自分を舞い上がらせるのである。」であり、その為に、土と水と炎と風の中で、形を離れ、その意味の完成を求める~!ことを、臨済は言います。「心は無形にして十方に通貫し、目前に現用す。人はそのことに思い至らないため、すなわち、名を認め句を認め、文字の中に向かって仏法を意度(いたく)せんと求む。天地遙かにことなる。」と。

禅は、真実と事実を見極めることを第一と、人を育てます。つまり、自分を見失うことを嫌うのです。それにはどうしても、ソクラテスのようにヤージャニダッタのように、自分を、知を追いかけなければなりません。人は、近くを追いかけて遠くを見失い、遠くを見つめるあまり近くが見えなくなります。事実は、それを見てうかがう人によって、正反対にも、いかようにも変化するものです。事実を、世界の表現とするならば、真実は仏や神です。その仏や神は、事実の中に宿るとも言えるのです。


蓮(平成14年6月2日)

蓮(平成14年6月2日)

 お寺の本堂の仏壇には、金の蓮が飾ってあります。この花の意味など考えたこともないことに気がついたのは、タゴールの詩集”家なき鳥”だった。この詩の中で、貧しさの中に必死に生きる少女の言う言葉が胸を打った。
「蓮は、花を付けて種を沢山、数多くの筒の中に蓄えます。やがて季節が変わって風が吹き、種を播いて、多くの株がまた誕生するのです。そのことより、富と豊かさを表す」と、言うのです。
そう言えば、釈尊はアーリア系の人種であり、ヨーロッパや中近東などでも、池に蓮を咲かせて愛でる習慣があることに気がつくと、発想は同じものなのではないかと思ったのです。
でも何故に蓮の花を供えるのか、そして、お経を唱えぐるぐると回る行道での読経に、蓮の花びらをかたどった散華をまくのも、蓮だ。拈華微笑(ねんげみしょう)と言って、釈尊が迦葉(かしょう)尊者に法を託したのも、蓮の花(金波羅華)だった。霊柩車の装飾も、仏壇の彫刻も、蓮は多い。金蓮は本尊の前に、具えられ、よく見ると、蕾と花、開いた葉に、まだ大きくならない葉、花の散った後の種を含んだサヤがあるのです。富を豊かさに替えてみて、実りと豊かさを象徴する考え方そのものは、やはり深刻な貧困や悩み、葛藤、患い中から生まれてくるものです。

でも、実りや豊かさなら、肥沃な大地に育つ植物なら沢山あるはずなのに、何故蓮なのだと疑問を持ちます。思い当たることは、蓮の育つ環境である、泥であることに気がつきます。それは、今自分が生きている、立っている湿潤で肥沃な足元なのだと気がつくと、嬉しさをもちます。また、その泥は、私の心とも言えます。そこから一歩も出られないことを忘れて、外にも向かって何ものかを求めてようとする、人間の無知をも示していると思うのです。
「お前達は、泥の中に住んでいるのだよ」と、その泥を多くの意味を持つものと置き換えてみれば、その中でしか生きられないことを知ることが大切なことだと思うのです。そして、そう知ることが、あの蓮の花が咲くことに、蕾に、多き広げた葉に、まだ、くるまっている葉に、花びらが落ちた茎にたとえられると思ったのです。その一つ一つが比較にならない、一つ一つの豊かさなのだと思います。

豊かさとは、今、多くの栄養分をもつ泥ではないかと、それを体中に浴びているではないかと、それが生きているということではないかと、すでに備わっている現実を知ることだと思います。すると、貧しさとは、そのことを知らずにもがき苦しむことと言えます。しかし、そのもがき苦しむところにこそ、豊かさの源泉があるとすれば、どちらも大切なおろそかにできないモノなのです。どちらも誠実に真っ正面から向かう姿勢こそ必要だと実感いたします。
仏教の至る所は、豊かさの自覚とも言えるのです。それが実りとも言えるのではないかと気がつきました。 

誰でも、自分自身の姿を、あるがままに捉えることは難しいことです。何故ならば、自分自身の姿を捉えること自体矛盾を含んでいるからです。観察する自分と観察される自分の二つの自分が存在してしまうからです。どちらが真か影か虚か。

私にとっても、見つめなければならない私の姿を見つめてよと言われたのは妻からでした。それは平成12年12月13日、母の死においてでした。
2年間にわたる母の療養生活を必死に支えていた私の梁が、葬儀と納骨が終った後から、無くなってしまったことに由来するのだと思います。その少し前、母が療養生活で家を出て、私と妻と、二人の確かさをもたらす子ども達が住む家となって、私の気持ちが徐々に変わっていった気がするのです。
一つの平凡な家族でも、年月の変化に、家族の様相は、平凡なりに大きく変化するのは当然です。厳密には、それ以前から、父が亡くなってからです。ジワジワと進んでいた変化は、母にとっては寂しさと諦めの感情を生み、妻にとっても責任と不安を生んでいたことの進行形です。
一緒に暮らすことは、私も、妻の側に立ち、母をかばい、母の側に立ち、妻をかばうという嫁と姑の関係の中で、子であり夫であることの綾取りを繰り返していた。二世代家族同居に起こるさまざまなことの板挟みに、母の子離れを促し、妻の孤独感を乗り越えることをひたすら願って、男の中性化現象の見本のようになっていたことです。板挟みの中で、否、板挟みだからこそ私も揺れるのですが、私に見えないモノは、板挟みは私が作ったものだということでした。

のほほんと毎日を過ごしていた私には、自分自身が見えなかったと言えます。では、今は見えるのかといえば、情けない話ですがよく解らないことでもあります。でも母が亡くなってから見えたものは、それは父の死を通して夫婦というもののもろさと確かさ、そしてその夫婦がやがてどちらか一人になった時の、取り残された者のもろさを、母を通して見えたことは、哀しくも美しい母の心だと教わったことです。親しく亡くなった者を忍ぶとは、美しいし、悲しいし、癒されることのない時間に、一人佇まなければならない自覚なのだと、それが、死を真っ正面から受け止めることなのだと思いました。

母のそうした時間を体験している時、それは、励ますことの意味もまとまらなく、結局は、側にいるだけの私のうろたえている時間でもあったし、そんな私をじれったいと見ていたか、母と子という私の間隙に入ることの戸惑い、難しさを持った妻の時間でもありました。
いくら頭で理解していようとも、大きな亡くしたモノの跡にポッカリと空いた穴は、埋めて癒すことのできないものです。だから、哀しいのだし、涙が出てきて止まらないことでもあり、そこから生まれる亡くした者の行為は、理解できない行為と見えることでもあるのでしょう。亡くして始めて分かる私であり、身体に刻まれるこの味は、ほろ苦く、甘いものでもあります。

自分が見えないことは、人の気楽さですが、見えれば、いたたまれないことでもあります。父の最後に至る過程を見、そして、母の至る道を見て、知った老いたる夫婦の道筋は、同じものではないことは知るものの、実は私たち夫婦も、長く続く限りは、この物語は終わらないし、私たちがいなくなってもこの物語は、子供の代へと続く気がいたします。
振り出しに戻った感があるモノの、振り出しに戻ったのではなく、全ての愛と死は続きの中なのです。だから、終わることが始まりになり、始まりは終わりを意味してこの繰り返しの中に、私たちは時を刻んでいるのです。いずれは、私たち夫婦も、父と母が経験した、どちらかの立場になるのだろうけれど、今は想像することもできない。

母の全身から感ずる老いが進んで行くと、その先が見えるような錯覚に陥る。自分で理解することのその先は、自分に降りかかった現実ではなく、仮想の理解です。母が、現実に父と築いたこの家を出て居なくなって、この家は世代交代が進み、次の世代に移ったと言えます。父と母が去ったが故に出来上がったこの家族で、これからの寺と家の経営をしなければならないことを意味するが、私にとっては、往復に五時間かけてゆく母への逢瀬が、私の真価を確かめるものだと自分に言い、その行為に意味を付け加えていた。ちょうど二年間母はその病院で療養生活を送ったわけですが、毎週、欠かさず八王子の郊外の母が居るところへ通うことに、意味など見出す必要があるわけはないのだが、母の意志がわからなくなって始めて、母の価値を知ったのだと、たとえ意志が通じなくても、そこに行けば生きていることが、子にとってかけがえのない礎であることを知ったと言ってもよい。それは私たち家族が元気でいることを、母の願いなのだと知ったし、その願いに答えるためと、平和な暮らしが続くことが必要なのだとも知ったのでした。

母が具合が悪くなって、家族みんなで外食をすることが多くなった。それは、母の想い出を子ども達にも記憶させるためでもあったし、家族が一つになることが、お互いに共通の時間を外で持ち過ごすことも大きな意味を持つものと思ったからです。そのことが家族が元気に生きていることの証明となることでもありました。こうして、家族とは何かを築こう築こうとして時を織る。母が、入院しても、母がこの席に一緒にいられないことが残念に、後ろめたさを憶えることもあったが、母の居ない家族での外出は続いた。いないが為にも、時という反物を織り続けることによって、縫いつける作業をしなければ、その時の意味を失うかのようにです。

父や母が居なくなると、自分だけで飲みに出かける回数が増えた。それは空虚さが全身を覆うかのようにでもありました。このことを考えてみると、自分にとって、母を亡くしたモノの正体を探り当てられないことからくる仕業なのか。そのことを考えてみても自分ではわからない。自分の弱さなのか。それをジッと見守ってくれる家族にすまないと思う。多くの別れに立ち会って、それは、私にとっても別れでもあるのだが、真に自分に降りからなければ、この喪失感は理解できないことなのだろうが、時はまぎれもなく進んでゆく。しかし、そんなときに、高校3年生の長男が急に頼もしく見え始めてきたことは嬉しいことだ。それは、私が年を取って行くことを意味するのだろうか。長男の振る舞いと言葉に、私がうなずくことの寂しさと、うなずくことの心地よさを認めたとき、あと10年ぐらいで、世代交代が実現しそうな予感は、妙に安堵して、落ち着く。そのぶん、妻には、距離に隔たりができて哀しい。

多くは、土曜日、日曜日と法事は多いのですが、考えてみれば、いつも自分が座って見上げる全面に古くあか光りする金連は、実りと豊かさを投げかけ、その金連に挟まれて立つ、灯明は、自分の足元と道を照らす。仏道とは、自らが輝くことであるが、それは、自らの今を知ることでもあるのです。


心-KOKORO(平成14年6月25日)

心-KOKORO(平成14年6月25日)

 修行の僧堂を出て、まだ30年は経っていないが、後数年で、30年が経つ。「更に30年!」と、禅録にはあったが、意気込みとしてならわかるが、そんなに人生の残り時間はない。
しかし、このホームページを開設して、何年か経つが、私は、未だに、何を書いているのだろうと、迷う時がある。情けないとも思うし、頭の回転がついていけないもどかしさが充満する。誰かを読者として、書いている場合もあるが、ほとんどは呟きのものでしかない。一体誰が、呟いているのかというと、生きて、一瞬たりとも動いている、それを躍動している自分と言うのだろうが、今、キーボードの上を走らせ、整理しながら、茨の道に踏み入らさせている。

 禅とうたっているものの、果たしてこれが禅なのか、師匠を亡くして一人歩く道は、模索の道でもあります。不安定の上に、安定を見つけ、ひとときの憩いの時に覆う疑問が、一瞬のうちに、立場を翻します。それでも、追いかけているものは、心なのだろうとすれば、それは、私の禅です。揺れる自分の心を、突き止めようとして探す、試みなのです。自分の今の表現は、明日の自分ではなく、それでしかないと知るものの、それでも、ふと気がつくと探している自分がいます。だから猶、揺れるのでしょう。むしろ、揺れるそのものの中に、境涯を見つけようとする自分が居ます。

 達磨大師は「外、諸縁を息(や)め、内、心に喘(あえ)ぐこと無し」と、無事これ貴人の主体を指し示しますが、無事が貴人の境涯であれば、活発に躍動する無事こそ、貴人の真価だと思います。
寺を預かっていることの意味を考えると、多くの”無事これ貴人”との接触で、その一人一人の”無事”を、理解することを心がける意味で、無事の内の自己を取り込むことが出来ればと、私なりにその表現を受け入れることの繰り返しの連続です。時に苦渋となり、感心し、時間に追われ、哀しくなり、同情し、何とかならないものかと考え、眠くなり、……様々な、私の無事です。

十牛図、臨済録、碧巌録、正法眼蔵、総ての禅録は自身の心を探す試みの軌跡です。探し当てた心の記録であるが故に、探心記と言えますが、そこで探し求めた心は、仏に通じ神に通じ、探仏記となり、探神記になるのですが、しかし、私たちがそれを読もうとしても、やはり、人の書いたものは、あくまで、その人の探心記であり、自分のモノではありません。自分のモノにするためには、どうしても、自分で心を探す試みの旅に出なければ、確信が持てないのです。

 大いなる哉、心(しん)や。
天の高きは極むべからず、しかるに心は天の上に出づ。
地の厚きは測るべからず、しかるに心は地の下に出づ。
日月の光はこゆべからず、しかるに心は、日月光明の表に出づ。
大千沙界は窮むべからず、しかるに心は大千沙界の外に出づ。
それ太虚か、それ元気か、心はすなはち太虚を包んで、元気を孕(はら)むものなり。
天地は我れを待って覆載(フサイ)し、日月は我れを待って運行し、四時は我れを待って変化し、万物は我れを待って発生(ほっしょう)す。
大なる哉、心や。             《興禅護国論の序-栄西禅師》

 上記は、鎌倉時代、栄西禅師の表した興禅護国論の序です。自分自身の強い探心の希求が、中国への旅に結びつき、探心の到りえた栄西の格調高い響きです。
未だ禅が知れ渡っていないこの時代に、禅を昂揚する意気込みが感じられますし、自分の発した言葉に、一歩も引かない熱い血潮に、触れると壊されるような、近づきがたいものがあります。それ故に、心ときめく言葉でもあります。
「大いなるかな今の自分の心や」と、この詩をそらんずると、生きていることの充実感、或いは、閑かな時の流れを感じて、大きく飛翔することが出来ると思います。
太虚とは、言い尽くせることの出来ないもの、語ることができないもの、太虚そのものとして体験したとき、これこそが、心なのだと、それを、無相の自己と言い、無心とも言います。余談ですが、私は、この心という字が、ブランコで揺れているイメージがあります。上から、紐で吊して、或いは、心の真ん中の棒の上を釘で留めると、回転するイメージを持ちます。だから何なのと言えば、それだけのことなのですが。

 臨済禅師が言う「赤肉団上に一無位の真人有り、常に汝等諸人の面前より出入す、未だ証拠せざるものは、看よ、看よ」の、”一無位の真人”こそ、栄西禅師の言う”太虚”と同じモノであり、者とか物というと、何か限定できるモノでありますが、これは、限定できないモノであるがため、位がないモノであり、これが心なのです。

 心とは、語り得ぬものであり、一無位と言い、無心と指し示すのですが、私がないことそのものは、やはり語ることのできないものです。その心は元気を孕んでいる。どうして孕んでいるかというと、実現した私が語らせるのだと言えば、元気とは、私の働きの源と理解します。私とは、この元気の働きの表現でもあります。限定できるモノ、語ることのできるものは表現された私です。では、その語ることの出来ない心の表現した私は、どうしてあるのと言えば、喜怒哀楽愛悪欲の七情の変化を思います。その一つ一つは、相と縁が織りなす葛藤、想い、感情だと考えます。

 無相の相の字は、辞書に、「二つ以上ものが互いに関係しあうことを表す」とあります。具体的には、事物、木の姿を見る、仲間、関係しあうことに恵まれる、助ける、関係することの働きの意味ではありますが、結びついていることの意味では、縁と同じ内容です。この相と縁により、私たちの日常は成り立っていますが、喜怒哀楽愛悪欲の七情の発露、そして、意欲、創造等意識を含んだあらゆる行為の実体は、この相と縁という、ネットワークの表現でもあると言えるのではないかと思います。

 心の表現は、表現された私です。そして、この表現の源は、相とか縁、ネットワークに依存しております。これは、私という人間が、父となり、子となり、和尚となりと呼ばれることで、相と縁の関係を物語っている事実であり証明できるのではないかと思います。その相と縁の表現の私を自覚することは、同時に、相と縁のネットワーク故に、母や妻、子、友人と言う他者を巻き込んで、相互の縁起関係を成り立たしめているとも言えます。この相関関係の自分自身の立場、今立っていることの根拠は、しかも、その相と縁のネットワークは、現実の事物かどうかは問いません。記憶や、イメージ自身がネットワークの産物だとしたら、例えば亡くなった人とのネットワークは、記憶の中で結ばれていることでもありますので、その記憶が亡くならなければ、無くならないと言うことが出来ます。実は、記憶自身も、イメージもネットワークと考えれば、そこから生まれる意識も、私を飾るもの、飾るものも私自身と考えられないでしょうか。

 実在したものを亡くしても、記憶の中で生きている、人を亡くすという意味の困難さが理解できると思いますが、そのことも、心の表現なのですし、表現された私でもあります。

 この心は、様々な差別・平等を通り越したモノとも言えますが、同時に、このモノを掴んだとき、山となり、風となり、火となり、水となり、雲となり、時となり、今となることが出来ます。古来、悟りの現前と言ってきたものです。
この相や縁というネットワークを張り巡らせながらも、無とするところに、自己を置けば、一無位の真人は、具体的な事実として、”あるがまま”という事実が顕現すると言えます。このあるがままこそ、無相の自己が顕現した心-KOKOROと言えます。

 ワールドカップを見ていて、自己実現と言う言葉を、何度か耳に致しました。妙にこの言葉が引っかかります。自分は自分さと、意味など理解してなくて、頻繁に親や友達に抵抗し使っていた若い頃の記憶がありますが、その自分も年を取ってみれば、よく言う”おじさん”そのものの実現された自己なのかも知れません。生きることは、自分らしさを実現するためと思うものの、その為には、何よりも自分に誠実なことが大事なことだと、何事も真剣に受け止めようと、その受け止めた今の自分の行為に、誠実さがあふれていれば、それこそが自己実現なのだと思う今日この頃なのです。


独り暮らし(平成15年4月12日)

独り暮らし(平成15年4月12日)

 自分を語ることって、そして語れることって、更に語れる相手を持つって、人を助けるなって続く思いました。独り暮らしのお年寄りの家に訪ねる機会があります。
 身体を気遣って、「どうですか?」「いかがですか?」「体調は?」などと訪ねると、思った以上のことが返ってくる場合があります。老人性鬱病の持病があり、精神科に通っているのですと、ケロッと言われると、思わず、「本当ですか?」と、今、話す相手がそんな症状を持っていたことなど想像が付かないほど、ビックリするときがあります。
 本人も、「私は、何の隠すことも嫌だからと、どんどん話してしまうんです」と言う。その話の内容は、自分に降りかかってくればゾッとする内容の怖い話しだ。

 家の中で、独り閉じこもって、自分が自分を外部と閉ざしてしまうことに、抵抗できずに、その家の中も、自分が居る場所すら我慢ができない場所と変わって、ひたすら震えながら気分が過ぎ去るまで、閉じこもることしか選択肢がない気持ち。その時の自分が何をしでかすかわからない恐怖。それこそ、刃物を持ち出し自分を傷つけるか、一歩外に飛び出し、他人に抱きついて世間の避難を浴びてしまうかも知れないことを、高らかに話してくれたりする。七十才近くのお年寄りの言葉にしては物騒な話しを、開けっぴろげに話されることに、この人の生命力を思います。それはうかがい知れない過ごしてきた苦しい時間に、耐えて変わってきた自分を、「隠してもしょうがない」「敢えて、話せる相手には、話してしまうんだ」の言葉が表しています。

 そうなんです。こうして自分のことを、誇張しながら?話ができることに、いや、できるようになったからこそ、鬱病という怖い病気と付き合うことの姿勢がうかがえて、この人を、たくましく感じるのです。
 とある女性は、「何でも聞いて下さい」と、言う。亡くなられた夫の話をし、こうして上がり口で対話していたことを思い出しながら、話していると、急に涙を見せながら、「ご免なさいね。涙もろくなりまして」と、時間を忘れて話し出す。「そうなんです、そうなんです」と、何度でも話す。話すことによって、独りぼっちになってしまった今の自分の、後戻りできない自分の、どう過ごして行けばよいものか、前に進めない揺れる心を表している。これが、独りになることの苦労、試練なのだろうと、辞して思います。
 お年寄りの、と言っても、六十五才を過ぎての独り暮らしが、多くなったと実感する、今日この頃なのです。

平成15年4月13日
年老いて、亡くしたものの、帰ってこないという実感は大きい。午前、訪ねたくとも、足腰が弱って、訪ねることができなくなってしまった静岡に住むお年寄りと話していて、主人が亡くなったことより、息子が亡くなったことが、もう4年経ったのに、こたえると、しみじみと話していた。嫁さんはどうですかの問いに、今でも、耐えられない時間を過ごしていると聞く。電話してみようかなと思うが、つい、忙しさに紛れて、時間が経過していることに気づく。鬱病は怖いし、その時以来いまだに後を引いていることに、息子や娘が支えるだけ支えていることに希望を持ちながら、考えを止める。
 もう頑張る必要はないかもしれない。頑張ろうとすればするほど、思い出すことが多くなり、余計に、楽になれないとするなら、頑張ることを止めることも必要なのだろう。でも、それができれば、こんな悩むことも、落ち込むことも、苦労はない。無責任なことだが、そうやって問い続けていることが、一生懸命に生きている姿に映ります。

 もう、立ち直ろうとしない、立ち直ったところに何があると問えば、それで、いいじゃないの。立ち直った世界はどんな世界で、どうしなければならないとしたら、余計にストレスがたまります。
 今の貴方ではいけない、しっかりしなさいと励まされることに、立ち直った自分は今の自分と同じか別かと問えば、立ち直らなくてもいいじゃないの。喪のまっただ中にいること、そのことが、苦労なのだから。どう考え方を変えたとしても、変えられない自分がいることが問題だとしたら、考え方など変えない方がより自然です。まっただ中は、問い続けることの連続です。その連続した時間こそ、今の自分を正直に表現するものであり、それを苦労と言うのだと思います。

 自分の行く末より、亡くなったものの行く末を問えば、彼方の世界から帰ってきた者など、いまだかって一人もいないという事実こそ確かなものです。彼方の世界に行った者の意志を覗けば、その意志によって帰りたいと思わない世界が現存するとみることもできます。だって、本当に、絶対、誰も帰ってきたことはないのですから。
 問題は取り残された私なのです。閉じ込もった私なのです。そう思って立ち止まったとき、自分の行く末が現れます。
今朝、独り暮らしの66才の女性の家を、久しぶりに訪ねました。昨年の10月親しかった友人を突然亡くして、考えることが多いという。まだ若いし、丈夫だし、誰か再婚相手はいませんかとの問いに、こう答えた。

 「いっそのこと、大きな家に、みんなが寄り添っていける場所があればいいですねと。仕事ができる人はそれを仕事に、料理が好きな人はそれを仕事に、掃除が好きな人はそれを仕事に、テレビが好きな人はそれを仕事に、具合が悪い人はそれを仕事に、仲の良い夫婦はそれを仕事に、おしゃべりが好きな人はそれを仕事に、針仕事が得意な人はそれを仕事にと、みんなが寄り添っていけて、どんどん新しい人が入ってこれる、そんな大きな家があったら良いですね。アパートに閉じこもるのではなく、みんなで閉じこもれる場所、いいですね」と共感して帰ってきました。言ったことに振り返り、きっと、色々な問題があるだろうなと、それでも、誰も排除しない大きな家が、地域に広がれば、それも、大きな家に違いはないかなと。


老いが、咲いていた!(平成16年7月5日)

老いが、咲いていた!(平成16年7月5日)

 平成16年6月30日、午後八時、N氏の娘さんより、「父が、午後6時55分に、上野のN総合病院にて、亡くなりました。穏やかな姿で、きっと喜んで、生をまっとうしたことと思います」と、家族の誰もが、夫や父の死を、冷静に見つめる姿に、N氏が育んだ、N氏の家族らしい姿に、N氏の面影が浮かびました。
 それでも、突然の訃報に、驚き、同時に、何故と言う言葉の先がありません。
 お寺を使っての、葬儀の依頼に、先ずはいったん、家に休んでと、葬儀社のK商店を教えて、電話を切りました。
 多分、午後10時ごろ、黒い寝台車に揺られて、家族は、「ただいま」と、帰宅したはずです。
 傷つき疲れた貴方にとって、突然に居なくなるN氏の無念もさることながら、家族にとっては、やはり、N氏を喪失することの戸惑いがあります。
 この夏の暑さは気になりますが、家族にとっては、やはり、自宅で落ち着いて、先ずは、この数ヶ月の移り変わりの日々を振り返ってみることが、それが、癒すことであり、悲しみ悼むためには、自宅にいることこそ、必要なことだと思います。それでも、家族にとっては、言葉を発しない、N氏の眠る姿を前にして、どんなに優しい言葉でも、励ますことの難しく、人の力の無力さを、覚えるときです。
そしてこのことは、N氏の旅立ちへの、最後の手伝いをする私の、戸惑いでもあります。

 葬儀という時間を大切にするために、その数ヶ月、そして、それ以前の時間が、葬儀という形で収まるためには、家族それぞれが、自分の中で、記憶を書き換える作業が、受け入れるための時間が、必要なことだと思うのです。突然と始まったN氏の死ではなく、生きる希望を断ちきられた葬儀ではなく、N氏の生涯が、この葬儀により、後戻りできない人生を象徴として、実りある人生に終止符を打ち、新しく生まれ変わることの意味を、家族が共有できさえすれば、家族にとっても、旅立ちの意味が含まれると思うのです。


N氏が治療の中で、家族とともに、快方に向かうことを疑わずに、兆候の改善と、新たな発症の繰り返しの中、いずれはと予想していたものの、考えてみれば、予期できないことに、困惑していたのではないでしょうか。それでもN氏は、いつも強く、じぶん自身の快方を信じて、周りには、少しも弱さを見せませんでした。この強さゆえに、突然と襲う不幸なのです。

 家族が落ち着いた頃を見計らって、翌日の午後4時、電話を入れて、再度、お話しを聞きながらも、病床にて、「すべてを治して帰るから」と語るN氏の気持は、暗くなる気持ちを吹っ切って、家に帰るのだと、強い未来への決意を知ります。
 きっと、病床にいても、「有り難う」「心配するな」と語りかけ、人をいたわるN氏の思いやりの言葉が、たびたびと、家族に安らぎを与えと、これは、貴方の自分に厳しく、人へは、思いやりの証明でもあるのでしょう。
 そして、何度も何度もぶり返す体調の変化に、家族が、N氏のために時間を費やすことが増えることに、「すまない」と悔やみ、「申し訳ない」といたわり、「もう少し待ってくれ」と、いぶかりながらも、その葛藤を見せない、強いこころざしにおおわれていたのだと思います。
 N氏が病床にて眠る様子に、そっと帰宅した家族に、どうして電話をできたのか、「どうして黙って帰ってしまったのか」と、N氏の葛藤が顔を出します。
3月の半ばに、N氏がちょうど入院した頃、お寺では、N氏の家族が彼岸の墓参に来ないのを、いぶかっておりました。そして、入退院の繰り返しに、5月、お施餓鬼の返事が来ないことに、何かあったのだろうと想像するも、頼りがないのは無事のことと、平穏を装うことでもありました。
 そんな中、体調のゆっくりと進行する変化に向かって、6月10日に再入院し、N氏の更なる仕事を持ち込んでの強い意識が、周囲をなごませるのでしょうか、そして26日、急な体調の変化が襲います。

 このことは、考えてみれば、N氏の知らない出来事が、N氏の何処かで進行していることの、それは、私たちの将来とか未来というものの、不確かなものの証明です。
 そして、その不確かなものに振り回されるより、不確かなものを現実の事実として、病床で、受け入れたN氏に代わって、その不確かなものを、観念でしか受け入れることしか方法を持たない私たちの作業が、如何に、動揺をきたすか、N氏は、知るよしもないのでしょう。
 また、夫婦にとっては、共に築き上げようと誓った家庭が、誰も替わることの出来ない、私一人で立たなければならない、この夫婦の過ごした年月の意味を見いだし、何を語らなければならないのかと、考えなければならないことほど、辛いことはありません。
むすめ達にとっても、父の様態と、意欲に揺れて、そこに荒れ狂うの時間の流れに奔流され、時の流れを止めることのできない不安と、自己の苦痛に襲われることの、繰り返しの連続する時間を、家族は、持っていたはずです。

 それでも、29日まではなんとか、N氏の意志は強く、その思いは、気づかないことです。
火葬場より寺への、車の中で、
 「そう言えば、3月、むくみで入院したとき、先生が、この状態でゆけば3ヶ月持つかどうか心配ですと、おっしゃいました。でもまれにですが、治る方もいるのですの言葉に、父は、勝手に、その治るほうに、自分がいるのだと、受けとったのです。あとになって、先生が、そんな父を、微笑みながら、見つめていました。たった数パーセントの確率を、父は、それが100パーセント自分にあるのだと、思ったみたいで……。」と、娘さんが語りました。

 家族にとっては、N氏の症状の変化は、ゆっくりとした症状の変化に見えたのでしょうか、「もしかして」と、N氏の死が浮かぶものの、N氏の強さに、気持ちが救われることの繰り返しの日々を持っていたのでしょう。
28日、29日と、意識を保ってはいたものの、もしかしてと、この二夜の、病院で、もっとも尊くて、短い夜を過ごしたのだろうと、朝が、来なければよかったのにと……思います。
 そして、30日、早朝、急変し、突然として、N氏の意識は、夢の中に、入ってしまったかのようです。同時に、N氏の意識が薄れたあとのN氏の事実は、N氏が知るよりは、家族が知る限りの事実の変化になりました。
考えてみれば、たった十数時間のことです。77七年の生涯のたった、十数時間の大きな変化でした。

人にとって、年齢を重ねるということは、本来、より自分を見つめるという意味があります。でも、現実には、次々と与えられる試みに、未だ来ない時間に、着実な自分を重ねて、今という時間を、走っていたはずです。
過去や未来が与えられ、築くものとするなら、もう与えられない、もう築くことが出来ない未来を前にして、さかのぼることのできない過去をどう私達は、保てばよいのでしょうか。
いくら思い出して豊かな時間が続こうが、なつかしい経験を思い出しても、過去は夢のまた夢です。
だからこそ、築き上げた時間の、失うことを予感して、N氏の生涯を受け入れるという作業が、大切なのだと、充実した生涯だったと、N氏は、今、喜んでいるのだと、娘さんが繰り返し語るのです。
それでも、幻のように思ってしまいます。その嘘のような幻のような日々は、夢の中の事実でもあります。

事実が記憶に刻まれ、過去の事実として、思い出になります。しかし、現実を隠して、記憶に刻まれることもあります。また、いまだかって、未来の事実が、記憶に刻まれたことはないのですが、あのとき、こうしていればよかったと、事実でない未来が、記憶に刻ますこともあります。
記憶に刻まれたという事実は変わらぬものの、現実の事実かどうかは、過去の思い出ということだけでは、わかりません。その解からないということが、人の夢の、儚さであり、過去の思い出の懐かしさや苦渋に繋がります。
人って、支え合って生きるものですが、夫婦の日常の生活は、意識しなければ、共にしっかりしようなどとは、普段、思わないものです。
 それは、季節が、人の意識に寄り添うがごとく、いつも一緒にあるに似ています。季節の花々の違いのようには、人は咲かないものなのでしょうか。年毎に、年齢を重ねて咲く、今年の花々にたとえて見たいものです。散る前に、もう一度、そして、何度も何度も咲きたかったと、N氏の声が響くようです。
 不思議に老いの姿が似合わないN氏でした。N氏の、それでも、77才という年齢の、一途に自分を生かし切ることにたけたN氏は、人生に定年はないのだと……、心に強く想いがあればこそです。普段とかわらぬままの、N氏の老いとは、熟達した見識と知識の見事さなのかと、推しはかります。
 病を抱え、傷ついた人間を、自然の老木にたとえて……、若木に比して人を圧倒する姿は、本来、人も年をとればとるほど老齢の枯木に似ている姿なのですが、異なって見えるのは、人の思いのなせることなのでしょう。
人が年を重ねた末の、悲哀や年輪を偲ばせた変形した姿・形のたくましさを、もっと見つめてもらいたい。
あっという間の過去は目に見えず、若い人と年を重ねた人も、同じはずなのですが、N氏の77年は確実に違う重みを、昔から言えば、77歳はすでに老齢なのでしょうが、その老いが似つかわしくない老齢のN氏の枯木のくるおしい姿を見て、若さや勢いを見て、なおさらに持つのです。

 通夜の夜、娘さんが、「父の写真をたくさん、棺(ひつぎ)の周りに飾ってよいですか」と、聞いてきました。
 私は「どうぞどうぞ、おいて下さい」と、写真を受けとり、棺の周りに立てかけて見えるようにいたしました。そして一枚一枚、子供の頃の写真、子ども達との写真、孫達との写真をうち解けた家族写真をおきながらも、一枚一枚見ながら、思わず嬉しくなりました。
今まで、N氏とせっして気がついて不思議に思っていたことは、若々しく老いた姿を見ることがなかったことです。繰り返し訪れる季節のなか、言葉を交わすことが少なかったとはいえ、30年以上にわたる付き合いのなか、いつも変わらぬN氏と接していたのですが、棺の中に眠るN氏も、77才とはいえ、老いた姿にはほど遠く見えました。
 子ども達や孫達に、式場に囲まれて、もっと老いた姿を見せたかったなと、思っていたことでしたので、この写真には、驚きました。そして、人って解らないものだと、改めて、感心したのでした。
 このことを、火葬場への車のなかで、娘さん達告げたとき、娘さん達が、答えました。
「そう言えば、私たちに接するとき、もちろん小さかった頃よりずっとですが、Nは、いつも父としての姿がつよく、そう言えば、子供の頃も、今の孫達に接するような、あんな姿は信じられないのです。仕事場に行っても、孫はどうしているか、今、何に興味を持っているのか、勉強はしているか、スポーツはどうだと、孫の話だけです。
 
 いつだったか、私が、銀行で8万円を、置き引きにあったのです。父に電話すると、何だそんなことか。孫が事故にでも、何かあったのかと思った。ビックリさせるな。そんなことは、大したことではないと、そんなことで電話をするなと、言われたんです。父に、言われてみると、そうだなと、納得してしまうんです。マンションを買おうと決断しかねていたとき、父に相談したら、即座に、買えと言われ、私たちは、即決したのです。これからは自分で決めなければならないですね。」

 孫達に囲まれ、ソファーの中心に座って、カメラに向かって、顔を崩すN氏の写真、それは、まさしく老いが咲いたN氏でした。


深濱-fukahama

深濱-fukahama

 仮通夜のため、この男の家に行ったとき時も、この家には、人が、ごった返していた。そして、枕経で、すすり泣く声を聞きながら、顔に白い布をはがして眠っている男を、前にして、この男の、男気をねぎらった。

終わって、男親が、「足が弱って、痛く、情けない。この親不孝が」と、かすれた声で、私に、ささやいた。キッチンのカウンターには、ありとあらゆる酒瓶が林立している。「家族や、友人に飲ませるのが好きで」と、婦人。

 通夜の日には、700人が、焼香の列をつくった。そして、男の最後の花道を飾った。通夜と葬儀の経中に流した涙の、経を終えて振り返る顔々は、うつむきながらの、やるせなく、疲れて、希望のない、うつろな顔々だった。
 翌日、告別の式が済み、棺が引き出されると、ふたが開けられ。200人から300人が列をなし、この男の想いを、花々で飾った。

 そして、ふたが閉じられようとするとき、棺に、深濱の男達が群がり、「ヨシ!これで最後だ、思う存分飲め!」と、怒号の中に、なみなみと酒をそそぐや、式場は、涙があふれ、たちまち、嗚咽にかわった。

 それは、平成16年6月28日、午後12時だった。この男のために喪服を着た人が群れ、冷房の効かなくなった部屋は、熱気に満ちていた。
その暑さの中、挨拶が終わり、人気がひくと、その熱気は急に冷め、家族と私と、男達が10人残された。棺の中には、49才で亡くなった精悍な男の遺体が横たわり、沈黙して、荼毘を待っていた。

 後は、瑞江の火葬場にと、霊柩車まで棺を送るだけだった。隊列を組んで、10人の男達によって運び出された棺が、階段を下りきったところ、それは、むっとする梅雨の晴れ間の蒸し暑さの中でのことだった。

 この男の旅立ちを、待っていたかのように、隊列の両脇に、深濱の半纏を着た若者が、激しく拍子木を打ち出した。
その場が、一変した。

日焼けした神輿総代の荒々しい発声が、「オイ サッ!オイサッ!」と続くや、その隊列を囲む黒い群れが、小さく上下に揺れ始めた。「オイサッ!オイサッ!」と、霊柩車に続くわずかな道のりを、まるで深濱の大神輿のように、ユッサユッサと、男は、担がれて進んだ。
棺が霊柩車にたどり着いたとき、神輿総代の男が、家族や私の目の前で、荒々しく「指せ!」と、叫んだ。棺には、10人だった男達が、群れてふくれあがり、黒い服に真っ青の深濱の半纏におおわれ、高らかに持ち上げられた。男達の手は、棺を叩いて、「指せ!指せ!」と、日差しが照りつける中、それは、いつまでも続くかのようだった。
男達の眼には、涙があふれ、家族は拳を握り しめて天を指し、49才の男の妻も目頭を熱くして、棺を仰いだ。
いつまでも続くことではないとの思いが湧いたき、棺は、静かに霊柩車に納められた。


 この別れの驀引けに、この男にふさわしい深濱の儀式、それは、どんな言葉よりも、どんなお経よりも、この仲間達にもっとも合った別れの方法に思えた。
たとえ声には出さなくても、誰もが、この時、「オイサッ!オイサッ!」「差せ!差せ!」と、叫んでいた。私も……。

 人の別れの道行きが、涙であふれることの、この姿は、特別なこととして、まぶたに残った。それにしても、この時々に、流していた涙は、すべて、棺の中に眠る男に向かって流した、涙でした。ただ一人、涙を流さず、嗚咽することもない男がいたはずだ。棺の中に。この男だけは涙を流さず、静けさにあふれていることが、さらに涙を誘ったと思った。

 哀しみは、過去から、未来からと、私たちに迫ってきます。この迫り来るモノを受けて、涙と嗚咽という形で、哀しみという潤いを、私たちは与えられます。しかし、ユッサ!ユッサ!と揺れる棺を思いだし、この涙だけは、過去や未来から来たものではなく、哀しみや寂しさでもないと思った。あの時の涙は、過去に出逢った涙ではない。

 あの時の、止めどなくあふれる涙を追ってみたいと、次男の嫁が、着物の袖をまくり上げて、拳を差し上げる姿を、棺の向こうに見たことを思いだしていた。「差せ!差せ!」のリズムに、ジーンと、身体が動いていた。
 男も、担ぎ手も、囃(はや)しても含めて、その場に立ち会った者すべてが、過去や未来から来たものではない涙に、自身の全存在を傾けていたのではないかと。そして、存在の総てを傾けたとき、涙が止めどなくあふれたのではないか。その時、自己という形を離れて、この場の時計が止まっていた。
 この男の最後の花道に、それは、一瞬のことだったが、揺れる棺の中で、確かに、男も泣いていた。それは、この男に最もふさわしく、最後の涙に違いない。

…………。
 三年三年ごとに来る深川の本祭りに、旅立った者の想いが重なり、じぶん自身の身の三年、六年、九年と加算されることを思うと、あまりにも四十九才の旅立ちは哀しいものです。
 この家のまわりには、いつも、深濱の想いがつきまとうかのようです。深川の祭の、神輿の誇りは、深濱です。その深濱の神輿総代は、町神輿の総代とは違うのでしょう。深濱の相談役が、この夏も、神輿を盛大に繰り出すと言っていました。
 でも、男の遺骨が納骨されないかぎりは、重い腰を上げることに、息が上がりません。そして、8月1日、男は納骨された。考えてみれば、過去、何十人、何百人、何千人もの深濱の仲間が、旅立っていったことでしょう。その人達の思いを、また、残された家族の思いを込めての、熱い熱い夏の、濱の神輿の繰り出しなのでしょうと考えて見ました。これは、深濱の神輿だからこそ、言えることでもあるのだと……。

 暑かった夏の日が終わり、久しぶりに出逢った深濱の総代。
「男の写真を、花棒にサラシで巻き付けて、14日、15日と、八幡宮まで繰り出しました。そして、私は、半纏の下に、やはり「ヨシ」の形見を偲ばせていたんです。」


死に顔

死に顔

陽岳寺の本尊は、十一面観音菩薩です。いわれは、どこかで書いたので省略したいが、なぜ十一の顔を持つのだろうかと、ふと、お経ちゅうに思った。
お経ちゅうに思うなど不謹慎なことかと思うかも知れないが、よく、本当に、ふと湧いてくることが多いのです。
この十一の顔を持つ本尊の、なぜ十一なのかという問いの裏には、人は様々な顔を持つものだという思いがあったればこその問いでした。そして、顔とは、その顔とは、様々な自分を表現するものであり、顔とは、人と人との関係や縁起をあらわすものであると思ったからです。
「よく私は、頑固である。意地汚い。小心者である。本当は気が小さく弱いものなのです。忘れっぽい。おっちょこちょいです。食いしん坊である。欲が深い。マラソンが好きです。」と、自分を表現する言葉には、必ず、自分以外の関係や縁を指しているといえば、自分の表現は、関係とかつながりを語っていることとしていえるのです。
千手観音の千手を取りさってみれば、後に遺るのは十一面観世音菩薩だとすれば、本来、顔も千有ってもおかしくないはずだと、類推するのです。
この類推は、仏教の知識をなにも探ろうとせず、こう言い切ってしまう大胆さであり、おそらく専門家の方からは叱責を買うことは目に見えているが、そう考えてしまうのです。
こう書いて、なぜ十一とか千というたくさんの顔にこだわるのかといえば、人が一つの顔しか現さないときをふと浮かんだからです。それは、人の死に顔ではないかと。
「安らかな顔、眠るような顔、いい顔をしている。あまりの穏やかな顔に、ふと眼を醒ますのではないかと錯覚しそうな」と、人が一つの顔しか見せないことに、これが死の姿でもあるのだろうと気づいたからです。
そして、ある時、十九歳の女の子のプリクラ帳を拝見する機会がありました。
もちろん、その子のご両親から見せてもらったときのことでした。多分、二百枚以上の三百枚はあったかも知れません、プリクラの自画像収集でした。一回目を通したとき衝撃は、どれも、華やかな、楽しげにして眩しいものでした。しかし、くりかえし見て、この子の残したかったものは、言いたかったものはと考えたくなりました。カメラに向かって笑顔をした顔に強烈なライトが当たり、自分の隣に並ぶ人は変わるものの、目を見開いて、レンズに向かう顔や姿に、楽しかった一瞬の収集に見えたからです。しかも、みな同じ顔だったことに、なぜか、ひっつの顔のイメージが、死に顔を連想させ、なぜ、もっといろいろな顔をしていないのだろうと、十一面の姿を思いだしたのです。
考えてみれば、相手の顔は三百と違うものの、三百の楽しさの表現を一つの顔で現す子といえばよいのかもしれないが、奇妙に見えたのです。この楽しみの顔を、死に顔とはいえないものの、なにかおかしい。
そこに、この子の求めていたものがあるはずだと、三百という機会を、この子は、街角のプリクラ機で証明して、収集したことになる。この子が何故か、不憫に、哀れに、悲しく思えたのです。
三百という機会の巡り会いに、その数以上の、この子の顔が有ったはずです。その顔を見たかったのですが、あまりにも強烈なプリクラに圧倒されてしまいました。

松山鏡(ソクラレストとヤージャニダッタの続き)

松山鏡(ソクラレストとヤージャニダッタの続き)

 《舎衛城(シャエイジョウ)に住むヤージャニダッタは、鏡に写る自分の美貌を楽しんでいたが、ある日、じかに顔を見ようと思ったが見えないので、鏡中の像は悪魔の仕業であると早合点して、怖れて町中を走り回ったという、自己を失った愚かさの故事。その後、変わり果てたヤージャニダッタは、友に話を聞いてもらいました。友人はやさしくさとし、ヤージャニダッタは普段の彼に戻ったのです。》

  鏡に写る自分の顔に、鏡をとおさず自身で直接にふれたいものだと思ったのです。本当の姿という幻想をいだき探し求めようと、もがき遍歴する試みは、人間の追求してやまぬ心の構造を物語っています。
 そこに鏡が登場して、写されているものに、写す自身の心の歪みが写されているものが、物語りとなります。

この故事が、臨済録・示衆(じしゅう)にあります。「なんじ、ただ一個の父母有り、さらに何物を求めることがあるだろう。なんじ自ら振り返ってみなさい。古人云く、演若達多(エンニャダッタ)は頭(こうべ)を失った。求める心がなくなったとき、無事がおとずれる」と。

  「ただ一個の父母」とは、本当の自分のことです。演若達多(エンニャダッタ)は、この話の原型ヤージャニダッタという主人公の漢訳名です。そして、この話が中国から日本に伝わって、昔語り、謡曲、落語として伝わっています。

昔語りの松山鏡(まつやまかがみ) 

  松山鏡は、越後国、松の山という地に、貧しく暮らす、父と母、それに娘三人の物語です。 
  ある時、父が、山や河、難所を幾つもこえなければ行くことができない京都への旅に出ました。一ヶ月がすぎ、やっと自宅に帰ってきたある日の夕方のことでした。
大きな荷物を背負って、旅支度をといた父は、晩になって、大荷物をといて、中から細長い箱を取りだし、約束のお土産を娘に手渡しました。
  それはそれは、かわいらしく、都の匂いのするお人形さんやおもちゃでした。
そして妻には、銅製の鏡を、渡したのでした。二人の喜んだことは申すまでもありませんでしたが、妻にとっては、鏡は手にすることが始めてで、知らなかったのです。
  そんな妻の様子に、夫は、やさしく、「お前、それは鏡といって、都へ行かなければ手に入らないものだよ。ほら、こうして見てごらん、顔が写るから。」といいました。

  そして幾年かは、三人で平和に暮らしていたのですが、、娘が15才になったとき、母が具合を悪くしました。母の病気は重くなり、もう今日明日の命となったときの、その夕方。

  母は娘を、枕元に寄び、やせこけた手で、娘の手を握りながら、「長い間、有り難う。わたしはもう長いことはありません。これは京の土産にお父さんから頂いた、だいじな鏡です。この中にはわたしの魂が込めてあるのだから、いつでもおかあさんの顔を見たくなったら、この鏡をのぞいておくれ。どうか、わたしの代わりになって、おとうさんをだいじにして上げて下さい、たのんだよ。」といって、鏡を渡したのです。
娘は、目にいっぱい涙をためたまま、いつまでも、うつむいていました。

  それから間もなく、おかあさんは、息を引き取ったのでした。あとに残された娘は、悲しい心をおさえて、おとうさんの手助けをして暮らしていたのですが、寂しさがこみ上げてくると、娘はたまらなくなって、「ああ、お母さんに会いたい」と、鏡を出しました。

  するとどうでしょう、鏡の向こうにはお母さんが、にっこりと微笑みかけています。
 その後、お父さんは人にすすめられて、二度めのお母さんをもらいました。
 娘は、今度のお母さんとも、先のお母さんのように、親しく暮らしていました。
 それでも、娘はやはり時々、先のお母さんが恋しくなると、そっと部屋に入って、鏡を出してはのぞき込み、お母さんに向かって、笑いかけていたのでした。

  今度のお母さんは、時々、娘が悲しそうな姿をしていることを気にかけていました。またそんな時、部屋に入り込んでは、いつまでも出てこないことに、心配していました。
 そんなことを繰り返すと、お母さんは、娘が隠し事をしているのではないかと疑って、だんだん娘が憎らしくなりました。

  お母さんは、自分の思いを、お父さんに話しました。お父さんは「私が見届ける」といって、娘の後から部屋に入って行きました。そして娘が一心に鏡の中に見入っている姿を見たのでした。
 娘は、父に驚きながらも、こうしてお母さんにお目にかかっているのだと話しました。
「お母さんは居なくなりましたが、この鏡の中にいらしゃって、いつでも会いたい時には、会えるといって、この鏡をおかあさんが下さった」のだと話したのでした。

  お父さんは、このしおらしい娘の心がかわいそうになりました。すると、その時まで次の部屋で様子を見ていた、今度のお母さんが入って来て、娘の手を固く握りしめながら、「これですっかり分かりました。何という優しい心でしょう」といいながら、涙をこぼしたのです。(講談社学術文庫より)

  謡曲の松山鏡

  この話も、昔話の松山鏡と同じように、母の形見の鏡をのぞいては、そこに写る母の姿を偲んでいる娘の姿があります。

  ある日のことです。母の三回忌の命日、妻の夫が、持仏堂へ向かったのです。すると、そこにいた娘が何かを隠そうとしたのでした。これは、世間の噂のどおり、新しく結婚した今の妻を、娘が呪っているのだと思い、しかるのでした。

  しかし隠していたのは亡き母の娘に託した鏡であり、娘は鏡の中に浮かぶ、母の姿に思いを馳せ泣いていたのだと気がつくのでした。 

  そうした状況の中、持仏堂の中には、地獄から娘を心配する母の霊が現れ、鏡にまつわる説話を語ります。さらに、母を連れ戻そうと地獄から倶生神が現れます。その鏡は、同時に過去の母の娑婆での罪科が写る鏡でもあったのです。倶生神が、鏡を母に見せましたが、そこに写っていたのは菩薩の姿でした。
娘の母を思う心が、倶生神の心をうち、母を連れることなく地獄へ戻っていったという謡曲です。

落語の松山鏡

  越後の国の、松の山村に、百姓の庄助という男がいました。24才の時、父庄左衛門と死別し、妻はもらっていたものの、以降18年間というものの、毎日、両親が眠るお墓に、花と線香を欠かしたことがなかったのです。そのうち、村人から、孝行ものの庄助と噂が立つと、越後の国の領主に知れることになりました。庄助にとっては、貧乏で生前に親孝行ができずにいたことを悔い嘆いてのことだったのでした。

  名主の権右衛門共々、領主のもとに召され、褒美を下されることになったのですが、庄助は褒美は一切いらないから、できるなら父親に会わせて欲しいとひれ伏します。

  そこで、領主は、「いかなる無理難題でもお上の威光をもって、必ず庄助の望みをかなえさす」との約束を案じて、庄助に鏡をみせます。庄助は、鏡に映った父親の姿に大変感激します。その鏡は、朝廷より国の領主の印として預かった、八咫(やた)御鏡(みかがみ)であり、殿様は、「子は親に似たるものぞと亡き人の恋しきときは鏡をぞ見よ」の歌を添えて男に鏡を与えたのでした。

  庄助は、殿様に言われたとおり、誰にも見せず、鏡を納屋の中にしまい、朝には「お父っつぁま、行って参ります」と出かけ、夜は「ただいま帰ってまいりました」とやっております。

  これを妻が勘違いし、「夫の様子がおかしい。納屋になにか、隠しているんじゃないか」と、疑いだしたら切りがありません。ある日、夫が出かけた後、納屋に入り、鏡を見つけてしまったのです。

  妻も、鏡を見るのは初めてなので、鏡に映った姿に、「どうも様子がおかしいと思ったら、こんなところにアマッ子を隠して」と、腹を立て、地団駄ふんで悔しがります。仲睦まじかった夫婦も、庄助が帰宅すると、この夜は大喧嘩です。そこに通りかかったのが、隣町の尼寺の尼さん、二人の話を聞き、一緒に問題の納屋に入りました。納屋にしまわれていた鏡を尼さんが見て、「中の女は、面目ないと思ったか、坊主になって詫びている」。

  今更、鏡を心と言い換えて読むなどとは、不調法というものです。庶民の賢さは、笑いや芸能に……。

真ん中(平成20年4月1日)

真ん中(平成20年4月1日)

 谷川俊太郎質問箱(ほぼ日BOOKS)という本があります。この本は、糸井重里事務所が運営するインターネットサイトの『ほぼ日刊イトイ新聞』が、64問の質問をメールにて受付、谷川俊太郎氏に答えてもらったものです。
 その質問は例えばこんなふうです。
 しょうごろう 36歳の人の質問。
『人間をはじめ、多くの生物って左右対称ですけど。なんででしょう?』
 谷川俊太郎さんは答えました。
『こういう質問には、科学的な答えってのがあると思うんだけど、答を知るとまたその先を、「なんで?どうして?」って訊きたくなるのが、人間なんだよね。
 でも問い続けて最後の究極の答は、多分科学には出せない。で、ぼくの答。
 いまある世界ははるかな昔、左右もない上下もない混沌から生まれてきた、私たち人間の内部には、いまもその混沌が生きてうごめいている。
 だけどそれを解放すると、この世界の秩序があやうくなるから、人間はときどき鏡を見て、あるいはステレオを聴いて、あるいは三次元映像を見て、目も耳も二つずつある左右対称を楽しみ、確認して安心するのです。』

 左右対称を楽しむとは、バランスがとれているという意味でしょうか。それは地球の引力に対してもそうでしょうけれど、目は三角法の測量により長さを測ることにより、耳は、音源の移動に、相対的な位置を知る働きがあるからでしょうか。
 この左右対称は、対象を捕まえる、追いかける、ものを投げる、水の中に泳ぐ、愛し合うためには不可欠なものであるけれど、それを意識したとたんに、左右はばらばらの動きに、自己はコントロ-ルを失うものです。だって、われわれの手や足は、右や左と意識したら、思うように手や足を動かせないからでもあります。
 それよりも、意識して右足を出し、左足を出してと歩むことはスムーズではありませんことから、左右の間にいるものは何ですか?と、問いかけてみたいものです。
 『人間をはじめ、多くの生物って左右対称ですけど。なんででしょう?』の疑問は、生物の左右対称という在り方だけではなく、人の考え方や、見方となってもいます。そして、左右対称の在り方見方は、左右対称を意識しないことに成り立っているように思えます。 たとえば何気なしに行っている行為に、紙を半分に折る場合があります。左右の端を合わせることで、中心が浮かび上がってくるようにです。
 これを人間の場合で考えてみると、上と下、右と左、さらには、好きと嫌い、損や得、順や逆、西と東、始めと終わり、相対的なものを知ることで、人の位置を知る働きがあるといえるでしょう。
 順や逆、始めや終わり、左右や上下、損も得も、つまり相対的な関係は、我々の位置をはかるものです。そして相対的な関係のものには、必ず、真ん中があることが不思議なことです。 
 谷川俊太郎氏は、「いまある世界ははるかな昔、左右もない上下もない混沌から生まれてきた、私たち人間の内部には、いまもその混沌が生きてうごめいている。」と言います。
 仏教が中道を指向する理由も、この辺にあるのかもしれません。
 その混沌の働きとは、左右という世界に生きて、左右にとらわれない働きとすると、どう考えることができるでしょうか。
 谷川俊太郎氏は「確認して安心するのです」ということで、その混沌というものを含めて在るものに迫りません。しかし、混沌というものこそ、人間を人間たらしめるものではないかと考えさせられます。それが真ん中ではないかと。

 その真ん中を知るための試みとして、左右や損得という相対的な関係にあえて踏み込み、
損しても減らないもの、得をしても増えないものを考えてみます。
 もっとも、「そんなの関係ない!」は、すべての繋がりを切るものですが、切ったと思っているのは自分だけで、考えてみれば、かえってその繋がりを浮き上がらせているものだとも思います。真ん中がです。
 でも本当に人間として、価値あるものは、得をしても増えないもの、損をしても減らないものの中にあるのではないかと思います。たとえば、偉くなっても偉くならないもの、稲穂のように。鬼になっても鬼でないもの、鬼の目に涙とかです。
 かって長安の都を目指して旅する僧に「大道、長安に通ず」と言った禅僧がいましたが、大道などはあり得ん、今の一歩が大道ではないかと、右も左も前も後ろに行くも含んで、真ん中自身を語りました。
 損しても減らないものとは、優しさとか、思いやりともいえます。いくら働かせても、働かせても減らないものです。もっともっと山ほどあります。しかし、これを知るには、自分中心としながらも、そこから出てくるものは右か左かという発想では思い浮かばないことでもあります。
 また、得をしても増えないものとは、気づきではないでしょうか。それは、人はもともと自己に欠けているものとして、さらには、思っても見なかった自分に備わっているものに気づくことではないでしょうか。慈愛や慈悲、敬いや、いたわりこそ、誰もが持っている真ん中自身、宝物ではないでしょうか。ただただ、気づくことです。
 そしてさらに、社会にあることわりや、自分にとって見えない道が見えたとき、これが大事ではないでしょうか。ここからは、恵みとか喜びというもので表現できるものです。 あるいは、感謝もよいでしょう。私は、よく混沌の悲しみと言います。それは、もともと持っていたものを相対的世界に生きるために失うことです。失う必要性などあるわけはないのにです。
 こう考えてみると、順や逆、損や得、好きや嫌いという相対的なもののなかに、それを超えるものがたくさんたくさん潜んでいるように思います。
 これを見つけようと、人は、揺れるものかもしれません。
 禅宗の祖師は、「境縁にはよしあしはない。よしあしは心から起こる。心がもし無理に分別しなければ、妄情はどこから起ころうか。暇な時は誰が暇なのか、多忙なときは誰が多忙なのかを考えてごらんなさい。そうすれば、多忙の時にかえって暇な時の道理があり、暇なときにかえって多忙の時の道理があることをきっと信じるでしょう。」と言っています。
 そして、『人間をはじめ、多くの生物って左右対称ですけど。なんででしょう?』から導き出したものは、
 右にも左にも左右されないもの、まして、真ん中にも左右されないもの、
 また、そこに在ることも、無いこともないものが、在るためにです。

百万回いきたネコ(平成21年1月1日)

百万回いきたネコ(平成21年1月1日)

 百万回生きたネコという童話を、読んだことがあるでしょうか。佐野洋子さんが、物語と絵を創った絵本で、講談社から出版されたものです。その内容は……。

 大きくてりっぱなとら猫は、何よりも自分が大好きで、大好きで、だからというのも変なことですが、飼い主に対しては、みなキライでした。何しろ百万回生きたということは、自分が好きなために、百万回死んだということだからです。

 この物語の百万回の生に、とら猫は飼い主から多くのものや経験を与えられました。自分だけが好きだという自覚は、与えられたものの意味を考えることを、させません。このとら猫は、そんな自分を嫌うことはなかったようです。百万回経験してもです。
 とら猫は百万回にわたって、飼い主の悲嘆と涙を見たけれども、飼い主に対しては一回も泣かなかったのです。飼い主の悲嘆と涙に共鳴する、とら猫自身の心の豊かさを見ることはできなかったのです。

 そしてこの物語は、百万一回目にして、始めて野良猫に生まれ変わります。とら猫は喜びました。誰のネコでもない自分のためのネコになったからです。
 多くのメスネコたちが、そんなとら猫と結婚しようと言い寄ります。ところが、ある時、とら猫は自分を無視するシロ猫に恋をしてしまいます。初めてのことでした。自分より好きなものができたということが、このお話のポイントです。

 この好きになるということは、さまざまな与えることを創造するようです。でも、与えることで振り返らせたり、与えた見返りを求めたりでは、それこそ、二元対立の世界におちいる自分を創ってしまいそうです。

 そしてこの物語は、ある日のことです。とら猫は、そのシロ猫のそばに暮らしたいと告げたのでした。そして「いつまでもそばにいました」となります。やがて、子ども達がたくさん授かります。すると、その子ども達も好きになり、りっぱな野良猫として育てて、それぞれの子ども達も、独立して行きます。
 とら猫は、そんな子ども達の巣立ちを見届けながら、シロ猫と共に、満足していたのでした。

  無償の愛の中に生きるとは、与え、与えられることを通りこして、ただそばに生きることの大切さを表現しているようです。
 自己愛から始まって、たどりついて到ったところに、出逢いがありました。出逢いは人を変えますが、その変えられた人は、共に歩むなかで、なかなかその時の思いを保つことは難しいものです。この物語は、出逢いから変化しても、いつまでもそばにいることを考えさせられるものです。
 その出逢いから、結婚に、そして子ども達の誕生と成長、独立、そして二人の老いを通して、一生という変化において、”いつまでもそばにいること”、それが幸せであるというかのようです。

 そして、この物語は、一緒に暮らしはじめた、とら猫とシロ猫に、老いが訪れます。その老いの季節が、シロ猫と、いつまでもいつまでも、生きつづけていたいと思わせます。
 そして、ある日、愛するシロ猫が、とら猫のとなりで、静かに動かなくなっていました。とら猫の悲しみは深く、百万回も泣いたそうです。

 死はその関係をそぎますが、そして、悲嘆や涙がおとずれるのですが、悲嘆や涙を否定するものではなく、その悲嘆や涙のなかに、自己愛から始まった一生が含まれているのだと、気づかせてくれる物語です。そこには、充実して生きるも、稔りもありません。
 百万回生きて、百万一回目にして、一回性の生と死を手に入れたということです。貫かなければ、一回性の生と死は、保たれません。この物語にはシロ猫やとら猫のほかにも、動物や人間が登場いたしますが、みな、それぞれ一回性の生を、生きていました。
 とら猫もシロ猫も、共にそばに生きたということ、そのことで、一回性の生と死を手に入れたということ。逆から見れば、百万回も繰り返しながらも、その幸せは手に入れることの難しいものなのだとの提言かもしれません。
 老いのおとずれの中で、とら猫は、「いっしょに、いつまでも生きていたいと、思いました」が、それは、「いっしょに、いつまでも生きていられない」予感と同時に、そのことの受け容れでもあるのでしょう。
 平成二十年度の漢字は”変”でしたが、変わることを恐れるよりは、むしろ、変わることの連続性こそが、人生であり、変わることの内にあっても、「どんなことがあっても、いっしょに、いつまでもいきたい」が、とら猫の願いです。
 さらに、「いっしょに、いつまでも生きていたい」とは、永遠を彷彿させるものです。

 この物語は、とら猫の涙が涸れたとき、シロ猫のすぐそばで、静かに動かなくなりました。そして、とら猫は、「もう、けっして生きかえりませんでした」、という童話です。

 悲嘆が百万回、涙は枯れるまで、とら猫をおおうのです。百万回の生と死を通してたどり着いた、「そばに生きる」ことの無償の愛は、貫かれていきます。
 無償の愛を、自分を捨てることと理解すれば、とら猫の悲嘆と泣くことは、「そばに居ること」から「いっしょに」を完成することなのでしょうか。死を受け入れると同時に、シロ猫の生も受け容れたことで、すべてが自分となって、無償の愛からの報(むく)われとして、成就されたのだと思えます。
 自己を最後まで捧げて、悲嘆と涙のうちに、静けさとなります。そして、とら猫自身も「生きかえることはありませんでした」と、これは、物語性をもつ人間の考えや思いを否定する言葉です。
 一回性の生とは、かくも、強くて悲しく、過酷で無残でもあるし、美しくもあるし、心を動かす物語です。
(無門関~百丈野狐より、五百生)

夜来る鳥(平成21年1月1日)

夜来る鳥(平成21年1月1日)

「夜来る鳥」、この本は、岩瀬成子(いわせじょうこ)さんが言葉を、そして、味戸ケイコ(あじとけいこ)さんが絵を描き、PHP研究所が1997年に出版したものです。今は、絶版となっています。
 
《 真夜中に、真っ黒な森の中で、イタチのお別れの会が、動物たちによって行われました。
 イタチは重い病気にかかって、ぐったりとしています。
 イタチを取りまいて、タヌキや野ウサギ、野ねずみや鹿たちが坐っています。木々の枝には、フクロウやトビ、鳥たちが見ています。森の奥の、漆黒の闇の中、月明かりが、横たわるイタチだけを照らしています。
 タヌキが、「どこまでも続くと思うと、いきなり消えるもの、なあんだ」と、横たわるイタチに言いました。
 イタチは弱々しい声で、「いのち」と答えました。イタチは、弱々しく燃える自分自身の命の灯を描いていたのだと思います。
 ところが、タヌキは、「いいえ、イタチの足あとです」と、自ら答えました。
 すると回りの動物たちみんなは、手をたたきました。
 次に野ねずみが、「ピカピカ光って美しいもの、なあんだ」とたずねました。
 イタチはようやく「星」と答えました。
 イタチは、漆黒の闇の彼方に広がる、星々の瞬きを見ていたのでしょうか。消えかける命の瞼のスクリーンには、漆黒の彼方にキラキラと輝く星々だけが写っていたのだと思います。
 ところが、野ねずみは、「いいえ、イタチの目です」と答えました。
 動物たちは、尻尾で地面をたたきました。この時、イタチにもはっきりと、森の仲間たちにとって、自分の命がどのようなものだったのか理解できたと思います。感謝したと思います。
 もしかして、イタチと他の動物たちとのかかわりは、そんなに長い時間ではなかったかもしれません。少なかったかもしれません。それでも、精いっぱいに仲間であった。家族であった。共に生きた時間を持つことができた。別れの時間を持つことができた。そして、イタチの命を見つけてくれた、たたえてくれた。
 最後に鹿が、「聞こえなくても、いつまでも聞こえているもの、なあんだ」と、たずねました。
 イタチは目を閉じたままでしたが、かすかに震えたように見えました。
 もうイタチには答える力がなかったのです。答える力がなかったけれど、イタチの喜びを、動物たちもわかっていました。
 鹿は、「イタチの声です」と自ら答えました。
 風が吹いて、栃やブナ、カエデがお別れすると、イタチは、もうピクリともしませんでした。動物たちは、しばらく、イタチを見つめていましたが、やがて、だれからともなく拍手が起こりました。また、風が吹き、林はざわめいたのでした。
 きっと、森の奥の動物たちは、繰り返し繰り返し、仲間たちのお別れをして、今に至っているのだと思います。》

 私たちはどうでしょうか。一人一人、自分の言葉で、イタチの命を語ることができるでしょうか。
 「どこまでも続くと思うと、いきなり消えるもの、なあんだ」
 何と答えるでしょうか。そして私たち自身の答は……。同じように、次の質問には何と答えるでしょうか。
 「ピカピカ光って美しいもの、なあんだ」
 「聞こえなくても、いつまでも聞こえているもの、なあんだ」
 そして、惜しみない時間が私たちに与えられたとしたら、質問は数限りなくあるはずです。
 それを発見するのは、私たちです。
 「見えなくとも、いつまでも見えるもの、なあんだ」
 「いきなり表れて、涙をさそうもの、なあんだ」
 「自分が悲しくなったとき、笑いながら見つめてくれるもの、なあんだ」
 「人が年数を重ねて思い出したとき、変わらないもの、なあんだ」とね。
 「あの時そう思っていたけれど、悲しくなかったけれど、今、自分が変わって、わかるようになって、有り難さが増すもの、なあんだ」

 ところで、この本の題名は、「夜来る鳥」です。鳥がちっとも登場していないと、いぶかるかもしれません。実は、このイタチのお別れ会を目撃しているもの達がいました。鳥と少女です。
 この物語は、森のなかの家で、夜、窓越しに漆黒の闇を見つめている少女に、突然と大きな鳥が訪ねてきて、少女を森の世界に誘うことから物語は始まります。その鳥はフクロウですが、その鳥の背中に乗って、少女は高く舞いあがり、森の奥の一カ所に、木立が開けた小さな広場を見渡せる木の上に舞い降りたちます。

 沈黙というより、静寂のしじまの出来事です。味戸ケイコさんの絵は、静寂のしじまを彷彿とさせます。森の闇の中で、淡々と進む目撃した出来事が、イタチの死を悼む、森の動物たちの儀式でした。
 夜来る鳥は、この出来事を少女に見せようと、遠くの森に誘います。少女の家では、両親も、もしかしたら、兄弟姉妹も一緒に暮らしているかもしれません。どうしてこの少女だけが、選ばれたのだろうかと考えてみると、きっと、この童話を見つめ読み進むもの自身が、この少女なのだと気がつきます。
 すると、この夜来る鳥は、作者の岩瀬成子さんが鳥となって子ども達を背中に乗せ、夜の世界に誘うのでしょうか。もしかしたら、夜の世界とは、子ども達にとっては未知な世界、不可解な世界なのかもしれません。すべてを闇で覆いつくすから。
 子ども達にとって、この世の中のおおかたの出来事が、未知な世界だと思います。それは、相対的な世界であり、変わりゆく世界なのですが、未だはっきりと口をあけているわけではありません。

 この動物たちがイタチに発する問いかけはどうでしょうか。抽象的な概念である、命と死の事実を見つめています。意味するものではなく、作られたものでもなくですが、答は生を語るものであるから不思議です。そこに、死は、生によって語れるものであることを表しているようです。
 走り行くイタチ自身には見ることがない足跡、自分の目のかがやき、聞くことを知らないイタチの鳴き声こそは、森の動物たちにとってイタチそのものです。ナゾナゾのような問いかけに、イタチは、今の自分の命、その自分が目撃する漆黒の彼方の星々の瞬きこそ、イタチにとっての答なのでしょうか。考えてみれば、イタチが、いのちや星と答えること事態、人間の思いで、不釣り合いです。

 言葉で言い表すことのできない死を、どう表現したらよいのか、動物たちに託して、少女の目撃した事実として、私たちに語たります。もともと私たちの心も、動物たちと同じように、同じものを写しています、それこそ、あるがままの姿をです。 
 岩瀬成子さんは、この後、半年をかけて、『月夜の誕生日』を出版いたします。死のテーマから生のテーマへ、岩瀬さんは、「生まれてきたものは必ずいつかは死ぬのですから、すべて生と死の間のドラマですから、これを抜きには考えられませんね。誕生日って生まれたことを確認できる大切な日ですよね」て言います。誕生の物語は、生のテーマで、少女が戸惑いながらも、次々と与えることで、生きる歓びを知る物語です。これも生きることは、与えることだと言うかのようです。改めて、私たちは何を、大切な人たちに与えているでしょうか。

だいじょうぶ、だいじょうぶ(平成21年2月1日)

だいじょうぶ、だいじょうぶ(平成21年2月1日)

 家族という絆のきしみやゆがみ、そして崩壊が言われるようになって久しくなります。孤独死も、都心だけではなく、数多く聞くようになってしまいました。
 人という字が支え合って出来ているように、その人という漢字の前に、わざわざ一(いち)を加えて一人(ひとり)を強調しても、その人の内容は、やはり支え合って生きているものです。独(ひと)りとは、争うことの好きな不快な犬の意味が、語源であると大漢語林にあります。

 『だいじょうぶ、だいじょうぶ』という童話があります。
 いとうひろしさんが、物語と絵を創り、講談社から1995年10月に出版されたものです。その内容は……。
 この物語の主人公は二人、お爺ちゃんと、”ぼく”という名の子供です。そして、”ぼく”が生まれて、ヨチヨチ歩き始めたときからはじまります。
 ”ぼく”とお爺ちゃんは、いつも二人で散歩をしました。
 ”ぼく”がヨチヨチしていたとき、家の近くを、ゆっくりと歩きました。でも、”ぼく”にとっては、大変な冒険だったのです。なぜなら、”ぼく”にとっては、何もかもが初めての出会いで、それこそ道のつながって続いていること、草や花や木々がさまざまな色と形をしていることが不思議でした。
 ポストと看板が何故あるのか、家々の玄関や、大きなコンクリートやレンガの建物の中には何が詰まっているのか。電信柱や電線は何のためかなど、わかるはずがありません。雨や曇り、晴れがあり、空にはまぶしい丸いような輝くものが動きながら、空をいろどるのです。在ることが不思議でした。
 道路には、大きな車や小さな車、自転車に乳母車、さまざまな人が歩いています。アリやミミズ、蝶やミツバチまでもです。
 お爺ちゃんは、古くからの友達のように、アリや蝶に話しかけました。ヨチヨチからトコトコへ、ゆっくりと時間が過ぎるにつれ、”ぼく”の世界はドンドン広がります。まるで、魔法にかかったようにです。
 そしてだんだんと、新しい発見や、楽しい出逢いが増すほど、困ったことや、怖いことがあることを、知るようになりました。
 「おむかいのケンちゃんは、わけもなく僕をぶつし、おすましのクミちゃんは、僕に会うたびに、顔をしかめます。犬はうなって歯をむき出し、自動車はタイヤをきしませて、走ってきます。
 飛行機は空から落ちることも知ったし、あちらにもこちらにも、恐ろしいバイ菌がうようよしてるってことも、知りました。いくら勉強したって、読めそうにない字があふれているし、なんだか、このまま大きくなれそうにないと、思えるときもありました。」
 だけど、そのたびに、お爺ちゃんが助けてくれました。お爺ちゃんは、”ぼく”の手をにぎり、おまじないのように、つぶやきました。
 「だいじょうぶ、だいじょうぶ」、「だいじょうぶ、だいじょうぶ」と。
 ”ぼく”は、そんな体験を通して、「無理して、みんなと仲良くしなくても、いいんだってこと。わざとぶつかってくるような車も、飛行機も、めったにないこと。たいていの病気やけがは、いつか治るもんだってこと。言葉がわからなくとも、心が通じることもあるってこと。この世の中、そんなに悪いことばかりじゃないってこと」を、知ることができました。
 「だいじょうぶ、だいじょうぶ。」
 僕とお爺ちゃんは、なんどもなんども、この言葉を、繰り返しました。
 「ケンちゃんとも、クミちゃんとも、いつのまにか仲良くなりました。犬に食べられたりしませんでした。なんども、ころんでけがもしましたし、なんども、病気になりました。でもそのたびに、すっかりよくなりました。車にひかれることもなかったし、頭に飛行機が落ちてくることもありませんでした。難しい本も、いつか読めるようになると思います。」
 ”ぼく”が、大きくなるにつれ、お爺ちゃんは、白髪がふえ、小さくなり、ずいぶんと年を取ってゆきました。
 この物語のおしまいは、挿絵です。その挿絵の真ん中には、お爺ちゃんがベッドに寝て、しかも点滴までしています。花が飾ってあって、窓があります。窓の向こうに青い空が見えればなおよいのですが……。
 「だいじょうぶ、だいじょうぶ。」
 ”ぼく”は、おじいちゃんの手をにぎり、語りかけます。「だいじょうぶだよ、お爺ちゃん。」

 私の母は、二年半の入院生活でした。たくさんの想い出があります。しかし、最後の二年間、母の言葉を聞くことはありませんでした。
 一週間に二度、母の故郷である八王子の山奥に通ったことは忘れません。そして、できるだけ小学校に通っていた子供たちをつれて行きました。
 子供に、母の食事の介助をさせるためです。「自分で食べられなくとも、だいじょうぶ、だいじょうぶ」とです。
 言葉がなくとも、表情がわからなくとも、寝たきりでも、やせて、しわくちゃになっても、だいじょうぶだいじょうぶ。
 子供が母の口の中に、スプーンにのせた食べ物を入れるとき、「お婆ちゃんア~ン」と言います。そのとき、子供が自分も大きな口を開けることに、可笑しく、どうして一緒になって口を開けてしまうのだろうかと、真剣に考えたことがありました。
 そのとき、何一つ表情を変えずに母もア~ンと口を開け、孫がスプーンを入れます。上あごにスッと食べ物を残してと、その繰り返す行為に、子供の霧中になる姿に、だいじょうぶの中に、いくつもの言葉があることに気づきました。
 それは、おだやかさや優しさであり、信頼や絆だったのですが、今では、懐かしさばかりがおおいます。

 昨年のことでした。お檀家さんでもあり、親しくしている婦人が危篤になりました。娘さんから連絡を受けて、一ヶ月ぐらいが過ぎたとき、「どうしているだろうか」と病院に見舞いに行きました。
 点滴のチューブで飾り、酸素マスクに息を荒げて横たわる婦人の姿に接し、何もしてあげられず、ただ見つめるだけの無力さをおぼえます。それに比して、危篤を繰り返しながらも生きようとする生命の力のたくましさに圧倒されます。娘さんは家族の助けを借りながら一週間、泊まり続けているとうかがいました。
 娘さんの口から、夜、母の姿を見ていて、「お母さん、もういいから、頑張らなくともいいから、有り難う。有り難うね、と思いがおこるのです」と聞かされました。息を引き継ぐというのでしょうか、フランクルの「What is past, will come. けれど生き抜かれた過去は、やってくる。」の言葉を思い出しました。これも、だいじょうぶと同じところから出てきている言葉です。

 しかし、今の時代は、なかなか「だいじょうぶ、だいじょうぶ」とは、言えないことかもしれません。でも、いつの時代にも、どんな時にも、人は、この「だいじょうぶ、だいじょうぶ」の中に、生きているはずだと、強く思います。たとえ、手をつないでなくとも、つながっているものがあるはずだと。
 だいじょうぶの中に生まれて、だいじょうぶの中に去って行く、そこには、しっかりとした絆があるはずです。釈尊の葦の葉のたとえのように、人が寄せ合って生きる、支え合って生きる自覚が、何よりも必要なのだと気づかせてくれます。

 そして、その「だいじょうぶ、だいじょうぶ」の出所を考えたとき、仏心というものを想像します。だいじょうぶとは、臨済録にある「道流、大丈夫児、今日はじめて知る、本来無事なることを」の、本来無事を指すからです。仏心とは、大丈夫にほかなりません。

 陽岳寺では、円覚寺の朝比奈老師が話された、「仏心のなかに生まれ、仏心のなかに生き、仏心のなかに息を引き取る」言葉を、「仏心を尊さにかえ、命や家族、慈しみの心にかえ、智慧や自然・世界にかえて違和感なく思い描くことができるとき、釈尊や無数の祖師たちに出逢うといえます」と、提言しています。
 だいじょうぶのなかに生まれ、だいじょうぶのなかに生き、だいじょうぶのなかに息を引き取る、そんな自覚を持った日本であり続けたいと思うのですが、いかがでしょうか?