目次
輝いている時
夢中(ゆめのなか)
芝浜
江戸っ子
亀住町(平成13年7月1日)
モンセ・ワトキンス~夢のゆくえ~(平成14年1月3日)
新牌開眼
英霊(平成17年5月23日)
目覚め
よわい「齢」
また始めたらよい
三大聖樹(平成19年4月17日)
滅度(平成19年9月18日)
安住の地(平成20年11月15日)
心眼(平成22年3月1日)
とかくこの世は
とかくこの世は
祈り(平成17年11月29日)
品位(平成18年1月20日)
ニャンニーシンズ(平成18年3月1日)
鍵(平成18年4月25日)
チベット(平成20年5月1日)
SYOHOU
諸法
四十四の問い~ミヒャエル・エンデ
先ゆく輩
さき行く輩
祖師年譜
ダルマ
慧可
五洩霊黙和尚
石鞏慧蔵禅師
大珠慧海禅師
西川の黄三郎
馬祖道一禅師(馬大師)
五百生 百丈和尚
大梅山法常(752-839)
麻谷山宝徹禅師(平成12年1月27日)
鎮州普化(ふけ)和尚
寒山・拾得
虹の彼方に
ヘイヴン・ペックの場合―続貧しいけれど、豊かだった―
生前葬
平和を我らにーGIVE PEACE A CHANCE(平成13年10月31日)
ソクラテスとヤージャニダッタ
蓮(平成14年6月2日)
心-KOKORO(平成14年6月25日)
独り暮らし(平成15年4月12日)
老いが、咲いていた!(平成16年7月5日)
深濱-fukahama
死に顔
松山鏡(ソクラレストとヤージャニダッタの続き)
真ん中(平成20年4月1日)
百万回いきたネコ(平成21年1月1日)
夜来る鳥(平成21年1月1日)
だいじょうぶ、だいじょうぶ(平成21年2月1日)
無常への帰依
無常への帰依
希望(平成12年1月2日)
葬式坊主
泥棒
赤とんぼ
老い
……ロス
後姿
寿陵
ついで参り
目標
六道を行く
もの言わぬ羅漢達…揀択をこえて…
宮本武蔵
五合庵断章(平成10年10月17日)
K子さん!(平成12年7月19日)
今は昔
十一面観世音菩薩
尽七日忌(平成19年5月1日)
OSYOU
OSYOU
この手のひらに―禅僧の死―(平成10年11月18日)
戒(平成10年7月25日)
幽霊
みんな仏教徒(平成10年5月27日)
最後の晩餐(平成10年5月23日)
禅問答(平成10年5月31日)
分銅
天国は汝ら自身に宿る(平成10年11月24日)
宗派
穢れ(平成12年8月30日)
お彼岸
仏心
仏心
ご祈祷
施餓鬼会にて(平成17年5月28日)
永遠の命
輪廻する葦(平成10年5月27日)
連鎖する命(平成10年6月2日)
涅槃(平成10年8月12日)
鏡(平成10年7月25日加筆)
流星
TAO(平成11年1月3日)
四大
挨拶
冥福
盂蘭盆
祈り(平成14年7月4日)
仏事歳時記
再び 最後の晩餐
この手のひらにII(平成18年11月18日)
死んで生きる智慧(平成19年3月27日)
五百生(平成19年11月20日)
破地獄偈(平成20年5月24日)
この指止まれ
この指止まれ
家族と家庭(平成11年1月5日)
導師(平成11年2月26日)
家から個人へ、そして家族・友達へI
家から個人へ、そして家族・友達へII
脳死そして臓器移植(平成11年3月2日)
独り決めの生き方
僧堂I
僧堂II
僧堂III
恥じ
僧堂IV
返事
父殺し・母殺し・友だち殺し・子殺し(平成20年1月1日)
その後
その後
ほとけさま(平成17年5月1日)
仏が仏に合掌する
戒名(平成12年3月14日)
無用の用(平成12年2月21日)
世話
大きく育て!(平成11年1月18日)
しもべ(平成10年11月7日)
電話(平成10年8月22日)
意思
寡黙
妄想(平成10年8月2日)
川(平成10年8月22日)
風如(風のように)(平成10年6月18日)
追悼(平成10年5月27日)
受容(平成10年6月18日)
蒸発
臨終(平成10年6月8日)
外道
障子(平成13年3月10日)
日月(にちげつ)
年寄りの出番より
人生とは、闇を照らす一瞬の蛍の光
時の旅人
時計(平成12年1月3日)
星(平成11年10月15日)
溝(平成11年8月2日)
過去心…念の起こる処(平成11年6月19日)
与える時間(平成11年5月24日)
桜(平成12年3月2日)
無常(平成11年4月16日)
川(平成10年9月17日)
有時(時の構造)(平成12年2月5日)
時の旅人(平成12年2月1日)
揺れる木々の葉
この人生の速さはなんだ(平成14年12月26日)
法句経より-時の旅人(平成15年2月4日)
寂然不動 如春在花(寂然不動、春の花に在るが如し) (平成16年9月19日)
ZENGO
自立
橋は流れて(平成10年9月18日)
無事
過去(平成10年5月23日)
たまごっち(平成10年5月23日)
一衆觸礼(いっしゅうそくれい)
六道を輪廻する
二人三脚
生老病死
筋肉番付
ポケモン
俺は、親馬鹿か!
塵も積もれば山となる
生と死と永遠
最終章
一章
二章
三章
四章~(未完)
時間旅行
時間旅行
命の歌-母の短歌
礎-いしずえ-
離魂(平成19年8月25日)
海辺橋
海辺橋
ふるさと(平成18年3月4日)
千の風(平成18年9月16日)
人の道(平成18年9月18日)
あなたは、いつから、一年が始まりますか?(平成20年8月1日)
前住職 二十三回忌にて(平成20年9月1日)
平成21年お施餓鬼会を振り返って(平成21年6月1日)
奥付
奥付

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先ゆく輩

さき行く輩

禅の優れて、馴染むところは、過去の多くの祖師方、それら総ては人間であるということです。
 これって、とても大事なことであるのです。もちろん私には及ぶべくもない優れた方々ですが、皆違った個性を発揮して、実に生き生きとして、歴史を闊歩する姿は、とても人間を感じるのです。
 皆、禅で共通するのです。
 禅は、人を縛らない、その人そのものの個性を、超出させるのです。
 達磨さん、普化和尚、臨済和尚、馬祖和尚、大梅和尚、良寛さん、沢庵禅師、一休さん、道元禅師、そうとは思いませんか?

祖師年譜

祖師年譜
菩提達磨  ?-536(鼻祖)
鑑智僧サン  ?-606(三祖)
神秀   606-706
青原行思 673-741
南陽慧忠 ? -775
西川黄三郎 ?-?
麻谷山宝徹 ?-?
石頭希遷 700-791
石鞏慧蔵 ?-?
西蔵智蔵 735-814
薬山惟儼 744-827
主峰宗密 780-841
黄檗希運 ? -860
徳山宣鑑 782-865
洞山良价 807-869
仰山慧寂 807-883
興化存奨 830-888
塩官斉安 ?-842
曹山本寂 840-901
雪峰義存 822-908
布袋     -916
保福従展  ?-928
帰宗策真  ?-979
智門師寛  ?-?
天台徳韶 891-972
南院慧ギョウ860-930
報慈蔵ショ  ?-?
同安観志 ?-?
大陽警玄 943-1027
石霜楚円 986-
白雲守端 1025-1072
汾陽善昭 947-1024
黄龍祖心 1025-1100
五祖法演   ?-1104
長蘆清了 1088-1151
天堂宗玉 1091-1162
太祖慧可 487-593(二祖)
牛頭法融 594-657 
南嶽懐譲 677-744
馬祖道一 709-788
ホウ居士  ? -808
丹霞天然 739-824
五洩霊黙 748-818
南泉普願 748-834
イ山霊祐 771-853
鎮州普化   -860
径山鑑宗 -866
睦州道蹤 780-877
長慶大安 793-883
石霜慶諸 807-888
趙州従シン 778-897
紫胡利蹤 800-880
雲居道膺 828-902
疎山匡仁 837-909
投子大同 819-914
長慶慧稜 854-932
法眼文益 885-958
帰宗道詮   -985
徳山縁密  ?-?
風穴延沼 896-973
首山省念 926-993
法灯泰欽  ?-974
梁山縁観 ?-?
雲峰文悦 998-1062
雪チョウ重顕 980-
投子義青 1032-1083
大慧宗コウ 1089
大イ慕テツ   ?-1095
真丈克文 1025-1102
圜悟克勤 1063-1135
宏智正覚 1091-1157
雪チョウ智鑑1105-1192
大医道信 580-651(四祖)
大満弘忍 601-674(五祖)
大鑑恵能 638-713(六祖)
永嘉玄覚 675-713
荷沢神会 670-758
大珠慧海 ?-?
百丈懐海 749-814
鳥カ道林  -824
大梅法常 752-839
汾州無業 759-820
五洩霊黙 747-818
雲巌曇晟 780-841
臨済義玄 815-866
夾山善会 805-881
雲巖全ケツ 828-887 
章敬懐惲 757-818
香厳智閑 ?-898
九峰道詮 930-985
玄沙師備   -908
大隋法真 834-919
雲門文エン 864-949
霊樹如敏  ?-920
洞山守初 910-990
香林澄遠 908-987
鏡清道フ  868-937
同安道丕 ?-?
龍牙居遁 835-923
永明延寿 904-975
浮山法遠 991-1067
楊岐方会 992-
黄竜慧南 1002-1069
兜率従悦 1044-1091
芙蓉道楷 1043-1118
丹霞子淳 1064-1117
雪峰慧空 1096-1158
天堂如浄 1162-1227


ダルマ

ダルマ

 その年の正月、目無しの朱のダルマに、墨で片目を入れ祈願したことがある方はご承知のことと思いますが、あの目なしの起き上がりの朱達磨、禅宗では鼻祖(ビソ)といいます。べつに鼻が大きかったからこの名を言うわけではありませんが、独特の顔と姿、色といいギョロッとにらむ目は怖さより、愛きょうさをかもちだし、選挙や入学シーズンのよき庶民の風物詩となっています。禅宗のことを、別名佛心宗ともいいますが、不立文字、教外別伝の禅宗としましては、お釈迦様の正法=佛心を初めて中国の大陸に伝えたお方という意味で、鼻祖と云います。
朝のお勤めでは祖師回向(ソシエコウ)として、初祖菩提達磨圓覺大師大和尚(シスブジダモエンカダイスダイオショウ)と唱え、初祖(シソ)と言います。中国禅宗の基礎を開いたという伝承により、現在の日本の各派臨済宗においてもそう呼ばれるています。 

 達磨は中国でいったい何をしていたのでしょうか。黙々と坐っておりましたそうです。それも壁のように。伝灯録、碧巖録にも武帝との問答等いくつかありますが、ただ中国蒿山少林寺の壁だけが無言に知るということでしょうか。

 ダルマは紀元六世紀のはじめ、飄々として北魏の都洛陽にやって来たそうだ。なんとそのときの年令は百五十才に近かったという。

《洛陽伽藍記》には『西域の沙門ボダイ・ダルマなるものがいた。パルチアからきた外国僧である。はるか辺ぴよりわが中国にきて、永寧寺の塔の承露盤が、金色の太陽をうけて雲のうえにかがやき、屋根の宝鐸が風にゆられて、高らかなひびきを空の彼方に送るのをみると、かれは思わず口に呪文をとなえる。
「これはまったく人間わざでない」。かれはまたみずからつぶやく、「わしは百五十歳のこの歳まで、さまざまの国をわたり歩いて、訪ねぬところはもうないのに、こんな美しい寺が地上にあることを知らなかった。仏の国を訪ね尽くしても、これほどのことはあるまいな」。口に「南無」と唱えて、合掌すること連日であった』とある。

 かって洛陽は、一千四百ちかくの仏教寺院が甍をつらね、なかでも永寧寺は北魏の国力を尽くして建立されたとあるから、さぞや壮大にして華美であったろう。そして九層の塔が焼失したとき、塔は三カ月間燃えつづけ地中の塔心は一年もくすぶり続けたという。達磨を驚かせた絢爛の洛陽も北魏末に灰燼と化したそうだ。
 達磨の語録が新しく発見されたのは、そんなに昔の話ではなく、比較的新しく六十年ぐらいさかのぼる。鈴木大拙の研究による。いま《二入四行論》のなかから達磨の伝記を読んでみる。達磨の伝記のなかで最古のものだ。

 (弟子曇林の序)「法師は西域の南インドの出身で、大バラモン国王の三番目の子であった。それは知性があり、なにを聞いてもすぐに理解した。志しをかねてから大いなる真理の道を極めることにおき、ために俗じんの服をぬぎ、悟りの種としての修行者となった。心を大いなる静けさにひそめ、世の中を見通し、内外の学問をきわめ、その徳は高く世の人を越えた。外国の仏教の衰えを悲しみ、ついにとおく海山を越えて中国は漢中を通り魏の国に至った。素直なこころの人々はみな帰依したが、形にとらわれたりする人は、やがて非難をしはじめた。道育(ドウイク)と恵可(エカ)という者がいた。この二人の修行僧だけは若かったが志しが高く、師に会えることを喜びとして、数年のあいだ仕えた。二人は師の言うことを良くまもり、身につけた。師も弟子たちの誠意に感じ真理の玄奥を伝えた。

このように安心(アンジン)し、
このように発行(ホツギョウ)し、
このように物に順(シタガ)い、
このように方便(ホウベン)する。

これが大いなる心のおちつける方法であり、ひとびとにくれぐれも違えないように。このように安心とは壁のようにしずかに心をおちつけることであり、発行とは四つの実践行であり、物に順うとは世俗の規則を守って世の非難をあびないことであり、方便するとは物や心の束縛をはなれて執着しない努力をいうのである。以上は法師の言うところを略して述べたもので詳細は後文にある」と記されている。
 この伝記は後に続く『二つの立場四つの実践』の序文である、二つの立場とは大いなる真理へいたる方法で、

一つは経典を読破して知識・理解によるいたり方、 もう一つは実践的ないたり方でそれには四つの方法がある。
第一は、苦しみ等にであったとき、この苦悩はみな前世の罪業からのものでありと反省し、前世のうらみや憎しみを契機としてそれらに報いる実践の方法。
第二に、生きとし生けるものはすべて自我がなく、因縁によって左右されているのだからと、縁にまかせる実践の方法。
第三は、ものを求めぬ実践の方法で、世のひとびとはつねに迷っていて、それはあたかも火のついた家のように危なく、肉体がある限りみな苦しい。何人かそのようなところに安住できようか。
第四は、物はあるべくして有るのであり、存在そのものには、物惜しみの心やむさぼりの念がなく本質的に清浄であるという原理を体得して、あるべきように生きる実践。達磨の説いたこれらは、あたかも達磨の生き方であり、それは水の高きところから低いところに流れるに似て、流れの中の岩も石も逆らわず通り抜けて流れ、ときに石を岩を押し流し、長い年月に力強く削る力に比すことができる。

 禅の語録である祖道集にはかなりの達磨に関する述部がある。それによると中国梁(リョウ)の普通八年、三年間をへて海をわたって九月二十一日、広州の港に着く。時の皇帝武帝は達磨の言葉を理解できずに、達磨を去らしめてくやしがる。同年十月十九日、達磨が北魏に入国。
ここに神光という四十を越えた男が、達磨にいくども弟子入りを願うがかなえられず、少林寺にて雪の中、法を求めるため自らの臂(ヒジ)を切り落とし坐っている達磨にその臂をさしだす。神光は、その強い切望によりようやく弟子入りがかなえられ、名を恵可と改める。

恵可は達磨に「どうか師よ私の心をおちつかせてください」と問う。
師は言う「心をもってきなさい。君の心を落ちつかせよう」。
恵可は苦汁にみちて「心を探すに見つかりません」と叫ぶ。
そのとき達磨は言う。「おまえの心をおちつかせたよ」と。恵可は言下に大悟した。

 以来、恵可は達磨に九年間昼夜を離れず仕えたとある。達磨は恵可に
「わしはこの国に来て六回も毒を盛られて殺されかけたが、そのつど毒をつまみ出した。だが今度はもうつまみ出すまい。君という法を伝える男をえたから」と言い、弟子をひきつれ禹門(ウモン)の千聖寺(センショウジ)に行き三日間滞在し、入滅する。

 後魏の第八主孝明帝の太和十九年(五三六)、世寿百五十歳。熊耳山(ユウジサン)に葬られた。三年がたって魏の国使の宋雲(ソウウン)が西域に行った帰り、手に片方の靴をもった達磨に出会い、
「君の国の天子が崩御されたぞ」と告げられたという。宋雲が魏に帰り着いてみると、はたしてその通りなので、後魏第九主孝荘帝に奏して墓を開くと、片方の靴だけがあった。この靴は少林寺に収めて供養したとある。

 ところは日本、大和の片岡、王子町王子の道端にぼろの衣をまとったすごみのある異形の僧らしい男が倒れていた。そして男の体からは何ともいえぬ香りがたちこめ、その香りはあたり一面を包んでいた。その男の姿は汚くみすぼらしかったが、どことなく気品があふれていた。推古天皇二十一年(六一二)十二月一日のことだった。

 聖徳太子はその日、供の者をつれ王子町王子を通られた。ちょうど道端に異形の男が倒れているのを目にして、ただ人と思えなく、太子は心ひかれて名を尋ねられたという。異形の男は口をかたく閉ざし太子を見上げていたという。そこで太子は男に次の歌を詠んだ。
 しなてるや片岡山に飯に飢ゑてふせる旅人あはれおやなし
 異形の男は返歌を献じた。
 いかるがや富の小川の絶えばこそわが大君の御名を忘れめ
 太子は男の衣をぬがせ、太子みずからの上ぎぬを着せ与えて帰宮されたのだが、男はその翌日に死んでしまった。

 太子は家人を差し向け手厚く葬らせた。ところが、棺の中に異形の男の遺体はなく、ただ太子の与えた上ぎぬだけが残っていた。
 それを聞いた里人は、これは達磨大師の化身にちがいないと、棺を埋葬してその上に達磨塚を築き寺を建て、太子自ら刻んだ達磨大師の像を安置したという。達磨寺の伝説である。

 この伝説は、達磨が日本に渡ったという証據であるとともに、事実としたい。なぜなら、現在日本国中いたるところに朱や白の起き上がり達磨が、毎年無数に誕生して私達に親しまれているからだ。

 だがもしかして私達のもっとすぐ近くに、本当にこの異形の男がいるかもしれない。私達が真剣に願い見ようとすれば。友達や知人が困難にあって、颯爽と立ち上がろうとするその姿そのものが、実はダルマだったりして。

慧可

慧可

 禅は中国で、その真価を発揮する。それは遥か西域を越えて達磨が東土に伝えたことを称して、達磨を鼻祖と言う。西天より数えて二十九代目の祖師であり、中国では第一祖となり、その法を慧可が伝えられたことにより、慧可は二祖と呼ばれる。禅の法系はここより始まるといって言いのだろう。

 不思議なことは、東洋の連綿と続くこの純粋性の系列は、家名や伝統、最近では企業の系列と、時代により悪役になったり善役になったりと変化する。変化する限りは、評価の判断は避けるべきだが、禅はその正統性を意義あるものにすることは確かだ。しかしそうとばかりはいえないことも、歴史的に見るとたくさん有ることは確かなのだが。

 正統性とは、今を生きるものの寄る辺に他ならないのではないか、そんな気がする。正統性を大事にしつつ、その正統性を逆に生きた、歴史に現れない祖師たちも大事な人達だ。

 二祖は中国可南省の人で、性は姫氏、父は寂といったらしい。家は貧しかったのか、裕福だったのか知り様もないが、父と母は、子供が欲しくて、神に授かりを願う睦まじい両親だったのだろう。

 後魏光文帝の永宜15年(487年)正月1日夜、光明と共に母は子を授かり、『光光』と命名されたという。15歳で五経を覚え、30歳で竜門の香山寺宝情禅師を師し、禅定を修めたという。その年東京の永和寺で具足戒を受けたという。その後、香山寺で40歳の時、夜更けに神人が現れ、南方に行けとのお告げがあり、『神光』と名を改め、南方で達磨に相見することになる。

 やがて、達磨の真理の印を受ける。そして袈裟を伝えられた。達磨は言う。
 「私が入滅して、200年経つと、この袈裟は伝える必要がない。教えが広がるからだ。道を明かにする人は多いが、道を行ずる人は少ない。理を説く人は多いが、理に通ずる人は少ない」
 以後、慧可大師は法を広めることになる。
 天平年中(559)、14歳ぐらいの一人の居士に会う。
 居士。「私は、心が病んで苦しんでいます。どうか私に懺悔させてください」
 慧可。「君の罪を持ってきなさい」
 居士。「罪を探しても見つかりません」
 慧可。「私は今、君に懺悔させ終わった。君は今、仏・法・僧の三宝に帰依いたしなさい」
 居士。「この世で何が仏であり、何が法であるか」
 慧可。「心が仏であり、心が法である。法と仏には差別がない。君はわかるか」
 居士。「今はじめてわかりました。罪の実体は、内にも外にもありません。私の心がそうであるように、法と仏に何の差もありません」
 慧可はこの居士に、剃髪し具足戒を授け、名を僧サンと付けた。『三祖僧サン』の誕生である。
 慧可が初めて達磨に師事したときは、少林寺の雪降る夜であった。太和10年12月9日とある。自らの肘を切断して、己の覚悟・決心を達磨に提示したとある。受け入れた達磨に、慧可は言う。
 慧可。「心を落ち着かせてください」
 達磨。「心を持ってきなさい」
 慧可。「心を探しても、何処にも見つかりません」
 達磨。「探せても、それがお前の心であろうか。
 慧可。「今初めて知りました。一切諸法はもとより空寂であることを。悟りは遠くにないことを。菩薩は念を動かさないで、根源的な智慧の海に至り、念を動かさないで、涅槃の岸に登られる」(筑摩書房祖堂集より)

 この時、慧可は40歳を過ぎていたという。洛陽で長期にわたり荘子・老子の学問を積んでいたというから、道についてはかなりの知識を持っていたと思われる。その心の中に達磨は無造作に手を突っ込み、蓄え積もった知識を、何の役にも立たぬものとほっぽりだしてみせた。

 この話と酷似するものが、我が国の江戸時代に、盤珪禅師の話のもあります。
 現代人にとって、身辺を徹底して、自己を問うことはあるのだろうか。
 自己破産や恋愛問題、身体的差別、老後の心配、家族関係、人間関係と悩みは古代より多く満ち溢れている。そしてより良い解決は、問題をクリアーすることに躊躇して、しかしながら、その問題の真っ只中にある躊躇する自己を、問題にすることを忘れているような気がするのです。

 当然、罪という言葉は死後に均しくなっていはしないか、誰もが自分を正統化し、間違いは他のせいにする。まして懺悔となるとなおさら遠いもののような気がします。懺悔とは、過去を悔い改める意味を持つが、実は自分自身の存在そのものが罪であり、そのことを懺悔することこそ必要なのではないか。そのために諸経典はあり、宗教がある。現代は、罰を恐れない時代というより、罰そのものの発想が希薄になっているように思えて仕方ない。

 私は判断がつかない。私は困ってしまう。そのことに悩む。しかしその悩む私の実体は、何処にあるのだろうと、問いかけた時、その実体は容易に捕まえることのできない私であったと見極めた時、この問いかけは、問いかける本人をも巻き込んで、不可得と徹した時、法華経に言う諸法実相の世界が現前する。

 もとより実体のない私が、もがく私であるわけなのだが、肝心なことはそのことを問う私こそ、癒す私自身であり、その私も実体のないことを知ることにほかならない。そしてその実体のない私は、六根(眼、耳、鼻、舌、身、意)により、他人と比較し、競う私なのです。

五洩霊黙和尚

五洩霊黙和尚

 浙江省金華県に五洩(せつ)山がある。ここに住山した事により、この名前が付けられたようである。
 馬祖をあぶりだそうとして、いろいろの僧侶を記してきたが、五洩和尚は、出家の縁は馬祖であるが、大悟は違った。こういう和尚もいたのだ。
 五洩和尚の諱は霊黙であり、浙江省紹興県は越州に生まれた。性は宣。
747年生まれの彼は、得度しない前、30歳ぐらいだと思うのだが、都へ官吏の試験を受けに行く途中、現代で言うなら少し年を取り過ぎているようにみえるが、洪州開元寺に立ち寄った。そして、馬祖にあうことになる。

 馬祖「秀才よ。何処に行こうろしているのか」
 五洩「官吏になりたくて、都へ、選官の試験を受けに行きます」
 馬祖「秀才よ、遠いなあ」
 五洩「和尚のところにも、選ぶ場所がありますか」
 馬祖「目の前にして、何を嫌うか」
 五洩「それでは、テストを受けさせてもらえるのですか」
 馬祖「秀才どころか、仏も置かぬ」
 そこで、五洩和尚は、馬祖に親しくまみえることを欲して、出家を乞い願った。
 馬祖「お前の頭を丸めてやるのはよいのだが、大事の成就は別だぞ」
 五洩和尚は、都への道をやめ、入門をゆるされて、具戒したという。

 馬祖が云う「秀才どころか、仏も置かぬ」は、官吏登用試験を受けようとしての旅の途中の若者には、理解できない言葉だろう。
 我が日本の専門道場の禅堂の額にも、『選仏場』と書かれていが、玄関に『脚下照顧』と共に、大地に何不自由なく立っている自己を見よと、道場は己の虚しさを選ぶ場所でもあると馬祖は云う。馬祖の、「遠いなあ」の言葉は、近きの自分を見つめぬ五洩への、嘆きに聞こえる。
 現代においても、選仏と官吏のテストと比較することは、同じ比重を持つと思われるが、金銭的なものを度外視して、比較する若者は、少ないかもしれない。

 選仏は、煩悩、妄想からの主体の確立を主とし、その主であることからも自由である、絶対自由の無碍道人の顕現であることから、秀才どころか、仏も置かぬは、徹底した自己の照顧が求められる。
 平成11年11月6日、禅を聞く講演会で、松原泰道師は「禅宗は、面白いところから、有り難いところへ行かなくてはいけない」と、お話していました。師のお話された通り、禅の問答は、面白く痛快に感じられるのですが、理解できたからと、それで終わっては中途半端の半病人になってしまいます。やはり、最後は有り難いところがこの上ないように思えます。
 さてある日のことです。大勢の修行僧達と共に、開元寺の西の塀の外に出たときです。突然、野鴨が飛び立ちました。

 馬祖「お前は、何者か!」
 政上座「野鴨」
 馬祖「何処に行ったか」
 政上座「飛んで過ぎ去りました」
馬祖はすかさず、政上座の耳をとって、引っ張ったものだから、政上座は、唸り声を発した。
 馬祖「まだ此処に居るではないか。どこに飛び立ったと言うのだ」
政上座は、ハッと大悟した。五洩和尚もその経緯を見つめていたが、彼は未だ、機が熟さなかった。

 五洩和尚「私は官吏の目的を捨てて、大師について出家したのですけれど、今日の日まで、何もつかめません。今、政上座の次第を見て、どうぞ慈悲を持って私に教えてください」
 馬祖「出家するならば老僧である私でもよいが、悟るならば、師は別人が、貴方には善いようだ。無駄に年を経てもいかん」
 五洩和尚「左様であるなら、正師をどうぞ、お教えください」
 馬祖「ここから、700里行ったところに、一人の禅師が居る。南岳の石頭と申す。お前がそこに行ったら、かならず善いことがあるだろう」
五洩和尚は、馬祖のもとを辞して、石頭に至って、言った。
 五洩和尚「一言でもかなう事があれば、とどまります。もしかなわなければ、去ります」
そこで、五洩和尚は、靴を履いたまま、座具を手にもち、法堂に入った。しきたりの通りの礼拝を済ませて、石頭和尚の言葉を待って、側に立った。
 石頭「何処から来た」
 五洩和尚「江西よりまいりました」と、石頭の問いの真意を汲み取れずに、地名で、答えた。
 石頭「受業は何処でしたのか」
五洩和尚は、真意を聞き取れず、だまって翻り、立ち去って、門を出ようとした、その時だった。石頭が「こらっ」と、背後から五洩和尚に、怒鳴りつけた。片足を門の外に、片足を内に置く五洩和尚は、その姿勢で振り向くと、すかさず、石頭は拳を天に突き刺して、言った。
 石頭「生まれてから死に至るまで、ただこの一人が居るだけなのに、さらに頭を振り向けて、何になるというのだ」
その言葉を聞くと、五洩和尚は面目を一新して、大悟した。その後数年石頭和尚の側に仕え、人は五洩和尚と呼んだ。

 だいぶ脚色して書いてしまったが、景徳伝灯録には、20年、石頭に師事したとあるが、下の年譜(祖堂集)と合わない。どちらが本当か私には知る由がないが、伝灯録によると、「一言でもかなう事があれば、とどまります。もしかなわなければ、去ります」の五洩の問いに対して、石頭は黙って、坐すとあり、この黙と大悟の黙=省を量る。

 しかし、我々は、石頭の大音声の言葉と、自らを提示して見せた態度に、臨場感あふれるドラマを素直に感服したい。初対面の男に、大声で叫ぶ理由は、五洩和尚の殻から今飛び出さんとする面目を認めてのことだと思う。
 これより先、曹洞宗を開創する曹山、雲居禅師を世に出す、洞山良价禅師(807-869)が五洩和尚を師として、剃髪したことを思えば、彼の功績は大きい。そして、洞山も五洩、南泉、雲嵓と行脚することをおもえば、五洩和尚に似る。

 五洩和尚は、38歳で天台山に入り、白砂道場、東道場に住し、東白山に遊んだとある。そのとき神異を現じたとある。後世の人の捕遺である。浙江省浦浦県の移り、やがて五洩山に住した。元和13年(818)3月23日示寂。72歳であったという。

石鞏慧蔵禅師

石鞏慧蔵(せききょうえぞう)禅師

 かって、玉ねぎの核には何があるのだろうかと、涙を流しながら1枚1枚皮を剥いて、たどり着いた所は、何もなかったことの記憶がある。最後の一枚をむしりとった時の驚きの姿を、今思い出すと、あの時、何を掴んだのだろうか。人間の探究心とは、面白いものだと思う。
 よく題材にしやすいのは、住む環境によって肌の色が変化するカメレオンの本当の色は、いったい何色なのだろうかという問いだろう。本当の色を求めて、様々な環境のもとに置いてみたところ、カメレオンは死んでしまった。死んだカメレオンのその色を本当の色だとし、正しい色だと主張することは、誰でも異論があることだと思う。

 コインの裏表を占う場合、投げる前の真実は、「表か、表でない」ことは本当のことです。
 この答えは人を馬鹿にした答えですが、的を得た答えでもあると思うのです。裏か表かの確率は50%ですが、「本当の確率が50%と言い換えてみれば」、本当のものとは結果として、表か裏かは、常に一つのはずですから、真実から見れば50%は何の意味を持ちませんはずです。それでは、表と予測して、裏が出れば、それは嘘になるのか。予測という言葉は、常に外れることを含んでの言葉ですので、厳密には嘘を含んでいるわけです。ですが、嘘になるためには、結果が外れなければ嘘になりませんので、結果の出ない予測は常に本当ということにもなるのではないかと思うのです。よく予知・予言めいたことが話題になりますが、どんないい加減な予知や予言もこの意味からは真実を含んでいると思われますが、いかがでしょうか?ただし、嘘を含んでのことですが。
 本当のもの、真実である言葉の響きは、かって一人の若者を狂気に狂わしたことがありました。

 『悠々たる哉(かな)天壌(てんじょう)、遼々たる哉古今、五尺の小躯を似て此大(このだい)をはからむとす。ホレーシュの哲学、竟(つい)に何等のオーソリチーを値するものぞ。万有の真相は唯一言にして悉(つく)す曰く「不可解」。我この恨(うらみ)を懐(いだ)いて煩悶(はんもん)終(つい)に死を決するに至る。既に巌頭(がんとう)に立つに及んで胸中何等の不安あるなし。初めて知る大(おおい)なる悲観は大なる楽観に一致するを』

 藤村操の『巌頭の感』の全文である。1903年5月22日、旧制高校の彼は、華厳の滝に飛び降り自殺した。当時のことは知る由もないが、この事件が起きて、彼の下宿は『悲鳴感』として同窓生達が集い、共に彼の死を、万有の真相を語り、自らを責めたと言う。
 私はホレーショの哲学も知らないし、恨みを懐いて煩悶するその内容も知らないが、『万有の真相は唯一言にして悉す曰く「不可解」』で、何故に華厳の滝が出てくるのだろうかと不思議に思う。また、「大いなる悲観は、大いなる楽観に一致する」のくだりは、悲観を突き詰めたもののみが持つ悲壮感であり、楽観と悲壮感の心は、ともに土壌が同じもののような気がする。

 自分を卑下したわけではなく、万有の真相も、自分自身も不可解の存在であると、そのことに気づくことは大切なことであると思うのだが。
 馬祖にこんな話がある。
 石鞏慧蔵(せききょうえぞう)禅師の話である。撫州(江西省臨川県)の石鞏山に住み狩猟の生活をしていたことより、石鞏という道号が付いているが、慧蔵が諱(いみな)である。馬祖との出会いは、天宝元年(742)頃、建陽の仏跡嶺に住していて、その後、撫州の西裡山にやって来てのことだ。
 その頃、慧蔵は常に弓矢を携えていて、山に分け入っては鹿を追い求めることを生業としていた。
今日も鹿を追って石鞏山の中を走っていると、たまたま馬祖の前を通り過ぎようとした。馬祖は慧蔵に向かった。

慧蔵、「和尚。鹿が通り過ぎなかったか」
馬祖、「おまえは何者だ」
慧蔵、「猟師だ」
馬祖、「おまえは弓矢が上手か」
慧蔵、「ああっ、うまいよ」
馬祖、「おまえは、一矢で何頭を射抜くか」
慧蔵、「一矢で一頭だよ」
馬祖、「上手くないな」
慧蔵、「和尚は上手いのか」
馬祖、「ああっ、上手いよ」
慧蔵、「和尚は一矢で何頭を射抜くか」
馬祖、「一矢で何頭も仕留めるぞ」
慧蔵、「皆、命である、何で何頭も仕留めることをするのか」
馬祖、「お前は既にそのことを知っているのならば、何故に自分自身を仕留めないのだ」
慧蔵、「俺が俺自身を仕留めるに、俺は俺自身を、手の下しようもないわい」
馬祖、「こやつ、今までの無明煩悩、今まさに、吹っ切れたわい」
慧蔵はすぐに気がつき、弓矢を捨てて、刀で自分の髪を切り、馬祖を師として出家してしまった。
 慧蔵が言う、「即ち手の下す処無し」は「不可解」に通じる。
後、慧蔵は常に弓矢を携えて、機に臨んで「箭(や)を看よ」と接したとある。
そんな消息が趙州録の中にある。

 『「石鞏慧蔵禅師は30年間一本の弓と2本の矢で、半人前の聖人射ただけであったといいます。今日は、どうか私を完璧に仕留めてください」
 趙州は問うた僧の自信を無視して、立ち上がって行ってしまった』。

 慧蔵は生涯、弟子を持たずに、山野に暮らしたと思うと、慧蔵に似つかわしい生涯だったろう。命の尊さを知りながらも、その命を奪うことを生業としていた慧蔵の、矢を番えて弓を張ってたたずむ姿を想像すると、胸を開いて「さあ、射よ」と言える人物がどれほどいるだろうかと思えてくる。

 馬祖に会う以前、慧蔵は僧侶が好きでなかったと書いてある。狩猟を生業としている慧蔵ゆえか、そのことを思うと、矢を射ることの尊さが光る。まして、この時代貧しい猟師にとってたくさんの獣たちを仕留めることは、自らの生活の安泰、ひいては幸福と考えていない、慧蔵の慧眼に驚かせる。そんな慧蔵の好きでなかった僧侶を志そうとは、馬祖とはどんな人物だったのだろうか、窺い知りたいと思うではないか。慧蔵の真剣さが伝わってくる。

 慧蔵にとって、手の下す処もなく、不可解なるそのものこそ、日常の働きの源泉であることとを思えば、この矢は全身の慧蔵であり、放たれた矢が貫いた私も、”不可解”そのものであると思う。いや、その不可解すら突き抜けることを、慧蔵は願っていると思うのです。でなければ、こうして語録に残される意味はないからです。

大珠慧海禅師

大珠慧海(だいしゅえかい)禅師

 諱は慧海、福建省の人。姓は朱氏。越州(淅江省紹興県)の大雲寺の道智和尚のもとで出家、得度したという。大雲寺は戴初元年(690)則天武后の勅願によって全国各州に建てられた寺で、大雲経にちなんで付けられた名であると言う。

 大珠は、馬祖について六年間修行したが、道智和尚が年を取って体が弱くなったので、大雲寺に帰って、この寺で一生を過ごしたらしい。

 『頓悟入道要門論』一巻を撰した。平野宗浄師によれば、「著者は、馬祖下の大珠慧海とされているが、その論法からすれば荷沢神会の影響が強く、また『無心』という語の用法からみれば、牛頭禅の影響も考えられ、その成立が神会時代かと疑われもする」と書いていました。確かに馬祖は、語録の中で『無心』という言葉は一度も使わないが、雑貨鋪といわれたくらいである、様々な面を対する人によって見ることができる。

 大珠は江西に至って、馬祖に会う。
 馬祖、「何処からきた」
 大珠、「越州大雲寺よりやってまいりました」
 馬祖、「何を求めている」
 大珠、「仏法を求めてきた」
 馬祖、「自分自身の宝を省みず、家をほったらかしてあくせくして、どうしようとするのか?私の所にはそんな者あるわけはない。どういう仏法を求めようとするのか」
 大珠は礼拝して更に聞いた。「何が私の、宝でしょうか?」
 馬祖、「今、私に問うもの、それこそ貴方の宝ではないか!総ては備わって、欠けているものは何もなく、自由に使いこなせるのに、その他に何を外に求めようと言うのか」

 今まで自分自身に付き纏っていたモヤモヤが吹っ飛び、知覚によらないで、おのれの本心を知ることは、ことの真理が大珠を貫いたことでもあり、一辺に諒解した大珠は高らかに喜び、愉快でしょうがなかった。馬祖に感謝し、その後六年間馬祖に師事した。
 やがて、受業の師が年老いたことを知った大珠は、急いで大雲寺に帰り、師を介護した。その後、姿を隠し、ひそむかのように愚かさを養った。その間『頓悟要門』一巻を書き上げた。
 ある時、法系では従兄弟にあたる玄晏が、その『頓悟要門』を持ち出し、江西の馬祖にお目にかけた。馬祖はこれを読み終わると、
 「越州には大きな真珠がある。円く大きく輝いて、自在にして、さえぎられるところがない」
 それを聞いた僧の中に、大珠の姓を朱と知っているものがいた。それぞれが誓い合って、越州の大雲寺を目指してきて、入門したという。
 この時より、大珠和尚と呼ぶようになったと言う。
 大雲寺に住持してより、様々な説法が記録に残されている。後年の黄檗の『伝心法要』に似て、知的な問答に満ち溢れて、理論的な問答は非常に解り易く、どうしてあまり評価されないのか不思議でしょうがない。どちらかと言うと、親の子どもに教えるに似て、親切で学者肌の人のように見受けられる。

 馬祖の”即心即仏”の問答を、大珠が扱った話です。
 他に大雲寺の寺男が質問した。「心がそのまま仏だと言いますが、いったい自分のどの心が仏なんでしょうか?」
 大珠、「仏でないと疑っている心を示してみよ」
 寺男、言葉が出ない。
 大珠、「了解すればあらゆるものが、世界が仏であり、心である。悟らなければ永久に離れたままだ」
 大珠、「仏のはたらきをするのが仏性であり、賊のはたらきをするのが賊性であり、衆生のはたらきをするものが衆生性である。性に姿形はない。その働きに応じて名を設けるだけである、経にも言っている『すべての尊敬すべきすぐれた人々は、涅槃の悟りを持ちながら、しかも差別の世界にいる』と」
 ”即心即仏”を、大珠は細かく説明をしてくれる。大梅法常禅師と同じく大珠も”即心即仏”で生涯ひたすらに通した人でもある。
 大珠、「明日があることを信じるか」
 僧、「信じます」
 大珠、「明日をここに持ってきてみよ」
 僧、「明日は有るのですが、今は持ってくることはできません」
 大珠、「明日はつかみとることは出来ないけれども、これは明日がないわけではない。目が見えない人は太陽を見ることが出来ないが、太陽がないわけではない。今日が明日をつかみとることが出来ないのと同じに」
 大雲寺で後年、馬祖との思い出を語る場面がある。

 「”江西和尚の貴方の心には一切の宝が備わっていて、もともと自由自在ではないか。外に求むることをやめよ”と聞かされてより、私はすぐさま楽になり、自己に随う宝をひたすら受用している。まったく楽しい。私の心や法の、何一つ取るべきなく、何一つ捨てるべきものなく、何一つ生滅の姿を見ず、何一つ去ったり来たりする姿を見ず、あらゆる世界に何一つ自己の宝でないものはない。くわしくおのれの心を観察しなさい。あらゆるものは自ずから現れて、疑うべきものはない。思い煩うな。探し求めるな。華厳経の”総てのものは生ぜず、総てのものは滅せず”と言うが如く、このように解ったならば、あらゆる仏が現れるだろう」

 語録の中で馬祖を語る言葉は数少ないが、大珠の言葉を知ることによって、馬祖の一面をまた知ることが出来る。馬祖の語録には、こういった語り口はほとんどないのだが、同年代以前にある語録にはかなり多い。逆にこのことは馬祖のいかに優れた禅者かを知ることが出来る。
 大珠の語録には、神会の語録や経文(維摩経・金剛経・涅槃経・楞伽経・華厳経・起信論・法華経)が随所に出てきて当時の時代や禅の姿が伝わってくる。また人物では下巻に、律者・行者(あんじゃ)・学徒・法師・大徳・俗人・座主・宿徳(高徳の僧侶)と多くの当時代の知識人が登場することも面白い。

 大珠の言葉の光るところは、「畢竟空の中において、湧き上がるように大慈悲を建立するもの、それが真の智慧あるものの姿だ」という言葉だ。
 ”維摩経”の「空無を観ずれど、しかも而も大悲を捨てず」という文面を思い出してみれば、『大悲心』こそ、人にとって大切なかけがえのないものであると言う大珠の言葉は、跡に連なる我々の忘れてはならない言葉です。

 大珠の問答に理解できずに立ち去る人に、大珠慧海和尚は話しかける。
 「立ち去ってゆくもの、それが貴方の道ですぞ!」

西川の黄三郎

西川の黄三郎

 『西川に黄三郎という、年寄りがいた。
二人の息子を、馬祖にもとで、出家させた。息子たちは、一年が経つと、郷里に帰ってきた。その姿を見て、二人が生き仏のように思えて、礼拝して、言った。

 「古人道(い)えり、我を生む者は父母、我を成す者は朋友」と。そして、
 「これなんじら二人の子の僧は、朋友なり。私を取り持たせてくれ」と。子供たちは、
 「お父さんは年をとっているとは言え、もしその志さえあれば、何の難しいことはありません」と、云った。お父さんは歓喜して、早速、俗人の姿で、二人の僧と共に、馬祖ののもとへと参じた。
 馬祖に、このことを話すと、馬祖はすぐさま、法堂に上がった。
 黄三郎は、馬祖の前に進んだ。
 馬祖「これ!西川黄三郎!お前がそうか?」
 黄三郎「恐れ入ります」
 馬祖「西川より此処に至って、黄三郎は、今、西川にいるのか?洪州にいるのか?」
 黄三郎「家に二主なく、国に二王なし」
 馬祖「年は、幾つだ?」
 黄三郎「85歳になります」
 馬祖「そうだろうが、何の年齢を数える」
 黄三郎「もし、貴方様にお会いできなかったら、虚しく一生を過ごすことだったでしょう。大師にお会いしてからは、刀で空を鋭く断ち切るようです」
 馬祖「もしさようならば、いたる所、ありのままだ」』

 西川(せいせん)の黄三郎という名前は妙に、呼び安い名前であるが、西川とは四川省の地を指すらしい。その他のことは一切不明の人物である。
 列記とした馬祖の弟子であるが、85歳になって馬祖に投じたというから、余程の気力と体力の持ち主だったのだろう。変り種なのは、息子二人を、自分より先に馬祖の門下生にして、その成長を確かめてから、息子達を先達として、入門を果たしたことだ。

 それにしても、よく考えてみれば、子供があるということは、奥さんがいたことになり、子供も二人より他にいたかもしれない。一家を養っていたことは、確かなことであると思える。農夫をしていたのか、漁師をしていたのか、あるいは牧童等考えられる。どんな家族に支えられながら、この時代を生きていたのか、85年の年月を考えると、はてしない年齢だということがわかる。おそらく、その年齢は自分の老い先短い時間を、十分覚悟してのことだと思う。

 馬祖と黄三郎との何がしかの繋がり、あるいは評判等の条件がなければ、息子達を馬祖に、差し出すことはなかっただろう。馬祖に師事するという決心は、息子達の姿、言葉、佇まいを信じて、故郷を去って、始めからやり直すという気持ちの吹っ切れを起こさなければ、旅に発つことはことは、できないのではないか。自分の手を見たとき、その皺だらけの手に、年輪を感じ、旅立ちてよりの、道を考えれば、たどり着くことに不安はなかったであろうか?
 その当時の若者の目指す夢は、都の官吏であったことは間違いがない。当時、禅を極めようとするか、乃至、事の本質に迫ろうとする雰囲気が、社会にあったのだろうか?

 出家するということは、家を捨てるという意味であり、家は親、兄弟、親戚、知人を含んでのことだ。仏教界自身も世俗的な社会の反映である。唐代の禅界とは、まったく異質な世界であり、かけ離れていることは確かだ。しかしながら、我々が生きて護持しているからこそ、昔も保たれているとも言える。

 寺に住むようになって、私は、寺の在り方をいつも考えている。今のままで良いのだろうか?寺の外からの眼は、鋭い視線を持っている。また要望は、もはやそう多くないように思える。その責任は私たちにもある。神社仏閣の、歴史的価値は大きな意義を持っているだろう。しかし、中身は、今……。私達は、どう仏道を、生きているだろうか。必要にされているのだろうか。それはおのれ自身の足元を、つぶさに見つめることより始めることしかないのだろう。

 私の住職としての使命は一つは、次の世代への寺の存続である。伽藍の伝承ばかり考えないで、内容の伝承を、次の世代に気づいて欲しいものだ。そうでなければ、家の考え方そのものとして二重に映るだけになってしまう。現代の出家は、過去の僧侶と比べると、変貌している。深く反省する事も多いが、違った側面を持つことが、複雑にさせる。
 それならば、今の姿を、繕いながら、何とか容(かたち)あるものにと思う。
 仏教は、今の時代を貫く指針と価値観を、充分に持っている。否、仏教こそ、時代が変っても、普遍を表現している宗教は無いと、固く信じているのだ。

 早く急がなければ、名を代えた続くはずもない永遠を求めて、彷徨っている私とも、サラバだ。
 黄三郎から見た、若者の僧の姿は、生き仏のように、清潔感にあふれ、神々しく、黄三郎は感動した。さらに、自分もそのような姿に、憧れたのだろうか。否、そうではなくて、85年という年月が、無駄ではなくて、価値ある無駄と実感したのかもしれない。子供たちに礼拝するということは、心から素直さを表現した証明なのだと思う。
 85歳の年齢を考えると、黄三郎の心は、なんと若々しいことか。
馬祖の、「西川より此処に至って、黄三郎は、今、西川にいるのか?洪州にいるのか?」の問いは、
85年間の西川と今の洪州を量る問いだ。

それに対し、黄三郎の答えは、「家に二主なく、国に二王なし」と、『礼記』よりの引用の言葉だ。「民に君臣の別あるを示すなり』と結ぶその語は、馬祖への帰依を示すと同時に、西川も洪州も通り越した、黄三郎それ自身の産声に、思える。
「刀で、空を鋭く断ち切る」ことこそ、存在そのものを断ち切ることであり、もはや、虚空もなく刀もない、黄三郎の、すがすがしい心境なのだろう。それでこそ、馬祖は、黄三郎を認めたのだ。
 自分自身を、黄三郎に置き換えてみると、虚空を切ることこそ、大切なことがわかる。

馬祖道一禅師(馬大師)

馬祖道一禅師(馬大師)

南宗禅は六祖恵能大師より神会(荷沢宗)―法如―南印―道円―宗密と、南岳―馬祖(洪州宗)―百丈―黄檗―臨済に分けられた。南宗禅の神会を主流とすることは、宗密の出現によるところが多いが、後世になってみれば、洪州宗系の禅が残ったことを考えれば、南宗禅本流の北宗禅を退けた経緯を見れば、退けることはいずれ退けられる運命に当たるということになり、歴史の不可思議な歩みを感じます。

 馬祖を語るには、その前に達磨から二祖慧可、三祖僧サン、四祖道信、五祖弘忍、六祖恵能、南嶽懐譲(677―744)と馬祖に続く系譜を知らなければ、馬祖の世に出現した意義と、臨済から現代の臨済宗へと連綿と続く歴史の流れがわからない。時には臨済から流れをさかのぼることも必要であると同時に、多くの馬祖の弟子達にスポットを当てることによって、馬祖がいかにとてつもなく大きな存在であったかがわかると思うのです。

 雑貨鋪と言われるくらい、あらゆる側面をちらつかせる馬祖、そして、そのそれぞれの側面を、弟子達が奪い取り、そして更に磨きをかけたことを思えば、弟子達を語ることによって、馬祖を語ることができると思います。また、この時代に馬祖と並び南嶽に石頭希遷がいたことも大切なことです。700里隔てた所に、石頭がいたことにより、馬祖も石頭もともに違いを表明できたことになります。
 馬祖の弟子や法友達を挙げてみれば、麻谷宝徹、趙州、百丈、大梅山法常、西堂智蔵、西川の黄三郎、丹霞天然、五洩和尚、汾州無業、亮座主、ホウ居士、大珠慧海、石鞏慧蔵、塩官斉安達です。

 そして時代を経て今の私に連なる祖師達は、
百丈懐海、黄檗希運、臨済義玄、興化存奨、南院慧ギョウ、風穴延沼、首山省念、汾陽善昭、石霜楚円、揚岐方会、白雲守端、五祖法演、円悟克勤、虎丘紹隆、応庵曇華、蜜庵咸傑、松源崇岳、運庵普巌、虚堂智愚、南浦紹明、宗峰妙超、関山慧玄、授翁宗弼、無因宗因、日峰宗舜、義天玄承、雪江宗深、悟渓宗頓、獨秀乾才、仁岫宗寿、快川紹喜、状元祖光、智門玄祚、大愚宗築、西江宗蘂、隠嶺梵阿、江巌祖吸、文室祖郁、錐翁恵勤、大室祖昌、華山要印、方充祖丈、乾梁祖廉、屠龍宗牙、照道恵静、雪傳文可、モウ田恵蒭、圓瑞宗玖、雪川惟整、清川恵廉、元峰エイ一、雅山宗直です。
総勢52名というすごい数の祖師たちです。そして彼らの法友達を数えれば、更に増えます。また臨済宗の僧侶は必ず専門道場で修行をしなければ、僧侶としての資質を備えることが出来ないわけですから、その法系は別にまた有ることを思えば、途方もない数字になることになります。

 馬祖は四川省什方県の人であり、故郷の羅漢寺で出家したとあります。西暦709年から788年の生涯とありますので享年79歳で、日本では平城京から長岡京遷都の間ぐらいの時代に当たります。古事記や日本書紀や万葉集が作られ、大仏開眼、唐招提寺建立、延暦寺建立と国家と仏教の関係がより密接になり始まる頃です。

712年から756年が唐の玄宗皇帝の治世ですから、唐が最も栄えた頃と言っても良いでしょう。
 容貌は奇異な感じがしたとあり、牛のように歩き、目は虎の目のようだったとあります。舌を出せば鼻に届き、足の裏には二輪文様があったといいます。不思議なことに、この容貌から雑貨鋪・よろず屋というイメージはどうしても湧いてきません。雑貨鋪というイメージには、あらゆる変化に対応する内面性を持つことに思えるからです。牛のようにのっそりと歩き、虎の目で人を射抜き、萎縮させるイメージが強く、まして容貌が奇異な感じで、背は高くとなると、人は近づきがたいのが正直なところです。しかし時代と場所が違うことを考えれば、納得はいかないけれども、やはり違うのかもしれない。人となりは慈悲深く、首には三つのくびれがあったといいます。

 容貌の怪異さは後世に、伝奇的な神聖犯さざる地位に祭り上げるものです。しかしながら、当時を想像してみれば、人が集まるということは、山賊の集団ではないのですから、滋味に満ちた多くの人を受け入れる、厳しさと寛容さを持っていたと思うのです。実際は何処にもいる普通の親父だったのかもしれない。そんな親父が、ひなびた水田を水牛と共に耕作している姿を描いてみれば、のどかな時と安らぎの情景が思い浮かぶ。しかし、世間では奢侈に狂奔し、都を目指す若者の群れ、経済は中に疲弊を含んで、将来に黒雲を到来する予感に満ちた世界だったりして。

 幼いとき資州唐(徳純寺処)和尚(669-736)のもとで、髪を剃り、四川省巴県の円律師に具足戒を受けたとあります。そして唐の開元年間、衡岳(こうがく)(湖南省衡山)の一峰、祝融峰の前にある福厳禅寺、伝法院にて座禅を修したとき、師の南嶽懐譲(677―744)に出会ったとあります。
 『心地は諸種を含み、沢に遇うて悉く皆崩す。三昧の華は無相なり、何ぞ壊し復(また)何ぞ成ぜん』の詩は、南嶽が馬祖に与えた伝法の偈である。そして馬祖は、南嶽に10年間仕えたという。
 後、福建省建陽県の仏跡嶺に住んだ。そして江西省臨川県(743)に移り、江西省南康県キョウ公山に至った。大暦年間、洪州開元寺の住持となった。
 馬祖が住持となってしばらくすると、南嶽が弟子を遣わした。弟子は南嶽に言われたとおり、「どうですか」と問うた。
 馬祖は、「どうやら30年、塩と味噌は切らしたことがありません」
 これを聞いた南嶽はうなずいたと言う。
 達磨の二入四行論に「心は自ずから心ならず、色に由って心を生ずるを、名づけて色界と為す。色は自ずから色ならず、心に由るが故に色なれば、心と色との無色なるを、無色界と名づく」と、あります。

 同じ内容を、馬祖は「あらゆる目に見える事象(色)はみな心が現れ出たものである。心それ自体で心であるわけではない。事象に因るから存するのである。こうと解れば、事がら自体がそのまま真理なのであって、そこに何の隔てもない。心が生み出すものを現象というのであり、しかもその現象が空であることを知っているから、生じるといっても、実は生じていないのである。ここのところが解ったならば、その時々に衣を着たり飯を食ったりして、流れのままに暮らして行くことができる」と言い、さらに「現象世界を否定もせず、絶対の境地に安住もしない。現象は絶対の側から働き出したものであり、絶対は現象の側のより所である。そしてその絶対のより所にとどまらない」と言います。

 何時いかなる時も、虚空のように、寄る辺なき所をより所として、自己の本性のままでいることを出家の有るべき姿と馬祖はとらえます。あらゆる現象は本性より生じたものとすると、その現象をどう処置していくかが、問題になると思うのですけれど、我々には至難のことに近いのです。
 達磨から引き付いた教えを、実生活に活用し、しかも新たに、不生禅に発展させる種を含んでいる、そんな馬祖の有名な言葉、『平常心』は、今私達は頻繁に使用する言葉ですけれど、考えてみると、内容はお粗末な限りです。

 つまりは、平常心とは、道のことであり、法のことであるという。
 「造作なく、是非なく、取捨なく、断常なく、凡なく聖なし」であり、そしてこれに違うことを、汚染と言い、そのことは、生死の思いがあって、あれやこれや造作したり、目的意識を持ったりすることであると言います。
 また、「あらゆる法は全て心に由来し、あらゆる名は全て心の別名である。心がありとあらゆる法の根本である」そして「あらゆる法は全て仏法であり、そのさまざまな法そのものが解脱である」と言います。
 そして解脱した私とは、「真実を離れて己の在りかたがあるのではなく、己の在りかたがそのまま真実なのであって、全てはこの己の本体なのである。もしそうでなければ、いったい誰だというのか」と、1000年以上の時を隔てた私達に、語りかけてくれます。
 馬祖の法を継いだ、趙州の言葉です。「何か有れば、考えればよい。何もなければそこらに坐して、理を極めればよい。老僧行脚の時、食事を除いて、その他はさらに用心することはなかった」
 『あるがまま』の当体が、在るがままに日常の動作に活躍します。
 では道に迷った人はどうすればよいのでしょうか。
 「道に迷った人は、方角や自分の居所を見分けることは出来ない」と、馬祖は言います。これは、迷った人の正体を見極めなければならないということでしょう。迷いを苦しみとしたら、その苦しみの当体を見極めることから始まります。あくまでも自分で一つ一つ気がつかなければ、超えることは出来ません。
 こんな話があります。
 ある日のことです。厨房に用事をしていた僧に、馬祖が問うた。馬祖「何をしている」。僧「牛を飼っています」。馬祖「どういう風に飼う」。僧「叢に入ってゆこうとすれば、鼻輪をつかんで、引っ張ります」。馬祖「汝、放牛は、本物だ」
 草を、無明煩悩に。厨房の仕事を、放牛に喩えて、十牛図を考慮してみれば、日常の何気ない問いかけが、いたる所で行われていたことがわかります。

 洪州の水老和尚が、馬祖に参じた。水老「如何なるか、達磨がこの土地に来たった、真の意味は」と、問い掛けた。馬祖は「先ず、礼拝せよ」。水老和尚は、礼拝した。馬祖は、すかさず水老を蹴った。ポーンと蹴っ飛ばされた水老は、瞬時に徹通し、起き上がった水老は、手を叩いて大笑いした。今まで積み重ねて研鑚した妙義が吹っ飛んで、全身に世界が覆い被さったかのように、大悟した。礼拝の場面は、ことの他、伝わった話に、機鋒が鋭いものが多いような気がする。そして、一回目の礼拝と、二回目の礼拝に、礼拝自体に差は無いが、内容に大きく違いがあるのが、おもしろいし、二回目の礼拝は、教師に殴られて、恩師のあり難さを思う、昔の学生を思ったりする。このように、馬祖の機鋒は、その人により、鋭く妙を得た接し方があるかと思えば、日常における接し方は、借りて来た猫のような話もある。

 南泉が僧達のために、朝、給仕をしていたときのことである。馬祖が聞いた。馬祖「桶の中は、何だ」。南泉「この親父、口を結んで、何をか云う」。馬祖は次の言葉がでなかった。
 桶の中身を、南泉の迷い、怒り、躊躇と考えてみれば、底を打ち破ることが修行であるから、南泉の心境を問うたことになる。それに対する南泉の答えは答えに物ともせず、鋭く、馬祖を寄せ付けない。馬祖の問いかけから転じた、好々爺の姿が眼に浮かぶようだ。

 馬祖は、手放した弟子達に厚く心を配る。
 『馬祖が百丈に手紙と醤(ひしおみそ)を三甕送った。百丈は法堂の前に甕を並べ、大衆が集まってきたとき、杖で甕を指し、「真に言うことができたら、打ち割らぬ。言うことができなかったら、割る」と、言った。誰一人何も言わなかった。そこで百丈は打ち割って、方丈に帰った』(四家語録・広灯録)
 この話は、やがて南泉普願禅師の有名な『南泉斬猫』に発展するかのようです。南泉普願禅師は馬祖の法の、働きの部分で、その活躍の究極の人です。
 馬祖は貞喪4年戊辰の年、2月1日遷化された。
 貞元4年正月、建昌の石門山に登り林の中を歩いた。そしてとある洞窟に至り、平らなのを見て、侍者に言った。「私は、来月この枯れた体を携え、この地に帰ることにしよう」
 やがて、馬祖は、病に臥した。
 枕もとで、院主が尋ねた。「体の具合はいかがですか」
 馬祖は、「日面仏。月面仏」と答えた。

 2月1日、身を清めて、座禅を組みながら、入滅したとある。年は80歳であり、法臘60年であったという。塔は石門山下に宣宗が江西観察使の裴休に勅して宝峰寺建てさせ、荼毘にして、境内に埋葬した。

五百生 百丈和尚

五百生 百丈和尚

 これは、今から1200年以上前、百丈懐会禅師の話しです。中国は、唐代中頃のころの話しです。まだ日本には、本格的に禅が伝わっていません。中国でのことです。馬祖道一(ばそどういつ)禅師→百丈懐会(ひゃくじょうえかい)禅師→黄檗希運(おうばくきうん)禅師→臨済義玄(りんざいぎげん)禅師となって、臨済宗は始まります。その源をたどれば、馬祖の遙か前に、達磨がいて、釈尊がいることになります。
 この頃になると、大勢の雲水を抱える修行の道場は、たとえ山深い人里離れた場所であっても、まかないの惣菜(そうざい)など食糧の多くのものを自ら造って、活気のある生活をしていました。
 畑には、多くの野菜、お茶、牛を飼い牛乳を生産していたのです。きっと、かまどにはには、一日中、煙が絶えることがなかったことでしょう。
 もちろん、薪の切り出しや運搬も、雲水という修行僧の役目でした。きっと汗にまみれて作努をする雲水は、汗くさかったし、衣服を買うこともままならなかったほどに、僧院は、多くの人をかかえていたと思われます。

 こうしたの禅宗の修行生活の基礎をつくった人物が百丈和尚です。百丈和尚が若かりしとき、あまりにもぼろの衣と汗くささに、図書館の官吏は、経本の閲覧を拒んだと記録にありますが、身近に感じる故事です。
 「一日なさざれば、一日食らわず」の言葉は、この百丈和尚の言葉で、大勢の雲水の集まりの中で、働かなければ生きて行けなかった環境があったのだろうと思いますが、それだけではなく、みずからを律し、人々のために働くという慈しみが感じられ、親しみが湧きます。
 釈迦が、涅槃におよんで説いた暗闇の灯火、貧者の宝珠として戒めは、田畑を耕し、家畜を飼い、草木を伐採し、収穫をあげ、医薬をつくること等、ことごとくこの時代頃より遠ざけられたのでした。多分、釈迦時代のような、大檀越が少なかったのかもしれません。その結果、集団を運営する経済感覚が養われたのだとも思われます。

 典蔵(てんぞう)という賄い係、副司(ふうす)という経理係、維那(いな)というお経係、知客(しか)という運営統括者、侍者(じしゃ)という衆僧接待係、直日(じきじつ)という衆僧統括者等という制度が確立されたのも、この百丈和尚の頃でした。僧院の衆僧全員により、助け合って働くことを、普請といいますが、この百丈和尚の言葉のようです。修行道場にて、頻繁に行われる総茶礼(そうざれい)は、修行者全員でお茶を喫することですが、働くだけではなく、その場に集う全員でお茶を喫することその中に、お茶を通して意味が生じます。「お茶にしよう!」と。知らず、この時代の言葉を我々も受け継いでいます。

 また、禅には、『道中(作務を含めた行為による)の工夫』という言葉があります。それは、『靜中>坐禅によるの工夫』に勝ること百千倍というごとく、作務という行為を通して、心を耕し、人を耕すということを発見したといえるでしょう。
 禅宗の規則という厳格さと道場の静寂は、常に心を耕しながら真を求めてやまない雲水の姿がある故です。托鉢するおおくの修行僧の雁行も、ホーホーというかけ声のなかにも、静けさが表れています。この修行道場の制度が合ってこそ、禅宗は保たれているといっても過言ではありません。この修行道場の制度を作られた偉業の人物こそ、百丈和尚でした。

 そんな多くの衆僧が集う僧院で、衆僧を指導する百丈和尚は、毎日、多くの修行者に法を説き、巧みに問答を仕掛けます。
 あるとき、百丈和尚は、いつも説法をしているとき、一人の老人がそっと話しを聞いていることに気がつきました。毎日のことでしたが、衆僧が退くと、知らず老人の姿も消えていました。
 ある日のことでした。衆僧が散々に散った後に、老人は一人のこり、百丈和尚の前に姿をさらしたのでした。
 百丈和尚は、「おまえは誰だ?」と問いかけました。
 すると、老人は答えました。
 「わたしは人間ではありません。はるか昔、それは迦葉仏(かしょうぶつ)の時代でしたが、この山に住んでいたのです。
 あるとき、修行者が、『修行を完成した人は、因果の定めに落ちるでしょうか?』と、たずねてきました。そこで私は、『因果の定めに落ちない』と答えたのです。
 それ以来、500生も野狐の身として生まれ変わりを繰り返しているのです。どうか和尚さん、わたしに替わって、この身を救うお言葉を、述べて頂きますようお願いします。」
 そして、百丈和尚に、たずねました。
 「修行を完成した人は、因果の定めに落ちるでしょうか?」
 百丈和尚は言いました。「因果の定めをくらまさず。」
 老人はただちに悟り礼拝しました。
 後日、百丈和尚は、修行僧に命じて、山奥の巌下に横たわる一匹の狐の骸を探し出し、亡僧の葬儀を執り行ったと言うことです。

 因果の世界とは、縁起の世界と同じで、今、わたし達が生きる世界に違いありません。この縁起ゆえに、今の私があると言えば、この因果こそ、今の私を現すものです。
 この故事に、飯田老師は、「老人何ものぞ、人にあらず、狐にあらず、神にあらず、仏にあらず、ただこれ因果じゃ。」と、今のこの私に成りきったなら、狐も人もないと、この一瞬を生きろ、因果そのものの中にこそ、おまえの生きる場所が在るではないかと諭します。別の言葉で言えば、今のあるがままのおまえ自身を、受け入れよということでしょうか。

 因果や縁起のない世界とは、神や仏の世界でしょうし、そこには、この問答のように、問うことも、答えることもありません。「狐が狐に安住して他をうらやまぬ時を仏と言い、人が人に満足せずして求めてやまぬ時を狐という」とは、これも飯田老師の言葉です。

 因果に落ちずに住むことで、長い年月の流転を繰り返し。くらまさないで、この繋縛が解かれます。共に答えであることが、ここに引っかかれば、因果に落ちるし、因果にくらまされると、迷妄の世界に入ってゆきます。
 500回は数えることに困難な数字です。狐だからこそ、人を騙そうとするのか?考えてみれば、百丈も狐に似て、人を迷わします。
 500回も繰り返して生きることができるならば、その500生の一生一生を充実して生きれば、この老人は多生の縁を、くり返し楽しんだはずですし、煩悩と菩提のあいだの往復を繰り返したはずです。
 何ともこの世は、変化に富んで面白く、不可思議で、解ろうとすれば、人や狐を迷わします。何度となく迷ってみなければ、解らないことかも知れません。
 「因果に落ちない」で、生まれ変わり。「因果の定めをくらまさず」に、死して、再びめぐる生のない所に行ったか、どっこい、狐はここにいる。

 多回生の世界観を持つことで、再生の願望が現れ、また一回生の世界観である涅槃や解脱が現れます。仕事にしても、全存在を通して、立ち向かってゆき至れば、最早、そここそじぶん自身の存在はありません。しかし、立ち止まってみれば、因果は巡る風車のまっただ中にいたことに気づきます。そして、その場所で、考えてみれば、因果の世界に迷うが故にこそ、智慧や慈悲が尊ばれる世界があるとみれば、もう一度生まれ変わって、狐となり、人となるのも人間の選択肢とみれば、案外と多回生の世界こそ、人を豊かにする世界なのかも知れません。

大梅山法常(752-839)

大梅山法常(752-839)

 大梅和尚は湖北省荊州の玉泉寺で得度したという。玉泉寺は天台智顗が建立し、神秀(606?-706)も住山したという。南嶽懐譲が出家した寺でもある。明州に生まれ、襄陽の人なりとある。浙江省に生まれ、湖北省の人であるということは、人生の多くの時間を湖北省で過ごしたのだろう。玉泉寺で数多くの経論を講ずとあることから、知識は豊かな人だったらしい。人生の知識が豊かなことは、その核心を持ってこそ、知識は揺らがないものだと思うが、大梅も知識を講ずることに違和感を覚えて、このままでははがゆく、心に突き動かされるかのように、各地を遍歴する旅に出ることになった。

 江西の馬大師の風評を聞くと、すぐさま江西に足を運んだ。
 江州の開元寺は、玄宗が開元26年(738)に、各州に一寺づつ建てた官寺でもあり、仏教を国家統制の下に組み入れる中心機関としたものらしく、つまりは、この時期にはすでに、禅宗は国家、皇帝にも受け入れられていたことになる。入室の弟子139名とあり、四方の学者が雲集したとあるので、かなりの数の人がいたことになるのであろう。

 馬祖の問答で有名な言葉は数多くあるが、その中でも『即心即仏』は、『非心非仏』と共に、解り易く、納得させられるものがある。だが、その馬祖は、「我が語をおぼえるなかれ」と、物まねを厳しく戒めた人でもあった。あくまでも個人の性そのものを主人公に、全体で働く自己の開放を弟子達に諭し、働く自己のそれぞれの責任において果たすことを示した。
 数多い馬祖の弟子の中で、「我が語を覚えるなかれ」という馬祖の言葉に向かって、一生を『即心即仏』で通した男がいた。大梅法常禅師である。

 馬祖のもとに赴いた。
 大梅、「仏とは、いったいどういったものでしょうか」
 馬祖、「貴方の心こそ、そのものだ」
 大梅、「その心をどうしたら、捕まえ、保てばよいでしょうか」
 馬祖、「よく護持しなさい」
 大梅、「法とは、いったいどのようなものでしょうか」
 馬祖、「貴方の心が、そのものだ」
 大梅、「達磨の意図は何だったのでしょうか」
 馬祖、「貴方の心こそ、そのものだ」
 大梅、「それでは、達磨に意図はなかったのですか」
 馬祖、「貴方の心の、法として備なわらぬ法もない、貴方の心をこそ見て取りなさい」

 大梅は言下に、この玄旨を諒解した。すぐに杖をもち、はるか雲山の景色を望んで、大梅山の麓についた時、この深く幽々とした山を我が棲家としようと踏み入るや、30年に渡り消息を絶つことになる。
 後に、塩官和尚に(塩官斉安 ?―842)付く僧が、旅の途中で山に迷ったとき、草の葉を衣服として、髪を長く束ね、粗末な小屋に住まう一人の老人に出会った。
 老人は僧を見ると、先に”不審”と声をかけた。老人は内心、自分のとっさに出た”不審”の言葉を叱咤した。出身を表す言葉であり、同時に言葉はクグモッタ言い方になった。僧はその意を図りかねたが、問いただすと、老人は「馬大師に見えたことがある」といった。
 僧は「ここにどのくらい居るのかと」と問うと、
 老人は「さあ、どのくらいになろうか?周りの緑が青くなり、黄色くなるを見るのみで30数回は数えたであろうか」
 僧は、老人に「馬大師のところで、何を得たのですか」と、うかがった。
 老人は、「即心即仏」と答えた。
 僧は辞すついで、「山を脱け出るにはどちらに行ったらよいでしょうか?」
 老人は、「その渓流の流れに従って去るがよいであろう」と言った。
 僧は、塩官和尚の元に帰り着き、山での模様を和尚につぶさに報告した。

 塩官和尚は、「昔、江西に居たときのことだ。一僧が馬大師に仏法と祖意を問うたところ、馬大師は”即心即仏”とお答えなさった。それから30年、その僧の行方はいまだに知れない。彼ではないだろうか?」。
 塩官和尚は、そこで数人の僧を遣わして、「馬祖は近頃、”非心非仏”と言い、”即心即仏”とは言わない」と、僧達に言わしめた。老人の元にたどり着いた僧達は言われたごとく、塩官和尚の言葉を老人に伝えると、
 老人は、「たとえ”非心非仏”と言おうが、私はただ一筋に、”即心即仏”で通すだけです」と言った。
 これを聞くと、塩官和尚は感激して、

 「西山の実は熟しておる。君らは、そこに行って思うがままに摘み取ってきなさい」と僧達をせき立てた。大梅の下には、2、3年のうちに数百の修行僧が集まったと言う。
 ”即心即仏”、それは、「君の心そのものがそれだ」「君の解らないと言う心そのものが仏性にほかならない」と言う言葉であり、”三界は唯一心”の経典の言葉を、自分の言葉に直したものである。”仏”や”法”を、自己や、世の中、迷い、あり方、有り様と様々に言葉を置き代えてみるとき、総ては「貴方のそのままの心、そのものが世界であり、自己である」という、総てを肯定的に認める大梅の心は、朗らかに大地を潤す。

『衆生病むがゆえに、われも病む』と言った、釈尊の心は、衆生の病む心そのものが、実は釈尊の心そのものであるということと、同じ意味を持つことを思えば、自分自身に三十有余年”即心即仏”で通す、大梅法常の”即心即仏”は光り輝く。

麻谷山宝徹禅師(平成12年1月27日)

麻谷山(まよくざん)宝徹禅師(平成12年1月27日)

 すべては不明の人物である。馬祖に嗣法した。丹霞天然禅師と共に遊行し、蒲州(山西省永済県)の麻谷山を通りかかり、丹霞と別れて、そのままそこに住したと言う。
 宝徹禅師が、丹霞禅師と旅をしていたときの話が、馬祖語録に書いてある。
 『山間の川の辺にたって、宝徹は、丹霞に尋ねた。大涅槃とはどのようなものか?
 丹霞は振り返りながら、「急」と言った。

 宝徹は、「何が急なるか」。
 丹霞は、澗水(谷川の水)の流れを示した。』

 語録(景徳伝灯録)では丹霞の役を、馬祖が務めているのではあるが、注に祖堂集のこの話があったので、こちらのほうが情景が理解できることから、取り上げてみました。
 丹霞と宝徹のこの話は、涅槃と急と澗水の話になるのだが、仏教では、涅槃は、諸行無常、諸法無我の当体であり、つまり世界の真理であり、法そのものです。
 急とは、注に、急迫・切迫しているとの意味があるとある。さらに、法句経に「命逝くこと川の流れの如し」。論語に「子、川の辺にあって、曰く、逝くものは斯くの如きか、昼夜をおかず」とあり、古注では、川の流れのように、時は休みなく流れすぎ、人はどんどん年を取ってゆくことを嘆いたものとしている。

 澗水は、時の流れを川にたとえて、時は休みなく流れすぎてゆく代名詞にとれる。 
 「ゆく河の流れは絶えずして、しかも、もとの水にあらず。よどみに浮かぶうたかたは、かつ消え、かつ結びて、久しくとどまりたる例(タメシ)なし。世の中にある、人と栖(スミカ)と、またかくのごとし。」
 我が方丈記の巻頭も、河の流れを人生に譬える。
 臨済に言わせれば、麻谷の宗風は、黄蘗(きはだ)のように苦みばしっていて、誰も近寄れなかったといいます。 澗水という、水の流れを詳しく見つめるには、臨済のこの言葉がぴったりと当てはまります。

 「一切の草木皆なよく動く、ゆえに動はこれ風大、不動はこれ地大。動と不動と、共に自性なし。なんじもし動処において、それを捉うれば、それは不動処に向いて立たん。なんじもし不動処にむいてそれを捉うれば、それは動処に向いて立たん。譬えば泉に潜む魚の波を鼓して自ら躍るが如し。大徳、動と不動とは是れ二種の境なり。還って是れ無依の道人、動を用い不動を用う。」

 澗水の流れは動くものとして、私たちにもつぶさに観察できるのですが、この澗水から動かないものを発見することは、ひとひねり必要です。見えるものと見えないものは、私達に苦労を強いるようです。もちろん日常の生活では、動くものの中に、動かないものを発見し、見えるものの中に、見えないものを発見することは、意味があることと思います。私達が見えるものをそのまま受け入れるには、錯覚・錯誤を植え付ける意識・心の問題が潜んでいるからです。私達が見ているもの、そのものが真実な姿であるかは分からないからです。
 その錯誤・錯覚という意識・心を排除し、動くもの、見えるものを素直に受け入れることが大切なことだと思うのです。
 澗水の動かないものとは、まず気がつくことは、水は高きから低きに流れるという道理であり原理です。この道理は動かないものとしてありますし、澗水の流れを見る者にとっては、見えないものとしてあります。つまり水が流れるは、水の高きから低きところへ流れるという性質が、流さすと言えます。

 冷たい水は重たく、温かい水は軽いという性質によって、流れがあるでしょう。また何がしかの資源が含有された水も流れを作ることがありますが、圧力のような力がかかわらなければ、水は上から、下に流れます。そういえば、川底も動かないものとしてあります。さらに動くもの見えるものを観察する私達の意識は、動くものそのものです。しかし、世の真理は、無常そのものですから、川の流れは真理であり、意識のさし挟む余地のないものでしょう

 曹洞宗は道元禅師の正法眼蔵、現成公案の末尾に、馬祖大師の門下で、麻谷山宝徹禅師の” 風性常住、無処不周”の公案があります。

 麻谷宝徹禅師、扇をつかふ。
 ちなみに僧きたりてとふ、風性は常に住して周ね不る処として無しなり。なにをもてかさらに和尚扇をつかふ。
 師いはく、なんぢただ風性常住を知れりとも、いまだところとしていたらずといふことなき道理を知らずと。 僧いはく、いかならんかこれ無処不周底の道理。ときに師あふぎをつかふのみなり。
 僧礼拝す。
仏法の証験、正伝の活路、それかくのごとし。常住なればあふぎをつかふべからず、つかはぬをりも風をきくべきといふは、常住をもしらず、風性をもしらぬなり。風性は常住なるがゆえに、仏家の風は大地の黄金なるを現成せしめ、長河の酥酪(そらく)を参熟せり。

≪麻谷宝徹禅師が扇を使っていた時に、
 一人の僧が来て問うた。「風性常住、無処不周です(風の本質は常住であり、すべてに行きわたらないところはありません)。どうして和尚は、その上に、扇を使うのですか。」(仏性はあまねく行き渡っているのに、その上更に修行する意味はあるのですか)
 師は言う、「お前は、ただ風性の常住なることを知っているだけで、行きわたらないところはないという道理はまだ分かっていない。」
 僧が言う、「行きわたらないところはないというその道理とは、どういうことですか。」
 この時、師はただ扇を使うのみであった。
 僧は、礼拝した。
 仏法の証の験(しるし)と仏法が正しく伝わるその活きた路は、まさにかくの如くである。風性常住なのであるから扇を使うことはない、使わないときにも風を感じる筈だというのは、常住もわからず、風性も知らないということである。風性は常住であるが故に、仏道者の「風」は、大地は黄金なのだということを真実現し、長河の水を酥酪(そらく:醍醐味の精乳)に完成熟させるのである。(中央公論社大乗仏典”道元”より)≫

上記は1232年中秋、陰暦8月15日頃、鎮西の俗弟子、楊光秀宛に、道元禅師34歳の頃執筆されたものであり、正法眼蔵、現成公案の最終を飾る言葉として、また、道元の出家の原点になる話題であり、古来様々な人が評論、注釈しています。
 聞解は、「風性常住は体、無処不周は用」であり、扇を使う用に於いて風も動く、風性常住でなければ扇いでも風は来ぬと言う。
 私記には、「自己の知見、慮知によって合点する、みな情識なり。麻谷の問答は、何必(かひつ)の引証なり」
 御抄には、「僧は世間の風の心をいい、禅師は仏家の風を答う……諸仏常住、無処不周ともいうべく、衆生常住・無処不周ともいいつべし」
 弁註には、「有所得は尽く妄想邪見なり」」とあります。

 前出の臨済の言葉に風大、地大とある。地水火風は、この当時の世界を形成する元素である。風は、空気の別名であり、風の本体は何処にも存在するものとして、見えないものとして、動かないものとしてある。風や波はその見えないものの表現であり、現成(差別の相)であるのでしょう。また、見えるもの、動くものとしてあるといえます。見えないもの、動かないものは、空気や水は公案(平等の相)として、澗水や扇の風は、動かないものの動いたものであるのでしょう。

 イスラエルでは、ヘブライ語で神の霊ルアーは、風を意味すると聞く。風性常住は、本然自性と重なる。隠すところなく、衆生本来仏であり、欠けることなく与えられていた事でもあります。澗水や急は、本体が現成した姿と言えます。
 「経典(涅槃経)には、仏性は誰にも備わっていると書いてある、それなのに、仏となるのに、何故あらためて発心して修行しなければならないのか」と、若かりし頃、道元は自問自答したという。

 本来の自己が、活発に活動した現成、表現が、扇を持つことであり、空気が風となって現成、表現される。
 扇を使うという行為がなければ、常住なる風性も動いて風とならない。動くとは動かないものが動くのである。ここに仏教の立場がある。行為に於いて具体的になるという。

 黄金と酥酪は、仏教本来の立場にして真理を意味し、仏の姿であり、風性常住は法性常住であり衆生本来仏なりである。この世界はその活波乱である。大地もそのまま黄金であり、長江の水も酥酪である。


鎮州普化(ふけ)和尚

鎮州普化(ふけ)和尚

 臨済録には普化和尚の話しがよく出てくる。その中で、私が好きなのは、全身脱去の話しだ。
普化はある日、自分に死が近いことを知り、街中で人々に僧衣を布施してくれとねだった。人はそれぞれ僧衣を贈ったたが、普化は、誰からももらわなかった。
 臨済は院主に棺桶を買わせた。普化が臨済院に帰ってきた時、言った。

 「わしは、汝のために僧衣を作っておいた」と。
 普化は、「臨済の小童、よくやるよ」と、受け取って別れを告げた。
 普化は、早速棺桶を担いで市街にくりだし、街中に叫んだ。
 「臨済が、わしがために僧衣を作ってくれた。わしは東門に行って死ぬぞ」
 市民は競って、普化の後を追い、様子を見ようとした。
 「今日は、八卦が良くない。まだ死なぬ。明日南門で死のう」
 市民はまた、昨日のように街を出た。
 「明日の西門でのほうが、縁起がよいようだ。今日はやめた」
 翌日は、市民の数か少なくなってきた。普化はまたも取りやめた。
こうした事が三日続くと、人々は普化の言うことを、信じなくなってしまった。そして四日目になると、誰もついて来なかった。

 普化は城外に出て、鈴を振りながら自分で棺の中に入り逝ってしまった。するとこの事件は街中に広まって、人々は先を争って集まり、棺を開けた。すると、普化は全身脱去しているでわないか。ただ空中に鈴の音が響いて去って行くのが聞こえたそうだ。
 先日、3年という長さの年月で、患う母を持つ男性と話しをした。彼がつぶやく言葉に、そういうものかと受けて、同じ立場に立ってみれば、私もそう思うだろうと同意する。
 その言葉は、「存在としてあるだけでも、母が今、生きていることだけで良いのです」、だった。

 患った側から見るか、看病する側からどう思うかでは、話しは違っている。まして、伝説の人となるとなおさらだ。肉親はいたのか。病気だったのか。どういう時代にどう言う生き方をしたのか。臨済録や伝統録の記録は、かっこいい断片だけだが、それが歴史のなせる技なのだろう。普通だったら、普化を惜しんで命を粗末にするなときっと呼びかけているはずだ。

 数年前、鎌倉建長寺の管長の自坊に老いた母親が患っていた時のことだ。管長の妹さんが懸命に看病していたが、管長はその妹に「看病に、後悔するなよ」と、言っていた言葉を思い出す。

 普段の普化の生活は、鈴を鳴らしながらの托鉢を中心に営まれていたらしく、全身脱去の鈴は、その鈴を髣髴させる。僧衣は直綴(じきとつ)といって、ここでは旅衣の意味を持たせば、より解りやすい。無文老師は麻衣と書いているが、普通の人も着ていたというが、文人や道教の人達も着ていた衣だろうか。
死という概念も普化の時代と現代はずいぶん変わっているわけだが、当時の中国の話では、人の死は次の世界への旅立ちで会ったのだろう。その世界は繰り返すというより、一方的な旅立ちであり、やはり寂しいことであったろう。中国の辺境を旅する人が、峠で聞く猿の泣き声に涙したとあるが、似ている。猿の鳴き声と鈴の音が共通する響きをもっている。
原文は「隠隠として去るを聞くのみ」とある。一人身の市井に食を求める乞食の風来坊の禅者にとって死に様は、いかにも普化に似つかわしく、呆気ない。呆気ないからこそ、隠隠と響くのか、そこから何かを取り出そうとすると、普化のことだ、お膳をひっくり返してさっさとそこにはいない。まったく取り付く隙が無くして、形にはまらずだ。無理して紫の衣を着させてみれば、毒が抜かれて死んでしまうに違いない。この話しは、達磨の消えて行くさまとよく似ている。

 普化は普段、墓場に寝泊りしていたらしく、日中は鈴を持って街に出、食を乞うたらしいから、生活だけをみると、今のホームレスとかわりはない。そう思ったら、隅田川河畔に点点としてある、青いビニールシートの家の住人に、何やら熱いものがこみ上げて来た。

 母が元気だった頃、早朝の寺の前を通り過ぎたホームレスに、大声で声を掛け、菓子をあげていたのを思い出した。掃除の手を休めて、ホームレスを呼びとめ、寺に戻って、菓子を持ってきて渡すというあわただしい動作に、あれは何だったのだろうと思っていたが、懐かしくなった。
 三十年以上前、新宿東口に、風月堂という喫茶店があった。クラシックやジャズが流れて、一種独特の雰囲気があり、梁山泊のごとき、いろいろの人が宿っていた。総称してフーテンと言ったが、彼らも政治や芝居、音楽、思想と良く語り合ったものだ。そのなかに、ひょっとすると普化も紛れ込んでいたかもしれない。

 私が二十数年前、京都の南禅寺僧堂より帰ってきた時、寺の玄関に、それまで使っていた網代傘と行雲流水と書かれた看板袋を掲げて、和尚が逗留しているという標しを示した。その袋と網代傘は今も使われずに壁にさがっている。普化から言わせれば、今の寺のそんな所に本当の禅はあるわけないと言われそうだ。いや普化だったらそんな所にひっかかっているわけはない。
せめて、行雲流水そのままの心で脱落し、行雲流水そのものにならなければと思うが、年寄りには安心され、仲間には信頼され、若い人には慕われる。これぞ、せめてもの極意としようが、私にはなかなか出来ない。修行がたりない。まだそんな所に引っかかている。

寒山・拾得

寒山・拾得

老いをさがそうと寒山に登ろうとしたが、寒山に老いはなかった。
《 歳月、流水のごとく、須臾(しゅゆ)にして老翁となる。》
 この言葉も、人間の一生は、あたかもお盆の中にはう虫のようなものだ。人は、終日、盆の中にありて、塵や埃にまみれて、苦悩はつきない。そして、神仙のような傑出した精神は得られることもないのあとに続く言葉です。須臾にして老いる身は、多くの人間であり、そんなことは当たり前のこととして、寒山自身の老いの姿もみえません。

 東洋の伝説に老いの生活や苦労の姿は、なかなか見えない。
 寒山・拾得は、8世紀から9世紀頃の人として、語録やこの寒山詩に消息があるのみで、一切は不明な人物として史上に登場します。
《昔はかなり貧乏だった。今はもっとひどい。何かをなそうにもうまくゆかず、歩みは苦労ばっかりだ。泥みちを行くにも脚を取られ、村人と交われば腹が痛む。猫さえもいなくなった思ったら、鼠どもが米びつを囲んでいる。》

 その生活は、貧しく、貧しさも、彼らにかかれば黄金色に色を変えるから不思議です。
 この寒山の貧と比べて思い出したのは、石川啄木でした。一握(いちあく)の砂や、悲しき玩具の歌集を読むと、同じ生活や貧しさでも、啄木の歌は救われない。しかし、その救われない歌で、今までの短歌に新しい道を開いた啄木ではあるのですが。
《はたらけど はたらけど猶わが生活(くらし)楽にならざり ぢっと手を見る。
 「石川はふびんな奴だと。」 ときにかう自分で言ひて かなしみてみる。
 この四五年 空を仰ぐといふことが一度もなかりき。かうなるものか?》

 こうも自己の内面を赤裸々に、そして奔放といえるほどにさらけ出すと、読んでいる方は、かえって爽快になるから不思議だ。しかし、90年前の当時、この短歌に接した人々は、衝撃を受けたことと思う。

《大といふ字を百あまり 砂に書き 死ぬことをやめて帰(かへ)り来(きた)れり。
 怒ると時 かならずひとつ鉢を割り 九百九十九割りて死なまし。
 死ぬことを 持薬をのむがごとくにも我はおもへり 心いためば
 何がなしに 頭のなかに崖ありて 日毎(ひごと)に土のくづるるごとし。
 その親にも、親の親にも似るなかれ――かく汝が父は思へるぞ、子よ。》
(岩波文庫啄木歌集より)
 今までに、このような歌に接したことがない。

 寒山の貧は、ああ貧にしてまた病む身であり、友や肉親もいないという孤独がおおうが、憔悴することはなく、《愁い多ければ定(かな)らず人を損(そん)せん》という。深い愁いは人の老いをはやめ 、命を損(そこ)なうことを知っている。

《心を落ち着ける場所を得たいと思えば、寒山こそは、思う場所である。微風が、幽松の間を吹いている。間近に聴けくほどによい。その樹下に、白髪まみれの老人が(中国は太古の聖人黄帝か老子の)書を、読みふけっている。その男は、もう十年以上もふるさとに帰らず、ここに来たときの道は忘れている。》
 寒山詩には、拾得(じっとく)という名の朋友が連れだって登場することは少ない。それでいて、寒山・拾得は、山水画のテーマであり、人々の話にはたびたび登場する。

 この詩を念頭にして禅の語録・從容録(しょうようろく)に宏智正覚(わんししょうかく)禅師が、拾得を登場させます。
《寒山来時(らいじ)の路(みち)を忘却すれば、拾得(じっとく)相将(あいひき)いて、手を携(たずさ)えて帰る》

 寒山の住んだ地は、寒巌(寒石山)で、中国浙江省天台山にあります。ここは、6世紀に、天台宗の祖・天台智顗(てんだいちぎ)が、この地で禅を修行したゆかりの地であり、國清寺(こくせいじ)という寺を中心に栄えました。天台山は天台宗の根本道場でもあるからです。8世紀9世紀になると、道士(道教)と禅師たちがこの場所に集うようになります。

 その天台山の寒巌に暮らす寒山の説話は、寒山と豊干(ぶかん)禅師それに拾得が加わり物語化がまします。
 この詩で、寒山の住み暮らすぶりは、来た路を忘れ去るほどですから、それは、悟りきった世界にして、何ものもつけ込む余地のない世界にたとえられています。こうしたの寒山の精神世界に、拾得が登場させて、寒山を、奥深い山の中から手を携えて下り来させようとするのが、この宏智の詩となっています。

 話は変わって、釈迦三尊像とは、お釈迦様に文殊菩薩に普賢菩薩を指します。この詩において、寒山は智慧第一の文殊菩薩にたとえられ、拾得は慈悲第一の普賢菩薩にたとえられています。澄み切った世界に暮らすことを、独りよがりとみて、こうした世界に暮らすことの是非を宏智は問題にしているのです。これぞ大乗仏教の説くところなのですが、実際となると、修行道場の老師でないと、なかなか……。 

 政治と庶民の生活を考えてみると、智慧第一を、官僚の机上の政策にたとえてみると、慈悲第一は、庶民の暮らしとなるのでしょうか。庶民の暮らしは喜怒哀楽であり、その観察するところは机上の政策です。机上の政策は人が喜怒哀楽を生きる知恵となってこそ智慧の真価が問われます。拾得の詩のようにです。

《この世に生を受けて、楽しきことを考えるとするなら、それは山居することだ。
 木々が咲かせる花々は、錦に似て、心を華やかにする
 四季ごとに見せる 姿はいつも身をすがすがしくさせる。
 あるときは渓谷の巌(いわお)に坐り、迫りくる緑に眼をさらす。
 こうして、のどかに、楽しんでいるようではあるが、
 心では、そこに留まれば留まるほど人々のことを想う》

 拾得の詩は、智慧第一の世界をもつがゆえに、慈悲第一の世界が見えてきます。そこで寒山が言うには、いたずらに争い競うことをす、べきではない《仏は説けり もと平等にして 総て真如の性ありと ただつまびらかに思量せよ》と。
(岩波書店 中国詩人選集 『寒山』を参考にしました。)