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タイトル

 

 

 

 

    ディスタンス

 

       星野廉

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


もくじ

もくじ

第1話 残された携帯電話

第2話 オレンジ色の記憶

第3話 染まる

第4話 つながり

第5話 大丈夫 

第6話 変わる 

第7話 視線 

第8話 踏み出す

第9話 出発点 
第10話 隔たり 

第11話 符合 

第12話 幽霊 

あとがき

 

 

 


 


第1話 残された携帯電話

 その日の朝早く、わたしは新幹線を利用し、名古屋から東京に着いた。東京駅から電車を乗り継ぎ、午前中に世田谷区にあるS警察署に寄った。そこで、事故捜査の参考資料として警察が弟の部屋から持ち出していた数点の物品を、両親の代理として受け取った。
 担当だった斜視気味の刑事の前で、一点一点書類と照らし合わせて確認する作業がもどかしかった。紙袋に詰めた弟の持ち物を骨箱のように両手で抱えて、わたしは電車で東中野にある弟の部屋に向かった。
 前日に名古屋の実家から連絡しておいた引っ越し業者による見積もりが午後早くに済み、引っ越しは翌日に決まった。
「まず貴重品を別にして、ご自分でお持ちください。衣類やこまごまとした物の荷造りだけをしておいていただければ、あとは全部こちらで運びます」
 見積もりに来た男は言い、引っ越しの手引きの冊子を残して去った。

 

 携帯電話を使い、引っ越しの期日と荷物の運搬の詳細について実家の母に知らせた。警察署での手続きが完了したことも伝えた。
 用意しておいた言葉は、最後になって一気に早口でまくし立てた。
「わたし、しばらく東京にいる。光太(こうた)のことを忘れるためにも、しばらく美術館や展覧会を回って絵でも見ていたいの。大学のほうは心配いらない。学園祭が近いから、みんなろくに授業に出ていないし――」
 不意をつかれた形の母は、予想通りわめき出した。
「そんなのずるいわ。お父さんもあなたも、いつもそうやって私を見放すのね」
「こっちでは、岸川(きしかわ)さんの所に泊まらせてもらうから、大丈夫」
「あなたは大丈夫でしょうけど……」と母は声を詰まらせた。「香織(かおり)お願い。私を一人にしないで。置いてきぼりは、いや」
 泣き脅しが始まりそうな気配になってきた。光太の死以来、母は情緒が不安定になり、「子ども返り」のような精神状態になっている。母は、わたしを頼る標的として選んでいる。それがうっとうしくてたまらない。
「またそんな子どもみたいなことを言っている。あの人と違って、わたしはやるべきことはちゃんとやったでしょ? 少し休ませてほしいの」
 わたしは、母と別居中の父を「あの人」と呼んでいる。
「そんなのいや。だめよ。ねえ、お願いだから」
「寂しかったら、光枝おばさんの所に行けばいいじゃない。別に、わたし、もう帰って来ない訳じゃないんだから」
 そう口にしたあと、言い方がまずかったことに気づく。
「当たり前です。もうこれ以上、家族が減るのはいや」
 案の定、弟の死を思い出させる結果になってしまった。
「学園祭が終わるまでだから、すぐに帰るって」
「だめ」
「熱帯魚に餌をやるのを忘れないでね。光太の形見よ」
 意地の悪い言い方だと思いつつ、わざと弟の名を出す。
「死んでも知らないわ――。いいえ、あんなの殺してやる」
 今の母の精神状態ならやりかねないと思う。
「わたしが帰ったとき、一匹でも死んでいたら、お母さんの猫たち、皆殺しにするわよ」
 母の心の状態がこちらに伝染してくる。
「まあ、ひどい」
「餌は三日に一度よ。耳かき三杯――。聞いてる?」
「もう、勝手にしなさい」
「本当? じゃあ、勝手にさせてもらう。電話だけは毎日必ず掛けるからね――。言っておくけど、そっちからの呼び出しには出ないわよ」
 母とのやりとりは、こうして終わった。その後すぐに、母の姉である光枝おばさんにも電話し、切り口上で一方的に留守中の母のことを頼んだ。わたしはこの伯母も苦手だ。母の実家の女性たちは、みんな金銭的に細かく、しかも意地が悪い。

 

 わたしは弟の衣類や日用品の荷造りに取り掛かった。弟の財布は手元にあるが、貯金通帳やほかの貴重品については、どこに何があるのかが分からない。引っ越し業者を信頼するほかない。
 業者が置いていった段ボール箱に衣類を詰めている途中、クローゼットの中に洗濯がされていない衣類がかたまっているのを見つけた。死の直前まで弟が身に着けていたのだと思うと、いとおしくてならない。一枚一枚丁寧に畳んで箱に収めていった。
 洗濯してあるものとは違う。一度素肌に触れたり、体温や汗を通した衣類は、手にしっとりとなじんできて、わたしは無意識のうちにその感触と匂いのとりこになっていた。
 長い間穿いていたと思われるひときわ柔らかい感触のジーンズを手にしたときには、思い切り鼻を押し当てずにはいられなかった。長く置きっ放しにしたコーラのような、酸っぱく哀しい匂いがした。

 

 警察から返された物の中に、携帯電話と充電器があった。充電がフルになっている。事故の捜査をするに当たっても、利用されたことがうかがわれる。
 S署から名古屋の家に最初の電話があったときには、取り乱している母に代わってわたしが応対した。自動車事故とほかの可能性の両面で捜査をしていると言われた。
 弟の携帯電話のデータを見ることには抵抗がある一方で、好奇心もあった。仮に弟が日記を残していたとすれば、わたしは焼却するかシュレッダーで処分するだろうと思う。日記らしきものは今のところ見当たらない。
 戻ってきた物の中に、ブルーの表紙のアドレス帳があった。めくってみると、氏名、住所、電話番号が明記されたものは少なく、そのほとんどが名古屋市内か愛知県内の住所だった。中学と高校時代の友人のものに違いない。
 都内とその近辺の住所が記されたものもある。男性のフルネームと電話番号が記されたものばかりだ。さらにカタカナやひらがなで書かれた名字だけや、名字なしの男の名や、ヒロ、マーちゃんといったあだ名らしい性別不明の名に添えられた携帯電話の番号がたくさん書かれていた。
 万が一携帯電話をなくしたさいに備えてのメモと考えられないこともない。弟には割と慎重な面があった。いずれにせよ、不透明な印象のするアドレス帳だった。その違和感はどこから来るのだろうと考えているうちに、ふと気付いた。女気がない。
 あのような事故に巻き込まれた弟は、この東京でいったいどんな生活をしていたのだろう。わたしは新幹線で東京に向かう間にも、そのことばかりを考えていた。
 アドレス帳をめくっていて、そうした疑問を晴らす鍵の一部に触れたような気がした。アドレス帳にざっと目を通した後は抵抗感がなくなり、弟の残した携帯電話のデータを見ることに対するやましさは消えていた。
 携帯電話の電源を入れる。S署で受け取ったときには、電源は切られていた。メールはない。警察が削除したのか、そもそも弟がメールをあまり使っていなかったのか、読んだメールをこまめに削除していたのか。「電話帳検索」を出し、登録された名前と番号をざっと見ていった。女気がない。アドレス帳と同じ印象を受けた。明らかに女性と分かる名が極端に少ない。
 島田香織――。わたしの携帯電話の番号はフルネームで登録されていた。名字が添えてあるのがよそよそしくもあり、わびしい。

 

 年子だったため、上京するまでの弟についての記憶は、自分の過去とほぼ重なる感じがする。毎日同じような生活を続けてきたという思いがある。姉弟としては他人から不思議がられるほど仲が良かった。実際、互いに隠すことはあまりなかったような気がする。わたしの初潮、弟の初めての精通についてさえ、互いに知っている。そこまで話す仲だった。
 女気がないというのは、距離を置いて暮らすようになったために感じた印象だと思う。よく考えると意外なことではない。むしろ納得できる。そういう子だった。
 弟はあまり強い自己主張をする性格ではなかったが、大学進学については希望を曲げなかった。どうしても東京の大学に入ると言い張って、息子を遠くに離したくなかった母を困らせた。せっかく推薦を受けて合格した地元の大学へは進まなかった。わたしから見ても高望みだと思われる都内のミッション系の大学を第一志望にして譲らなかった。
 なぜその大学にこだわるのかと、わたしは尋ねた。
「だって、格好いいんだもん」
 あきれるような理由が返ってきた。
「浪人してまで行くわけ?」
 さらに追究した。
「名前に『院』がつく格好いい大学なら、どこでもいい」
 それなら、ここはどうかといって「学院」が最後につく名を挙げてみた。
「格好いいじゃん。そこって、東京にあるの?」
「そうよ。でも、女子短大なんだけど」
「入れてくれるんだったら、そこでも別に構わない」
「本気?」
「とにかく東京に行きたいんだ」
 わたしには、答えにならない答えとしか思えなかった。でも、そうした会話には慣れているため、説教じみた意見を述べることなく聞き流した。
「予備校生もやってみたいし、来年駄目だったら、専門学校でもいいし――」
 いかにも弟らしい言葉だった。これも聞き流した。

 

 アドレス帳にも携帯電話のデータにも、女気がない。家族の干渉から逃れた弟が求めていたものは、そうした状況だったに違いない。姉であるわたしは確信に近いものを覚えた。
 どういう経緯で弟が、ある男性と知り合い、その人の車の助手席に乗っていて事故死したのかは分からない。でも、その男性と一緒にいたことだけは、すんなりと理解できる気がした。
 携帯電話の電源を入れたことで、これまで封印されていた箱の蓋を開けたような心境になった。何が出てくるのかは分からない。何も出てこないのかもしれない。弟の携帯電話と手帳をデスクの上に置き、わたしは荷造りの作業に戻った。

 



第2話 オレンジ色の記憶

 子どもたちの声が近づいてきた。さっきまではひとかたまりのざわめきだったのが、一人ひとりの声として聞こえる。何を言っているのかまでは、よく聞きとれない。
 わたしは死んだ弟の部屋にいた。
 半年振りで会った父を含めた近親者だけの葬儀が名古屋で終わり、わたしは弟の住んでいた部屋を引き払いに上京した。母も一緒に行くと言ったが、わたしは断固として一人で行くと主張した。
 弟の死以来、人と会うのが疎ましい。刷り込みされたひな鳥のようにべったりとわたしに付きまとう母はもちろん、親しい人と顔を合わせたり口を利くのが特に嫌でたまらない。初対面の人と会ったり話すほうが、まだ気が楽だった。
 わたしはスタンドミラーの中の自分を見つめていた。裾を二センチくらい折りはしたが、弟のジーンズは驚くほどわたしの体にぴったりと合った。中に着けているトランクスの慣れない感触が残るが、不快ではない。それどころか、下腹部を不意打ちした違和感があまりにも快く、しばしうっとりと目をつむっていたほどだった。
 胸だけが目立つ。他の女性と比べて小さいと気にしている乳房が、男物のぴったりとしたTシャツにくっきりと浮き出ている。

 

 急に笑い声が間近に聞こえて、わたしは身をすくめた。窓のすぐ下の道路に子どもたちが立ち止まって何かに熱中しているらしい。窓に寄り、カーテンを引いた窓のサッシが閉まっているのを確かめ、再び鏡の前に立った。
 肩まである髪をかき上げ後ろで束ねてみると、丸みに欠けた輪郭の顔が鏡に現れる。男みたいな顔だといつも思う。唇が薄くほお骨が張っているため、一重まぶたの目が余計に意地悪そうに見える。
 きつい顔立ちをやわらげようと考え、髪型には特に気を使い、これまでいろいろ試してみた。結局、長めにしてふんわりとした曲線にまとまる今のスタイルに落ち着き、一年以上同じ髪型を通している。
 ぱたぱたと耳を打つ音と共に後ろに束ねていた髪が両肩に落ちてきた。Tシャツの右肩に染みがあるのに気が付いた。五円玉の穴ほどの小さな薄い黄色の染みが肩の縫い目をまたいで付いている。弟の生活の名残だと思うと、傍らに弟が無言で立っているような気がした。
 弟の光太とは似ているとよく言われた。年は一つしか違わなかった。幼いころの写真で気に入った一枚がある。その写真では、二人ともおかっぱ頭でおそろいの服を着せられ、性別不明の双子のように見える。成長するにつれて二人の容貌に違いは出て来たものの、見る人にはよく似た印象を与えたようだ。どちらかと言えば、わたしは小作りな目鼻立ちに痩せて骨ばった体つき、弟は体が華奢(きゃしゃ)なわりには顔は下ぶくれで大きな造作の容貌になった。
『光太は女にしても美人だけど、香織は光太の出来損ないみたいね――』
 かつて、口の悪い親戚の女が幼いわたしたち姉弟を前にして言ったことを覚えている。

 

 不意に窓の外から男の子のものらしい低めの声がした。つぶやくように何か喋っている。わたしは聞き耳を立てた。
「……本当だよ。ここから見えたんだ」
 前のほうは聞き取れなかったが、済ました耳にそんな言葉の切れ端が飛び込んで来た。さらに同じ声の主がささやき、それに応えてほかの声の笑いが起きた。笑い方から、淫(みだ)らな内容の話らしいと感じる。
 立ち聞きしている自分の行為が、はっきりと窓に映っているような気がして焦りを覚える。窓を閉じた二階の部屋からは子どもたちの話の詳しい内容までは分からない。そっと窓を細めに開けて、上からのぞき見してみたい誘惑に駆られる。
 外はまだ明るい。蔓(つる)と葉と花のパターンを織り込んだ緑のカーテンの薄い柄の部分に、オレンジ色の西日が透けて見える。
 再び笑いが起こった。声の響きから、男子児童ばかりのように思える。ますます外が気になる。記憶では、窓の外には大型の普通車が一台通れるほどの幅の道が伸び、このアパートと道路はブロック塀でさえぎられているはずだ。
 笑いの後に沈黙が続いている。子どもたちが立ち去る足音が聞こえてこない。小学五、六年生くらいの男の子たちが、西日に照らされた塀に映る自分たちの影に向かってくすくす笑いながら並んで放尿している。そんな光景が頭に浮かぶ。

 

 小学一年生のときだった――。
 わたしは、光太を含む四、五人の男の子たちと川原にいた。川の流れの緩やかな部分を石で囲って一時的な池を作り、その中に迷い込んでくる魚を閉じ込めて遊んでいた。
 突然、リーダー格の英二という三年生が川に向かって放尿し始めた。それに習って、男の子たちが次々とズボンを下ろしたりジッパーを外した。並んだ男の子たちは性器を見せ合いながら、くすくす笑った。わたしと光太だけがその様子を後ろから眺めていた。
 当時、光太はしゃがんでおしっこをしていた。ほかの男の子たちのように立ってできないこともなかったが、緊張して時間がかかったり、ズボンの下のほうをしばしば濡らして満足にはできなかった。かがんで放尿する癖は、姉のわたしやほかの女の子たちばかりと遊んでいたことから身に付いたのかもしれない。注意する年長の者もいたが、光太はしゃがんでするほうが落ち着くらしく、一向にその習慣を変えようとはしなかった。
 先に用を足した英二がジッパーを上げながら、わたしたちのほうを向いた。
「光太、おまえもこっちへ来て小便をしろよ」
 英二が弟を呼んだ。隣に目をやると、弟は眉間(みけん)にしわを寄せて口をとがらせ、泣き出しそうにも見えるほど真剣な顔をしている。以前だったら、こんなときの弟は頼りなげな表情で助けを求めるまなざしをわたしに向けたものだった。
 弟はわたしを見ないで、男の子たちのほうをまっすぐ見ている。わたしは弟の迷いが消えていくのをとっさに理解した。きっと弟は英二たちのほうへ行くだろうと確信した。放心したように弟の細い体がすっと前に伸びた。
 弟が男の子たちの所へ走って行くのを見たくなかったので、わたしは体を回して川と逆の方向に歩き始めた。本当は駆け出したかったが、わざと普通に歩いた。目の前の物が目に入らず、頭に血が上るのを感じた。
 悔しかった。きーんと耳鳴りがしてきて、背後の男の子たちの声と川の流れの音がはるか遠へと去って行くような気がした。硬い石ころばかりの所から柔らかい草地に足を踏み入れたとき、わたしはようやく振り返ることができた。
 石の囲いの隅に大きな魚でも追い込んだのか、男の子たちが頭を寄せ合っているのが黒いかたまりとなって見えた。その向こうに夕日を受けた川面(かわも)がオレンジ色に輝いていた。

 

 あのときも、ちょうどこれくらいの時刻だった。目の前には、記憶の中の色と同じオレンジの光があった。

 





第3話 染まる

 弟の遺品である携帯電話に誰かが掛けてくる可能性は高いはずだ。光太の死を知らない友人や知り合いがいて、通話してきたりメールを送ってくるというのが自然な考え方だろう。
 家族の一員が亡くなる。故人の携帯電話に登録されたデータや、パソコン内に保存されたままのメールやファイルが残る。家族に内緒で開設していたブログがあってもおかしくはない。そうしたデータはどんな運命をたどるのか。
 これまでテレビのニュースや新聞で読む記事の中に、こうした状況に至るケースは数知れずあったはずなのに、全然考えたことはなかった。
 わたしだって、そうなのだ。いつ不慮の死を遂げるか分からない。その結果、デジタル化された個人情報やデータが無防備な形で残る。かなりの高齢者や幼い子どもを除き、そうしたリスクを抱えていない人のほうが珍しいだろう。携帯電話のほかに、わたしは実家にパソコンを持っている。限られた機能しか使えないものの、母でさえ携帯電話を持っている。
 遺品という言葉にネット空間がからんでくることに、違和感を覚えるのはなぜだろう。そこまで考えないのが普通なのかもしれない。でも、それは変だ。既に現実なのに、ちぐはぐに感じられることは考えない。それこそ、ちぐはぐではないか――。
 わたしは荷造りに見切りをつけ、あとは業者に任せようと決めた。たとえ「お任せパック」とかいう引っ越しであっても、最小限の荷造りを一人でやるにも限度がある。弟といっても、結局は他人だ。しかも、もう口を利くことができない相手だ。どこに何があるのかをチェックするだけで、うんざりしてくる。
 名古屋の実家にある弟の部屋なら、勝手は分からないわけではない。アパート探しには母も同行したが、わたしがこの部屋に入ったのは今回が初めてだ。光太のプライバシーに関する部分の片付けだけは出来る限りしておこう。そんな当初の決意が揺らいでくる。
 疲れを感じたので部屋にあったクッキーの箱の封を切り、三個食べた後に心療内科で処方された薬を飲んだ。床に座り込み、上体だけをベッドに預けて、午前に訪ねた世田谷警察署の斜視気味の刑事とのやり取りを思い出す――。

 

 初対面のわたしにお決まりの悔やみの言葉を述べたあと、刑事は事故の直後に取り乱していた母の現在の様子を尋ねてきた。
「何だか人が変わったようになりました。いずれにせよ、上京は無理だと考えて、わたしが代わりに参りました」
「そうでしょうな。前途有望な息子さんを失われたわけですから――」と、刑事は通り一遍の言葉を吐いた。
 続いて、警察署に出向いた用件を着々と済ませた。警察が預かっていたと言うより押収していた弟の所持品と、弟の部屋から持ち出したらしい物品を、書類と照合しながら受け取る。用意されていた大きめの紙袋に返却された物を詰め込む。署名と捺印をする。
「ご苦労さまでした」刑事が軽く頭を下げ、ドアのほうへと手を伸ばした。
 納得がいかない。なぜ?
 東京に向かう新幹線の中でずっと考えていた疑問のはけ口が、今消え去ろうとしている。不満と怒りが混じり合った発作が今にも起こりそうな気配を感じた。
 こんなんで、終わりになるわけ? 一件落着?
「では、そろそろ――」
 すでに次の仕事に取り掛かろうとしている素振りの刑事に、わたしは詰め寄った。「一通りお話をうかがうまでは、わたしは帰りません。これまでに分かったことを、一つひとつ順を追って説明してください」
「いいですか、島田さん、あれは事故だったんです。事件性はありませんでした」
「そんな言葉だけでは、とうてい納得できません」
「事故を調べている保険会社の人みたいですね」
 刑事の言葉が嫌な記憶を呼び覚ました。
「保険会社は、名古屋の家にまで人を送り込んできて調査をしました。事故に自殺と心中の疑いがあるとか言って――。母を一番苦しめたのは、あの人たちです。母を今のような精神状態に追い詰めたのは、あの人たちです」
 実際、亡くなった光太について、触れたくもなく言葉にしたくもない部分にまで容赦なく踏み込んできたのは警察ではなく、亡くなった運転者の加入していた生命保険を扱っている会社の調査員だった。名付けたくないものを言葉にすることが暴力であることを、わたしはあの時初めて知った。
「あちらさんとしては、大金を払わなければならない立場にありますから必死です。失礼で酷な言い方になりますが、それが商売なんです。病院でHIVの抗体検査の結果まで調べているんですから……」刑事は腕時計を見た。自分は忙しいのだというポーズだろう。「現在では、あらゆる事故であの種の検査をするのが常識になっています。救急車に乗り込む人たち、そして事故の処理と捜査に当たる私らも、血液や体液に触れたり浴びたりしますから、細心の注意を払います」
 今わたしが通っているスポーツジムの会員で、歯科医院に勤務している女性がいる。いつの間にか口を利く間柄になった。会話の中でエイズの話題が出たことがあった。医師を始めスタップ全員が、感染予防には相当気を使っているという。「曝露(ばくろ)」という言葉も、その女性から教えられた――。
「その点は、ご理解していただけますね?」刑事はなだめるような声を出して言った。
 自分では理解しているつもりだったが、『あの事故の犠牲者たちの場合は、特に訳ありでしたからね』と言っている裏の声が聞こえてくる気がした。自分が被害妄想的な精神状態に陥っているのを意識しながらも、わたしはかなり強い口調で刑事に説明を求めた。
 刑事は譲歩した。「分かりました。正直申しまして、私も現時点で複数の事案をかかえている身ですので、手短にお話しします」
 刑事は自動車事故については事実だけを淡々と述べ、自分たちが調べ上げた弟の私生活と日々の行いについてはほのめかすような言い方で語った。
 説明は、とうてい満足できる内容ではなかった。事故については興味がなかった。弟の光太に関する疑問だけが大きくなっていった。事故が単なる事故であり、事件性がないことさえはっきりすれば、警察の仕事は終わりになる。自殺と心中という想定も消えたとなれば、保険会社の調査員もそれ以上追及することはない。
 いったい、光太は東京で何をしていたのだろう。何を求めて、あれほどまでに上京にこだわったのか。予想はつく。ただ、単なる推測や空想では終わらせたくない。曖昧な死なんて、わたしには受け入れることはできない。
 光太の部屋を引き払った後も、しばらく東京に残ろう――。
 わたしは決意した。その裏には、母から逃れて一人になりたいという思いがあった。わたしも疲れていた。このまま家に帰れば、母とわたしは同じ色に染まっていく。それは危ういことだという気がした。

 

 母一人を名古屋の家に残したまま東京に留まることに、後ろめたさを感じなかったわけではない。息子の突然の死によるショックと、別居中の夫と久しぶりに会ったことによる精神的な揺らぎに加えて、保険会社の調査員から執拗(しつよう)な質問を受けた母は、一時は錯乱寸前まで行った。
 わたしが強引に連れて行く形で、とりあえず心療内科で受診させた。医師には、わたしが主に事情を説明した。気分を落ち着ける薬を処方された。なぜか、わたしにも同じ薬が出た。
 家では母と娘の役割が逆転した。母の思考と行動は幼児のようになり、わたしを母親のように慕った。常に誰かが一緒にいてやる必要があった。わたしが大学に行っている間は、母の姉である光枝おばさんが来て家にいてくれた。伯母が帰ると、母はわたしのそばから一時も離れない。お風呂も二人で入り、同じ部屋で寝た。夜間に起され、トイレにまで付き添わなければ用が足せないのには閉口した。
 最悪の状態からいくぶん回復し、何とか精神の均衡を取り戻した母は、このところわたしを相手に弟が小さかったころの話ばかりをするようになった。
 上京した息子が、初対面らしい男性の車の助手席で事故に遭った。確かに不可解な死に方だ。十九歳の誕生日を迎えることができなかった息子の死は忘れ、これから先は幼かった息子の思い出と共に生きていこうとしている。母を見ていると、そんなふうに思える。
 わたしは、弟の記憶をその骨と一緒にこのまま葬り去る気にはなれない。母にとっては今さらほじくり返して言葉にしたくもないものを、わたしはあえてほじくり返し、自分の目で見極めてみたい。そのためには、この大都市に残って歩き回る必要がある。時には、生前の弟を知る関係者と直接会って話を聞かなければならないこともあるだろう。

 

 明日のこの時刻には、この部屋は生活感のない、ただの空き部屋になっているはずだ――。
 わたしは部屋の様子を心に刻み付けておこうと、辺りを見回し立ち上がった。弟がきっと毎日そうしていたように、部屋を横切る。キチネットの前に向かう。備え付けの棚を開ける。かがんで床に触れてみる。バスルームに入る。水道の蛇口をひねる。鏡に自分の姿を映す。シャワーカーテンを引く。
 携帯電話の音がした。慌ててバスルームを出て奥の部屋に入り、机の上に置いておいた弟の携帯電話をつかむ。
 液晶には「タカ」と表示されている。通話ボタンを押す。
「もしもし、ヒカル?」
「もしもし――」言葉に詰まる。「わたし、島田光太の姉ですけど、あなたは光太のお友達ですか?」
「周りがうるさくてよく聞こえないんだけど、ヒカルじゃないの? ひょっとして女の人?」
「姉です」
「うそー。本当に女? からかっていない?」
「姉です」
 そんな言葉しか出ない自分に戸惑う。
「ヒカル、そこにいる?」
「弟は亡くなりました」
「うそー。あんた誰なの? ヒカルがいないんだったら、切るよ」
「ちょっと待って。弟のことを聞きたいんだけど――」
「別に大した用はないから、切る」
 通話は切れた。たとえ話しても意味のない相手だと自分に言い聞かせる。
「タカはバカ」とつぶやく。それが駄洒落になっていることに気が付いた瞬間、なぜか大笑いしてしまった。なかなか笑いが止まらない。

 

 電話帳検索で登録された名前と番号を次々と順番に見ていきながら、このうちの誰かに掛けてみようかと思い立った。でも、何て切り出せばいいのだろう。そもそも、まともに話せる相手なんているのだろうか。今のバカみたいな相手ばかりではないだろうか。
 人づてや報道により、光太が死んだことを知っている者もいるに違いない。この携帯電話は二週間も警察署に置かれていたのだから、これが使われて警察から事情を聞かれた者たちがいてもおかしくはない――。
 いったい、わたしは何をしようとしているのだろうか。亡くなった弟について知ろうという行為は尋常なことなのだろうか。まず自分のやろうとしていることの意味について考える必要があるのではないか。母の心の状態を心配する以前に、自分の精神状態を案じるべきではないのか。わたしは疲れを感じた。
 携帯電話が鳴った。今度は、わたしのミニバッグに入っているものだ。液晶に表示されている名は、岸川詩乃(しの)だ。
「香織? どうしたの?」
「どうしたのって?」
「もう三十分も待っているのよ」
「…………」この人、何を言っているのだろう。
「もしもし、大丈夫? 今、どこ?」
「弟の部屋」
「ちょっと、あなた本当に大丈夫? 約束忘れたんじゃないでしょうね」
「約束?」
「やっぱり忘れているみたいね」
「忘れてる?」一瞬、自分がどこで何をしているのかが分からなくなった。
「光太君の住んでいたアパートって、東中野だったわね。わたし、これから迎えに行く」
「ちょっと待って。考えさせてよ――」

 

 わたしは、一昨日の夜に、詩乃と電話で話した内容を思い出そうとした。詩乃には上京することと、その目的を話した。詩乃は自分のアパートに泊まるようにと勧めてくれた。わたしはその好意に甘えるつもりだったが、詩乃と会話をしているうちに次第に疲れを感じた。
 詩乃がいろいろ心配してくれるのはうれしいが、その気遣いがかえってうっとうしく感じられてきた。それは覚えている。
 途中で、何か理由をつけてホテルに泊まると伝えた記憶がある。でも、結局、ホテルに部屋の予約をすることはなかった。弟の部屋を訪ねるのが今回の上京で最後になるから、弟の部屋に泊まろうと思っていた。でも、夕食は詩乃とどこかで食べると約束したような覚えもある。
 母には詩乃のアパートで泊まると言ってある。詩乃は高田馬場に住んでいる。JR高田馬場駅の交番の前で会う約束をした。そんな気もする。こうして詩乃が電話を掛けてきたのだから、最終的には会う約束をしたに違いない。時刻は、詩乃の言うように三十分前の午後六時半だったのだろう。

 

「ごめん。部屋で荷造りをしていたら、時間の感覚が分からなくなっちゃった――」
 そうとしか言いようがない。母のことを笑えない。わたしも精神的に参っているようだ。きょう一日はいろいろなことがありすぎた。それに、今朝家を出る前に軽い食事をとったあと、この部屋にあったクッキー以外何も口にしていない。
 東京までの新幹線の車内で考え続けていた、弟に関する謎の数々。斜視気味の刑事に執拗に迫って、ようやく聞き出した事故の概略。遺品である携帯電話やアドレス帳の処分についての迷い。女気のなさという、携帯電話に登録されたデータにまつわる新たな疑問――。さまざまなことがあり、考えなければならないことが次々と出てきた。白昼夢にも似た経験の中で、弟との思い出にも浸りすぎた。そのために、肝心のやるべきことをすっかり忘れている。
 それにしても、カーテンを通して浴びたオレンジ色の夕日がすごくきれいで快かった。その時、小学生のころの切ない記憶が呼び覚まされた。何かに促されて、光太の衣服を身に着けてみた。光太が生きているような気がした――。
「もしもし? 急に黙り込んじゃって、どうしたの?」と、言う詩乃の声が優しい。「もしかして、あなた泣いているの?」
「ううん」と大きく首を横に振る。このところ子供返り気味の母とそっくりな動作をしているのに気づき、はっとする。「そんなことないよ。大丈夫」
「話し方を聞いていると、ずいぶん疲れているみたい。やっぱり、わたし迎えに行く。東中野のJRの駅って確か改札口が二つあるはず。光太君の住んでいたアパートは線路のどっち側、というか東中野の何丁目?」
 昨日名古屋で買った東京区分地図には何度か目を通した。自分がどこにいるかは、地図上でだいたい把握(はあく)できている。ただ番地までは思い出せない。
「――引っ越しの荷造りをしていたんでしょ。賃貸契約書とか、領収書とか、書類がない? 住所を読み上げてみてよ」
 わたしは言われるままに、引っ越し業者が置いていった見積書にある、このアパートの住所を読み上げた。
「分かった。とにかく駅の改札口まで来て。そうねえ……。七時半までには行けると思う。念のために言っておくけど、地下鉄の駅じゃないわよ。JRのほう。お互いに分からなくなったら、ケータイで連絡を取り合いましょう」

 

 今のわたしに必要なのは、人と会って喋ることなのかもしれない。誰かに甘えてみたい気もする。詩乃はしっかりした性格だ。母にわたしが必要なように、わたしにも頼る人が必要なのだろう。
 わたしは携帯電話や財布を入れたミニバッグだけを持って部屋を出た。風が冷たい。外階段を下りたところで弟の携帯電話を持ってくるのを忘れたのに気づき、いったん戻った。
 部屋に入るなり思った。
 明日の夜には、この部屋はからっぽ。そんなの許せない――。
 デスクの上にあった引っ越し業者の見積書に目が行く。「年中無休」「二十四時間受付」という文字が見える。携帯電話を取り出し、その文字の横にあるフリーダイヤルを押した。
「――お引っ越し前日のキャンセルでございますね。申し訳ありませんが、即日契約の『お任せパック』のキャンセル料は、お引っ越し料金とほぼ同額になります。それでも、よろしいでしょうか」
「構いません」
「失礼ですが、当社のサービスに対し、何かご不満でも?」
「いいえ、そういうわけじゃありません。ちょっと延期しなければならない事情ができただけですので」
「そうでございますか。延期ということでしたら、再び当社をご利用いただくという条件で、キャンセル料を割引するサービスも承っております――」

 

 再び、外に出た。冷たい風がすがすがしい。さっき外階段を下りきったさいに感じた重苦しさが消えている。アパートの近辺は木々が多く暗い。街路灯を目指して早足に進む。
 空を見上げる。夕方に見た、あのきれいなオレンジ色のまばゆい光は、もちろんない。新宿方面を見下ろす道を駅へと急ぐ。空の底に当たるグレーの部分に、霞(かすみ)がかかったような赤みがさしている。水に混じった濁りを帯びた血の色に似ていると、ふと思った。

 





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