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店先の子狸

 ビルディングが建ち並ぶ大都会から、十五分ほど電車に乗って、窓から見える景色の後ろに、なだらかな山々が見えるようになると、この町に着きます。
 駅を降りて眺め回すと、この町の景色が、背後の山の背景と重なって、行き交う人の姿も、景色に溶けこむようでした。実際に、夕方になると、山から木々の香りを乗せた風が駆け下りてきて、町と人をひとまとめに包み込みます。狸のポンタはそんな気まぐれな風と一緒に、山から町にやってきました。

 駅から伸びる道路の一つに、この小さな町でたった一つの商店街があります。二十軒ほどの店が建ち並ぶだけの小さな商店街。でも、お店の人々も、行き交う人も朗らかで活気がありました。その商店街が細い路地と交差する一角にも、一軒のお店があります。壁に貼ったポスターや店の軒下に積み上げられたビールのケースでお酒屋さんだとわかります。そんな、お酒に関わるお店の軒先には、昔から瀬戸物の狸の置物があるのだけれど、このお店も例外ではありません。人間の小学生ほどの背丈がある大きな狸の置物が、大福帳とお酒の徳利をぶら下げて店先に鎮座していた。この狸は本当の瀬戸物です。こん、こん、たたくと固い音がします。
 その横に、三十センチほどの小さな狸が並んでいて、大きな狸の子どものようにも見えました。こん、こん、こん。こちらも叩くと固い音がします。でも、違うのは腹立たしそうににらみ返すことだけ。これがポンタでした。

(ボクは置物じゃない)
 ポンタは腹立たしくそう思うのだけれど、隣の大きな狸と同じほどの固さです。手を触れて撫でてみると、秋の終わりの寒さを集めて固めたように冷たいんです。まるで、この冬の寒さを予感させるようでした。なにより、ポンタは今の自分が、冷たくて身動きできない体だということがよく分かっていました。

 冬が近づくと、秋の日暮れも早まってきます。十字路の街路灯は点いているけれど、大きなポプラの樹が光をさえぎっていて、ポンタの姿を闇に隠していました。そんな闇の中にいると、時々、ポンタの目が何かを反射するようにきらりっと光ることがあります。
 冷たい光だったり、悲しい光だったり、時には暖かい光を放ったりもしました。でも、今のポンタの目に、その光がすっかり失われてしまったのは、眠ったせいです。
 変な話でしょうか
 今のポンタの体は、固くて冷たい瀬戸物だけど、毎晩、ポンタは眠るんですよ。静かな夜半、耳を澄ましていると、時折、瀬戸物の狸のくせに、寝息を立てたり、いびきをかいたりしています。でも、その息吹は細く小さくて、町の賑やかな音にかき消されて、誰もポンタが生きていることに気付いてくれません。

 まん丸なお月様が、まっすぐ延びた商店街の向こうの屋根の上に姿を見せました。ついっと、光が道を走るように抜けてきて、十字路の角に立つポンタを照らしました。今夜のポンタの表情は少し穏やかに見えました。懐かしい夢を見ていましたから。ポンタの夢はこのまん丸お月様のせいかもしれません。
 今夜の夢は、ポンタの思い出を呼び覚まして、懐かしさや暖かさや、後悔や腹立たしさが一緒に蘇っりました。


ポンタの思い出、山のこと・町のこと

 半年前、ポンタはこの町の外れの小高い里山の麓に、家族と一緒に住んでいました。見上げる空に、星が目の中まできらきらしそうにたくさん輝いていました。そんな空には、胸がわくわくするようなまん丸お月様が出ています。
 ポンタたち狸にとって、思わずお腹をぽんぽこ叩いて踊りだしたくなる景色でした。
「でも、あれも綺麗だな」
 生まれて間もないポンタは、町の方向を眺め、首をかしげてそう思いました。聞こえてくる祭り囃子に耳を傾けて、山の中腹まで駆け上って麓に目を移すと、地面の一部が光り輝くように輝いていました。
 人間にとって、秋祭りの夜で、賑やかな雰囲気が伝わってきて山の生き物の心もうきうきさせるようでした。でも、あそこは人間の町です。
「どんなのかな? 」
 ポンタの想像は膨らみました。兄弟たちはそんなポンタを心配そうに眺めていました。
 一番上のお兄さん狸が、ポンタに言いました。
「あんまり興味を持つんじゃないよ、ボクたちはタヌキで、人間じゃないから」
 一番上のお姉さん狸が、ポンタに言いました。
「お父さんはね、人間に捕まって狸汁にされちゃったんだから」
 ポンタより少し後に生まれた妹狸が、ポンタに言いました。
「町に行っちゃダメ。お母さんの言いつけをまもらなくちゃ」
 でも、ちょっと大人になったポンタは、わくわくする好奇心で我慢できなくなりました。町ではポンタを誘うように祭囃子が響いていました。ポンタは兄弟に内緒でこっそり巣穴を飛び出すと一目散。綺麗な光に向かって駆けました。
 きれいだな。
 楽しそうだな。
 ボクも踊りたいな。
 確かにこの夜の町は賑やかで楽しそうでした。町の外をぐるりと回って、いろいろな方向から町の中を眺めながら、ポンタはそう思いました。その時のことです、ポンタの背後から、背筋が凍りつきそうな恐ろしげな唸り声が響きました。
(犬だ)
 振り返ると、大きな犬がポンタを見つけてうなり声を上げていました。驚いたポンタの目には十倍ぐらいの大きさに見えました。その犬が唸るときに口の端からよだれのしぶきがポンタにもかかりそうな勢いでした。前屈みになって張りつめた筋肉が盛り上がっていて、今にもポンタに襲い掛かって食い殺しそうな雰囲気でした。
 ポンタは一目散に逃げました。
 走って、走って、走って、心臓が痛くて、呼吸も出来ないほどに走りました。
 でも、犬はどこまでも追ってきます。
 大きく開けた口からこぼれるよだれがポンタの背中にかかるほどになった時、ポンタを助けるようにポプラの葉が降ってきました。頭に木の葉の感触を感じたとき、目の前には酒屋の狸の置物がありました。
(これだ)
 ポンタはそう思いました。瀬戸物なら犬に噛みつかれても怖くはありません。うまい具合に、狸が何かに化けるときの葉っぱの頭の上にありました。
「キャーーーン」
 街角に響いた悲しげな声は、ポンタの悲鳴じゃありませんでした。ポンタの足に噛みついた犬がそんな悲鳴を上げて逃げていったんです。瀬戸物になったポンタの硬い足に噛みついて牙が欠けた感触がありました。
 化けるのに成功したという嬉しさ、助かったというほっとため息をつく安堵感以外に、悲鳴を上げた犬を可哀想だなと感じる余裕までありました。
 でも、そんな余裕があったのは少しだけ。
 落ち着いて目玉だけぎょろぎょろ動かして回りを窺って危険がないことを確認してほっとしたその直後。
(あれっ? )
 ポンタは怖くなるほどあわてました。木の葉を頭に乗せて念じると、念じたものに化けられるというのは、お母さんがやってみせてくれました。元の狸に戻るには、頭をふるふると振って、頭の上の木の葉をふるい落とせば元の狸に戻れるとお兄さん狸が教えてくれました。でも、それは何かの生き物に化けたときのこと。今のポンタの体は瀬戸物で、頭をふるふる動かすことは出来ませんでした。化けるときに頭に乗せた葉はポンタの頭の後ろで傘の形になって瀬戸物のポンタと一体になってしまっていました。
 ポンタはお姉さんが石のお地蔵さんに化けるのを見たことがあります。だから、こんな固い体でも、きっと元に戻れるはずでした。でも、今のポンタにはもとの体に戻る方法が分かりません。
「えいっ、元の体になれっ」
「体、うごけっ」
「どぉして体が動かないの」
 心の中に生じた驚きが大きく膨らんで、焦りから、恐怖に変わりました。
 ずっとこのまま元の体に戻れないかもしれない。
 このまま山に帰れないのかも知れない。
 もう、兄弟や仲間に会えないかも知れない
 心の中が不安や恐怖で爆発しそうになったとき、ポンタの耳に響く音がありました。
  がらっ、がらっ、がらっん、
  がらっ、がらっ、がらっん……
 ちょっと間延びのする音は、この酒屋の主人が店先のシャッターを開けるときの音でした。ポンタはこののんびりした音で夢から覚めました。何度みても恐ろしさに慣れない夢で、目をさめてみると汗をかいています。もちろん、体が瀬戸物なので汗でぬれることは無いけれど、ポンタの心の中は汗でびっしょりでした。
(おいら……、元の体に戻れない)
 ポンタは何回もつぶやいたことを、今朝もまたつぶやきました。お母さんはポンタに木の葉を頭に載せて、頭の中にある物事をじっと念じて化けることを教えてくれたけれど、こんな固い体から元に戻る方法は、まだ教えてくれてはいなかった。
(今日もまた、この固い体のまま)
 ポンタはしょんぼりしました。この時、突然に挨拶が響きました。
「お早うさん」
 そんな挨拶をしたのは、酒屋の前を通りかかったおばあさんです。その明るくて素直な笑顔の挨拶につられて、ポンタは今までしょんぼりしていたのも忘れて、つい挨拶をしてしまいました。
「おはよう。ちぇっ」
 するつもりのない挨拶をしてしまったことに、ポンタは舌打ちをしました。でも、もちろん瀬戸物のポンタの声は、おばあさんにも酒屋のおじさんにも聞こえては居ません。
 いつも、おばあさんは、杖代わりに体を支える台車を押しています。台車には鍬と小さなスコップ。町外れの小さな畑で野菜を作るための道具でした。その証拠に、夕方、このおばあさんが帰ってくるときには、台車に新鮮な野菜が幾つかのせられています。
「お早う。いつも精が出るね」
 酒屋のおじさんも、戸惑うように、おばあさんに挨拶を返しました。でも、二人の言葉はそれだけ。ポンタはくすりと笑いました。
(いつも精が出るね、だって?)
 もともと気むずかしいおじさんです。誰かに挨拶の声をかけられても知らん顔をすることさえある人でした。でも、毎日、毎日、おばあさんから挨拶をされると、挨拶を返さなければいけなくなりました。最初は小さな声で、だんだんと、おばあちゃんにも聞こえる声に。今日のおじさんが戸惑う様子をしたのは、いつもより一言多かったから。
 おばあさんはそのまま、ごろごろと台車を押して行ってしまいました。でも、ちょっと暖かい雰囲気が残っていたのは、ふたりが言葉ではなく心を通い合わせたかもしれません。ポンタだって、舌打ちをしなければ心を通わせるいい友達になっていたかもしれません。
 おじさんは腰に下げていた手ぬぐいを手にして、大きな狸を拭き終わりました。次は、ポンタの番。
「雨ぇが しょぼ しょぼ 降る 晩に、豆狸が徳利もって 酒買いに」
 おじさんはいつもこんな童謡を歌います。まめだというのはポンタのような小さな狸のこと。そして、歌いながら、洗濯したて新しい手ぬぐいで、大切に磨き上げるようにポンタをぬぐうのです。
 いつの間にかお店の前に現れた不思議なマスコットに、商売繁盛の願いを込めて、おじさんは毎日綺麗に瀬戸物のポンタを磨き上げてくれていました。
 もう、このおじさんの姿は、信仰といっていいかもしれません。
(何が、雨だよ)
 ポンタは腹立たしく、目だけ動かして空を見ました。天気は良くて、まじりっけのない朝日が差していました。ポンタの顔は磨かれて艶があって、その艶が朝日を照り返してきらきら光るほどです。
(ふんっ、そんなことで商売繁盛するもんか。潰れちまえ、こんな店)
 そうやってポンタは声にならない悪態をつきました。でも、ポンタの言葉と反対に、おじさんの店はちょっと景気がいいんです。
 もともと店先にあった大きな狸の置物と、小さなポンタが並んでいる姿が親子のようで可愛くて、いつの間にか現れたという不思議さも手伝って、瀬戸物のポンタはこの商店街のちょっとした人気者になっていました。
 その人気がお店の客を呼んで、おじさんの店はここのところ客の入りがいいんです。通行人が幸運のおまじないのようにポンタの頭を撫でて行ったりもしました。
 ポンタはそんな人たちが大嫌いでした。憎んでいるといってもいいほどです。おじさんをにらんでいたポンタは、足下が生暖かいのに気づきました。
(こらっ、こらっ、こらっ)
 ポンタは怒りました。声が出せたら、もっと口汚く罵っていたに違いありません。茶色の大きな犬が後ろ足をあげてポンタにおしっこをかけたんです。ポンタは目だけ動かして、礼儀知らずの犬と、常識のない飼い主を睨み付けました。飼い主のおばさんは、愛犬のそばで知らん顔でした。だから、ポンタは動くものの中でも、人間って大嫌いです。
 だから、ポンタも人間に仕返しをします。おばさんは、ふと、しめしめっていう感じの小ずるい顔をしました。足元に千円札を見つけたからでした。もちろん、お金はポンタが落ち葉に魔法をかけたもので、おばさんのポケットの中で木の葉に戻っています。おばさんがっかりするはずでした。そうやって、ポンタは人間を馬鹿にして、にやにや笑って楽しんでいました。
(人間って、馬鹿で、ずるくて、残酷で……、どうしようもない)
 そうやって人を蔑んだり罵ったりするのがポンタの唯一の楽しみでした。ポンタは人間って間抜けな生き物だと信じています。でも、時々、勘のいいのもいるということも認めてもいました。
           
 

町の人々

 注意をしなくてはならないのは、いま、ポンタの目の前にいる奴です。ようやく、よちよちと歩き始めた女の子で、毎日、買い物に行くお母さんに手を引かれたり、抱かれたりしてポンタの目の前を通りかかります。
「あらっ、どこかにお出かけ? 」
 ポンタの前で、一人のおばさんが、女の子の母親に語りかけました。
(ばぁーーか。こんなところで話しかけたら、この親子が立ち止まっちゃうじゃないか)
 ポンタは憎々しげにそう言いました。もちろん瀬戸物のポンタの声だから、耳には聞こえなません。
「ええ。夕食のお買い物に」
(こらっ、間抜け。ガキをおろすなよ)
 ポンタは母親をそう汚く罵りました。この母親が女の子を腕から下ろしたのは、このクソばばあと立ち話を始めるつもりだからです。
 二人はそんな耳に聞こえない声など無視して、立ち話を始めました。
「智子ちゃん、大きくなったわね。」
(このクソガキは、ともこっていうのか)
 ポンタは悪態をつきました。目の前の女の子の笑顔が純粋に澄み切っていて眩しかったから。
「たぬき、たぬき……」
(こらっ、こらっ、こらっ)
 もともと、ポンタに興味があったらしい少女は、小さくい指先でポンタを撫でました。女の子のふんわり暖かな指の感じが、ポンタの頬に伝わってきました。不思議そうに首をかしげた少女の表情は、ポンタがただの瀬戸物の狸ではないことを見抜いているようでした。
 ポンタは本当は自分が本物の狸だと知られてしまっては困ります。だって、瀬戸物に化けたのはいいけど、もとの姿に戻れない間抜けな狸だと知られてしまうから。
 それが怖いし、そんな嫌な目にあわせている少女が腹立たしく思えました。
「ひっ、」
 少女は怖そうに手を引っ込めて小さな悲鳴を上げました。
 ポンタが怖い顔をして、女の子を睨んだから。もちろん、顔の表情はこわばって動かないけど、ポンタの恐怖とか憎しみの雰囲気は伝えることができました。
(あっちへ行け)
 ポンタはもっと憎しみを込めてそう言いました。
「よぉーーし、よぉーーし。智子、どうしたの?」
 母親が突然に泣き出した少女を抱き上げてあやした。
(ざまあみろっ)
 ポンタは少女が泣き出したことが楽しくてしょうがありません。お母さんが少女にどおしたのと尋ねて、少女がポンタを指差しても、大人にはポンタの仕業だとは分からないはずです。ポンタはそんな間抜けな大人たちもあざ笑いました。
(バーカ。人間ってみんな愚か者ばっかりだ)
 母親に抱かれたまましゃくりをあげる少女を見送りながら、ポンタは小さな牙をむき出して、がちがちと歯を噛み合わせて少女を脅かしてやりました。
(ちぇっ、逃げるなよ)
 ポンタはついそう言ったけれど、少女が逃げたわけじゃないことは分かっていました。ポンタは残されて一人ぼっち。
(ふんっ、ちくしょう)
 ポンタがそう罵ったのは何故でしょう。少女が憎らしかったから、それとも、少女が去って独りぼっちになってしまったから。ポンタは深く考えないようにしています。ただ、こんな時、自分自身まで憎らしくなります。
 嫌になった自分自身を慰めるのは、優しいお母さんの思い出です。巣穴の中で寄り添っていたお母さんの毛並みは柔らかくて温かい。そんな感触と一緒にポンタの毛並みを丁寧になめ回しながら、いろいろな話を語って聞かせてくれました。
 ポンタは目玉をきょろりと動かして、隣の瀬戸物を見回しました。自分そっくりの置物にお母さんの記憶を辿ったんです。でも、お母さんよりずっと大きい、固くて、優しい雰囲気が感じられません。何より、大きなお腹の下におちんちんが付いていて、ポンタの横に立っているのは男の狸の置物でした。ポンタはじっとここに立っていて、お母さんや兄弟の思い出がだんだん薄れていくようで怖かった。山に帰れば一人じゃない。そんな心の支えを無くして、本当にひとりぼっちになってしまいそうでした。
 突然、ポンタは心の中で身構えました。
(アイツだ)
 ランドセルを背負って帰ってくるシンジの姿が見えたからです。
 シンジは薄汚れていて、さっきの犬や少女と大違いでした。誰もシンジにかまってくれる人がいないから。友達もいない。人間のお母さんにとって、自分の子供がシンジなんかと関わり合いになって大人の言うことを聴かなくなったら大変だから、どの大人も自分の子供にシンジと遊ぶなって教えます。
(ざまあみろ)
 ポンタは独りぼっちのシンジあざ笑ってやっていました。ポンタは、このシンジのことを憎んでいるといってもいいくらいでした。ポンタが無抵抗ないのをいいことに、いつもひどい悪戯をします。
 シンジの姿が近づくにつれて、ぷんと悪臭がしました。暑い日差しに照らされて腐った生ゴミの袋を下げていた。ポンタは長いつきあいでシンジが何をするかが分かりました。
(臭いっ。止めろぉ)
 ポンタの心を見透かすようにシンジはポンタに生ゴミを投げつけて走り去っていきました。
「こらぁ」
 そう怒鳴ったのは酒屋の親父さんでした。いたずら者のシンジを見つけて店先から追散らしたんです。
(バカ、追い払うんなら、もっと早くしろ)
 生ゴミに包まれたポンタは、親父さんに洗ってもらいながら、そう悪態をつきました。
 秋とはいえ日差しは強くて、太陽の直射日光を浴び続けているポンタの体は熱々でした。洗ってもらった体はびしょびしょ、生ゴミの臭いはまだポンタの鼻を意地悪く撫でていました。蒸し暑くって、臭くって、この世界は最悪でした。そんなポンタの鼻面を吹き抜けて、葉っぱの香りを届ける風がありました。かさかさと葉擦れの音を届ける風でした。太陽が少し移動して、傍らのポプラの木の陰が優しくポンタを覆ったんです。
 ポプラの枝には椋鳥がいて、新しい巣の場所を探し求めるように、枝から枝へ移動していました。そんな樹の根元をトラ縞の猫がゆったりと通り過ぎました。一匹、二匹、三匹……、全部で四匹の子猫を連れて仲の良い親子の猫たちです。
 ポプラの樹の優しい緑と、生き物温かい柔らかさを感じさせる椋鳥、のんびりと暑さを避けて木陰に集ってはた猫の親子、そんなが光景は見ていてほのぼのとした笑顔を浮かべたくなります。でも、ポンタはそんな光景も憎んでいました。
 ポンタは思いました。
(何もかも嫌いだ。でも、なにもかも、ボクを嫌っているみたいだ)
 ポプラと椋鳥の景色に溶けこんでいるはずのポンタも、そんな景色から切り離されて独りぼっちでした。

甘い香り

 そんなポンタの周囲で時が過ぎ、季節が移り変わっていいました。いったい、いくつの季節が入れ替わっていたでしょう。ポンタにはその時の長さがはっきりと思い出せません。変わるものと、変わらないもの、ポンタの体と心だけは何も変わりませんでした。
「あらっ、奥さん。どこかにお出かけ?」
 ポンタの前で、一人のおばさんが、女の子の手を引いたお母さんに語りかけました。
(ばぁーーか。こんなところで話しかけたら、この親子が立ち止まっちゃうじゃないか)
 ポンタは憎々しげにそう言いました。もちろん瀬戸物のポンタの声だから、おばさんたちの耳には聞こえていません。お母さんは答えました。
「ええ。夕食のお買い物に」
(あれっ?)
 この状況はポンタも覚えていました。この二人は以前、ポンタの目の前で足を止めて長話を始めた人たちでした。
 そして、ちょっと違うのは、あの時、お母さんに抱かれていた少女が少し大きくなっていることです。
(ふんっ、ちょっとはマシになったのか)
 ポンタは悪態をつきました。でも、何がマシになったのかと問われたら答えることは出来ません。よちよち歩きだった女の子が、今はしっかりと地面を踏みしめて歩いていました。でも、ポンタを見て不思議そうに首をかしげたのはあの時と同じ。
(ふんっ、また睨んで泣かしてやろうか)
 ポンタが悪態をつくのもあのときと同じ。でも、今のポンタはちょっと迷っていました。ポンタが迷うように、少女もちょっと迷うようです。少女は世間話を始めたお母さんの足元でスカートに隠れるようにポンタをじっと眺めて言いました。
「お腹、すいた?」
(えっ?)
 意外な言葉にポンタは耳を疑いました。少女の笑顔から気持ちは伝わってきました。ここにじっと立っていて、誰もポンタに食べるものをくれる人はいません。だから、きっとお腹をすかせてるはずだ。少女は勝手にそう考えていたんです。誰も食べ物をくれないのは当たり前でした。ポンタは瀬戸物です。ポンタのお腹がすくはずがありません。ポンタはそんな女の子を笑ってやりました。
(ふっ、ふんっ。馬鹿な子供だ)
「あげる」
 キャラメルを一粒、少女はポンタの足元に置きました。それから身をかわすようにお母さんの足元に駆け戻ってしまいました。そして、お母さんのスカートの影からポンタを伺って、ポンタを観察するようです。
 これは、きっと、ポンタが悪いんです。以前、この子を睨みつけて泣かしたから。ポンタに睨まれないように逃げたんです。
 ポンタには女の子に仲良くしようなんて言えないね。
 女の子は、お母さんのスカートをくいっ、くいっと引っ張って合図をしました。もう用が済んだから、早く買い物に行こうと急かしたんです。でも、ポンタには女の子が自分から逃げ出そうとしているようにも思えました。
 立ち去る女の子が、ついっとポンタを振り返ったとき、女の子の笑顔が澄み切って、ポンタは視線をそらすほど眩しくみえました。
(ちっ)
 ポンタは不満の舌打ちをしました。そして、そんな自分に気付いて、ふと首をかしげました。
 どうして自分が舌打ちをしたのか分かりません。でも、絶対に、女の子に対してじゃありませんでした。
 じゃあ、自分に対して?
 ポンタは瀬戸物だけれど、眠ることが出来ます。同じように、ポンタは瀬戸物だけれど、食べ物の香りを感じることが出来ました。
 ポンタは、くんっと鼻を鳴らしました。足元から甘いミルクのいい香りが漂ってきたんです。もちろん、あの子がポンタにくれたキャラメルの香りでした。ポンタは香りを楽しみました。瀬戸物の体の内側から唾がにじみだしそうです。
 ポンタがこくんっと喉を鳴らしたのは、優しく沸いてきたつばを飲み込んだつもりです。
ポンタはキャラメルを食べられなくても良かった。女の子の優しさを食べてなくなってしまうのが怖い。そっと、ずっと、そのキャラメルを足元に置いて女の子の笑顔を重ねて楽しんでいたいと思いました。
 ポンタは気付いてはいないけれど、このときのポンタからは優しい雰囲気が漂っていました。人を憎んでいないときのポンタは独りぼっちじゃありません。でも、ポンタは、そんなことには気付いていませんでした。
 ふっと、そのポンタの優しい雰囲気が薄れて途絶えたのは、ポンタが汚いシンジの姿を見つけたからでした。憎らしいシンジの姿と言ってもいいかもしれません。今日のシンジは両手でボールを弄びながらやってきました。
 この時、商店街に男の人の怒鳴り声が響きました。
「こらっ、イタズラをするんじゃない」
 隣のパン屋のおじさんがシンジを見てそう怒鳴ったんです。いつもイタズラをするシンジがボールを持ってうろついていました。そんなシンジを見て、ボールを窓ガラスにでも投げつける姿を思い描いたに違いありません。シンジは突然に怒鳴られた怒りにまかせて、ボールを側にいたポンタに投げつけました。
「ばーーーか。大人なんて、バカばっかりだ」
 シンジはそんな悪態をつきながら走って姿を消しました。
 小さな騒ぎに、酒屋のおじさんも店先に姿を現して、パン屋のおじさんに聞いた。
「どうかしたのか」
「あの、イタズラ小僧がまた何かしに来た」
「あのバカ野郎にも困ったもんだ」
(バカはお前たちだよ)
 ポンタはパン屋のおじさんにそう言いました。ポンタはシンジのことをよく知っています。今日のシンジは商店街を通りかかっただけ。その証拠に、いつもみたいにびくびくと隙をうかがうように辺りを見回してはいませんでした。意味もなく怒られたので腹が立ってボールを投げつけた。外からは分からないけれど、ボールをぶつけられたポンタの心の中では耳の付け根に大きなたんこぶが出来ていて、前足で押さえたくなるくらいの痛さでした。
 でも、今日のポンタの足下では、女の子がくれたキャラメルが優しい香りを放っていて、そんな香りがポンタを癒してくれました。
 
             

子猫のこと

 また、いくつの季節が過ぎたでしょう。空が暗くなると商店街の町並みに切り取られた空にぽっかりと満月が浮かんでいるのが見えました。どこかからポンタの記憶にある祭り囃子が聞こえていて、ここにやってきてから何年も過ぎたことが分かりました。そんなことに気付くと、ポンタはお月様まで恨めしく憎くなります。
 夜が明けて、おじさんが、ポンタを拭いてくれる時間になったのに、店のシャッターは閉じたまま。ポンタは今日が日曜でお店が休みの日だと言うことを思い出しました。そして、近づいてくるシンジの姿を見つけて、学校も休みだということも思い出しました。
 シンジの姿は、まっすぐな商店街の道のずっと向こう。シンジはそんな遠くから、もう、ポンタにいたずらをすることを考えているのでしょう。じっとポンタの方を見ながらやってきます。
(いつも、いつも、ボクに何の恨みがあるんだよ)
 ポンタはそう思いました。ポンタの方からシンジにいたずらを仕掛けたことなんかありません。でも、何故か、シンジはポンタのことが大嫌いなようでした。近づいてきたシンジは、ちょっと試して見るみたいにポンタの隣の大きな狸を何度か蹴りつけました。
「父ちゃんなんか、母ちゃんなんか、俺が要らないんなら……」
 ポンタにはシンジがそう呟く意味が分かりました。お父さんにも、お母さんにもかまってもらえない寂しい子だから。
(そうか、そういうことなんだ)
 ポンタには分かりました。シンジがポンタにいたずらする理由。大きな狸の横に並んだ小さな瀬戸物のポンタ。二つの瀬戸物は仲の良い親子に見えるんです。誰からもかまってもらえないシンジには、そんな姿が憎らしく見えるのでしょう。
「俺なんか、死んだら良いんだろ?」
 そんなことを言いながら、シンジは足に力を込めて大きな狸を蹴りました。そして、悲鳴を飲み込んでうずくまりました。ポンタはそんなシンジを笑ってやりました。大きくて重い瀬戸物の狸。そんな物を思いっきり蹴りつけたら、つま先が痛いに決まってます。
(ざまあみろ)
 ポンタがそう考えた瞬間、シンジの八つ当たりの怒りの目がポンタに向いていました。シンジが立ち上がって、ポンタを蹴ろうとしました。
(止めろぉ)
 ポンタの声はシンジには聞こえません。小さなポンタは、シンジの力でも蹴り飛ばされて何かにぶつかって壊れてしまうこともあるでしょう。ポンタがそんな事を想像して怖さに震え上がっているとき、大きな声が響きました。
「こらっ、いたずら坊主。やめなさい」
 シンジに声をかけたのは、いつも台車を押して通るおばあさんでした。日曜でも畑仕事はあるんです。いつもの時間に通りかかったら、酒屋の店先でいたずらをするシンジを見つけて叱った。そういう姿でした。
(もっと、怒鳴ってやれ。罵ってやれ。泣かしてやれ)
 ポンタは、はやし立てましたが、そんな声は、おばあちゃんには聞こえては居ないでしょう。おばあちゃんは優しく笑ってシンジを見ていました。ポンタにも、いたずらを見つかったシンジが逃げずにそこにいることがよく分かりました。おばあちゃんの優しい笑顔。その笑顔に包まれるようで、顔を背けることが出来ません。おばあちゃんは、台車を押しながら近づいてきてゆっくりと言いました。
「いいかい。辛いことがあっても、自分を見守っていてくれる誰かが居る。あんたは、強くて、優しい子なんだから」
 おばあちゃんはそう言って、台車に乗せていた籠から大きな柿を取りだして、シンジに渡しました。
「さぁ、これでも食べて。ばあちゃんちの柿は甘いんだからね」
 黙って柿を受け取ったシンジは、お礼を言うことも知らないようにもじもじしていましたが、やがて、勢いよく背を見せて駆け去っていきました。
(馬鹿シンジ、おばあちゃんに礼ぐらい言えよ。礼も言えないロクデナシめ)
 ポンタは耳に聞こえない声で、シンジを馬鹿にしてやりました。
「さて、あんたは、これをご主人に渡しておいてね」
 おばあちゃんは、酒屋のおじさんのために、ポンタに預けるように、店先のポンタのそばに柿が入った籠を置きました。
(ありがとう)
 ポンタはロクデナシじゃない証拠に礼を言うことにしたんです。籠に入ったメモが見えました。
『我が家で採れた今年の柿です。ご賞味ください。 堀場初恵』
 畑に行くついでに、知り合いの酒屋のおじさん一家に、庭でとれた柿を持ってきてあげたと言うことでした。
(ふうん。初恵っていうのか)
 ポンタはこの台車のおばあちゃんの名前を知って、親しくなれたような、うれしい気分になりました。
(おいら、ポンタって言うんだよ)
 そうやって名乗ってポンタの名前を知ってもらう事が出来たらどんなに良かったでしょう。でも、名前を伝えることが出来ません。ポンタはこのおばあちゃんを、これからは初恵ばあちゃんと名前で呼ぶことにしました。
 やがて、この年の秋も終わりかけ、秋の風がやがて冬の冷たさを運ぶみたいに、町の景色も人々の姿も変わりました。でも、変わらないのはポンタだけ。
 親子連れで通りかかった野良猫の親子は、ポンタに優しいお母さんの姿を思い出させるけれど、お母さんに会えない焦りが、猫の親子への憎しみに変わります。
(なにもかも嫌いだ)
 そんな移りゆく時の中でじっと立っていて、ポンタの体は小さな体に憎しみを詰め込んで、押し込んで、あふれるほどになっているようでした。
 やがて、冬を迎えた商店街は、厚手の衣服を身に纏った人たちが行き来して、冷たい風に温かな料理の香りが乗って漂っています。そんな季節の中、今日のシンジは今までの中で一番ひどいシンジでした。手に緑や赤のマーカーを持っていました。たぶん、同級生から取り上げてきたに違いありません。親にもかまってもらえないシンジにそんなものが買えるはずはないから。
 シンジはそのマーカーで……、ちょっと言いにくい。ポンタのおちんちんを緑色に塗りたくったんです。ポンタの白いお腹に赤いマーカーでデベソまでかきました。
(バカシンジ、やめろぉ)
 ポンタはそう声にならない怒鳴り声を上げ続けたのだけれど、シンジはマーカーのインクを使い尽くしそうなほど念入りに塗り上げました。
 子狸らしい丸みのある茶色の体、白っぽい大きなお腹はポンタの可愛らしさを引き立てるのだけれど、今日はその白いお腹の下の緑のおちんちんが人目を引きました。歯は真っ赤で口元に血の滴が描かれ、目の上には太く起こった眉が描かれました。ポンタのかわいらしさが台無しでした。
 酒屋のおじさんに、インクを洗い落としてもらうまで、ポンタの前を行き交う通行人がポンタを見て変な顔をしたり、ポンタを指さしてげらげら笑ったり。ポンタは何も出来ずに、じっと恥ずかしさに耐えるしかありませんでした
 明日は、この商店街はお休みで静かになる、そんな日です。でも、今日の商店街は明くる日の買い物までまとめてしようとする人たちの人波で賑やかでした。おかげで、ポンタはこの商店街の変てこ狸として、すっかり有名人になってしまいました。
「きゃっ、あの狸じゃない?」
 恥ずかしそうにポンタを指差す女の子が居て、隣の女の子が明るく笑った。
「きゃぁ、嫌だぁ」
 何処かで、二人はへんてこな狸の置物があるっていう噂を聞いていたに違いありません。噂は町中に広がって、ポンタはこの町の笑いものにまでなっていました。
(嫌だぁって何だよ、ボクのせいじゃないんだから)
 ポンタはそう叫んだが、言葉は町の人々に伝わりません。もう、自分をこんな目に遭わせた、シンジが憎らしくてたまりませんでした。やがて陽が落ちて闇が町を包んだ。ポンタは一晩中、仕返しを考えました。小さな街灯に照らされた、静かな夜の闇の中は、残酷な仕返しの計画を練るのにふさわしい気配が漂っています。
 そんな静かな闇の中、ほんのり柔らかい声がし始めました。
「みぃみぃ」
「にゃん、にゃん」
「にぃー、にぃー」
 それは三匹の子猫でした。目がようやく開きかけた子猫が、段ボールの箱に入れられたまま、ポンタの左の足元に置かれたんです。
(こらっ。生き物を捨てるんじゃない)
 ポンタは心の中で、子猫を置き去りにした人間にそう言ったけれど、子猫のためにじゃありません。ただ、箱の中から響く子猫の鳴き声がうっとうしかったから。
(今度、シンジが来たら……)
 ポンタはシンジをどんな酷い目に遭わせてやろうかと想像しました。
 がさっ、ごそっ……、こそっ……、
 シンジをいじめる楽しい想像を邪魔する音です。腹立たしそうに眺めるポンタの視線の先に箱の中の子猫たちがいました。シンジが酷い目にあう光景を思い浮かべるたびに、子猫たちは箱の中で動き回って、ポンタを楽しい想像から引き離んです。
 目を動かしてじっくり眺めてみると、トラ縞の元気なのが2匹と、ちょっと元気のない白が一匹。
(ふんっ、勝手にしろ)
 今のポンタは仕返しを考えるので忙しかったんです。
 夜が明けて、町は少しうるさくなったけれど、今日の商店街のお店はみんなお休みで、人は駅までの道を行き交うだけ。足を止める人は居ませんでした。みんな通り過ぎていくだけです。
 昨日のシンジの悪戯で、ポンタはこの街一番の目立つ狸でした。だから、その足元の捨て猫も人目を引いていました。でも、みんなチラリと箱を眺めていて、ポンタの横に子猫が捨てられていることは知っているはずです。でも、子猫の鳴き声に聞き耳を立てて立ち止まることはあっても、家族に迎えようという人間はいませんでした。
(当たり前だ)
 ポンタはひとりごとを言いました。ポンタの経験では、人間ってワガママで自分勝手でどうしようもない連中でした。そんな連中が子猫を助けてやるはずがありません。
 この時、兄妹らしい二人が、通りかかって子猫の前にしゃがみ込みました。女の子は比べるみたいに、三匹を順に撫で回していました。
(飼ってやるつもりか?)
 ポンタは期待するように思ったのだけれど、そんな光景を想像するポンタは、自分で気付かないうちに優しい雰囲気をにじませていました。
 でも、お兄さんは、ちょっと大人で、妹に言い聞かせました。
「お母さんに聞いてから……」
 そういう兄は妹の手を引いて去っていきました。女の子も名残惜しそうです。でも一番寂しそうなのは家族に迎えてもらえなかった三匹の子猫たち。しょんぼりするように、声がかすれて小さく聞こえます。
(へっ、飼ってやる気もないのかよ)
 兄妹をバカにするポンタの脇から、腕が伸びてきました。考え事をしていたポンタは、やってきた初恵ばあちゃんに気付かなかったんです。初恵ばあちゃんは、いつものように杖代わりに台車を押していて、台車には採れたばかりの野菜を積んでいました。
 商店街をちょっと外れると小さな畑がいっぱいあります。きっと、おばあちゃんは、そんな畑でお昼ご飯のおかずを収穫してきたに違いありません。おばあちゃんは腰に手を当ててしゃがみ込んで箱の中を眺めました。
 初恵ばあちゃんは、子猫の首筋を一匹づつ無造作につまみ上げて、挨拶するように顔の前に持ってきて、家族になるべき一匹を決めました。初恵ばあちゃんは鼻面に黒っぽい模様のある子猫を野菜が入った箱に移した。
(まさか、子猫を野菜と煮て食っちまうんじゃないよな)
 ポンタは、野菜と並んで箱に入った子猫をみて、そんな冗談を言って笑ったのだけれど、もちろん子猫を食べる料理なんてありません。第一、子猫をつかんだしわくちゃの初恵ばあちゃんの手は、無造作だったけれど慣れ親しんだ人に対する親しみが籠もっているように無駄な気遣いがあのません。とっくの昔から家族だったような仲の良い雰囲気を漂わせていました。
 ごろん、ごろん、ごろんっ、
 初恵ばあちゃんが押す台車の音は大きくて商店街に響きわたります。
(どうして、おいらはあんな大きな音に気付かなかったんだ?)
 ポンタは首を傾げましたが、子猫たちがあの女の子に拾われる幸せを夢中に想像していたからだとは気付いていませんでした。おばあちゃんが台車を押してゆく音が、子猫の幸せな鳴き声と一緒に遠ざかっていきました。
(ふんっ、ちょっと静かになったじゃないか)
 ポンタはそんな悪態をついた。残ったのはトラ縞と白が一匹づつ。こいつらが静かにしていてくれたら、シンジに対する仕返しの計画もじっくり練れるでしょう。
 でも、ポンタの思いは裏切られました。静かなはずの商店街に、ばたばたとズック靴の足音が響いてきました。先に姿を見せたのは、さっきの兄妹のうちの、お兄さんでした。
「智子。ほらっ、ほらっ」
 兄は妹より早く猫の所にたどり着いて、嬉しそうにポンタの傍らで飛び跳ねて箱の中を指差しました。さっき妹が選んだ一匹が、まだ箱の中に残っているというわけでした。
(えっ、ともこ? )
 ポンタにはその名前に記憶がありました。息を切らして駆けてきた女の子を、ポンタの心の中から引っ張り出した思い出を重ねて、心の中でうなづきました。いつか、ポンタにキャラメルをくれた女の子がちょっと大きくなって、季節も変わって冬の服を着ていたんです。
(ふんっ)
 ポンタは小さく鼻を鳴らしたが、女の子をバカにしたのか、あの子だと気付かなかった自分の迂闊さを誤魔化したのかよく分かりません。女の子は兄の傍らにたどりついて、息を弾ませたまま、箱の中のトラ縞を抱き上げて頬ずりをしました。小さな体ではあはあと肩で息をする様子で、お母さんを説得してから、一気にここまで駆けてきたに違いないことがわかりました。その息苦しさの中で楽しそうに子猫に頬ずりする様子は、少女の子猫に対する愛情だと信じても良いでしょう。
 ポンタは子猫を抱く少女が帰っていくのを、黙って見送りました。そして、お兄さんがそんな妹を優しく眺める様子を見れば、あの兄妹の家族が、あの子猫を、新しい家族にしてくれるに違いありません。
(ふんっ)
 ポンタはいつものように、この世の中を呪うように鼻を鳴らしたけれど、幸せになりそうな二匹のことを考えると、心にはちょっと温かさがわいていました。こうやって、三匹の子猫の中で、愛想のいいトラ縞は二匹とも無事に、新しい家族に迎え入れられてゆきました。
 


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